公開
1998-10-05

私の「南京大虐殺」論

まともな会社員ならば、勤め先が不祥事を起こしたとしても得意先にそれを吹聴することは絶対ない。「南京大虐殺60ヵ年全国連絡会」の会員もまた、同会の中でいかなる不祥事が起きようともそれを外部へもらすことはない。ところがわが日本国民は自国の悪口を言ふ。それも言つて得意げである。「戦争犯罪」を認め、「謝罪」することは善いことだと誰もが思つてゐる。(例へば「保守派」読売新聞も)しかし日本国は過去に悪いことをしてゐないし、したと認めることもまた決して善なることではない。

かう書くと、保守を通り越して反動と呼ばれるばかりか、国家主義と呼ばれよう。しかし私にとつては、国家が大事なのでなく「善なること」の方が大事なのである。国家のすることを否定すると、かつては非国民と呼ばれ、今では「良識ある人」だといはれるが、50年たらずでひつくり返る、そんな善とか悪とかがあるのだらうか。

クラウゼヴィッツは「戦争とは他の形式をもつてする政治の延長である」と書いた。政治とはいかなるものであるかはマキャベリを読めばよい、政治は国民を生き延びさせることが大事である。五十人死んでも五十人が生き延びることを選ぶのが政治である。一人死んでも九十九人が生き延びれば、それは良い政治なのである。

だが、待て、その死せる一人はどうなるのだ。一人の死にこだわることこそ倫理であり善悪ではないか。政治は個人の死を嘆かない。ならば政治は善悪と無縁のものである──いかに政治が正義を言はうとも、いかに政治が人を殺さうとも。

「南京大虐殺」があつたかなかつたか、それはしよせん政治問題にすぎない。かつて何百万人殺そうとも、あるいは今「謝罪」しようとも、日本政府が感情をいだいたことは一度もないしこれからもありえない。そんな「政府」あるいは政治に何かを期待するのは、政治主義といつて倫理的に嫌悪すべきものなのである。いま肯定派も否定もたがひにたがひを罵つてゐる。むなしいことである、政治主義のかんちがひを悟らないままならば。せめて肯定派も否定派も、とにかく真剣に論争をしてほしい。真剣であることは倫理的であり、善であるからである。


「南京大虐殺」論争が裁判で争はれてゐるものならば、日本国は無罪である、といふ判決が出る。明白な証拠と動機がなければ、証言だけで有罪の判決を下すことはできないからである。第一、証言などクリストを売つたユダ以来当てにならぬものと決まつてゐる。

動機がないものを有罪にすることはできないはずだ。日本国には「南京大虐殺」をやらかす「動機」がない。おひとよしの日本人がなぜ平気で何万人も人を殺せるか。もしそんなことができる日本人がゐたら、精神状態に問題があつて責任能力を欠如してゐたのだらうから、それならやはり無罪である。

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