公開
1998-10-05
最終改訂
2002-12-31

「従軍慰安婦」問題は政治問題

藪をつついて蛇を出すといひ、余計な事をする意味だが、世の中にはそこにはゐない蛇をつつきだして喜ぶものがゐる。「従軍慰安婦」などその典型で、「発見者」の報告が出たら目であつた事は既に明かになつてゐる。

しかし一度ゐると言張つた蛇がゐないとなると、意地になつて、否、蛇は藪にゐたのではない、藪を潰して作つた駐車場にゐたのだ、しかも今でも生残つてゐる──と論点をずらしてまでも蛇の実在を主張し続ける。かつては韓国の「慰安婦」だつたのが今では東南アジアの「慰安婦」までもが問題にされてゐる。

はじめは「従軍慰安婦」がゐたと主張し、ゐないと証明されれば「従軍慰安婦」に似たものを作り出す。日本軍に強制連行されてむりやり「従軍慰安婦」にされた女性を、賠償金を餌に「探し出す」のは朝飯前。そのうち軍による強制連行が怪しくなると「強制性」なる異常な日本語を作り出す事も辞さない──そもそも「従軍慰安婦」なる日本語は存在しえないのだ。強制的に「従軍」するといふ事はないからだ。従軍記者は自分ですすんで軍隊についていつた。現地で日本軍に連行されて、取材を強要された「従軍記者」など、存在しない。

なぜこんなに「従軍慰安婦」を存在させたがるのか。ゐれば日本軍の過去の「悪事」を批判できるからである。なぜ日本軍の過去の「悪事」を批判したいかといへば、軍隊の「悪事」即ち戦争を批判したいだけの事。「従軍慰安婦」探しをしてゐる連中は「従軍慰安婦」の事など眼中にない──本心は、どんな方法でもよいから戦争を批判したいのである。今の所「従軍慰安婦」が一番よい批判の論拠なので、それを手放したくないだけなのだ。

戦争が「悪事」であるといふのは「平和主義国」日本のテーゼであつて、それを批判する事は許されない。逆に戦争を批判する事は無条件に「正義」とされる。同時に正邪と善悪を区別しない、何事も分かつ事をせぬ日本国民は、戦争批判を批判するものを「悪」と決め付け、そこから逆の発想で、戦争批判を「善」だと思ひ込んだ。

平和を主張する事は「正義」であり「善」である──これほどまでに平和なるものを信仰する日本国民が大多数なのである。現実に「右」の読売新聞まで戦争批判を率先してゐるのだから、「軍国主義化」の心配をするのは取越苦労もいい所である。それでも心配して、さらに日本人の頭に「戦争=悪」の「真理」を叩きこまねばならぬと本気で考へてゐる善意の「啓蒙」思想家が余りにも多い。

彼らは戦争は悪いことだと思ひ込んでゐる。そして彼らは身内の悪を一番に嗅ぎつける──だから日本軍のなした「悪事」を血眼で探し、一度見つけた証拠は、それが間違つてゐようとも、「戦争=悪」の「真理」の前に正当性を失はないと思ひ込んでゐるのである。

だが問題は、戦争批判の為に「従軍慰安婦」がでつち上げられた事よりも、もつと深層の部分にあるのだ。

「従軍慰安婦」問題は戦争即ち政治の問題であるが、日本人は戦争に反対する事は善である──道徳の問題であると勘違ひした。

チェホフは、他人の罪を懺悔しても聖者にはなれないと言つた。実際、身にしみて自分自身の罪を反省するのならばそれは人を立派にするが、他人の罪は身にしみる事などないし、それを自分の事のやうに反省した振りをして懺悔して見せてもそれは自己満足でしかないから自分を悪くするだけである。

道徳の問題といふのは身内の事を問題にする事だが、身内の罪は隠すものである。それは孔子が述べてゐる事である。しかし身内の罪をかぶつて見せてそれを自慢にすれば、褒められた事ではない。ましてやその身内の罪を自分がでつち上げ、それを批判していい気になるといふのは逆に責められてしかるべき事である。それを大威張りでしてゐるのだから、「従軍慰安婦」の存在を主張する連中といふのは、馬鹿か狂人か、よほどの閑人であるかのいづれかである。馬鹿か狂人ならば放つておいても誰も信用しないからよいのだが、今の時代はみな閑人であるので、閑人の思ひつきを全員が全員信じこむのである。

実際暇ならば頭の中だけでも忙しく動かせばよいのであるが、人は怠惰になれば肉体よりもまづ頭の回転を止めるらしい。少し考へればわかる事なのだが、戦争は国家対国家の決闘であり、政治判断によつて行はれるものである。国家は個人の死を悲しまないし、個人の名誉には勳章を以て応じるだけである。

即ち戦争は、政治の延長であるといふクラウゼヴィッツの言葉を借りるまでもなく、道徳とは無縁なのである。勿論戦争が人の営みに於ける異常な事件である以上、極端に立派な人道的行為か極端に陰慘な非人道的行為が目立つのは当然である。そして日本人はかつて、極端に立派な人道的行為を教育に利用したが、今は極端に陰慘な非人道的行為を教育に利用しようとしてゐる。

そこには真に道徳的とは何かを考へようとする知的態度が存在しない。まさに目立つものから吸収すればよいといふベストセラーしか読まない凡庸な人間の発想がそこにはある。実際ベストセラーと同じ様に、さういふ人間は俗耳に入りやすい事柄だけを選択して受入れるのである。安易な話題を安易に説教に使はうといふのである。

戦争とは政治の延長にすぎず、道徳とは無縁である。戦争に反対する事は善でも悪でもないが、反対する事を誇るのは悪である。しかし日本人は戦争に反対する事は善であると信じこみ、そのためには手段を選ばない。そのためには怪しげなご本尊たる「従軍慰安婦」を否定する意見は抹殺せねばならぬのだが、幸か不幸か、日本国には言論の自由があり、反対意見を発表する事もまた自由。それが「従軍慰安婦」支持派=平和主義者を歯噛みさせてゐる。

しかしながら「従軍慰安婦」の存在を肯定しようが否定しようが、それは所詮政治の問題にすぎず、ならば歴史的事実として客観的に論議は進めればよいのであつて、はじめから「ゐたに決つてゐるし、ゐなかつたといふのは道徳的に悪である」と決めつけるのは間違つてゐるし、何よりさう言つて威張る方が道徳的に悪である。

子供は戦争を批判し、「従軍慰安婦」がかはいさうといへば褒められるからさうするだらうが、所詮自分とは無縁のものだと思つてゐるから身にしみて心から反省する事はないし、さういふ類の「反省」など人格形成上問題がある──教育によくない。

反省した事を得意がる──さういふ事は反省とは呼ばないのだが、繰返すうちに本気で自分は反省したかの様に思ひ込む。思ひ込んで、反省しない人間を悪く言ひはじめる。しかも言つて得意げである。

孫が祖父を、戦争に行つたといつて責めたてて、祖父が言返せないといふのは哀れである──それだけではない、その孫はつけあがる事に抵抗がなくなるのである。正義の旗を押したてれば──しかもその「正義」は間違つてゐるのであるが──自分がいちばん偉いと思ふ様になる。

自分で自分が一番偉いと言ふのは一番人が恥じねばならぬ事だが、それが平気になるやうな教育を「従軍慰安婦」の存在を支持する連中は率先してしようとしてゐるのだ。偉い人にならうと努力する事はよい事だが、弱者が自分は偉いと思ひ込んだらそこに進歩はない。

「平和国家・日本」を、戦後の日本人は誇りすぎた。それは誇るべきものではないからだ。平和は戦争がないといふだけの事にすぎず、政治的に巧くやつたといふだけの事であり、少なくとも道徳的に善ではない。

否、軍隊の力を背後に持たない政治など、何が巧みなものか。国同士の交渉は、話合ひといつてもそこには国力=軍事力が背景にあり、自国の主張を通すには軍事的な圧力が必要なのだ。「自衛隊」しか持たない日本国がれつきとした軍隊をもつロシアから、話合ひだけで北方領土を返還してもらへる訳がない。

戦争放棄した日本国の平和は、弱者の平和──強者から与へられた平和にすぎない。現実の世界で戦争がなくなる事はないし、今の日本は執行猶予を貰つてゐるだけのかりそめの平和の中で惰眠を貪つてゐるだけなのである。

勿論現在の「パックス・アメリカーナ」がかつての「パックス・ロマーナ」の再現であるならば、ローマ帝国からキリスト教が育つたやうに新たな思想が育つかもしれないが、それが平和の思想でない事だけは真実である。キリスト教は平和に飽きたらなかつた人間が生み出したものだからだ。

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