公開
2007-02-27

「南京大虐殺」問題における「責任」の觀念

「責任者」だから「責任がある」?

松井石根司令官は所謂「東京裁判」で有罪を宣告され、死刑になつた。その理由は、彼が「南京大虐殺」の命令を下したから、と云ふものではない。話は逆で、彼が部下に「虐殺行爲を働くな」と命じたからであつた。

「そんな馬鹿な話はない」と誰しも思ふだらう。部下が司令官の命令を良く聞いて、殘虐な行動を取らなかつたら、司令官は無罪であつた。しかし、部下が司令官の命令を無視したから、司令官は責任を取らされた。司令官は、責任を取らされたのである。

――と、かう説明すると、「それの何が不思議なのか?」と、意外にも多くの讀者が思ふのである。私には大變不思議に思はれる。だつてさうだらう、惡い事をした當事者が免責されて、惡い事を制止した人が問責されたと言ふのだから。

我々日本人の、「責任」に關する觀念には、何か異常なものがあるやうに思はれる。

「加害者」と「被害者」の混亂

「南京大虐殺」に關しては、「加害者」「被害者」の觀念が大變に混亂してゐる。

「は? 何が混亂なのか?」と、恐らく「南京大虐殺」は「あつた」と主張する人は、眞顏で言ふだらう。それが既に異常である。「あつた」派である日本人の「あなた」に訊ねたい、あなたは「加害者」なのか、それとも「被害者」なのか。

私は想像するのだが……この時、「あつた」派の人は、答へないで、私に對してかんかんになつて怒り出すか、或は、私を蔑むやうな目で見るかして、何も答へないだらう。要は「答へない」のであるが、それは答へられない筈で――しかし、さう云ふ彼等が答へられないやうな質問をするのは、彼等にとつては「惡意による嫌がらせ」と云ふ事に「なる」。彼等は、自分逹が簡單に答へられる質問、即ち「南京大虐殺はあつたのですか?」、否、「あつたのですね?」と云ふ、「同意を求める爲の質問」だけを歡迎するのである。

なぜ「答へられない」か。彼等「あつた」派の人間は、自分が被害者の立場に立つてゐる積りでゐるからである。しかし、當り前の話だが、被害者は支那人で、支那人の被害者から見れば、日本人は全員「加害者の側」である。ここで「加害者」か「被害者」かを問詰められれば、彼等は答へる事が出來ない。そして――重要な事だが――答へれば、「加害者」であれ「被害者」であれ、どつちにしても突込まれる事が解つてゐる。その「突込まれる」と云ふ事が、「あつた」派の人には大變な侮辱に感じられるらしいのだ。だが、さう云ふ曖昧さが「南京大虐殺」問題には「ある」と云ふ事は、客觀的に物を考へられる冷靜な讀者にならば、すぐに判る事と思ふ。

「南京大虐殺」を「あつた」と主張する人々の傲慢

なぜこのやうな事を書くかと言ふと、この時點で「あつた」派の人々が、自らを「選ばれた人間」「エリート」のやうに考へてゐる事を指摘したいからである。

なぜ彼等は自分逹をさうまで持上げられるのか。「南京大虐殺」を「あつた」と認めて「反省したから」である。彼等にして見れば、「南京大虐殺」を「事實と認める」事は、「反省する」事と同義である。そして、「反省する」のは「大變に善い事である」と彼等は心から信じてゐる。更に、「大變に善い事」である「反省」を「する」のは、彼等を「免罪する」ばかりでなく、即座に彼等を「加害者の立場から被害者の立場に轉換させる」事である。

「あつた」派の人間は、自分が「南京大虐殺」を「事實と認めた」から、最早「加害者」の仲間ではなく、「被害者」の仲間であると、心底信じ切つてゐる。そして、自分に敵對する「なかつた」派を、「未だに改悛しない愚かな罪人」と看做し、憐れみ、侮蔑し――そして、本當の被害者に代つて、彼等に復讐をする事が自分には許されるやうになつてゐると信じ込んでしまつてゐる。

本當の被害者ならば、どんな事があつても悲しみは消えぬであらう。加害者を責めて、それで快感を覺えるなんて事がある筈もない。しかし、「あつた」派は、「本當の被害者」ではない。「被害者になつた積りの加害者」である。得てして「轉向者」は、自らの「過去の過ち」を埋合はせるだか何だか知らないが兔に角「無かつた事」にする爲に、却つて熱心に今の活動に勵むものだ。「被害者」から「加害者」に「轉向」した「あつた」派は、實に冷酷無慘に、反對派を彈壓する。そして、彼等「南京大虐殺信者」は、「不信心」の者を彈壓するのに、快を覺える。人を罵り、嘲る、人に嫌がらせをして默らせる――それらの行爲は、一般には惡事である。が、「なかつた」派に對してならば、「許される」のみならず、とても立派な善事である、さう「あつた」派は信じてゐる。

君の心が虐殺を起こす

「南京大虐殺」は「あつた」と信ずる人々は、反對派を彈壓し、繼續的に嫌がらせをして復讐を行ひ、この地上から存在を消し去らねばならないと信じてゐる。その爲に、彼等自身が熱心に「南京大虐殺」は「あつた」教の「布教活動」を行はねばならないと信じてゐる。自分逹に逆らふ人間には、劒を取つて立向かはねばならないと信じてゐる。抵抗する奴は殺しても良いと信じてゐる。

――だが、そんな事が、果して許されるのだらうか。

「許されるに決つてゐる!」と「あつた派」の人は、平然と言放つ。「何と言つても、『南京大虐殺』は『無かつた』なんて言ふのは、道徳的にも政治的にも汚らはしい事であり、人間のする事ではないからだ」。

しかし、だ、人間について「人間ではない」と考へる事は、一體何う云ふ事なのだらう。

松井司令官は、日本人が支那人に暴虐な行爲を加へる事は、彼等から我等が反感を買ひ、信頼を無くす事だと知つてゐた。慥かに、「占領地域の人間の信頼を得る必要がある」と云ふ發想は「政治的に不利である」と云ふマキャベリズム的な發想と評する事も出來るだらう。けれども「日本人は人として人である支那人から敬意を以て接せられるやうに振舞ふべきだ」と司令官が信じてゐたと、さう考へてはならない理由は何處にあるのか。

一方、松井司令官の命令を無視して、支那人に暴虐な振舞をした兵士逹だが――彼等は支那人を何う見てゐたのか。餘りにも明かな事だが、彼等は自分達日本人だけが人間であり、支那人は「人間以下」だと信じてゐたのである。相手を人間と看做してゐたら、人は暴虐な振舞には及び得ない。相手を「人間以下」の存在と見なすからこそ、人は冷酷に振舞へる。

さて、この暴虐な振舞を行つた兵士逹の心情だが、今、「なかつた」派に對して冷酷に振舞ふ「あつた」派の心情と、まるで同じものだと言へるのでないか。これは、單なる質問ではなく、讀者の同意を求める「形式としての質問」である。「南京大虐殺」は「あつた」と主張して「なかつた」派を見下し嫌がらせを働く人々は、明かに、支那人を見下して暴虐な行爲に及んだ「南京事件」の兵士と同じ心情を持つてゐる。

「それがどうした!」と云ふのが「あつた」派の人々の「感想」に違ひない。彼等は、自分逹の心情に――と言ふより、人間の心情に、全く興味を持たないのである。彼等は、ただ、「責任者」の責任を追及して、彼の罪惡を指彈し、その人を人格から根本的に否定し、やつつけ――それによつて快を貪りたいのである。彼等は、大體が左翼であるが、他人の權威を引つぺがして、彼を「裸」にし、貶め、侮辱する事で、自らの嫉妬心を滿足させたがつてゐる。

この種の「自らの欲望を滿足させる爲に他人をスケープゴートにしようとする」事は、實におぞましい破廉恥な行爲だが、それを「道徳的な善事」に見せかける事が流行してゐる。のみならず、「道徳的な善事」をして、更なる快感を味ははうとする人が、途轍もない數にまで増加してゐるのである。理窟が附けば人は何んな惡事でも善事と取違へる事が出來るし、大義名分を用意出來れば人は何んな殘酷な行爲でも平氣で出來る。

さう云ふ人間の大變におぞましい性質について反省する事こそ、全ての人間にとつて大事な事なのだが、大事な事であるだけに殆どの人が興味を持たない。大變多くの人が、「責任者」の責任を追及し、それを「明らか」にして、彼を惡人に仕立て上げ、侮辱を加へ、人間として否定する事に血道を上げてゐる。

ウェブの掲示板で論爭をしてゐる「あつた」派の人々の言動を見れば良い、彼等は常に「なかつた」派の人間に侮辱を加へ、仲間同士で襃め合ひ、實に嬉しさうに自らの「戰果」を報告する。しかし、彼等の發言の中に、被害者の支那人がゐたためしはない。

讀者の方々よ、考へていただきたい。「責任者」なる他人の責任を追求する事で、あなた自身は立派になれるだらうか。他人を糺彈する事は即座に自分自身が反省する事だらうか。……さて、これらの問ひに「あつた」派の人々が何う答へるかは、判り切つてゐる――「お前、責任逃れをしたいのだらう」。しかし、さう言つて、「あつた」派の人間は、常に自分自身を棚に上げ、他人を攻撃し續けてゐるのである。

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