制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
當サイトオリジナル記事
イーエスブックスみんなの書店「書肆言葉言葉言葉」より一部轉載
公開
2002-03-27
改訂
2018-02-21

『私の幸福論』


「人間は幸福にならなければならない」。しかし、復讐とか、代償行爲とか、そのやうなものを通して「幸せになつたやうな氣になる」事は、意味がない。自分のありのままの姿を認めつつも、より良い「生き方」を求め、それによつて幸福になる方法を見出さうとする、「世間に媚びない」稀有な幸福論。

「あとがき」から

理想についての意見

書き終つてみると少々心配になりだしました。私のいうことが、一應もつともだと思つたにしても、それではどうにも身うごきできないではないか、そんな感じをいだく人が多いかもしれない。また、私のいうことは理想論で、そうは立派に生きられぬと思う人もいるかもしれない。

そのときは、もう一度、「教養について」のなかの讀書論を參照してください。著者は著者、自分は自分、そういふふうに距離をおいて、この本にたいして自分を位置づけてください。無條件な信從より、私はそのほうをずつと信頼します。

なぜなら、私自身、この書のなかに述べた考えにたいして、すなわち私の理想にたいして、けつして忠實な實踐家であるとはいえないからです。私もまた、自分の理想と自分との間に距離をおいているのです。この理想どおりには生きてはいないが、この理想を立てることによつて、自分の存在がはつきり位置づけられるというだけのことです。理想というものはそういうものだと私は信じています。

よく、理想と現實とが一致しないくらいなら、そんな理想は空虚なものだ、むしろ捨てしまつたほうがいゝと申しますが、それは早計というものです。現實がそのとおりにならぬからこそ、それは理想といえるのです。理想とは、それに現實を一致させるためにあるのではなく、それを支點として現實が廻轉し活動するためにあるのです。また、消極的にいえば、理想とは、現實が混亂しないための枠であり、ものさしであります。ときに、現實はその枠を破ることがあり、そのものさしでは計れぬほど複雜になることもありましよう。が、それを強いて枠のなかに入れようとし、ものさしで計ろうとすることによつて、混亂の整理がつくものです。その程度のもの、すなわち整理のための道具、それが理想だともいえましよう。

カヴァについて

以下の文章は、高木書房版「あとがき」にあつて、ちくま文庫版で削られたもの。

なお表紙カバーのデッサンはジャコモ・マンズーと共に現代イタリア彫刻を代表するグレコのデッサンである。詳しい説明はカバーの余白に出ているが、この原画のデッサンはグレコ自身が献辞を附して鹿内信隆氏に贈った署名入りのデッサン集から取ったもので、数年前、氏を箱根の「彫刻の森美術館」に訪ねた時、そのグレコ・ガーデンの最高傑作『女の首』に惚れこんでさりがてにしている私を促し、自分の部屋に招じ入れ、そのデッサン集を見せてくれ、飽きるまで手もとに置いておいていいと言って貸してくれたものである。高木書房から装釘について何か希望はないかと言われ、ふとこれに気づき、グレコが版権を鹿内氏に譲ってあることを憶い出し、改めて氏に諒承を求めたところ、快く応諾してくれた。

同じく表紙カバーの題字の横、及び裏表紙の中央にある彫刻も同美術館所蔵のもので、此れも私が前々から気に入っていたものの一つで、作者はルーマニア出身のフランスの彫刻家コンスタンティン・ブランクーシ(1876-1957)の小品『接吻』である。その素朴と優しさは正に幸福に通じるものである。ここに鹿内氏及び彫刻の森美術館の御厚意に心からお礼を申述べる。

「附記」

私は全集、文庫本以外、自著の単行本は歴史的かなづかい、即ち正かなづかいを用いる。その理由は新潮文庫『私の國語教室』を御参照願いたい。だが、この書は主として若い人々を対象としたものなので、新潮社版以来、連載時の現代かなづかいを踏襲した。

上の「附記」は、高木書房版「あとがき」の附記だが、そのまゝちくま文庫版で使はれてゐる。

この場合の「全集」とは、所謂「文學全集」の類の事で、『福田恆存全集』の事ではない。また、『私の國語教室』は、新潮文庫版は疾うの昔に絶版となつてゐる。ちくま文庫版でこの邊りの注記が皆無であるのは不親切であるやうな氣がする。(なほ、文春文庫版『私の國語教室』が2002年3月に刊行されてゐる)

カヴァ畫像

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