制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
1999-09-25

『日本の將來・新聞のすべて』

まへがき

數年前死去した保守派の旗頭T.S.エリオットでさへ檢閲を不可としてゐる。さう言ふと、「言論の自由」「知らせる義務」「知る權利」などといふ言葉を無闇に有りがたがる人達は大いに氣を良くするであらう。が、エリオットの檢閲反對論は甚だ皮肉なもので、もし檢閲を可とすると、檢閲者によつて許された書物は良書だと思はれてしまふ、これほど危險な事は無いといふのである。

情報についても同樣の事が言へる。ウォータゲイトの醜聞を暴露したワシントン・ポストやニューヨーク・タイムズの「勇氣」と「誠實」とに日本の新聞は己の功績の如く醉つてゐるが、あれほど危險な事は無い。エリオットの論法を借りれば、右の二紙の報道しなかつたところには醜聞は無いものと讀者が思ひ込むからである。

醜聞に限らない。新聞を始め、テレビ、ラジオ等による情報が今日の如く氾濫し、その中に埋つてゐると、つい吾々は凡ゆる情報に接してゐるものと思ひ込み、情報から洩れた事實は存在しないと思ひ込んでしまふ。そればかりか、檢閲を通つた書物がすべて良書と思はれ易いのと同樣、提供された情報はすべて良質のものであり、知るに價する眞實だと思はれがちである。これほど危險な事は無い。情報が事實に取つて代り、事實が眞實に取つて代り、フィクションが現實に取つて代る。今の世はさういふ時代である。早い話が、人々はバストやウェイストが、身長や體重が、即ち數字が女性の美や性的魅力を代辯すると思つてゐる。新聞のセンセイショナリズムは、それが如何に知的なものであらうと、所詮、この低俗な「早い話」の應用に過ぎない。

しかし、吾々は凡ゆる情報に接する事など出來ない。新聞が凡ゆる事實を報道する事など出來ないからである。新聞記者が凡ゆる事實を報道出來ないばかりでなく、新聞社自體がその限られた紙面に入手し得たすべての事實を報道する事が出來ない。讀者としても、そんな事をされたら迷惑至極である。人々は「知る權利」を口にしながら、實は「知る勞」を免れたがつてゐるのである。知るべき事を、或は眞に知りたい事を知らうといふ自主の精神を持つた讀者ばかりであつたら、六百萬、七百萬といふ發行部數を誇る新聞が出てくる筈が無い。誰も知りたがつてなどゐない。ただ世間が知つてゐる事を知らずにゐるのが不安であつたり、恥かしいと思つたりしてゐるだけの事である。

「知る勞」を免れたがつてゐるからこそ、人々は新聞にその役割を任せる。……


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