制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
1999-09-23

『日本の將來・教育のすべて』

まへがき

今まで高木書房から出た「日本の將來」と冠する一連のものは、中國、ソ聯、資源など、いづれの問題にせよ、專門家の知識、經驗を必要とした。しかし、教育に限り特定の專門家といふものは存在しない。なるほど教育を學校教育といふことに限定すれば、教育基本法、教育行政、教科書、そして日教組といふ一種の「祕密結社」があり、さう簡單に素人の手に負へるものではない。しかし、教育は何も學校教育のみに限られるものではない。家庭教育があり、自己教育があり、また大小を問はず、官民を問はず、それぞれの組織、團體には、それを一つの共同体として成り立たしめる爲の教育が必要である。

そればかりではない、學校においても家庭においても、また組織においても、教育者、被教育者が、それと意識せずに行はれてゐる教育といふものがある。例へば學校において、いかにそつなく讀み書き、そろばんの知識を與へられても、その教師に子供を仕込まうといふ情熱が無ければ、そしてその教師に人間的な魅力が無ければ、子供は喜んで學校に來はしない。教育は單なる技術ではないからだ。教師が教へようとしたことよりも、教へようと意識もしなかつた教師自身の性格や行爲を、子供はおのづと學び取る。

その意味では、多くの人が教育と意識しないで行つてゐるあらゆる言動が、普通には影響といふ言葉で言はれてゐる教育なのである。藝術や文學も教育である。言論、出版、新聞、テレビ、ラジオも教育である。日常の言葉づかひ、立居ふるまひは勿論のこと、瑣末なことかも知れぬが、電車の乘り降りから、風呂の使ひ方に至るまで、すべてが教育なのである。

そしてその根柢をなすものは、國家、社會の文化、詰りそれぞれの時代の物の考へ方、生き方であると言へよう。……


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