制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
1999-09-25

『日本の將來・國家意識なき日本人』

まへがき

(一) 太平洋戰爭の後、米軍占領時期にはオフ・リミッツ(立入禁止)といふ札をあちこちに見掛けたが、獨立後はそれが段々少くなり、今では滅多にお目にかからない。だが、言葉や意識の上では占領時の遺風が未だに日本人を支配し、立入禁止地區、即ちタブー(禁忌)が至る所に殘つてゐる。タブーとは元來ポリネシア語で、土民が神聖と見なしてゐる物、所、行ひ、言葉などに對する接觸、使用の制限であり、未開民族の宗教に固有のものである。現代人はそれを迷信として一笑に附して顧みない。しかし、文明開化のお蔭で物や所についてのタブーから解放された現代人も言葉、意識の面では依然として未開人なみである。或はそれ以上かも知れない。民主主義や平和や自由を神聖視し、その汚れを指摘したり、その是非を論じたりする事をタブーとして避け、自他を緊縛し、しかもそのタブーの中で身動きが出來ずにゐることにさへ氣附かずにゐる。その姿を未開人が見たら、やはり迷信として一笑に附するであらう。

さういふ迷信が今の日本には餘りにも多すぎる。その最たるものが平和であらう。平和は神聖である、これを破る無法者、不信心者はこの世にあるはずが無い、朝鮮半島や中東、東南アジアの事はいざ知らず、日本に關する限りその平和を脅す國がどこに在り得よう、多くの日本人はさう信じてゐる。いや、本當は信じてはゐないのだが、平和憲法の手前、さう信じてゐる振りをしてゐる。信じてもゐないのに信じてゐる振りをする。それが迷信といふものである。

(二) 國防の必要を説けば、「一體どこの國が攻めてくるのか、假想敵國はどれか」と居丈高に問返される。多少の不安を感ずる者も「何を守るのか、守るに價するものがあるのか」と心細い自問自答の反芻に耽つてゐる。どこの國が攻めて來るのかといふのは愚問である。どこかの國が攻めてくるといふ確證は無いが、どこの國も攻めて來ないといふ保證も無い。また日本はどこの國にも攻める氣を起させないほど、或はどこの國にも自己の勢力圈内に置きたいと思はせないほど、無能でもなければ無價値でもない。

いや、泥棒や人殺しは、相手が金持ちや強者であるからといふ、ただそれだけの理由で盜んだり殺したりするのではない。盜みやすい者から盜み、殺せる者しか殺さない。詰り相手の隙を狙ふのである。殺人はさういふ計算拔きの激情から行はれる事が多いにしても、やはり殺される側にも、相手を殺しに誘ふ隙がどこかにあるに違ひない。

國家間においても同樣である。どこかの國の攻略の對象となる可能性を全く持たない國は存在し得ない。また現在敵國と假想さへしてゐない國が、數年後には假想敵國になり得る。初めから假想敵國といふものがあるのではなく、隙が假想敵國を造るのである。他國はすべて潛在的友好國であり、すべて潛在的敵國である、さう考へておいた方がよい。


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