初出
高崎一郎さんによる掲示板への投稿(1999年12月18日)
公開
「知られざる傑作」2000年04月02日
轉載
2001-08-15

吉川幸次郎『詩文選』

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こんなのありました 投稿者:高崎一郎  投稿日:12月18日(土)10時58分07秒

講談社文藝文庫『詩文選』吉川幸次郎 平成3年 に、興味深い一文がありました。
漢詩を作るために、主な字の所屬韻ぐらゐはすべて暗記してゐるのが常識だった筈
なのに、それがなぜ假名遣と結びつかなかったか。漢籍を讀む人は、假名文字に
關心が無かったのかもしれません。(半角スペースは、讀取りの便宜に、私が勝手に
つけたものです。原文にはありません。これ、著作權にひっかかりますか)

字音かな遣ひあらたまれりといふを聞きて 昭和十七年九月「國語國文」

おのれ 唐のまなびに 心よせてより、聞きて讀むも 筆とりて書くも ただ唐ぶみばか
りにて、十年あまりを經しほどに、みくにことのうへなる くさぐさの掟、みな いとお
ろそかに なりぬるうちにも、唐もじの となへざまとて、先つ世の 人の定めたまへる
字音假名遣ひと いへるわざは、わが名幸次郎といへるさへ、いかがしたたむべきか 定
かならずなりぬ。一とせ 神田喜一郎ぬしの父君 みまかり給ひける折、おのれは 東京
へまゐるべきことあり、したしく とぶらひまゐらせむすべもなきままに、驛より 電報
うちてやるに、ヨシカハとまでは心得つ、また郎の字は唐音 lang にて陽唐の類なれば
、ラウなるに定まれり、さて幸の字は いかがあるべき、唐音は shing にして庚清の類
なり、陽唐の類にはあらざれば、おほかたコウならむと、おしはかりにてしたためつ。
程へて字書どもあらためぬるに、庚清の類も みなア段の假名なりければ、始めておの
が無學を恥ぢけり。



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こんなのありました 投稿者:高崎一郎  投稿日:12月18日(土)10時56分42秒

かくおろかなる おのれにはあれど、古き假名づかひ 改りぬると聞けば、古きものの
すたりゆくを 惜しむ心あり。またかくなれるを 便りよしと思ふ方もあり。おほかたは
便りよしと おもふかた多し。そは ひたぶるに おのれ無學なるゆゑにはあらず。さ思ふ
仔細ぶつにあり、そも假名づかひといふは、いにしへの となへざまを、そのままに假
名にうつしたるなるべし。さればこの掟を守るは、いとゆかしきに似たれども、今の言
葉の古(いにしへ)と異なれるは、ひとりとなへざまのみにはあらず、もろもろの言葉
のさま 皆すでにうつれり。テフととなへしを チョウととなへ、ホンタウととなへしを
ホントウととなふるは、となへざまの うつりしなり。コテフといひしを テフテフと
いひ、ムベといひ ゲニといひしを ホンタウニといふは、言葉のうつれるなり。かくよ
ろづのさま 古とはうつれるに、ただ書きざまのみ 古のとなへざまをうつすは、さまで
よしあることともおぼえず。ことにこのわざ わらべたちに授けむには、便りあしきかた
多かりなむかし。わらべたちは 古の言葉のさまも知らず、またいにしへの言の葉 い
まと異なれりとも わきまへざるに、などこのわざの心にしみなむや。まして今の世の
言の葉は、さらにまたおしうつりて、チョウチョといひホントニといふ。はかなきさと
びママごとにはあれど、はかなきままに あはれなるふしあるを、古きかなづかひ 守るの
みにては、うつすべきすべなからむ。おのれ新しきかなづかひ便よしと思ふは、かかる
ふしあればなり。かの西洋のふみのつづりざまも、となへざまのごとくにあらねば、と
なへざまのごと したたむるはあしといふは、かへりて大和ごころにあらずかし。



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こんなのありました 投稿者:高崎一郎  投稿日:12月18日(土)10時55分38秒

新しき假名づかひにては 唐音まなぶにたよりあしといふ人あらむ。されどこはさまで
ゆゆしきことならず。古き字音の假名も、もろこしの音の姿を 寫したるものにはあれ
ど、もろこしの音の姿は いとさはにして、開齊合撮と折れまがりたるに、みくにの音
は少くしてすなほなれば、ただおほよそを寫したりと覺し。おのれむかし第三高等學校
にありしころ、源氏の源は もと ぐゑんなりきと、阪倉篤太郎大人(うし)の さとし
たまひしが、げに愚袁切といふよりすれば、ぐゑん なるべし。さるを この假名いつか
すたれて、前の假名づかひにてもその沙汰なし。また閉口の韻の侵覃鹽咸も シム タム
エム カムにはあらで、眞單煙間とおしなみに シン タン エン カンなりき。前の假名
づかひ 知ればとて、唐音まなぶに さして便りよしともおもほえず。おのれ唐音をまな
ぶに 假名づかひにたよりことなし。こは世の唐まなびするものに ただしたまひても、
おほかたは同じかるべし。

また古き假名づかひ すたりぬれば、みくにの古きふみ 讀むにたよりあしく、古きふ
み讀むこと、おのづから おろそかになりゆかむとの おもむママばかりあらむ。まことに
さもありなむには、これゆゆしきことなり。さはれ便りあしといふは、まことに たよ
りあしきにや。よろづ言葉のさま すでにおしうつりぬるに、假名づかひのみ 古きとな
へざまに從ひてしたためぬとて、古きふみ讀むこといとたやすかりなむや。上つ世のふ
み 讀むこと かたしといはば、古き假名づかひ守るともかたく、たやすしといはば、古
き假名づかひ守らずとも、たやすかりなむ。おのれひそかに思ふに、古きふみ讀むこと
おろそかになりゆくは、假名づかひの古き新しきにはかかはらじ。古き人の心のさまは
古きふみ讀みてこそ知るべきに、世の人このことわりをさとらざるが故なり。鈴の屋
の大人の さとしごとのごとく、およそ人の言と心と事とは相かなへるものにて、古き
心のめでたさは、しらべよき古き言の葉の うちにこそあるに、今の世の人は、古きふ
みのたふとさを 口にはとけども、このことわりを さとらざるが故に、あらそひ讀むは
何々の研究しかじかの論と、すべて古きふみの ただおほよそを、こちたく今の言葉に
いひかふるもののみにて、古きふみをそのままに讀むわざは、なかなかに おろそかに
なりぬ。まづ改むべきは、この習ひにこそ。この習ひまづ改りぬれば、たとひおのが言
の葉は 今のとなへざまのままにしたたむとも、古きふみ讀むことすたるべしやは。ま
たかくて古きふみのうちにて 古き假名づかひをさとらば、たとひ上つ世の人のごとく
となふることはかなはずとも、上つ世のとなへざまは かくこそありつれと、深く心に
しみてさとりなむ。かかるすぢよりいはば、おのれはわらべたちの習ふわざにも、ふる
き文さし加へたく思ふなり。今のわらべたちの習ふわざの すべて今の人のふみのみな
るぞ心得ぬ。なかにはいにしへごとを ときたるもあれど、それもみな今の人のふみな
るを、かくては古人のこころ 知りがたくなむ。今のふみ 一わたり修めたるうへは、古
きふみ授けむこそよけれ。ことに歌は人の心をたねとして、ことばみじかく 心ふかし
。それにたやすきふみども さし加へてさづけなば、いかばかりめでたかりなむ。そは
むつかしきわざなりといふは、例のおとなたちの おしはかりなり。ふるきふみ書ける
人はみな今の子らのおやにして、今の子らは みなそのうまごなるに、すくすくと伸び
ゆく若竹の、などさばかり ことにたわみてむや。小學校の國民學校と 改まりぬるはよ
し。その八年に改まりぬるもよし。やまと歌の一つをもさづけずして、國民學校といふ
ぞあやしき。ただこの道行はれむためには、みくにごと定かにまなびたる人あるべし。
さるを世の學者のおほむねは 世の中のならひになびきて、何がしの論しかじかの研究
とこちたき沙汰のみ うるさきぞうたてき。ひとりわが西京の國學は、學士たちみな 古
きふみまめやかに讀みて、言葉にこもれる心のさま あきらむるをむねとし給ふ。いと
たのもしく めでたくなむ。から文にいはゆる 中流の砥柱とやいはむ。あはれこの道あ
としたえずば、假名づかひ改まるとも 何かはあらむ。唐うたに風雨淒淒、鷄鳴●●(ロ篇に旁が皆)
といへるをも思ひあはせて、おのれ讀みいでたる歌にはあらねど、
風ふけばおきつ白浪たつた山
よはにや君がひとりこゆらむ

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