公開
2003-08-25
最終改定
2004-10-10

吉川幸次郎「神様のいない文明といる文明」

Godを戴く文化と戴かない文化について

吉川氏は、一神教的な信仰の対象としての神様いる地域を旅行した旅行者として、ただ表面をなぜまわしただけの、軽率な、あるいは軽薄な、感想として、以下のやうな事を述べてゐる。

一方、支那には「神様がいなかった」。支那では、一往「鬼神」と言ふが、孔子は「いまだ人につかふる能はず、いづくんぞよく鬼(かみ)につかへん」と言つたやうに無神論の立場をとつてゐるし、以來、人間中心主義の思想が展開した。

支那と西歐とを吉川氏は比較してゐるのだが、講演の終りで、自分は「神様のいない文明」の方をより良く知つてゐるし、より愛してゐるかも知れない、と述べてゐる。同時に、神を天上に求めないのならば、地上に神を作つてしまふ恐れがある、とも述べる。

日本人は、神秘的な世界を持つ西歐よりも現實主義的な支那の方により親近感を抱く。しかし、どちらの立場をも採入れ得る、とは言へ、どちらがより良いものかは判らない、と吉川氏は述べてゐる。

「神様がいない世界」の缺陷を指摘した直後にもかかはらず、「どちらが良いか判らない」と吉川氏は言つてゐる。さう云ふ吉川氏の判斷の留保の原因は、「自分の流儀」である現實主義を愛してゐる事にある。

取敢ず指摘された缺陷の克服は目指す必要がある、と認めるにとどめるのは、吉川氏に好意的に過ぎるかも知れない。寧ろ、既に西歐の世界に出會つてしまつた我々は、西歐の「神様がいる世界」の事を知らうとすべきである、と吉川氏は積極的に言はねばならなかつた、と批判的に捉へるのが正しいだらう。

日本語の表記について

岩波文庫を批判する吉川氏

……どうも岩波書店の招待で講演をしながら、岩波書店の悪口をいうのは悪いようですが、これは私の注文ですから、まあ勘弁してもらいましょう。「岩波文庫」は「古今東西の典籍」というのを標語とし、事実またある程度そうなのですが、それが往往にして品切れであるのは、私のように貧乏で、高い本を買えないため、安い文庫本で間に合わせようと思う人間には、大へん不便です。現にこのアウグスチヌスの「告白」三冊、それから、それに関する書物二冊、それらがみな絶版なのは、事情があるんだそうであります。なんでも旧かなづかいであるので、それを新かなづかいになおしたいというふうな事情があるんだそうでありますが、とにかく品切れは大へん不便です。私はやむを得ず友人から借りましたが、なかなか全部そろいません。……

吉川は、「旧かなづかい」に反對で、「現代かなづかい」を支持した。が、その「現代かなづかい」のせゐで、讀まうと思つたアウグスティヌス『告白』を入手出來なかつた。皮肉な話だ。

「岩波書店の悪口」になつてしまつてゐるが、「現代かなづかい」を責められない立場上、吉川にとつては止むを得ない事なのだが、岩波書店にとつては良い面の皮である。

岩波書店と假名遣

吉川氏からは離れてしまふが、岩波書店の表記に關する態度についての話をしておく。

岩波書店は、表記に關しては割と保守的だつたやうに思はれる。他社の文庫に比べると、岩波文庫は遲くまで正字正かな表記を殘してゐたやうな印象がある。さすがに1980年代になると表記の變更を始めたが、この頃の社長が緑川亨氏。

ルナン『思い出』(創元選書162)の「譯者後記」に以下のやうな記述がある。

……この度創元選書の一冊として出すことになつたので、この機會に漢字を少くし、新かなづかいを採用した。新かなづかいになおす仕事に協力してもらつた緑川亨、及川進君ならびに、創元社編集部の池田一朗氏の勞を深謝する。……。

緑川氏が岩波文庫の表記を變更させるのにどれだけ影響力を持つてゐたのかはわからない。しかし、緑川氏にこのやうな經歴があつた事は、偶然であるのかも知れないが、注意しておいて良いと思ふ。

1985年に岩波書店は「岩波文庫85」と云ふフェアを行つた。その時のキャッチコピーは、岩波文庫がとても読みやすくなった、と評判です。と云ふものだつた。出版社の自畫自贊だから、「評判」と云ふ賣り文句は必ずしも信頼出來ないが、このやうなキャッチコピーが使はれ、通用した事は事實である。

しかし、その後の「復刊フェア」の類で、戰前・戰後に正字正かなで出版され、長い間、品切れになつてゐて、數十年ぶりに復刊された岩波文庫の本は、當時の表記のママ、印刷されてゐる。岩波書店は、「復刊フェア」では、「読みやすさ」よりも、とにかく讀める事の利便性をとつてゐるやうだ。ただし、他社の復刊企劃でも、コストの問題があつて版の作り直しをしないのが當然の事となつてゐるので、別に岩波が偉い譯ではない。

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