冒頭から。
ぼくは、ここにとても書けないやうな惡い好奇心をおねえさまにたいして持つた。
「まあ晶ちやん! 何をなさるの」
手首をつかまれ、おねえさまは起きあがつてまつ赤になり、身をふるはせ、涙が、見る見る大きな目からあふれ出した。
ぼくは、罠に噛まれたケダモノのやうにあばれて、おねえさまの手を振りもぎり、彼女のしぼるやうな鳴き聲をのこして外にとび出し、暗い坂道を駈け下りた。町はすつかり夜の底にねむり、どこをどう歩いて行つたかおぼえない。ときどき自動車が、ぼくの影法師をゆらゆらと地面に投げかけては追ひぬいて行つた。そのときぼくは、ねまき一枚であることに氣がついた。立小便をすると腹の底から身ぶるひがきた。どこまで行つてもきりがないので、K橋のロータリーのところから引きかへして、別の道をあるいた。
遠くで電車の音がひびきはじめたころ、こつそり歸つて庭のベンチで夜の明けるのを待つた。
家をとび出してから何百囘となくくりかへす心のなかの辯解。
「おねえさまの中の別の生きものをさがさうとしたんです。おねえさまとは關係ないんです」
本作は、性を取り扱つた小説で、D.H.ロレンスを聯想させる。しかし、「和製ロレンス」若杉慧は、ロレンスのやうに、性を突破口にする事が出來ない。
ロレンスは、キリスト教文化に猛烈な反抗心を抱き、生き生きとした生を死にかけた現代文明に齎さうとした。しかし若杉は、生きてゐるとも死んでゐるとも言へない文化の日本で、どろどろとした何物かに自由を求める精神が敗北する話を書いてゐる。
若杉はのちに、佛像寫眞專門の「寫眞家」として知られるやうになる。『野の佛』(創元選書)が手に入れ易いだらう。どうにも「本業」の「私小説」では評價し難い作家である。