制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)

日露戰爭

不凍港を求めたロシアの南下政策──クリミア戰爭〜三國干渉迄

ロシアは不凍港(冬場でも凍らぬ港)を持つてをらず、それを求めて南下政策をとつた。しかし1832年のエジプト事件、1853年のクリミア戰爭、1877年の露土戰爭で、ロシアは南下政策に失敗した。

地中海方面で失敗したロシアの目は當然の如く極東に向けられる。1858年、ロシアは第二次阿片戰爭を利用し、アイグン條約で黒龍江以北の地を、1860年、北京條約でウスリー川以東の沿海州を、清から讓受ける。かうしてロシアは初の不凍港ウラジオストックを建設する。

そして日清戦争で清が日本に負け、講和條約で日本が遼東半島を讓受けると、ロシアはドイツとフランスを仲間に引入れ、「三國干渉」を行つた(1895年)。その内容は「日本が遼東半島を領有する事は極東の平和を亂すものである」から、日本は遼東半島を清に返還すべしと言ふものであつた。

然るにロシアは、日本が清に半島を返還するや否や、1897年9月清と祕密條約を結び、滿洲横斷鐵道の敷設權を獲得、さらに翌年、遼東半島を25年間租借し、大連とハルビンを結ぶ東清鐵道の敷設權を獲得した。ここに旅順・大連がロシアのものとなる。

北清事變

かうしてロシアは不凍港を手に入れた譯だが、なぜ清はロシアの言ひなりになつてゐたのであらうか。それは日本に支拂ふ日清戰爭の賠償金2億兩の一部をロシアから借りてゐた爲である。ロシアは清に貸した金の抵當に、滿洲の鐵道敷設權と、旅順、大連といふ良港を持つ遼東半島を押さへたのである。

さて1900年4月に北清事變が起きた──「義和團」の蜂起である。義和團は「扶清滅洋」のスローガンの下、1900年に天津から北京に進出、各國領事館や公使館を襲撃した。これに對して日本、イギリス、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリアが出兵、北京を占領した。清朝政府は一切の責任を義和團に押しつけ降伏。1901年、各國と清の間に辛丑條約が調印され、清は首謀者の處罰、各國駐兵權の承認、4億5000萬兩の賠償金の支拂を約束した。

然るにロシアはこの事變の最中、鐵道保護の名目で滿洲を制壓してしまつた。日本の小村寿太郎外相はロシア政府との話合ひを進めたが交渉は一向に進まなかつた。

ロシアと朝鮮半島

ロシアは日本が支配下に入れた朝鮮についても觸手を伸ばし、閔妃らを使つて朝鮮政府内の親日派追ひ落しを圖つた。その後、日本側の閔妃殺害にもめげず、朝鮮國王と世子をロシア公館に幽閉して、朝鮮をほぼ手中に收めた。

(『日本海海戰の眞實』野村實著・講談社現代新書・38ページ)

日露開戰が避けられない事態に進展したのは、北清事變後のロシア軍滿洲撤兵をめぐる對立だつた。日英兩國の抗議により、ロシアは清國と滿洲返還の條約を結んで第一期撤兵を行つたが、翌年には撤兵するどころか兵力を増強して滿洲地域の要塞を強化、さらには朝鮮半島への進出を意圖して韓國の完全な中立化を要求してきた。

(同・38〜39ページ)

日露戰爭迄

三國干渉以來ロシアへの反感を募らせてゐた日本は、ロシアのアジア進出に不安を持つてゐたイギリスと利害が一致し、1902年、日英同盟を結ぶ。日英同盟の壓力を以て、日本はロシアを滿洲から撤兵させるべく交渉を續けた。ロシアは清との間に返還條約を結び、5月に第1囘の滿洲撤兵を行つた。

しかし、1903年4月までになされるべき第2回目の撤兵は行はれなかつた。ロシアはこの時、以前の「露清祕密條約」を持出し、滿洲とモンゴルをロシアの保護領とする交渉を清國政府と開始したのである。この情報を得た日本政府は、ロシア側に誠意がない事を悟り、交渉を打切つた。1904年2月10日、日本とロシアは國交を斷絶──日露戰爭が開始された。

日露戰爭1

旅順はロシア陸海軍の重要據點であつた。日本陸軍は物量作戰でここを攻落としたと言つてよいと思ふ。旅順攻略戰の詳細は「乃木將軍と旅順攻略戰ダイジェスト」に書いた。

旅順港にあつたロシア太平洋艦隊は、ウラジオストックへ囘航される途中、日本軍に撃滅された(黄海海戰など)。

ロシア海軍は當初、太平洋艦隊とバルチック艦隊で日本軍を挾撃する積りであつた。しかし太平洋艦隊が壞滅したため、バルチック艦隊は單獨で日本の聯合艦隊と戰はざるをえなくなつた。

バルト海から日本海へ囘航途中のバルチック艦隊だけで勝てるかどうか、不安になつたロシア海軍首腦部は、追加の艦隊を派遣した。斯くしてバルチック艦隊は日本に迫る。

日露戰爭2

日本海軍聯合艦隊(司令長官・東郷平八郎大將)はバルチック艦隊を迎へ撃つため、日々訓練を續けてゐた。しかし、訓練も實戰がなければ無駄になる。いざバルチック艦隊が日本に接近してきた時に、大本營や聯合艦隊司令部で問題となつたのが、バルチック艦隊の進行コースである。

對馬海峽を通つてウラジオストックに直行するか、日本東岸をまはつて津輕海峽を拔けるか、或は宗谷海峽までまはるか──東郷は樣々な情報から、バルチック艦隊は對馬海峽に來る、と斷定したと云ふ伝説があるが、どうもそれは怪しいらしい。『日本海海戰の眞實』(野村實著・講談社現代新書)によると、大本營も、聯合艦隊司令部も、津輕海峽説に傾いてゐたらしい。もし日本海軍が津輕海峽に行つてゐたら、バルチック艦隊は對馬海峽を拔けて、悠々とウラジオ入りしてゐた事であらう。

しかし聯合艦隊が津輕海峽方面へと動く直前、幸ひな事に、バルチック艦隊が對馬海峽に向つて進行してゐると云ふ情報が入つた。日本艦隊は對馬へ向けて鎭海灣から出撃した。

かうして日本海軍は、バルチック艦隊と戰ふ事が出來たのである。

日露戰爭3

所謂バルチック艦隊(司令長官・ロジェストウェンスキー中將)は正式には太平洋第二艦隊と云ふ。旅順にあつた太平洋艦隊の劣勢をカヴァするために編成されたものである。バルト海から日本海へと地球を半周して囘航されたが、このやうな大艦隊が隊列をなして大航海をやらかした例は、歴史上類を見ない。

日露戰爭4

日本海軍はバルチック艦隊との交戰を想定して、シミュレーションを行つてゐたらしい。日本海海戰の有名な丁字戰法は檢討濟みのものであつたやうである。トーゴー・ターンも、東郷大將の獨斷と云ふよりは討議の結果であつたのだらう。

しかし東郷が吹曝しの危險な三笠艦橋で指揮をとり、ロシア艦隊を十分引付けるまで發砲命令を出さなかつたのを見れば、その勇猛果敢さは否定出來ぬものである。いやいや、丁字作戰はロシア艦隊の一氣殲滅を狙つたものだが、その分日本側のリスクも大きいものであつた──戰場で丁字作戰を決斷した東郷の勇氣は否定すべきでない。

日本海海戰は、ロシア側の失策、日本側の幸運が重なり、日本の聯合艦隊が勝利した。バルチック艦隊は壞滅、聯合艦隊は損害輕微──日本側の一方的な勝利だつた譯だが、斯も一方的な決着がつくと云ふのは海戰史上珍しい。

日露戰爭5

日本陸軍は奉天の大會戰でロシア陸軍を破り、日本海軍は日本海海戰でロシア海軍を壞滅せしめた。

一方、日露戰爭當時、日本の諜報部が──と云ふよりは日本の駐在武官がイギリスの諜報部の應援を得て──ヨーロッパやロシアで活動してゐた事も記しておくべきであらう。

後にロシア革命を起こすレーニンやトロツキーなどの革命家を援助してゐたのが明石元二郎中佐(のち大將)であつた事は有名である。ロシアの士氣低下の背景には、さういつた日本軍の情報戰略があつた。

奉天や日本海海戰の敗北はさういつた革命の風潮を助長し、ロシアに厭戰の氣分を横溢させてゐた。

一方日本も最早、軍事的・財政的に戰へる状態ではなかつた。アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介で、1905年8月、ポーツマス講話會議が開かれ、日本とロシアは講和條約を締結、日露戰爭は終つた。

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