……欽定憲法の第1條から第4條までをそのまま殘存せしめ、それと現行憲法の基本人權擁護とを竝立せしめれば宜しい。主權在民、戰爭抛棄についても、その實質は現在と殆ど變る處無く生かせると思ひます。
處で、問題の欽定憲法第1條から第4條までといふのは次の通りであります。
- 第一條 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス
- 第二條 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス
- 第三條 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
- 第四條 天皇ハ國ノ元首ニシテ統治權ヲ總攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ
右の第2條は誰も問題にはしますまい、……。第3條……は現行憲法の第3條、即ち「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。」と同樣の意味に過ぎません。
隨つて問題は第1條と第4條に絞られるでありませう。なぜなら、これは主權在民に反するものだからであります。が、主權在民とは一體何を意味するのか、その言葉によつて吾々は如何なる實質を欲してゐるのか。今日、主權在民といつた所で、その實質は高々選擧權の行使を意味するに過ぎません。後はすべて名目だけで、現實には名譽慾と利權に驅られた代議士達が勝手な事をやつてゐるのです。それは戰前と少しも變つてゐない。……
福田は、民主主義と獨裁主義は相容れぬが、君主制の下の民主主義と共和制の民主主義は相容れるものだと説明してゐる。民主主義と獨裁主義が對立するのだと言つてゐる。
また、天皇を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であ」るとするのは、天皇賛成論者、反對論者に勝手な解釋を許す曖昧なものだから、「元首」と云ふ具體的な地位に据ゑるのが適當だと言つてゐる。
處で「統治權ノ總攬」といふ言葉についても、他に統帥權その他の大權を抑止する規定さへあれば、すべて解釋運營の妙を發揮して何の弊害も生じますまい。現行憲法の第9條と前文の戰爭抛棄も解釋運營次第で自衞隊存置と矛盾しないと考へられる位ならば、その程度の融通性は朝飯前の事で何も「妙」と言ふ程の難事ではありません。……
この後には第9條の批判が續く。そして福田は現行憲法が「ごめんなさい憲法」であるゆゑんを明かにしてゐる。
ポツダム宣言が、「無條件降伏」ではないと云ふ事、日本の再軍備を命ずるものではない事が述べられてゐる。
最後に蛇足ではありますが、現行憲法の前文についてその英文和文の兩者を比較し、それが明瞭に英文和譯である事を證明して置きたい。
と云ふ事で、福田は現行憲法の惡文ぶりを剔抉してゐる。そして……
惡文といふよりは、死文と言ふべく、そこには起草者の、いや翻訳者の心も表情も感じられない。吾々が外國の作品を飜譯する時、それがたとへ拙譯であらうが、誤譯があらうが、これよりは遙かに實意の籠つた態度を以て行ひます。といふのは、それを飜譯しようと思ふからには、その前に原文に對する愛情があり、それを同胞に理解して貰はうとする欲望があるからです。それがこの當用憲法には聊かも感じられない。今更ながら欽定憲法草案者の情熱に頭が下ります。よく惡口を言はれる軍人敕諭にしても、こんな死文とは格段の相違がある。前文ばかりではない、當用憲法の各條項はすべて同樣の死文の堆積です。こんなものを信じたり、有り難がつたりする人は、左右を問はず信じる氣にはなれません。……
右であれ左であれ、今の憲法を境にせめぎあつてゐるのは後世に禍根を殘す。或は兩者の對立は現行憲法ある限り續く。
そもそも現行憲法は頗る出たら目な方法で罷り出てきたもの
だから、憲法學上の合法性だの手續きだの、詰らぬ形式に拘はる必要は無い
。
ただ、今の憲法を捨てて、すつきりとした憲法を採擇すべきだ――と福田は主張する。