初出
「瞬間」平成13年5月20日
公開
2001-06-24
最終改訂
2003-04-12

明治憲法の生きてゐる事

「日本國憲法」は「大日本帝國憲法」の改正だと云ふのが建前ですが、その「改正」は、法的に許される改正の域を超えてゐます。言はば「無法」を「日本國憲法」はやらかしてしまつてゐます。福田恆存が「當用憲法論」と云ふ文章で、かう指摘してゐます。

要するに、現行憲法はその成立によつて如何樣にも改憲出來る事を自ら範を示し、容認してゐるか、或は最初からその有效性の根據が無く、飽くまで當座の用を爲す當用憲法であるか、そのいづれかであります。が、前者を一度認めたら、それこそ永久革命を認めるやうなもので、危險であるばかりでなく、憲法の權威は全く認められ難くなる。憲法そのものの權威が失はれるよりも、この際吾々としては現行憲法の權威を否定する事によつて、憲法そのものの權威を守り、我々の憲法意識を正常化するに若くはありますまい。私が現行憲法に當用の一語を冠した所以であります。

「現行憲法は欽定憲法を法的に無效とし得てゐない」「欽定憲法は法理論上は生きてゐる」と福田は、述べてゐます。

もちろん、現在の日本人は「詭辯」のレッテルを貼る事で、法理論の檢討を避ける處世術を心得てゐますから、福田の言ふ事をききいれる筈はありません。しかしながら、さう云ふ非論理的な意識が日本人を支配してゐる事は、果してよい事なのか。法治主義、論理的にものを考へると云ふ觀念、或は近代的な精神を、日本人が理解しようともしないのは、果して良い事なのか。

近代化の過程を經ずして、日本人が近代否定に走つてゐる現實を、福田は容認しなかったし、私も容認しません。


福田は、現行憲法の成立の過程が「當用漢字」のそれとそつくりである事を指摘してゐます。それゆゑ、福田は現行憲法を「當用憲法」と皮肉る譯です。

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