公開
2005-05-14
最終改訂
2005-05-15

現行憲法無效論における二つの立場

憲法と權力

「憲法は国家の保證ナシには機能しない」と云ふ一側面を強調する立場があります。國家權力が存在を認めるから憲法があり得る、と云ふ立場です。現實を一般的な立場から見る場合、この立場も認める必要はあります。

しかし、「憲法は國家をも拘束する」と云ふ一側面もあります。國家は、法律によつて國民を統治します。その法律による統治・支配に一定の限度を設け、國民を保護する爲に憲法がある――さう云ふ立場も當然、認める必要があります。

もちろん、これら二つの立場がある事を事實として認める事は、矛盾ではありません。單に、「憲法は、或場合には機能するが、別のある場合には機能しない」と言つてゐるに過ぎないからです。

しかし、憲法を論ずるに當つて、我々はその二つの立場から一方を擇ばなければなりません。事實の認識としては兔も角、議論における立場としては一方を取り、他方を排する必要があります。事實においては「である」論で良いとしても、憲法における議論においては「べき」論が要請されるからです。

憲法に優先するXの存在を肯定する立場

國家權力の承認説

「現行憲法を國家が有效だと言つたら有效になるのである」と云ふ論理を使ふ論者は「憲法は國家權力が自由に採用して良い」と云ふ説を屡々採用します。かうした意見が出された時、本質的に憲法の存在意義が否定されてゐるのですが、意外にもその手の論者は、自分が憲法の存在意義を否定してゐる事を自覺しません。

現在の日本國政府が、「現行憲法を有效とする」と言つてゐるから「現行憲法は有效である」と考へる――それは極めて強固な考へに見えるかも知れません。しかし、日本國政府が「現行憲法を無效とする」と言つたら、途端に現行憲法は無效となります。

この時點で、現行憲法無效論は或意味、「實現可能」の根據を得てしまつてゐると言へます。これでは話が餘りにも簡單に行き過ぎます。

國民の承認説

そこで、「有效とする」と認める主體を、國家・政府ではなく、國民に持つて來るのが次の論者です。彼等は、現行憲法が「民主憲法」であるとする考へから、現行憲法の有效を承認した主體を國民であると規定します。

彼等は、國民に利益がある限り、その憲法は國民にとつて存在意義があり、有效である、と主張します。そして、國民に不利益になる形で憲法が變更されるのは許されない、と主張します。

この説を認める立場の人にとつて、現行憲法を單純に有效と認めるには、不都合な事があります。それは「國民が憲法を承認した證據がない」と云ふ事です。慥かに現行憲法の前文には、國民が撰擇した憲法である、と云ふ内容の記述が含まれてゐます。しかし、實際に現行憲法を國民が撰擇した事實はありません。現行憲法は、聯合國による占領下、G.H.Qの指導の下で作成されました。もつとはつきり言へば、米軍の人間が英文で作成した原案を飜譯したものです。

日本國が獨立を恢復した後も、憲法それ自體のみを問題にして、過半數なり何なりの民主的な基準に基いて、現行憲法を承認する國民投票なり何なりを行つた、と云ふ事實はありません。

さらに、現行憲法そのものも、昨今、改正論議が高まつてゐるのを見れば明かですが、それ自體として日本の現状に必ずしもマッチしてゐないと云ふ問題があります。單純に「現行憲法を支持する」と云ふ立場をとるのは難しいのです。

實質・内容としての「不文憲法」説

そこで彼等は、條文としての現行憲法ではなく、理念としての「實質上の憲法」の概念を持出します。不文の「憲法」なり内容としての「法」なりが、國民によつて承認されるべき對象であり、その承認は、法學的に、また憲政史の傳統に基いて、確立されたものである、と彼等は主張します。

抽象的で解り難い説ですが、これは完全な詭辯と言つて良いでせう。現實から遊離した説明の爲の説明であるのみならず、法學とか憲政史とかの權威を持出した威壓にほかならないからです。

それに、その「不文の憲法」こそが承認の對象であるべきである、と言ふのならば、當然の事ながら、條文としての現行憲法は承認の對象ではなく、有效性が無い、と言はざるを得ない事になつてしまひます。この時點で、やはり現行憲法無效論は決定的に否定され得ない、と云ふ事になつてしまふのですが、やはりこれも話が簡單に過ぎます。

憲法の存在價値を認める立場

「内容が良いから有效」式の内容主義では、形式としての成文憲法の存在意義が否定されてしまひます。結果として、「現行憲法も大日本帝國憲法も、とにかく具體的に形のある憲法は、存在意義がない」と云ふ主張に陷つてしまひます。が、それは日本に於ては、理念的に過ぎ、寧ろ非現實的であると言つて良いでせう。

現行憲法無效論は、成文憲法が「ある」事實を認め、成文憲法の存在價値を認めます。さう云ふ現實主義の下、成文憲法の存在價値を否定しない論を展開する爲に、形式主義の立場に據ります。と言ふより、形式主義の立場を前提に、「書かれた條文」と云ふ形式としての成文憲法が日本では要請されてをり、事實として成文憲法を日本が採用してゐる、と云ふ事を前提に、論理を構築します。

現行憲法無效論は、書かれた條文としての憲法の存在を前提とします。書かれた條文としての憲法の權威を守る、と云ふ事を最大の大義名分とします。條文を改正する手續きの正當性と、條文の本質的な部分における連續性・正統性を重視します。

そして、連續性の觀點から、過去においても憲法の連續に斷絶があつてはならない、と考へます。この時點で、現行憲法無效論は、即座に、現行憲法に先行する大日本帝國憲法の形式的な有效の主張となります。連續性の觀點を採用する際、共時的な發想ではなく、必然的に通時的な物の見方が必要となり、歴史的に先行する大日本帝國憲法に「優先權」がある事を認めざるを得なくなります。

ここで一言、註釋を附しておくのですが、現行憲法無效論は、單純に対日本帝國憲法を復活させ、封建的・軍國主義的な體制を日本で再興しようと考へてゐるのではありません。形式主義と言つても、「形式は内容を保證する爲に存在するものである」と云ふ考へ方を、現行憲法無效論ではとります。單に「過去に固執する」と云ふ考へ方を取りません。

そして、保證されるべき内容は、確かに戰前と戰後とでは變化してゐる、と認めます。現實に民主主義を採用してゐる現在の日本に於いて保證されるべき内容は民主的な内容である、と考へます。その民主的な内容を保證する爲の形式として、形式的に妥當な成文憲法を必要とする、と考へます。

現行憲法無效論は、即、大日本帝國憲法の形式的有效を主張する論ですが、さらに、要請される民主的な内容を反映して大日本帝國憲法を改正した「改正大日本帝國憲法」の必要がある、と云ふ論を、論理の必然的な結論として引出します。

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