公開
2001-06-24

「日本國憲法」を論ずる前に──憲法よりも「憲法の精神」が大事とされる事について

「日本國憲法」について論ずる時、忘れてならない事がある。日本では傳統的に、憲法の條文自體が輕んじられる、と云ふ事である。

日本では、憲法解釋が極めて重大な意味を持つ。「平和主義」を標榜し、戰力の抛棄をうたつた「日本國憲法」の下で日本が自衞隊を保持してゐる事は、「憲法解釋」の重要性を象徴的に表はす事實である。

「憲法解釋」の妥當性が、極めて恣意的に定められてゐるのが、日本の現状と言へる。その根本的な理由は、保守派も革新も無定見である、と云ふところにある。

「日本國憲法」制定當時、革新政黨が「戰力の不保持」を攻撃し、自民黨の吉田首相が平和主義を強調した、と云ふ「歴史的事實」がある。しかるに、今、社会党は絶對平和主義であり、自民黨は「自衞隊」を「合憲」としてゐる。

保革の戰爭觀が逆轉してゐる「ねぢれ現象」がこの半世紀の間に出來した譯だが、にもかかはらず保革共に「日本國憲法」の「精神」は依然、大事であるらしい。要は、標榜するイデオロギーが保守であらうが革新であらうが、都合良く利用出來るのが「日本國憲法」なのである。

實際のところ、「憲法の精神」なるものが、一體どこから出てきてゐるものなのか、は、さつぱりわからない。有名な第9條戰爭の抛棄、戰力の不保持、交戰權の非認における戰力は、「自衞のための戰力は含まれない」と云ふ「憲法解釋」によつて事實上骨拔きにされてゐる。にもかかはらず「戰爭抛棄」は「日本國憲法」の三大精神の一つである。

日本の「憲法學」には、「良くわかつてゐる人間」の間でしか通用しない「符牒」もどきの用語が極めて多い。「自衞力を含まない戰力」なるものが「戰力」であるのは、「憲法學」でのみ通用する「符牒」である。そして、この手の「符牒」が、故意にか過失に據つてなのかは知らないが、一般的な用語と屡々混同される。「自衞力を含まない戰力」を持たない事が「戰力の不保持」と云ふ言ひ方の背後に「隱れて」ゐるにもかかはらず、依然「日本國憲法」の三大精神の一つは「平和主義」なのである。

實質と、憲法の條文が、かけ離れてゐるにもかかはらず、條文に「隱れた意味」を存在させる事で、兩者の乖離を糊塗してゐるのが、日本の「憲法學」である。

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