初出
「闇黒日記」平成二十一年十二月十三日
公開
2010-02-28

小山常実『歴史教科書が隠してきたもの』(展転社)より


戦後の歴史学は、自由民権運動が憲法と国会を要求し、その要求を抑えられなくなって明治政府が憲法と国会をつくったとしてきた、そして、専制政治を行い国権の伸長を狙う明治政府に対して、自由と民主主義を求める民権派という対立構造の図式を描いてきた。歴史教科書は、長い間、この図式をもとに記述を行ってきた。

だが、今日の歴史学では、この図式は崩れてしまった。明治政府も民権派も、共に幕末の公議輿論を重視したグループの系譜に位置しており、憲法と国会を生み出していったと考えられるようになった。事実、明治政府も民権派も、ともに国会開設と憲法制定を目指していた。しかも、研究が進むにつれ、民権派の方がかえって同時に国権派であることが明らかになっていった。また、明治政府が考えた憲法草案も、民権派が考えた憲法草案も、共に立憲君主制であるという点では共通するものであることも明らかになってきた。

ところが、歴史教科書は、相変わらず、自由民権運動に迫られて明治政府が国会と憲法をつくったという図式を描いている。日本書籍新社、東京書籍、帝国書院、日本文教出版、大阪書籍の五社がそうである。例えば、東京書籍は、「政府を去った板垣退助らは、これを専制政治であるとして批判し、国民が政治に参加できる道を開くべきだと主張して、1874(明治7)年1月、民選議院設立の建白書を左院に提出しました」(150頁)と、国会と憲法を作成する動きは民権派から始まったとしている。そして、「高まる民権運動」の小見出しの下、国会と憲法を求める自由民権運動が高まったから、仕方なく明治政府は国会開設を約束したと記す。


しかし、それにしても、いまだに民権派と政府を対立的に描く教科書が多数派であることには驚かされる。


明治憲法は、立憲君主制の憲法であり、国体と政体との二元構造から成っていた。国体は日本の政治伝統を現した不変のものであり、万世一系の天皇による国家の統治ということが定められていた。これに対して、政体は、時代と共に変化していくものとされ、西洋の立憲主義思想を取り入れたものである。政体上も、国家統治の権限は統治権の総攬者である天皇の権限とされたが天皇が三権を行使するにあたっては、法律の制定は国民代表の意思が反映された議会の協賛(承認)によること、行政は国務大臣の輔弼によること、司法は裁判所が行うこととされていた。

ただし、戦前期においては、日本の伝統に基づく国体上、天皇を政治に巻き込んではならない、政治利用してならないという規範が存在した。明治憲法も、第三条で「天皇ハ神聖ニシテオカスヘカラス」と規定して天皇の政治的無答責を定めるとともに第五十五条で大臣責任を定めた。明治憲法下の天皇も、伝統にしたがって、基本的に政治的権威の役割を果たし続けたのである。

しかし、戦後の憲法学も歴史学も、国体と政体との二元構造について記そうとしない。いや、そもそも、国体という言葉をタブーにしてしまった。従って、歴史教科書も、国体というものを隠してしまった。そして現行教科書は、平成九年度版まで使われていた三権分立または権力分立という言葉を用いようとしない。この言葉は、戦前憲法学の教科書には必ず載っていたものである。何ともおかしなことである。

しかも、多くの教科書は、天皇を権威的な存在としてではなく、自ら権力を行使する絶対君主的な権力的な存在として描いている。日本書籍新社、東京書籍、大阪書籍、教育出版、帝国書院、日本文教出版の六社がそうである。例えば、日本文教出版は、「この憲法では、天皇は神聖で犯すことのできない存在で、主権は天皇にあり、軍隊を動かしたり、外国と条約を結んだりする権限も天皇にあった。国民の権利は法律で制限できるものとされ、議会の権限も弱かった」(128頁)として、天皇を主権者と位置づけている。他には、帝国書院と大阪書籍も、天皇主権説の立場を表明している。

しかし、戦前憲法学においては、天皇主権説は少数説であり、天皇機関説が多数説であった。それゆえ、「主権は天皇にあり」といった表現は適当とは言えない。明治憲法第四条の規定に従って、統治権の総攬者とでも記すのが適当だろう。


とはいえ、相変わらず、明治憲法下の権利について否定的に紹介するのが三社も存在する。例えば日本書籍新社は、「国民の自由や権利は制限つきでしか認めなかった」(154頁)としている。江戸時代には権利というものが存在しなかったわけだから、憲法で権利が認められただけでも評価すべきものであろう。また、当時も現在も、現実には無制限に権利が認められるわけではなく、法律によって制限されている。もっと肯定的に記すべきだろう。

しかし、明治憲法に関する記述で最も違和感を感じるのが、教科書の日本に対する冷笑的な態度である。例えば、帝国書院は、小コラム「お雇い外国人ベルツの日記」の中で、「憲法発布をひかえてその準備のため、言語に絶したさわぎを演じている。いたるところ、奉祝門、照明、行列の計画。だが、こっけいなことには、だれも憲法の内容をご存知ないのだ」(166頁)と、ベルツの言葉を引き、憲法制定について揶揄している。他には、日本書籍新社と清水書院も、ほぼ同文を引用している。

さらに冷笑主義が現れているのが、衆議院議員の選挙権に関する記述である。例えば東京書籍は、「衆議院議員の選挙権があたえられたのは、国税を多く納める満25歳以上の男子だけで、総人口の1.1%(約45万人)にすぎませんでした」(153頁)と、選挙権者が少数にすぎないと強調している。だ

だが、これは、公平な書き方とはいえない。一八九〇(明治二十三)年前後の世界を見ると、英国の場合は七百年、米国の場合でも百年以上の立憲制度の歴史を誇っていた。だが、どの国もまだ制限選挙の制度をとっていた。日本の場合は、帝国議会を開設してからわずか三十五年後の大正十四(一九二五)年には普通選挙制度をとっている。英国の普通選挙は一九一八年であるから、同時代のことである。右のような否定的な紹介は明らかにおかしいのである。


「日本国憲法」は、GHQが作成した原案を基にして、GHQによる議会審議の統制下で、占領期に成立した。当時は、国際法的に問題の多い東京裁判が同時進行しており、GHQによる検閲が行われており、特に憲法問題については言論の自由が存在しなかった。それゆえ、「日本国憲法」の成立をめぐっては、ハーグ条約違反を初めとした法上の問題がある。

しかし、全社は、最も重要な議会審議がGHQによって統制されていた事実を隠してしまう。そればかりか、政府原案作成過程の記述さえもおかしくなっている。

教育出版などの五社は、GHQによる憲法改正の指示を記しはするが、いろいろ歴史偽造ともいえる操作をする。例えば帝国書院は、「総司令部は、みずからつくった草案を日本政府に示し、修正をうながしました。新しい政府原案は、議会の審議をへて……」(221頁)とする。これでは、「日本国憲法」の原案がGHQ案かどうかさえも分からなくなるし、日本政府が自主的に政府原案を作ったと読めてしまうことになろう。

また、教育出版は「連合国軍総司令部は日本政府に対し、憲法の改正を指示しましたが、(1)(番号は引用者、以下同じ)政府の改正案は大日本帝国憲法の一部を修正しただけのものでした。そこで連合国軍総司令部は、(2)民間の憲法研究会案などを参考にした草案をつくって政府に示し、政府はこれをもとに新しい改正案を作成しました」(181頁)としている。

(1)は、とんでもない虚偽である。政府の改正案とは、いわゆる松本乙案を指している。だが、松本乙案は、明治憲法の全七十六ケ条のうち、四十六ケ条を修正ないし削除しており、一部修正などではなく大修正案だったのである。(2)も、とんでもない虚偽である。GHQは、基本的に、日本の文献は参考にせず、英国や米国、ソ連を中心にした憲法を参考にしてGHQ案を作成した。実は、憲法研究会の中心人物である鈴木安蔵は、GHQ関係者と接触をもち、国体批判の考え方を吹き込まれて憲法研究会案を作成したのである。

さらに指摘しておかなければならないのは、鈴木安蔵が当時の日本の中では著しく珍しいマルクス主義憲法学者であったことである。ことさらに憲法研究会案を強調するところに、教科書執筆者のマルクス主義かぶれ、共産主義信仰が見て取れよう。

これに対して、大阪書籍だけは、「総司令部は……日本政府に憲法の改正を命じました。日本政府は、総司令部が作成した草案をもとに、改正案をまとめあげました。……政府は憲法改正案を提出し、4か月にわたる国会での審議をへて可決されました。」(214頁)と記している。GHQ案を押し付けたとは書いていないが、GHQが政府案作成過程を主導したことが、きちんと記されている。ただし、議会審議をGHQが統制していた、という一番重要な事実が隠されているのは、他社と同じである。


自虐史観に基づく歴史歪曲を正そうとしてつくられてきた『新しい歴史教科書』も、他社と同じく、おかしな「日本国憲法」成立過程を描いている。

「GHQは……わずか約一週間でみずから作成した憲法草案を日本政府に示して、憲法の根本的な改正を強くせまった

政府はGHQが示した憲法草案の内容に衝撃を受けたが、それを拒否した場合には、天皇の地位が存続できなくなるおそれがあることなどを考え、これを受け入れた。GHQの草案にもとづいて政府は憲法案をつくり、帝国議会の審議をへて、1946年11月3日、日本国憲法が公布された」(213頁)

右引用に嘘があるわけではない。しかし、GHQ案の提示を押し付けとはせず、GHQ案の受入を結局は合理化してしまっている。また、他社と同じく、議会審議の統制を書かないのである。これでは、大阪書籍以外の六社と同じく、デタラメだった「日本国憲法」成立過程を合理化していることになろう。


さらに、「日本国憲法」といえば、その成立過程のいかがわしさがある。「日本国憲法」起草にGHQが関わったことの記述を禁止した検閲指針(三)は、戦後長らく日本人を縛り続けてきた。かつて、歴史教科書は、この検閲指針どおりに、GHQ案の存在を隠していた。さすがに、五十三〜五十五年度版以降、多数の教科書がGHQ案を取り上げるようになるが、すると今度は、松本乙案が明治憲法を微修正したものに過ぎなかったから、GHQ案が提示されたのだとするようになる。このことによって、GHQ案提示という、やってはいけなかったGHQの行為を合理化していくことになるのである。

しかし、このような小細工をしても、「日本国憲法」成立過程のいかがわしさは残ってしまう。そこで、教科書は一斉に、明治憲法の評価を一層貶めていった。明治憲法の三権分立について触れる教科書は皆無となるし、ことさらに、国民は発布時に明治憲法の内容を知らなかったと記すようになる。こうして、歴史教科書は、「日本国憲法」の成立を合理化するために、明治憲法に対するイメージを悪化させていったのである。

明治憲法のイメージを悪くすれば、<悪い内容の明治憲法を変えるためには、少々でたらめな方法で日本国憲法をつくってもしょうがなかったのだ。明治憲法もあまり良いつくられ方はしていないではないか>という論理も使うことができるようになる。それゆえ、「日本国憲法」の成立過程のいかがわしさこそが、明治憲法に対する不当な低評価を生み出し、ひいては明治憲法体制全体への理解を歪曲することになるのである。

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