公開
2007-07-21
改訂
2010-08-22

青山武憲『憲法講義』

青山武憲『憲法講義』(八千代出版)は、法學部學生向けの教科書だが、憲法の概念、近代憲法の原理を説明し、日本憲法概史を述べた後、わざわざ一章を設けて、大日本帝國憲法と日本国憲法との關係について論じてゐる。

憲法講義
青山武憲
1995年11月20日第1版1刷発行
1996年11月20日第1版2刷発行
八千代出版

筆者・青山氏は、「日本国憲法の有効性」と云ふ節を設けて、以下のやうな奇妙な論理を展開してゐる。

日本国憲法は、形式的には、大日本帝国憲法の改正であるが、実質的には、新しい憲法の制定であって、大日本帝国憲法を基準として見る限り、その無効論は正しい。しかし、これを逆に、日本国憲法を有効なものとし、この憲法を基準として見る場合、これと大日本帝国憲法とは相入れないから、大日本帝国憲法期の憲法現象は、日本国憲法98条の適用を受けないものについては、単なる法的な史的事実に止まることになるわけである。

青山氏は、Wikipediaによれば「タカ派」らしいのだが、にもかかはらず、「日本国憲法」は「有効である」と法学者・法律の專門家は考へなければならない、と強調してゐる。

以下、やや長いが、『憲法講義』の第4章第2節から引用する。日本の「法律の專門家」諸氏は、以下の「論理」を、全く疑ふ事なく、心の底から信じてゐよう。こんな奇妙な「論理」はないのだが、彼等にとつてこれは大變立派な「論理」であり、これを疑ふ人間は愚か者にしか見えない。

日本国憲法は、大日本帝国憲法の改正権の限界を超えているが、法的にはこの改正権の行為を審査する機関は、大日本帝国憲法には存在しなかった。

大日本帝国憲法では、法律の合憲性についても、これを実質的に審査する機関は存在しなかったのである。それゆえ、日本国憲法の有効性を審査できる法的な機関が存在しなかった以上、これを有効とするよりほかにない。もとより法哲学的あるいは政治学的には、この場合にも、日本国憲法無効論を唱えることは、可能である。

一体、法の正しい有り様としては、あるいは実定法に上位する高次の法を想定する限り、憲法の被占領状態における改正など認められるべきことではない。現に実定法である国際法も、占領軍に対して被占領国の憲法を変更させる権限など認めてはいないのである。しかし、その否定されるべき行為を無効とし得るのは、その行為を無効とし得る機関だけであって、そのような機関が存在しない以上、無効論は、法哲学ないし政治学の理論に過ぎなくなる。国家行為の合憲性審査権を有する司法裁判所は、そのような機関として適当でない。司法裁判所は、立法の合憲性の審査に際してさえ、高度の政治性を持った国家行為の審査には馴染まないのである。大日本帝国憲法の改正の限界の法的問題あるいは当・不当の主張は、政治的には可能であったが、占領軍あるいはその圧力による行為を法的に争う術はなかったし、そのような機関は、日本国憲法上も存在しない。

要するに、いかなる憲法の場合もそうであるが、憲法制定や憲法改正に不当なものがある場合に、形式的・実質的に憲法の制定権あるいは改正権そのものが違憲のものであっても、これを解決する法的な手段は今日存在しないから、それは有効なものとして運用されるよりほかにない。その憲法を存置するか否かは、政治の問題であって、この分野に関する限り、「力」が憲法の存立を決定することは、憲法の悲しい宿命である。仮に将来、日本国憲法を無効として大日本帝国憲法へと復古することがあったとしても、それもまた法の問題ではなく、時の政治の事情の力の問題でしかない。

氏によれば、司法の領域には憲法の有效性を審議する機關が存在しないから、憲法の有效性を司法は定める事が根本的に出來ない。立法府が「正しい」と言つた法ならば、それを默つて受容れて、その運營と維持に勤しむのが司法の使命である。政治が「正しい」と認めてゐる限り、その憲法は有效である。政治が「有效」と定めてゐる憲法に對して、法律家は反論する事が決して許されない。

部外者の目には大變奇怪な「論理」だが、これを奇怪だと思ふ法學部の學生はゐない。もちろん、法學部を出た法律の專門家も、そんな感想は抱かない。なぜなら、現在の法學部は官僚の養成所であり、官僚は唯々諾々として現行體制の運營と維持を行ふのが使命だからである。そして、彼等官僚(とその豫備軍)は、現行體制を批判する素人がゐれば、自らの法律知識を持出し、彼等を威壓的に説得し、默らせようとする。素人の批判を、法律の專門家は決して許さない。

さうした彼等・法律家にとつて、哲學・思想としての現行憲法無效論は、決して觸れてはならぬ禁斷の學説として、教育の最初の段階で、徹底して否定的に教へ込まれる。法律の專門家にとつて、現在の「飯の種」である憲法・「日本国憲法」は、墨守されるべき聖典である。その「日本国憲法」を根本的に否定する無效論は、彼等にとつて重大なタブーである。

さうした訣で、各種憲法概論・憲法入門の類が常に採上げ、常に徹底した否定を行ふ「現行憲法無效論」だが、現在の憲法學者・法律專門家に支持者は殆ど存在しない。常に強大な敵のやうに日本の法學部學生に紹介される無效論は、現實の法學界には存在しないと言つて良い。

にもかかはらず、依然、無效論は、憲法の出自が檢討される際には何時も不氣味な顏を覗かせ、その度毎に現行憲法を墨守せんとする人々によつて叩かれ續けてゐる。其處までして叩かれ、潰され、否定されねばならぬ無效論とは一體何なのか。叩かれ、潰されても、何度でも無效論は採上げられる。採上げられては、何時ものやうに否定される。さうしてまでも、法律家逹は「日本国憲法」の有效性を立證せずにはゐられない。

一言で言へば、「日本国憲法」の出自は、大變に怪しいのである。それを飯の種にし、それによつて生きて行かねばならぬ日本の法律家逹は、だからこそ、聲を大にして、自らの「聖典」たる「日本国憲法」を「正しい」と叫び續けねばならないのだ。

さう云ふ彼等によつて哲學・思想と罵られ、專門家に馬鹿にされ、嘲笑され續ける現行憲法無效論。しかし、この繰返される嘲弄こそが、無效論の強さを逆に證してゐる。その「哲學」「思想」としての強靱さ、堅固な論理は、日本の法律家逹には何時までも無視出來ないものなのである。

しかし、我々素人は、彼等法律の專門家の言ふ事を、頭から「正しい」として受容れねばならぬのだらうか。

法律の專門家にとつて、現行憲法は疑ふ事の出來ない聖典である――なるほど、それは現實である。法律家は政治家の定めた法に逆らひ得ない。それはそれで仕方があるまい。しかし、そんな法律家逹の都合は、部外者には何うでも良い事だ。

法律の專門家の間で無意味である無效論も、專門外の素人にとつては意味のある哲學であり思想であり得る。我々素人にとつて、憲法は飯の種ではない。ただ、憲法によつて我々は權力側の横暴を阻止できるのである。憲法は、國民にとつて、自らの權利を守る爲の重要な武器である。司法が、実は國家體制の重要な一權力である事は、論ずるまでもない事實である。彼等にとつて都合の良い論理を、我々一般の國民が默つて受容れるべき理由はない。

法律の專門家も認めてゐる事だ。憲法の有效性を決めるのは政治である。我々素人が政治に關與出來るのが民主主義社會である。日本は民主主義國である。我々國民は、法律の專門家が自らに都合良く展開する「現行憲法有效論」に、默つて從ふ必要はない。

我々一般の日本國民にとつて、現行憲法無效論は檢討すべき重要な思想であり哲學である。


と言ふか、憲法學者の人が、法學者の存在意義のみならず、憲法そのものの存在する價値を否定する、と云ふのが、私には理解出來ない。個別の憲法ではなく、憲法の概念そのものの否定、と云ふ事。青山氏は、「日本国憲法」を「有效だ」と言ふだけの爲に、理窟を捏ねながら、そもそもの憲法の存在意義それ自體を否定してしまつてゐる。それでは何にもならない。

法の類が審査する機関によつてのみ審査され得ると言ふのなら、個人としての法學者の存在意義は全く存在しないのであり、青山氏の『憲法講義』なる本にも存在する意義などないと云ふ事になる。その邊の問題について、青山氏は何も考へず、ただひたすら「日本国憲法」を「有效と云ふ事」にするだけの爲に、場當り的な理窟を言つてゐる。

「力としての政治」による支配が憲法の支配よりも優先する、と青山氏は言ふ。だが、ならば、憲法それ自體の存在意義は全く無いと云ふ事になつてしまふ。「力としての政治」が憲法の「有效」とか「解釋」とかを決定して良い、と言ふのなら、憲法には何の效力もなく、「力としての政治」だけが「有效」である事は自明だからだ。

その時、我々は、「權力者」の意嚮を斟酌する技術だけを持つべきであり、憲法なんて無視して良い――と言ふより、憲法は無視しなければならない、と云ふ事になる。憲法よりも權力者の意嚮の方が「上」なら、權力者だけが「有效」で、憲法は紙切れに等しい。

だが、さう云ふ状況では「權力者の暴走」を防ぐ事など出來ない。憲法は、「權力者の暴走」を防ぐ爲に存在する筈だ。ならば、憲法にはそれ自體として權威が無ければならないし、その爲、憲法にはそれ自體の自律性が無ければならない。憲法はそれ自體として「守らなければならないもの」としてあるべきだ、と云ふ事。憲法は、權力者や「審査機關」や法學者のやうな外部の權威に依存して存在すべきでなく、それ自體として權威であるべきである。

だから、大日本帝國憲法から「日本国憲法」への「改正」の手續、そしてその「改正」の内容に、問題があるか何うかを檢討する事は必要である。もしそこに問題があるならば、「日本国憲法」は權威として成立たなくなるのであり、憲法は搖るがぬ權威として存在しなければならないから、權威として怪しい「日本国憲法」は「有效」としてはならない。或は、「改正」について重大な問題が認められる以上、その「改正は無效」と斷定しなければならない

客觀的に物事を見なければならない學者なら、かかる客觀的な事實は率直に受容れるべきであらう。ところが、青山氏その他の多くの憲法學者は、さうした客觀的なものの見方を否定し、主觀的な行動をとる事を「學者豫備軍」の人々に教唆してゐる。學者としての自殺行爲と言つて良からう。

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