公開
2007-09-09

渋谷秀樹『憲法への招待』(岩波新書)

『憲法への招待』
渋谷秀樹著
2001年11月20日 第1刷發行
2005年2月25日 第5刷發行
岩波書店・岩波新書・新赤版758

批判の要約

著者の渋谷氏が「八月革命説」を持出して展開する護憲論は以下のやうなものである。

これに對して、私(野嵜)は以下のやうに批判する。

私は、民主主義を守る爲には、「國民の民主主義への信頼」と云ふものの外部に基盤を置いた憲法が必要である、と考へる。その爲、渋谷氏の護憲論には贊同し得ない。

批判

大日本帝國憲法において、以下の規定があります。

これらの規定は日本國憲法において以下のやうに「改正」されてゐます。

ここで、注意深い讀者は、「改正」の内容に幾つかの異常なものがある事に氣附くでせう。

それは、規定として改正出來ないのにもかかはらず、何と「改正が實現してしまつてゐる」と云ふ事です。

呉智英氏が指摘してゐる事ですが、神聖にして侵すべからずとは、「神聖だから侵してはならない」の意ではなく「神聖だから侵す事が出來ない」の意です。「侵す事が出來ない」ものを敢て「人間」に「してしまふ」事は、どうやつたつて「出來ない」筈。ところが「出來てしまつてゐる」。こんな馬鹿な話はありません。


大日本帝國憲法は「天皇主權」で、それが日本國憲法では「國民主權」に變つた、屡々さう説明されます。そして、それは大變素晴らしい事であるとされます。

高橋直樹氏のやうに、この「國民主權」の規定がある事を以て、日本國憲法を「守らねばならない」と主張する人がゐます。しかし、この「規定がある」から何う斯うと云ふ主張は、理論的でなく、甚だ感情的なものだと言へます。

なぜなら、大變良い規定でも、その規定が守らなければ意味がないし、簡單に規定が廢止されても意味がないからです。ところが、規定がありさへすればそれは守られるものだし、規定が良いものならそれは何があつても絶對に廢止される事はない――そんな變な「迷信」が存在します。特に後者の「信仰」は、馬鹿馬鹿しいほどに異常な話ですが、何故か「護憲」の主張に繋がります。「絶對に廢止される事はない」のに、なぜか「廢止されてしまふ危險」の事を考へてしまふ――しかも、その「危險」を囘避する爲に、「護憲」論者は再び「廢止される事はない」と云ふ事を理由に持出して「廢止してはならない」と主張するのです。議論が堂々巡りしてゐるのですが、何故か「護憲」論者は氣附かない。少しでも頭を使へるのならば氣附きさうな循環論法ですが――最近の「ゆとり教育」は、殆どこの種の支離滅裂で頭の惡い「護憲」の爲の論法を守らんが爲に行はれたのではないかとすら思はれます。


私が適當な護憲の「理窟」をでつち上げてゐるのでないかと思はれる人もゐるでせう。けれども、本當にこんな事を、大眞面目に言ふ人がゐるのです。

立教大學大學院の教授・渋谷秀樹先生が、2001年に『憲法への招待』(岩波新書)なる本を出してゐますが、そこで渋谷先生は「国民主権を天皇主権に改正することができるか」と書いてゐます。この本のこの章は、途轍もなく馬鹿馬鹿しくて嗤はざるを得ない内容ですが、護憲派の人は全員納得すると思ひます。それほど護憲派の人は馬鹿なのですが、馬鹿には自分が馬鹿だと云ふ事が認識出來ません。

暇な人はこの本を買つて、讀んでみて、その馬鹿げた記述を、馬鹿げた記述だと自分が認識出來るかどうか、確かめて見て下さい。案外あなたも馬鹿の一人かも知れません。まあ、以下、殆ど轉載してしまつてゐるので、買はなくても大丈夫と言へば大丈夫ですが。


渋谷先生は斯う言つて「改正」の話を始めます。

日本国憲法は、明治憲法で定められた手続にのっとって改正され、天皇主権から国民主権に変更されました。となると、逆に、日本国憲法で定められた改正手続を踏めば、国民主権から天皇主権に戻すことも可能といえそうです。

ここで渋谷先生が言つてゐる事から、二つの事が讀取れます。

これらの事を、渋谷先生は全く疑つてゐない――その筈ですが、ところが直ぐに言ふ事が目茶苦茶になります。何なのだらうと思ふのですが、大體護憲派の人々は、この種の目茶苦茶を氣にしません。

渋谷先生は、實に當り前な話として、憲法には、改正出來る内容と、出來ない内容がある、と指摘するのです。

つまり、憲法に定められた規範については、個別的にその内容を検討してみると、根本的、中核的なものと、そうではないもの、つまり優劣あるいは上下の序列がある。したがって、改正手続によって改正できるものと、改正できないものがあるのです。憲法規範は、根本的な規範、改正手続の規範、普通の規範の三層に分かれて、この順に優劣関係にあります。二階建の建物にたとえると、根本的な規範は土台の部分で「不可侵かつ永久」だから変えられない。改正手続の規範は一階の部分、その他の規範は二階の部分で「改正可能」と考えればよいでしょう。

そして、渋谷先生はそれでは主權の所在を國民から天皇に変えるような憲法改正は許されるのでしょうかと問ひかけます。ごちやごちやと諄く話をしてゐますがその邊はすつ飛ばして結論を言ふと、渋谷先生は「主權の所在の規定は根本的な規範に當るから變へられない」と述べてゐます。

もちろんそれを言ふと、直ぐにぼろが出ます。「國民主權の規定は變へられない」と渋谷先生は言ひたい訣ですが、ところが天皇主權の規定を國民主權の規定に「改正」した前例が存在するのです。「主權の所在の變更は許されない」と云ふ大前提は崩れてゐます。當然の事ながら、「國民主權の所在の變更」は「許されない訣ではない」事に、論理的にはなるのです。

しかし、何とかして過去の事實としての「許されない主權の所在の變更」を許しつゝ、現在の主權の所在の變更を許さないようにしたい。そこで渋谷先生は、例によつて「八月革命説」を持出します。

ところがここで問題が生じます。日本国憲法は戦前の「大日本帝国憲法」の改正手続に従って「改正」されました。そしてこの改正によって、主権は、天皇の手から国民の手へと移されたことになります。しかしこのような改正は、これまでの議論からすると、おかしい。主権の所在は憲法の根本規範であり、それを改正規範によって改正するのは理論的には不可能なのに、現実にはそのような手続によりなされたことになるわけですから。 この難問について、戦後を代表する憲法学者、宮沢俊義は、現行憲法の制定を次のような論理を用いて説明しました。

主権の所在の変更というのは、前の憲法の根本規範を否定し、さらにその基礎にある憲法制定権力の持ち主を変えるわけですから、これは「革命」というべきことになる。日本は第二次世界大戦で連合国軍に敗北し、それを正式に認めたのが、「ポツダム宣言」(日本への降伏勧告)の受諾です、この宣言の中には、日本国民の自由意思による民主的平和的政治形態の樹立、つまり国民主権の原理の確立が含まれていました。当時の主権者である天皇の意思で、国民主権の原理の確立を受け入れたのですから、この時点において「革命」があったと見るのです。諾です、この宣言の中には、日本国民の自由意思による民主的平和的政治形態の樹立、つまり国民主権の原理の確立が含まれていました。当時の主権者である天皇の意思で、国民主権の原理の確立を受け入れたのですから、この時点において「革命」があったと見るのです。

このような見方は、「八月革命説」と呼ばれ、現行憲法の成立の有効性についての現在最も有力な説明方法です。

「八月革命説」とは、根本規定たる主權の所在の規定が「改正」された事を説明する爲の「理論」で、そこでは、事實として革命はなかつたにしても「革命」と呼ぶ事が出來る――と云ふ宮澤俊義の説です。もちろん、改憲派からは多くの批判が出てゐます。しかし、護憲派にはこの「理論」がとても素晴らしい理論に見えてしまひます。

このような見方は、「八月革命説」と呼ばれ、現行憲法の成立の有効性についての現在最も有力な説明方法です。

渋谷先生も護憲派ですから、當然のやうに自分に都合の良い説明は「有力」と評價します。

そして、歴史上の事實として存在するポツダム宣言を持出して、その規定から「改正」とされる事の「本當の意味」を説明しようとします。これはただの解釋に過ぎないのですが、斯うした解釋は通用するし、この種の解釋を押通す事こそ法學者の使命であると本氣で信じてゐるから、今の法律屋は何うしやうもありませんが、しかし渋谷先生は本氣です。

渋谷先生が、と言ふより宮澤が、現行憲法を擁護するだけの目的ででつち上げた解釋――それは、形式としては「改正」だが、實質は「革命」である、と看做すと云ふものです。

ポツダム宣言を受諾した段階で、明治憲法の諸規定のうち、ポツダム宣言に含まれている国民主権の原理や人権の尊重などに矛盾・抵触する部分については実質的に効力を失ってしまったけれども、ただ、政治的な連続性を外見上保つためだけに、明治憲法の改正手続が流用されたと解するわけです。明治憲法の廃止がポツダム宣言の受諾とともになされ、まったく新しい原理に基づいて、現行憲法が新たに制定されたと見ます。敗戦から現行憲法の施行まで一年八力月足らずの空白期間があるわけですが、この間は、審議の方法やその他の手続などは、明治憲法が定めるルールを形だけ便宜的に借用したということです。

このような説明方法に対しては、空白の一年八カ月の間にそのような了解が日本に現実には存在しなかつたのではないかとか、他国の占領下では国政の最高決定権としての主権そのものが存在しないのではないか、といった問題点が指摘されています。

詭辯としては實に見事で立派です。そして戰後半世紀も通用してしまつたのだから、まあ、一般論としては「優秀」な學説です。が、こんな詭辯が通用するやうでは困ります。今の憲法學の世界では、この種の詭辯が常套手段と化してをり、まともな議論が全く出來ない状況になつてゐるのですが、それを法學者は全員「當り前」だと心から信じてをり、一人として疑ひませんし、疑つたら自分逹の仕事が無くなるから師匠は弟子に「疑ふな」と教へてゐます。

しかし、常識に基いたまともな議論が出來ず、專門家の間でのみ通用する詭辯が罷り通る――と言ふより、單なる「巧い言ひ方」で話をして皆が納得した氣になつてゐる状況、それは異常な状況だと言はざるを得ません。けれども、法學者の一人である渋谷先生は、當然のやうに異常な状況を異常と認識出來ず、詭辯を詭辯と考へる事が出來ません。

しかし、八月革命説のすぐれている点は、憲法制定権力の所在の変更に、「事実の世界」のことばである「革命」という名称を付して表現したところにあります。憲法制定権力は、「ルールの世界」を超えた「事実の世界」にあるものですから、日本の場合、アジア太平洋戦争の敗北という「事実」によって、この権力は天皇の手から離れ、戦勝者としての連合国軍の手に、そしてさらに連合国軍の手によって日本国民に与えられた。あたかも大地震が発生した時点で、建物が基礎から倒壊してしまったのと同じように、敗戦の時点で、明治憲法のよって立つ基盤、天皇主権の原理は根底から覆っていたわけです。ところが、改正のための手続規範については、女性に参政権を付与するなど、それに応急的な補修を施し、またその制度装置である帝国議会で闊達な議論などをして、新たな国政の基盤づくりを行ったのです。

馬鹿馬鹿しい話で、「巧い事を言つた」らそれが「學説」として成立つた事になるのださうです。昔、「あまりにも巧い表現ならば、それは眞實なのです」等と言つて、私に對する誹謗中傷を自畫自讚した人がゐましたけれども、變な考へ方だと思はないのは斯う云ふ異常な「學説」が學説として通用する異常な風土が日本にあるからなのでせうねえ。

しかし渋谷先生、やはり「表現」として「巧い」とだけ言へば誰もが納得するだらうとは、實は御自身でも信じられないらしいやうです。だから女性の參政權の事等を持出して、ひたすら「結果としては良かつた」と云ふ印象を讀者に與へようとします。

渋谷先生の主張は、要は「改正は結果として良かつたのだから良かつたのだ」と云ふものです。「結果が良かつたから守るべきなのだ」と云ふ「べき」論に話を摩り替へてゐます。事實と價値判斷とが交錯する出たら目な議論なのですが、しかし、斯うした「脅迫」じみた「議論」の仕方は、例の原爆反對の議論でもしよつちゆう使はれたものですし、左翼が愛用するものです。「憲法が改正されて今より惡くなつても良いのか」と云ふ護憲派の言ひ方は、「原爆が使はれて死んでも良いのか」と云ふ原水爆禁止派の言ひ方と全く同じです。これは目茶苦茶な議論の仕方ですが、極めて多くの人が「當り前の論法」と心から信じてゐます。

渋谷先生はどう正統化できるかと問ひかけます。「正當化」ではなく「正統化」と言つてゐます。これらの言葉が全く異る意味を持つ事は、常識的に解りますね。ならば、以下の文章を讀んで、讀者の方々はどのやうに思ひますか。

占領期に日本国憲法が制定されたことへの批判はいまだに根強いものがあります。国の最高法である憲法はその国民が決定しなければならないのに、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の事実上の指導の下で、いわば「押しつけ」られて制定されたのであるから、「憲法の自律性」に問題点があるという批判です。これは憲法制定時には憲法制定権力が国民には存在しなかったという問題点を突くものです。ここでは憲法の正統性の究極的な根拠はどこにあるか、という根源的な問題まで考える必要があるようです。

結論的に言うと、憲法の正統性の基盤は、一つには、憲法の内容的な正しさ、つまり普遍的な正義や理念を規定しているということ、二つには、その国の構成員が支持していることにあると考えられます。

「正統」と「正當」は違ふと解つてゐる讀者の方ならば、このとんでもない詭辯が詭辯と御理解になれますね。「押しつけ」憲法の問題について言はれる問題は「正統」の問題であり、後者の「正しい・正しくない」の問題は「正當」の問題です。兩者は全く異る次元の問題です。

ところが渋谷先生は「正統」も「正當」も同じ「せいとう」だからと言つて區別しません。そして、「正當」と云ふ語が持つ意味を、「正統」の方にも適用して、「正統性の問題」を「正當性の問題」に話を摩り替へ、そこを出發點に話を始めます。

「個人の尊厳」という普遍的な正義を中核にすえて、そこから出発すると、現行憲法も採用している国民主権の原理に到達するはずです。なぜなら、個々人の生き方、考え方を尊重することが一番大切であるといいながら、その個人の生活に最も大きな影響を及ぼす国政のあり方について、その人の考え方をみずからの行動で反映させる権利を認めないとするのは背理となるからです。

自由権のみならず社会権も盛り込んだ人権規定、議院内閣制、違憲審査制など、主権の所在以外の点においても、日本国憲法は、当時の憲法に要求される世界水準を十分に満たし、むしろ凌ぐといってもよいものです。内容において、普遍的な正義を体現している憲法であることに間違いはないでしょう。 では、国民の支持の面についてはどうでしょうか。憲法改正が審議された帝国議会は、女性にも参政権を認めた初の選挙で選ばれた議員で構成されていて、国民各層の意思を代表していたといえます。そして現行憲法はそのような議会における自由で闘達な審議と採決を経て可決・成立し、同時に国民の圧倒的支持も受けたという事実を再確認することこそ重要です。

このように考えていくと、「押しつけ」憲法という批判は、その正統性を否定し去るほど重大なものとはいえません。八月革命説も、現行憲法の正統性をめぐる問題について、法技術的な観点から事後的に説明する洗練された方法と考えることができます。

渋谷先生はくどくど説明してゐますが、「結果として日本国憲法は良いものなのだから、成立過程は氣にするな」「成立過程がどうであれ、結果として日本国憲法は良いものだから守らなければならない」と、さう言つてゐるに過ぎません。大袈裟に「八月革命説」なんて言つてゐますが、要は「良いものだと思ふだらう? なら守れ、守らないと非道い事になるぞ」と脅してゐるのです。

「良いものだから良いぢやないか」式の「論法」は、詭辯以外の何物でもありませんが、日本人は大好きですね、「結果さへ良ければ良い」。しかし、それなら憲法なんて要らない、結果として人權が守られ、國民が幸福に生きられればそれで良い、と云ふ話になる筈ですが、なぜか「形としての憲法」を守りたがる。目茶苦茶です。

以上のことからすると、国民主権の原理は、憲法の根本規範だから、憲法内部の論理では変更不可能と言うことができ、その改正手続によって国民主権を戦前の天皇主権に変えることもできないという結論になります。

「成立過程を考へさへしなければ、今の憲法は良いものだから良い。そして、それは根本規範だから最早變へられない」と、渋谷先生はさう言ふのです。價値判斷と形式主義とが入交じつた出たら目な主張ですが、渋谷先生はこの出たら目が出たら目と認識出來ません。多分、とても頭が良いから理解出來てしまふのでせう。

しかし、馬鹿にも理解出來る「憲法議論」の方が良いと思ひますね。國民の頭のレヴェルを、護憲派の專門家逹は餘りにも高く評價し過ぎです。しかし、專門家と云ふ頭のよろしい人種にしか理解出來ない憲法なんて、どうして民主的と言へるのでせうか。もちろん、頭の良い連中には、馬鹿の常識的な主張等、何の價値も見出せないでせう。今の今まで、「八月革命説」が通用してきた所以です。

さて、詭辯は詭辯ですから、渋谷先生、やはり後ろめたいのです。「革命」には「反革命」が附き物、さう云ふ事も良く御承知です。だから豫め可能性の話も可能性レヴェルで潰しておかうとするのです。渋谷先生がしつこく「内容」的な「正しさ」の話をするのも、「今の民主主義の社會を、戰前の暗い嫌な社會に戻したくはないでせう」と、讀者を脅迫するのが目的です。

もっとも、現実問題としては、「ルールの世界」の外にある憲法制定権力が再び行使されて、天皇主権への改正、つまり「革命」が起こる可能性は皆無ではありません。しかし、国民主権は国家を構成する個々人が、国政の最高決定権をもつという原理であり、「個人の尊厳」という現在の人類社会における普遍的な正義から導き出されるものだから、このような革命は、内容的に正統性をもたないものと評価するほかないでしょう。

要は、今の國民は、自分逹が持つてゐる主權を手放したくない、だから自分逹が主權を失ふやうな革命は受容れませんよ、と、さう渋谷先生は言つてゐるに過ぎません。それはそれで成程と言はざるを得ませんし、實は現行憲法否定論者の私も國民の權利を奪ひたい訣ではないのです。ただ、渋谷先生が「正統性」と云ふ語を用ゐて讀者を欺してゐるのを許せない――と言ふより、この種の欺瞞的な論法で現行憲法の條文を守らうとしてゐる護憲派のやり口を許せないのです。


護憲派が「八月革命説」を信奉し、現行憲法の條文を守らうとしてゐる事を、私は大變愚かしいと思つてゐます。けれども、さう言ふと、私が大日本帝國憲法の末期に出現した國粹主義を復活させ、國民を最惡の状況に追込まうとしてゐる、と極附けるのです。彼等は、形式としての憲法の條文と、價値である民主主義とを混同し、前者を守る事が後者を守る事だと心から信じてゐます。その一方で、なぜ憲法の條文を守るべきかと問はれた時、民主主義を守るべきだからだと平氣で言ふのです。循環論法ですが、さうした循環論法の馬鹿馬鹿しさが彼等には認識出來ない。

かうした愚劣な論法が通用し、馬鹿な論者が袋叩きにも遭はないでゐるのは、ただ、「民主主義を守れ」と云ふスローガンが、取敢ず有效に働いてゐるからに過ぎません。自分逹が民主主義の騎士であるかのやうに振舞つてゐるから、護憲派は永い事、安泰な地位にあつたのです。彼等に反對する連中は、ただ、「逆コース」「反動」と極附けて、罵倒し、侮辱を加へてゐれば、それで世の中、通用した。それで護憲派は好い氣になつて來たのです。けれども、「逆コース」「反動」と極附けられた現行憲法否定論者が、皆が皆、國民を壓迫し、恐怖政治を布かうと考へてゐるとは言へません。話は正反對で、殆どの論者が、現在の民主主義と自由の國・日本を守る爲に、邪魔な現行憲法を改めたい、即ち、民主主義と自由主義を守りたい、と考へて、それで現行憲法の改正を主張して來たのです。

けれども、最近は、世の中も右傾化して、結構本格的に危險な思想の人も出現するやうになつて來ました。維新政党新風なんかは、あれでもまだまともな方で、もつと極端な右翼も少くありません。もちろん、新風が議席を取れないでゐる(2007年現在)やうに、極右の連中の勢力もまた現状では極端に少いと言へます。けれども、これが何時、何んなきつかけで巨大勢力に成長するか、判つたものではありません。その時、今の渋谷先生の「内容さへ良ければ」「支持する人がゐさへすれば」式の主張で、憲法は守れませんし、憲法が守る民主主義も守られません。當り前の話です。

だから「現状維持」を目的に、洗腦的な憲法教育が行はれ、脅迫的な護憲論が主張される訣です。けれども、それでは今の憲法は、嘗ての天皇と同じになつてしまふではありませんか。現在の「憲法の護持」と戰時中の「國體の護持」、これらが全く同じものになつてしまふ。ただ「言葉が違ふ」からと言つて安心してゐるのが護憲派ですが、實質的に昔の天皇も今の憲法も、何かをする際に行爲を正當化する爲の御題目と化してしまつてゐます。嘗て天皇の存在意義が喪はれたやうに、今の憲法の存在意義も喪はれてゐると言つてしまつて良いでせう。

憲法が、實質で支持される事で效力を持つのでなく、形式的に「守らねばならない」と云ふ事で效力を持つとなれば、實質を支へる國民感情がふらついても、守られるものは守られます。大事なのは先づ法意識であり、法を守らねばならないと云ふ意識が定着してゐればこそ、良い法が存在意義を持つのです。ところが今の護憲論では、憲法は大變な苦勞をして、詭辯を弄して守らなければ、守れない。しかし、詭辯の上に立つものなんて、何うしてまともに信じられませう。

今の憲法は、兔に角出自が怪しいのです。そして、出自が怪しいのに、「良いものだ」と教へられて、それで國民は「支持」してゐます。けれども、これでは、國民は憲法を「怪しい物」としか見られません。ただ、自分逹に都合が良いから支持する、それだけの事です。憲法と云ふもの、一般的な、概念としての憲法そのものを遵守する、と云ふ意識は、現在の國民は、全く持つてゐません。ただ、「現在の憲法」が「自分逹に都合の良いものである」から、利用してゐるに過ぎないのです。「それでいい」と護憲派は當り前のやうな顏をして言ふのですが、「都合が惡くなつたら捨てられる」と云ふ事が大問題なのです。

民主主義が信用を失つた時にも、何とかそれを防ぐ爲に憲法が機能しなければなりません――ところが、そんな事を護憲派は少しも考へない。護憲派の連中は、未來永劫、民主主義は安泰だと心から信じてゐます。進化の方向は一方向で、日本人は歴史的に封建主義の段階を通過し切り、民主主義の團塊に完全に入つて、逆戻りしない――護憲派はさう信じ切つて、安心してゐます。ところが、それなのに、なぜか必死になつて「民主憲法」を守らうとする。目茶苦茶です。

實際、歴史上、世の中は一進一退、ドイツでは「理想的」な憲法の下に實現した民主主義の社會が、あつと言ふ間にナチスの支配下に入つてしまつた事例があります。だからこそ護憲派は警戒して、必死になつてゐるのでせうが、同時に理論面では自分逹を正當化する爲に自分逹の信奉する憲法をも無理やり「正しい」と云ふ事にしてしまつて祀り上げてしまつてゐます。それでは憲法が死んでしまひます。


さて、渋谷先生、實は「はじめに」で、こんな事を書いてゐます。

……私たちの日々の生活そのものが、憲法を土台に営まれていますが、そのことにいちいち気を払ったりはしません。けれども、いったん社会が日常の営みからはずれ、危機的状況に至ったときには、憲法を強く意識しなければならなくなる。というのも、憲法は、私たち一人ひとりの生命や自由が脅かされることがないようにするために、存在しているからです。個人の生命や自由が危機に陥ったときなのです。

……。

このように憲法が議論されているのは、社会が大きな変革期に入ろうとしている徴候なのかもしれません。しかし、今、日本が憲法改正を本当に必要とするような変動の時代にあるのか、慎重に見極めなければなりません。これを口実にして、私たちの自由を制限する企てが、隠されているおそれがあるからです。憲法は、私たちの自由を守る「切り札」としてこそ、その真価を発揮するものです。「切り札」の模様替えをはかろうとする議論に、安易に乗るのは、やはり「あぶない」ことです。

何ともまあ……今の憲法の内容を支持しない國民が増えた時、それこそ今の憲法にとつては最大の危機なのですが……渋谷先生は、そして讀者の皆さんは、御解りでせうか。護憲派の極樂蜻蛉ぶりにはあきれます。

――と言ふか、護憲派の人々、國家に對しては非道い不信感を持つてゐる一方で、國民に對しては絶大な信用を置いてゐるやうです。間違つた事をするのは常に國家、國民は常に正しい――護憲派がさう信じてゐるとすれば、國民が誤る可能性を全く考へないのも當然ですか。渋谷先生、當り前のやうに「私たち」と言つて、國民の側に立ち、國家を「敵」であるかのやうに言つて平然としてゐます。

しかし、どうして人間が誤らない事があるでせうか。國民も誤る。國民の側からすれば國家は自分逹の意思を表現する機關なのです。ただただ一方的に國家が國民に力を及ぼすだけではありません。國家と國民とは、雙方向に影響を與へ合つてゐるものです。國民の側から國家に制約を課す憲法も、間接的には國民自身をも縛つてゐる。その點を國民は忘れるべきでないと思ひます。

國民が誤つた思想を一般に抱くやうになつた時、それでも國家が飽くまで憲法の規定に從つてしか動き得ない、それが再び國民に影響を與へる事で國民が元の思想に歸れるやうにする――さうでなければ困ります。國民の恣意で國家が自由に動かせる、ただ當面、自分逹に都合が良いから今の憲法を國家を動かす道具に使ふ、と、そんな發想では、國民は自分逹の誤を矯正する手段を失ふでせう。それでは困る。


現行憲法を既成事實と看做し、それを改正しようと云ふ今の改憲の主張は、護憲派の主張と同じ問題を抱へてゐます。だから福田恆存は早い時期に現行憲法無效論を唱へた訣ですが、今に至るまで理解されません。

大變困つた事です。

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