初出
「闇黒日記」平成十八年十二月二十五日
公開
2007-05-12
改訂
2010-12-09

井上孚麿『現憲法無效論――憲法恢弘の法理――』(日本教文社)

書誌

「はしがき」より

ところが、「対立」はこのやうな条文の「解釈」の末端についてあるばかりではない。憲法の「効力の有無」といふ根本問題についてさへ対立があるのである。このやうな不一致対立は、古今東西いまだかつて見ない稀有の現象といはねばならない。

政府筋の公権解釈は、もちろん現行憲法を有効のものとして取扱つてゐるのであるけれども、学問的解釈の世界ではさうはいかぬ。有効論と無効諭とが縦横に入り乱れてゐる。

およそ一国の現行憲法の「無効」が説かれるやうなことは、古今東西にわたつて、全く類例がないことと言はねばならない。「無効」とは言はないまでも、公然と憲法の「廃秦」を主張する者の存在するやうなことも、恐らく世界に類を見ないであらう。「有効説」を説く者の間においても、公権的解釈としては、制定当時の実権者たる占領軍司令官の命令通りに、「日本国憲法は、大日本帝国憲法第七十三条による大日本帝国憲法の改正法」であるといふのであるけれども、学界の学問的解釈では、それに同ずるものは、それこそ一握りの少数者に過ぎないのであつ.て、帝国憲法の第七十三条による改正としては「無効」であるといふのが、十中の八、九である。しかし、この無効といふことを徹底して主張する者は、これまた一握りの少数者であつて、不思議にも、大多数は「改正行為そのものは無効」であるとしても、かうして出来上つた日本国憲法の方は、「有効の存在」と認めようとする。そしてその有効の根拠としては、「革命説」「定着説」あり、「非常大権説」あり、といふ次第であるが、いづれにしても当然のことながら、これらは相互に相容れないものである。それだけでなく、これらがそれぞれ、政府筋の公権的解釈――それは占領軍の指令通りに、日本国憲法は大日本帝国憲法の合法的改正法であると認める――とは、断然対立することになつてゐるのは、いふまでもない。

日本国憲法を成立させた「改正行為」は無効であるとしながら、日本国憲法そのものは有効であると解するものの第一は、「八月革命説」である。これはポツダム宣言受諾によつて、日本には「革命」が行はれたのであるから、それによつて帝国憲法はすでに吹き飛んでしまつてをり、憲法も何もない無法のところに、日本国憲法が全く新規に作られたのであるから、帝国憲法第七十三条の規定に反するといふ理由で、日本国憲法が無効であるといふには及ばぬといふのが、その論拠である。面白いことには、この革命説を是認することになれば、現行日本国憲法も暴力革命の前には一たまりもない筈であることを是認せざるを得ないこととなるのである。

この「革命説」が旗色が悪くなると、それに代つて「定着説」なるものが唱道されることとなる。これは二、三の知恵者が思ひつき、今では政府筋も、最高裁判所あたりも、凡そ官権筋はいづれも、これに同ずるもののやうである。日本国憲法は、たとひその成立の当初は無効であつても、その後二十幾年も今まで行はれて来たのであるから、いまさら無効だなどといはないで、今ではもう有効になつて来たものと見るべきだといふのである。これがもつともおとならしく常識的だと見られるのであらう。学説としてかういう者もあるし、それにヒントを得た政治家の常識論もある。公権的解釈を代弁するものと見られるべき佐藤元首相などが、日本国憲法は、われらの「血となり肉となつてゐるから」、今更これを改正しようなどとは思はないと言つたのも、また田中前首相などが大体同様のことを言つてゐるのも、この定着説の影響下に立つものと見られるべきであらう。最高裁判所長官だつた人の口吻にも、これと類似の臭ひがある。今のところ大体国の有力者を挙げて定着説となつてゐるやうである。但しその本音は知らず、又下野の後はわからない。

これらはいづれも、日本国憲法の本来の面目、殊にはその成立の法的性質の弱味の然らしめるところと言はねばならない。

しかし、こんなことでは誰しも納得は出来ないことだから、何とか考へて見ようといふので、今度は「非常大権説」といふ新顔が、助け舟として飛び出して来る。本来はなるほど無効に違ひないけれども、主権者たる天皇が帝国憲法第三十一条の非常大権によつて制定あそばされたのであるから、有効と見ねばならないといふのである。非常大権とはいかにもいかめしさうであるが、それでは日本には曽てない天皇の憲法逸脱を認めたこととなる。それだけでなく、これでは凡て憲法なるものは、無意味になつてしまふではないか。主権の行使を規律するところにこそ憲法の意味があるのに、主権者の一存で憲法はどうにでもなるといふのでは、憲法は全く無意味の存在になるではないか。殊に日本では天皇が進んで憲法に恪循遊ばすところに稀有の特色があるのに、この説はそれと正反対を主張するものである。これは一般に憲法の本質にも反し、特にわが天皇の大御心にも反するものではないか。

先年鳩山内閣の時、国会で無効論が出て来た時に、朝日新聞がこれを否定するために、官学から二人の学者を動員して、有効を論証せしめようとしたことがあつた。ところが、その一人は、上述の革命説であり、他の一人は、改正説を主張するといふ有様で、両者の諭旨は、明かに両立し難いものであつた。率直に占領中の憲法変改の無効を説いて居つた鳩山首相は、それが問題化するとなるや、「これはフランスのことであつて、日本のことをいつたのではない」といつて、満場自他ともに大笑ひであつて、国会もそのままになつてしまつた。

憲法の有効無効が議政壇上で争はれたり、有効としても、その根拠とせられるものが、全く両立し難いものであつたりするやうなことは、世界中どこの国にも見られない、全く珍妙の現象であつて、日本国憲法が、いかに呪はれた生ひ立ちのものであるかを、立証するものといはねばならない。

実定法の解釈が争はれたり、内容について好悪・賛否が分かれたりすることは、何処でも、何時でも、有りうることであるけれども、憲法そのものの有効無効が争はれたり、有効としても、国の根本法たる憲法の有効成立の根拠が争はれたりするやうなことは、世界に国は多く、憲法も多しといへども、またと有りえない全く珍妙の現象といはねばならないだらう。よくよく呪はれた生ひ立ちの故といはねばなるまい。

現行憲法がかういふ素性のものであるから、それの変改に関する見解の対立もまた珍妙を極めたものとならざるを得ないのは、自然でもあり、当然でもある。「改正論」があるかと思へば、「絶対非改正」「絶対擁護」を主張する者がある。さうかと思へば、現行憲法を「廃棄」して、「自主憲法を制定」しなければならないと息まく者もあれば、「日本国憲法の無効を確認して」、「帝国憲法の復原」が先づ為されねばならぬとし、

「改正」はその上のことであるといふ者もあるといふ具合に、正に七花八裂ともいふべき有様である。殊に、改正に反対して「護憲」を主張する者でありながら、現代の憲法の基礎たる「議会制民主主義」を否定して、議会抜きの「直接民主制」を主張するやうな、、護憲派からしてが、真先きに今の憲法の根本体制を蹂躙して憚らぬといふ有様で、憲法をめぐる国をあげての混乱は、ただただ驚く外はない。

恪循つつしみしたがふの意。


このやうになるのも、つまりは、日本国憲法の不幸な生ひ立ち――よくよく不幸な生ひ立ち――が、そのやうにさせてゐるものと言はねばならない。

成立の根拠が、すでにこんな風であるから、この憲法に権威がありうるわけはない。この憲法が、全国民によつて一様に遵奉されるわけはない。これでは、将来とも日本では憲法が行はれる見込みはない。現在の混乱は、その当然の現象である。二十何年前の罪穢れが、今正にその悪の華を咲かせてゐるところである。私は前著『増訂憲法研究』において、 「日本国憲法は行はれての害毒よりも、行はれずしての害毒の方がより重大である」と心配したのであるが、その後の事態は、残念ながら、全くその通りになつて来てゐる。いはゆる「護憲」派の頭領が、現憲法の空洞化を揚言するといふのはよくよくのことである。

「その憲法の権威」より

然らば、憲法が「勝れた」とか「立派な」とかいふ性質、一言にしていへば、「憲法の権威」は、どこから来るかといへば、憲法の「規定内容」から来ると思ふのは大間違ひであつて、実に「憲法の成立の由緒来歴」から来るのである(拙著『増訂憲法研究』一七頁以下参照)。

憲法の「規定の内容」は、抽象的に見て、たとひ、申分のない気のきいた立派な事が書かれてあつても、その「成立の由来」に少しでも無理があれば、これに対して、心から頭が下がることにはならない。これに反して、たとひ内容については、多少の言ひ分があるとしても、その由緒来歴に申分がなければ、人はこれに対して頭を下げずにはをれなくなるのである。むしろ、内容に対しては多少の不満があつても、これに対して頭を下げずにはをれないといふところに、真の「無条件的な」擁護の精神が見られるのである。


大体、憲法の「内容」に大差があると思ふくらゐ、間違つた考へはない。それは世界の憲法の実際を知らない者のいふことである。

今時、誰が見てもこれはいかぬと思ふ様な悪い規定内容の憲法などは、世界のどこを探してもあるものではない。どこの国の、どの憲法も、皆よいことづくめである。むしろ英・米のやうな、先進国の憲法よりも、新進諸国家の新しい憲法の方が、なかなか立派なことが書かれてゐる。現に占領中無理に押しつけられた「弱体化憲法」でさへも、人が驚くやうな美辞麗句が並べられてあり、如何にも善美を尽くした観を呈してゐる程である。さうしなければ、旧敵国の民心を収撹するわけには行かないであらう。現に、それだから、思慮分別の足らぬ多くの人々(「文化年齢十二歳」の人々)が、一応それに感心したり、礼讃したりしてゐるのである。

「基本的人権」とか「無償で教育を受ける権利」とか「生活の保障」とかいふやうな規定は、現代では世界中の流行となつてゐる。ことに新しく制定される憲法ほど、気の利いた規定や制度が満載されてゐると思つて間違ひはない。現に或る比較憲法学の大家の説によれば、李承晩憲法が世界最善最美の憲法であるといふことであつた。成程、文面だけを抽象的に見れば、さういふことであつたかも知れない。新たに憲法を作るといふことになれば、先進諸国の憲法からなるべく良ささうなことを寄せ集めて、申分のない机上の「作文をする」にきまつてゐるからである。今はその李承晩憲法よりも、もつとすぐれた憲法が出来てゐるに違ひない。

これらに比べると、英国では纒まつた憲法法典の持合せさへもないばかりでなく、今行はれてゐる憲法の内容も、至つて旧式であつて、誰が見ても、非能率や不合理なことが多い。しかも、その英国では、憲法が一番よく行はれ、デモクラシーも一番よく行はれてゐる。従つて個人の白由も、国の統一も、一番よく確保されてゐる。保守党と労働党との政権の交代なども、実にスムーズに行つてをるではないか。

また、この英国に次いで、憲法が割合によく行はれてゐると思はれてゐるアメリカ合衆国なども、その憲法は、成文憲法としては最も古く、最も旧式のものであつて、大統領選挙制度などでさへ、恐しく非合理的非能率的なものであると歎息してゐるアメリカ人の有識者もあるほどである。さういふまづい元首選挙制度であつても、時としては、ピストルやライフル銃の撃ち合ひ位はあるにしても、たいした乱にもならずに、とにかく「統一」が保たれてゐる。「個人の自由」といふことについても、勿論いろいろの不満がないではないが、他の新しい憲法を有つた国々とは比較にならないほど、うまく行つてゐる。これは「憲法が行はれてゐるから」である。しかし、そのアメリカでも、自由平等は白人のみのことであり、黒人は疎外されてゐるともいはれてをり、人気投票で選ばれる年期奉公の元首である大統領なども、ピストルやライフル銃で、非命に倒れるものが多いと言はれてゐるほどであるが、まあ大統領制度がつぎつぎに革命やクーデター騒ぎの原因になつてゐる他の新興諸国よりは、はるかによいとしなければなるまい。

これに反して、新式の、その内容から見れば、英・米等老大国の旧式憲法をはるかに凌駕する新式の憲法を有つてゐる国々では、却つて革命やクーデターが頻発し、個人の白由も保障されず、国の統一も維持されず、デモクラシーも一向に行はれずに、表面立派な憲法は、宝の持ち腐れ同様になつてしまつてゐる。

これは旧式の憲法しか持ち合せがない英・米に於ては、憲法がとにかく「守られてをり」、一見立派さうな内容の憲法を有する新進国家では、その憲法が一向に「守られてをらぬ」ことを証拠立てるものではないか。,各国の憲法は、その「内容」には大差なく、もし差があるとするならば、新輿国家と老大国家と、新式憲法と旧式憲法との間に、相違を見ることが出来る位であつて、しかも、内容は不充分な憲法の国の方が、内容が立派に見える新式憲法国よりも、憲法がよりよく「行はれ」てゐることは否定出来ない。

憲法が行はれるか行はれないかを決めるものは、国民に憲法恪循の精神が生きてゐるか否かによるのであるが、この主観的な精神の有無または強弱を決定するものは、客観的な憲法そのものの権威であり、その権威をあらしめるものは、憲法の「内容如何」ではなくして、憲法の「成立由来如何」であることが、今更の如くにうなづかれる。

憲法の「内容」には、格別大差がないのに、この「成立の由緒来歴」の方には大差があるのであつて、この大差が護憲の精神をさまざまにするのである。

概していへば、憲法の成立に格別の「無理」がなく、全国民によつて、「もつとも至極」と思はれるやうにして出来たものであれぱ、その憲法は国民の尊敬に値ひするだけの権威を生じ、護憲の精神を自然に喚び起すこととなる。これに反して、少しでも「無理」があれば、駄目である。どんなに体裁のいいことが書いてあつても、駄目である。

これが、人類の何千年来の経験の示すところであり、何千年といはずに近世のことだけを見ても、その通りになつてゐる。このことこそは、古今東西を通じていへることである。

「帝国憲法に対する不満」より

もつとも、帝国憲法の個々の「内容」に対しては、不満がないではなかつた。しかし、その不満は、戦後誤解されてゐるやうなこととは正反対に、幕僚軍人とか、新官僚とか、民間でもどちらかといへばむしろ右翼がかつた人々などに多かつたのであつて、その理由とするところは、帝国憲法が、余りにも自由主義的であり、個人の自由を尊重しすぎるとか、議会の権能が絶大に過ぎて、これでは「高度国防国家」建設もできないとか、「神速果敢な戦争遂行」も出来ないとかいふ風のものであつた。殊に、ヒットラーとか、ムッソリーニとかが出て来て、かれらが万事を自分の一存で、さつさと決定し、国を動かして行くやうに見えるのを見て、これに心酔する者が、帝国憲法を余りに自由主義的だとして、悪しざまに考へることになつたのである。

終戦後の今では、帝国憲法は軍国主義的であるとか、個人の自由を認めなかつたとか言つて非難することが通り相場となつてゐるけれども、正にその正反対のことが、当時の不満の主たる内容であつたといふことが、真実である。この事は日本人がいかに健忘症であるかを示すものとして、外国人に対しても恥ずかしい一面であるけれども、どうもその通りであるから致し方がない。

「復原についての杞憂」より

「現行憲法無效論」を批判して、「現行憲法の下で成立した法律その他が全て無效になる」と言ふ人々は大變に多い。潮匡人氏が最近『憲法九条は諸悪の根源』なる本を上梓したが、その中で氏が現行憲法無效論を拒否する理由としてその事を述べてゐた。

井上博士は、法の公信力の原理を知つてゐれば、その種の批判はあり得ないと指摘してゐる。

無効確認についての杞憂の中で、最も甚しく、且つ如何にももつとも至極であるかのやうに思はれるものは、法的安定の撹乱といふことである。

昭和二十二年五月三日から今まで行はれて来た憲法が、無効になるといふのでは、この憲法を基礎とし基準として作られた一切の法制・政治、立法・司法・行政はもちろん、公私の法律に至るまで、土崩瓦壊することになりはせぬか、といふ心配である。

しかし、これは全く理由のない心配である。法理上から言つても、これは法の公信力(拙著『増訂憲法研究』三一四頁)の原理を知らないからのことである。私法関係においてすら、善意の第三者が多数である場合には、これを保護するために、無効確認の遡及効は制限を受ける程である。

殊に公法関係においては、それに影響される第三者は、単なる多数者ではなく、無数者ともいつてよい一切人を包含するのであるから、その不遡及が必要とされるのは当然である。殊に憲法問題の処理のやうなことは、公法行為中の公法行為であるから、無効確認の効力の不遡及といふことは、当然すぎるほど当然である。

日本国憲法の無効確認は、日本国憲法については、その初めに遡り、その成立そのものが無効とされるのであるけれども、無効確認の時期に至るまでに、日本国憲法の基礎の上に、これを前提としてなされた一切の既成行為は、すべてその効力を失ふことなく、それがそのまま有効に成立したものとみなされることとなるのである。かうするのでなければ、国民生活の法的秩序は破壊され、法的生活は撹乱されることとなるからである。

法の権威の確保、法の安定の保持といふことこそは、無効復原の大眼目であつて、そのためにこそどのやうな犠牲を払つても、無効復原を断行せねばならないのであるけれども、そのための犠牲は出来るだけ軽微にしなければならぬことは、当然の要求である。それこそは、無効復原の法理に内在する必然的要求とも言はれるべきものであつて、既成の事実に及ぼす影響や摩擦は、最少限度に止めきせる必要があることは言ふまでもない。

この事は格段な立法を待つまでもなく、法理上当然のことであるけれども、それだけでは不充分だといふ懸念もあるならば、この杞憂を解消させるために、無効確認と同時に、その旨の声明を発するとか、或いは新たに法の明文として立法するとかして、不安を未然に防ぐことも一策である。

先年、衆議院の公聴会で、参考人として出席した人が、日本国憲法第九条を擁護しようとして、「改正限界説」を説いた結果、議員の質問に端を発して、その改正限界説の普遍性の故に、結局は、大日本帝国憲法の改正による日本国憲法の成立そのものも、限界逸脱をしてゐるのだから、日本国憲法の無効を承認せねばならぬこととなり、遂にはいはゆる「袞の袖」に救ひを求めねばならない醜態を演じたことは、『増訂憲法研究」の一一四頁に書いた通りであるが、当時の新聞によれば、最後には「日本国憲法が無効になつたならば、皆さんがこれまで収受された歳費等も、すべて吐き出さねばならぬことになりますよ」と言つたので、満場大笑ひのうちに、無効論は立ち消えとなつたといふことが伝へられてあつた。

この種のもつともらしい誤解は、日本国憲法擁護の魂胆からばかりではなく、その他の無邪気な人人の間にも、無効復原に対する障礙として拡がつてゐるらしい。

かういふ人々の懸念を張らすためには、上述のやうな新たな立法をなすことも、無用ではないであらう。否、格別に立法をするまでもなく、現に大日本帝国憲法第七十六条には、

とあるではないか。

このやうにして、無効復原は、法的安定を紛更させて、日本国憲法を基礎として作られた一切の法制・政治・立法・司法・行政はもちろん、公私の法律に至るまで、土崩瓦解することになりはせぬかといふ懸念は、全くいはれのないばかりでなく、むしろ却つて法的安定を確保するためにも、無効復原は必須不可欠のものであることが明らかにされるのである。

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