初出
「闇黒日記」2000-09-14
公開
2002-02-03
最終改訂
2008-05-20

日本国憲法は「愛国心のリトマス試驗紙」か?

――斯うした人々がかつては猛威をふるひ、憲法論議それ自體を否定してゐたものだ。

今ではさすがに「信者」と言つて良いくらゐまで熱心に日本国憲法を崇拜する人もゐなくなつた。しかし、それだけに、逆にややこしい問題が生じてゐる。

現在存在する「護憲派」の問題について。

憲法は言論や思想の自由を認めてゐるが……

「現行憲法には戰爭抛棄、平和主義が謳はれてゐる、だから自衞權を認めろとか、軍隊を持てとか、憲法第9條改正だとか云ふ意見を持つのは間違つてゐる」と主張する人がゐる。

その意見が正しいのならば、「明治憲法は言論・思想の自由を保證してゐなかつた、だから言論彈壓は正しかつたのであり、思想の統制が行なはれたのは當り前であり、非國民が村八分の目に遭つたのは當り前なのだ」と主張する事が可能になつてしまふ。

實際、その手の人間は、保守派や右翼ッぽい人間に嫌がらせをするのは良い事だと思ひ込んでゐるものだ。「『言論の自由』を否定する言論は彈壓すべきだ、當り前だ。そんな言論を認めるのは『言論の自由』を認めない反自由民主主義者だ」と主張する自稱「自由民主主義者」氏に、Yahoo!掲示板で遭遇した事がある。

だが、それは矢張り「何かを勘違ひしてゐる」と言つて良いだらう。

日本国憲法を「蹈み繪」のやうに使ふ人々

この手の人々は、「護憲派」に屬する訣だが、日本国憲法を屡々「蹈み繪」に使ふ。誰かの信條を決定する際、便利に使へる「リトマス試驗紙」と見てゐる。

時として、彼等は次のやうに考へる。

彼等にとつて、「日本国憲法は正しい」と云ふ考へは、「憲法論議」の大前提だ。彼等は、「日本国憲法に反對してゐる事實」で以て他人を告發し、非難する事が許される、と思ひ込んでゐる。

日本の「體制」としての日本国憲法

彼等「護憲派」にとつて、「日本国憲法に忠誠を誓ふ」事は、「日本國に忠誠を誓ふ」事と同義だ。彼等は、日本人の日本國への忠誠度をはかる爲、「日本国憲法を支持するか支持しないか」を問ふ事がある。言はゞ「愛国心のリトマス試驗紙」として日本国憲法を用ゐる訣だ。。

彼等は「日本国憲法は日本の體制そのものである」と考へてゐる。なるほど、一面、それは眞實ではあるのだが――「國家體制に服從してゐるか何うか」を「憲法を思想的に認めてゐるか何うか」で計量しようと云ふ發想はナンセンスだ。

「護憲派」の主張は護憲に非ず

しかし、彼ら「護憲派」が、屡々日本を愛してゐない。日本国憲法を「守れ」と主張するのは、大體左翼である。これはどう云ふ事なのか――實は、彼等「護憲派」の多くが既存の日本国憲法を認めてゐないのである。

左翼の人は、より廣汎な自由を求め、より廣汎な權利を求める。彼らにしてみれば、現行の憲法は決して理想の憲法ではない。

その爲、より「理想的」な「理念としての憲法」の制定を、彼ら「護憲派」は切望してゐる。ただ、現状、そんなものは存在しない。今「ある」のは、「大日本帝國憲法よりはまし」な日本国憲法だけである。さう云ふ訣で、彼らにしてみれば不満の多い代物ではあるが、しかしそれより後退する訣には行かないから彼らは日本国憲法を「支持」する。彼ら「護憲派」は、「日本国憲法を當面支持してゐる」に過ぎない。

彼等護憲派は將來、日本国憲法からその「より理想的な憲法」に移行する事を構想してゐる。彼等にとつて、日本国憲法は、當座、用ゐられるべき憲法に過ぎない。福田恆存は「當用憲法」と皮肉つた。

彼等「護憲派」が、日本国憲法に忠誠を誓はない人々を非難する時、彼等自身の立場は不安定である。ただ、戰術的に今の日本国憲法は「退き得る最後の砦」であるだけで、彼らは本氣で「こんな代物」を守りたい訣ではない。

今「護憲派」を自稱してゐる人々も、「日本国憲法には不滿がある」と明言すべきでないか。日本国憲法を肯定しない本來の自身の立場を正直に明かにすれば、憲法に關する議論はもつとすつきりした形で行はれるのでないか。今、憲法論議をしようとすれば、學問的な檢討をできない場合が餘りに多く、屡々政治的鬪爭の状態に陷つてしまふ。「良い事」「本當の事」を探る、と云ふ純粹な議論を、政治的な餘りに政治的な日本人は「できない」事が多過ぎるのだが、それでは本當に良い社會は作り得ないのではないか。

inserted by FC2 system