司會 10囘のうち、7囘を松原先生にお越し願つております。それも講演料無料といふことで毎囘お越しいただき、心から感謝を申し上げたいと思つてをります。 松原先生と言ひますと、早くから日本人、あるいは保守派の知識人の知的道徳的怠惰、政治主義の風潮に警鐘を鳴らされてをられました。また、松原先生自身は、知的誠實を首尾一貫して貫かれてをられます。 ご登壇になられますので、拍手をもつてお迎へしたいと思ひます。                     拍   手  1年に一度ここへ參りますが、毎年同じ面々がおいでくださる。しかし、他も増えません。私の書いた本は賣れないですし、月曜評論くらいしか書く場所はありません。ただ、私は早稲田大學から、貧乏せずに食べられるだけの収入をもらつてゐます。退職したあとでも恩給を支給してくれますし、多少の貯金もあるので食べるには困りません。さういふ點では私も、西部、西尾幹二も江藤淳もみな同じだと思ひます。みな同じなのにあの人たちは書く場所がたくさんあるのに、私には有りません。では、私には何故ないかといふと、政治家なら「不徳のいたすところ」ですが私は人切り以蔵だからです。  今日の話は「嘘」が中心になりますが、「嘘」の報道を流しているのは朝日新聞であるといふのも「嘘」です。産經新聞を含め、全ての新聞が「嘘」を流してゐます。そして皆さんは、私もさうですが、普通の人間は自分の仕事が忙しいですから、それ以外のところで行はれたことについては新聞やテレビの報道を見て知るしかありません。しかし、そこで本質的に大事な問題について嘘を書かれてゐるので、從つてめくら千人といふことになる譯です。  皆さんは報道された事實がみんな違ふといふこと、それに基づいて判斷してゐますから日本はかういふ體たらくな國になつてゐると思ひます。  例えば、ドコモは今破竹の勢いですが、企業の人間は相當惡いことをやつていると思ひます。やつてゐなければあんなに出來る筈はないのです。私の娘は三井物産に勤めてゐますが、どこかの國が惡いことをやつたと新聞で報道され、私が娘の顔を見て「おまえの所もやつているんだらう」と言ふと黙つてゐます。黙つてゐるといふことはやつてゐるといふことですね。皆やつてゐるんです。大學教授はあまりやつてゐません。醫學部の教授がこの間捕まりましたが、文學部の教授なんてほとんど惡いことしません。しないのはやるチャンスがないからです。だから多少、法に違つたことでもこれをやらないと社員の首を切らなければならなくなる、といふ氣持ちで惡いことをやるのならぜんぜん腹も立たないのです。  私は、本當のことを書いて村八分になつても食べて行けるだけの待遇を與へられてゐる知識人や大學教授が、でたらめのうそを言つてジャーナリズムに迎合して自分の言論をゆがめてゐる、といふことに一番腹が立ちます。だから、私は今まで『人斬り以蔵』と言はれるくらい人を斬つた譯です。斬られた人は徒黨を組んで松原に書かせるのなら、僕は書かないと言ひます。出版社も新聞社も營利企業ですから、私の言論ばかり入れてる譯には行かないので、ほかの人皆といふことになると私の方がほされます。  傳教大師は「自分の一筋だけ照らして生きろ」と言ひました。T・S・エリオットは若い時「せめて自分の庭先を耕さう」といふ詩を作りました。私は自分の庭先を耕せば良い、私の庭は西部や西尾、江藤淳の庭と違つて非常に手狭な庭です。「ここに松原農場があるよ」と、どこも宣傳してくれませんから大阪で公演をやると言つてもこれぐらいしか來ないでせう。  ちなみに言ひますが、江藤の場合、講演依頼のために誰かが電話をかけると奥さんが出て「講演料はいくらですか?」、「聴衆は何人ですか?」、「500人以下の場合は家の亭主は行かないことになつてゐる」となります。これ500人ゐますか? 50人ゐないんぢやないですか? ですから、これが私の庭先なんです。  私は今、日本のマスコミ、ミニコミ界で一番本當の言論を載せるのは月曜評論だと思ひます。しかし、月曜評論は吹けば飛ぶやうなミニコミです。だんだん部數も減つてきて、さういふ社會なんだと思ひます。だからせめて庭先を耕しに來たのですが、大阪まで來てもせいぜいおいでになるのは多くみても100人だと疲れるし、むなしいなと思ふ時があります。しかし、そんなことを言つてゐても仕方がありませんので本題に入ります。  これから、本題の『小林よしのりを斬る』といふ話をしたいと思ひます。今日の話はちよつと難しい話になります。それと、結論が出ません。結論らしきものは出ます。その結論らしきものとは、夏目漱石が大正4年頃『現代日本の開化』といふ題で講演をやりまして、その結びに「ぢやあどうすればいいのかと皆さんおつしやるかもしれないが、私にも名案が浮かばない」といふ風に正直に言つてゐます。難しい話になりますが、今日は大事な話をします。  私は一應保守派ないしは右といはれてきた人間ですが、皆さんご存知のとほり左はほとんど斬つたことがなく、右ばかり斬つてきました。何故かと言ふと、日本の左は斬るに値しないと思つたからです。本當に斬らなければいけないのは右です。右である私が右の保守派を斬るといふことは非常に難しいことです。人間はとかくやさしい道を選びがちですが、やはり難しいことをやらなければだめだと思つたから右ばかり斬つてきました。果たせるかな村八分になつて、色々忠告してくれた人はゐます。しかし、私の言論が賣れようが賣れまいがこの國の生き方は變はらないぢやないか、それならば自分の思つたとおりにやつたほうが良いと思つてやつて來たのです。  さうしますと月曜評論の編集長も多分當惑したと思ふし、讀者も月曜評論は保守派あるいは右よりのミニコミ誌で松原も右だと思つてゐたのに、西部をばつさり斬つて、次に小林よしのり、今度は西尾幹二を斬るとは同志討ちぢやないかと言ふ事になります。  私はさういふことが一番納得できない、一番情けない日本の論壇の弊風だと思ふのです。と言ひますのは、讀者にしてみればそんなことは關係ないんです。月曜評論に私が、西部の言つてゐることは間違つてゐるとやると、次の號に、松原はそんなことを言つてゐるがおまえの言つてゐる事の方が間違つてゐるとやれば兩方讀んで得るものがあるのです。ところが、眞つ向から私に對して反論は絶對にしません。何故しないかといふと、それは負けるからです。それを西部は知つているから反論しません。  森鴎外といふ作家の名前を皆さんご存知だと思ひますが、非常にえらい人ですが夏目漱石や福澤諭吉とちがひ、どうも俗受けしないものを持つてゐました。私は、森鴎外といふ人は決して左翼進歩派ではなかつたやうに思ひます。むしろ、保守的な人だと傳へられてゐるし、皆さんもさう思つてゐると思ひます。それは彼のおかげで正しい假名遣ひといふものが隨分持續出來たといふこともあります。また鴎外は晩年、乃木大将が明治天皇の後を追つて自害した後は現代の事は書かなくなりました。あの後は、死ぬまで江戸時代のご先祖樣がいかに立派に立ち振舞つたかといふ歴史小説や史傳を書いてをりました。しかし、鴎外をよく讀みますと、かなり左翼進歩派的な考へ方をしてゐた人だと解ります。皆さんお歸りになりましたら、2つだけ鴎外の短いものをお讀みになつて、ああ、松原の言ふ通りだなとご確認願ひたいのですが。ひとつは『かのやうに』です。鴎外はなぜ『かのやうに』といふ題をつけたかといふと、露骨に書いてありませんが、天皇は神ではないが神であるかのやうに敬つて行かなければ今の日本はもたない、といふことが縷縷書いてあります。  今は、私がここで今上陛下の惡口をいくら言つても捕まりませんが、當時はさうではありませんから鴎外としては精一杯それが言ひたくて附けたのです。これを頭においてお讀みになると鴎外の言ひたかつたことがよくお解りになると思ひます。  私たちの國は、神樣は敬はないが先祖は敬ふ國といふことでずつと續いてきてゐます。これは顕然たる事實です。皆さんも先祖は大事にします。ですから、お彼岸になると故郷へご先祖樣の墓參りに行くのです。だが、家系をいくらさかのぼつても、10代位までは何とか興信所で調べられますがその先は解らないです。私も平家の殘黨の末裔だといふ話があるが、それは話しであつて、確かめたわけではありません。しかし、ずつと先祖があつて今日我々がここに居るのは事實で、その先祖を敬ふ氣持ちは、なお失はれずにあります。現に、お墓參りの時に皆さん手を合はせるでせう。ただのカルシウムが石の下にあるとは思はない、手を合はせるといふことは先祖を敬つてゐるのです。  鴎外は本の中で、自分の國が神の國だといふ思想を自分が信ぜないのに、信じているようなふりをして虚偽だ、うそだと思つてやましがりもせずにそれを子供に教へる譯には行かない。教える教師が天皇は神樣じゃない人間だ、日本は神樣の國ぢやないと思つてゐながら父親なり教師が子供に向かつて日本は神樣の國だ、天皇陛下は神樣だといふやうな嘘はいけない、といふやうなことを書いてゐます。  日本といふ國はヨーロッパと違ひまして、天照大神の前にも神樣はずつとゐて、その天津神々から國津神々につながり、それから天照大神に續き神武天皇、そして今日の今上天皇まで續いてきてゐると考へられてゐます。左翼はそんなのは嘘だと言ひます。小林よしのりの粗雜な言葉を借りれば物語、虚構です。しかし、この國は天皇を戴く國だといふフィクションがだんだん崩れてきたら、同時に先祖なんてものもただのカルシウムだといふことに将來なりかねません。さうなるとこの國はひどいことになる、だから、どうみても天皇は神ではないが神であるかのやうにしてやつて行くしかこの國は仕方がない、といふのが眞意なのです。 『かのやうに』の中では、田舎の百姓が頭に三角のしるしをつけて先祖崇拝とやつてゐるのは先祖の霊魂といふものが本當に存在すると信じてゐるからやつてゐるのだ、信じてゐないのに信じてゐるかのやうには駄目だと言ふ話や、繪描きが裸の女の繪を描いて、本物の女であるかのやうに扱へといつても本物の女として附合ふ譯にはいかない、かのやうにには限界があるよ、と言ふ樣な事を、まう一方の登場人物に言はせたのです。つまり、鴎外は片附かない問題をそこで縷縷書いてゐることになります。  夏目漱石の『道草』では、ある問題が片附いて主人公に奥さんが「すると問題は片附いたのね」といふ意味のことを言ひます。すると主人公は「何言つてゐるんだ。この世の中の大事な問題について片附くなんてことはありはしないよ」と言ひ、奥さんは泣き出した赤ん坊を抱きかかえ「おお、よしよし、泣くんじゃない。お父樣のおつしゃることは何言つてゐるかわからないわね」と終つてゐます。  漱石といふ人は、片附かない問題を片附けようとして氣が狂つた。片附けたから偉いのではなく、さういふ努力をしたから偉いのです。鴎外も漱石もなにも片附けずに終りました。  ところが今、西尾にしても西部、小林よしのりにしても、左翼の聯中は勿論ですが、片附く議論が多すぎます。それは愚かな民衆が片附く議論を喜ぶからです。從つて讀んでもらうには片附く議論、うそを用ゐます。つまり言ひかたを變えると、當時一種の危機感を感じて『かのやうに』を書いたと思ふのですが、鴎外は右翼ではありません。西部が言つているような意味での保守派でもありません。鴎外は、むしろ皇國史觀を疑つてゐた男です。しかし假りに私がどこかの雑誌に、鴎外は決して保守派でもなければ右翼でもなかつた、どちらかと言ふと左翼だと書くと、淺はかな左翼が喜ぶのです。鴎外は俺たちの同志だつたと思ふわけです。逆に、月曜評論の讀者や私の愛讀者の中には、「矢張り松原はこのごろおかしい、保守派だと思つていたのに左翼にごまをすつて左的なことを言い出した」となります。私はこれが一番困ります。なぜかと言ひますと、鴎外は皇國史觀といふものは随分いかがわしいものだとよく知つていました。しかし、當座これを信じて行かないとこの國はもたないと言ふふうに書いたのですが、世の中は鴎外の考えてるやうには行かなかつたのです。  そこで『空車』といふ短編を書きました。鴎外が團子坂だつたか、ある坂を通ると必ず上から馬が引いた車がガラガラと下りてくる、何も荷物を積んでゐない車だがどんなえらい人も皆、横によける。あの車は壓巻である。しかし、何も積んでゐないあの車に何か積んであれば良いのにと思つたことはない、といふ話しです。  これは遠廻しに、天皇は神樣ではないがさう思つてやつて行かないとこの國はもたないと思ふと同時に、結局天皇を積んでゐるといふが天皇は人間なのだから實は空つぽなのだ、皇國史觀も空つぽだから空車だ、しかし、空車でもみな避けるくらい迫力がある。何か積んであれば良いと思はないといふのはさういふ意味です。さういふふうに讀んであげないと草葉の陰の鴎外もうかばれません。  だから、鴎外は非常に苦しかつたのです。皇國史觀に安住して景氣の良いことを言つていれば大變幸せでしたが、さういふことをやるにしては鴎外はあまりに頭が良過ぎました。鴎外は今流に言えば、決して右翼でも保守派でもありませんでした。誤解を招くやうだけれど、便宜上言ふならば進歩派でした。しかし、鴎外の中には實は左だけではなく右もいたのです。  明治天皇が崩御あそばされその御大葬の日に乃木希典大将と靜子夫人が自殺しました。言つてみれば殉死です。すると、大正デモクラシーを信じてゐる武者小路實篤、荒畑寒村らが、乃木は馬鹿なことをやつた、殉死なんて時代遲れだと言ひました。志賀直哉は日記に「乃木さんの自殺の話を聞いた時、下女が茶碗を壊したやうな、情けないことをやつてくれたやうな氣がした」と書きました。處が、鴎外は乃木をからかうやうな言論に向きになつて反論するやうな事をを一切せずに一晩かかつて『興津彌五右衛門の遺書』を書きました。これは殉死禮賛の小説です。鴎外の中に左と同時に右もいたので、乃木大将が殉死した時、大正デモクラシーを信じてゐる若手文士のやうに軽薄なことを書かず、しかも若手文士達をやつつけもしないで殉死禮賛の小説を書いたのです。  なぜ鴎外の話から始めたかといふと、漱石もさうなのです。夏目漱石の全集を細かく讀んでみても天皇を尊敬してゐるといふ類のことは一行も出てきません。ところが、漱石の中で比較的讀まれている失敗作『心』の中の主人公が、明治天皇のあとを追つて「私」も自殺するとあるものですから、皆さんは漱石が天皇を尊敬してたかのやうに誤解してゐます。  漱石は明治天皇が御崩御あそばされたころ友人に宛てた書簡に「胃の調子が惡く、非常に苦しい。乃木さんが死んだのも苦しかつただらうが、私のこの胃の痛みも乃木さん以上だ」と書いてゐます。だから、決して明治天皇が死んだからといつて鴎外のように襟を正してといふことはなかつたのです。  又、福沢諭吉といふ人は、封建的な日本を近代的な日本に變へて行くための最初の偉大な啓蒙家でした。彼の『楠公權助論』といふ本の中で、下男の權助がご主人から預かつたお金を運ぶ途中に盗まれ、ご主人に對して申し譯ないと自殺をした、これは全くの無駄死にだ、そして、それで止めて置けば良かつたのに、楠木正成も權助みたいなものだと書いたので、楠木が忠臣だと思つてゐる人達の物議を醸しました。  彼は今流の言葉を借りれば、近代主義者で合理主義者でした。ご先祖樣がずつと信じて生きてきた、先祖や目上の人を敬う氣持ちなどを捨て、個人はみな平等だといふ考へ方が日本人の末端まで染み込まなければ近代化は出來ない、近代化が出來ないと日本は西洋の植民地になつて仕舞ふ、だから「西歐はかうだ」、「西歐はかうだ」、といふことを終始書き續けました。ですから、彼も今流に言へば左翼進歩派です。  しかし、今の左翼進歩派と違つて諭吉にはその反對のものもありました。『やせ我慢の説』といふ短い文章で、儒教が大事だと言つてゐる「やせ我慢」がおまえたちには欠けてゐる、と勝海舟と榎本武揚を批判した。  詰り、我々の明治時代の先輩たちの中には心の中に進歩的な部分と、進歩的なままやつていくと日本は魂無しの技術だけの國になつて仕舞ふ、それは困るといふ兩面があつたといふことを申し上げたかつたのです。  ところが、これから批判しようと思ふ小林よしのりも、西部、西尾にも1面しかありません。その3人だけではありません、左翼もさうです。  例へば、小林よしのりはこの本に「今の日本に祖國のために死ねる者などゐない、自分の命だけが大事。國といふ公が煩はしい。權利はいくらでも主張するが、義務は納税ぐらいしか負はない。ゴーマンかましてよかですか」と書いてあります。  私は、私が教へてゐる200〜300人くらいの學生に「君たちに聞きたいが、この中で祖國日本のためになら死んでも良いと思つてゐる諸君が居たら手を擧てくれ」 と聞くと1人も擧がりませんでした。そして、恐らく皆さんの中にも1人もいらつしやらないと思ひます。なぜかと言ふと私にもありませんから。  今の日本に祖國のために死ねる者などゐない、と小林は書いてゐるのですから、小林にはその覺悟があつて言つてゐるのか、なくて言つてゐるのか。なくて言つてゐるのなら大嘘を書いてゐると言ふ事になります、否、死ねる者などゐないといふのは本當ですが、しかし、さう嘆いてゐるのなら死ねる者がゐなければいけないといふことで、さう書くのなら小林自身が國のために死ぬ覺悟を固めてゐなければいけないのです。  覺悟もないのにかういふ事を書いて、若い聯中皆が格好が良いと言つて讀んでゐるのでこの國はだめだと言つてゐるのです。國のために死ぬといふことは、國のために死んだ人間が過去に澤山居たといふ事實とはぜんぜん別の問題です。  小林がしきりに言つているのは特攻隊です。特攻隊について非常に賛美してゐます。しかし、もし特攻隊の誰かの靈がこの文章を讀んだら、皆さん、喜ぶと思ひますか? 私は喜ぶと思ひません。  特攻隊の死は無駄だつたといふ左翼の言論を讀んでも彼らは喜びません。なぜかと言ふと、彼らも私も特攻隊をやつた經驗がないからです。  併し、人間といふのは自分が經驗しなかつた事まで理解しようと努力し、またある程度理解できるのです。ひとつの具體的な例を擧げます。  何年か前ですが、茨城県の百里基地にある航空自衛隊の第七航空團で、F15に乘り込んだパイロットがエンジンをかけた途端、左エンジンから白い煙がモウモウと上がつたことがありました。その時、パイロットは「左エンジン爆發、15分待機のコックピットスタンバイ」と叫んだのです。  これは、「私の飛行機の左エンジンが爆發した、だから整備員たちは私にかまはず、隣りの格納庫で15分以内に離陸できるやうに待機してゐる、別のF15を發進させるための準備に取掛かれ」、といふ意味です。  ロシアの軍用機が近づいて日本の領空を侵犯しさうだとレーダーでキャッチし、スクランブルに指令が掛ります、さうすると、千歳基地や百里基地、小松基地から全力を擧てスクランブルをかけます。ところが、1週間、2週間と時間が經つに從つて日本近くの側で出遭ふ樣になつてくるとロシアは日本をなめるのです。だんだん自衛隊の連動が遲れて出遭ふ地點が日本に近くなつたといふことは、發進が遲れてゐるといふ事だからです。  さう言ふ意味で、平時にあつても軍隊と軍隊は戰爭をやつてゐます。日本の航空自衛隊の戰爭準備を確かめるためにやつて來るといふ可能性は非常に多いのです。ですから、百里基地にF15が配備されたといふニュースがロシア側に傳はると、用もないのにやつて來るのです。そして、だんだん日本の方で遭ふ樣になると、日本の航空自衛隊はたるんでゐるなと言はれる樣になります。それがあるのでスクランブルをかける時、パイロットだけではなく整備員も全力を擧て一刻でも早く發進しやうとします。  ところで、これは民間機も自衛隊機も同しですが、飛行機といふのは離陸するときは燃料満タンです。ですから、一番怖いのは着陸の時より離陸の時です。だから、燃料が満タンでこれから飛び立とうとするF15の左エンジンが爆發したのなら確實にそのパイロットは死にます、それなのに彼は、私のことはかまはず隣のF15の發進準備をさせろ、と言ひました、これは見事です、一寸僕らには出來ないでせう。  この三等空佐は、日頃祖國のために自分が死んでも仕方がないと言つてゐた譯ではありません。又、小林よしのりのやうな格好の好い事を言はないばかりか、左翼のように、俺は國のためだらうが、なんであらうが死にたくはないとか、野坂昭如のやうなことも言つてゐません。彼は逢へばごく普通の三等空佐です。  それが何故いざとなつてさういふ行動を取れたかと言ひますと、漫畫家や評論家、大學教授と異なり自衛官には使命感があるからです。少なくとも、その使命感を持つてゐなければ自衛隊とは言へないと彼らは信じてゐるのです。長年自衛隊と附合つてゐてさう思ひました。  ぐうたらな自衛官だ、これでも軍人と言へるのか、と思ふやうな人でもいざとなつたら死ぬ覺悟でやらなければならない商賣だと言ふ事は解つてゐるのです。それが我々の存在理由だと言ふ事だけは信じてゐるのです。その為に嚴しい訓練もやつてゐるのです。さういふ日ごろの嚴しい訓練と使命感があるから、見事な自衛官が出て來るのです。  私は、何ヶ月か前に同僚の運轉する車に乘つてゐました。すると、車の前に右翼の街宣車がゐて「自衛隊を國軍にせよ!傳統ある道徳に基づく教育を再興せよ!」と、叫んでゐました。道を歩く人はほとんど無關心、中には笑つてゐる人も居たので「あれは不思議だな、左翼進歩派が同しやうに空疎な空念佛を唱へるとインテリだと思はれるのに、右があのやうなことを言ふと何故皆笑ふのだらう?」と、私が言ふと「本當にね。言つてゐる事は皆賛成なのだけどね」と同僚が言ふのです。それで私が、「あなたは賛成か、私は賛成ではないよ」と言ふとびつくりして「なんで松原さん賛成ぢやないの?」と聽き返しました、私は「だつてあれは誠こもつてないぢやない。あれはスローガンぢやないか、看板ぢやないか。左翼の言つてゐることも右翼の言つてゐることも同しなのだよ」と言ふ話をしました。  ヒトラーといふ男は『わが鬪爭』の中で「民衆は愚かだから難しいことを言つてはいけない。結論の出ることを、しかも何度でも繰り返すと信じるやうになる」 と書いてゐます。ですから政治家も紋切り型のことしか言はないでせう。右翼も同しです。しかしよく考へ見て下さい。自衛隊を國軍にするといふ事が、いかに難しいことか? 誇り高き傳統ある教育と言ひますが、それをするために我々は何かこれは絶對だと言つて生徒たちに、娘、息子たちに教へるべき絶對的な徳目を持つてゐないといけないですね。鴎外ではありませんが、自分が信じてゐないのに目下の人間に教へられますか?  それは、NTTドコモでも、どこの會社でも社長が入社式の時に「諸君、入社おめでとう。これからはドコモの一員として頑張つてもらひたい。ついては當社もだんだん嚴しくなつてきた。サラリーマンといふのはかうあらねばならない……」といふ訓辭を垂れることは出來ます、だつて社長も昔さういふ體驗をしてゐるでせうから出來ると思ひます。  處が、人間はかう生きなければいけないといふやうな事、この國はかうあらねばならないといふ事について、國のために死ねる覺悟がなければいけないといふやうな事を皆さんは若い人たちに言へますか。  自分に死ねる覺悟もないのに、人にそれを要求するぐらい道徳的に卑劣なことはありません。ですから、死ねる覺悟なんて簡單に言へることではないのです。  それから、前囘參りました際にもお話したと思ふのですが、日本の國の病いが幾つかあります。  その1つは責任ある立場の人が白々しい嘘を吐き、そして、さういふ嘘にだまされやすい、嘘だと見破れない讀者が多過ぎるといふ事が日本人の最大の欠陥だと思ひます。  もう1つは、國と個人を混同しすぎます。國と個人を峻別するといふ明確な思想が日本にはありません。これが小林よしのりに對する批判でもあり、西部、西尾に對する批判でもあります。  夏目漱石は、大正3年『私の個人主義』と題する學習院での講演で「今の日本はそれほど安泰ではない。貧乏であるうえ國も小さい。從つて、何時どんな事が起こるか解らない。さういふ點からは、我々は國の安否を考へなければいけない。ところが、目下差し迫つて戰爭の憂いも少なく、他の國から侵略される恐れがない時には自然と國家觀念が希薄になつて行くのはあたりまえであつて、國家、國家と騒ぎまわるのは馬鹿である。そして、それを満たすために個人主義が入つて來るのも理の當然だ。そして、國家的道徳といふものは個人道徳に比べたらとても段の低いものだ。元來、國と國はきれいごとを言ふが、その間には道徳心なんてものはない。ごまかしをする、ペテンにかける、無茶苦茶なものであります。ところが、個人の次元で考えると人をごまかしたり、裏切つたりすることは許しがたい、ですから、どちらが大事かといふと、國家道徳より個人道徳なのであります。だから、徳義心の高い個人主義に重きをおく方がどうしても當然のように思はれる。といふやうに話してゐます。  漱石の言ふ通りです。このことを知らないのが、日本の右、左を問はない保守派の論壇と新聞記者です。  詰り、しきりに小林よしのりは公と私のやうなことを言つてゐますが、鴎外や漱石の中には國を思ふ氣持ち、すなわち小林の言ふ公と、乃木は見事だと個人として敬う氣持ち、さういふ矛盾したもの兩方がありました。  今の知識人たちは皆言へるやうになつてから言つてゐます。周りを見渡し、だんだん世の中が右よりになり、もう言つても大丈夫だといふところで言つてゐるので少しも偉くありません。  先日、北朝鮮の工作船が領海侵犯をやつた時、海上自衛隊の飛行機が爆彈を落としました。あれは本當はおかしな話ですが、防衛庁詰めの記者は不勉強な莫迦が揃つてゐるのでそのまま報じて解らないのです。なぜかと言ふと、海上自衛隊の持つているのは『P3C』といつて潜水艦をやつつける飛行機なのです。あとはセスナのような聯絡機です。潜水艦は爆撃する必要がないので積んでゐるのは爆雷です。といふことは、密かに爆彈を積めるやうな仕掛けをしてゐたのです。私は知つてゐますが、自衛隊の味方だから不利なことは知つてゐても黙つてゐます。  何年か前、國会でカンボジアに陸上自衛隊を出すのに小銃を持たせるか、ピストルにするかといふ馬鹿な議論をしてゐました。その時、防衛課長の松島といふ男が怒つて「何を言つてゐるんだ、おれたちはミサイルを持つて行く」と言つて物議をかもしました。  隔世の感がありませんか? 今、海上自衛隊が爆彈を落としても朝日新聞は大騒ぎをしないでせう。そして、まだ不徹底ですが、自衛隊が有事の際にこれだけのことをやつてよろしいといふガイドライン法案が審議されてゐます。  以前、陸海空自衛隊の最高ポストである統合參謀本部議長に栗栖秀臣といふ人がゐました。ある雜誌の對談で「今のままの法體制では困る、有事の際にすぐに行動出來るやうに變へてくれ」と言つたら首を切られました。時の長官、金丸信です。  當時はソ聯の脅威が大きく叫ばれてゐた頃です。例えば、北海道のどこかにソ聯の船が着岸上陸を始めたので何とかしてくれと言つたら、自衛隊は東京の參謀本部に聯絡します。次に防衛庁の内局に、内局は防衛庁長官を探します。防衛庁長官がどこかの選擧區に演説に行つて不在だつたりすると、せうがないので総理大臣だが、自分の一存で決められないので、全ての閣僚を集めてあるいは電話で了解してくれて、初めて内局を通して部隊に「戰つてよろしい」といふ仕組みになつてゐます。ですから、自衛隊はすぐ戰ふ譯にはいかないのです。  例えば、NATO諸國は皆、現地の司令官に任せてあります。ですから、當面は全力で戰えといふ權限を與へられてゐます。これを自衛隊にも與へてくれないと、多分まつとうな心ある自衛官はあとで処罰されることを覺悟で戰ふ事になります。それは自衛官が法を破る事になります、それでは文民が自衛隊を統制したことになりません。シビリアンコントロールとは、自衛隊に任せるところは全部任せてしかし越權行為は許さないといふことですが、勘違いしてゐます。  ところが、今はさうではなくなつてゐます。爆彈落としても平氣ではないですか。さういふふうに世の中が變はつてきたのは物の道理といふものが浸透した結果ですが、違ひますよね、道理を考へるやうになつたからではありません。だから私はこの國は馬鹿だと言ふのです。この國の情勢を變えるのは言論ではなく、現實なのです。  情勢が變つたのは、金正日さんのおかげです。日本の政治家の議論がこの國を變へたのではありません。テポドンが飛んできたからです。  テポドンが三陸沖に落つこちたでせう。私はあの時眞つ先に、三陸沖ではなく仙臺に落ちれば良いのにと殘念に思ひました。仙臺に落ちたら澤山の人が死ぬから、すると一變に憲法改正できますよ。第一、あの、管ですら、その知らせを受けた時に「偵察衛星くらい日本は持つべきだ」 と言ひました。あれも馬鹿な議論です。偵察衛星を持つても發射したことがわかつても防ぐ術がなければ意味はないのですが、菅でさへさうでせう。  今、海上自衛隊まで出動させたことについて遺憾だと言つてゐるのは土井たか子くらいです。  小渕が決断したのもやつて大丈夫になつたからです。テポドンの落ちるのが後だつたらやりません。海上自衛隊もやりません。それが日本人です。しかし、鴎外は、漱石はどうでしたか、違ひますよね。  漱石の時代、日本は日露戰爭に勝つて世界一等國になり、浮かれていた時代です。その時『三四郎』を書いてゐます。  三四郎が東大に受かつて、熊本から出てきた汽車の中で廣田といふ人物に逢ひます。廣田が「君、今度東京が初めてなら富士山を見たことがないだらう。今に車窓から富士山が見えるからご覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれ以外に世界に誇れるものはない」と言ふのです。しかし、殘念ながら富士山は日本人が造つた物ではありません。天然自然にあるものです。それくらいしか世界に誇れるものはない、と日本中が浮かれている時に冷水をぶつかけたのです。  それより先に『吾輩は猫である』を書いて苦沙彌先生に「日露戰爭に勝つて日本は浮かれて大和魂、大和魂と言つてゐる。東郷元帥が大和魂を持つてゐる、何とかが大和魂を持つてゐる、スリも持つている。大和魂、大和魂と皆言ふが、實物を見た者はゐない。大和魂とはこれ天狗の類か」と言はせてゐます。皆さん天狗、天狗と言ふが見たことはないでせう。言へるやうになつてから言つたのではないのです。  そして、もう1つ申し上げたいのですが、自分の中に相反する2面、近代化を是とする自分と、無根要塞を憂う氣持ちの矛盾した葛藤を鴎外も、諭吉、漱石も持つてゐたのに、今の物書きにはないです。その葛藤のない物書きの書く文章といふのは全部粗雑です。從つて、讀者も良い文章といふのがいかに深く物を考えた結果であるかわからずに過ごすのです。  ある眼鏡屋の廣告の文言を話します。私は西武池袋線で通勤しておりますが、東長崎といふ駅の近くに『ホリ眼鏡店』といふ店があり、その廣告が載つてゐます。そこに「1,000に1つの誤差のない眼鏡作りが當店のモットーでござゐます」と書いてあります。 私は50人くらいの學生のクラスで「この文章、おかしいと思ふ者手を擧ろ」と言ふと、5人程手を擧たのでそのうちの1人に「どこがおかしい」と聞くと「1,000に1つのといふ所がおかしい。1,000に1つもでなければいけません。」。1,000に1つのは形容詞になりますから「誤差のない眼鏡作り」にかかることになります。すると、この眼鏡屋で1,000個眼鏡を作ると、999個は誤差があります、まつとうな眼鏡はたつた1個だけです、といふことになります。ところが「も」にしますと、1,000に1つもは「誤差」にかかりますから誤差は1,000に1つもないよといふことになります。  私がそれを産經新聞でからかつたら、誰かが讀んで教へたのでせう。まもなくその廣告はなくなりました。  たかが眼鏡屋の廣告だと思ふでせうが違うのです。大學教授も物書きもさういふ類のインチキな文章をずいぶん書いてゐます。  もう1つ例をとると「江藤淳の名前を知つてゐる者、手を擧ろ」と言ふとかなり擧がるのですが、私の名前を早稲田大學に入る前は知なかつただらう、知つてゐた者居るか、と言ふとほとんど擧がらないのです。  江藤淳は、日本ペンクラブです。夏目漱石の『夢十夜』の第一話について「女が死にかかつている。その女の枕元に座りながら男が、大丈夫だろうな、死ぬんじゃないだろうな、と終始腕組みをしてゐるのです。その防衛的な姿勢を崩さない男には明らかに女に對する恐怖心があつて……」と江藤は論じてゐます。 「この文章はどこかおかしいと思ふ者、手を挙げろ」と言つたら、3人くらい手を挙げました。そのうちの1人に「どこがおかしい?」と言ふと「腕組みは防衛的な姿勢ではないと思ひます」「おまえの言ふ通りだ・・・・」  大學生に分かることがどうして江藤に分からないのでせう。  人が襲いかかつて來た時、我々はこうしますか。腕組みといふのは傍觀的、もしくは、思索的な姿勢です。何故、江藤ともあらう者がそんなずさんな言葉遣ひをするかと言ふと、漱石には女に對する潜在的な恐怖心があつた、といふ固定觀念があるからです。考へがいたらないのです。  惡い文章を書く人間といふのは自分を客觀的に見てゐません。私もできませんが、自分を客觀的に見ることくらい難しいことはないのです。しかし、馬鹿と利口の違ひはどの程度、自分を客觀的に見られるかにかかつてゐます。  子供は客觀的に見ることは出來ません。電車に乘つてゐて、ポリオの人が入つてきたら皆さんはジロジロ見ないやうにするのが思ひやりだと思ふから見ないでせう。ところが、子供は平氣で「お母さん、何であの人はあんな口をしてゐるの?」とか言ふぢやないですか。子供は周囲の人間が、非常識な人だと自分を見るであらうといふ察しがつかないからです。  同時に、電車に乘つてゐてマリリン・モンローのやうな、かつこいい女が超ミニスカートをはいてゐる。男は見たいが、スカート姿に見入つてゐる自分を他人が見たらどんなに馬鹿に見へるかと分かるのでやらないのでせう。  自分の文章が讀者にどのやうに受取られるか、といふことについて非常に鈍感な人が惡文を書くのです。  私は大學に入つて來た學生たちに「おまえたちは、文章が駄目だつたら駄目なのだ。今年一年、徹底的に貴樣らの文章を叩くからな。これからしばしば、ここは「つぼみ」だと言ふからその意味を教へておく。  10年位前の春先、2階のベランダで私がタバコを吸つてゐたら、こちらから幼稚園に入つたばかりの女の子が、そしてその反對側から80歳位のおばあさんが杖をつきながら來た。そして、幼稚園児が、おばあちゃん、私つぼみなのと言つたら、おばあちゃんが、さうよね、あなたつぼみよねと言つた。そこで私は思わず吹き出した。幼稚園児の言いたかつたことは、もちろん、私若いのといふ意味ではなく、幼稚園の1年つぼみ組に入つたといふ意味。自分が分かつていることは皆、おばあちゃんにも分かると思つてしまう。さう、おまえらの文章は全部つぼみなのだ。自分で分かつたつもりでも讀者には通じない。だから文章を書くといふことは、非常に倫理的なことだ。第一これは文章を書くだけでなく、もつと大事なことで、例えば、やがて結婚をする。女房に不用意なことを一言言つただけでもう決定的に…、といふこともある。だから、物を言ふこと、書くこと、表現するといふことは相手に正しく理解されるように全力を振るわなければいけない。振るつて良い文章を書かなければいけない」と言ゐます。 だから、江藤の惡文といふのはつぼみなのです。  もう一つ、西尾の文章です。小林よしのりの本の140ページに出てゐます。 アメリカが戰爭中、戰死した日本兵の頭蓋骨をアメリカにいるガールフレンドか何かに送つたのです。『ライフ』といふアメリカの雑誌に、それを前にアメリカの若い女の子が兵隊に礼状を書いている写真がでかでかと載つた、それを憤慨して書いているのですが、私は少しも憤慨しません。 國と國とは滅茶苦茶なことをやるのです。ですから私は、南京大虐殺のことを信じません。日本人はあれだけ残虐なことは出來ない、と思つているからです。それは1人や2人は試みに切りますが、10人位切つたら私たちは気持ち惡くなつてやりません。 しかし、ヒットラーはやりましたね。それは、ヨーロッパと我々の違いなのです。だから我々の國が優れている、などと私は言いません。この國は駄目な國です。さう言いながら私に愛國心があるかといふと、あるからこのような所で話しているのです。この國は駄目だといふ気持ちと、この國以外で私の國はないといふ気持ちと2つあります。 西尾や小林は、この國は駄目だと思つていません。もつぱら外國の惡口を言つてゐますが、戰爭になつたらあれくらいのことをやるのはあたりまえです。  ついでに言ふと私には、戰爭といふのはやる時にやらないといけない、戰爭は人殺しなので敵をいくら殺しても勲章をもらうんだ、國のためにやらなければいけないのだ、といふ気持ちと同時に、戰爭とは悲惨なものであつてできる限り避けなければいけないのだといふ気持ちの両方あるのです。 ところが、西尾たちは中國やアメリカ、イギリスのことは惡し樣に言つているではないですか。イギリスは惡魔が住んでいる國ではありませんよ。 我々のように英文學をやる人が、イギリスやアメリカをまるで大變優れた國のように思ひ、自國を惡し樣に言いがちで、それをイギリスこじき、アメリカこじきと言ゐます。私は残念ながら、あちらの見事だといふ所は潔く認め、自國の情けない所は情けないと思ひます。しかし、この國以外私が生きる國はないのです。 ところが、あちらには1つしかないです。石原慎太郎もさうですね。ああいふ人が當選するから、だんだん世の中は右よりになるのでせう。  西尾は「スペイン内戰當時、ドイツ空軍が爆撃した。ゲルニカの死者は3,000人だが、東京大空襲は一夜にして10万人を失つた」と書いてゐます。ひどい文章でせう。 東京は形容詞、大も形容詞、空襲は一夜にしては副詞ですから簡単に言ふと、空襲は10万人を失つたといふ文章になります。空襲は人の命を失うものではないです。 「東京大空襲によつて10万人の生命が奪われた、失われた」といふのが正しい文章です。  小林よしのりですが「騙されること、信じることは両面貼り合わせの1つの心理だ」と書いてゐます。これもおかしいです。両面接着テープは、はがすと両面接着します。1つの物を貼り合わせることは出來ません。  「日本兵を慰めてくれた慰安婦たちとつらい戰爭を耐へて耐へて死んでいつた祖父たち、戰果を上げた祖父たち、つら過ぎたが故に戰後日本軍をけなしたくなつた祖父たち、銃後で支えて戰時をくぐり抜けた祖母たち、全てに感謝して戰爭を語らう」と書いてありますね。  戰後、アメリカ軍が進入して來た時にパンパン、あるいはパンスケと呼んでいた日本人慰安婦がいたでせう。ご先祖樣全てに感謝して語ろうと言ふのならば、小林はパンスケにも感謝するのですか。やがて、土井たか子も大江健三郎、小林よしのり、皆死んでご先祖樣になります。後生の人は土井たか子にも感謝するのですか。さういふことも考えられないくらい、小林の頭脳はお粗末に出來ているといふことです。  それから、讀んだ方はご存知だと思ひますが、片方で東条英機のことを非常にほめているでせう。「東条は、間然としてアメリカの東京裁判なんて猿芝居……」と書いて、35ページでは「大東亜戰爭といふ政策は負けたうえ、犠牲者が多數出たことで東条英機ら軍參謀には責任がある」と書いてあります。  戰爭といふのは、やれば必ず片方が勝ち、片方が負けるのです。ですから、負けたことの責任といふものはありません。負けたことで責任があると言ふのならば、小林が忌み嫌つているはずの東京裁判史觀の上に立つてものを言つていることになります。勝負は時の運で、力がないから、弱いから負けたのです。私と小錦が喧嘩をすれば私が負けるに決まつてゐます。  私は小學校時代いつもいじめられつ子でした。何も惡いことをしてゐないのに學校に行くと「おい、松原こい」と陰に行つてけつたり、何か持つて來いと、當時は何萬圓持つて來いといふことはなかつたですから、次の日「めんこ」を持つて行つたりしてゴマをすつて苛められないやうにしました。  ようするに、私は惡くないけれど負けるのです、強い者が勝つのです。 「軍人の中にはこの失敗に對し自決して責任を取つたり、東京裁判で死刑になつて責任を取つたものもゐる」と、かういふずさんな文章を何十萬もの讀者が讀んで、慄然としないといふことがこの國の駄目な證拠です。  いいですか、皆さん。裁判で死刑になつたことは責任を取つたことではないのです。女を手篭めにし、澤山の人間を殺して死刑の宣告を受けてもそれは責任を取つた譯ではないのです。人を殺したことの責任は取れないのです。例えば、私がカワノショウイチといふ人間を殺す、日本中にカワノショウイチはたくさんいるでせうが、ここに居るカワノショウイチは未來永劫出てきません。クローンを作つてもそれは今私が附合つてゐるカワノ君とは違ふのです。さういふものを殺すのです。  イギリスのW・H・オーデンといふ詩人が、ある安つぽい詩を作りました。さうしましたら、私の尊敬するジョージ・オーエルが「人が殺される時、その場に居合はせたことのない人間だけがかういふ無責任で、没道徳的で、非人間的な安つぽい文章を綴るのだ」と批判したのです。  私は、同じ批判を西部や西尾、小林よしのりに言ひたいのです。  私は人を殺したことはないですし、人が殺された現場に居合はせたこともないです。しかし、人を殺す、人の命を奪ふといふことがいかに大變なことかは知つてゐます。それが片方にありますが、戰爭になつたら何10萬人殺さうが、あるいは非戰鬪員を爆撃しようが、廣島に無差別に爆撃機をやらうがあたりまえ、私の國だつていざとなつたら何をやつてもかまはない、といふ矛盾した兩方があります。ところが一方しかない、それが困るのです。だから、かうやつて深く考えず、死刑になつた責任とつた者がゐるとか、國内で、アジアで、南の島々で日本人が戰爭が終つてから敗戰の責任を取つて死んでいつた「もう償いは濟んでゐる」と書くのです。  「償ひ」という言葉は、惡いことをしたことが前提にあります。先立つて惡いことをしなければ、償いをする必要はないのです。 「もう償いは済んでいる」ということは、惡いことをしたということじゃないですか。日本は大東亜戦争で惡いことをしたわけではないのです。しかし、小林よしのりの言ふように、大東亜共栄圏という政治のために戦つたわけでもありません。 大東亜共栄圏とはなんですか。『共に栄える』でしょう。あんなもの、理想の名に値しないですよ。正義の名に値しないです。 皆仲良くやりましょう、ということじゃないですか。  武者小路實篤という男は繪を書く男で、これがときどき百貨店で安つぽい皿を賣つてゐるじゃないですか。 かぼちゃやピーマンの並んだ繪を書いて、「仲良きことは美しきかな」と書いているじゃないですか。  日本はその流儀でやつてきたんです。だから、東洋も皆仲良くやりましょう。東洋は、西洋諸國の植民地にされてゐるからこれを皆開放してやらなければいけない、というのは小林も後付けで認めてゐますが、そんなものは先にあつたわけではありません。  いいですか、私たちの國はヨーロッパ的な意味の理想や主義を掲げて、そのために戦争をやるという國民ではないのです。食べていければ、豊かに暮らしていければ何も文句がない國だつたのです。 だから日本中に神樣があつて、神社があつて、村祭りをやるでしょう。あれはみな、五穀豊穣を願つたり、豊作に感謝する祭りじゃないですか。  結局ご先祖を大事にすること、それから食べられることが何より大事なこと、正義や物の道義、そんなことは考えず生きること、これは大事ですが、人の上の人をいただいて、敬い、言ひ付け通り動いていく國、黒船が來るまではさういふものが傳統的な私たちの生き方だつたのです。 黒船がやつて來たといふ事が、今日の日本の惨たんたる状態を招いた最大の原因です。  日本が西洋を入れなければいけない、入れなければ生きていけない、しかし、西洋が入つてくれば傳統的な價値觀といふのは段々壊れて無根洋才になつて仕舞ふ。これはどうしたらいいだろう、という問題で明治の先人たちは血反吐を吐くほど苦しんだのです。  今日大阪に來て、マイク使つて、これ皆西洋伝來の利器じゃないですか。洋服、皆着ているじゃないですか。タクシー走つているじゃないですか。ビルじゃないですか。 さういふ風になつてなお、私たち日本人に誇りを持てといつたつて駄目なのです。ちょんまげ結つて、月代そつて、御領主樣、あるいは天皇陛下に、土下座して「下にー、下にー」と言つていた時代に戻らなくては傳統ある、誇りある教育もへつたくれもないのです。  右翼の言つていることを皆が笑ふのはそれなのです。「誇りある、傳統的な價値觀を取り戻す教育をやれ」という掛け聲は保守派も言ひます。右翼が言ふと笑ふけれど、保守派は知識人だから笑はないだけの話なのです。どこだかの大學教授だと思つてゐるから笑はない、しかし言つていることは同し、皆阿保だらけです。  誇りある教育に戻すというのはどれだけ大變か、どうして大變になつたか、ヨーロッパから平等思想が入つたからです。  天皇がただの人間だという思想も、欧米から人間は皆平等だという思想が入つて來たからです。これ、反撃できません。昔が恋しいという人は右よりになります。  私は、天皇皇室中心主義者ではありませんが、天皇は神樣である、私たちの母國は神樣の國であるという小林よしのりの言葉を借りれば『物語』が生きていた時代だから、特攻隊は死んだのです。  今の若い諸君に「この中に死ねる奴はいるか」と言ふと、いないのはさういう『物語』がないからです。虚構がないからです。 さういふものが生きていたから、子孫のために選ばれた人間だ、おまえやれと言つたら、帰りの燃料もないのにポンとやつたのです。  だから私は、あの人間は軽蔑しません。特攻隊を見事なものだと思ひます。しかし、小林が禮賛しているような禮賛はしません。ある意味では無駄死だつたと思つてゐます。なぜかと言ふと50年間誰も感謝しなかつたからです。  誰か特攻隊に感謝しましたか? やつと50年経つて言へるやうになつたから小林はこんなこと言つているだけじゃないですか。 総理大臣も參拝しないじゃないですか。なぜ無駄死なんですか。虚構がもう死んじゃつたからです。天皇陛下は神樣だつて信じている方、この中にいらつしゃゐますか? いらつしゃらないでせう。 しかし、こんなことを戰時中に言つたら私は憲兵に捕まりますからね。非難がうがうですよね。殺されるかもしれないですよね。それくらい、強硬に虚構が生きてゐました。今、生きていないです。 虚構というのは、一人の力で作るものではないのですが、しかし、人間が作るものなのです。  天皇陛下が神樣だという虚構は明治以降、大東亞戰爭で終つたのです。それを復活しようといつたつて、もう無理なんです。 黒船がやつて來て西洋の學問を學ぶことになつた、言つてみればパンドラの箱をあけてしまつたのです。  昨日私がホテルに帰つて、冷蔵庫を開けて寝酒のウイスキーを飲もうと取つたら、おつまみじゃないか、戻さうとしてももう戻らないのです。よく注意書きを見たら、いつたん抜いたら戻れないようになつてゐます、あれと同じなのです。  漱石も現代日本の開花について言つてゐますが、もう國を開いた以上、昔には戻れないのです。それは鴎外も知つてゐました。戻れないからといつて西洋の勉強を、影響を受けて色々やつてゐるうちに段々虚構が無くなつて仕舞ひます。私も昭和天皇は尊敬してましたが、今の陛下は少ししゃべりすぎですから一寸尊敬出來ません。  ですから、天皇は麻原彰晃なのです。つまり、人の上の人なのです。 天皇は神である、麻原彰晃、文鮮明は神であると信者は信じるのです。しかし、所詮人間ですから、いずれ馬脚を現すときが來るのです。  私は、どんな天皇が出てきても、日本のかういふやうな人なのだという虚構は維持されねばならないと固く信じてゐます。現に、日本史上に少しだらしのない天皇がいらしたことも事實です。だから、天皇は結局、人でしたけれど我々が先祖を敬つていく限り、天皇という虚構は大丈夫だろうと思つてゐます。しかし、乱暴な言いかたをすれば、人の上の人であるという点では麻原彰晃や、ブンセンメイと同じようになります。 さうしますと、いずれ正体がばれてただの人じゃないかということになります。だから、天皇陛下がいろいろ餘計なことをおしゃべりになつたり、旅行先で女の子と握手したりするということは全く困つたことであると思ひます。昭和天皇はさういうことはおやりにならなかつたですね。  つまり、天皇陛下は人の上の人なのですから、我々庶民と距離がなければいけないのです。 教師のかたならよくご存知でしょうが、教師と学生とに距離がないから学級崩壊が起こるのです。 距離を詰めることは皇室が民衆に親しまれるゆえんです。皇室が民衆に親しまれてはいかんのです。  ナマズの陛下がタイに隠し子があるのではないかというようなことが報道される自体が、日本人のジャーナリズムが皇室をいただいていることをどのように考えているのかということです。 このまま進めば、万一、ナマズの陛下が天皇陛下になつたとき、皆さん尊敬できますか? タイの女が、クリントンのように「私どうしてくれるの」と言つたら、暴露記事を書いたらどうしますか? だからもうこれは、天皇制の問題も日本人はまじめに考えていないよということです。  今の陛下がなぜもつと昭和天皇を見習つてくださらないか、人の上の人の作つた虚構というものはいずれメッキがはげますとだれも信じなくなり、だまされていたということになります。  だから、小林も書いてゐますが、オウム眞理教の聯中は皆だまされてゐたと言つてゐるぢやないですか。上祐や、何人かは今でも「麻原尊師」と言つてゐるけれど、權威がなくなつたら麻原の言つてゐたことも皆インチキだ、目が覺めてみたら私はだまされていた、となります。統一教會も、創價學會もさうですね。  さうなつたら困るのです。天皇がなくなつて困るよりも、むしろ天皇というのはなぜ貴いかといふと、それは先祖ずつと昔から續いてきたといふこと、これは左翼といえども否定できないのです。我々の中にご先祖樣を崇拝する氣持ちが殘つてゐる限り、天皇を私たちの國家元首として戴くといふ我々の文化は安泰だと思ひますが、これは怪しいのではないですか。  イギリスは良いのです、チャールズ皇太子が王室を廢止するやうになつても神樣があるから良いのです。私たちには天皇制を廢止して代りはありますか?  この小林よしのりも、代りはないと書いてあるでせう。統一教會にだまされた、では代りにこれがいいよ、と『代り』に價値觀てないでしょう。ないのになぜこんなことを書くのでせう。  我々は、ただ三度の飯が食べられて、豐かに暮らせて、他國から侵略受けないで、幸せな結婚して、子供がたくさん生まれて、できれば老衰か何かで安らかに死んで……といふことしか考へてゐません。さういふ時に國家、國家と言ふ奴は嘘なのです。  今日、非常に乱暴なことをお話したと思ふのですが、とどのつまり、私たちの最大の不幸は小林や、西尾の言つていることではないのです。  これだけヨーロッパの影響を受けてしまつて排除できるのでせうか。出來ないのです。ただ、できない、できないと言つてゐると、段々この國は根性のない、魂のない、惡文ばかり書く聯中にだまされる、そして、金儲けのことしか考へてゐない、さういふ國になつて仕舞ふのです。それではよくないと言つたら、代りに何か生きるための價値觀がないといけません。その價値觀とは何か、といふと無いですから過去を引つ張り出してくるのです。そして特攻隊を稱へたりして、その右よりの現象が起こつてゐるのです。だから、いつか來た道なのです。  今度もう一囘日本が滅びたら、だまされたということで、また反對に行きますよ。さういふこと、藝もなく繰返します。  それが困ると思つて私は右なのに右を斬つてゐるのです。今、私が憂いてゐるのは右傾化なのです、左傾化ではありません。  左翼はもういいのです。自民黨と野合して社會黨は弱くなつちゃつたじゃないですか。海上自衛隊が爆弾を落としても「けしからん」と言ふのは「土井のオタカ」くらいで朝日新聞もやりません。さうすると、言へるやうになつてから景氣のいい議論をする、それをまた、戰爭アレルギーのなくなつた若者たちが支持をするじゃないですか。そして世の中右よりになり、石原が「今度はアメリカだ」と言つて、アメリカが腹を立てて「日米安保条約、蹴る」と「ああ結構だ、自力でやる」ということになつて、今度またどこかの國にコテンとやられます。さうすると、過去を間違つていたとなります。  それではだめなのです。自分の中に愛國心、あるいは、ナショナリズムといつていい愛國心と、私の國はだめだなあという気持ち、兩方ないといけないのです。ところが、さういう議論といふのは解り難いですから、鴎外や漱石の言つていることは俗受けしないのです。小林よしのりや、西尾幹二の言つていることは、馬鹿な讀者が「さうだ、さうだ」と喜ぶのです。  日本のご先祖樣の中には、ずいぶん惡い人もいるし、立派な人もいました。國の中にはいろんな人がいるのですから、國、國と言つてはだめなのです。オタカも日本人じゃないですか。  ですから、さういうことではなく、自分の中に、この國はかけがえのない國だ、だからよその國から侵略されないやうにやらなくてはいけない、そして、いたずらに卑下してはいけない、もつと日本傳來のものを守らなくてはいけない、と言ひながら、あいつらは新假名で書いてゐるではないですか。  西尾も西部も、小林よしのりも、新假名遣いで書いてゐますね。  ここから町をご覧なさい。日本語がどれくらいありますか。皆、下手くそな英語やスペイン語、フランス語で書いてあるじゃないですか。自分の國の言葉を大事にしていないではありませんか。 「床屋」「理髪店」と書けばいいものを、それを「バーバー」と書いてゐる、しかも「AR」と「ER」間違へて書いてゐます。 「ヘアーサロン」てなんですか。あんな英語はないですよね。  自分の國のものを少しも大事にしないで、それで保守派と稱してゐるではありませんか。  江藤も略字新假名です。略字新假名なんか使つて書いてゐる保守派は形容矛盾だ、と私は書きました。何れれやつつけます。  保守すると言ふ事は、ご先祖樣の流儀を尊重すると言ふことでせう。言葉を變へれば、民主主義も結構だが、それは死んだ人間も數に入れた民主主義でなければいけないと言ふ意味です。  死者の數も入れた多數決でなくてはいけない、と言ふのはご先祖樣も重んじろといふ事、ご先祖樣の流儀を重んじなければいけないのです。併し、中には今日まうそれを、學ばう、眞似やうとしても、眞似できないものもあります。 「かごで大阪へ來年からこい」と言はれたら、私は來られません。途中、箱根のあたりで死んでしまゐますから。だから、西洋の利器を取入れる、これは仕方がないのです。げたをはいて、大小差して車運轉しろつて出來ないでせう。だから西洋の影響、これは仕方がないのです。  仕方がないけれど、日本人であるならば、日本人特有の文化も守らないといけないのです。  それは先祖崇拝です。ところが、少しも崇拝しません。お墓参りといつても、孫を連れて行くとおじいさん、おばあさんがお土産くれるから、懐かしいからつて行く人が多いのです。それでご先祖樣のお墓をきれいに掃除して、ご先祖樣に感謝つて日ごろ思つていないでしょう。さういふのが段々増えていくと天皇制が危ふくなるのです。  ご先祖樣の流儀の中で非常に大事な流儀は、假名遣ひです。それなのに、あの人たち皆、略字新假名書いてゐます。だから、言つてゐる事、主張してゐる事と、自分のやつてゐる事が違ふと、私は言ふのです。 ですから、物事は片附かないのです。片附けないといけないが、片附かないくらいやつかいな問題なのです。  やつかいだと思ふからこそ、書齋にこもつて、先輩達の書き殘した物を一所懸命讀み、たつた一人きりで讀者にどのやうに分かつて貰ふかと思つて書くのです。だから私はインチキな文章は書かないのです。  あの人たちはスローガンを書き流すから、私から「この文章なんだ」と言はれてもやれない、原稿書きで稼ぐのに忙しいのです。  そして、馬鹿な讀者がこれはひどい文章だな、かういふ文章は二度と讀むのはよさうといふ事をしません。書いてあることで、さうだよ言ふ通りだ、痛快、痛快……讀んでゐて痛快な文章とは皆インチキな文章なのです。  今日は意を尽くせなかつたと思ひます。今日納得できないと言ふ方も色々いらつしゃるでせう。私はやつても無駄だと思ひますが、これから月曜評論に、小林よしのり批判、西尾幹二批判も今日駆け足でお話したことをこれから書斎にこもつて書きます。  とりわけ、「天皇も麻原なんです」、なんて言ふのはある意味ずいぶんひどい暴論です。しかし、私が天皇は麻原彰晃並みの下らない野郎だなんて言ふ意味で言つたのではないことは皆さん御解りになるだらうと思ひます。  それは天皇陛下に、もつと距離を置いて頂かないといけないと言ふ注文をしてゐるのです。天皇が距離を置くためには、宮内庁の役人が距離を置くやうにちやんとしなければいけないのです。  昭和天皇がお偉い天皇であつたのは、乃木大将が若い時に教へてゐますからね。子供の時は天皇だつて、どんな天才だつて幼稚なことを考へます。  今の宮内庁の役人にそれはないです。だつて、今の陛下の家庭教師はアメリカ人だつたでせう。ですから、非常に天皇制は危ない状態になつてゐるのです。  今日はこれで結論の出ないまま終ります。  又、私來られましたら來年もありますし、月曜評論も讀んでゐない方は私が書いてゐるからと言ふ譯ではなく、今本當に數少ないミニコミ誌の中で一所懸命やつてゐますので、購讀してやつて頂きたいと思ひます。 終ります。