【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説1−A 批判的な他者」 【 日時 】00/04/16 00:13 【 発言者 】棺光一  「批判的な他者」−−。 私、棺はいままで何度なくくりかえしそう書いてまいりました。ここでは、それをあらためてご説明いたしましょう。 まず、「批判的」ということばについてですが、人々はよく「批判」ということばを「非難」と混同して考えることがあります。もちろん、これは誤りです。非難は、反感や嫌悪という「情」を下敷きにした感情的なものであり、いままで述べてきた「情の共同体」(*)を背景にしたときに生まれることばにすぎません。 すなわち、「非難」というのは、濃淡の差こそされ、政治的言語(*)に属するものということです。 また、人々のなかには、「批評」と「批判」とのニュアンスの差異をおさえられない人もおります。そこで、まずこのちがいから説明いたしましょう。 人間にとって「批評」という行為が成立するためには、何が必要でしょうか? その第一は、批評する対象・客体の存在です。絵画・音楽・演劇・文学などの現実作品から、時世や人物・組織・思想まで、この世には「批評」する客体・対象はあふれかえっております。しかしながら、それだけではもちろん「批評」行為は成立いたしません。 第二に必要なのは、自己というものです。すなわち、その客体・対象を(美学用語で言うならば)「観照」する主観の所在です。絵を見ても、詩歌を読んでも、大事件にも遭遇しても何も動かぬこころしか持っていないのであれば、当然、「批評」は成立しません。したがって、モチーフを形成する感性なり情感なりというものが自明のものとして備わっていなければならないということになります。 しかし、客体・対象があって、それにこころを動かされた自己(主観)がゆたかな感受性をそなえていれば、それで「批評」は成立するのでしょうか? ちがいます。この二条件しかそろっていないと、「すごい、すごい」という叫びも「きゃあ、かわいい」という嬌声もともにりっぱな「批評」ということになってしまいます。そんなばかげたことはありません。 そこで、第三に、「客観性」というものが必要となってまいります。客観性を証するものは、それではなんでしょうか? 言うまでもない、それが「ことば」というものです。 自分自身がその対象客体から受けた鮮烈なる印象や感動(プラス・マイナス両方ふくめて、美学では「感動」と呼びます)を、人々に十全に伝えるために、説得力ある論理構成なり、的確な語彙選択や表現なりをとって「一つの完結した言語宇宙」をなしえたときに、「批評」というものははじめて成り立つのです。 ターボさんは、以前、「それもあなたの主観なのです」というような表現を書きましたが、ある主観から飛び出た言語宇宙がひとつの客観性をそなえ、説得力(リアリティー)をもつという前提がなければ、この世には芸術や文学や思想は成立いたしません。説得力をなすものは、とどのつまり、こうした客観性を模索するための、人知れぬ「言語との格闘」という孤独なる作業なのであり、その作業の全き貫徹を直感してはじめて、人々はその言語宇宙が一つの主観から生まれたものであるにもかかわらず、共有し、ときには人類の知的財産として認定するということになります。 まとめましょう−−。 「批評」が成立するには、客体対象と、自己の感覚・感受性と、客観性を志向する言語の構築が必要である−−。 言い換えるならば、こういうことになります。 生来の、あるいは人生上の経験によって培われた自己の見識・洞察力・感受性やセンスといった精神能力を駆使し、その対象や客体に迫り、美学者の用いる用語に即するならば「直観」「観照能力」によってその本質を把握し、それに合致したことばを自分自身で的確に選択構成しながらその対象・客体を移設再現把握すること これが批評なる行為ということになります。つづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説1−A 批判的な他者」 付録 【 日時 】00/04/16 00:14 【 発言者 】棺光一 付録:心さん、bbさん、高橋さん、ターボさん、読者さんらを見ていたとき   に私、棺が感じたのは、こうしたきびしい言語的模索による例の会批   評ではありませんでした。「情の共同体」にとどまる情による政治的   言語でしかありませんでした。ははは、憂国系というけれども、その   実、内ゲバがすきだということは、見事に脆弱なる日本人の精神の典   型例であるというのが、棺桶が呼び込まれるきっかけでしたね(笑)。   いままた「隣の見すぎ」という方がどこかの掲示板で例の会の歴史を   投稿しております。これは偽史の類を作りたがる人間精神の隠喩とし   て照応しております。偽書の類へのエネルギーはすべてが我執による   妄想でしかありません。その点、歴史と政治の関係を熟知している中   国人は、歴史を記すに非常に長い年月をかけて徹底的にそれを相対化   してから、それを行うという文化を持っております。   「隣の見すぎ」というお方は、この点で、中国人とは違う脆弱なる我   執のかたまりであり、我執によってカルトを生じさせるにふさわしい   帰属意識と依存心のかたまりであると認定されるのです。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説1−B 批判的な他者」 【 日時 】00/04/16 00:16 【 発言者 】棺光一  さて、「批判」というのは、下の「批評」の完結をなすことのできる知的能力をそなえた人々によって下される価値判断を含んだ言語です。おおむね是と非と両方そなえるのが普通なのですが、世間一般では、「批判」=「非難」となることが多いようです。 これはなぜでしょうか? 近現代社会では、言語を先端的に有する人々は、知識人と呼ばれる種族であり、それは先進国の場合、大学教授や弁護士・医者などの専門職と、言語を生業とする種族で構成されてしまっております。 こうした人々は、ほとんど大半が自由業であり、先進諸国で最も多数のサラリーマンという組織人ではありません。このことはたいへんに重要な精神背景になります。 すなわち、個人主義的な人生や価値観の選択可能な位置にはじめから存在しているということだからです。したがって、前に記した1、効果を見込んで何かをなすために「言いたいこともがまんしなければならな  い」集団主義にいるのではなく、2,孤独を癒すために「言いたいことを言っても罰せられず、言わなくてもいいこ  とを言っても許されてしまうもたれあい」の恋愛ごっこの情の共同体にいるのでもなく、3,その両者を脱却して、日本近代が達成しえなかった「個人」として生きる価値  相対主義を生きやすい状況にいるわけです。したがって、8割「是」でもあっても、2割の「非」すなわち、主客の差異と言うべきものを大事にして価値判断しがちになるということになります。 近現代社会の先進諸国では、教育を受けるということは、ある意味、迷信や前近代の遺物にひっかからない精神の修養を意味してきましたが、このことは、同時に近現代社会の先進諸国では、インテリゲンチャが最も価値相対化をなす人種であるということになったわけです。 近現代の教育というものは、このようにそもそも、「価値相対化」をなしえる知性を身につけるために発展してきたのですが、近頃の日本では、高学歴であるにもかかわらず、カルトなどにはまる若者があとをたたず、脆弱なる精神をさらして社会をさまようすがたは実にあわれに感じます。その理由はまた別問題でしょうから省略して、あしたにつづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説1−C 批判的な他者」 【 日時 】00/04/16 00:18 【 発言者 】棺光一  つぎに、「他者」の方について述べましょう。 他者というのは、原義は他人・第三者のことでありますが、この場合はもちろんそういう意味をさすだけではありません。自分自身のなかにあるアルタルエゴと呼ばれるものもそれに含みます。つまり、自我を認識するもう一つの自我の目というものも含みます。 こうした目をもたない人は、ともすれば主観におぼれ、感情におぼれ、自制心をはたらかせることができません。すなわち、社会的には他人のことがわからないハタ迷惑野郎ということになります。インターネットのなかでは、暇つぶしにどうでもよいことを真夜中に短文投稿する投稿マニアのネット中毒者などが、これにあたります。通常、インターネットをはじめて半年後から1年半ちかくは、こうした症状に軽くかかる人々は決して少なくありませんが、その時期をすぎると、たいていの場合は、治癒していきます。 話をもどしましょう。 他者とは、「客観性をつよく自己に求めつづけ、自己自身を客体相対化するもの」と定義します(世間では、こうした精神を教養ある精神と認知いたします)。そして、ここで、批評=>批判=>他者を合体結合して、「批判的な他者」というものの全体像について総括定義することにいたしましょう。 ここでは、インターネットのモニター上の点の集合体である投稿文に即して定義することにいたします。 批判的な他者とは何か?  生来の、あるいは人生上の経験によって培われた自己の見識・洞察力・感受性やセンスといった精神能力を駆使し、その対象や客体に迫り、美学者の用いる用語に即するならば「直観」「観照能力によってその本質を把握し、それに合致したことばを自分自身で的確に選択構成しながらその対象・客体を移設再現把握した投稿文、であろうとなかろうと、それを瞬時に相対化してしまう「もう一つの(掲示板)状況」という名の客観的相対性ということになります。 個人主義者(*)として生き抜くには、これに耐えなければなりません。現代社会の言語の不毛(*)のなかをえんえん進むのが個人主義者としての生き方だからです。 しかしながら、集団主義の場合はそれには該当いたしません。なぜなら、集団というのは自分一人では動いてはいないものだからです。この点、くだんのお人について幽霊さんが昨日書いたことばは、企業や軍隊といった集団主義をご存知ないお子さんのことばだろうと推察いたしました。集団主義については、後半後日説明いたしますが、例の会は個人主義ではなく、集団主義である以上、ある状況下では、リーダーは組織への泥を避けるために、前線を退くというのは往々にして大人の社会にはあり得ることだからです。 しかしながら、日本社会ではこうした「集団主義」への理解が自衛隊などでもうすくなっているようで、「自分の判断で動いてはならない」と命じられているにもかかわらずに、自分の判断で動き、部隊に大迷惑をかける若者たちがふえてきているようです。企業も学校も軍隊も単なる「情の共同体」と化す日も近いことでありましょう。それほど、いまの日本人というものは、「情の共同体」を模索する脆弱なる精神のかたまりになりさがっているからです。友情・親子の情愛・・・、動物とかわりません。掟・きまり・ルール−−これが本来の人間社会の文化なのですが、さてさて、インターネットの掲示板を見てごらんなさい。 モニター上の点の集合体でしかないものを人間と錯誤認識し、ともすれば「情の共同体」を結びたがり、ともすればその崩壊やそこからの放逐に胸かきむしる人間ばかりがうじゃうじゃいるばかりです。いったいどうしてそうなのでしょうか? 我執によるものです。国や先祖よりも、そういうものを愛していると思いこみたい自分がかわいい、そういう我執しかないからでしょう。 あなたは、なんのために、インターネットをやっていますか? なんのために、なんのために、なんのために・・・。fefefefefe 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説2−A 不条理なる遭遇 【 日時 】00/04/16 06:04 【 発言者 】棺光一 価値相対主義とは、    批判的な他者との不条理なる遭遇を是とし、政治的言語に彩ら    れた我執PRの、えんえんたる不毛のなかでも、相互相対化の    ために、情の共同体を安易に結ぼうとする脆弱なる精神を排斥、    徹底的に個人として生きる、民主主義社会の基本的な精神のことです。前回は4回にわけて、「批判的な他者」についてお書きいたしました。今回は、「不条理なる遭遇」について記しましょう。 不条理とは、理屈に合わないということです。西欧では、20世紀文学としてアルベール・カミュや、20世紀演劇としてサミュエル・ベケットなどの例があげられます。前者の「異邦人」では、太陽が熱いから人を殺す、というフレーズが、後者では「ゴドーを待ちながら」、さいごまでゴドーはやってこないというドラマトゥルギーによって説明されることが多いでしょう。すなわち、人を殺すような動機がないにもかかわらず、人を殺してしまう、ゴドーを待っているにもかかわらず、ゴドーはとうとうやってこない−−そういう文学世界、それが不条理芸術と呼ばれるものです(「アメリカの悲劇」などもこれに含めてよいでしょう。殺すつもりだったのに女を殺せず、女を殺すのをやめた瞬間に、女が勝手に死んでしまうというものです)。 こうした不条理芸術は、現実に則せば、なかば当然起こり得ることを表現しているにすぎませんでしたが、それまでの芸術を相対化してしまう新しさを当時は持っておりました。19世紀の科学や産業の発達、宗教の終焉により、人類はリアリズム・実存主義という方向へと歩みを進めていきましたが、ある意味、リアリズムを究極押し進めたのがこの不条理芸術だったと言えます。 動機がないのに何かが起こる、いわれがないのに何かに巻き込まれる、意図がないのにそうなってしまう−−こういう芸術世界に、人々は驚愕しました。と同時に、大いに不満をもらしたであろうことは想像にかたくありません。「え−? なんで? そんな終わり方ありかよ?」という疑問が当然わいてきたことでありましょう。 いったい、なぜ人はそのとき不満になってしまったのでありましょうか? それは、因果という意味が完全に解体されてしまった世界観だったからです。 「てるくはのる」を解読しようとする脆弱なる精神について先日、投稿いたしました。脆弱なる精神というものは、意味を通さずにはいられないのです。ぐにゃぐにゃして不定形の無意味なこの世界というものが不安でしょうがない、それで、GHQの陰謀だ、ユダヤの謀略だ、朝日がすべて悪い、政府が、世の中が・・・と、ショッカーにかわる悪役というものをさがさずにはいられません。敵というものです(30代のサブカル世代の脆弱なる精神は、アニメーションマンガなどの単純な世界観と無関係ではないと推察されましょう)。 未成熟な精神、悪を措定せずにはいられぬ精神、それが私、棺の言う脆弱なる精神というものでした。 不条理芸術が当時、人々に不満をもたらせたのは、そうした意味で、まさしく、従来芸術の           相対化と言うべきものでした。不条理芸術家たちは、意味を奪い取った世界を提示して、それに耐えられぬ受け手たちの脆弱なる精神を嗤っていた、そう見ることも可能でしょう。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説2−B 不条理なる遭遇」 【 日時 】00/04/16 06:04 【 発言者 】棺光一  こうした意味を見いだしにくい状況を、ありのままに見据えることのできぬ精神は、ともすれば、ゴドーが来ないのは〜のせいではないか、ほんとうは太陽が熱かったからではなくて、殺す理由は別にあったのではないかなどとやりはじめてしまう訳です。 すなわち、自己満足でもいいからそこに勝手な意味を見いだして納得しようとしてしまう−−それをカミュもベケットもひそかにほくそ笑んで見ていたことは想像にかたくありません。意味なんかないんだ、これが世界なんだ、こういう世界がある、それだけなのだ−−。 不条理−−それは理屈に合わないことですが、しかし、現実なのです。 理屈にあっていなくてもあっていても、ある状況下では人は不当に逮捕されることもあれば、殺す気がなかったのに殺人犯にされてしまうこともある−−神なき20世紀思潮に、この「不条理」という概念は、こうして現実を突きつけていった訳です。 さて、「遭遇」とは出会いのことです。したがって、「不条理なる遭遇」というのは、理屈に合わない出会い、ということになります。 インターネットの世界は、不特定多数を相手にしておりますから、時には招かれざる客もあれば、ささいな行き違いということも不可避の出来事として存在しております。 自分はほんとうはそういうつもりではなかった−−それは泣き言でしかありません。自分がどんなつもりであっても、不条理に言葉は流され、状況はつくりあげられてしまう、これをまず透徹とした目で見据えなければなりません。つぎに、そのことで嘆いてはならないのです。分かってもらえない、理解してほしい−−これも泣き言でしかありません。 私、棺の言葉で言うならば、我執というものにすぎないのです。  「不条理なる遭遇を是とする」(=理屈に合わない出会いがあっても受け入れる)というのは、すなわち、つぎの意味になります。 意味が通らない、理屈に合わない出会いや状況に出会っても、嘆くことも恨むこともオリることもなく、淡々とその不毛を現実であると見つめ、その現実のなかに飛び込む気概を持つこと。 これを主体的に保持できないと、民主主義社会での政治というものに参画する精神は保証されえません。たとえば、自分の一票で政治なんかかわりっこないと棄権する人間たちがよくおりますが、自分の一票で政治がかわるというのは、意味を通そうとする脆弱なる精神に起因するにすぎません。よくテレビや新聞では、「あなたの一票で未来が作られる」などとスローガンが掲げられますが、これは大ウソです。ただ、意味を通したいという脆弱なる精神を利用して作られた自治省の政治的PRにすぎません。民主主義社会のほんとうのすがたは、こうです。「あなたの一票で、未来など作られるはずはない、何もかわりません」「何だと? 意地でも投票してやる」。すなわち、意味などない、しかし参画するのだ、この不毛の世界に・・・。これが成熟した民主主義の精神、すなわち価値相対化の精神なのです。意味などなくてもかまわない、世界にも人生にも何も意味はないだろう、しかし、自分は生きている、生きていられる−−そう認識できたとき、現代人ははじめてカルトや妄想や偽史の類の魔手を溶解させることに成功するのです。お分かりいただけましたか? 以上の「不条理」の説明は、この掲示板に参集する人々の精神と状況のアレゴリーでもあったのですが。fefefefefe.... 【タイトル】棺光一の「価値相対主義・基本用語解説3−A 政治的言語」 【 日時 】00/04/16 10:42 【 発言者 】棺 光一 ことばには、伝達・表現・宣伝の3つのはたらきがあります。 伝達というのは、「〜がほしい」「〜するにはどうしたいいか」など、必要に応じて自分の意思を他者に伝える機能のことで、日常生活ではたいへん最も多く用いられております。 表現は、伝達の一形態として包括される場合と、そうでない場合とに分けられ、前者は、「どんな人だった?」「どういう感じか?」などの回答として用いられる場合もありますが、後者の場合は、詩歌をはじめとする言語芸術一般をさします。すなわち、生活上の必要はないが、感動を目的とした人間社会の文化として、言語を用いた想像仮象芸術をさす場合です。 人間社会が、以上の二つのことばによって成り立っているものであれば、争いごとはずいぶん減ることでしょうが、現実はそうではありません。 ここに登場するのが、政治的言語というものです。 冒頭の分類では、3番目に宣伝となっております。政治的言語とは、宣伝を目的としたことばです。それでは、宣伝とは何でありましょうか? 宣伝とは、何かの効果を期待することを念頭において発せられることばということになります。たとえば、商品宣伝の場合は、商品の売れ行きをあげるという目的があります。政治宣伝や思想宣伝・宗教宣伝の場合は、自らの主張や考えを社会に浸透させるという目的があります。 つまり、宣伝=政治的言語というのは、常に「効果」を目的とするものだということがわかるでしょう。 さて、この宣伝=政治的言語という観点にたってみた場合、プロポーズのような言葉はどう位置づけられるでしょうか? ひとりの男が「愛している、結婚してくれ」とある女に言う。これは、自分の気持ちに素直にしたがった表白でしょう。その意味では、表現としてのことばというものになります。また、結婚してくれというのは、意思の伝達であることも疑う余地がありません。伝達のことばでもあります。しかしながら、同時に、それは、結婚承諾という効果を目的とした政治的言語でもある訳です(実際には政治的局面がおおかた固まったと判断して、成功への階段のてっぺんにおいて、とどめに口にすることが多いことは言を待ちません)。 プロポーズというのは、このように3つの機能を同時にあわせもつ人間社会ではまれな例として、相手の女には時と場合によって大きな感動を与え、忘れ得ぬことばとして記憶されたりもいたします。 しかしながら、政治的言語というものは、ほとんどすべての場合、人間社会では、むやみやたらと消費され、不毛なる相対化をえんえんとくるかえすのが常となっております。上に、そのプロセスについて書いていきましょう。つづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説3−B 政治的言語」−−情・理・義 【 日時 】00/04/16 18:10 【 発言者 】棺 光一  政治的言語というのは、二つの精神から発せられます。 1,不快・憤怒・反感・恐怖といった生々しい感情   (野嵜さん・木村さんほかこの掲示板の投稿者の大半) 2,何かの効果や状況作りを期待しての戦術的・戦略的な狙い 現在の政界にこれを用いれば、野党精神と呼ばれるものが「1」となり、与党精神が「2」ということになります。また、男と女の場合になぞらえれば、女性は「1」、男性は「2」ということになりましょうか。若輩者と老練者なら、「1」が若輩者、「2」が老練者ということになるでしょう。親子・師弟・上官部下すべて、この法則で説明することができます。 したがって、私・棺がこの掲示板に呼び込まれるきっかけとなったハンパ右翼の心さんの投稿にある「上官人柄論」というのは、女性化した感情論でしかないことがお分かりいただけるでしょう。 効果をあげることが結果責任として問われる世界で、その人柄を言うのは、民主党や共産党にしばし見られる野党精神にすぎません。思想ではなく、小沢一郎がすきかきらいかだけで割れてしまう政界と、この憂国掲示板にこの二か月表れた現象とは、全く共通する現象として、私、棺には興味深く思われました。 日本人というのは、さほどに「情の共同体」しか目に見えないのです。すなわち、脆弱なる精神の持ち主にすぎません。しかも、政界のことを批判しながら、自分もその轍をふんでいることにさえ気づかない、これがネチズンにも脈々と通うこの国の糞民精神なのです。したがって、弁証法的止揚など期待できるはずもありません。 ところで、1と2とは、そのまま「情」と「理」とに峻別できるぐらいにはっきりと分けられておりますが、「理」は「情」にすべて勝るかというと、世の中、そんなに甘くはありません。というのは、二つ理由が考えられます。 ひとつは、情にかられた女性的なものでも、反復の執念が何やら効果をもたらす場合があります。すなわち、我執の強さというものです。 ふたつめは、第三者の受け手の側に存在する文化精神としての「判官びいき」や「弱者救済」などの感覚です。どうあっても、理としては分がないが、筋は通らないが、同情せざるを得ない−−日本人には、そういう不可思議な感覚が民族感情として存在するのは事実でありましょう。 したがって、政治的言語がぶつかりあうときには、かならずしも理が勝つとはかぎりません。「情の共同体」というのは、さほどに理を忘れ、勢いで理を押しつぶしていくことも、稀にあります。それがカルト集団内などには往々にしてよく見られます。 しかしながら、ほとんどすべての場合、情は「理」に負けてしまいます。何故ならば、はじめの政治的言語の発生源がしょせん「情」でしかないからなのです。 情というのは、私的なものにすぎません。公的な情というものは、理論上、存在はいたしません。その私的なものにすぎぬ情におぼれるというのは、我執のなせる業ですから、当然、そこには、政治的言語がぶつかりあうときに勝敗を決する第三の要因、すなわち「義」が欠如しているのです。 たとえば、くだんの会への誹謗中傷を書く掲示板に書く人々には何か「義」がありましょうか? ありません。嫉妬や羨望といった感情しかないその投稿にあらわれた芸能レポーター的感覚から、それは明らかに我執の感情によるものです。衝突しあう思想がないのです。これは、まさしく、小沢一郎やあるいは与党をたたくときの野党やマスコミに、「それならどうするのか」と言われたときの義をそなえた対案がまったくないのと相似形をなしておりましょう。 義−−それが、悲しいかな、ぜんぜんないのです。したがって、誹謗・中傷・罵倒などの政治的言語・我執垂れ流しの自己PRしか生まれてはこないのです。 これが、日本人の脆弱なる精神の実態です。すなわち、思想や信条や信念ではなく、いつでもどこでも「情の共同体」「情の共同体」、だれそれがすきだ、きらいだという「情の共同体」によって状況がきまる−−これが日本人のデフォルトの脆弱さなのです。  ところで、義とは何でありましょうか?その前に、つい最近起こった政治的出来事について記しましょう。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説3−C 政治的言語」 【 日時 】00/04/16 18:13 【 発言者 】棺 光一  私、棺は以前、野嵜さんにあてて、あなたは目の前の力士を見ているが、私、棺は土俵自体を相手にしていると書いたことがあります。つまり、投稿者自体ではなく、インターネット掲示板の言葉たち−−それを相手にする、それが私、棺の基本的スタンスでした。 これと同様のことをやったのが、石原です。石原の今回の銀行への課税制度の導入には、    1,都の財政再建    2,銀行へのルサンチマンの解消による世間からの拍手喝采の期待    3,共産党が提案したにしても、実行したのは自分であるという反共精神    4,横並びを念じていた他の府県知事への鞭撻    5,何もしない中央への当てこすりと、ちょっと考えただけでもさまざまな目的が効果としてあることが分かるでしょう。政治というのは、一つの目的のために、一つの動きをするわけではありません。大抵の場合、錯綜したいくつもの目的を効果として期待しながら進んできます。そして、大事なことはそこに「義」がなければならないということです(先日の定数削減法の投稿を参照して下さい)。 今回の石原案には、銀行がすでに義をうしなってしまっているという背景があります。あれだけバブルのときに無担保で貸したにもかかわらず、中小企業には金を貸さない。しかも、経営破綻が迫れば、公金を注入される。行員の待遇は、世間とはすれて高く維持されたままである−−このような背景があれば、たとえ、他業種への課税に広がるのではないかという不安や、課税分だけ預金金利を下げられるのではないかという心配があっても、世間は拍手をし、マスコミはたたく材料が見つからず、都議会も賛成せざるを得まいというのが、都知事サイドの計算だったと推察されます。 そして、見事にそれは成功しました。 本来、銀行や大企業を目の敵にするのは、旧来の分け方でいえば、左翼論理でしかありませんでした。しかしながら、超保守の石原は、銀行を守るという中央に反旗をひるがえし、世間に向かうことで、「義」を手にしてしまった訳です。共産党も自民党もおもしろくないかもしれません。しかしながら、反対する理由はない、したがって賛成せざるを得ない−−目の前の力士とのぶつかりあいから生まれる妥協ではなく、一気に土俵をとる、そういう相対化精神によって、石原はこの案を世間に認めさせた訳です。■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説3−C 政治的言語」 さて、みなさん、私、棺は価値相対主義を基本とする個人主義者としてインターネットを生きる者ですから、「情の共同体」を否定すると再三再四書いてまいりました。 情の共同体を志向するためには、いままで書いてきたように、秋波モードや罵倒・冷笑といった政治的言語の反復が必要でもありましょうが、私は、ネットにただ一人きり存在するのが目的ですから、そういうことはいたしませんでした。最もよく理解してくれた読者さんのことも、言葉の花を見事咲かせたイサクのパパさんのことも、情の共同体としてとらえずに、モニター上の点の集合体でしかないと冷厳に客観視するように努めてまいりました(もっとも、こういうことが可能なのは、愛する者に囲まれ、信頼できる友人を持ち、目的ある暮らしを現実に送れるからにほかなりません。現実でも孤独であるならば、どうしてこのような孤独なる不毛な作業に耐えられましょう。fefefefe)。 さて、みなさん、情の共同体が欲しい、そこに抱かれていたい−−そう思い始めると、政治的言語が乱発されるようになります。好かれたい、嫌われたくない、へんなやつだと思われたくない−−これらは、我執にすぎませんが、人間、脆弱なる精神の持ち主のほうが圧倒的ですから、それを免れることはなかなかできないでしょう。 個人主義・情の共同体・集団主義−−これについては、今後述べてまいります。 不毛・相対化・脆弱なる精神を加味して、私、棺の  価値相対主義 −− インターネットという思想の思想哲学は、いよいよ近い内に佳境を迎えることになりましょう。fefefefefefe.... 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説4−A 我執というもの」 【 日時 】00/04/17 04:07 【 発言者 】棺 光一  価値相対主義とは、  批判的な他者との不条理なる遭遇を是とし、政治的言語に彩ら  れた我執PRの、えんえんたる不毛のなかでも、相互相対化の  ために、情の共同体を安易に結ぼうとする脆弱なる精神を排斥、  現代社会にあって空洞化した言語、無力化した言論の状況を認  識しつつ、なお極力客観的に主体的に発言をすることで、徹底  的に個人として生きる、民主主義社会の基本的な精神のことです。今回は、「第1回・批判的な他者」「第2回・不条理なる遭遇」第三回「政治的言語」につづき、不毛化の、あるいは政治的言語の乱発につながる要因として、再三再四ふれてきた「我執」というものについて説明いたしましょう。 人間は、生きものですから、当然、感情をもっております。喜怒哀楽、人によってその強さや起伏の度合いにちがいはあっても、あるいはいまのこどもたちのように、それを表現するのが苦手であっても、他者にどう見えようが見えまいが、それぞれの人間に感情の存在を否定することはできません。 しかしながら、人々が、その感情を露骨に表現したらどうなるでありましょうか? 当然、社会というものは成り立ちません。感情は、理性というものによって制御されなければならない−−これが、万国共通の教養であり、また成熟というものです。 もっとも、人類の草創期から、そのような文化があったとは想像できません。原始の時代には、ささいなことで人が殺されてしまったり、傷ついてしまったりというようなことは日常茶飯事であったかもしれません。 しかしながら、人間には、たぐいまれなる学習機能がそなわっておりました。そこで、人々は、これではいけない、このままだと滅びてしまうぞなどと予感したのかしないのか、社会のルールとして、自らの感情を露骨にあらわさず、それが反社会的なものであると自己認識した場合、それを制御する術をしらずしらずのうちに発達させていくこととなりました。 しかしながら、インターネットは、まだまだ黎明期、というよりは原始時代にあると言ってよいでしょう。プロメテウスから火をもらった人類が狂喜乱舞しておもしろがったように、いままた、インターネットというコミュニケーショーンツールをアメリカ軍からもらった日本人たちは、原始の火を手にした人間たちのように、はしゃぎ回り、精神や言語という人類の歴史の発展を無にするかのように、やれ「チンカス野郎」やれ「包茎チャン」やれ「バカ」やれ「死ね」やれ「殺す」だのと、面と向かってはとても言わないであろう言葉を吐ける「王様の耳はロバの耳」の穴のように、このツールを浪費してやみません。 客観性はうしなわれ、論証することもなく、議論の流れもなく、はじめ・なか・おわりもなく、えんえんたる日常さながらに、ことばが消費され、垂れ流されてゆく、それがほとんどでありましょう。 しかしながら、そうは言っても、インターネットというものが、すでに話した「批判的な他者」と出会うツールであることは否定できません。というよりも、人々は、そこに自分ではないと認識するものを(たとえ、それがモニター上の点の集合体であるにもかかわらず)感じるからこそ、夢中にもなるのでありましょう。 この夢中になる動機に「我執」というものが横たわっているのです。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説4−B 我執というもの」 【 日時 】00/04/17 04:08 【 発言者 】棺 光一  我執とは、我への執着ということですが、執着する対象は、自己の感情というものです。すなわち、うれしい・かなしい・ムカツク・たのしい・くやしいなどの自己の感情です。 人は、ある感情をもったとき、それを解消するか、克服するか、溶解させなければ欲求不満状態になる動物です。したがって、ムカツイたときに、微笑むような投稿をなしたり、相手に罵倒されても平然としていられるのは、相当に上等な精神と言うことができますが、ふだんの暮らしとは異なり、インターネットでは現実生活以上にモロに感情が噴出することがまま見受けられます。 これは、車の運転や、酒を飲んだときによく似ております。 ふだんはおとなしい紳士的な人間の車に同乗して、その乱暴な運転ぶりにおどろいたという人は多いことでしょう。また、いつもは内気で感情をあらわにしない人間が酒を飲むとまるっきり人がかわるという例も、枚挙にいとまがないでしょう。  インターネットにも、このような面があります。ネットにつなぎ、キーボードをたたいていると、人がかわったようになってしまう人が、一定数存在するのです。まして、そこに、後日くわしく述べる「情の共同体」が加われば、その我執すなわち自己感情解消満足へのこだわりは加速され、えんえんたる罵倒合戦がこれでもか、これでもかと進む不毛なる風景を目撃しなければならぬことになってしまいます。実に、脆弱なる精神の風景と言うほかはありません。 また、日本人というものには、そもそも「関わりたくない」という社会的反応を伝統的に持ち合わせている民族です(まあ、どこの国でも程度の差こそあれ、みなそうにはちがいありませんが)。さきの戦争中に、大陸にいた作家・安部公房は、かの地で、こんな風景を見たと書いておりました。 「朝鮮人というのは、別の朝鮮人が支那人の集団なんかにいじめられていると、多勢に無勢に不利だとわかっていても、そのなかに飛び込んで、同じ朝鮮人の助太刀をするんだな。それが日本人の場合だと、別の日本人がいじめられていても、不利だと見ると、加勢しないで、すぅっと目をふせてとおりすぎていく」−−。 人の喧嘩のきらいな人は、あまりおりません。したがって、罵倒語はあっても、罵声の決して飛び交わないインターネットなら、たいていの場合、喧嘩が始まると、アクセス数は一時的にあがったりいたします。そして、喧嘩している当事者同士が、自分より何となく格下であると見ると、とたんに裁定や調停がはじまることもありますが、あまりに喧嘩が長期化したり、当事者間のあいだに割って入りたくない感情が存在すれば、これは安部公房が指摘した大陸の日本人のようにROMに徹するか、さもなければ、その掲示板をろくすっぽ読まなくなるのが常でありましょう。 ネット喧嘩をはじめる当事者たちだけではなく、すなわち、我執というものはROMのなかにも存在しえる訳です。自分かわいさ、いや、自分の感情の解消・満足・維持のために。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説4−C 我執というもの」 【 日時 】00/04/17 04:08 【 発言者 】棺 光一  まえに、「情・理・義」ということについて記したことがあります。そう書くと、はなはだ東洋的な感じがいたしますが、理や義は、価値相対主義的な物の考え方を自己に応用すれば、かんたんに説明することも可能でしょう。 まず、生物である以上、人には喜怒哀楽の感情がある(情)。 次に、それを相対化して、人を説得したり、自己を理解してもらうための言葉を「客観的に」組みたてて持つ(理)。 次に、それが大局的に見て、表現されるべきものであるか、自己の信じる価値にしたがって検討し、必要ならば何があっても目的のために邁進すると誓う(義)。 もともと、ことばというものが、自己に対して相対化機能をそなえていることは、すでに多くの人々が感じているはずのことでしょう。たとえば、悲しいときに人に話す、すると気持ちが楽になる、悩んでいるときに、それを日記に書く、すると頭が整理される−−そういう経験をした人は多いでしょう。 ことばというのは、このように、表現することで自己を救済することもありますが、悲しいときに、見知らぬ通行人相手に話すバカはおらず、日記を人に見られてよろこぶバカもいないでしょう。つまり、こうしたことばの表白というのは、もともと相手や手段を選ばずにはいられない「恥ずかしい」ものなのです。 ところが、インターネットでは、それが噴出してしまうことがたびたびあります。日記のように「あいつなんか死ねばいいんだ」などと、だらしなく精神の肛門がゆるんで、ことばの脱糞が始まる訳です。なぜそうなってしまうのでしょう。 それは、一人でパソコンに向かって書いている状態が、則「公」につながっているという意識や想像力を持つことができないからだと推察されます。そう、それは、窓をしめた密室でハンドルを操作しながら、実は始終、他者や社会と接している車の運転以上に、おそらくは人をかえてしまうものなのです。 しばしばネット掲示板で書かれることばの一つにこういうものがあります。「いや、実際会ってみると、悪い人ではないんだよ」−−私、棺はこういう言葉を嗤います。酒や博打と同じように、私、棺はネットをとらえております。つまり、ほんとうの「地」が出るのは、実際会ったときではない、ネットの中である−−という認識です。 そして、この認識が実は当を得たものであることは、この項を読んでくれた人々にはよくご理解いただけることでしょう。 その人間の本質が出る、我執が垂れ流されやすい−−ネット時代には、そういう側面があるのです。いっそのこと、車の免許のように、免許制にすれば、醜悪なことばは放逐されるかもしれません。いえいえ、何やらSFめいておりますが、ネットにかかわるもろもろのことを、即座に裁定するネット警察やネット裁判所なども、やがては登場するやもしれません。インターネット免許制は、あながちSFめいてはいないかもしれません。 人々に「我執」があるかぎり、ありかぎり、あるかぎり・・・・。fefefefe,... あなたは、何のために、インターネットをやっていますか。 糞のようなことばと情報の垂れ流されるこの時空間が、そんなにたのしいですか? あなたは、インターネットに対して、何ができますか? 国を憂えるのに、インターネットをどうやって使いますか? fefefefefefe... 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説5−A 不毛というもの」 【 日時 】00/04/17 15:26 【 発言者 】棺 光一 価値相対主義とは、  批判的な他者との不条理なる遭遇を是とし、政治的言語に彩ら  れた我執PRの、えんえんたる不毛のなかでも、相互相対化の  ために、情の共同体を安易に結ぼうとする脆弱なる精神を排斥、  現代社会にあって空洞化した言語、無力化した言論の状況を認  識しつつ、なお極力客観的に主体的に発言をすることで、徹底  的に個人として生きる、民主主義社会の基本的な精神のことです。今回は、「第1回・批判的な他者」「第2回・不条理なる遭遇」「第3回・政治的言語」「第4回・我執というもの」につづき、「不毛というもの」について記すことにいたします。 しかし、その前に、下投稿を見ると、理解不足による誤解が見られますので、「批判的な他者」というものについて捕捉しておきましょう。 「批判的な他者」とは、未知のものであることが理想です。既知のものでは、他者としてのインパクトはありません。「ああ、あの手の類だな」と、いとも簡単に分類相対化されてしまうからです。「おお、いままで見たこともないようなタイプだ!」−−これが、究極の「批判的な他者」というものになります。したがって、新しい芸術というのは、常にそれまでの芸術に対して「挑戦的」かつ「批判的」な機能をもって立ち現れてくることになるわけです。 しかしながら、人には「我執」というものがついてまわりますから、未知のものであるにもかかわらず、既知のものだと思いこもうとする場合もあります。「ふん、どうせ、あの手の類なんだ」と無理矢理、自分を納得させるような場合が人間には往々にしてあるわけです。 それでは、その我執つよき人間たちにとって、ほんとうに「未知」のものであるかはどうしたらわかるのでしょうか? インターネットの場合は、これが実に単純です。 ROMにとってほんとうに既知の場合には、関心がうすいので、フォローアップやレス(と呼ばれるもの)がつかないか、ついても非常に少ないのです。反対に、真に未知なるものの場合は、やたらにフォローアップがなされ、レスがかえってまいります。人を無関心にはおいておかない魔力があるのです。 こういう場合には、そのレスのなかで、相手がいっしょけんめいに、既知のものへ振り分けをしようと投稿文を書いても、投稿文を投稿すること自体になみなみならぬ「関心」が横たわっていることを表明しております。 自己の死に無関心な者はおりません。したがって、私、棺に無関心でいられる人々もまた少ないのでしょう。それが、この掲示板のこの50日以上にも及ぶ状況で明らかになりました。 私、棺に対して、30名近くの人々が、無関心ではいられなかったのです。 ああ、なんという脆弱なる精神でありましょう。棺に目がいってしまう−−これが人間の弱さなのです。fefefefe... 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説5−B 不毛というもの」 【 日時 】00/04/17 15:26 【 発言者 】棺 光一  「不毛」というのは、何ものをも生みださないということですが、ここでインターネット自体をながめてみることにいたしましょう。 インターネットは不毛である−−この文は真実ではありません。たとえば、ラジオやテレビのニュースの時間を待たなくても、自宅に新聞の宅配が来なくても、私たちは、ネット上で時間や場所を問わずにニュースにふれることができるようになりました。また、販路を持たない生産者でも直接、消費者と商品のやりとりができるようにもなりました。さらには、ちょっとした調べものをしたいときにインターネットほど便利なものはありません。 インターネットはたいへんな可能性を秘めている−−こういった方が真実に近いでしょう。 しかしながら、議論系・思想系ネットに展開されている風景は、必ずしもそうではありません。議論が対立してUG的罵倒に陥るか、気の合う仲間同士で「情の共同体」が結ばれるか、大半はそれでしかありません。また、議論が成り立つための条件(発言者の自己同一性・発言機会の公平性・議論の全き形)もそろっておりません。 すなわち、もともと不毛なものだったのです。 また、情報系掲示板にしても、以前、指摘したように、その情報の大半は、通信社・新聞社からの無断転載であり、独自情報があれば、今度はそれはそれで裏付けや検証のないあやしげなものばかりの状態にすぎません。いずれにしても、やはり不毛です。 あるいは、1月上旬までこの掲示板上でもあったように、ネットのなかの些細なことであるにもかかわらず、天下の一大事のように騒ぎまくる我執垂れ流しの政治的言語による自己PRと罵倒、あるいはまた政治団体のスローガンのように月並みなアジテーション文章、檄文、おおよそそんなものしかないとい意味でもやはり不毛であると言わなければなりません。 くりかえしになりますが、議論系・思想系ネットは、もともと不毛だったのです。何ものを生みださない、そういう意味での不毛が「情の共同体」として広がっているばかりだったのです。 私、棺は、それをことばの面から解体分析してつきつけたにすぎません。また、集団主義として例の会を引用しつつ、その対極に個人主義である私、棺をおいて残りの人々はすべてその間にはさまれた「情の共同体」の一員であると淡々と指摘してきたわけです。 インターネット自体には可能性がありましょう。しかしながら、インターネット掲示板には、可能性はありません。未知のものは今後出てこないでしょう。 たとえば、発言者の自己同一性は保たれ、発言機会も公平で、かつまた序破急でも起承転結でもそろった全き議論のかたちなどは、いまのインターネット掲示板に参集する人種を見れば、なかなか望むべきもないことである−−そういうことなのです。 しかしながら、現実や日常が、それでは不毛でないかといえば、これはこれで十分に不毛でありましょう。民主主義社会には、これぞと思うようなストーリーなど存在いたしません。えんえんたる不毛を約束する−−それが民主主義社会です。 しかしながら、生きるとはこういうことなのです。歴史には、あらかじめ約束されたスト−リーなどはありません。陰謀もありません。(ほんとうはあるにしても、知ることができない以上)はじめも終わりもないものと認識するのがただしい精神的態度なのです。 【タイトル】棺光一の「価値相対主義・基本用語解説6−A 相対化」 【 日時 】00/04/17 17:42 【 発言者 】棺 光一 価値相対主義とは、  批判的な他者との不条理なる遭遇を是とし、政治的言語に彩ら  れた我執PRの、えんえんたる不毛のなかでも、相互相対化の  ために、情の共同体を安易に結ぼうとする脆弱なる精神を排斥、  現代社会にあって空洞化した言語、無力化した言論の状況を認  識しつつ、なお極力客観的に主体的に発言をすることで、徹底  的に個人として生きる、民主主義社会の基本的な精神のことです。今回は、「第1回・批判的な他者」「第2回・不条理なる遭遇」「第3回・政治的言語」「第4回・我執というもの」「第5回・不毛というもの」につづき、「相対化」について記すことにいたします。 「相対化」の「相対」とは、どういう意味でしょうか。 それは、文字どおり、相手に対しているという意味です。相手と向き合っている、すなわち、お互いに関係しあっているということになります。 つまり、「関わり合う」ということが相対化の基本概念ということになります。この対極にあるのは、「絶対」というものです。それは、たとえば、母親の胎内にいる胎児の世界のようなものを思い浮かべれば、実感されることでしょう。他者と関わり合うことがない世界−−それが絶対というものです。 私、棺はいままで再三再四、インターネットは究極の相対化ツールである、また民主主義社会の基本は相対化にある、と述べてまいりました。 インターネット掲示板に存在する投稿文をいうものは、実際は人間ではなくモニター上の点の集合体でしかありません。しかしながら、そこに意味のあることばがならんでいれば、投稿行動自体が究極、無意味・無目的なものであっても、それと関わりあうことは可能です。たとえば、わかりやすい例をあげましょう。 【タイトル】棺光一の「価値相対主義・基本用語解説6−B 相対化」 【 日時 】00/04/17 17:44 【 発言者 】棺 光一 例 投稿者1:おまえはバカなんだよ(笑)という投稿文いや点の集合体があったとします。この投稿文に対して、関係を取り結ぼうとした場合、選択肢はまず第一に、大きく二つに分かれます。 その第一は、無視・黙殺・看過という関係性の拒否です。つまり、フォローアップをなさない、レスを返さないという選択肢です。これには、さまざまな状況が考えられましょう。 たとえば、多忙をきわめ、レスをつけられる状態にない場合がまずあります。(よく、掲示板では、たかがモニター上の点の集合体にしかすぎないものにカッカとして、相手からしばしレスが返ってこないと、妙にいらだつ人というのがおります。我執のために、正常な想像力をうばわれ、相手に日常があることを忘れてしまう脆弱なる精神と言わなければなりません)。これは、物理的な原因ですから、精神的に云々することはできないでしょう。 つぎに、ログの流れがはやく、つい見落としてしまうというような場合があります。これは、掲示板の状況や風景自体が、      おまえはバカなんだよ(笑)という投稿自体をいわば相対化してしまっているわけで、この投稿をなしたる者がいかに力んでいても、いかに憎悪むきだしで書いたとしても、掲示板のログの流れ自体に相対化されて、はなはだ気の毒なことになるほかはありません。相手に気づかれないのですから(たとえば、私、棺の場合もよくあります。この掲示板上であまりに多くの死んだことばたちや、私、棺についてのことが1日で数多くの投稿文に書かれているような場合、そのひとつひとつがいかにインパクトのあるものでもログの流れのなかに相対化されて見えてしまい、気づかないということがままありました、これからもあるでしょう)。こうした例の場合も、つまりログの流れのはやいという掲示板状況自体が相対化をなしてしまう場合も、レスを返そうとする人間の主体的な判断によるものではありませんから、その精神を云々することはできないでしょう。 しかしながら、ある考えで、無視・黙殺・看過をする場合があります。その代表的な感情の例としては、「こんな奴の相手をしてもはじまらない」というものがあります。ここでは、これについて記しましょう。 【タイトル】棺光一の「価値相対主義・基本用語解説6−C 相対化」 【 日時 】00/04/18 12:10 【 発言者 】棺 光一 おまえはバカなんだよ(笑) => こんなやつの相手をするのはくだらない結論から言えば、これは脆弱なる精神と言わなければなりません。なぜなら、相対化つまり相手と関わり合うことを自ら拒否することになるからです。民主主義社会も、その究極のすがたであるインターネットも、ともにそこでは参加する者の義務というものが前提になっております。参加してどうなるのかと言えば、どうなるものでもありません。不毛しかないのです。しかしながら、参加しなければならない、とにかく出ていかなければならない、何もかわらなくても、不毛であっても−−そう決意することが、相対化を基盤とする民主主義社会、その究極のツールであるインターネットにはまず肝腎なのです。 (もっとも、掲示板状況のなかでは、故意にこうした無視・黙殺・看過をやる  場合があります。その一つは、「浮かす」という戦術です。相手の投稿だけ  を、掲示板風景のなかで「浮いた」ものと化してしまうことです。また、こ  うした「浮かし」戦術から、「はなれ小島戦法」という発展形も出てきます。  これは、浮かした投稿文をはさむようにして、その掲示板の常連たちが、頭  越しに、もとの話題やまったく無関係の話題についてキャッチボールをはじ  めるという戦法です。日本人の陰湿さがよく表れた掲示板上の一種のいじめ  ということになるかもしれません)。 しかしながら、無視・黙殺・看過せざるを得ない、したくないけれども、しなくてはいけないという場合ももちろん存在します。 それは、集団主義や組織体の論理が横たわる場合です。すなわち、こいつにレスをつけるのはかまわないが、自分のその投降によって、掲示板そのものが不毛化する、泥沼化してしまう、これは一つ耐えなければならない−−こういう心理がはたらいている場合が、それにあたります。これは、私に対して公を優先するという精神ですから、集団主義や組織論の立場からいえば、上等かつ高尚な知的判断だと言うことができます。 できますが、しかし、再三再四述べているように、インターネットの9割9分は、情の共同体のなかにある不徹底な個人主義でしかありませんから、上記のようなすぐれた判断が意味をもつことは、恐らくはほとんどないでしょう。 その証拠に、この掲示板に参集の方々の大半は、国を憂えることよりも、私、棺に関心を寄せてしまい、自らの我執のために、掲示板がえんえんたる不毛にさらされることを一顧だにしないで、ここまでまいりました。なぜなら、公のための政治判断を必要としない(不徹底なものであっても)「個人主義者」ばかりだからなのです。fefefefe... 【タイトル】棺光一の「価値相対主義・基本用語解説6−E 補足」 【 日時 】00/04/18 12:12 【 発言者 】棺 光一  相対化は、民主主義社会では、エンドレスです。たとえば、「お前はバカなんだよ(爆)」「お前程じゃないよ(わらひ)」「弱々しい反論だな」「お前もな」「弱ったやつだね、なんかまともなこと言えねえのか」「おおきなお世話だ、お前に言われたかねーっつーの」・・・、とえんえんつづく訳です。つまり、相対化というものは、ひとたび始まってしまえば、不毛ということに密接に関わり合ってくる局面を自ずと切り開いてしまうわけです。 棺光一の価値相対主義に頻出する「言語の空洞化」「言論の無力化」という言葉もまた、こうした局面とつよい結びつきをもっておりますが、これはまた回をあらためて解説することにいたしましょう。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説7−A 情の共同体」 【 日時 】00/04/20 12:09 【 発言者 】棺光一 価値相対主義とは、  批判的な他者との不条理なる遭遇を是とし、政治的言語に彩ら  れた我執PRの、えんえんたる不毛のなかでも、相互相対化の  ために、情の共同体を安易に結ぼうとする脆弱なる精神を排斥、  現代社会にあって空洞化した言語、無力化した言論の状況を認  識しつつ、なお極力客観的に主体的に発言をすることで、徹底  的に個人として生きる、民主主義社会の基本的な精神のことです。今回は、「第1回・批判的な他者」「第2回・不条理なる遭遇」「第3回・政治的言語」「第4回・我執というもの」「第5回・不毛というもの」「第6回・相対化」につづいて、「情の共同体」について記すことにいたします(Eまであります)。 「情の共同体」の「情」とは、愛情・友情の類のシンパシーをさします。すなわち、分かり合えるという幻想に基づいた人間関係にまつわる快楽的な気分です(後に述べる集団主義では、ストイックな面が要求されますから、情の共同体の場合は、感情レベルではエピキュリアンの群れと言い換えることもできましょう)。 快楽気分である以上、人々は、なかなかそこから出ようといたしません。10代の若者は、同じようなファッションをする者同士、価値観の似たような者同士で集まりたがり、おとなになったらなったで、サラリーマンはサラリーマン同士、商店主は商店主同士で群れたりいたします。主婦の公園デビューというのも、この「情の共同体」ということになります。 親和しやすい、見慣れたものに群れ集う習性−−これを無意識理に受容し、自己相対化できないとき、「情の共同体」が容易に形成されやすくなります。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説7−B 情の共同体」 【 日時 】00/04/20 12:10 【 発言者 】棺光一  さて、情の共同体の前提となるのは、何でありましょうか? それは、人間の孤独感というものです。人間というのは、ロビンソン・クルーソーや俊寛僧都や残留日本兵たちのように徹底した孤独のなかでも順応できる反面、大都会などのように多数の人間たちが群れ集まり、行き交う場所ではよけいに孤立感を深めるようなおかしな生き物でもあります(自己との関係性のない次元では大自然にひとりきりのときよりも、群衆のなかでのひとりきりのほうがストレス度は高いと言えましょう)。こうした孤独感は多くの人間たちにとっては、負の感情となりますから、当然、その解消満足のために、人はまず属する群れをさがしはじめたりいたします。 それが、情の共同体形成への一歩となるわけです。 情の共同体形成では、初期段階においては、過剰な気づかいが見られます。たがいに、ほめあい、いたわりあい、はげましあい、力づけあい・・・、などということが頻繁に起こります。つまり、情の共同体の発芽育成期であり、みながせっせと水をやっているけしきと言えるでしょう。 次に、共有できる価値観部分の模索がはじまります。つまり、われわれは偶然になぐさめあっているのではない、これはある種の必然がはたらいているのだという文化意識が芽生え、まとめ役なりしきり役なりというものもできあがったりしていきます。これは、情の共同体の発展期でもあり、たがいに交流がはげしくなっていく時期でもあります。 しかし、ふつうはこれ以上発展いたしません。なぜならば、情の共同体には目的というものがないからです。会社や企業・軍隊などとはちがって、ネット掲示板に象徴される現代的な「情の共同体」は、明確な目的集団ではないからです。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説7−C 情の共同体」 【 日時 】00/04/20 12:11 【 発言者 】棺光一  何か期待する効果や目的を持たない−−これが情の共同体というものでありますから、情の共同体というのは、情の共同体の存在・継続・維持そのものを目的としてしまうことになります。すなわち、崩壊することを極度に恐れるわけです。崩壊してしまえば、デフォルトの孤独にまた直面してしまう−−それが恐ろしい訳です。 この結果、どういうことが起こるでしょうか? まず第一に、それは、批判的な他者との不条理なる遭遇を拒否することにあらわれてきます。仲間内、内輪話、「いいだろう、たのしくやってるんだから、あっち行けよ」の精神がそれです。他者と出会わなくなってしまう、そして必然的に自分自身をきたえあげる機会を奪いさり、「安逸な快楽的気分」への「安住」がはじまる訳です(例・「日本ちゃちゃちゃ倶楽部」など)。 こうした次元に、情の共同体がとどまると、ともすれば「退屈」が問題として浮上してきます。あるいは、たがいのもたれあい、甘やかしなどが始まることになっていきます。 後者の甘えやもたれあいの場合には、情の共同体内部で、最もわがままな人間が情の共同体に内側からヒビを入れたりもいたします(松尾一郎・高橋博彦)。前者の「退屈」の場合には、外部に「敵」を作ったりすることもあります。 いずれの場合も、ここに一種の「いじめ」が発生する要因を内包することとなっていきます。いや、いじめなら集団主義の分類されている会社や企業・軍隊でも同様ではないか−−という声もありましょう。そう、そういう場合には、会社・企業・軍隊そのものの全体的な本来的性質ではなく、それぞれの内側に数多くの情の共同体を内包していることから生じる問題だと言ってよいでしょう 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説7−D 情の共同体」 【 日時 】00/04/20 12:11 【 発言者 】棺光一  そして、日本人というのは、こうしたかたちの情の共同体を実に安易に結び、いじめにも狂奔する国民でありますが、いじめの起こりやすい集団を研究してみると、ひとつの事実がうかびあがってくるのです。 それは、数をたより、何かというと構成員たちに秋波を送りがちなリーダ−のいる集団のほうが大きくなったときに、まちがいなく「いじめ」が発生するという事実です。これは言い換えるならば、リーダーがもともと依存体質であったことを示します。こうした集団の場合は、かつての三越の岡田などがそうであったように、クーデターにより失脚することも多く、首脳部はもともと一枚岩でないことがほとんどで、ワンマンでありながら依存心の強い脆弱さがはじめからクーデタの要因を内包していたと見ることもできます(くわしいことは、集団主義の回でもふれると思います)。 動物学者などは、よくサル山やチンパンジーの庭園を人間社会にたとえて、集団論をやったりいたしますが、サルや類人猿の世界は、実はこうした意味での「情の共同体」にすぎません。大自然を生きる場合ならまだしも、動物園などでは生きていればよいだけですから、けんかの仲裁ほか、リーダーに課せられた使命もすくなく、構成員の守るべきルールやきまりもあまりありません。 自由気ままな動物園暮らしということになりましょう。 したがって、きびしいルールや掟やきまりもなく、情の共同体に安住する人間たちの群れは、まさにこうした動物園と似たようなものだと言えます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説7−E 情の共同体」 【 日時 】00/04/20 12:12 【 発言者 】棺光一  さて、私、棺は再三再四、下のような図を提示してまいりました。  集団主義 −−−−−− 情の共同体 −−−−−−− 個人主義(企業・軍隊など) *           ** 集団主義というのは、ある目的達成のために、ルールに乗った指揮系統を持つ組織論ですから、その集団の利益・不利益や安全危機を判断して動きます。しかしながら、情の共同体はもともと孤独を解消するだけの(暇つぶしの)無目的集団ですから、そういう判断のしかたで動きません。すべて内部の力の強い者の私的な顔色のみで動いてしまうことになりがちです。 たとえば、日本の家族をここにあてはめて見たらどうなるでしょうか? かつての日本では、士農工商の身分制度があり、家父長制度があり、長子による家督相続制度などがありましたから、そうしたルールにのっとったかなり集団主義的なものであったと推察することができます。しかしながら、戦後になってそれは崩れました。もはや、集団主義的な家族というのは、数少なくなっておりましょう。 したがって、情の共同体ということになりやすい。母親がいちばん強ければ、母親の顔色だけが家族の一大関心事となり、あるいはまた、こどもが強ければ、こどもに始終気をつかわなければならないそういう家族ができやすくなっております。 本来ならば、理想的な家族の位置は、上のプリズムで言うならば、集団主義と情の共同体のちょうど*のあたりにあるのがよいでしょう。ルールやきまりはあるものの、それが破られたときも四角四面の勘当などにはいたらない融通性の利くものならば、それがいちばんだと見ることができます。 しかしながら、現代の日本人の家族像は、**にあるようです。 つまり、(家族である以上)たがいに真の個人主義に徹することが不可能であるにもかかわらず、一見個人主義・エセ個人主義でバラバラという状態がそれです。 たがいに、朝から晩まで相対化のしあい、母親は父親を納棺し、父親は娘を納棺する、たがいにfefefefefe....の毎日、それが現代日本の家族でしょう。しかしながら、時期がすぎて、娘が嫁ぐ日や、息子に孫ができた日には、こんどはたがいに、傍目からは恥ずかしいばかりに、いたわりあい、気づかい合う−−けっこう日本人というのは、こうした情の共同体が好きなのですねえ。こどもへの愛情も、イヌネコ・ペットへの愛情もつつみかくさず他人の前で垂れ流し、というような側面も色濃くあります。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説7−F 情の共同体」 【 日時 】00/04/20 12:12 【 発言者 】棺光一  さて、みなさん、何のためにインターネットをやっていますか?と私、棺が問うたときに、Kaoさんという女の子が言いました。「人恋しいからだ」と。これは、まさしく情の共同体模索ということにほかなりませんでした。 私、棺は、こうした非常に素直なことばが女の子からもれるのに(高橋博彦クンは書きませんでしたが)、男の子たちが書かなかったことに妙におもしろさを感じます。 つまり、掲示板に参集する男の子たちには、抑圧があるのでしょう。男の子は、人恋しい、などとは言ってはならない、孤独に耐えても、何かを全うしなければならない、という精神的な抑圧です。 ならば、その抑圧をなしたる文化の根底には、情の共同体を忌避する歴史的な教訓がもともとあるはずなのです。それなのに、情の共同体を解こうとしない、ひとりきりで情報の真偽をたしかめつつ、客観的にインターネットの風景を見ようとしない、これはまさしく脆弱なる精神と言わなければなりません。 私、棺は、情の共同体をなす、気づかいうやたわりあいに満ちたインターネット掲示板は不毛であると再三再四、書いてまいりました。そこでは、本物のことばは生まれてはこないからです。私、棺がKaoさんという女の子に、「女は、この掲示板に来てはならない」と書いたのもこういう文脈からだったのです。すなわち、彼女は、女であるから、非常にすなおに「人恋しいからだ」と書き、情の共同体を容認したわけです。女が情の共同体にいるのはしかたないことです。大半の女は、個人主義者にもなれず、さりとて集団主義の何たるかも理解できずに、一生を終えていきます。しかし、それでいい、愛する男と愛するこどもとがいれば、それでその女の一生は、生まれてきた価値が十分にありましょうから。 しかしながら、男はそういうわけにはまいりません。おのれの器量と、戦術と、ことばとにより、つまりはおのれのたった一人の力によって、世間と対峙していかなければならないのです。 私は、女であるという理由のみで、思想系掲示板にいる婦女子を甘やかす趣味を持ちません。このインターネットという空間では、女であるメリットは何もないからです。いいにおいもしないし、そのしなやかさややわらかさにふれることもできない以上、論理や思想の面で明らかに男に劣っている女を甘やかす理由はありません(あるとすれば、現実で満ち足りていない愚かな男どもの、オフ会での下心以外の何物でもないでしょう。私、棺は、現実に十分自足しております。30名を相手に、60日足らずの孤独に耐え得るのも、良き家族や友人といった愛する者たちのおかげなのです。私、棺には、ネットを用いて「情の共同体」を取り結ぶ必要がありません。これは現代ではしあわせなことなのでしょうが)。 あなたは、さびしいのですか? あなたは、現実に満ち足りていないのですか? あなたは、何のために、インターネットをやっていますか? 何のために、何のために、何のために・・・、fefefefe.... 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説8−A 脆弱なる精神」 【 日時 】00/04/21 17:37 【 発言者 】棺光一 価値相対主義とは、  批判的な他者との不条理なる遭遇を是とし、政治的言語に彩ら  れた我執PRの、えんえんたる不毛のなかでも、相互相対化の  ために、情の共同体を安易に結ぼうとする脆弱なる精神を排斥、  現代社会にあって空洞化した言語、無力化した言論の状況を認  識しつつ、なお極力客観的に主体的に発言をすることで、徹底  的に個人として生きる、民主主義社会の基本的な精神のことです。今回は、「第1回・批判的な他者」「第2回・不条理なる遭遇」「第3回・政治的言語」「第4回・我執というもの」「第5回・不毛というもの」「第6回・相対化」「第7回・情の共同体」につづいて、「第8回・脆弱なる精神」について記すことにいたします(Eまであります)。 脆弱なる精神については、具体的に言いかえたり、具体例のなかで説明するのが最もよいでしょう。 脆弱なる精神というのは、もろく弱いこころということですが、言い換えるならば、つぎのようなものをさします。  1,主観を点検する客観性の模索をしない    (思いこみがはげしく、自説に妄執する)    2,政治的言語を反復によって、ニセの真実を定着させようと躍起になる   3,懐疑の精神をもたず、批判的な他者と遭遇できない  4,すぐに罵倒したり冷笑したり罵詈雑言を吐いたりという反応をする  5,自己同一性を持たない(変名ハンドルや複数ハンドルや捨てハンドルを好    む)  6,孤独にたえられず、情の共同体を安易に結ぼうとし、あるいはまた巨大な    集団や強きものへの嫉妬心がつよい  7,神を信じていると錯覚する自分がいとおしい。    (信じたい自分がいることと、信じることの区別がつかない)  8,究極の相対化の世界で、平気で、宗教や神の掲示板などを作ってしまう。    9,人との関係性への恐怖や不安から、あやしげな情報でも受け入れやすく、    妄想・陰謀論への飛躍をしやすい。  10、こどもにとってのショッカーのような悪役を作らないと、世界観が完成し    ない。生きていけない。あ、高橋・NEKO・読者N・読者にゃん・幽霊・八神・パパ・博子ちゃんのようなタイプということになってしまいました。fefefefefe.... 上につづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説8−B 脆弱なる精神」 【 日時 】00/04/21 17:38 【 発言者 】棺光一  20世紀は、宗教の死の世紀でした。神を信じることは、土人でもない限り、文明人にはなかなか不可能です。しかしながら、20世紀はカルトの世紀でもありました。自立せずに、自分が感動し、依存できる対象をさがす−−そんな世紀でもあったわけです。 しかしながら、そうした依存心、いや自分が感動できるものを安定的に供給してくれる人間存在や人間精神に対する(広義の意味での)「信仰」は、宗教やカルトとはべつのところで、その転位した対象を数多く20世紀に残しております。 たとえば、画家であり、俳優であり、作家であり、スポーツ選手であり、アイドルであり、マンガ家であり、といったものです。現代の偶像崇拝と言ってもよいでしょう。 こうした現代の偶像崇拝では、村上春樹が神になったり、松坂大輔が神になったり、尾崎豊が神になったり、小林よしのりが神になったり、たやすくいたします。それ自体はいたしかたのないことでもありましょう。人間、「ああ、いいなあ」と心底思える他者を持ちたがるものでしょうから。 そうしたレベルの現代社会での偶像崇拝は、消費社会で、書籍を買ったり、入場料を払ったり、CDを買ったりなどという形で、「お布施」をいたします。つまり、お布施は、社会的認知を受けた商業ビジネスの側面を獲得し、まつかた、そのなかではコレクターが幅を利かせたりするというわけです。 そして、棺光一の価値相対主義から見て大事なことは、こうした現代社会の偶像崇拝は無目的であるという点です。村上春樹でも、尾崎豊でも、小林よしのりでも、カリスマ的ではあっても、クリエーターなのであり、オルガナイザーなのではあいません。したがって、ファンの集団は、「集団主義」ではなく、あくまで「情の共同体」以上のものにはなり得ないということになります。 その偶像に飽きたらおしまい、ただそれだけのことにすぎません。「私は尾崎豊によって魂をゆさぶられた」「僕の目は、よしりんによって目覚めた」と言っても、それがそのまま社会変革や現実認識の一大転換につながるというわけではありません。 クリエーターとファンの関係というものは、流動的であり、かつ社会的には無目的だからこそ、商業社会と相性よく生きてこられたわけです。 消費社会で消費というお布施 => けど目的がない =>飽きたらおしまい 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説8−C 脆弱なる精神」 【 日時 】00/04/21 17:39 【 発言者 】棺光一  しかしながら、マルクス=レーニン主義などの社会変革思想の場合は、これとは異なります。すなわち、目的を有してしまう。社会を変革するとか、ユートピアの建設とか、そういう目的を掲げてしまうわけです。 目的を有するということになると、これは「情の共同体」というわけにはまいりません。目的達成という場所に向かって階段を積み上げるか、さもなければ目的から逆算していま何が必要かという目算をしなければならなくなってまいります。 日本共産党を批判するに、かつてはしばしば、宮本天皇、あるいは宮本を頂点とする天皇制のアレゴリーで説明することがありました。これは、歴史的に見ると、たいへん興味深い事実です。すなわち、天皇制を否定するはずの左翼でさえ、目的を擁した集団主義をとる場合、日本人はそれを「天皇制」と結びつけることで最もそれをイメージしやすくなるという事実です。 何かの目的を擁し、集団構成員一丸となるとき、この国の民は、しばしば、天皇・臣民の関係のメタファーをイメージするのでしょう。これは、やくざや任侠世界でも、あるいはかつて「派閥の領袖」ということばが実感をもって迫ってきた自由民主党の場合も同様です。 目的達成のための指揮系統を持つ縦社会−−それが誕生していくというわけです。 この点が、あこがれを出発点とした運動選手や芸能人・文化人への偶像崇拝とは明らかに異なるというわけです。 それでは、宗教の場合は、どうでしょうか? 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説8−D 脆弱なる精神」 【 日時 】00/04/21 17:41 【 発言者 】棺光一  さて、問題は、この宗教の場合です。なぜ問題かというに、それはつぎの2点に集約されます。 その第一は、目的が、参加者自身の幸福や自己実現といった内的な、あいまいなものであり、政治運動や社会思想の場合とちがって、外界に具体的に設定可能なものではないことです。したがって、傍目から見ていると、なんであんなどうしようもない環境で、なんであんなどうしようもない、たとえば高橋某などの教祖をまつりあげているのかという現象がしばしば起こります。政党ならば、選挙での票数という社会的価値基準にさらされて相対化されるため、見こみがないならば、支持者がはなれるなり、参加者が離合集散を始めるなりすることでしょう。 しかしながら、そうした相対化の価値基準の食い込む余地のない宗教の場合は、まずここで価値相対化という民主主義社会のル−ルをすりぬけてしまうというカラクリがあるわけです。 つぎに、第二点として、第一の点の目的のあいまいさのために、宗教的な集団の場合は、情の共同体部分を脱することができません。つまり、政党ならば社会変革、企業ややくざならば利潤追求、軍隊ならば防衛などのそれぞれが擁する目的達成のための「合理性」から、宗教的集団は放恣に自由になってしまうカラクリがあるわけです。 情の共同体ほど、こわいものはありません。 そこでは、筋やルールよりも、わがままや感情的なドロドロした部分のみがクローズアップされていきます。悪い意味でいうところの「疑似家族」形態が展開されることとなります。内部でも、外部でも、ただ感情のみにつきしたがった我執により政治的PRがえんえんとくりかえされ、泥沼状態に陥ることは、大石寺と創価学会の関係を見ても明らかでありましょう。 それでは、脆弱なる精神を 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説8−F 脆弱なる精神」 【 日時 】00/04/22 13:46 【 発言者 】棺光一  インターネットは、もともとパーソナルなところで操作されるものです。したがって、きわめて個人主義的な産物です。究極の個人主義ツールだと言ってかまいません。 しかしながら、そうではないものも存在しています。それは、企業や団体のです。現実で集団や組織の場合には、インターネットにも、これが反映されてきます。ある会社のWEB担当者が自分勝手に好きなことを、ユーザーに向かって書くことは、集団主義から見て許されることではありません。 それでは、思想系掲示板の場合はどうでしょうか。 例の会が発足する以前には、個人主義と情の共同体のみが渾然一体となって存在していたにすぎません。それが、集団化した、組織化されていく−−これは、ある意味、インターネットの長所を、つまりは個人主義的であることの否定でもあり、挑戦でもあったわけです。しかしながら、たびたび、ニュースグループやYahoo掲示板に広報宣伝しに来る例の会を見て、私、棺は、多少冷ややかな目で見ておりました。 情の共同体から、集団主義への展開は、非常に困難をきわめるに相違ないというのが率直な感想です。さまざまな年齢層・地域層をかかげて70数名寄り集まれば、かならず個人主義者や個人主義者に徹することもできない情の共同体のまま置き去りにされた精神の持ち主が存在するであろう−−そのときに、つまりはごく初期段階ですが、いったんきしみは来るにきまっている、私、棺はそう見ておりました。 そうしたらば、博子ちゃんがはじき出されて出てまいったというわけです。そのあとのことはみなさんご存知でしょうから、書きませんが、情の共同体から集団主義へと向かう集団では、歴史上、博子ちゃんの例は枚挙にいとまがありません(しかしながら、私、棺の期待感としては、もっと数多くの博子ちゃんが登場してくるはずでした。ところが実際には、博子ちゃんただひとりであったことはいささか驚異ではありました)。 さて、集団主義をめざす集団からいったん出てしまえば、デフォルトのインターネットのありかたを十二分にたのしむことが可能でしょう。それなのに、なぜ呪詛に満ちた我執による政治的PRにうつつをぬかすのか、これが脆弱なる精神のサンプルとして実におもしろいのです。 以前も書きましたが、京を追われた菅公は、太宰府で「門を出ず」という漢詩を作りました。京をのろい、京をなつかしみ、京をはなれることのできぬ魂を歌ったものです。日本の言い伝えでは、不遇のうちに死んだ菅公の呪詛は、その後の京都に災いや天変地異をもたらしたなどとありますが、私、棺は、ここで中国の詩人・陶淵明(陶潜)の「帰去来辞」を思い出すのです。あるいは、戦役を終えて那須で蕎麦を作っていた乃木稀典や、下野して薩摩で百姓仕事をしていた西郷さんのことを。 彼らは、自ら、ある場所を追われたり、去ったりしたことをなつかしみもしなければ、のろいもいたしませんでした。ただただ、黙々と、ひとりきりの生活に慣れ親しみ、自由に畑を耕すことに興じていられたのです。 集団主義からいでて、個人を全うする−−まことに見事な生き方であると申すべきでしょう。 しかしながら、彼らの生きていた時代には、道や宗教がありました。いまのネチズンの大半にはそういうものはありません。したがって、ここで脆弱なる精神を断ち切るには、別のものが必要となってきます。 それは何でしょうか? 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説9−A 言語の空洞化・言論の無力化」 【 日時 】00/04/23 09:32 【 発言者 】棺光一 価値相対主義とは、  批判的な他者との不条理なる遭遇を是とし、政治的言語に彩ら  れた我執PRの、えんえんたる不毛のなかでも、相互相対化の  ために、情の共同体を安易に結ぼうとする脆弱なる精神を排斥、  現代社会にあって空洞化した言語、無力化した言論の状況を認  識しつつ、なお極力客観的に主体的に発言をすることで、徹底  的に個人として生きる、民主主義社会の基本的な精神のことです。今回は、「第1回・批判的な他者」「第2回・不条理なる遭遇」「第3回・政治的言語」「第4回・我執というもの」「第5回・不毛というもの」「第6回・相対化」「第7回・情の共同体」「第8回・脆弱なる精神」につづいて、「第9回・言語の空洞化・言論の無力化」について記すことにいたします(付録を入れてGまであります)。 現代の民主主義社会では、言論・言語が大事である、と言われることがあります。しかしながら、ほんとうにそうでありましょうか? たとえば、先日も投稿いたしましたが、今国会から「クエスチョンチャイム」というものが始まりました。議席数に比例した質問時間を各野党党首にわりあて、それと首相が向かい合って対論するというものです。よく言われるように、これは日本と同じ議院内閣制をしく英国に学んだアイデアだそうです。 先日も、第3回目の「クエスチョンタイム」がありましたが、本来ならば、怠慢であった、組織疲労が来ているという明らかな理由で、警察不祥事について謝罪に終始するほかはないはずの小渕首相は、民主党の鳩山とも、共産党の不破とも、社民党の土井とも何とか互角にわたりあっておりました(ミスは何度かありましたが)。 煎じ詰めて言うならば、ああ言えばこう言う、というのが民主主義社会の言論の本質であって、言語にたよっているかぎりにおいては、えんえんたる相互相対化・決してわかりあうことはない永遠の平行線しか用意されていないのが実体と言ってかまわないでしょう。 これは、政治の世界にかぎったことではありません。たとえば、この掲示板に頻繁に登場する捨てハンドルの芸能レポータークンたちのおすきな芸能界やスポーツ界でもそうです。AがBをやりこめる、すると、BがAに反撃をする、それがえんえんとつづく、三ヶ月も半年もつづいていく、視聴者や読者には、もはやほんとうのことなどうかがうべくもない、我執垂れ流しのえんえんたる双方から政治的宣伝がただひたすらつづくわけです。 言語の空洞化、言論の無力化は、まずこうした次元で、現代社会では身近に起こる現象です。そして、われわれは、一種の虚無感をもって不可知論に落ちこむほかはありません。「第三者には、しょせん、わからない問題だよな」。それで終わっていくわけです(したがって、真実よりも、おもしろさが要求されることは、制作側にとっては至極当然のことになっております)。つづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説9−B 言語の空洞化・言論の無力化」 【 日時 】00/04/23 09:33 【 発言者 】棺光一  さて、政治の世界にもどりましょう。クエスチョンタイムや委員会質疑で、ほとんど言語による有効性が期待できないとすれば、何に有効性を求めるかということに今度はなってまいりましょう。 いまから百数十年前から、ついこのあいだまでは、それは暴力でした。最も、効果的に政敵を黙らせるものは、血と暴力でした。しかしながら、それは社会や文化の発達によってかわっていきます。豊かになれば、クサイ飯をあえて食らっても親分や組織に尽くそうという青少年は当然すくなくなり、かつまた、社会的要請によって法はどんどんきびしいものへと変化していったわけです。 つぎに出てきたのが、金です。金を政界ではよく「実弾」などと言いますが、実弾がほんとうの実弾から金を意味するものへとかわっていったことには象徴的な時代の変遷がありましょう。金をばらまく、あるいは金を引き上げて干上がらせることによって、一定の高い効果があがるという時代が長くつづきました。 しかしながら、これもまた、社会の進歩発展により、すなわち豊かさと法的な規制によるものですが、効果が疑問視される世の中になってまいりました。いまの若手の政治家たちは、昔のたとえば派閥の領袖などのように、巨大な資金力を金脈として持たなくても、政治改革関連法の規定により政党中央から(比較的)安定した資金の調達ができるようになりました。金銭への動機がうすらいでいったわけです。 ところが・・・・。 さて、血や暴力装置は(におわせることはあっても)まず使えない、金もだめならば、こんどは何だろうか、ということになりますが、これは周知のように、「政策」という名のことばになってまいります。そう、一巡してしまうのです。政策は、言語でしかありませんが、情報やデータ・見識や先見性などによって、きまっていくものです。おおう、それならば、いいじゃないかと人は思うでしょうが、ところがどっこいそうはいかないのです。 時としてその邪魔をするものこそ、ほかでもない、「情の共同体」なのです。 つづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説9−C 言語の空洞化・言論の無力化」 【 日時 】00/04/23 09:34 【 発言者 】棺光一  宮沢政権時代から、小沢一郎はさまざまな提言をおこなってきました。「日本改造計画」などというベストセラーもありました。脱党した彼は、あらたに羽田らと新生党を結成し、38年ぶりに非自民連立政権を誕生させますが、その後、夜更けの「国民福祉税」のぶちあげ、渡辺美智雄の担ぎ出し失敗、当時の社会党を政権から離脱させた「改新」騒動と、いわゆる「強引な」手法により、矢面に立つこととなりました。 早坂茂三は言っています。「小沢は、政治家としては抜群の存在だ、ビジョンを持っている、しかし、正直でまっすぐなために、敵も多い、これが致命的だ」。 つまり、日本社会というのは、以前の投稿での石原や、この小沢のようなリーダーに対しては、あらかたつぎのような態度をとる社会だということになってまいります。言っていることは分かる、しかし、やりかたがいかん、足をひっぱっちゃえ−−つまり、理や義ではなく、情によって、ズバリ言うならば妬みそねみや怨嗟によって動いてしまう社会なのです。  このように見てくると、血や暴力の時代ではない、金の時代も終わろうとしている、こんどは言葉だ、政策だなどと言っても、結局は、情の共同体の問題でしかないという不毛さがあることに気づくことでしょう。 言語というのは、クエスチョンタイムのような場では、えんえんたる相互相対化しか約束されておらず、その相対化の向こうには決して言語だけでは完結し得ない「情の共同体」のぐにゃぐにゃしたものが広がっている−−これが、現代社会の実体にすぎません。 さて、ここでインターネット掲示板のほうに話を移していきましょう。つづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説9−D 言語の空洞化・言論の無力化」 【 日時 】00/04/23 09:35 【 発言者 】棺光一  インターネット掲示板のことばは、以前、再三再四指摘したように、以下のものしかありません。 1,過剰な気づかいによる内輪の慰め合い 2,知識のひけらかし合いによりオタッキーでマニアックな議論 3,UG的な冷笑・罵倒・誹謗中傷・悪口雑言合戦 4,自己満足的な抒情出来損ないコラム投稿 5,新聞社・通信社WEBサイト・他掲示板からの無断転載 6,信頼性のないあやしげな情報や思いこみ的断定による不確かな情報   垂れ流し(告発含む) 7,荒らし的連続短文投稿・意味不明投稿 8,情の共同体を模索しての政治的言語使用による秋波モード 9,個人的な問答・情報交換など   10, 宣伝広報・リンク告知すべてのことばは、つまりはモニター上の点の集合体は、以上のように分類相対化されてしまいます。こういう観点に立てば明らかなように、言語はかぎりなく空洞化しております。私、棺のように、妄想や揣摩憶測から、はてはUG的な罵倒までさまざまに受けてきた経験があれば、「ああ、これは何番にすぎない」などと、実にかんたんに掲示板解脱ができてしまいます。 すなわち、言語は完全に相対化・空洞化されるというわけです。 ところが、こうしたことが想像できない人々がおります。そういう人々に共通するのは、インターネット掲示板上のことばが点の集合体に見えないということです。それならば、何に見えるのか? そう、人間に見えるのです。 なぜ見えるのか?孤独だからです。現実に自足していないのです。嫌われたくない、好かれたいなどという我執を、現実からネットの世界にまで持ちこんできてしまうのです。 脆弱なる精神と言うほかはありません。 現代社会で、言語が空洞化して見えずに、何らかの言論が有効性を保っているかのように見え、「べき論」などを展開するのは、脆弱なる精神のなせるわざです。そうした精神の持ち主が最も酔うものは、何でありましょうか? 言うまでもない、政治的言語すなわち元気づけたり、いたわりあったり、誹謗したりといった政治目的をもった言語なのです。ましてや、情の共同体の構成員と同じ方向を自分も又向いている場合には、これは高い効果をもって迫ります。とたんにアバタもエクボ、恋は盲目ともなりかねません(博子ちゃんが、くだんのお人をさして「前はえらく尊敬していたのに、いまはだまされた、だまされた、追い出すとはけしからん」と泣きわめいたのも、もとはと言えば、「情の共同体」に安住した・させたからにほかならないように見受けられました)。 情の共同体・・・。 そうして、こういうところから、妄想やカルトの魔手が忍び寄ってくることは再三再四書きましたから、今回は省略いたしましょう。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説9−E 言語の空洞化・言論の無力化」 【 日時 】00/04/23 09:36 【 発言者 】棺光一  なお、言語の空洞化、言論の無力化の「言語」の意味するところは、意味のあるメッセージということです。したがって、何も話し言葉や書き言葉にかぎった話ではありません。人の背後で、無声音で「バーカ」などちうようないわゆるボディ・ランゲージなども当然含みます。 ネット初心者のかたがたは、ともすれば、インターネット掲示板のことばのすべてを信じやすいのですが、インターネット掲示板のことばの大半は、検証不能の政治的言語にすぎません。したがって、たやすく相対化されてしまいます。 例、「おまえはバカだ」「バカだと言うお前がバカだ」です。また、Kaoさん引用の「認知的枠組み」に照らして言えば、インターネット掲示板の罵詈雑言の上位は、こうしたことばで埋められております。 包茎・チンカス野郎・社会的不適応・廃人・ネット中毒・バカ・キチガイ・偏執 狂・ストーカー・・・etc すなわち、認知的枠組みで言えば、上のようなことばを自分自身に吐かれるのではないかという不安や恐れを抱く人々が、この掲示板にも実に数多く存在していたということになりましょう。 憂国系掲示板は、とりわけUGクンたちは、掲示板では、きたない日本語が乱れ飛ばし品格ある人々にはとてもではないが耐えられる状況にないのは周知の事実ですが、UG言語表現というのは、相手や他者よりも優位に立ちたいという我執が選択させることが多く、実際会ってみたら、気弱な人々が多かったなどというのは、まあ、よく聞く話でしょう。 その意味では、インターネット掲示板は、現代日本人にとって、精神の便所だと言っても過言ではありません。百害あって一利なし、の所産であることはまちがいないのです。ネットではデマ情報が乱れ飛ぶ。が、人間関係を重視する脆弱なる精神たち このようにインターネット掲示板を「言語の空洞化」という現代社会の側面からとらえ直したとき、その情報の大半は、我執の強い投稿マニアクンたちによる情報狂宴にすぎないことが明らかになりましょう。 インターネットでは、デマが飛びます。こうであったらよいのに、という情報がよくあります。ROMのみなさんにあっては、いつでも、情報をいったん解体して相対化する手続きが必要となりましょう。ネットには究極「不可知」なものが大半です。そういう情報につきあうことは、時間の無駄以外の何物でもありません。 ネットが日本に定着して、そろそろ4〜5年になりますが、思想系掲示板は、一部の狂人によって、いっこうに現状が改善される気配がありません。あめぞうや2チャンネルなどは特にひどく、ああした形を見た若い青少年たちは、まちがいなく、インターネットに誤解をいだくことでしょう。かつまた、マスメディアや活字の世界にいる出版関係者から見れば、「へへへ、そうだろう、インターネットなんぞは、たかだかこの程度のものにしぎないだろう、恐れるに足らない」などとタカをくくらせることにもなりましょう。 しかしながら、日本人というものは、自らが属する世界を相対化して、アウトサイドインに物事を見ることができません。こういう現状ではいけない、なんとかしなければ、などという参加者として、自らそれを育てあげていこうという明確なる意志をともづれば欠いてしまうのです。 ネチズンには、ことネットに関しては、だれでも使命感が求められてしかるべきなのですが、日本人には、こうした mission というものは理解できません。 したがって、えんえんたる不毛がきょうもあしたも、来月も来年も、あいもかわらずにつづいていくということになります。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説10−F 客観性」 【 日時 】00/04/25 20:00 【 発言者 】棺光一 「5,新聞社・通信社WEBサイト・他掲示板からの無断転載」の客観性 新聞社や通信社にも誤報はつきものです。また、誤報とは言えなくても、後追い取材がなく、「はあ、あれは勇み足やったな」と推察されるニュース記事もよく見受けられます。 したがって、新聞社や通信社のニュースが絶対に客観的である、などと断言することは到底できません。 しかしながら、ネットにあふれかえるトンデモ情報やアヤシゲな情報よりは、はるかに信頼性は高いと言えましょう。なぜならば、それは集団主義で動く組織であり、誤報があれば職業集団としての何らかの処分と一体となることは明らかだからです。 しかしながら、別の問題があります。それは、著作物としての問題です。先日のサンデープロジェクトではありませんが、警察の人員シフトが変更されて、機動隊が減り、ネット対象の警官がふえてくれば、かつまたネット即決裁判所が生まれてくれば、新聞社・通信社の無断転載はもとより、他者投稿の無断引用も、裁かれる日がくるかもしれません。 総じて、日本ちゃちゃちゃ倶楽部が遵法意識が強いことに比べて(腰砕けにすぎる面もありますが)、憂国系掲示板は数年前のネット状況を脱し切れておりません。反則技が多すぎるのです。すなわち、UGをひきずったままの状況を断ち切ることができないと言えましょう。 そして、このことが、憂国系掲示板での客観性の欠如と、我執による政治的言語垂れ流しの最大の状況要因だと指摘することができます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説10−G 客観性」 【 日時 】00/04/25 20:01 【 発言者 】棺光一 「9,個人的な問答・情報交換」「10, 宣伝広報・リンク告知」の客観性 インターネット掲示板は、そもそもこの二つと最も相性のよい概念でした。 すなわち、そこに参加する自分以外の人々を一つの知識情報の集合体として、自分もその恩恵に浴するかわりに、他者にも奉仕貢献するという相互作用が一つ。 もう一つは、他者に開かれた時空間として、それぞれが鎖のようにつながりあい、情報体として自己増殖していくという拡大作用がもう一つ。 しかしながら、ネットの現実を見たとき、前者も後者もうまくいくとはかぎらない場合があります。前者から見ていきましょう。 ■そこに参加する自分以外の人々を一つの知識情報の集合体として、自分もその  恩恵に浴するかわりに、他者にも奉仕貢献するという相互作用  これは、参加者の使命感や心構えの温度差によっては崩壊していくことがありま  す。たとえば、世には「くれくれ隊」とか、「教えて・教えて」人間とかがけっ  こう存在し、サービスを受ける者と、サービスを供する者とが分離していくとい  うことが起こりがちです。そうすると、奉仕・貢献する側は、徐々にやる気をな  くしていくということがありがちです。 ■他者に開かれた時空間として、それぞれが鎖のようにつながりあい、情報体とし  て自己増殖していくという拡大作用   先々月に書いた「管理と価値相対主義」でもふれましたが、インターネット掲示  板は、管理者の領土ではありません。管理者とは、削除権限を有する者でしかあ  り得ず、インターネットというものは鎖のようにつながり、別の掲示板と別の掲  示板でのやりとりすら当然可能になります。  思想的に言えば、「他者と関わりなさい」というのが、ネットの教えるところで  あり、たがいに閉じこもりあい、領土を守るというのような性質のものではあり  ません。  しかしながら、こうしたことを突いて、荒らしや複数・捨てハンドル、プロクシ  問題が生まれ、管理者は時として「閉じる方向」へ「閉じる方向」へと向かう現  象がたびたび見受けられます。  憂国系掲示板には、当然、左翼は言うにおよばず、キリスト教をはじめとした宗  教戦争をしかける輩など、複数捨てハンドルによる荒らしは頻繁に目撃されます。  そういう輩にとっては、投稿者名自体、すでに自分のなかで空洞化・無効化して  いるのか、おそらくは数名単位でしかない荒らし行為が、他者との相互交流もほ  とんどなく、えんえんとくりかえされることになっております。  したがって、UGと関わりを持ってしまい、言論の場としてインターネット掲示  板が成立するおおきな妨げとなっています。発言者の同一性が保証されない以上、  客観性がないのです。  たとえば、現在のように、無料WEBがふえた時代では、ひとりで複数のWEBを持ち、  転送メール・別ハンドルで、宣伝リンクをしかけ、一種の挑発行為をすることも  可能であり、その舞台は海外にまでどんどん広がっております。  つまりは、不毛なのです。言論は空洞化しているということにほかなりません。  いったい、発言者の自己同一性も保証されえないこの時空間で、何ができましょ  うか? 私・棺が再三再四指摘してきた「掲示板の不毛」「掲示板時代の終わり」  は、まさしくこうした現象をふまえてのことなのです。 こうした背景を持つインターネットでは、投稿文自体の客観性の前に、言論を成立させるに十分な環境整備も、まずしていかなければなりません。そして、それは、参加者の参画意識や、ネットの現状と現代日本人を憂える精神が不可欠なのです。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説10−A 客観性」 【 日時 】00/04/25 19:58 【 発言者 】棺光一 価値相対主義とは、  批判的な他者との不条理なる遭遇を是とし、政治的言語に彩ら  れた我執PRの、えんえんたる不毛のなかでも、相互相対化の  ために、情の共同体を安易に結ぼうとする脆弱なる精神を排斥、  現代社会にあって空洞化した言語、無力化した言論の状況を認  識しつつ、なお極力客観的に主体的に発言をすることで、徹底  的に個人として生きる、民主主義社会の基本的な精神のことです。今回は、「第1回・批判的な他者」「第2回・不条理なる遭遇」「第3回・政治的言語」「第4回・我執というもの」「第5回・不毛というもの」「第6回・相対化」「第7回・情の共同体」「第8回・脆弱なる精神」「第9回・言語の空洞化・言論の無力化」につづいて、「第10回・客観性」について記すことにいたします。 文学の一ジャンルに、ハードボイルドと呼ばれるジャンルがあります。これは、よく探偵物や、日本では生島次郎や北方謙三のような世界だと混同されますが、本来はちがうものでした。 それは、アーネスト・ヘミングウエイの書く文体のように、名詞と動詞と前置詞句でほとんどの文章が完成していて、動作や状況の描写にしかなく、心理描写をほとんどしない短編小説の一形態をさしたものです。 日本語で言うならば、 その男は扉を開けた。そして、ニックを一瞥すると、だまってとなりにすわった。バーテンダーが男の前に立つ。男の口は動かない。目深にかぶった帽子の下から、くわえタバコの煙が立つのが見えた。などのような文章のことです。つまり、どんな男なのか、書かれていません。ニックがどういう印象をもったのかも書かれていません。すべて読者の想像にゆだねなれる、そういうスタイルの文章のことです。 このように、最小限の根幹情報だけで、主語と動詞と多少の前置詞句だけで完成されている文章を「ハードボイルド」と言います。つまり、客観描写ということです。 これに反して、たとえば、 朝顔の浴衣にゆらりと袖を通した博子は、夜のしじまのなかで、絶えることのない潮騒が湯上がりに上気した耳朶を心地よく打つのを感じながら、床に横たわった。目をつむれば、さきほど見た黄昏時の海辺の夕空に展開される色彩の交響楽のもと、もはやたったひとりしかいない自分だけが感じられた。 私は、ひとりなんだ、そうしてきょうもあしたもネットグソをするのだわ・・・。 こうなったのは、初心者のせいだわ。あの慮外者、不敬野郎め、私をズタズ タにして、どうしてくれよう・・・。寄せては帰る音ないのわずかばかりの静寂をぬって、アホウ鳥が一羽、博子をバカにするように啼きながら、上空をかすめていくのがわかった。 ん、もう、トリまで私をバカにして。えげつないんだから。というような文章は、形容が多く、心理描写があるために、ハードボイルドの対極に立つ文学のスタイルだということになります。 日本の近代ならば、前者は森鴎外、後者は泉鏡花などが代表例になるでしょう。 客観性とは、このように、文章に登場することばの性質機能にあらわれる場合がよくあります。 価値判断をする形容詞、たとえば「愚かである」「笑止である」「バカげている」「くだらない」(「包茎チャン」「チンカス野郎」などもふくめてもよいでしょう)などが頻出する文章は、したがって、客観性を犠牲にした政治的言語であると見ることができるわけです。 政治的言語には、客観性はありません。それは多くの場合、義のない我執垂れ流しの怨嗟による「情の共同体」の模索でしかないのです。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説10−B 客観性」 【 日時 】00/04/25 19:58 【 発言者 】棺光一  つぎに、客観性を見る場合には、それを補完する材料にふれなければなりません。それは、検証部分のことです。 この検証部分としては、データが用いられることがよくあります。 しかしながら、国会の共産党お得意のフリップの例を見るまでもなく、   データ = 客観性とはなりません。なぜならば、数値化されたそのデータは、おびただしいデータからしょせんは(何かしらの政治的判断で)抽出されたものにすぎず、かんたんに言えば、取捨選択という編集作業を経て出てくる場合が多いからです。 たとえば、私・棺は何度となく、この掲示板上で、そうとう以前の投稿の無断引用を「批判的な他者」たちによってなされております。しかしながら、彼らは、自分たちの主張を都合よく裏付けるようはデータしか持ってはきません。これは、ちょうど、先日のクエスチョンタイムで「運が悪かった」発言の場面だけをえんえんテレビ各局で流された小渕のため息と似たようなものでありましょうか(この掲示板では、たったひとりの与党・棺に、有象無象の野党がウダウダ言うという実にふしぎな現象が起こっております。fefefefe)。  データもまた、編集作業をへた政治的言語にすぎない、これは民主主義社会を生きる者たちにとっては、初歩中の初歩として覚えておくべきことでありましょう。真実は知ることができない、なぜならば、不断の相互相対化が民主主義社会の実体だからだ、ということにほかならず、データさえも、客観性よりは政治性を帯びたものが多いことを、われわれはマスコミでも、この掲示板でも、えんえん毎日知ることになるわけです。 さて、ここでインターネット掲示板の世界に話をすすめていきましょう。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説10−C 客観性」 【 日時 】00/04/25 19:59 【 発言者 】棺光一  インターネット掲示板上の言葉は、次に分類相対化されます。 1,過剰な気づかいによる内輪の慰め合い 2,知識のひけらかし合いによりオタッキーでマニアックな議論 3,UG的な冷笑・罵倒・誹謗中傷・悪口雑言合戦 4,自己満足的な抒情出来損ないコラム投稿 5,新聞社・通信社WEBサイト・他掲示板からの無断転載 6,信頼性のないあやしげな情報や思いこみ的断定による不確かな情報   垂れ流し(告発含む) 7,荒らし的連続短文投稿・意味不明投稿 8,情の共同体を模索しての政治的言語使用による秋波モード 9,個人的な問答・情報交換など   10, 宣伝広報・リンク告知この一つ一つを、「客観性」という観点からチェックしていったらどうなるでありましょうか。 1の「過剰な気づかいによる内輪の慰め合い」たとえば「感謝いたします」「申し訳ございません」などの投稿文ですが、これは投稿目的自体が客観的なものではありません。自己心情の吐露によって、掲示板の場の空気を円滑にするという日本人得意の主観的な情による判断です。8の「情の共同体を模索しての政治的言語使用による秋波モード」などは、その究極のことばのすがたでありましょう。 そして、その対極はこんどは3の「UG的な冷笑・罵倒・誹謗中傷合戦」になります。客観性のカケラもありません。同様の例は、6の「信頼性のないあやしげな情報や思いこみ的断定による不確かな情報垂れ流し(告発含む)」、7の「荒らし的連続短文投稿・意味不明投稿」となります。 こうして消去していくと、客観性の観点から残るのは、   2,知識のひけらかし合いによりオタッキーでマニアックな議論   4,自己満足的な抒情出来損ないコラム投稿 5,新聞社・通信社WEBサイト・他掲示板からの無断転載 9,個人的な問答・情報交換など   10, 宣伝広報・リンク告知の5つとなります。これを一つずつ見ていきましょう。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説10−D 客観性」 【 日時 】00/04/25 19:59 【 発言者 】棺光一 「2,知識のひけらかし合いによりオタッキーでマニアックな議論」の客観性 私、棺は以前まさっくさんにあてた投稿文で書いたように、書物をかたわらに置いての掲示板投稿を嗤います。実にくだらないと考えます。しかしながら、世にこうしたことを是とする人々もまた存在いたします。そこで重要なことを記しましょう。 その第一は、投稿者が特定の妄想に支配された人間かどうか、つぶさに観察することです。たとえば、アメリカ妄想・ユダヤ妄想・メーソン他の妄想・創価学会妄想・共産党妄想・朝日新聞妄想・警察怨嗟などが色濃くあり、バランスのとれていない人生や知性の持ち主であり、怨嗟・憎悪が強いと思われる場合は、投稿文章自体を相対化して読まなければなりません。あるいは、その投稿者の他のネット行動をよく観察することです。こうした人種は、ネットに多数存在しますが、おのれの人生上の怨みを晴らすべくネットを活用するだけの、情報メディアとしてのインターネットの破壊者だと言ってよいでしょう。そして、こうした人種が最も多いのが、思想系掲示板なのです。 ROM者は、よくよく注意しなければなりません。 つぎに、そうした妄想や宗教臭のないかうすい、バランスのとれた精神と思われる投稿者による投稿の場合ですが、この場合は、客観性は、ズバリさきに記した文章に頻出することばの種類にかかってまいります。 すなわち、「愚かである」「バカだ」「なさけない」「くだらない」などのことばが頻出しているかどうかを感じる必要があるのです。こうした価値判断をする形容が多用される投稿者の精神は、おおむね我執がつよく、負けまい負けまい、相手よりも精神的に優位に立とうという気が色濃くありますから、いきおい、相手をマイナス方向に価値判断をすることばを多用することとなります(脆弱なる精神というほかはありません、fefefefe)。 こうした価値判断をふくむことばを多用するスタイルをもった投稿者の文章は、当然ハードボイルドな客観性とは縁遠くなりますから、信用はなりません。読み飛ばすか、読まなくてかまわないのです。 つぎに、そうした価値判断をする形容をほとんど使わない投稿者の文章の場合ですが、この場合には、その投稿者の関係性を見ます。すなわち、ズバリ「情の共同体」を結びがちな精神であるかどうかを確認していきます。情の共同体を結びたがる人間の場合は、やはり気をつけなくてはなりません。なぜなら、情の共同体のなかの関係性に気づかい、他者の客観性のない我執投稿を見逃す危険性があるからです。すなわち、その人間が投稿したときの文章自体は客観的であっても、状況のなかで「情の共同体」の維持に回ったり、自己保身をする危険性がたぶんにあるということです。 これでは、個人主義者として本物のことばを書く、ということになりません。 「情の共同体」がまちがいをおかしはじめたとき、もはや個人としてなすすべはないでしょう。戦前の日本人の昭和10年代の精神状態は、いまも、こうしてネット状況のなかに始終生まれているのだということにもなりましょう。 すなわち、客観性は、つぎの回で述べる主体性といっしょになってはじめて、効力を発揮することということになります。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説10−E 客観性」 【 日時 】00/04/25 20:00 【 発言者 】棺光一 「4,自己満足的な抒情出来損ないコラム投稿」の客観性 これは、先々月の博子ちゃんの投稿文を相対化して生まれた概念でした。彼女は書きました。ブナの林と東北と自然保護について。文章自体は、月並みでしたが、特段問題あるものではありませんでした。 問題は、その投稿行動です。 自然保護から無理矢理尊皇に結びつけるのは笑止としても、彼女が投稿すべきはこの掲示板ではありませんでした。なぜならば、この掲示板には、すでに「情の共同体」が存在しているからです。すなわち、彼女にとっては、安逸で居心地がよい。裏を返せば「批判的な他者との不条理なる遭遇」が全くないのです。 同じ投稿文を、価値観の著しくちがう掲示板に投稿するのならば、それは批判も引き受けて立つということになりますから、脆弱なる精神にはなりません。むしろ雄々しい行為です。しかしながら、彼女はここに書いてしまった。なぜか。 それは、さびしかったからなのです。 例の会を追い出されて、怒りにまかせてあちこちの板に脱糞したあげく、堂本直紀さんに注意され、ターボさんに「高橋といっしょにするな」的なメッセ−ジを残され、YOHKOさんという方にも諭され、bbさんにも再三注意を受け(たと本人は書いていますが)、孤立感にさいなまれた彼は、何事もなかったかのように、心理学で言うならば「取り消し要求」にかられ、やり直しを模索して、この掲示板でブナのことについて書きました。 脆弱なる精神と言うほかはありません。 なぜに、それほど「情の共同体」にこだわるのか、孤独を恐れるのか、カバン一つでぶらりとネット旅をたのしむ覚悟をして、こんなところにいつまでもいられるかと啖呵をきって出ていく道も、そうして批判的な他者がうじゃうじゃいる掲示板を見つけて居座って尊皇とやらの抒情コラムをえんえん行いつづける道もあったのではないか、そう思ったROMの人々は多いことでしょう。 この博子ちゃんの例を見るまでもなく、自己完結した叙情的なコラムが自己満足になるかならぬかは、すべてその投稿がなされた場所で判断することが一番です。回りは敵だらけ、日々罵倒中傷の嵐、しかしながら、飄々として「尊皇コラム」(?)を毎日えんえんとアップしつづける−−というようなひとがいれば、まあ、それはひとかどの人物だと言えましょう。 なぜならば、関わり合うことを是として、外に出て行かれる人間だからです。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説11−A 主体性」 【 日時 】00/04/26 17:11 【 発言者 】棺光一 価値相対主義とは、  批判的な他者との不条理なる遭遇を是とし、政治的言語に彩ら  れた我執PRの、えんえんたる不毛のなかでも、相互相対化の  ために、情の共同体を安易に結ぼうとする脆弱なる精神を排斥、  現代社会にあって空洞化した言語、無力化した言論の状況を認  識しつつ、なお極力客観的に主体的に発言をすることで、徹底  的に個人として生きる、民主主義社会の基本的な精神のことです。今回は、「第1回・批判的な他者」「第2回・不条理なる遭遇」「第3回・政治的言語」「第4回・我執というもの」「第5回・不毛というもの」「第6回・相対化」「第7回・情の共同体」「第8回・脆弱なる精神」「第9回・言語の空洞化・言論の無力化」「第10回・客観性」につづいて、「第11回・主体性」について記すことにいたします。 さて、よく言われるように、  自由主義=権力からの防衛  民主主義=権力への参加というのが通り相場になっており、自由民主主義とは、すなわち個人が権力から権利を保障されると同時に、みずからもまた権力へと参加できる体制という意味だとされております。そしてまた、こうした体制は、いままでの人類史上ではとりあえずは最もすぐれた政治体制だということに一応はなっているのも事実ではありましょう。 しかしながら、こうした体制到来の歓喜というものは、しょせん近代のものであり、それから月日を経た現代人の精神的な頽廃は、ともすればそうした歓喜を忘れがちにもなっていきます。年齢をへてある程度生活感を身につけるまでは政治意識が希薄な青少年の数が増大する一方で、それを危惧する声もあとを断ちません。つづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説11−B 主体性」 【 日時 】00/04/26 17:12 【 発言者 】棺光一  ところで、その権力への参加という民主主義自体は、どうでありましょうか? 「言語の空洞化」「相互相対化」の項でも述べたとおり、民主主義自体は言論でなりたっている以上、政治的言語の相互相対化は免れ得ず、究極は不毛なものにすぎません。 しかし、にもかかわらず、主体性を保持しなければなりません。不毛は不毛ではありますが、そこに身を投じることは。石原慎太郎のかつてのことばを見るまでもなく、無意味なことではないからです。(不毛=無意味という誤解をしている人々が何と多いことか、と私、棺は、この掲示板で知りました。安逸な、居心地のよい気分以外はすべて無益である、批判的な他者はすべて荒らしであると感じるのは脆弱なる精神以外の何物でもありません)。  不毛のなかに、不毛であると知って飛びこむ−−民主主義社会や、究極の相互相対化ツールであるインターネット掲示板でこの気概がないと、どういうことが起こるでしょうか? インターネット掲示板からかんがえていくと、わかりやすいかもしれません。 たとえば、この掲示板を例にとって考えてみましょう。たとえば、野嵜さんや八神さん、博彦子ちゃんなどは昨年かそれ以前よりの投稿マニアでありました。そして、いまも投稿マニアです。 投稿マニアの特徴は、客観性を獲得する前に、我執垂れ流しで文章を人前にさらしてしまうことです。粗悪な情報や、内容空疎なもの、はては罵詈雑言や誹謗中傷などが得意で、ともすれば激高調スタイルやUGスタイルを好んだりいたします。 したがって、その自己顕示欲とは別に、閲覧者からは好かれないことが多いのですが、御本人たちはそれに気づくことはありません。 なぜなら、閲覧者の多くは、自分に実害がないかぎり、情の共同体の破壊をしてまでも、真実を言いに出ていく必要を認めないからです(その意味では、ROMもまた、情の共同体の共同正犯であることもあり得ます、これは個人主義ではなく、利己主義にすぎません)。  したがって、投稿マニアたちは、それをいいことに、自分への大いなる勘違いをはじめ、我執垂れ流しの投稿はとどまることを知りません。反対意見がきちんと投稿されないかぎり、無反応はすべて、自分の味方だと思わんばかりの勘違いをしたりしていきます。メールなどでの社交辞令さえ、本気にしてしまうケースさえあるようです。 そうして、もともと投稿マニアであった人々は、そのネット行動をエスカレートさせ、自説にこだわり、妄想街道まっしぐらとなっていくわけです。 一方、第三者のほうはどうでありましょうか? 「ああ、また、キチガイがバカやってら」−−。 それで、不毛のなかにあえて飛びこむことよりは、「我関せず」を決めこみます。脆弱なる精神と申しあげるほかはありません。つづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説11−C 主体性」 【 日時 】00/04/26 17:12 【 発言者 】棺光一  と以上のように見てくると、これはそのまま、現代社会での政治家と有権者の関係とちょうど相似形をなしていることに気づくでありましょう。       ネット掲示板の投稿マニア = 政治         ネット掲示板の閲覧者(ROM)= 有権者 そうして、ここに「主体性」ということばを持ってくると、よく文脈がおわかりいただけることでしょう。そう、現代の日本社会では、現実でも、インターネット掲示板でも、「主体性」が欠如しているのです。 このような主体性欠如の場合、受け手に情報選別のセンスがある場合はまだしも、情報やことばに対するセンスがなければ、どういうことになってしまうでしょうか? 投稿マニアや政治家といったキチガイたちの我執垂れ流しの政治的言語は、粗悪な政治的な言語であるにもかかわらず、反復され、捏造された真実として一部には流布されていくことでしょう。 つまり、我執垂れ流しの政治的言語の流布は、流すほうの脆弱なる精神と、それを信じてしまうほうの脆弱なる精神との共同作業によってできあがっていくことになるわけです。(こうした現象を機構的に防いでいるのが、有権者・一般国民の代理機関として今や第四権力となっているマスコミです。マスメディアというのは、民主主義社会にあっては、権力を相対化するものとして存在しております。そして、日本では権力に最も近い人種や系脈をもつ朝日新聞が、反政府の先陣をきるのは、当然の論理的帰結でありましょう。しかしながら、マスコミによる権力の相対化は、政治目的のためであってはなりません。かつて、自社さ連立政権が発足した直後の朝日新聞社説は、迷走のしっぱなしでありました。自民単独政権を相対化するための長年の物の言い方から抜け出ることができなかったからです。いままでどおりの物の言い方をして、お前の所はご用新聞か、というきわめてシニカルな現象を示しておりました。つまり、バランスをとるための重心移動がおくれてしまったわけです。近代マスコミは、本来は、このように、社会全体のバランスを、権力に対峙し相対化しつつ、かたほうの重心として維持するために機能するものにすぎません。思想や思潮ではないのです。したがって、権力が長年つづいてマスコミ自体が、さきに記した朝日新聞の例のように、重心移動におくれてしまうぐらいなら、始終たえることなく、政権が交代し、政策的ニュアンスも交替していくことが、マスコミの重心移動をすみやかにすることになりましょう。 そうすれば、長年の単独支配権力に対峙するために、マスコミがそれへのアンチに凝り固まることもなく、同時に、そこから流される膨大な価値観情報にある世代から下が(あるいは上が)一色に塗りつぶされるというようなこともありえなくなるわけです。国民は、歴史的な時間の進行のなかで、くねくねと価値観の重心移動をたえず行いながら、常にバランスをとりつづけ、ある一線から向こうには決して行こうとは思わなくなっていきます。つまり、成熟していくわけです) つづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説11−D 主体性」 【 日時 】00/04/26 17:13 【 発言者 】棺光一  話をもどしましょう。 不毛であると知りつつ、その不毛のなかに飛びこむことは不毛ではあっても無意味ではない、それが主体性の獲得ということになります。と同時に、主体的に生きる、という意味もそこから生まれてまいります。 人生には何の意味もない、不毛である、だからこそそこに飛びこみ、生きるのだ−−それが主体的な生き方の出発点であり、カルトなどにはまる脆弱なる精神を斬る第一歩となるのです。また、この掲示板は不毛である、しかし、そのなかに飛びこみ、批判的な他者と不条理なる遭遇をしても、発言しつづけるのだ−−これは、主体的なネットへの参加精神ということになります。 昨今、我関せずで、他者のことは風景としか見えない青少年たちがふえてきたとよく言われます。彼らの多くは、たがいにたがいの情の共同体内にとどまり、批判的な他者と衝突したり、交流したりということをきらいます。 私・棺は、それを嗤います。脆弱なる精神というほかはありません。居心地のよい場所に安住するのは脆弱なる精神と言わなければなりません。「言っても無駄だ」「教えても無駄だ」「不毛だから放っておこう」−−こうした態度は、主体性とは対極の脆弱なる精神の賜物なのです。 そうして、こうしたおのれの内なる脆弱なる精神に、おとなたちが気づかなかったか、さもなければ気づいていてもタカをくくっていたかしたことが、青少年をして、あるいはペットをして、それをここまで増長させる主因となっているのです。 不毛であっても、そこにとびこむ気概をもつこと、けっして無駄だと逃げぬこと−−この精神をもって、民主主義社会の個人の「主体性」と言います。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説12−A 個人主義を言う前に」 【 日時 】00/04/27 18:46 【 発言者 】棺光一 価値相対主義とは、  批判的な他者との不条理なる遭遇を是とし、政治的言語に彩ら  れた我執PRの、えんえんたる不毛のなかでも、相互相対化の  ために、情の共同体を安易に結ぼうとする脆弱なる精神を排斥、  現代社会にあって空洞化した言語、無力化した言論の状況を認  識しつつ、なお極力客観的に主体的に発言をすることで、徹底  的に個人として生きる、民主主義社会の基本的な精神のことです。今回は、「第1回・批判的な他者」「第2回・不条理なる遭遇」「第3回・政治的言語」「第4回・我執というもの」「第5回・不毛というもの」「第6回・相対化」「第7回・情の共同体」「第8回・脆弱なる精神」「第9回・言語の空洞化・言論の無力化」「第10回・客観性」、「第11回・主体性」につづいて、「第12回・個人主義に言及する前に」ついて記すことにいたします。 この回を挿入したのは、他でもない、用語や概念の混乱が、この掲示板でも著しいからにほかなりません。そこで「個人主義」と混同されがちな、つぎのことばや概念について、かんたんにまず触れておこうと思います。 第一は、利己主義(egoizm=エゴイズム)についてです。(1)利己主義(egoizm=エゴイズム) これは学問上のごたいそうな用語ではなく、日常用語にすぎません。自分勝手・自己本位・わがまま、などの意味です。他人のことをかんがえない言動や行動をとったりする、そういう社会性の欠如を言います。 しかしながら、それぞれの人々が個体単位として存在している場合とは異なり、組織や集団として、学校・企業・国家などの単位となってまいりますと、利己主義(egoizm=エゴイズム)という概念は、論理上は解体してしまいます。 たとえば、国益ということばを思い出してみましょう。 ある一国に住む人が政治家や官僚となって、自国の国益のみを純粋に考えて国際戦略をたてたといたします。それは、他国にとっては、「利己主義」に見えることとなりますが、自国の他の人々にとっては、同じ国民に対する愛他精神という側面をそなえることになってまいります。 このように、利する対象が、自分自身ではなく、学校・企業・地域・国家といった組織や集団になった場合には、利己主義ということばは成立いたいたしません。 よく、いわゆる「右と左」との近代史論争で、いわゆる「左」の人々が「国家エゴ」などという造語を持ちだすことがありますが、これは例の政治的言語以外の何物でもありえず。ことばとしての正統性も論理もへったくれもないのです。 利己主義(egoizm=エゴイズム)というのは、社会のなかで個々人を単位として見るような場合にのみ、あてはまることばです。たとえば、デフォルトで人々が関係しあう「情の共同体」内には、利己主義(egoizm=エゴイズム)は存在いたしますが、集団主義の場合には、たちまちそれははじき出されてしまいます。集団主義の倫理道徳観は、集団の目指す目的や効果との一致から見た「利」「義」「力」の獲得が最優先であり、個々人の良心などは、その前では、利己主義(egoizm=エゴイズム)的な情の陶酔にすぎない、と結論づけられてしまうわけです。  つぎに、この利己主義(egoizm=エゴイズム)と似たことばの一つの「自我主義・唯我主義(=egotizum エゴティズム)」について記しましょう。 つづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説12−B 個人主義を言う前に」 【 日時 】00/04/27 18:46 【 発言者 】棺光一 (2)自我主義・唯我主義(=egotizum エゴティズム) これは、ドイツ語や英語の世界では、前述の「利己主義・エゴイズム」とほぼ同義に用いられることの多いことばですが、元来の意味は、文芸史上ではこうなっております。 このことばを用いたのは、「赤と黒」「パルムの僧院」などでおなじみのフランスの作家スタンダールでした。スタンダールは、倫理や道徳上の利己主義とは異なり、 「物を書く人間が、自分自身の精神的個性や肉体的個性を精密に分析する態  度」という意味でエゴティズムということばを使いました。スタンダールに時に見受けられる執拗なまでの容貌描写や表情描写は、これと関係があります。一方、スタンダールは、自我の自然な発揚を説き、同時に、いくつもの仮面の自我を容認し、社会との対決においては偽善を用いることを肯定しております。 したがって、現代人の知性のありかたや価値判断にダイレクトにつながる考え方をしていることになりましょう。現在のネット掲示板の複数捨てハンドルなどを見たら、スタンダールならば「fefefefe....、これが人間だ」と言いかねません。というのはまあギャグにすぎませんが。 くわしくは、スタンダール「エゴティスムの回想」にあります。 この自我主義・唯我主義(=egotizum エゴティズム)は、一般的には、つぎのように定義づければよいでしょう。  「人間が自己の教養を尊重し、言動・行動の根拠として、その尊重された自  己の教養のみを尺度とする態度」 Kaoさん、あなたとのやりとりとも関係いたします。どうでしょうか? 情の共同体にとどまるかぎり、この唯我主義・自我主義(egotizum=エゴティズム)を脱することはできないということが論理的にわかりましょう? 右の人々のなかには、よく一人一党などと感傷的に言うことがありますが、彼らが天皇を中心とするひとつの確固たる物語的な世界観を死守することを精神的な課題とするならば、一人一党という状態と、その発することばは、一致いたしておりません。思想上・論理上は、矛盾いたしております。知行合一とはほど遠いと言わなければなりません。 なるほど現実では、なかなかよい親分に恵まれない、指導者に恵まれない、ということは十分に想像はつきますが、それでも一人一党などと言って、それに甘んじているのはセンチメンタルな勘違いにすぎません。それは単なる「浪人」でしかないのです。浪人として、唯我主義の立場から、物事の価値を判断しているにすぎないのです。単独判断であり、個人主義者に限りないところに立ってしまっております。どころか、対極にあるはずの集団主義を復古させるのだと言うのは、あまりにばかばかしいと言うほかはありません。 つぎに、「功利主義(utilitanianizm=ユーティリタニアニズム)」について記しましょう。つづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説12−C 個人主義を言う前に」 【 日時 】00/04/27 18:47 【 発言者 】棺光一 (3)功利主義(utilitanianizm=ユーティリタニアニズム) このことばは、もともとは倫理学上のことばでした。  人間の行為が利をもたらすかどうかで、その行為の善悪をはかるという説です。たとえば、いわゆる「左右」の戦時補償議論や国際援助議論で、「相手国によく思われることが国益ではないのか」ということばが、いわゆる「左」方面から出ることがたびたびありますが、これはまさしく原初の功利主義的判断ということになります。損か得かだけで判断する精神態度です。 したがって、この概念は、19世紀から20世紀にかけて政治や経済の変転発展とともに、大きな影響をあたえることになりました。神や宗教の道徳的呪縛から逃れて、はっきりとした指針を示す考え方として、欧州・中産階級に受けいれられていきました。 英国では、最大多数の幸福を説いたJ・ベンサム、その弟子のJ・S・ミル、さらにはスペンサー、日本では、中村正直・西周・加藤弘之・福沢諭吉・森有礼などらの明六社の面々がそうです。そして、彼らが自由民権運動にも多大な影響を与えていったことは、この掲示板にご参集のかたがたには周知の事実でありましょう。 この功利主義(utilitanianizm=ユーティリタニアニズム」は、政治・経済・教育・法律・歴史とさまざまな分野で、日本の、あるいは世界の歴史をリードしつつ、19世紀末から20世紀前半までの国際社会をかけめぐりました。 帝国主義は、この功利主義の国際関係上の概念のひとつにすぎません。損か得か、それを価値判断基準にしようということに、各国は躍起となっていったわけです。 と、こうしてみると、20世紀半ばの核の登場と東西冷戦によって、世界ははじめて功利主義(utilitanianizm=ユーティリタニアニズム)だけではまずいと気がつき、この功利主義的な時代の負の遺産を、現代までひきずっていると言うこともできるでしょう。 功利主義は、集団主義とも相性がよく、したがって、いまでもそれを滅ぼすことは人類にはできないのです。 つぎに、「合理主義(rationnalisme=レーショナリズム)」について記しましょう。 つづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説12−D 個人主義を言う前に」 【 日時 】00/04/27 18:47 【 発言者 】棺光一 (4)合理主義(rationnalisme=レーショナリズム) 原義は、ラテン語のratioで、理性・道理・分別などに基づいた思考方法のことです。哲学の世界では、理性論と言いますが、広く西欧社会全般の思考パターンを表して言うことがほとんどです。rationnalisme=レーショナリズムという言い方は、19世紀に生まれました。 さてよく言われる聖書の冒頭にあるように、西欧では、神との契約を言葉でとりかわしておりました。「はじめに、ことばありき」で、表されたことばがすべてであり、そこには「行間を読む」とか「裏の意味をさぐる」などの考え方は存在いたしません。したがって、信頼されるべき第一のものは、理性であり、良識ということになってまいります。レゾンであり、ポンサンスというわけです(この掲示板で。私・棺と、野嵜さんや八神さん・博子ちゃんとのどちらが「荒らし」かという場合、欧州ならば、即後者3人が「荒らし」と結論づけられましょう、fefefefe...)。 西欧社会では、ことばに賭ける熱は日本とはまったく異なり、日常のくさぐさのところにまで、 ことばとは、自分が外界に投げ出す瞬間瞬間の作品であるという潜在意識が徹底しております。したがって、どんなこまかいことにも議論は成り立ち、かつまた、当意即妙のユーモアやウィットなども社会的に大きな評価の対象となっております。 感情・涙・叫びといった不合理なものに沈黙するよりは、いかなることばを造形して社会的に送り出すかが、人間の価値を決める大事な基準となっており、情緒と言語は、日常、まったく別の次元に存在しております。 吐かれたことば、書かれたことば、ただそれだけが第一義的にすべてであって、それ以外の要素の介入を忖度・顧慮しない−−これが西欧社会の一大特徴であることはよくご存知のとおりでありましょう。 つぎに、快楽主義(epicurianizm=エピキュリアニズム)について記しましょう。つづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説12−E 個人主義を言う前に」 【 日時 】00/04/27 18:48 【 発言者 】棺光一 (5)快楽主義(epicurianizm=エピキュリアニズム) 古代ギリシアの哲学者エピキュロスが提唱し、その弟子たちが熱心に信奉していた考え方です。本来の意味は、こうでした。 外界によって乱されない、静謐でおだやかなる精神的快楽を享受することを 人生の目的とする考え方。 その快楽とは、放蕩的な肉体的快楽とはことなり、むしろ消極的に、いやな ことや苦痛を遠ざけて、何かに煩わされない状態に身をおくことであり、そ れが人間生活の究極目的であり、最高の善だとする。 そうして何事にもわずらわされない静かなる境地を「アタラクシア」と呼ぶ。 つまり、本来は、たとえば、俳人が庵をむすんで、そこで自然をめで、句に興じるような世界をさすことばだったわけであり、最高の境地は、仏教の涅槃にもつうじるような概念だったわけです。 このことばの反意語として、ストイシズム(禁欲主義)という古代ギリシア哲学の一派がありますが、上のように見てくると、実体は、「快楽主義=エピキュリアニズム」も「ストイシズム=禁欲主義」も、ともにイデア的な実によく似たところにあったことがわかるでしょう。 ところが、現代で「エピュキュリアニズム」は、まったくこういう意味では用いられてはおりません。なぜでしょうか? いかなる歴史的変遷があったのでありましょうか? そして、それには19世紀の懐疑主義(spectisizum=スペクティシズム)についてふれておく必要があります。 つづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説12−F 個人主義に言う前に」 【 日時 】00/04/27 18:49 【 発言者 】棺光一 (6)懐疑主義(spectisizum=スペクティシズム) 原義は、ギリシア語のスケプティコス(よく見る人・観察者)です。ただし、単に見るのではなく、見た対象をありのままに肯定せずに観察する人、というニュアンスがあります。 つまり、一般的に言うならば、 客観的真理を認識する可能性をうたがい、断定的な判断をくださぬ態度ということになりましょう。私・棺が、この掲示板で再三再四指摘しつづけてきたインターネット掲示板の実態と最もよく近接した考え方ということになります。 懐疑主義とは、古典的に言うならば、独断(ドグマ)論が支配する世界に、常に真の認識を求める立場として現れてまいりました。 この掲示板で言うならば、博子ちゃん独裁の我執垂れ流しの政治的言語PRの世界に突如出現した私・棺のような立場ということになりましょうか。fefefe... さて、まず、古代ギリシアの哲学者ピュロンは、混乱の現実に対処するためにいっさいの判断をさしひかえること(エポケー)を説きました(おんもしろいですね。インターネットの掲示板の話と、思想史というのは実によく合致しております)。 また、キリスト教の神学のドグマから脱したルネッサンス後には、モンテーニュが「自分は何を知り得るか」という態度で、宗教戦争のさなか、人間をただしく認識しようとつとめました(ますますおもしろいですね、この掲示板のROMのみなさんは、さしづめこのモンテーニュでありましょう)。 さらに19世紀には科学的合理主義が席巻しましたが、これに異を唱えたニーチェ・キルケゴールなども、この懐疑主義の系脈のなかに見ることができます。 さて、とはいうものの・・・・。 こうした懐疑主義というのは、脆弱なる精神には耐えられない側面があります。信じるべきではない、すべて疑え、真理などない−−この不毛のなかに、知を保持しつづけることは容易なことではありません。空虚や虚無といった気分にさいなまれ、なかには発狂・自殺ということもありえましょう。 そして、ある種の人々は、退避いたします。逃亡いたします。どこへ? それが、原初のエピキュロスの快楽主義ならぬ現代につうじる「享楽主義」というものだったわけです(またまたおもしろいですね。これは、インターネット掲示板のなかではUG世界を意味します。fefefe)。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説12−G 個人主義に言う前に」 【 日時 】00/04/27 18:49 【 発言者 】棺光一 (7)享楽主義・快感主義 前項「懐疑主義」末尾で述べたきびしさ、すなわち信じるべき価値や理想などなにもない、すべてをうたがいつづけることが知なのだ−−というきびしさに耐えられなかった人々は、19世紀末に、悪魔主義・唯美主義・象徴主義という方面へと退避いたしました。 これは、哲学者よりも脆弱なる精神である文学者や画家などの花畑となり、ボードレールやランボー、ワイルドやポー、あるいはベルギー象徴派絵画のフェルナン・クノップフやモロー、あるいはポール・デルボーの世界へとつながっていきます。エロスや倒錯、冒険や恐怖、空想や悪夢などが題材とされて、一種の陶酔を享受者に与えることに成功しました。 こうした効果は、ひとり芸術方面のみならず、一般社会にも広くいきわたり、1920年代のアメリカを端緒とする大量消費時代の幕開けとあいまって、消費する喜びを流布し、同時にまた、セックスや麻薬、スピードやその他の刺激、変態性欲など放恣な発展をとげることとなりました。 つぎに、いままでの用語をまとめていきましょう。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説12−H 個人主義を言う前に」 【 日時 】00/04/27 18:50 【 発言者 】棺光一  さて、ここまでの用語のまとめをいたします。(1)利己主義 = 日常語・個がめいめいバラバラに存在している社会で          はじめて成立する概念。集団主義からはあっという間          にはじき飛ばされる。自分勝手・自己本位の意。(2)唯我主義 = 言動・行動の判断基準を、自分の教養のみに求める態度(3)功利主義 = 損か得かで、自分個人及び自分の属する集団や組織の行          動を決定判断する態度で、19世紀後半から20世紀全般ま          で世界を席巻し、いまもまだその最中。(4)合理主義 = 表出された言葉を第一義的にとらえ、理性・分別・道理          によって思考をする精神態度。見えない情緒や感情や叫          びは顧慮せず、表出される言語のみで判断する世界。(5)快楽主義 = 混乱した現実にわずらわされずに、いやなことや苦痛は          避けて、静かでおだやかな境遇を求める精神態度。(6)懐疑主義 = 客観的真理の存在をうたがい、断定的な判断をくださず、          不毛の世界に耐え、純粋な認識のみに賭ける精神的態度(7)享楽主義 = セックスや麻薬、冒険や妄想・悪夢や倒錯愛に刹那的な          なぐさめを見いだし、逃避する精神的態度。いかがでありましょうか? いままで右系掲示板にご参集の方々が、いかにいいかげんに言葉をとらえ、使っていたかが一目瞭然になったことでありましょう。 個人主義(individualizm=インディビジュアリズム)は、上の考え方とさまざまに交差しつつ、その対極にある集団主義と並びそびえたちます。 しかしながら、価値相対主義とは、さらに、その上にある考え方であることは言を待たない事実でありましょう。 それでは、個人主義について次回から述べていきたいと存じます。 ごきげんよう。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説13−A 個人主義」 【 日時 】00/04/28 17:26 【 発言者 】棺光一 価値相対主義とは、  批判的な他者との不条理なる遭遇を是とし、政治的言語に彩ら  れた我執PRの、えんえんたる不毛のなかでも、相互相対化の  ために、情の共同体を安易に結ぼうとする脆弱なる精神を排斥、  現代社会にあって空洞化した言語、無力化した言論の状況を認  識しつつ、なお極力客観的に主体的に発言をすることで、徹底  的に個人として生きる、民主主義社会の基本的な精神のことです。今回は、「第1回・批判的な他者」「第2回・不条理なる遭遇」「第3回・政治的言語」「第4回・我執というもの」「第5回・不毛というもの」「第6回・相対化」「第7回・情の共同体」「第8回・脆弱なる精神」「第9回・言語の空洞化・言論の無力化」「第10回・客観性」、「第11回・主体性」「第12回・個人主義に言及する前に」につづいて、「第13回・個人主義」について記すことにいたします。 まずは、一般的な用語として、その歴史などを概観してまいりましょう。  個人主義(=individualizm、インディビジュアリズム)とは、通常、つぎのように定義されることばです。 個人の人格の自由な発展・発現にこそ、社会の目的があると考える価値観。 したがって、個人主義は、自由主義という考え方と不可分の関係にあり、自由に語ることを、つまりは言論の自由をよしとする民主主義の根本理念ともつよく結びついていることがわかります(これは、後に「民主主義」の回で詳述いたします)。 ところで、ここで、個人主義を、前回のことばともからめながら、つぎのように図式化してみましょう。        −−功利主義(損か得かで判断する)−−利己主義(自分本位の実利追求)       | 個人主義−−|      =>享楽主義に傾きがちとなる  ↑    |  |     −−個性主義(個人的理想の実現を求める)  |        ↑  |        |  |        |   −−人格主義(カント・リップス)  |        |  |       |        |  |     =個人の発現は、自他融合の普遍的人格性による  |        |−−|      社会的協調性が強い。  |        |  |  |        |  |  |        |  |  |        |   −−超人主義(ニーチェの「貴族的個人主義」  |        |          キルケゴールの「単独者の思想」など)   |        ↓  |(哲学的には)普遍主義と対立  |         プラトン・スピノザ・シューペンハウエル  |           普遍と特殊、全体と部分との関係を、普遍・全体の優位から  |           説く。  ↓   (社会学的には)集団主義と対立 ここで理解しなければならないことは、私・棺の再三再四用いてきた「情の共同体」という概念です。 「情の共同体」とは、上記の図式の各枝の上の部分と密接に関係し、かつまた個人主義に徹しきることも、集団主義に徹しきることもできぬデフォルトの人間関係の原初状態にすぎません。 すなわち、居心地のよさという享楽的な部分と、自他融合の社会的協調性との部分のみにささえられたヘンパな個人主義なのです。 情の共同体−−それは、集団主義とは何の関わりもない、ただの利己主義・功利主義・個性主義・人格主義にたよる人々がcollectiveに集まったハンパな個人主義者の集まりにすぎないと定義づけられるのです。 ネット行動において、そのような精神性しか持たぬ人々が、戦前・戦中の日本を持ち上げることは、やっているとこと書いていることとがはなはだしく言行不一致であり、知行合一とはほど遠いと言わなければならないのであります。 戦後民主主義の恩恵を受けて、その究極のインターネットをすきなようにやりながら、集団主義との言行一致を理解しえない−−それは嗤いとばすべき脆弱なる精神だったと言わなければなりません。 つづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説13−B 個人主義」 【 日時 】00/04/28 17:28 【 発言者 】棺光一  さて、私・棺は、再三再四書いてまいりましたように、下の図式にあった「集団主義」については批判はいたしません。理由は二つあります。 第一は、言っても始まらない対象だからです(したがって、私・棺は、例の会の掲示板には行かないのだ、と前に記しました)。 第二は、効果や目的を達成するために存在するものである以上、批判は達成された効果や目的の内実によってはかるべきであると考えるからです。集団主義の成功・失敗の論議は、すべて掲げた目的とあげられた効果によって量られ、それ以外の要素たとえば青臭い倫理規範などは二の次・三の次となります。たとえば、相手を思いやり、敵にやさしい「道徳的な」軍隊は、背徳であるというパラドックスで説明すれば、わかりやすいでありましょう。このことについては「集団主義」の回で詳述いたします。 そこで、下の図式のなかから、個人主義を論ずる上で、まず集団主義を叙述の対象から除外することにいたします。 つぎに、個性主義(人格主義・超人主義)に対する普遍主義についてでありますが、私・棺は、自らが個人主義であることを飛び越えて、これもいちおうは是といたします。そして、叙述の対象から外します。 すると、私・棺が叙述するべき「個人主義」のお話は、つぎのものに限られてまいります。 利己主義(=egoizum、エゴイズム)、 功利主義(=utilitanianizm ユーティリタニアニズム) 享楽主義(≠epicurianizm 原義のギリシア哲学ではなく、19世紀末・20世紀的な) 個性主義(人格主義・超人主義)ということになります。これに、前回記した「唯我主義」「合理主義」「懐疑主義」を加味すれば、私・棺の考える「個人主義」のススメ、すなわちいたずらに神を語りインターネットのなかで自己救済をはかりつつ、情の共同体をとりむすび、しだいに妄想をふくらませていく現代人の脆弱なる精神からの脱却もまた、そうとうに鮮明になっていくことでありましょう。 つづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説13−C 個人主義」 【 日時 】00/04/28 17:29 【 発言者 】棺光一 右系の掲示板では、よくこういう書き方がなされることがあります。 いまのような若者やこどもを生んだのは、戦後の個人主義がいけないからだ。 私・棺は、このことばの使い方の粗雑を嗤います。彼が書きたかったのは、おそらくは利己主義・享楽主義への悲嘆でしかありません。それ以上の意味で、個人主義を書いてはいないのです。 利己主義はよくありません。社会に迷惑をかけます。我執垂れ流しは、つまりません。いまだに、この掲示板でも客観的真理の存在を疑う懐疑主義の立場を理解しえない19世紀以前の人々が多く存在しております。脆弱なる精神と言わなければなりません。 また、どこでもいつでも享楽主義というのも困りものです。見ていてたいへんに見苦しいと感じる人々への文化的な想像力が欠如しているか、さもなければわかっていて世間への呪詛でやっていることにすぎません。 しかしながら、こうした意味でのいわゆる「個人主義」を嘆くのであれば、そこには右も左もないでしょう。政治の問題ではなく、ひととして生きる道の美学の問題であり、パーソナルな問題でしかありません。茶髪の高校生やヤマンバギャルやガングロ女子高生の話など、右でも左でもすきなひともいればきらいなひともいるだけの話にすぎないのです。 したがって、右系掲示板でのよく見られる投稿文にある戦後の「個人主義」として扱われる利己主義・享楽主義は、もともと政治の問題というよりは、宗教の問題に属するものであり、そこには右も左もないと結論づけて、叙述の対象から外していくことにいたします。 (上のような憂国系掲示板の嘆きの投稿は、しょせんが唯我主義のレベルの話であり、戦後の個人主義に依拠しつつ、現代の個人主義を斬るという思想の矛盾を内包してしまっていることとなります) さて、ここで残ったものは、つぎのものです。 1,功利主義(=utilitanianizm ユーティリタニアニズム) 2,唯我主義(=egotizm、エゴチズム) 3,合理主義(=rationallizme レーショナリズム) 4,懐疑主義(=spectisizum スペクティシズム) これを、人格主義や超人主義をも視野に入れて、叙述していくことといたしましょう。 つづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説13−D 個人主義」 【 日時 】00/04/28 17:29 【 発言者 】棺光一 (1)功利主義(=utilitanianizm ユーティリタニアニズム)との関係性について 前回、私・棺はこう書きました。 この功利主義という考え方は、集団主義とたいへん相性がよく、したがって、19世紀以来、国家においても、企業においても、学校そのほかの集団においても、「損か得か」というこの行動基準は、実によく人類の歴史と合致して歩いてきた−−。    したがって、功利主義的側面をとらえて、それを個人主義に還元することはできません。功利主義的側面は、むしろ、国家や企業にあって突出していく考えであることは誰の目にも明らかでありましょう。集団主義ともとても相性がよいのです。 しかしながら、国家や企業というものは、それ自体は抽象概念にすぎず、実体は個々人が集まったものです(しかし、collectiveな群衆ではありません。合目的な個の集合体です。両者を混同してはなりません)。 ですから、組織集団内の構成員として、個々人の判断を問う場合には、組織集団の功利主義的判断のために、個人が愛他的に犠牲になるという場合がありえます。これについては集団主義の回に記しましょう。 ところで、個人主義の側から、この功利主義をとらえてみたときに、いったい   功利主義 = 個人主義 や、功利主義 > 個人主義 は成り立つものでしょうか?  そのこたえは、いま、あなたがたの目の前にあります。私・棺を見ればよろしい。 私・棺は、個人主義者です。そして、言葉を愛する者です。 私・棺は、このインターネット掲示板の世界の不毛のなかで、何の得もないどころか、損ばかりであるにもかかわらず、ここまで価値相対主義講座をやってまいりました。 自立しない脆弱なる精神たちが、カルトにからめとられる現象や、我執垂れ流しの政治的言語PRに終始するのを看過することができなかったらからです。 私・棺は個人主義者です。しかし、功利主義的判断をしてまいりませんでした。 したがって、功利主義=個人主義、功利主義>個人主義もまた、右系掲示板の方々の大いなる勘違いだったと言わなければなりません。 個人主義と、功利主義とは別次元の概念である−−そういう至極当然の結論が出たにすぎないのです。 かつまた、戦前戦中日本へのオマージュをかんたんに口にする人々が、博彦クンや野嵜少年のように、実は我執垂れ流しの(悪しき意味での)戦後の個人主義者であったことは、もはや、だれの目にも明瞭な事実となったことでありましょう。 さて、残った概念は、「唯我主義」「合理主義」「懐疑主義」になりました。 つづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説13−E 個人主義」 【 日時 】00/04/28 17:30 【 発言者 】棺光一 (2)自我主義・唯我主義(=egotizum エゴティズム)との関係性について 1of2 利己主義という意味での日常用語ではありません。前回の項をご参照下さい。 自我主義・唯我主義(=egotizum エゴティズム)は、つぎのように定義されます。  「人間が自己の教養を尊重し、言動・行動の根拠として、その尊重された自  己の教養のみを尺度として、物事を判断する態度」 それでは、その教養は何によって積み重なるのか、醸成されていくのか、という問題はまた別問題となります。そこには、歴史や伝統ということばも容易に持ち出し得るのですが、それはまた、現実の日常社会では、情報の送り手と受け手との社会的関係性にすぎないと還元することもでき(たとえば、世代・親子間のコミュニーケションなど)ともに相互相対化している価値観にすぎません。 重要なのは、唯我主義による「判断」の際なのです。  よく、右系の人々は、「それはオレの美学に反する」とか「そういうのは、オレはやらない」とか言ったり書いたりすることがあります。この場合を考えてみましょう。 ここでは、「主体」と「主体の属する社会的関係性」から、それをかんたんに見ていくことにします。 「それはオレの美学に反する」「そういうのは、オレはやらない」という場合の判断主体は何でしょうか? 明らかに自己です。それ以外のことばは、ここにはありません。 つまり、唯我主義です。エゴチズム(自我主義)ということになります。 それに反して、「教育勅語に反する」「聖書に書いてあるからやらない」という言い方になると、これは判断主体から見て、唯我主義とは言えません。信仰集団ということになります。博彦クンや野嵜少年の持ち上げる時代というのは、時代に錦の御旗が立ちました。社会がそれを支えて、倒れぬようにして、軍人による唯一無二の神学的な解釈をして、突っ走ってまいりました。それを持ち上げるお二人が、ネット上ではきわめて個人主義的な人間であるというのは、シニカルな話です。 ここで、次回の「集団主義」の回のために、唯我主義による判断と信仰者による判断のちがいをさらに書いておきましょう。 唯我主義の判断は、自己を主体としています。その自己が、判断対象となる出来事や人物や行動を「善」と判断すれば、行為がはじまり、「悪」と判断すれば、行為は停止いたします。したがって、行為の開始・停止は、すべて、判断主体である自己にゆだねられております。 これは、明らかに「個人主義」であり、唯我主義は、個人主義をささえるたいへん大事な概念であることは言を待たない事実です。しかしながら、「唯我」の「我」がそのまま我執であるとは言えません。我執というのは、生々しい感情のことであり、ずでに見てきた客観性や主体性などと関わりなく、おのれの感情のみを押し出し続けることにすぎません。個人主義と我執とは、何の関係もないことは明らかでありましょう。 唯我主義の人間には、野嵜少年や博彦クンのように、そういう人間もおりましょうが、そうではなくて、多少はましな文化的な歴史的な「義」にまで自分の判断基準を求めようとする人々もなかにはいることでしょう。行動や言動の価値基準を自分自らが客体化して、冷静に判断するところに、個性主義と呼ばれるものが花開きます(人格主義であれ、超人主義であれ)。 しかしながら、問題はそれからです。「主体」の判断としては、歴史性も客観性もある程度は獲得できている、しかしながら、唯我主義の判断が許されない場合がある、それが「主体の属する社会的関係性」です。 つづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説13−F 個人主義」 【 日時 】00/04/28 17:30 【 発言者 】棺光一 (2)自我主義・唯我主義(=egotizum エゴティズム)との関係性について 2of2 たとえば、企業や軍隊などで、何かの判断をする場合に、唯我主義という個人主義的側面が生まれてきたら、どうなってしまうでしょうか? もとより組織や集団は、瓦解いたします。「それはオレの主義に反するからいやだ」「そういうことはワタシしたくない」−−もはや、バラバラとなるほかはありません。 このように、唯我主義というのは、往々にして、社会的関係性のなかでは、(何の利も実際にはない、良心的な判断だったとしても)利己主義的に見られることもあれば、功利主義的に見られることもあります。 すなわち、唯我主義とは、つねに自分自身の属する集団や組織との関係にさらされてしまい、集団主義とははなはだ相性がよくない概念ということになります。 しかしながら、それとは裏腹に、「上のいうことを聞いていればまちがいはない」が始まれば、依存と帰属による非主体的な生き方が待っていることとなり、個人主義とは対極となります。 日本人は、従来、上の後者のような考え方を得意とする国民でした。お上意識などという言い方をする場合もあれば、無責任体制という言い方をする場合もあります。こうした考え方が成り立つ社会というのは、高貴なる義務をはたす「上」の人間が存在しえた時代だけにかぎられます。いまは、どうでしょうか? ついこの間、新聞紙上に高校生調査がのりました。現代の日本の高校生は、先進国中もっとも自宅での勉強時間がすくなく、携帯電話をもっとも多く持ち、お金をもっとも欲しがり、将来は責任ある地位にはつきたくないともっとも願っているのだそうです。 これは、つまり、享楽主義で、利己主義で、功利主義で、唯我主義で、ということに尽きるように見えますが、ここで大事なことは、携帯電話をもっとも多く有しているという事実です。つまり、関係性がほしい、ひとりでいたくないという一点をもって、これは個人主義とはぜんぜんちがうものである、と断じてよいのです。つまり、享楽的・功利的・唯我的な「情の共同体」だということにすぎません。 現代で、カルトにはまる若者たちが多いということは、つまり、一方では、情の共同体ではなく、集団主義が崩壊しつつあるということを意味しています。明確な目的をもち、効果を皆であげていくということへの枯渇が、根底にあると考えるべきなのです。 つまりは、集団主義へといくか、それともきびしい個人主義をうち立てるか、この分岐点に、現代の青少年は未曾有の露骨さで立たされているといってよいでしょう。 (しかしながら、個人主義には行かれませんね。なぜならば、個人主義には、実にきびしい知性や精神力が必要だからです)。 日本社会で集団主義が崩壊過程にあることと、カルトへ誘われる「情の共同体」模索の青少年たちが増加したこととは、比例しているのです。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説13−G 個人主義」 【 日時 】00/04/30 00:49 【 発言者 】棺光一 (3)合理主義(rationnalisme=レーショナリズム)との関係性について 1of2 個人主義者は、生き方の上で、孤独を受容し、依存を拒否いたしますから、信仰集団的な集団主義とは相容れないと、すでに書きました。他者依存をしないで孤独のなかに精神を自立させるためには、当然、武器が必要となります。現在は、民主主義社会ですから、当然、その武器とは「言論」ということになります。 もちろん、言うまでもありませんが、個人主義をも包括してそびえたつ価値相対主義の世界では、「言論」「言語」「ことば」という武器さえ不毛なものにすぎません。相互相対化は、人々が等しくことばを持つ限り、だれにも避けることのできない人間の運命にすぎないのです。どんな賢者でも、キチガイの一言を浴びざるをえない−−それが、ネット時代のありようで、読者さんの掲示板にかつて書いたように、これは出版文化とネットとの比較のなかで、おそらくは将来的に仕切り板ができるであろうという限界も暗示しています(出版文化かネット文化の分かれ目は、金をとれるかそうでないかだけとなり、相対化がはげしくかつまた無報酬であるネットのコンテンツの上昇は、出版文化レベルの精神の参入が論理的に見こめない以上、非常に困難をきわめるだろうという予測が、読者さんの掲示板に書いた私・棺の投稿にあります)。 しかしながら、旧式の鉄砲よりは機関銃、機関銃よりは大砲を、というのは人情でありましょう。そこで、「ことば」というものについて考えなければならないということになってまいります。だれしも、力のある、たくみなことばを欲するのでしょうから。 ことばというものは、知性の産物です。実に、合理的なものです。日本では、言霊信仰というものがありますが、言霊が宿ると見える瞬間もまた、科学的にその言語構造を解明することも、レクリチュールを分析することも(ある程度までなら)可能でありましょう。 不合理や不条理への畏敬を持つ者であるならば、まずは、とことんまで合理を突きつめていかなければなりません。神秘を言えるのは、合理が何たるか知ってこその話でありましょう。 私・棺は、いままで再三再四、インターネット掲示板のことばを大別分類してみせました。あるいは、fefefeを多用することで、このいまわしい言い方にひそむ毒を無効化しようともつとめてまいりました(私・棺とおつきあいくださった方々は、UG世界の掲示板に言っても、fefefeの悪意にかなりの程度耐久性ができたのではないでしょうか。「はは、ここにも棺がいらあ」と思ったときには、fefefeは、そのひとのなかですでに相対化・無効化されてしまっているわけです)。 インターネット掲示板というのは、ことばでできております。モニター上の点の集合体でしかありません。しかしながら、それをそうだと認識するのは、たやすいことではありません。自らに向かって書かれている罵詈雑言を「ことば」として全的に認識して、頭に血がのぼったり、我執にとらわれてしまったり、という人々が、とくに、初心者には特に多いと見受けられます。 私・棺は、それを対象言語としての意味内容からはずし、メタ言語として相対化してみせました。それが「納棺」だったのです。 どんなことばを書かれても、それは分類相対化され得るモニター上の点の集合体にすぎない−−そう感じ取れる合理主義があれば、ネットでカルトなんぞという立花隆のような寝言を言わなくてよいわけです(もちろん、立花は、ネット時代の幕開けに政治的言語として、ネットの潜在力をオーバーに宣伝したにすぎませんが)。 合理主義というのは、このように、個人主義者が個人として戦う際には、不可欠の武器となります。身もフタもない即物的な認識を自分に課すことで、精神的な危機を乗り越え、冷静を保つことに力を発揮することが多いと言えましょう。 つづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説13−H 個人主義」 【 日時 】00/04/30 00:50 【 発言者 】棺光一 (3)合理主義(rationnalisme=レーショナリズム)との関係性について 2of2 私・棺は、ことばを愛する者です。そのことばが、いかにも低次でくだらない時には悲憤もし、美しく自己のこころを打つものであるならば、「ことばの花」として認識いたします。そこに、投稿者との関係性はありません。情の共同体を拒否するのは、そうしたことばへの純粋認識の目を保つためです。情の共同体をとりむすぶと、人はその投稿者と自分との関係を気にいたします。敵か味方か、仲間かそうでないか、判断要素に付け加えないともかぎりません。集団主義ならば、なおさらです。状況という政治判断が第一に優先されて、おのれのことばは犠牲に供される世界です。 個人主義者というのは、これを拒否する存在です。言いたいことを言い、書きたいことを書き、純粋客観的にことばを観照しようという立場の保持のために、そういう自由のために、孤独には耐えなければなりません。 しかしながら、ネチズンの多くは、これに耐えられません。なぜでしょうか? モニター上の点の集合体や、それによって作られるけしきを、人間そのものだと見誤ってしまう習慣から抜け出せないからです(つまり、ネット時代にふさわしい脳にまだなりきれていないのです)。 そこで、私、棺は、政治的言語や、情の共同体といった概念をくりかえし、書いてまいりました。これによって、現在のインターネット掲示板の世界は、ずいぶんと相対化されて、初心者にとっても、恐れるに足らないものとなったのではないかと思います。UG的な誹謗中傷は、初心者にとっては、衝撃やインパクトの強いショックをあたえますが、分類相対化されてしまえば、何のことはない、そのうちの一つにすぎないのですから。 自画自賛になって恐縮ですが、これが合理主義というものなのです。ことばというものなのです。合理主義が現代人に心の病を運んでいる、だって? 冗談ではありません。おのれの脆弱さを、人のせいにするのではないと申し上げるほかはありません。 現代人の傲慢は、近代の喜びを忘れたことです。 大勢の人々が、高校・大学へとすすみ、母国語のみならず、外国語まで容易に修得できるようになった時代、つまりは大多数の人々がおのれの精進次第ではある程度のことばを手に出来るようになった時代−−それを謙虚に喜ぶことなくして、あるいは日々精進せずして、「反合理」とはちゃんちゃらおかしいのであります。 なお、さいごに、この項で記した合理主義と信仰とは、何の関係もないことを付記いたします。合理主義を活用する個人主義者のなかに、信仰者が数多く存在していたことは事実でありましょうから。 つづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説13−I 個人主義」 【 日時 】00/04/30 00:51 【 発言者 】棺光一 (4)懐疑主義(spectisizum=スペクティシズム)との関係性について 前回の「個人主義に言及する前に」で、私・棺はこう書きました。「原義は、ギリシア語のスケプティコス(よく見る人・観察者)です。ただし、 単に見るのではなく、見た対象をありのままに肯定せずに観察する人、という ニュアンスがあります。」 このなかの「見た対象をありのままに肯定せず観察する」というくだりは、特に重要です。これは、唯我主義に毒されたヘンパな個人主義である「情の共同体」を拒否するという意味だからです。 以前書いたように、人々が「信じやすい」状態に置かれるのは、人間関係において親和力がたがいにはたらいているときです。その人に好意を抱いてつきあっているとき、人はもっとも「信じやすい」状態に置かれます。 たとえば、カルト教団の人々は、おおむね、つきあいはじめたときはよい人に見えます。共産党員でも、創価学会員でも、初対面の人々には妙に愛想がよい。また、やくざの場合も、麻雀荘やゴルフ場の博打などを見ればわかるように、はじめは気前よく負けたりしてくれることが多いでしょう。 そして、相手に好意を抱かせる、相手のなかに、信じやすい状態を意図的に作りあげていくわけです。これを、世間的には「こころの隙」などと言います。 そうやって、こころの隙が広がっていったころを見はらい、身ぐるみはいでいくとまあ、こういうことになります。 百年も前の思想でしかない懐疑主義の精神も知らずに、こうした罠にはまっていく人々はあとをたちません。歴史としての時間が、ある思想を経てきても、後世の人間たちのなかでぼぉーとしている人々にとっては、何にもならない好例の一つでありましょう。 懐疑主義は、疑うことを教えています。と書くと、人々のなかには「疑う」ということばのマイナスイメージで「いやな思想だな」と感じる人々もいるかもしれません。しかし、事実はそうではありません。 懐疑主義の本質は、物事に対処する場合に、うかつに信じやすい人間関係がいつしかできあがっていることに意識的であれ、と人々に教えるものでもあるのです。 そして、私・棺は、そうしたかたちで、人々の孤独への不安やさびしさをつけねらった「情の共同体」が「妄想共同体」へとかわっていうさまに警鐘を打ちならしてきました。不可知なものを前にしたとき、その線で引き返せという地点がある、それを学んだのが人類のこの100年間である、ということです。 つづきます。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説13−J 個人主義」 【 日時 】00/04/30 00:53 【 発言者 】棺光一 (4)懐疑主義(spectisizum=スペクティシズム)との関係性について  一般に、人間にとって「信じる」という精神状態と、「疑う」という精神状態とでは、どちらが安定しているでしょうか。それは言うまでもありません。「信じる」ほうが安定しております。したがって、人間にとっては、デフォルトで快適な状態は「信じる」状態であるということになります。つまり、たやすい行為だということになります。 したがって、人々は、なるべくならば人を疑わず、物事を疑わずにすませようといたします。人に話を合わせていればよい、適当に返事をしていればよい、ちがうなと感じてもそういうときには黙っていればいい、などと考えることが多いでしょう。 嫌われたくないのです。事を荒立てたくないのです。 まさに、脆弱なる精神と言わざるをえません。我執による快感原則にしたがっているだけなのです。孤立を恐れるということにすぎません。 インターネット掲示板を見ていると、しばしばこういう場面があります。勢いのよい投稿マニアたちがガンガン投稿していると、「あ、これは言い過ぎだな」とか「それはいくらなんでもむちゃくちゃだろう」とか感じても、投稿行為を起こさない、見逃す、看過するということがありましょう。もちろん、日常の多忙さが関係することもありましょうが、多忙でないのに、見逃すことがある。いったい、なぜでありましょうか。 その第一は、関係性の重視です。第二は、言っても無駄である、という功利主義の発想に毒されていることです。前者については、既述いたしましたから、ここでは後者を見ることにいたしましょう。 言っても無駄である、くだらない−−これは功利主義的な発想です。すでに見てきたように、利己主義や功利主義は、特段、個人主義とは何の関係もない概念にすぎません。 しかしながら、ここでさらに奥深く見ると、そこにはやはり関係性への思いが潜瀬在していることに気づきましょう。そう、関わりたくないという思いです。「はは、バカ書いてら。こんなバカだとはゆめゆめ思わなかった」。掲示板閲覧者の大半がそう感じていても、彼らが功利主義の底にある「関わっても無駄である」という判断をくだして行為を起こさなかったら、いったいどうなりましょうか。 何事も「なかった」に等しいのです。 つまりは、何もかわらない。 狂った投稿マニアが我執によって暴走していてもその投稿マニアには何も伝わらず、掲示板状況はいっさい変わることはありません。日本人はここでともすれば「時が解決するだろう」と、頭上をとおりすぎる台風をやりすごすような発想をいたしますが、そうすると、また同じようなことがあったときに、我執による不毛はあっという間に掲示板をおおってしまうことになります。 つまり、次元が前とかわらぬところにあるだけの話です。そうしたら、また時間が解決してくれるまで待っていればよい、というのであれば「その主体性のなさがこの国の先送り・無責任体制を作り上げたのだ、官憲の不祥事をうんでいるのは、この掲示板の前にいるアンタ、アンタの心がけのせいなんだよ」とでも言うほかないでしょう。 懐疑の精神を持つ人々は、たとえ不毛であるとわかっていても、発言しなくてはなりません。それが民主主義社会と個人との関係なのです。 【タイトル】■棺光一の「価値相対主義・基本用語解説13−K 個人主義」 【 日時 】00/04/30 00:54 【 発言者 】棺光一 ■総括=唯我主義・合理主義・懐疑主義が、個人主義の本質である。 さて、ここでいままでのまとめをしておきましょう。 すでに見たように、憂国系掲示板の投稿マニアたちが得意げに書く「戦後民主主義的な個人主義批判」は、たかだか利己主義・功利主義・享楽主義批判でしかなかったということは明らかになったでありましょう。 そして、こうしたものは、個人主義の実体とは何の関係もないものにすぎません。 真実の個人主義は、以下の3つに総括されます。(1)唯我主義=自分自身の教養だけを価値判断とする精神態度 (2)合理主義=書かれたことばだけをとらえ、行間や揣摩憶測などの不可知なもの        を考慮しない精神態度(3)懐疑主義=客観的真理の存在を疑い、信じやすい状況を忌避する精神態度 わかりやすく言うならば、こういうことになりましょう。 自分自身が正しいと思ったことを、我執や揣摩憶測をまじえずに、できうるかぎり、 客観的に叙述し、不可知なものの前では一線を引いて留まる態度 一般に、憂国系掲示板の投稿マニアたちは、個人主義者です。戦後民主主義的だと言ってよろしい。しかしながら、情の共同体に毒され、ほんとうのことばよりも関係性の病にかかり、孤独を恐れる者は、博彦クンのように我執垂れ流しとなります。 最も脆弱なる精神と言わなければなりません。 また、上に見た3つの精神態度は、集団主義とは当然相性が悪く、こうした精神傾向をもった人々には、もはや情の共同体か、さもなければ厳しい個人主義かのどちらかの道しかありません。集団主義には向いていないのです。 投稿マニアたちが、おのれだけを価値判断基準としてそれぞれの意見をぶつけあうところで、昨年暮れからの博彦クン騒動・野嵜クン騒動が起こりました。その結果、何かあたらしい局面はもたらされたのか、読者さん・遊戯王さん・bbさん・パパさん・Kaoさん・八神さん・紫門さん・×〜さん・木村さん・野嵜さん・影法師さん・瀬戸さん・・・と膨大な数の投稿がなされて、それで何かかわったのでしょうか? いえいえ、何もかわってはおりません。 複数ハンドル問題も、プロクシ投稿問題も、何一つとしてかわってはいないのです。 すなわち、不毛であるということが証されつづけてきた、証されつづけているということにすぎません。 徹底した個人主義者もあらわれずに、ヘンパな個人主義者たちがおのれの正義だけをぶつけあう、そして何の効果も産物も生みださない−−それがインターネット掲示板というものです。 すなわち、不毛なものなのです。 インターネット掲示板は、情の共同体を忌避して、孤独のなかで自分自身をきたえあげようとする以外には、ヘンパな個人主義者がcollectiveに集まっているものにすぎません。混線している電話のようなものにすぎないのです。 そうして、日々、ふるき情の共同体が崩れ去り、またあらたな情の共同体が形成されていく、期待と幻滅をくりかえしながら。しかも、何の効果も目的も持たずに。 すなわち、不毛なものなのです。 こうした不毛のツールのなかで、ヘンパなかたちではあっても、十全に戦後民主主義の個人を堪能しながら戦後を斬っている、憂国系掲示板に参集する人々のその精神的矛盾は、悲しく嗤う他はありません。 自らのすがたを鏡のなかに相対化することなく、現代人の孤独そのままに、我執を垂れ流して情の共同体を結ぶ−−たかだか、そうした精神の脆弱さで、国を憂えるとは、心底、ちゃんちゃらおかしいと言わなければならないのです。