貧困なる精神 貧困なる知性

―― 近藤かずひろ氏について

アレクセイ(田中幸一)

 近藤かずひろ氏(以下、敬称略)による「アレクセイ氏への疑問」は、いちおう「疑問」と銘打たれてはいるものの、実質的には私「アレクセイ」批判であると理解してもよいだろう。

 読者諸兄には、まず、この「アレクセイ氏への疑問」をしっかり読んでいただきたい。そうすれば、この一文全体に滲む近藤の「品性」も自ずと明らかになり、以下に記す私の「近藤かずひろ論(批判)」も、さらによくご理解いただけるはずである。

1. 「転載」と「転機」の混用問題

 まず、この一文でも「わざわざ太字化」して強調していることからもわかるように、近藤が「アレクセイ批判」の根拠のひとつとして、自信を持っているアピールしているのが『「転載」と「転機」の混用』という問題である。

 近藤は、弊サイトの掲示板「アレクセイの花園」上に自ら公開した文章について、それを全文 別ページに「転載・転機」したいとを私から求められると、それについては「マークアップ」が自分の意を尽くしていないので、マークアップしなおした分なら『転載』しても良いと主張した。つまり「マークアップしなおした分」でなければ、『転載』は著者の意図を改変する『転記』でしかないから、それ(『転記』)は認められないという主張である。

 曰くなお、念のため。私はまだアレクセイさんからの "転載" 依頼は受け取っておりません。アレクセイさんは "転記" と "転載" も混同されていらっしゃるようです。

 ここで3つの疑問点が浮かび上がる。

  1.  「マークアップ」の変化により、画面 上での「表示」が多少変化するとは言え、「文言」自体は全くそのままであり、改行等にも意図的な改変を加えない「転記」に、近藤はどうしてここまでこだわるのか?
  2.  この「転載」または「転記」にかかわる「私信」は、自らが進んで「掲示板」上に公開した文章の「転載・転記」にかかわる「やり取りの記録」である。したがって、そこには個人情報などはまったく存在せず、自分の見解が語られているだけなのだ。なのに、なぜ近藤はこれを「公」にしたがらないのか? 私が「すべてを白日の下に」と主張すると、近藤は「強制だ」「脅迫だ」と騒いでみせるが、こそこそせずに「疾しいところはありませんから、どうぞ公開して下さい」と言っておれば、話は簡単なのにである。
     どうして近藤は、いちいち注文をつけて、事実をあからさまにしようとはしないのだろうか?
  3.  近藤は、『転載』とは「マークアップ」も含めて、原文をそのまま「他に載せる」ことであると言い、一方『転記』は「書き移す」ということを意味する言葉だから、「途中で変化が生じるかも知れないもの」だというように「規定」している。だから『転載』には応じるが、『転記』には応じられない、と。
     そして私の近藤への「要望」が、この『転載』と『転記』を無自覚に混用したものであり、その意図が不明確だったので、近藤は私の「要望」に応えなかったのだ、と主張するわけだが、これは本当なのだろうか?

 ここで、もう一度、近藤の「アレクセイ氏への疑問」を見てもらうと良い。近藤はこれが、自分の「アレクセイへの疑問」をまとめたものだと言っているのだが、「いったい、この文章のどこがまとめなのか」という私の揶揄の妥当性は、明らかなのではないだろうか?

 近藤は「まとめ」と称しながら、いっこうに問題を整理しまとめようとはせず、私の私信から「細かな切り出し作業」を行って、それに『逐語的「揚げ足取り」』を行っているだけである。私はこのことについて、近藤には「これしか出来ないのだ」と指摘したけれども、それは私の上記の「整理」と比較すれば明らかなことだと思う。つまり、近藤の行動はどう見ても、常に「本来の問題」から話をそらし、些末な「揚げ足取り」に話題を絡めとろうとするもの、でしかないのである。

 わかりやすいように、話を3.から始めよう。
 近藤の「自信作」であるらしい『「転載」と「転機」の混用問題』は、普通に考えれば、お話にもならない「身勝手な(個人的・非普遍的)意見」に過ぎない。そしてその「独りよがりな定義」に従っていないから「私(近藤)は、『転記』を認めないのだ」「すべては、おまえ(アレクセイ)の言葉遣いの間違いが元凶なのだ」という主張は、笑止としか言い様のないものなのである。

 私の手元にある2つの国語辞典によると、

「転載」
  •  既存の印刷物の文章・写真などを他の印刷物に移し載せること。岩波書店『広辞苑』第4版
  • 〔すでに印刷されたものと同じ文章や絵を〕別の印刷物に載せること。三省堂『国語辞典』第2版)
「転記」
  •  記載事項を他の帳簿などへ書き移すこと。(岩波書店『広辞苑』第4版)
  •  記入したことを ほかの帳簿に書きうつすこと。(三省堂『国語辞典』第2版)

ということなのだが、馬鹿馬鹿しい「難癖」をつけるのがお好きらしい近藤のことだから、こうした「定義」についても「パソコン画面 上の表示や電磁的記録は、印刷物と同じには扱えない」などと、また的外れなことを言い出すつもりなのだろうか?

 ともあれ「転載」「転記」という言葉には、いずれも「文章の改変の可能性」など、もとより「論外」として言及されてはいないのである。つまり「転記」というのも、もともと「(内容を)正確に書き写す」のが自明の前提なのだ。「転記」時にミスがあれば、それは「転記」時の「誤記」ということでしかなく、「転記」という言葉そのものには「誤記の可能性」など始めから顧慮されてはおらず、それは「転載」とて同様なのである。すなわち「転記」の場合と同様に、「転載」時のミス・誤植・差し違えということは、「現実」にも「言葉の定義上」でもありうることなのだ。

 したがって「転載」と「転記」には、「事実そのもの」と「事実行為」を指すといった違いはあるにしろ、近藤が主張するような「おかしな区別 」は存在しないのである(するとすれば、ごく限られたお仲間の内だけだろう)。ゆえに近藤の、私に対する批判は「手前味噌で的外れな独りよがり」に過ぎないのである。

 近藤のこの「おかしな批判」は、もともと私が近藤の「転載と引用」の混同を指摘したことに対する「子供じみた意趣返し」でしかない。
 近藤が関係ある部分を一節単位で転載されることは許可を求める必要なしに転載していただいて構いません。などと寝ぼけたことを言ったので、私は「全文転載(転記)だから許可を取っている。引用の許可など取ってはいない。それが必要とでも思ったのか? 貴方は全文転載と引用を混同している」という主旨の指摘をした。すると近藤は、自分のミスを指摘されたのが悔しくて、「同じパターン」での復讐がしたかった。つまり「おまえだって同じじゃないか」と言いたかったのだ。そのために捻り出されたのが、あの「おかしな定義(区別 )」なのである。

 こういうところにも近藤特有の「幼児性はハッキリと刻印されているし、また自分勝手な定義」で「独りよがりな断定」をしてみせるという点も、近藤の大きな「行動特癖」だと言えるだろう。読者には、この2点を特に注目して、近藤の文章を読んでいただきたいと思う。

2.  最初の問題 ――「アレクセイ・ホランド同一人物」という断定について

 これが事の発端である。

 近藤は、私(アレクセイ)とホランド(碧川 蘭)を混同して、当サイトの掲示板「アレクセイの花園」に、私を非難する書き込みをしてきた「引用/転載について」8/14。これに対して私は、私とホランドは別 人なのだから責任を共有する必要はないと反論。そうすると、近藤は、いったんはその非を認め、先の自分の文章を私が今読み直しても支離滅裂で無意味なものと認めた。しかし、それについて「正字正仮名」論争の中では無視して頂いて結構です。などと非常識な言い方をしたので、私は下に示したとおり、そんな「謝罪」の仕方はないと非難し、さらに近藤が自己のサイトの「日記」で書いていたことを、以下の通 り批判したのである。

また擦れ違い。(※ 全文) 投稿者:園主  投稿日: 8月16日(木)02時52分00秒

★ 近藤さま

最初の書き込みは、こちらの方で園主さんが転載しているのかホランドさんが転載しているのかを知らない状態で書き込みましたので、その辺りで私が今読み直しても支離滅裂で無意味なものなので、「正字正仮名」論争の中では無視して頂いて結構です。

>雑音が無いほうが議論には集中できるでしょうから。

いちおうご自分の「間違い」をお認めになられたようなので、それはそれで結構なのですが、しかし『無視して頂いて結構です。』という言い方は、ちょっと非常識なのではございませんか?
支離滅裂な非難をしておいて「申し訳なかった」の一言も無いのでは、貴方さまの社会人としての良識が問われましょう。コンピュータに詳しく、いろんなことをご存じなのは良く分かりますが、それだけで他人に関わられては傍迷惑でございます。その点をよく反省なさって下さいまし。

それから、そちらの日記のことでございますが、貴方さまはそこで、

>あと、アレクセイさんとホランドさんが同じリモートホストから書き込まれていたりした後が残っているのはかなり痛いのですが。別 人格やるなら proxy 通すとか、最低限繋ぎ直すとかしないと。メールアドレスまで一緒だと、どんなに違うと言われても同一人物にしか見えません。

と書かれてますね。そう貴方が個人的に思うのは勝手でございます。しかし、それだけの理由で身も知らぬ 他人ことを、ああだこうだと決めつけ、それをこのような形で「公の場所に書く」ことが、果 たして妥当なことでしょうか?

メルアドは、私とナイルズ・ホランドの3人で共用しているものでございます。ですから名義が「アレクセイの花園」にしてあるのでございます。また私とホランドが同じパソコンから書き込んでいたとしても、同居しているとすれば、それは何の不思議もないことでございますし、あるいは「一種のお遊び」として、彼の文章をメールで私のところへ送ってもらい、それを私が掲示板に転記していたというようなことであったとしても、同じような現象が起こります。そしてこうした行為は、いずれにしろ他人に迷惑をかけることでもなければ、違法行為でもないのでございますから、それを他人がとやかく言う権利は、まったく無いのでございます。なのに貴方さまは、ご自分の勝手な「思い込み」を自分で勝手に「公にして」おいて、「勘違いしても仕方ない」というような調子なのでございます。貴方さまは、単に「勘違いした」だけではないのでございます。「勘違いした」だけに止まらず、その「思い込みによる誤解」を無責任に振りまいたのでございますよ。ですから、こうして非難されるのでございます。

繰り返しますが、「個人的に勘違い」するのと「不確かな事実を元に、他人のことを公の場で、当て推量 だけでとやかく言う(書く)」こととの間には、大きな隔たりがあるのでございます。そして、ご自身の「いい加減さ」を認めながら、自分のやったことを自分で「仕方がない」と「正当化」をなさるのは、あまりに「非常識」なことなのでございます。

貴方さまは、ご家族やご友人から一度も、そういう欠点の指摘をされたことはないのでございましょうか?

さて、「倫理的」な話はこれくらいにして、「事務的」な確認をさせていただきます。

最初の書き込みについては、そちらの日記のページに新たに書かれていたものをご希望とのことですが、その後の2つの書き込み『弊サイトの書き込み及び当掲示板の書き込みについて』と『こちらの方へ書き込んだ内容に関して』は、このまま全文転載させていただいてよろしいのでございましょうか? ご回答くださいまし。

いちいち確認するのも面倒なので、今後は、転記されて困るような書き込みは一切ご遠慮下さいまし。これは管理者としての指示でございますので、そのおつもりで。したがって、今後なされた書き込みは「転載許可」をなさったものと理解いたしますので、その点間違いのないようお願いいたします。

 さて、この後、「メールアドレス(IDアドレス)の共用」が問題となり、それが「プロバイダ−と契約者間での契約違反」になることが明らかになって、私はそのことに関しては自らの「無認識」による「過失」を認め、契約相手であるプロバイダ−の「@NIFTY」と、アドレスの共用してもらった相手であるホランドとナイルズのお二人に、公式に謝罪した。

 そして問題はここからである。

 近藤は、私(アレクセイ)とホランドが同じ「IDアドレス」を使っていたという点をとらえて、――ネット上ではそれが「個人特定」のための重要な手掛かりとされており、プロバイダ−との契約に反して「IDアドレス」の共用などということをしたのなら、それは同一人物だと看做されても仕方のない行為なのだ。同じ「IDアドレス」を使っているのならば、それはネット上では「同一人物」なのである――という主旨の「論理」を展開し、だから自分(近藤)がネット上でアレクセイとホランドを同一人物扱いしたのは「正当な行為」であり、私(アレクセイ)の「個人的に勘違い」するのと「不確かな事実を元に、他人のことを公の場で、当て推量 だけでとやかく言う(書く)」こととの間には、大きな隔たりがあり、それをすることは「間違い」だという批判は、自分(近藤)には当たらない、と主張した。

 だが、これは「初歩的な間違い(無認識)」か、あるいは「悪質な論理の摺り替え(レトリック)」である。

 言うまでも無いことだが「(同一人物と)看做しうる」という事と「同一人物である」という事とは、まったくの別 物である。近藤は、そんなことがわかっていない。

 プロバイダ−が「契約規則」に「IDアドレスの共用の禁止」を定めているのは、結局のところは「トラブル発生時の責任の所在の明確化」のためなのだ。つまり「IDアドレスを共用してトラブルが発生しても、当方は一切責任を負いませんよ。契約者が規約に基づいて、自分独りで責任を取って下さいよ」ということなのである。

 「IDアドレスの共用問題」がプロバイダ−にとって、単に「金銭的不利益」の問題なのだとしたら、現実に「家族での共用」などが横行している以上、それへの対策を講じなくてはならないはずだ。でないと、正直者が馬鹿を見る状態を黙認していると非難されても致し方なく、「過失」での「共用」を非難することなど、とても出来る立場ではない、ということにもなろう。にもかかわらずプロバイダ−は、実質的に「そのような現実(家族での共用=契約違反)」への対策をなんら講じてはいない。つまり「IDアドレス」の共用をなかば黙認し放置している……にもかかわらず、契約規約にだけはキチンと明記しているのだ。要するにこれは、プロバイダ−が本気で問題視しているのが「一般 人の過失や無認識によるIDアドレスの共用(契約違反)」などではなく、自社の交付した「IDアドレス」が犯罪者によって「悪用(犯罪使用)」された場合の「(刑事・民事)責任問題」や「保障問題」の方だからなのである。プロバイダ−の「契約規約」の大半が、「責任を負わない」という主旨の(免責の)確認事項であるのは、このためであり、このことは「常識」に類することなのである。

 つまり「IDアドレス」の「共用禁止」とは、「責任の所在の明確化」をその目的としたものであって、決して「個人の特定」のためのものではないのだ。

 たまたま、どのプロバイダ−も「責任回避」の主旨から同様の「契約規約」を採用しているため、結果 としては「規約が守られている」という『前提』に立てば・ネット上では、同じ「IDアドレス」を使用する者は同一人物と看做しうる・という、ただそれだけのこと(理想的な「仮定の話」非現実)なのである。

 近藤は、自らも別 人格やるなら proxy 通すとか、最低限繋ぎ直すとかしないと。メールアドレスまで一緒だと、どんなに違うと言われても同一人物にしか見えません。と書いているとおりで、「メールアドレス(IDアドレス)が同じだからといって、同一人物だとは限らない」という「現実」を充分に承知しているのである。にもかかわらず、彼は「IDアドレスが同じなら同一人物だ」と強弁して恥じないのである。

  近藤と同じく「アレクセイ・ホランド同一人物説」で私を追求しようとした木村貴(「掲示板荒らし」野嵜健秀の友人)の求めに応じて、かつて同じ徒労にいそしんだ中 相作がいみじくもアレクセイ君とホランド君が同一人物であるという「確証」は、どこにも存在しないと思います。この手の問題では、本人が口を割ること以外に、確たる証などありえないのではないでしょうか。)と言ったように、所詮「個人特定」というのは、そんなに簡単なものでも、近藤の都合の良いようにできるものでもないのである。

 近藤は、「IDアドレス」や「リモート・ホスト」や「文体」などの「状況証拠」をいくら積み重ねたところで、「個人を特定することは出来ない」ということを元々知っていながら、それを安易に「同一人物」だと語ったのである。そして、その「不用意」さを非難されると、今度は、元来「責任の所在」しか保証しない「IDアドレス」を、「個人の特定」の道具であるかのように「強弁」して、自己の「不用意」「不始末」を見苦しく「言い訳」し、「言い繕おうとした」のである。ただそれだけのことなのだ。

 近藤は「警察」が「IDアドレス」から「個人の特定」をしたこともある――というようなことを書いていたが、無論そのような事例もあるに決まっている。だが、それは所詮「少数例外」に過ぎない。「犯人」の使っていたのと同じ「IDアドレス」を使っていたから、その人物が「犯人と同一人物」だなどと言えるのなら、警察の捜査も楽なものだろう。現実にはそうはいかないから、大変なのだ。

 近藤の「論理」を、わかりやすく喩えて説明すれば、「法的責任能力のない18才未満の少年」が犯罪を犯した場合、「犯人は、その監督責任者である保護者(保護者が犯罪者)」である、というようなものなのだ。

 たしかに親は「監督責任を問われる」だろう。だが「犯人としての責任」を問われたりはしない。「犯人はあくまでも、少年自身」なのだ。つまり「保護者は保護責任者」であり「少年は、犯罪責任無能力の犯人」で、両者は当然「別 人」なのである。

 つまり私たち3人(アレクセイ・ホランド・ナイルズ)の「IDアドレス共用問題」というのも、私が「過失犯(の主犯)」であり、ホランド・ナイルズの2人は「過失犯(の従犯)」ということを意味するだけであって、「同一人物」だなどということは全く意味しない。

 では、なぜ近藤はこのような「初歩的な間違い(無認識)」か、あるいは「悪質な論理の摺り替え(レトリック)」を犯しえたのか?

 それは彼の発想が、悪い意味での「オタク的自閉」に陥っているからなのだ。「ネット(オタク)界の常識」が、それを包含する「世間一般 の常識」であるとは限らない、ということがまるでわかっていない。だから、あのような「非常識」を得々と語れたのである。

 私は以前、近藤と「掲示板荒らし」である野嵜健秀を並べて、どちらもパソコンに詳しい二人に共通 する歪みが見られる、というような指摘をしたが、その歪みとはこの「自閉性」「自己完結性」のことなのだ。ホランドは同じことを「広がりがない」と書き、野嵜はそれを理解できなかったようだが、「自分の世界」に自己完結している人間の言葉が、所詮は「他者への配慮(想像力)」を欠いた「独り言」でしかなく、広く他者のいる「世界」に広がることがないのは自明なこと。そのため野嵜はホランドの言葉を理解できなかったし、野嵜の同類である近藤も、己が「自閉性」を理解することは、まずありえないのである。

 私は(1)の最後で「自分勝手な定義」で「独りよがりな断定」をしてみせるという点も、近藤の大きな「行動特癖」だと言えると指摘しておいたが、近藤はここではその同じパターンで、「ネット界の常識」では「IDアドレスが同じなら、同一人物である」などという「自分勝手な定義」をしておいて、それを根拠に「独りよがりな断定」あるいは「断罪」を行っている。また「これくらいのことは出来て当たり前」という一連の「主張」も、これと全く同型のものであることが容易に理解いただけよう。
  つまり「ボクがこうだと決めたからこうなの!」というのが近藤の「論理」の「原型」であり、近藤の「行動特癖」を支える「原理」だと言えるのである。

 このように近藤の「論理」などというものは所詮、「非常識」な男の「個人的な思い込み」を根拠とした「牽強付会な屁理屈」でしかない

 それは「悪い意味での、(自閉的)オタク」でなければ、「常識」で「おかしい」と理解できるレベルの程度の低い「理屈」なのである。

 もちろん「掲示板荒らし」の確信的常習犯である野嵜健秀ですら、病理学的な意味での「狂人」ではないのと同様、近藤にも自己の「おかしさ」を、「理屈」ではなく、疾しさ」や「不安感」といったもので漠然と感じるくらいの「本来の知性」は残っていた
 だからこそ近藤は「理屈」では「自分が正しい」と主張し、またそう「確信」しながらも、それと矛盾する行動を取り続けたのだ。その正しき「本能的直観」による「不安」に促されて、近藤は「難癖」をつけたり「揚げ足」を取ったりした。ことが私の望むように「白日の下」に引きずり出されることを「本能的」に怖れ、自己の「正義の確信」に矛盾した、末梢的な「抵抗」を繰り広げてみせたのである。そしてこれが、前掲の疑問点(A)(B)の解答なのである。

3. 結論 ―― 近藤かずひろという人物

 近藤かずひろという人物には、「常識が不足」しており「その自覚も不足」している。にもかかわらず、自分が多少の「専門知識」を有していることを鼻にかけており「自分が優秀な人間だと思い違い」してもいる。そんな彼は当然のことながら「自己客観視」ということが全然できない「自閉的」「自己完結的」「自己満足的」な「幼児性格者」だから、「他人の事を容易に見下し」がちである。反面 、「自立心が欠如している」ため「権威」や「知識」や「仲間」といったものに依存しがちで「孤立(独立)」に堪ええない「脆弱な精神の持ち主」でもある。またその「精神の脆弱性」ゆえに「自己の過ちを認める勇気がなく」結果 として、いつまでも「言い訳に言い訳を重ねる」といった行動を繰り返し続けるのである。

 さて、読者諸兄には、再びここで近藤による私(アレクセイ)への批判論文「アレクセイ氏への疑問」をしっかり読んでいただきたい。そうすれば、この一文全体に滲む近藤の「品性」も自ずと明らかになり、以上に記した私の「近藤かずひろ論(批判)」も、さらによくご理解いただけるはずである。

2001年8月30日

(C)Copyright 2001 田中幸一(アレクセイ/ホランド/その他の誰か)
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