2014年4月22日(火)〜5月7日(水) 西武池袋本店 別館2階=西武ギャラリーにて開催決定!!
にも関わらず安倍総理が靖国を参拝することを決めたので、米国としては公式の場で日本を叱咤することにより、「この件に関しては、米国もけしからんと思っている。そうは言っても日本は平和主義なので、あまり過激に反応しないで欲しい」というメッセージを中国・韓国に送ることにより、緊張を緩和しようとしているのだ。
しかし、靖国に合祀されているA級戦犯は、日本人の私から見ても、「一億玉砕」という馬鹿げたメッセージの元に大量の日本人を無駄死にさせた「戦犯」だし、そんな連中を靖国に合祀したこと自体がまったくけしからんと思うのだが、どうなのだろう。
無宗教の国立追悼施設なる鵺のやうな代物に期待をかけてしまふ。
そしてもう一つ、重要なことを言わせていただきます。確かに靖國神社は、神社本庁には所属していない単立の神社です。しかしそれは、神社本庁から離脱した日光東照宮や明治神宮とは明らかに事情が異なっています。靖國神社は神社本庁の設立時から本庁に所属していないため、本庁から離脱した経緯があるわけではなく、また、本庁に所属しなかったのも、本庁と対立していたような事情があったためではありません。靖國神社は、他の神社とは異なり国家護持を目指す特殊な立場にあったため、その目的を達成するため、神社界の総意として、神社本庁には合流しなかったのです。
靖國神社自身が、「時勢(日本の敗戦と米国による占領)により今は一宗教法人にならざるをえないが、いずれは国にお返しする神社なので、特定の団体の包括下になるべきではない」と判断し、神社本庁もまた、「靖國神社はいずれは国にお返しする神社なので、それまで単立であるべき」と判断し、そして全国の神社も同じように考えたのです。
話が柳田学の本質から多少はづれたが、要するに、この学も時によっては、わが道の信に奉仕させ得るが、時勢によっては、いつでも敵にも奉仕する学であることを銘記すべきだ。
……。曲学阿世の徒とは、真を知らぬのではない。真を知りつゝ世の大勢に抗しえない学者のことだ。
民俗学が科学の限界線を越えて、非科学的、文学的になると共に、その文章表現があいまいなものになる。かれらの文では、「われわれの先祖はかく信じた」と云ふやうな風の表現が多い。
その祖先の信を筆者が(一)愚かな迷信と解してゐるのか、(二)前時代人の思想なので到底現代人としては信じえないが、それでもそこに文学的な情感があると解してゐるのか、(三)それとも筆者も祖先と共に信ずるのを正しいと解してゐるのか。この三つの立場は、信としては全く異なるのは明らかだが、それをことさらあいまいにしておくのがこの学派の手法である。……。
宗教学や人類学のやうな純粋科学よりも危険なものにしてゐる、と葦津氏は指摘する。
これ「官報から」じゃなくて「行旅死亡人データベースから」なのでそこだけ直してほしい(・´ェ`・) 転記自体に問題はないけど官報とは転記の形式が全く違うので出処はすぐわかりますよ……
言葉は生き物であり、「歴史的なあり方」こそあれ「正しいあり方」などというものはない、と言つてゐても、それは研究者の態度を表明してゐるに過ぎない。研究者が「言葉の今のありやう」を研究する際、「私達はこうしたことに氣を附けています」と言つてゐるわけだ。もちろん、多くの日本の言語學者はバカだつたから、研究の態度を一般論と勘違ひして、日本の社會に押附けてしまつたが、間違つた態度を見習つてもしやうがない。