右翼の人が「脱原発だ!」みたいな事を言つて騷いでゐるのを見ると滑稽に思はずにゐられない、
左翼が言つてゐても可笑しいけどさ、
それこそ「政府に陳情したら」つて話よ、
Twitterで囀つてなんかゐないでさ、つて書いて。
人の生き死ににかかはるだけの事なんだから、國民の思想を變へようだなんて考へないで、政府に直接言つたらいい。
言葉の使ひ方の問題なら人間一人一人の思想の問題だから政府に働きかけるだけではダメだが、原發が何うたら斯うたらなんてのは思想なんて關係ない政治の問題で、正義の身方が國民を引きずつて行けばいい。
原發もトンカチも程度の違ひがあるだけで結局は人間が便利に生きる爲の道具。
技術なんてものは便利に生きる爲のものだから、時代が下れば便利になるだけだし、便利になれば副作用も大きくなると云ふだけの事だ。いづれにしても「生きる爲のパン」に類するものである點で歴史が下らうが質的に變化するわけはない。思想は「人はパンのみにて生くるにあらず」の領域に屬する。
原發を動かす・動かさないについての意見と、その人間が善人である・惡人であると云ふ事との因果關係は全くない。原發推進派が良き父親である事はあり得るし、反原發の人が惡い夫である事もあり得る。ならば原發推進か・反原發か、なんて議論は道徳的な議論たり得ない。技術の議論であるだけだ。
道徳の問題なら、善である・惡である、つてきつぱり言切れるんです。もちろん、徳目が變れば判斷は變はる。しかし、その場合でも、結論は斷定的に言切る形になる。けれども、技術の問題なら、どつちがより優位であるとかどつちがより危險であるとか、相對的な言ひ方しかできない。
そして、政治や經濟の問題でも、やつぱり結論は常に相對的なものにならざるを得ない。どつちの方が「より良い結果になるだらう」つて言ひ方になるわけだ。
技術の問題にしても政治問題や經濟の問題にしても、「どつちの方がより有利である」「利點もあるだらうが問題點もある」と云ふ言ひ方しか出來ない。
ならば、どつちの主張をしてゐる論者も、確實な論據なんてあつて言つてゐるわけではなくて、利害得失を考へて「利が多い」「害が多い」と言つてゐるに過ぎない。「絶對善」「絶對惡」を主張してゐるわけではなく、相對的に良い・相對的に惡い、と言つてゐるだけの事だ。
だから、技術の議論でも政治や經濟の議論でも、主張の正しさは相對的な正しさなのであり、論者の正しさは相對的であるのであつて、ならば互ひに相手の立場を絶對的に極附けて良いだの惡いだのと言ふ事は許されない。
日本人は政治の問題や經濟の問題、或は技術の問題については妙に熱心になつてマニアックな議論を展開しがちだし、熱くなつて「敵」を罵りがち。ところが、所詮相對的の領域に屬するに過ぎないそれらの問題で、相手を決定的にやつつける事なんて土臺出來やしないのだ。だから勘違ひだと俺は言つてゐる。
道徳の領域における問題ならば、人は道徳的に人を非難するしかない。技術や政治や經濟の領域における問題で、人が道徳的に人を非難するのは、お門違ひであり、それをまともな事だと考へてゐるなら、それは勘違ひ。
技術の議論や政治・經濟の議論に日本人は熱中するし、道徳の議論を日本人は非常に輕視する。しかし、そのために、技術や政治や經濟の議論をしながら、日本人は他人を道徳的に罵つてしまふ。分野をきちんと切り分けて考へる習慣が身についてゐないと云ふわけだ。
だからこそ、現代の日本人は努力して道徳についてきちんと考へなければ行けない。
技術の議論って、どういうの?
野嵜健秀が防御モードにだの
野嵜健秀が射精しそうだのとフォロワーに報告したり、
うそ。ゆっくりでもいいですよ。待ってます。
別に応える義務も義理もないでしょうし、気楽にお願いします。
ちょっと何を否定してるのかわかりません。それはともかく、気楽にどうぞ。等と言つた擧句
ギャラリーに緊張を感じさせないためさと述べて露骨に「ギャラリー向け」である事を宣言したりしたので、揶揄ひに來た事は完全に明かになつた。それでえんえん不毛なやりとりをしたのだが、Twitterの投稿數の規制で投稿出來なくなつたので今朝はおひらきとなつた。
キリスト教どころか,イエスの実在さえ否定する人がいます。 何も知らない困った人です。 このような人たちに共通しているのは,聖書をきちんと読んでいないこと,論理的に成り立たない理屈を並べ立てることです。 まさに,彼らは何をしているのか分かっていないのです。 このような人たちに対しては,聞く耳を持たないことが分かった時点で沈黙することです。 ただ,伝えるべき福音だけは伝えた方が良いでしょうね。 それでダメなら,それはもうその人の責任です。 後は神の御手にゆだねましょう。