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野嵜健秀(Takehide Nozaki)
野嵜健秀 (nozakitakehide) on Twitter:野嵜健秀(@nozakitakehide) - Twilog
テーマ・主に扱ふ事柄・ネタ
日本人論、政治主義批判、國語國字改革批判、虹裏(img)、深夜アニメ、古本、謎キャラクターによるコント、蟲、クリーチャーのイラストとまんが、論理。粘着アンチ問題。その他。

闇黒日記

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平成二十五年一月二十九日
〔会員だより〕正字・正假名(かな)のすゝめ « - 東海科学機器協会 会報
平成二十五年一月二十九日
國語關聯連年表 -- Key:雑学事典

平成二十五年一月二十七日
野嵜健秀(@nozakitakehide)/2013年01月27日 - Twilog
右翼の人が「脱原発だ!」みたいな事を言つて騷いでゐるのを見ると滑稽に思はずにゐられない左翼が言つてゐても可笑しいけどさそれこそ「政府に陳情したら」つて話よTwitterで囀つてなんかゐないでさ、つて書いて。

人の生き死ににかかはるだけの事なんだから、國民の思想を變へようだなんて考へないで、政府に直接言つたらいい。

言葉の使ひ方の問題なら人間一人一人の思想の問題だから政府に働きかけるだけではダメだが、原發が何うたら斯うたらなんてのは思想なんて關係ない政治の問題で、正義の身方が國民を引きずつて行けばいい。

原發もトンカチも程度の違ひがあるだけで結局は人間が便利に生きる爲の道具。

技術なんてものは便利に生きる爲のものだから、時代が下れば便利になるだけだし、便利になれば副作用も大きくなると云ふだけの事だ。いづれにしても「生きる爲のパン」に類するものである點で歴史が下らうが質的に變化するわけはない。思想は「人はパンのみにて生くるにあらず」の領域に屬する。

原發を動かす・動かさないについての意見と、その人間が善人である・惡人であると云ふ事との因果關係は全くない。原發推進派が良き父親である事はあり得るし、反原發の人が惡い夫である事もあり得る。ならば原發推進か・反原發か、なんて議論は道徳的な議論たり得ない。技術の議論であるだけだ。

道徳の問題なら、善である・惡である、つてきつぱり言切れるんです。もちろん、徳目が變れば判斷は變はる。しかし、その場合でも、結論は斷定的に言切る形になる。けれども、技術の問題なら、どつちがより優位であるとかどつちがより危險であるとか、相對的な言ひ方しかできない。

そして、政治や經濟の問題でも、やつぱり結論は常に相對的なものにならざるを得ない。どつちの方が「より良い結果になるだらう」つて言ひ方になるわけだ。

技術の問題にしても政治問題や經濟の問題にしても、「どつちの方がより有利である」「利點もあるだらうが問題點もある」と云ふ言ひ方しか出來ない。

ならば、どつちの主張をしてゐる論者も、確實な論據なんてあつて言つてゐるわけではなくて、利害得失を考へて「利が多い」「害が多い」と言つてゐるに過ぎない。「絶對善」「絶對惡」を主張してゐるわけではなく、相對的に良い・相對的に惡い、と言つてゐるだけの事だ。

だから、技術の議論でも政治や經濟の議論でも、主張の正しさは相對的な正しさなのであり、論者の正しさは相對的であるのであつて、ならば互ひに相手の立場を絶對的に極附けて良いだの惡いだのと言ふ事は許されない。

日本人は政治の問題や經濟の問題、或は技術の問題については妙に熱心になつてマニアックな議論を展開しがちだし、熱くなつて「敵」を罵りがち。ところが、所詮相對的の領域に屬するに過ぎないそれらの問題で、相手を決定的にやつつける事なんて土臺出來やしないのだ。だから勘違ひだと俺は言つてゐる。

道徳の領域における問題ならば、人は道徳的に人を非難するしかない。技術や政治や經濟の領域における問題で、人が道徳的に人を非難するのは、お門違ひであり、それをまともな事だと考へてゐるなら、それは勘違ひ。

技術の議論や政治・經濟の議論に日本人は熱中するし、道徳の議論を日本人は非常に輕視する。しかし、そのために、技術や政治や經濟の議論をしながら、日本人は他人を道徳的に罵つてしまふ。分野をきちんと切り分けて考へる習慣が身についてゐないと云ふわけだ。

だからこそ、現代の日本人は努力して道徳についてきちんと考へなければ行けない。

……と、斯う論じたら、驚いた事にこんな質問を受けてしまつた。

技術の議論って、どういうの?

こんなの誰が何う考へても子供の質問で、それを大人がわざとやつてゐるのだから、Kirokuroのやうに明かな嫌がらせなのだが、やりとりをしてゐる間に野嵜健秀が防御モードにだの野嵜健秀が射精しそうだのとフォロワーに報告したり、うそ。ゆっくりでもいいですよ。待ってます。別に応える義務も義理もないでしょうし、気楽にお願いします。ちょっと何を否定してるのかわかりません。それはともかく、気楽にどうぞ。等と言つた擧句ギャラリーに緊張を感じさせないためさと述べて露骨に「ギャラリー向け」である事を宣言したりしたので、揶揄ひに來た事は完全に明かになつた。それでえんえん不毛なやりとりをしたのだが、Twitterの投稿數の規制で投稿出來なくなつたので今朝はおひらきとなつた。
……しかし、反原発だの原発推進だのと云つた事に漠然と興味を持ち、ネットウオッチングを面白がつてしてゐるのだから、この手の人がうすのろである事は明かなのであり――だからこそ、この手の人には俺の用語が理解出來ないと云ふ事も、まあ、事實なのだらうとは思つた。
「技術の議論」とは何ですか? 等と今さら問はれても、それをえんえん説明した擧句なのだから讀返して貰へればいいので、こちらとしても「原發もトンカチも程度の違ひがあるだけで結局は人間が便利に生きる爲の道具。」「技術なんてものは便利に生きる爲のものだから、時代が下れば便利になるだけだし、便利になれば副作用も大きくなると云ふだけの事だ。」「技術の問題なら、どつちがより優位であるとかどつちがより危險であるとか、相對的な言ひ方しかできない。」と云ふ俺の發言を改めて繰返す氣になぞなれやしない。何うせこれらの發言を讀んでも、理解する腦味噌は持つてゐないらしい人物である。少くとも、考へようと云ふ意欲をこの手の人は持つてゐない。自分では何も考へないで、論者に抽象的・「哲学的」な質問をぶつけ、相手を閉口させて、樂しまうとしてゐる――典型的なネットウオッチャーのパターンである。
だが、原發が科學技術の産物である事は誰の目にも明かであり、原發の建設・運轉・維持・……と云つた事は全て技術者の視點から檢討されるべきものであるのも明かであるのだ。原發の維持・廢止もまた、當然の如く、科學・技術の觀點からのみ議論される筈のものである。こんな事は改めて述べるまでもない事で、ぐだぐだ言葉を並べ立てて説明するのはバカみたいなのだけれども――そんなバカな事を人にさせ、人に情けない思ひをさせて喜ぶのが、ネットウオッチャーなのである。
しかし、俺が情けない思ひをするのは、俺がバカだからではなく、この手のネットウオッチャーがバカだからだ。なんでバカに附合はなければならないのだらう……ところがこの手のネットウオッチャーは、自分は相手を困らせたのだから、自分の方が頭が良く、「怖がった」「焦った」野嵜の方がバカなのである、と――明言はしないが、ギャラリーには思はせようとする。印象操作。それがネットウオッチャーの目的である。
ネットウオッチャーの諸氏の頭の惡さと性格の惡さには毎度あきれさせられると共に惱まされてゐるのだが、この手のネットウオッチャー的な人間が現代の日本には増えてゐるのだから何うしやうもない。保田與重郎のやうな「文體を持つた詩人」がウェブで書いてゐたら、ネットウオッチャーに潰される事は確實である。ネットウオッチャーは、屁理窟で相手を凹ませる事を大變重要な事と思ひ込んでゐる。誰かが「うまいこと」を言つてゐれば喜ぶし、失言をすれば貶して喜ぶ。しかし、「うまくない言い方」をしてゐる人間の言ふ事には聞く耳を持たない。そしてその「うまい言い方」とは、彼らにとつては「面白い言い方」に過ぎないし、「うまくない言い方」とは彼らの御氣に召さない言ひ方であると云ふだけの事だ。全部感覺だから、彼らの單純な作りの腦で「わかる」事しか、彼らは解らないし、解らうとしない。彼らが求めるのは「ちょっと気の利いた言葉」か「ツッコミどころ満載の失言」のどちらかに過ぎない。
俺は十五年前から「道徳」と「政治」の峻別をウェブで主張して來た。斯うした俺の用語それ自體に對して、無理解に基いたネットウオッチャー的な誹謗が何度となく浴びせられてきた。だからこそ、俺はネットウオッチャーそのものから否定してかかるべきだと考へてゐる。無理解の態度は否定されるべきだからだ。俺は言葉 言葉 言葉なるサイトを作つて必死になつて説明してきた。ところがネットウオッチャー諸氏はこの説明を讀まないし、或は讀んでも理解しようともしない。ひたすら言葉尻をとらへては「うまいことをいえ」とだけ要求してくる。たまつたものではない。
俺は、大學入試の讀解の問題程度でも、誰もが解ける技術を持つてゐるべきだ、と思ふ者である。
平成二十五年一月二十七日
私の心的現実 < Palm Branch

キリスト教どころか,イエスの実在さえ否定する人がいます。 何も知らない困った人です。 このような人たちに共通しているのは,聖書をきちんと読んでいないこと,論理的に成り立たない理屈を並べ立てることです。 まさに,彼らは何をしているのか分かっていないのです。 このような人たちに対しては,聞く耳を持たないことが分かった時点で沈黙することです。 ただ,伝えるべき福音だけは伝えた方が良いでしょうね。 それでダメなら,それはもうその人の責任です。 後は神の御手にゆだねましょう。

キリストの存在を認めたら、その時點でその人は既にキリスト教徒だよ。
俺はキリストの言葉は大變見事なものだと思つてゐるが、キリストなる存在それ自體は確信を持つて認める事が出來ない。よつて俺はキリスト教徒ではない。キリスト教徒となるには、飛躍が必要なのだ。
俺は、上のネットウオッチャー氏はまるでエーリアンだと思つてゐるが、沈默するわけには行かないと思つてゐる。日本のキリスト教徒がまるでエーリアンのやうな人を相手に沈默すべきだと考へるなら、その人はキリスト教徒のやうで實は依然として日本人的なキリスト教徒でしかないのだと俺は思ふ。

平成二十五年一月十七日
旺文社ラジオ講座 : 浪人大学付属参考書博物館
ラ講最末期に出た參考書シリーズ。

平成二十五年一月十五日
ストラトス・フォー 第1話 - YouTube
ストラトス・フォー 第2話 - YouTube
ストラトス・フォー10周年。

平成二十五年一月十一日
圭書房
昨年末に『松原正全集第二卷「文學と政治主義」』が刊行されてゐた模樣。

平成二十五年一月五日
同じくTwitterで「国家が現代仮名遣いを使えという法令を出しているのだから、私は法令を尊重せよと言っている」と云ふ「正かな派批判」を貰つた。これは完全な勘違ひで、日本政府は「現代仮名遣」を「使え」等と言つてゐない(そもそも内閣告示は法令ではない)。二十年間「現代かなづかい」を採用したゐたが、のちに「目安」に過ぎない「現代仮名遣」へと改正し、強制性は一歩「後退」してゐる。だから、歴史的かなづかひを使ふのは自由な行爲であるのみならず、國家公認の行爲であると言へるのであつて、そこで國家の意を迎へた積りになつて「現代仮名遣」を推奬するのは、ただ左翼的な一部官僚の手先と化してゐるに過ぎない。
同じ人が「歴史的かなづかひを採用してもらいたいならウェブでなんか発言していないで国家に陳情しろ」と言つてきた。これには當然ながら「正かな派の活動を封じ込めたいなら、國家に陳情して正かな派を彈壓するやう仕向ければ?」と云ふ囘答をするしかない。が、ならば、このアンチ正かな派の人が國家主義者であるのみならず統制狂である事は明かなのであつて、はつきり民主主義の敵であると言ふ事が出來るのである。それに對して正かな派は、明かに民主主義の方法に則つて活動してゐるのであり、一切文句をつけられるべきでないと云ふ事も明かなのである。
正かなづかひを推奬する吾々の立場が民主的であり自由主義的であるがゆゑに、統制を好み、國家による國民の壓政的な支配を望む人々は、正かな派を激しく憎み、その活動を必死になつて妨害しようとするわけだ(彼らが正かな派を潰しにかかる時、必ず「傲慢だ」と云ふ道徳的な説教をかます事には注意が必要。ファシストは道徳的な潔癖に拘る)。正かな派と云ふ批判的な存在がうるさいものである爲に、彼らは自由主義の根幹をなす批判そのものから否定してかかる。しかし、批判の許されない社會が壓政の社會であり恐怖政治の社會である事は、絶對に忘れてはならない。

平成二十五年一月三日
野嵜健秀(@nozakitakehide)/2013年01月03日 - Twilog
「現代の日本人には最早歴史的かなづかひを自分のものと考えることができない」と云ふ感想を貰つたのだけれども、それは俺も同じだし、そもそも歴史的なもの・傳統的なものを自分のものと考へる事が出來ないのは全ての人が同じだつたりする。
T.S.エリオットが「カクテル・パーティ」で、「現代人は最早人を愛する事が出來ない」と云ふ問題に對し、眞實人を愛せないにしても「愛してゐる演戲をする」しかないと一種の療法を提案してゐる。
森鴎外は「かのやうに」を書いた後、「かのやうにでは駄目だ」と言つて「興津弥五右衛門の遺書」を書いてゐるのだが、それ以後歴史小説に專念してゐる。
福田恆存が演戲の大事を言つてゐるけれども、ありとあらゆる藝術で基本は模倣であり――藝術に限らず一切の傳統藝能が模倣である。人の意識は、「歴史的なものそのもの」になれないとしても、「現代」の自分の中に引籠る事は出來ず、常に過去のもの=自分を形成した何者かと繋がらうとする。過去のものを模倣し、そのものになり切つて演戲する事で、人は時間の深淵を飛越えて歴史的な存在と繋がる事が出來る。
動くものを外部から觀察する態度と、動いてゐるものに飛び移つてしまふ態度の、二つの態度がある、とベルグソンが論じてゐる。
平成二十五年一月三日
相對的な觀察の態度に對して絶對的な態度は宗教的な態度とも直結してゐる。現代の日本人はみな相對的な觀察の態度に引籠つてゐるのだけれども、その爲に、却つて宗教に對する免疫を持てないやうになつてしまつてゐる。科學の知識のある頭のいい人が一氣にオウムなんかの信仰に入つてしまふわけだ。
平成二十五年一月三日
歴史的かなづかひを使ふと云ふのは、「現代という狭い世界の中だけで生きる」事を拒否し、「自分を中心に置く」個人主義的な態度を否定し、自分を超えた歴史的な存在を認める宣言であり、自分を形成した過去の何者かと繋がりたいと祈願する事を意味する。
平成二十五年一月三日
自己中心的な態度と云ふものを現代の日本人すらも非難する。が、さう云ふ現代の日本人が依然として「私という個人」を信奉する個人主義的で自己中心的な態度を平氣でとつてゐる。それは明かな矛盾なのであるが、この現代の矛盾は中世以前の價値觀を否定して近代の理念を確立したところから始まる。
ヨーロッパにおいてはカトリックを否定したプロテスタントの思想と科學の思想が近代のロマン主義の二つの傾向として現はれてをり、近代思想は全てこの二つの傾向の中に位置づけられる。それらを明治以來日本人は輸入してゐるのであり、日本の傳統・歴史の中で何とか位置づけをはつきりさせようとしてゐるが、その試みは依然としてうまく行つてゐない。ヨーロッパの中で古典主義の態度とロマン主義の態度とは鬪爭を經ながら二元論の形で思想界の中に一定の地位を占めるやうになつてゐるが、日本ではさうしたきつちりした區分と對立構造は成立し得ず、右翼・左翼の對立もせいぜい政治上のものにしかなつてゐない。

平成二十五年一月一日
Twitter / osito_kuma: 昨日のコミケの売上数です。 正かな1 4 正かな2 3 正か ...
冬コミでカヅサツ先生とか黨員さんとかと御會ひした。
今年もよろしく……。
平成二十五年一月一日
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