イギリスとかフランスがイタリアを輸入したり、イタリアがフランスを輸入したりする場合は、輸入といふ言葉を使つてもいいでせう。しかし、西洋と日本の關係は、われわれ日本人にとつてだいぶちがひます。私たちにとつて西洋は傳統のひとつです。明治以來そろそろ百年過ぎてゐます。この百年を無視して、明治維新のやうに直すわけに行かない、どんな惡いことがあつても直すことができない。西洋を傳統にして行かないと、この百年がむだになつてしまふのです。この百年を生かすためには、過去の日本をひとつの傳統とすると同時に、西洋の過去も傳統とする必要があると思ひます。西洋は輸入ぢやない、日本のインテリにとつては西洋は故郷です。そのあこがれを否定したり、徒勞だと言つたりするのは殘酷な言ひ方だと思ひます。
激安ツアーでもいいからまずは体験すること。そうして初めて海外旅行の“魅力”を発見できると加藤氏は言う。
観光でもリフレッシュでも目的は何でもかまわない。海外に行って帰ってくることで、新たな自分を発見できる。そこに海外旅行の最大の魅力があるのかもしれない。
発見してまで魅力になんかとりつかれたくない、と云ふのが今の若い世代。妙なものを
発見してしまつて、へんな新興宗教やら詐欺の勸誘やらになんてひつかかりたくない。
発見なんて、所詮賣込みに「ひつかかつた」と云ふだけの事だ、とみんな承知してしまつてゐる。賣込んで商品を買はせようとする從來の商賣のやり方は最早今の世代には通用しない。それが商賣人には分つてゐない。
法典にあらはれたる法律は余はこれを知らない、しかし法律そのものの何であるかは知つて居ると思ふ、即ち法律の、人に由つて作られたものでないことを知つて居る、政府には法制局あり、議會は立法部とよばるるより、世間の人はややもすれば、法律とは人に由つて如何にでも制定することの出來るもののやうに思ふなれども、これ根本的の大誤謬である、法律はもともと議員の多數決に由つて成るものではない、これは天然の法則と同じく、すでにすでに定まつたるものである、故にもし議員の多數決に由つて法律ができるものであるならば、ニュートンの發見せし引力の天則もまた同じ方法に由つてできるに相違ない、しかしながら、如何に傲慢無知の議員といへども、天然の法則を議會の討議に附して、これを制定せんとする者はない、人と人との關係、人と物との關係、權利の區域、その效力、これみなすでに定まつたる問題である、人はただ研究してこれを發見すべきである、鳩首して案出すべきではない。
このことを知つて始めて法律の神聖なることがわかるのである、もし法律が人に由つて成るものであるならば、その神聖なる理由はないはずである、人は法律の神聖を口にして、知らずしらずの間にその神より出づるものなることを承認するのである、昔は聖人、祈祷を以て神に乞ひ、その默示をかうむりて、これを律法として民に傳へたのである、故に法律はまことにまことに神聖であつたのである、……、もし科學の語を以て言ふならば、法律は人と人との間に成立する天然の法則である、二者いづれの立脚地より見るも、法律の便宜的製作物でないことは確かである、ここにおいて法律の數學の如き嚴密なる科學であることがわかる、同時にまた神學の如き神聖なる研究であることがわかる、法律は世の輕薄才子が面白半分に學ぶべきことでない、國を憂ひ民を思ふの士が、誠意、敬虔、以て探るべき學科である。