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野嵜健秀(Takehide Nozaki)
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テーマ・主に扱ふ事柄・ネタ
日本人論、政治主義批判、國語國字改革批判、虹裏(img)、深夜アニメ、古本、謎キャラクターによるコント、蟲、クリーチャーのイラストとまんが、論理。粘着アンチ問題。その他。

闇黒日記


平成二十三年八月三十日
どじょうの飼い方
平成二十三年八月三十日
どじょう(写真集)

平成二十三年八月二十八日
カール・R・ポパー「フレームワークの神話」
以下は拔き書き。ポパー哲学研究会訳『フレームワークの神話』(未来社)に據る。

こんにち、知的な生活をますます困難にしている局面のひとつは、非合理主義がきわめて広範に支持され、非合理主義の教義が当然のものとされているという状況である。思うに、現代の非合理主義の主要構成要素のひとつは、相対主義(真理はわれわれの知的背景に相対的なものであり、それがわれわれの思考を可能にするフレームワークをともかくも決定する。そしてフレームワークが異なれば真理も変わりうる、という教義)であり、とりわけ、異なる文化間、世代間、もしくは時代間の相互理解は――たとえ科学や物理学の内部においてさえ――不可能であるという教義である。この小論において、わたくしは相対主義の問題を論じる。相対主義の背景にはわたくしが「フレームワークの神話」と呼ぶものがある、というのがわたくしの主張である。わたくしはこの神話を説明し、批判し、さらにこれを擁護するために用いられてきた論法についても意見を述べるつもりである。

相対主義の擁護者たちは、相互理解の基準として現実離れした高度なものを提出する。そしてわれわれがこれらの基準を満たすことができないとき、[相互]理解は不可能であると主張する。これに対してわたくしは、共通の善意と多大の努力がここに注入されるならば、きわめて広範囲の理解が可能であることを主張するのである。さらに、こうした努力がなされるならば、その過程において、われわれ自身の見解や、また、われわれが理解しようとしている当の人物についての理解が進み、それによってこの努力は十分に報われる。

……。

……。

フレームワークの神話は、以下のようなひとつの文章で述べることができる。

合理的で実りある討論は、その参加者が基本的な過程にかんする共通のフレームワークを共有しなければ、あるいは少なくとも討論のためのそのようなフレームワークにかんして合意していなければ、不可能である。

これがわたくしが批判しようとする神話である。

……。

……。わたくしのテーゼは、論理はフレームワークの神話を支持もしないし否定もしないが、われわれは互いに学ぼうと試みることはできる、というものである。……。

ギリシャの合理主義や批判的伝統という現象を学派の伝統によって説明しようとするわたくしの企てもまた、当然のことながら推測である。実際のところ、これ自体がひとつの神話である。しかしこれによって、あるユニークな現象――すなわちイオニア学派――を説明できる。この学派は四ないし五世代にわたって、新しい世代になるごとにそれ以前の世代の教義を独創的に修正するということをやってのけたのである。最終的にこの学派は、現在われわれが科学的伝統と呼ぶものを確立した。この批判という伝統は少なくとも五〇〇年間続き、いくつかの厳しい攻撃に耐えて生き延びたが、結局屈伏したのである。

批判という伝統は、すでに受容されている物語や説明を批判し、そして新しく改良され、想像力に富んだ物語へと進んでいき、次にまたそれが批判にさらされる、という方法を採用することに基礎をおいている。思うにこの方法が科学の方法であろう。これは人類の歴史において、ただ一度だけ発明されたようにみえる。アテネにおける諸学派が、つねに勝ち誇り不寛容なキリスト教によって弾圧されたときに、西洋においてはこの伝統は死に絶えた。もっとも東アラブにおいてはしばらく残ってはいたが。この伝統は中世のあいだ、失われてしまったことが残念に思われ、嘆かれていた。この伝統は再発明されたというよりむしろ、ルネッサンス時代にギリシャ哲学やギリシャ科学の再発見とともに、再輸入されたのである。

このような発展の跡をふり返ってみれば、深刻な議題にかんする批判的討論やなんらかの「対決」から直ちに最終的な結論が生まれると期待してはならない理由がよりよく理解できるであろう。真理を手に入れるのは難しい。そのためには、古い理論を批判する才能と新しい理論を想像力によって発明する才能の両方が必要なのである。これは科学にかぎらずあらゆる分野に言えることなのである。

真剣で批判的な討論というのはいつにあっても困難なものである。人格的な問題のような合理性を欠いた人間的要素がつねに入りこんでくる。合理的な、つまり批判的な討論の参加者の多くがとくに困難に感じるのは、本能が命じているように見えること、(そして、論争的な社会ではどこでも結果的に教えられること)つまり勝利することを忘れねばならないということである。学ばねばならないことは、論争における勝利にはなんの価値もなく、他方、問題をほんのわずか明晰にすることですら――自分自身の立場や反対者の立場についてのより明噺な理解に向けてなされたほんの些細な貢献ですら――大きな成功だということである。ある討論において勝利を得ても、みずからの精神が変化したり明晰になったりすることがどうみてもほとんどないのであれぼ、その討論はまったくの無駄とみなすべきなのである。まさにこの理由のゆえに、みずからの立場の変更は内密になされてはならず、その変更がつねに強調され、その帰結が探求されるべきなのである。

この意味での合理的な討論は稀である。しかしそれは重要な理想であり、われわれはそれを享受することを学べるのである。これはなにも改宗などを目的とはしていない。その期待しているところは慎ましやかなものである。われわれが物事を新しい光のもとで見ることができるようになったとか、真理に少しでも近づいたとすれぼ、それで十分、いや十二分なのである。

文化相対主義という観念には明らかに正しいひとつの解釈が存在する。イギリス、オーストラリア、ニュージーランドでは、道路の左側を運転するが、アメリカやヨーロッパやその他の大部分の国では右側を運転する。明らかに必要とされているのは道路にかんするそういったなんらかの規則である。しかし右側なのか左側なのかということは、明らかに恣意的かつ慣習的(コンヴェンショナル)な問題である。まったく慣習的もしくは恣意的ですらあり、その重要性もさまざまであるような類似の規則が多数存在する。このような規則の例としては、アメリカ英語とイギリス英語における発音や綴りにかんする異なる規則が挙げられよう。まったく異なる二つの言語でさえ、同じように純粋に規約的(コンヴェンショナル)に関係づけることができよう。そして二つの言語の文法構造が非常に似たものであれば、状況は道路の規則の違いと類似のものになるのである。われわれはこのような言語や規則を、純粋に慣習的に異なっているとみなすことができるのである。つまり、ここでどちらを選ぶかは、どうでもいいこと――少なくともなんの重要性もないこと――なのである。

こういった規約的な規則や慣習を考えるかぎりでは、フレームワークの神話をまじめに受け取りすぎても害はない。というのも、道路規則にかんしてアメリカ人とイギリス人が討論をすれば、容易に合意に到ると思われるからである。両者とも、それぞれの規則が同じでないことを残念がるかもしれない。しかし両者は、原則として、二つの規則のどちらかを選ぶための根拠がなにもなく、アメリカ合衆国がイギリスとの一致を図るために左側通行の規則を採用することを期待するとすればそれは理不尽というものだ、といったことに同意するであろう。また両者は、望ましいかもしれないが極端に経費を必要とする変更を現在のところイギリスができないということにもすぐ同意するであろう。あらゆる点にかんしてこのような合意がなされた後、両者はともに、この討論から新しいことを何も学ばなかったという感想を抱きつつ席を後にすることになろう。

状況が完全に変わるのは、これ以外の制度や法、慣習、あるいはたとえば法の執行に関連する事柄などを考察する場合である。この分野における法や慣習の違いは、そこでの生活をまったく異なったものにすることがある。ある法や慣習は非常に残酷なものでありうるし、別の法や慣習によっては相互扶助や苦悩に対する慰めをもたらすこともある。いくつかの国々とその法は自由を尊重しているが、他の国ではそれほとでなかったり、まったくそうでない場合もある。こういった違いは非常に重要なことであり、文化相対主義の名のもとに、あるいは法や慣習の違いは規準や思考様式、概念的フレームワークの違いによるものであり、それゆえ共約不可能もしくは比較不可能と主張することによって、見逃されたり無視されたりするべきではないのである。逆にわれわれは理解し、比較しようと努めねばならない。われわれは、誰がより良い制度をもっているかを見つけようとしなければならない。そしてそこから学ぶようにするべきなのである。

わたくしの意見では、こういった重要な事柄を批判的に討論することは可能であるばかりでなく、もっとも急を要することである。これは、プロパガンダや事実にかんする情報の無視によって困難になることが多い。しかしこういった困難は克服しがたいものではない。たとえば、情報によってプロパガンダと戦うことができるのである。というのも、情報というものはそれが有用であれば、必ずしもつねに無視されるわけではないからである。もっとも、しばしば無視されていることは認めねばならないが。

文化相対主義や閉じた枠組といった考え方は、他者から学ぼうとするにあたっての大きな障害となる。つまり、なんらかの制度を受け入れ、あるいは他の制度を修正し、悪い制度を排除するという方法にとっての障害なのである。たとえば、多くの人は受け入れたり排除したりできるのは「共産主義」や「資本主義」のような全体的枠組あるいは「システム」だけであると考えている。しかしこうしたいわゆる「システム」について語るさいに、理論のシステム――つまりイデオロギー――と一定の社会的実在とを区別しなければならない。もちろん両者は、相互に大きな影響を与えあうものである。しかし社会的実在というものは、とくにマルクス主義者が考えるようなイデオロギーとは、ほとんど似たところがないのである。

法や慣習といった枠組については合理的に討論できないという神話を主張する人びとがいる。かれらの主張では、道徳性は合法性や慣習、慣例と同じであり、したがって現に存在しているさまざまな法や慣習の体系が道徳性の唯一の可能な基準である以上、ある慣習の体系が他のそれより道徳的に優れているかどうかを判定することはおろか、討論することさえできない、とされるのである。

この見解はヘーゲルの有名な定式「現実的なものは理性的であり」そして「理性的なものは現実的である」にまで遡ることができる。ここで「現実的なもの」とは人間が作る法や慣習を含む世界のことを意味している。もっともこういったものが人間によって作られることをヘーゲルは否定している。かれは、世界精神あるいは理性がこういったものを作るのであり、こういったものを作ったように見える人びと――偉人や歴史の制作者――は理性の執行者にすぎず、かれらの情念がもっとも優れた感度をもつ理性の道具だったにすぎないと主張する。かれらは、時代精神のそして究極的には絶対精神の、つまり神自体の検出装置なのである。

……。

ヘーゲルは相対主義者であると同時に絶対主義者であった。いつものようにかれは少なくとも二股をかけた。そして二つで足らなければ、三つ股をかけたのである。そしてかれは、フレームワークの神話を弁護した――主にドイツの――カント以降の、つまりポスト批判的、ポスト合理主義的哲学者の長い人脈の連鎖の最初の人物だったのである。

存在論的相対性は相互の意思疎通を容易ならざるものにはするが、それでも暗闇への突然の飛躍ではなく、十分に時間をかけて克服されれば、文化衝突のはるかに重要な事例においては莫大な価値をもちうるとわたくしは信じる。というのは、文化衝突の当事者は、無意識のうちにもっている偏見から――たとえば、言語の論理構造に組み込まれているような理論を無意識のうちに当然とみなすことから――みずからを解放できる可能性があるということなのである。このような解放は、文化衝突によって目ざめさせられた批判の成果であろう。

ここで、あるきわめて特殊な形態のフレームワークの神話があり、しかもこれがとくにはびこっているということに少し触れておいてもよいだろう。それは、討論の前にわれわれは言葉遣いを――おそらく「用語を定義すること」によって――決めておくべきであるという見解である。

わたくしはこの見解をさまざまな機会に批判してきたし、ここで再びそれをおこなう余裕もない。ただわたくしはこの見解に反対すべき、おそらくもっとも強力な理由が存在することだけは明らかにしておきたい。つまり、いわゆる「操作的定義」を含めてあらゆる定義は、定義の対象となっている用語の意味という問題を定義する用語に移すことができるにすぎないのである。したがって、定義を要求すれば、いわゆる「原始」名辞、つまり無定義名辞を認めないかぎり、無限背進へと到るのである。しかも一般に、こうした無定義名辞は定義された名辞の大部分と同じく確定的ではないのである。

ポパーは、「フレームワーク」の存在が相互理解や討論の障碍になるし、自身の發想を制限する「牢獄」となる事も確かであるけれども、困難であるにしても努力によって吾々が「フレームワーク」を突破する事は可能だし、それを試みる事は吾々の「知的地平を拡大してくれる」ものであり「大きな喜びをも提供してくれる」ものである、吾々は批判と云ふ方法によつて「フレームワーク」を突破する努力をしなければならない、と結論してゐる。
平成二十三年八月二十八日
ポパーは、「フレームワーク」が「ある」現實を認識してゐる。そして、「フレームワーク」を「超越すべきである」事を主張してゐる。
平成二十三年八月二十八日
福田恆存はポパーの事を何も書いてゐないから讀んでゐたか何うかは判らないが、知識として名前くらゐは知つてゐただらうと思はれる。同じ自由主義の立場を取る林健太郎は歴史學の立場からポパーの態度に言及してゐる。
平成二十三年八月二十八日
私が「日本國憲法」に反對なのは、その成立が、大日本帝國憲法の現實の・運用上の問題に對する修正でなく、單なる「神話」の押附けによるものであつたから。戰後の民主主義或は「象徴天皇制」が一種の「神話」として日本國民に信仰された事は、それらが遂に批判の對象たり得ず、「信者」と「アンチ」の不毛な言爭ひのみを喚起してゐるに過ぎない事を見れば明かである。「日本國憲法」の無效論に對しては、單純な「日本國憲法」信奉の立場からの盲目的な反撥のみが見られるに過ぎない。其處では、無效論の立場を「絶對天皇制」信奉と極附ける「神話」的態度が依然として見られる。一方、南出喜久治氏らが主張する「新無効論」は、現憲法を「講和條約」と看做す立場である事を強調してゐるが、それが法律論にこだはる人々への説得の爲の方便に過ぎない事を忘れて、他者の無效論に對する優越を強調する爲の手段に使はれてゐる事には、共感できない。
「日本國憲法」が、日本の風土、習慣、精神文化、傳統その他が考慮されないまま机上で創作され、民主主義・共和制のアメリカと云ふ國家から一方的に押附けられたものであり、それを占領下に丸呑みしたものである事は、結果として共和制禮讚=「天皇制」反對と云ふ「神話」を創造するに至つた。それが結果として「日本國憲法」の絶對化に繋がり、「日本國憲法」への批判一切を排除する閉鎖的な態度を現代の日本人に定着させた事は、戰後政策の深刻な失敗だつたと言はねばならない。それが「民主主義」(或は「自由民主主義」)の美名の下に行はれた事は、却つて民主主義への信頼を失ふ結果になつてゐる。偉い思想家は、さうした問題を十分認識し、單純な自由主義・民主主義の唱導者・活動家の域には留まつてゐなかつた。
平成二十三年八月二十八日
「無效論」を少數の人間が大多數の日本人に押附ける事は、自由主義の破壞を目的としたものであり、徹底して彈壓し、封じ込めねばならない――さう云ふ政治的主張を越えて、私は、日本國民が自由で開かれた社會を求めねばならないと信ずるのであり、それ故に、決して自由な討論の成果とは言へない「日本國憲法」を、自由な立場を受容れて納得した日本國民が率先して廢棄し、ゼロから冷靜に檢討を行つて、日本人にとつて最も現實的で最も有效な憲法を定めようとする事は、大變望ましい事だ、と言つてゐるわけだ。
其處に「では具体的なやり方はどうするんだ」とか揚げ足取りをしてみたり、「無効論こそ無効であるw」のやうな駄洒落を言つて揶揄つて來たりする人は、寧ろ「日本國憲法」の「神話」を守りたいだけの、自由な討論を否定する立場の――反自由主義の人である、と言ふ事が出來る。なるほど、さう云ふ危險な人が澤山ゐる現状では、無效論は危險かも知れぬ。
マッカーサーは、日本人の精神年齢は十四歳だと曰つて、適當にでつち上げた「民主憲法」を押附けて呉れたのだが、それから半世紀を經て日本人は未だに成熟しないでゐるらしい。

平成二十三年八月二十七日
Microsoft Officeのダウンロード販売がベクター、ヤマダ、ヨドバシで開始 -INTERNET Watch

平成二十三年八月二十六日
東京発展裏話 - 魅惑のチリルーム[みわちり]
平成二十三年八月二十六日
エフコルの小屋
東京の環状何号線の寫眞。
平成二十三年八月二十六日
東京西北部の中小河川

平成二十三年八月二十五日
中原中也「藝術論覺え書」『中原中也全集 第二卷』(創元社)

何故我が國に批評精神は發達しないか。――名辭以後の世界が名辭以前の世界より甚だしく多いからである。萬葉以後の我が國は平面的である。名辭以後、名辭と名辭の交渉の範圍にだけ大部分の生活があり、名辭の内包、即ちやがて新しき名辭とならんものが著しく貧弱である。從つて實質よりも名儀が何時ものさばる。而して批評精神といふものは名儀に就いてではなく實質に就いて活動するものだから、批評精神といふものが發達しようはない。(偶々批評が盛んなやうでも、少し意地惡く云つてみるならばそれは評定根性である。)

つまり、物質的傾向のある所には批評精神はない。東洋が神秘的だなぞといふのはあまりに無邪氣な言辭に過ぎぬ。「物質的」に「精神的」は壓へられてゐるので、精神はスキマからチヨツピリ呟くから神秘的に見えたりするけれど、もともと東洋で精神は未だ優遇されたことはない。


平成二十三年八月二十三日
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サークルカット用。こんな感じ。
左からおもちくん、こもちくん、にゃもちくん。
おもちクリーチャーには無駄に細かい設定があつて、その邊をきちんと承知して描かないと案外わけがわからない事になる。
おもちくんは全てのおもちクリーチャーの祖型で、おもちくん以後のクリーチャーはおもちくんに敬意を表しておもちクリーチャーと呼ばれる。逆におもちくん以前のキャラクタはおもちクリーチャーとは呼ばれない。すまいるくんはおもちくんより前からゐるのでおもちクリーチャーではない。
こもちくんは小さなおもちくんであり、子供のおもちくんでも子持ちくんでもない。クリーチャーの大きさと年齡とは無關係で、小さくてもこもちくんは大人のクリーチャーである。こもちくんの身長・幅はおもちくんの大體半分くらゐ。
にゃもちくんは、もとおもちくんの描き損じにひげをつけた事で出現したクリーチャーで、おもちタイプの初の派生クリーチャーである。設定は二轉三轉したが現在は、おほよそ確定してゐる。身長はおもちくんと大體同じ、頭部の幅もおもちくんと大體同じ。途中少しくびれて腰の邊はぽてっと膨れてゐる。尻尾は太すぎず細すぎず恰好よく。ひげはあんまり叮嚀でなくて可、ただし表情をつけるのに重要。ポイントは目で、細く描くよりは思ひ切り大きく描いた方がにゃもちつぽく見える。どのクリーチャーも、遠くを眺める時は普通で、近くを見る時だけ寄り目になるが、にゃもちくんの場合は寄り目氣味で描く事が多い。最近はいつもにこにこしてゐるが、普通の表情の場合、猫らしく瞳は縱線で表現する。殆ど猫のやうなクリーチャーだが、ベースはおもちであり、猫つぽいのは屬性に過ぎない。と言ふか、猫としてみたら相當の駄目猫であらう。
おもちくんもこもちくんも結構締つた體をしてをり、特に背中の反つてゐるのが目立つが、四隅をかくかく描くのでなく餘裕のあるカーヴで表現する事で身體の張りを表現したい。にゃもちくんの體のラインはおもちくんやこもちくんよりもなだらかでまるつこい。おもちくんとこもちくんが意識してしつかり體を支へてゐるのに對し、にゃもちくんは重い體をひきずつてゐるやうな印象がある。

平成二十三年八月十九日
RTされたので描いたもの - 黄色いガードレールの上で
殺意あふれる逸品。

平成二十三年八月十八日
この2〜3年で納豆の容器とタレ袋が大進化
ゼリー状のたれ、旨くないです。その邊がもつと良くなれば。
平成二十三年八月十八日
http://www.bumbunker.com/?date=20110816#p02
俺も「日常」の話の作り方は何うかと思ふ。と言ふか嫌ひ。
平成二十三年八月十八日
山本天志監督「いつか天魔の黒ウサギ」が未だに化けて呉れないので辛い。
平成二十三年八月十八日
コーヒーを自宅でいれる時に陥りがちな7つの落とし穴 - GIGAZINE
男は默つてネスカフェゴールドブレンド。
平成二十三年八月十八日
2011-08-18 - 「愛」も「萌え」も定義は広い。
同人誌「正かなづかひ 理論と實踐」計劃。

平成二十三年八月十五日
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平成二十三年八月十三日
福島中央テレビ [ズームイン!!FCT テレビ局の仕事 / 番組・ニュースができるまで]
平成二十三年八月十三日
※七月十二日撮影。
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平成二十三年八月十三日
※今日撮影。
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平成二十三年八月十二日
Wikipedia、新規編集者の呼び込みに頭を悩ませる - スラッシュドット・ジャパン
【やじうまWatch】 編集者が離れつつあるWikipedia、つなぎ止めと新規呼び込みに躍起 ほか -INTERNET Watch
まともな人が99人ゐても、をかしな人が1人紛れ込めばコミュニティは崩潰する。アンチが一人湧けば記事が死ぬ。Wikipediaみたいにオープンなところがまともに永續きするわけがない。

平成二十三年八月十一日
東京電力、計画停電専用のTwitterアカウント、25のグループごとに、25個開設 -INTERNET Watch
平成二十三年八月十一日
「システムクリーナー」の使用方法 (無償) | 製品Q&A:トレンドマイクロ
システムクリーナーの使用方法(無償):トレンドマイクロ

平成二十三年八月十日
pixivのセキュリティがズブズブな件
pixivセキュリティ騒動についてまとめておく

平成二十三年八月九日
宮崎市定「「論語読み」の愉しみ」『論語の新しい読み方』(岩波書店・同時代ライブラリー)

……。

私は、先に見たように、論語は職業学校長である孔子が、精神教育をやったときの言行録と言っているのですから、現代語訳も、わかりやすい文章になるように、十分の注意を払いました。しかし、谷沢氏がここまで評価してくれたのは、やはり、私の文章力というよりも、論語の原点に帰って、素直に読んだためだと思っています。

ところが、これまでのところ、専門家の反応はゼロに等しい。もちろん推奨もないかわり、批判も出ていないのです。

だいたい、私の書く本が、この本だけでなく、専門家の間で評判になることはほとんどない。

このように専門家に無視されるのも、私が論語は処世の指針になると言いながら、自身は実行してこなかったからに違いありません。

論語には「多く見て殆うきを闕き、慎んで其の余を行えば、則ち悔ゆること寡し」という言葉がある。これは役人になる心得を言ったもので、過失をなくするようにしなさい。そのためには言葉に気をつけ、本当に自信のあること以外は言うな。そうすれば、どんどん地位が上がり、報酬も増える、という意味です。

それなのに、私は「論語読みの論語知らず」で、自分が信じたことは、誰の前に行っても臆面もなく言うのが学問だと思ってきた。政治家でも官僚でもないのだから、論語の言いつけに背いてもいいとしてきたからですが、しかし、この箇所を読むたびに、笑いがこみ上げてくる。論語の戒めを守らないから、世の中で憎まれることになったんだ、と……。

ところで、論語の戒めをまた破ることになりますが、もう少し言っておきましょう。

……。

平成二十三年八月九日
pixiv「現代アート」のまとめ ※まとまりません
pixiv「現代アート」のまとめ2 ※まだまとまりません
Googleで高橋けんじ氏の名前を検索すると予想変換で「高橋けんじさんは人の心がないんですか」が出てくる
二科会所属の68歳、北海道でアート展開催 ※ソース不明の情報
平成二十三年八月九日
Hinabita's FanArt XXX Anime Gallery: 今回の騒動の表と裏
Hinabita's FanArt XXX Anime Gallery: あまり他で書かれない現代アート騒動とキメこな問題の解説
Hinabita's FanArt XXX Anime Gallery: nov君の生態について:絶対許さないよ? 拍手お返事前に
平成二十三年八月九日
【ふたば】5分で分かるキメこなちゃん盗作問題のまとめ : ふたばのまとめ(仮)
【ふたば】キメこなちゃん盗作問題の末路 : ふたばのまとめ(仮)
平成二十三年八月九日
pixivのはじっこ : pixivの「現代アート」タグで何が起こっていたのか(8/7)
平成二十三年八月九日
現代アート集団「カオスラウンジ」のおかげでpixivが大荒れしている件 : はちま起稿
現代アート集団「カオスラウンジ」の通報祭が始まる…ディズニー・任天堂・ポケモン・京アニなど : はちま起稿
平成二十三年八月九日
ガチ通報でカオスラウンジオワタww inVIP - トップページ

平成二十三年八月八日
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平成二十三年八月七日
国家神道研究(斎藤吉久「新段階に入った国家神道研究」)

 昨年平成12年の「神の国」騒動で、一部の政治家や宗教者、マスメディアなどが手厳しい天皇批判、神道批判を繰り返したことは記憶に新しい。「明治政府は神道を事実上、国教とした」「神社は特別の保護を受けた」というような記事を大見出しで載せた新聞もある。戦後の実証的な近代宗教史研究はかなり進んでいるはずだが、一般社会の常識は非実証的、観念的で、千年一日のごとしというべきだろうか。

 けれどもとくに意外な感じがしたのは、むしろ神道批判の嵐の中で、神道人といわれる人たちからの反論が聞こえてこなかったことである。唯一の例外として一人気を吐いたのは、皇学館大学助教授の新田均氏であった。言論雑誌で「鎮守の森は泣いている」と森発言を批判した著名な仏教学者に対して、「近代神道史および日本の歴史そのもの、神話の本質を無視している」と噛みついた。「論考は五年前の雑誌論文の切り張りに過ぎず、近年、めざましい近代神道史研究の成果に目を通していない。非学問的な空想である」と舌鋒鋭く反論した。

「諸君!」2000年9月号掲載新田均「「中央公論」七月号論文 山折哲雄氏に異議あり 先生、不勉強ですゾ!」の紹介。タイトルがアレだが内容はちやんとしてゐた。昨夜本棚を整理中に發見して讀んだのでメモ。
平成二十三年八月七日
めも。持つてゐない。
Amazon.co.jp: 「現人神」「国家神道」という幻想―近代日本を歪めた俗説を糺す。: 新田 均: 本
時事評論@和の空間 新田均著『「現人神」「国家神道」という幻想』を読んで
ところで新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』には驚いた。これは良書、優れた研究書である。なるほ... - Untitled
平成二十三年八月七日
マイクロソフト、8月の修正パッチは13件〜インストール時の注意も -INTERNET Watch
.NET Framework セキュリティ更新プログラムのインストールに関する注意 - 日本のセキュリティチーム - Site Home - TechNet Blogs

平成二十三年八月六日
福田恆存「荷風文學と情緒」(『臨時増刊 文藝 永井荷風讀本』)

……。

『あめりか物語』は自由の書であります。荷風の封建的強權とその道徳とに對する批判や反撥は、すでに『夢の女』のうちにもその芽ばえを看取しうるのでありますが、『あめりか物語』に至つてそれは明瞭に前面へ押しだされてゐる。が、そのことは大して重要ではない――荷風がこの書を通じて意識的、無意識的に表白してゐることは、官能の讚美であり、彼はその抑壓を東洋的な封建道徳の罪に歸してをりますものの、それがのちにごく自然に、日本の近代を批判する彼の態度につながり、官能の自由の名のもとに當事の精神主義を處斷することとなつた。彼が封建道徳の罪と考へたものは、じつは武士とその倫理を支へる儒教との罪にほかならず、それはかへつて明治の反動政府の文教政策のうちに根をのばし、混沌たる文明開花の底にやうやく明瞭な指導原理を見いだしつつあつた知識階級の心のうちに、よかれあしかれそのままに受け繼がれようとしてゐたのでした。そして自然のままの逞しい官能ではないにしても、すくなくとも打算と虚榮とに穢れぬ官能の耽溺はむしろ封建時代の庶民生活のうちに見出されるものであることを、荷風ははつきり意識することになつたのです。

……。


平成二十三年八月五日
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平成二十三年八月四日
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平成二十三年八月三日
窓の杜 - 【NEWS】Webページの印刷プレビューを表示できる「Google Chrome」v13の安定版が公開

平成二十三年八月二日
中村雄二郎『宗教とはなにか とくに日本人にとって』(岩波現代文庫 学術107) 第三章 <誠>という道徳的価値 1 『善の研究』の第三編を読みなおす

よく知られているように、西田幾多郎の『善の研究』(一九一一年)は、オリジナルな近代日本哲学を創始した点で画期的な意味を持っている。この本は「第一編 純粋経験」、「第二編 実在」、「第三編 善」、そして「第四編 宗教」という四編から構成されている。しかし一般には、この四編中で重視され注目されているのは、「第一編 純粋経験」、「第二編 実在」そしてせいぜい「第四編 宗教」であり、「第三編 善」は、ほとんど問題にされることがなかった。私自身にしてもそうである。

それというのも、この「第三編 善」は、一見したところ、行為、意志、価値について概説した上で、あれこれの倫理学説の善の観念を羅列し紹介しているにすぎないようにみえるからである。<純粋経験>の立場の特色が十分には出ていないように見えたし、なによりも、思考の密度もこの書物の他の編に比べて薄いからである。

ところが、あるとき、西田がこの編において道徳的価値の最高に置いているのが<至誠>であることに気がついて、そこに大きな問題が隠されているように思われた。なぜなら、<誠>あるいは<至誠>が道徳的価値として絶対化されるとき、そのために<嘘をついてもよく>、さらには<人を殺してもよい>ことになりかねないからである。<誠>のためであるなら嘘をつくことも殺人をおかすことも許される、というモラルあるいはメンタリティが、われわれ日本人の社会生活において潜在的にあるのではなかろうか、と思い至ったのである。


平成二十三年八月一日
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Twitter / @jns: 野嵜さんにくりーちゃー化されたらどうなるんだろう…… ...
平成二十三年八月一日
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