アリストテレスは共和制のアテネに生まれましたが、アレクサンダー大王が王子の時にその家庭教師をした人でありますから、君主制というもののよいところを認めていたわけです。そこでその『政治学』の中で、一人の支配、少数の支配、多数の支配という三つの政体を分類したのでありますが、いずれの政体にもいいこともあれば悪いこともあるとして、その三つの政体をさらに二つずつ、即ち六つの政体を区別したのであります。
まずモナーキー(君主制)ですが、アリストテレスはこのモナーキーという言葉をいい意味に使っています。一人の人が支配するということは、その人がすぐれていればこれはいい政体であって、それをモナーキーと呼んでいます。悪い人間が一人で支配するとなれば、これは当然悪い政治になる。この悪い意味での個人支配をティラニーという言葉で呼んでいます。これはタイラント、暴君という英語のもとになった言葉であります。
次は貴族政治ですが、貴族というのは財産とか家柄などで一般の人間よりも高い地位にあるものですが、同時にすぐれた人もいますから、そのすぐれた立派な貴族が政治をとる場合には非常にいい政治になる。この政体をアリストクラシーといっています。ところが、少数の人間が自分達の利益ばかり謀って他の者の利益を顧みないとなりますと、寡頭政治という悪い政治になる。これをオリガーキーという言葉で呼んでいます。
多数の政治あるいは民衆の政治が、デモクラシーですが、面白いことにアリストテレスはこのデモクラシーという言葉をいい意味に使っていません。アリストテレスはデモクラシーという言葉をいわゆる衆愚政治の意味に使っています。では、今日でいういい意味のデモクラシーのことを何といっているかといいますと、アリストテレスはそれをポリテイア、これは英語に訳す言葉がありませんが、あえて訳せばポリティ polity という言葉になります。この言葉が今日いっているいい意味でのデモクラシーになるわけです。
このようにアリストテレスは三つの政体・六つの種類に分類しているわけです。
さて、ギリシャは君主制から貴族制、民主制へと移行したのですが、その民主制のよい時代はあまり長く続かず、まもなく全く衆愚政治になってしまい、自分の個入的野心を遂げようとする者が民衆を煽動し、民衆はそれに動かされて政治が混乱をきたし、結局独立を失ってしまいました。そしてその後アレクサンダー大王の王国の一部になり、つまり君主の支配の下に入ったということになります。
フランス革命の時代、ドイツに哲学者のカントがおりました。大変えらい哲学者ですが、政治にも大いに関心を持っていまして、重要な政治の論文をいくつか書いています。この人はルソーを尊敬していて、民主的な人ですが、人間の自由という見地から面白い説を出しております。 カントは、国家の憲法は共和的でなければならないと言っています。しかし、この共和的というのは専制的というものの反対という意味で、国家の支配者が一人であるか多数であるかということは関係がない。そしてこの共和的とは、立法権と行政権が分離していることだと言っています。つまり、人民の自由と権利を保証するためには法の支配ということが大切ですが、行政権を持つものが勝手に法をつくってはいけない。それは人民の代表によってつくられ、法を執行する人からは独立のものでなければならない。これがカントの共和的というものの意味です。
ところで、国家の支配者が一人であるか少数であるか多数であるかという点から区分される民主主義というものについては、カントは否定的であります。カントは、共和制と民主制とを混同してはならぬと言い、民主制は必然的に専制政治になるから反対だと言っています。そしてカントは他のところで、人間は君主を必要とする動物であると言っています。それは、人間は自分と同等のものの間では必然的に自由を濫用するようになる、だから自分たちの上に立って、法に従って権力を行使するものが必要だ、それが君主だと言っているのであります。 なお、カントが民主主義が専制政治に帰着するというのは、それが古代のギリシャや、またルソーが考えていたような民主主義は人民が直接政治に参加する直接民主主義で、代議制というものを認めていないからです。フランス革命でもこの代議制というものが理解されていませんでした。そしてこの代議制というものはイギリスで発達してきたものですが、カントは個人の自由を保証するためには代議制が必要だということを強調しています。結局カントはイギリス風の立憲君主制が一番いいと考えていたということになります。
田舍へ引込んで、ぐれた子供たちにカテシスムを教へてゐる或る老婦人から聞いた話だ。言つておくがこの婦人も、僕と同じで、特に信者といふわけではない。だからカテシスムも、ただ一般の道徳を教へるための、つまり曲つた心をいれかへさせるための、いはばきつかけにすぎない。筆を選ばずといふが、一丁の道具でどんな仕事でもやつてのける、これが田舍のしきたりだ。さてその話といふのをうつしておく。
クルートといへばその地方での穴倉だが、いつからかそこに住みついた浮浪人たちのなかの或る少年が、一日、門を叩いた。「何か欲しいのかい。」「お祈りとカテシスムを教へて貰ひたいんだよ。」その日から彼は仲間入りをさせてもらつた。十字の切り方も教はる。
「何の爲に十字は切るのでありますか。」答「それは、十字架につけられたまひ、身を以て平等、正義、愛、不正の赦しを教へたまうたイエズスのしるしであります。自分のうちに怒り、恨み、蔑みなどの心が起つたとき、それらのことを思ひ起すためのしるしであります。十字架につけられたまうたイエズスの靈が、そのとき、來つて助けたまふのであります。」口ではさう言つても、誰一人、實際の用に立てる者はない。
一週間經つた頃である。いつものやうにカテシスムの、怒りの話が出た。子供たちの中で、他人のあら探しにかけて達者な一人が言ふのに、「ミシェル(浮浪少年の名だ)は怒りつぽい奴だ。きのふ、石を握つてアンドレをおつかけてゐた。『野郎、ふんづかまへてやる。逃すもんか。』けれどその時だつた。(と、あざけるやうな口調で)あいつは、いきなり立ちどまつたかと思ふと、石を握つたまま十字を切つた。石は落ちた。『アンドレ。心配するねえ。うちへはいつたつていいよ』だとさ。」
車の轍も見えない雪の廣野を横切つて來たあとだつたので、自分は足を火にかざしながら、その話を聞いてゐた。トルストイはかういつたすべての調和をとらへたのだ。浮浪少年はそれから間もなく出て行つたきり歸つて來なかつたさうだ。話はそれだけのことだ。そこで僕はだまりこんでしまつた。すべての神々は過ぎていつた。
……。
全集というと著者の昔の本をたゞ集めて並べるだけと思われがちだが、それは誤解である。「昔の著作」「昔の文章」でないとをかしい。その場合、「並べる」も「並べ直す」のやうに改めた方が良い。
それは、とある晴れた朝の事だった。雨上りの気持ちの良い朝である。ぼくは道を歩いていた。
すると、クリーチャーの子供達が集まって、何か話しているのが目にとまった。普段なら気にせず通り過ぎてしまうところだが、彼等はぼくをちらちら見ている。そこでぼくは彼等のひそひそ話に聞き耳を立ててみた。
予想通り、彼等はぼくの友達の噂をしていた。
「にゃもちくん、生徒会長に立候補する!」
彼等はいつも噂をしている。その噂は、本当の事もあり、根も葉も無い噂に過ぎない事もある。
しかし、ぼくは、無い首をかしげた。彼等は何を言っているのだろう。すぐにはちょっと理解できなかった。
「にゃもちくん、生徒会長に立候補する!!」
生徒会長……?
「にゃもちくん、生徒会長に立候補する!!!」
ちびくんが大声を張上げた。もう「噂」のレベルではない、ぼくがいかにも胡散臭そうな表情を浮かべていたからだろう、聞こえるように言ったのだった。
ぼくは、頭の上にクエスチョンマークを浮かべて、ちびくんを見詰めた。
嘘じゃないやい、ちびくんは飛び上がった。彼等はひどく熱心に、噂は本当だと主張した。ぼくは、しかし、なかなか信じられなかった。
けれども、そこに荒川智則もちくんがやってきたのであった。彼は、お得意の、凄く困ったような顔をしながら、ささやいてくれたのである。
「にゃもちくんが生徒会長に立候補するそうだ……」
噂は本当らしい。ぼくは絶句した。
そして。
ぼくは、にゃもちくんが選挙活動しているのに、実際、出くわしたのである……。
噂は本当であった。まさかと思ったが、本当であった。
「にゃもちくん……」
「にゃー」
にゃもちくんは元気に答えてくれた。あいかわらずである。
ぼくはにゃもちくんがいろいろな事にチャレンジするのを、いつもあたたかく見守ってきた。にゃもちくんはチャレンジするのが大好きで、しかも熱心だった。それは、はたから見ていても楽しげだった。だからぼくは、いつも彼のチャレンジを応援した。ぼくはにゃもちくんが大好きなのだ。
もちろん、にゃもちくんのする事だから、無茶なチャレンジも多かった。だからこそ、ぼくなんかは彼をサポートしたくなったのだ。毎回毎回、にゃもちくんは大騒ぎして、ぼくらを巻き込み、そして目標を何とか達成しては、にゃーにゃー言った。ぼくは毎度、それを楽しみに、にゃもちくんを手伝った。
けれども、生徒会長になる、なんてのは、ちょっと今までのチャレンジとは意味が違う。それは、おもちクリーチャー界では、あり得ない出来事だ。
一言で言って、にゃもちくんにはとても無理だ。
かのおもちくんですら、生徒会長にはなれなかったのである。毎度一生懸命なにゃもちくんには悪いけれども、無理だと思う。
にゃもちくんが用意したたすきをかけて、一緒に並んでいたけれども、ぼくは目に見えてぶすっとした顔をしていたはずだ。つっこみ役の普段の顔より、さらに不機嫌そうな顔……。
しかし、にゃもちくんは気にしていないようだった。道行くクリーチャーたちに、愛想を振りまき、体をこすりつけている。にゃーにゃー言いながら迫ってくるにゃもちくんに、クリーチャーたちは苦笑していた。
そんな中、クリーチャーの間から、一人のすまいるくんが跳んできた。おもちくんのパートナーのすまいるくんだろう。外見から、すまいるくんたちは区別がつかないので推測するしかないが、多分間違いないと思う。
「こんにちは! にゃもちくんのお守りも大変だね、こもちくん!」
すまいるくんはにこにこしていた。
「んー大変ってほどの事はないけれども……」
「いやいや、彼の行動力に付き合うのは大変だよ!」
「まあね……」
確かに、ぼくはにゃもちくんにいつも振回されている。ちょっとうんざりぎみな表情になったりもする。けれども、内心ぼくはいつも苦笑しているのだ。そしてぼくが苦笑する時は、苦痛を感じているわけではない。
そんな事を心の中で考えていると、すまいるくんはにこにこするのをやめ、眉間に皺を寄せながら尋ねてきた。
「今回は生徒会長に立候補だって?」
いかにも困ったような表情である。
すまいるくんは、クリーチャーではない。クリーチャーの世界に住む陽気な住人ではあるが、クリーチャーとは違う存在だ。どうやらぼくたちの生活を陰から支えてくれているらしい。そんなすまいるくんが、困惑しているのだ。
「うん。一度言出したら、なだめてもすかしても、絶対にやめないんだ」
「知ってる。にゃもちくんって意外と頑固だよね」
そう、にゃもちくんは、柔らかい外観に似ず、頑固なのだ。だからぼくはいつも、彼がやり出した事には反対しない。あたたかく見守るだけである。だけど……。
「頑固で困るよ。今度もまんがか何かで読んだらしい、生徒会長になりたくてしょうがないんだって」
頑固なのに、妙にいろいろな事に影響を受けやすい――それがにゃもちくんである。
ぼくたちは揃って溜め息をついた。
「そりゃ困ったねえ……」
「困ったよ……」
生徒会長になる……にゃもちくんはいとも気楽に決意したらしい。なにしろまんがで読んだ事なのだ。気楽にできる事だろうと、彼は思って、真似したのである。しかし、生徒会長になる事は、彼が思っているほど、クリーチャーの世界で、容易な事ではない。
「まずは無理だろうね。こんな事を言ってはいけないんだろうけど、無理じゃないかな」
すまいるくんは、気がかりそうな表情である。
しかし、にゃもちくんは、一度決めた事は、絶対実行するのである。とにもかくにも実行。やめろと言われても聞く耳持たない。だから今回も、最後までやり通すはずである。
ぼくはすまいるくんにそう話した。すまいるくんは苦笑した。
「しかたがないね。何でも手伝うよ、がんばって」
「ありがとう。にゃもちくんには最後まで付き合うしかないんだ。がんばるよ」
ぼくは悲愴な覚悟を固めた。
すまいるくんは勢いをつけて跳ね上がると、どこかに跳んでいった。多分おもちくんを探しに行ったのだろう。
にゃもちくんは脇でにゃーにゃー言っている。
キリスト教は個々の人間を、一つの固体の単なる成員とか一覧表の中の項目とかいったものとしてではなく、一つの身体の諸器官として――つまり、おたがいに違いながら、それぞれ他のものにはできない貢献をする、そのようなものとして、考えているのです。みなさんが、みなさんの子供たち、あるいは生徒たち、いや隣人たちをさえも、みなさんとまったく同じ人間にしてやりたいと思うようなときには、神はおそらく彼らがそんなふうになることを全然望んでおられないのだということを忘れないでください。みなさんと彼らとはそれぞれ違う器官であり、従って違った目的を持っているのです。
これに反して、みなさんが、だれかほかの人が苦しんでいるのに、 「おれの知ったことではない」と言ってなんとかわずらわされずに済まそうとするようなとき、その人は自分とは違うけれども自分と同じ有機体の一部なのだということを忘れないでください。彼も自分と同じ有機体に属しているのだということを忘れると、みなさんは個人主義者になっでしまいます。また、彼が自分とは違った器官であることを忘れ、相違を抑圧して、入々をすべて同じような人間にしようとすると、みなさんは全体主義者になってしまうでしょう。しかし、クリスチャンは全体主義者でも個人主義者でもあってはなりません。
この二つの誤りのうち、どちらが一そう悪いかということについて、みなさんにお話したい強い欲望を私は感じます。おそらくみなさんも私がそれについて話すことを強く要望しておられるのではないかと思います。しかし、それは悪魔の奸計であります。悪魔はつねに誤りを二つ一組にして――相対立するものを一組にして、世に送り込むのです。そして彼は、われわれがその二つのどちらが一そう悪いかを考えて多くの時間を費すことを、つねに助長しまず。なぜそうするか、むろん、おわかりでしょう。彼はわれわれが一方の誤りを余分に嫌うのを利用して、われわれを少しずつもう一つの誤りの中に引きずりこもうとするのです。が、私たちはだまされてはなりません。私たちは眼をしっかりと目標に結びつけて、この二つの誤りの間をまっすぐ通りぬけて行かなければなりません。このことを除いては、それらの誤りいずれにも、私たちはまったく関心を持たないのです。
- 福田
- われわれが短期的には下り坂だがといえば、いや、長期的に見ても伸びる可能性がないと三鬼(陽之助)さんはいうかもしれません。しかし僕は、自由主義経済と統制経済の違いというものは、一応両方とも見通しというものをもっている点ではおなじで、ことに両方とも修正資本主義、修正社会主義となってくれば、その点では近づいてくる、自由主義経済といってもかなり統制経済、社会主義経済に近づいているけれども、しかし根本にはいかに合理的な経済の世界でも人間には見通しがきかないものがあり、"神のみぞ知る"未知の世界があるという思想がある、そこが社会主義と違うところだ。そこに資本主義経済が成り立っているんだし、長所もあるわけでしょう。それを三鬼さんだけが全部知ってる神の立場にあるというような思い上りで診断を下しちゃう。だからさっき私がいったように、いかなる名医でも医学の限界というものは心得ている。たとえば慈悲死ということだって問題があるわけです。医学で全部判断できちゃうならば、早く殺してやったほうが本人のために苦しまなくて済む。しかし医学が予期できないようなことが万一起るかもしれない。治療最中に急に新しい治療法が発見されるということだってないとはいえない。その千分の一、一万分の一の可能性のために、慈悲死ということが問題になるんだと思う。そういうことを全然考えないで、三鬼さんのは片っぱしから注射しちゃって慈悲死を行っているわけなんですね。あれは看板にいつわりありで、資本主義のためじゃなくて、著者は計画経済を信じていて、しかも自分の見方が一番完全だと信じているからですよ。
清水幾太郎論。
宗教を離れた道徳――近代の道徳はそれであるが――というものは、文化史的には、つねに右のような宗教に立脚した道徳の後において、一つの解放としてのみあらわれてくるものである。これを墮落と見るかそれとも進歩と見るかということは、今の場合、別問題である。ともかく人間が一定の支配的宗教からみずからを解放するにつれて、そこに思考の新たな体系が樹立され、絶対的なものをこれまでとは違った仕方で解釈し、それを倫理的な行動基準の新しい底礎たらしめようとし始める。ところが実際においては、それが排斥しようとした宗教の持つ諸要素は、そのいうところの新しき倫理や自称形而上学の中に実は持ちこまれているのである。現にたとえばカントの倫理は、プロイセン的なプロテスタンティズムの色彩の極めて強いその当時の倫理的文化というものを抜きにしては考えられないものであるし、マルクシズムの革命倫理でさえも、キリスト教が持つ動的歴史把握(デュナミスムス)というものを抜きにしては完全には理解され得ない。