古代から明治までの、それまでに習つた歴史が、自分をも含めて同時存在してゐるといふ幻覚の記述で注目すべきものである。「日本人にとって天皇とは何か」(福田恆存・林健太郎・司馬遼太郎・山崎正和)は、前年に乃木將軍の評價をめぐつて決定的に對立した司馬氏と福田氏の直接對決。「日本の傳統」について、飽くまで「日本」の範圍だけで語らうとする司馬氏に、しかし明治は「近代化」の時代でもあつたと福田氏が激しく抵抗してゐる。ほかに清水幾太郎「関東大震災がやってくる」を選んでゐるのが面白い。清水幾太郎は、先日、東北大震災がらみでちくま文庫から『流言蜚語』が復刊されたが、かつてのオピニオンリーダーが今や「地震災害への警鐘を鳴らし續けた人物」としてのみ記憶されてゐるのである。既に十年以上前の本書でもさうした傾向がはつきり表れてゐる。全て編輯者の見識である。
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自己を語るとはどんなことなのか。それは別に珍しいことではないとも言へる。身の上ばなしをしたり、身邊雜事を語つたりすることは、日常普通の經驗だからである。しかしこれが果して自己を語るといふことなのであらうか。かういふ話を聞く時、私たちは相手の身勝手な言ひわけや、あるひは身勝手と思はれはしないかといふ別の言ひわけなど、一般に主觀的な夾雜物をむしろうるさく思ふ。出來るなら、さういふものすべてを拔かして貰ひたいと思ふ。そして私たちのこの要求に應ずるかのやうに、自己を出來るだけ客觀的に語る方法が工夫されてゐる。それは丁度かの雄辯家たちが、自己の意見を聽衆に徹底させるために、自説を押しつけるやうな態度を出來るだけ囘避するのに似てゐる。雄辯家のこの技法が、言葉の本來の意味に於けるレトリックといふものなのである。かくて、淡々として自己を語るといふやうなことも、實は文章法(レトリック)の上の心掛けにつきるのではないかとも疑はれる。
しかしながら、このやうにして自己を語るのが果して本當に自己を語るといふことなのであらうか。私たちはこのやうなものを和歌、俳句、隨筆、私小説などのうちに數多く見出す。否、これらはいづれも同一の根源から生れてゐるとも言へる。そして人々は淡々として自己を語るこのやうな心境を何か尊いものに考へてゐる。つまり悟りといふやうなものをそこに見ようとするのであらう。しかしながら、このやうな悟りはレトリックの勉強からも生れて來る。俳句は床屋の親方が嗜むものだと言はれてゐる。同好の士はこれをよろこぶが、しかしそこに語られてゐる自己は一向につまらないものが多い。素朴に自己の心をうたつたなどといふことを有難がるけれども、しかしそこに見出されるのは世俗の人情だけで、別に自己といふほどのものはないやうに思はれる。從つて、素朴とか淡々とかいふやうな、うたひぶりだけで區別するより外はない。つまり重點は、語られる自己にはなくて、たゞ語り方にあると考へられる。悟りがレトリックの領域にあることは疑へないやうである。そしてこのやうなものが果して自己を語るといふことの本來なのかどうか、私たちはこれを既に疑問として來たのである。
……。
「どうもへんだな。どうも腑に落ちない。分らないことを強ひて尋ねようとしなくなることが、結局、分つたといふことなのか? どうも曖昧だな! 餘り見事な脱皮ではないな! フン、フン、どうも、うまく納得が行かぬ。とにかく、以前程、苦にならなくなつたのだけは、有難いが……」
身をほろぼし、傷つける「苦難」(パトス)は、見るに堪えぬものであり、われわれの人情を動かすことの大なるものであるが、しかしそれだけではまだ悲劇にならないのである。「苦難」が「正義」の問題を含むことによって、その「おそろしさ」は真におそるべき意味をもち、苦難は「いたましい」限りのものとなる。そしてこの「おそろしさ」と「いたましさ」を通じて、「苦難」は「悲劇」にまで高められるというのが、アリストテレスの眼を通して見たギリシア悲劇の理解の一つの可能性であった。しかしアイスキュロスの三部作は、正義の問題に一つの解決を与えることによって、アリストテレスの好みとは逆に、めでたし、めでたしの終りをもち、市民たちの歓呼の大合唱が、この芝居を閉じた後までも、圧倒的な力をもって、いつまでもいつまでもこだまするかのように感じられるのである。ギリシア悲劇とは何か。それは学者のこまかい規定の網の目からもこぼれて出てしまうようなもの、何かこの荘厳なものが正体なのでないか。それにしても、アイスキュロスは幸福な作家だったのかも知れない。いうまでもなく正義の問題は、文学の作品あるいは舞台の上だけで解決されてしまう問題ではないのである。それはより多く国家社会の実際問題なのである。舞台の上で、どんなにめでたい解決があったにしても、われわれが現実に生きている国家社会のうちでは、その解決らしいものがなにひとつないとしたら、結局は空々しい感じをのこすだけに終るだろう。アイスキュロスは自分が実際に生活していたアテナイ市民国家のうちに、正義の原則が実現されつつあることを信じ得たし、またその希望をもつことができたのであろう。しかし『エレクトラ』のエウリピデスは、もうアイスキュロスほど幸福ではなかった。……。
本を読むったって、本を読むだけに終ったんじゃ、つまらないでしょう。ウェーバーについて詳しく知ったって、ウェーバーのように考える考え方、なるほどさすがにウェーバーを長年読んできた人だけあってよく見えるものだなあ、ウェーバー学も悪くないと思わせる見方を身につけなければ仕方がない。……。
……。しかし、主よ、我々は汝の「小さい群」(ルカ傳一二の三二)である。我々を汝のものとして所有し給へ。汝の翼を擴げ給へ。そして我々をしてその下に逃れしめ給へ。汝は我々の榮光であり給へ。我々は、汝故に愛され、汝の御言が我々に於て恐れられることを望むのである。汝が咎め給ふにも拘らず人間に稱讃されようと欲するものは、汝が審き給ふとき、人間によつて辯護されず、汝が罪を定め給ふとき、救ひ出されないであらう。しかし、「罪人がその魂の欲望を稱められ、不義をなすものが祝される」(詩篇一〇の三)のではなくして、或る人が汝の彼に與へ給うた或る贈物の故に稱められるとき、彼がその故に稱められる贈物をもつことよりも、彼が稱められることを喜ぶなら、彼は、たとひ稱められても汝によつて咎められるのである。そして實際、彼を稱めたものは、稱められたものに優るのである。前者は人間に於ける神の贈物を喜び、後者は神の贈物よりも人間の贈物を喜ぶのであるから。
これはdlの濫用なのではないか。と云ふ意見があるらしいが、「濫用」つて何だらう。
<p>現在位置:<a href="/index.html">ホーム</a> <img src="/shared/images/breadcrumbs.gif" width="16" height="12" alt="の中の" /> ニュース</p>なんてやつてゐる。
この是非が議論になりました。との事だが、みんなすぐ是非と言ふんだ。
むろん、他人のつまらない咎(といってもぼくはその話は数十年前に読んだ記憶があるんだが)を嬉しそうに責め立てる人は往々にして、自分のミスを指摘されると「それは揚げ足取りだ」といってダブルスタンダードを適用するのが通例だが、この人がその手の輩でない事を信じたいな。
ラブクラフトを愛しているか何うか、なんて、たかだか趣味の問題で、本氣になつて喧嘩するやうなものではないから、居丈高に
どうだいだの
首をくくりたくはならないのかねだのと言ふやうなものではないだらう。勿論、そもそものhttp://twitter.com/#!/serpentinaga/status/77244668089352192の人の「愛」が異常なものであるわけで、山形氏は「それに附合つてゐるだけ」の積りなのだらうが、何時も何時も山形氏は何うでも良いところで頭の良さを發揮してゐるから、當人は案外何うでも良いとは思つてゐないのかも知れない。
わたしはまた、律法と預言者との旧約聖書を、以前はそれが不合理と思われていたような見地から、わたしに読むよう勧められなかったのを喜んだ。わたしは、あなた(神)の聖職者たちがわたしの想像していたように考えていると思って、かれらを非難したが、しかしかれらは事実、そのように考えていなかったのである。……。
しかしわたしは、もうこのころからカトリックの教え方を好んでいた。というのも、それは証明されないものを、証明できても誰にでもできるとは限らないものを、あるいは全く証明できないものを、信ぜよ、と命ずる際に、カトリック教会のほうがマニ教徒よりも穏健で公明正大である、とわたしは感じたからである。しかしマニ教徒にあっては僣越にも学問を鼻に掛け、われわれの軽信をあざ笑うが、その反面には多くの相矛盾する作り話を、ただ証明できない故に、信ぜよと命ずるのである。
わたしの神よ、わたしの慈悲よ、あなたはあの善いはしため(アウグスティヌスの母)に――その胎内にあなたは、わたしをおつくりになったが――なお次のような偉大な賜物をお与えになった。すなわち相互の理解がなくて仲の悪い人たちがあれば、彼女は自分に出来うる限り、その調停役を引受けた。そして彼女は、相争う双方より、心にうっ積したむかつくような怒りから吐き出された大変な嫌味を聞いた。その時、積り積った憎しみが、その場にいない敵対女へのののしりとなって、女友だちの面前で発散される時、いがみ合う二人の仲なおりに役立つことでなければ、一方の言ったことを他方に告げなかった。
悲しいことに、恐ろしい罪の疫病が広くまん延しているのにかかって、互に敵意をいだいている人たちに、その相手が敵意から発した言葉を伝えるだけではなく、当人が実際に言わなかったことまで付け加えるようなものが無数にあるということを知らなかったら、わたしは母の徳をささいなものとみなしたであろう。これと反対に真実に人を愛する者は、悪いことばで人びとの敵意をおこったり、憎んだりせず、むしろ善いことばで人びとの敵意を消すように努めなければならない。わたしの母もこんな者であったが、それは最も内的な教師であるあなたが、心情の学校において彼女をお教えになったからである。
……。
自由と正義が今日のように分裂してしまったのは、大ざっぱにいうとフランス革命の三大原則がバラバラになった結果だと思われます。フランス革命は自由、平等(あなたの言葉を使えば正義)そして博愛をもって三大原則としました。しかし、そのうち自由と平等とは、博愛にくらべて非常に抽象的な観念でした。そこで、こうした抽象概念を実現するためには「万人すべてこれ兄弟」という具体的な博愛の精神を中心にして、この中心にこれらをしっかりと結びつけておかねばならなかったのです。ところが十九世紀における個人主義や功利主義のために、博愛精神が次第に消滅し、自由と平等の観念はお互いに離ればなれとなり、結局、今日のような「自由を主張する陣営」と「平等を主張する陣営」とが生ずるようになったのです。
こうして、巨大な二つの陣営が、国民を根本的に支配しようと都合のいい宣伝をすればするほど、国民は自分たちだけが真理を実現しようとしているのに、相手側は真理の名のもとに、権力欲や所有欲を満足させているにすぎないと考えるようになりました。これこそ両陣営の思うツボなのです。が、よく考えてみると、この先入観ほど人々の不信をつのらせているものはありますまい。
わたしはこうした不信の念が、各国民の間に生ずることを、ひそかに恐れていました。しかし、それは第一次大戦をきっかけとして、はっきりあらわれたのです。つまり、このころから立場を異にする人々の間の「純粋な対話」が困難になってきたのです。と同時に、自分と相手との間に深淵が生じ、それに橋をかけることが不可能になってしまいました。わたしは、三十年も前から、これこそ人類の運命を決する一大問題と考え、機会あるごとに「人類の将来は対話を復活させるか否かによって決定される」と叫び続けてきたのです。
しかし、残念ながら、今日こうした不信の念は人々の骨の髄まで――つまり人間の実存にまで――達しています。現代人は他人の言行がすべて、本質的に、また必然的に、うそのかたまりであると信じております。たとえば、他人が人生問題や社会問題を論ずると、われわれは相手がほんとうのことをいっているかどうかを考えずに、どういうつもりでそんなことをいっているのかと最初に考えてしまうのです。一見、いかにも客観的な他人の主張には、きっとかれらに都合のよい考えがかくされているに違いない。それをいち早く見破って、相手の仮面をはぐほうが相手の話をきくより大切だと考えるわけです。現代人の交わりは、個人であろうと集団であろうと、ほとんどこうした腹のさぐり合いに終始しています。このように、相手の仮面をはぎとろうとしてやっきになればなるほど、対話は沈黙に変わり、良識は狂気に変わってしまいます。そして、われわれは相手が仮面だけで、もはや人間として存在していないのではないかと思うようになります。この不信の念がさらにこうずると、相手の存在ばかりでなく、自分の存在――あるいは人間一般の存在――にまで不信をいだくようになります。これこそ、現代人がかかっているもっとも重い病気なのです。この病気が世界平和の実現を妨げているのです。
……。
さて、わたしがたびたび触れてきました「純粋な対話」は、われわれが相手を尊重し、相手の身になって話し合うときはじめて成立します。互いに自分に都合のよいことばかり話していたのでは、絶対に対話は行われません。わたしがイデオロギーかぶれした政治家にあまり期待しない理由はまさにここにあるのです。かれらはいままでイデオロギーを利用して自国と他国とを対話のできない状態――つまり冷戦の状態――に追いやり、その間に国家の中央集権化をはかり、大衆を動員して、あたらしい戦争の準備をととのえました。第二次大戦の悲劇はヒトラーがかもし出した「無言の危機」から生まれたのです。それが終わって十数年、政治家の間ではまだ真実の対話が行われていないようです。この息のふさがるような緊迫した世界情勢にあって、米ソ両国間に核軍備競争を抑制する一つの措置がとられたのは、世界平和のため大いに喜ぶべきことと思います。しかし、この東西両国間の交渉がわたしのいう「純粋な対話」にまで発展するかどうか、それはもっと先にならなければわからないでしょう。この際わたしが心から望みたいのは、世界の国々の代表者が自国の押し売りをやめて、もっとおだやかに相手を理解し、利害が対立したときも、できるかぎり共通の立場や利益を見いだそうと努力することです。このような努力も口先だけならきわめて簡単ですが、実際となると容易なことではありません。個人と個人の間でさえ容易ではないのですから、国と国との間ではまず至難といってよいでしょう。しかし、われわれはけっして希望を失つてはなりません。絶望は最大の罪です。絶望はわれわれにとってなんのプラスにもなりません。
……。