制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
野嵜健秀 (nozakitakehide) on Twitter:野嵜健秀(@nozakitakehide) - Twilog
テーマ・主に扱ふ事柄・ネタ
日本人論、政治主義批判、國語國字改革批判、虹裏(img)、深夜アニメ、古本、謎キャラクターによるコント、蟲、クリーチャーのイラストとまんが、論理。粘着アンチ問題。その他。

闇黒日記


平成二十三年六月二十九日
とかげがばけつに落ちて、水の中でもがいてゐた。手で掬つてあぢさゐの花の上に置いてやつたら、ぢつとして、腹だけ膨らませたり凹ませたりしてゐる。
平成二十三年六月二十九日
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平成二十三年六月二十八日
HJ文庫 第5回NJ大賞 銀賞 兄ラブ妹&国宝級美少女と贈る平成文学の金字塔!? 僕の妹は漢字が読める
HJ文庫 新刊「僕の妹は漢字が読める」
僕の妹は漢字が読める :: ActiBook

平成二十三年六月二十七日
今頃になつて『諸君! の30年 1969〜1999』(一九九九年十二月二十日第一刷・二〇〇〇年一月十五日第二刷文藝春秋)を讀んでゐるが、今見るとこれがまたえらく良く出來た本で、驚いてゐる。買つた時は精神状態が最惡でまるでまともに認識してゐなかつたが、當時としては途轍もなく貴重な本だつた筈。今の麗澤大学出版会版の評論集に初めて再録されたが當時は全く讀めなかつた福田恆存「反核運動の欺瞞」。あつちからこつちに話が飛びまくる「散漫な晩年の福田恆存の文章」だが、末尾の古代から明治までの、それまでに習つた歴史が、自分をも含めて同時存在してゐるといふ幻覚の記述で注目すべきものである。「日本人にとって天皇とは何か」(福田恆存・林健太郎・司馬遼太郎・山崎正和)は、前年に乃木將軍の評價をめぐつて決定的に對立した司馬氏と福田氏の直接對決。「日本の傳統」について、飽くまで「日本」の範圍だけで語らうとする司馬氏に、しかし明治は「近代化」の時代でもあつたと福田氏が激しく抵抗してゐる。ほかに清水幾太郎「関東大震災がやってくる」を選んでゐるのが面白い。清水幾太郎は、先日、東北大震災がらみでちくま文庫から『流言蜚語』が復刊されたが、かつてのオピニオンリーダーが今や「地震災害への警鐘を鳴らし續けた人物」としてのみ記憶されてゐるのである。既に十年以上前の本書でもさうした傾向がはつきり表れてゐる。全て編輯者の見識である。
平成二十三年六月二十七日
ソニー・マガジンズ、“キュゥべえデザイン”の「魔法少女まどか☆マギカ×EXILIM」 - デジカメWatch
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平成二十三年六月二十五日
田中美知太郎「自己を語る」(『古典的世界から』中央公論社)

自己を語るとはどんなことなのか。それは別に珍しいことではないとも言へる。身の上ばなしをしたり、身邊雜事を語つたりすることは、日常普通の經驗だからである。しかしこれが果して自己を語るといふことなのであらうか。かういふ話を聞く時、私たちは相手の身勝手な言ひわけや、あるひは身勝手と思はれはしないかといふ別の言ひわけなど、一般に主觀的な夾雜物をむしろうるさく思ふ。出來るなら、さういふものすべてを拔かして貰ひたいと思ふ。そして私たちのこの要求に應ずるかのやうに、自己を出來るだけ客觀的に語る方法が工夫されてゐる。それは丁度かの雄辯家たちが、自己の意見を聽衆に徹底させるために、自説を押しつけるやうな態度を出來るだけ囘避するのに似てゐる。雄辯家のこの技法が、言葉の本來の意味に於けるレトリックといふものなのである。かくて、淡々として自己を語るといふやうなことも、實は文章法(レトリック)の上の心掛けにつきるのではないかとも疑はれる。

しかしながら、このやうにして自己を語るのが果して本當に自己を語るといふことなのであらうか。私たちはこのやうなものを和歌、俳句、隨筆、私小説などのうちに數多く見出す。否、これらはいづれも同一の根源から生れてゐるとも言へる。そして人々は淡々として自己を語るこのやうな心境を何か尊いものに考へてゐる。つまり悟りといふやうなものをそこに見ようとするのであらう。しかしながら、このやうな悟りはレトリックの勉強からも生れて來る。俳句は床屋の親方が嗜むものだと言はれてゐる。同好の士はこれをよろこぶが、しかしそこに語られてゐる自己は一向につまらないものが多い。素朴に自己の心をうたつたなどといふことを有難がるけれども、しかしそこに見出されるのは世俗の人情だけで、別に自己といふほどのものはないやうに思はれる。從つて、素朴とか淡々とかいふやうな、うたひぶりだけで區別するより外はない。つまり重點は、語られる自己にはなくて、たゞ語り方にあると考へられる。悟りがレトリックの領域にあることは疑へないやうである。そしてこのやうなものが果して自己を語るといふことの本來なのかどうか、私たちはこれを既に疑問として來たのである。

……。


平成二十三年六月二十五日
中島敦「わが西遊記 悟浄出世」(福永武彦編『近代文学鑑賞講座18 中島敦・梶井基次郎』角川書店)

「どうもへんだな。どうも腑に落ちない。分らないことを強ひて尋ねようとしなくなることが、結局、分つたといふことなのか? どうも曖昧だな! 餘り見事な脱皮ではないな! フン、フン、どうも、うまく納得が行かぬ。とにかく、以前程、苦にならなくなつたのだけは、有難いが……」


平成二十三年六月二十三日
筑摩書房 流言蜚語 / 清水 幾太郎 著
平成二十三年六月二十三日
「Firefox 5」正式版が公開、今後は6週間おきに新バージョンに -INTERNET Watch
アドオン開發者への對應が親切になるらしい。
平成二十三年六月二十三日
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平成二十三年六月二十一日
米Google、大英図書館が所有する25万冊の書籍をデジタル化 -INTERNET Watch

平成二十三年六月十九日
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平成二十三年六月十七日
「國民運動としての國語國字問題」 言わずもがな

平成二十三年六月十六日
CiNii 論文 - 或る文學者の覺書 : 福田恆存素描
CiNii 論文 - 文章の作法に關する一つの考察

平成二十三年六月十四日
:::: 株式会社 角川学芸出版【学ぶ生徒会フェア】::::
何やつてゐるんだ角川学芸出版……。
平成二十三年六月十四日
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平成二十三年六月十二日
ちよつと懷かし過ぎるものが出て來たので。
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先生堂古書店はかつて横濱にあつた古本屋さん。何軒か系列の店があつたが、俺が通つたのは伊勢佐木町オデヲンビルに入つてゐた店。一般の本は勿論澤山あつたが、早川の銀背が大量に並んでゐたり、サンリオSF文庫がちよろちよろあつたりして、SFマニア志願の高校生にはとても樂しい店だつた。また、古めのまんが・絶版まんがが矢鱈豐富だつたのも覺えてゐる。値段が可なり高く、手が出せなかつたのは殘念。吾妻ひでおの二日酔いダンディーを再録した大都社のコミックヒーローを何册か買つた。今ある伊勢佐木書林は、もと先生堂に勤めてゐた店員さんが新たに起した店との事(http://yomo.shumpu.com/?p=3009)。
平成二十三年六月十二日
田中美知太郎『古典への案内――ギリシア天才の創造を通して――』

身をほろぼし、傷つける「苦難」(パトス)は、見るに堪えぬものであり、われわれの人情を動かすことの大なるものであるが、しかしそれだけではまだ悲劇にならないのである。「苦難」が「正義」の問題を含むことによって、その「おそろしさ」は真におそるべき意味をもち、苦難は「いたましい」限りのものとなる。そしてこの「おそろしさ」と「いたましさ」を通じて、「苦難」は「悲劇」にまで高められるというのが、アリストテレスの眼を通して見たギリシア悲劇の理解の一つの可能性であった。しかしアイスキュロスの三部作は、正義の問題に一つの解決を与えることによって、アリストテレスの好みとは逆に、めでたし、めでたしの終りをもち、市民たちの歓呼の大合唱が、この芝居を閉じた後までも、圧倒的な力をもって、いつまでもいつまでもこだまするかのように感じられるのである。ギリシア悲劇とは何か。それは学者のこまかい規定の網の目からもこぼれて出てしまうようなもの、何かこの荘厳なものが正体なのでないか。それにしても、アイスキュロスは幸福な作家だったのかも知れない。いうまでもなく正義の問題は、文学の作品あるいは舞台の上だけで解決されてしまう問題ではないのである。それはより多く国家社会の実際問題なのである。舞台の上で、どんなにめでたい解決があったにしても、われわれが現実に生きている国家社会のうちでは、その解決らしいものがなにひとつないとしたら、結局は空々しい感じをのこすだけに終るだろう。アイスキュロスは自分が実際に生活していたアテナイ市民国家のうちに、正義の原則が実現されつつあることを信じ得たし、またその希望をもつことができたのであろう。しかし『エレクトラ』のエウリピデスは、もうアイスキュロスほど幸福ではなかった。……。

平成二十三年六月十二日
CiNii - 木更津工業高等専門学校紀要
ニュー・ケンブリッジ・シェイクスピアに編者の一人、クイラ・クーチが書いた「イントロダクション」を、翻譯して載せてゐる。第42號と第44號。
他にも、テーヌの英文學史からシェイクスピア論を譯出したり、いろいろ興味深い試みをしてゐる。

平成二十三年六月十一日
JAF|エコ&セーフティ|危険予知・事故回避トレーニング

平成二十三年六月十日
計画停電情報 | 東京電力
平成二十三年六月十日
BIZARRE BOOKS OVERDRIVE!
まんが本のリスト。
平成二十三年六月十日
コロネくん:時代の斜めうしろ

平成二十三年六月九日
アップル - OS X Lion - 250を超える新機能をすべてご紹介します。
WWDC 2011基調講演リポート(2):PCのあり方を再定義する「OS X Lion」 (1/4) - ITmedia +D PC USER
平成二十三年六月九日
内田義彦『読書と社会科学』(岩波新書・黄版288)

本を読むったって、本を読むだけに終ったんじゃ、つまらないでしょう。ウェーバーについて詳しく知ったって、ウェーバーのように考える考え方、なるほどさすがにウェーバーを長年読んできた人だけあってよく見えるものだなあ、ウェーバー学も悪くないと思わせる見方を身につけなければ仕方がない。……。


平成二十三年六月八日
聖アウグスティヌス・服部英次郎譯『告白』中卷(岩波文庫)第十卷第三十六章

……。しかし、主よ、我々は汝の「小さい群」(ルカ傳一二の三二)である。我々を汝のものとして所有し給へ。汝の翼を擴げ給へ。そして我々をしてその下に逃れしめ給へ。汝は我々の榮光であり給へ。我々は、汝故に愛され、汝の御言が我々に於て恐れられることを望むのである。汝が咎め給ふにも拘らず人間に稱讃されようと欲するものは、汝が審き給ふとき、人間によつて辯護されず、汝が罪を定め給ふとき、救ひ出されないであらう。しかし、「罪人がその魂の欲望を稱められ、不義をなすものが祝される」(詩篇一〇の三)のではなくして、或る人が汝の彼に與へ給うた或る贈物の故に稱められるとき、彼がその故に稱められる贈物をもつことよりも、彼が稱められることを喜ぶなら、彼は、たとひ稱められても汝によつて咎められるのである。そして實際、彼を稱めたものは、稱められたものに優るのである。前者は人間に於ける神の贈物を喜び、後者は神の贈物よりも人間の贈物を喜ぶのであるから。

平成二十三年六月八日
6月8日〜9日にウェブサイトが見られなくなったら?--「World IPv6 Day」の影響や対処方法 - CNET Japan
平成二十三年六月八日
書店と出版のはなし
平成二十三年六月八日
ぷてろんワールド 〜蝶の百科事典・図鑑〜

平成二十三年六月六日
第1回アクセシビリティBAR〜初夏のパンくず祭 | 水無月ばけらのえび日記
未だにみんな「クズ」「クズ」言つてゐて何うかと思ふがそれは兎も角。
日本郵政ホーム‐日本郵政
サイト内での「現在位置」を示すナヴィゲーションの記述を、dl要素でマーク附けしてゐる。これはdlの濫用なのではないか。と云ふ意見があるらしいが、「濫用」つて何だらう。
Webアクセシビリティのポータルサイト『Infoaxia(インフォアクシア)』
<p>現在位置:<a href="/index.html">ホーム</a> <img src="/shared/images/breadcrumbs.gif" width="16" height="12" alt="の中の" /> ニュース</p>なんてやつてゐる。この是非が議論になりました。との事だが、みんなすぐ是非と言ふんだ。
どちらも見識で、それぞれ「理」がある。個人的にはどちらも「あり」だと思ふ。
特に後者の記述は、p要素=段落を示す要素としてマーク附けするのなら至當。ただ、問題を指摘するならば、段落としてマーク附けするのだから、事前に文章をきちんと記述しておくべきであり、文章ならば句點が絶對に必要だ。
文章なのに句點がない、と云ふ異常なp要素がウェブには大量に存在する。をかしいと何うして誰も思はないのだらうか。やはり理系の人間はセンスがをかしい。
あと、ばけらさんがアンカーのテキストを、リンク先の文書のタイトルそのままではなく、恣意的に書換へてゐるのが氣になる。ばけらさんは必ずこれをやるが、何故なのだらう。大變疑問。
平成二十三年六月六日
http://cruel.org/other/rumors2011_1.html#item2011060501

むろん、他人のつまらない咎(といってもぼくはその話は数十年前に読んだ記憶があるんだが)を嬉しそうに責め立てる人は往々にして、自分のミスを指摘されると「それは揚げ足取りだ」といってダブルスタンダードを適用するのが通例だが、この人がその手の輩でない事を信じたいな。

俺は山形浩生氏は頭が良い人だと思つてゐるが、このやうな「法則」を不用意に口にする「輕さ」は問題だと思ふ。喜六郎のやうな輕薄な人間が、この手の「法則」を目にすると大喜びして、「野嵜は他人を批判するが、自分が批判されると揚げ足取りだと言ってダブルスタンダードを適用する」とか言出すからだ。ラブクラフトを愛しているか何うか、なんて、たかだか趣味の問題で、本氣になつて喧嘩するやうなものではないから、居丈高にどうだいだの首をくくりたくはならないのかねだのと言ふやうなものではないだらう。勿論、そもそものhttp://twitter.com/#!/serpentinaga/status/77244668089352192の人の「愛」が異常なものであるわけで、山形氏は「それに附合つてゐるだけ」の積りなのだらうが、何時も何時も山形氏は何うでも良いところで頭の良さを發揮してゐるから、當人は案外何うでも良いとは思つてゐないのかも知れない。
http://cruel.org/other/rumors2011_1.html#item2011051602の邊の經濟の話にしても、山形氏は、ふざけてゐるやうに見せかけながら結構本氣で語つてゐて、やつぱり山形氏もか、と俺は思つた。經濟の話は「所詮、經濟の話に過ぎない」のだが、頭の良い山形氏も、經濟は「所詮」とか「過ぎない」とか言つて良いものだとは思つてゐまい。
他人の誤字や事實誤認をつついて遊んでゐる人が、自分が誤字や事實誤認をやらかして突込まれれば、成程それは「はづかしい」。けれども、人間の價値觀のやうな大問題について話をして、他人のをかしな價値觀を批判してゐるならば、そこで「誤字やらかしたなやーいやーい」とか言つて囃すのは、それは揚げ足取りにしかならない。こんな事は火を見るより明かなわけだが、それを山形氏はまるで考へてゐない。頭の良い人も、價値觀それ自體の考察を屡缺き、結果として表面的な言葉のやり取りで頭の良さを發揮するに留まつてゐる事がある。大變勿體ないと思ふ。
ところが山形氏の「輕さ」は、何うも意識的に選び取られた態度のやうで、當人、大變良い態度だと思つてゐるらしいのだ。深刻な顏をして間拔けな事を言ふよりは、間拔けな面をしながらまともな事を言つた方が格好いい、と云ふ事らしい。實に頭の良い態度だ。しかし、このやうな「頭の良い態度」は、頭の惡い人間が便利だと思つて實に屡眞似をして、それが結構世間樣には通用してしまふ、安易な態度でもある。
平成二十三年六月六日
「ブーメラン」と云ふ言葉がウェブで大流行したのは一つの茶番だつた。この言葉が大流行したと云ふのは、所詮「人を批判してゐる人間を叩き潰すのに便利に使へる文句」程度にしか認識されず、氣樂に使はれ捲つただけだつた事を意味してゐる。そのせゐで、自分にとつてまるで切實みのない、何うでも良い事を言ふのが、「頭の良い證據」とされ、尊敬を集めるやうになつた事は、不幸な結果である。實感のない話・何うでも良い政治や經濟の話を、眞面目な顏をしてやらかす愚行を、愚行と咎められずに、誰もが威張つて出來るやうになつてしまつた。そして、宗教や道徳と云ふ人間の生の本質に關る問題については、全ての發言者が「ブーメラン」と云ふ用語で潰され、ウェブでは一切話せなくなつて締つた。大變な不幸であると思ふが、皆喜んでゐるらしい。自分が咎められなくなるなら、自分のプライドだけは守られるわけで、世の中が何うなつても構はないと云ふわけだ。

平成二十三年六月五日
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平成二十三年六月五日
聖アウグスチヌス著・池田敏雄訳編『告白録―抄訳と解説―』(ユニヴァーサル文庫)p.92

わたしはまた、律法と預言者との旧約聖書を、以前はそれが不合理と思われていたような見地から、わたしに読むよう勧められなかったのを喜んだ。わたしは、あなた(神)の聖職者たちがわたしの想像していたように考えていると思って、かれらを非難したが、しかしかれらは事実、そのように考えていなかったのである。……。

平成二十三年六月五日
聖アウグスチヌス著・池田敏雄訳編『告白録―抄訳と解説―』(ユニヴァーサル文庫)p.94

しかしわたしは、もうこのころからカトリックの教え方を好んでいた。というのも、それは証明されないものを、証明できても誰にでもできるとは限らないものを、あるいは全く証明できないものを、信ぜよ、と命ずる際に、カトリック教会のほうがマニ教徒よりも穏健で公明正大である、とわたしは感じたからである。しかしマニ教徒にあっては僣越にも学問を鼻に掛け、われわれの軽信をあざ笑うが、その反面には多くの相矛盾する作り話を、ただ証明できない故に、信ぜよと命ずるのである。

平成二十三年六月五日
聖アウグスチヌス著・池田敏雄訳編『告白録―抄訳と解説―』(ユニヴァーサル文庫)p.156

わたしの神よ、わたしの慈悲よ、あなたはあの善いはしため(アウグスティヌスの母)に――その胎内にあなたは、わたしをおつくりになったが――なお次のような偉大な賜物をお与えになった。すなわち相互の理解がなくて仲の悪い人たちがあれば、彼女は自分に出来うる限り、その調停役を引受けた。そして彼女は、相争う双方より、心にうっ積したむかつくような怒りから吐き出された大変な嫌味を聞いた。その時、積り積った憎しみが、その場にいない敵対女へのののしりとなって、女友だちの面前で発散される時、いがみ合う二人の仲なおりに役立つことでなければ、一方の言ったことを他方に告げなかった。

悲しいことに、恐ろしい罪の疫病が広くまん延しているのにかかって、互に敵意をいだいている人たちに、その相手が敵意から発した言葉を伝えるだけではなく、当人が実際に言わなかったことまで付け加えるようなものが無数にあるということを知らなかったら、わたしは母の徳をささいなものとみなしたであろう。これと反対に真実に人を愛する者は、悪いことばで人びとの敵意をおこったり、憎んだりせず、むしろ善いことばで人びとの敵意を消すように努めなければならない。わたしの母もこんな者であったが、それは最も内的な教師であるあなたが、心情の学校において彼女をお教えになったからである。


平成二十三年六月三日
マルティン・ブーバーと野口啓祐との往復書簡、マルティン・ブーバー「野口教授へ」(『対話の倫理』あとがき)

……。

自由と正義が今日のように分裂してしまったのは、大ざっぱにいうとフランス革命の三大原則がバラバラになった結果だと思われます。フランス革命は自由、平等(あなたの言葉を使えば正義)そして博愛をもって三大原則としました。しかし、そのうち自由と平等とは、博愛にくらべて非常に抽象的な観念でした。そこで、こうした抽象概念を実現するためには「万人すべてこれ兄弟」という具体的な博愛の精神を中心にして、この中心にこれらをしっかりと結びつけておかねばならなかったのです。ところが十九世紀における個人主義や功利主義のために、博愛精神が次第に消滅し、自由と平等の観念はお互いに離ればなれとなり、結局、今日のような「自由を主張する陣営」と「平等を主張する陣営」とが生ずるようになったのです。

こうして、巨大な二つの陣営が、国民を根本的に支配しようと都合のいい宣伝をすればするほど、国民は自分たちだけが真理を実現しようとしているのに、相手側は真理の名のもとに、権力欲や所有欲を満足させているにすぎないと考えるようになりました。これこそ両陣営の思うツボなのです。が、よく考えてみると、この先入観ほど人々の不信をつのらせているものはありますまい。

わたしはこうした不信の念が、各国民の間に生ずることを、ひそかに恐れていました。しかし、それは第一次大戦をきっかけとして、はっきりあらわれたのです。つまり、このころから立場を異にする人々の間の「純粋な対話」が困難になってきたのです。と同時に、自分と相手との間に深淵が生じ、それに橋をかけることが不可能になってしまいました。わたしは、三十年も前から、これこそ人類の運命を決する一大問題と考え、機会あるごとに「人類の将来は対話を復活させるか否かによって決定される」と叫び続けてきたのです。

しかし、残念ながら、今日こうした不信の念は人々の骨の髄まで――つまり人間の実存にまで――達しています。現代人は他人の言行がすべて、本質的に、また必然的に、うそのかたまりであると信じております。たとえば、他人が人生問題や社会問題を論ずると、われわれは相手がほんとうのことをいっているかどうかを考えずに、どういうつもりでそんなことをいっているのかと最初に考えてしまうのです。一見、いかにも客観的な他人の主張には、きっとかれらに都合のよい考えがかくされているに違いない。それをいち早く見破って、相手の仮面をはぐほうが相手の話をきくより大切だと考えるわけです。現代人の交わりは、個人であろうと集団であろうと、ほとんどこうした腹のさぐり合いに終始しています。このように、相手の仮面をはぎとろうとしてやっきになればなるほど、対話は沈黙に変わり、良識は狂気に変わってしまいます。そして、われわれは相手が仮面だけで、もはや人間として存在していないのではないかと思うようになります。この不信の念がさらにこうずると、相手の存在ばかりでなく、自分の存在――あるいは人間一般の存在――にまで不信をいだくようになります。これこそ、現代人がかかっているもっとも重い病気なのです。この病気が世界平和の実現を妨げているのです。

……。

さて、わたしがたびたび触れてきました「純粋な対話」は、われわれが相手を尊重し、相手の身になって話し合うときはじめて成立します。互いに自分に都合のよいことばかり話していたのでは、絶対に対話は行われません。わたしがイデオロギーかぶれした政治家にあまり期待しない理由はまさにここにあるのです。かれらはいままでイデオロギーを利用して自国と他国とを対話のできない状態――つまり冷戦の状態――に追いやり、その間に国家の中央集権化をはかり、大衆を動員して、あたらしい戦争の準備をととのえました。第二次大戦の悲劇はヒトラーがかもし出した「無言の危機」から生まれたのです。それが終わって十数年、政治家の間ではまだ真実の対話が行われていないようです。この息のふさがるような緊迫した世界情勢にあって、米ソ両国間に核軍備競争を抑制する一つの措置がとられたのは、世界平和のため大いに喜ぶべきことと思います。しかし、この東西両国間の交渉がわたしのいう「純粋な対話」にまで発展するかどうか、それはもっと先にならなければわからないでしょう。この際わたしが心から望みたいのは、世界の国々の代表者が自国の押し売りをやめて、もっとおだやかに相手を理解し、利害が対立したときも、できるかぎり共通の立場や利益を見いだそうと努力することです。このような努力も口先だけならきわめて簡単ですが、実際となると容易なことではありません。個人と個人の間でさえ容易ではないのですから、国と国との間ではまず至難といってよいでしょう。しかし、われわれはけっして希望を失つてはなりません。絶望は最大の罪です。絶望はわれわれにとってなんのプラスにもなりません。

……。

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