個人主義の勝利と、古典主義の勝利とは要するに一つのものだ。さて、個人主義の勝利は、個人性の抛棄の中にあるのだ。古典主義的なスタイルの特質には、自己滿足を犧牲にして得られないものは一つもない。今日我々が最も賞讃してゐる畫家も文學者も、皆夫々一つの樣式を持つてゐる。ところが古典主義の偉大な藝術家は樣式(マニエール)を持つまいと努力してゐる。彼は凡庸たらんと努力してゐるのである。もしも努力なしにこの凡庸さに到達したのであつたなら、それは、お氣の毒だが大藝術家ではないといふことになる。古典主義の作品は、彼の浪漫主義を制御したといふ理由に於て、はじめて強く美しいものとなり得るのだ。私は二十年前に次のやうなことを書いたことがある。偉大な藝術家はただ一つの心遣ひしか持つてゐない。即ち、出來るだけ人間的にならうといふこと――もつと適切に言へば、凡庸たらんとすることである。しかも、驚嘆すべきことは、かくの如くして彼は最も個性的となり得るのである。ところで、自分自身をまもるために、人間(ユマニテ)性をのがれる者は、ただ特殊な、奇異な、不完全なものとなることしか出來ないのだ……ここに福音書の言葉を引くべきであらうか?――さうだ、引いてみることにしよう。なぜなら、その意味を曲解することになるとは考へないから。
己の生命(個人的生命)を救はんとする者はこれを喪ふべし。されどその生命を喪はんとする者はこれを救ひ得べし(ギリシャ語を更に正確に飜譯すれば眞にこれを溌剌たらしめんとなる。)
文字が生まれるのは、いわゆる神話時代です。それで文字は本来、非常に神聖なものですからね。ヒエログリフというエジプトの神聖文字は王様の墓にしか書いてない。文字は、本来は容易に解読させないものなんですね。神話というものは、歴史より遠い昔にあったんではなく、歴史が自覚されてから、その歴史を神聖化するために生まれるんです。神話が生まれるのは新しいんです。それ以前はいわゆる説話ですね。ばらばらのもの。神聖王朝が生まれると、それが統一的な大きな神話体系を持って、その王朝の神聖性を維持する一つの観念形態――イデオロギーになるわけですね。文字は、そういうものを背景として生まれてくる。だから、日本に文字がなかったっていうことは、一つは、日本が本当の神話時代に入らなかったということです。
オタマが小学生になる頃のPCを想像してみたが、驚くほど面白くなかった。2000年のPCと今のPCにそれほどの差がないことを考えると、5年経っても あんまり変わってないだろう。ただ、PCの使用範囲が劇的に小さくなっていることは想像できる。物を作る人以外はPCなんて使わなくなっているのではなかろうか。ipadみたいなものとiphoneみたいなものがPCの領域の大半を奪い取っていくように思われる。
あれ?すでにしてX201sがやってることはPCでなくてもできるぞ。web、メール、youtube、ニコ動はipodで足りるわけで、画面をHDMIで外に出せさえすればいい。今はまだできないが、たぶん次のipodではできるだろうし、今でもipad2を買えばすぐできる。そして、テレビとその録画は、HDD入りのテレビを買えばそれで済む。次のipodが出たらテレビと一緒に買えばX201sが私の所に帰ってくることになるのではなかろうか。それならPCを買う必要がない。9月までこのvaioで我慢してみようかな。
PentiumMがsuper pi激速な件。