わしは我國現在の混亂に際しても、利害に目を暗まされて、敵方の讚むべき特質や、味方の咎むべき特質を、無視するやうなことはなかつた。人々は自派に屬することは何でも尊崇する。だがわしは、味方の側になさるゝ事柄の大部分を、啻にゆるさぬだけではないのである。
良き書物は、我が主張に反することを説いて居ても、其美を失はない。議論の核心以外では、わしは不偏不黨嚴正中立であつた。此點に關してわしは自ら喜んで居る。何となれば、皆はあべこべをやつて失敗して居るからである。自分の怒りや恨みを問題の彼方にまで延長する人々は、(大部分の人たちがさうだが)、さうした感情は當の問題の外から出て居ること、寧ろ私の動機から發して居ることを、暴露する。……彼等は敵の主張のために怒つて居るのではない。それが萬人の利益、國家の利益を害ふと云つて怒つて居るのではない。唯それが彼等の私的利益を害する程度に應じて怒つて居るのである。正義や一般的理由を越えて、個々別々の感情を以て怒つて居るのである。
わしは我黨に利あらんことを翼ふが、さうならなくても決して激昂しない。わしは黨派の最も健全なものに強く執着するが、一般的理由を超えて個人的に、他の諸派の敵たるかに見られたくない。わしは次のやうな誤れる論法を、即ち、「彼はギュイズ公の人柄を賞讃して居るから同盟派だ。彼はナヴァール王の活動に感心して居る所を見るとユグノオだらう。彼は王樣の斯々の點を批議して居る。きつと謀叛をたくらんで居るにちがひない。」と云ふやうな論法を排斥する。……彼等の分別理性は、彼等の情熱の間に窒息し切つて居るのだ。彼等の判斷は、今ではもう、たゞたゞ己等にほゝ笑むもの、己等の主張を増長するものを、選ぶのみとなつた。……