吾にしたがひて物まなばむともがらも、わが後に、又よきかむかへのいできたらむには、かならずわが説にはなゝづみそ、わかあしきゆゑをいひて、よき考へをひろめよ、すべておのが人をゝしふるは、道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも、道をあきらかにせむぞ、吾を用ふるには有ける、道を思はで、いたづらにわれをたふとまんは、わが心にあらざるぞかし、
客、亭主、互の心持いかやうに得心して然るべきやと問ふ。易の云はく、いかにも互の心に叶ふがよし、然れども叶ひたがるはあしし。得道の客・亭主なればをのづから心よきものなり。未練の人、互に心を叶はふとのみすれぼ、一方道にちがへば、ともどもにあやまちするなり。さればこそ、叶ふはよし、叶ひたがるはあしし。
第二次大戰は後の「自由主義對共産主義」の東西冷戰のやうに、「帝國主義對自由主義」の戰ひではない。連合國、米英佛も植民地を持つてゐたのだし。
えーと、旧かなは図書館だけで読みたいのだが。――「現代仮名遣」は役所の中だけにして貰ひたいのだが。
勘違いして旧式の表現などを使うのは馬鹿のすることだって徒然草にも書いてあった。日本語は移り変わる言語なのですよ。――勘違ひして新式の表現を使ふのも馬鹿のする事だよ。あと、何ども言ふけれども、過去の表記が移り變つて成立したものなら「現代仮名遣」を認めてもいいよ。しかし、役所の通達に從つた、と云ふのは「移り変わる」事ではないから。この手の勘違ひをしてゐる人は非常に多い。
読みづらい!!みたいな感想を今になつてまたぞろ見せられるとは思つてもゐなかつた。何で讀み辛いなら默つてスルーしないの。
「欺瞞」つーか、政治学的に全世界古今東西そういうものだから。本人が善人か悪人かなんてのはあんまり関係ない。ちょっとナイーブすぎるぞ。もっと本を読め。――
そういうものだから何だと言ふのだらう。自然科學の發見だつて全部が全部
そういうものだからねえ。と言ふか、ナイーヴとか云ふ問題ではなく、善意であるべき左翼が惡意に滿ちた言動を平然と示してゐる事が矛盾だと言つてゐるのだが。左翼は善意で動いてゐるはずだろ。なんで惡意で人を攻撃する左翼がゐていいんだ。論者がナイーヴかとか、さう云ふ全く別の觀點からいちやもんをつけて何が面白いんだらう。
一個上の世界に行っちゃってるなあ。南京虐殺はあったって認めてるような物言い。その上で「戦時中ですよ?それが悪いことですか?」と言ってるように見える。そもそも認めないのであれば道徳云々は余計。露呈。――南京近傍で複數の「事件」があつたのは事實だけれども、それを全部ひつくるめて「南京近傍であつたから南京大虐殺」と言ふのはをかしいと、これは前々から言つてゐる事だ。「南京大虐殺」と言ふ事がそれ自體としてその論者の解釋がをかしい事を示してゐるんだよ。それにしても「上の世界」とか「下の世界」とか、俺には理解できない用語を平然と使ふ人が矢鱈ウェブに多い事には愕然とさせられる。ナイーヴな感想かも知らんけどさ。
左翼は、保守的な人を見た時、氣に入らないと思ふとその瞬間に、相手を「右翼」と言ひ、街宣車でがなつてゐる連中と一緒くたにする>自分が同等の政治的バイアスを持っている可能性を疑わない無邪気さん。――いや、自分にさう云ふ可能性がある事を自覺してゐるからこそ言つてゐるんだが。と言ふか、斯うやつてブーメランみたいに返して自分の事として反省しない人ぐらゐ無邪氣な人もゐないと思つて言つてゐるんだが。このブーメランも一つの典型的な反應のパターンだよな。ナンセンスな反應。
日本は負けたんです。旧かなで綴って復古を叫んでも、僕らが戦勝国の世に敗戦国の子孫として生きることに変わりはない。ならば、謝罪という形で敗戦の過去と決別する道を選ぶのも、おかしなことではないと思いますよ――については、或意味「その通り」であつて、それはそれで一つの立場として「あり」なのだけれども、だからこそ私は
敗戦国の子孫なら
敗戦国の子孫としての立場を辨へるべきだらうと言つてゐるわけです。謝罪するならするで徹底すればいいわけで、「謝罪したから免罪された」とか自分で思はなければ良い。永遠に「加害者」として「罪」の意識なり何なりの中に留まつてゐる事、東アジア共同体みたいな大きな事を言つたりせず、ひつそり世界だの片隅で縮こまつて細々とやつていく事、それが出來るなら謝罪でも反省でもしたらいいと。今みたいに大國意識を國民や政治家が持つてゐる状況では、「謝罪」やら「反省」やらはただの自己正當化にしかならないよ。そしてこの手の無邪氣な自己正當化が一番惡い。若し本氣で謝罪なり反省なりしたいなら、國ごと腹を切つて自殺でもすればいいわけだし、それが出來ないから談話だの何だのを出して滿足するなんてのが一番惡い。
また,『怪しい』と『妖しい』で異なるニュアンスを書き分けても,それが語彙の豊かさを示すのでしょうか。本来なら『あやしい』に代わる,耳で聞いて違いのわかる話し言葉を創造すべきなんです。そうした音声言語を豊かにする努力をはじめから怠り,安易に書き言葉の漢字に頼る風潮が,むしろ日本語をまずしくしてきたのではないでしょうか
「あやしい」のほかにか。「きっかいな」「得体の知れない」などと置き換えて話すということなのかな。そうした表現の工夫を,とくに話し言葉として,どれほど普段から気をつけているだろうか。ほとんどない。
『怪しい』と『妖しい』で異なるニュアンスを書き分けても,それが語彙の豊かさを示すのでしょうか、等と、感性の問題を、なぜ野村氏が偉さうに語れるのか。感性の話なんてしないでいただきたい。いや、感性の話で漢字の話をして良いのである、と言ふのなら、嘗て文藝家協會が漢字制限に反對のアピールをしたのを、漢字制限論者が「感性で話をするな」と潰しにかかつた歴史的事實について、ちやんと辯解なり、謝罪なり、してからにしてほしい。