制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
テーマ・主に扱ふ事柄・ネタ
日本人論、政治主義批判、國語國字改革批判、虹裏(img)、深夜アニメ、古本、謎キャラクターによるコント、蟲、クリーチャーのイラスト、論理。粘着アンチ問題。その他。

闇黒日記


平成二十二年二月二十八日
エズラ・パウンド『世界文学の読み方』(上田保訳・宝文館)

私には、生みだされて称賛に値する力としての文学の機能は、まさにそれが人間性を鼓舞して生活を持続させる点にあると主張できるように思う。すなわち、それは無理な緊張から精神をやわらげ、それを養うことにあるのであって、いいかえれば、本能の営養にほかならない。

このような考え方は、秩序の愛好者を悩ますかも知れない。あたかも、すぐれた文学がしばしば彼らを悩ますように。彼等はこのような考え方を危険で渾沌として動揺的だとみなしている。このような考え方を屈服させるために、彼等はいろいろとバカげた品のよくないきまり文句を吐いている。彼等は健康で元気なほとばしりの代りに、どろ沼や虚脱や大がかりな腐敗をつくりだそうとする。彼等はこのことを、純然たる愚劣さと同時に、文学の機能にたいする無理解から行っている。

平成二十二年二月二十八日
T.S.エリオット「批評の限界線」(綱淵謙錠譯。「無限」昭和三十五年冬季號所收)

……。ある詩を説明するには、それが何から作られているかとか、またそれを生み出した原因を調査することによって、それが可能であります。そして説明ということが理解への必要な準備かもしれません。しかしながらある詩を理解するためにもう一つ必要なことは、そしてほとんどの場合にそのほうがもっと必要だとあえてわたくしの言いたいことは、その詩の目指しているのは何であるかを把握しようと努力すべきことであります。いうならば――もうかなり昔にわたくしは幾分の確信をもってそういう用語を使ったことがありますが――その詩の生命力(エンテレキー)を把握すべく努力することであります。

おそらく批評の形式として、原因の説明に依存しすぎる危険の最も大きなものは評伝でありましょう。とくにその伝記作者が外的事実の知識を内的体験に関する心理学的臆測をもって補う場合であります。……。

平成二十二年二月二十八日
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平成二十二年二月二十八日
例の「人より理」「理より人」論爭を、誤解してゐる人がゐる。「野嵜は人より理を取ると言ひながら人を非難してゐる」とか非難して呉れてゐる人がゐるのだけれども、ならばその人は、「理より人」の人が野嵜の「理」の「矛盾」とやらを非難してゐる事を「をかしい」と非難しなければならない。もちろん、何れにしても誤解してゐるので、馬鹿のする事なのだけれども、馬鹿には自分が馬鹿だと絶對に自覺出來ないから何うしやうもない。
「こもちくんよりおもちくんの方が大きい」と言つた時、こもちくんは存在しなくなるのかねえ。
單純な話で、自分の立場を決めるのに、「仲良しの人がゐるから」とか「あいつの性格が氣に入らないから」とか言つてあつちの黨派に行つたりこつちに戻つたりとかする節操なしがゐて、さう云ふ人が「理より人」の人。そんな目の前の特定個人の事は兎も角として、自分の立場は、價値觀の問題として、ちやんと理性的に考へて、撰擇しようと云ふ人がゐて、それが「人より理」の人。――と、さう云ふ風な事を表現するのに、「理」だの「人」だのと言つたわけで、スローガン、或は記號に過ぎない。ただ、單なる記號なのに、その文字の意味を見てしまつて、コンテキストも文脈も無視して適當に話を繋げてしまつて罵倒なり嘲笑なりをするおつちよこちよいの人がゐて、さう云ふのを「聯想ゲーム」と言ふ。言葉の記號性なんて事は良く知つてゐるだらうに、相變らず「言霊」を信じてゐるんだらうか。保守的な俺より遙かに封建的だ。さう云ふ人が「自稱ブサヨ」氏とつるんでゐるのは、どつちも「理より人」の人だから。
平成二十二年二月二十八日
にゃもちくん、一箇月でえらく進化したな……。
平成二十二年二月二十八日
價値相對主義は「押附」で終了 - 鬱と躁の日々

改めて讀んで、徳保さん言つてゐることは、本當に「相對主義」だらうかと感じた。私は「相對主義」を知らない――知らないが「押附の自肅」をこんなに擴大解釋したものが本當の「相對主義」であるとは思へない。徳保さんの言ふ「相對主義」は便利な主義だ。「押附」と言へばそれで全て終る。

平成二十二年二月二十八日
「南京大虐殺はあつた派」の人もさうだけれども、俺のアンチの人も皆、自分が公正で客觀的な人間だと稱してゐる。「ブサヨ」だの何だのと言ふのも「レッテルを貼られてゐる」と云ふのであつて、當人に自分が左翼だと云ふ自覺がない。少くとも、左翼である事が偏つてゐるのだと云ふ自覺は無い。
斯うした、自分の立場を勘違ひしてゐる人が一番質が惡いのであつて、だからこそ彼等は「傍觀者」である自分が「公平」な立場から「冷静」かつ「客觀的」に評價をしてゐるので「正しい」事を言つてゐるのだと云ふ獨善に陷る。
俺は、政治的には明かに保守的な立場であり、考へ方も意識的に保守的であらうとしてゐるけれども、それは誰でもはつきり解る筈だ。連中と違つて俺は胡麻かし等全くしてゐない。

平成二十二年二月二十七日
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平成二十二年二月二十七日
うちの讀者の人には案外俺のおすすめ本を全然讀んでゐない人が多いやうな氣がする。
と言ふか、道徳や倫理の教科書・資料集に出て來る有名な人の本はチェックしようよ。日本の古典もさうだけれども、西歐の古典と呼ばれる本も讀んでおかなければ行けない。
最近の思想書しか讀んでゐない人は結構多いと思ふ。新しい思想書の類しか讀んでゐない人は、考へ方が異常に偏るものだ。古典しか讀まないでゐた方が、まだバランスのとれた考へ方になるから安全。
平成二十二年二月二十七日
「正字とはなにか」――と言ふと、今の多くの識者が平然と「所謂康煕字典體の事である」と述べる。が、これは間違ひだ。なぜなら、正字(正字體)とは、複數の字體がある漢字において、何らかの典據を基にして正統のものと認められる字體を指す概念からだ。歴史上、正字は幾つもの字典で追求された。だから、具體的な現象としての「正字體」は、時代によつて異る。康煕字典の字形に基く康煕字典體を「正字體」と看做すと云ふのも、單にそれが最新の研究の成果であると云ふ意味でしかない。
ところが、今の識者諸氏は、全て現象をしか見る事が出來ない。だから、具體的な「手書き文字」や、具體的な「康煕字典體」と云ふ、形のあるものの、具體的な形をしか、問題にする事が出來ない。彼等は、「正しい文字と云ふ觀念」を、そもそも認識する事が出來ないし、抽象的に考へる事も出來ない。彼等には、さう云ふ能力が缺如してゐるからだ。少くとも、彼等のやつた「学問」では、さう云ふ事を「考へる」事それ自體が否定され、學問的な「能力」は全く育成されてゐない。だから、彼等の頭の中には、觀念としての正字體なるものは、存在しないし、さう云ふ事を言ふ人間は氣狂ひだと彼等は思つてしまふ。だが、それゆゑに、彼等は既存の、具體的な事象としての字形・字體を、澤山竝べ立てる能力は持つてゐるが、その中から正しい字體・正統の字體を見出す能力は持つてゐない。自分で物を考へる能力を持つてゐないから、彼等は全て「政府・國家」に考へる事を委ねてしまひ、「正字」を定めるのは「政治」だと駄洒落を言つて安心してしまふ。そして、現代の日本人が國家を嫌つてゐるのに乘じて、「正字」の概念を積極的に破壞し、自分逹の学問上の手段に過ぎない「現象の観察」を一般的な考へ方・ものの見方として押附けようとしてゐる。
平成二十二年二月二十七日
特に問題とされねばならないのは、「何が正しいのか」と云ふ問ひには、永遠に正解が出し得ない現實がある中で、敢てその問ひを突詰めて、問詰めようとする動きがある事だ。
もちろん、學問上の意圖があつて、正しさを追求しようとして、それで問ふのなら結構な事だ。が、今の識者諸氏は、「絶對的な正しさ等存在しない」→「正しさを追求するのはナンセンスだ」と云ふ異常な考へ方を持つてをり、わざと相手が「正しさ」を「提示出來ない」やうにして、相手の「誤」を世間に見せ附けようとするのだ。そして、「正しいものは存在しない」「現實にあるのは手書きの文字や活字だけだ」と言つて、理念・觀念を否定し、現象・事象だけを認めるやうにと、世間の人に説教する。彼等の企んでゐるのは、「正しさ」と云ふ觀念の破壞にほかならない。
が、彼等は、手書きした人間や活字を作つた人間の頭の中に存在する「正しい文字」の觀念を、認める事が出來ない。彼等は、「正しさ」は「規範」であり、規範意識は價値觀であるから、「科學の對象にならない」として、現代の「科學的な學問」から、積極的に排除しようとする。しかし、我々人間は全て、價値觀に基いて物を考へるし、規範意識は誰でも持つてゐる。人間に關する科學は、屡々さうした觀念や意識を排除して、事象・現象を物理的・化學的に處理しようとする。が、さうした自然科學的アプローチだけで人間に關はる物事を全て處理しようとすると、結果として無理が生ずる――が、その無理それ自體が、さう云ふアプローチが正しいとする考へ方の反證となつてゐる。だから、人文科學においては、自然科學の單純明快な割切り方を採らない。勿論、科學を名乘るからには、假説を立てては誤を訂正する、一般的な方法を採用する。が、價値觀・意識といつた人間固有の抽象的な觀念も、人間には附き物の現實的存在として考慮に入れ、全的な研究對象の一部に採入れて、檢討の對象として扱はねばならないと認める。その點で自然科學と人文科學とは大きな違ひを持つ。そして、當然の事ながら、人文科學では、一つの決定的で必然的な正しさなるものは、「あり得ない」。よつて、法則に基いた現象の豫想のやうな事は出來ないし、やらない。が、だから「何でも全て正しい」と言ふ事は出來ず、例へば文藝批評の使命の一つとして「さう書いてはならない」「さう讀みとつてはならない」と云ふ形で、誤を指摘する事がある。「これがたつた一つの正しい書き方だ」「これがたつた一つの正しい讀み方だ」と言ふのは許されない。「一つだけの絶對的な正しさ」は、文藝批評には存在しないし、人文科學にも存在しない。が、だからと言つて人文科學の領域で「正しさ」は「ない」と言ふ事は出來ないし、許されない。
平成二十二年二月二十七日
「正しいと云ふ事にまるで興味を持たない面白主義者」や「節操なしの自稱ブサヨ」のやうな人々が、批判の本質を認識出來ないままとんちんかんな反論をして威張つてゐるのも、觀念を認識せず、事象の部分だけに注目する、上記の問題の、平行現象と言つて良い。もちろん、この批判も連中は理解出來ない。
頭の良い人には人間が見えなくなる。
平成二十二年二月二十七日
Firefoxの「ページのソース」表示を任意のエディタに設定する | That's Life "気になるニュースとブックレビュー"
Firefoxは全く使つてゐないけれども。
平成二十二年二月二十七日
全裸のメイドさんが家事をしてくれるサービスが日本に上陸、おさわりは禁止 - GIGAZINE

料金は入会金が5万2500円。1回2時間を基本に月4回サービスが受けられるそうで、サービスの完了時に1回あたり5万2500円を現金払いすることになるようです。また、30分につき1万500円の超過料金が別途発生するとのこと。

時給は1万円。エロ記事の筈なのに何か嫌な計算を始めてゐる俺。
平成二十二年二月二十七日
では、プログラミングは科學的か否か。プログラマの人は何う考へてゐるだらう。
HTMLやCSSのコーディングは。ウェブサイトの作成は。

平成二十二年二月二十六日
clear sky source - HTMLだけで実現する何かはプログレッシブ・エンハンスメントではないのかな?
「CSS 3をクロスブラウザで実装するプログレッシブ・エンハンスメント」 by. 菊池 聡 - MdN Design Interactive - Webデザインとグラフィックの総合情報サイト
どのWebブラウザをサポートするべきか? 「プログレッシブ・エンハンスメント」という考え方 − Publickey
プログレッシブエンハンスメントとデータセットのアクセシビリティについて
Netscape Navigator/Communicator 4.xはそれなりに、Internet Explorer 4では綺麗に見えるやうに――とか云ふ發想は、この界隈では十年前から常識だつた氣がするが、「プログレッシブ・エンハンスメント」なるものとは話が別なのかな。世間は何年遲れてゐるんだ。
平成二十二年二月二十六日
「信者のする事は何でもかんでも全て惡い」「信者が嫌がる事をするのは何でもかんでも全部良い」――これがアンチの「價値觀」で、だからアンチが人間の屑であるのは明かである。
狡い人間は、自分はもつともらしい理窟を言つて客觀的な人間の振りをするが、その手のアンチの犯罪的な中傷發言を平然と見過ごし、或は明かなアンチに中傷する機會を與へて嫌がらせを推奬すると云ふ事をする。自分は手を汚さうとしないのだから一番たちが惡い。
平成二十二年二月二十六日
私なんかはさう云ふ連中の態度が嫌で嫌で仕方がなかつたから、連中と手を結ぶ氣など毛頭なく、寧ろ散々文句を言つて非人間的な態度を取るのはやめろと忠告し續けてゐる。しかし、相手が「さう云ふ連中」なのだもので、私は逆恨みされて、隨分非道い目に遭つてゐる。
アンチの言ふ事には、「野嵜が非難されて非道い目に遭つてゐるのは、野嵜の自業自得」なのださうな。ところが、野嵜が人を非難してゐるのは、非難された人が惡いのでなく、野嵜が惡いのだと。アンチの「價値觀」がをかしい事は、誰の目にも明かだ。少くとも、アンチの連中の論理が一貫してゐない事は事實。
平成二十二年二月二十六日
讀者の方々に御願ひするけれども、呉々もアンチのやうな人にはならないで下さい。もつとも、「アンチにならない」だけでは、消極的にすぎます。
實に多くの人が、アンチのやつてゐる事を無視する事で、「見て見ぬ振りをして、惡事に間接的に加擔する」事をやつて、平氣でゐるけれども、惡い事をしてゐる人間がゐて、義憤を感ずるだけなら、誰でも出來ます。義を見てせざるは勇なきなり、と言ひます。誰が見ても惡い行爲であるアンチの粘着行爲、これに對しては、多くの人が非難を浴びせ、その發言の惡質さを告發して行く事が必要だと思ひます。アンチの人逹は、自分が非難されても解りませんが、非難されなければ益々増長します。スルーは容認と同じ。この事が今のウェブでは全く認識されてゐません。これは困つた事です。
平成二十二年二月二十六日
自分が節操なしなだけなのに、「私が信じた右翼が惡かつた」と、他人の所爲にして、自分は何も惡くないかのやうに言ひ訣しつゝ、何年も何年も「右翼」に單なる嫌がらせをし續けて、好い氣になつてゐる、自稱「ブサヨ認定された人」がゐる。
何とも御立派な人格者だなあと感心した。その人は論語の讀者だよ。
平成二十二年二月二十六日
クラシック音樂を聽くなんてのも、成る程一見して立派な趣味だが、場合に據つては鼻持ちならないスノッブな趣味になる事がある。
平成二十二年二月二十六日
嘗ては新聞の偏向報道が問題になつたが、新聞は既に落ち目となつてゐる。が、新聞に代るメディアとして現在注目されてゐるのがウェブで――ところが今のウェブの「報道」が、新聞の報道よりも公正であるかと言へば、そんな事は全く無い。ただ單に新聞の偏向報道がウェブの偏向報道に變つただけで、状況は益々惡化してゐるとすら言ふ事が出來る。
福田恆存の世相を斬るを讀んでゐる。當時の福田氏の批判は、勿論今となつては讀替へが必要になる部分が多々あるけれども、本質的に、時代を越えて、今の状況に通用すると言つて良い。
そして、當時の新聞の人が福田氏の批判を完全にスルーし、或は福田氏を憎んだだけに終つたのと同樣に、現代の批判を受けるべき人々もまた、自分が惡い發言を繰返してゐると認める事が出來ず、反省する事もない。彼等は、却つて福田氏や福田氏の讀者を憎んで、ますます非道い「偏向報道」で嫌がらせを仕掛ける。福田氏も、松原正氏も、當時、實に非道い「言論彈壓」を受けた。

平成二十二年二月二十五日
memo:あらためて「素朴な相対主義」について
一言で言つて「相対主義」の概念が自由に定義され過ぎてゐるよ。
徹底しない考へ方は「主義」と言はない方が良いと思ふ。
平成二十二年二月二十五日
例へば「保守的な態度」と「保守主義」とは全然違ふ。その邊を「保守」なる語で聯想ゲーム的に單純に結び附けて考へると、困つた事になる。
ついでに言へば、それらと「右翼」「極右」とはまた全然違ふんだよ。それを一緒くたにして「俺たち左翼の敵」みたいに思つて盛に罵倒してゐる頭の惡い人逹がゐるんだから本當に困る。何でもかんでも「語の聯想で結び附ける」考へ方をするのは危ないが、さらに單純に「右」「左」の二分法で割切つて考へるのも危ない。慥かに用語は記號だから何でもいいわけだけれども、記號としての用語の表面的な類似で考へる事は良くないし、或は記號だからと言つて相當安易に概念を單純化して結び附けるのも良くない。概念を檢討する時は相當氣を附ける必要がある。
平成二十二年二月二十五日
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平成二十二年二月二十五日
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20100225
おーいお茶の濃い味を毎日飲んでゐるけれども、今夜花粉症の症状が出たよ。御茶なんて花粉症に效きやしないよ。
平成二十二年二月二十五日
今日も田村書店が大量の本を無料で放出してゐて澤山の人が群がつて、爭つて拾つてゐた。田村の表の安賣りワゴンが異樣に高いレヴェルの本で占められてゐるのは通の間で有名だが、無料の放出本にも名著や珍本が大量に紛れ込んでゐる。エッケルマンの『ゲーテとの對話』の二卷と三卷(昔の河出文庫)や岩波文庫の杜詩(舊版と新版、新版は七卷缺)等を拾つた。
變つた出物で、吉田富三『生命と言葉』(読売新聞社)なんてものがあつた。癌研究の權威であると同時に國語問題史上有名な吉田提案で知られる吉田博士の著書だ。濡れて帶の色がカヴァに移つてゐたり本文に傍線が引かれてゐたりするけれども問題なく讀める。

「失はれゆく日本語」の対策としては、何をおいても国語政策の基本姿勢を改めることが急務だと思ふ。

第一に当用漢字表の「範囲」を「基準」か一応の「目安」に改めて、必要な場合の表外漢字の使用を自由にすることであらう。これによって漢字の、殊に難解漢字の氾濫が起こると考へるのは杞憂であらう。過去の自由な時にもそんな事は起こってゐない。また、何時とはなしに誰とはなしに大衆の大智が選択固定して行くのが生命ある言葉といふものであらう。

第二には、「現代かなづかい」の「現代語の現代語音による表記」といふ危険な考へ方を改めることである。この考へ方は危険であるばかりでなく、言語学上からも大きな問題のある所だと聞いてゐるが、要するにこれを改めれば、仮名は歴史的仮名遣ひを「準則」とするといふことになって、安定が取り戻される。

国語は、漢字仮名交りを以て、その表記の正則とする。国語審議会は、この前提の下に、国語の改善を審議するものである。と、国語審議会が宣言できるか否か、と問うた、有名な「吉田提案」も、本書に收められてゐる。
廣く讀まれるべき本だが、今では入手困難になつてしまつた。
平成二十二年二月二十五日
それにしてもWikipediaの吉田富三の項の記述が例によつて屑だ。ぐぐつてウェブで見附けられる「文獻」だけを頼りにして適當にでつちあげた記事なのだから何うしやうもない。「出典」がありさへすればWikipediaでは「よし」とされるから話にならない。この手の駄目な記事がWikipediaには多過ぎる。素人が作つてゐるから屑みたいな記事が量産されるわけだ。それを「素晴らしい!」と持上げる人がウェブには大量に存在するのだが、何が良いと云ふのだらう。Wikipediaの編緝者も2ちゃんねらーも同じやうなものだ。どつちも自分が役に立つ事をしてゐると確信してゐるから濟ひやうがない。虹裏の「」やとしあきの方が、自分がろくでもない事をしてゐると自覺してゐるだけまだ増しだと言へる。
あと、Wikipediaの問題は、研究書や雜誌が出て報告や研究成果が發表されると、即座にその記述を利用して、記事を作る輩が出て來る事だ。せつかく專門家ががんばつて調べて、發表の場をやつと見附けて公開した事も、素人が氣樂に轉載して「一般的な情報」として流してしまふ。怖いのは、その研究に誤が含まれてゐても、Wikipediaでは只管「出典がある」と云ふだけの理由で安易に轉載される事。檢證可能性は言ひわけに言はれるけれども、轉載の際に檢證される事は絶對に無い。何も知らない素人が適當に情報を轉載してゐる。
餘程のマニアでないと何うにも調べようの無い事も、一度「本になつた」ら最う「權威」としてWikipediaで利用されてしまふ。が、間違ひであつても本になつてゐたら、「それはをかしい」と指摘する事が、Wikipedia上では「獨自研究」となるから許されない。反論は一度、Wikipediaの外で活字にしなければならない。Wikipediaは實質的に批判が成立たないのであり――その結果、全く信用ならない情報が、平然と「單なる知識」と平行して掲載される事になる。「信用できる知識」と「信用できない情報」が、全く區別無くごちやまぜにされて存在する――これは大變危險なのだが、Wikipedia信者の人々には理解できない。信用できる記事があるからと言つて、信用できない筈の記事も信用できるかのやうに思はれてしまふ。「全體としてWikipediaは信用できる」と云ふ「調査結果」まで出てゐる。個別の記事を見てゐないのだと思ふ。
原理的にWikipediaなんて糞だと俺は思ふのだが、意地でもWikipediaに集つて情報を蓄積しなければならないと心に決めてゐる「編緝者」が多過ぎる。
實際、ちやんと「知つてゐる」人が、Wikipediaを見て誤に氣附いても、直さうとちよつと思つても結局直さないでしまつてゐる事がちよくちよくあるのだ。知つてゐても「出典」を示せないのであればWikipediaでは排除されてしまふ。直接見知つてゐる、と云ふのでも駄目。Wikipediaは全て轉載に基礎を置いてゐる。プロを排除するのがWikipediaのシステムだ。或は、プロの書いたものを、素人が自分の判斷で恣意的に撰擇して「盜用」するシステム。「出典」がありさへすれば良いと言ふのだが、その「出典」を撰擇する時に、書き手が主觀で「出典」を選別しても、原理的に問題にされ得ない。何うしやうもないシステムだと思ふが、「みんなでつくれる」と云ふのはそんなに魅力的なのだらうか。小沢一郎が演説で「みんなで」「みんなで」としよつちゆう言ふのを思ひ出す。あのごつい顏で「みんなで」なんて子供みたいな言葉を使ふのだから可笑しい。

平成二十二年二月二十四日
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平成二十二年二月二十四日
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平成二十二年二月二十三日
「季刊雑誌 無限」昭和三十五年冬期号を、例によつて田村書店で拾つた。T.S.エリオットの「批評の限界線」の邦譯が掲載されてゐる。詩の出典や書かれた状況(社會的その他)、歴史的な知識、等々を解説する批評と云ふものもあるが、それは文藝批評とは呼べない――文藝批評ならば讀者をして詩そのものをより良く理解しより良く享受出來るやうにせしめる事を意圖してゐなければならない、と云ふもの。

われわれの伝記を批評と同じものだとしてはなりません。伝記が通例有益なのは、それの提供する説明がより深い理解への道を開くことがあるからでありますが、同時にわれわれの注意を詩人のほうに向けさせて、詩からはそれさせることがあるのであります。

平成二十二年二月二十三日
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平成二十二年二月二十三日
現在の俺は坪内祐三なんてまるで評價してゐないが、以前「評價してゐた」頃もその著書は殆ど讀んでゐなかつた。初期の福田恆存に關するエッセイを讀んだくらゐだ。それは結局、坪内の魅力によつて讀んだと言ふより、福田氏の魅力によつて讀んだものでしかない。
筑摩書房から出た坪内編緝の「明治の文学」だつて一册も買つてゐない。坪内が賣りにしてゐる明治趣味は所詮趣味に過ぎない。「古臭いぞ私は」と坪内は言つてゐたが、「古臭さ」も所詮坪内のファッションだ。ファッション等、個人の嗜好に過ぎず、何の價値もない。
坪内の編緝なるものも實際は全く信用できない。坪内は、講談社文芸文庫の『福田恆存文芸論集』を編緝して、略字略かなで出してゐる。谷沢永一的には假名遣の改竄等到底許されたものではないだらう。
坪内は谷沢の書誌學を信奉する。しかし、書誌學的に、假名遣の改竄は拙い事だ。福田恆存が略字略かなで書いたわけがないのだから、正字正かなで印刷して出すのでなければ、復刊として意味が無い。坪内の出した『文芸論集』は、「讀めれば良いもの」レヴェルの本で、原典としては價値の低いものとなつてゐる。
けれども、坪内は、自分の仕事の價値の低さを認めるのが嫌で嫌で仕方がない。そこで「假名遣に大した價値はない」と宣傳した。假名遣に價値が無いのなら、假名遣の改竄をしても價値を損ずる事にはならない。自分の編緝は立派な成果になる。さうやつて坪内は、自分の駄目な編緝を糊塗する爲に、價値觀それ自體を顛倒させようとした。世の中の人を欺いて、自分を立派に見せかけようとしたわけだ。
そこで持出した理窟が「今の若い人の正字正かなはファッション」と云ふものだ。屁理窟にも程がある。正字正かなの使用者を貶める爲に「ファッション」と言つたものだが、自分の明治趣味がファッションである事を棚に上げて、他人の態度をファッションと極附けて嘲笑してゐるのだ。何うかしてゐる。しかし、明治趣味が下らないファッションなのと違つて、正字正かながファッションの方がまだしも増しではあらう。しかし私は「ファッションとしての正字正かな」を、十年以上前、既にウェブで非難してゐたのだが……坪内は、さうした事實を歪曲する事で、自分を權威にまつりあげようとする人間である。
初期の文章において、自分がプロレスファンの少年であつた事を語る中で、坪内は自分の容姿にコンプレックスを持つてゐた事實を述べてゐる。坪内の「古臭いファッション」の正體はコンプレックスの裏返しだと言つて良い。所詮その程度の人間だから、ろくな本を書かないのだ。著書を粗製濫造して荒稼ぎしてゐる今の坪内の所業は目に餘る。
平成二十二年二月二十三日
昨晩のお話 - ぼく最速戦記君劇場@自宅の日記 Not Found - 技術日記

要するに Theoria の足が臭いせいで、酔った勢いのポストを許容できない人間へ問題が拡散した。

ウオッチャーの存在をはつきり意識したネタ記事の文章だけれども、だからこそしれつと眞實を言當ててゐるのだと思ふ。
今のウェブつて、他人の行爲を變に許容出來ない人が多いよね。奇行やら愚行やらを糞眞面目に指摘しては嘲笑して、好い氣になつてゐる人が。

平成二十二年二月二十二日
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平成二十二年二月二十二日
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平成二十二年二月二十二日
讀賣新聞で何處だかの何とかさんが書いてゐたけれども、今の政黨は世界觀を基礎としないのが當り前で、將來を巧く豫想してマニフェストを作つて選擧を戰ふのがトレンドであるのださうだ。さう云ふ現實主義だか何だかも一つの世界觀に基いてゐるのだが、何とかさんはさう云ふ事も解らないで書いてゐるから訣のわからない文章が堂々と讀賣新聞の一面を飾る事になつた。
しかし、ただただ巧い事現實を處理して行く事だけが政治であり人間の生き方であると言ふのは、ちよつと情けないよ。
平成二十二年二月二十二日
「我々はなぜ國を作るか」と云ふ問題は「我々はなぜ生きるか」の問題と直結してゐる。けれども、今は「國になんかに俺の生き方を規定されるのは嫌だ」と云ふやうな勇ましい意見が盛に言はれる時代だ。國のあり方、政治運動家の示す世界觀――そんなものは、鬱陶しいか氣持の惡いものとしか思はれない。
が、「自分で自分の生き方を決める」なんて、そんな事を出來る人は、實は大變に少數で、戰後の成長期には「御金の爲」「いい生活の爲」でやつて來られたが、不景氣の今は誰も未來に夢を持てなくて、多くの人が惰性で生きてゐる。だから今の日本は「元氣がない」とか言はれるやうになつたわけだ。
「自分で自由に生き方を見出せば良い」とか、ソ・ラ・ノ・ヲ・トでもメッセージが發信されてゐたけれども、そんな事を言つても、ではあんたは何んな生き方を見出したんだと問はれたら何も答へられないのが實状。ウェブで勇ましい事を言つてゐる個人主義者の人々も、恐らくは全員が全員、享樂的で刹那的な――物質的な生き方を主張し得るに過ぎない。
ならば再び國家なり宗教なりに生き方を決めて貰へるやうにすれば良いかと言へば、そんなのは無理で、今の人は不幸であつても最うさめてゐるから何であれ熱狂出來ないし自分の生命を預ける事も出來ない。既に我々は物質主義と刹那主義――ニヒリズムにどつぷり漬かり込んでゐるのであつて、そこに手取り早い解決法は存在しない。だからと言つて暢氣にマニフェスト政治だの何だのと言つてゐても駄目なのであつて、現實主義や物質主義が人間の生にとつては何の濟ひにもならない事實を認識せしめる事が必要だ。
或は、今の物質主義の行着く先が、一つは日本の國家の經濟的な破綻であり、一つは物質的な生活破綻者への成功者の冷酷な侮蔑の横行である事は、指摘されて良い。どうあつても今の状況では破滅だけが待構へてゐるのだが、さう云ふ豫想を考へないで、何か夢でもあるやうな、暢氣な事を言つてゐても、仕方がないだらうと思ふ。

平成二十二年二月二十一日
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平成二十二年二月二十一日
雪止・落雪でお困りの方へ 【ゆきもちくん】(雪止め・落氷・スーパーリング・コーニスカット)株式会社キョーワ
平成二十二年二月二十一日
東京 -昭和の記憶-
平成二十二年二月二十一日
のうりかさんの旅行ブログ >> スライドショー >> 神田・秋葉原・御茶ノ水の写真 旅行のクチコミサイト フォートラベル
改裝前のグランデの一階の樣子が判る寫眞、本當にないなあ。

平成二十二年二月二十日
赤い O - A blog? with Σαιτω
Operaがどんどん嫌な方向に變化してゐる。なんで必要なものを隱さうとするのだらう。
と言ふか、デザイナつて何でも隱したがるよね。何でだらう。物を隠した俺かっこいい! とか本氣で思つてゐるんだらうか。無能デザイナが跳梁跋扈してゐる。
平成二十二年二月二十日
新しいOperaも非道いしGoogleのChromeも非道いが、MSのOfficeがメニューバーを廢止してわけのわからないデザインにしたのも非道い。
そもそも、Windowsアプリケーションを開發してゐる連中が、メニューバーを使ふのを嫌つて、獨自インタフェイスをでつち上げたり、ウィザードなんてものを發明してみたりして、Windowsのインタフェイスをぐちやぐちやに弄つて遊んだ結果が今の慘状に繋がつてゐると言つて良い。デザイナがメニューバーを憎惡して、却つてWindowsと云ふオペレーティングシステムの體系性を破壞した結果だ。デザイナは、秩序を憎惡し、獨自デザインする事を異常に好む。ユーザが困惑する事を、デザイナは「ユーザが樂しむ」と表現し、ユーザにとつては大變嬉しい娯樂であると心から信じてゐる。デザイナがデザインした獨自デザインのGUIアプリケーションは、GUIのオペレーティングシステムの中と云ふ文脈において大變使ひ難いものになるのだが、さうした文脈を徹底的に無視し、アプリケーションの中だけで世界が完結するものとアプリケーションのデザイナは誤つて信じ込んでゐる。勝手なデザインをやるデザイナを、メーカや多くのユーザが支持した事が、GUI畫面の混亂を惹起こした。
今のWindowsのアプリケーションが、出たら目なインタフェイスを自分勝手に保持し、自分の世界を作つてゐるのは、もともとその開發者がWindows外部からやつて來た事に原因がある。ゲーム機に慣れた開發者はゲーム機のやうなインタフェイスを眞似したがつた。Macに慣れた開發者はMac風のインタフェイスをWindowsに持込んで好い氣になつた。が、一番害毒をWindowsに齎したのはPC-98に慣れた開發者だ。彼等くらゐわけもわからずWindowsアプリらしからぬWindowsアプリを濫作した連中はゐない。彼等は自分の昔からの流儀をWindows上でも押通し、Windowsの秩序を破壞して喜んだ。WindowsのGUI部品を利用するのは、マナーの良いWindowsアプリケーションの作り方だが、それをやらない事こそがプログラマの使命だと勘違ひしてゐる人が、實は未だに大量に存在し、執拗にWindowsのGUIシステムの破壞を企んでゐる。
ウェブの世界はもつと非道い。
平成二十二年二月二十日
World Wide Web Consortium (W3C)
「日本のW3C」のサイトが存在しない。日本の關係者は皆やるきがないんだらう
W3Cは賞味期限切れ組織? − @IT
日本人がどんどんW3C離れを起してゐる氣がする。
しかしHTML 5の議論を見ると、出て來る意見が露骨に各メーカの意嚮そのまゝである事に氣附く。MSはCanvasを仕樣から外したい。アドビはFlashを何とか生延びさせたい。そもそも「ウェブアプリケーション記述言語」であるHTML 5を推進してゐるのがGoogleの人である事實がある。Googleは、ウェブアプリケーションを武器に鬪ひたいから、データとしてのテキストをマーク附けするだけのHTML 4.01やXHTMLなんかには我慢がならなかつた。だからHTMLの本質的な改變を企てた。
HTML 5がHTMLを名乘つてゐなかつたら俺も支持するのだが……WHAT WG(Web Hypertext Application Technology Working Group)が作つたフォーマットだからWHAT(Web Hypertext Application Technology)を名乘ればいいんだ。HTMLはプログラミング言語ではないとは昔から言はれて來た話だ。それをプログラミング言語に變質させようと云ふのがGoogleの人の主張だ。絶對に認められない。
或は、センセーショナルな言ひ方をするなら、今後のウェブのデータフォーマットとウェブアプリケーション作成言語はGoogleに牛耳を執られる事になるだらう。Googleはウェブの支配を狙つてHTML 5の策定作業をリードしてゐる。

平成二十二年二月十九日
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平成二十二年二月十九日
「契約を打ち切られた」 - 元エンジニアの営業日誌:ITpro
いやだなあ。

平成二十二年二月十八日
東大學生文化指導會編『現代文學人名辭典』
福田恒存
(大一- 1912-)評論家。東京の人。東大英文科卒業。日大豫科講師、日本語教育振興会アメリカ研究室勤務を經て、東京女子大講師になつた。政治と文学との各の完全な自己発揮による補完を説き、プロレタリア文学に對し、「人間性を犠牲にしてまで擁護せねばならぬ眞實とはいつたいなんであるのか。」と、その人間侮辱を攻撃した。主要著書「平衡感覺」
平成二十二年二月十八日
東大學生文化指導會編『現代文學人名辭典』
橋本進吉
(明一五-昭二〇 1882-1945)國語學者。敦賀の人。東大文学部卒業東大教授となつた。昭和九年「切支丹の教義に於ける國語の研究」によつて文学博士になつた。国語の史的研究、文法研究、國語問題等の廣い分野にわたり、きわめて嚴密な学究的活動をし、上代特殊假名遣の研究を始めとする種々の業績を殘した。主要著書「國語學概論」「國語法要説」「國語學研究法」「古代國語の音韻に就いて」等。
平成二十二年二月十八日
東大學生文化指導會編『現代文學人名辭典』
時枝誠記
(明三三- 1900-)國語学者。東京出身。六高を經て、東大國文学科卒。昭和二年京城帝大に赴任。一ヶ年半の外遊を終えて昭和四年歸朝。現在東大教授、文学博士。昭和十六年に發刊された「言語過程説の成立とその展開」の副題を有する「國語學原論」は著者の國語研究の基礎をなすところの言語の本質觀と、それに基く國語学の體系的組織に就て述べられたものであり、前年、十五年刊の「國語学史」は、この言語過程説の根據ともなり基礎ともなるものである。更に近著「國語研究法」は、学問上に於ける自敍傳とも言うべきもので、自己の拓き進んで來た國語研究の道程と、学説の展開とが跡づけられたもので著者の学説理解のための好資料である。他に諸雜誌に掲載された國語学關係の論文が多數ある。
平成二十二年二月十八日
東大學生文化指導會編『現代文學人名辭典』
坂口安吾
(明三九- 1906-)小説家。新潟縣出身。東洋大学印哲科卒。戰後最も目ざましく進出した作家で、織田作之助、田村泰次郎等と共に頽廢文学の系列として考えられる。その文学論として、頽廢は所謂官能的情趣的なものでないとし「墮落」の通念に反逆し、「墮落に徹する」と言う。即ち墮ちるだけ墮ちきつたところから立上がらんとする意力的なものを説くが、實作上では現實の探究や批判が具現されているとは言えない。作品の多くは精神と肉體との相克の激しさ、自己の醜さに絶望しつゝも肉體的なものにはしる苦惱を寫している。主要著書「吹雪物語」「墮落論」「道鏡」等。「坂口安吾選集」(銀座出版社)がある。
平成二十二年二月十八日
NICT、日本標準時のNTPサーバーをJPIXに設置 -INTERNET Watch

平成二十二年二月十七日
今年は雪が多い。
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平成二十二年二月十七日
田中長徳『GXRワークショップ』。二十分くらゐ立讀みしてから買つた。讀める文章を書く人だと思ふ。
GRist 田中長徳さん / GRist / GR BLOG | Ricoh Japan
平成二十二年二月十七日
「昔は右翼だつたのですが、そいつらの人間の腐つてゐる事に辟易して、左翼になりました」のやうな事を言つて威張つてゐる左翼の連中がいんちきである事は、同じ相手を敵としてゐるからと言つて、平氣で右翼と手を結んで、共鬪するのを見れば、容易に判る。
福田恆存は、自民黨と社會黨が手を結んだ時、日本は最う駄目だよとこぼしたと云ふ。
平成二十二年二月十七日
最近の左翼が嫌らしいのは、殊さら「私は所謂左翼ではありません」といつた態度をとりながら、露骨に「アンチ右翼」の姿勢を示す事だ。
彼等は、右翼・保守主義者(と彼等が認定した人間)を誹謗する爲に、價値觀を理由にせず、わざと知識や論理展開を問題にし、些細なミスや何うでも良い間違ひを大袈裟に言立てて、相手を馬鹿に見せかけ、「右翼は・保守主義者は愚かである」と云ふ明かに黨派的な結論を引出す。
最大の動機である價値觀と云ふ理由を故意に隱蔽し、ただ相手の發言を封殺して快を貪るだけの爲に、多くの左翼が「私は論理的な批判をやつてゐます」と云ふ顔をしてゐる。
それが證據に、彼等の「論理的」な批判は、彼等の價値觀と直結しない。彼等の採上げる或論理は、何時でも一方的に敵にだけ適用され、自分自身には適用されない。即ち彼等は自分自身は常に免責しながら、敵の足を引張る事だけを考へてゐる。その爲に「價値中立」だか何だか知らないが、さう云ふ便利な物として、論理だの知識だのを言ひわけに使つて、感情的な罵倒や侮辱行爲を平氣でやらかす。
今出てゐる本の雑誌の坪内祐三の連載を見て感じた。坪内は左翼だから、保守主義者が大嫌ひで、それをもつともらしく見せかける爲に、正確さの缺如を理由に持出してゐる。彼が野嵜ら「右寄りの松原信者」を嫌ふのも、彼が左だからだ。彼の卑怯なのは、自分が左翼で、その爲に右翼を嫌つてゐるのだと明言しないところにある。
平成二十二年二月十七日
正字について
「正字正かな派の言うような正字など存在しない。彼等の言う正字とは康煕字典體であり、康煕字典體は政治的に正しいと定められたものに過ぎない」と大熊肇その他の大勢の「識者」が叫び、「政治的に正しいと定めたから常用漢字が現代の『正字』なのだ」と言つてゐる。けれども、「政治的に定めたものだけが正しいのである」等と云ふ理窟はあり得ない。だから大熊氏らの理窟は出たら目なのだが、彼等は「正しい」と云ふ概念を破壊したくて破壊したくて堪らない現代的な破壞主義者だから、自分逹の破壞主義的な價値觀に都合の良い言ひわけを手放す筈がない。だが、「これが正しい字なのである」と斷定的に言へないのに對して、これは略字である、これは俗字である、と言ふ事は出來る。ならば、理念として・理想としての「正しい字」は存在する。我々正字正かな派が正字の大事さを言ふのは、觀念としての「正しい字」への信頼を失つてはならない爲であり、それは、「正しさ」――と言ふより理念、理想、或は眞實、イデアへの信仰を失つてはならないと云ふ價値觀に基く。これに對して、大熊ら「正しいとは政治的な正しさである」と主張する政治主義者は、理想など何うでも良い、寧ろ理想等存在しない方が良い、正しいと云ふ觀念は氣持ちが惡い、正しいと云ふ事を信仰する人間は氣色が惡い、……、と云つた感情に基いて、唯物主義的且つ便宜主義的に判斷する事を「清潔」だと信じ込み、非人間的に物を言ふのを良しとする人間である。彼等は理想を持たず、只管「現實」を肯定する――彼等の理論は、「現實」の政治を肯定する事だけの爲に言出され、現状を維持するだけの爲に用ゐられる。その主張は全く排他的である。が、特に復古の主張には極端な憎惡を示す。既存のものでもカオス的なものには好意を抱くが、秩序を持つたものには激しい嫌惡感を覺える。斯うした左翼的な人々が、正確な知識と、尤もらしい「理論」とを振りかざして、只管既存の價値觀の破壞に勤しんでゐるのが現状である。
平成二十二年二月十七日
その言ふ事は大變に論理的で、正確な知識に基いてゐると云ふ人でも、發言の動機が感情である事は屡々ある。彼は、何んなに非論理的で出たら目な言ひ方をしてゐても、同じ敵を罵つてゐるのなら、同志を全く批判しない。明かに偏向してゐるのだが、自分の發言の内部では「偏向がない」風を裝ひ、客觀的な傍觀者として一方的に氣に入らない人間を罵る。それでバレてゐないと思ふのだから好い氣なものだが、世間の人には全然信頼されないものだと早いところ氣附いたら良いと思ふ。
平成二十二年二月十七日
手塚富雄の『ツァラトゥストラ』(中公文庫)を古本屋で(自宅の本棚を探すより樂に見附けられる)チェックしてみたのだが、手塚氏は註釋でをかしな鉤括弧の遣ひ方等してゐないと思ふ。中公クラシックス版では書き方が違ふのだらうか。
平成二十二年二月十七日
Google日本語入力、開発段階の新機能を盛り込んだ「開発版」公開 -INTERNET Watch
平成二十二年二月十七日
窓の杜 - 【REVIEW】EmEditorをVZ風にカスタマイズするマクロ集「VZ Editor化パック for EmEditor」
Escで呼出せないんだろどうせ。

平成二十二年二月十六日
にゃもちくんとさぼてんくん その二
平成二十二年二月十六日
化け猫アイコンメーカー
「耳=なし」なるオプションが存在しないので、にゃもちくんが作れない。
平成二十二年二月十六日
ジャストシステム、「ホームページ・ビルダー」の権利をIBMから取得 -INTERNET Watch
正直言つてIBMは今までよくこれを扱ひ續けてゐたと思ふ。今となつてはIBMの他の製品と明かに毛色が違つてしまつてゐる。
IBM 「PCサイトも携帯サイト作成もおまかせ!」ホームページ・ビルダー - Japan
平成二十二年二月十六日
ソ・ラ・ノ・ヲ・ト。例によつて「人間が生きる意義」の議論をやつて、「各自が自由に決めれば良い」と云ふ御定まりの・ありきたりな結論を示して、御説教するパターンに陷つてゐた。何故このあまりにもありがちなメッセージを、アニメの脚本家は飽きずに繰返し繰返し發するのだらうか。
何處ぞの某氏が「言論の自由」なんて「胡散臭い」と極附けてゐたが、自由それ自體が胡散臭いものだ。殊さら某氏が「言論の自由」を「胡散臭い」と極附けてゐたのは、「特定の個人の言論」が「胡散臭い」と言ひたいだけで、御自身の「言論」は「胡散臭くない」と某氏は心から信じてゐる。けれども、人間の言論は全て胡散臭いものであるわけで、だからこそ批判と云ふ事が一般に認められるわけだ。某氏の場合、自分を棚上げする事で、嫌ひな特定の個人を默らせ、潰す爲に都合よく話を進めようとしただけで、社會的に何の價値もない極附けである。
が、さう云ふ安易な「自由の胡散臭さ」の強調も、安易な「自由の禮讚」の裏返しで、全く價値としては同じ――無意味極まりない事だ。
創作において、我々は、自由と云ふものの素晴らしさ、或は、自由と云ふものの胡散臭さを、氣樂に主張しがちである。が、シェイクスピアが「ハムレット」や「マクベス」で示したのは、徹底した自由の追求と、その結果としての運命への敗北であつた。福田恆存が指摘したのだけれども、我々は自由に生きたいと望みながら、しかし何處かで自由から逃れたいと思つてゐる。その秘めた願望をこそフィクションは充足すべきであると云ふのが福田氏の悲劇の主張であり、またさうした悲劇の存在が成立たない時代としての現代を論じたのがスタイナーの『悲劇の死』であつた。
我々は、自由を突詰めて、運命に復讐される悲劇を、案外知らない。そもそも、我々は、自由を突詰めた事がない。だからこそ、觀念的に、知識だけで、「自由なんて胡散臭い」のやうな事を、氣樂に言へる。福田氏が主張したのは、自由の胡散臭さなんてものを他人事のやうに言ふ前に、自ら自由を徹底して味はへと云ふ事だつた。その結果として悲劇に到つてこそ、日本人は自由の本質を體得できる。が、さう云ふ事を悠長にやつてゐる暇は無く、否應無しに我々は歐米の自由主義と、自由主義の沒落とに、同時に直面せざるを得ない。福田氏は、個人主義を主張したが、それは、徹底した個人主義の行着く先の必然的な破綻を目の當りにすべき事、さうしなければ日本人は個人主義を超克する事、そして超個人主義を超克する事ができまいと云ふ見通しに基いてゐた。自由或は自由主義についても同じ。個人主義と自由主義とは一つの概念であり、「個人の自由」を追求すると云ふ形で實現される。それは、決して完成する事があり得ない筈だが、破綻するまで追求された事は日本では無い。歐米では「ある」――それを「追體驗」する爲に、福田氏はシェイクスピアの悲劇を日本に持込まうとしたわけだが、さうした意圖は現在、多くの論者に無視されてゐる。「正論」でも、福田氏の飜譯を論じて、「譯の惡さ」だけが問題にされる。小谷野の飜譯家の本では、飜譯の話そつち除けで「信者批判」をやつてゐて、それで小谷野が好い氣になつてゐるのだからあれは何うしやうもない愚書だが、あゝ云ふ本が新書で出て大量にばら撒かれ、暫くして平然と忘れられるのが日本である。何の價値もない本が、賣らんかな精神と、嫉妬と云ふ惡しき動機に基づいて、盛んに出版され、その蔭で福田氏の紹介しようとした悲劇の類は忘れられ――福田氏の意圖迄もが簡單に切捨てられる。現代のほぼ全ての創作物が(シェイクスピア的な意味での)悲劇性を全く缺き、明るいメッセージか暗い雰圍氣かを「賣り」にして賣られる商品と化してゐる。批評はただの罵倒か嘲笑で終はる(同じ惡口が何年も何年も飽きずに繰返されるのだ。馬鹿だらう)。全てがありきたり。ところが多くの人が、ありきたりなのを誇りに思つてゐるくらいなのだ。それどころか「お前もありきたり」式の「反論」をして、論破した積りになつて、反省する事が無い。さうしてえんえん同じ誹謗、同じメッセージが繰返される。うんざりだ。飽きない人は本當に飽きない物らしい。
平成二十二年二月十六日
シーシェパードが、先日妨碍行爲の果てに日本の捕鯨船にぶつけて沈んだけれども、その賠償を要求して捕鯨船に乘り込んで來て失笑を買つてゐる。
これなんか、暴力団の強請り・たかりと全く同じなのだけれども、連中、「理窟」を故事つけてゐるし、何より「正義は我にあり」と堅く信じてゐるから、自分は正しい事をやつてゐる! と調子に乘つてゐるに違ひない。が、傍から見れば、こんなに阿呆な事もないわけで、鯨の肉を食べる事もない現代の多くの日本人は笑ひながらオーストラリア人の愚行を見てゐる。
福田恆存は「總統いまだ死せず」で、現代と云ふ社會では、獨裁者すらも喜劇化する事を描いた。が、市民運動もまた喜劇化するのであつて、シーシェパードにしても何にしても、ウェブで見てゐる傍觀者逹は嘲笑しながら樂しく觀察してゐる。
が、喜劇の役者に成下がつてゐる運動家諸氏は、嗤はれてゐるにも拘らず、依然として嫌がらせをやつて好い氣になつてゐる。「總統いまだ死せず」で獨裁者ごつこをやつてゐた連中が安賣りセールの宣傳の聲を聞いて白けてしまつたのとは違ひ、運動家の人々は、嗤はれても無視されても、自分逹の「正義」とやらの所爲で醉ひからさめる事はない。反省しないもの汝の名は粘着アンチ。
追記。日本の捕鯨船に乘込んできたのはニュージーランド人なのだと。別に鯨問題そのものには興味がないからどうでもいい。
平成二十二年二月十六日
Wikipediaのテキストエディタの各項目を眺めてゐるのだが、その記述によるとHTMLはプログラミング言語らしい。

平成二十二年二月十五日
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腰痛もちくん爆誕。
平成二十二年二月十五日
にゃもちくんとさぼてんくん その一
平成二十二年二月十五日
ミーシャもチョコレートを貰つた。
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但し男の人からである。落語が好きな某さん。
平成二十二年二月十五日
DSpace at Waseda University: ホーム
DSpace at Waseda University: 学者馬鹿には書けぬ本
メールで教へていただきました。何うも有難うございます。
平成二十二年二月十五日
T-ZONEで買つたわけのわからない中国製のマウスがをかしくなつた。よく使つたから壽命だと思ふ。

平成二十二年二月十四日
光画部の連中は今年も日曜日の今日が登校日なんだらうか。
平成二十二年二月十四日
俺がメイン機のOS(WindowsXP)再導入後に入れたソフトウェア。LHMelting。秀丸。WXG。電八。FFFTP。Opera。charmapx.exe。MediaPlayerClassic。VLC。Audioactive Player。TMPGEnc Plus 2.5。TMPGEnc DVD Author。Zulu2。GV。完全に時代遲れだ。Zulu2は最う入れられない筈。
Windows7環境に移行したらアプリケーションは相當入換へる事になると思ふ。
平成二十二年二月十四日
秀丸は描畫がばたつかないのがいい。LHMeltingは昔から使つてゐるから。Caldixと組合せるといい。WXGは俺の正字正かな辭書を使ふ爲に必須。電八は、メールを讀むのに外部のエディタを呼出すのが好ましい。MPC、VLCは録畫データを見るのに使ふが、VLCの方がmpeg2の描畫は綺麗な感じ。MPCだとぼける。mp3の再生ではAudioactiveが音がアナログつぽいいい感じになる。GVは画像ビューア。Windows 3.0の頃から愛用してゐる。流石にmagフォーマットの畫像なんてものには最う御目にかかる事なんてないのだけれども、gifでもjpegでも普通に見られる。
平成二十二年二月十四日
レールガンの黒子が「くださいまし」と言つてゐるのはとても良いと思ふ。現代の多くの日本人は「くださいませ」と言つて當り前だと思つてゐる。
平成二十二年二月十四日
私信 - ウスイ スウプの日記

つか、その場にいたであろう米軍側の首脳の方が逆にギョッとしたんじゃないのかな。

「政治・外交上の美辞麗句で〜」って部分だけでも、実力部隊の長が政府活動の一環である外交活動を否定しいるとも取れてしまう訳で極めて拙いし、「『信頼してくれ』などという〜」の部分は明らかに現政権を揶揄してる訳で、(現在に現実に起こるかどうかは別にして)時代が時代ならクーデターの教唆をも想起させる内容だと思うのだが。

どっち向きの発言であれ、国家最大最強の実力部隊の首脳が、特定の党*1の政策やら行動を揶揄するって事態はさ、実力部隊が国民の付託を受けた政府と異なる意思を持っている、って事で、「それなんて『パト2』?」あるいは軍事独裁国家?*2、っていう。

加えて、そんな類の話を、ましてや外国の軍隊の前でやっちゃうってのは、俺からしたら国辱もんだと思うんだよね、と。

文民統制なんてものを盲信しても仕方がないし、餘りにも政權が駄目ならまともな軍人がクーデタを起すのは當り前。軍人による政權批判を單純に非難するのは、「戦後民主主義」が何うの斯うのと云ふ實に御定まりのありきたりな批判によつて粉碎されていい。「戦後民主主義」の類のレッテル貼りが低レヴェルなものなら、それで粉碎されるやうな意見・主張も低レヴェルと云ふ事。
また、「民主主義擁護」の一見もつともらしい説明をしながら、同時に「國辱もの」のやうな「軍國主義」時代の價値觀をわざと示して嫌みを言ふのが、現代の日本人の「論客」の常套手段となつてゐる。これは、「論客」諸氏が、價値觀に基いて批判をしてゐるのでなく、非難をする言ひわけとして價値觀を持出してゐる事實を示してゐる。ありとあらゆる價値觀を援用して非難をするのは、「説得力を増す」ものと思はれてゐるが、そんな事はない。

てな訳で、「民主国家」を掲げている国家の実力部隊のエライさんが口にする事じゃないわなぁ、と、俺は思うんだけどね。

保身の爲なら相當「馬鹿」な事をしたなと思ふけれども、現代の日本人が「保身の事を考へないのは馬鹿な事だ」と云ふ價値觀を持つてゐる事それ自體が馬鹿な事だと私は思つてゐるから、連隊長が馬鹿だとは思はないし、馬鹿な事をしたとも思はない。
アメリカの連中も、ぎょっとしただらうとか勝手に言はれてゐるけれども、「論客」氏は自分の主張をもつともらしく見せかける爲にアメリカの連中を利用してゐるに過ぎない。そもそも戰後の日本の體制にアメリカの連中は辟易させられてゐるのであり、そこで堂々と上の惰弱な政治家の事を非難した軍人を、今もつて硬派を貫き通してゐるアメリカの連中が「見事」と思はない筈がないと私は極附けたい。國辱どころか、日本の軍人はアメリカの連中の前で意地を見せたのだ。連隊長のやつた事を國辱呼ばはりする左翼の連中が、一人の例外もなしに、ありがちな、例のへらへらした口調で、氣樂に嘲つてゐるのに比べれば、連隊長の發言は遙かに立派な物だ。
2010-02-13 - 大和但馬屋日記の追記とかさらに追記とかの邊。
結局非難されて御附合ひで考へ始めるから、「奴ら」の思ふ壺にはまつて行く事になる。理窟なんてものは幾らでも附けられるのだから、聯隊長氏の發言を非難したい連中は、何だつて「考へる」人がゐれば、便利に利用出來るやうになる。根本的に價値觀のレヴェルで、今囘の事を問題にして聯隊長氏を非難しようとしてゐる人々はをかしいのだから、其處を衝かなければならない。理由附けにしても、「非難する」と云ふ結論が最初にあつて、それをもつともらしく見せかける爲に價値觀を持出してゐるとしても、その價値觀自體がをかしい事に、場當り的に對處しても、「對處させる」のが面白くて面白くて堪らないのだから、「奴ら」は何うしやうもないし、それにこちらが乘せられても、こちらは馬鹿を見るだけだ。
「そもそも如何なる價値觀を我々は持つてゐるのか」「持つてゐるべきなのか」を明かにする事。共通の價値觀を持つてゐる事。その價値觀に反する行動を取つた人がゐる事。その人を我々が共通の價値觀に基いて非難すべき事。
共通の價値觀が存在しないならば、我々は價値觀のレヴェルで爭はねばならない。が、さうなると、我々は最早、具體的・個別的な事例で單純に「問題」を言立てる事は出來ないのであり、そこで無闇矢鱈と非難の爲の價値觀を持出す連中は、「非難する事が目的」であるとして、議論から排除しなければならない事になる。日本には、「避難する事だけが目的」の、樂しみの爲に價値觀を利用する惡質な人間がうようよしてゐるのであり、さう云ふ連中こそが眞の敵である事を我々は認識しなければならない。
平成二十二年二月十四日
クーデタが何うの軍人が發言するのが斯うのと非難したいあなたは、民主主義を信用してゐるらしいが、さう云ふ人は民主主義なんて信用しないと宣言してゐるアンチ野嵜の某k氏に嗤はれて來れば良い。k氏は私の主張に大贊成して呉れてゐる事だらう。そんなk氏が私を嘲笑してゐる理由は、私の「人」としての面だけであるが、もつともらしく見せかける爲に、樣々な價値觀を利用し、樣々な理窟をくつ附けてゐるのだから、何うしやうもないわけだ。
平成二十二年二月十四日
一體に、「理より人」派の人は、「物を言ふ資格」のありやなしや、なんて下らない事を盛んに言ふが、氣に入らない人間を避難するとき、「人」としての側面を言立てるのみならず、盛に「理」の部分の「誤」を強調する。これが「理より人」派の人の理論の不徹底な所で、要は「他人を侮辱して愉しむ」事が目的なのだから話にならない。
私は、「理より人」と單純化して言つてゐるけれども、そんな私が今、「奴ら」とか言つて「人」を問題にしてゐるかのやうに見えると言つて、アンチの人々は私を非難する筈だ。が、私は上の「論客」氏の人格を非難してゐない。それがアンチ野嵜の人々には全く理解出來ないらしいのだが、頭の惡い人は何うしやうもない物だなあとつくづく思ふ。鏤々説明した通り、何かを「問題にする」その價値觀それ自體を私は今、問題にしてゐるのであり、價値觀と云ふ物は「人の價値觀」以外にあり得ないのだから、人間が絡んで來る事は論ずるまでもなく明かな話。それを「理より人」なんだろ、矛盾だ、とか言つて非難し始めるのがアンチの人々で、「人」なるキーワードで話が繋げられるから繋げてゐるに過ぎない。聯想ゲームで話をしようとしてゐるので、頭が惡い證據である。
平成二十二年二月十四日
おもちくん、にゃもちくん、すまいるくん、さぼてんくん。おもちくんとにゃもちくんはクリーチャー。さぼてんくんは植物。すまいるくんは謎。
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平成二十二年二月十四日
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平成二十二年二月十四日
おまもりひまり第六話「キス×ネコ×KISS」を三囘、とある科学の超電磁砲第十九話「盛夏祭」を二囘觀た。ひまりはMX、BS4、tvkでやるから仕方がない。レールガンはMXとtvk。AT-Xでも觀られるから三囘觀るかも知れない。
平成二十二年二月十四日
紅生姜丼とは - はてなキーワード
Linux Japanの前にPC WAVEの連載で書いてゐたやうな……。
平成二十二年二月十四日
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平成二十二年二月十四日
こもちくん登場。
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小さいおもちくんで小もちくん。子供がゐるおもちくんで子もちくんなのではない。
子供のおもちくんなのでもない。クリーチャーは姿形が確定してゐれば大人なので、小さくてもこもちくんは大人である。
平成二十二年二月十四日
CSSヲタなのでたまにはその手の記事にリンクを張つてみる。
「効率のいいCSS」は管理しやすさ重視で - 雑記 - AZ store

平成二十二年二月十三日
大手民放ラジオ13社、ネット同時放送解禁へ:日経ビジネスオンライン
民放ラジオ、ネット同時放送解禁へ - スラッシュドット・ジャパン
平成二十二年二月十三日
【内閣支持率:2010/2/12】鷹澤遊戯場 過去日記

 お前ら、あんなに喜び勇んで民主に投票したくせに、ほんと勝手だよなあ。

 例の秘書の問題だって、自民の興信所が拾った不確定なままのネタなのに、そんなのがマスコミで話題になったって程度でお前が投票した政党への信仰をさらっと翻すのか?てか、じゃあお前らはそれでまた自民支持に転向するのか??おい。

平成二十二年二月十三日
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平成二十二年二月十三日
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平成二十二年二月十三日
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平成二十二年二月十三日
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平成二十二年二月十三日
2010-02-13 - 大和但馬屋日記

平成二十二年二月十二日
http://www.page.sannet.ne.jp/hirasho/diary/diary1002.html#11
うちのNB100は24時間休みなしで最う一年以上稼働してゐるよ。しかも午前中はずつと録畫でHDDがまはつてゐる。正直言つてここまで持つとは思はなかつた。
平成二十二年二月十二日
Carakan搭載ブラウザ「Opera 10.50」のβ版公開 | エンタープライズ | マイコミジャーナル

平成二十二年二月十一日
任天堂のちょっと良い話 - WEBお笑いエンジニアの日記
コメント欄。ika 2008/02/12 18:44(敬稱略)

HPのプリンタ等も、故障の修理の際に、修理より交換の方が早いからと交換品がすぐ送られてきますが、完全なる新品で返すのではなくて新中古品ですよ。

よくある話で、問題ないのではないでしょうか?

シール張り替えとかのレベルになると、すごいですね。

昔YHP DeskJet 505Jと云ふプリンタを使つてゐて、B5の給紙がうまく行かないとかあつてぶち切れてげしげしやつたら動かなくなつた事があるんだけれども、横河ヒューレット・パッカードの營業所に持込んで修理を依頼したら、ちやんと直して戻して呉れた。きちんと動くやうになつたけれどもぶち壞した目立たないパーツがなくなつたまゝだつたりして、壞したプリンタそのものなのは明かだつた。
以來、キヤノンやエプソンの方が出來がいいと雜誌のレビューに書かれ捲つてゐても俺はHPのプリンタを買ふ事に決めてゐる。最う横河は關はつてゐないんだが……。
ちなみにDeskJet 505Jは、未だにうちにある。
平成二十二年二月十一日
田名部宗司『幕末魔法士 -Mage Revolution-』讀了。惹句その他でファンタジイ扱ひされてゐるが、歴史的なifの御話と見ると寧ろSFに近い。舶來の魔法用語や呪文は別として、地の文にカタカナ語が皆無。結構凝つた文體になつてゐる。キャラクタは大體良く出來てゐるけれども、弥平がとても良い。普通の長さの長篇なのだけれども、話の展開の早さから言ふと、最うちよつと長くても良い感じがする。
電撃小説大賞・大賞に輝いた『幕末魔法士』の田名部先生インタビューをお届け! - 電撃オンライン
平成二十二年二月十一日
記事を書くのもネタ帳を整理するのもイライラの力の「追記」のところ。

野嵜さんだって、何も言葉を添えずに野嵜さんの名誉を毀損し侮辱するような記事ばかりたくさんリンクするような人がいたら、不愉快になりませんか?

徳保さんは、特定個人に粘着して、特定個人の記事だけを採上げてゐただらうか。
memo:記事にならなかった話題(2010年1月版) 他
何か話が變なんだけれども? 徳保さんの「ネタ」連發と、Kirokuroなんかの嫌がらせと、何が同じだと言ふのだらう。
徳保さん記事を書いた結果を極めて重視するのだけれども、それは、何處ぞの活動家の人と全く同じだと思ふ。
いや實際、徳保さんは私の記事を良く讀んで呉れてゐるのだけれども、私の記事を理解はしないのだらうと思ふ。
インターネット紋切型辭典
殊に、こんなコンテンツ――徳保さんは嫌ふだらうと思ふ作りになつてゐるが……。
けれども私にしてみればこの程度の記事でも平氣で笑ひ飛ばせるくらゐの讀み手になつてもらふ事こそが重要なのであつて、さう云ふ「理想の讀み手」の事を考へる事こそが大事だと思ふから、徳保さんの所謂「ネタ」の記事を批評する事及びその直接的な結果なんてものは二の次三の次と云ふ事になる。徳保さんは、氣に入らない問題を論ずる事で、讀み手が何か、徳保さんの求めるやうな行動に移つて呉れる事を、直截的に自分の希望にかなふやうな結果が生ずる事を、期待してゐる。となると、徳保さんは活動家なのであつて、啓蒙家ではない、と云ふ事になる。
平成二十二年二月十一日
レヴュー: 『論より詭弁 反論理的思考のすすめ』
こんな本を「面白い」だ等と言つてすすめられるやうな感性の人間は、現代の日本人には極めて多いのだが、駄目だと思ふ。
實際に・直截的に「人を動かす」事が目的ならば、そもそも話なんかしないで他の方法をとつた方が手取り早い。壓力をかけるとか、裏工作するとか、金を使ふとか、さう云ふ方法すらもある。
が、さう云つた汚い手・卑怯な手段を用ゐる事を嫌ふ潔癖症の人間だからこそ、全うな議論をやつて正面突破してやらうと青臭い事を考へるわけだ。そして、さう云ふ青臭い人間がこの世から拂底してしまつたら、その方が問題だと私は思ふ。しかも、さうした正面突破が、青臭い事・馬鹿な事、無意味ですらある事は、百も承知――しかし、さうした「無意味な事」が、絶對に世の中には必要である事は、私は確信してゐる。徳保さんは信じない。oZ/acy氏も信じない。だが、現實に目の前の一人の人が、「私」の言ふ事に從つたからと言つて、その樣子を見てゐる何十人だか何百人だかの人が從ふ事になるか――或は、そもそも、目の前の一人の人ですら、「私」に從つて、自發的に、自らの考へ方を根本的に改めたか何うか。
徳保さんにしてもoZ/acyさんにしても、「私」・自分の希望する結果に合致するやうに、他人を操つて動かしたいわけだ。けれども、その「動く」理由が、ただ力づくなり何なりであつても、徳保さんやoZ/acyさんは、構はないと思つてゐる。私は、目の前の人が考へを改めないなら、もちろん「話をしてゐる」以上、説得の努力は執拗にすらする。けれども、それが「公開の場で行はれてゐる議論」であるならば、相手個人・目の前の特定の一人の人を、自分の思ふがまゝに操る事は、何の意味もない。それを觀てゐる不特定多數の中の、ただ一人の人でも、私の考へ方に賛同して、自らの考へ方を根本的に革めて呉れるなら、實はその方が遙かに私にとつては嬉しい事である筈なのである。ところが徳保さんは、その一人の人では我慢できない。oZ/acyさんもさう。世の中が、物理的・即物的・唯物的に、私(徳保さん、oZ/acyさん)の希望・願望をかなへて、表面的にであれ何であれ、結果として徳保さん・oZ/acyさんの思つた通りの世の中に「なる」事を望む。それには、考へ方の變革は一切求めない、ただ、肉體的に相手を引きずつて行つて、物理的に社會變革を實現しようとする。もちろん、口で言つただけで相手をさうさせられれば、面倒が一番ない。徳保さんにしてもoZ/acyさんにしても、その程度の興味しか「ない」わけだ。「Googleの検索順位」のやうな「目に見える形」での成果しか、徳保さんは信じてゐないし、oZ/acyさんも信じてゐないのだらう。それが私には氣に入らない。
平成二十二年二月十一日
眠くて途中から意識朦朧の状態で書いてゐる。へろへろな文章になつてゐる氣がするけれども、解る人は解るだらうし、わからん人は何を書いてもわからんだらうし、わからうとして呉れないだらう。眠いからもうどうでもいい。
慥か永井均氏が『これがニーチェだ』で「ニーチェの新しさ」を説いて「現實に役に立たない事ばつかり言つた」事を強調してゐる。が、そもそも文學も哲學も、政治學や經濟學のやうな「實學」と違つて、「糞の役にも立たない虚學」扱ひされてゐたのであつて、その中でニーチェが『役に立たない」としたら、それはさうだが、常識にすぎて、別に今更言ふまでもない事だと、どうしても言はなければならない。
平成二十二年二月十一日
ぐだぐだでもへろへろでもメモを書き附けておくのは、さうしないと後で思ひ出して書かうとしても忘れてしまつてゐて書けなくなるから。そのせゐで、一つのアイデアが世の中から消えてしまふのは――私にしてみれば、その方が遙かにもつたいない。
メモでも毆り書きでも、解る人は解るだらうし――例へばパスカルのパンセなんかは、メモ以外の何ものでもないが、今に至るまで讀まれ續けてゐるし、そこには無數のアイデアがある。私のアイデアがパスカルのアイデアほど有意義であるわけでない事は言ふまでもないが、それでも下手な鐵砲も數打ちや當る、と云つた事はあり得る。兔に角大量に、メモでも何でも、ウェブにはぶち込んで、他人樣からの批判に晒す。もちろん、批判――と言ふより攻撃・罵倒・嘲笑をもつぱらとする人もゐて、さう言つた人の發言が最近極端に甚だしく非道くなつて何うしやうもない事になつてゐるのだが、それでも「默る」選擇肢は考へられないから私は何でも兔に角抛り出す・投出す事に決めてゐる。徳保さんにしてみれば、さう云ふ無責任な言論は、氣に入らないどころか腹立たしいものだらう。けれども、私にしてみれば、責任を理由にアイデアを自分で勝手に抹消する行爲こそ、無責任な態度に見える。と言ふより、それこそ責任逃れしたいだけなんとちやふ? 何も言はなければそもそもプラス方向にもマイナス方向にも、世の中は動いて行かないから。發言者には責任があるにしても、發言しなかつた人に何か責任が發生するなんて事は、常識的に考へたらあり得ないと云ふ事だ。けれども、よくよく考へてみれば、何も発言しなかつた事こそが、重大な「態度の表明」にほかならないなんて事もあり得るのだ。問題含みの記事を「紹介しない」で、結果として「スルーする」事になつてしまつても、またそれはそれで一つの態度を示してゐる事になる。それが「機會を逸した」「書くのが面倒になつた」或は「巧く書けなかつた」程度の理由で生じた、偶然の産物としての態度にすぎないのだとしたら、それは寧ろ非道い無責任な態度と言つて良いだらう。
せいぜい問題にコミットしてゐたと云ふアリバイ作りでも結構だ、それもまた一つの「責任の取り方」だと、考へる立場があつても良い――それは徳保さんの大好きな相對主義の立場から、言はなければならない事だらう。ところが徳保さんが今、徳保さん個人の感情をはつきり出して、だと言切つてしまつてゐるのが、私には理解出來ない。
平成二十二年二月十一日
何時も何時も、問題をパズルみたいに場當り的に解いて遊んでゐるだけなら、讀み手も「ネタ」をぽんと放り出されて、それがどう云ふ意味のものかなんて、解りはしないだらう。けれども、或立場から、或價値觀に基いて、問題を採上げ、批判してゐるのであれば、放り出された「ネタ」を判斷する事は、讀み手には或程度可能になるものだ。
讀み手が推測可能となるやうな批評の形態を、書き手はとつてゐなければならない。それは或程度まで「科學的」な批評と言ひ得るものだ。もちろん、嚴密な科學の定義は無視して、レトリックととつていただいて構はないし、さうとつていただかなければ困る。
徳保さんの何時ものレビューは、全て「相對主義」だと言ひ得べきものなのだらうが、徳保さんが旋毛曲がりであると云つた程度の認識は可能でも、徳保さんの考へ方の根本の部分はさつぱり理解出來ない。さうなると、詳しい説明拔きの、生の「ネタ」なんてものを、讀み手が、推測に基いて解釋してみる、と言つた事も、徳保さんの讀者では不可能と云ふ事だ。私にしてみれば「それが行けない」と云ふ事になる。
平成二十二年二月十一日
眠くてへろへろで、考へつくまゝに文章を書き連ねて、今書いた所の意味を反省してみる、と云つた事も出來ないまゝ、そろそろ寐落ち。けれども、解る人は大體解るだらうと思ふ。
平成二十二年二月十一日
あとから落著いて書かうなんて悠長な事をしてゐると、「ネタ」を見た瞬間のヴィヴィッドな感覺が拔け落ちるなんて事があり得る。その感覺こそが大事である場合も少くないのに。
平成二十二年二月十一日
「Twitterを理解していなかった」――UCC、キャンペーン“炎上”を説明 勉強会で経験共有へ (1/2) - ITmedia News
Twitterと言ふよりウェブの上での活動一般が、從來のマーケティングの手法とは異る事は、もつと多くの人が理解する必要がある。
一方で、結局のところ、誠實な態度・正直な態度が、何處でも必要である事も、理解される必要がある。
平成二十二年二月十一日
2010年2月 - ノート

駄目な括弧の使ひ方のどの邊が駄目なのか、そのやうに例を舉げてより詳しく説明出來るなら最初からすべきだ。

括弧(4)へのご意見・ご感想

駄目出しするのであれば、例を挙げて詳しく説明をしなければならないのに、七鍵はそれを怠った。

七鍵氏が、例によつて自分に都合良く、他人樣からの批判を歪曲してゐる。

要約したのは七鍵だが、中村さんが仰りたいことから大きく外れてはいないだろう。気がついただろうか、カギ括弧の使い方について話をしていたはずが、いつの間にやら七鍵の態度についての話にすり替えられている。

非難の対象が、論から論者に移ると、もうこなると話を続ける意味がなくなる。

そもそも、七鍵氏の根本的な態度に問題があり、その結果として必然的に瑣末な部分で續々と問題が生じてゐる事實が指摘されてゐるのだが、それが七鍵氏には解らない。七鍵氏は、意地でも「私と云ふ人が問題にされてゐる」と云ふ話に歪曲し、問題の本質を歪めて、自分を批判した人を惡人に見せかけ、自分を善人に仕立て上げようとする。何時ものパターンだ。何だかんだ言ひながら、七鍵氏は、自分と云ふ論者を問題にしたいのだ。
或は、「人より論」と七鍵氏は言ふけれども、「論」を扱ふ七鍵氏のやり方が大變に拙いものである事實を、七鍵氏は絶對に認めない。七鍵氏は、以前から、引用せず、誰の事を言つてゐるのかをはつきりさせずに、曖昧な・朦朧とした形で、漠然とした非難を言ひつ放しに言ふ事こそが、ウェブでの發言では絶對に必要だと言ひ續けて來た。それが大變問題のある行動である事實は、私も指摘したが、今囘、改めて、nkky氏も指摘したわけだ。ところがそれが七鍵氏には解らない。何時ものやうに「論者を論じてゐる」と云ふ話に單純化して、「さう云ふ批判を私(七鍵氏)は受け附けないでいい」と、簡單に結論に持つて行つてしまふ。
七鍵氏の惡い癖は、「誰の事を言つてゐるのか判らないやうな言ひ方をする」だけでなく、「物事を必要以上に單純化する」事で、その結果が全て「七鍵氏と云ふ論者にとつてのみ都合が良い」だけの事になるから、皆から嫌がられてゐる。ところが、さうやつて嫌がられる事に七鍵氏は戸惑ひの色を隠せない。自分のやり方は好まれるものだと確信してゐるからだ。日本人なら自分のやうな曖昧な態度が當り前だらうと云ふのが七鍵氏の主張の根柢にあるが、ウェブでの、と言ふより、議論の場での、當り前の態度とは、懸離れてゐる。それが未だに認識すら出來てゐないのが七鍵氏だ。
と言ふか。
読書感想文――ツァラトゥストラへのご意見・ご感想

ニーチェには、観念的なものの言い方は許される。しかし、註釈を加えるものには、観念的なものの言い方は許されない。自分がツァラトゥストラに対しどう思っているか、それを誤魔化しての註釈などあり得ない、これが怠慢と極め付けた理由であり、齟齬が解消されてから私が説明したかった動機です。

ウェブでの――と言ふより一般に批評は、全て對象に對する註釋だ。ならば、註釋としての批評において、観念的なものの言い方は許されない。ところが、七鍵氏は、自分の批評において、常に観念的なものの言い方をする。出典すら明記せず、言及してゐる對象が何であるかを明示しないで、曖昧に論ずる。それこそ怠慢だらう。
否、さう云ふ事が觀念的なのではない、鉤括弧附きで言葉を使ふのが觀念的なのだ、と七鍵氏は逃げを打つだらう。だが、定義を隠喩すらせず、作者の勝手な意図で、文中の語句を括弧で括る、そのような文章を多用してはならない。と、七鍵氏は述べてゐる。作者がどのやうな事を述べてゐるのか、それをはつきりせよと、七鍵氏は述べ、それを明示すべき事を主張してゐる。それは、觀念の内容を「書く」と云ふ行爲に留まらない、一般に自分が述べてゐる内容が何に基いてゐるかを明示すべきであると云ふ主張である。當然、批評において自分が論じてゐる内容が何に基いてゐるかをも、明示すべきである事は、論ずるまでもない。ところが、七鍵氏は、批評の場である概念の内容を嚴密に言ひさへすれば最早問題はないかのやうに思ひ、その批評の内容が何に就いての言及であるかをはつきりさせない事に問題があるとの自覺を持たない。
2010年2月 - ノート
nkky氏。

初め説明不足で意味不明な文章にあり得る特徴の一つ(意味不明な括弧)を突然非難するから、何故そんな細かい事をと思つた。

結局のところ、そもそもの七鍵氏の態度――出典を明示しないで曖昧に物を言ふ、と云ふ何時もの態度――が、またもや問題を生じてゐる、と云ふだけの事なのだ。

それでこれ迄の例から引用無しの非難なのではないかと思い、をかしな文章だと思つた位で惡意を持たれては困ると云ふやうな意圖で最初のコメントを書いた。本當は單なる七鍵さんの説明不足だつたらしい。

ところが、それを七鍵氏は、認識すら出來ない。

引用もせず、つまり論証をしないで決め付けをする七鍵の態度は不当だ。

あゝあゝ態度! このキーワードを引出せれば、七鍵氏は「勝つた!」と思つてしまふのだ。さう。七鍵氏は、このキーワードに辿り着けるやうに、常に話を持つて行く。そして、このキーワードに縋り附いて、他人が自分の「態度」だけを問題にしてゐるのだ、と云ふ話にすり替へる。

非難の対象が、論から論者に移ると、もうこなると話を続ける意味がなくなる。

なるほど、一般論としては、もつともだ。實にもつともだ。「人より論」。「人より理」。その通りだ。
――が、「論者」ではなく「論」こそが問題だ、と、言ひたければ、自分の「論」の論じ方それ自體に問題があつてはならない。七鍵氏は、そこに致命的な問題を抱へてゐる。だから皆が七鍵氏の事を非難する。單純な話だ。「引用しないでそれとなく示唆する」と云ふ、七鍵氏が「當然の態度だ」と威張つて言つてゐるやり方、それが間違ひなのだ。七鍵氏は、さう云ふ批判を受けても、「態度を問題にされた、あーあ(笑)」と云ふ話にすり替へて、自分の態度を反省する事が無い。斯う云ふ人が一番困る。自分の惡い態度を批判されても反省しない。暖簾に腕押し、と云ふ奴だ。

七鍵の態度について非難をしたいのであれば、最初からそう言えば良い。

斯うだ。「nkky氏は最初から私(七鍵氏)の態度を非難をしたいのであつた」と、七鍵氏は極附ける。何處から「最初から」なんて言葉が出て來たのだらう。七鍵氏は、相手の主張を「要約」する時、常に斯う云ふ歪曲の爲の文句を、そつと滑り込ませる。それを七鍵氏は、惡い事とも思つてゐない。恐るべき詭辯の使ひ手だと思ふ。
七鍵氏は、nkky氏がカギ括弧に託けて七鍵の態度を非難しようとしたと極附けてゐるが、nkky氏は後から氣附いたのだ。
七鍵さん、nkkyさんはあなたの發言の意味を、後から知つたのですよ。なぜ「最初から」なんて事を言出すのですか。七鍵さんには、この手の惡質な歪曲が多過ぎます。七鍵さんは、自分に都合が良くなるやうに相手の主張を歪曲し、相手を惡人に見せかけ、自分は絶對の善人であるかのやうに思ひ込んで、居丈高に相手を罵つてゐます。七鍵さんのやり口は、何時も何時も汚いのです。少しは反省したら何うですか。ええ、何うせ私の批判は、七鍵さんは「またあの人か」式の「論より人」論法で否定し、無視するんでせうね。七鍵さんのやり口は、判つてゐます。
平成二十二年二月十一日
「リンクすればいい」は実情に即していない

全く同じ記事なのに、ブックマークの付き方が全然違う。読んだ人数も大違いだと思う。転載先のブログは、ちゃんと原典へのリンクをしている。しているのに、この結果。

虹裏のスレでもさうだけれども、同じやうな内容なのに、一方が過疎つて他方が大盛況なんて事はしよつちゆうある。が、それは、リンクが何うの内容が何うのといつた事とは關係なく、何かのタイミングか、そんな偶然が決めてゐるに過ぎないものだ。
平成二十二年二月十一日
記事を書くのもネタ帳を整理するのもイライラの力の「追記(2010-02-10):」について。つづき。

大勢が無責任にリンクしたせいで、非常に問題のある記事が検索上位に登場するようになってしまった、なんていう事例には事欠かない。常連読者の方なら無言でも紹介した側の意図を汲んでくれるだろうけれど、リンクの影響は常連の外側へ波及していく。問題含みの記事をコメントなしで紹介するのは嫌です。

檢索エンジンでは統計的にドキュメントの重要性をはかるから、さう云ふ事はあり得るけれども、それが單純に「統計的」なものだと皆が認識する事こそが重要だと思ふ。さうなると、結局はウェブの利用者の意識の問題であるわけだが、それが問題の核心なのであつて、個別の記事の社會的位置が何う斯うと云ふのは瑣末な問題に過ぎない。
徳保さんは、社會的な影響の問題を考へてゐる。けれども、徳保さんが注目してゐるのは、個別的な問題における社會的な影響の問題であつて、人々の意識と云ふ社會的な問題と云ふものでない。そこが私には不滿に思はれる。別に個別の問題で間違ひが起きようが、社會全體として間違つてゐなければ、社會的には全然問題ないんだよ。それが政治的な物の見方。一方で、さうした政治的には無視される個別の問題について、「問題がある」と云ふ認識を持つ事、さうした問題がある可能性があるから、個別の問題については冷靜に考へようと、さう云ふ意識を多くの人が持つべきだ、と云ふ考へ方は、これは政治的ならざる問題に屬する。
實際、檢索エンジンの結果なんて、それこそ、「必ずしも信用する必要はない」と云ふ事は、常識化すべきだらう。人の發言も、必ずしも信用は出來ない、と云ふ事は、多くの人が知つておくべき事だ。その邊の事を考へるのが理想的な態度であり、「今、個別の事例で、問題が起きてゐる」→「それを何とかすべきなのだ」と云ふ發想は、なるほど「現實的」な態度だらうが――日本人は斯う云ふ現實の問題に場當り的に對處する態度が當り前になり過ぎて、結果として理想に近附く努力を全然しないやうになつてしまつてゐるやうに思はれる。
と言ふか、さう云ふ個別の問題に就いても、徳保さんもさうだが、「解決は可能だ」と、隨分簡單に考へてしまつてゐるやうに思はれる。
私にしてみれば、さうさう問題は簡單に片附かないものであつて、となれば、そもそもの「問題がある」程度の事を言立てるくらゐの事でもしておけば、それで無名の人間の出來る精一杯の事だらうと思つてゐる。そして人は、自分に出來る事を、精一杯やつてゐれば良いのだ。常連さんが解つて呉れればそれは有難い事だし、わからない人が出て來るのは仕方がない。もちろん、惡意で以て攻撃を仕掛けて來るやうな人が出て來るのは困るけれども、さう云ふ人に個別に仕返しをしても意味がない。結局のところ、多いに誤解と誤讀と歪曲の「被害」を受ける事を承知で、人は物を言ふしかないし、だからこそ、ちやんと解つて呉れる人がゐるならば、有難い、と云ふ事になるわけだ。
平成二十二年二月十一日
この手の問題は幾らでも理窟が附くのであつて、だから「相對主義」なんてものの出番が出て來る訣だが……。
「あなたが言つたから誤解が廣まつた」場合もあり得るし、「あなたが言はなかつたから誤解が廣まつた」場合もあり得る。
徳保さんは、案外この邊の「偶然性」に氣附いてゐない可能性がある。
平成二十二年二月十一日
斯うした「社會的影響」を問題にする場合、「惡い影響を及ぼす可能性がある」と云ふ「可能性」を根據に「すべきでない」とする意見は多い。が、徳保さんは、その邊の「理論」の微妙さを解つてゐるので、理性的には何うしやうもないから、「嫌」と云ふ感情的な理由を示してゐるのだと思ふ。
私にしてみれば、自分の發言が結果として社會にどのやうな影響を及ぼすかなんて、何んな論者も「責任を取れない」ものだと思つてゐる。必然的にどのやうな結果が生ずる物かを言へない以上、現實問題として何を言つてもあらゆる可能性があり得るのであり、さうなると或程度「言ひつ放し」の主張になる事は已むを得ない。
だから、何を言つても良い、と云ふ事にはならないのであつて、出來るだけ誤解を避ける爲と、檢證を可能にする爲に、理由としての論理や價値觀、或は、典據、さういつた材料を澤山提示する事は、意見を言ふ際には必要だらうと、そのやうにされてゐる。が、どれだけ準備をしたところで、先づ自分が間違ひを言ふ可能性があるし、次いで他人が間違つて理解する可能性があるので、結果としての社會的影響なんてものは最う何うにもならない。
平成二十二年二月十一日
【西川和久の不定期コラム】 ION+XP Professionalのネットトップ「マウスコンピューター Lm-mini20」
平成二十二年二月十一日
と言ふか、價値中立とか云ふのに屬するネタ(?)なら、別にコメントなしでリンクはつても問題ないと思ふ。
徳保さんなんかにしても、沸點低いなとか思つた。もつとも、本氣で怒つてゐないらしき事も、「相對主義」とか言つてゐられるんだから、容易に解る。徳保さんの何時もの記事、いらいらしてゐるやうには全然見えない。「問題」を、パズルを解くやうな感じで、淡々と解いて見せてゐるやうな印象がある。だから「何でこんな問題を採上げてゐるの?」と、私は屡々不思議に思つてゐた。
平成二十二年二月十一日
CPUの性能比較
平成二十二年二月十一日
2010-02-11 - 鬱と躁の日々
平成二十二年二月十一日
議論がどれだけ長く續くかとか、さう云つた期間は別に議論の質や内容の評價を決定するものでもないわけで、一言で眞實を言當ててゐる發言に何時までも何時までもえんえん粘着し續けるとかしても、それで一方が他方を「論破した」とかされたとか斷定する根據にならない事は論ずるまでもない。要は内容が問題であるのだけれども、慥かに徳保さんが言ふ通りで、それを考へる讀み手は少いかも知れない。が、議論の内容を讀み手が「考へる・考へない」と云ふ事もまた、「議論の期間」と全く同樣、議論それ自體の質を評價する根據にはなり得ない。精々間接的な批評、或は「レトリックに據る極附けの理由」になり得るだけだ。
平成二十二年二月十一日
日本で報道されない「大統領令」の驚くべき中身 | その他・必見連載
平成二十二年二月十一日
日本人の場合、議論をする意味は、その結果として社會的に具體的な影響を與へる事だ、とすら言つて良い。議論の内容は全く何うでもいい、論者の印象だけが問題だ、と言ふ人が多いのも、「具體的な影響」だけを問題にする日本人の考へ方に基く。感じさへ良ければ何だつて良い、欺してゐるんだらうが嘘を言つてゐるのだらうが氣にしない、その論者は「善人」である、「善人」の言つてゐる事を非難するなんて許せない……。
――と言ふと、また「日本人」「日本人」、と云ふ嘲笑が現はれるわけだが、なるほど、日本人以外の全ての人間が、印象で感情を左右される。けれども、さう云ふ事實を、事實だから、と云ふだけの理由で、肯定し、禮讚する態度は、良いのか。私は日本人だから、一番身近な日本人が先づ良くなるべき事を言つてゐるに過ぎない。それがわからない人は、要は日本人ですら、身近な存在ではない――「大事なのは自分だけ」と云ふウルトラ近視眼の人であるのだらう。諸外國の人々も、日本人と同じだらう――しかし、さう言つて、日本人の我々を免責して、それで何か良い事をした積りでゐる人は、單に無責任な事を言つてゐるだけの事だ。
平成二十二年二月十一日
Endeavor AY301-V(Celeronモデル)|デスクトップパソコン|Epson Direct Shop
平成二十二年二月十一日
日本人に限らず、「動く事」「働く事」に價値を置く人々は「ゐる」。それは事實だ。が、それだけが「價値のある事」であるわけではない、とする價値觀が、例へばキリスト教には「ある」。イエスが現はれた時、甲斐甲斐しく饗應の準備をする姉と、ぢつとイエスの足許で言葉を聞いてゐた妹がゐた時、イエスは妹の邪魔をするなと注意した姉を叱つてゐる。
現實の行爲、現はれた行爲にのみ、意味を見出すのが日本人。それに對して、考へ・思想それ自體をも問題にするのがキリスト教。さう單純化して言ふと、言つた私を馬鹿にする日本人が續々と出て來るのだが、しかし、では、さう云ふ日本人が、思想それ自體のレヴェルで考へてゐるかと言ふと、そんな事は絶對にないし、實際、思想のみならず行動のレヴェルですら問題行動を繰返してゐる事は論ずるまでもなく事實だ。舊約聖書では姦通する勿れなのが、新約では姦淫する勿れになつてゐる。イエスは、行動に表れた惡事のみならず、思想の段階での惡事をも「反省すべき事」として指摘した。今の西歐の連中は、既にキリスト教の支配下から脱し、俗化してゐるとされるが、だから思想的に墮落してゐるとしたら、それは日本人が安心して良い理由にはならず、却つて殘念に思はなければならない事だ。が、今でも多くの歐米の人が、依然として、思想レヴェルでの善惡と云ふ事を問題にしてゐるのであつて、だから、兒童ポルノの問題で、彼我で大きく考へ方に差が出てゐる。
平成二十二年二月十一日
「民主黨か、共和黨か」――人は其の程度の事で、人間としての價値が決められる物ではない。政治的な信條は、その人の價値と、何の關係もない。だから政治的なものは全て價値的に相對的な物で――ところが、それが解らない人が増え過ぎた爲に、現代と云ふ時代は、「價値相對主義」なんて事を大袈裟に言つて「理論化」して見せるパフォーマンスが流行るやうになる。「右でもない、左でもない」のやうなキャッチコピーが本の表紙を飾るわけだ。が、多くの場合、それは所詮、パフォーマンス・見せかけだけのものに過ぎない。「天皇制」なんて、政治的制度の事を論じて、右翼でも左翼でもない、なんて事を、偉さうに曰へる奴は、何も解つてはゐない。
一方、「神か、王か」と云ふ問題は、政治的問題ではない。政治の問題は、人間が生き延びる爲の手段としての問題であるが、「神か、王か」のやうな問題は、人間が生きる、その意義に關はる問題だ。ナチス・ドイツにユダヤ人は虐殺された。今は單純化して言ふけれども、ユダヤ人にとつてナチの虐殺は生き死にの重大事であつた。が、それは結局、生存に關する問題であつたので、政治問題であつたと言ふ事が出來る。一方で、ユダヤ教徒のユダヤ人に、キリスト教に改宗する事を強要するやうな事があつた場合(ポルトガルで昔あつたさうだ)、これは、生き方に關る問題となる。ユダヤ人がユダヤ人たる所以のものとしての宗教を、抛棄せよと命じられる事は、彼等にとつて精神的な死を命じられたのと同じ事になる。
「民主黨か、自民黨か」なんて事は、別にその人の生き方を規定するものでもなく、自民黨の支持者が民主黨に鞍替へするのは大變氣樂に出來る。日本では傳統的に、政治的な信條を變へる事を「裏切り」だの何だのと言つて激しく非難する事が多いが、實際にはさう云ふ「裏切り」が歴史上何度となく繰返され、その結果を我々は別に今さら何う斯う言ふ積りもなく、ただふーんとか言つて眺めてゐる。それが今現在起きると、「裏切られた側」が怒つて――と言ふより、その「裏切つた人間」を罵つて愉しむ爲に罵る、と云ふ事例が、極めて多い。人間の生き方としては、別に民主黨支持者である事も、自民黨支持者である事も、大して大きな意義を持たない。
が、そもそも日本人は、自分が何故生きるか、人間は何故生きるか、と云ふ事を、全く考へない。生きてゐる事實は事實なのだから、それを何にも考へないで默つて受容れ――その上で、巧く生きる事をしなければならない、それが出來なければ人生の落伍者である……とか云ふ、なんか飼はれた競走馬のやうな發想で人間を見てしまつてゐる。

平成二十二年二月十日
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平成二十二年二月十日
小谷野敦『天皇制批判の常識』を店頭でぱらぱら捲つてみた。なるほど「常識」とは良く言つたもので、現在のウェブのあちこちで唱へられてゐる「天皇制批判」とそつくりの内容だつた。パロディの積りならば良いが、これを本氣で言つてゐるとしたら何うかしてゐるとしか評しやうがない。ウェブを見てパクつてゐるだけだろとか、さう云ふ非難が出來てしまふからだ。翻訳家列伝でも、何うも某k氏の「ブログ」の論調をパクつたとしか言ひやうのない、餘りにも典型的な嫌みを目撃した。小谷野は駄目だよ。
平成二十二年二月十日
セブンネットショッピングのサイトに作つた「書肆言葉言葉言葉」で「天皇制批判」批判を書いたが、長過ぎて詰めに詰めてやつと收められる事に。結果、語調だけは激しいが、論旨が解り辛いと言ふか、微妙になつたので、削る前の下書きをここに載せておく。推敲以前の下書きだから、これはこれで微妙は微妙だけれども、解る人は解つて呉れるだらうと思ふ。解らない人は何を言つても解らないからまあ。

右翼・左翼とは別の觀點からの天皇制批判であると標榜してゐますが、實際は左翼的な本です。交戰權を認めるから左翼ではないと言つてゐますが、左翼の國家であるソ聯も中華人民共和國も交戰權を認め、軍隊を持つてゐました(ゐます)。しかし「人間は全て平等であるべきである」と云ふ主張は、明かに左翼の主張です。けれども、それは「べき」論であり、現實をありのまゝに受容れる「である」の論でない事に注意が必要です。

作者は、批判を可能にする爲に、口答への許されない「人の上の人」が存在する事は許されない、と考へてゐます。けれども、例へば、社員が社長の發言を批判する事は、現實に許されます。同じ人なのだから、許されて當然です。けれども、社長は雇ふ人=「人の上の人」で、社員は雇はれる人=「人の下の人」です。即ち、人の下の人が人の上の人を批判する事は、當然の事ながら許されます。が、そこに「上・下」がある事それ自體は何ら問題になりません。

なので、平等主義を唱へる人は、例外なしに、「生まれながらに上下の差別がある」事を問題にします。ところが、それは、論ずるまでもなく、嫉妬が動機であるのです。現實には、生まれながらに人間には差があります。その中で、平等主義の人は、特に「天皇制」だけを問題にする。それしか目に入らないのでせう。視野が狹いのです。

小谷野氏の場合、多くの著作を執筆する際に、嫉妬が動機にある事は、知られてゐます。本書も例外ではありません。

批判に就いて言へば、批判の本家であるヨーロッパでは、「人の上の人」どころではありません、「人の上の神」に口答へする事で、批判精神が養はれました。その結果として、キリスト教の支配的であつた中世と云ふ時代は終り、近代が生じました。神に楯突く事のできるやうになつた人々が、王に楯突くやうになつて、革命が起きるやうになつたわけです。日本には人の上に絶對的に君臨する神がありません。精々「人の上の人」がゐるだけです。さうした「人の上の人」に、日本人は、口答へする事は、たまにありました。けれども、それは、所詮、同じ人相手の行爲に過ぎません。そんな事で日本人は批判精神を成長させる事は出來ませんでした。

しかし、批判精神を養ひ、革命を實現した西歐も、結局のところ、完全な平等主義を抛棄するか、平等主義による不都合を甘受するか、そのどちらかの道を選ぶしかありませんでした。即ち、イギリスは、平等主義等ナンセンスだと達觀し、現在も王制を維持してゐます。フランスは、革命を最初にやつた國ですが、社會體制が安定せず、共和制と絶對主義との間を往つたり來たりしてゐます。平等を原理として採用しなかつたアメリカは、自由主義の旗手として現在世界に君臨してゐますが、現在も黒人問題を引きずつてゐます。

その一方で、日本は、批判精神も滿足に成長させられないまゝ、ただ、先進國を形だけ眞似る習ひ性に基いて、差別撤廢を叫び、平等原理の實現を主張する、左翼が跳梁跋扈する國と化してゐます。

實は、平等原理の主張には、危險な落し穴があります。それは、反戰の主張の落し穴と似たやうなものです。嘗てソ聯や中國が軍縮を主張したのは、自由主義の國々の軍事力を削ぐ事――相對的に自國の軍事力を増大する事が目的でした。「全ての人が平等に」をスローガンに掲げる平等主義も、「自分より上の人」をその地位から引きずり降ろし、相對的に自分の地位を高める事を目的とします。が、反戰主義も平等主義も、結局は、自己の地位を限りなく増大させる事を目的とし始める點で、窮極的に目的を同じうするのです。

平等主義者の人々=左翼の人々が、他人を自分と同等と看做してさう振舞ふべき事は、論ずるまでもありません。ところが、彼等は、常に「自分が一番偉い」と云ふやうな顔をし、他人を見下します。殊に、彼等は、敵と看做した人物を輕蔑し、侮辱を加へ、人格的に貶める事に熱心になる點で、右翼に劣りません。が、平等を標榜しない右翼はまだ罪が輕い。平等であるべき事を唱へ、平等を尊重すべき事を知つてゐる筈の左翼が、他人に對して、大變不公平な態度を取る――惡い事と知つてゐて罪を犯すのだから、知らないで罪を犯す人々よりも、惡質であり、より惡い事は、言ふまでもありません。私の知る限り、平等主義の左翼の活動家の人が、他人に對して對等に振舞はうとした事はありません。

が、それは、小谷野氏も例外では無いのです。

本書は、さう云ふ意味では、非常に典型的な「左翼の本」です。左翼の主義・主張を研究する目的では、大變便利に使へる本でせう。が、その理論を受容れる事は出來ません。

「人の上の人」を、小谷野氏は單純に否定しますが、それでは「人の上の人」の存在を認める日本の社會が成立たなくなります。社會の秩序が崩潰する――のみならず、自分自身を抑へる爲の、尊敬すべき「人の上の人」が、平等主義を安易に導入したのでは、存在し得なくなります。その結果として、既に述べた通り、自我の無際限の擴大、自尊主義の暴走が發生します。それは結局、倫理の崩潰を招くのであり――既に現在の日本の社會では、さうした状況が出來してゐます。

日本に於ては、天皇が轉ければ天皇以下の全ての「人の上の人」が轉けます。全ての人が互ひに他人を輕蔑し、自分が一番偉いと確信して生きる社會になつてしまひます。それが良い事だとは、私には思はれません。

平成二十二年二月十日
さぼてんくん。
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平成二十二年二月十日
お知らせ|京王グループ 「高尾」のヘッドマークを6000系車両に掲出して運転します
今年の冬は地下鐵乘入れ運用の6000系が全部なくなつて、9000系に變つて呉れて非常に助かつてゐる。6000系は隙間風は非道いは座席の端で暖房が效かないはで何うしやうもなかつた。さう云ふ事はWikipediaなんかでは絶對記録されないから書いておく。

平成二十二年二月九日
Firefox向けアドオンにトロイの木馬、Mozillaがアンインストールを勧告 - ITmedia News
Firefoxのアドオンにウイルス混入、事前のチェックでは検出できず:ニュース
「Firefox」用アドオンにトロイの木馬--モジラはユーザーに警告:ニュース - CNET Japan
「Firefox」用アドオンにトロイの木馬--モジラはユーザーに警告 - セキュリティ - ZDNet Japan
『Firefox』のアドオンでトロイの木馬が検出 - japan.internet.com Webテクノロジー
Firefoxエクステンション、トロイの木馬発覚 | エンタープライズ | マイコミジャーナル
asahi.com(朝日新聞社):[CNET Japan] 「Firefox」用アドオンにトロイの木馬--モジラはユーザーに警告 - CNETジャパン ニュース(提供:朝日インタラクティブ) - デジタル
トロイの木馬が含まれるFirefox用アドオン、公式アドオンサイト内で見つかる - スラッシュドット・ジャパンa
次世代ブラウザ Firefox – 高速・安全・カスタマイズ自在な無料ブラウザ
Mozilla Japan - Firefox アドオン

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ウェブブラウザ本體は安全だが、安全でなく、安全も保證出來ないアドオンをバンバン入れろと盛に推奬してゐるのがFirefox。アドオンが絶對に入らず、アドオンが入つてゐなくても十分な機能を持つヴァージョンのFirefoxがあれば、使つてもいいんだが……。今のFirefoxは使ふ氣になれない。
平成二十二年二月九日
マック「Big America」再び計画変更 NYバーガー「売れすぎ」で : J-CASTモノウォッチ
日本マクドナルド/「ニューヨークバーガー」提供時期を変更 - 流通ニュース
マック新バーガー、売れすぎで販売計画変更 - 社会 - SANSPO.COM
マクドナルドの期間限定“米国企画”、売れすぎて販売計画変更に ニュース-グルメがテーマのオリコンランキング
平成二十二年二月九日
Mac信者の方々には申し訣ないが、私はMacに多くの不満を持つてゐる。その中でも致命的な問題點を二つ。
Macはテキストを扱ふのが極めて苦手だ。純粹なテキストファイルを扱つてゐるのか、リッチテキストを扱つてゐるのか、判らない。Windowsだと割と安心してテキストを扱へる。ダイアログボックス等で文字化けしたり、日本語テキストが壞れたり……と、Windowsではあり得ないやうなトラブルを屡々起す。昔のOS/2なんかでも見られたやうな、何うも日本語對應が不十分なのではないか、と思はれるやうな動作がしよつちゆう見られる。この點は、Linux等でも同じ。
Macは、ファイルに變な屬性を附ける。Macで作成したファイルを、FAT32でフォーマットしたUSBメモリ等にコピーすると、ドットファイルが作成される。これは迷惑な存在でしかない。unix方面ではメジャーなファイルだが、要らないだらうと思はれる情報許りをMacはファイルシステムに溜め込んでゐるやうに思はれる。
MacのFinderは、Windowsのエクスプローラに比べて、ファイラとしての使ひ勝手が惡い。勿論、「慣れ」もあるだらうが、根本的にをかしいと思はれる動作があちこちに見られる。書込み不可のディスク、例へばDVDを開いた時、中のアイコンを少しドラッグしただけで「コピー出來ません」のやうなエラーの表示を出す。何かをかしいと思ふのだが、これがMacでは當り前。また、ショートカットキーの定義も異常。Cmd+fとCmd+dのやうな、押し間違ひ易い定義のショートカットキーが、Macでは當り前のやうに存在する。ショートカットキーに限らずMacのキー操作は奇怪な體系化がなされてゐるが、「慣れ」で納得して良いものだらうか。一行フォームの行頭・行末移動は、Home/Endではなく、↑/↓だとか。ファイルのオープンがCmd+↓だと前に教へて貰つたが、「なぜ」さうなつてゐるのか、訣がわからないので、使ふ度に氣が狂ひさうになる。「便利だから」と云ふ便宜主義的言ひわけが、Macの操作體系には存在する。「慣れれば便利」――しかし、慣れない人間にとつて、Macの操作性は、非常に敷居が高い。
Mac OS X 10.4を使用してゐる。その後のヴァージョンでは、改善されたのだらうか。
平成二十二年二月九日
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平成二十二年二月八日
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平成二十二年二月八日
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平成二十二年二月八日
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平成二十二年二月八日
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平成二十二年二月八日
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平成二十二年二月七日
【日本人とこころ】福田恆存と孤独(上)「日本にも天がある」 (1/4ページ) - MSN産経ニュース
平成二十二年二月七日
關東に惠方卷なんてものを食ふ習慣はありません。
選りにも選つて大阪の、それも商人の習慣なのださうだ。
平成二十二年二月七日
さるさる日記 - 龍宮城と現代の落差にビックリ 2010/02/05 (金)

所で昨日触れた『算法少女』だが、大相撲の人は読むべし、である

此の中で

「算術は誰がやらうが、正しい物は正しい、其処が良いのです」

「所が日本の算術は、○○流だ、××流だ、と互ひにいがみ合ひ、正しい算術を究めやうとしない」

といふ発言がある

大相撲の人でない人でも、讀んだら何かを得るかも知れない。「理より人」とか言つてゐる人とか。
平成二十二年二月七日
ところで浦島さん。
寺脇研が間違っていたわけ - 猫を償うに猫をもってせよ

 冗談じゃないぜ。蔭でこそこそ人(この男の場合じゃなく)を罵倒している2ちゃんねらーより、体張って愚行をしたリーゼント男のほうが人間としてなんぼかましだ。

其處までちやんと考へてリーゼント男が愚行をやつてゐると、どうして小谷野氏は判つたのだらう。と言ふか、愚行は愚行だろ。2ちゃんねらーを惡く言ふだけの爲に、「敵の敵は身方」と云ふ事で、小谷野氏は安易にリーゼント男を持上げてゐる。
さるさる日記 - 龍宮城と現代の落差にビックリ 2010/02/04 (木)
浦島さんは、小谷野氏の發言の一部に共感を覺えたやうなのだけれども、小谷野氏は所詮、奇矯な事を言ふだけの、をかしな人に過ぎない。あれは贋物だよ。小谷野氏も所詮は「理より人」の人だ。
平成二十二年二月七日
實際のところ、さうさう教養人がゐるわけもないのであり、小學校でも中學校でも高校でも、はたまた大學でも、教師が人間的に立派であるとは限らないし、立派でなければならないとも言ふ事が出來ない。教師は精々技術的に教へられる能力があればそれで十分としなければならないのだし、それには(高校までは)一往免許があつて、教員になるには教員免許を持つてゐなければならない。が、免許を取つてゐたとしても、實際にはさうさう技術なんてものを全ての教師がきちんと身に附けてゐるとは限らない。それでも教師は、教師となつたからには、教師として扱はれなければならない――能力があらうがなからうが。
重要な事だが、結局人間は人間、完全な存在ではあり得ないのであり、さう云ふ不完全な存在の人間が、他の人間に教へなければならない現實が「ある」。この事を、我々はよくよく考へなければならない。そこを考へないからこそ、人は實に簡單に他人を「人として」何うの斯うのと批評し、或は「人として」駄目だと罵倒の言葉を浴びせる。人の不完全性を人が云々する事は、何時如何なる場合にも例外なしに、自分を棚に上げて言ふ事だ。それでも「言ふ」のならば、それは何なのか、を、我々は考へる必要がある。
教師は、子供に教へる職業の人だ。ところが、子供にであれ、人が人に教へる資格なんてものは、よくよく考へたら、あり得ない。それなのに我々人間は、何うしたつて、子供を教育しなければならないのであり、教師を必要とする。ならば、理窟ではあり得ない存在である「人を教へる人」=教師を、理窟を越えて認めなければならない。ダメ教師でも教師として認めなければ、子供の手前、示しがつかないのだし、子供の前では兔に角ダメ教師でも教師であるとして威嚴を保たせなければ教師は教師たり得ない。だから教師批判の類はさうさうやつては行けないわけだ。「人の上の人」と云ふものは、慥かに理窟では否定され得るが、否定しては社會が困るのであつて、何とか否定しないでやつて行く事こそが必要だ。
平成二十二年二月七日
鴻巣友季子の日本語と原爆ファシズム - 猫を償うに猫をもってせよ

かくして、一ページか二ページに一つは、不適切な日本語がある。もう鴻巣訳の検討はやめにしたい。鴻巣氏は翻訳のあり方について考える前に、日本語をもっと勉強するべきである。

「勉強すべきである」で締めたら良かつたのに、と思つた。勉強するべき。……。
平成二十二年二月七日
http://www.jinja.co.jp/article/001-004138.html 神社新報社 〈論説〉素朴な「一般」の信仰護れ
平成二十二年二月七日
正字正かなプロジェクト プロジェクト日本語トップページ - SourceForge.JP
結局このプロジェクトも死んでるし。
平成二十二年二月七日
右翼から左翼に轉向した人に、ろくな奴はゐない。殊にそれを自慢げに言ふ人には。
もつとも、何でも自慢げに言ふ人は皆、ろくでもない奴に決つてゐる。
自分の事を自慢げに語つて、他人に劣等感を持たせて追詰めようとする人も、世間には多いけれども。
其處までして他人を追詰めないとやつて行けない精神つて、相當追詰められてゐるとしか思へないんだが。
平成二十二年二月七日
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20100206ATDG0503I06022010.html NIKKEI NET(日経ネット) 「ワークライフバランス」、認知度5割超に 内閣府調査
廣く世間的に問題になつてゐる時點で「症状は末期的」であるわけだが、俺が斯う云ふ事に口を出すと「また自分の言ひわけに使ひやがつて」とか俺を罵倒する言ひわけに利用する手合ひが出て來るから默る。俺には物を言ふ自由がないらしいから。
平成二十二年二月七日
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平成二十二年二月七日
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平成二十二年二月七日
http://www.pyon.net/diary/20100206.html#p04

何と言ふか知能は有つても知性が無いのだろうな。

安田氏は兔も角、世間には斯う云ふ「知能は有つても知性が無い」と云ふ人は非常に多い。
明かに言つてゐる事がをかしければ安全だが、個別の事實については正しい事を言ふ人も結構多い。「知識があるんだから結論も正しいのだらう」と簡單に騙される人が出て來るので大變危險。
平成二十二年二月七日
日本の捕鯨船とシー・シェパードの妨碍船が衝突し、互ひに非難の應酬をしてゐるとの事だが、誰が何う見てもシー・シェパードの方が惡い。シー・シェパードは「アンチ」なので、惡い事は論ずるまでもなく最初から判り切つてゐる。
「アンチ」は、自分逹が絶對的に正しく、自分逹が嫌がらせをしてゐる對象は絶對的に惡いと信じてゐる。しかし、やる事なす事全て「アンチ」は鄙劣である。ところが、自分がやつた鄙劣な事を、「アンチ」は鄙劣な行爲だと認識出來ない。それどころか、事實を歪曲し、理窟を故事つけては、自分を「正義」に見せかけ、嫌がらせの對象を惡者に見せかけようとする。自分逹の手段が如何にも惡質なのに、「アンチ」は、言ひわけやら屁理屈やらを驅使し、嫌がらせの對象の價値觀を非難し、たまに相手が見せるミスを大袈裟に言立てて、兔に角「惡いのは相手だ」と言張り、それで自分逹は完全に免責されるかのやうに思ひ込んでゐる。
シー・シェパードは、日本の捕鯨船との「衝突はまた起こるだろう」と述べたさうだが、これは「またぶつけてやる」の意にほかならず、如何にも客觀的な風を裝つた脅迫である。この手の脅迫を「アンチ」は常に行ふ。
平成二十二年二月七日
UCC、Twitterでのキャンペーン告知を謝罪 複数アカウントのBOTでメッセージ送信 - ITmedia News
自分のやつてゐる事がスパム行爲にほかならないと自覺出來ない大手企業のおぼつちやん社員は結構多い。某元國營企業の社員F氏等は、Yahoo!掲示板に政治的な事を書込んで遊んでゐる左翼社員だつたが、野嵜に粘着して野嵜が書込む度に「こいつの言うことを聞かないで下さい」と書込むやうになつた。それを私は當時「荒し行爲」の一種と見たのだが、今思へばスパム行爲の一種であつた。もちろん、その行爲をするのにF氏は何の良心の呵責も無かつたので、企業の内部から書込んでゐても全然惡い事をしてゐるとは思つてゐなかつた。大手企業の社員の傲りが彼の行動の一原因なのであるが、同時にそれは一種の甘えであつた事も否めない。
政治目的の嫌がらせを「正しい事だ」と確信してゐる人々は今でも非常に澤山ゐる。彼等が、特定の對象を潰す爲に、無差別に各地の掲示板や「ブログ」のコメント欄に嫌がらせや中傷の文句を書いて廻る行爲も、當然の事ながらスパム行爲である。それを彼等はスパム行爲だと認識する事が出來ない。自分は大變良い事をしてゐるのだ――否、抑彼等は、潰したい特定の對象が嫌な思ひをするか何うかだけにしか興味を持たない。社會的な意識は全く持つてゐない。
企業の宣傳目的であつても、「企業の爲になる」のならば何でもやつて良い、と考へる、甘い社員は極めて多い。會社の利益に繋がるのならば良い事ではないか、プロモーション活動をして何が惡いのか――ところがそれが、社會に迷惑をかける行爲であつたら。割と多くの社員の人が、さう云ふ事を想像する事すらも出來ない。企業の中でぬくぬくと生きてゐる社員――若い人に世間知らずが多い事は良く知られてゐるが、意外とヴェテランのおつさんも世の中の常識が解らなかつたりする。さう云ふ世間知らずがウェブで代々的にプロモーションを打たうなんて考へ、ちよくちよく變な事をやりだすのだが、困つた事だなあと思ふ。今さら教育しても手後れだし、永年培つて來た自己中心的な考へ方も改まる筈がないから、をかしな事をやらかす人は今後も出てくるだらうが、その度に我々はニュースにするしかない。
平成二十二年二月七日
民主黨の獨裁的な體制・非民主的な體制を問題視してゐる人は結構ゐるけれども、私はさう云ふ人逹に與しない。なぜなら、政黨が獨裁的である事は必ずしも問題ではないからだ。殊に民主主義の體制の國家に於いては。なぜなら、内部の體制が獨裁的な政黨であつても、選擧で選ばれて政權に附いたのなら、次の選擧の際に政權から轉落する事があり得るからだ。如何に強權的な支配者でも、民主主義の選擧制度に從ふのならば絶對的な支配者ではない。任期があつて交替がある限り、獨裁者であつても絶對的支配者ではない。今の民主黨の支配者の人は、選擧制度にまで挑戰しようとは考へてゐない。安全である。

平成二十二年二月六日
"ユーザービリティ"の怪: 人机交互論
平成二十二年二月六日
怒られてまはりから散々やめろやめろ言はれて仕方なく引退宣言すると「自主的」なんだとか。
平成二十二年二月六日
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平成二十二年二月六日
ソ・ラ・ノ・ヲ・トの眞似……。
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平成二十二年二月五日
噂のにゃもちくん紳士ヴァージョン。
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尻尾はあつた方が良い感じ。
平成二十二年二月五日
にゃもちくん。
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平成二十二年二月四日
にゃもちくんの性格は猫の目のやうにくるくる變る。
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平成二十二年二月四日
星見
平成二十二年二月四日
星追ひ
平成二十二年二月四日
http://www.geocities.jp/janggijp/2010-02.html#D04-1
分類表。お茶吹いた。

平成二十二年二月三日
節分
平成二十二年二月三日
Life is beautiful: 「なぜAppleはiPadにFlashを載せるべきではない」のか
かつてウェブブラウザと言へば、HTMLを整形して表示するのだけれども、自前で表示出來ないやうないろいろなデータはプラグインなるものを使ふ事で表示出來るやうにした、とつても便利なプログラムだ、とされてゐた。それが何時の間にか、プラグインなんか使はないで自前で何でもかんでも表示出來るものに變貌し、それどころかHTMLそれ自體がテキストのマーク附け言語からマルチメディアプレゼンテーション制御言語に變貌を遂げようとしてゐる。
で、それを皆が皆「とても良い事だ!」と叫び、殊にエヴァンジェリストと呼ばれるやうな人が盛に言つてゐる。
私のやうな保守的な人間から見れば、斯う云ふ變化は受容れられないものであり、また、從來の概念を宣傳し、教へてゐた人々が一切の自己批判もなく、無闇と新しい概念に飛附いては喧傳し捲つてゐるのには、嫌な感じさへ覺える。何故こんなに簡單に「H・T・M・L・5・!」にみんな飛び附けるのだらう。非道い事に、かつて「よい」「正しい」とされた技術を今でも扱つてゐるディヴェロッパーを、「古いものに固執し、新しいものの普及を妨碍してゐる惡人」のやうに極附け、殆ど人格攻撃に近いまでに非難し――しかしさう云ふ誹謗をやらかして當り前のやうな顏でゐる。「新しい」と云ふ事が、何うして罵倒を免責する理由として有效となるのだらう。
ウェブ技術に關する一部のエヴァンジェリストは、殆ど裏切り行爲でしかない事を、平氣でやつてゐる。さう云ふ人が尊敬されるのはをかしな事だ。
平成二十二年二月三日
HTML 4までは、オブジェクトの埋め込みを抽象化してobject要素にまでしようとしてゐた。それをHTML 5で、「さう言ふやり方は間違つてゐました」と言つて、全否定して、やめる、プラグインは完全に使へなくする、と云ふのなら、解る。けれども、それは現實に出来ない。JavaのVMをウェブブラウザの中に取込んで、Javaのアプリケーションをウェブブラウザ自身で驅動する、なんて事は、絶對にやれない。だからFlashを動かせないとか言つてゐるけれども、プラグインを全否定するのではなくて、一部のプラグインだけを動かさないやうにすると、さう云ふ限定的な事をやらうとしてゐるわけだ。が、さう云ふ中途半端なやり方は、俺は好かない。HTML 5なるものの方針は、「現實と妥協する」と云ふ事なのだけれども、思想的にはHTML 4からそれ以前に退歩してゐるのであり、それは技術的にも退歩してゐると言つて良い。が、それを技術のエヴァンジェリストはしれつと「進歩だ」と言つてのけ、何も知らない人々を欺して威張つてゐる。詐欺だと思ふ。

平成二十二年二月二日
私はWebの業界に向いてない - 黄色いガードレールの上で

Webは色々拡散させるには向いているけれど、紙媒体みたいに堅牢じゃないのがヤだ。

私にしてみれば、紙媒體におけるやうな「堅牢なデザイン」こそが「正しいデザイン」だと思ひ込んでゐるデザイナ諸氏の存在の方が邪魔なのであつて、そのせゐでウェブ上に大量の「おしゃれなウェブサイト」が氾濫してゐるのだと思つてゐる。そんなに凝らないでも、何うせウェブブラウザやら何やらにテキストを流し込めば勝手にレイアウトして呉れるんだからそれでいいぢやんとか思ふのだが、それが多くの「紙媒體のデザイナ」氏には「我慢ならない」事に思はれるらしい。と言ふか、ほぼ全てのデザイナ氏は、テキストなるものの存在それ自體が鬱陶しいものだと思つてゐるらしく、意地でも畫像を使つてやらうとする。テキスト流し込みをデザイナ氏は極端に嫌ふ。私にはそれが解せない。

Webなぁ。とりあえず、仕事ではやりたくないですね。

甚だしく同感。
實は、デザイナ以外でも、結構「紙のデザイン」の考へ方でウェブのデザインを判斷しようとする人が現在も異常なまでに多く、さう云ふ人のかかはる状況でウェブの仕事をすると常に嫌な衝突が起きる。全部一人で好きなやうにやつていいなら幾らでもやるけれども、さう云ふ仕事を呉れるやうなところは無いと思ふ。
平成二十二年二月二日
変幻自在のアップル「iPad」、紙メディアの逆襲始まる:日経ビジネスオンライン
まだiPadは失敗作だとつぶやいてるあなたへ... その予想は甘い! : Gizmodo Japan(ギズモード・ジャパン), ガジェット情報満載ブログ
iPadは、電子ブックリーダとして「いい」し、iPod、iPhoneのアプリケーションがそつくりそのまゝ使へる點でも有利。
『iPad』で『Windows 7』が使える? - japan.internet.com 携帯・ワイヤレス
で、ついでにネットワーク越しにWindowsのデスクトップにもアクセス出來ると。
「iPad」はパズルの最後の1ピース--アップルが挑むメディアとモバイルの融合:スペシャルレポート - CNET Japan
……だが、さうなると從來のMacintoshは今のAppleの中では浮いた存在になつてしまつてゐる事になる。
そこでこんなものが出てくると云ふ噂。
噂:Appleがもう一つのタブレットを開発中。iPhoneよりMacに近い。
平成二十二年二月二日
にゃもちくん大暴れ。
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平成二十二年二月一日
にゃもちくん。にゃーにゃーにゃー。
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平成二十二年二月一日
一年前に撮つた寫眞。
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