私には、生みだされて称賛に値する力としての文学の機能は、まさにそれが人間性を鼓舞して生活を持続させる点にあると主張できるように思う。すなわち、それは無理な緊張から精神をやわらげ、それを養うことにあるのであって、いいかえれば、本能の営養にほかならない。
このような考え方は、秩序の愛好者を悩ますかも知れない。あたかも、すぐれた文学がしばしば彼らを悩ますように。彼等はこのような考え方を危険で渾沌として動揺的だとみなしている。このような考え方を屈服させるために、彼等はいろいろとバカげた品のよくないきまり文句を吐いている。彼等は健康で元気なほとばしりの代りに、どろ沼や虚脱や大がかりな腐敗をつくりだそうとする。彼等はこのことを、純然たる愚劣さと同時に、文学の機能にたいする無理解から行っている。
……。ある詩を説明するには、それが何から作られているかとか、またそれを生み出した原因を調査することによって、それが可能であります。そして説明ということが理解への必要な準備かもしれません。しかしながらある詩を理解するためにもう一つ必要なことは、そしてほとんどの場合にそのほうがもっと必要だとあえてわたくしの言いたいことは、その詩の目指しているのは何であるかを把握しようと努力すべきことであります。いうならば――もうかなり昔にわたくしは幾分の確信をもってそういう用語を使ったことがありますが――その詩の生命力(エンテレキー)を把握すべく努力することであります。
おそらく批評の形式として、原因の説明に依存しすぎる危険の最も大きなものは評伝でありましょう。とくにその伝記作者が外的事実の知識を内的体験に関する心理学的臆測をもって補う場合であります。……。
改めて讀んで、徳保さん言つてゐることは、本當に「相對主義」だらうかと感じた。私は「相對主義」を知らない――知らないが「押附の自肅」をこんなに擴大解釋したものが本當の「相對主義」であるとは思へない。徳保さんの言ふ「相對主義」は便利な主義だ。「押附」と言へばそれで全て終る。
料金は入会金が5万2500円。1回2時間を基本に月4回サービスが受けられるそうで、サービスの完了時に1回あたり5万2500円を現金払いすることになるようです。また、30分につき1万500円の超過料金が別途発生するとのこと。
時給は1万円。エロ記事の筈なのに何か嫌な計算を始めてゐる俺。
「失はれゆく日本語」の対策としては、何をおいても国語政策の基本姿勢を改めることが急務だと思ふ。
第一に当用漢字表の「範囲」を「基準」か一応の「目安」に改めて、必要な場合の表外漢字の使用を自由にすることであらう。これによって漢字の、殊に難解漢字の氾濫が起こると考へるのは杞憂であらう。過去の自由な時にもそんな事は起こってゐない。また、何時とはなしに誰とはなしに大衆の大智が選択固定して行くのが生命ある言葉といふものであらう。
第二には、「現代かなづかい」の「現代語の現代語音による表記」といふ危険な考へ方を改めることである。この考へ方は危険であるばかりでなく、言語学上からも大きな問題のある所だと聞いてゐるが、要するにこれを改めれば、仮名は歴史的仮名遣ひを「準則」とするといふことになって、安定が取り戻される。
国語は、漢字仮名交りを以て、その表記の正則とする。国語審議会は、この前提の下に、国語の改善を審議するものである。と、国語審議会が宣言できるか否か、と問うた、有名な「吉田提案」も、本書に收められてゐる。
われわれの伝記を批評と同じものだとしてはなりません。伝記が通例有益なのは、それの提供する説明がより深い理解への道を開くことがあるからでありますが、同時にわれわれの注意を詩人のほうに向けさせて、詩からはそれさせることがあるのであります。
要するに Theoria の足が臭いせいで、酔った勢いのポストを許容できない人間へ問題が拡散した。
- 福田恒存
- (大一- 1912-)評論家。東京の人。東大英文科卒業。日大豫科講師、日本語教育振興会アメリカ研究室勤務を經て、東京女子大講師になつた。政治と文学との各の完全な自己発揮による補完を説き、プロレタリア文学に對し、「人間性を犠牲にしてまで擁護せねばならぬ眞實とはいつたいなんであるのか。」と、その人間侮辱を攻撃した。主要著書「平衡感覺」
- 橋本進吉
- (明一五-昭二〇 1882-1945)國語學者。敦賀の人。東大文学部卒業東大教授となつた。昭和九年「切支丹の教義に於ける國語の研究」によつて文学博士になつた。国語の史的研究、文法研究、國語問題等の廣い分野にわたり、きわめて嚴密な学究的活動をし、上代特殊假名遣の研究を始めとする種々の業績を殘した。主要著書「國語學概論」「國語法要説」「國語學研究法」「古代國語の音韻に就いて」等。
- 時枝誠記
- (明三三- 1900-)國語学者。東京出身。六高を經て、東大國文学科卒。昭和二年京城帝大に赴任。一ヶ年半の外遊を終えて昭和四年歸朝。現在東大教授、文学博士。昭和十六年に發刊された「言語過程説の成立とその展開」の副題を有する「國語學原論」は著者の國語研究の基礎をなすところの言語の本質觀と、それに基く國語学の體系的組織に就て述べられたものであり、前年、十五年刊の「國語学史」は、この言語過程説の根據ともなり基礎ともなるものである。更に近著「國語研究法」は、学問上に於ける自敍傳とも言うべきもので、自己の拓き進んで來た國語研究の道程と、学説の展開とが跡づけられたもので著者の学説理解のための好資料である。他に諸雜誌に掲載された國語学關係の論文が多數ある。
- 坂口安吾
- (明三九- 1906-)小説家。新潟縣出身。東洋大学印哲科卒。戰後最も目ざましく進出した作家で、織田作之助、田村泰次郎等と共に頽廢文学の系列として考えられる。その文学論として、頽廢は所謂官能的情趣的なものでないとし「墮落」の通念に反逆し、「墮落に徹する」と言う。即ち墮ちるだけ墮ちきつたところから立上がらんとする意力的なものを説くが、實作上では現實の探究や批判が具現されているとは言えない。作品の多くは精神と肉體との相克の激しさ、自己の醜さに絶望しつゝも肉體的なものにはしる苦惱を寫している。主要著書「吹雪物語」「墮落論」「道鏡」等。「坂口安吾選集」(銀座出版社)がある。
つか、その場にいたであろう米軍側の首脳の方が逆にギョッとしたんじゃないのかな。
「政治・外交上の美辞麗句で〜」って部分だけでも、実力部隊の長が政府活動の一環である外交活動を否定しいるとも取れてしまう訳で極めて拙いし、「『信頼してくれ』などという〜」の部分は明らかに現政権を揶揄してる訳で、(現在に現実に起こるかどうかは別にして)時代が時代ならクーデターの教唆をも想起させる内容だと思うのだが。
どっち向きの発言であれ、国家最大最強の実力部隊の首脳が、特定の党*1の政策やら行動を揶揄するって事態はさ、実力部隊が国民の付託を受けた政府と異なる意思を持っている、って事で、「それなんて『パト2』?」あるいは軍事独裁国家?*2、っていう。
加えて、そんな類の話を、ましてや外国の軍隊の前でやっちゃうってのは、俺からしたら国辱もんだと思うんだよね、と。
てな訳で、「民主国家」を掲げている国家の実力部隊のエライさんが口にする事じゃないわなぁ、と、俺は思うんだけどね。
お前ら、あんなに喜び勇んで民主に投票したくせに、ほんと勝手だよなあ。
例の秘書の問題だって、自民の興信所が拾った不確定なままのネタなのに、そんなのがマスコミで話題になったって程度でお前が投票した政党への信仰をさらっと翻すのか?てか、じゃあお前らはそれでまた自民支持に転向するのか??おい。
HPのプリンタ等も、故障の修理の際に、修理より交換の方が早いからと交換品がすぐ送られてきますが、完全なる新品で返すのではなくて新中古品ですよ。
よくある話で、問題ないのではないでしょうか?
シール張り替えとかのレベルになると、すごいですね。
野嵜さんだって、何も言葉を添えずに野嵜さんの名誉を毀損し侮辱するような記事ばかりたくさんリンクするような人がいたら、不愉快になりませんか?
無意味ですらある事は、百も承知――しかし、さうした「無意味な事」が、絶對に世の中には必要である事は、私は確信してゐる。徳保さんは信じない。oZ/acy氏も信じない。だが、現實に目の前の一人の人が、「私」の言ふ事に從つたからと言つて、その樣子を見てゐる何十人だか何百人だかの人が從ふ事になるか――或は、そもそも、目の前の一人の人ですら、「私」に從つて、自發的に、自らの考へ方を根本的に改めたか何うか。
嫌だと言切つてしまつてゐるのが、私には理解出來ない。
駄目な括弧の使ひ方のどの邊が駄目なのか、そのやうに例を舉げてより詳しく説明出來るなら最初からすべきだ。
駄目出しするのであれば、例を挙げて詳しく説明をしなければならないのに、七鍵はそれを怠った。
要約したのは七鍵だが、中村さんが仰りたいことから大きく外れてはいないだろう。気がついただろうか、カギ括弧の使い方について話をしていたはずが、いつの間にやら七鍵の態度についての話にすり替えられている。
非難の対象が、論から論者に移ると、もうこなると話を続ける意味がなくなる。
ニーチェには、観念的なものの言い方は許される。しかし、註釈を加えるものには、観念的なものの言い方は許されない。自分がツァラトゥストラに対しどう思っているか、それを誤魔化しての註釈などあり得ない、これが怠慢と極め付けた理由であり、齟齬が解消されてから私が説明したかった動機です。
観念的なものの言い方は許されない。ところが、七鍵氏は、自分の批評において、常に
観念的なものの言い方をする。出典すら明記せず、言及してゐる對象が何であるかを明示しないで、曖昧に論ずる。それこそ怠慢だらう。
定義を隠喩すらせず、作者の勝手な意図で、文中の語句を括弧で括る、そのような文章を多用してはならない。と、七鍵氏は述べてゐる。作者がどのやうな事を述べてゐるのか、それをはつきりせよと、七鍵氏は述べ、それを明示すべき事を主張してゐる。それは、觀念の内容を「書く」と云ふ行爲に留まらない、一般に自分が述べてゐる内容が何に基いてゐるかを明示すべきであると云ふ主張である。當然、批評において自分が論じてゐる内容が何に基いてゐるかをも、明示すべきである事は、論ずるまでもない。ところが、七鍵氏は、批評の場である概念の内容を嚴密に言ひさへすれば最早問題はないかのやうに思ひ、その批評の内容が何に就いての言及であるかをはつきりさせない事に問題があるとの自覺を持たない。
初め説明不足で意味不明な文章にあり得る特徴の一つ(意味不明な括弧)を突然非難するから、何故そんな細かい事をと思つた。
それでこれ迄の例から引用無しの非難なのではないかと思い、をかしな文章だと思つた位で惡意を持たれては困ると云ふやうな意圖で最初のコメントを書いた。本當は單なる七鍵さんの説明不足だつたらしい。
引用もせず、つまり論証をしないで決め付けをする七鍵の態度は不当だ。
態度! このキーワードを引出せれば、七鍵氏は「勝つた!」と思つてしまふのだ。さう。七鍵氏は、このキーワードに辿り着けるやうに、常に話を持つて行く。そして、このキーワードに縋り附いて、他人が自分の「態度」だけを問題にしてゐるのだ、と云ふ話にすり替へる。
非難の対象が、論から論者に移ると、もうこなると話を続ける意味がなくなる。
七鍵の態度について非難をしたいのであれば、最初からそう言えば良い。
カギ括弧に託けて七鍵の態度を非難しようとしたと極附けてゐるが、nkky氏は後から氣附いたのだ。
全く同じ記事なのに、ブックマークの付き方が全然違う。読んだ人数も大違いだと思う。転載先のブログは、ちゃんと原典へのリンクをしている。しているのに、この結果。
大勢が無責任にリンクしたせいで、非常に問題のある記事が検索上位に登場するようになってしまった、なんていう事例には事欠かない。常連読者の方なら無言でも紹介した側の意図を汲んでくれるだろうけれど、リンクの影響は常連の外側へ波及していく。問題含みの記事をコメントなしで紹介するのは嫌です。
右翼・左翼とは別の觀點からの天皇制批判であると標榜してゐますが、實際は左翼的な本です。交戰權を認めるから左翼ではないと言つてゐますが、左翼の國家であるソ聯も中華人民共和國も交戰權を認め、軍隊を持つてゐました(ゐます)。しかし「人間は全て平等であるべきである」と云ふ主張は、明かに左翼の主張です。けれども、それは「べき」論であり、現實をありのまゝに受容れる「である」の論でない事に注意が必要です。
作者は、批判を可能にする爲に、口答への許されない「人の上の人」が存在する事は許されない、と考へてゐます。けれども、例へば、社員が社長の發言を批判する事は、現實に許されます。同じ人なのだから、許されて當然です。けれども、社長は雇ふ人=「人の上の人」で、社員は雇はれる人=「人の下の人」です。即ち、人の下の人が人の上の人を批判する事は、當然の事ながら許されます。が、そこに「上・下」がある事それ自體は何ら問題になりません。
なので、平等主義を唱へる人は、例外なしに、「生まれながらに上下の差別がある」事を問題にします。ところが、それは、論ずるまでもなく、嫉妬が動機であるのです。現實には、生まれながらに人間には差があります。その中で、平等主義の人は、特に「天皇制」だけを問題にする。それしか目に入らないのでせう。視野が狹いのです。
小谷野氏の場合、多くの著作を執筆する際に、嫉妬が動機にある事は、知られてゐます。本書も例外ではありません。
批判に就いて言へば、批判の本家であるヨーロッパでは、「人の上の人」どころではありません、「人の上の神」に口答へする事で、批判精神が養はれました。その結果として、キリスト教の支配的であつた中世と云ふ時代は終り、近代が生じました。神に楯突く事のできるやうになつた人々が、王に楯突くやうになつて、革命が起きるやうになつたわけです。日本には人の上に絶對的に君臨する神がありません。精々「人の上の人」がゐるだけです。さうした「人の上の人」に、日本人は、口答へする事は、たまにありました。けれども、それは、所詮、同じ人相手の行爲に過ぎません。そんな事で日本人は批判精神を成長させる事は出來ませんでした。
しかし、批判精神を養ひ、革命を實現した西歐も、結局のところ、完全な平等主義を抛棄するか、平等主義による不都合を甘受するか、そのどちらかの道を選ぶしかありませんでした。即ち、イギリスは、平等主義等ナンセンスだと達觀し、現在も王制を維持してゐます。フランスは、革命を最初にやつた國ですが、社會體制が安定せず、共和制と絶對主義との間を往つたり來たりしてゐます。平等を原理として採用しなかつたアメリカは、自由主義の旗手として現在世界に君臨してゐますが、現在も黒人問題を引きずつてゐます。
その一方で、日本は、批判精神も滿足に成長させられないまゝ、ただ、先進國を形だけ眞似る習ひ性に基いて、差別撤廢を叫び、平等原理の實現を主張する、左翼が跳梁跋扈する國と化してゐます。
實は、平等原理の主張には、危險な落し穴があります。それは、反戰の主張の落し穴と似たやうなものです。嘗てソ聯や中國が軍縮を主張したのは、自由主義の國々の軍事力を削ぐ事――相對的に自國の軍事力を増大する事が目的でした。「全ての人が平等に」をスローガンに掲げる平等主義も、「自分より上の人」をその地位から引きずり降ろし、相對的に自分の地位を高める事を目的とします。が、反戰主義も平等主義も、結局は、自己の地位を限りなく増大させる事を目的とし始める點で、窮極的に目的を同じうするのです。
平等主義者の人々=左翼の人々が、他人を自分と同等と看做してさう振舞ふべき事は、論ずるまでもありません。ところが、彼等は、常に「自分が一番偉い」と云ふやうな顔をし、他人を見下します。殊に、彼等は、敵と看做した人物を輕蔑し、侮辱を加へ、人格的に貶める事に熱心になる點で、右翼に劣りません。が、平等を標榜しない右翼はまだ罪が輕い。平等であるべき事を唱へ、平等を尊重すべき事を知つてゐる筈の左翼が、他人に對して、大變不公平な態度を取る――惡い事と知つてゐて罪を犯すのだから、知らないで罪を犯す人々よりも、惡質であり、より惡い事は、言ふまでもありません。私の知る限り、平等主義の左翼の活動家の人が、他人に對して對等に振舞はうとした事はありません。
が、それは、小谷野氏も例外では無いのです。
本書は、さう云ふ意味では、非常に典型的な「左翼の本」です。左翼の主義・主張を研究する目的では、大變便利に使へる本でせう。が、その理論を受容れる事は出來ません。
「人の上の人」を、小谷野氏は單純に否定しますが、それでは「人の上の人」の存在を認める日本の社會が成立たなくなります。社會の秩序が崩潰する――のみならず、自分自身を抑へる爲の、尊敬すべき「人の上の人」が、平等主義を安易に導入したのでは、存在し得なくなります。その結果として、既に述べた通り、自我の無際限の擴大、自尊主義の暴走が發生します。それは結局、倫理の崩潰を招くのであり――既に現在の日本の社會では、さうした状況が出來してゐます。
日本に於ては、天皇が轉ければ天皇以下の全ての「人の上の人」が轉けます。全ての人が互ひに他人を輕蔑し、自分が一番偉いと確信して生きる社會になつてしまひます。それが良い事だとは、私には思はれません。
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所で昨日触れた『算法少女』だが、大相撲の人は読むべし、である
此の中で
「算術は誰がやらうが、正しい物は正しい、其処が良いのです」
「所が日本の算術は、○○流だ、××流だ、と互ひにいがみ合ひ、正しい算術を究めやうとしない」
といふ発言がある
冗談じゃないぜ。蔭でこそこそ人(この男の場合じゃなく)を罵倒している2ちゃんねらーより、体張って愚行をしたリーゼント男のほうが人間としてなんぼかましだ。
かくして、一ページか二ページに一つは、不適切な日本語がある。もう鴻巣訳の検討はやめにしたい。鴻巣氏は翻訳のあり方について考える前に、日本語をもっと勉強するべきである。
何と言ふか知能は有つても知性が無いのだろうな。
Webは色々拡散させるには向いているけれど、紙媒体みたいに堅牢じゃないのがヤだ。
Webなぁ。とりあえず、仕事ではやりたくないですね。