制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
テーマ・主に扱ふ事柄・ネタ
日本人論、政治主義批判、國語國字改革批判、虹裏(img)、深夜アニメ、古本、謎キャラクターによるコント、蟲、クリーチャーのイラスト、論理。粘着アンチ問題。その他。

闇黒日記


平成二十二年一月三十一日
パソコンを使うという先入観 - the OYAKONEWS@Hatena::Diary

ノートパソコンにマウスを繋いで使う人の気持ちが分からない。パソコンのキーボードなどない方がよい。

マウスの話が突然キーボードの話に。

キーボードなんて無いに越したことはない。よれよれの安っぽいマウスよりトラックパッドの方が使いやすいことに気付いたらどうか。

かと思へばキーボードからマウスの話に突然戻る。急いで記事を編緝してゐて、マウスの話の間にキーボードの話が割込んだまゝになつてしまつてゐるんだと思ふ。
昔、キーボードより手書き入力の方がいいか惡いかで某新さんと言爭つた事がある。どつちにしても結局のところは腦内の思想を外部に表現する時點で間接的なのであつて、いい惡いにしても相對的な違ひがあるに過ぎない。
うちではネットブックが二臺ある。常時稼働してゐるのはそのうちの一臺で、録畫專用なのだけれども、トラックパッドは補助的にしか使はないで、ポインティングとクリック・ドラッグの類は基本的にマウスを使つてゐる。番組の豫約の作業と、録畫データの外部HDDへの移動にはマウスを常用――使ふ度に脱着してゐる。トラックパッドだと片手で操作するのが難しい。テレビのリモコンとPCとを同時に使ひこなすには、PC側のデヴァイスはマウスの方が適してゐる。またWindowsのエクスプローラ等でファイル操作する時には精確さを重視してマウスを使つてゐる(と言ふか、c:のmAgicTVフォルダを開き、別にe:\を開いた状態で、録畫したファイルの入つたフォルダを移動するには、Ctrl-a→Ctrl-x→Ctrl+Tab→Ctrl-v、で濟ませられるけれども、e:に移動した録畫データを曜日別・番組別のフォルダに振分ける時は、キーボード操作するよりもマウスで抛り込む方が手つ取り早い)。最う一臺の方は、たまに起動するだけで、普段は寢てゐる。マウスを繋がないでトラックパッドで操作する事もあるけれども、持ち歩く時とか、ちよつとした間だけしか使はない時の事で、長い間据ゑ置いて使ふ時はマウスを使ふ。臨機應變に使ひ分けていいと思ふ(言ふまでもなくnamnchichiさんはさう云ふ使ひ分けもしない「考へないユーザ」を批判してゐる)。
平成二十二年一月三十一日
Twitter関係 - 大和但馬屋日記
依然としてよくわからないんだけれども、Twitterの事をバカにしてゐるからバカにした使ひ方が出來るなら使つてやらうと、さう云ふ事? 違ふなら「誤讀です」とでもメール下さい。
平成二十二年一月三十一日
記事を書くのもネタ帳を整理するのもイライラの力
別に「イライラ」でも何でも、さう云ふ動機があれば出來るのであれば、「面倒」と言ふ事は「無い」と思ひますが。
私は、「好ましい」「好ましくない」の結論を明示して「自分の意見を書く」なんて事に、大した意義があると思つてゐない。良かれ惡しかれ「興味を持つた」事柄なら、取敢ず紹介しておいていいと思ふ。意見があるなら後で言へば良いし――しかもさう云ふ意見を「言ふ」にしても、結局紹介したものを見て判斷するのは個別の讀者であるわけだ。「私が何う思つたか」を「はつきり書かねばならない!」と、さう徳保さんは思ひ込んでゐるのだけれども、私にしてみれば、「私の意見」は所詮「判斷の一つの材料にしかならない」ものだ。ならば、自分の意見を明示する事はプライオリティが低い、と云ふ事になる。「考へる材料」を多くの人に示す事こそが重要だ。
平成二十二年一月三十一日
にゃもちくん。にゃーにゃー鳴く。
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平成二十二年一月三十一日
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/comment?date=20100131/c
私としては「いい使ひ途」が見附からなければ使はないだけだし、公開の場で何か言ふサーヴィスの「いい使ひ途」とは世の爲人の爲になるやうなものである筈だと思つてゐるけれども、その邊は人それぞれ。

平成二十二年一月三十日
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平成二十二年一月三十日
窓の杜 - 【NEWS】「Google 日本語入力」でカタカナ英語から英語への変換や郵便番号変換が可能に
Googleupdate.exeを削除してゐると自動アップデートが效かないのみならず、Googleのサイトから落として來たインストーラで上書きインストールする事も出來ないが、インストール濟みの舊ヴァージョンをコントロールパネルでアンインストールすれば新ヴァージョンを入れられる。
平成二十二年一月三十日
理窟で考へるのは面倒だが、人を非難するのは簡單だ。
平成二十二年一月三十日
人を非難するには、人を惡者と極附けるのが一番樂だ。
平成二十二年一月三十日
人を惡者と極附けるには、自分の事を棚に上げるのが一番だ。
平成二十二年一月三十日
自分だけ免責する理由は、幾らでも見附けられる。それが人間の駄目な所だ。
平成二十二年一月三十日
論理は人間を甘やかさない。なぜなら、論理は必然的な論理であり、人間の都合等お構ひなしだからだ。
平成二十二年一月三十日
「名無し」と云ふハンドルが大流行するのは、とても惡い事だと思ふ。なぜなら、事實として我々は全て、一人の例外もなしに、名前を持つからだ。
名前のない人間は――少くともウェブをやつてゐるユーザの中にはゐない。名前を出してゐなくても、それは「匿名」であり、意識して名前を匿してゐるのであり、「事實として私には名前がない」等と云ふ事はあり得ない。
詰り、「名無しさん」を名乘つてゐる人は一人の例外もなく全員嘘を吐いてゐるわけだ。
ところが「嘘吐き」である事を「名無しさん」は「後ろめたい事だ」と全く思はない。「匿名希望」ならば、「名前を匿す」と云ふ意識的な行爲をしてゐると云ふ慈覚を伴はざるを得ない。が、「名前がない」と云ふ言ひ方では、自分の状態を「ありのまゝ」に表してゐるかのやうな表現であり、よつて自分が意識的に態度を撰擇してゐる自覺を持つ事が出來ない。
けれども、物を言ふのに名前を匿すのは「責任をとらない」と宣言するやうなものだ。無責任な言論は惡い事であるから、匿名の發言は全て例外なしに惡い事だと言へる。「匿名でする告發」も、「善事」ではなく「必要惡」であるに過ぎない。我々は、無責任な言ひつ放しが惡事である自覺を持つべきであり、だからこそ匿名での發言に關して、人は後ろめたさを覺える必要がある。が、「名無しさん」を名乘るユーザはほぼ全員、後ろめたさを覺えない。「事實として自分は名前がないのだから仕方がない」のやうな誤認識を彼等は全員持つてしまつてゐる。「名前を匿してゐる」と云ふ積極的な態度を自分がとつてゐると云ふ意識・自覺が彼等にはない。
平成二十二年一月三十日
もともとインターネットは實名主義の社會だつたが、それは商業利用が禁止されてゐた時代の事。商業サーヴィスが解禁されて以降、匿名を用ゐる事が「一般化」した。が、それは、商業的な理由に基いてゐる。即ち、Yahoo!が積極的に「匿名サーヴィス」を謳つてユーザを集めたのであり、後に2ちゃんねるが匿名掲示板として賣出したのであつた。ユーザに「氣樂になれる」サーヴィスを提供して、ユーザを獲得しようとしたわけだ。それは、ユーザに無責任なウェブの使ひ方をさせようといふ積極的な意圖があつたわけで、大變惡質なものだが、Yahoo!はそんな事はお構ひなしに金儲けの爲に屑のやうな事をやつたのだし、2ちゃんねるは元の管理人が屑だつたからどうしやうもない。結果としてインターネットは屑だらけのインターネットに成下がつたのだが、屑のユーザも自尊心だけは一丁前にあるから、自分が屑であると認める事が出來ない。プライドだけあつて責任感がない事を、例へば私に粘着してゐる匿名の人々は散々非難してゐるが、さう云ふ人々こそ問題のあるユーザである事を自覺する必要がある。もちろん、彼等は自覺する契機がない。匿名は、批判されない=免責されてゐるからである。
平成二十二年一月三十日
基本的に性善説に基いて構築されてゐるシステムを商業利用に開放するから、惡人がなだれ込んでアングラ化する。當り前の話だ。
平成二十二年一月三十日
路線バスのユーザインタフェイスは最惡。

平成二十二年一月二十九日
惡文とは、てにをはのをかしい文章の事を言ひます。
平成二十二年一月二十九日
中央情報局企劃部 假名遣に關する論考
平成二十二年一月二十九日
建設的な議論を潰すのは、何時も「言ひ方が氣に食はない」とか「こいつには物を言ふ資格がない」とかいつた惡意による妨碍だ。
感情論は論外。論者の足を引張り、揚げ足をとつて、遊ぶ事を目的とした嫌がらせが、良い結果を齎す事は絶對に無い。
ところが、それが解らない人がウェブには意外と澤山ゐる。さう云つた人に限つて、自分が人格者であると勘違ひしてゐるから、話がややこしくなる。
平成二十二年一月二十九日
鉤括弧で括らうが括るまいが、人によつて用語の意味附けはそれぞれ異る。それを承知してゐれば、「鉤括弧で括つた語の定義をしないのは惡い事である」と安易に言ふ事は出來まい。
ところが、一般的な語ならば何時如何なる場合でも例外なしに「意味は完全に一致する」と勘違ひしてゐる人が結構ゐるもので、さう云ふ人が広辞苑の定義を引張つて來て威張つて見せたりする。が、當然の事ながら、辭書の定義は個人の用語法と完全に一致したりはしないのだ。「犬なる觀念」なんてものは存在せず、具體的な茶色い犬や白い犬がゐるのであつて、我々が犬を語る時には常に具體的な犬のイメヂが頭の中にある――と言ふより、何らかの「色合ひ」を持たせて人は語を用ゐると云ふ事は、誰もが何時でも承知しておくべきである。
私の場合、常に特殊な意味合ひで言葉を用ゐてゐるし、その中で鉤括弧附きで言葉を用ゐれば更に特殊な(自分では好んで使ひたくない、等の)意圖を含ませてゐる事は言ふまでもない。さうした表現法に因縁をつけて來る人も少くない。私の表現の癖に因縁をつければ、私の多くの文章を樂に非難する事が出來るからだ。何とも横着なやり方だが、しかし、よくよく私の文章を讀んでゐる人ならば、私の文章を「誤讀」した人は私が鉤括弧を附けないで語を用ゐた時に現はれたと云ふ事實に氣附いただらう。
何れにしても、私の説明・釋明を全て却下した上で、私の發言を問答無用で否定する、と云ふ「論法」が、その手の人々には屡々用ゐられてゐる、と云ふ事は、注意していただきたいと思ふ。
平成二十二年一月二十九日
「木村さんは良い人だからその主張にも好感を抱く」と言つた私を散々罵倒したのは、「理より人が大事」と言つてゐる人であつた。
「理より人」なるスローガンの眞意が大變良く解つた。自分の氣に入らない「理」の主張を否定する爲に、その「理」を主張してゐる「人」を惡く言つてやるぞ、と、さう宣言してゐるのだ。彼は脅迫をしてゐる。
平成二十二年一月二十九日
らくがき。
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にゃもちくん。

平成二十二年一月二十八日
【インタビュー】リコー「GXR」前編―構想から5年のカメラシステム - デジカメWatch
【インタビュー】リコー「GXR」後編―新規ユニットの可能性はあらゆる方向から検討 - デジカメWatch
平成二十二年一月二十八日
memo:記事にならなかった話題(2010年1月版) 他

私は何かしら元になる文章がないと自分の記事を書けないので、いつも20〜30件くらいのネタをストックしています。が、実際には何も書けないまま終ることが多い。それで月に1回程度、記事になりそうでならなかった文章を消しています。

もつたいないと思つた。
私の場合、ネタのストックは一切持たず、全て拾つたネタは即座にここ(闇黒日記)で晒す。取敢ず氣になつたリソースにはリンクを張る。その場で反射的な反應を書く事が殆どだけれども、頭に來たとかの理由があつて後で文章を書く事もないわけではない(大抵面倒なのでほつたらかす)。けれども、あるネタは、「嚴選」などせず、兔に角全部使ふ事にしてゐる。最近はネタ自體が減つた(段々ウェブ上の事件だの何だのに興味がなくなつた)から記事自體が減つたけれども、以前は何でもかんでもバンバン採上げて、採上げるだけ採上げて投出す事は日常茶飯事だつた。けれども、それでいいと思つてゐた。そんな「完結した記事」『立派な記事」を書く積りは無いし、書く必要も無いと思つてゐたし、今でも思つてゐる。そこで文句を言はれたりする事がしよつちゆうだつた(である)けれども、その邊のやりとりはどうせ發生するのだから、記事の完成度だの何だのは氣にする必要がないと思ふ。
平成二十二年一月二十八日
2010-01-26 - 大和但馬屋日記

私は呟きませんよ、とここで呟いておかうかな。http://twitter.com/tajimayaにはXbox360の実績監視BOTによる自動投稿だけが蓄積されてゐる。

そんなものを蓄積して誰が得をするのかと。
favorab v2 - dzfl?
favorab
Karma BOT (favorab) on Twitter
http://d.hatena.ne.jp/dzfl/20100124/1264266423
favorab 復活 - dzfl?
システムも何だか良くわからないのだが兔に角BOTを使つて何かやると云ふ事が「面白い」事だと思はれる感性は私には理解出來ない。
Twitterにしても「呟ける」だけでなく、言及したりリンクを張つたり出來る「システム」であるわけで、その部分が注目されてゐるが、「定義としてのスローガン」である「呟く」なる言葉が獨り歩きして、それでわけのわからない状況を益々わけのわからない事にしてゐる。
「誰の爲にもならない、自分の爲に言葉を吐くシステムがあつてもいいんだ!」みたいな事を言出してTwitterなるサーヴィスが出て來たわけだが、それがいろいろ「役に立つ」事も出て來て評價されるやうになつた一方、何の役にも立たない使ひ方をやつて詰らなさうな顔をしてゐるユーザも出て來てゐる。所詮は「既存のウェブの縮圖」であるに過ぎないのだが、世間の人は皆、Twitterは新しさうだと思つてゐる。全部「だましのテクニック」の生んだ虚像なのだが、さう云ふ事を指摘しても皆嫌な顔をするだけだ。
平成二十二年一月二十八日
【e−Tax】国税電子申告・納税システム(イータックス)
平成二十二年一月二十八日
Endeavor NP11-V|デスクトップパソコン|Epson Direct Shop
平成二十二年一月二十八日
2006-02-12 - 思っているよりもずっとずっと人生は短い。
http://blog.8-p.info/2010/11-passionate - お勉強好き
みんな「仕事が出來るやうになる事(人)」「儲けられるやうになる事(企業)」の話が大好きだ。「仕事は出來るが人間の屑」みたいな問題が發生する事には何の危惧も抱かない。かと思へば、「仕事も出來ない人間の屑」みたいな言ひ方をして氣に入らない人間を「無職」呼ばはりしたりして苛める遊びをする「有職」の人もゐたりする。
「仕事をする事が人間である最低限の資格」みたいに思つてゐる人が今の日本人には非常に多い。けれども、それは「精神的な荒廢」の顯はれだ。と言ふか、仕事が出來ようが出來まいが人間の屑では話にならない。御互ひ樣であるだけで、「俺は人間の屑だが仕事が出來る、お前は出來ない」みたいな下らない理由で優越感を持つたりするのは――まあ、さう云ふ發想を持てるのが人間の屑の人間の屑たる所以なんだらうが、良くない事だと多くの人が強く主張出來る社會にならなければ、人間なる存在は良くならないと思ふ。
平成二十二年一月二十八日
わざわざ鉤括弧附きの言葉を使つて皮肉を言つても通じない「鈍感」な人が、成る程この世には結構澤山存在するとは思ふ。或は、皮肉を言つても「種明し」をしない輩は惡人だとか思つてゐる人。
さうさう何でも内實をばらし捲るのが良い事だと、私は思はない。
平成二十二年一月二十八日
皮肉られた人は頭に來るだらうし、その時いろいろ理窟をつけて皮肉つた人を罵るものだ。「はつきり言はない卑怯者」みたいな非難の仕方は、多くの人が用ゐるものだ。が、「はつきり言はない」でほのめかすから皮肉なのであつて、それを「卑怯者」呼ばはりして罵るのは感情論に過ぎない。「俺は頭に來たんだ」と自分を表現してゐるだけで、論理的には何の意味も持たない。怒りをぶつけたら忘れて下さい。と言ふか、仕返しに因縁をつけるにしても、最うちよつと増しなつけ方をした方が。
平成二十二年一月二十八日
「批判された側にも怒る餘地はある」なんて事くらゐ、批判をする側は百も承知でゐなければならない。「怒られて當然」と云ふ事だ。勿論、怒られるからと言つて「やつては行けない」わけではない。別に怒る事くらゐは人間誰にでも普通に「ある」。怒るのは結構だ。じやんじやん怒つていただきたい。が、批判されて怒る權利があると言ふなら、怒られる義務が附帶するとの條件附きで批判する權利も認めていただきたい。こちらは「自由に批判する」から、あなたも「自由に批判者に怒りをぶつけてよろしい」と。
けれども、怒りをぶつけるだけが許されるので、批判なる行爲それ自體は、批判された側は、それ自體として、認めなければならない。
感情的な憤懣は幾らでも吐出していただいてよろしい。が、批判された人からの憎惡やら怒りやらをぶつけられるのだから、批判者には當然の報いがあつたと言ふべきなのであつて、ならば批判なる行爲それ自體は許されなければならない。
平成二十二年一月二十八日
感情論は「あつても良い」と思ふ。もちろん、スルー前提。私が怒りを露骨に表はしてゐてもスルーされるべきだし、相手が怒りをぶつけて來てもスルーすべきだ。あとで執拗に「こいつは怒つた」みたいな事を何時までも言立てる事は、愼むべきだらう。
が、「内容的に感情論」の類も、矢張りスルー對象とされる必要があつて、理性的な主張だけが檢討の對象とされねば、議論は建設的なものにならないだらう。
平成二十二年一月二十八日
この程度の諒解事項があれば、不毛な言爭ひに見える事でも、それが建設的な議論かさうでないかを改めて評價出來るやうになる。感情論の部分は皆、目をつぶつたらいいんだ。今、世間で問題と言はれてゐる事の最大の原因は、感情的な部分にしか注目できない人が多過ぎる事にある。
人は感情の動物であるだけでなく理性的な動物でもあるのだから、感情を重視する人は同じくらゐ理性をも重視しなければをかしい。その上で、理性的な議論こそが建設的な議論であると云ふ事實を認識して(この價値觀は全ての人が受容れる必要がある)、感情論と理知的な論との混合物をうまい事切り分けて考へられるやうにならなければならない(價値觀から引出される必然的な結論)。

平成二十二年一月二十七日
夕方腹が減つたので新線新宿驛脇のC&Cでカレーを食べた。神保町店が潰れて以來久々のC&C。何時ものポークカレーに唐揚げをトッピング。ルーは同じだけれども、御飯は神保町店の炊き方の方が良かつた。
平成二十二年一月二十七日
先日、平泉澄『山彦(増補版)』を讀み終へた。引續き『山河あり』を讀んでゐるところ。
平泉氏の「皇國史觀」を問題視して、その文章を貶す左翼の人がゐるけれども、素直に讀んで良いと思ふ。「説教するにも資格が要る」みたいな事を言ふ人は、それでは、道徳について論じて誰一人文句を言はない「資格のある人」がこの世にどれだけゐるか、考へてみればいい。その手の人はただ、「煩い事を言ふ奴はうざい」とか「偉さうな事を言つて」とか、妬みそねみで人を默らせる目的で「資格」とか言つてゐるだけの事だ。
政治の事なんかは誰でも言ふ「資格」はあるだらうが、さう云ふ事にしか興味を持たない人間は何處か缺陷があると言つて良い。「お前が言うな」は他人の足を引張つて愉しむ趣味の人々が愛用する紋切型だけれども、この手の言葉を使ふのは變な子と相場が決つてゐる。

平成二十二年一月二十六日
KDDIがジュピターテレコムに出資、関連会社に -INTERNET Watch

平成二十二年一月二十五日
ソ・ラ・ノ・ヲ・ト 第一話「響ク音・払暁ノ街」 | ボヘミアンな京都住まい

なんでタイトルに‘ヲ’を使ってるのかなぁ・・・と思ってましたが、ネットで目に付いたのには古語で ヲト=彼方 という意味があるのだそうで、なるほどなぁと感心したのと調べてくれた方に感謝したいのと。

リリカル☆スアラ 【新番組】ソ・ラ・ノ・ヲ・ト 第1話 『響ク音・払暁ノ街』

「ソラノヲト」というタイトルについて・・・

直感的に「空の音」なんだろうな〜と思ったけど、良く考えると「音」を「ヲト」とは読まない。古語であっても音はオトと発音するし。気になって古語辞典で調べてみると、「ヲト=彼方」という意味があるらしい。主人公の彼方とも意味が通じるし、多分「音」と「彼方」を掛けてるんでしょうね〜

平成二十二年一月二十五日
今期の新番組は、はなまる幼稚園、ちゅーぶら、ソ・ラ・ノ・ヲ・ト、聖痕のクェイサー、バカとテストと召喚獣、ひだまりスケッチ、おまもりひまり、なんてところを觀てゐる。あとは前期から引續きFAIRY TAIL、とある科学の超電磁砲、キディ・ガーランド、テガミバチ。
フジテレビで刀語 - 西尾維新アニメプロジェクトが今夜。フジの野郎わざわざソラヲトにぶつけて來やがつてとか思つたが最近の深夜はかぶりまくりなのが常態と化してゐるからまあ。
平成二十二年一月二十五日
明治以來の日本國が採用してきた方針を、「爲政者が正しいと定めた事に過ぎない」と一般化し、相對化するのが大流行してゐるけれども、何故さうやつて相對化し、ナンセンス化するのは良い事なのだらう。寧ろ、その方針を引繼いで、より良い方向に改善して行く事こそ良い事ではないのか。
と言ふのは、明治以來、日本人が康煕字典體を基に正字體を追究して來た事を相對化し、正字體を價値のないものにしてしまはうとしてゐる人がゐるからである。
「正字體なるものは所詮は爲政者が正しいと定めた字體に過ぎない=正字體は人工的なものに過ぎない」「民衆が書いて來た手書き書體は傳統的な書體である=手書き書體は自然な書體である」――さう云ふ主張を見た。私には、こんな事を本氣になつて主張できる人はトンデモの人だと思ふ。なぜなら、漢字は、文字は、或は言語は、そもそも人工のものだからだ。
明治以來、正字體の整備も、かなづかひの整備と同樣、繼續して行はれて來た。教育現場で、教へられる正しい字體は、何度も變更されてゐる。だが、それは大變良い事だと私は思ふ。それは科學的な態度であるからだ。「絶對に正しいもの」は存在しない。自然科學に於て、全ての法則は假説として提案され、反證によつて否定される可能性を殘してゐる。社會科學に於いて、自然科學と同樣の法則は成立たないが、あらゆる學説は假説的に提案され、反證があれば否定されねばならない。が、法規範も、文字の規範も、矢張り「正しさ」は假説的に提案される筈のものであり、よりよい内容とする爲に改正の餘地を殘してゐなければならない。と言ふか、改正される事を豫期して、規範を絶對のものと考へない事こそが、合理的な態度と云ふものだ。明治時代、憲法は一度も改正されなかつた。しかし、表記は何度も改正された。この點、明治時代の國語政策は合理的で科學的なものであつたと言つて良い。
「正しい表記」の概念に反對する多くの人が、明治時代に表記の規範が一定しなかった事を「惡い」と評價し、戰後の固定した「現代表記」を「良い」と評價するのは、をかしな事だ。より良い内容とする爲に改正を行ふのが、惡い事である筈がない。
平成二十二年一月二十五日
と言ふか、言葉は政治權力なんかで自由に出來るものではないのだから、爲政者が正しいと定めただの何だのと言ふ事はナンセンス。
康煕字典體もまた、康煕帝一人が頑張つて作つたものである筈もなく、當り前の事ながら複數の學者が編纂したものだ。それを「爲政者が正しいと定めた」等と嘘を言つて、康煕字典體を價値が無いものであるかのやうに言做し、手書き文字だけが傳統的な文字である等と言ふのは許されない。そもそも、傳統的な手書き文字等と云ふものは「存在しない」。ただ個人個人が異る書き方で文字を書くと云ふ事實があるだけだ。それは傳統のやうな言ひ方をするまでもない個別的な事象に過ぎない。逆に、爲政者が採用しようが何だらうが何だらうが、正字體と云ふ正統的な字體の觀念は「ある」。觀念としての正しさを否定し、一括りにする事の出來ない個別の事象を強引に總括して「伝統」なるもつともらしい言ひ方をするのは、間違つてゐる。それを間違ひだと認識出來ないのは、その人が意地でも「正しさ」をぶつ潰したいと云ふ破壞主義者だからである。
平成二十二年一月二十五日
米軍普天間飛行場移設問題。名護市長選擧やら何やらで揉めてゐるけれども、「民意の反映」だの「ヘリが落ちて來ると嫌だ」だのといつた低レヴェルな話が全うな話であるかのやうに報道され、防衞の觀點から全く論じられないでゐる。奇怪な事だと思ふ。今民意が反映されれば將來非民主的な國家に侵掠されるかも知れない状況になつてもいいと思つてゐる人とか、ヘリが落ちてこなければ何處ぞの國が攻撃して來ても安全だと思つてゐる人とか、そんな人しかゐないかのやうにNHKのニュースは言つてゐる。
軍の基地は、國家の防衞の爲にあるのであり、地域振興の爲にあるのではないが、「基地が來ると地域の景氣が良くなるから容認する」と云ふ「論理」が罷り通つてゐる。基地は、本當は來て欲しくない、と、沖縄の人は思つてゐるさうだが、金儲けの爲ならば我慢する事もあり得る、と言ふのだ。一方それが我慢できない人もゐて、金儲けできても軍隊は嫌だと、さう主張してゐる。
沖繩の人は、軍隊が嫌ひで、平和が好きだと云ふ話だが、だから自分逹のそばから自分逹の身方の軍隊を遠ざけたいと言ふ。それが結果として敵の軍隊を近附けるかも知れないのだが、その事を一切考へようとしないからこそ、平和主義と云ふものは成立つのだと思ふ。しかし、さう云ふ觀念的な發想が民意に反映されてしまふのは如何なものか。それは感情論なのだ。
一方で、軍隊を「身方」と看做す事すらもできない事實がある。日本人は、軍隊は自分逹の身方ではなく、日本軍或は日本の自衞隊であつても敵であると思つてゐる。少くとも、軍隊は身勝手で、國民の事を考へず、自分逹の利益を追求して行動する連中だと思つてゐる。が、これは、日本國民が、利益追求を最優先に考へる國民である事を示してゐる。日本國民は、金儲けの爲に寄集まつて國家を作つてゐる。だから、金儲けだけが樂しく出來ればそれで良いのであり、金儲け以上の理念なんて事を言ふのは愚かだと多くの日本人が堅く信じてゐる。
けれども、アメリカの國民は自由と民主主義の理念に基いて結集して國家を作つてゐるし、その守り手としてアメリカ軍が存在してゐる。アメリカ人は、アメリカと云ふ國家は正義の爲に存在してゐると信じてゐるし、正義を守り、或は正義を實現する爲にアメリカ軍が存在してゐると信じてゐる。
「春秋に義戰なし」――山本夏彦が隨分愛用してゐたが、山本氏も社長だつたのだなあと思はされる言葉だ。實際のところ、春秋には義戰しか無かつたのである。大義名分を掲げずして戰はれた戰爭は、少くとも戰ひを仕掛けた連中は輕蔑された。
軍隊と云ふものは、國家の命令で、國家を守り、國民の生命を守る爲に戰ふ存在だ。だが、「なぜ國家を守らなければならないのか」「なぜ國民の生命を守らなければならないのか」が、日本國では甚だ曖昧になつてゐる。或は、精々「我々の生命を守り、我々の財産を守つて呉れるなら、それは便利な存在だ」と、その程度に思はれてゐる。日本國は、ただ單に、地理的に近い地域に住んでゐる、同じ言葉を喋る人間が、寄集まつてゐるだけの國家であり、何かの理念を奉じて、同じ價値を信じてゐる人々が結集してゐる國家ではない、だから、自分逹の生命や財産を守るにしても、それは自分逹の利益になるから、と云ふ程度の考へをする事しかできない。
沖縄縣民も、日本人も、同じやうに、ただ、たまたま近い地域に住んでゐる人が、一緒に生活すると便利だから、集つて、共同體を作つてゐるに過ぎない。だから、自分逹にとつて利益になるか何うか、と云ふ、甚だ「唯物的」な觀點から、何でも考へる。そこに一切理念は無い――と言ふより、金儲け以上の理念を想定し、自分の生命以上の價値を信じて行動する存在を、多くの日本人は、感情的に許せない。戰ふ事が日本人は大嫌ひだ。金儲けをする商人は、戰ふ事を好まない。儲からないからだ。戰つてゐる人間の背後で金儲けするのは大好きだが、自分が戰ひに卷込まれるのは願ひ下げだと思つてゐる。
が、金儲けだけが「價値」だと云ふのは、如何なものか。散々非難されたから「如何なものか」程度の表現に留めておくけれども、これでも嫌な氣分になる人は多いだらう。表面的な表現が理由で、私の事を嫌がつてゐるのではないのだ。

平成二十二年一月二十四日
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平成二十二年一月二十四日
パスカルにしても福田恆存にしても、論爭家であり、戰鬪的で激しい言葉が極めて多いのだけれども、世間の人は只管無難で穩當な感じの言葉許りを採上げ、一般的な「聖人君子」の類として扱はうとしてゐる。
だから勘違ひする人が續出するわけだ。
平成二十二年一月二十四日
小沢氏聴取 全面否定でもなお疑問は残る : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
1月24日付 編集手帳 : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
かつて松原正氏は角栄さんあなたは無罪になれると書いた。歴史は繰返すと言はれてゐるが、當然の事ながら小沢さんあなたも無罪になれると言ふ事が出來よう。
松原正著『人間通になる讀書術』紹介
松原正著『暖簾に腕押し』紹介
ちなみに俺は小沢氏の政策なんて支持しないし小沢氏を含む民主黨は嫌ひだから、小沢氏叩きには心情的に賛成したいと感じるが、さう云ふ感情論は排さなければならないと考へる。少くとも現状、小沢氏を有罪扱ひして犯罪者のやうに言ふのは愼むべきだらう。
平成二十二年一月二十四日
パンセ拔き書き續き。

一九四ノ三 (一)私は彼らに尋ねたい、彼らは、人間の本性は墮落のうちにあるといふこの彼らの攻撃する信仰の根本義を、じつは彼ら自身で立證してゐるのではなからうか。


平成二十二年一月二十三日
またパンセを拾つて來たので適當に拔き書き。津田穣譯の新潮文庫版。
平成二十二年一月二十三日

四五 國語は、文字が文字に變るのでなく言葉が言葉に變る符牒である。そんなわけで未知の國語も判讀し得る。

  • 幼時母を失つたパスカルは父によつて教育せられた。この斷章にはこの父による教育の囘想があるやうにおもはれる。ライプニッツは繪入りの『ティトス・リヴィウス』の繪の下にある文言の意味を判讀しながらラテン語を學んだといふがパスカルは十二歳になるまでラテン語を學ばせられなかつた。それは能力に餘裕を持たせつつ物を學ぶといふ教育方針に從つたためである、がこの期間も決してむだにすごされたのではなく、國語とはどういふものかといふこと、それが或る規則の下に文法に要約せられてゐること、規則にも注意すべき例外のあること、かくていかなる國語も一から他へと移しうる方法の見出されてゐること、これらのことが教へられたから、この概念によつてパスカルの頭腦は整理せられ文法の規則の存在理由は明確にせられ、やがてラテン語の勉強を始めたとき十分の自覺をもつて勉強に熱中することができた。
平成二十二年一月二十三日

五八 「君は義理をわきまへぬぞ。失禮ながら」この失禮ながらといふわびがそへられなかつたら、私は、罵られたことに少しも氣づかなかつたであらうに。「おそれいりますが……」こんなことわりほど厭ふべきものはない。

平成二十二年一月二十三日

八一 心はおのづから信ずるものであり、意志はおのづから愛するものである。だから眞の對象がないと、心も意志も僞りのものに結びつくよりほかはない。

平成二十二年一月二十三日

九六 自然のもろもろの作用を證明するのに惡い理由を用ひることに慣れると、よい理由が發見せられたとき、もうそのよい理由を受入れようとしなくなるものだ。その實例は、なにゆゑに血管はくくり紐のもとでふくらむかを説明するための血液循環といふことに關して與へられてゐる。

平成二十二年一月二十三日

一〇八 人々は彼らのいふことがらにすこしも利害關係をもつてゐないにせよそのことから彼らは決して嘘をいひはしないと結論しては絶對にいけない。なぜなら嘘をいふためにのみ嘘をいふ人々がゐる。


平成二十二年一月二十二日
☆こぐまのミーシャ☆Bear Cub Misha☆
平成二十二年一月二十二日
例へば、誰某の論語の讀み方に誤があるよと指摘した人が、實は人間の屑であつた、なんて事は、よくある。
平成二十二年一月二十二日
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平成二十二年一月二十一日
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平成二十二年一月二十一日
ほんとのらくがき。
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いささか見づらいのは勘辨。ブラックジャックもちくん。
平成二十二年一月二十一日
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平成二十二年一月二十一日
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平成二十二年一月二十一日
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平成二十二年一月二十一日
XML文書をバイナリ化する新仕様「EXI」がW3Cで勧告候補に − Publickey
XMLはバイナリ化するか:元外資系エグゼクティブの日々 - CNET Japan
それにしても、しばらく見ない間にWorld Wide Web Consortium (W3C)がえらく普通のデザインになつてゐる。
Efficient XML Interchange (EXI) Format 1.0
平成二十二年一月二十一日
人は自分の意識を正當化する爲に理窟を考へる。なるほど、その通りだ。が、それが自分や他人に對しての言ひわけに過ぎない等と言つて却下しようとするのもまた、單なる自己正當化に過ぎない事實を認識した方がよろしい。
そもそも、自分の耳に痛い事を言つてゐるからこそ、自分の感情を逆撫でするやうな言葉だからこそ、聞く價値があるのである。「人の感情を害するやうな事を言ふ人の言葉は聞きません」等と平然と言ふのは、單なる甘えである。
自分を甘やかすのが好きな人は、自分が他人の言葉を聞入れないのを、一方的に他人のせゐにして正當化するものである。
他人にだけ寛容を要求し、自分は全く寛容に振舞はない――それ當り前のやうに考へるのは、現代人らしい自己中心的な態度だ。「偉大なる私に意見しようと思ふ人間は、私にへりくだつて、へつらつて、美辭麗句を並べ玉へ」。ふむ。
ところで、私はウェブで誰か人を名指しして批判する時、その特定の個人一人を改心させるなんて事を、第一の目的とはしてゐない。或は、その特定の一人の個人を、説得して改心させる、なんて事の爲に、批判をしてゐるのではない。餘りにも當り前の事で説明するまでもない筈なのだが、解つてゐない人が相變らず存在するので、改めて書いておくが、ウェブ上でのやりとりは、掲示板だらうが「ブログ」だらうが、名指ししてゐようがゐまいが、そんな事は關係なく、一對一のやりとりではない――全て衆人環視の場で行はれるショーである。相手に意見し、相手の誤を指摘する――それは、その相手ただ一人を説得しようとするだけの行爲ではない。「我々」議論する當事者を遠卷きにして眺めてゐるウオッチャー諸氏に對してアピールするパフォーマンス、「衆人」に對して訴へかけるパフォーマンスでもある。と言ふより、公開の場での議論とは、特定個人の説得であるわけがなく、特定個人を、言はば出しに使つて、自分の意見を大勢の人に傳へ、或は不特定多數の人に訴へかけるパフォーマンスである。
……その邊の事が未だに解らない、公的な場と私的の場とのけぢめもつけられない、素人の人が、案外ウェブでは、威張つて、偉さうな説教をかましてゐたりするものだ。ネットマナーだの禮儀だのを偉さうに論じてゐるのは、何も知らない・考へもしない、素人の人である。常に、人格者を氣取り、恰も一廉の人物であるかのやうに演戯する、おつさんにさう云ふ人が結構ゐるが、年長者だらうが何だらうが、さう云ふ人は、何も知らない素人である。さう云ふ人が、人の感情を害するなとか、感情の世界で門前拂ひを食はされて癇癪を起こす馬鹿つたれが何うとか、その手の事を言ふものだが、よく解つてゐる人には世迷言として鼻で嗤はれる事だらう。
大體この手の素人説教者は、他人から批判されたのを恨んで、自分を批判した人間に呪詛の言葉をぶつけてゐるだけだ。人を恨む時點でろくな人間ではない。
と言ふか、某さん、あなたは、「理窟より人」ではなくて、「理窟より感情」と言つてゐる。が、それは、誰が何う見ても、感情を言ひわけに、自分の間違ひを押通さうとするものだ。自分が間違つてゐないなら、感情なんてものを言ひわけに使ふな。自分が間違つてゐるのなら、反省すればよろしい。
老人の惡徳を世故として賞揚する人が非常に多い。私は青年の美徳を取る。
平成二十二年一月二十一日
と言ふか、感情を言ひわけにするのつて一番恰好惡い事だと思ふ。
平成二十二年一月二十一日
「自分が何う思ふか」より大事な事があるだらうに。なぜ「私が納得するかどうか」とか「私が何う感じるか」とかにこだはるのだらう。そんなに自分が大事なのか。
自己だとか自分の個性だとかにこだはるのを惡い事だとする美徳は何處へ行つてしまつたのだらう。
自分の感情を理由に議論を拒絶する人は、道徳的に何らかの缺陷を持つてゐる人である。自分に執着するからこそ、自分の感情なんて物を絶對視し、理性や理知と言つたものを平然と輕蔑する事が出來る。
自分を超えるもの・自分の外部にあるものを、人は認めなければならない。これは日本人が嘗て持つてゐた感覺であり、人間ならば全て例外なしに持つてゐなければならない價値觀である。ところが今の多くの日本人は、自分が一番偉く、自分の感情的な判斷に從ふ事が良い事であると勘違ひしてゐる。勘違ひだからこそ、その勘違ひを得々と語る事が出來るし、自分の勘違ひを否定する人間を侮辱するやうな事を言つてしまふ。
そして、「自分が一番偉い」と勘違ひしてゐる人間に限つて、「一番偉い俺樣は、諸君らの爲に、敢て謙虚に振舞つてやつてゐるのであるぞ、なんと俺樣は謙虚な人間なのだらうか」と、更なる勘違ひに陷るものである。彼等が謙虚と云ふ事をこの上ない美徳として語るのは、自分自身が謙虚であると云ふ自身を背景にしたものであり、要は自分をさらに持上げる爲に、その根據として謙虚なる美徳を惡用してゐるのである。「俺は謙虚だぞ」「俺は謙虚だぞ」と云ふ口ぶりを匿さない人間を、私は憎む。その手の人間の仲間たちは、彼を殊さら「謙虚だ」「謙虚だ」と言つて持上げる。おぞましい光景である。謙虚さを賣りにする人々は醜惡である。
平成二十二年一月二十一日
『坊つちやん』の、赤シャツや野だいこのやうなタイプの人間を、今の多くの日本人は、口では「憎む」と言ひながら、自分はさう云ふ人間になつて、利を貪り、安樂に生きたいと願つてゐる。
一方の坊つちやんや山嵐を、小説の中の人物として「愛する」一方、現實にさう云ふ生き方をしてゐる人間を見れば、生きるのが下手な愚物と言つて、輕蔑し、侮蔑の言葉を浴びせ、或は取卷いて散々に痛めつけて、快を貪らうとする。
これでは漱石も浮ばれない――と言つてしまひさうになるところだが、漱石はその邊の事を百も承知で、浮ばれない正義の事を描き、或は絶對に敗れる事のない惡徳の事を描いた。坊つちやんは親戚中で爪彈きにされてゐる。一方の赤シャツどもは、坊つちやん達の誅求を受けながら、結局は自分逹の思ひ通りに事を運んで、我が世の春を謳歌する事になるであらう。『坊つちやん』は單なる勸善懲惡の小説ではない。寧ろ、意外にも、極めて正確なリアリズムの小説である。漱石は、日本では數少ない、さう云ふ小説を描き得た小説家であつた。だからこそ漱石は偉大な文學者なのだ。日本に斯う云ふ文學者は滅多に出現しない。現實追随主義の大人と理想主義の青年の對立を描き得たのは、漱石の他には鴎外しかゐない。鴎外も偉大なリアリストであつた。
今、リアリズムを・現實主義を標榜する「大人」の人々は、自分逹は偉大であると思ひ込んでゐるが、少しも偉大ではない。彼等は、正義を信奉する愚直な人間の存在それ自體を否定する。だが、人間が人間であり續ける限り、正義を信ずる人間は少數派として・生の負け組として永遠に存在し續ける。己の感情に從ひ、己の欲望を充足したいと望む惡徳の人物と、己の感情を超克し、自己の域を超えた眞理を實現したいと望む正義の人間とは、人間の社會が存在し續ける限り、永遠に鬪爭を繰廣げる。だが、何れの人間の存在も現實なのであり、それらを全て認める事こそが本當の現實主義である。人間が理想をいただく事もまた現實であり、だから理想主義をも包容するのが現實主義である。ところが多くの「自稱現實主義者」が、理想主義を排除し、理想主義者の存在を煙たがる。解つてゐないのである。そして、彼等現實追随主義者を理想主義者は説得できないと言つて嘲笑つてゐる。勿論これが現實追随主義と理想主義の永遠の鬪爭の歴史中に於る一場面であるのだが、理想主義者は成る程現實追随主義者を説得し得ない=現實追随主義者に勝利しない。が、だからと言つて、現實追随主義者も理想主義者を嘲笑し續ける事は許されない。理想主義者は、人間が人間である限り、存在し續け、消滅する事はないからだ。理想主義者が存在し續ける限り、現實追随主義者の決定的な勝利と言ふ事は出來ない。
平成二十二年一月二十一日
多くの人が、政治の事や經濟の事、或は病氣の事、數學の事(etc. etc...)を語つて倦まない。けれども、正義の事を語つて倦まない人を、私は滅多に見ない。
平成二十二年一月二十一日
さて今私は、名指ししないで、自分の意見を表明してゐるに過ぎないから、議論はしてゐないわけだ。
この私の意見を、某氏は見てゐるだらうし、間違ひなく反感を抱くだらうが、そこで私を名指しで叩く眞似は出來ない――それをやつたら、某氏が「するのは惡である」と信ずる議論になつてしまふからだ。だから某氏は、再び空に向かつて意見を表明するなんて馬鹿げた眞似をしなければならなくなる。
あつちとこつちで、互ひに誰かを想定してゐるのに、ひたすら當てこすりを言合はなければならない。「議論を囘避するのをよしとする價値觀」の必然的な歸結であるが、何とも陰濕な事態である。だが、斯うした陰濕な状態の出現を、「議論否定派」の人々は望んでゐるのである。彼等の人間性がそもそも陰濕なのだと考へざるを得ない。
私は陰濕なのは嫌ひだ。眞つ向から正々堂々と渡り合ふのが趣味だ。そして、陰濕な議論囘避よりは、眞正面から向ひ合つて議論をする方が遙かに明朗で健全であると信ずる。某氏は、なぜ陰濕な事になるのを好むのだらう。氏の陰濕さ・惡辣さを私は憎む。勿論、さう云ふ私を氏は憎むだらう。
しかし、氏のやうな「理窟より人間」と云ふ價値觀の持主の人が、氏自身の陰濕さを反省しないのは、何故なのか。「理窟より人間」なるスローガンを、氏自身も信じてゐないのではないか。要は、他人を叩ければ何でもいい、と氏は考へてゐるのだ。私にしてみれば、他人を批判するのには論理に基づかねばならぬのだが。
「何でもいいから叩く」と言ふのと、「論理に基いて批判する事しか許されない」と言ふのとでは、どちらが世の中のルールとして有效に働くか。氏は全く考へなしに適當に自分の嫌ひな人間を叩かうとして、出たら目を言つてゐるやうに私には思はれる。ええ、今、私は、名指ししてゐないから、批判ではないですよ。反論しないで下さいね。ガハハ。
平成二十二年一月二十一日
と言ふか、「人を叩きたい」から「理より人」を優先すると言ふのだ。目的が露骨過ぎる。
繰返すが、人を叩くのが目的でないから、私は「人より理」を優先したいと言つてゐる。罪を憎んで人を憎まずの精神だ。私を嫌ふ人々が、一生懸命「野嵜は理窟を言ふが、間違つた理窟を言つて阿呆を晒してゐる」と宣傳してゐる。けれども、それは結局、野嵜なる「人」を評價しようとしてゐるだけであつて、「理より人」主義を實踐してゐるに過ぎない。私の主張する「人より理」と云ふ主義は、結局何の矛盾も生じてゐないのだから、「理より人」派の人々は、無效な批判をやつてゐるだけであり、人に對して無駄に非難を浴びせてゐるだけだ。人を意味もなく非難してゐるのだから惡い事なのは自明である。さらに言へば、彼等は人を非難して快感を覺える。それは彼等が惡人である事の決定的な證據である。そして、人が惡人である事は、「理より人」を優先する價値觀においてのみ重大な意義を持つのであり、「理より人」を優先すると言ふ當人が惡人であつたらその人の全ての發言はナンセンスである。それに對して、「人より理」を優先する立場では、何んな惡人の言つた言葉でも、それ自體として妥當性や正當性が評價されるのであり、それによつて發想の柔軟な運用が可能となり、アイデアによる世の中の變革が齎される可能性が高まる。「理より人」主義では、不毛で陰濕なあてこすりのやり合ひや、人身攻撃が生ずるだけで、建設的な結果は生れない。ただ、人を叩いて快を貪る何うしやうもない駄目な人間が出て來るだけだ。何う考へても「理より人」主義は良い結果を生まない。何でそんな駄目な主義を信奉する人が出て來るのか私には理解出來ないが、自分なる「人」を評價させる爲には「人」を重視する價値觀が必要なのだと考へざるを得ない。勿論、それは自分に執着する事であり、道徳的に惡である事は明かであるから、私は認めない。
平成二十二年一月二十一日
「Firefox 3.6」22日午前2時公開、プラグインチェックなど新機能 -INTERNET Watch
入れる積りはない……。
平成二十二年一月二十一日
変な造語で支持者減 - 深町秋生のベテラン日記
memo:よくわからない政治の造語
要するに、をかしな奴は皆、人の感情に訴へかける……と、さう云ふ事。だから意識して我々は感情的な議論を排するやうにして行かなければならないわけだが、その爲には先づ自分が感情的に物事を判斷する事を反省するやうにしなければならない。
平成二十二年一月二十一日
有名税? : 雑記帳 : der Gegenwart
有名人だらうが無名人だらうが、批判されるべきは批判されねばならないわけだけれども、誹謗されて良いわけはない。ところが、世の中には、批判と誹謗とを區別できない人が實に澤山ゐて、さう云ふ困つた人々が他人に迷惑をかけ捲る。
晒すなら徹底的に - kyoumoe dovrebbero funzionare per vedere CLANNAD.

で、特に無しの人間も含めての話なんだが、こいつら全員相互フォローしてるんだよ。

しかも殆どの人間の直近のtweetでreplyがついてるので形式的なフォローじゃない。

要するに組織的にクズなんだよ、こいつら。

類は友を呼ぶとは言うが、ここではまさにクズがクズを引き寄せる悪循環が出来上がってるんだよ。吹いた。
コメント欄には、屑を罵倒する行爲を「屑ではないか」と非難してゐる人が出現。斯う云ふ小賢しい屑こそ屑と呼ばれるに相應しい。
平成二十二年一月二十一日
私が書く事が私感である事は言ふまでもない。けれども、私感であつても、言つた事には責任をとらなければならない。そして、發言の責任を取るとは、批判を引受けると云ふ事だ(もちろん、誹謗・中傷は、受容れる必要等ない。當り前)。
公開の場での自分の發言も「私感だから反論不要」――と言ふか、「私の私感にわざわざ反論する奴は、異常人格者であつて、相手にする價値もないのであり、相手にしない私は正しい」等と言張つて、責任逃れしようとする人がゐる。言ひつ放しで非道い事を言ひながら、それを正當化しようと言ふのだ。本當に何うかしてゐると思ふ。
平成二十二年一月二十一日
もつとも、その手の事を曰ふ人々は、その邊の事はよく理解してゐるのであり、だからこそ、自分は批判されてゐるのでなく誹謗されてゐるのだと云ふ事にする爲に、批判者を異常人格者だの癇癪持ちだのと極附けるわけだが、その極附けこそが誹謗であり中傷であると云ふ事實には絶對に氣附かない。
自分の「理窟」が、「何とでもつけられる理窟」の類である事に、「批判批判」をする人々は絶對に氣附かない。他人が自己を正當化しようとする事を非難する人々は、實に屡々自分が自己正當化する事を當り前の事と思つてゐる。それを恥ぢないのだから、恥知らずは強い。が、嫌な強さである。さう云ふ「強い人」にだけは、なつてはならない。
平成二十二年一月二十一日
「言つてゐる事は正しいが、お前の態度が氣に入らない」式の言ひ方をして、正しい事を言はうとしてゐる人間を叩いて許りゐる人は、結果として、常に惡人の側に立ち、自分も惡人と同じやうな事をするやうになる。

平成二十二年一月二十日
http://www.bumbunker.com/?date=20100119/p01
SF方面は大學生の頃に完全に離れてしまつて以來全く讀んでゐないのだけれども、スペースオペラは今でも樂しく讀む。新譯版レンズマンは出て直ぐに買つて讀んだ。舊譯の印象が完全に覆る面白い讀み物になつてゐて、非常に良かつた。スカイラークシリーズも譯し直して欲しかつた。柴野さん本人は昔SF大會で見たけれども、嬉しさうにずつとにこにこしてゐたのを覺えてゐる。アマチュアの存在意義を主張した人で、或意味今のウェブなんかも柴野氏の影響下にあると言つて良いと思ふ。
SF作家・翻訳家 柴野拓美(筆名=小隅黎)先生逝去|お知らせ|東京創元社
山本弘のSF秘密基地BLOG:【訃報】柴野拓美氏
SFWJ:member-KOZUMI-RAY
平成二十二年一月二十日
松尾捨治郎「本居宣長の國語學」(『本居宣長研究――道義論叢第三輯――』所收)

宣長の國語學の學風について特記すべきことが、更に二三ある。契沖によつて築かれた國語學は單に和字正濫抄の力が然らしめたのみでなく、非常に假名遣を重んずるのが常態であつた。其は歌文を正しく書く上に於て重要なばかりでなく、萬葉を解する上に重要な職能を發揮して居るので、縣門の諸氏も皆之を重んじた。宣長も玉勝間に、

假字づかひは近き世明らかになりて、古學する限の人は、心すめれば、をさをさあやまることなきを、宣長が弟子共のつねに歌かきつらねて見するを見るに、誤のみ多かるは又いかにぞや……わづらはしくともそれしるせるふみを、かゝむ度毎に聞き見て、たしかに浮べずはやむべきにあらず。

と諭して居るのでも、明かであるが、宣長は假名遣を重んずる以上に、活用といふことを重んじたと見えて、同じ項の中に、

抑てにをはのとゝのへなどは初學の力及ばぬふしある物なれば、あやまるも罪ゆるさるゝを……

と述べて居る。假名遣尊重の學風は、同門の春海より、其の門下の濱臣に傳はり、活用尊重の學風は、宣長より春海を經て、義門に傳はり、濱臣對義門の論爭の具體化したのが、指出の磯 磯の洲崎 の兩書である。

平成二十二年一月二十日
國語學書目解題
平成二十二年一月二十日
【本田雅一の週刊モバイル通信】 古くて新しい
私は「電子ブック」なる概念それ自體が異常だと思つてゐる。ところが、さう云ふ概念を何とかして扱つて商賣にしようと、出版業界の人々は必死になつてゐる。けれども、そんなへんなものはあり得ないのだから、商賣になどしやうがない。
消費者は、データを求めてゐるのであり、「電子ブック」なるものを求めてはゐない。ケータイ小説にしても、本ではなく、データである。女子高生は、ケータイで小説を讀むのに、「ブックを電子的にエミュレートしたもの」を買つてゐる積りはなく、ただデータを落として來て讀んでゐるだけだ。ただ、結果としてデータを讀んだら讀みつぱなしにして捨ててゐるに過ぎない。利用の仕方が、單純に「讀捨て」となつてゐるだけの事。
青空文庫も、テキストのデータがあるだけであり、「電子ブック」が「電子本棚」に並んでゐるのではない。そして、データだから、利用できる。利用の仕方の一形態として、特別なビューアを使つて讀む、と云ふ事が提案されてゐるだけだ。それを「電子ブックリーダ」と呼んでゐるのは商賣上の理由があるからでしかない。ボイジャーとかが出してゐるプログラムは、單に電子テキストのビューアである。
ところが、さう云ふ事が、出版業界のおつさんの方々には御理解いただけないのだ。彼等は、「電子ブック」なる「もの」が「ある」と信じ込んでゐて、その「もの」を賣る事が「できる」と確信してゐる。そして、「電子ブック」なる「もの」の使ひ方は、提供者が自由に定める事が出來る(=提供者が消費者を自在にコントロールできる)し、さうするのが良い事なのである、と心の底から思つてゐる。「消費者は電子ブックを讀む事だけが許される。それも澤山讀む事が良い事である。けれども、保存したり加工したりする事は惡事であつて絶對に許されない」――さう云ふ價値觀を、「電子ブック」の提供者は消費者に押附ける事を當り前だと思つてゐる。
業界人は、「ブック」なるものを作つて賣込む事が可能だと思つてゐる。ところが、消費者は、データを利用したいし、讀めるばかりでなく、保存出來れば尚更結構だと思つてゐる。業界人は、「讀む」と云ふ目的以外に全く使へない「ブック」を提供して金を取らうとしてゐる。けれども、消費者は、データを手に入れて、「讀む」と云ふ目的に限定されない利用をしたい(少くとも、利用する可能性があつた方が良い)と思つてゐる。根本的に發想のずれがある。「PCでデータを扱ふ」事が常態化した時代に生れ育つた消費者と、「データなんてものは存在しない。本とかTV番組とかいつた商品が與へられるだけである」と云ふ事が當り前であつた昔に生きてゐたサーヴィス提供者との、世代的な感覺のずれを生じてしまつてゐる。
今、「電子ブック」の市場がひらけるとしても、從來構想されて來たやうなクローズドな「商品」「コンテンツ」の市場としては駄目だらう――データは汎用性があり、ハードウェアは互換性が高いものである事が必要である。が、さうすると、不正コピーが罷り通る、と云ふのが、サーヴィス提供者の不滿となる。が、データがコピーできる事は、誰が何う考へても良い事なのであり、それを「惡い事」だと極附けるのは無理がある。コピーが容易に出來ると云ふのは、流通が至極簡單であると云ふ事にほかならない。問題は、データが流通しても、データの作成者に金錢的な見返が無い、と云ふだけの事だ。
大量に商品が流通して、しかし生産者が儲からない――それでは産業にならない。電子データの場合、デジタルだから商品は劣化しない。それで「不正コピー」が罷り通ると言はれるわけだが、劣化しない商品なのだから、生産者は在庫を抱へ込む必要がないわけで、ありがたい筈なのだ。「商品としてのデータが流通した時、對價が正當に支拂はれる」その仕組が巧く確立されれば、今のコンテンツビジネスは「作るだけで勝手に商品が流通し、勝手に御金が懐に入つて來る」と云ふ、うまみだけがある商賣になる。今、「不正」と言はれてゐるコピーが、「正當」なコピーに化ける事になるわけだ。
今は、決濟の仕組が、未發達で、何うしやうもない状態のまゝ放置されてゐる。それで他の技術全部が壓迫される結果になつてゐるだけの事だ。既存の、御金を基礎にした經濟のシステムなんて物それ自體から疑つてかかつて、今の時代により適した・人々が生き延びる爲により合理的な何らかの機構を改めて作り出した方が、良い結果に繋がるのかも知れない。もちろん、そんな事をやつてゐる餘裕が今の人には無いし、また「非現實的」の一言で皆默つてしまふ。それで今の最惡の状態に留まつたまゝ、無駄な足掻きをやつて、何うせ駄目なのに「駄目ぢやない」と精神論をぶつたり、「不正だ」と云ふ恨み節をコピーにぶつけて生産者・サーヴィス提供者は消費者を呪つたりする事になるのだが、何とも非生産的だと思ふ。もつとも、今の時代、非生産的な事を「良い事だ」と思ひ込んで、面白がつてやる人が、ウェブでも威張つてゐたりするから、御話にならない。
平成二十二年一月二十日
と言ふか、アイデアマンのプログラマの人が、案外經濟大好き人間だつたりするのだが、なぜか既存の經濟のシステムの中で巧く立廻らうとだけ考へてゐたりするのが、私には解せない。なぜ既成の經濟の體制を變革する事を考へないのだらうか。
その邊で賣られてゐる「自己啓發本」なんかを讀んでゐると、發想がどんどん貧困になる。既成のシステムの中で巧く立廻るには何うしたら良いか――それだけを自己啓發本は教へるからだ。全ての自己啓發本が、精神論である。日本人は精神論が大好きだから自己啓發本もありがたがつてしまふが、精神論は如何なる方法でも決定的に反論出來ないと云ふ非道い問題を持つてゐる。精神論をぶつ人は、結果が何うなつても幾らでも言逃れをして自分を免責する事が出來る。
要は、自己啓發は全て非科學的だ、と云ふ事。
だから、自己啓發なんかおやめなさい、と某氏には忠告したい。
――と言ふか、なんで「自己啓發」なんてジャンルの本に興味を持てるのか、私には理解出來ない。あれだけバンバン出版されて、大量の讀者が讀んでゐると云ふのに、誰も成功してゐないのだ。無意味極まる。讀めば成功すると云ふやうな本なら、あれだけ澤山讀んでゐる人がゐるんだから、どんどん億萬長者が誕生してゐて不思議はない。が、ほぼ全ての讀者が、讀んでも成功しないのだ。それなら、その本に書かれてゐる事は、讀んでも意味がない。
「福田恆存を讀んでも役に立てられない人がゐて情けない」なんて非難される。が、ならば、自己啓發本を讀んでも意味なんてあるわけがない。あつてたまるか。福田恆存の何百倍・何千倍も自己啓發本の讀者は多い。その殆どが成功してゐないのだ。自己啓發本が無意味である事は、それを見れば判る。何うせ精神論だ。書き手は無責任に書飛ばしてゐる。或は、成功者が自分の成功を自慢する爲に書く本が「自己啓發本」だ。そんなもの讀まないでいい。讀むのは馬鹿だ。自己啓發本を讀んでゐる人は輕蔑されねばならない。
平成二十二年一月二十日
「理より人」だの「理窟を言つても、議論するには資格が要る」だの言ふ奴は、要は「人」として自分はひとかどの存在だと驕つてゐるし、自分は議論する資格がある偉い人間だが、默つてゐるから謙虚なのだとアピールしてゐるのにほかならない。
俺が一番嫌ひなのは自分の「謙虚さ」を賣りにする輩で、事ある毎に「私は謙虚ですよ」「私は謙虚ですよ」とアピールする奴には蟲酸が走る。

平成二十二年一月十九日
Amazonのアフィリエイトを張つてゐるサイト(「ブログ」の類)をOperaで見に行くと、http://rcm-images.amazon.com/の數だけ「進んだ」事にされて、その數だけ「戻る」を連打しないと戻れない。Internet Explorerなんかだと問題がないからOperaのバグ。http://rcm-images.amazon.com/とhttp://www.assoc-amazon.jp/をブロックして對處してみる。
平成二十二年一月十九日
Operaのコンテンツブロック機能は便利。虹裏で廣告を消すとか、http://txqz.net/でhttp://txqz.net/styles/*.cssをブロックしてCSSオフにするとか。
平成二十二年一月十九日
人からの批判を聞入れない爲に「感情」を理由にするのは、一番樂な逃げ方である。一見「尤もらしい反論」に見えるのが嫌らしい。何より、言つた當人が「俺今實に巧い事を言つて相手を凹ました!」と思ひ込めてしまふ。ネットマナーだの禮儀だのを言ふ人が天狗になり勝ちなのはそのせゐ。
「批判をするには資格が必要だ。他人の感情を害さないやうに氣を附けてものを言ふ事がそれだ」みたいな事を言ふ人は、無神經だから實に屡々他人の感情を害してゐるものである。その事實に氣附かないまゝ、毎度毎度偉さうに説教垂れてアピールしてゐるのは、噴飯もの。
平成二十二年一月十九日
批判と云ふ事について、理窟はさておき、批判をする人こそが問題である、と意見を述べる人が、例外なしに、人で無しで、屑であるのは、面白い事實だ。さう言ふ人は全て、特定の人間を念頭に置いて、個人攻撃を目的として物を言つてゐる。個人攻撃が目的なら、人間として屑なのは自明。
人間として屑だからこそ、批判をする人間の人間性をいちいち問題にして、批判それ自體を封じ込めようとするわけである。
平成二十二年一月十九日
要は、自分が屑なのを隱蔽する爲に、他人を屑と極附けて、自分から他人の目を逸らさうとしてゐるわけだ。
平成二十二年一月十九日
もつとも、批判をする人間を非難する人間は、批判をする人間こそがそれをやつてゐると極附けるのだが、「批判をする人間だけが」と言へないのに自分が偉さうな口を利いてゐるのは詐欺であると云ふ事實に氣附いてゐない。
自分に資格がないのなら、他人の資格を云々するのはナンセンスだ。それが解らない人間だからこそ、偉さうな口をきく。
相手の人間性を云々するなら、先づ自分の人間性をこそ云々しなければならないのは當り前の事だし、「同じ人間」なのだから、相手の人間性に見出せる問題くらゐ自分にも見出せるのは當り前の事だ。
人間は全て人間であり、人間が人間ならば例外なしに缺陷を持つ。となれば、我々は相對的に「ダメ」であり、同じ「ダメ」同士、、と云ふ事になる。みんな御互ひ樣――だが、それなら誰もが默るしかない。ところが、そこで「自分には批判をしてゐる人の人間性を一方的に裁定する權利がある」と思ひ込める人がゐる。
批判する人を罵倒する「理より人」派の人々は、自分は人間としての缺陷を免れてゐると確信してゐる。飛んでもなく傲慢である。
平成二十二年一月十九日
――が、自由社會において、人間は批判をする事が許されてゐるし、批判をしなければならないのだから、批判を正當化する論理こそが正しい論理だと認めなければならない。ならば「人より理」と云ふ價値觀を認め、當座、論者の人格だの何だのについては意識して問題にしない態度をとる事こそが、自由社會では求められる、と云ふ事を、理解し、受容れ、實踐しなければならない。
が、それは、自分を許すのと同時に、他人をも許す事である筈だ。そこには寛容の美徳が要請される。
平成二十二年一月十九日
「批判をするのは傲慢である」と云ふ言ひ方は、實に單純で、理解し易い――が、實は、「批判をしない事こそが傲慢である」と云ふのが正しい。「他人を批判しない=自分も批判されない」と云ふ事を考へてゐるのだから、「自分は批判されない=自分は絶對に正しい」と言つてゐるも同然。「自分は絶對に正しい」と信じ込むのが傲慢でないわけがないのだから、批判を否定する人が傲慢でないわけがない。
かう云ふ理窟が、批判を否定する人々には理解出來ない。彼等は、自分が謙虚であると確信し(この時點で傲岸不遜)、謙虚であるなら批判しないものであると根據もなく信じ込み(考へが足りない)、批判する人間は傲慢であるに決つてゐると極附ける(惡質)。しかし、彼等がさうした理窟を認める事が出來ないのは、彼等にとつてその理窟の結論が自分を不利にするもので、自分が不利になるのは感情的に嫌な事であるからである。彼等は自分が優位に立ちたい。だから自分を優位にするのに都合の良い「理窟」として「批判をするのは傲慢」「批判しないのは謙虚」と云ふスローガンを採用するわけだ。自分を正當化する論理は良い論理であると思つてゐる(もつとも、その「自分」とは、批判否定をしてゐる將にその人自身の事であつて、他人が自分にとつて都合の良い結論を引出すのを見るとカッとなつて散々感情的な罵倒をし始める。自己中心的なのである)。
平成二十二年一月十九日
批判する人を罵倒する人々は、「理窟なんて何とでも附く」と思つてゐる。だから「自分にとつて都合の良い理窟」等と言ふ事が出來る。ところが、理窟は何とでも附くと云ふものではない。前提條件等に對して妥當な理窟を適用すると、常に一定の結論が出る。その場合、條件次第で、論者自身にとつて不利な結論は出るものだ。さう云ふ事實が、批判を否定する人々には、認識すら出來ない。
「自分に都合の良い結論が出たかどうか」と「自分に都合の良い結論を出すかどうか」とを、彼等は區別できない。彼等は、自明の理と、意圖的で恣意的な歪曲とを、區別できない。
理窟、論理、と云ふ事が、人間の價値觀を越えたものである事實を、彼等は理解してゐない。だからこそ、論理は普遍的であり、公正であるのだが、彼等は事實と正反對に、論理が偏つたものであり、不公正なものであるかのやうに看做してしまふ。事實誤認を基に彼等は常に物を語る。だから彼等は、批判する人を非難する爲に、ほら、お前の好きな論理とやらをお前自身にも適用してやつたよ、ほら、お前にとつて不利な結論が出ただらう、お前はダメな事を言つてゐるんだよ、と、にやにやしながら言つて見せる。勿論、妥當な論理で批判をしてゐる人の誤を指摘したのなら、それは妥當な批判である。が、論理を「都合の良い結論を引出す爲の道具」としか考へない人なのだから、批判してゐる人を凹ます爲の「論理」は、恣意的に用ゐられた「論理もどき」であり、それによつて引出された結論は不當な非難である事が極めて多い。ところが、批判する人を非難する或種の人々は、それが解らない。結論が「批判をしてゐる當人にとつて不利である」と云ふ、見た目の部分で、彼等は「勝つた!」と思ひ込んでしまふ。
しかし、さうやつて、人と人との對決で、誰が勝つた・誰が負けた、と云ふ事に執着し、相手が負けて悔しがる事を望むのは、人間として最低だ。それが解らない人が、「理より人」のやうな事を言ひ、「人の感情を考へろ」と偉さうな口をきく。
平成二十二年一月十九日
電車に乘つてゐる間や歩いてゐる間にヘッドフォンなんかで音樂を聽いてゐる人は、自分が周りの人に迷惑をかける可能性があるのを氣にしない無神經な人だ。
一人でゐる時に音樂を聽いてリラックスするのはいいけれども、人込みの中なんかで周りに壁を築いて自分だけの世界を作らうとするのは良くないと思ふ。音漏れに關してはヘッドフォンの技術で何とでもなるだらうけれども、その人が「周りの音を聞かない」事が一番問題なのであつて、危險が迫つてゐても氣附かないで被害に遭つてしまふとか、人に聲を掛けられても氣附かないで無視してしまふとか、その人にとつてのデメリットも、周りの人にとつてのデメリットも確實に「ある」。それらのデメリットを越えるメリットが「ある」と云ふ理由を私は知らない。街中では斷固ヘッドフォンをつけるんだ否つけなければならないヘッドフォンをつける事こそが正義なのである派の人には、是非とも理由を伺ひたい。
滿員電車の座席に坐つてヘッドフォンで音樂を聽きながら足を組んでゐた人や、ヘッドフォンで音樂を聽きながら本屋で立讀みしてゐて店員さんが棚の下の抽斗を開けようとして聲を掛けたのに氣附かないでゐた人を見た。
平成二十二年一月十九日
「理より人」とは、「人の責任を問題にする」と云ふ事だが、これを言ふ人は一人の例外もナシに自分だけは免責するから信用できない。
一方、私が言ふ「人より理」では、關はつた人は全員免責して理を明かにしようと言ふのだから、そこで私に反對する人が「野嵜と云ふ人間は」何う斯うと言ふのは「理より人」と云ふ價値觀を一方的に押附けてゐるだけの事でしかない。
「理より人」と「人より理」の、價値觀の對立の際に、私は「理より人」と言ふ人の責任を問題にするが、それはその人に對する人格攻撃をしてゐるのでなく、單に「理より人」なる「理」を論者なる「人」自身に適用する事で矛盾を晒け出させようとするものであり、「理より人」なる「理」が破綻してゐる事實を説明してゐるだけの事でしかない。が、結果として「自分は人間としてダメである」と言はれる事になるから「理より人」派の人は「不愉快」に思つて私を益々憎む。さう云ふ結論が出た所で私の立場では「論者は免責される」のだから問題ないのだが、彼等は問題が「ある」と思つてしまふ。理窟がわからないのである。
平成二十二年一月十九日
あと、「議論の際に、人の感情を害するな」「議論するには資格が要る」等と曰ふ人がうさんくさいのは、その人が無神經で、實に屡々他人の感情を害してゐながら、自分は他人の感情を害した事等一度もないかのやうな顔をしてゐるから。
無神經なのは御互ひ樣だから私は感情だの何だのを問題視して他人樣の責任を追究しようとは思はない。が、さう云ふ事を平氣で曰ふ人に限つて自分だけは免責する。さう云ふ人は許せないと私は思ふ。
私は論理を重視するが、價値觀も重視するし、或種の價値觀は共有の價値觀であると思ふし、さう云ふ價値觀に基いて人を判斷する事は「ある」。
平成二十二年一月十九日
と言ふか、人の感情を害する害さないと他人に對する態度のやうに言つてゐるが、要は「俺の氣に入るやうな事を言つたら話を聞いてやつても良いよ」と言つてゐるわけで、何樣の積りだとしか言ひやうがない。
平成二十二年一月十九日
「人を批判する」のだから「人」――詰り具體的に「誰」を批判してゐるのか明かにしなければそれは批判した事にはならないんだ、私は今、名指しで批判してゐるのでないから批判ではない、だからそんな私を名指しして「反論」する奴は××××であるとか言つて威張つてゐる馬鹿がゐるけれども、意見・アイデアに對して反論するのが議論だから、そんな「理窟」は詭辯に過ぎない。新聞・雜誌は不特定多數の人が讀む爲のものだから議論を呼ばない、とでも、その人は本氣で主張する積りなのだらうか。もちろん、何も考へないで、ただただ自分を守る爲、保身の爲に「理窟」をでつち上げてゐるに過ぎない。

平成二十二年一月十八日
デザインを優先すると使ひ勝手が惡くなる事は判り切つてゐるのに何故か家電製品はデザインを優先する。そんなにデザインを良くしないと賣れないのだらうか。
TVなんか、アンテナ線を繋いだり、外部出力を引出したりするのに、矢鱈面倒なやうに作られてゐて、自分で配線できない人が出てくるくらゐ、非道いデザインなのだが。何で家電メーカの人は、ああも使ひ難いデザインをやつて平氣でゐられるんだらう。
平成二十二年一月十八日
あと、インスタント食品、あれは何うして、どれもこれもしよつぱく出來てゐるんだらう。ラーメン然り、御茶漬け海苔然り。食品メーカの人は、何時も自分逹のメーカの製品を食べてゐるから、口が馬鹿になつてゐるのではないだらうか。永谷園の御茶漬け海苔なんか、誰が何う考へても鹽辛いのに、メーカの人は「美味しい!」と思つてゐるのである。一般人とは感覺がずれてゐる――と言ふか、鹽分取り過ぎが問題になつてゐるのに、何でそんなに鹽を入れたがるんだらう。
平成二十二年一月十八日
松尾捨治郎「本居宣長の國語學」(『本居宣長研究――道義論叢第三輯――』所收)

然らば宣長の國語學史上に於ける功績如何といふに、

  1. 音韻學上に於ては、我が國語の母音の性質を明かにし、鎌倉時代から誤り來つた、お を の所屬を正し、濁音が我が國語に於ては、二次發生の者であることを説き、又我が國の地名に用ゐてある、字音の漢音・呉音にあらざる者を説明した。(漢字三音考 字音假名用格 地名字音轉用例)
  2. てにをはの形式(係結)及び語義の研究を體系あらしめ、語の活用についての基本知識を全からしめた。(紐鏡 詞の玉緒 御國詞活用抄 玉霰)
  3. 語源の解釋よりは、古語の用法を歸納的に研究することに力めた。(玉勝間 玉の小琴 等)

人或はてにをは乃至係結の範圍を誤解して、宣長の研究は國語法の一部分に過ぎないと見る人もゐるが、其は大なる誤であつて、當時のてにをはといふのは、大槻博士などの言ふ所とは、全然違ひ、今日の助詞・助動詞・接尾語のみでなく、極めて廣範圍に亘る者である。之は宣長の著書を熟讀すれば勿論のこと、其の門人鈴木朖の名著言語四種論に天爾乎波を分類して、

  1. 獨立の者(感動詞) あゝ あはれ 等
  2. 詞に先つ者(副詞) はた いで 等
  3. 中間に來る者(助詞) に を の 等
  4. 結となる者(助詞・助動詞) かな ず がも等
  5. 活語の終に附く者(語尾) 行く 有り 青し 等
  6. 詞の下に來て切れも續きもする者(助動詞)

としてあるので、極めて明かな如く、あらゆる語法的現象に關する者である。

平成二十二年一月十八日
YouTube - 自主制作アニメ 「フミコの告白」 Independent production anime「Fumiko's Confession」
平成二十二年一月十八日
らくがき。
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平成二十二年一月十八日
らくがき。
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平成二十二年一月十八日
らくがき。
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なほ、これは、すまいるくんを横から見た圖ではなく、ひとだまくんといつて全く別のクリーチャーである。

平成二十二年一月十七日
【PC Watch】 レノボ、ThinkPadレビュー・コンテストを開催 〜最優秀賞はThinkPad X100eをプレゼント
ThinkPadの魅力を紹介しよう!「レノボThinkPadレビュー・コンテスト - We Love ThinkPad」を開催
Lenovo - ThinkPad レビュー・コンテスト - We Love ThinkPad - Japan
あああThinkPad觸つた事ない……以下コンテストとは無關係の記事。
私が最初にPCに觸つたのは、IBMのPS/55 note――IBM DOSバージョンJ5.0/Vがインストールされた機械。英語モードで起動して、config.sysとautoexec.batを讀込みながら立上がる途中で日本語に切替はるのが、凄く印象的だつた。それ以來、何うしても英語モードで起動する機械でないと違和感を覺えるやうになつて、NECのPC-9800が使へない體質に。もつとも、英語→日本語に切替るのが觀察できたのは、PS/55 noteが遲かつたから。一太郎とかLotus 123とかを使はされたけれども、何でもみんなのんびりしてゐた。とは言へ私がDOS/V機を買ふきつかけになつたのがPS/55 noteであつた事は事實。
その後のThinkPad攻勢は眺めてゐたけれども、高くて自分で買ふ事が無かつた。Aptivaは一臺買つた。ThinkCentreも一臺ある。ThinkPadは今に至るまで遂に持つてゐない。
ちよつと前にネットブックを一臺買ふ必要が出て來た。御金を持つて新宿西口のヨドバシカメラの賣場をうろついてゐたのだけれども、色々ある中で結局選んだのがIdeaPad――ThinkPadの弟分みたいな機械と言ふか、ThinkPadに比べれば遙かに安物なのだけれども、白い筐體の奴は可愛らしくて魅力的だつた。黒とオレンジの刻印の入つたキーボードが氣に入つた。他の機械も觸つて見たけれども結局印象の良さだけでIdeaPadを買つた。凄く良く活用してゐる。

平成二十二年一月十六日
Re: 闇黒日記 平成二十二年一月十五日: まじかんと雑記
平成二十二年一月十六日
窓の杜 - 【特別企画】USBメモリから起動できる“Chrome OS”「ChromiumOS ZERO」を試す 前編
窓の杜 - 【特別企画】USBメモリから起動できる“Chrome OS”「ChromiumOS ZERO」を試す 後編
平成二十二年一月十六日
民主黨の小澤氏周邊がきな臭い事になつてゐるが、讀賣新聞はアンチ民主、日刊ゲンダイが民主支持の姿勢を鮮明に示してゐて、面白かつた。
石川議員逮捕等もあつて、讀賣なんかは小澤氏の「説明責任」を求めてゐる。一方、民主の議員が石川氏を逮捕した檢察の「説明責任」を求めてゐる。「説明責任」なる用語のうさん臭さがはつきり看て取れる。と言ふか、「説明責任」「アカウンタビリティ」は、小林よしのりが使つて大流行するやうになつた言葉で、二十年近い間流行り續けてゐる流行語――政治好きの人が盛んに使ふ用語だ。これを言へばもつともらしい評論になる! と信じてゐる馬鹿な人が、他人を攻撃するのに良く使つてゐる。

平成二十二年一月十五日
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平成二十二年一月十五日
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平成二十二年一月十五日
http://d.hatena.ne.jp/scinfaxi/20100114/1263487409
GR、廣角單焦點だし、うちのは初代のだから暗いとぶれるし(雜誌で森山大道氏も指摘してゐた)、明かに不自由です。が、構圖は自分が動けばいいわけですし、ぶれは「置いて撮る」とかすれば何とかなりますし、使ひやうです。GRの場合、撮る人間が工夫する必要があつて、餘裕のある時には寫眞を撮る樂しみが味はへます。漫然と撮れないので、それつぽい繪を撮らうとすれば、その度に勉強させられます。最近はへんないきもの(?)しか撮つてゐないですが……SDカード一枚全部ミーシャの寫眞つて何うよ。あと、何うにも思つたやうな繪を寫せない時は「あきらめる」やうになつた。GRでお月樣を撮るなんてのは何うやつても無理。
うちのGRは手ぶれ補正無しのカメラですが、PENTAX K-xは手ぶれ補正機構搭載ですし、ISO感度を適當に上げれば夜でもぶれないで寫せると思ひます。
K-x|デジタル一眼レフカメラ|PENTAX
もつとも、ぶれてゐても面白い寫眞ならOKだと思ひます……さう云ふ繪作りも「作風」と言張れば「あり」なわけですし。
平成二十二年一月十五日
一眼レフなんかだと撮像素子が大きいので、普通に使つて綺麗な繪が撮れます。プロだと仕事の必要上、絶對に綺麗な繪でなければダメなんで、大體大きな撮像素子のカメラを選ぶ事になります。私なんかは素人なんで(何處かの誰かさんが「カメコ」呼ばはりして呉れましたけれども)、さう云ふ立派なカメラを持つ事それ自體が恥かしいものですから、一眼レフは選ばうと思ひませんでした。
……が、撮りやうによつてはプロとも戰へる――さう云ふコンデジがあれば、と……。GRは、さう云ふ私にとつては理想のカメラでした。今のところそんなに御立派な寫眞は撮れませんが、趣味のカメラとしては實に面白いです。
平成二十二年一月十五日
もつともカメラなんて寫れば何だつて良いんで、がんばつていい寫眞を撮つて下さい。一番ダメなのが、カメラの性能の話ばかりして、寫眞を撮らない人種ださうです。
あと、カメラには名前をつけてあげませう。うちのGRは、うちのGRとしか呼ばなかつたので、故障して、修理に出しました。
平成二十二年一月十五日
ユーザーインターフェースは難しい:依存関係がある設定項目をどう取り扱うべきか - 檜山正幸のキマイラ飼育記
オープンソースの惡いところが出たんではないだらうか。推測だけれども、あつちこつちを別の人が場當り的に作つてゐるから、インタフェイスが一貫したものにならないんだと思ふ。或は、インタフェイスが難しいんではなくて、Firefoxと云ふプログラムの作りが惡いんだ。
オープンソースで開發をやつてゐるプログラムは、一貫した思想を誰かがコントロールしてゐるわけではないから、全體として支離滅裂な代物になり易い。斯う云ふ一般論化をすると反撥を食ふと思ふけれども敢て言ふ。
散々非難されてゐるMicrosoftだけれども、プログラムの使ひ勝手に關しては相當研究してゐるやうで、破綻は少いよ。ちやんと思想があるから、その思想を理解すれば、納得して使へるやうになつてゐる。寧ろ、unix方面のプログラムなんかの方が、わけがわからなくなつてゐて、使ふ時に苛々させられる事が多い。

平成二十二年一月十四日
Amazon.co.jp: 藍坂素敵な症候群 (電撃文庫): 水瀬 葉月, 東条 さかな: 本
プロ作家だと「いつものパターン」と云ふ奴が段々鼻についてくるもので、この本にもやつぱり「パターン」が看て取れる――「いつもの水瀬さん」らしさを、ずつと附合つてゐる讀者の人ならすぐに感じ取れると思ふ。しかし、水瀬さんは、惡い意味での「プロつぽさ」と云ふものを持たない人で、寧ろいい意味で「素人つぽさ」を強烈に發揮してゐる。一言で言へば典型的な「中二病小説」となつてゐるわけだけれども、とても良いと思ふ。御話作りは拔群に巧い。
平成二十二年一月十四日
Twitterなどのミニブログ、「書く」より「読む」傾向 -INTERNET Watch
ミニでない「ブログ」でも讀む人の方が多いと思ふ。普通の人は文章なんて書かないのだ。
平成二十二年一月十四日
ニコ動ユーザーが1カ月に読む雑誌(マンガ除く)、「0冊」37.7% -INTERNET Watch
立讀みを除けば、俺も雜誌なんて一册も讀んでゐない。
平成二十二年一月十四日
Wikipediaには、嘗て存在した國産のウェブブラウザ「Lite」の事が書かれてゐない。
既に http://www.jah.ne.jp/~nemo1/lite/ にあつたリソースは消滅。Internet Archiveに保存されてゐるのだけれども、2002年(既にプロジェクト中止)以降のものしか殘つてゐない。
平成二十二年一月十四日
22年冬の新番組・いぬまとめ - いぬ日記
安心して觀られさうなのはひだまりとちゅーぶらくらゐ。はなまる、おまもりひまり、ソ・ラ・ノ・ヲ・トは一往見續けると思ふ。FAIRY TAIL、テガミバチ、超電磁砲は前期から視聽繼續中。
平成二十二年一月十四日
清水潔『藤原行成』(皇學館大學講演叢書第八十五輯)讀了。講演の記録で五十八ページしかないから直ぐに讀める。東京堂書店の地方・小出版のコーナで購入。
皇學館大学公式ページ 皇學館大学出版部 講演叢書

平成二十二年一月十三日
時事ドットコム:ベスト電器、さくらやを清算=浜田社長は12日付引責辞任、深沢副会長が社長就任

平成二十二年一月十二日
2010-01-11 - 大和但馬屋日記

「ソ・ラ・ノ・ヲ・ト・コ」とでもすれば仮名遣ひの問題は解決。話もその方が面白さうだ。

平成二十二年一月十二日
カートゥーンネットワークでやつてゐるガッチャマン、いろいろアレなところがあるのを承知で見てゐるが、結構面白い。今となつては案外やれなさうな事がいつぱい。メカ佛陀とか今だと問題になりさう。何でかう云ふアレなデザインをギャラクターは採用しないではゐられないのかとか突込みどころは多いが、今時の實用一點張りのメカデザインなんかより發想が自由で良い。
平成二十二年一月十二日
エキサイトイズム アップルwiki(ウィキ)
平成二十二年一月十二日
http://d.hatena.ne.jp/scinfaxi/20100112/1263282908

コンデジに多分ないだろう一番の点はズームのやりやすさです。レンズをまわすだけでズームできるというのは気持ちいいものです。

俺の愛機・GR DIGITALは單焦點のコンデジ。この邊、思想が根本的に異るんだ。俺の場合は「どうせズームなんか使はない(前のカメラでは全然使はなかつた)」→「ズーム機能がない單焦點で十分」と云ふ理窟でGRDを選んだ。と言ふか、一眼レフは重くて、俺みたいな體力のない人間にはダメ。
Theoriaさんは、撮りたい寫眞を撮つたらぴんぼけでもぶれてても兔に角ウェブに上げて公開してゐるのがすごくいいと思ふ。
平成二十二年一月十二日
アナーキーのおめかし
平成二十二年一月十二日
ミーシャとバターサンド
ミーシャとおかき

平成二十二年一月十一日
いつものパン

平成二十二年一月十日
Wikipediaの「超くせになりそう」の項で、角田の讀みが「かどた」になつてる。つのだくん哀れ。「スーパースターだ角田君」でぐぐると歌詞が出て來て「つのだくんつのだくん♪」と言つてゐるのが確認出來る。

平成二十二年一月九日
國學院大學道義學會編纂『本居宣長研究』(昭和十二年三月十六日發行・青年教育普及會)所收 小野祖教「本居宣長の神觀・神道觀」

學問は客觀的な冷靜な判斷から生まれなければならない。歸納法の創始者であるベーコンは確實な知識に逹する爲に先入的謬見を除く必要があると考へた。彼のノヴム・オルガヌムは四つのイドラを説いてこれを除去すべき事を教へる。

劇場の偶像(イドラ)とは吾々が古來の傳説や古人の教説に權威を感じ、これを無批判に受容れて眞理だと思つてゐる事である。市場の偶像といふのは吾々が人の言葉に惑はされてそれを盲信して了ふ場合の多い事をいふ。洞窟の偶像といふのは吾々の個人的な性癖嗜好によつて吾々のものゝ見方が規定せられ易い事を示してゐる。最後に種族の偶像とは例へば自然に對して目的觀を以つて臨むといつたやうな、又自然を擬人化して見るといつたやうな人間一般の傾向としてあるものゝ考へ方がそれである。斯樣な先入的謬見を除いて經驗に基いて眞なる知識に到達する爲に歸納的な研究法を説いた彼は近世自然科學の方法を最もハツキリと解明したものと稱せられる。

近世に於いては自然科學が萬能と信ぜられ、唯一の學問とも考へられたが、最近の方法論はこれに對應する文科科學の歴史的方法を説く樣になつた。けれ共學問に於いて先入的謬見を取除いて妥當なる知識を求めるといふ精神は一貫的なものといつてよい。本居宣長はこの點に於いては近世日本に於ける最も科學的な人物であつたと見られよう。一體和學者又は國學者は日本の文藝復興運動をなしたものといつてよく、學問上自由の精神に豐み、その故に彼等の存在意義も深いのであるといふことも出來る。宣長の學問上の態度もこの先入的謬見を除くといふ點、一切の偶像から自由になる事、常に批判的であるといふ特色が甚だ顯著である。

平成二十二年一月九日
國學院大學道義學會編纂『本居宣長研究』(昭和十二年三月十六日發行・青年教育普及會)所收 小野祖教「本居宣長の神觀・神道觀」

宣長は學問について批判の大切なるを主張する「あまたの手を經るまにまにさきざきの考のうへをなほよく考へきはむるからに、つぎつぎにくわしくなりもてゆくわざなれば、師の説なりとてかならずなづみ守るべきにもあらず、よきあしきをいはず、ひたぶるにふるきをまもるは、學問の道にはいふかひなきわざなり」と云つて、「吾にしたがひて物まなばむともがらも、わが後に又よき考のいできたらむにはかならず吾説にななづみそ」(玉かつま卷二)などゝいつてゐる。彼は自分の學問研究の上でこれを實行してゐるし、それによつて彼の學問は高い水準を占めてゐるのだと見てよいだらう。


平成二十二年一月八日
http://www.geocities.jp/janggijp/2010-01.html#D07-3
俺も非道いと思つた。
君待つと
平成二十二年一月八日
http://www.geocities.jp/janggijp/2010-01.html#D07-2
――Wikipediaは、古田信者に利用されてしまつて、一般的でない説が横行してゐる。これは困つた事だ。古田學説はトンデモだが、例によつて「説得力があるやうに見える」から騙される人が矢鱈と多い。トンデモでも何でもいいが、それ「だけ」が正しいかのやうに書いて、一般的な説を排除するのは、殊にWikipediaのやうな「百科事典」志向のところでは、良くないだらう。書きたければ書いてもいいが、兩論併記にしておくのが常識的な態度ではあらう。ところが、この手の一方的な主張が、恰も「定説」であるかのやうに書込まれ、罷り通るのがWikipediaの恐ろしいところ。素人が編緝してゐるからかう云ふ危險な事が頻繁に起る。
契沖著・武田祐吉校訂『萬葉代匠記(一)』(冨山房百科文庫1)の223ページ脚注に今は、家聞かなと讀む、願望の語法。とある。
萬葉假名で家吉閑名告紗根。高木市之助・五味智英・大野晉校注『日本古典文學大系 万葉集一』では、家吉閑名と告紗根で分けて「家聞かな」「告らさね」と讀む。この本では「われこそはのらめ」が「われにこそはのらめ」となつてゐて、(『孤高 国語学者大野晋の生涯』によると)この讀み方に大野氏は自信を持つてゐたとの事だが、今の學界でこの説は劣勢らしい。

平成二十二年一月七日
らくがき。
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平成二十二年一月七日
Free Driver Update Software - Device Doctor
Freeware Driver Update Download Device Doctor Updates Windows XP, Vista, & Windows 7 Drivers Automatically.
めも。インストールして實行すると、自分の環境で必要と思はれる最新のデヴァイスドライヴァを見附けて呉れる。入れてゐない。
平成二十二年一月七日
トアルコ トラジャ|トラジャコーヒー|キーコーヒーの代表トアルコ トラジャの物語
平成二十二年一月七日
讀了。とても面白かつた。
筑摩書房 日本海海戦の深層 / 別宮 暖朗 著
Amazon.co.jp: 日本海海戦の深層 (ちくま文庫): 別宮 暖朗: 本
司馬遼太郎の『坂の上の雲』は、左翼全盛の時代に發表された小説で、確かに劃期的ではあつた。けれども、司馬が兵法の常識や軍事技術に關する知識を持たなかつた上、調査方法を誤つた爲、多くの誤を含んでゐる。別宮氏は、司馬が、昭和の陸海軍に批判的であつたにもかかはらず、リサーチの對象として昭和の陸海軍軍人を選び、その發言を信用してしまつた事に、多くの誤りの原因があると見てゐる。
本書は、日露戰爭の樣々な「謎」を「解き明かす」ものだが、當時(明治時代)の技術を前提に考へれば、そんな「謎」は全く「ない」と云ふ事を示してゐる。司馬その他の人々の「わかりやすい説明」は、無知ゆゑに、存在しない「謎」を見出してしまつて、それにもつともらしい説明を故事つけたものに過ぎない。
司馬氏その他の人々が驅使する「當時の文獻資料」や「囘顧録」の類も、本書の著者・別宮氏は疑ふ。現在では當時の武器・兵裝の諸元が昔よりもはつきりしてゐるので、案外同時代の資料は當てに出來ない。また、當事者による記録も、誤や誇張、或は意圖的な歪曲が含まれるので、決して盲目的に信用して良いものではない。特に、昭和期の參謀は、自分逹の功績を大きく見せかける爲、殊さら明治期の參謀――秋山眞之――を高く評價してゐる。司馬が、參謀である秋山を持上げながら、司令長官である東郷大將を貶める書き方をしてゐるのは、昭和の參謀にリサーチした事が原因にある。要は、昭和の時代の「官僚」が、ここでも惡さをしたわけだ。それを無批判に受容れた司馬にも隙があつた。
司馬の小説を、エンタテインメントとして面白がつてゐる人もゐるが、無知ゆゑの誤や記述のをかしさを氣にしないで讀んで、「洗腦」される危險がある。私には、單なる娯樂の「面白さ」なんてものは決して本當の面白さではないと思はれる。寧ろ、正しい事・眞實を知る事の方が遙かに面白い事だと思はれる。さう云ふ意味では、司馬の小説は決して手放しで勸められるものではない。

平成二十二年一月五日
おもちくんとすまいるくん。
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平成二十二年一月五日
TXにてソ・ラ・ノ・ヲ・トが放送スタート。なぜソ・ラ・ノ・・トなのかわからない。
平成二十二年一月五日
イヤならリムーブすればいいぢゃないなう - カナかな団首領の自転車置き場
かなかなさん大ヒットネタ。Twitterの御話なので觸れないでゐたら凄い評判になつてゐる。
はてなブックマーク - イヤならリムーブすればいいぢゃないなう - カナかな団首領の自転車置き場
「(不特定多數に)讀ませたい」「この人には讀んで貰ひたい」と言ふ「書き手」もゐれば、「この人の言葉を見たい・讀みたい」「澤山讀みたい」「讀切れないのは困る」と言ふ「讀み手」もゐる。中には「こいつは俺の言ふ事を聞くのが當り前」とか「意地でもこいつには讀ませてやる」とか、そんな事を考へてゐる變な人もゐたりして――何か最う今の「2.0」の時代はわけがわからないとしか言ひやうがない。斯うした樣々な人の好き勝手な諒解事項と無關係に、テクノロジーは「雙方向性」「インタラクティヴ」とか云つたスタティックなキーワードに乘つかつて多樣化・變貌し續けてゐる。「ユーザ不在」のテクノロジーと云ふ奴だ。
――斯う言ふとまた「野嵜が的外れな事を言つてゐる」とか言はれさうなのだけれども、その人はその人で「俺の感想だけが的を射てゐるのであり、それに合致しない感想は、半分正解のものもあるが、でなければ不正解であり、俺はそれを決定できる。俺が不正解と判定したものは、クズであり、徹底して叩かなければならない」とか思ひ詰めてゐたりする。
割と融通のきかない考へ方をするのが人間であり、それでゐて誰もが他人には「融通をきかせろ=俺に合せろ、さうするのが當然!」みたいな事を考へるものだ。それで互ひに諒解事項が異つてゐると、これが最う「話が通じない」現象をしか惹起こさない事になる。
しかし、さうしたところでの行違ひが一往ネタになると言ふのは、テクノロジーに關してあれこれ言ふのはまだしも「わかりやすい」し、「樂しい」と云ふ事があるからだ。Twitterにしても何にしても「コミュニケーション」の話で、一往誰もがそれなりに「わかる」と思つてゐる。だから「俺には發言する權利がある」みたいな感覺があつて、それで意見を自由に言ひ始めるわけだが、要は自分が使つてゐるツールの「使ひ方」に關する一家言を披瀝してゐるやうなものだ。
ところで、さうした「一家言」が今、全部「ひとこと」で述べられてゐる。その爲、議論らしい議論が成立する訣でもなく、現状ただの「意見のぶつけ合ひ」になつてしまつてゐる。この事が案外話をさらに拗らせる原因になり兼ねないのだが、その危險性に多くの人が氣附いてゐない。Twitterにしてもはてなブックマークの一言コメントにしても、恐ろしく短い言葉で言切らなければならない。これらを見て、さらに「第三者」であるユーザは、判斷して良いわけだし、さうしなければならないわけだが、ところが「第三者としてのユーザ」と「(コメントしてゐる)當事者としてのユーザ」とが嚴密には區別できないのが今のウェブであつたりする。激しい意見を書き連ねたユーザが、一聯の發言を讀み返して、冷静に判斷を下せるか何うか。
今のTwitterのフォローの話にしても、「書き手」「讀み手」「第三者」等のけぢめがつかない状況になつてをり、誰も冷静に判斷出來ない状況になつてゐる。皆リアルの世界ではそれなりに常識を持つてゐる大人の筈だが、ウェブに出てくると途端にをかしくなる。さうした「ウェブユーザの突つ走り易さ」を抑制する仕組をこそ構築しなければならない筈だが、今のウェブサーヴィスの提供者はユーザにどんどんどんどん突つ走らせようとしてゐる。さうしないと儲からないと云ふ發想と現實が「ある」からだが、「ウェブ上の全ての事態はエスカレートする許り」と云ふ現状は、何とかする必要がある。意見の出し合ひが、不毛な言ひ爭ひにしか繋がらず、建設的な議論にならないやうな現状は、不健全だ。
「意見をぶつける」簡單な仕組を作る事が、不健全なウェブを作つてしまつてゐるだけならば、何とかすべきだ。
平成二十二年一月五日
ちなみに考へた事を書連ねたのでわけわからん文章になつてゐるのだが、TwitterユーザがTwitterでこんな風なだだもれ状態の書流しをやらないのは何でだらう。意外とTwitterは呟かない。
平成二十二年一月五日
と言ふか、つぶやいただけの事を必死になつて叩かうとする子が出てくる(かも知れない)から、みんな本當はつぶやけない。本當に不自由なウェブになつたと思ふ。

平成二十二年一月四日
年末に撮つた寫眞。
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平成二十二年一月三日
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平成二十二年一月二日
http://d.hatena.ne.jp/scinfaxi/20100101/1262335841
何を撮りたいかが問題ではないかと。値段的に一眼レフも買へるから買ふといつた發想は何うかと思ふ。
個人的に世間の一眼レフ信仰には疑問を抱いてゐる。一眼レフのカメラは、重いし、ごついしで、アマチュアが使ふのには向かないと思つてゐる。「ブログ」に上げる寫眞を一眼レフでRAWで撮つて――なんて事をしても無駄だし。
一萬圓を切る價格で出てゐるコンパクトデジタルカメラでも、一流メーカのものがあるし、高級機より機能は多かつたりする。スナップ撮影にはコンパクト機の方が遙かに有利だし。一眼レフのカメラを向けられると、結構多くの人が警戒するらしい。
用途によつてはコンパクトカメラの方が有利な事もある。寫りだけで判斷するのは危險だ。一眼レフ信仰は打破されなければならない。もちろん一眼レフが有利な事も多いけれども、買ふ前に使ひ途を考へてよく檢討した方がいいと思ふ。それに一眼レフは、本體は安くても、別にレンズを買はなければならないのだから、案外安くない(K-xはレンズキットしかないみたいだけれども)。2ちゃんねるの誰かさんの説明では入門機が擧げられてゐて非常に良心的。一眼レフは買ふなら入門機がいいと讀んだ事がある。高級機用のはつたりじみた機能が附いてゐないから却つて使ひ易いんだとか。
平成二十二年一月二日
小野祖教「三つの問題」(神道宗教学会編「神道の根本問題<第二輯>」(神道宗教第84・85号 特輯 神道宗教学会創立三十周年記念号)(昭和51年12月15日発行・神道宗教学会)

もう一つ、神国論的国体論に深いかゝはりをもつ問題は、祭政一致論と政教分離制度である。戦後、神道指令や新憲法によって、政教分離制度がとられるやうになったが、同時に、国家神道の廃止といふ考へ方に基いて、祭政一致思想も立消えになった。

これは、非常に難しい複雑な問題を含んでゐる。

日本では、政教分離と信教自由と祭政一致とが非常に不明確・曖昧なまゝに濫用されてゐて、いろいろな誤解を生じ、混乱を生じてゐる。

例へば、ニュー・コンサイス和英辞典の祭政一致の訳は、The unity of the church and state である。政教一致の訳は、the union of church and state である。一体、同義語と解釈したのか、別語と解釈したのか、全くわからない。しかも、政教分離の訳は、the separation of religion and politics, disestablishment となってゐる。一貫性も何もない。これは、日本に於けるこの問題の混乱を象徴してゐるもので、ひとり、この辞書だけの問題ではない。

政教分離は the separation of church and state か、でなければ disestablishment で、the separation of church and state は、カトリック教会の如き、特定の教会(宗教団体)と国家とが、主権を分ちあひ、concordat(宗教条約)を結んでゐるケースによくあてはまるし、disestablishmentは、米国の如く、established church(国教会)の存在を否定してゐるケースによくあてはまる。

日本の場合は、カトリック教会のやうな支配的教会の存在しない国であるから the separation of church and state といふハッキリした形は出て来ない。

日本では、徳川時代に、仏教が幕府や大名と癒着して、国教制度に近い形が出来た。最初は、幕府が保護育成の政策をとったのであるが、切支丹禁制の関係などもあって、強い癒着が生まれた。明治維新になって、新政府は、神道を国教として、大教宣布を行はうとして宣教使制度をつくったが、失敗した。明治五年に教部省が出来て、教導職による神仏合同の布教体制がつくられた。しかし、この準国教制も、比較的短い期間で、消滅した。教導職制崩壊の道程に於いて神官・教導職の分離が行はれ、神職の宗教家的性格の否認が行はれた。

一方、明治新政府は、明治元年の詔勅に基づいて、祭政一致(国家による祭祀制の採用)の国是の実現に努力し、神祇官の復興を行ひ、祭祀制度の完成をはかった。祭祀制度は、相当遅れて、明治四十年〜大正三年の間に、皇室祭祀令・神宮祭祀令・官国幣社以下神社祭祀令の三祭祀令となって結実した。

日本に於ける国教制度は、明治以後の形としては、教導職体制の形の中に一時的に存在した。しかし、寺院教会側に政治力があった訳ではない。従って、カトリック教会のように concordat を結ばなければならないほど、主権の対立を考へる必要はなかった。むしろ、神道と共同して、政府と手を結ばうとした仏教の中心教団である浄土真宗から、信教自由が唱へ出され、教導職制度の崩壊のキッカケがつくり出されて、癒着関係が消えたところで、主たる問題は終ってゐる。

残ったのは、国家的祭祀制度である。三つの祭祀令をつくって、祭祀と宗教とを峻別しようとしてゐた政府は、神社は宗教にあらずといふ解釈で支へ得られると考へた。その為めに、日本では、国家的祭祀制が国教制の問題の中心となって居た。日本の政教分離論は、国教会の否定論に近いものであり、特定宗教が国と癒着するのを牽制しようといふ運動となる性質をもってゐた。

この論争に、終止符を打ったのは神道指令であった。

神道指令の起案者であるバンス宗教文化資源課長は、日本のケースは the separation of church and state のケースではない事に気付いてゐたやうである。彼は、神道指令の中で、separation of religion and state といふ表現を用いて居た。そして、この点について、部下のウダード氏と意見を異にした。バンスは、政教分離がウダードの解釈の通りでなければならぬ事を認めはしたが、多分、日本のケースは自分の扱った如く扱はねばならぬと信じてゐたのだと思ふ。

戦後の神道に関する問題は、バンスによって著しく拡大された政教分離が、なんの歯止めもなく広くなってしまってゐることに原因があるやうである。

靖国神社国家護持の問題、伊勢神宮の国家管理の問題、皇室の神式結婚の問題等は、政教分離概念の無限拡大が原因となって紛糾してゐるのだと思ふ。

この邊の問題を相當無神經に扱ふのが今の日本人の流儀であるが、プロでさへさつぱり解つてゐないで「神道憎し」の立場から適當にもつともらしい理窟を言ふのを當り前としてゐる現状、素人の人が單純な理窟を言つてしまふのも仕方の無い事だと思ふ。が、日本に於ては斯うした問題が「ある」のであり、その問題のただ中にゐる專門家が斯うして問題を提起してゐたのであるから、我々としては十分注意して「政教分離」や「政祭一致」、或は「信教の自由」といつた事は論じる必要がある。けれども、斯うした問題それ自體が「ある」と云ふ事實すら、素人の人は「知らない」。だから、素人集團が作つてゐるWikipediaなんかは何うしやうもなく底の淺い代物にならざるを得ないのであり、「大變解り易い圖式化」が行はれざるを得ない。それを見た素人が、安易な圖式化・安易な理窟の再生産をし始めるから、話はますます拗れるのだが、さう云つた事への反省がWikipedia關係者には全くないし、渠らは自分には責任がないものと確信してゐる。
――しかも、斯う云ふ批判をすると、「野Q」がまた何うの斯うのと「野嵜アンチ」のKirokuroが「ブログ」で言出す。Kirokuroも偉さうな口をきいてゐるが、あれなんかも典型的な素人批評で、「野Q」「野Q」と頻りに言ふのは馬鹿の一つ覺えといふ。閑話休題。
この手の素人による底の淺い「批評」や、素人の「解り易い圖式化」が、單にノイズであるならまだしも、現實に有害な影響を與へ始めてゐる。素人は、自分のやつてゐる事に「正しさ」「眞實性」が「ある」と確信してゐるから、自分の指摘が無意味であつたり有害であつたりしても判らないで、却つて居丈高になつて大聲で叫びだしたり、或は妙に落著いて權威ぶつたりして、兔に角人を信じ込ませようとする。これ程危險な事はないが、素人には自分の危險性が解らない。「信じられるやうな雰圍氣を作る」事こそが素人の恐ろしい事なのであり、それは即座に「議論の抑壓」に繋がるのであつて、それは獨裁制への第一歩なのだが、素人にはそれが解らない。專門家にもまたさうした素人的發想を大いに利用してゐる人がゐるけれども、我々はさうした危險な專門家にも警戒する必要はある。
何れにしても、「議論の對象」たり得る形で物を言ふ事は、大變重要なのであり、我が日本國が今、民主主義・自由主義の體制をとつてゐる以上、絶對に必要な事だと言つて良い。「信じる」「信じない」レヴェルの言爭ひを仕掛けるKirokuro等には解らない事だらうが、それ以前の段階で議論と云ふものが成立たなければならない。その爲には、ただ相手の言葉を採上げて一方的にあれこれケチを附けるKirokuro式批評(他人の發言を材料にし、ただそれを否定するだけの爲に否定する揚げ足取り)でなく、自分からも材料を提供して相手からの批評を待つやり方が必要となる。さうでなければ、議論が建設的に廣がつて行かない。もちろん、Kirokuro等サヨクの人々は、今以上に議論が廣がつては困るから(そこまで思想的に追詰められてゐるのである)徹底的に議論を妨碍しようとしてゐるのだらうが、それこそがサヨク思想の危險である事の證據だ。彼等は「右翼」の主張を許したら飛んでもない事になると云ふ論理を用ゐる。ならば私は、彼等サヨクのやり方を許したら必然的に恐怖政治が出來すると云ふ論理を用ゐて良いだらう。
平成二十二年一月二日
ミーシャ一族。
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基本的にクリーチャーは色で區別されるので、青いオリジナルのミーシャと青Gくんは同一種族。それとは別に形態でも分類されて、こいつらがオーソドックスなミーシャ一族と云ふ事になる。緑色のは初登場くさもちミーシャ。

平成二十二年一月一日
謹賀新年。
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とらミーシャときなこもちくん。
平成二十二年一月一日
ちなみにとらミーシャには、正面から見るとまぎらはしい奴がゐる。
こちらはとらミーシャである。
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こちらはまゆげミーシャ。
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平成二十二年一月一日
明月千里『月見月理解の探偵殺人』讀了。結構面白かつたよ。或意味典型的な中二病ラノベなのでダメな人はダメだらうと思ふけれども。
ちなみにイラスト目當てで買つた。
GA文庫:新人情報局; 「月見月理解の探偵殺人」の明月千里さんに聞く! INDEX
平成二十二年一月一日
元日から月蝕。部分蝕。確かに缺けてゐる。寒かつたので缺けてゐるのを確認して直ぐ家の中に引込んだ。この手の「天體ショー」は久々に見た。

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