制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
テーマ・主に扱ふ事柄・ネタ
日本人論、政治主義批判、國語國字改革批判、虹裏(img)、深夜アニメ、古本、謎キャラクターによるコント、蟲、クリーチャーのイラスト、論理。粘着アンチ問題。その他。

闇黒日記


平成二十一年十二月三十一日
福田恆存のベストスリーは何と聞かれた。
『藝術とは何か』『人間・この劇的なるもの』『私の國語教室』の、中公文庫に入つてゐる三册を「ベスト」とするのは割と妥當だと思ふ。けれども、『藝術とは何か』はロレンスの『黙示録論』と云ふ「種明かし」が存在するし、『人間・この劇的なるもの』は福田さんによるシェイクスピアの飜譯と研究を解説として參照しなければならないもので、意外と單純に評價し得ない評論ではある。また『私の國語教室』については、國語改革に反對する人々の「聖典」と云ふ評價とは別に、純粹に評論としての完成度を評價するならば、末尾の註釋の存在が結構問題だと言へる。
逆に、『私の國語教室』を評價するならば、構成に難がある『批評家の手帖』や未完の『獨斷的な、餘りに獨斷的な』も「代表作」の候補たり得る事になる。
が、初期から中期にかけての著作に許りスポットライトが當てられる事が一番の問題で、實際の福田さんの評論を見れば、初期の文章は相對的に「出來が惡い」と言はなければならない。福田さんと云ふ「批評家の存在」を認めた上で、その「一人の批評家の作品」として見た時にのみ、「一人の著述家の一聯の作品」の中に位置づける事が可能である。さう云ふものが、初期の評論には意外と多い。
その典型が日本人作家論で、客觀的に「福田氏の日本人作家に對する評價は的外れなものが多い」と言はれるくらゐだ。が、小林秀雄の作家論がフランス文學の理論を知つた上での日本的な文壇批評であるのと似て、福田恆存の日本人作家論も西歐的な方法論を用ゐた日本的文壇批評である事は指摘する事が出來る。福田氏は、フランス文學(ヴァレリイやジイド)の理論や、ニーチェの哲學、はたまたフロイドの心理學、或はシェストフの思想を知つた上で、さうした西歐の方法を採入れた日本的文壇批評を試みた――それが「當時としては大變斬新」であつたに過ぎない。裏を返せば、當時、最新であつた方法が古びると共に、福田さんの批評それ自體が古びる事をも意味するわけで、現在の福田さんが「優れた批評家だつた=今となつては過去の批評家である」と看做される理由となつてゐる。特にこのタイプの福田氏批判は、福田さんの初期作品のみを殊更に持上げて襃め讚へる、一部の「アンチ福田信者」の人々に屡々見られる。
私は、寧ろ、中期以降の福田さんの評論に、もつとはつきり言へば後期の文章にこそ、優れたものがある、と云ふ立場で――これを言ふ爲には、福田さんの活動の「初期」「中期」「後期」を分けて示す事が必要になるが、今は話を急ぐので、嚴密な分類基準は示さ(せ)ないし、具體的にどれからどれまでとも言は(へ)ない。大體外遊以前、平和論爭より前、昭和二十年代が「初期」で、この頃は單發の評論が多い。昭和三十年代、『人間・この劇的なるもの』を筆頭とする長篇評論が幾つも發表されてゐるが、この頃が「中期」(單行本『平和の理念』は昭和三十年代の總括として見る事が出來る)。その後、昭和四十年代以降、福田さんの評論は急激に減少するが、「後期」と呼んで良いと思ふ。
「中期」の頃、福田氏は、左翼の側から保守反動の論客として強く意識され、非難を浴びてゐる。その後の「後期」になると、右翼・保守派からも疎んじられるやうになり、「正論」「諸君!」等からも干されるやうになる――保守派の側も福田氏が「斬る」やうになつた爲だが、さう評價せずに、殊さら「福田氏が劣化した」結果と看做すのが、「初期福田」を持上げる立場の人々の常套手段となつてゐる。そして、大抵の「アンチ福田」=「アンチ福田信者」の人々が用ゐる論法が、斯うした福田氏の政治的な「敗北」を「福田氏が駄目になつた證據」と言ふ事である。
私にしてみれば、「中期」以降の政治的な立場の人々に據る毀譽襃貶の喧しさこそ――否、政治的な立場の人間が福田氏に對しては非難一邊倒である事こそ――福田氏の偉大さの決定的な證據と言ふべき理由となる。なぜなら、福田氏は、政治的偏向を完全に免れたのだから。また福田氏の「敗北」は、福田氏の「勝利」を意味するとも解釋する。福田氏を非難したイデオロギーの徒は、イデオロギー的な主張それ自體を否定する福田氏の前に決定的に敗北してゐる。「後期」の政治評論は、イデオロギー的・圖式的説明と、罵倒をもつぱらとした世間の通俗的政治評論と異り、純粹に政治の立場から論じられた政治評論――即ち、「我々日本人による我々日本人の爲の」政治評論――であつた事に特徴を持つ。そこに見られるのは一種のマキャベリズムであり、徹底した現實主義であつた。ゆゑに福田氏は理想主義と云ふ現實をも認め、理想主義をも現實主義の一部として採用する。通俗的な現實主義を標榜する保守主義との類似を指摘されるのも已むを得ないが、この點で二つの現實主義は區別する必要がある。此處の區別を附けられない人が日本には餘りにも多く、その爲に福田氏の主張が誤解を受け續けてゐると言つて良い。さうした誤解が福田氏の勝利を人々に「敗北」と見誤らせてゐる原因である。「敗北」と云ふマイナスの見方が「劣化」と云ふ「著述家の變化」の説明に直結するのはありがちである。もちろん、「敗北」が誤なら「劣化」も誤である。
「中期」の長篇評論も、「初期」の單發の評論の延長上にあり、私にもこれを福田氏の單純な成熟と看做す事が出來る。けれども、「後期」の評論については、或種の人々が「劣化」と看做すのに對し、私は斷然成熟の繼續であると見る。さうなると、福田氏のベストを述べるには、「後期」の評論を擧げた方が適切であると言ふ事が出來る。
「乃木將軍と旅順攻略戰」は優れた評論で、「後期」の評論の代表的なものとしたい。しかし、「孤獨の人、朴正煕」も捨て難い文章で、何れも「ベスト」級だと思ふ。論理やレトリックを驅使した「初期福田」の「面白さ」や、左翼を次々と論破した「中期福田」の「鮮かさ」をしか評價しない人々が、この追悼文を評價しないのは、私には彼等の「人情味の缺如」が最大の理由だと思はれる。實は、「より近い人々」を論じた文章として、日本人作家論と朴大統領の追悼文は、「同一のジャンル」に屬するものである。
一方、「初期」の文章の中では、敢て『西歐作家論』を推したい。日本人作家論よりも的外れの點が多いと云ふ大問題を抱へてゐるのが福田氏の西歐作家論なのだが、にもかかはらず私が評價したいと考へる理由は、そこに見られる問題提起の重大さを鑑みての事だ。ガーネットがそれほど大した作家でない事は言ふまでもないが、最初の「著作集」(のちに「評論集」)に『西歐作家論』が再録された際、ジョイスよりも優先されて收録されてゐる。ガーネットとジョイスとでは明かにジョイスの方が重要な作家だ(少くとも世評では)。しかし、「ジョイス論」と「ガーネット論」とを比較すれば「ガーネット論」の方が遙かに出來が良い。これは、ジョイスを論じた文章がジョイスを分析した文章の域に留まつてゐるのに對して、ガーネットを論じた文章が文明論の域に到達してゐる爲で――斯うした問題意識の違ひをこそ、後に福田氏を論ずる人間は重視しなければならない。日本の文明とヨーロッパの文明との關係を、福田氏は、「初期」の頃から意識してゐた。が、さうした觀點から見れば、日本人作家論は所詮、文壇批評の西歐化と云ふ「新しい方法論を驅使して見せる事による既成文壇に對する批判」の域を出てゐない。これが西歐作家論では、純粹に文明論的な觀點から、西歐の作家に直接當つて問題を檢討する率直な批評となつてゐる。「中期」の長篇評論は、その直接の延長上にあると言つて良い。創作でも「解つてたまるか!」は明かに文明論的な觀點に基いた「批評家による劇作」であり、失敗作とされる『謎の女』ですらもシェイクスピア批評に基づいた「悲劇研究」の實作へのフィードバックの試みである。「中期」の評論を、私は決して輕視しないし、出來が惡いとも思はない(寧ろ優れてゐると思ふ)が、「初期」の延長上にある・「初期」に見られる問題意識を意識して敷衍し、改めて檢討したものであると見て、「福田論の爲の福田論」に必要な資料として見るべき事を敢て主張する。
ここで指摘したい著作が、最う一つある。それは、矢張り「後期」に屬する『私の英國史』だ。これは歴史書であるが、林健太郎も高く評價してゐるのだから、客觀的に見て優れてゐると言つて間違ひない。矢張り問題意識は「初期」から繼續してゐるのだが、その總括として、歴史そのものを採上げてゐる。福田氏の評論の中では本質的なものと見るべきだ。
私には、「後期」の福田恆存が、「劣化した」とは見做し難いのである。

平成二十一年十二月三十日
先日やつた大宴會の記録。
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平成二十一年十二月三十日
らくがき。
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平成二十一年十二月二十九日
らくがき。
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平成二十一年十二月二十六日
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平成二十一年十二月二十六日
MovableType終焉の年 : web-g.org
來年には最うTwitterですら「古い」とか言はれてゐるんだらうなー。

平成二十一年十二月二十五日
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平成二十一年十二月二十五日
http://www.geocities.jp/janggijp/2009-12.html#D04-4
平成二十一年十二月二十五日
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それはバウムクーヘンではないぞミーシャ……。
平成二十一年十二月二十五日
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平成二十一年十二月二十五日
實はミーシャの左目が剥がれて張り直したので、微妙に表情が變つてゐる。
平成二十一年十二月二十五日
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平成二十一年十二月二十四日
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平成二十一年十二月二十四日
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平成二十一年十二月二十三日
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平成二十一年十二月二十三日
ちくま文庫から福田恆存『私の恋愛教室』が出てゐる。多分依然として相當の議論と誤讀を呼びさう。

総合雑誌はなぜ恋愛論特集をやらないのか。原子爆弾とか、平和運動とか、ソ連の内情とか、朝鮮事変とか、二つの世界とか、まったくこの数年なんの変わりばえもしない問題を倦きずにくりかえしておりますが、いっそ変わりばえしないとなったら、毎月毎月、恋愛論ばっかりやったっていいわけだ。が、原子爆弾やソ連の内情といった種類の記事で変わりばえのしない編集をつづけるほうが、ロムパーズの断ちかたや家庭料理のこしらえかたや、その他等々おなじく変わりばえのしない卑俗な記事で毎月の編集を糊塗していくことより高級だと考える編集者や読者がどっさりいるかぎり、ぼくの理想は永久に実現しっこないでありましょう。

この邊、Kirokuro氏やその他の多くの人々には全く理解出來ないものだらう。

ここで、すこし極端なことをいうから覚悟してください。妾を三人も五人も囲っていた明治の政治家や豪商たちと、社会問題として女性の解放を説き、男の貞操を要求する良識家たちと、この両者のあいだに、男女の正しい結合の道を真剣に考えていないという点ではどこに相違がありましょうか。

この部分は、爺氏なんかには「だから福田の論理は甘いんだ」と嘲笑されさうだ。明治の政治家や豪商たち良識家たちとでは「仲良くできないから」云々。わらひ。
もちろん、Kirokuro氏や爺氏のやうな「他人の言つてゐる事を理解出來るだけの柔らかい頭腦を持たない人々」だからこそ、福田氏の文章は「讀めない」と云ふ事に過ぎない。坪内祐三なんかも福田氏の本を作つて解説を書いたりしてゐるけれども、あれも頭の固い人間だから本當は福田氏の文章は讀めてゐない。
ちくま文庫版『私の恋愛教室』の解説を書いてゐるのは中野翠。中野女史は福田氏の文章をちやんと讀めてゐると思ふ。
平成二十一年十二月二十三日
福田氏は、政治に先立つ領域として、道徳的・宗教的・文學的な領域が「ある」事を指摘しつゝ、日本人には兩者のけぢめが無い事も認識してゐた。「政教一致」或は「祭政一致」(これらの區別すらも持たない)の日本人が、「宗教」のやうな領域を分離する事は、政治の領域の中だけで完結する議論を正當化するのにしか役立つてゐない。だから福田氏は、改めて道徳の領域の重要性を強調し、D.H.ロレンスの性愛論を「反近代の思想」として採上げる事になつた。政治の領域における問題も、結局は個人と個人の關係から出發する筈だし、そこから考へなければ觀念的な議論に陷るばかりで、現實の生きた人間に關する議論にはならない。そして、觀念的で非人間的な議論の結果が押附けられれば、人間は不幸になるだけである。
これに對して松原正氏は、政治の領域と道徳の領域が區別可能である事實を強調し、人間の活動における議論に關して兩者の峻別を必要とする事を主張した。そして、日本人のする議論では兩者の混同が甚だしい事を指摘し、その結果の非道さを非難する。平和主義やマルクス主義を信奉する人々が國家や組織の行動を、或は組織・共同體のあり方としての制度を「善・惡の觀點」から評價する事がある。逆に、個人の生き方を、社會體制の中での一つの齒車として有用・無用と云つた形で評價する。さうした議論もまた混亂した議論であり、それを通して引出される結論も疑はしいものとなる。が、より問題なのは、その種の議論の仕方を當り前の事とする人々は、個人の言動を評價する道徳的な見方が狂ふ、と云ふ事だ。松原氏が「政治主義者」と呼んで非難するのは、政治的な發想――全てを政治の領域に引附けて考へる思考法――に淫した人々であり、さう云ふ人々の道徳的なものの見方の異常さを採上げて、激しく非難した。
御二人の態度には大きな違ひがあるけれども、大枠では・本質的な部分では違ひがない。福田氏は政治的な物の見方における歪みを問題にし、松原氏は道徳的な物の見方における歪みを問題にしたと、區別して觀念的に言ふ事は出來るが、實際の議論では、御二人とも歪んだ物の見方それ自體を問題にする立場であり、その點、對立しない・意見が一致する
平成二十一年十二月二十三日
私は安易に昔の批評家・思想家・文筆家の「限界」と云ふ事を言はない。なぜなら、今の人間が持つてゐる現代的な・今風の常識・思想・考へ方にも限界があるのだし、現代人にとつてより重要なのは、現代人の限界を如何にして突破すれば良いのかと云ふ問題だからだ。
現代の考へ方で昔の考へ方の制限を指摘するのは、現代の考へ方の制限を突破するヒントとして昔の考へ方を參照するのを妨碍する事にしかならない。
きだみのるの評傳を書いた新藤謙は、その中でこんな事を書いてきだの「限界」を非難してゐる。

部落の歴史について私は無知に近いが、かりにきだみのるのいうように、自然に生まれたものだとしても、時代の流れの中で自然性を奪われ、歴史の刻印を帯びた人為集団に変わって行ったと思う。たとえば封建社会について見れば、この社会の特徴は、領主が農民を領地に分封し、そこからあがる貢租によって一切をまかなっていた。領主が農民を支配する最も効率のよい方法は、彼らを部落ごとにまとめ、そこに統率者を置き管理を任せ、連帯責任を負わせることであったろう。そこから生まれたのが名主(本百姓)、脇百姓、小百姓といった階層性であり、秩序を守るための制裁、掟であったことは定説となっている。きだみのる「家と部落」を収めている『現代倫理』四では、島芳夫の「家族・部落・国家」と、竹内利美の「制裁」がこの問題を衝いて正確である。

部落の統制は単に自然発生的慣習にとどまらず、国家の必要に属するものであった。五人組の制度はまさにこれである。この組の慣行は部落自身の封鎖的共同性を強化するに役立った。部落民はこの組によってその一挙一動を統制監視され、しかもこれがかえって部落民の独立を麻痺させ、依存的生活の中に安心感を見出さしめた。部落民の弱さは決して個人の責任でなく、このように慣習づけた長期の政治のあり方の責任である。(島芳夫)

近世の農民統治の単位は、個々の百姓ではなく、この「村」であり、貢租その他一切が、この単位を通じて処理された。つまり、農民の集落的結合を、連帯責任という絆で、たくみに利用することで、農民統治は運行されたわけである。(竹内利美)

明治以降の部落は氏神と氏子制度によって統一され、氏神は皇祖神としての伊勢神宮の末社として序列化し、天皇制権力に組み込まれていった。国家共同体という共同幻想の末端に、部落共同体が位置づけられた。これは家族国家の単位としての家と対をなす。こうして、家長、部落長、天皇という階層秩序が形成されるのである。

どのような小さな部落でも、行政からは独立しては存在しなかったことは、戦争中の隣組制度を見れば納得されよう。戦時国債の割当、物資の配給、供出、出征兵士の見送り、戦没者の遺骨の出迎え、労働奉仕など、すべて隣組を通じて、あるいは隣組が中心となって行われた。農村では部落である。

著しく圖式的な「もつともらしい理論」である。新藤氏は、隣組長を十年やったと言ふ自らの經驗を示し、さう云ふ自分が納得してゐるのだから、斯うした圖式・斯うした理論こそが「正しい見方である」と新藤氏は主張してゐるのだが――この手の圖式的な説明・理論こそが、現代の思想の閉塞的な状況を生んだ原因である、と云ふ事に新藤氏は氣附いてゐない。敵對する立場のきだ氏を出しにして、「絶對の眞理」と思ひ込んでゐる自分の主義を説かうと言ふのが、新藤氏の狙ひである。が、他人の評傳の中で斯うした演説をやらかすのが、良い事なのか何うか。今の人々は、斯うやつて昔の人を今の考へ方を振りかざしてやつつけるのが「かっこいい」とでも思つてゐるらしく、皆が皆、さう云ふ事をやつてゐるが、私には不毛な行爲にしか思はれない。
寧ろ、この手の圖式的な説明をもつぱらにする現代思想の制限を突破する爲に、參考にすべき人物としてきだを採上げなければならない。
新藤氏は、きだの發想の持つ力を、合理的に説明して無力化する事しかやつてゐない。が、そんな事をしても無意味だ。きだの思想を現代に於て活かす形で採上げた方が遙かに有益だ。その爲に、きだの思想の缺點なり何なりが「ある」ならば、肯定的・積極的な見方をして、補強に努める事が必要だらう。「信者」たれと言つてゐるのではない――そもそも、缺點でも何でも見出して、自分で補強しようと言ふのならば、批判的な見方をしてゐるのだから、「盲目的な信者」「エピゴーネン」の類ではあり得ない。ところが、アンチ的な物の見方に慣れた多くの現代人には、自分と同じやうな「非難」をもつぱらとする態度をとらない人間を「信者」呼ばはりして嘲り、樂しむ惡癖が身に附いてしまつてゐる。「信者」的な態度が不毛だと言ふのなら、アンチ的な態度こそもつと不毛なものと言つて良いだらう。少くとも、自分を全肯定してゐる傲岸不遜さを持つ點で、アンチの方がずつとたちが惡い。
平成二十一年十二月二十三日
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斯う云ふのは或意味なつかしい……。
平成二十一年十二月二十三日
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平成二十一年十二月二十二日
What'sNew 【重要】スカパー!e2における放送形態(アスペクト比)の変更について[2009.12.16] AT-X ワンランク上のアニメ専門チャンネル
番組に合はせてきちんとアスペクト比情報だか畫角情報だかを附ければいいと思ふんだが。
平成二十一年十二月二十二日
その邊の本から文章引寫す時にはGoogleの日本語入力を使つてゐる。直前に打込んだ文句を覺えて次に打込んだ時にさつさと示して呉れるので便利。
ウェブから拾つて來たわけのわからないへんな文句は全部無視。
平成二十一年十二月二十二日
HTMLめも。Flashを配置するにはobjectだけでembedは要らないよ - カナかな団首領の自転車置き場

平成二十一年十二月二十一日
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平成二十一年十二月二十一日
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平成二十一年十二月二十一日
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平成二十一年十二月二十日
何を書くか、では無くて誰にクリップされるか、が重要? : web-g.org
逆に言へば、自分がリンクを張るなり記事を書いて採上げるなりした事が、世間で全然氣にされなかつたりしてゐるならば、それは自分が全然注目されてゐない、と云ふ事を如実に表はしてゐる事になる。
「ブロガー」が「有名になる」「ブランド化する」にしても、「このブロガーが好きだ」と云ふ「信者」が或日突然出現する筈もなく、その「ブロガー」氏がやつてゐる事を評價する人がじわじわ増えて、結果として何時の間にか「ブランド化」なる評價が定着するものだ。
學會では、どれだけ引用されたか・言及されたか、が――もちろん、飽くまで「一つの指標」であるのだが――論文の評價を判定するのに重要なのだと云ふ。ウェブでも同じ。だが、重要な問題だからこそ・興味を引くやうな内容だからこそ、「有名ブロガー」なり何なりのアンテナにひつかかり、多くのその他の人々にも言及されるやうになる、と云ふ事は言へる。それはウェブでなく、專門家の學會でも事情は似たやうなものだ。ろくでもない論文は誰にも採上げられない。しかし、重要な問題を考へてゐる人が、時として過去の埋もれた論文を發掘して、その重要性を世間に知らしめるなんて事は、よくある。
「良い内容の記事を書く」「良い内容の記事を紹介する」――これらの事は糾へる繩の如しで、別々の事ではない。
が、自分で良い記事を書けない・紹介すべき記事を自分で見附けられない人でも、良い「ブロガー」から良い記事のある事を知らされた時、なるほど、良い記事だなあと思ふ事はあるのであり、その時は「良い記事だ」と言へば良い。何處其處の記事を見たら載つてゐた、だから、良くても惡くても、最う自分は何も言はない、のやうな態度は一番間違つてゐる。何でもいいから「言ふ」事は、重要だ。
逆に言へば、默つてゐるのが一番間違つてゐる。自分が默るのを肯定するのは、他人が誰かを默らせようとするのをはたで見てゐて容認するのと同じくらゐ、良くない事だ。
「良い記事」の紹介をする「良いブロガー」がゐたとしても、その「良いブロガー」の「良い」と云ふ評判を作つてゐるのは、無名の「リブロガー」の群だ、と云ふ事は、案外見過ごされてゐる。その「無名のリブロガーになる」事も―― 民主主義の現代と云ふ時代では、「重要」な事と言はれて、然るべきでないか。
平成二十一年十二月二十日
新藤謙の評傳『きだみのる』(リブロポート)を讀む。
新藤氏はきだを優れた「分析者」として評價してゐる。一方で、その思想を生れや育ちで心理的に説明し、甘さを客觀的に指摘する。きだの思想的なぶれ・一貫性の缺如を、新藤氏は不滿に思つてゐる。そして、左翼らしい冷たい論理と理論によつて、きだを裁斷する。私の新藤氏への不滿は其處にある。さうした行き過ぎた評價の部分を除けば、きだの思想や態度を要領良く纏めてゐるし、きだの生涯を通して概觀してゐるので、便利は便利である。
きだの示した「部落」なる小社會は、非常に示唆的で、其處に見られる問題は現在のウェブ社會に見られる問題と案外共通する。新藤氏の評傳は兔も角、きだの著書はいろいろと考へさせられる事が多い。もちろん、不出來のもの・駄目なものも「ある」事は「ある」が、『につぽん部落』(岩波新書)等は讀んでおいて損は無いと思ふ。

平成二十一年十二月十九日
らくがき。
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平成二十一年十二月十九日
例のムーミンとニョロニョロ。
神保町交叉點の角のかざりつけ。夕方には光る。
平成二十一年十二月十九日
ポパーの反證主義は、「全てのAはBである」と云ふ命題を否定するには「あるAはBでない」を示せば良い、と云ふ、簡單な論理の話であるに過ぎない。

平成二十一年十二月十八日
歴史的假名遣は歴史上、ずつとテストを受け續け、誤が發見されては訂正され續けてゐる。
個々の語から歸納的に活用の法則が導出されたやうに思はれてもゐるが、未然形と云ふ命名に見られる通り、活用の法則においては單純な歸納は行はれてゐない。「書かない」「書かむ/書かう」が同じ形であるとして「書か」を「書く」の未然形とするのは、殊に音聲言語によつては「かかない」「かこー」であるのであり、單純に歸納的に「一つの形」であるとする法則を導出する事はあり得ない。
平成二十一年十二月十八日
假名遣ひが科學的であるべきか何うかに就いて、議論の餘地があると言ふ人がゐるけれども(例:爺氏)、私にはそんな事を言出す人の氣が知れない。なぜなら、日本は明治以來、近代化する事を決めたのであり、物事の合理化を進めて行く事を決めたのであるから、美的感覺に基いた主觀的な規範の作成など、考へる事自體があり得ない話だからだ。
平成二十一年十二月十八日
基本的に物事の合理化を進めると云ふ點で日本人の間には合意が出來てゐるものと看做して話を進める。反對したければ、先づ日本が鎖國すべき事でも主張して下さい。私はさう云ふアホらしい議論には附合ふ氣がないから、したい人は勝手にして下さい。
あり得べき表記の主張としては、出たら目でいい派、審美的な立場、發音に忠實であるべきだとする表音主義、語形に忠實であるべきだとする表語主義、の何れかのものでなければならない。出たら目は論外。そもそも徹底した出たら目だと、互ひに意思の疎通が不可能となる。審美的な立場は、それ以前に(現在)便宜假名遣ひ(と呼ばれるもの)が存在し、見た目の美しさに基いて適當に用ゐるかなを散らして書くやり方が存在したが、さうした書き方は大前提としての合理化の方針に反するから否定される。となると、表音主義か、表語主義か、の何れかと云ふ事になるが、何れも、單純に唯物的な事實を基準にして考へると、不可能となる。が、觀念的な事實を基準にするならば、何れも可能となり得る。日本人の觀念の中で存在する發音或は語形は、客觀的な事實として、檢討が可能であり――さうした客觀的な事實を明かにしようとする態度は科學的な態度と言ふ事が出來る。
が、それでも表音主義が不可能である事は、漢語を大量に含む日本語では不可能であると判明してゐる(少くとも、漢語を排除する等の日本語の根本的な改造と語の創作が不可缺である)。だから、表語主義の立場しか日本語の近代的な表記の確立においては、あり得ない。語形の確定は、もちろん完全には不可能だから、「疑問假名遣」のやうなものが出現する。が、それを問題にする事は意味がない。語形が、永遠に假説的なものであつても、それが科學的と云ふ事だから、當り前の話であるに過ぎない。それが不滿で「規範ならば確定したものでなければならない→政治權力によつて確定させよう!」と云ふ發想に逃避するのは、近代化と云ふ大前提を否定するものであり、認められない。しかし、日本人は、表記を前近代的なものにしたくてしたくて堪らない。
平成二十一年十二月十八日
爺氏は、「規範としての假名遣」と云ふ言ひ方をして、ゐるが、假名遣ひが、主觀的で相對的なものなのか、客觀的な觀念であるのか、その邊を殊さらぼかして、ごまかしてゐるやうに思はれる。
假名遣ひが主觀的なものであるならば、個人による不斷の創作である筈だし、ならば藝術である筈だが、爺氏ははつきり「藝術ではない」と述べてゐる(にしては、美的觀點から何う斯うと言つてゐたりするのが解せない)。もちろん、美的感覺に基く便宜假名遣ひの存在も念頭に置いて私は爺氏に尋ねたのだが、爺氏は質問の意圖を理解したのかしないのか知らないが、自分の見方をはつきり述べる事をしないで、立場をごまかす事にのみ汲々としてゐた。
主觀的なものでないなら客觀的なものであるのだが、それを認めると爺氏は敗北する。爺氏は、自分が敗北する事を嫌がつてをり、だからこそ殊さら勝利を演出しようとして居丈高な調子で人に應對してゐるのだが、ただ「負けない」だけの爲に自分の立場や見解をはつきりさせないでごまかす惡癖を持つてゐる。
平成二十一年十二月十八日
ところで、Kirokuroやその他の人々が、野嵜の主張の内容を吟味しようとせず、殊さら「信者の生態」みたいなものを見出さうとしてゐる事について、私はKirokuroの「理念より人」と云ふ言葉に拘つて反論をしてみたが、實際は、彼等が、「理念の問題に直接的にかかはり合ふ」事に據つて、自分の第三者としての態度を失ふ事を恐れてゐる事實を指摘する方が良いと思ふ。
ポパーの『よりよき世界を求めて』(未來社)の第五章「社会科学の論理」における「第一〇テーゼ」の部分を參照の事。Kirokuroが「論者を觀察する」事に拘つてゐる理由と、その不毛なる理由が、はつきり書かれてゐる。根本的に、Kirokuroの哲學・思想がをかしい、と云ふ事。もちろん、Kirokuroは、斯う言はれても、絶對にポパーを讀まない。
平成二十一年十二月十八日
ポパー『よりよき世界を求めて』(未來社)p.335 「第一五章 西側は何を信じているか」

しかし、この重要な問いにもまして重大なのは、フルシチョフが、カール・マルクス以来のあらゆるマルクス主義者と同じように、用意していたにちがいない答えです。この共産主義者は、「そもそも君らはキリスト教徒などではない」と答えたのです。「君らは、キリスト教徒と称しているにすぎない。キリスト教徒とではなく、共産主義者と称しているわれわれこそ、本物のキリスト教徒なのだ。なぜなら君らは金銭を崇拝しているが、われわれは抑圧されている人びと、苦労している人びと、重荷を背負わされている人びとのために闘っているのだから。」

この種の答えが真性のキリスト教徒に対していつでも最強の印象を与えたこと、そして西側にはいつでもキリスト教的共産主義者がいたし、今なおいるということ、これらは決して偶然ではありません。一九四二年に、ブラッドフォードの主教が、われわれの西側の社会を悪魔の所産と呼び、キリスト教という名の宗教のすべての信心深い下僕たちに、われわれの社会の絶滅と共産主義の勝利のために働くように要請しましたが、そのとき、この主教の確信が本物であったことをわたくしは疑うものではありません。その後、スターリンとその拷問吏の悪魔的行為は、共産主義者自身によって認められました。実に、スターリンの悪魔的行為を支えるテーゼが、しばらくのあいだですが、まさに共産党の基本路線の欠くべからざる要素でした。にもかかわらず、いまだにかつてのブラッドフォード主教と同じように考えている正真正銘のキリスト教徒がいるのです。


平成二十一年十二月十七日
らくがき。
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平成二十一年十二月十七日
そろそろクリスマス。なぜかムーミンとニョロニョロの像が。
神保町交叉點の角のかざりつけ
平成二十一年十二月十七日
新キャラクター。へびくん。
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ちなみにスコっちは再び體を換裝した。
平成二十一年十二月十七日
新宿のヨドバシカメラでGXRを觸つて來た。GRよりは大きめだが結構持つた感じが良い。
リコーGXR関連記事リンク集
平成二十一年十二月十七日
茲數日調子のをかしかつたメイン機のHDDが何うやら死亡した模樣。
MXそらおとが始まる前にとうつかりデフラグを立上げたらそのまゝハングアップした。電源を再投入して再起動を試みるが起動不能。怪しいHDDは目星がついてゐて、後附けのIDEボードにぶら下がつた四臺のうちのどれかだと判つてゐる。ここでしなくてもいいのにドライヴァを探してしまつてタイムロス。次いでボードを引つこ拔かうとして、どれを拔けばいいのかわからなくてまたまたタイムロス。HDDの電源ケーブルを拔けば良いと氣附いて、がんがん拔いて、電源オン。一旦起動に失敗するが再起動するとOK。しかしタイムロスが響いてそらおとの冒頭が數秒缺けたみたい。もつとも、別の機械でもそらおとを録畫してゐるので問題なし。
今ささめきことが始まる前にチェックをと云ふ事で、外附けIDEの二系統あるうちから一方の系統にぶら下がる二臺のHDDの電源ケーブルを繋いで立上げてみたら、問題なし。豫想した通り、殘りの二臺のどちらかが御亡くなりになつてゐるらしい。最う危ふいだらうと蹈んでゐたもので中身は無くなつても構はない筈のデータ許り。
平成二十一年十二月十七日
何處かで讀んだのだけれども、HDDは素性の良い子と惡い子があつて、素性の惡いものは初期不良で大體一年以内には死ぬんだとか。で、一年を乘切つたものは元氣に何年も動き續けると。十年も平氣で動いてゐるものも實際あるらしい。
うちでも、突然死したHDDは初期不良のものが多かつたが、しばらく前に昇天したWindowsの入つてゐたHDDも、今囘のHDDも、永年動いてゐて、壽命に至つたもの。いくら元氣と言つても、HDDは四、五年を目處に、現役引退を考へた方がいい。今囘死亡したHDDも、「いい歳」であるのを考へて、繋いではあるが、何時死んでもをかしくないと承知してゐて、「豫備役」扱ひしてゐた。
作業用と承知で繋いでゐたからデータの損失はないけれども、死にかけだつたから、隨分システムの足を引張つてゐたらしい。切離したら他のHDDのデフラグがえらく速くなつた。

平成二十一年十二月十六日
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平成二十一年十二月十六日
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平成二十一年十二月十六日
爺氏が例の常識的な言語觀を書いてゐて、「書き言葉は話し言葉の影」説を述べてゐたけれども、反省の必要あり。書き言葉と話し言葉は別の言語だと考へた方が良い。特に日本語。日本語の文章は、長い間、文章語と口語とが乖離してゐたが、言文一致運動を經た現在も決して兩者は一致してゐない。だからこそ「影」のやうな言ひ方をしなければ「説明が附かない」のだが、さう云ふ「説明」は説明として良いものでないと思はなければならない。殊にポパーの讀者なら。
話し言葉がその中で獨自の進化を遂げるやうに、書き言葉もまた獨自の進化を遂げる。當然、その中では論理が存在しなければならない。
平成二十一年十二月十六日
ポパー『果てしなき探究――知的自伝』第三十二節。
平成二十一年十二月十六日
偉い思想家に嫉妬したら、その信者を罵倒する事。
平成二十一年十二月十六日
昨日の文章に手を入れた。眠くて文意がをかしい所があつた爲。もちろん、アンチの人は「野嵜は改竄をした」と解釋するのだが、改竄ではなく推敲だ。しかし、アンチの人は、斯うした推敲を許さない。少くとも、「書直すなら全ての段階のログをとれ」と要求する筈だ。何故彼等はさう云ふ要求をするか。書き手の成長をウオッチする爲だ。
アンチは、書き手の「人間」の部分に興味を持つ。が、それは、「自分より目下の存在」として見るのであり、自分より劣つた人間としての書き手を、書き手より優れた人間としての自分が、評價――と言ふより、アンチはウオッチ對象の書き手を「採點」しようとするのである。アンチは、「自分は正解を知つてゐる」と確信してをり、その「正解」から程遠い事を言つてゐると言つて書き手を馬鹿にする。
――けれども、斯うした「ウオッチ」=觀察的な讀みは、書き手にとつて迷惑であるばかりでなく、讀み手にとつてもメリットがない。讀み手は、「自分は正解を知つてゐる」と信じ込んでゐるから、書き手の文章に刺激されて自分の考へを發展させる事が無い。ならば、知的には何の意味もない行爲を、讀み手はやつてゐるわけである。單なる暇潰しをしてゐる、と云ふ事。アンチは、恰も自分が先生になつたかのやうな積りになつて、採點ごつこをして、遊んでゐるに過ぎない。
さう云ふ良くない讀み方をする讀み手の事を考へて、書き手は文章を書くべきだらうか。
平成二十一年十二月十六日
Baidu Type - elderrisの日記

平成二十一年十二月十五日
日本のクリスチャンとマルクス主義者は案外近い、と書いたら、私の大好きな爺氏がまたぞろGAHAHAと嘲笑を浴びせて來た。粘着アンチの人は、私を嘲笑する爲には題材を選ばないらしい。
爺氏によれば、私が神に對する兩者の態度を除外した事が論理的に破綻してゐるのださうだ。即ち、クリスチャンとマルクス主義者は神を信じるか信じないかで對立する――そして、その對立以外のところを見るのは論理的に破綻してゐる。はあ? としか言ひやうがない。
何んなに似てゐても、似てゐない所が一箇所あれば「似てゐる」と言ふのは「論理的に破綻してゐる」と云ふのだ。これでは話をする事が全く出來ない。
私を非難する人には、この手の「頑迷固陋で柔軟に物を考へる事が出來ない」人が多い。と言ふより、さう云ふ人しかゐない。だから、私に反對してゐる人は、全てアンチの人だ。
アンチの人くらゐ頭が固い人間もゐない。彼等は、たつた一つの、取るに足らない小さな事に、何時までも何時までも拘つて拘つて拘り拔く。彼等は、何んな説得も受附けない。しかし、彼等が大絶叫して「矛盾だ!」と極附ける、たつた一つの事は、そのアンチの人以外、誰もをかしいとは思はない事なのだ。
一方の、アンチの人が用ゐる論理は、これは誰が何う見てもをかしなもので、手前勝手で、自己中心的で、自分にだけ都合の良い、論理性の缺如した、感情的なものだ。爺氏は、他人の物の見方を絶對的に否定し、話を摩り替へて嘲笑する。それで十分、自分は論理的なのだと信じられてゐるのだから、氣樂なものだ。
平成二十一年十二月十五日
爺氏は「一般常識」を基に堅固な「論理」を組立ててゐるかのやうに振舞つてゐる。音声言語こそが科学の対象であり、書記言語は科学の対象足り得ない、と爺氏は説き、さう云ふ「常識」を無視する野嵜の「無知」を非難してゐる。
だが、爺氏の知識は淺い。爺氏は、全てWikipediaの記述を利用して、「常識」について説明してゐる。一々例示はしないが、「反証可能性」にしても「音声言語」「書記言語」の説明にしても、爺氏の大體の記述がWikipediaの説明と合致する。
はつきり言ふと、爺氏は、ポパーを讀んでゐない。爺氏は自分に知識があるかのやうに見せかけてゐるが、Wikipediaの記述を巧みに利用してゐるだけだ。閑な人は、爺氏の文章から適當にキーワードを拾ひ上げて、Wikipediaの記述と對照して見るといい。もちろん、爺氏は、惡びれもせず、Wikipediaに書いてあるからこそ自分の知識は正しいと主張するに違ひない。が、それは、例の○○社長が「広辞苑に書いてある」と言つたのと同じで、爺氏も、「言葉には辭書的な意味しか存在しない」と信じ込み、個人個人が獨自の色合ひを持たせて言葉を使ふものである、と云ふ單純な事實を認識してゐない、と云ふだけの事を意味する。
要するに、爺氏は公式に當嵌めて答を出して見せてゐるだけ、と云ふ事――算數ならそれで十分だが、人文科學の領域でそれを安易にやられると、困ると云ふより、失笑してしまふ。もつとも、さう云ふ失笑されるべき幼稚な論理を振りかざして、襲ひかかつて來られてゐる現状、笑つてゐられる状況でない事は改めて言ふまでもない。襲撃を受けてゐる人間は、相手が如何に幼稚な存在であれ、そんな事で安心してはゐられない。知的レヴェルが幼兒なみであれ大學教授なみであれ、襲撃者であるのならば、こちらは危害を加へられつゝあるわけだから、身を守る事を最優先に考へなければならない。ところが、ウェブだから、「言論の自由」と云ふ奴だ、そのせゐで、「粘着アンチ」の行爲は「認められる」事になつてしまふ。私は、「言論の自由」を尊重すべきだと云ふ立場の人間だが、一方で、斯うした「言論の自由」の弊害を、知らないわけではない。
爺氏は、ポパーの考へ方を理解しないまま、圖式に當嵌めて、議論をしてゐる。當人は、それで結構、ちやんと議論を進められてゐるやうな氣がしてゐるのだらうが――さう云ふ爺氏には、ポパー自身、科學的な態度と云ふものについては、もつと融通の效く考へ方をしてゐたよと、指摘する以上の事が出來ない。
爺氏のやうに、頭が固く、公式的な物の見方に固執し、何でも表面的な知識に基いて判斷しようとする人は、基本的な文獻を讀んで理解する努力もしないまゝ、論理だけを振囘す(Kirokuroなら「阿Q」的とか言ふのだらうが、言つてゐる當人が典型的なそのタイプなのだから何うしやうもない)。これは本當に困つた事なのだが、この手の人には批判が出來ない。爺氏は、「反證可能性のないドグマを振りかざして、人を默らせようとしてゐる」。聞く耳持たないと言ふやつだ。
ところが、爺氏は、「私が野嵜に耳を貸さないのは、絶對的に正しいのである。なぜなら野嵜は愚かであるからだ」と云ふ「論理」を使つて、自己正當化をはかる。これはKirokuro等の「粘着アンチ」も普通に言つてゐる事だが、爺氏もその仲間だと云ふ事。
「アンチ」は、全てを「信者」のせゐにして、身勝手な事を言散らし、暴れまはる。ところが、さう云ふ「アンチ」は、自分自身を、大變に論理的で、知識もあり、專門家も眞つ青の、天才であるかのやうに看做してゐる。虹裏でも、變な子が變な理窟を言つて、漫畫家やら何やらに因縁を附けては、皆からをかしいをかしいと言はれてゐるが、變な子には自分が變な子だと云ふ自覺が生じない。變な理窟を言つて因縁を附け、粘着してゐるのは、明かにをかしいのだが、粘着行爲もアンチ的な行爲も當り前で、皆が眞似しなければならないと本氣になつて言ふし、自分に反對する人間を嘲つては飛んでもなく高飛車な態度を取る。佐藤氏が爺氏にぶち切れてゐたが、佐藤氏の態度が正しい。爺氏はをかしいのだ。ところが、さう云ふ爺氏が、野嵜を攻撃してゐるからと言つて、アンチ野嵜のKirokuro一派は嬉しくて嬉しくてたまらない。この手の人逹は、本當に何うしやうもない。「理念より人」と言ふ人逹のする「議論」の不毛さは、言語を絶する。ところが、さうした不毛で非建設的な人身攻撃を、彼等「粘着アンチ」は、大變に價値があるものだと心から信じてゐるのだ。爺氏も、野嵜を攻撃する事にだけ興味を持つてをり、何が正しいか、には全く興味を持つてゐない。野嵜とその周邊の人間を馬鹿にして快を貪る事以外に、爺氏は興味がない。
平成二十一年十二月十五日
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ごみの封筒にらくがきしたが、不憫で捨てられなくなつた。
平成二十一年十二月十五日
「相對主義」とは何なのか - 鬱と躁の日々
平成二十一年十二月十五日
小学生だって気持ち悪いと思ふ - 枝葉末説@ことのはぐるま
平成二十一年十二月十五日
会社のルールが俺の周りの全世界に適用されるんだ! : web-g.org

会社で偉ければ道端に煙草ポイ捨てしようが店員に暴言吐こうが許されるって思ってる。

Kirokuroは50代のおつさんだらうか……。
平成二十一年十二月十五日
http://www.youtube.com/watch?v=ipzR9bhei_o
http://www.youtube.com/watch?v=gxgZhIwaLjA

平成二十一年十二月十四日
イデオロギー的に敵對するからと言つて、それだけの理由で相手を侮辱して快を貪るのは、意味がないと思ふんだが……。あと、ただの揚げ足取り。用語・用字に拘つて、他人の物の言ひ方がなつてゐないと罵倒する人がゐるんだけれども、何の意味もない非難だと云ふ事に、何うして氣附かないんだらうか。正しい用語で間違つた事を言ふ人は非常に多い。もちろん、正しい知識に基いて、誤つた結論を出す人も。別に用語だの何だのが間違つてゐた所で、結論が正しければ何の問題もない。全體として大體間違つてゐるか、全體として大體正しいか――その邊の事を故意に見落して、他人を「信者」みたいに「何も知らない素人が結論だけ信じ込んで偉さうな事を言つてゐる」みたいに非難するから、「アンチ」が發生するんだよ。そして、「アンチ」の「アンチ」たる所以は、結論の部分で非難したいのか、個別の議論の部分で非難したいのか、論者の人格を非難したいのか、その邊が自然に混亂してくる處にある。「悪いのは全部信者」式の阿呆らしい「アンチ」特有の論法。「アンチ」は大抵、「信者」のたつた一つの、拘る必要のない詰らない部分に拘つて言掛かりをつけ、そのたつた一つの事を「信者」が「直さない」からと言つて何時までも何時までも執拗にたつた一つの惡口を言ひ續ける。それをまともな人間は誰一人承認しないと云ふのに――「アンチ」は、最初は自分の非難が「誰もが承認する事」だと堅く信じてゐるのだが、誰も承認しないと判ると、執拗に言ひ續けて欺されて自分を信ずるやうになる一般人が出て來る事を期待するやうになる。結論が最初に決つてゐるから「アンチ」は何うしやうもない。

平成二十一年十二月十三日
キリスト教とマルクス思想とが根本的に對立してゐるやうに言つてゐる人は、日本人に非常に多い。特に、左翼にはその邊の違ひを極端に誇張して言ふ人が多い。けれども、キリスト教とマルクス主義とはリニアに繋がつてをり、神の存在を認める・認めないで對立があるに過ぎない――が、さうした對立は止揚されるべきであらう。
殊に日本人のクリスチャンには、マルクス主義者と或點で考へ方を同じうする人が多い。それは「天皇制」に關する考へ方だ。マルクス主義者は「天皇制」を非難し、天皇を憎惡する。が、クリスチャンも屡々同じ態度をとる。
森野善右衛門氏は千九百八十九年六月二十五日、鹿島栄光教会において、東北教区相双地区信徒教職研修会で講演して、以下のやうに述べたと云ふ。

日本キリスト教団は、(昭和)天皇死去の日一月七日に辻宣道議長名の談話を発表して、かつての戦争に全面的に協力したことの悔改めを表明し、天皇の死と代替わりが、ふたたび偏狹な国家主義の方向に向かう動きを推進するように利用されていくことを憂慮する、と述べ、また「大喪の礼」を前にした一月二七日にふたたび辻議長名での声明を発表して、神道形式をとった皇室行事としての「葬場殿の儀」と、国の行事としての「大喪の礼」を一連のものとしておこなうことは、「憲法の基本的精神である政教分離原則を真っ向から否定する暴挙である」と抗議しています。

森野善右衛門『目標を目ざして走り』(1990念5月20日第1版第1刷発行・新教出版社・新教新書231)所收「天皇の代替わりとキリスト教会」
森野氏は結論として、自己批判と罪責告白の契機を持たない思想・信仰は、用意に自己義認と強者の支配の思想に変質します。それはキリスト教の歴史にも見られるし、共産主義社会にも根を張っている病根です。自分は健康無比であると誇る所に退廢がしのび寄るのです。弱者・少数者・貧しき者の自由と権利が尊重される世界をこそ私たちは目指すべきです。それは人類普遍の原理に根差した世界、各自が自立した個人として、真に連帯して生きることのできる世界、したがって、いかなる形の天皇制をも必要としない社会です。と述べてゐる。これは現世においてユートピアを實現しようとする思想であり、政治的に生きてゐる人間を濟はうと云ふ思想であるが、神の存在を無視すれば、共産主義と何も變らない。
日本の共産主義者もクリスチャンも、日本の封建制に反感を持ち、抵抗する爲に、共産主義やプロテスタントの信仰を持つやうになつた人々だ。もちろん、純然たる信仰者もゐる筈だが、さうした一般の信仰者に説教する立場の聖職者の中には、極めて思想的な人々が存在する――と言ふより、森野氏がその一例だが、一般的な信者に對して、或種の政治イデオロギーを吹込む指導者が存在する。
マルクス主義の信者にしてもプロテスタントの信者にしても、純然たる善意から信仰を持つに至つた人である事は、普通にある。が、本來政治的なマルクス主義の信者が政治的傾向を持つのは當然にしても、政治と宗教とを嚴然と區別し、宗教を選ぶ筈のクリスチャンもまた、意外な事に、政治的傾向を持つのである。そして、それは大抵、左翼思想である。靖國神社に抗議に押しかけるクリスチャンの存在は有名だ。
當然の事ながら、一般信徒にも指導者にも政治的傾向を持つ者が少い教團もある。が、當り前のやうに左翼の思想を奉じる政治的なキリスト教教團も、日本には大變に多い。
平成二十一年十二月十三日
小山常実『歴史教科書が隠してきたもの』(展転社)

戦後の歴史学は、自由民権運動が憲法と国会を要求し、その要求を抑えられなくなって明治政府が憲法と国会をつくったとしてきた、そして、専制政治を行い国権の伸長を狙う明治政府に対して、自由と民主主義を求める民権派という対立構造の図式を描いてきた。歴史教科書は、長い間、この図式をもとに記述を行ってきた。

だが、今日の歴史学では、この図式は崩れてしまった。明治政府も民権派も、共に幕末の公議輿論を重視したグループの系譜に位置しており、憲法と国会を生み出していったと考えられるようになった。事実、明治政府も民権派も、ともに国会開設と憲法制定を目指していた。しかも、研究が進むにつれ、民権派の方がかえって同時に国権派であることが明らかになっていった。また、明治政府が考えた憲法草案も、民権派が考えた憲法草案も、共に立憲君主制であるという点では共通するものであることも明らかになってきた。

ところが、歴史教科書は、相変わらず、自由民権運動に迫られて明治政府が国会と憲法をつくったという図式を描いている。日本書籍新社、東京書籍、帝国書院、日本文教出版、大阪書籍の五社がそうである。例えば、東京書籍は、「政府を去った板垣退助らは、これを専制政治であるとして批判し、国民が政治に参加できる道を開くべきだと主張して、1874(明治7)年1月、民選議院設立の建白書を左院に提出しました」(150頁)と、国会と憲法を作成する動きは民権派から始まったとしている。そして、「高まる民権運動」の小見出しの下、国会と憲法を求める自由民権運動が高まったから、仕方なく明治政府は国会開設を約束したと記す。

しかし、それにしても、いまだに民権派と政府を対立的に描く教科書が多数派であることには驚かされる。

平成二十一年十二月十三日
小山常実『歴史教科書が隠してきたもの』(展転社)

明治憲法は、立憲君主制の憲法であり、国体と政体との二元構造から成っていた。国体は日本の政治伝統を現した不変のものであり、万世一系の天皇による国家の統治ということが定められていた。これに対して、政体は、時代と共に変化していくものとされ、西洋の立憲主義思想を取り入れたものである。政体上も、国家統治の権限は統治権の総攬者である天皇の権限とされたが天皇が三権を行使するにあたっては、法律の制定は国民代表の意思が反映された議会の協賛(承認)によること、行政は国務大臣の輔弼によること、司法は裁判所が行うこととされていた。

ただし、戦前期においては、日本の伝統に基づく国体上、天皇を政治に巻き込んではならない、政治利用してならないという規範が存在した。明治憲法も、第三条で「天皇ハ神聖ニシテオカスヘカラス」と規定して天皇の政治的無答責を定めるとともに第五十五条で大臣責任を定めた。明治憲法下の天皇も、伝統にしたがって、基本的に政治的権威の役割を果たし続けたのである。

しかし、戦後の憲法学も歴史学も、国体と政体との二元構造について記そうとしない。いや、そもそも、国体という言葉をタブーにしてしまった。従って、歴史教科書も、国体というものを隠してしまった。そして現行教科書は、平成九年度版まで使われていた三権分立または権力分立という言葉を用いようとしない。この言葉は、戦前憲法学の教科書には必ず載っていたものである。何ともおかしなことである。

しかも、多くの教科書は、天皇を権威的な存在としてではなく、自ら権力を行使する絶対君主的な権力的な存在として描いている。日本書籍新社、東京書籍、大阪書籍、教育出版、帝国書院、日本文教出版の六社がそうである。例えば、日本文教出版は、「この憲法では、天皇は神聖で犯すことのできない存在で、主権は天皇にあり、軍隊を動かしたり、外国と条約を結んだりする権限も天皇にあった。国民の権利は法律で制限できるものとされ、議会の権限も弱かった」(128頁)として、天皇を主権者と位置づけている。他には、帝国書院と大阪書籍も、天皇主権説の立場を表明している。

しかし、戦前憲法学においては、天皇主権説は少数説であり、天皇機関説が多数説であった。それゆえ、「主権は天皇にあり」といった表現は適当とは言えない。明治憲法第四条の規定に従って、統治権の総攬者とでも記すのが適当だろう。

平成二十一年十二月十三日
小山常実『歴史教科書が隠してきたもの』(展転社)

とはいえ、相変わらず、明治憲法下の権利について否定的に紹介するのが三社も存在する。例えば日本書籍新社は、「国民の自由や権利は制限つきでしか認めなかった」(154頁)としている。江戸時代には権利というものが存在しなかったわけだから、憲法で権利が認められただけでも評価すべきものであろう。また、当時も現在も、現実には無制限に権利が認められるわけではなく、法律によって制限されている。もっと肯定的に記すべきだろう。

しかし、明治憲法に関する記述で最も違和感を感じるのが、教科書の日本に対する冷笑的な態度である。例えば、帝国書院は、小コラム「お雇い外国人ベルツの日記」の中で、「憲法発布をひかえてその準備のため、言語に絶したさわぎを演じている。いたるところ、奉祝門、照明、行列の計画。だが、こっけいなことには、だれも憲法の内容をご存知ないのだ」(166頁)と、ベルツの言葉を引き、憲法制定について揶揄している。他には、日本書籍新社と清水書院も、ほぼ同文を引用している。

さらに冷笑主義が現れているのが、衆議院議員の選挙権に関する記述である。例えば東京書籍は、「衆議院議員の選挙権があたえられたのは、国税を多く納める満25歳以上の男子だけで、総人口の1.1%(約45万人)にすぎませんでした」(153頁)と、選挙権者が少数にすぎないと強調している。だ

だが、これは、公平な書き方とはいえない。一八九〇(明治二十三)年前後の世界を見ると、英国の場合は七百年、米国の場合でも百年以上の立憲制度の歴史を誇っていた。だが、どの国もまだ制限選挙の制度をとっていた。日本の場合は、帝国議会を開設してからわずか三十五年後の大正十四(一九二五)年には普通選挙制度をとっている。英国の普通選挙は一九一八年であるから、同時代のことである。右のような否定的な紹介は明らかにおかしいのである。

平成二十一年十二月十三日
小山常実『歴史教科書が隠してきたもの』(展転社)

「日本国憲法」は、GHQが作成した原案を基にして、GHQによる議会審議の統制下で、占領期に成立した。当時は、国際法的に問題の多い東京裁判が同時進行しており、GHQによる検閲が行われており、特に憲法問題については言論の自由が存在しなかった。それゆえ、「日本国憲法」の成立をめぐっては、ハーグ条約違反を初めとした法上の問題がある。

しかし、全社は、最も重要な議会審議がGHQによって統制されていた事実を隠してしまう。そればかりか、政府原案作成過程の記述さえもおかしくなっている。

教育出版などの五社は、GHQによる憲法改正の指示を記しはするが、いろいろ歴史偽造ともいえる操作をする。例えば帝国書院は、「総司令部は、みずからつくった草案を日本政府に示し、修正をうながしました。新しい政府原案は、議会の審議をへて……」(221頁)とする。これでは、「日本国憲法」の原案がGHQ案かどうかさえも分からなくなるし、日本政府が自主的に政府原案を作ったと読めてしまうことになろう。

また、教育出版は「連合国軍総司令部は日本政府に対し、憲法の改正を指示しましたが、(1)(番号は引用者、以下同じ)政府の改正案は大日本帝国憲法の一部を修正しただけのものでした。そこで連合国軍総司令部は、(2)民間の憲法研究会案などを参考にした草案をつくって政府に示し、政府はこれをもとに新しい改正案を作成しました」(181頁)としている。

(1)は、とんでもない虚偽である。政府の改正案とは、いわゆる松本乙案を指している。だが、松本乙案は、明治憲法の全七十六ケ条のうち、四十六ケ条を修正ないし削除しており、一部修正などではなく大修正案だったのである。(2)も、とんでもない虚偽である。GHQは、基本的に、日本の文献は参考にせず、英国や米国、ソ連を中心にした憲法を参考にしてGHQ案を作成した。実は、憲法研究会の中心人物である鈴木安蔵は、GHQ関係者と接触をもち、国体批判の考え方を吹き込まれて憲法研究会案を作成したのである。

さらに指摘しておかなければならないのは、鈴木安蔵が当時の日本の中では著しく珍しいマルクス主義憲法学者であったことである。ことさらに憲法研究会案を強調するところに、教科書執筆者のマルクス主義かぶれ、共産主義信仰が見て取れよう。

これに対して、大阪書籍だけは、「総司令部は……日本政府に憲法の改正を命じました。日本政府は、総司令部が作成した草案をもとに、改正案をまとめあげました。……政府は憲法改正案を提出し、4か月にわたる国会での審議をへて可決されました。」(214頁)と記している。GHQ案を押し付けたとは書いていないが、GHQが政府案作成過程を主導したことが、きちんと記されている。ただし、議会審議をGHQが統制していた、という一番重要な事実が隠されているのは、他社と同じである。

平成二十一年十二月十三日
小山常実『歴史教科書が隠してきたもの』(展転社)

自虐史観に基づく歴史歪曲を正そうとしてつくられてきた『新しい歴史教科書』も、他社と同じく、おかしな「日本国憲法」成立過程を描いている。

「GHQは……わずか約一週間でみずから作成した憲法草案を日本政府に示して、憲法の根本的な改正を強くせまった

政府はGHQが示した憲法草案の内容に衝撃を受けたが、それを拒否した場合には、天皇の地位が存続できなくなるおそれがあることなどを考え、これを受け入れた。GHQの草案にもとづいて政府は憲法案をつくり、帝国議会の審議をへて、1946年11月3日、日本国憲法が公布された」(213頁)

右引用に嘘があるわけではない。しかし、GHQ案の提示を押し付けとはせず、GHQ案の受入を結局は合理化してしまっている。また、他社と同じく、議会審議の統制を書かないのである。これでは、大阪書籍以外の六社と同じく、デタラメだった「日本国憲法」成立過程を合理化していることになろう。

平成二十一年十二月十三日
小山常実『歴史教科書が隠してきたもの』(展転社)

さらに、「日本国憲法」といえば、その成立過程のいかがわしさがある。「日本国憲法」起草にGHQが関わったことの記述を禁止した検閲指針(三)は、戦後長らく日本人を縛り続けてきた。かつて、歴史教科書は、この検閲指針どおりに、GHQ案の存在を隠していた。さすがに、五十三〜五十五年度版以降、多数の教科書がGHQ案を取り上げるようになるが、すると今度は、松本乙案が明治憲法を微修正したものに過ぎなかったから、GHQ案が提示されたのだとするようになる。このことによって、GHQ案提示という、やってはいけなかったGHQの行為を合理化していくことになるのである。

しかし、このような小細工をしても、「日本国憲法」成立過程のいかがわしさは残ってしまう。そこで、教科書は一斉に、明治憲法の評価を一層貶めていった。明治憲法の三権分立について触れる教科書は皆無となるし、ことさらに、国民は発布時に明治憲法の内容を知らなかったと記すようになる。こうして、歴史教科書は、「日本国憲法」の成立を合理化するために、明治憲法に対するイメージを悪化させていったのである。

明治憲法のイメージを悪くすれば、<悪い内容の明治憲法を変えるためには、少々でたらめな方法で日本国憲法をつくってもしょうがなかったのだ。明治憲法もあまり良いつくられ方はしていないではないか>という論理も使うことができるようになる。それゆえ、「日本国憲法」の成立過程のいかがわしさこそが、明治憲法に対する不当な低評価を生み出し、ひいては明治憲法体制全体への理解を歪曲することになるのである。

平成二十一年十二月十三日
ふとCSSでぐぐつたら相變らずとほほが一番目に出て少し愕然とした。

平成二十一年十二月十二日
俺の記憶に燒きついてゐる廢刊した雜誌はOS/2 MAGAZINEとPC WAVE。
(Brief) Index to OS/2 MAGAZINE
OS/2関連雑誌/書籍/ムック
ラッセル社出版、業務を停止。PC WAVE廃刊へ
波多利朗の著作
平成二十一年十二月十二日
「シフトJIS」では対応不可能な新常用漢字表 - yasuoka の日記
新常用漢字表が迫るUnicode移行、「シフトJIS」では対応不可能 - 新常用漢字が引き起こす文字コード問題:ITpro
皆「陳情」の技術的な問題にしか興味を示さない。馬鹿だ。
安岡氏も所詮は「現實主義者」であるに過ぎず、現状のシステムを維持して混亂を生まないやうにしたいとだけ考へてゐる。
平成二十一年十二月十二日
要は、破壞された國語は最うダメだ、と云ふだけの話。日本語は最う何うしやうもないよ。
平成二十一年十二月十二日
コメント: 「シフトJIS」では対応不可能な新常用漢字表 - スラッシュドット・ジャパン

互換規準の件も考え合わせると、そろそろシフトJISは引退の潮時かもと言いたくなる。

しかし、そうは簡単にいかないのが現実で、これに関しては配慮をお願いしたいところ。

小形氏は、〈情報機器に搭載されている印刷文字字体の関係で,本表の掲出字体とは異なる字体(略)しか用いることができない場合については,当該の字体の使用を妨げるものではない。〉と云ふ文章について、官僚文学的な尊大な言い回しと言つて非難してゐるけれども、ではこの配慮をお願いしたいと云ふ言ひ方は、何なのだらう。これも私には氣に入らない言ひ方だ。「使用を妨げるものではない」式の言ひ方も、「配慮」のやうな言ひ方も、曖昧で、その點、嫌な日本語である事に變りはない。
また、安岡氏と同じく、小形氏も、現在の状況に「配慮」して、混亂を生じない事を最優先に考へてゐる。結局「現實主義者」であるに過ぎない。
平成二十一年十二月十二日
日本の言葉の研究者は、全員、この手の「現實主義者」であるに過ぎず、意見を述べるにしても、「現實」に「配慮」した、極めて臆病な言ひ方しか出來ない。何が正しいかは全く考へる事が出來ず――さう云ふ能力が缺如してゐる人間なのだ――ただただ「現實」「現状」が如何なるものであるかを分析しては、「現實に合はせて欲しい」「現實が斯うなのだから、現實を肯定すべきだ」と頻りに「現實は」「現實は」と言ふだけである。
彼等は、理念的には何うかと云ふ事を「言ふ」事それ自體が氣違ひ沙汰だと確信し、現實に合せる「大人の態度」をとつて見せる事に生き甲斐を感じてゐる。安岡氏の激しい口調はナンセンスで、私には馬鹿丸出しであるやうにしか見えない(たかが「現實主義者」の癖に、何を憤つてゐるのだらう)。なるほど、安岡氏は「頭のいい人」であり、物事を分析する能力は持つてゐる。けれども、所詮斯うしたこまごまとした「重箱の隅」をつつくやうな話をもつともらしくする能力しかない人だ。日本語の表記の體系を考へる能力は、安岡氏も小形氏も持つてゐない。ただ、技術的な困難とか、トラブルの事例とかを見附け出して來ては大袈裟に騷ぎ立て、「文字コード問題」が「ややこしい」と云ふ印象だけを撒き散らし、自分逹「專門家」が「必要だ」と云ふアピールだけを續けてゐる。或は、彼等は「文字コードマニア」なのだ。オタッキーな會話をして愉しんでゐるに過ぎない。ガンダム世界の話をして、矛盾を指摘しては、辻褄合せの理論を創作して愉しんでゐるガンダムマニアと、何も變らない。
平成二十一年十二月十二日
「叱・填・剥・頬」は新常用漢字表で許容されているのか? - yasuoka の日記
はつきり言つて馬鹿馬鹿しい話題にマジになつて取組んでゐるだけ。官僚的な言葉遣ひを、もつともらしく解釋して見せてゐるだけだ。
何で斯う云ふ下らない言葉の解釋に、日本人は熱中するのだらうか。これだからろくな批判が出來ないんだよ。當人は、言葉遣ひから一々意味を見出しては、解釋を披露して見せて、好い氣になつてゐられるんだが、それで何か批判になつてゐると思ひ込んでゐるとしたら、大間違ひだ。結局は文部科学省の根本的な態度を肯定してゐるんだらう。ただ、文部科学省のやり方を實現するには、技術的な問題がある、だからもつと巧いやり方をして、實現できるだけの事をしなさい、と安岡氏は忠告してゐるに過ぎない。
文部科学省の考へ方が根本的に間違つてゐると、安岡氏は全く思つてゐない。安岡氏は文部科学省の思想を支持してゐる。小形氏もさう。文部科学省も安岡氏も小形氏も、他の多くの人も、「現實主義」と云ふ點で完全に一致してゐる。ただ、その實現の仕方に關して、技術的なこまごまとした部分で爭つてゐるに過ぎない。
文部科学省にしても安岡氏にしても小形氏にしても、他の多くの人にしても、略字を基準にした文字の體系なるものを肯定してゐる。もちろん、今の日本の「文字體系」が、完全に「略字が基準」でない事も指摘されねばならないが、しかし、安岡氏らが頻りに言ふ包攝だの何だのといつた概念は、現在のJISの文字セットでは一貫して用ゐられてゐない。「剣」「劒」「劍」が包攝されない理由を、安岡氏は、説明できない筈であるが、説明する必要もないと堅く信じて口を閉ざしてゐる。要は、「常用漢字」にしてもJISの文字セットにしても、基準がない、ただの出たら目なのであるが、その出たら目さには目を瞑つて、「實施」の爲に彼等は必死になつて「努力」してゐるのである。彼等には、理念的・觀念的な問題を、問題として認識する能力が缺如してゐる。理念的に・觀念的に問題のあるものでも、技術によつて問題をねぢ伏せ、人々に押附ける事は可能だ、そして自分逹技術者の仕事の醍醐味は、技術を用ゐて人々を不條理に屈服させる事にある、と、さう信じて、彼等は活動してゐる。
斯うした「現實主義」の人々が、彌縫策を講じ捲つて、「現實にあるJISの文字セット」や「常用漢字」を維持しようと必死になつてゐるのが、今の日本の文字體系に關する「問題」の正體だ。不合理なものを如何にして合理的に解決するか――今の日本人は、さう云ふをかしな事を、をかしな事だと認識せずに、一生懸命やつてゐる。無駄な努力と私が言ふ所以である。彼等は問題の本質を見ない。ただ「改定」の話が出る度に、場當り的に「改定」の内容に文句を言ふだけだ。
安岡氏や小形氏ら「文字コード問題の專門家」は、問題の本質から目を逸らして(いかにして體系的に文字の表記を記述するか、と云ふ發想をしない)、ただただ、現實に行はれてしまつた國字改革を肯定し、その「成果」としての制限漢字・略字の「体系」をもつともらしくでつち上げる事に、必死になつてゐる。彼等は、文部科学省を批判してゐるやうで、むしろ文部科学省の意嚮に沿つて考へてゐる。彼等は、文部科学省の考へる日本語のシステムを、技術的にサポートし、巧く實現する事に協力してゐるだけだ。私には、さう云ふ人々が如何に巧みに議論を展開したとしても、全く感心する事が出來ない。誤つた国語政策を實施し、それを維持しようとしてゐる文部科学省に、阿つてゐるだけだからだ。
平成二十一年十二月十二日
ブログの『続きを読む』機能の本当の使い方*ホームページを作る人のネタ帳
平成二十一年十二月十二日
京王相模原線津久井延伸計画を妄想するwiki - トップページ

平成二十一年十二月十一日
焚き火
落葉焚き

平成二十一年十二月十日
「休刊しますよ」〜パソコン雑誌、最後のメッセージ〜
俺には殆ど馴染みがない。
雑誌 休刊 廃刊のご案内 BOOKSルーエ
平成二十一年十二月十日
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平成二十一年十二月九日
ジャストシステム創業者の浮川夫妻、新会社「MetaMoji」を設立 -INTERNET Watch
株式会社 MetaMoJi - 日本語トップ
株式会社 MetaMoJi - 新会社事業スタートのご挨拶

平成二十一年十二月八日
http://d.hatena.ne.jp/scinfaxi/20091208/1260244384
VIPに慣れすぎて他板でビックリしたあるある ニコニコVIP2ch
煽り耐性低いのは俺の方ではないのかも知れない。

平成二十一年十二月七日
そらおと二話のEDもひどかつたが今夜のミラクル☆トレインもひどかつた。
平成二十一年十二月七日
【やじうまWatch】 あの「外人4コマ」の人はゲーム情報サイトIGNの副社長だった! ほか -INTERNET Watch
Google日本語入力活用Tips、怒涛のいきおいで増加中
Google日本語入力は「グーグルでないと作れないソフト」 -INTERNET Watch
平成二十一年十二月七日
窓の杜 - 【NEWS】アウトラインプロセッサー「NanaTree」が開発終了とともにオープンソース化
オープン化されたら誰かISO-HTML對應して呉れないかな。
平成二十一年十二月七日
ネトラン休刊 資金繰り悪化で - ITmedia News
平成二十一年十二月七日
SOFTBANK Creative:ソフトバンク クリエイティブ 広告のご案内
ソフトバンク クリエイティブ 「PC Japan」休刊へ (f/x [エフエックス] ITメディア・タンク)
PCJapan、休刊 - スラッシュドット・ジャパン
平成二十一年十二月七日
匿名?実名? 勝間和代氏vsひろゆき氏 - livedoor ニュース
匿名派の人間は、自分の都合しか考へてゐない。兔に角、發言者にとつてメリットがあるか何うかだけを考へてゐる。
實名派は、自分の損得勘上を閑却して、世の爲人の爲に議論を盛上げようとしてゐる。
――匿名のメリットとか美點とか言つてゐるけれども、「匿名でしか物を言へない状況がある」事を、匿名派の人々は肯定したいのか、否定したいのか。匿名でなくても普通に物を言へる状況を作らうとする事こそ必要なのだが、意地でも匿名の假面を被つてゐたいと平氣で言ふ人が多過ぎる。
なるほど、匿名が必要な場合はある。が、それは、美點・メリットと言つてよいものではない。不合理な状況があつて、強ひられて匿名を撰擇させられる人がゐる、と云ふだけの事だ。

誰が「何を言ったか」を偏見なく純粋に議論することの好例として、小飼氏は19世紀ロシアの女性数学者、ソフィア・コワレフスカヤを取り上げ、「女性であることを理由に数学者となる機会が与えられなかった彼女を救ったのは、匿名だった」と匿名の美点を称賛している。

誰が何う考へても、女性であることを理由に数学者となる機会が与えられない現實は不合理だ。さうした不合理な状況は改善されなければならない。匿名で發言せざるを得なかつたのは、女性差別と云ふ不合理な状況下で、女性が已む無く撰擇させられた方便であつたわけだ。それはメリットではない。そして、重要な事だが、ここで彼女の匿名を肯定すると云ふ事は、即ち、女性差別を肯定しようと言ふ事にほかならないのだ。匿名でなくても女性が普通に數學者になれる、と云ふ、差別のない状況が出來れば最もよいのであつて、差別がある状況下、差別されてゐる人が匿名でさうした状況をかひくぐらうとするのは、次善の策に過ぎない。と言ふより、匿名の假面を、彼女は嬉しく思ひながら被つてゐた筈がない。匿名でなければならない状況を、嫌で嫌でしやうがなく思つてゐた筈だ。今はさうした嫌な状況は、以前に比べれば改善されて來てゐる。そこで依然として匿名の盛んな使用が續いてゐるのを見たら、彼女は何う思ふだらうか。大變好ましい事と思ふだらうか。
匿名派の人々は、一人として、惡い現状を打破して、世の中を良くしようとする氣がない。寧ろ、惡い状況を理由に、自分も惡い事をして、得をしようとしてゐる人が、壓倒的に多い。そして、さう云ふ自分の嫌らしい行動を正當化する爲に、本當に匿名を必要としてゐた虐げられた人々を、氣樂に利用しようとしてゐる。今、匿名を用ゐてゐる人のうち、どれだけの人が、切實に匿名を必要としてゐるだらうか。
論者のメリット・デメリットだけが論點となり、議論をする目的が完全に忘れ去られてゐる。そして、現實に匿名の人間が行ふ議論が決して有益なものでないと云ふ事實も故意に隱匿されてゐる。匿名派の人間は、「偏向した報道」を行つて「ネット世論」を誘導し、自分逹に都合の良く世の中が動いて行くやうにしようとしてゐる。匿名を利用して快を貪つてゐる人は、極めて多い。自分の事ばかり考へて、他人の事を考へない人は、明かに匿名派の人間に多い。インターネットで問題を起すのは匿名派の人間だ。實名派の人間は、問題を起さないか、起しても當然の報いを受ける。だが、問題は、さうした「報いを受けた人」が再起できないのが今のインターネットである、と云ふ事。一度問題を起したと云ふ、ただそれだけの事で、一切の發言が封じられてしまふのだ。そんな事が許されて良いわけがない。ところが、匿名派の人々は、「問題児」の發言を暴力で封じ込めるのは良い事だと信じ――それを實踐する。これは、公開の場での議論を破壞し、言論の自由を否定し、ひいては民主主義の打倒を齎す危險思想だが、匿名派の人間は一人として自分の思想が危險思想だと思つてゐないし、反省する機縁もないから反省しない。のみならず、暴力的な行動を抑制するシステムも存在しないから、平然と暴れまはる事が出來てしまふ。
インターネットには斯うした現状があるのだが、さう云ふ現状が匿名派の人々には心地よくてたまらない。匿名派の人々は、自分がぬくぬくと生きてゐる現状を肯定してゐる。實名派の人々は、それに對して、安穩に生きる事が出來ない状況を敢て主張してゐる。匿名派は自己肯定を前提とし、實名派は自己否定を前提としてゐる。多くの人は、自己を肯定出來る匿名主義に加擔する。だが、自己肯定を前提とした態度・思想は、批判を受附けない、獨善主義に直結してゐる。批判こそが重要である事はポパーが強調してゐる事だ。
今のインターネットは、批判それ自體が成立たない非道い状況に陷つてゐる。明かに、匿名派が、匿名のみならず、ありとあらゆる方法で自己肯定を劃策し、快を貪つてゐるせゐだ。彼等は、自分が主張したからには自分の主張は正義であると堅く信じ、自分の誤を指摘されると不愉快になつて、感情的に批判者を罵り始める。その時、匿名と云ふ手段があるからには、積極的に利用する事になる。彼等は平然と、陰濕で冷酷な復讐を行ふ。けれども、その結果として、批判は封じ込められ、誤は訂正されず、間違つた事が世の中に幅を利かせる事になる。それでは困るのだ。彼等匿名者は、主觀主義をとり、自分の外部に客觀的な正しさがある事を認めない、と云ふ理論を振りかざして、自己防衞をはかる。だが、自分の主張は否定されるかも知れないし、正しい事實・眞實の前に自分の誤が訂正されるのは快い事であると考へる人ならば、批判は必要だと考へる。
もちろん、匿名主義でも實名主義でも、誤が訂正されるシステムがうまく動いて行けばいい。……ただ、匿名主義でやつて着た結果、今のインターネットは誤が巧く訂正されない状況に陷つてゐるのだ。理窟だけなら何とでも言へるが、匿名主義が良くない状況を齎してゐる現實がある。我々は現實を見なければならない。
平成二十一年十二月七日
要は、匿名を必要としてゐるのは惠まれない人だけである、と云ふ事。今のウェブはそんなに切實に匿名を必要としてゐる人許りなのか。それにしてはみんな暢氣な話に花を咲かせてゐるやうに見える。
惠まれない人が惠まれてゐる人と互角に渡り合ふ爲の武器が匿名なのであつて、それを惠まれた人間が使つたら――結局惠まれた人間が益々有利になるだけの事になる。その時、その人間はただただ甘やかされるだけになり、結局つけ上がつて好い氣になるだけの事になる。フェアな精神の持主なら、自分にメリットがなくても――と言ふより、ないがゆゑに――敢て匿名なる武器を用ゐない態度をとるべきだと言ふ事が出來る。逆に言へば、惠まれた人間が匿名を武器として用ゐるのはアンフェアだと云ふ事。

平成二十一年十二月六日
靖国神社

明治以降の日本の戦争・内戦において政府・朝廷側で戦歿した軍人を祀る神社。概要、年表、拝観案内。

これは何うかと思つた。「ら」はないだらう。
転載・リンク条件|靖国神社
これも何うかと思ふ。今時この「条件」はないと思ふ。
ちなみにマーク附けは綺麗。

平成二十一年十二月五日
http://www.bumbunker.com/?date=20091204#p03:■ [web][PC] Google 日本語入力 (25:08)
平成二十一年十二月五日
【山田祥平のRe:config.sys】 ほしい→キボンヌ
ASCII.jp:Google日本語入力が描くIMEの未来像とは?
平成二十一年十二月五日
サジェスト機能とかは何うでもいいんだよ。大して問題にはならない。使ひたい人は使ふだらうし、使ひたくない人は使はないで濟ませればいいだけだ。
問題は、「書きたい文章を書くのに使へるか何うか」だけ。
しかし、我々はそんなに創造的な文章を毎日書いてゐるだらうか。「ブログ」に書く文章もさうだが、その邊のビジネス書だの自己啓發の本だのでも、或は文學書でもいい、どれもこれも既成の概念の寄集めに過ぎない。せいぜい寿命が三箇月あるか三年くらゐあるかの程度の差があるだけだ。今書かれる文章は、大抵既成の概念の切り貼りで出來てゐる。ならば「うまく切り貼りできる」システムがあれば、「需要はある」と云ふ事だ。今のGoogle日本語入力は、それが機械的な切り貼りにしかならないと云ふので非難されてゐるけれども、それは當り前の話で、さうしてできた切り貼りの文章を人間が何う主體的に直して「自分の文章」に仕立て上げるかが問題――さう云ふ作業をさぼる人は多いだらうけれども、ではさう云ふ人がGoogle日本語入力を使はなければ何うするのかと言へば、やつぱりぐぐつて出て來た文章を適當に切り貼りしてレポートにしてゐたりするだけだらう。
平成二十一年十二月五日
IMEの複文節での変換精度比較 - lanikai - builder by ZDNet Japan
平成二十一年十二月五日
「ただしい」を変換すると? 日本語入力ソフトをGoogleが無料公開 - はてなブックマークニュース
平成二十一年十二月五日
と言ふか、Google日本語入力、「は行四段」の動詞なんてものが「ある」と云ふ事を知らないから、正かなづかひを覺えさせる事がそもそも不可能、と云ふのが、俺にとつては問題。これでは使へない。
平成二十一年十二月五日
Social IME 〜みんなで育てる日本語入力〜
最近全然話題になつてゐないけれども……これも正かな覺えさせられないからダメだが……。
平成二十一年十二月五日
MS-IMEも辭書を弄つて「正かな入力對應」にさせる事が出來ないから、乘換へ對象にならない。
俺は今、WXGを使つてゐるけれども、それから乘換へられる唯一の對象はATOK。文語モードは微妙だが、弄ればそれなりにぺしぺし正字正かなで入力するのに使へるわけで、これしか正かな派には「希望」がないと云ふのが實状。
日本語變換ソフト「契沖」
Windows 7の御代に市川さんは何うする積りだらう……。「契冲」Ver.19.1は正字・正かなの實踐に役立つソフトです。と書いてをられるけれども、「契沖」は飽くまで松茸用の辭書データでソフトではないから、ソフトである松茸がWindows 7で動かなければ何うしやうもなくなる。
と言ふか、64 bit環境のWindowsでは既にWXGも松茸も動かない。近い將來、OSの64 bit化が完了したら、「契沖」も「死ぬ」事になるのだけれども、……。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~keichu/vista.htm
Vistaでも相當非道い事になつてゐるんだが……。平成二十一年十二月末を以て終了とさせていたゞきます、との事で、頑張つて賣つてゐるけれども、今の状況だと賣れないだらうなとしか言ひやうがない。何時まで使へるか分らん代物を「正字正かなで入力できる」からと言つて喜んで買ふ人は餘りゐないと思ふ。今後もやつて行くならソフトを獨自に開發する以外、手はない。
平成二十一年十二月五日
Google Public DNS
Googleが無料DNSサービスをテスト公開、Webの高速化が目的 -INTERNET Watch
Google Public DNS(無料DNS)によるネット高速化の考察
平成二十一年十二月五日
また何時もの變な子「義」たんがムキムキきて各地の掲示板や「ブログ」のコメント欄を荒し捲つてゐる模樣。雨なのに御苦勞な事だ。
野嵜の活動の所爲で正字正かなが嫌ひになつたとか公言してゐる人がゐるけれども、さう云ふ人逹は皆、どこか「義」のやうな異樣な處がある。
「アンチ」の人逹は、二言目には「信者」「信者」言ふけれども、さう云ふ「アンチ」の粘着行動に不快感を覺える人の方が遙かに多い事がなぜか解らない。
平成二十一年十二月五日
HTML5がマルチメディア關係のファイルを何でもかんでもウェブブラウザ自前で處理しようと云ふのは、プラグイン/埋め込み要素が特許の絡みで危ない、と云ふのが理由だらうか。
餘りに實用的に過ぎるHTML
HTML5關係の記事を纏め中。

平成二十一年十二月四日
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平成二十一年十二月四日
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平成二十一年十二月四日
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平成二十一年十二月四日
Google 日本語入力試した: まじかんと雑記
wyiで「ゐ」、wyeで「ゑ」が出るよ。
2009-12-04 - 大和但馬屋日記
IMEは入力の道具なのだし、巧く使ひこなせれば巧い文章が書けるだらうし――ダメな人は何を使つても駄目だと思ふ。
ATOKでも過去の入力に基いて次の入力を推測して候補を示す機能が載つてゐる。
英語もかしこく便利に入力できる|日本語入力システム ATOK 2009 for Windows
Google日本語入力は、それをウェブの檢索エンジンで使つてゐるデータを利用して擴張してゐるだけだから、技術的にはそんなに凄い事をやつてゐるわけでもない筈。
平成二十一年十二月四日
Google日本語入力も、最終的にユーザが言葉を撰擇するんだけれども……。
實際のところ、現在はかな漢字變換プログラムの選擇肢が少な過ぎる。何んなアイデアに基いてゐてもいいからもつと澤山日本語入力のプログラムが出て來ていいと思ふ。と言ふか、あんなに(どんなに?)あつたFEPが全部消えてしまつたのだ。特許だの何だのの所爲で技術やアイデアが全部消えてしまつたのだが、損失以外の何物でもない。

平成二十一年十二月三日
Biotronique - PC - 実は異体字セレクタに対応済のWindows 7
平成二十一年十二月三日
Google 日本語入力 - ダウンロード
Google Japan Blog: 思いどおりの日本語入力 - Google 日本語入力
グーグル、日本語入力ソフト「Google日本語入力」を公開 -INTERNET Watch
Google 日本語入力 ベータ版 - elderrisの日記
「Google 日本語入力」を利用した雑感 - 適宜覚書はてな異本
どうでもいいけど「日本語入力プログラム」みたいなのでも結局理系の連中・プログラミングが出來る人が思ひ立つてやるから出來るんで、文系の人間が何を言はうがそれだけでは何うにもならないんだよな。Googleだつてプログラミングの出來ない文系の人間なんてただの邪魔者ぐらゐにしか思つてゐないんだらうし。インターネットは理系の人間だけが「甘い汁を吸へる」世界なんだよ。
と言ふか、例によつて正字正假名で使へるやうに躾られるのこれ? 俺は最うやる氣がない。
平成二十一年十二月三日
あと、心配なのは、Googleが何時までこのIMEのサポートとメンテナンスを續けるかと云ふ事。オープンにするとかすれば何時まででも持つんだらうけれども、檢索エンジンの機能と深く關係してゐるからGoogleとしてはオープンにしたくないんでないだらうか。となるとGoogleが死んだらこのIMEも死ぬと云ふ事になる。
平成二十一年十二月三日
HTMLを体系的に理解するための7仕様
正字正仮名吹いた。
http://anond.hatelabo.jp/20091128043414

あのコミュニティの元祖をたどるならやはりTMNだよ。

ネタにマジレスするとさうなんだけど……最うサイトがなくなつちやつたからTMNは今さら讀めないわけだし。まあ沢渡さんは自分は所謂CSSコミュンとは無關係だと強調してをられたけど……。
どうでもいいけどこの手の「壯大な文體」だか何だかは、何なんだらう。例へばかの侍魂もこの手の文體を使つて世に出て來たわけだが――なんか好きな人がいつぱいゐるみたいで、ドキュメンタリーつぽい文章(含「ブログ」)では必ずと言つて良いほど使はれてゐる。虹裏の纏めサイトなんかでも斯う云ふ書き方は屡々使はれてゐる。書いてゐる當人は「俺とてもいい文體使つてる!」とか思つてゐるんだらうけれども、反感持つ人も多いみたい。
平成二十一年十二月三日
ポラロイド - Google ニュース
“ポラロイド完全復活”でビデオカメラなどを'10年発売 -AV Watch

平成二十一年十二月二日
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平成二十一年十二月二日
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平成二十一年十二月二日
ほんとミーシャだけ仕事してゐないな……。
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平成二十一年十二月二日
Google
檢索欄に「AA」とか入れると面白い事になるのは有名だが、ああああとかいいいいとか適當に入れても變な事になつて樂しい。ぐぐる先生はあなたの暇潰しにそれなりに附合つて呉れる。

平成二十一年十二月一日
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平成二十一年十二月一日
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平成二十一年十二月一日
毛玉さん特集。
しまむら - 黄色いガードレールの上で
日記 - 黄色いガードレールの上で
毛玉さんがみてる - 黄色いガードレールの上で
平成二十一年十二月一日
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平成二十一年十二月一日
HTML5はFlashやSilverlightを不要なものにする (1/2) - @IT

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