えと、親会社が地方新聞社なサボリーマンであるところの震源さんがうっすらとコメントを入れるのでした。を見て。例の××社長も自分にさん附けてなかつたか。
野嵜さんはやたらと
本質ばかりを強調するけれども、それは本質以外の重要事項を軽視しているということでもある。
文書というものは、文字と記号の並びによって人の考えを伝えようとするものであり、そのためには当然文字・記号が正しく使われることが必要だ。文書の書き方を軽視してよいとする理由がどこにあるというのだろう。
- (usu. foll. by to, for) pay (a specified sum), esp. regularly, for membership of an organization, receipt of a publication, etc.
- (usu. foll. by to) contribute money to a fund, for a cause, etc.
- agree with an opinion etc. (I subscribe to that).
- [I to] to pay regularly in order to receive a magazine, newspaper, etc. for a period of time
- [I;T to] to give (money) with other people in support of some good aim: She subscribes to an animal protection society.
とにもかくにも、体裁がなっていない英語の文書は、普段から英語を見なれた人やネイティブにとってひどく不格好で間抜けに見えるということを認識してもらいたいものだ。
野嵜さんにはアルファベットや記号は見えても空白は見えなかったのだろうか。と云ふ書き方は「ない」だらう。意地が惡過ぎる。きつい書き方をして相手を詰るのも、本質的な勘違ひをしてゐるのなら良いが、たかがスペースとかカンマとかの入違ひ程度の事でこんなに居丈高に詰るのは、威張つてゐると見られても仕方がない。まじかんと氏には、たかが空白の事が、英文の本質であると思はれるのだらうか。と言ふか、まじかんと氏は、英語における單語の使はれ方それ自體に何の興味もなく、ただ英單語の間の空白文字だけが氣になつてしまふタイプの人らしいが、だとしたら、まじかんと氏も物事の本質が解らない人なのだと思ふ。
「UsadaFox」。
為替介入しないと宣言すること自体が為替に対する政治的な影響であることも知らず、云々。
一方で、いわゆる機械音痴の人の場合、知らない記号やメッセージがひとたび現れただけで混乱して、作業が完全にストップしてしまう。そういう人は、良くわからないものが画面に出てくることこそが不親切だと思っている。自分の知らないもの・使わないものが見えてもそれは邪魔でしかないのだ。
わたくしは、きわめて繊細でもあれば、とりわけ重要でもある哲学の問題がいくつかあることは承認する。それらは、たとえば数理論理学の問題や、より一般的には、数学の哲学の問題のように、アカデミックな哲学のうちに、その自然で唯一の位置を占めるものである。わたくしは、今世紀にこの領域でなされた驚くべき進歩に、深い感銘を受けている。
しかしアカデミックな哲学一般にかんして言えば、わたくしは、バークリが好んで「矮小な哲学者」と呼んだ人々のもたらす影響に不安なものを感じる。たしかに、批判的な態度は、哲学の心血である。しかしわれわれは、つまらない穿鑿立てに用心すべきである。
宇宙論や人間の知識や倫理や政治哲学についての重大な問題を理解することもなく、またそのような問題を解こうとする真剣で献身的な努力もせずに、些細なことがらを矮小で瑣末な仕方で批判することは、わたくしには致命的なことのように思われる。それはあたかも、わずかの努力をすれば[わざと]誤って理解でき、また[わざと]誤って解釈できるあらゆる印刷文が、さらに[つまらない]批判的−哲学的論説を書くことを正当化してしまうかのようである。言葉の最も悪い意味でのスコラ主義が蔓延している。あらゆる偉大な理念が、言葉の洪水の中で葬り去られてしまう。多くの機関紙の編集者の傲慢さや未熟さ――かつては、哲学的文献では稀であった――が、思想の大胆さや独創性の現れであると取られているように思われる。
世論は、いかなるものであれ、非常に強力です。世論は政府を、しかも民主主義的ではない政府を倒すことができます。自由主義はこうした力を不信の念をもって考察しなければなりません。
世論は、匿名であるために責任をもつことのない力(権力)であり、したがって自由主義の観点からするならば、とりわけ危険なものです。(例えば、有色人種の排除やその他の「人種」にかんする諸問題。)ひとつの方向における対策が明白です。すなわち、国家権力を可能な限り減少させることによって、国家に対する世論の影響から生じてくる危険を減少させるということです。とはいえ、これは長期的に見るならば、個人の行動と思想の自由を保障するものではありません。世論は、制度につなぎとめられていない形態をとっているときでさえ、専制的な権力となりえます。ここから、ふたたび、国家による個人の保護を要求すること、自ら発展し成長していくような自由主義の伝統をもつ必要性が明らかになります。
世論は、無責任ではなくて、「自ら責任をもつ」という主張は――世論の誤った判断から生じる悪しき結論は、誤った意見を主張している当の人びとにふりかかってくるという意味で主張されているわけですが――再度言いますが、世論の集団性についての神話の一形態にすぎません。なぜなら、ある市民集団のおこなう誤ったプロパガンダは、あまりにも容易に他のすべてのグループを害してしまうことがありうるからです。
ここでは、広く行き渡っているが危険な哲学的先入見のいくつかの例に触れておきたいと思う。
人生についての、極めて影響力の強い哲学的見解がある。それは、この世で何か悪いこと(あるいは極端に望ましくないこと)が起こったら、それは誰かのせいであり、誰かがしかも意図的にそれを行ったからに違いないと見る見方である。この見解は、たいへん古くから存在する。ホメロスにおいては、トロイの前の戦場や都市そのもので起こったほとんどの悪しき出来事は、神々の嫉妬や怒りのせいであった。そしてオデュッセイアの彷徨は、ポセイドンのせいであった。のちのキリスト教の考えでは、悪は悪魔のなせる業であった。そして通俗的なマルクス主義では、社会主義の到来と地上における楽園の樹立を妨げているのは、貪欲な資本化の陰謀であった。
戦争や貧困や失業は悪意や腹黒い計画の結果であるという理論は、常識の一部ではあるが、批判的ではない。わたくしは、常識の一部となっているこの批判的でない理論を、社会の陰謀理論[社会は陰謀によって動かせるという理論]と名づけた。……。
……。
哲学的な先入見のもうひとつの例は、人の意見は常にその利害関心(Interesse)によって規定されるという先入見である。この理論は(理性は情念の奴隷であり、またそうであるべきであるというヒュームの学説の退化した形態であると診断することができるだろうが)、原則として自分自身には適用されないのである(われわれの理性にかんして謙虚さと懐疑を教えたヒュームは、彼自身の理性を含めてこれを適用したのだが)。むしろそれは、ふつうはほかの人に、とくにわれわれと意見を異にする人たちに対してのみ適用される。しかしこれでは、新しい見解に寛大に耳を傾け、真剣に受け取ることの妨げになろう。なぜなら、その新しい見解をその人の「利害関心」によって説明し去ってしまうことができるからである。
しかし、こうなってしまうと、合理的な議論は不可能になる。われわれの自然な知識欲、物事の心理に対するわれわれの興味関心(Interesse)が萎縮してしまう。「このことがらについての真理は何か」という重要な問いが、「君の利害関心は何か、君の意見はどのような動機によって影響されているのか」というそれほど重要でもない問いに置き換えられてしまう。かくしてわれわれは、われわれとは異なる意見を持つ人々から学ぶことができなくなる。われわれの共通の合理性に基づく、国家を越えた人間理性の統一が壊されてしまうのである。
これと似たような哲学的先入見に、合理的な議論は根本的なところで一致している者のあいだでしか可能ではないという、現代では異常に影響力の強いテーゼがある。この有害な理論によれば、根本[前提]についての合理的かつ批判的な議論は不可能であるとされる。ここから以前に論評された理論と同じように、望ましくないニヒリスティックな帰結が生じてこよう。この理論は、多くの人によって主張されている。それを批判することは、多くの職業的哲学者にとっての主要な領域のひとつとなっている、認識論という哲学の領域に属する。
例え特定の誰かに向けた表現があっても、共有した方がいいと思う情報はwebにアップする。特定の相手だけに伝えたい情報はメールを送る。
本文と問題文をあわせて問題作成者がひとつの主張をしているのが受験現代文なので「作者の心情を答えよ」という問題は二つの問いに分解することができます。ひとつは「作者は何を伝えようとしているのか答えよ」で、もうひとつは「私(問題作成者)はいま何を問おうとしているのか想像せよ」です。これが本当に作者に聞いて「締め切り寸前で死にそうだった」と言われて、そう書いたとしてもハズレになる理由です。
これは数学など他の教科でも同じです。東大のように円周率 3 になったときに学生に本質を理解させようとした例が実際にあります。そこまで明確でなくとも、多くは学生を見ていて「あぁ、今年の学生は三角関数が理解できていないな。三角関数の問題は入れておこう」という発想で問題ができあがってゆくと思うのです。学校との相性を知るのに入試問題は格好の材料ですよね。
同義語だとあるが、誰が書いたか知らないが、違ふぞ。祭祀は宗教だと簡單に斷定してゐるが、全然違ふ。殊に對立概念としての「政治」と云ふものを置いて考へる時には、祭祀と宗教とは區別しなければならない。もちろん、さう云ふ區別をしたくない・したら都合が惡くなる立場の人が編集をやつてゐるから、こんな事になる。
という風に散々熱くなってたわけだけれども、そういう醜態を晒してフンガーフンガー息巻いてる僕を見かねてか、るりさんに「で、これってどっかからリンクされてんの?(→君は運営の意図という所を邪推してすごく気にしてるようだけど、どこからもリンクされてないんだったら、少なくとも運営は大々的に公開したがってたわけじゃないと判断できるんじゃないの? だとしたら君が怒ってるポイントは的外れってことになるよね? という風なニュアンスで)」と言われたり、kotarokさんに「noindex,nofollowになってるけど?(→だから、これをこうして無関係の人が見てる状態というのがそもそも運営の想定外の事態なんじゃないの? それじゃ非公開に全然なってないよねっていう事実はあるけど、それは別の問題だよね? という風なニュアンスで)」と言われたりして。それで渋々ソース見てみたら、確かに検索避けの指定が入ってて、そこで一気に熱が冷めまして。
ご出演される方へ | CSS Nite
ttp://www.cssnite.jp/archives/4speakers.html
が丸見えって・・・
HTML4やXHTML1は「文書」の作成が目的だった。HTML5では新たに「アプリケーション」が加わる。
民論輿論といふ語は、昔の通り又は書物の通りなのは名目だけで、用心をせぬと此の中にも無茶な宣傳が隠れ潛んで居ます。これにつけても新聞に從事する者の大なる責任は、感ぜずには居られません。
英國は新聞投書の實に盛んな國で、又社説の態度の最も鮮明な國であります。而も昨年九月の末、私が通りすがりに參つた頃、二三の英國人は斯う言つて歎息してゐました。曰く此頃のやうに輿論の新聞に反映せぬ時代も珍しい。此が爲にどの位國民は大きな不安を感じてゐるか分らぬと。實際あの時分の新聞には、いくら熟讀して居ても、其後の政變を推察し得る材料はなかつたやうです。三月後の勞働内閣出現は申すに及ばず、二月後の議會解散までも、其時分の讀者には露ほども豫想が出來なかつたのであります。
飜つて我邦の實状はどうかと申しますと、こんな事は殆ど常態と謂つてよいのです。世間も又略之を承知で、東京などでは政治通と言はれるやうな人は、明けても暮れても新聞に出ないニウスをあさりまはり、尾鰭を附けて之を人に話しますから、世間の噂話と、之に伴ふ動搖が絶えぬのであります。
此調子では、安心して普通選擧の世の中に臨むことは頗る六かしい。願くは公衆の隠れたる感覺を以て、徐々に且つ實着に、此の如き惡い傾向を改めて貰ひたいと思ひます。實際どんな新聞を見ても、其購読者の多數が無意識に編緝して居る部分が、存外に大きいのであります。從つて國々に國の新聞の特色があり、英の新聞と米のそれとは同じ英語でも一目で判別し得られます。
今若し日本の青年にして、昔のやうに諷刺を愛し逸話の類を好み、恰も江戸時代の落首文學や秀句文學の如き短評に隨喜してゐる間は、到底澤山の政治生活の新材料を新聞から收穫することは六かしからうと信じます。流言蜚語に由つて新しい政治の理想を妨げられざらんが爲には、理由を附した落付いた意見を公の機會に提供し、且つ留保無く勇氣を以て互に之を批判せねばなりませぬ。
此方面にはまだまだ未開地が中々廣いやうに思ひます。(終)
だが、わたしの論ずるところは、もっと広汎なものでもある。諸科学の精神的エネルギーと思弁形式を、教養ある能力に・想像力の通常の生活に《編入すること》――これらの形式の風味と美とを肉化すること――こそ、われわれの文化の残された問題のなかでも、際立って大きな問題なのだ。半教養という浮草のような倦怠感から脱出したいのなら、たとえまだ大半が《想像にとどまる》もの・または類推にとどまるものである場合さえ、この《編入》を試みなければなるまい。本論集に収めた論文のひとつは、とくにこのテーマに本気でとりかかろうとしている。うるさいようだが、この論の宗教的形而上学的背のびをしりぞけたところで、べつだん堅実さを誇れることにはならない、とわたしは信ずるものである。言語の産出と条件とについて語ることは、とりもなおさず、人間の産出と条件とについて語ることだからである。
我々が犯す誤り――は、科学においては、本質的に言って、真でない理論を真と見なしてしまうという点にあります。……したがって、誤り、誤謬との闘いとは、客観的真理を探究することであり、真でないものを発見して取り除くためにあらゆることをおこなうことです。これが科学的活動の課題なのです。したがって、こう言っても良いでしょう。科学者としてのわれわれの目標は客観的真理、つまり、より多くの真理、興味深い真理、よりよく理解可能な真理である、と。確実性が合理的な仕方でわれわれの目標になるといったことはありえません。人間の知識は誤りうるということが洞察されている時には、誤りが犯されなかったかどうかという点にかんして決して確信をもてないことも洞察されているのです。これはまた次のように定式化することもできるでしょう。
不確かな真理――それどころか、われわれが偽と見誤っている真なる命題――さえが存在するが、不確かな確実性といったものは存在しない。
われわれは、およそ確実に知ることなどできないのですから、確実性を探求することは、まさしく割に合わないことになります。割に合うのは、真理を探究することです。そして、われわれは主として、誤りを訂正するために、誤りを探究するという仕方で真理を探究するのです。
科学的知識、すなわち科学的知は、ですから、いつでも仮説にとどまります。それは推測知なのです。そして、科学的知識の方法とは、批判的方法です。それは、真理探究に、従って、真理に奉仕する、誤りの探求と誤りの排除の方法です。
当然のことですが、わたくしに対しては、カントが「古くからの名だたる問い」と呼んだ問い、すなわち「真理とは何か」という問いが投げかけられることでしょう。カントは(884ページにわたる)その主著で、この問いに対して「真理とは、知識とその対象との一致である」(「純粋理性批判」第二版八二、八三ページ)ということ以上に答えることを拒否しています。わたくしもまったく同じように、理論とか命題は、その理論によって記述された事態が実在と一致するとき、真である、と言おうと思います。またこれに、次の三点を付け加えておきましょう。
- 一義的に定式化されたすべての言明は、真か偽である。そしてそれが偽であるときには、その否定は真である。
- したがって、偽なる言明と同数の真なる言明が存在する。
- こうした一義的なすべての言明は(それが真であるかどうかは確実には知られないとしても)、真であるか、あるいはその否定が真である。ここからして、真理を安全なあるいは確実な真理と等置することは間違いである。真理と確実性は鋭く区別されなければならない。
あなたが裁判官の前に証人として呼び出されたとしてみましょう。あなたは真実を語ることを求められているわけです。そして、あなたは、当然のことながら、この要請、すなわち、あなたの言明が事実と一致すべきであり、あなたの主観的確信によって(あるいは、他の人間によって)影響されるべきではないことを理解しているものとみなされています。もしあなたの言明が事実と一致しないのであれば、あなたは嘘をついたか、誤りを犯したことになります。しかし、あなたが「いいえ、わたくしの言明は真です。なぜなら、わたくしが真理ということで言わんとしているのは事実との一致とは別物のことなのですから。アメリカの偉大な哲学者ウィリアム・ジェームズの提案にしたがえば、私の言っているのは有用性ということです。あるいは、ドイツやアメリカの多くの社会哲学者の提案にしたがって言えば、真理とは、社会とか、多数者とか、わたくしの属する利害集団とか、あるいはおそらくテレビとかが受け容れたり宣伝したりしているものなのです」と言ったとすれば、あなたに賛意を示すのは、哲学者――いわゆる相対主義者――のみでしょう。
『「真理とは何か」という古くからの名だたる問い』の背後に隠れている哲学的相対主義は、欺瞞に満ちた扇動への門扉を開くものです。相対主義を主張する多くの者たちは、この点を見抜かなかったのでしょう。しかし、彼らは、それを見抜くべきであったし、また見抜くことができたはずだと言えます。バートランド・ラッセルは見抜いていましたし、また同じく『知識人の裏切り』の著者ジュリアン・バンダも見抜いていました。
相対主義は、知識人たちが犯した数多くの犯罪のうちのひとつです。それは、理性に対する、そして人間性に対する裏切りです。ある種の哲学者たちは真理に関する相対主義を説いていますが、それは、思うに、真理と確実性の観念を混同しているからなのです。と言いますのも、確実性には、実際のところ、程度があると、つまり、多かったり少なかったりする確かさがあると言えるからです。確実性とは、いつでも問題になっている事柄に依存するという意味で相対的なものです。ですから、ここでは真理と確実性の取り違えが生じていると思われるのでして、それはまた多くの場合に指摘できることです。
こうした類のことは、法の理論(法学)および法の実践にとって大きな意味を持ちます。……。
今までお話してきたことから、わたくしに対してまたしても「実証主義者」とか「化学主義者」といったレッテルが疑いもなく貼られることでしょう。それがいったい何だと言うのでしょう。こうした表現が侮辱語として用いられているときでさえ、それは何でもありません。しかし、そうした言葉を使っている人たちが、自らの語っていることについて何も知らないか、あるいは事実を歪曲しているとすれば、それはわたくしにとってやはり意味のないことではありません。
わたくしは、科学を尊重しますが、科学主義者ではありません。なぜなら、科学主義者とは科学の権威の教条的信奉者のことだからです。私はいかなる権威も信じることなく、独断主義とはいつでも闘い、またいたるところで、とりわけ科学のなかで闘ってきました。わたくしは、科学者は自己の理論を信じねばならないというテーゼに反対するものです。ことわたくしにかんして言えば、E・M・フォスターが言っているように、「私は信念を信じない」、そしてとりわけ科学において信じていません。私が信じているのはたかだか倫理における信念だけであって、しかもここでもまた若干の場合においてのみです。たとえば、わたくしは、客観的真理がひとつの価値であること、したがってひとつの倫理的価値、おそらく最大の価値でさえあると信じていますし、また残忍さは邪悪の最たるものであると信じています。
またわたくしは実証主義者でもありません。なぜなら、わたくしは実在を信じないこと、そして人間や動物の苦しみのもつ限りない意味を信じないことは、そしてまた、人間の希望や善意が実在し意味をもつことを信じないのは、道徳的にみて誤りであると考えるからです。
なんでこういう嫌らしいエントリを書いて晒し上げにするわけ? メールで連絡してなしのつぶてだったら初めて晒すのでも十分なんじゃないのか? 的な批判を裸電球さんからいただきましたので改めてよくよく考えてみましたが、とPiro氏は述べてゐるが、「裏工作」を行ふ事の問題を、批判者の人が一切考慮してゐない事を、私は極めて危險に思ふ。私にしてみれば、斯うしたエントリをPiro氏が公開したのは、公明正大でたいへんすがすがしい事だと思ふ。裏でこそこそとやりとりをして、それが不成功に終つたからと言つて、嫌がらせの爲に「晒す」と云ふのを、裸電球なる人は「とてもよいことだ」と思つてゐるのかも知れないが、私には、それこそ、嫌らしい事だと思はれる。「間違つた事をやつたのだから、罰を與へてやる・お灸を据ゑてやる」といつた、高慢な態度を、一般に人は「とるべきでない」と私は思ふ。Piro氏のは、さうした高慢な態度ではなく、被害者としての抗議であるわけで、それを「嫌らしい」と思ふ感性が、私には理解出來ない。今の時代、被害者を嘲る冷酷さが一世を風靡してゐる(?)が、本當に良くない事だと思ふ。理由があれば冷酷に振舞つて良い、と云ふ發想だけは、認めてはならない。
So-Ten-Ken2009春号掲載写真について -09.10.16
個人的には「けまらしい」はそう悪い言葉じゃないと思う。従来の語彙ではうまく表現できなかった感情を指し示す言葉だから、屋上屋を架しているものではない。伝統的な言葉を意味もなく殺し、文化の断絶を招くといった弊害がないでしょう。
永井さんが説明するように、相対主義とは、相対主義を絶対視するという意味では、絶対主義なんです。その水準では。だから絶対主義を100%完全に否定する相対主義はない。でも、前述のただ1点を除けば相対主義なんだから、ほとんどの問題については、絶対主義と対立することになります。
由来、表現は、主観と客観との対立を前提し、主観を客観に投射したときの、その客観の性格、いいかえれば主観の意味を宿した客観であると解されてきた。所謂「花笑い鳥歌う」の表現がそれであって、理論的には感情移入説の技巧を以てこれを説明した。感情移入説には種々の批判が加えられたが、その批判そのものの立脚地も、所詮は感情移入説の範囲を出るものではなかった。
しかるに最近における表現理論の精錬というのは、この立脚地を根柢的に動かしたものであって、主観と客観との対立以前にかえり、むしろ客観を奥へ奥へと表現の主体を求めて、ついに形而上学的実在に到達し、この実在の表現活動の尖端に、人間的主観を位置づけようとする見方なのである。従来は、花笑い鳥歌うのは、人間の体験を自然に附与したものと解したのに対し、いまや吾々は自然そのものの表現が花笑い鳥歌うのであって、人間的体験そのものが、既にして自然の表現性の最も勝義の発現であると見るのである。端的にいえば、吾々は敢て「表現する自然」を考えるのである。
しかし、いかにしてこのことを云い得るか。近世観念論の洗礼を受けた以上は、この陳腐なる定石的質問を予想しなければならぬと共に、答えるに容易ならざるこの反問のために、哲学は観念の領域内の粉飾を事として、実在の消息を見誤ったものと云い得るであろう。
吾々の主観の外にある自然が表現するとは、いかにして云い得るか。自然が表現するというとき、その自然は既に吾々の主観によって爾か解釈されているのではないか。この反問に答えるために、吾々はこの反問を逆に遡って見るより外はない。ただ、ここにはこの道程の曲折を辿るのが目的ではないから、簡潔にその骨子を述べるに止めたい。
さて一つの「もの」を対象として立て、その如実の構造を解明するのが認識の立場であって、そのときの主観がカント的な認識主観乃至意識一般であるが、それは「もの」を対象化しているかぎり、「もの」の外に立っている。対象が全自然であっても、なおその外に立ち得るのが認識主観の権能であって、カントはこれを以て自然への立法者とし、ヘーゲルは世界を思念する主観は世界を自己のものとすると考えた所以である。しかし自然へ立法し、世界を我がものとする認識主観は、そのことによって対象を主観化するのではなく、かえって最も客観的に、その法則性を把握しているのである。認識の普遍妥当性はそこに成立するのであって、これは認識主観が主観性を極小にした主観としての意識一般であることに基くのである。
かようにして認識の立場は、対象の客観的把握を以て本来の使命としているが、しかしそこに認識が成立しているかぎりは、そのかぎりにおいての主観性を脱却しているとは云い得ないのであって、それはいかに認識主観といえども具体的には経験的主観に担われて存在するより外はないことによって、またいかに意識一般とはいわれても、なおそれが意識であることによって、免れ難い制限である。別の面より見れば、認識主体の描く世界像が、なお像であり、仮説であることによって、このことは明かであろう。主観が客観の外に立ってこれを観る「主ー客」関係において、その関係が肯定的であり、相応的であるかぎりにおいて、認識は成立する。認識論とはこの関係の説明であって、客観に優位を置いて、主観が客観を映すと見るのがその一極であり、主観に優位を置いて、主観が客観を構成すると見るのが他の極である。認識論上の種々の立場はこの両極の間にあって、そのいづれかへ、何ほどかの程度において傾いている。傾いてはいるが傾くことが主旨ではなく、根本において「主ー客」の相応を如実に説明しようとする。もしこの相応が破れるならば、そこに認識の限界に撞着せざるを得ない。ものがあって、これを主観に映すと考える模写説においては、映したものが主観性に左右されて物の真相でないことより相対主義に傾き、主観によって対象を構成すると考える構成主義においては構成したものが像であって物自体でないことにおいて、認識の限界を自覚せざるを得ない。
しかし、これらの自覚は認識の領域内において、「主ー客」の相応関係を肯定しながら行われた自覚である。認識主観は客観の外に立ってこれを見るものであるが、かかる関係そのものがいかにして可能であるかは、認識の立場自体からは根本的に反省されないままに残っている。しかし認識の立場が客観を主観化するものでなく、その如実の相において捉えることを本旨とするならば、認識主観の自覚は、およそ認識の事態そのものに対して向けられなければならぬ、物を認識するということは、物が存在するということではないのである。吾々は物を認識してのみ、その物の存在を立言し得るけれども、しかし認識主観は、物が意識においてのみ存在するのではないと観る意識なのである。この意味において認識主観は自己矛盾を含む。主観性を極小にした主観であるといった所以である。しかもこの極小の主観性をなお残すかぎりにおいて、客観と主観との相応関係が肯定され、そこに認識を成立させるのであるが、認識の事態が存在の事態ではないと観ることによって、吾々はこの相応関係そのものを原理的に反省するに至る。カントもこの反省に至ったが故に、認識によって成立した経験界と別個に物自体の世界を相定した。ただカントはこの二つの世界を二元的に放置したが、それはカントの反省が認識主観の主観性を極小にまで精錬したに止まって、この極小の主観性をも更に一擲するに至らなかったからである。認識主観は対象の外に立ってこれを観るものであったがひとたび認識の事態より存在の事態に眼を転ずるならば、認識主観もまた存在の世界に座を占むるより外はない。認識主観が、その極小の主観性をも一擲するというのは、認識主観のあるべき場所が存在の世界より外にはないと観るときである。このとき客観の外にあった認識主観が客観の中に帰入する。それと同時に客観は内に主観を含み、対象は内に意識を宿すことになる。いままで、意識は対象の外に立って対象を映すと考えられたが、ここに至って対象は内に意識を含んで自己が自己を映すと考えられる。自己が自己を映すということ、これがほかならぬ「表現」である。
内に主観を含む客観、自己意識的な対象、それが具体的な「もの」であって、「もの」の自己表出が表現にほかならない。具体的な「もの」の表現作用の、いずれか一面の抽象によって、「主観ー客観」、「意識ー対象」などの別が措定されるに過ぎない。かかる「もの」を私は従来「能産的自然」と呼んで来た。人間はこの能的自然の勝義の表現性をなすものにほかならない。大局的にいえば、文化は自然の表現である。人間が自然に対立して、人間的意味を自然に附与することによって表現が成立するのではなく、人間存在そのものが自然の表現として成立しているのである。自然の表現の触手として、人間は動いている。
自然が表現するということが何故に云われ得るかは、それ故に、人が「物」に行くことによって直証されるよりほかはない。人がものに行くとは、人がものになることであるから、それは感情移入的に行われると解されるかも知れないが、感情移入説の主眼は、人がものになるのでなく、物を人に化するのである。人がものになるには、人がおのれを無にしなければならぬ。従来の哲学理論において主観性の純化を説いたのは、いずれもおのれを無にする道程を分析したものであって、さきに触れたとおり、認識主観が主観性を極小にした主観であるというのも、その証左である。けれども、そこに先見的自己を立て意識一般を説くかぎり、主観性は極小であっても無になってはいない。真に自己を無にしたときは、自己は対象と対立するものではなく、従って既に対象を持つものではない。しかし、そのときは何等の立言も可能となるのではないか。故に「言詮を絶す」という。が、「言詮を絶す」という立言もまた不可能ではないか。それもその通りであろう。けれども、吾々はこの種の反問が既に詭弁的であることに注意しなければならぬ。吾々の論議の内実は、先見的自己のごときものを立てて対象を構成するという見方と、その先見的自己すらが既に対象の内にあり、いわば対象そのものの自覚点であるとする見地との間に、原理的差異のあることを指摘するにある。
……。
既存の言葉では表せない新しい概念が生まれた時にそれを表す新しい言葉が作られるのは理解できる。しかし既存の言葉で表せるものにわざわざ新語を与えるのはいかがなものか。
本書は、著者が十七年前の舊著……を、その後、世にいでたる研究資料……によつて、補正しまた論證を加へたものである。舊著は、著者が、未だこの方面の學問を、生涯の仕事としようとの決心もつきかねてをつた時分、かつまた、世界大戰の犧牲となつて廢刊した、横濱の一外字新聞の飜譯記者を主な職として、殆ど全き一日の休暇をも有しなかつた、閑のない生活状態の間に試みた研究とて、資料の聚集とて十分でなく、かつ、習作らしいところが脱しかねてをり、今日十分に改めようとすれば、或は全く書換へねばならぬと思はれるが、今はその暇も有しないから、今囘の改訂も、大概の論旨や結構は、つとめてそのまゝとして、たゞ部分的に之を試みた。なほまた、新資料の使用も、それによつて諸々の事實の誤を正し得たものは、固より、なし得た限りこれを爲したが、當時十分な資料なくして下した見解の、新資料の提供によつて、論證されたやうなものに對しては、努めて原形を維持して新資料を補註するにとゞめた。けだし、或程度の資料によつて(思ふに、資料は決して完全を、期し得べく又待つべきものでない)、正當な結論に逹するといふことにこそ、歴史的研究の主たる學問的意義は、存すべきからである。……。
永井さんが説明するように、相対主義とは、相対主義を絶対視するという意味では、絶対主義なんです。その水準では。だから絶対主義を100%完全に否定する相対主義はない。でも、前述のただ1点を除けば相対主義なんだから、ほとんどの問題については、絶対主義と対立することになります。
なお、メール機能やマイ・オークションなど、個人の情報や設定に紐付くサービスや、
アップルストアでオシャレな会場で開催される本来のCSS Nite(ですよね?)には初めて参加したけど、実にけまらしいというか、いてるだけで何故かイライラしてしまいました。
議論の面白さの本質は、異なるテーゼが、ぶつかり合った結果、止揚されることであり、相手を言い負かすことではない(と自分は思う)。だからこそ、勝つことだけが目的になるようなディベート型の議論は、やってて面白くないし、やりたいとも思わない。
斯うした下らない言爭ひすらも「議論」の一種だと勘違ひしと私は書いてゐるのだし、それが私の言ひたい事の核心なのだから、先方だつて私の言つてゐる事を「誤讀」してゐるのだ。
人間のやることに完璧などあり得ないと雖も、昭和21年の憲法改正は、外形的にも極めて瑕疵が多く、法治の原則からして、これを認めることは、非常に問題であると言はざるを得ない。