制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
テーマ・主に扱ふ事柄・ネタ
日本人論、政治主義批判、國語國字改革批判、虹裏(img)、深夜アニメ、古本、謎キャラクターによるコント、蟲。粘着アンチ問題。その他。

闇黒日記


平成二十一年十一月三十日
http://d.hatena.ne.jp/jonathans/20091129/1259505254
毛玉さん。
平成二十一年十一月三十日
HTML5の空要素タグの文法 - 徒書
平成二十一年十一月三十日
自分に「さん」を附けるのつて、流行つてるの? fankee_jrさんは醉つ拂ひだよ。みたいな。
酒も呑んでないのに醉つ拂つてゐる人が多過ぎる。
2009-12-03追記。毛玉さんとは關係ない。新聞をどのように見せるか - カナかな団首領の自転車置き場えと、親会社が地方新聞社なサボリーマンであるところの震源さんがうっすらとコメントを入れるのでした。を見て。例の××社長も自分にさん附けてなかつたか。
平成二十一年十一月三十日
内外タイムスが自己破産へ - Google ニュース
大型倒産速報 | 帝国データバンク[TDB]
buzztter - 内外タイムス
平成二十一年十一月三十日
Re: 闇黒日記平成二十一年十一月二十九日: まじかんと雑記

野嵜さんはやたらと本質ばかりを強調するけれども、それは本質以外の重要事項を軽視しているということでもある。

字音假名遣の高崎氏もこの手の「論理」を振りかざすんだけど、何うかしてゐると思ふ。
本質以外の重要事項と言つてゐるけれども、重要でも何でもないものなんだよ。そもそも空白文字どころか言葉それ自體ですら重要ではない。ポパーがさう言つてゐる。議論において、文章の空白が何うとか、言爭つても、全然建設的ではないだらう。
野嵜の言つてゐる事が根本的にをかしくて、野嵜の愚かさ・頭の惡さを強調する爲に、まじかんと氏は、レトリックとして、「空白の遣ひ方がをかしい」と言つてゐるのか。

文書というものは、文字と記号の並びによって人の考えを伝えようとするものであり、そのためには当然文字・記号が正しく使われることが必要だ。文書の書き方を軽視してよいとする理由がどこにあるというのだろう。

野嵜の引用が全く理解出來ない・論理的にをかしい、と言ひたければ、さう言へば良いのだが、まじかんと氏がそんな事を言ふ事は絶對に出來ない。なぜなら、まじかんと氏は、空白文字やら何やらの配置がをかしくても、野嵜の引用した文章が理解出來なかつたわけではなく、何の問題もなく正しく理解出來てゐるからだ。ならば、空白文字が何うの斯うのと激しく言募り、罵るのは、何の意味もない揚げ足取りでしかない。
松原正氏が西尾幹二とかの惡文を散々こけにしたのは、西尾氏の言つてゐる事が出たら目であつたから。文章自體がぐだぐだでナンセンスなのを指摘すれば、その内容のナンセンスなのも明かになる。さう云ふ意圖が松原氏にはあつた。けれども、今のまじかんと氏の、空白文字が何うの斯うの、と云ふ指摘は、精々「きちんと書いた方がいいよね」程度の事でしかない。「よりよい書き方」を忠告する事ならばいいよ。でも、それなら、そんなに居丈高に非難しなくてもいいでせう。「明かな間違ひ」を非難するのと、「よりよい書き方」を示して忠告するのとでは、書き方を變へた方がいい。

平成二十一年十一月二十九日
おなかすいたな……。
20091129Gomoku.gif
平成二十一年十一月二十九日
「購読」に違和感 - 枝葉末説@ことのはぐるま
Pocket OxfordとLongman Active Study Dictionaryによれば……。
    • (usu. foll. by to, for) pay (a specified sum), esp. regularly, for membership of an organization, receipt of a publication, etc.
    • (usu. foll. by to) contribute money to a fund, for a cause, etc.
  1. agree with an opinion etc. (I subscribe to that).
  1. [I to] to pay regularly in order to receive a magazine, newspaper, etc. for a period of time
  2. [I;T to] to give (money) with other people in support of some good aim: She subscribes to an animal protection society.
日本語の「購読」は、正しい譯だと思ひます。
寧ろ、原語のsubscribeの使ひ方がをかしい。と言ふか、インターネットでは新しい概念を表現する譬喩的な用語がどれもこれもみんなをかしい。
平成二十一年十一月二十九日
日本人はもっと英語の書き方に気を付けるべし: まじかんと雑記
神經質過ぎると思ふ。

とにもかくにも、体裁がなっていない英語の文書は、普段から英語を見なれた人やネイティブにとってひどく不格好で間抜けに見えるということを認識してもらいたいものだ。

さう云ふ處で「不恰好」だの「間拔け」だのと云ふ感想だけを抱く知的エリートのインテリこそ、批判されるべきだと思ふ。
と言ふか、この手の主張は、「マナー」「礼儀」の類を主張してゐるのと何も變らない。「正しい日本語」の類と同じ。
それに、野嵜さんにはアルファベットや記号は見えても空白は見えなかったのだろうか。と云ふ書き方は「ない」だらう。意地が惡過ぎる。きつい書き方をして相手を詰るのも、本質的な勘違ひをしてゐるのなら良いが、たかがスペースとかカンマとかの入違ひ程度の事でこんなに居丈高に詰るのは、威張つてゐると見られても仕方がない。まじかんと氏には、たかが空白の事が、英文の本質であると思はれるのだらうか。と言ふか、まじかんと氏は、英語における單語の使はれ方それ自體に何の興味もなく、ただ英單語の間の空白文字だけが氣になつてしまふタイプの人らしいが、だとしたら、まじかんと氏も物事の本質が解らない人なのだと思ふ。
平成二十一年十一月二十九日
「讀」の右側は「賣」じゃない: まじかんと雑記
別に今さら何うでも良いと思つてゐたから突込まないでゐたけれども、これ、書き方拙いよ。だつて、閲覽者側のフォントによつて、まじかんと氏の説明、意味をなさなくなる可能性があるから。
昔、内田さんと舩木さんとの間で起きた「騷動」があつて、この界隈では有名な話なんだけれども、ウェブの文書は、テキストである限り、閲覽者の使用するフォントによつて表示が變るから、テキストベースで字形だか字體だかの話をするのはナンセンス、と云ふ事が明かになつてゐる。
新字と正字の對照表騷動覺え書き
對照表騷動:舩木の辯明
もちろん、今から考へれば「神經質過ぎる」と云ふ類の話ではあるのだけれども、神經質に話をするならこの程度の事は意識しておいていい。
平成二十一年十一月二十九日
長距離・超高速インターネットを用いたファイル転送速度の世界記録を達成

平成二十一年十一月二十八日
HTML5はFlashやSilverlightを不要なものにする (1/2) - @IT
プラグインの機能をブラウザが自前で持つ、と云ふ事になるだけなんだらうけれども、逆に言へば「HTML 5 プラグイン」なんてものを作つてもいいわけだ。
と言ふか、既にGoogle Chromeのプラグイン版なんてものがあるし。
窓の杜 - 【NEWS】Google、IEを“Chrome”相当へ強化するプラグイン「Google Chrome Frame」を公開
平成二十一年十一月二十八日
結局、HTMLが「プログラミング言語」になりつゝある、と云ふ事だ。
昔は「HTMLはプログラミング言語」なんて言つたら嗤はれたものだが。
平成二十一年十一月二十八日
Chrome登場でダウンロード2割増! Opera創業者に聞いた − @IT
平成二十一年十一月二十八日
科學の分野での事業仕分けが隨分問題になつてゐるが、何とも惠まれてゐる事だと羨ましく思ふ。何と言つても、まだ必要・不必要の論議が可能なほど、内容があるのだから。
國語の領域だと、既に漢字と假名遣ひの簡略化が實施され、最う仕分ける程の價値もないほどにまで国語行政は貶められてしまつてゐる。今の文部官僚なんて、ゐてもゐなくてもいいくらゐ、存在意義がない。特に、国語行政を擔當する官僚なんて、ただ害毒を垂れ流してゐるだけだ。天下りではないが、元官僚が本を出して、国語改革禮讚の風潮を作り上げてゐる。これなんか、官僚支配の最惡の形だが、金が絡んでゐない爲に全然問題にされてゐない。
新漢字表作りなんてものも仕分けの對象にされて潰されればいい。あんなの、それこそ、やつても何の意味もないものだ。今さら国語弄りなんてやつて、それで何うしようと言ふのか。敗戰直後に國語はぐだぐだに破壞されてゐるので、今、何う弄つたところで、何うなると言ふものでもない。破壞される前に元に戻すのなら意味はあるが、今やつてゐるのは、破壞した後でがらくたを積んだり崩したりして遊んでゐるやうなものだ。新漢字表には何の意味もない。存在する價値もない。
豫算を削りたければ、文化庁だか国語課だかを潰せばいい。国語行政なんてものは、あつても意味がない。漢字表だのかなづかひだのの規定も、無駄だから、廢止すれば良い。教科書検定の類も、無駄だから、やらない方が良い。文部科学省の存在それ自體が無駄だ。少くとも、国語行政を擔當してゐる連中は、全員、首を切つた方が國の爲になる。過去に国語行政にかかはつた人間が本を出すのも、有害だから禁止すべきだ。
しかし、日本人は官僚支配が好きだから、元文部官僚が書いた本を鵜呑みにして、国語改革万歳を叫んで、喜んでゐる。日本人は官僚が大好きなのだ。
平成二十一年十一月二十八日
NHK→TBS→キッズステーションでモーニング・グローリー三連續吹いた。

平成二十一年十一月二十七日
改造Firefoxで日米間6.5GbpsのWebアクセス。東大が世界最速達成 -INTERNET Watch
「UsadaFox」
平成二十一年十一月二十七日
昨夜はTBSのけんぷファーとにゃんこいが四分後ろにずれて、MXの生徒会の一存とかぶる事になつたので、バックアップ用の録畫が出來なくなつた。それで急遽、一臺餘つてゐるネットブックに矢張り一臺餘つてゐるGV-MVP/RZを繋ぎ、矢張り一臺餘つてゐる地上デジタルチューナを使つて生徒会を録る事にした。
接續がコンポジットなので畫質が何うかと思つたけれども、バックアップ機のアナログ放送の録畫に比べればずつと増し。
平成二十一年十一月二十七日
【山田祥平のRe:config.sys】 Silverlight 4があればWindowsはいらなくなるの?
Microsoft Office 2007 に対する誤解をとかせていただきました。 : Microsoft Office(要Silverlight)
平成二十一年十一月二十七日
ヤシカ「EZ F521」 - デジカメWatch
長い時間を掛けたトイデジカメの集大成|EXEMODEとYASHICAのブログ
トイカメラだつたんだ。
ウェブで今のヤシカつて評判そんなに良くないけど、割切つて使ふ分には十分だと思ふ。昔のヤシカも激安のがあつて、寫りは「そこそこ」だつた。

平成二十一年十一月二十六日
類はカモを呼ぶ − セルカンカレッジ静岡に集まった人々とは
主観「だけ」で生きる社会人による残念な発言
世の中に害毒を流してゐるのは「面白主義」の人だと思ふ。何で「面白ければ何でもあり!」なんて輕薄な事を平然と言へるんだらうね。
平成二十一年十一月二十六日
為替介入しないと宣言すること自体が為替に対する政治的な影響であることも知らず、云々。
議論しないと宣言する事自體が議論に對する意見を表明する論爭的な發言であるとか、宗教は信じないと宣言する事自體が宗教的な發言であるとか。
日本人は「言はない」事が「言ふ」のと同じくらゐ意味を持つ事實に屡々氣附いてゐない。
平成二十一年十一月二十六日
かふしさんのところの文書が壞れてゐて、XML宣言の頭の<が缺けてゐるのだが、氣になる。
平成二十一年十一月二十六日
「学校裏サイト」都内公立校ののべ1155校に、都教委の監視結果 -INTERNET Watch
学校を軸につながる「mixi同級生」開始、連携アプリも提供 -INTERNET Watch
學校で繋がらなくてもいいだらうに。

平成二十一年十一月二十五日
20091125MishaJaga01.jpg
20091125MishaJaga02.jpg
20091125MishaCurry01.jpg
20091125MishaPie01.jpg
平成二十一年十一月二十五日
「機械が苦手」な人と「議論が苦手」な人とは、似て非なるものだが、共通する部分があるやうな氣がする。
「議論は苦手なので」と言ひながら平氣で話を續ける人がゐる。私には理解出來ない。議論をしながら「私は議論が苦手なので、やりません」と平然と言へるのは、一體何なのだらう、と思ふ。自分がしてゐる事が議論だと云ふ事すらも分らないらしいのだが、意見を表明してゐる時點で議論をしてゐる事は明かなのだから、自分が議論をしてゐる事實を認めたら何うか。
日本人は、議論でない御喋りが「ある」と思ひ込んでゐるらしいが、御喋りが議論である事も屡々ある。特にウェブ。ところが、意地でも議論と呼ばれるのだけは避けようとする人は、ウェブには數限りなくゐる。「私がしてゐるのは只の御喋りです。議論ではありません」――ところが、さう云ふ意見を表明してゐる時點で、その人は既に一種の議論に關與してゐるのである。
何一つ意見を主張せず、御天氣の話しかしないと言ふのであれば、それはなるほど、他愛のない御喋りではあらう。しかし、一つでも意見を述べ、反論を呼び得る状況を作り出してゐるのならば、それは既に議論を始めてゐるのだし、そこで「議論はしません」と宣言するのは、遁辭を言つて卑怯にも反論を封じ込めようとしてゐるだけである。
議論を始めながら、議論を囘避して、ただ自分の意見だけを通し、他人に無條件で押附けようとするとするのは、卑劣な事であり、惡質な事である。それが全く無邪氣に行はれるとしたら、それは益々苛立たしい事だ。
平成二十一年十一月二十五日
私が議論を押附けてゐると非難する人がゐる。しかし、その人は、議論をしない事によつて、私に結論を押附けて來るのだ。
私にしてみれば、結論の押附けこそ、許し難い事である。
議論に反對する人は、自分の意見を力づくで他人に押附けるのに都合が惡いから、議論を囘避する戰術を取つてゐる。或は、「自分は偉いから、目下の人間(野嵜)に批判されるのが、我慢ならない」と言ふのだ。差別主義者・民主主義アンチの人だからこそ、議論を囘避し、議論を否定する。それは惡い事だ。
平成二十一年十一月二十五日
批判を否定し、議論を成立たせまいとする人々の態度は大體二つに分けられる。
一つ。眞理探究それ自體を否定する價値觀を表明する。價値相對主義は勿論の事、「面白主義」もその種の價値觀である。
二つ。論者の「議論する資格」を問題にする。人格攻撃を仕掛けるのは判り易い戰術だが、批判者を「的外れ」「誤讀」のやうな言ひ方でいなすのも似たやうなものだ。
しかし、何れも根本は同じだ。即ち、何れの立場の人も、探究するに價する眞理等存在しない、と考へてゐるのだし、眞理を探究する事が許されるのは一部の特權的なエリートである、と考へてゐるのだ。
平成二十一年十一月二十五日
冬の風物詩。押しくら饅頭。
20091125Oshikura.jpg

平成二十一年十一月二十四日
HTML5 Japanese Interest Group - W3C
平成二十一年十一月二十四日
twitterの呟きをブログにダラダラ載せるな : web-g.org
自分もTwitterログはブログという媒体に載せるのはどうかと思う:徒然草:remix
どうでもいい雑記その696 : 雑記帳 : der Gegenwart
Twitterの發言を「ブログ」に轉載する事の意義を考へませうとかウェブストラテジ的に何うとか、さう云ふ言ひ方をすれば或程度は皆眞面目に考へ出すんでないだらうか。もちろん偉い人が言へば、だが。俺なんかがこの邊で呟いたところで粘着が採上げる程度の結果にしかなりさうにない。
そもそも「ブログ」と云ふ形式の「ウェブサイト」が俺は氣に入らないし、Twitterなんてものは最う「ブログ」文化の進化の袋小路だとすら思つてゐるので、自分ではやらない積りだが(「Twitterをやる」つて日本語は「あり」なのかどうか)、「やるのは勝手」「自由」と言ふのは簡單で、それで話が穏便に濟ませられるなら皆さう言つてゐればいいと思ふ。
實際、斯うした「呟き」「囀り」は、最う見る側で勝手に面白がるしかないし、書く側もさうさうセンスの良い人間許りでないから殆どがクズだらうが、クズをクズと承知で皆がやるならやればいい。それだけの話ではある。
ただ、クズの發言が公開の場に現はれる事が、結果として情報のノイズを増やしてゐるだけなら、公共の場としてのウェブと云ふものの存在意義が搖らぎかねない。
平成二十一年十一月二十四日
Twitterの呟きだかぼやきだかを纏めてコンテンツに仕立てるサーヴィスは出て來てゐるけれども、それを利用してもろくでもない結果しか出てこないやうなら、Twitterなる仕組それ自體がただのお遊び、と云ふ事になると思ふ。
情報を纏めて再利用するとか、後でさうする積りで取敢ずメモしておくとかなら、Twitterも意味はあると思ふ。
コーヒーなうとかおやつなうとか、さう云ふ事を呟いてゐてもまあいいとは思ふ。百年後くらゐにTwitterが殘つてゐて、呟きが保存されてゐれば、何らかの調査の材料になるかも知れない。
平成二十一年十一月二十四日
あと、Twitterの呟きなんかを賞賛するのは、朝日新聞の「素粒子」を賞賛するやうなもので、あんまり意味がないと思ふ。
平成二十一年十一月二十四日
Re: 闇黒日記平成二十一年十一月二十三日: まじかんと雑記

一方で、いわゆる機械音痴の人の場合、知らない記号やメッセージがひとたび現れただけで混乱して、作業が完全にストップしてしまう。そういう人は、良くわからないものが画面に出てくることこそが不親切だと思っている。自分の知らないもの・使わないものが見えてもそれは邪魔でしかないのだ。

よくわからないメッセージを出して事足れりとしてゐるプログラマや設計者の人にも責任が「ある」とは思ふけれども、「昔の人」だと本當にコンピュータはコンピュータと云ふだけで拒絶反應を起して、メッセージを徹底的に無視して「わからないわからない」と曰ふ事がある。さう云ふ人はこれから少くなつて行くんだらうか。だとしたら今の状況は過渡的なものに過ぎないのであつて、將來的にはシステムをオープンにして行く方がよいと云ふ事にならないだらうか。今は何でもかんでもひたすら匿す方向に行つてゐるやうな氣がしてならない。
けーたいやPCに慣れた人々、或は、物心ついた時には既にインターネットが存在してゐたと云ふ人々が、今後は増えて行く。さう云ふ人逹にとつて、今の「匿す」事を當り前と思つてゐるサーヴィス提供者の人々の認識は、邪魔なものとなつて來ないだらうか。

平成二十一年十一月二十三日
きなこもちくん登場。
20091123Kinakomochikun.jpg
平成二十一年十一月二十三日
http://d.hatena.ne.jp/scinfaxi/20091123/1258939837
本代で四、五十萬使つてるな……。
平成二十一年十一月二十三日
はてなブックマークFirefox拡張で新しいインターネットを体験しよう
Hatena Bookmark :: Add-ons for Firefox
はてなブックマークを便利に使えるFirefox拡張のベータ版公開
[Firefox] はてなブックマークを利用している人に便利なはてなブックマークツールバー
PC購入検討その5 : Weblog : SimpleIsm
サーヴィス提供者が、「便利」なやうにと、グローバルに公開される「はてなブックマーク」と、ローカルな環境であるブラウザのサイドバーとを「シームレス」にした所爲で、ユーザがローカル環境をカスタマイズした積りが、公開してゐるサイトのコンテンツを消してしまふ事になつてしまつた事例。
正直この種の「シームレス」化や、システムの隱蔽が、メリットになる事はないと思ふのだが、なぜか「區別できなくする」「匿す」のは良い事だ、と心から信じてゐるアプリケーションやサーヴィスの開發者、或はプログラマは非常に多い。
Windowsでも擴張子を匿して「俺いいことやつた」とMicrosoftの連中は思つたらしいが、そのせゐでウイルスやら何やらのファイルをユーザが知らずに實行する機會が生ずるやうになつた。
unixでは、ユーザディレクトリだの何だのを、何處にあるんだか全く解らないやうにして、ユーザがファイルを溜め込み過ぎてディスクを滿杯にする事態をしよつちゆう起すやうになつてゐる。
何故匿すのだらう。匿した方が親切だ、と云ふ發想があるのだが、隠したせゐで却つて不親切になつてゐるやうにしか、私には思はれない。
Macでは、マウスでメニューを操作出來るが、ショートカットキーが隠し機能として多數設定されてゐて、知つてゐる人だけが得するやうになつてゐる。これも私には非常に嫌な事に思はれる。何故オープンにしないのだらう。
物事が區別できないのも、何處に何があるのか解らないのも、何を何うすれば何うなるかが解らないのも、全部ユーザにとつては不安を惹起する事にほかならない。が、サーヴィス提供者やプログラマは、ユーザが解らないまゝ適當に操作する事を推奬してゐる。その結果が、データの喪失に繋がるのであれば、サーヴィス提供者やプログラマはユーザの不利益をユーザのメリットと僞つてゐるのにほかならない。
平成二十一年十一月二十三日
あと、なんではてなの「あんてな」は、リンクを張るのに、必ずhttp://a.hatena.ne.jp/goなる仕組をかますんだらう。CGIか何かなのだらうが、これが落ちてゐる所爲でアクセスできないと云ふ事がしよつちゆうある。はてなは意地になつてgoなるCGIをユーザに使はせたいらしいが、一體何をやつてゐるものなのだらうか。
平成二十一年十一月二十三日
はてなアイデア - リダイレクタ( http://a.hatena.ne.jp/go )を使用しない設定が欲しい
殆どのはてなユーザは、goが好きで好きでたまらないらしく、邪魔だと思つてゐる人は全くゐないらしい。
平成二十一年十一月二十三日
Opera 10.10 リリース - A blog? with Σαιτω
入れてみた。
凄く速くなつたやうな氣はするんだが……。
毎囘ヴァージョンアップ直後は凄く速くなつたやうな氣がする。使つてゐるとどんどん遲くなつて來る。何なんだらう。
あと、Opera LinkとかOpera Uniteとかは使はないんだけれども、FAQに「Opera Uniteを使はないには」のやうな説明が全く無い。使ふ事が大前提らしいが、さう云ふ押附けが嫌で嫌でしやうがないユーザがゐる事が何うして解らないのだらう。斉藤氏を始めとするOpera關係者が、この手の事の解らない人種だとは、前から非常に良く知られてゐるのだけれども、これがOperaの普及を妨げてゐる、と云つた事は「ない」のだらうか。

平成二十一年十一月二十二日
【本田雅一の週刊モバイル通信】 Microsoftが過小評価されるもっともな理由
昔も今も日本のIT業界はアメリカの業界の動向に追隨するしかない。DOS/V上陸の頃はPC-9800があつて、大袈裟に評價されてゐたけれども、ITで鎖國なんてのは全く不可能で、當時の98だつて結局のところはMS-DOSで動いてゐたから「日本のコンピュータ」であるわけもなかつた。昔のMSとIBMの關係も、今のGoogleとMSの關係も、日本人にしてみれば對立的に考へるべき必然的理由はないのであつて、所詮はアメリカの大企業が競合してゐると云ふだけの話でしかない。我々日本人にしてみれば、MSだらうがGoogleだらうが、先行してゐる企業なのであり、その動向を見定めて、何とか追隨して行く事だけを考へ・實踐して行く事が必要になる。
【山田祥平のRe:config.sys】 Microsoftのエコひいきは雲をつかむような話なのか
平成二十一年十一月二十二日
窓の杜 - 【特別企画】Googleの新OS「Chrome OS」のオープンソース版「Chromium OS」を試す

平成二十一年十一月二十一日
いつぞやのパン。
20091121Misha01.jpg
平成二十一年十一月二十一日
久々に青Gくんと再會。
20091121MishaAoG01.jpg
平成二十一年十一月二十一日
fladdict » 「何かを犠牲にするなばら、まずクオリティを犠牲にすべきだ」
今の時代は物を賣つても長い間賣り續ける事が出來ないので、一發勝負で短期間で賣切る事を目標にするしかない。となると、品質には目を瞑つて、兔に角「出す」、「出して賣切る」と云ふのが最優先事項となる。
書籍はさうした傾向が顯著で、出版社が最初の一箇月で何とか賣切る事を目標とするやうになつて久しい。それが出來ないと、商品が返品されて來て、倉庫に山積みになる結果となるからだ。殊に今は、本が出過ぎるので、一度在庫になつたら最うその本は賣れないと見なければならない。そして、在庫なんか持つてゐても負擔になるだけ・損をするだけなので、出版社は在庫にならないやう、最初の一箇月で賣切る事だけを目的とするやうになつてゐる。書籍の「雜誌化」だ。書籍の形態をしてゐても、實質的に賣り方は雜誌と變らない。さうなると、最う内容は二の次、受けさうなタイトルと薄い内容のセットでばんばん出して、取敢ず店頭の棚を占據して、購買者にアピールしようとする――以前から「文庫」が競爭を繰廣げてゐるのは、棚を確保して出版社が存在感をアピールするのが目的だが、それが最近は「新書」の舞臺を移してゐる。
とは言へ、斯うした末期的な戰爭状態は1990年代の初頭、私が本屋に通ひ詰めるやうになつた頃には既に生じてゐた事態であり――出版社は既に半世紀に亙つて非道い「戰爭」を續けて來た。依然、多くの出版社が殘つてゐるが、老舖でもそろそろ體力が盡きる頃かも知れない。小學館や集英社ですら、單獨では商品のマルチメディア展開が出來なくなつて提携してゐるやうな状況だ。今の不況が出版者に與へてゐるダメヂも大きいが、インターネットやCSといつた新しいメディアの出現がコンテンツビジネスに與へてゐる影響は極めて大きい。常識的な話だが、娯樂が増えた所爲で、個別の娯樂に關る人間はそれぞれ數を減らしてゐる。となると、細かいジャンルに群雄割據してゐる今の企業は商賣が成立たなくなつて當然。メディアを横斷して多くのジャンルに手を出しても、それぞれのジャンルで儲からなければ、事業として成立たない。今の時代、コンテンツビジネスは、コストダウンで何とかやりくりしてゐる企業しか殘つてゐない。さう云ふ状況で、ハイクオリティの商品が出て來る方がをかしいので、宣傳で消費者を「欺して」賣りつける商賣が横行するのは已むを得ない。
ただ、本當にクズな商品が賣れるわけはないので、最低限の品質を維持しつゝ、宣傳で消費者に知られる必要がある。けれども――さう云ふ話もタイトルではつたりをきかせて、極論のやうに見せかけなければ、今の時代、讀まれない。
最う商賣なんて諦めて、趣味でやるしか、いいものを作る事は出來ないのでないか。

平成二十一年十一月二十日
最初は何時ものえさやりネタだつたのだが、卵を生んでゐる風は何うかと提案された。
20091120Misha01.jpg
20091120Misha02.jpg
結果としてはいささか微妙な感じ。
平成二十一年十一月二十日
20091120Misha03.jpg
平成二十一年十一月二十日
カール・R・ポパー『よりよき世界を求めて』所收。第一三章 わたくしは哲学をどのように見ているか

わたくしは、きわめて繊細でもあれば、とりわけ重要でもある哲学の問題がいくつかあることは承認する。それらは、たとえば数理論理学の問題や、より一般的には、数学の哲学の問題のように、アカデミックな哲学のうちに、その自然で唯一の位置を占めるものである。わたくしは、今世紀にこの領域でなされた驚くべき進歩に、深い感銘を受けている。

しかしアカデミックな哲学一般にかんして言えば、わたくしは、バークリが好んで「矮小な哲学者」と呼んだ人々のもたらす影響に不安なものを感じる。たしかに、批判的な態度は、哲学の心血である。しかしわれわれは、つまらない穿鑿立てに用心すべきである。

宇宙論や人間の知識や倫理や政治哲学についての重大な問題を理解することもなく、またそのような問題を解こうとする真剣で献身的な努力もせずに、些細なことがらを矮小で瑣末な仕方で批判することは、わたくしには致命的なことのように思われる。それはあたかも、わずかの努力をすれば[わざと]誤って理解でき、また[わざと]誤って解釈できるあらゆる印刷文が、さらに[つまらない]批判的−哲学的論説を書くことを正当化してしまうかのようである。言葉の最も悪い意味でのスコラ主義が蔓延している。あらゆる偉大な理念が、言葉の洪水の中で葬り去られてしまう。多くの機関紙の編集者の傲慢さや未熟さ――かつては、哲学的文献では稀であった――が、思想の大胆さや独創性の現れであると取られているように思われる。

平成二十一年十一月二十日
パロディの本質はナンセンス化だ。ナンセンスな笑ひは健全なものだ。
一方、氣に入らない人間に屬するものを醜惡に描いて嗤ひものにしようとする人がゐる。それは戲畫化だが、敵が不愉快になるやうに・身方が快を貪れるやうに、と云ふ意圖で行はれるならば、それは明かに敵身方思考に基いた行動であり、病的である。
平成二十一年十一月二十日
はてブにコメントするくらいなら、ブログにコメントしろ!! - カナかな団首領の自転車置き場
案外皆忘れてゐるんだけれども、インターネットを通したコミュニケーションなるものは全て間接的なんだよな。發言と發言者との關係すら間接的なんだから。
――けれども、そもそも人間のコミュニケーションとは全て、間接的だ、と云ふ事實が、忘れられてゐる。面と向つて話せば「直接のコミュニケーション」と云ふ事にすらなる。けれども、他人同士が話をする、と云ふ事が、それ自體、間接的な行爲なんだよ。直接的に人と人とが接續する事は出來ない。如何なるコミュニケーションも、人の精神と人の精神が間接的に接觸するだけの事だ。人間と人間は融合する事等できないのだし、ならば人と人とは永遠に他人同士だ。さう云ふ前提で考へるならば、直接物を言ふのも間接的に物を言ふのも、程度の差でしかない。
平成二十一年十一月二十日
「Google Chrome OS」プロジェクトが公開、製品登場は2010年後半 -INTERNET Watch
平成二十一年十一月二十日
リコーGXR関連記事リンク集
製品情報 / GXR | Ricoh Japan
リコーGXRの将来性を評価する: KCチョートクカメラ日記
リコーGXR の4・3イラスト: KCチョートクカメラ日記
平成二十一年十一月二十日
350分の1スケールのプラモデル「宇宙戦艦ヤマト」を発売 バンダイが通販 - MSN産経ニュース
光るとかのギミック要らないよな。買はないけど。
平成二十一年十一月二十日
SEOに強いCMSはすべての見出しにid/nameを自動で付けるようになる | Web担当者Forum

平成二十一年十一月十九日
カール・R・ポパー『よりよき世界を求めて』所收。第一一章 自由主義の原則に照らしてみた世論

世論は、いかなるものであれ、非常に強力です。世論は政府を、しかも民主主義的ではない政府を倒すことができます。自由主義はこうした力を不信の念をもって考察しなければなりません。

世論は、匿名であるために責任をもつことのない力(権力)であり、したがって自由主義の観点からするならば、とりわけ危険なものです。(例えば、有色人種の排除やその他の「人種」にかんする諸問題。)ひとつの方向における対策が明白です。すなわち、国家権力を可能な限り減少させることによって、国家に対する世論の影響から生じてくる危険を減少させるということです。とはいえ、これは長期的に見るならば、個人の行動と思想の自由を保障するものではありません。世論は、制度につなぎとめられていない形態をとっているときでさえ、専制的な権力となりえます。ここから、ふたたび、国家による個人の保護を要求すること、自ら発展し成長していくような自由主義の伝統をもつ必要性が明らかになります。

世論は、無責任ではなくて、「自ら責任をもつ」という主張は――世論の誤った判断から生じる悪しき結論は、誤った意見を主張している当の人びとにふりかかってくるという意味で主張されているわけですが――再度言いますが、世論の集団性についての神話の一形態にすぎません。なぜなら、ある市民集団のおこなう誤ったプロパガンダは、あまりにも容易に他のすべてのグループを害してしまうことがありうるからです。

平成二十一年十一月十九日
カール・R・ポパー『よりよき世界を求めて』所收。第一三章 わたくしは哲学をどのように見ているか

ここでは、広く行き渡っているが危険な哲学的先入見のいくつかの例に触れておきたいと思う。

人生についての、極めて影響力の強い哲学的見解がある。それは、この世で何か悪いこと(あるいは極端に望ましくないこと)が起こったら、それは誰かのせいであり、誰かがしかも意図的にそれを行ったからに違いないと見る見方である。この見解は、たいへん古くから存在する。ホメロスにおいては、トロイの前の戦場や都市そのもので起こったほとんどの悪しき出来事は、神々の嫉妬や怒りのせいであった。そしてオデュッセイアの彷徨は、ポセイドンのせいであった。のちのキリスト教の考えでは、悪は悪魔のなせる業であった。そして通俗的なマルクス主義では、社会主義の到来と地上における楽園の樹立を妨げているのは、貪欲な資本化の陰謀であった。

戦争や貧困や失業は悪意や腹黒い計画の結果であるという理論は、常識の一部ではあるが、批判的ではない。わたくしは、常識の一部となっているこの批判的でない理論を、社会の陰謀理論[社会は陰謀によって動かせるという理論]と名づけた。……。

……。

哲学的な先入見のもうひとつの例は、人の意見は常にその利害関心(Interesse)によって規定されるという先入見である。この理論は(理性は情念の奴隷であり、またそうであるべきであるというヒュームの学説の退化した形態であると診断することができるだろうが)、原則として自分自身には適用されないのである(われわれの理性にかんして謙虚さと懐疑を教えたヒュームは、彼自身の理性を含めてこれを適用したのだが)。むしろそれは、ふつうはほかの人に、とくにわれわれと意見を異にする人たちに対してのみ適用される。しかしこれでは、新しい見解に寛大に耳を傾け、真剣に受け取ることの妨げになろう。なぜなら、その新しい見解をその人の「利害関心」によって説明し去ってしまうことができるからである。

しかし、こうなってしまうと、合理的な議論は不可能になる。われわれの自然な知識欲、物事の心理に対するわれわれの興味関心(Interesse)が萎縮してしまう。「このことがらについての真理は何か」という重要な問いが、「君の利害関心は何か、君の意見はどのような動機によって影響されているのか」というそれほど重要でもない問いに置き換えられてしまう。かくしてわれわれは、われわれとは異なる意見を持つ人々から学ぶことができなくなる。われわれの共通の合理性に基づく、国家を越えた人間理性の統一が壊されてしまうのである。

これと似たような哲学的先入見に、合理的な議論は根本的なところで一致している者のあいだでしか可能ではないという、現代では異常に影響力の強いテーゼがある。この有害な理論によれば、根本[前提]についての合理的かつ批判的な議論は不可能であるとされる。ここから以前に論評された理論と同じように、望ましくないニヒリスティックな帰結が生じてこよう。この理論は、多くの人によって主張されている。それを批判することは、多くの職業的哲学者にとっての主要な領域のひとつとなっている、認識論という哲学の領域に属する。

平成二十一年十一月十九日
私信はメールで伝え、共有したい情報はwebページに載せる - 雑記 - AZ store

例え特定の誰かに向けた表現があっても、共有した方がいいと思う情報はwebにアップする。特定の相手だけに伝えたい情報はメールを送る。

ウェブと云ふ公開の場に向けて書かれた文章と云ふものは――はつきり言ふと、掲示板におけるやりとり、或は、個人が運營してゐる「ブログ」のコメント欄への書込みであつても、「論爭相手」或は「ブロガー」だけに向けて書かれたものであるわけがないのであり、「不特定多数の人が讀む」爲に書かれてゐる。坂取さんはその邊の事が完全に解つてゐるから、讀者は信用して、その文章を讀んで良い。
意外と「ウェブで物を書く」事の意味を解つてゐない人が多い。「ブログのコメント欄」や「掲示板」と云ふ「場」なるものを、殊さら意識して、そこでのやりとりを「特定個人と特定個人の一對一の對話」のやうに勘違ひしてゐる人もゐるくらゐだ。が、誰でも見る事が出來るのだから、一見極端なやうにも思はれるだらうけれども、「何處で書いても同じ」なのだ。公開の場であるウェブで書かれた文章は、「批判された人が見る可能性」は、何處であつてもゼロではない。
逆に言へば、惡罵嘲笑を「ブログ」の記事に書連ねてトラックバックを送りつけたり、相手の「ブログ」のコメント欄で中傷したりするのも、餘所に「ブログ」を立上げたり、掲示板を使つたりして、粘着するのも、やつてゐる事は本質的に全く同じ。「面罵する」のも「蔭でこそこそ惡口を言ふ」のも、インターネットのウェブのやうな公開の場で行はれてゐるのであるならば、區別は出來ない。
結局のところ、批判として妥當な方法を用ゐる事がウェブでは許されるだけであり、批判として不當な方法はウェブに於ては如何なる理由を言ひ訣にしても許されない。ウェブは公開の場・公共の場であるのであつて、そこでは議論しか存在し得ないのだから、議論として正しい方法をとる事だけが要請される。
もつとも、日本人は批判と云ふ事が全く解つてをらず、中傷や人身攻撃、罵倒のやうな非難を批判と取違へてゐる事が極めて多いわけで、プロのライターでもその邊がまるで解つてゐない人が幅を利かせてゐるくらゐだから――と言ふより、殆どの人がさうなのでないか――ウェブの素人ライターもさう云ふ駄目なプロライターを眞似して、人格攻撃ばかりやつてゐる人間が平氣で存在してゐたりする。しかも、さう云ふ人に限つて、理詰めで人の發言を批判するのを「惡質な嫌がらせ」のやうに言つたりするから、をかしな話がますますをかしくなるのだが、誰が何う考へても人格攻撃が正しいわけがないだらう。そして、理詰めの説得が人身攻撃であるわけがないのも自明で――ところが、理詰めである事を「惡」だと「感じる」日本人は異常なまでに多いのである。私にはそれが全く理解出來ないのだが、ポパーに據れば外人にもさう云ふ感覺の人が結構ゐるらしい。
しかし、具體的な事實と、主觀を持つ人間と、客觀的な理念とが、それぞれ存在する事は、ポパーが指摘する通りで、理念が、主觀でしか認識出來ないにしても、客觀的に存在する事は、信じなければならないし、信じざるを得ない。さう云ふ理念・觀念を論ずる事は、議論に於て唯一の目的だが、その目的が多くの人には理解出來ないと言ふ――正かな派の人にすらも、わからない人がゐるのである。だが、客觀的な理念=個人から獨立した觀念が議論の對象であるのだから、議論する個人の人格だの何だのを論ずる事は何の意味も持たない事は火を見るよりも明かな事だ。それが解らないのは、他人を攻撃して愉しんでゐる、それこそ人格的に・人間として缺陷を持つた人だからだ。まともな人間なら、他人の發言の内容が理念・觀念に關するものならば、一往その人個人から切離して、判斷し、評價するものだ。その結果としてその他人の人間的な評價をするのならばあり得る話だが、先に人間を評價してから、その人の發言の内容をその人物評を基に極附けて判斷するなんて――正直言つて、私には、何をやらうとしてゐるのか、理解する事すらできない。そもそも、「理念より人」なんて事は不可能なのだ――人の人間性を評價する爲には、その人の考へ方を先に知らなければならない。ところが、「考へ方なんて知らないでも、その人を評價できる」と、平氣で言ふ人がゐるのだ。わけがわからない……と言ふより、その人は、もつともらしい嘘を吐いてゐるのだ。
その人の言動を見て、考へ方を知り、判斷する――「人を判斷してゐる」――にもかかはらず、人を人として判斷出來るかのやうな事を言ふ。
相手の人間性を、口先では、客觀的に捉へてゐるやうに言ふのだけれど、實際は、相手の考へ方が自分にとつて都合が良いか何うかを考へてゐるのだ。そして、相手が自分の「敵だ」と判斷したら、最うその相手は「惡人」なのであり――「惡人」の言ふ事は全部「惡」だと極附けて、偏つた見方に何時までも固執して、何時までも非難を續ける。そもそも「人」を基準にしたら、人身攻撃・人格攻撃・主觀的な非難しか出來なくなるのであり、そんな事が許される訣もないのだが、なぜか自分にだけは「許される」と、自分にだけは特權があるかのやうに振舞ふ、「ネガティヴエリート」の人が、ウェブには存在する。と言ふより、斯う云ふ「自分の事は棚に上げ」の人が極めて多い事は、ポパーが指摘した通りだ。さう云ふ人は本當に困り者なのだが、一般の人はさう云ふ人が粘着行爲をやつてゐても「粘着されるのはされるだけの理由があるのだ」――と言ふより、粘着と粘着の被害者の間にだけトラブルが收まつてゐるのだから自分には關係ないよと思つて、「また馬鹿が喧嘩してゐる」と、他人事として、輕く言ふだけだ。實際には、さう云ふ粘着行爲を見過ごすのは、粘着行爲を容認してゐるのと同じなのであるが、他人事のやうな顔をすれば自分はその問題と全く關はりがないのだと思ひ込めてしまふから仕方がない。しかし、「惡事を見て見ぬ振りをしてゐる」と云ふのは、それ自體、態度として自分の判斷を表明してゐるのであり、一種の問題との關はつてゐると言つて良い。少くとも、問題が公共の場で生じてゐるならば、知るチャンスはあるのであり、知つてゐるならば「見て見ぬ振りしてゐる」態度をとつてゐると、第三者に判斷される事はあり得るのであり、即ちその人がその問題に對して或種の價値判斷をしてゐる事が客觀的に判るのである。その邊の事まで考へないで、ただ「關り合ひになりたくない」と言つてゐるのが、ウェブの多くの人の實状である。實際には「關り合ひになりたくない」と言つて、問題に「關はつてゐる」のだし、その關はりの中で惡人の行爲を見過ごしてゐるのは、惡人の行爲を容認してゐるのであり、即ち惡事を容認する人間である事を(消極的な形ではあれ)公然と宣言してゐる事になる。その邊まで考へて、ウェブで物を言ふ人は言ふやうにしていただきたい。繰返すが、坂取さんは解つてゐるのであり、解つてゐない人が多くて困つてゐるのである。
平成二十一年十一月十九日
http://d.hatena.ne.jp/tetotan/20091118/1258558575

本文と問題文をあわせて問題作成者がひとつの主張をしているのが受験現代文なので「作者の心情を答えよ」という問題は二つの問いに分解することができます。ひとつは「作者は何を伝えようとしているのか答えよ」で、もうひとつは「私(問題作成者)はいま何を問おうとしているのか想像せよ」です。これが本当に作者に聞いて「締め切り寸前で死にそうだった」と言われて、そう書いたとしてもハズレになる理由です。

これ、非常に多くの人が勘違ひして信じ込んでゐるやうですが、嘘です。
受驗の現代文で、心情的な・主觀的な判斷を、解答者に要求する設問は、ありません。現代文の問題は全て、解答者(受驗生)が文章を客觀的に讀取る訓練が出來てゐるか何うか、を判定する爲のものです。
「作者の心情」を問うてゐる問題は、全て、文脈を見て、前後に言換へがある事に氣附けば、解けます。
單に、文章を讀取る技術を要求してゐるのであり、解答者に、作者の身になつたり、問題作成者の身になつたりする事を要求はしてゐません。
大學受驗でもその他の試驗でも、解答者に主觀的な事を要求してはならないのであつて、全て解答者に客觀的に判斷する能力だけを要求してゐます。
日本では、高校までの學校教育における國語の教育が「文學」の教育に偏つてゐる爲、「文章は主觀で讀む」と云ふ間違つた習慣を身に附けてしまひます。しかし、本來の國語教育は、客觀的に讀む事を訓練するのを目的にしなければならないのであり、諸外國ではそれが普通です。日本の高校までの學校教育だけが異常なのであり――しかも、大學では突然、世界的に常識的な態度を受驗生に要求するので、受驗生は戸惑ふのですが、要は高校までの教育が間違ひであつた、と云ふだけの話です。主觀で文章を讀んで、判斷しては行けません。
客觀的に文章を分析し、讀取る技術と言ふものは、存在します。作者本人ですら正答出來ない事があると言ふのは、ただ單に、作者に客觀的に文章を讀取る技術が無い、と云ふだけの話です。
諸外國では、客觀的に文章を讀取る技術を學ばないでは、客觀的に文章を綴る技術も持ち得ない、と云ふ事で、當り前のやうに「文章を正しく讀む技術」が教へられてゐます。それが行はれてゐないから日本の教育はをかしいわけです。

これは数学など他の教科でも同じです。東大のように円周率 3 になったときに学生に本質を理解させようとした例が実際にあります。そこまで明確でなくとも、多くは学生を見ていて「あぁ、今年の学生は三角関数が理解できていないな。三角関数の問題は入れておこう」という発想で問題ができあがってゆくと思うのです。学校との相性を知るのに入試問題は格好の材料ですよね。

教育上、必要な教育レヴェルを、受驗生が達成してゐるか何うか――それだけが見られるのであり、それを見るだけの目的で問題は作成されてゐます。いろんな想像をする人がゐるんだけれども、さう云ふ想像で以て物事を判斷するやり方を身につけさせてしまつてゐるとしたら、やつぱり今の國語教育はをかしいよね。何で客觀的な態度を身につけさせないのが「よい教育」なんだらう。慥かに、駄目な國語教育なら、しない方が増しと言へば増し。
平成二十一年十一月十九日
立花隆が「21世紀のイデオロギーが必要だ」なんて書いてゐて、こんなのが日本を代表する知識人だと言はれてゐるのだから何うしやうもない。
もちろん、理論は政策を立案するのでも實施するのでも必要だ。Kirokuro氏の理論でも木村貴氏の理論でも、何でも構はない。が、實地で試してみて、理論が100%巧く行くなんて事はあり得ない。その時、エラーをフィードバックして何處まで理論を訂正出來るかが問題になるのであり、そこで理論に固執して現實を歪曲するなら、それがイデオロギー的思考と云ふものになる。それでは困るのであつて、試行錯誤をやる覺悟をこそ我々は必要とする。その邊が案外日本人には解つてゐない。理論を運用するのでなく、理論に固執してイデオロギー的に振舞ふのを當り前だと思つてゐる。

平成二十一年十一月十八日
「日本人は」何うの斯うのと「日本人論」をやると嗤ふ人が、「ネットで〜する人は」と云ふ「ネット人間論」は實に樂しさうにやる。人間人間人間。
平成二十一年十一月十八日
Google、米国の判例検索を「Google Scholar」で開始 -INTERNET Watch
平成二十一年十一月十八日
【西川和久の不定期コラム】 Windows 7の使い勝手【その2】 〜Anytime UpgradeもXP Modeも簡単にできる
Intelの仮想化支援機能「Intel VT」とは? − @IT
平成二十一年十一月十八日
NHKのBSデジタル放送を2チャンネルに集約 -AV Watch
平成二十一年十一月十八日
【リンク集】 ついに発売! Windows 7〜公式サイト&各社サポート情報をチェック! -INTERNET Watch

平成二十一年十一月十七日
えらく寒いが、雪が降るかも知れないんだとか。
20091117Snowman.jpg
今年は冬になるのがやけに早いやうな氣がする。
20091117Sunshine.jpg
平成二十一年十一月十七日
20091117Misha01.jpg
20091117Misha02.jpg
20091117Misha03.jpg
20091117Misha04.jpg
20091117Misha05.jpg
20091117Misha06.jpg
平成二十一年十一月十七日
直帰率47.5% 入口は20ページが8割。アクセス解析とサイト改善の「WEB改善ソリューションフェア」レポート | Web担当者Forum
うちだと闇黒日記(最新)しか見てゐない人が多さう。
俺の事が嫌ひで嫌ひでたまらないといつた人ほど、うちのサイトの中身を全然讀んでゐなかつたりする。
平成二十一年十一月十七日
Wikipediaの「祭政一致」の項。「政教一致」が「祭政一致」と同義語だとあるが、誰が書いたか知らないが、違ふぞ。祭祀は宗教だと簡單に斷定してゐるが、全然違ふ。殊に對立概念としての「政治」と云ふものを置いて考へる時には、祭祀と宗教とは區別しなければならない。もちろん、さう云ふ區別をしたくない・したら都合が惡くなる立場の人が編集をやつてゐるから、こんな事になる。
斯う云ふ一方的な定義が放置されてゐるんだから、Wikipediaの編集者のレヴェルが知れる。
平成二十一年十一月十七日
20091117Tsuri.jpg
平成二十一年十一月十七日
職場の伸坊さん顏面崩潰。

平成二十一年十一月十六日
俺はMacが嫌ひでLinuxが大嫌ひでWindowsが大好きな人間なのだが、ならMacは使はないのかと言ふと毎日使つてゐる。
Macだと、OperaとPhotoshop、mi、そしてToastを使つてゐるが、それだけあれば大體事足りる。仕事だからさうさういろいろな事をする必要がないわけで、決り切つた事が出來るか何うかが問題。
Windowsでも、Opera、秀丸、FFFTP、Photoshop Elements、GV、電信八号、TMPGEnc DVD Author、Zulu2くらゐで、必要な事は何でもやれる。
ただ、録畫用にアイ・オー・データの機材を使つてゐるので、それはPCでなければ困る――個人の使用でWindowsでなければならない絶對の理由。それがなければLinuxでも構はないと言へば構はない。
平成二十一年十一月十六日
那須ファーム | にわとりと卵を通して人のお役に立ちたい
もっと知りたいたまごの話 | 那須ファーム
平成二十一年十一月十六日
正直何書いても解らうとしない人は絶對に解らないのだから、檢索除けだの何だのをしても意味はないよ。
相手に惡意があるなら、こちらが何を書いたつて全部惡くとるんだから、氣にしないで自由に書けばいい。粘着だつて、自由に人の事を中傷して――それだつて結局は客觀的に判斷されるだけなんだから、どんどんすればいい。人に嫌がらせをする意味は全く無い。「嫌がらせをして潰しにかかつてゐる人がゐる」と云ふ事實もまた、客觀的な判斷の材料になる。
みんな他人を氣にし過ぎ。世の爲人の爲になると信じた事なら、胸を張つて言へば良い。それが出來ないからこそ、こそこそする事になるわけだが、「こそこそやつてゐる人間にちよつかいを出して來るなんて何て惡い人間なんだ」とか威張つて言ふとしたら――何でこそこそやつてゐるんだらうか。
平成二十一年十一月十六日
例へば、「理論より人」と言つてゐる人が、絶對に當てになると云ふ訣でもない經濟理論に固執して、自分の信ずる理論を信じないと言つて他人に人格攻撃を仕掛けてゐたりすれば――しかし、さう云ふ理論の宣傳屋は、客觀的に見れば科學にも經濟學にも、或は世の中にも、何の寄與もしてゐない訣で、要するに無意味な行動を熱心にやつてゐるだけ、と云ふ事になる。人の足を引張つて遊んでゐるだけなら、單なる害蟲だ。
平成二十一年十一月十六日
20091116MishaMikan01.jpg
20091116MishaMikan02.jpg
20091116MishaMikan03.jpg

平成二十一年十一月十五日
「検索避け批判」批判によくある誤解 - 雑記 - AZ store
平成二十一年十一月十五日
ネットカフェの業界団体が啓発運動、会員制でサイバー犯罪防止 -INTERNET Watch
完全匿名でアクセスするのを推奬してゐたんだから、ネットカフェがインターネットに對する脅威だつたのは事實。俺も隨分被害に遭つた。ユーザの利用情報を全部記録しておくとかしないと、ネットカフェは信用の恢復なんて出來やしないだらう。
平成二十一年十一月十五日
身内に暴言吐き捲りで申し訣ないと思つてゐる。
平成二十一年十一月十五日
ともだちって誰へのご意見・ご感想
(´Д`)
平成二十一年十一月十五日
「トンデモ」サイト・ヤバい内容のサイトは、殆ど全てが略字略かなで書かれてゐる。
平成二十一年十一月十五日
「未確認宇宙飛行士セルカン」映画化決定か?(sorae.jpの中の人、溜飲が下がって本当によかったね。)
覚え書き@kazuhi.to: 未確認宇宙飛行士セルカンw
#Serkan - Twitter Search
平成二十一年十一月十五日
【山田祥平のRe:config.sys】 人は、いったいいつまで印刷を前提に文書を作るのか

平成二十一年十一月十四日
20091114Iemon01.jpg
20091114Iemon02.jpg
平成二十一年十一月十四日
ご出演される方へ | CSS Nite公式サイト
Latest topics > CSS Niteの講演者向け資料というか指示書というか注文書というかアレを見てブチギレた事について - outsider reflex

という風に散々熱くなってたわけだけれども、そういう醜態を晒してフンガーフンガー息巻いてる僕を見かねてか、るりさんに「で、これってどっかからリンクされてんの?(→君は運営の意図という所を邪推してすごく気にしてるようだけど、どこからもリンクされてないんだったら、少なくとも運営は大々的に公開したがってたわけじゃないと判断できるんじゃないの? だとしたら君が怒ってるポイントは的外れってことになるよね? という風なニュアンスで)」と言われたり、kotarokさんに「noindex,nofollowになってるけど?(→だから、これをこうして無関係の人が見てる状態というのがそもそも運営の想定外の事態なんじゃないの? それじゃ非公開に全然なってないよねっていう事実はあるけど、それは別の問題だよね? という風なニュアンスで)」と言われたりして。それで渋々ソース見てみたら、確かに検索避けの指定が入ってて、そこで一気に熱が冷めまして。

CSS Nite in HIROSHIMA vol.2 前夜、しかし (おさんぽさんぽ)

ご出演される方へ | CSS Nite

ttp://www.cssnite.jp/archives/4speakers.html

が丸見えって・・・

「h抜くな」云々。
顧客情報が、何處からもリンクされてゐなくとも、誰でも見られるサーヴァ上に置かれてゐれば、それは「情報流出」の危險性があると云ふ事で、セキュリティ面から非難される。
報道關係のサイトで、何處からもリンクされてゐなくとも、推測でURLをウェブブラウザに打込んでアクセスすれば、見えてしまふ記事があつたら、それは違法なアクセスではなくて正當なアクセスである。
なんでnoindex、nofollowになつてゐたりすればOKなのだらう。なんでURLからhを拔いたり、URLを示すのにテキストにするだけでアンカーにしなければOKなんだらう。
名指しで批判するのも、明かに誰と解るのに名指ししないで當てこすりを言ふのも、全部同じだらう。
この邊、2ちゃんねらーがhを拔くのを「當り前」に大々的にやつてゐる事から見ても、皆が大いに勘違ひしてゐると思はれる。それ何の意味があるの。
何處ぞの馬鹿が「無斷リンク」に反對して、「私はリンクを張らない。ただURLを示すだけである」と偉さうに宣言した事があるけれど、わらひ、a要素にしようがしまいがURLを示してゐる事に變りはない――それを「變りはあるんだ」と力説するから大馬鹿なのだが、世間の多くの素人の人は、この「アンカーにする・しない」程度の事で「リンクを張つた・張らない」の違ひが生ずると本氣で勘違ひしてゐたりする。が、ITやウェブの專門家ですら非道い勘違ひをしてゐるのだ。何うしやうもない。
結局みな、批判なる行爲を恐れて、責任逃れをしようと必死なのだ。さうして、自分だけは安全地帶に引籠つて、そこから他人にだけ責任をおつかぶせようと劃策し、一生懸命石を投げる。そして言ふのだ、「個人を名指ししてゐないから、私は批判してゐません」「リンクしてゐないから私は批判してゐません」――明かに誰をターゲットにしてゐるか判るのに。しかし、さう云ふ明かに卑怯な眞似をしながら、その人は、「名指しで他人を批判する人」を、「傲慢で鄙劣な人間」だと極附けつゝ、名指ししないで、しかし明かに「誰」の事を言つてゐるのか判るやうに暗示しながら、再び陰濕な嫌みで攻撃するのだ。
人間として腐つてゐるのは誰だらう。
「リンクされないやうにしてゐる」と云ふのも、リソースをインターネット上で公開してゐるのには違ひがないのであつて、アクセスを制御してゐないのなら根本的には「リンク除け」なんて意味のない事だ。技術的には「程度の差」があるに過ぎない。それを強調して「批判のがれ」をしようとしてゐるならばそれこそ批判すべきであるし、さうした意圖もなく無邪氣にリソースを放り出してゐるのならそれはそれでまた別の批判をする必要があらう。
平成二十一年十一月十四日
ちなみに俺は、この程度のお逹しが「ある」事それ自體に批判的になる氣は無いし、腹を立てる氣にもならない――書籍でも學術論文でも、文書のフォーマットに規定があつて、依頼者が著者に書き方の指定をする事は、非常に多い。プレゼンテーションでもさうした規定がある事は、必要だらう。逆に、さうしたお逹しをオープンにしてゐるのは、意圖的なものであるのならば、評價されるべき事とすら思ふ事が出來る。もつとも、「オープンにする意圖があるにしては書き方が拙い」と云ふのなら、それはそれでさらにまた別の批判が必要である、と云ふ事だ。その點では批判の餘地がある内容である事に反論する氣は無い。
平成二十一年十一月十四日
何れにしても、アクセス出來る・出來ないの問題、リソースの内容の問題、そして意圖の問題が、切り分けられてゐない。その邊の切り分けをしないで怒つてゐても仕方がない。
平成二十一年十一月十四日
CSS NiteでHTML5の講演を行いました | Web標準Blog | ミツエーリンクス
HTML5, きちんと。
HTML4やXHTML1は「文書」の作成が目的だった。HTML5では新たに「アプリケーション」が加わる。
HTML 4なんかの仕樣は、全てサイト制作者の守るべき仕樣として公開されたものではなかつた。全てユーザエージェントの制作者の守るべき仕樣として公開されたものだつた。
HTML 4なんかでは、ウェブブラウザが處理するのは文書それ自體――文書以外のものは全てプラグインに任せる、と云ふ方針だつた。
HTML 5では、從來プラグインに任せてゐた事を、ウェブブラウザが自前でやるやうにする。さう云ふわけで、そのブラウザのヴェンダが「やるべき事」を定めてゐる、と云ふ理窟だ。
――が、さう云ふ單純明快な切り分けが、HTML 4と5との間で、實は、なされてゐない。なぜなら、XHTML 2.0の仕樣策定の過程で主張されたやうに、「文書構造の明示」が「可能」となる事が、今の時代は必須とされ、HTML 5にも文書の處理に關する規定が盛込まれるからだ。從來(HTML 4では)、文書構造の明示については全く規定がなかつたが(divは、文書構造を明示する爲ではなく、スタイルを適用するなどの目的で利用する爲に設けられた要素)、今度は何うせだからと云ふ事でセクション構造の明示を規定しておかうと云ふ話になつてゐる。
それが俺には大變氣に入らない。なぜなら、理想的な單純な文書構造を明示する爲の規定とともに、利便性の爲の「簡單な書き方」の規定が、同時に決められてゐるからだ。sectionはいい。が、header/footer/navはいやだ。文書構造に關する記述と、見た目を制御する爲の記述とが混在してゐる。さう云ふごちやごちやなのを、世間の多くの人が「とてもいい!」と思つてゐるらしいのだが、私は嫌だと思ふ。
便利なのの何處が行けないのかと言はれれば、便利か何うかは關係ない――少くとも、理解できないのは私には「不便」だとしか答へやうがない。
結局のところ、昔、NetscapeがNavigatorに、MicrosoftがInternet Explorerに、勝手な實裝をやつたのが「惡かつた」だけだと云ふ事。今、ウェブブラウザのヴェンダが、協議して、仕樣を標準化してゐるから「良い」とされてゐるだけだ。要は、仕樣の「標準化」の作業がされてゐるかゐないかだけが問題なのであつて、仕樣の中身は何でもいいと云ふ事。HTML 5は「標準化の作業が行はれた」から「良い仕樣」だと云ふ訣。内容については、「協議で斯うと決つたのだから、みんな默つて從ひなさい」と、頭ごなしの命令で押附けるものであるわけだから、從ひたい奴はみんな、納得も何もしないで、默つて從へばいいだけだ、もつともらしく説明なんかされても俺は納得しない。理論的に一貫しないものを「決つた事なのだから勝手に理窟を附けて納得しろ」と言はれても納得出來るものではない。
平成二十一年十一月十四日
「ウェブアプリケーション作成專用」のHTMLと、「ウェブ文書記述專用」のHTMLとを、別々に新しく作る、と云ふのなら、納得は行く。さらに「ウェブ文書記述專用」のHTMLが、「純然たる文書構造を明示するためだけのもの」と「プレゼンテーション目的で見た目を制御するためだけのもの」とに分離されるなら、それはそれで歡迎だ。が、それらの要求を一つの仕樣に全部ぶちこんでごつた煮にする事は、好ましくない。私はHTML 5が、ただのカオス・渾沌であるやうにしか思はれない。
平成二十一年十一月十四日
が、要はtext/htmlな文書しか扱はない「風習」がウェブに出來てしまつた所爲で、ブラウザのヴェンダも標準仕樣を作る側も身動きがとれなくなつてしまつたと云ふ事。斯うなつたら最う理想とか言つてゐる餘裕は無くて、徹底的に場當り的に・現實的になるしかないと、さう云ふ事だ。ならば最う、HTML 5は視覺的なプレゼンテーションが目的の言語だと、そのくらゐはつきり言つてしまつて良いのでないか。互換性の事を言つても始まらないだらう。それで不便になるか便利になるか、やつてみればいいんだ。

平成二十一年十一月十三日
Googleのストリートビューで少し前の神保町を見てゐるが、なくなつてしまつたもの・變つてしまつたものが寫つてゐて、泣けて來る。C&C。改裝前の書泉グランデ……。
なんで東京堂書店の前は寫してゐないんだらう。

平成二十一年十一月十二日
20091112MIB.jpg
平成二十一年十一月十二日
『時局問題批判』(朝日新聞社・大正十三年三月二十五日發行)所收・柳田國男「政治生活更新の期」

民論輿論といふ語は、昔の通り又は書物の通りなのは名目だけで、用心をせぬと此の中にも無茶な宣傳が隠れ潛んで居ます。これにつけても新聞に從事する者の大なる責任は、感ぜずには居られません。

英國は新聞投書の實に盛んな國で、又社説の態度の最も鮮明な國であります。而も昨年九月の末、私が通りすがりに參つた頃、二三の英國人は斯う言つて歎息してゐました。曰く此頃のやうに輿論の新聞に反映せぬ時代も珍しい。此が爲にどの位國民は大きな不安を感じてゐるか分らぬと。實際あの時分の新聞には、いくら熟讀して居ても、其後の政變を推察し得る材料はなかつたやうです。三月後の勞働内閣出現は申すに及ばず、二月後の議會解散までも、其時分の讀者には露ほども豫想が出來なかつたのであります。

飜つて我邦の實状はどうかと申しますと、こんな事は殆ど常態と謂つてよいのです。世間も又略之を承知で、東京などでは政治通と言はれるやうな人は、明けても暮れても新聞に出ないニウスをあさりまはり、尾鰭を附けて之を人に話しますから、世間の噂話と、之に伴ふ動搖が絶えぬのであります。

此調子では、安心して普通選擧の世の中に臨むことは頗る六かしい。願くは公衆の隠れたる感覺を以て、徐々に且つ實着に、此の如き惡い傾向を改めて貰ひたいと思ひます。實際どんな新聞をても、其購読者の多數が無意識に編緝して居る部分が、存外に大きいのであります。從つて國々に國の新聞の特色があり、英の新聞と米のそれとは同じ英語でも一目で判別し得られます。

今若し日本の青年にして、昔のやうに諷刺を愛し逸話の類を好み、恰も江戸時代の落首文學や秀句文學の如き短評に隨喜してゐる間は、到底澤山の政治生活の新材料を新聞から收穫することは六かしからうと信じます。流言蜚語に由つて新しい政治の理想を妨げられざらんが爲には、理由を附した落付いた意見を公の機會に提供し、且つ留保無く勇氣を以て互に之を批判せねばなりませぬ。

此方面にはまだまだ未開地が中々廣いやうに思ひます。(終)

以上は、大正十三年二月十二日、大阪中央公會堂で行はれた朝日新聞記者・柳田國男の講演より、その末尾の數節を引いた。吉野作造と柳田國男の入社を機會に朝日新聞社が主宰して開いた時局問題大演説會である。
時代も状況も、當時と今とで、大きく變つてゐるやうで、案外變つてゐない。柳田氏の批判は、未だに今の日本で通用する。ここではメディアとして新聞の事を採上げてゐるけれども、今の状況ならばウェブと云ふメディアもまた柳田氏の批判の對象として捉へ得る。今の朝日新聞の「素粒子」欄の事を聯想して、自分とは關係ない、他人事だ――みたいに思つてゐてはならない。今のウェブにも、短い言葉で面白をかしく嘲笑して見せるのを好んで行ふ人々がゐる。明治・大正どころか、それ以前の時代と、今に生きてゐる人とが、全然變らない――これは本當、どう云ふ事なのだらう。
平成二十一年十一月十二日
アニリール セルカン氏 本人とその取り巻きによる想定どおりの反応。一方、日経は容赦なく発進。
平成二十一年十一月十二日
我々が論爭して、その結果として「わだかまり」が殘るとしたら、それは我々が日本人としての弱點を露呈してゐるに過ぎない。熱烈な愛国者で、「日本人」なる言葉が御氣に召さないのなら、「凡人の」とでも言換へよう。何れにしても、我々の弱さが「わだかまり」を我々に覺えさせるだけなのであり、ならばその自身の弱さこそを憎んだら良い。
平成二十一年十一月十二日
ジョージ・スタイナー『脱領域の知性』(河出書房新社)まえがき

だが、わたしの論ずるところは、もっと広汎なものでもある。諸科学の精神的エネルギーと思弁形式を、教養ある能力に・想像力の通常の生活に《編入すること》――これらの形式の風味と美とを肉化すること――こそ、われわれの文化の残された問題のなかでも、際立って大きな問題なのだ。半教養という浮草のような倦怠感から脱出したいのなら、たとえまだ大半が《想像にとどまる》もの・または類推にとどまるものである場合さえ、この《編入》を試みなければなるまい。本論集に収めた論文のひとつは、とくにこのテーマに本気でとりかかろうとしている。うるさいようだが、この論の宗教的形而上学的背のびをしりぞけたところで、べつだん堅実さを誇れることにはならない、とわたしは信ずるものである。言語の産出と条件とについて語ることは、とりもなおさず、人間の産出と条件とについて語ることだからである。

平成二十一年十一月十二日
日本人は、言葉で言ひ表せない事だけを「信じよう」と努力するんだけれども――要するに、何も信じたくない、と云ふだけの事をもつともらしく言つてゐるだけではないか。
しかし、何も信じないで何もしないよりは、何かを信じて何かをした方が、遙かに増しなのだ。
平成二十一年十一月十二日
理論とは、意志的に形成された言葉である。これも眞實だが、「言葉にすぎない」なんて言つて、適當に却下して、好い氣になつてゐるよりは、よつぽど建設的だ。
平成二十一年十一月十二日
共感とか感動とか、最近は隨分安つぽい言葉になつたものだと思ふ。
平成二十一年十一月十二日
と言ふか、他愛もないものに感動する人は、本當の感動を知らないと思ふ。
平成二十一年十一月十二日
「面白い」と云ふ言葉の、低俗化、はたまた卑俗化――それに氣附かない人々。「面白い」事が流行の最先端みたいなものに見えてゐるらしい。何時まで「面白い」と云ふ言葉は流行し續けるのだらうか。
平成二十一年十一月十二日
私は白川靜氏の學識を大變高く評價する者だが、白川氏の文章が案外面白くない事實も指摘する者である。
『字訓』の解説が大變良く纏まつてゐて興味深いのに對し、字訓を具體的に一つ一つ採上げて説明して行く本文は、勉強になるが、決して面白くはない。
平成二十一年十一月十二日
『瞳のフォトグラフ』第二卷。十五分で讀める。
平成二十一年十一月十二日
キリスト教關係の本は面白いが、神道關係の本の方が感覺的に「わかる」と云ふ感じはする。
平成二十一年十一月十二日
nazonoko.jpg

平成二十一年十一月十一日
20091111HitsujiAnaaki.jpg
平成二十一年十一月十一日
http://nozakitakehide.web.fc2.com/diary/20050201.html
昔の闇黒日記。徒委記經由。讀み始めたら、今と餘り變らない事をこの頃にもぐだぐだ言つてゐる。再放送と云ふ事でリンクを張つて見る。最近言爭つてゐるいろいろな事にも關係のある發言があつたりするので、關係者は必見。
たまに自分でもよくわからないネタが見られる。あと、昨日の晝間思ひ附いたネタが、既に載つてゐたりする。讀み返してゐると最う新しい記事なんて書かなくてもいいやうな氣がして來た。寢る。
平成二十一年十一月十一日
不幸の再生産はお断り

平成二十一年十一月十日
20091109BlueGandMimizu.gif
平成二十一年十一月十日
OmochiAkaMisha01.gif
OmochiAkaMisha02.gif
OmochiAkaMisha03.gif
OmochiAkaMisha04.gif
平成二十一年十一月十日
20091109OmochiBlueG.gif
平成二十一年十一月十日
カール・R・ポパーは、所謂自然科學と所謂社會科學の間に、絶對的な差のやうなものは設けてゐないし、想定もしてゐない。と言ふのは、ポパーは、理論を言ひたかつたのでなく、「人間は誤を冒すものである」と云ふ人間觀から出發して、ただ「誤を訂正する事によつてのみ、先に進める」と考へてゐるのだからだ。だから、人文科學の領域でも社會科學の領域でも、ポパーは自然科學と同じやうに、誤を冒しながら、それを明かにする事で、正しさを見出して行く、トライ&エラーの方法を、當り前のやうにとる。ただ、社會科學や人文科學の經驗が少かつたから、ポパーの發言にはぶれが見られる、と指摘されるに過ぎない。基本的な考へ方として、ポパーの方法論は、多くの學問に當嵌る。
例外として屡々指摘される人文科學の一部の領域だが、價値それ自體を決定する議論、或は、決定された價値に基く敷衍的な議論――即ち神學的な議論・イデオロギー的な議論――においては「事實による反證がない」のであり、科學的な議論と區別される、と云ふものだ。が、それは、所謂人文科學の領域に限定されない。自然科學の領域においても、ポパーは差別なしに斯うした理論を適用する。キリスト教において、三位一體の教義を正統とし、それ以外の教義を異端と決定する論爭が行はれたが、これは價値それ自體を決定する神學論爭だ。自然淘汰説に基く進化論は、最早結論が搖るがないのであり、そこから全ての事象の説明が開始される――即ち、決定された價値に基き、敷衍的な議論が行はれるから、ポパーは進化論を科學と認めなかつた。矢張り階級鬪爭なるドグマで全ての説明を試みるマルクス主義も、科學と看做されない。
平成二十一年十一月十日
カール・R・ポパー『より良き世界を求めて』(未來社)第一章

我々が犯す誤り――は、科学においては、本質的に言って、真でない理論を真と見なしてしまうという点にあります。……したがって、誤り、誤謬との闘いとは、客観的真理を探究することであり、真でないものを発見して取り除くためにあらゆることをおこなうことです。これが科学的活動の課題なのです。したがって、こう言っても良いでしょう。科学者としてのわれわれの目標は客観的真理、つまり、より多くの真理、興味深い真理、よりよく理解可能な真理である、と。確実性が合理的な仕方でわれわれの目標になるといったことはありえません。人間の知識は誤りうるということが洞察されている時には、誤りが犯されなかったかどうかという点にかんして決して確信をもてないことも洞察されているのです。これはまた次のように定式化することもできるでしょう。

不確かな真理――それどころか、われわれが偽と見誤っている真なる命題――さえが存在するが、不確かな確実性といったものは存在しない。

われわれは、およそ確実に知ることなどできないのですから、確実性を探求することは、まさしく割に合わないことになります。割に合うのは、真理を探究することです。そして、われわれは主として、誤りを訂正するために、誤りを探究するという仕方で真理を探究するのです。

科学的知識、すなわち科学的知は、ですから、いつでも仮説にとどまります。それは推測知なのです。そして、科学的知識の方法とは、批判的方法です。それは、真理探究に、従って、真理に奉仕する、誤りの探求と誤りの排除の方法です。

当然のことですが、わたくしに対しては、カントが「古くからの名だたる問い」と呼んだ問い、すなわち「真理とは何か」という問いが投げかけられることでしょう。カントは(884ページにわたる)その主著で、この問いに対して「真理とは、知識とその対象との一致である」(「純粋理性批判」第二版八二、八三ページ)ということ以上に答えることを拒否しています。わたくしもまったく同じように、理論とか命題は、その理論によって記述された事態が実在と一致するとき、真である、と言おうと思います。またこれに、次の三点を付け加えておきましょう。

  1. 一義的に定式化されたすべての言明は、真か偽である。そしてそれが偽であるときには、その否定は真である。
  2. したがって、偽なる言明と同数の真なる言明が存在する。
  3. こうした一義的なすべての言明は(それが真であるかどうかは確実には知られないとしても)、真であるか、あるいはその否定が真である。ここからして、真理を安全なあるいは確実な真理と等置することは間違いである。真理と確実性は鋭く区別されなければならない。

あなたが裁判官の前に証人として呼び出されたとしてみましょう。あなたは真実を語ることを求められているわけです。そして、あなたは、当然のことながら、この要請、すなわち、あなたの言明が事実と一致すべきであり、あなたの主観的確信によって(あるいは、他の人間によって)影響されるべきではないことを理解しているものとみなされています。もしあなたの言明が事実と一致しないのであれば、あなたは嘘をついたか、誤りを犯したことになります。しかし、あなたが「いいえ、わたくしの言明は真です。なぜなら、わたくしが真理ということで言わんとしているのは事実との一致とは別物のことなのですから。アメリカの偉大な哲学者ウィリアム・ジェームズの提案にしたがえば、私の言っているのは有用性ということです。あるいは、ドイツやアメリカの多くの社会哲学者の提案にしたがって言えば、真理とは、社会とか、多数者とか、わたくしの属する利害集団とか、あるいはおそらくテレビとかが受け容れたり宣伝したりしているものなのです」と言ったとすれば、あなたに賛意を示すのは、哲学者――いわゆる相対主義者――のみでしょう。

『「真理とは何か」という古くからの名だたる問い』の背後に隠れている哲学的相対主義は、欺瞞に満ちた扇動への門扉を開くものです。相対主義を主張する多くの者たちは、この点を見抜かなかったのでしょう。しかし、彼らは、それを見抜くべきであったし、また見抜くことができたはずだと言えます。バートランド・ラッセルは見抜いていましたし、また同じく『知識人の裏切り』の著者ジュリアン・バンダも見抜いていました。

相対主義は、知識人たちが犯した数多くの犯罪のうちのひとつです。それは、理性に対する、そして人間性に対する裏切りです。ある種の哲学者たちは真理に関する相対主義を説いていますが、それは、思うに、真理と確実性の観念を混同しているからなのです。と言いますのも、確実性には、実際のところ、程度があると、つまり、多かったり少なかったりする確かさがあると言えるからです。確実性とは、いつでも問題になっている事柄に依存するという意味で相対的なものです。ですから、ここでは真理と確実性の取り違えが生じていると思われるのでして、それはまた多くの場合に指摘できることです。

こうした類のことは、法の理論(法学)および法の実践にとって大きな意味を持ちます。……。

非常に長々とポパーの文章を引いたけれども、眞理追究において必要な態度とか、相對主義への疑念とか、さういつた事については、このくらゐの文章でも、最低限の理解が得られるか何うか、分らない。直後に、陪審員の心構へに就いてポパーは觸れてゐるから、今の日本の裁判員制度の問題を考へてゐる人も、この本(『より良き世界を求めて』)は見ておくといい。
更に、ポパーは、引續き、以下のやうに語つてゐる。

今までお話してきたことから、わたくしに対してまたしても「実証主義者」とか「化学主義者」といったレッテルが疑いもなく貼られることでしょう。それがいったい何だと言うのでしょう。こうした表現が侮辱語として用いられているときでさえ、それは何でもありません。しかし、そうした言葉を使っている人たちが、自らの語っていることについて何も知らないか、あるいは事実を歪曲しているとすれば、それはわたくしにとってやはり意味のないことではありません。

わたくしは、科学を尊重しますが、科学主義者ではありません。なぜなら、科学主義者とは科学の権威の教条的信奉者のことだからです。私はいかなる権威も信じることなく、独断主義とはいつでも闘い、またいたるところで、とりわけ科学のなかで闘ってきました。わたくしは、科学者は自己の理論を信じねばならないというテーゼに反対するものです。ことわたくしにかんして言えば、E・M・フォスターが言っているように、「私は信念を信じない」、そしてとりわけ科学において信じていません。私が信じているのはたかだか倫理における信念だけであって、しかもここでもまた若干の場合においてのみです。たとえば、わたくしは、客観的真理がひとつの価値であること、したがってひとつの倫理的価値、おそらく最大の価値でさえあると信じていますし、また残忍さは邪悪の最たるものであると信じています。

またわたくしは実証主義者でもありません。なぜなら、わたくしは実在を信じないこと、そして人間や動物の苦しみのもつ限りない意味を信じないことは、そしてまた、人間の希望や善意が実在し意味をもつことを信じないのは、道徳的にみて誤りであると考えるからです。

この本は、講演を纏めたもので、譯文もこなれてゐて解り易い。まだ、今、引張つて來た文章を讀み終へた程度しか讀んでゐないのだが、飜譯書だけれども最後まで讀めさうだと思ふ。みんな買つて讀むと良いと思ふ。徳保さんにもおすすめしておく。
平成二十一年十一月十日
Latest topics > HYPER-ANCHORの「選択範囲のRangeからXPath式を求める」処理を追いかけたらLine Markerに再会 - outsider reflex
オープンソースの意味つて何だらう。「自分の權利」を主張する爲――權利が最優先の思想なのだらうか。
物事がオープンである事の意味は、誤があれば滿天下に自づと晒される、と云ふところにある。詰り「誰でも誤を見附けようと思へば見附けられる」と云ふ事だ。
だからこそ、何でもオープンにして「晒す」と云ふのは、誤を見出してもらふ事、批判される事を意圖してゐるのであり――それは、誤を訂正してより良いもの・より正しいものを構築する事を目標とする。
が、その時、個人の自己・自意識・權利、さう云つたものは、決して目的とされない。話は逆で、名前が出る事には、名譽が與へられる可能性と同時に、責任が問はれる可能性を見なければならない。
となると、誤を冒さない事は、社會的な目標となる。何うしても誤を冒してしまふものであるにしても、それを避ける努力を多くの人がするのは、社會的に益のある事だ。他人の誤を公開の場で指摘するのも、「誤を冒さないやうにしよう」と、互ひに・人々との間で、確認し合ふ意味を持つ。なんでこういう嫌らしいエントリを書いて晒し上げにするわけ? メールで連絡してなしのつぶてだったら初めて晒すのでも十分なんじゃないのか? 的な批判を裸電球さんからいただきましたので改めてよくよく考えてみましたが、とPiro氏は述べてゐるが、「裏工作」を行ふ事の問題を、批判者の人が一切考慮してゐない事を、私は極めて危險に思ふ。私にしてみれば、斯うしたエントリをPiro氏が公開したのは、公明正大でたいへんすがすがしい事だと思ふ。裏でこそこそとやりとりをして、それが不成功に終つたからと言つて、嫌がらせの爲に「晒す」と云ふのを、裸電球なる人は「とてもよいことだ」と思つてゐるのかも知れないが、私には、それこそ、嫌らしい事だと思はれる。「間違つた事をやつたのだから、罰を與へてやる・お灸を据ゑてやる」といつた、高慢な態度を、一般に人は「とるべきでない」と私は思ふ。Piro氏のは、さうした高慢な態度ではなく、被害者としての抗議であるわけで、それを「嫌らしい」と思ふ感性が、私には理解出來ない。今の時代、被害者を嘲る冷酷さが一世を風靡してゐる(?)が、本當に良くない事だと思ふ。理由があれば冷酷に振舞つて良い、と云ふ發想だけは、認めてはならない。

平成二十一年十一月九日
20091109Misha01.jpg
20091109Misha02.jpg
20091109Misha03.jpg

平成二十一年十一月八日
天文雑誌「星ナビ」2009年10月号の表紙画像について
天文雑誌「星ナビ」2008年6月号および2009年10月号の表紙画像について
一連の天体画像不正疑惑の調査状況について
一連の天体画像不正疑惑の調査状況についての続報
宮城隆史氏による天体写真盗作問題まとめ - トップページ
はてなブックマーク - 宮城隆史氏による天体写真盗作問題まとめ - トップページ
Twitter Trackbacks for 宮城隆史氏による天体写真盗作問題まとめ - トップページ [atwiki.jp] on Topsy.com
http://www.vixen.co.jp/info.htm#091016a:So-Ten-Ken2009春号掲載写真について -09.10.16
せんだい宇宙館−日食画像集−
平成二十一年十一月八日
太陽黒点がやっと出現:異例の「太陽活動低下」は今後どうなる? | WIRED VISION
太陽黒点:「復活」の兆し+スパコンで再現 | WIRED VISION
中世の「小氷期」:数度の平均気温変化で人間社会は激変 | WIRED VISION
太陽風、ここ50年間で最も弱く――寒冷期との関係は? | WIRED VISION
太陽黒点100年に1度の低水準 温暖化どころか「寒冷化」? : J-CASTニュース
太陽黒点写真
平成二十一年十一月八日
窓の杜 - Auslogics Disk Defrag/窓の杜 - 【NEWS】デフラグ作業の処理速度が30%向上した「Auslogics Disk Defrag」v2.0.0.0(Portable版でいい)
O&O Software - Creating Solutions!/:: O&O Defrag 2000 Free Edition | vectorさんのブログ ::(昔、某PC誌のCD-ROMにも收録されてゐた)
UltimateDefrag - The Defragger For Power Users - Trial/強力な無料のデフラグ・ツール「UltimateDefrag」 - 注目のフリーソフト/シェアウエア:ITpro/【Vista/XP】よく使うデータは「Ultimate Defrag」でHDD外周に :教えて君.net
平成二十一年十一月八日
asahi.com(朝日新聞社):マイクロソフトが無料のウイルス対策ソフトを公開 - 斎藤・西田のデジタルトレンド・チェック - デジタル
平成二十一年十一月八日
【西川和久の不定期コラム】 Windows 7の使い勝手【その1】 〜7だからって劇的には速くならないけれど
平成二十一年十一月八日
議論をするには「話が解る」事が論者の唯一の資格だが、それを持たない人は極めて多い。さう云ふ人が「ゐる」事の問題を、私は批判したいのだが――さう云ふ人を具體的に名指しして存在を指摘すると、「個人攻撃」「嫌がらせ」「粘着行爲」と區別しないでごつちやにされるし、また、その「話の出來ない人」と「話をしなければならない」事態に追込まれる。さうなると、その「話の出來ない人」の「話の出來ない所以」である問題が露呈して、一方的に「野嵜がバカ」「野嵜が惡い」と云ふ事にされる落ちになる
話が解らない人は、一人の例外もないが、論理が解らない。先づ、人は價値判斷をする時、或事象を「あれか、これか」の二分法で分割してゐる、と云ふ事實があるのだが、それが解らない。だから自分の言つてゐる事は、世の中にある事の、ほんの幾つかの事例を採上げて論斷したに過ぎないものである、と勘違ひする。その同じ事象を、私が價値判斷して、二分法した時、その勘違ひ論者の人は、野嵜と「見てゐるところが違ふ」と常に主張し、野嵜がとんちんかんな事を言つてゐる=「誤読してゐる」と勘違ひする。が、同じ物を見て、二分法で判斷してゐるのだから、話がとんちんかであるわけがないのだ。ところが、「話が違ふ」「見てゐる處が違ふ」と言つて、「その人の見てゐるところを野嵜は見ないで、とんちんかんな事を言つてゐる」と云ふ事にしてしまふのを、その變な論者の人は、全く自覺しないまゝ、「當り前」の行爲として、やつてしまふ。
「議論」と云ふものがあつて、それを論じてゐるのに、「野嵜が見てゐるもの」と「その人の見てゐるもの」とが「違ふ」と、平然と言ふのだ。同じ「議論」を見てゐるのに。なぜ「同じものを見てゐる」事實が認識出來ないのか。「私の觀點は『議論の面白さ』です。あなたは『議論の本質』を見てゐる。だから『誤読』です」――「議論」を見てゐるのに、「見方」を理由に、「見てゐるものが違ふ」と言ふのだ。「見てゐる對象は議論」であるのだが、それが解らない。
「議論の面白さに注目する」事それ自體が「議論の私の見方」にほかならず、「他の見方を取らないで、この見方を取る」と云ふ價値判斷を示してゐるにほかならない。だが、自覺的でないから、自分の價値判斷がどのやうなものかを、さう云ふ變な論者の人は、自覺しない。だから、それを外部の人間が、客觀的に見て、指摘しても、解らない。解らないし、受容れようとしない。「自分の主觀は正しい」と云ふのが、その手の人の思ひ込みだからだ。客觀的に指摘されても、それは相手が自分の主觀を押附けてゐるものだとしか、考へられない。その手の人は、常に主觀的に考へる。だから「面白主義」を唱へたり、人のする事を「誤読」と主觀的に極附けたりする。全て繋がつてゐるのだ。全部主觀主觀主觀。そして、さう云ふ事を言ふ人の周りには、同じやうに主觀でしか考へる事が出來ない「類友」が集ふ。さう云ふ人間の集りの中に入つて行つて、批判するのは、不可能である。「人と人とが、『同じ場所』で、『面と向かつて』、『議論』するのが、現在、『不可能となつた』――『言いっぱなし』で『濟ませる』やうになつた」所以である。「直接對話」と「間接の對話」を區別する意味は、本質的には「ない」が、「話を出來ない人」の増加の現象的な發顯である、と云ふ點では、なるほど、「意味」がないわけではない。「話を出來ない人」は、「直接對話」を出來ないやうに妨碍するのを當り前だと思ふ。さう云ふ「話を出來ない人」が、今の時代は多過ぎるわけである。それを「話を出來ない人」當人が、威張つて演説したりするから、私は批判したいのだが、直接批判する事が、「話を出來ない人」にやつては「行けない」ものであるのだと云ふ。
なぜ批判したいのかと云ふと、彼等は、「話を出來ない」理由として、主觀的である事は問題がない、客觀的の風を裝つて主觀を押附けるからだ、と言ふのだ。そして、全ての主張は主觀的だ、客觀的である事はあり得ない、と主張する。それが私には許せない。シェストフが語つてゐるが、確かに、歴史上、全ての哲學者が、眞實を述べようとして、説教を試みてゐる。が、逆に言へば、説教を試みてゐる・主觀的に語つてゐる時に、それが眞實を述べようとしてゐる事である事は、あり得る。「主觀的であるのを除けば客觀的」と云ふ事だ。その客觀性を見ないで、ひたすら主觀だけを問題にする――それは、主觀を理由に、客觀性を破壞しようとする試みにほかならない。
「面白主義」の人が、「結論として、あれか、これか、のどちらか一方を『勝ち』とする結論は『面白くない』。對立する立場を『止揚』するところにこそ『面白さ』が見出せるのである」と主張する。「私にしてみれば」、そんな「止揚」はあり得ないものだ――が、それは、私個人の價値觀として主張するものではない、事實としてそんな止揚等あり得ない。逆に、さう云ふ止揚だけを「面白い」と言ひ、「良いものである」と價値判斷するならば、その人は、さうでない結論を出す議論を「面白くない=惡いものである」と價値判斷してゐるのである。一つの對象に對して、常に人は二分法的價値判斷を下す。「面白い・面白くない」で、「面白主義者」は「議論」を完全に二分する。そして、「面白主義者」の議論に對する價値判斷は、「面白い=良い=止揚と云ふ結論を出す」なのであるから、「面白くない=惡い=止揚以外の結論を出す」である。そして、全ての議論を、「面白主義者」はこの二分法で判定し、價値判斷する。(註、ここで言つてゐる「面白主義者」は、特定個人であるが、俺は今、名指ししないで抽象的に語つてゐる。その主義・主張の論理が、特殊であるのは、特定個人を想定してゐるからだ。だが、論理性を問題にしてゐるのだから、その特殊な理論の特殊である事を考へる必要はない。例なのだから、特殊な例である事を問題にする必要はない)
「惡い議論」の内には、「勝ち負けを目的とした言爭ひ」と「勝ち負けが『ある』けれども、正しいか、正しくないか、を明かにするのが目的である議論」とが含まれる。と言ふより、その二つしかない。私は「正しさを明かにする爲の議論」こそ「眞正議論」だと言つてゐる。それを「面白主義者」は「惡い」側に押込んでゐるのだ。これは、當人が否認しようとも、當人の論理がさう言つてゐるのだから、仕方がない。當人の意志・自覺は關係ない。論理が客觀的に示してゐるのだから。それを私は指摘しただけなのだが、客觀的な指摘をしても、主觀で否定出來ると主觀主義者の「面白主義者」は平氣で考へるし、敵身方思考しか持たない主觀主義者だから、數を恃みに「敵」である野嵜を排除し、嘲り、默らせようと陰濕な惡口を連發する。ところが、私がさう云ふ事實を指摘する事を、彼等は「卑劣」とか何とか言ふのだ。事實を指摘してゐるだけなのに、そこに主觀を見出さねばゐられない。主觀主義者は、主觀がないところにまで主觀を見出さうとするのである。それこそ歪曲に外ならないのだが、それが主觀主義者にはわからない。
平成二十一年十一月八日
そもそも、物凄く多くの人が勘違ひしてゐるのだが、「正しい事にする」なんて事はあり得ない。なぜなら、力づくで押附けても、客觀的に「正しい」「正しくない」と云ふ事が言へるのだ、「正しいのである」「正しくないのである」と事實を指摘する事は出來ても、人が誤を「正しい事にする」なんて事は出來ないに決つてゐる。
「黒を白と言ひ包める」式の言ひ方をしても、客觀的に黒は黒・白は白だ。それをなぜか「解らない」と言ふ人が、日本には飛んでもなく澤山ゐる。
勝ち負けを求めるにしても、客觀的に正しいか正しくないかは解るのだし、客觀的に正しければ勝ち、客觀的に正しくなければ負け、それだけの話だ。なのに何故か「勝ち負けに拘る」なんて言ひ方をして、勝つか負けるか以外にあり得ない議論それ自體を否定しようとする人がゐるのだ。私には理解出來ない。正しいか、正しくないか、は、客觀的に決つてゐるのだし、主觀的に決める事ではない。
議論の時點で、正しい・正しくない、が「明かになつてゐない」事について爭ふ時、一つの或主張を「正しい」と判斷し、別の或主張を「正しくない」と判斷して、論者は爭ふ。そこで互ひに論據・根據・證據を提示し、自分が正しいと判斷した理由を示す。論據・根據・證據を見て、それらが妥當か何うかを檢討して、結論としての「正しい」と云ふ主張が、認められるものか何うかを判定する――それが議論だ。だが、認められる・認められない、と云ふ結果を、主觀的にコントロールする事が出來る、と云ふ考へ方が日本では「主流」で、それを私は「をかしい」と言つてゐるのだが、多くの日本人の「をかしくない」と思つてゐる。けれども、なのに、その同じ人が、「主觀的に結論を決めようとして、勝ち負けにこだはる人間」なるものをでつち上げて、非難するのだ。訣が解らない。何をしたいのかと言へば、彼等は他人を非難し、自分逹御仲間同士でわいわい騒いで、面白がり、快を貪り、犧牲者を作り出して、いたぶつて、「カタルシスを味はひたい」のだ。ところが、さう云ふ自分逹の行爲の意味を、渠らは知らない。自覺しない。自覺が足らないのだ。
彼等は常に「場」を意識し、「内輪」かそれ以外か、を嚴密に區別する。そして、自分逹の「内輪」の中で物事を處理する――でなければ、自分逹の領域・テリトリから出て、「外部」に「干渉する」、と云ふ「惡い事」をするのだ、と考へる。日本人特有の「シマ」意識と云ふ奴だ。敵身方思考である。敵身方思考が即座に勝ちを求め、負け犬に成下がらない爲の保身の思考である事は論ずるまでもない。だが、彼等は、自分逹が「内輪」に留まつて「負けない」事を「誇り」に思ひつゝ、「外部に干渉する惡人」を叩きのめして自分逹の「誇り」を守らうとする。が、この時、内輪・外部の區別を超えた客觀性は意識されない。常に「自分の身方か・敵か」が問題になり、主觀的に事態は判斷される。「自分逹の側」にあれば「面白い」のであり、さうした「空氣を讀まない」態度は「好い気になっている」のだ。しかし、さう云ふ「島國根性」でやつて行ける時代でない事が、どうして解らないのだらう。
平成二十一年十一月八日
Operaで、このサイトはスタイルシート有效・このサイトはスタイルシート無效、のやうな設定は出來ないだらうか。
txqzなんかは、明かにスタイルシート無效の方が便利なんだが。
あと、廣告關係の埋め込みコンテンツをブロックする機能。クラウドコンピューティングとか言つてゐるけれども、外のサーヴィスの機能を呼出して、廣告なんかを表示する時、餘計に時間がかかつて本文がなかなか出て來なかつたりする。あれも、このドメインへのリソースの呼出しはしない、みたいに設定できると便利だ。
あと鬱陶しいのは「忍者アクセス解析」。ぐるぐる囘る手裏剣の畫像はえんえん表示されてゐるのに、なぜか本文が出て來ないサイト。
平成二十一年十一月八日
txqz tmbr - 日本の国語教育では教科書に文学作品を掲載する場合が多く、作品の文学的解釈に偏りすぎる傾向がある。英米の...
平成二十一年十一月八日
2009-11-08 - A blog? with Σαιτω
Shift-G
平成二十一年十一月八日
asahi.comの内部リンク、Operaで效かないところがある。何なのだらう。
あと、Amazonの廣告。あれは、埋め込みコンテンツの筈なのに、讀込むと、なぜかOperaでは「ページを移動した」と勘違ひする。「進む」「戻る」が效かないと思つたらAmazonの廣告を大量に讀込んでゐるぺーじだつたりする。これは何處が惡いんだらう。
何れにしても、Operaの側では問題を認識してゐないんだと思ふ。問題が起きてゐるので、修正して下さい。
平成二十一年十一月八日
memo:相対主義 2
歐米の相對主義と云ふのは、キリスト教の絶對者の觀念に對して人間の相對性を意識したところに淵源があります。そして、キリスト教的價値觀に基づいた神學論爭として全ての論爭が行はれてゐた状況を、近代に反省する際、キリスト教的價値觀から獨立した科學的論爭として、相對的な價値判斷を意識した事が出發點にある――さう私は認識してゐます。God中心の價値觀から個人中心の價値觀に轉換が行はれたわけです。その時、個人個人のそれぞれの權利を認める、と云ふ事になる。そこで相對主義の考へ方が出來た。
が、さうした思考の枠組に對して、ベルグソンなんかが反省を促してゐて――神にしても個人にしても、主觀が中心である點で何も變らない。その主觀を小さくして行つても、最終的に相對主義では主觀が殘つてしまふんです。そこで主觀を放擲する考へ方として、ベルグソンが形而上學入門だかで述べてゐた方法――小林秀雄も影響を受けてゐます――それは象徴主義的な方法として、田中晃氏が述べてゐたのですが、フランス象徴詩の理論であり、その影響を受けたT.S.エリオットにも見られる考へ方です。事實それ自體に「主觀の中心」を委讓しようと云ふ考へ方です。
この立場だと、自己の主觀と云ふものは閑却され、「こだはるべき自己」なるものを持たない事に「する」わけです。意識的に自己を滅却するのであり、それが最優先の話になる。問題は物それ自體にある、と云ふ訣で、物それ自體に何うしても「語らせなければならない」わけですから、自己なるものの都合は全く問題外のものとして度外視されるわけです。
――もちろん、これらの立場・理論は、全て説明の爲の圖式化として捉へる事が出來ます。その點、自己の都合・自己の價値觀といつたものを滅却する方便として捉へる事も出來ます。結果として、自己の立場を主張する事を自制し得てゐるか何うかが、個別個別の議論に即して問題とされねばならない訣で、抽象的な理論の部分で爭つても「意味は無い」と云ふ話にもなり得ます。が、一方で、「自己なるものを保持し、擴張する」と云ふ價値それ自體を、肯定するか・否定するか、と云ふ部分で、我々は根本的な合意をしなければなりません。價値相對主義と、私の立場(象徴主義の系列に連なる筈ですが、絶對主義ではありません、全く觀點が違ひます)とでは、自己なるものそれ自體に對する認識、或は價値の置き方が決定的に異るのであり、その時點で實は爭ひが生じてゐると言ふ事が出來ます。何れにしても、「自己を極限まで小さくする」のと「自己を滅却する」のとでは、決定的な差があるのであり――それが絶對的な差である事を言ふのは可能です。が、私としては徹底的な自己の滅却こそが必要であると思はれます。

平成二十一年十一月七日
ここんところいろいろなところとか「2.0」とかに書き捲つてるから……。
平成二十一年十一月七日
「けまらしい」と「メシマズ」

個人的には「けまらしい」はそう悪い言葉じゃないと思う。従来の語彙ではうまく表現できなかった感情を指し示す言葉だから、屋上屋を架しているものではない。伝統的な言葉を意味もなく殺し、文化の断絶を招くといった弊害がないでしょう。

「便利だ」「實害はない」と云ふ説。
……さうだらうか?
平成二十一年十一月七日
memo:相対主義

永井さんが説明するように、相対主義とは、相対主義を絶対視するという意味では、絶対主義なんです。その水準では。だから絶対主義を100%完全に否定する相対主義はない。でも、前述のただ1点を除けば相対主義なんだから、ほとんどの問題については、絶対主義と対立することになります。

「相對主義」なるものがあるからには「絶対主義」があるとの説。
……何うだらう。
物事を絶對化するとか相對化するとか――さう云ふのを「主義」として行ふ事、それ自體に大變問題がある。
物に對して、自己なる存在を設定して、主觀を通して物の影を自己に投影する――物を見て、それを自己に投影すると、必ず主觀で歪曲される、自己に投影されて認識された像は全て歪んでゐるのである、だから個人の「正しさ」を互ひにぶつけ合ふのは意味がない――それが價値相對主義の論理となる。それに對して……
自己を滅却して、物それ自體に飛び移る、それによつて物それ自體と一體化する――それが人の正しい態度だ私は考へる。これは普通「對象をありのまゝに見る」と云ふ態度なのだが、それが「絶對主義」と呼ばれなければならない理由はない。
……斯う云ふ説明をすると、野嵜が電波を受信してゐるとか、又をかしな事を言つてゐるとか、非難される事になるわけだが、ベルグソンが思想と動くものだか形而上学入門だかで、さう云ふ説明をしてゐるのだ。
平成二十一年十一月七日
象徴的表現と云ふ事に就いて論じた田中晃氏の講演の記録がある。相對主義に對する批判にもなつてをり、興味深い。既に絶版であり入手困難である事、内容的に懇切叮嚀な説明が必要である事、また理解に必要な記述がそれだけ必要である事もあつて、以下、長文になるが厭はず轉載する(もちろん全文ではない、一部である)。小部數のパンフレットであり、校正が行屆いてをらず、誤字・脱字が多いが、氣附いたものは一往訂正した。
田中晃『日本芸術の一特色―象徴美について―』(新教育懇話会叢書第四十集)

由来、表現は、主観と客観との対立を前提し、主観を客観に投射したときの、その客観の性格、いいかえれば主観の意味を宿した客観であると解されてきた。所謂「花笑い鳥歌う」の表現がそれであって、理論的には感情移入説の技を以てこれを説明した。感情移入説には種々の批判が加えられたが、その批判そのものの立脚地も、所詮は感情移入説の範囲を出るものではなかった。

しかるに最近における表現理論の精錬というのは、この立脚地を根柢的に動かしたものであって、主観と客観との対立以前にかえり、むしろ客観を奥へ奥へと表現の主体を求めて、ついに形而上学的実在に到達し、この実在の表現活動の尖端に、人間的主観を位置づけようとする見方なのである。従来は、花笑い鳥歌うのは、人間の体験を自然に附与したものと解したのに対し、いまや吾々は自然そのものの表現が花笑い鳥歌うのであって、人間的体験そのものが、既にして自然の表現性の最も勝義の発現であると見るのである。端的にいえば、吾々は敢て「表現する自然」を考えるのである。

しかし、いかにしてこのことを云い得るか。近世観念論の洗礼を受けた以上は、この陳腐なる定石的質問を予想しなければならぬと共に、答えるに容易ならざるこの反問のために、哲学は観念の領域内の粉飾を事として、実在の消息を見誤ったものと云い得るであろう。

吾々の主観の外にある自然が表現するとは、いかにして云い得るか。自然が表現するというとき、その自然は既に吾々の主観によって爾か解釈されているのではないか。この反問に答えるために、吾々はこの反問を逆に遡って見るより外はない。ただ、ここにはこの道程の曲折を辿るのが目的ではないから、簡潔にその骨子を述べるに止めたい。

さて一つの「もの」を対象として立て、その如実の構造を解明するのが認識の立場であって、そのときの主観がカント的な認識主観乃至意識一般であるが、それは「もの」を対象化しているかぎり、「もの」の外に立っている。対象が全自然であっても、なおその外に立ち得るのが認識主観の権能であって、カントはこれを以て自然への立法者とし、ヘーゲルは世界を思念する主観は世界を自己のものとすると考えた所以である。しかし自然へ立法し、世界を我がものとする認識主観は、そのことによって対象を主観化するのではなく、かえって最も客観的に、その法則性を把握しているのである。認識の普遍妥当性はそこに成立するのであって、これは認識主観が主観性を極小にした主観としての意識一般であることに基くのである。

うにして認識の立場は、対象の客観的把握を以て本来の使命としているが、しかしそこに認識が成立しているかぎりは、そのかぎりにおいての主観性を脱却しているとは云い得ないのであって、それはいかに認識主観といえども具体的には経験的主観に担われて存在するより外はないことによって、またいかに意識一般とはいわれても、なおそれが意識であることによって、免れ難い制限である。別の面より見れば、認識主体の描く世界像が、なお像であり、仮説であることによって、このことは明かであろう。主観が客観の外に立ってこれを観る「主ー客」関係において、その関係が肯定的であり、相応的であるかぎりにおいて、認識は成立する。認識論とはこの関係の説明であって、客観に優位を置いて、主観が客観を映すと見るのがその一極であり、主観に優位を置いて、主観が客観を構成すると見るのが他の極である。認識論上の種々の立場はこの両極の間にあって、そのいづれかへ、何ほどかの程度において傾いている。傾いてはいるが傾くことが主旨ではなく、根本において「主ー客」の相応を如実に説明しようとする。もしこの相応が破れるならば、そこに認識の限界に撞着せざるを得ない。ものがあって、これを主観に映すと考える模写説においては、映したものが主観性に左右されて物の真相でないことより相対主義に傾き、主観によって対象を構成すると考える構成主義においては構成したものがであって物自体でないことにおいて、認識の限界を自覚せざるを得ない。

しかし、これらの自覚は認識の領域内において、「主ー客」の相応関係を肯定しながら行われた自覚である。認識主観は客観の外に立ってこれを見るものであるが、かかる関係そのものがいかにして可能であるかは、認識の立場自体からは根本的に反省されないままに残っている。しかし認識の立場が客観を主観化するものでなく、その如実の相において捉えることを本旨とするならば、認識主観の自覚は、およそ認識の事態そのものに対して向けられなければならぬ、物を認識するということは、物が存在するということではないのである。吾々は物を認識してのみ、その物の存在を立言し得るけれども、しかし認識主観は、物が意識においてのみ存在するのではないと観る意識なのである。この意味において認識主観は自己矛盾を含む。主観性を極小にした主観であるといった所以である。しかもこの極小の主観性をなお残すかぎりにおいて、客観と主観との相応関係が肯定され、そこに認識を成立させるのであるが、認識の事態が存在の事態ではないと観ることによって、吾々はこの相応関係そのものを原理的に反省するに至る。カントもこの反省に至ったが故に、認識によって成立した経験界と別個に物自体の世界を相定した。ただカントはこの二つの世界を二元的に放置したが、それはカントの反省が認識主観の主観性を極小にまで精錬したに止まって、この極小の主観性をも更に一擲するに至らなかったからである。認識主観は対象の外に立ってこれを観るものであったがひとたび認識の事態より存在の事態にを転ずるならば、認識主観もまた存在の世界に座を占むるより外はない。認識主観が、その極小の主観性をも一擲するというのは、認識主観のあるべき場所が存在の世界より外にはないと観るときである。このとき客観の外にあった認識主観が客観の中に帰入する。それと同時に客観は内に主観を含み、対象は内に意識を宿すことになる。いままで、意識は対象の外に立って対象を映すと考えられたが、ここに至って対象は内に意識を含んで自己が自己を映すと考えられる。自己が自己を映すということ、これがほかならぬ「表現」である。

内に主観を含む客観、自己意識的な対象、それが具体的な「もの」であって、「もの」の自己表出が表現にほかならない。具体的な「もの」の表現作用の、いずれか一面の抽象によって、「主観ー客観」、「意識ー対象」などの別が措定されるに過ぎない。かかる「もの」を私は従来「能産的自然」と呼んで来た。人間はこの能的自然の勝義の表現性をなすものにほかならない。大局的にいえば、文化は自然の表現である。人間が自然に対立して、人間的意味を自然に附与することによって表現が成立するのではなく、人間存在そのものが自然の表現として成立しているのである。自然の表現の触手として、人間は動いている。

自然が表現するということが何故に云われ得るかは、それ故に、人が「物」に行くことによって直証されるよりほかはない。人がものに行くとは、人がものになることであるから、それは感情移入的に行われると解されるかも知れないが、感情移入説の主眼は、人がものになるのでなく、物を人に化するのである。人がものになるには、人がおのれを無にしなければならぬ。従来の哲学理論において主観性の純化を説いたのは、いずれもおのれを無にする道程を分析したものであって、さきに触れたとおり、認識主観が主観性を極小にした主観であるというのも、その証左である。けれども、そこに先見的自己を立て意識一般を説くかぎり、主観性は極小であっても無になってはいない。真に自己を無にしたときは、自己は対象と対立するものではなく、従って既に対象を持つものではない。しかし、そのときは何等の立言も可能となるのではないか。故に「言詮を絶す」という。が、「言詮を絶す」という立言もまた不可能ではないか。それもその通りであろう。けれども、吾々はこの種の反問が既に詭弁的であることに注意しなければならぬ。吾々の論議の内実は、先見的自己のごときものを立てて対象を構成するという見方と、その先見的自己すらが既に対象の内にあり、いわば対象そのものの自覚点であるとする見地との間に、原理的差異のあることを指摘するにある。

……。

平成二十一年十一月七日
http://www.econ.hit-u.ac.jp/~makoto/dogen.html
平成二十一年十一月七日
新語の発生と語彙の低下: まじかんと雑記

既存の言葉では表せない新しい概念が生まれた時にそれを表す新しい言葉が作られるのは理解できる。しかし既存の言葉で表せるものにわざわざ新語を与えるのはいかがなものか。

賛成。賛成。大贊成。
ところで、語彙は低下するのだらうか。語彙が低くなる。低い語彙。
……語彙力?
平成二十一年十一月七日
先日、田村書店で村岡典嗣著・前田勉編『新編日本思想史研究 村岡典嗣論文選』(東洋文庫726)を買つた。週末の東京古書會館の古書展に行つたら、村岡氏の『本居宣長』(岩波書店)が出てゐたので、それも買つた。
平成二十一年十一月七日
http://www.geocities.jp/janggijp/2009-11.html#D05-1
平成二十一年十一月七日
村岡典嗣『増訂版 本居宣長』「増訂にあたりて」

本書は、著者が十七年前の舊著……を、その後、世にいでたる研究資料……によつて、補正しまた論證を加へたものである。舊著は、著者が、未だこの方面の學問を、生涯の仕事としようとの決心もつきかねてをつた時分、かつまた、世界大戰の犧牲となつて廢刊した、横濱の一外字新聞の飜譯記者を主な職として、殆ど全き一日の休暇をも有しなかつた、閑のない生活状態の間に試みた研究とて、資料の聚集とて十分でなく、かつ、習作らしいところが脱しかねてをり、今日十分に改めようとすれば、或は全く書換へねばならぬと思はれるが、今はその暇も有しないから、今囘の改訂も、大概の論旨や結構は、つとめてそのまゝとして、たゞ部分的に之を試みた。なほまた、新資料の使用も、それによつて諸々の事實の誤を正し得たものは、固より、なし得た限りこれを爲したが、當時十分な資料なくして下した見解の、新資料の提供によつて、論證されたやうなものに對しては、努めて原形を維持して新資料を補註するにとゞめた。けだし、或程度の資料によつて(思ふに、資料は決して完全を、期し得べく又待つべきものでない)、正當な結論に逹するといふことにこそ、歴史的研究の主たる學問的意義は、存すべきからである。……。

平成二十一年十一月七日
中學から高校の頃にやつてゐた部活で、レポートを隨分書かされたのだけれども、てにをはの整つた文章・ちやんと内容/論理の一貫した文章に纏め直す事が出來ないなら、參考文獻を丸寫ししろ、と教はつた。また、よくわからない用語は使ふな、調べて、自分が知つてゐる用語に言換へろ、と教はつた。
平成二十一年十一月七日
memo:相対主義

永井さんが説明するように、相対主義とは、相対主義を絶対視するという意味では、絶対主義なんです。その水準では。だから絶対主義を100%完全に否定する相対主義はない。でも、前述のただ1点を除けば相対主義なんだから、ほとんどの問題については、絶対主義と対立することになります。

私は、「相對主義が根本的には主觀主義である=感情論である」と云ふ理由で、相對主義を批判してゐる。それに對して、徳保さんは「もちろん、根本的には主觀主義です、けれどもそれを除けば客觀主義なんです」と反論してゐるやうに見える。「感情的なのを除けば理性的でせう」と云ふ「論理」だ――が、それは詭辯だと思ふ。
最終的に感情論に逃込まれるのでは、理性的な議論・討論は出來ない。徳保さんは、相對主義を標榜する點で私と意見が合はないけれども、ちやんと他人を理解しようとすると云ふ美徳を持つてゐる。けれども、それは徳保さんが「感情論に逃込まない」と云ふ自制心を持つて自重してゐるから――しかしそれは、徳保さん個人に特有の美徳でこそあれ、相對主義の理論それ自體とは何の關係もない。
相對主義には豫め理論的に論者の逃げ道が用意されてゐるのであつて、それが問題だと思ふから私は相對主義を否定してゐます。

平成二十一年十一月四日
おもちくんと青Gくん
平成二十一年十一月四日
ミーシャ今日も食べる
平成二十一年十一月四日
やつぱり私の誤讀ではないと思ふ - 闇黒日記2.0 - Yahoo!ブログ
整理してみた。
價値相對主義の人は、價値においては個々人それぞれで異る事を大前提としてゐるのに、用語は自分のものが絶對であると確信し切つてゐる。用語の相對性を理解してゐないのでは……と思はせられる事が、今までウェブで論爭してゐて何度もあつた。
いろいろがんばつて思ひ出したのもあるけれど、メモ8さんが「野嵜がリンクを張つた」事を「轉載」と言出したので、あー用語に問題があるなと思つて、そこから考へ直したら、結構すつきり説明できた。メモ8さんには認めて貰へるだらうか。
平成二十一年十一月四日
と言ふか、價値相對主義が、「全ての價値は相對的」と云ふものならまだいいのだけれども、結局は「他人の價値は相對的」と極附ける事で自分の價値を絶對化し、自分が負けないやうにしようと云ふ理論武裝でしかない事が非常に多いので、本當に困る事が實に多いのだ。いや、實は、「全ての價値は相對的」と云ふ「良い價値相對主義」なんてものは成立たないのであつて、全ての價値相對主義者は「價値相對主義なんて認めない」と云ふ價値觀を絶對に認めない。即ち、價値相對主義だけは絶對の價値であると心に決めてゐるので、それは「自分の價値」だけは絶對に讓らないと云ふ思想にほかならない。が、それなら論理的には破綻してゐると言はざるを得ず、それを「信じる」のだと言ふのだから、價値相對主義は常に必然的に感情論になつてしまふ。
たちの惡い事では、「勝つ爲の偏見主義=Kirokuroらの立場」と「負けない爲の價値相對主義=七鍵氏らの理論武裝」とは全く變らないのであり、何れも對話それ自體を否定するもので、自己の主義主張を他人に暴力的に押附ける御都合主義と言つて良い。だから私は、一見ものわかりの良ささうな價値相對主義も、ものわかりの惡いだけの粘着と同樣に、「自分の立場に固執する絶對主義」として憎むのであり、嫌ふのであり、非難するのだ。
平成二十一年十一月四日
ヤフー、ログインなしで「My Yahoo!」の利用が可能に -INTERNET Watch

なお、メール機能やマイ・オークションなど、個人の情報や設定に紐付くサービスや、

紐付く|悪態のプログラマ
日本語調査 『ひもつく』という言葉をどう思いますか?/日本語Q&A 動詞関連(8)
紐付く? - lambda {|diary| lambda { diary.succ! } }.call(hatena)
「ヒモツク」なんて言葉、聞いた事がない。氣持ち惡い言葉だと思ふ。と言ふか、こんな言葉は「ない」よ。「ある事にしたい」人はいつぱいゐるだらうけれども――日本人くらゐ言葉の使ひ方で保守的でない國民もない。何でそんなに新しい言葉を「正しい事にしなければならない」のだらう。
平成二十一年十一月四日
Latest topics > 銀座アップルストアのCSS Niteに行ってきた - outsider reflex

アップルストアでオシャレな会場で開催される本来のCSS Nite(ですよね?)には初めて参加したけど、実にけまらしいというか、いてるだけで何故かイライラしてしまいました。

「けまらしい」と云ふのは、本當に最近の「造語」で。
けまらしさについて - こせきの日記
ここで創作された言葉を皆が面白がつて使ひ始めたのだと、さう云ふ事らしい。
別に「たとえば」と云ふ事で言葉を作つて見るのは構はないが、それを大勢の人が面白がつて使ふ――その大勢の日本人の考へ方が解らない。なぜ「面白い」と云ふだけの理由で言葉を使ふのか。「面白いのはいい事だ」と云ふ變な思想が日本人の間には昔から「ある」らしいのだが、その爲に變な言葉を公共の場で不特定多數に向かつて言ふのは、何なのだらう。
言葉の使ひ方は保守的であるべきであり、保守的な立場から正しい言葉遣ひと云ふものは定められなければならない……のだが、「正しい言葉」の定義すらも解らない專門家が大量に存在する。既成事實として言葉が「ある」なら、兔に角それは「正しい」のだ――さう云ふ横着な判定の方法を、專門家ほど威張つてやる。横着を正當化するのに「專門家がやつてゐる」と云ふ理由ほど便利なものはない。言葉に關しては、專門家が平氣で横着をやるものだから、素人も安心して横着をやらかし、威張つてゐる。日本人は何うしやうもない。

平成二十一年十一月三日
化物語ブログ
平成二十一年十一月三日
すべての文章には誤読される自由がある - 電脳如是我聞 - 長尾メモ8 weblog
先方さんも怒つて書いてゐるから反論に混亂があるが、要は「議論とは何か」を定義してゐるとの事。確かによくよく見たら「定義」が「ある」からこちらの勘違ひだ。申し訣ない。

議論の面白さの本質は、異なるテーゼが、ぶつかり合った結果、止揚されることであり、相手を言い負かすことではない(と自分は思う)。だからこそ、勝つことだけが目的になるようなディベート型の議論は、やってて面白くないし、やりたいとも思わない。

最近は「誤讀」「誤讀」言ふ人には逆らはない方が良いと學んだから謝罪するよ。
私は、「議論」「論爭」と、「論戰」とを、概念上だけでなく、用語上も區別する習慣がある。「自分が正しいと思ふ意見を互ひに主張し合ふ議論=論爭」と、「外觀的に議論つぽいけれども、目的が相手を言負かして好い氣になる爲の言爭ひ=論戰=喧嘩」との二項對立で考へてゐると云ふ事。「メモ8さん」さんは、後者の事も前者と區別しないで、同じやうに「議論」と言つてゐるから、私は勘違ひした。
異る概念が同じ言葉で表現されてゐると、わかりづらい。だからと言つて自分ルールで分けて考へてゐても、同じ言葉で表現する人がゐて――それを最近の私はぼけてゐるから「誤讀」する事がしよつちゆうある。
平成二十一年十一月二日
ただ――先方のコメント欄に書込んでゐる間に氣附いたんだが――議論の目的が「面白さ」であると云ふ點、價値觀の衝突は「止揚」なる結論でしか解決出來ないと云ふ點、私は異論がある。
私にしてみれば、二つの意見が衝突した時、理論的・實證的な理由で一方が勝ち、他方が負ける事は「ある」のだし(「止揚」なる結論になる必要はない)、その時に(負けた側が悔しがつて「わだかまり」を殘さうが殘すまいが)勝つた側の正しさは明かになる筈だ。その正しさを「認めない」と言ひたいが爲に「面白さ」「止揚」と言つた表現をしてゐるとすれば、七鍵氏と同じで、私の意見とは全く相容れない「自分が負けない爲の主張」の主張であると云ふ事になる。
平成二十一年十一月二日
……と言ふより、斯うした下らない言爭ひすらも「議論」の一種だと勘違ひしと私は書いてゐるのだし、それが私の言ひたい事の核心なのだから、先方だつて私の言つてゐる事を「誤讀」してゐるのだ。
平成二十一年十一月二日
七鍵氏の主張に典型的に表はれてゐたのだが、「議論とは價値觀の衝突である」と云ふ定義に對して「價値觀の衝突には、勝ち負けはあり得ない」と云ふ結論を簡單に引出す人がゐる。これが私には理解出來ない。なぜなら、價値觀について、良し惡しを言ふ事が許されないなんて事はあり得ないからだ。
例へば、「人を偏見に基いて判斷する」事の是非は、論じられないか。
自分の信じてゐる事をひたすら繰返し叫ぶ式の「言爭ひ」ならば、それは「良し惡しの判定」には繋がらないだらう。聲の大きさだけでは何も解らない。が、それなら罵倒とか粘着行爲とかの暴力を使ふのと變りがない。それらの方法で他人に自分の價値觀を押附けようと言ふのは、それは論戰を仕掛けてゐる事にしかならない。
が、自分の價値觀を基にした價値判斷の優位を主張するならば、話は變る。自分の價値觀に基づいた判斷の正しさ・有用性・有效性、その他諸々……それらは、評價可能だ。その時、價値觀それ自體が評價されると言つて、何が惡いか。ところが、價値觀それ自體は絶對不可侵であると云ふ價値觀で以て、價値觀に基いた價値判斷を強要する――それは許されない事だ。否、強要はしてゐない、一方的に主張してゐるだけだ。ちよつと待て。それは論戰のやり方だ。
價値觀を主張する限り、議論と云ふもの・論爭と云ふものは成立たない――さう云ふ發想それ自體に、私は反對だ。論戰に反對だからだ。ウェブで論戰を仕掛けようとする全ての態度に、私は反對する。
何んなにマイルドな口調で語つてゐたとしても、一方的に喚き散らしてゐる主張なら、それは論戰を仕掛けてゐるのと同じだ。聲の大きさで、他人を壓倒する結果を期待してゐるのなら、それは暴力的な行爲だと言つて良い。論爭・議論ならば、主張は客觀的に批判され、評價されて、判定されなければならない。科學における反證可能性と云ふのは、某G師も言つてゐる事だから、或意味簡單な話だ。だが、價値觀が絡んだ問題でも、實は限定的な範圍で檢證は可能であり、さうした檢證をも含めて全て「價値觀絡みだから」と云ふ理由で否定し去るべき必然性も必要も全く存在しない。宗教學においても、價値そのものを扱ふ神學が科學でない事は指摘されてゐるが、價値中立の立場から、信仰を持たない人間にも關はる事のできる宗教史學や狹義の宗教學がある事は知られてゐる。けれども、宗教の中で神學論爭と云ふものがあり得るやうに、同じ價値觀を共有してゐる人間同士が、互ひに認める價値觀を基に意見を戰はせる事は――宗教外部の場合においても――可能である。その共通する價値觀なるものが、屡々「ある」と云ふのが私の立場だが、價値觀の相違を理由に議論それ自體を認めない立場の人々は、價値觀の對立が生じた際、常に「共通して認める價値觀は存在しない」と言張る。が、同じ日本人同士で、そんなに我々は價値觀が根本的に異つてゐるものなのだらうか。例へば七鍵氏と私との間で、價値觀は根本的に異つてをり、異人種・異國民・異星人……程に「話が噛合はない」ものと、言へるだらうか。價値觀、價値觀、と言ふ人に限つて、案外その邊に無神經で、「違ふ人間なのだから違ふ價値觀を持つてゐるのは當り前」と單純に割切つて、互ひの價値に共通の土臺がある事を認めないものだ。しかし、私には、それ程單純な割切りは、認められない。もし互ひに全く異る價値觀があると言ふのなら、我々は一つの共同體を形成する事が出來ず、一つの社會で暮して行く事は不可能である。「最低の道徳」としての法律なるものですら、そこでは形成不可能である筈なのだ。
或程度は互ひに共通する價値觀があるものと看做して、我々は一つの社會を作つて、一つの國家の下で暮してゐる。ならば、そこで我々は、價値觀に關する議論を、限定的であつても、出來る筈である。それは一種の神學論爭になるが、神學論爭が理性拔きの感情論だけで行はれ得るものと期待してはならない。寧ろ、限定的である事を自覺して、我々は理性的に「神學論爭」としての價値觀の論爭を行ふ必要がある。そして、そこでは、科學の單純な論爭と異つて、ややこしい檢討が要請される事になるけれども、愼重に檢討を進める努力をしても良い筈だ。場合に據つては、相違する價値觀を互ひにすり合はせる努力だつて、して良い。實は、それが多くの人に認められない事であるのだが、自分の價値觀に拘らねばならない場合しかないだなんて、それこそあり得ない話だ。しかも、案外「我々の價値觀」は、より上位の價値觀の下にある事が多く、その時には、より上位の價値觀(我々が互ひに認めてゐるものであるならば)に、より合致する下位の價値觀(その次元で議論してゐるならば)を、我々は受容れなければならない。
平成二十一年十一月三日
Wikipedia‐ノート:検証可能性 - Wikipedia
平成二十一年十一月三日
http://www.j.u-tokyo.ac.jp/~shiokawa/ongoing/books/popper.htm
平成二十一年十一月三日
價値相對主義者の人々がよく言ふのは、人と人との間には價値觀の相違があり、それらは相容れないから、議論は成立たないし、議論の結果が正しいと云ふ事はあり得ない、と云ふものだ。
けれども、人と人との間には、共有する價値觀が全く無い、等と云ふ事はあり得ないし――少くとも、同じ日本人同士で、價値觀を共有しない、等と云ふ事はあり得ない。ならば、價値の議論においても、我々はより上位の・根本的な部分で共有する價値觀を基にして議論をする事が可能であり、その共有する價値から必然的に引出される或結論を認め合ふ事が可能である、と言ふより認めなければならないと云ふ事があり得る、と言つて良い。
と言ふより、共通する價値觀の存在を我々は――價値相對主義者の人であつても――認めなければならないし、ならば「共有する價値觀」を「我々の間では絶對的なもの」と看做し、それを基に引出された「相對的な正しさ」と云ふ結論を、我々は、或共通する價値を「絶對的に」認める者として、「絶對的」に認めなければならない。そこで價値相對主義を持出して「私とあなたとの間では價値觀が相違する」と言つても、何の意味もない。既に我々は「價値觀を共有してゐる」のであるから。
もちろん、日本人と歐米人、或はイスラム教徒、支那人、……、と言つた對立を考へる事はあり得るし、その場合には價値相對主義が重要な意味を持ち始める。が、歐米人と日本人との對立を考へる時、我々日本人が明治維新以來、近代化=歐化を目指してゐる事實もまた考へなければならない。その時、我々の「對立」の概念自體が根本的に崩れ去つてゐる。日本人は歐米人と、確かに「事實としては」價値觀に相違がある。けれども、我々は、我々の價値觀に固執するのではなく、歐米人の價値觀を學び・受容れようとしつゝある。となると、理念的・觀念的に、或は、當爲の論として、我々日本人は、歐米人の價値觀に從ひつつあるし「從はねばならない」と云ふ考へ方をしなければならない――それに對して、價値觀の「對立」を強調して、自らの立場に固執しようとするならば、それこそ非難されねばならない事になる。事實としての價値觀の對立が、對立を否定する價値觀によつて否定される――それが「べき」論であるのだが、既に我々日本人は、或一つの「べき」論を認めてゐるのであり(「日本人は歐化すべきである」)、それに基いて議論をしなければならない領域が既に「ある」のである。
私は思ふのだが――多くの價値相對主義者の人が、事實に即した考へ方をしないで、理念的に考へてゐる。價値相對主義者は、人の信ずる價値は人それぞれ全て異る筈である、と信じてゐる。けれども、人は價値觀を或程度共有してゐるものだ、と私は見る。根本的に・徹底的に、人同士で價値觀が異る筈はない。少くとも、同じ日本人同士で、全く異る筈はない。共通する部分は「ある」筈だ。大抵の人が同意するであらう價値觀と云ふものは、指摘出來る筈であるし、それを基に考へるならば、大抵の人が同意せざるを得ない結論が引出される筈である。さうした檢討は、なされる事があり得ないだらうか。私はあり得ると思ふし、その程度の同意を念頭に置いた議論と云ふものは――普通に多くの人が普段からやつてゐる事ではないだらうか。よつぽど特異な價値觀を常に表明し、それに從つて主張を展開してゐると云ふ人は、先づゐない筈である。その「特異」と云ふのも、表面的な事象のレヴェルでなく(假名遣ひが何うとか、そんな表面的なレヴェルで話をしようとする人が實に多い)、そもそもの人生觀・世界觀・宇宙觀の次元での事でなければならない。しかし、私の知る限り、價値相對主義を主張する日本人で、他の日本人と懸離れた人生觀や世界觀を持つてゐて、それを常日頃から表明してゐるなんて人は、一人もゐない。程度に差はあれ、日本人はみな日本人である。ならば、日本人の共有する價値觀に基いて、我々は議論する事が可能だし、結論に至る事も可能である。
厄介なのは、既に述べた通り、「日本人が從來から共有する價値觀」と「日本人が明治以來持つべきとされるやうになつた價値觀」とに、質的な差がある事だが、その邊も意識して、それでも議論しようとする事は、依然として必要な事ではないだらうか。少くとも、「日本人が明治以來持つべきとされるやうになつた價値觀」において、議論は推奬される事なのである。
平成二十一年十一月三日
或は、人の表面的な價値觀――主義主張――は、より根本的な價値觀に照らして、檢討され、反省されなければならない。さうした檢討は、誰にでも可能だ。價値觀の問題であつても、その價値觀を信ずる・信じないに拘らず、論ずる事は可能となる。が、その檢討が、極めて「危險」であるのは、そのより根本的な價値觀の部分で、論者がコミットする事もあり得るからで、他人の事として議論するのは結構だが、ところがそれが自分自身の事としても考へなければならない場合も生ずると云ふ事は、念頭に置いておいていい。日本人が餘所の國の人の價値觀を論ずるのは割と自由にできるが、同じ日本人の價値觀を論ずる時には、結論も論理的な判斷も、自分自身に容易に跳ね返つて來ると云ふ事だ。が、何れにしても、檢討それ自體は客觀的に出來るのであり、主觀が主題だからと言つて全て主觀的な判斷と看做すわけには行かない。最終的には、共有する價値觀を基に、「あなたも信じてゐる價値でせう、その價値の定める『正しい事』に、あなたは反する主張をしてゐる」と判定する事は、客觀的に可能であり、その場合、主觀的な極附けによる非難ではなく、客觀的な判定による批判と云ふ事になる。さうした判定・批判が妥當なものか何うかで爭ふ餘地はある(場合がある)が、判定・批判が「可能か何うか」それ自體について爭ふ餘地は案外ないものだ。議論によつて自説を辯護する事は可能だが、議論それ自體の可能・不可能を論ずる事は出來ない、と云ふ事。なのにそこで・議論それ自體の可能性について爭はうとする人――と言ふより、爭ふまでもなく、自分の主觀は一切の批判を受ける事はないものだ、と決めてかかつてゐる人が、ウェブには餘りにも多い。
平成二十一年十一月三日
中央情報局企劃部 「日本國憲法」無效論

人間のやることに完璧などあり得ないと雖も、昭和21年の憲法改正は、外形的にも極めて瑕疵が多く、法治の原則からして、これを認めることは、非常に問題であると言はざるを得ない。

大日本帝國憲法改正試案 ver. 3
平成二十一年十一月三日
明治節なので國旗掲揚

平成二十一年十一月二日
おもちくんと赤ミーシャたち
平成二十一年十一月二日
クリーチャー勢揃ひ
平成二十一年十一月二日
【元麻布春男の週刊PCホットライン】 Microsoftが無償提供するアンチウィルスソフトの意義

平成二十一年十一月一日
WindowsXPのファイル共有は何うしてこんなに糞なんだらう。
そもそもWindowsのネットワークの設定は腐り切つてゐる。何箇所にもネットワークの設定があつて、それぞれ微妙に似たやうな違ふやうなわけのわからない設定を弄る項目が載つてゐる。しかも、XP HomeとProfessionalで出來る設定が違つたりする。
おまけに、共有にも、普通の共有と簡易共有とがあつて、それはネットワークの設定とは別に、フォルダオプションで設定しなければならない。
ほかにも、ファイアウォールの設定や、ユーザの設定、その他。これらは全てネットワーク關係の設定なのだが、ネットワークの設定として一元的に管理できるやうになつてをらず、全く出たら目に、OSのあちこちに設定する機能が匿してある。何でこんなぐだぐだな設計にしたのか。Microsoftの技術者が無能だから、と云ふ以外に理由は考へられない。
が、そもそもコンピュータのネットワークは、unix由來のものだ。そして、そのunixは、設計が古い上、設計をやつた人間の頭がをかしいから、不必要にややこしい作りになつてゐる。unixの設計者や信奉者は、それを「合理的」と稱して威張つてゐるが、一般人に使へないのだから不合理極まるものである事は論ずるまでもない。その上、unix以外のコンピュータで使ふ事等端から考へてゐない設計だから、根本的に設計思想の異るWindowsでtcp/ipなんかを使はうとすれば最う訣のわからない事になるのが當り前だ。MS-DOSとは整合性のないへんなシステムを、ネットワークの「標準」だからと言つて、Windowsユーザは押附けられてゐる。全てunixの設計が惡い爲に、多くのユーザが迷惑してゐるのだ。しかしunixユーザは、自分逹の作つたものが惡い筈がないと確信し、Windowsを嘲笑して悦に入つてゐる。
――要は、ネットブックとメイン機とが、同じネットワークにぶら下がつてゐるのだからと言つて、ファイル共有經由でファイルのやりとりをしようとしたら、なぜかメイン機だけが他のネットワーク上の機械から見えないと云ふ訣のわからない状況になつてゐるのに氣附いて激怒してゐるのだけれども。なぜ同じワークグループなのに、他の機械から見えないんだらう。
そもそもWindowsのネットワーク設定を何處からやつて行けば良いのかと云ふ情報が、ウェブ上に一つもない。「Windowsxp 共有」でぐぐつても、出て來るのは、通常のファイル共有と簡易共有の「違ひ」の説明だけで、「どうやつて共有するか」の情報ではない。或はGuestアカウントが何うの斯うのと云ふ情報。WindowsXPでファイルの共有をするには、そもそも、ワークグループとかの説明から必要だらうに、その邊の事は一切説明せずに=「解り切つた事」として全部省略して、「そこから先」の「高度な事」だけをひたすら説明しようとする。自分で困つた事がないから、「トラブルシューティング」を書く奴は適當にそれつぽい・もつともらしい事を書いて、自分一人で滿足してしまつてゐるんだらう。
Windows XP Home EditionとProfessional Editionとの間でファイル共有するやり方を説明した文書すらも、ウェブ上には「ない」のだ。兩者の「違ひ」は説明するけれども、具體的な使ひ方・繋ぎ方は、絶對に説明しない。IT關係のライターが一人の例外も無く、一般ユーザと無縁の存在で、即ち「この世に必要のない書き手」である事を示してゐる事實だが、もちろんさう云ふ風に思はれてゐるであらう事を、IT關係のプロのライター諸氏は一人も氣附いてゐないに違ひない。彼等は、解るやうに書く、と云ふ基本中の基本の事を知らないか、そもそもそんな事をしないのがライターの仕事だ、と確信してゐる。「わかる讀み手」にだけ「わかる」やうに書けば、皆尊敬して呉れる、と、そんな風に考へてゐるのだらう。でなければ、マニュアルかヘルプを丸寫しして、「初心者向け」と謳つて、ユーザを欺し、小馬鹿にしながら、「プロ」として威張つてゐるに過ぎない。何の役にも立たないと云ふ點には、殆ど全ての「プロ」のライターが當嵌る。
Windowsに、昔のやうな詳細なマニュアルが附かなくなつたのは、大變な不幸だ。私はWindows 3.0の時、マニュアルを全部讀んだ。WindowsXPや、今のWindows7にマニュアルは附かない。が、附いてゐれば、何とかなつただらうと思ふ事は、幾らでもある。今の、WindowsXP同士でファイル共有できないトラブルは、遂に解決出來なかつた。設定を弄り捲つて、何處を何う弄つてあるかを、私は把握してゐない。訣がわからないから、共有は切つたし、ファイアウォールは有效にしてあるし、その他、兔に角、穴になりさうな機能は全部切つてある。ファイルのやりとりは外附けHDD經由でやつた。線で繋がつてゐたつて、ネットワークとして利用出來ないんでは、何の意味もない。
平成二十一年十一月一日
あと、ネットワーク關係のプログラムは、なんでサーヴァとか餘所の機械とかに接續しようとしてゐる間、無反應になるんだらう。先方のが讀めないだけで、こちらのプログラムが反應しなくなる、つて、理解できないんだが。プログラマが無能だから――と解釋していいんだらうか。或は、Windowsが糞、と云ふ事?
平成二十一年十一月一日
實は、ヲタ向けアニメの制作者の方がまだ脚本をまともに扱つてゐるのであつて、「藝術的」なアニメ・アートとしてのアニメを作つてゐる人は全員、一人の例外も無く、脚本を輕視し、ストーリーそれ自體を馬鹿にしてゐる。新海誠氏ですらさう云ふ傾向があり、繪の美しさに文句を言ふ氣はさらさらないが、ストーリーの駄目な事はもつと非難されて良いと思つてゐる。
フジテレビでやつてゐる空中ブランコなんかは、これは最う何うしやうもないくらゐ脚本がクズで――ところが、クズな脚本でなければ「藝術的」にならない、と、制作者が信じ込んでゐるから、何うしやうもない。そして、世間の多くの人も、ストーリーがあるアニメはお子さま向け、ストーリーがぐだぐだでどうしやうもないアニメは藝術、と云ふ勘違ひをしてゐる。クズの脚本を使つてゐるアニメもゲームも映畫も、全てクズなのだが、映像が美しければ全ては濟はれる――と言ふより、映像が汚くても濟はれる、と云ふ通念すらも「ある」やうに思はれる。と言ふより、脚本が駄目であればあるほど、且つ、映像が汚ければ汚いほど、それは素晴らしいアニメーションである――と、そこまで勘違ひしてゐる人が、この世には相當數ゐるのでないか。「映像作家」の人が作るアニメーションが「シュール」で「グロテスク」なのは、脚本の惡さと技術のなさを端的に示してゐるものと言へる。
……なんで、きちんと纏まつてゐて、面白いストーリーと、綺麗で見易い繪とで構成された、TVで毎日毎夜オンエアされてゐる「良く出來たアニメーション」が、散々けなされなければならないのか。私には解らない。
平成二十一年十一月一日
ほしのこえで、携帶電話がなんで宇宙の彼方で使へるのか、私には理解出來なかつたのだが――その邊、普通の人は氣にならないのだらうか。
ギャグとかネタとかなら大笑ひなのだが、シリアスな話なのだから新海氏は大眞面目でこの設定を使つてゐるのだと思ふ。SFとして見るなら、この邊のリアリティのなさは致命的な缺陷だ。ええと小説か何かでフォローされてるんですか。映像の中では全然説明がないと思つたけれども。
平成二十一年十一月一日
「良く出來たアニメーション」を量産してゐるアニメ制作會社でも、をかしな事は澤山あるんであつて――變な思ひ入れがあつて、自分好みに話をしようとして、脚本家を更迭してしまつた擧句、自分で脚本をやつて、良い感じで始まつてゐた作品を箸にも棒にもかからない何うしやうもない凡作にしてしまつた、變な社長さんがゐたりするのだけれども。
平成二十一年十一月一日
AirのTVシリーズなんか、訣が解らない。あれも脚本――と言ふか根本的にストーリーが糞で、知らない人間からすれば電波入り捲りでしかなかつた。最終囘を私はげらげら笑ひながら觀た。あれの何處が感動的なのだらうか。
平成二十一年十一月一日
あと、ジブリのアニメも、全部――とは言へないのかも知れないが、少くとも宮崎がやつてゐるのは全部脚本が駄目だと思ふ。そして、脚本が駄目なら全部駄目だ。宮崎は、繪を動かせばみんなが褒めて呉れると思つてゐる。
平成二十一年十一月一日
韓國ドラマをたまに見ると、脚本の非道さに呆れる。冬のソナタのストーリーの破綻ぶりは笑ふしかない。歴史物は、せりふが全て状況を説明するだけのためのもので、味氣無い。が、日本のドラマも、韓國のそれよりは多少増しなだけで、基本的には全部駄目だと言つて良い。
平成二十一年十一月一日
アニメの脚本について書いてみる - ダ・ニッキ
平成二十一年十一月一日
http://www.style.fm/as/05_column/05_shudo_bn.shtml(シナリオえーだば創作術)
http://www.style.fm/as/05_column/05_oguro_bn.shtml(アニメ様の七転八倒)→http://www.style.fm/as/05_column/animesama26.shtml
脚本を重視するかしないか――だが、脚本を重視するかしないか、の問題に直ぐすりかはる。
しかし、今の状況で、「映像作品」が後世に殘る事になつても、脚本家が後世に殘る事はあり得るだらうか。
平成二十一年十一月一日
最終的に出來上がつて來る作品が良いものになつてゐれば結構なのだが、「良いものを作る」事を考へられず、「納期に間に合はせる」事だけを考へてしまはざるを得ない事が多いやうに思ふ。さうすると即座に「間に合はなければしやうがないのだから」式に理窟が轉囘する事になり勝ち。しかしそれでは本末顛倒だ。現實に妥協するのは仕方がないけれども、それで目的が「現實に妥協する事」にすりかはつてしまつたら全部臺無しになつてしまふ。

關聯リソース/特記事項

前の記事
日記バックナンバー
2009年10月
「闇黒日記」の關聯サイト
Yahoo!ブログ - 闇黒日記2.0
Love Cream Puff
言葉 言葉 言葉
PC Tips
inserted by FC2 system