ところで、「ささめきこと」のアクセントが腑に落ちない。
一九八二[明治二五]年とあるが、「一八九二年」の誤植。この手の間違ひを見附けるのは樂しい。ただしこの手の間違ひは、内容の評價とは全然關係がない。
その後04年より歌舞伎町でホストとして勤務している。
Cが足りねえ
100Gオーバーなんて、壊れたときが怖くてよう使わん。なのであたしのメインマシンは相変わらず80GbのHDDでとろとろ運用中。
で、Win95の頃から、HDDはWindowsとMS関連商品、その他のアプリケーション、データ、その他いろいろ、の4つにパーテイションを切っていて、Windowsを放り込むC:ドライブは常に比較的小さなサイズで使ってきてた。ちなみに現状は12Gb。これでもWin2000までなら余裕たっぷりだったんだけど、XPになってからかなりの速度で容量を圧迫し始めてきてかなり困ったな、と。
明治維新いらい昭和二十年の「神道指令」に至る間の神社の歴史は、俗に「國家神道時代」とよばれる。「國家神道」の語は、周知のやうにアメリカ占領軍によつて大東亞戰後に普及するやうになつた語であるが、そのいはゆる「國家神道」に對する今日の俗流の理解は、少なくともわれわれ神社人の見るところでは、甚だ偏見に滿ちたものといふ以外にない。もちろん制度といふものはすべて、肯定すべき側面とともに否定すべき側面をも隨伴しがちなものである以上、神宮神社に關する戰前の國家制度が完全無缺のものであつたなどと辯護すべきでないことはいふまでもないし、また辯護する必要もない。われわれ神社人の立場からも「國家神道」のあり方に對する批判は種々あるが、しかしその批判點は今日の俗流評論のそれとは全く質を異にする。彼らは「國家神道」の制度の據つて生じた思想・理念にさかのぼつて、それを基本的全面的に否定する、換言すれば明治維新の大理想そのものを否定する立場に立つて戰前の神社制度を非難してゐるが、われわれは決してさうではない。個々の制度やその運用については鋭く批判するが、それは、それらがその基本とすべき理念――明治維新の大理想――に反するものと斷定されるからである。そこには、いはゆる「國家神道」をどう捉へるかについて大きな認識の差がある。
何人もこの方面の研究に進まんとする場合には必須の文献となつてゐる、等の記述も興味深い。
唯物史観的解釈による
近代日本文学史よりも唐木氏の方がはるかに
新鮮でもあり、教訓的でもあったと述べ、高く評價してゐる。
平成二十一年九月二十日のイラストは青Gくんとおもちくん、プラスただのみみずです。みみずはクリーチャーではありません。
平成二十一年十月一日の寫眞に寫つてゐる
縫ひ包み、スコっちと一緒にミーシャにつつこみ入れてゐる奴ですが、これがもぐら氏です。ヅラ疑惑あり。あと、いかめしリングは純然たる食物です。目が無いのでクリーチャーに非ず。赤ミーシャと赤Gちゃんはパートナー。ミーシャと青Gくんの關係と似たやうなものです。ミーシャとおもちくんは、友人にしてよきライバル。好敵手と書いて「とも」と讀む。ミーシャがソ聯のスパイなのに對し、おもちくんは大日本帝國の諜報機關に所屬してゐます。階級は大佐(但し推定)。
第103条 この憲法施行の際現に在職する国務大臣、衆議院議員及び裁判官並びにその他の公務員で、その地位に相応する地位がこの憲法で認められてゐる者は、法律で特別の定をした場合を除いては、この憲法施行のため、当然にはその地位を失ふことはない。但し、この憲法によつて、後任者が選挙又は任命されたときは、当然その地位を失ふ。
この處置はこれで二度目、なんだか痴漢じみた需要ばかりで困惑する。
※ 形式のみを顧りみる保守派連中および舊假名遣のダイアリー書きの御仲間として捕捉されることを拒否する。*1
*1:國語マニアにおける舊字舊假名派閥には心底ウンザリしている。「…拒否する」に應じて態々アンテナを張つて來るバカとかにもね。(※再掲)
派閥ではないと主張するのなら、その人は「私は違ふ派閥なのである」と宣言してゐるのにほかならない。
これらは、Suckyさんにだけ押し付けようと話をしてゐるのではありません。
押附ける氣はないが、自分はかう考へてゐる――言放しで七鍵さんはさぞ氣持が良いことでせう。と書いてゐるが、七鍵氏は、押附ける氣滿々なのだ。
グラッときて、ああ、地震だと思ったときに、次にとる行動は、大抵TVのスイッチを入れて震源地や震度を確かめることだ。そのときに生放送をしていれば、スタジオのタレントやアナウンサーが何かしらのアクションを取るだろうし、生放送でなくてもテロップが入り、大きな地震なら急遽、編成が変更されて、臨時ニュース番組がオンエアされる。でも、地震だというときに、すぐにPCを開いて、状況を確かめるというユーザーはそんなに多くはないだろう。でも、気象庁のサイトなどを確認してみると、TVに負けないくらいに迅速に情報が更新されているのだ。
インタビューにでていただき、金子さんの考えている「将来の著作権のあり方」について思う存分語っていただきたいと思うのです。とか
裁判は残念ながら、弁護団が躍起になって、金子さんの耳にタコができるほど吹き込んでいるような結果にはならないでしょう。とか。
過去なんどか実名・匿名論について書いてきた。そのときは、実名派は肩書き主義の人で「誰が言ったのか」を大事にする人で、匿名派は「何を言ったのか」を大事にする人と分けていた。
Twitterとはインフラです。
日本側に与えたといわれるもっとも決定的な圧力は、天皇の身体に対する脅迫である。このような脅迫がなされるや、この点以外の憲法改正点に関する交渉で、日本側が非常に住順になったことは、誰しも理解できよう。との事)。また、占領國が積極的に關與した事實を隠匿する爲に、殊さら日本政府・日本國民が自主的に行つたかのやうに、外見を整へ、強調した事は、注目すべきであらう。
私が一番恐れるのは、憲法改正案の内容の低さではない。そのことよりも、「日本国憲法」改正という形で、新しい憲法を作ろうとしていることである。「日本国憲法」改正という形をとるということは、占領下にGHQの完全統制下で作られた「日本国憲法」を有効と認めることである。したがって、今後、再び中国や米国などの外国に圧迫されて「憲法」を押し付けられても、拒否する論理がなくなってしまう。すなわち、独立国の精神を根底から失うことになるのである。
われわれは、帝国憲法がよい憲法であったかどうかという問題と、帝国憲法下の事実としての政治がよかったかどうかという問題とは、はっきりこれを区別して考えなければならない。
衆議院議員の總選擧に次ぐ解散後の新議會たる第九十議會は昭和二十一年六月二十日に開院式が行はれたが、其の當日憲法改正草案は左の如き勅書を附して衆議院に提出せられた。
朕は國民の至高の總意に基いて、基本的人權を尊重し、國民の自由の福祉を永久に確保し、民主主義的傾向の強化に對する一切の障害を除去し、進んで戰爭を放棄して、世界永遠の平和を希求し、これにより國家再建の礎を固めるために、國民の自由に表明した意思による憲法の全面的改正を意圖し、ここに帝国憲法第七十三條によつて、帝国憲法の改正案を帝國議會の議に附する。
また、二十八日の衆議院本会議においては、共産党議員野坂参三氏は、「改正案第九条は、戦争一般の放棄を規定しているが、現実には、不正の戦争と侵略から自国を護るための正しい戦争とが存在する」として「戦争一般の放棄ではなく、侵略戦争の放棄とするのが的確ではないか」と質問している。これに対して、吉田首相は、「近年の戦争は多く国家正当防衛権の名において行なわれており、国家正当防衛権を認めること自体が戦争の誘発原因となり有害無益である」と答弁している。
国家正当防衛権の名において行なわれてゐた事は、その不當性が後に散々同國人からも指彈されてゐるのを見れば明らかであり、ならば吉田首相の理論は「現在でも十分通用する」と言ふ事が出來る。そこで「解釋」を「變へる」と云ふのは、相當無理があると思はれる。少くとも、自分に都合良く憲法の條文の説明を變へてしまふのは、憲法の規定を蔑ろにする事であり、實質的に憲法を「無效化」してゐると言つて良い――と言ふよりも、憲法の存在意義それ自體を否定してをり、現在の日本國では自分に都合良く主張し、もつともらしく見せかける爲に憲法の條文を利用して説明する、と云ふ事が非常に屡々行はれてゐる。「それをうまくやれるやうにするのが法學者の使命である」とすら主張する法關係者も存在するが、冗談ではない、法を好き放題に利用して爲政者が身勝手な政治を行ふ事を、今の法關係者は肯定するのか。法それ自體の強制性が認められない限り、法には存在意義がないし、法それ自體の強制性が認められる爲には法の外部で人間が勝手な解釋をして法の規定を歪曲する事を認めない態度が必要である。現在の「日本国憲法」下では、運營上、憲法それ自體の權威を徹底して貶め、憲法を巧みに形骸化させる事が當り前となつてゐる。
現在の常用漢字の形が日本の「正字」となってすでに六十年になろうというのに、いまだに旧字を「正字」と言い張る人たちがいます。仮名遣いも含めて、「正字・正かな」にこだわる人たちです。藤原定家以来、古代の発音に基いた日本語の歴史的仮名遣いも、漢字の祖国の発音を何とか日本語に移植しようと努めた字音仮名遣いも、ついに定着することはありませんでした。発音し分けられないものを書き分けることは自然ではありません。もっとも、現代仮名遣いにしても、決して完成されたものとは言いがたいところはあります。日本語の表現として、旧かなの使用は残っていくでしょうし、守りたい文化ともいえますが、仮名遣いについてはこの本の主題ではありません。ただ、旧字については「旧字は旧字であって正字ではない」ことだけは確かに言えるのです。
本書では正字体を「正統な字体」と定義します。「正しい字体」というと誤字でないものはみんな正字になってしまうし、「正式な字体」というと常用漢字も含んでしまいますからね。正統の根拠が『説文解字』ということです。
正字っていうのは服にたとえると正装みたいなものです。勳章をもらったりするときに着る、モーニングコートとか燕尾服は、日常生活では着ないですよね。休日に自宅であれを来て過ごしていたらおかしいでしょう。『干禄字書』はTPOに合わせて字体を使い分けることをすすめているんです。念のためにいっておきますが、これは手書きの話であって、叛を作って印刷する場合は正字を使ってもおかしくないと思います。印刷するということは特別なことですから。まあ、今はパソコンとプリンタが普及して、印刷が日常なのかもしれませんが。
よく「正字・正仮名」とか「旧字・旧仮名」などと、漢字の字体と仮名遣いを一緒にしてしまいますが、江戸時代までは、正仮名は手書きも印刷物も通用体との組み合わせで使われ、正字は仮名を使わない漢文の印刷物に使われていたのです。
「正字」と「正仮名(旧仮名)」が一緒に使われていたのは、明治から昭和二十年代までのことです。
……。文字は世につれ世は文字につれ、本書により、種々の字形をおおらかに渡りつつ、字体もまた時代の子であることに理会する読者の多からんことを衷心より願う次第である。
衆議院選挙での自民党の大敗北以来、自民党の政治家はもとより、産経新聞や読売新聞も「保守の再生」という言葉をやたらと使っているのが目につく。でも、「再生するぞ、再生するぞ、再生するぞ!」と一生懸命に呪文を唱えている一方で、そもそも最近の日本にまともな頭脳を持った保守派なんていたんですかと聞いてみたい気持ちになる。福田恒存以来、冴えたロジックで左の人達にも一目置かれるような保守の論客っていたっけ?全然いないでしょ。だから、「再生」するもなにも、日本の保守派というのは政治家にしろ言論人(そのほとんどは自称「言論人」)にしろ、ただ空虚で浅薄なスローガンを大声でわめきたてているだけの知的レベルの低い人たちだということ。
「保守の再生」というのは、こういう人たちをもっと量産するという意味でしょうか?もしそうだとした、今回の正論11月号はまさしくその意図する通りの内容になっています。なんといっても、日本史についての基本的な知識すら怪しい田母神さんが保守論壇でもてはやされてるんですから。日本を愛する者として、本当に情けないです。保守派のみなさん、せいぜい傷をなめあってください。
日本を愛する者なんて言ふ人間にろくな奴はゐない。皮肉を言つてゐるだけであり、「情けない」なんて他人を見下しても、斯う云ふ人は自分を省みる事が決してないからだ。
祝詞とは、「のりと」と読み、神道において神徳を称え、崇敬の意を表する内容を神に奏上し、加護や利益を得んとする詞や文章のことである。
神社が宗教と異なつてゐる點の著しいのは、この祈願なくして感謝のみであるといふことにも存するであらう。但し戰前の解説であり、「のりと」が「のりときごと」の約まつた語であるとの説明は訂正が必要となる(
ノリトの原形はノリトゴトであり、ノリトキゴトではない。『神道への理解』(浪速學院)p.55)。
祝詞、祭詞、祈願詞は、これによつて祭祀の意義を明らかにし、神意を承け、神威を仰ぎ、神徳を称へ、加護を祈り、努力を誓はんとするものである。その奏上に当つては、敬神の姿勢を表はし、神徳の発揚と相俟つて、崇敬神の向上を期し得るやう努めることが肝要である。
- 1 祝詞作成上の心得
- 祝詞は神霊に接し、神徳を讚へ、神前に物を供へて感謝の意を表し、其の恩頼を戴いて信仰心を昂めることを基本的な要件とする。
- 祝詞の内容は神威を畏み、恩頼を奉戴して、斯道の宣揚に努め、神ながらなる道義を作興し、以て皇室の御興昌と国民の繁栄及び人類永遠の福祉に寄与し得る内容のものとすること。
- 祝詞は神を斎ひまつるときの詞であるから、執行する「まつり」によつて、祝詞の趣旨を考へる必要がある。
- 祝詞は言葉で力強く表現されるため、所謂言霊の信仰に基き、それにふさはしい善言美辞を以て綴られるのを原則とする。
- 祝詞は元来、神勅を伝へ、且つその神徳を説き聞かせることによつて、祈るものに対し大いなる力を得させた趣旨を心得とすべきである。
- 祝詞は神威を奉戴することにあり、道徳的訓戒がここから出て来なければならぬ。随つて祝詞の内容には、神詔を畏むと共に人倫的な方面を洩ることも必要である。
- (以下略)
1.5流の評論家であり、確かに今の時代、惡いよりは良い方に屬する人物ではある――のだが、氏が「冷笑派」の人々に「冷笑のテクニック」を齎したのは、今のウェブにとつて不幸な事だつたと思ふ。「他人を冷笑する事で自分の頭の良さをアピールする」テクニックは、道徳觀・倫理觀の缺如した人間にもた易くマスターし得るものであり、實際、さうしたテクニックのみを身に附けて他人を冷笑して好い氣になつてゐる人がウェブには極めて澤山ゐる。もちろん、呉氏自身は、好い氣になる積りもなく、ただ馬鹿を叩く事を目的としてゐるのだが、それが餘りに技術的なものに偏つてゐた爲に、フォロワーの人々には大變便利に利用される事になつてしまつた。直接の弟子系統の人よりも、立場的には微妙にずれのある人々に(まさにその「ずれ」故に、ただ單に利用する・されるの關係となつてしまつてゐるのだが)、呉氏のテクニックは良く使はれてゐる。
2009年10月2日:引用のやり方についての論争まとめ)
- 「絶対的な正しさは存在しない!」っていうのは、「正しさを証明するのが極めて困難な場合がある」ってことだろ。正しさアレルギーを起こすのは、おつむがぼんやりしてるからだよ。
- 一方その中で、少なくとも相対的には正しいということを論じることができる。それだけの話だ。価値相対「主義」とかいってあたかも俺の性向のように決め付けた、あの某氏のようなタイプは、固定観念で頭がいっぱいなのではないか。「相対的だ」というだけで、そこで思考を停止させていてはだめだろう。
- ちょっと言い換えるか。「相対的に正しい」という結論を悪用して人の話を聞かなくなる人がいる一方、「相対的に正しい」と言ったからといって人の話を聞かなくなる人もいるということ。
- 人をすぐに「何とか主義者」と決めつけてかかるのは、ろくな人間と議論してこなかった証拠だ。それ以上でもそれ以下でもない。不幸だったというだけだ。だから俺は別にそこを責めるつもりはない。