制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
テーマ・主に扱ふ事柄・ネタ
日本人論、政治主義批判、國語國字改革批判、虹裏(img)、深夜アニメ、古本、謎キャラクターによるコント、蟲。粘着アンチ問題。その他。

闇黒日記


平成二十一年十月三十一日
【セキュリティ対策の心得、基礎の基礎5カ条】 第3回:不正プログラムの入り口(Web) -INTERNET Watch
フィッシング詐欺のサイトは、實にもつともらしく、本物の・公式のサイトを眞似てゐる。ウェブサイトの良し惡しを、見た目で判斷する事は出來ないし、してはならない。我々は、イメージを大事にする。が、イメージで何でも判斷しようとすると、危ない。
ウェブでは、「惡人の口調」と云ふイメージを基に、人の語り口調の善し惡しを極附ける人がゐる。けれども、惡人は、惡人だからこそ、叮嚀でフォーマルな口調を用ゐるものなのだ。どれだけ叮嚀な口調を用ゐてゐたとしても、それだけでその人が「善人」だと決める事は出來ない。Yahoo!掲示板で他人を侮辱し、暴言の限りを盡して誹謗中傷をやつてゐたzak_kと稱する人物は、ISPやYahoo!に氣に入らない人物を陷れる爲の讒言のメールを送る時、何時も實にもつともらしい「全うな文體」を用ゐて自分をまともな人間に見せかけてゐた。
表面的に「きれい」な言葉遣ひをする人が、その裏でどれほど汚らしい考へ方をしてゐるか――それを見拔く爲には、イメージで感じるのでは駄目で、矢張り全體を見て論理的に考へなければならない。
イメージの重要性を強調し、良いイメージを與へるやう慇懃な言葉遣ひを意圖的にしてゐる人がゐる。その人は、讀者が自分にとつて都合の良いやうに判斷する事を期待し、讀者を欺すのを目的としてゐる事がある。我々は正しく判斷しなければならない。
平成二十一年十月三十一日
晴 / 十二度―二十三度 - 月の塵

ところで、「ささめきこと」のアクセントが腑に落ちない。

多分聲優か音響監督が勘違ひしてゐるんだと思ふ。
アニメの制作者は、繪だけが重要だと思つてゐるから、脚本を輕視するし、日本語を冒涜しても平氣でゐる。

平成二十一年十月三十日
りんごなう。
りんごなうさぎに興味津々
食べようか惱む
平成二十一年十月三十日
メタボ化に惱む。
チョコクッキー
最う一つチョコ……
平成二十一年十月三十日
煮ても燒いても食へない。
スポンジか……

平成二十一年十月三十日
電氣ポット氏は、意外と氣が荒い。
某さんが火傷してゐた。
平成二十一年十月三十日
「マスゴミ」「マスゴミ」とよく言ふけれども、さう云ふ「ネット論客」の側にも「マスゴミ」的な態度を當り前のやうにとつてゐる人は結構ゐるんだよなと思ふ。Kirokuroとか。
――とか言ふと、「野Qこそネットマスゴミの代表である」とか、如何にもマスゴミつぽい口調でKirokuro先生が曰ひ始めるから何うしやうもない。
平成二十一年十月三十日
ネットには最早議論は存在しない - 電脳如是我聞 - 長尾メモ8 weblog
「何を問題にする議論」か――そもそも「議論とは何か」を定義しないで、何となく「議論」つぽいものの事をあれこれ言つても仕方がない。この人も、「議論」と「喧嘩」とを全然區別してゐない。罵倒とか相手を叩くとか、さう云ふ現象を、議論の一屬性と見ず、議論の本質と勘違ひして、面白をかしく語つてゐる。
例へば、野嵜とKirokuroとの言爭ひは、議論ではなくただの水掛け論だが(責任は全てネガティヴキャンペーンを仕掛けて好い氣になつてゐるKirokuro一人にある)、斯うした下らない言爭ひすらも「議論」の一種だと勘違ひし、「議論なんて下らないものだ」と一蹴して見せる「頭の良い人」が、ウェブには澤山ゐる。
話の内容を見る事が出來ない人は、世の中に大變澤山ゐるのであつて、だからさう云ふ連中を欺して自分に都合良く世の中を引張つて行かうとするKirokuroのやうな「頭の良い人間」が大手を振つて世間を渡つて行けるのだが――しかしさう云ふ輩の跳梁跋扈を認める人間しかこの世に存在しないのなら、議論をやつて世の中を良くして行かうなんて考へる方が馬鹿だし、そもそも世の中なんて良くなる訣がないから努力しない方が良いと云ふ事になる。冗談ではない。

平成二十一年十月二十九日
葦津珍彦『明治維新と東洋の解放』(皇學館出版部)を讀んでゐるが、内容の解り易さ・論理の明晰さ・文章の讀み易さにもかかはらず、嫌な印象がある。それは葦津氏が日本人の政治主義に全く無批判で、現代のウェブの「論客」の人と全く同じ程度の認識しか持つてゐない事に據る。さうした著者の立場を無視して事實を見るなら――
明治以來の日本人の態度は現在に至るまで一切變化してゐない。明治時代の日本人は、現代の日本人と全く同じだ。「彼等」は――常に政治を第一に考へる。權力鬪爭に熱中し、權力を手に入れる爲に理論を利用する。右翼・左翼の違ひは、單に分類であるに過ぎない。思想家としての右・左の別は言へるが、思想に基いて態度を決めるよりも個別の問題毎に是々非々の態度を取る傾向が強い。理想よりも人を優先する。敵身方思考が甚だしく、尊敬できる人物を只管禮讚し、輕蔑する人物を見下して只管嘲る。そして常に反政府的。
……葦津氏はさう云ふ日本人の態度を、日本特有の事情と指摘するが、批判しない。そして、明治以來のさうした日本人の「伝統」の中に立つて、「伝統」的な人物評價を行ふ。その論理が「明晰」であり、事實認識が「正確」である事は否定出來ないが、それゆゑに「ネット論壇」の右や左の論者から葦津氏が高く評價されてゐるであらう事は推測出來る。
私も、葦津氏の頭の良い事・言つてゐる事のいちいち尤もである事は認めるが、氏の政治論はそんなに高く評價しなくて良いと思ふ。
そして、斯うした、政治と密着した思想としての神道と云ふものを考へた時、一面で理論的かつ近代的である我々だけの神社神道への愛着を持つ事は言ふ事が出來るけれども、他面、その「祭政一致」の態度の限界と嫌らしさを意識せざるを得ない。日本における左翼の政治主義者と日本における右翼の政治主義者――そのどちらも、日本的な餘り日本的な存在であるわけだが、彼等が何れも嫌な存在である事は言ふまでもない。松原先生は、拜外主義と排外主義と述べてをられた。
平成二十一年十月二十九日
Romance on Arena
平成二十一年十月二十九日
白川静『字訓』を買つて來た。

平成二十一年十月二十八日
Opera 10.01 - A blog? with Σαιτω
Opera 10.01、早速入れてみた。自動更新で巧く行つた。

平成二十一年十月二十七日
某さんが、サーヴァにファイルを上げて、ウェブブラウザでアクセスして見たけれども、見えない、見えない、と。エラーメッセージを見てもよくわからない。ぶち込んだHTML文書のソースを見ても、問題なささう。
それでは――と云ふ事で、FTPで見てみたら、ファイルがサーヴァに上がつてゐない。それあ見えないわけだ。
平成二十一年十月二十七日
ミーシャとその他のクリーチャーたち
取敢ずまとめた。と言ふか闇黒日記拔粹版。
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/の中にある畫像は月末に全部消えるので、リンク先はhttp://members.jcom.home.ne.jp/pctips/Misha/以下のものにしていただければと存じます。どうぞよろしく>中村さん。

平成二十一年十月二十六日
おもちくんとその他の人々
平成二十一年十月二十六日
滝浦真人『山田孝雄――共同体の国学の夢』を半分位まで讀んだ。國語學の山田孝雄の學説を良く纏めてあつて理解し易い。
七十八ページ九行目に一九八二[明治二五]年とあるが、「一八九二年」の誤植。この手の間違ひを見附けるのは樂しい。ただしこの手の間違ひは、内容の評價とは全然關係がない。

平成二十一年十月二十五日
HTML 5が私には「氣持惡い」と思はれるのは――もともとHTMLは、「文書構造の明示」を意圖してゐたものであつたのに、突然「意味の明示」に目的をシフトさせ、しかもそれが同時に「文書構造の明示」と混在してゐるところにある。
意味論的にHTMLを作り直すのならし直すで、既成の構造論的HTMLを再解釋するなり何なりすればいいのだ。今のHTML 5なるものは「便利さうだから」と言つて、ただ出たら目にそれつぽい「要素」を、從來のHTMLの枠の中に追加でぶち込んだだけでしかない。「便利だから」の一言で、HTML 5は理論的に「説明のつかないもの」となつてしまつてゐる。
精々「便宜主義」と言へるだけだが――今の「HTML 5」は、Netscape Navigator 4以前、Internet Explorer 4以前でヴェンダがやらうとした事と、何が違ふのだらう。いや、實は同じなのだ。今は、OperaやGoogle ChromeのヴェンダがHTMLをもつともらしい顔をして、取仕切つてゐるに過ぎない。ただ「ウェブ標準」の御旗を掲げてゐるかゐないかだけが、現在と過去で違つてゐるだけだ。

平成二十一年十月二十四日
人生記録のバックアップ
文章巧い人はいいよね。何時まででも昔の文章をとつておきたいと思へるんだから。私の文章なんかいくら消えてしまつてもいいよ。魚拓とるなそこのバカ。
アニメの録畫をうつかり消してしまつた時の方がショックは大きい。
平成二十一年十月二十四日
Yahoo!掲示板の傑作發言、なんで誰も保存して置いて呉れなかつたんだよ。凄く澤山名言があつたんだぞ。消えたからこそ言へる出たら目。
平成二十一年十月二十四日
宅八郎容疑者を書類送検=ネットに殺害予告−兵庫県警 - Google ニュース
この人も何かを勘違ひしてゐると思ふ。
言葉遣ひを問題にする人も、非道い言葉遣ひを「する」事が重要であると考へる宅氏のやうな人も、根本的な部分で發想は全く同じ。自分が正しいと信ずる事について條理を盡して説明する事・自説の公共性・一般性を示す事が論爭では大事なのに、「結論を巧く言ふ」事で話を濟ませようと考へてゐるのだから、考へ方が横着だ。
言爭つてゐるうちに表現がエスカレートするのは「ある」事だけれども、それでも言つて良い事と惡い事の區別は依然として「ある」。怒つて見せるにしても、書く時には頭の何處かに冷靜な部分を殘してゐなければならないし、何があつても絶對に言つては行けない或種の文言は公言しないやうにしなければならない。ところが宅氏は、その言つては行けない文言を「わざと言ふ」のが「評論」だと勘違ひしてゐる。評論家なら、餘計に「言つてはならない事」を言はないやうに努めなければならない。
面白がつてをかしな事を言ふ人物を持上げるギャラリーが多いから、何時までも斯う云ふ「評論家」が「市場」に殘る事になる。けれども、犯罪者紛ひの事をするのが「評論家」だと云ふのは完全な勘違ひなのであつて、世の中の樣々な事を論じようと言ふのならば――素人もプロも關係ない、ちやんとした道徳觀念は持つてゐなければならない。
――それに、「書き言葉」による表現は土臺、間接的な表現なのであつて、直接的な表現ではあり得ない。そこでは演戲のみが可能であるのだ。ダイレクトに感情を表明しようとしても、それを「書きつける」段階で理性の働きが入る。それでも宅氏のやうに「敢て感情を露骨に表現する」と云ふのは、まあ單純に「物を書く」事の性質を理解しない、「無邪氣」な精神であるのを、態度が自づと示してしまつてゐるのだが、自分を抑制しない「無邪氣さ」は、「理性否定」の考へ方なのであつて、理性を用ゐないのは「誰にでも出來る」のだから、巧みに理性を使ひこなすのが評論家の仕事の基本だらう。ただただ感情的になるのは素人にでも出來る事で、意識的に「感情的」であるかのやうに演戯するのがプロだ。が、意識的であるなら逆に「感情的な言葉」は全面的に理性によつてコントロールされてゐなければならないのであつて、そこでは言葉遣ひも必然的に理性によつて抑制されてゐなければならない。繰返すが、或種の文言は、「感情的」に振舞つて見せるパフォーマンスの際にも、絶對に口にしてはならない。それを口にしたが最後、「演戲である」と言ふ言ひ訣は破産する。
要するに、宅氏は評論家失格だ、と云ふ事。
平成二十一年十月二十四日
【日本の検索ワード】宅八郎氏の「ぶっ殺す」は常套句?脅迫? 2009/10/23(金) 12:32:43 [サーチナ]

その後04年より歌舞伎町でホストとして勤務している。

やつぱり「評論家」としてはをかしいと思ふ。
平成二十一年十月二十四日
假名遣ひは「自由である方が良い」と主張する人が、正假名遣を非難し、「定家仮名遣や便宜仮名遣を遊びで使っている人は好ましい」と評する。そこまでは、まだいい。が、「正假名遣等と称している人間は嫌な奴である」と言出すからをかしい。一方でさう云ふ人は「現代仮名遣い」なる規範が「ある」事を肯定する。「自由な表記は良いが、正假名遣なる規範は駄目、しかし現代仮名遣いなる規範は認められる」。私にはこの理窟が全く理解出來ない。
が、實は、この人は、かなづかひそのものを評してゐるのでない、と見ると、大變良く理解できる。この人は、他人を評價してゐるのだ。そして、具體的には、「正假名遣と言つてゐる人間」だけを惡人呼ばはりし、當てつける爲に「定家仮名遣・便宜仮名遣」を「使つてゐる人」を支持して見せ、また「現代仮名遣」は一般に普及してゐるから非難しないやうにして世間の人の反感を買はないやうにと努めてゐる。「敵は正假名遣なる言ひ方をしてゐる特定個人」であり、要は「野嵜なんてクズ野郎は気に入らない、潰してしまえ」と言ひたいのだが、それをはつきり言ふと「個人に對する誹謗」「人格攻撃」になるから、體裁を整へる爲に、もつともらしく「正假名遣を否定する論理」をでつち上げてゐるに過ぎない。これは「松原信者」と云ふ言ひ方をして個人攻撃を執拗に繰返してゐる人にも當嵌る。
「單純に言換へをすればそれだけで全てが許されるやうになる」と云ふ安易な發想は、歴史的假名遣をそれつぽく「現代的」に言換へる事で「現代仮名遣」と稱する安直な態度と、精神的に共通する部分がある。
平成二十一年十月二十四日
今、もと文部官僚の連中が、国語改革を肯定し、正漢字や正假名遣を毀損する書籍を次々と出してゐるのは、文部省がかつて「國語の表記は、漢字を廢止し、表音化する」と云ふ方針を決め、それを未だに申し送りで引繼いでゐるからに相違ない。先輩の功績である国字改革は、「復古派」の「陰謀」「工作」で潰され、今や世間は我々官僚の考へるのとは「逆方向」へと進みつゝある、だから、漢字表の見直しが行はれてゐる今この時、「世論」を誘導して再び「改革」の方向へ世の中の流れを變へなければならない――彼等官僚達は、官僚の論理で、國の事なんか何うでも良いから只管自分逹の功績を示したい、と思つて、執拗に明治時代に定められた誤つた方針に拘り、反對派を潰さうともつともらしい事を言つてゐるに過ぎない。
平成二十一年十月二十四日
世間の多くの人が「現代仮名遣」は「よい」、歴史的假名遣は「わるい」と判斷するのは、「なにしろ改革されたのだから、歴史的假名遣は悪かったのに違いない」と云ふ「造反有理」原理に基いてゐると思はれる。「改革の結果なのだから、現代の表記は良いものに決まっている」。
しかし、改革が常に「よい」ものであると決つてゐるわけではないし、改革と稱して一部勢力が反對派を暴力的に排除した事例は歴史上幾らでも擧げられる。けれども、さうした「傍證」は、多くの人には、自分の考へが「間違つてゐるかも知れない」と考へるきつかけにならない。日本人は基本的に「あたらしい」と稱するものを即座に「よいもの」と信じ込む民族的な傾向を持つてゐる。だから昔から新しいものをどんどん無批判に採入れる人が日本人には多いのだ。そして、抵抗勢力を「復古主義者」=「老人」と極附け、「老人は大事にする必要なし!」と叫んで、暴れて、それで自分の「若さ」「精神的な進取性」を誇示し、「あたらしいもの」を世間一般の多くの人に押附けようとする。そして、日本人は押附けられた思想を、「あたらしいもの」と説明されると、案外素直に受容れる民族であり、そして一度受容れたものは、「押附けられたもの」であつても「押附けがましさ」を意識する事が無く、「それは押附けの結果である」のやうな事實を指摘されると却つて嫌な顔をする。「今の自分が一番大事」だからだ。これは近代以前の日本人にも普通にあつた無意識的な思想だが、明治以降、個人主義の理論が導入され、よりもつともらしく主張出來るやうになつて、それで獨善的な態度、そして自己中心的な態度が反省される事なくはびこるやうになつた。「今だけ通じれば良い」と云ふ發想で、言葉が表記されるのも、「それで十分」「今十分なら良い事である」――と言ふか、「何しろ私にとつては良い事なのだから、他人が何う斯う言ふ事はないし、私の思想に介入しようとするのは餘計な御世話であつて、人間としてやつてはならない絶對的な惡事である」とまで當り前のやうに感じるやうになつてしまつてゐる。最早感性のレヴェルまで自己中心主義が支配してゐるのだし、言葉も感性で書き・喋るのだから、日本人は自分の言葉に對する感覺を理性的に見る事が出來ない。ただ、もつともらしく「理論」を言ふ事だけは、明治以來の教育の成果が出て、日本人はしつかり學んだから、「個人主義」「自己中心主義」は大變尤もらしい「理論」で説明され、「現代表記」を「自分のもの」として説明する「理論」も極めて強固に構築するやうになつてしまつてゐる。
ただ「自己放下」の考へ方さへ持てれば即座に「わたしたちの現代仮名遣い」なる考へ方は「捨去るべきもの」となるのだが、現代の日本人の價値觀は全て「自分本位」であるのだから何うしやうもない。
平成二十一年十月二十四日
多くの人が、野嵜は「現實」の社會で「實績」がないのに、何を偉さうな事を書いてゐるんだ、と反感を覺えてゐるのだけれども。
私は、ウェブの文章なんて「書き捨て」だとすら思つてゐるから――「ここ」の文章も「書流してゐる」けれども、Yahoo!掲示板の投稿にしても、「ブログ」にしても、消えて呉れて構はないと當り前のやうに思つてゐる。多くの人が現實の世界の「本」の權威を認めてゐるのだけれども、私の方もその邊はちやんと解つてゐる積り。
だからこそ、ウェブでしやかりきになつて「氣に入らない人間を潰す爲の工作」とか「粘着ブログ」とかをやるのは、意味がないんだよ。
と言ふか、「實績のない野嵜」に反感を持つてウェブでいろいろやつてゐる人々の方が、「ウェブの權威」或は「ウェブの力」を信じてゐるのだと思ふ。ウェブで物を言ふ事が實績にならないのなら、彼等が「ウェブで物を言つてゐるだけの野嵜」を一生懸命「ウェブで」潰さうとするのは、をかしな話だと云ふ事になる。「ウェブで潰す」意味は無いんだから、意味のない事をやつたつて仕方がない。それを「仕方がない事である」とはつきり意識して、粘着してゐる人逹は私に粘着してゐるとは思へない。
平成二十一年十月二十四日
いろいろあつて部屋の大整理大會。
PC GIGAとかネトランとか、とつておいてもしやうがない雜誌がぞろぞろ出て來た。。内藏・外附HDDの入つてゐた空箱、何うせ保證期間を過ぎてゐるし、最うとつておく必要はない。何かよくわからない照明器具も出て來たが、さすがに古すぎて危なさう。
なんか茲數日いろいろあつて精神的にやさぐれてゐるので、やけになつてバンバン捨てる。飽和状態になつてゐた部屋の中が隨分増しになつた。「足の踏み場」が「ある」と言ふのが新鮮。
親が埋め込んでゐた昔のアルバムが、ベッドの下の奥の方から出て來た。昔の寫眞は、樂しい思ひ出許りでなく、嫌で悲しい思ひ出もそのまゝ保存してゐるので、親は「見たくない」と言つてゐた。
大學受驗の時の參考書の山。問題集とかノートとか。あとラ講のテキスト。旺文社大學受驗ラジオ講座が私の年の次の年まで放送されてゐたのだ。なつかしくて泣ける。高校の時のプリント。基本的に全部捨てる。例外は高校三年生の時の英語の授業のプリント。大谷豪見先生が作つて下さつた英文和譯の練習問題のプリントだが、私がまがりなりにも英文を讀めるやうになつたのは全てこの大谷先生のプリントの御蔭だ。絶對に捨てられない。最近、英語の文章を全く讀んでゐないから、これを全部やり直して、復習しようかと思つてゐる。
平成二十一年十月二十四日
それから、千九百八十九年のザ・テレビジョンが出て來た。或意味とても貴重。よれよれになつてゐるし、賣れないと思ふ。
平成二十一年十月二十四日
「捨てる」と言つても、これ(どれ)だけの量のごみ、いつぺんに出せるわけもないし、今日は日曜日なので、取敢ず玄關脇に積んである。ガレージセールでもやつたら何うだらうと思つたりもするけれども、多分全然賣れないだらう。
1980年代の赤本なんて、需要あるだらうか。

平成二十一年十月二十三日
ミーシャ、フライドポテトに興味を持つ
平成二十一年十月二十三日
ミーシャ、ヅラ疑惑
平成二十一年十月二十三日
ミーシャ v.s. もぐら。
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平成二十一年十月二十三日
おみやげ
食へるものは何でも狙ふ
平成二十一年十月二十三日
2009-10-23 - 月の塵
技術系メーリングリストで質問するときのパターン・ランゲージ
案外「文系」の人の方が、この手の「決り事」には無神經だよな。「技術系」「プログラミング系」の人は、まあ、さう書かれてゐるから從ふだらうけれども、「私は文系だ」と言ふ人は自分が「文系」であるが故に全てが免責されてゐるとか思つて、平然と水掛け論に突入したり、一方的な主張を始めてみたり……
……と言ふか、メーリングリストではなくウェブと云ふ公開の場での對話・討論では、「この手の事は役に立たない」とか思つてゐる人は多さう。寧ろパブリックな場での發言でこそ、この手の「決り事」は「守るべき」だと思ふんだが。ウェブなんだから、「ブログ」でも個人サイトでも、或は企業サイトでも、不特定多數に向けて情報なり意見なりを「發信」する際には、「郷に入れば郷に從へ」式のローカルルールが意味を持ち得ない。この事は全ての大前提として考へなければならない。なのになぜか「ここは2ちゃんねると同じだ」とか「個人サイトだから管理人が閲覽者を揶揄つて遊ぶのは自由でせう」とか平氣で思つてゐる人がゐたりする。
平成二十一年十月二十三日
ばむばんか惰隠洞:Cが足りねえ

100Gオーバーなんて、壊れたときが怖くてよう使わん。なのであたしのメインマシンは相変わらず80GbのHDDでとろとろ運用中。

で、Win95の頃から、HDDはWindowsとMS関連商品、その他のアプリケーション、データ、その他いろいろ、の4つにパーテイションを切っていて、Windowsを放り込むC:ドライブは常に比較的小さなサイズで使ってきてた。ちなみに現状は12Gb。これでもWin2000までなら余裕たっぷりだったんだけど、XPになってからかなりの速度で容量を圧迫し始めてきてかなり困ったな、と。

一つのHDDの中でパーティション切つても、死ぬ時は一蓮托生だから……御存じだとは思ふけれども一往。
今はHDDが安いので、250GBどころか1TBのHDDでも一萬圓で買へる。バンバン買つてバンバン使ひませう。HDD一箇をまるごと一つのパーティションにして、C:に。Windowsとアプリケーションはここに入れておく。それとは別にまた最う一箇HDDを買つて來て、それにはデータを保存する。以上は内藏。ほかに外附のHDDを買つて來て、隨時データをバックアップする。それから時々DVD-Rか何かにもバックアップをとる。このくらゐは、やらうと思へば、簡單に出來ると思ふ。
取敢ず、Windowsのシステムドライヴが大きくて速いと、ささやかな幸せを感じられるよ。
ちなみにうちはHDD、中古で揃へてゐる。理由は價格。機械自體が古いから、中古のHDDで十分。割切りと事前の故障對策(としてのバックアップ)がちやんとしてゐれば大丈夫。C:以下五臺が250GB、一臺だけ昔から繋いである60GBのが繋ぎつぱなし。外附けのが320GBから500GBまで、四、五臺。死んだHDDが五、六臺、その邊に轉がつてゐる。

平成二十一年十月二十二日
クリーチャー三人組
初公開、ばななばな藏課長。撮影しようとしたら行方不明になつてゐて、中間管理職、すは失踪かと大騷ぎに。皆で慌てて搜索した。
左は謎の中國人。最初のころ(謎)に作つたのでディテールが無駄に細かい。右は、場當り的にでつち上げたすまいる君。
平成二十一年十月二十二日
ミーシャ、みすゞ飴と出會ふ
興味津々
取敢ず入つて見る
もちろん食べる

平成二十一年十月二十一日
日本は近代化せざるを得ない。江戸時代の國學は近代の芽生えだが、結局黒船來航で日本は外部からの近代化を受容れざるを得なくなつた。明治維新以來、日本人は一つの近代化の方針を定めた。その方針に反するやうな事柄が大量に出現し、その結果として日本は敗戰に突進む事となつた。が、だからと言つて、明治以來の近代化の方針を放棄して、それまでの歴史を斷絶して、我々は「新しい歴史」を創始してはならない――と言ふより、そんな事は不可能で、「新しい歴史」だと思つたら結局無意識の領域では古臭いものが依然として存在し續けてゐると云ふやうな事になるものだ。だから意識して、我々は明治以來の大方針を繼續しようとしなければならない。勿論それにも無理はあるが、だからと言つて一氣に無理を解消しようとして、より悲慘な状況に陷るよりは遙かに増しだ。
――と言ふのが、私の日本の近代化に關する考へ方だ。
歴史的假名遣は、江戸時代の國學において創始されたものだが、それは從來の放恣なかなづかひを近代化する試みだつた(その點で、從來の假名遣と繋がる)。それは明治政府に採用されたが、即ち歴史的に自然に成立した近代的な存在であつたからで、當然の事ながら、傳統的であると同時に、「論理的一貫性」も持つてゐる。「論理的一貫性」と鍵括弧附きで言ふのは、私には何うしたつて「犬――いぬ」なる語と「猫――ねこ」なる語との間の「論理的一貫性」なるものを示す事は出來ない訣で、さうした語源まで遡つての言語の體系性なんてものは證明のしやうが無い。けれども、用言の活用その他、限定された範圍での論理性・法則性は、示せるのであり、その點、少くとも「現代かなづかい(現代仮名遣)」よりは増しなものであらうと思ふ。
傳統的である事と、論理的な正しさ・一貫性とは、兩立するものであり、矛盾・對立するものではない。もちろん、敗戰前の「昔」の「傳統的なもの」は全て非論理的である、と極附ける、左翼的な(もつとも、この「左翼的」とは、日本的な餘りに日本的な、特殊な概念ではある)發想をする人々にしてみれば、傳統と論理とは矛盾に「決つてゐる」のだらう。が、さう云ふ考へ方それ自體を、私は非難してゐる。

平成二十一年十月二十日
千利休は豊臣秀吉の怒りに觸れて、切腹を賜り、武士でもないのに武士以上に立派に腹を切つたさうだ。
「自發的に辭任しなければ、強制的に解任する」と言はれて、郵政の西川社長が辭任するとの事。
子供の世界で、苛められつ子は苛めつ子の壓力によつて色々な事を「自發的にする」のださうだ。
子供は大人を良く見てゐるものである。
平成二十一年十月二十日
おもちくん青Gくんにもなつかれる

平成二十一年十月十九日
おもちくん青い子供達になつかれる

平成二十一年十月十八日
青い子供達に御説教する青Gくん
平成二十一年十月十八日
最近富に盛んになつた「正假名遣批判」(實態は「正假名遣に對して侮辱を與へ、快を貪る行爲)の特徴は、歴史的假名遣の概念を「明治政府が、過去の傳統を無視して完全に獨自に開發した、特殊かつ異常な、規則にして命令」なるものに歪曲して、宣傳する點にある。
實際は、奈良・平安朝の表記は自然に定家の假名遣に移行し、その原理・原則が純化されて契冲の假名遣となり、それが自然に明治政府に採用されて「公式」のものとなつたに過ぎない。
敗戰によつて、「過去のものは全て惡」――過去のものは全て破壊せよ、と云ふ事になつた。「傳統の破壞」は即「反省」と云ふ事になり、「反省のポーズを誇示する」事が「進歩主義」と云ふ「正義の態度」とされるやうになつた。假名遣ひにおいても、既存のものを破壞し、全く新しいものを「民主的」とか稱して創作する事が、「現代の日本人」のとるべき「反省」の態度であり、「道徳的に良い事」である「と云ふ事」にされるやうになつた。「現代仮名遣」は、昭和二十年より前の假名遣の持つてゐたそれとは全く異る本質を持ち、伝統から完全に斷絶した「新しい表記」である。
が、正かな派が「現代仮名遣」を批判して、傳統を斷絶した事を「惡し」とするからこそ、「現代仮名遣」派=「新しければ全て良し」派=「現代の人間は現代の時間の中で孤獨に引籠つて、しかしそこでわいわい騒がしく樂しんで、快を貪つてゐればよし」派の人々は、「歴史的假名遣も傳統を斷絶したのだと云ふ事」にして、「歴史的假名遣」を侮辱して――しかしその目的は、「歴史的假名遣派の人間を侮辱する」事にあり、その爲に彼等は歴史的假名遣を利用してゐる。Kirokuroを見れば判る通り、彼等「あたらしければ統べて良し」派=「刹那的な愉しみに耽つてゐればそれで人間は良いのである」派は、觀念よりも人間を優先する。だから觀念は全て、他人を侮辱し、自分は偉いと言ふ爲の材料に利用される。Kirokuroを見よ。Kirokuroは、觀念を利用して、他人を侮辱し、自分を誇示する事だけを目的に、「ブログ」をやつてゐる。他の全ての「現代仮名遣」派の人間も、大同小異と言つて良い。
鄙劣なのは、「明治政府の創作した、異常な假名遣ひ」たる「歴史的假名遣」なるものを正かな派が支持してゐる「と云ふ事」にして、「現代仮名遣」と「歴史的假名遣より前の『定家假名遣』や『便宜假名遣』」を「支持する」と稱し、「自分は歴史的假名遣なる異常なものを信奉する異常な正かな派と違つて傳統を重視するのである」等と言つてのける人間だ。最近は、この種の「論理」が盛に唱道されて、一世を風靡してゐる觀すらあるが、勘違ひも甚だしい。なぜなら、契冲の假名遣〜明治政府の採用した假名遣と、定家の假名遣ひや、或は一般の人が用ゐてゐた便宜的な假名遣ひとは、本質的に同じもので、それらを總稱して歴史的假名遣と言ふのだからである。
さうした傳統としての歴史的假名遣と、昭和二十年の敗戰を機に、一氣に政治的な力で「主流」の座に就いた「現代仮名遣(現代かなづかい)」とは、本質がまるで異る。歴史的假名遣は、發音と表記の間に差異がある事を大前提とする。「現代仮名遣い」は、表記を發音に「近附けねばならない」と云ふイデオロギーに基く。前者は事實に基き、後者はイデオロギーで事實を歪曲するのを目的とする。兩者は完全に異るものだ。
「現代仮名遣」と「定家假名遣」或は「便宜假名遣」とを一緒くたにする事は許されない。定家も、或は江戸時代や明治・大正・昭和初期の一般の人々も、全て「崩れた發音と違つて、表記には正しいものがあるのだ」と云ふ信念を抱いてゐた。現代人のやうに、「表記に正しいも糞も無い、發音通りに書ければそれでいいのだ」式の考へ方はしてゐなかつた。彼我の間には絶對的な差がある。
平成二十一年十月十八日
「理念よりも、人間を重視する」と言ふ人間は、信用ならない。なぜなら、その人は、「人間を重視する」と言つて「他人の人格を尊重する」とは言つてゐないからだ。彼の「人間を重視する」とは、「その人間が敵か身方かを重視する」と云ふ意味であり、即ち、強度の敵身方思考を示すものである。
論理重視・理念重視の立場は、人間の人格を尊重する事を大前提とし、人格を毀損しない爲に、人格から切離して、理念・觀念や論理を考へようとするものだ。
言換へると、「人間重視」の姿勢を支持するとは、主觀的な態度をとると宣言する事であり、「論理重視」の態度をとると言ふのは、客觀的な姿勢で他人と接しようと云ふ努力目標を述べる事である。
そして、議論で客觀的である事は、主觀的であるのよりも良い事である。「人間重視」を標榜する人ですら、他人を毀損するのに恰も自分が客觀的であるかのやうに裝つてゐるのを見れば、自明の事である。
一方で、「人間重視」「論理輕視」の人は、常に「敵か、身方か」で人に對する態度を變へ、身方に對しては慇懃に、敵に對しては無禮に振舞ふのを當然の事とする。が、所詮は「身方」も「利用できる存在」であるに過ぎず、利用する價値がなくなつたと見れば、その人の人格を否定するのが當り前の事になり、即座に潰しにかかる事になる。「人間重視」と云ふ言葉の「うつくしさ」によつて人を欺さうと云ふ訣だが、實態は人間無視の冷酷非情の態度と言つて良い。
「人間重視」を宣言する彼は、政治主義者であり、政治目的の爲に人間を利用したいが故に「人間を重視する」と言つてゐる。他人を操縱するのが好きで好きでしやうがない政治主義者だからこそ、玩具としての人間を「重視する」と言ふ訣で、人間の人格は全く無視である。私にはさう云ふ態度が許し難いものに思はれる。が、さう云ふ人は、自分は「人間を重視してゐる」から「人間的だ」と本氣で信じてゐる=勘違ひしてゐる。物は言ひやうと云ふ奴だ。騙さるゝ事なかれ。
平成二十一年十月十八日
ウェブでは「ネトウヨ」「ネトウヨ」言ふ人がゐるが、その人が左翼である事は論ずるまでもない。が、「ネトウヨ」呼ばはりされた人が右翼であるとは限らない。左翼は、自分の敵と看做した人間を右翼呼ばはりして貶すのが、癖だからだ。

平成二十一年十月十七日
と言ふか、議論は「相手が解らない」からこそ、理解の爲に「する」ものだ。「解つてゐる同士」で出來るのは「馴れ合ひ」。それが「きもちのいいこと」だと言つて「やる」のは勝手だが、その爲に他者を拒絶する事を正當化するのは感心しない。
平成二十一年十月十七日
アーモンドチョコ獨り占め……?
……貰へたのは一箇
餘り目立たない電氣ポット氏
平成二十一年十月十七日
赤ミーシャとおもちくんと赤Gちゃん
ミーシャを追ふ青い子供達
平成二十一年十月十七日
最近CentOSにNICを手動インストールした人は、正しいドライバが入っているかチェックしたほうがよさげ : akiyan.com
周知リンク。自分ではそもそもLinuxを使つてゐないのだけれども。
平成二十一年十月十七日
ネットカフェ犯罪多発 - Google ニュース
利用者が全員身許を明かにするやう法律で義務化すべきだ。
平成二十一年十月十七日
憲法第九條では、「國際紛爭を解決する爲の戰爭」だけが禁止されてをり、自衞戰爭は禁止されてゐないさうだが、我が國にとつての自衞戰爭は攻める國にとつては侵掠戰爭である事は自明。そこで自衞戰爭は國際紛爭を解決する爲の戰爭でないなら、當然の事ながら侵掠戰爭も國際紛爭を解決する爲の戰爭でない事になる。ならば憲法第九條は自衞戰爭とともに侵掠戰爭も禁止してゐない事になる。
憲法第九條が、自衞戰爭を肯定するなら、侵掠戰爭も肯定する筈であり、さうなつたら日本は外國を侵掠する事が許されてゐる事になる。
――しかし、侵掠戰爭が國際紛爭そのものであるならば、その國際紛爭たる侵掠戰爭を解決する爲の自衞戰爭なるものは禁止されるのでないか。
何れにしても、憲法第九條は、樣々な解釋が可能であり、それだけで法文として惡いものであると云ふ事は、明かな事實だ。解釋の餘地も無いほどに嚴密な條文に改める事は、惡い事だらうか。
平成二十一年十月十七日
神社新報社編『増補改訂 近代神社神道史』 塙瑞比古「序文」

明治維新いらい昭和二十年の「神道指令」に至る間の神社の歴史は、俗に「國家神道時代」とよばれる。「國家神道」の語は、周知のやうにアメリカ占領軍によつて大東亞戰後に普及するやうになつた語であるが、そのいはゆる「國家神道」に對する今日の俗流の理解は、少なくともわれわれ神社人の見るところでは、甚だ偏見に滿ちたものといふ以外にない。もちろん制度といふものはすべて、肯定すべき側面とともに否定すべき側面をも隨伴しがちなものである以上、神宮神社に關する戰前の國家制度が完全無缺のものであつたなどと辯護すべきでないことはいふまでもないし、また辯護する必要もない。われわれ神社人の立場からも「國家神道」のあり方に對する批判は種々あるが、しかしその批判點は今日の俗流評論のそれとは全く質を異にする。彼らは「國家神道」の制度の據つて生じた思想・理念にさかのぼつて、それを基本的全面的に否定する、換言すれば明治維新の大理想そのものを否定する立場に立つて戰前の神社制度を非難してゐるが、われわれは決してさうではない。個々の制度やその運用については鋭く批判するが、それは、それらがその基本とすべき理念――明治維新の大理想――に反するものと斷定されるからである。そこには、いはゆる「國家神道」をどう捉へるかについて大きな認識の差がある。

平成二十一年十月十七日
Operaの動作が遲く感じられてきたら、キャッシュをクリアしてHDDをdefragすると、再び高速化されます。
Internet Explorerでも同じで、へんになつたらキャッシュのクリア。まれに10GBくらゐキャッシュを溜め込んで、ぐだぐだになつてゐる事が。もうちよつとキャッシュの量を制限しませう。

平成二十一年十月十六日
Googleの急上昇ワード。「日付を変更」がOperaで動かない。Googleはクズ。
平成二十一年十月十六日
岩波講座世界の文學は、薄つぺらい本のシリーズだが、その中でも一段と薄いのが新村出「イソップ」。たつた十八ページしかない。が、要領良く纏めてゐて便利だ。上田敏に伊曾保物語考があつて、日本人の研究としては優れた業績であり(當時)、何人もこの方面の研究に進まんとする場合には必須の文献となつてゐる、等の記述も興味深い。
が、Wikipediaのイソップ寓話やアイソーポスの項に、上田敏は兔も角、新村出の名前すらも擧がつてゐない。
平成二十一年十月十六日
多くの人が福田恆存の論理を賞讃し、或は否定する。が、根本的な福田氏の思想を、案外多くの人が忘れてゐる。福田氏は、D.H.ロレンスに澤山の事を學んだ。が、それが論理であると見る事は出來ない。寧ろ、論理を超えたものを、福田氏はロレンスから受取つたと言つて良い。それは、人間の生き方であるが、人間は生き生きとした生を必要とする、と云ふのは、ロレンスの最大の主張であり、それを福田氏は眞實として受止めた。福田氏の全ての論理の背後には、福田氏の信じた價値觀=人間觀がある。
もつともらしく福田氏の論理を利用したところで、福田氏の人間觀を無視した言説は、全て福田氏を裏切るものである。
さう云ふ觀點から見れば、實に忠實に福田氏の主張する生き方を實踐したのが、松原正氏だと言つて良いと思ふ。福田氏の主張した「生き生きとした生」の生き方に、松原氏のそれは合致する。福田氏は松原氏の物の言ひ方を肯定しよう。しかし、西部邁や西尾幹二の「現實主義」と云ふ「論理」を、全面的に肯定する事はあり得ない。さう云ふ「論理」を支へる「受動的な生」の有り樣を、福田氏は決して「生き生きとした生」だと看做さないだらうからだ。
斯うした點で、多くの福田氏の讀者が、福田氏の思想の根幹を受容れないで、その「論理」だけを「使へる」ものとして利用しようとしてゐるだけのやうに思はれる。自分の思想を「保守」するのに、多くの人が福田氏の「保守」思想を利用しようとしてゐる。それは間違ひだ。

平成二十一年十月十五日
秀逸なアニメが意外と多い今期だが、結局そらのおとしものが全部持つて行つたと云ふ……。
平成二十一年十月十五日
今日ももりもり食べる。
バナナロール
ぺろりと
アーモンドキャラメル
ミーシャの夢は大きくなる事らしい。イラスト版では大きく描かれてゐるが、實物(?)は手乘りサイズと小さい。

平成二十一年十月十四日
下敷き:本棚が次々に倒れ小5女子が重体 札幌の古書店 - Google ニュース
平成二十一年十月十四日
朝日新聞学芸部編『一冊の本』(昭和五十一年十一月二十五日新装発行・雪華社)を古本屋で購入。作家や評論家その他の人が、影響を受けた本について語つた文章を集めたもの。北杜夫がトニオ・クレーゲルとか。
唐木順三(正法眼蔵)、諸橋轍次(論語)、林健太郎(ブルクハルト「イタリア・ルネサンスの文化」)、中屋健一(フランクリン自伝)、桶谷繁雄(藤村「破戒」)、鈴木信太郎(ステファヌ・マラルメ詩集)云々。寿岳文章が法句経を擧げてゐるのは、意外なやうで案外意外でない。宮崎市定はメレジコウスキイ「先駆者」(メレシコフスキー「先覺」)を擧げてゐるが、興味深い。松原先生が(江藤淳の漱石論を批判する際に)參照すべき參考書として提示した漱石論を書いた大岡昇平は、「坊つちやん」を擧げてゐる。平野謙は唐木順三「現代日本文学序説」を擧げてゐるが、ちよつと驚いた。同じ頃に出てゐた篠田太郎の唯物史観的解釈による近代日本文学史よりも唐木氏の方がはるかに新鮮でもあり、教訓的でもあったと述べ、高く評價してゐる。

平成二十一年十月十三日
赤クリーチャーたちは影響を受けやすいやうだ
平成二十一年十月十三日
width属性とheight属性が指定されていないimg要素を非表示にしたときのメジャーブラウザの挙動 - 雑記 - AZ store
平成二十一年十月十三日
リンクも張らず、誰の事を言つてゐるとも明かにしないで、批判する・攻撃する、と云ふのは、ターゲット以外の無關係の人にも「俺の事か」と勘違ひさせて、餘計な介入を招く結果になりはしないか。
――と、誰とはなしに言つて見る。特定個人を相手にするのが嫌だからと言つて、不特定多數の大勢を敵にまはしてしまふ。
疑心暗鬼の罠を張る戰略。澤山釣れるのが嬉しい人向け。私は釣りは嫌ひだ。
平成二十一年十月十三日
野嵜さんとこのクリーチャー紹介
自前で作らうと思つてゐた矢先にまとめサイトが。何うも有難うございます。
幾つか補足を……。平成二十一年九月二十日のイラストは青Gくんとおもちくん、プラスただのみみずです。みみずはクリーチャーではありません。平成二十一年十月一日の寫眞に寫つてゐる縫ひ包み、スコっちと一緒にミーシャにつつこみ入れてゐる奴ですが、これがもぐら氏です。ヅラ疑惑あり。あと、いかめしリングは純然たる食物です。目が無いのでクリーチャーに非ず。赤ミーシャと赤Gちゃんはパートナー。ミーシャと青Gくんの關係と似たやうなものです。ミーシャとおもちくんは、友人にしてよきライバル。好敵手と書いて「とも」と讀む。ミーシャがソ聯のスパイなのに對し、おもちくんは大日本帝國の諜報機關に所屬してゐます。階級は大佐(但し推定)。
クリーチャー達は、何時も人間の世界を默つて觀察してゐて、たまに人間の行動を眞似します。が、彼等に意思や感情があるや否やは全くわかりません。
平成二十一年十月十三日
オールスターズ
或意味職場のヒエラルキーを象徴してゐる……。
平成二十一年十月十三日
実名・電話番号・銀行口座・住所を晒すメリットとデメリット - ぼく最速戦記君劇場@自宅の日記 Not Found - 技術日記
吹いた。

平成二十一年十月十二日
赤Gちゃんの戀
平成二十一年十月十二日
赤ミーシャの戀
平成二十一年十月十二日
「闇黒日記2.0」に書いたけれども、七鍵さんは下らない「哲學」なんか語つてゐないで、一言「議論なんて面倒臭い」と言へばいいぢやないか。どうせそんな事なんだらうし。
平成二十一年十月十二日
ウェブで議論が成立しない理由は、
の何れかによるものと斷言出來して良い。即ち、議論の當事者に、頭が惡いか、意地が惡いか、のどつちかの人間が紛れ込んでゐる、と云ふ事。
論理が解らないのは、頭が惡いからだが、論理を正しく用ゐないで只管自分に都合良く話を持つて行つたり、傍觀者の振りをして自分に都合の良い主張の勝利を勝手に宣言したりするのは、意地が惡いからだ。何れにしても、まともな議論が形成されず、まともな結論に辿り着かないのには、變りがない。一方、議論そのものを否定するのは、兩者を兼備へてゐるのであつて、一番たちが惡い。自分の頭の惡さを自覺してゐて、それでも自分に都合良く世の中を動かしたい――さう云ふ人だからこそ、自分の意見が通らない可能性を潰す爲に、議論を最初から潰しにかかるのだ。

平成二十一年十月十一日
現行憲法無效論の「問題」として指摘されてゐる件で。
憲法第103條には以下の規定がある。

第103条 この憲法施行の際現に在職する国務大臣、衆議院議員及び裁判官並びにその他の公務員で、その地位に相応する地位がこの憲法で認められてゐる者は、法律で特別の定をした場合を除いては、この憲法施行のため、当然にはその地位を失ふことはない。但し、この憲法によつて、後任者が選挙又は任命されたときは、当然その地位を失ふ。

現行憲法無效を宣言した際にも、大臣、議員等は現行憲法以前の地位が繼續してゐると看做せばよろしからう。
平成二十一年十月十一日
ハイパフォーマンスCSSの記述方法 : Weblog : SimpleIsm
平成二十一年十月十一日
ウェブデザインと言ふとごてごてと飾る事だけがさうだと信じ込んでゐるデザイナの人がゐるけれども、何うかと思ふ。日本人なら虚飾を排した清潔なデザインこそ求めるべきだらう。
平成二十一年十月十一日
遲筆の理由 - 鬱と躁の日々
私の場合だと、兔に角一氣にがりがりと書いた後、そのまゝ推敲せずにサーヴァにぶち込む。そして讀み返さないで忘れてしまふ。非道い文章がそのまゝになつてゐるのを見て人が嗤ふ事があるけれども、所詮ウェブの文章なのだから氣にしない。
或は、讀み返して、をかしなところを直す。流れがをかしくなつてゐるのを見附けて、加筆する事もある。たまに元の文章の倍くらゐに膨れ上がる事もある。削る事もたまにあるけれども、もつたいないから滅多に削らない。
考へた事を公開して共有する――それがウェブの目的だらうと思つてゐるから、考へた事・思つた事・目にした事を、何でもかんでもさつさとサーヴァにぶち込んで公開する。文章に拘つて内容を忘れてしまつたり、書かないで濟ませてしまつたりする事が、一番もつたいない。さう思つて今までは勢ひで書いて勢ひで上げて、と云ふ事をずつとやつてきた。
たまに、極たまに、何度も讀み返しながら、推敲を繰返して、じつくり文章を練り上げる事もある。
新井素子は最初のころ、エッセイをどう書けば良いのかわからなくて、苦しんで、擧句、幾つかのヴァージョンを書いて、編緝者に渡してゐたんださうだ。ところが編緝の秋山さん、新井さんに、いつも、どれが最初に書いたものかを尋ねて、それを必ず採用してゐたのださうだ。新井さん、がつかりして、すぐに一パターンしか書かなくなつたのださうだけれども、後で聞くと、秋山さんはわざと最初に書いたものを採用してゐたのださうだ。さうしないと新井さん、毎囘何パターンもエッセイを書き續けるだらうから。秋山さんの御蔭で新井さんはエッセイを書けるやうになつたのだと、後で書いてゐた。
結局のところ、考へ過ぎて苦勞してしまふよりは、兔に角書いてしまひなさいと、さう云ふ事なのだ。巧いか下手かは氣にする必要なんてない。作家の新井さんはいざ知らず、我々素人の文章は、どうせ下手な訣だし。
平成二十一年十月十一日
不味い餌ほど良く釣れるらしいね。 - それはべつとして...

この處置はこれで二度目、なんだか痴漢じみた需要ばかりで困惑する。

何でこんなにリンクされたり引用されたりするのが嫌で嫌でしやうがないと言ふ人が、平氣でウェブサイトなんか作つたり「ブログ」で不特定多數の人間相手にものを言つたりするんだらうね。
七鍵氏と同じで、「わたしには自由にものを言ふ權利がある」=「わたしには他人から批判されない權利がある」=「他人は私を批判する權利が一切ない」と本氣で信じてゐるんだらう。自分勝手なのだ。
さう言ふ人に限つて、恐ろしく派閥意識が強い。
2009-09-30 - それはべつとして...

※ 形式のみを顧りみる保守派連中および舊假名遣のダイアリー書きの御仲間として捕捉されることを拒否する。*1

*1:國語マニアにおける舊字舊假名派閥には心底ウンザリしている。「…拒否する」に應じて態々アンテナを張つて來るバカとかにもね。(※再掲)

「あなたとは違ふんです」と言ひたいらしいのだが、或派閥ではないと主張するのなら、その人は「私は違ふ派閥なのである」と宣言してゐるのにほかならない。
しかし、「リンクされたくないから、リンクした人をバカ呼ばはりして嫌な思ひをさせて撃退しようとする」つて何なのだらう。七鍵氏にしてもeulear氏にしても、「自分には他人を不愉快にさせる權利がある」「他人には私を不愉快にさせる權利がない」と本氣で思つてゐるらしい。と言ふか、この手の人つて、「嫌ひ」みたいな感情的な言ひ方が好きだよね。「私はあなたが嫌ひです」みたいな言ひ方をするのはとても良い事だと本氣で思つてゐるらしい。
それにしても、獨善の論理くらゐ「隙のない論理」もないね。だから良くないんだよ。
平成二十一年十月十一日
公共性・一般性のない、個人の獨善に基いた非難の類に晒されて、迷惑を蒙つてゐる人――私はさう云ふ人を辯護したいと思ふ。
基本的に私は、不當に非難されてゐる人や物を見ると、自分の能力を省みず、無謀にも、辯護を買つて出ようとする「惡い癖」がある。私が一方的に他人を攻撃した事は一度もない。話は逆で、他人を一方的に攻撃してゐる人・何かを一方的に攻撃してゐる人を見て、攻撃されてゐる人・ものを辯護すべく、私は物を言つてゐる。
ところが、「一方的に攻撃していいもの」を攻撃してゐるだけだ、「攻撃していいもの」を攻撃して何が惡い、と思つてゐるその手の人は、私が辯護を買つて出ると、私が「不當にその人を攻撃し出した」と勘違ひする。「辯護をする事それ自體が惡」と云ふ訣だ。しかし、辯護をして惡いなんて話は聞いた事がない。
私は辯護をしてゐるのだ。しかし、私のしてゐる事が辯護である事實を認めると、一方的に他者を攻撃して好い氣になつてゐるその手の人は自分の立場が惡くなる。だから、意地でも私が好きで攻撃をしてゐる事にしなくてはならない、と云ふ事になつて、その爲に非道い惡質な手段・工作を平然と行ひ、或は感情的に罵倒したり、とありとあらゆる方法を使つて、私を默らせ、潰さうとする。が、さう云ふ感情論が世間に受容れられない事もその手の人は良く承知してゐて、だからもつともらしい「理窟」をでつち上げ、自分を正當化しようとするのだ。リンクされるのを嫌がる人は、リンクしてくる他人を何の根據も無く「癡漢」呼ばはりする。リンクの理由を「派閥意識に基いてゐる」と惡く表現して、惡い動機に見せかけ、リンクしてきた人間を恰も惡い人間であるかのやうに言つて盛に宣傳して相手を居たたまれないやうにする。批判封じの爲の「哲學」として「惡しき價値相對主義」を振りかざす。或は、ひたすら揚げ足取りを何年も續けてみたり――その時、人の言つてゐる事の核心からは目を逸らし、レトリックの部分だけをひたすら問題にして、相手を困らせようとする。獨善的な人間だからこそ、さうした攻撃の技術だけを發達させる。けれども、言葉の技術でもつともらしく氣に入らない人間を切つて捨て、それで自分は鼻高高――さう云ふ人の論理の缺如、或は甚だしい感情過多、或は偏見・差別意識……それらを我々ははつきり看て取り、欺されないやうにしなければならない。彼等は、他人を欺して、自分に都合の良い方向に世の中をそつと動かして行かうとするのだ。公正さを缺いた、卑劣な工作で、世の中を動かさうとするのだ。批判封じの爲だけの、罵詈雜言、レッテル貼り、或は、もつともらしく理窟を捏ねては相手の言つてゐる事の周邊の部分を突ついて「矛盾」を指摘する批評家氣取り、さう云つたものを我々は拒絶しなければならない。
證據として相手の言葉の「重箱の隅」的なもの・言葉の端のレトリックを持出し、大袈裟に論じては《問題がある」「矛盾だ」と一々叫び、事ある毎に蒸返して、頻りにつつく――そんなろくでもない事を喜んでやる人もゐる訣だが、證據に持出すにしても、傍から見てゐて誰もが「馬鹿馬鹿しい」と思ふやうなものは採上げない方が良いだらう。當人が糞眞面目な顔をしてやればやるほど、馬鹿が強調される訣で――勿論、さう云ふ馬鹿な事をやつてその人はこちらを嘲つてゐる積りなのだが、好い加減こちらも慣れた。要は、「嫌ひです」「癡漢」と言つて相手を一方的に罵る人も、もつともらしく「批評家」つぽく・「論客」つぽく振舞ひつゝ、露骨に侮蔑の態度を示して、人に粘着する人も、まともな議論を眞面目にしようとしない時點で、獨善的であり、自分の意見だけを押通さうとしてゐる點で、同じである。
平成二十一年十月十一日
Re:Suckyさんだけに對する文章(4:休題)へのご意見・ご感想 - 鬱と躁の日々
皐氏が怒つてゐる。怒るのが當り前だと思ふ。七鍵氏の獨善的な態度は、本當に嫌なものだ。七鍵氏の態度は、慇懃無禮だ。
しかし七鍵氏、本音が出てゐますよ。

これらは、Suckyさんにだけ押し付けようと話をしてゐるのではありません。

皐さんが怒つてゐるので私は却つて冷靜になつてしまつたのだが、落著いてこの七鍵氏の發言を見ると――七鍵氏は實に拙い事を言つてゐるではないか。
七鍵氏は、皐さんにだけではない、皐さんも含め、皐さん以外の人にも、自分の考へを押し付けようと、話をしてゐる、と言ふのだ。おいおい……。
皐さんは押附ける氣はないが、自分はかう考へてゐる――言放しで七鍵さんはさぞ氣持が良いことでせう。と書いてゐるが、七鍵氏は、押附ける氣滿々なのだ。
さうすると、Suckyさんだけに對する文章(4:休題)へのご意見・ご感想やそれ以前の七鍵氏の發言の解釋も變つて來る。七鍵氏は、説明はしない、ただ受け手の解釋の能力だけが問題だ、と述べる。が、これは、「私の意見に頭から賛成の人だけが、人の意見を解釋する能力を持つてゐるのだ」と言つてゐる事なのだ。どこぞの金さんのやうな獨裁者なら、斯う云ふ事は平氣で言ひさうだ。ソヴィエト聯邦なんかでは、斯う云ふ事は當り前のやうに言はれてゐたに違ひない。しかし、と云ふ事は、斯うした發想は、民主主義の國ではあり得ない・あつてはならないものだ、と云ふ事だ。民主主義の國だからこそ、自由に意見を述べ、それに對して自由に批判が行はれる――それが自由な議論と云ふものだ。
七鍵氏は、「自由に受取れば良い」と言つてゐるが、「しかし、受取り方によつてあなたの能力が問はれるのですよ」等と言ふのは、許されない。「私が自由に表明した意見ですから、自由に感想をいだいてよろしい。けれども、或種の感想を抱く事を、私は期待してゐるのですよ」――七鍵さん、あなた、それ、相手が自由に感想を抱く事を、事實上禁止してゐますよ。
平成二十一年十月十一日
「日本国憲法」は、日本國民が自由な意思で策定・制定した憲法だと言ふ人がゐる。けれども、G.H.Qが或方向に事態を持つて行かうとして陰に陽に影響力を發揮し、それに迎合する形で「日本人が制定した」のなら、「自由な意思で制定した」ものではあり得ない。
何うも日本人は、斯うした部分での感覺がにぶいらしい。
平成二十一年十月十一日
「私」を基準とする主張は、七鍵氏をはじめとして、ウェブでは極めて多い。が、「ウェブ」と云ふ文脈を意識しない主張は、全て駄目だ。だから「私」中心主義の七鍵氏その他の人の主張は全て棄却される。ウェブでの發言は全て「私」の域を超えたものでなければならない。人が「自分本位」の發想を持つてゐるとしても、それを克服する事がウェブで發言する爲の大前提となる。だから、議論をしたあと、「わだかまりが殘る」のやうな、七鍵氏の指摘は、ウェブでは無視されて構はないし、されなければならない。わだかまりが殘つても、公開の場での討論なのだから、それを後に引きずつてはならない。當り前の話だ。なのに何時までもしつこく「わだかまり」を引きずつて、何時までも何時までも人を恨み續ける人がゐる。ウェブで「發言する資格はない」のだが、資格がなくても「發言する權利」だけは認められてゐるから仕方がない。ろくでなしの無職にも人權だけは認められてゐるのと同じ。
平成二十一年十月十一日
七鍵氏は、自分は意見を述べてゐるだけで、意見の正當性は一切述べてゐないと主張してゐる。だが、それはただの風説の流布――或はデマを流してゐるのと同じだ。
自分の主張を押通し、他人を潰す爲に、手段を選ばない人がゐる。その手の人々は、正義・正しさと云ふものが客觀的に「ある」と認めない。彼等は自分達の主張を世間の人々に押附ける爲、卑怯な手でも陰濕な裏工作でも、何でもやる。場合に據つては、粘着行爲もやる。少くとも、嫌らしい行爲を嫌らしい行爲と思はないで、當り前の事としてやる。それがこそこそとしたものか、堂堂としたものかの違ひがあるに過ぎない。が、堂々とやつてゐたとしても、不正な物は不正なものだ。何れにせよ、公開の場で不正な行爲は許されない。
公共の場での議論で、正當性・一般性を示す事は、當り前の事だ。それが、或種の人々には何うしても理解できない――さう云つた人々は、民主主義・自由主義を、道具として利用しながら、理解してゐないのだ。ウェブはもともと民主主義的・自由主義的な發想の下に作られてゐる。さう云ふ前提を認めた上で我々はウェブを利用しなければならない。七鍵氏やKirokuroは、ただウェブを利用して自分に都合良く世の中を動かさうとしてゐるだけだ。ウェブの根柢にある思想・精神を、彼等は全く理解してゐないし――理解したいとも思つてゐない。彼等の精神が民主主義以前・自由主義以前の、恐るべき反動的なものであるからだ。だが、さうした精神は、成程、我々自身も抱へてゐるものだ。だからこそ克服しなければならないのであり、それを肯定してしまふ七鍵氏のやうな態度は許されない。當り前過ぎるくらゐ當り前の話だが、彼等には當り前が通用しない。
平成二十一年十月十一日
インターネットは議論をする場であり、議論を否定する七鍵氏やKirokuro、或は「義」といつた連中は、インターネットを破壊する爲にインターネットで暗躍してゐるテロリストだと言つて良い。
平成二十一年十月十一日
ムヒくんとナツメくん

平成二十一年十月十日
福田さんの講演。新教育懇話会叢書の十三集に『正しい国語について』が、皇學館大學講演叢書の第十八集に『歴史と文学』が收められてゐる模樣。
平成二十一年十月十日
春きたる?
平成二十一年十月十日
【山田祥平のRe:config.sys】 TVにはTVの道がある

グラッときて、ああ、地震だと思ったときに、次にとる行動は、大抵TVのスイッチを入れて震源地や震度を確かめることだ。そのときに生放送をしていれば、スタジオのタレントやアナウンサーが何かしらのアクションを取るだろうし、生放送でなくてもテロップが入り、大きな地震なら急遽、編成が変更されて、臨時ニュース番組がオンエアされる。でも、地震だというときに、すぐにPCを開いて、状況を確かめるというユーザーはそんなに多くはないだろう。でも、気象庁のサイトなどを確認してみると、TVに負けないくらいに迅速に情報が更新されているのだ。

すぐ虹裏見るよ。大槍貼るよ。よくねえよ。
それは兔も角――何となく思ふのだが、山田さんも「古いタイプ」の人間なんだなあと。

平成二十一年十月九日
猫は何處まで猫だらう――考へ始めると案外難しい問題だ。生きてゐる猫は、勿論猫だ。が、では、死んだ猫は。
人間は何うだらう。山本夏彦が「生きてゐる人と死んだ人」を書いた。チェスタトンは死んだ人間にも生きた人間のやうに權利を與へよと逆説を吐いてゐる(餘談だが、生きた人間のやり方を保守するのが保守主義だと主張してゐる時點で、西部邁はチェスタトンのやうな保守主義者とは違ふ)。人が人たるべき權利・基本的人權は、生きた人にしか存在しない。けれども、著作権は死んだ人にも殘る。
――と云ふ事を、歸り道の途中で猫と出くはしてからえんえん考へてゐるのだけれども、へんだらうか。
平成二十一年十月九日
Winnyの金子氏にNHKの記者がへんな手紙を渡した事が話題と言ふか問題になつてゐる。口調は叮嚀だが内容は陰濕、と云ふ、大變嫌な感じの文章に、多くの人が怒つてゐるやうだ。辯護側の主張を「的外れ」と評したり、無罪の主張を「悪あがき」と極附けたり、さう云ふ用語がクローズアップされてゐる。
けれども、この記者氏の文體には甚だ特徴がある。どぎつい表現があちこちに繰返されてゐる事だ。それが文章全體の嫌な印象を強めてゐる。インタビューにでていただき、金子さんの考えている「将来の著作権のあり方」について思う存分語っていただきたいと思うのです。とか裁判は残念ながら、弁護団が躍起になって、金子さんの耳にタコができるほど吹き込んでいるような結果にはならないでしょう。とか。
案外斯う云ふ嫌な書き方を當り前のやうに「使ひこなす」人は多い。掲示板や「ブログ」のコメント欄で、或は「ブログ」の記事それ自體ですら、屡々見る。さう云ふ書き方をして一人で悦に入つてゐるやうに思はれるのだが――文章の書き方は、もつと問題にされていい。叮嚀語か、さうでないか、程度で、簡單に書き手の態度を極附ける人がウェブでは多かつた。けれども、NHKの記者氏は叮嚀語で書いてゐる。「です・ます」體か否か――と言ふか、ウェブでは平然と「私の文章は慇懃かつ無禮なんです」とか言つて威張る惡性の人がゐる訣で、この手の文體を平氣で使ふ人々には猛省を促したい。
平成二十一年十月九日
与謝野晶子の童話「金魚のお使」考
平成二十一年十月九日
Winnyに電子掲示板機能がある事、ファイル交換機能を殺してその掲示板だけ利用できる事を、最近のニュースは全然書かない。

平成二十一年十月八日
ミーシャとスコっち
意外と仲良しだ。
平成二十一年十月八日
実名・匿名論争が論じるべきテーマはたった一つ: 304 Not Modified

過去なんどか実名・匿名論について書いてきた。そのときは、実名派は肩書き主義の人で「誰が言ったのか」を大事にする人で、匿名派は「何を言ったのか」を大事にする人と分けていた。

えー????????
匿名派の人逹こそ、肩書き主義で、「誰が言つたのか」を大事にする人で、實名派こそが「何を言つたのか」を重視する人だ。
喜六郎や「義」ら「匿名派」の人は、「誰が言つたか」「その人物の人格は良いか何うか」「實績はあるのか」「現實社會で就職してゐるのか」と執拗に問ひかけ、相手を潰さうとする。一方、私は、「實名派」だけれども――と言ふより、「實名派」だからこそ、「何を言つてゐるのか」を問題にすべきだ、と言つてゐるのだし、肩書きや實績は問題にすべきでない、と何年も主張してゐるのだ。
平成二十一年十月八日
本當に、多くの人と、私とは、物の見方が正反對だなと思ふのが、名乘る名前に對する認識に關して。世間の人は、實名だと「自己顯示欲が強い」と思ふらしいのだが、私にしてみれば、ハンドルを名乘つてゐる方がよつぽど自己顯示欲が強いと思つてゐる。
だつてさうだらう、自分以外の人間が附けた名前である實名なんだから、それを名乘つたつて當り前――氣に入つてゐようがゐまいが、「お前の名前なんだ」と外部の存在に決められてゐるんだから仕方がない。そんなものを名乘つたつて自分と云ふものをアピールする事になんてなりつこない。ところが、ハンドルなんて、自分の名前が嫌だ! と云ふ意識の下、自分で自分に氣に入つた名前を附けて、名乘つてゐるんだ――それこそ「自分、自分、自分」と言つてゐるやうなものではないか。
多くの人が單純に「自分の名前」として「實名」を、「他人の名前」として「ハンドル」を考へてゐるけれども、よくよく考へてみれば、「實名」は「他人が附けた名前」で、「ハンドル」は「自分で自分につけた名前」だ。自分で自分の事を定義したがつて、實踐してゐるんだから、ハンドルの方が自己顕示欲まみれと言つて良いだらう。「これが本當の私なんです」と云ふ奴だ。喜六郎なんて、「俺うまいハンドル附けた! 面白いだろ!」と言つてゐるやうなもので、ハンドルを名乘つて好い氣になつてゐる典型的な例だ。
自分を自分で受容れられる形で表現したい!――自己顯示欲以外の何物でもない。名前なんて記號――「實名」だつて所詮記號なんだから、別にさう決つてゐるなら他に考へる意味なんてありはしない。ところが世間の人は、さうは考へないらしい。と言ふより、そもそもそんな事を考へないらしい。「實名を名乘るのは實名を賣込む事だ」「匿名は自分を匿してゐるから謙虚な事だ」――何とも單純な割切り方で、實に尤もらしいし、「説得力」は拔群だ。だが、さうやつて安心して實名を罵つてゐる匿名の人々が、實に澤山存在するのだ。ならば、この「論理」は「あやしい」と疑つた方が良い。心理は大抵、表面的な意味とは正反對の事が眞實であるものだ。
平成二十一年十月八日
Twitterは、一番上にTwitterに「今すぐ登録」しろと云ふボタンが大きく出るから、商用サイトが自分のところの會員向に更新情報やニュースを出すのに利用する事は出來ない――と云ふ論理には、何う對抗したらいいんだらう。
Twitterとは何か。: 304 Not Modified――Twitterとはインフラです。
どうでもいいけど、ただ單に「短い文章を書く」と云ふだけの事を「つぶやく」と稱したのは「うまい」よ。Twitterは、煽り文句ひとつで成功した商賣だ。
http://d.hatena.ne.jp/tetotan/20090929
http://d.hatena.ne.jp/tetotan/20091008
「BLOG」も「掲示板」も「Twitter」も、本質的には全部同じものだ。技術的には大差ない。制作者がstaticな文書を作つて公開するのでなく、ユーザが投稿するとdynamicにその場その場で文書を生成する點で、全て共通する。
案外誰も問題にしてゐないのは、この手の「サーヴァ上に大元のデータを置く」タイプのサーヴィスは、所詮、刹那的なデータを皆が提供し、互ひに利用し合ふだけのものでしかない、と云ふ事だ。サーヴィスが潰れれば全部のデータが消失する。だからこの手のサーヴィスには、「簡單に消えていいデータ」しか置く事が出來ない。この手のサーヴィスを利用するユーザは、長持ちするデータを作らうとしないし、「新しければそれだけで價値」と思つてゐる。「それでいいのか」と私は反省を促したいが、何うせ「いいんです」と云ふ答しか返つて來ないだらう。
しかし、何うせTwitterなんて流行りものだよ。そのうちまた新しいサーヴィスが出て來て、みんな一齋にそつちに靡くんだ。さうしたら「Twitterは次世代のインフラ」なんて言つてゐた人は、氣樂に新しいサーヴィスに乘換へて、またぞろ「うんたらかんたらこそは次世代のインフラ」と書くんだらう。さう云ふ事を書いてゐれば新し物好きの讀み手が注目して集るんだから、ウェブ評論なんて簡單なものだ。
平成二十一年十月八日
Amazon.co.jp: 山田孝雄 共同体の国学の夢 (再発見日本の哲学): 滝浦 真人: 本
買つて來た。

平成二十一年十月七日
カロリーメイトメープル味のお試し版。
ミーシャ眞横
ミーシャ正面
まだ食べてない。
平成二十一年十月七日
近代化の流れが日本の歴史にも「ある」と私は思ふのだけれども、それを意地でも斷切りたいと思つてゐる人が非常に多いやうだ。だからこそ、昭和二十年の敗戰を機に、それまでに續いて來た近代化の試みは全否定された訣だ。が、時期の長さは關係ない、明治以來の努力は繼續されねばならない。
「明治から昭和二十年までは短い期間だから黒歴史ということにしてしまってよい」――さう云ふ發想の人は、保守主義者の中にも案外多いが、さうでない人なら全てさうと言つてしまつて良いだらう。
だから大日本帝國憲法も歴史的假名遣も「何の價値もない」とされて簡單に切捨てられて來た訣だ。が、私にしてみれば、「何の惡い事もしてゐない」ものが汚名を著せられて、一方的に叩かれ、捨てられる事には我慢がならない。大日本帝國憲法も歴史的假名遣も、良いものだつたのだ。それを「惡い事が起きたのだからその原因と云ふ事にして惡者にしてしまへ」――しかし、「惡者にする」のだから氣がとがめると見えて、それで人々はこれらのものの「惡い點」を殊さら強調する事になる。が、私にはそれが全て不當な非難にしか見えない。
大日本帝國憲法の非民主性を非難する人は、「民主的な日本国憲法」と比較して違ひを強調し過ぎである。實際には大して差など無いのだ。基本的人權は、大日本帝國憲法でも保障されてゐると言ふ事は可能である。一方、「日本国憲法」の基本的人權の規定も、公共の福祉の爲には制限される事があり得る。これを「程度の差」と見る事が出來ないのは、偏見で目が曇つてゐるからだと、私は思ふ。
一方、大日本帝國憲法は正當に定められたものではなかつたとする主張――これも、「大日本帝國憲法を潰せ」と云ふ目的の爲だけに唱へられてゐる主張だと言つて良い。なぜなら、その「不當に定められた大日本帝國憲法」を改正したと云ふ建前が「日本国憲法」には「ある」からだ。もし大日本帝國憲法が端から無效なら、それを「改正」した「日本国憲法」も無效だと言はざるを得ない。大日本帝國憲法が有效なら、もちろん「日本国憲法」は無效である。どつちみち「日本国憲法」は無效であるのだが、「我々日本国民が支持しているから日本国憲法は有効」なる異常な説を本氣で唱へて、無效論を小馬鹿にする。しかし、國民が一方的に憲法を支配するのなら、憲法による法の支配は成立たない。國民は好き勝手な事をするのであり、その爲に憲法が利用される事になる。憲法が國民を律するのではなくなる。「それがよいのだ」と言ふのが本音なのだらうが、それでは「憲法は要らない」=「日本国憲法は実質的に無効である」と言つてゐるに等しい。それが無效論を嘲笑ふ人々には解らないと云ふ。聞く耳持たない人は何を言はれても解らないのだらう。
平成二十一年十月七日
「日本国憲法」の「制定」は、G.H.Qが指導し、その監視下で行はれた事が指摘されてゐる。同時に、G.H.Q.が、その「指導」に日本政府が從ふやうに、天皇を「人質」にとつた事も、多くの文献で指摘されてゐる(ロバート・ウォードに據れば日本側に与えたといわれるもっとも決定的な圧力は、天皇の身体に対する脅迫である。このような脅迫がなされるや、この点以外の憲法改正点に関する交渉で、日本側が非常に住順になったことは、誰しも理解できよう。との事)。また、占領國が積極的に關與した事實を隠匿する爲に、殊さら日本政府・日本國民が自主的に行つたかのやうに、外見を整へ、強調した事は、注目すべきであらう。
平成二十一年十月七日
小山常実は『憲法無効論とは何か』(展轉社)の「あとがき」で以下のやうに述べてゐる。

私が一番恐れるのは、憲法改正案の内容の低さではない。そのことよりも、「日本国憲法」改正という形で、新しい憲法を作ろうとしていることである。「日本国憲法」改正という形をとるということは、占領下にGHQの完全統制下で作られた「日本国憲法」を有効と認めることである。したがって、今後、再び中国や米国などの外国に圧迫されて「憲法」を押し付けられても、拒否する論理がなくなってしまう。すなわち、独立国の精神を根底から失うことになるのである。

平成二十一年十月七日
大石義雄は『憲法と日本の将来』(時事新書)で以下のやうに述べてゐる。

われわれは、帝国憲法がよい憲法であったかどうかという問題と、帝国憲法下の事実としての政治がよかったかどうかという問題とは、はっきりこれを区別して考えなければならない。

平成二十一年十月七日
「日本国憲法」が戰爭を認めるか否かの問題で「自衛戰爭は認める」「集團的自衞權は認める」とする意見が出てゐる。けれども、天皇の發言は絶對のものとして受容れる一部の右翼の人々は、戰爭の放棄を絶對のものとして受容れねばならない事を知つてゐるであらう。
美濃部達吉『新憲法の基本原理』p.9

衆議院議員の總選擧に次ぐ解散後の新議會たる第九十議會は昭和二十一年六月二十日に開院式が行はれたが、其の當日憲法改正草案は左の如き勅書を附して衆議院に提出せられた。

以下は其の昭和天皇の勅書。

朕は國民の至高の總意に基いて、基本的人權を尊重し、國民の自由の福祉を永久に確保し、民主主義的傾向の強化に對する一切の障害を除去し、進んで戰爭を放棄して、世界永遠の平和を希求し、これにより國家再建の礎を固めるために、國民の自由に表明した意思による憲法の全面的改正を意圖し、ここに帝国憲法第七十三條によつて、帝国憲法の改正案を帝國議會の議に附する。

「天皇は絶對」と考へる右翼の人ならば、この發言をも絶對のものと認めて、基本的人權の尊重や戰爭抛棄を命じた「日本国憲法の原則」を守る事は確實である。
一方で、「日本国憲法」は「國民が定めた憲法である」「民定憲法である」と信じてゐる人々は、自分の考へが誤である事實を認めねばならない。憲法前文の記述にもかかはらず、「日本国憲法」が形式上、天皇の勅によつて定められた事は、搖るがす事の出來ない事實だからである。
この昭和二十一年六月の二十八日には、戰爭抛棄がそもそもの國家の自衞權そのものの放棄である事と説明されてゐる。
大石義雄『憲法と日本の将来』pp.62-63

また、二十八日の衆議院本会議においては、共産党議員野坂参三氏は、「改正案第九条は、戦争一般の放棄を規定しているが、現実には、不正の戦争と侵略から自国を護るための正しい戦争とが存在する」として「戦争一般の放棄ではなく、侵略戦争の放棄とするのが的確ではないか」と質問している。これに対して、吉田首相は、「近年の戦争は多く国家正当防衛権の名において行なわれており、国家正当防衛権を認めること自体が戦争の誘発原因となり有害無益である」と答弁している。

これを多くの人が「憲法解釋」と稱し、「憲法解釋」は政治の都合で幾らでも變へる事が出來ると主張してゐる。けれども、吉田首相の説明は、「解釋」と見るには餘りにも理論的であり、今でも理論としては通用し得るもので、これに反對するのは寧ろ困難であらうと思はれる。事實、アメリカが行つた「對テロ戰爭」が国家正当防衛権の名において行なわれてゐた事は、その不當性が後に散々同國人からも指彈されてゐるのを見れば明らかであり、ならば吉田首相の理論は「現在でも十分通用する」と言ふ事が出來る。そこで「解釋」を「變へる」と云ふのは、相當無理があると思はれる。少くとも、自分に都合良く憲法の條文の説明を變へてしまふのは、憲法の規定を蔑ろにする事であり、實質的に憲法を「無效化」してゐると言つて良い――と言ふよりも、憲法の存在意義それ自體を否定してをり、現在の日本國では自分に都合良く主張し、もつともらしく見せかける爲に憲法の條文を利用して説明する、と云ふ事が非常に屡々行はれてゐる。「それをうまくやれるやうにするのが法學者の使命である」とすら主張する法關係者も存在するが、冗談ではない、法を好き放題に利用して爲政者が身勝手な政治を行ふ事を、今の法關係者は肯定するのか。法それ自體の強制性が認められない限り、法には存在意義がないし、法それ自體の強制性が認められる爲には法の外部で人間が勝手な解釋をして法の規定を歪曲する事を認めない態度が必要である。現在の「日本国憲法」下では、運營上、憲法それ自體の權威を徹底して貶め、憲法を巧みに形骸化させる事が當り前となつてゐる。
福田恆存が述べた通りで、憲法それ自體の權威の恢復が必要である。その爲には、少くとも現状の「日本国憲法」は何とかしなければならないが、一番なのは、「日本国憲法」は制定過程から内容から最う全てが誤であつたと率直に認める事で、とすれば現在或は將來に亙つて必要な憲法を得るには大日本帝國憲法からの改正手續を初めからやり直すしか手はない。
平成二十一年十月七日
引用元の明示は blockquote の cite や title 属性だけでは不十分なのか - カナかな団首領の自転車置き場
「闇黒式引用」で惡名が廣がつた當事者から一言言はせて貰ふと――私は「闇黒式引用」(出典をblockquote要素・q要素のcite屬性で示すやり方)「でなければならない」とは思つてゐないのでして、「闇黒式引用」「でも構はないだらう」と云ふ立場です。別にその邊に出典を示したテキストが轉がつてゐれば見る人は適當に引用文と關係を補完して見るだらうと。ただ、「闇黒式引用」を「やつたら駄目」と言はれたら大變困ると。何處にも書いてゐないんなら問題にして呉れていいけれども、何であれ「書いてある」んならそれでいいだろと。一々小煩い事を言つて人を苛めて呉れるなと。
平成二十一年十月七日
カロリーメイト。メープル味のお試し版。
食べてみた。
結構行ける
平成二十一年十月七日
無題: まじかんと雑記
と言ふか、だからHTML5は嫌なんだよ。
「テキストをマーク附けして互換性の高い文書を作る」と云ふ事を「正しいHTML派」の人間は主張してゐたのだけれども、「ブラウザでウェブアプリケーションを實現する」爲に「新しいHTML」であるHTML5は「實用的」な内容に變更されてゐる訣だ――そしてこのHTML5が「正しいHTML」になると言ふのだから、從來の「正しいHTML」は「古いHTML」になつて存在意義を否定され、排斥される事になる。今までの「正しいHTML派」は敗北したんだよ。そして今、アプリケーションを作れると云ふ事で、プログラマの人逹が目をきらきらさせてゐる。文系の人間にはこれからは最う出る幕はない。ウェブは理系の人間が再び支配する事になる。
平成二十一年十月七日
斯うなると、プログラマの人逹は自由にアプリケーションを作つてウェブで公開し、文系の人間はひたすらユーザとして提供されるアプリケーションや「ブログ」サーヴィスを利用するしかなくなる。すると、公開されるデータは、ウェブ上にのみ存在する事になり、全て刹那的なものとなる。長い間もつデータはウェブ上に存在しなくなり、全てのユーザが刹那的に適當な發言をして樂しむ事しかしなくなるし、さうするしかなくなる。
今、實名か、匿名か、の「論爭」がまた勃發してゐるけれども――理系の實力のあるプログラマの人は、名前を出してサーヴィス提供者になり、御金儲けをする事が出來る一方、文系人間は、匿名でネタ・ジョーク或は好い加減な事・罵詈雜言・誹謗中傷を掲示板や「ブログ」で垂れ流す事しか出來なくなる。インターネットは死ぬだらう。インターネットは既に半分死んでゐるが、HTML5はそれに止めを刺す事になるだらう。
現時點でも、ウェブでの發言は全く影響力を持つ事が出來ず、オフラインの出版物として世に出ればそれが世間の意識を支配すると云ふ傾向は、以前と變つてゐない許りか、ますます強化されてゐる。HTML5が主流となるこれからのウェブは、全くの實用的な事か、お遊びか、のどちらかにしか使へなくなるし、使はれなくなる。文系の人間が眞面目な用途でウェブに拘る理由は無いし、ウェブに固執する事が今後は一層危險になる。文系人間が實名で發言するのは今後、不利益しか生まなくなる。匿名では、ネタ發言か、罵倒・嘲笑・侮辱の類かしか、する理由が無い。眞面目な議論は、匿名では出來ないし、少くとも、匿名の人間が現はれて議論を妨碍する事はますます増えるから、ウェブでの議論は今後は成立たなくなる――と言ふより、最う現在では、多くの場合、成立つてゐない。眞面目な話が出來ないならば、實用的な目的でサーヴィスを利用するか、不眞面目な目的で暇潰しをするのに使ふか、そのどちらかにしかこれからのインターネットは使へなくなる。
平成二十一年十月七日
Life is beautiful: HTML5入門:アニメーションの実装方法3種
HTML5では、御仕事の爲のアプリケーションでなければ、ゲームか、匿名で場當り的な事を言ひつ放しで垂れ流す「ブログ」か、そのどちらかしか作れない事がはつきり判つてゐる。プログラマの人は、ゲームが作れるのは樂しくて樂しくて堪らない事だから一人の例外も無く全員HTML5を歡迎してゐる。
けれども、私みたいに、ゲームなんかに興味はない、と云ふ人間にとつて、HTML5は何の意味もない。
平成二十一年十月七日
HTML5はプログラマしか仕合せにしない。
HTML5は、ウェブアプリケーションのGUIを記述するか、「ブログ」を記述する爲に使ふプログラミング言語。

平成二十一年十月六日
私逹は餘りにも「ありのまゝに見る」事に偏し過ぎて、「或價値に基いて見る」事を忘れ勝ちだ。この點で、私は呉智英氏もまた、さうした「現代的」な誤を助長してゐると思ふ。
呉智英氏は、如何に現實を認識するか、に大變拘つてゐる。世の中を正しく認識する人を、呉氏は高く評價する。その認識に基いて、立派な事を言つてゐる人を、呉氏は「一流の人物」と看做す。その「立派な事」とは結局、現實を本質的に批判する事であるが、それを可能にする條件として、呉氏はもつぱら「物の見方」を言つてゐる。だが、「物の見方」は、客觀的な把握とともに、主觀的な判斷を要するものだ。呉氏は、前者にしか注目せず、後者を忘れてゐる。或は、そこで必ず呉氏は政治的な物の見方に行つてしまふ。
人間の價値觀を考へて行けば、必然的に宗教的な物の見方に行當る。呉氏には宗教性が一切ない――宗教的な觀點が缺けてゐる。
平成二十一年十月六日
小池和夫『異体字の世界』(河出文庫)、大熊肇著・府川充男序『文字の骨組み』(彩雲出版)の二册を買つて來たが、共に惡書。小池と府川は、『旧字旧かな入門』を出してゐるが、「現代仮名遣」と「常用漢字」を支持する改革派であり、「旧字旧かな」は趣味として認めると云ふ何處ぞのブロガー氏と同じ立場をとる。
小池は、「當用漢字」が戰後のどさくさに作られたものではなく、成立まで「長い歴史」があつたと主張する。そして、新しく採用された字體は、基本的に手書きの字體として長い歴史を持ち、全て根據があると述べる。そして、「正字」とは、現在では「常用漢字の形」の事を言ふのだ、と極附ける。

現在の常用漢字の形が日本の「正字」となってすでに六十年になろうというのに、いまだに旧字を「正字」と言い張る人たちがいます。仮名遣いも含めて、「正字・正かな」にこだわる人たちです。藤原定家以来、古代の発音に基いた日本語の歴史的仮名遣いも、漢字の祖国の発音を何とか日本語に移植しようと努めた字音仮名遣いも、ついに定着することはありませんでした。発音し分けられないものを書き分けることは自然ではありません。もっとも、現代仮名遣いにしても、決して完成されたものとは言いがたいところはあります。日本語の表現として、旧かなの使用は残っていくでしょうし、守りたい文化ともいえますが、仮名遣いについてはこの本の主題ではありません。ただ、旧字については「旧字は旧字であって正字ではない」ことだけは確かに言えるのです。

「政治が正しいと定めたから正字である」――駄洒落を言つてゐるのならまだしも、こんな事を本氣で言つてゐるのなら許し難い。なぜなら、それは、「政治が正しいと言って、国民に押し付け、それを国民が受け入れたら、それは本当に正しくなったということなのだ。政治万歳!」と言つてゐるに他ならないからだ。しかし、政治が正しさを決めるなんて事が許される訣がない。政治は其處まで偉くないからだ。少くとも、國語の正しさを決めるのは國語學でなければならない。ところが、日本人は、學問の權威を絶對に認めず、政治の權威だけを尊ぶ。本當に何うしやうもない人種だと思ふ。しかし、そこにつけ込んで、「既成事實」としての「常用漢字」を、「正しい」事にしてしまはうとする小池式のやり方=國字改革推進派の手口は、本當に卑劣だ。
大熊は、慥か前に批判した事があるが、『文字の骨組み』で、「正字」を定義して「正統な字体」だと言ふ。成程。しかし、その後の「正統」の説明が間違つてゐる。

本書では正字体を「正統な字体」と定義します。「正しい字体」というと誤字でないものはみんな正字になってしまうし、「正式な字体」というと常用漢字も含んでしまいますからね。正統の根拠が『説文解字』ということです。

正字っていうのは服にたとえると正装みたいなものです。勳章をもらったりするときに着る、モーニングコートとか燕尾服は、日常生活では着ないですよね。休日に自宅であれをて過ごしていたらおかしいでしょう。『干禄字書』はTPOに合わせて字体を使い分けることをすすめているんです。念のためにいっておきますが、これは手書きの話であって、叛を作って印刷する場合は正字を使ってもおかしくないと思います。印刷するということは特別なことですから。まあ、今はパソコンとプリンタが普及して、印刷が日常なのかもしれませんが。

大熊も、小池と同じで、手書きに馬鹿に注目する。なぜか、手書きの事を考へないでは、漢字の事は考へてはならない、のやうな觀念が、この人逹にはあるやうに思はれる。しかし、「漢字の本來の姿」の觀念こそが正字の觀念なのであり、實際にどう書かれるか、どう印刷されるか、は、さうした觀念の現實への適用として考へられるべきであり、區別されねばならない。「漢字の專門家」の人々は、何うしてもこの邊を殊さらごちやごちやにして考へないと、我慢できないらしいが、私には單に頭が惡いだけのやうに思はれる。

よく「正字・正仮名」とか「旧字・旧仮名」などと、漢字の字体と仮名遣いを一緒にしてしまいますが、江戸時代までは、正仮名は手書きも印刷物も通用体との組み合わせで使われ、正字は仮名を使わない漢文の印刷物に使われていたのです。

「正字」と「正仮名(旧仮名)」が一緒に使われていたのは、明治から昭和二十年代までのことです。

小池も大熊も、殊さら「正字」と「正仮名」とを切離して考へさせようとする。そして、常に基準は「手書き」である。現實の書き方を殊さら強調して、觀念の存在を忘れさせようとする。
さらに惡いのは、さうしたものを單純に切捨てたり・「旧」と呼んだりする事には、必ずしも賛成しないかのやうな顔をしながら、飽くまで「一時期使はれたものにすぎない」と強調する事だ。彼等は、所謂正字正假名が「存在した」事は、認めざるを得ない。けれども、それらは「過去に正しかつたもの」或は「過去に通用した事があるもの」に過ぎないと言ふ。小池は、はつきり「過去に正しかったものも古くなり、今の字体が正しい字体となっているのである」と云ふ事を言つてしまつてゐる。政治的に正しさを定めるのが不可であると「正字主義者」の私は思ふのだが、政治主義者の小池はそれが可であるのみならず望ましい事であるとすら思つてゐる。大熊の場合は、「手書きで書けないならばそれを正しいと言ってもらったら困る、迷惑だ」のやうな考へ方をしてゐるらしい。何うかしてゐると思ふ。
基準となる字體とでも標準の字體とでも、何と言つて定義しても構はないが、觀念的に「正しい」と認める字體は、現實に用ゐられる字體と區別しておいていい。そして、さう云ふ正字體としては歴史的に段々と整備されて來たと云ふ事實があるのだ。明治時代から昭和二十年代まで、日本人は日本の正字體を着々と整備して來てゐた。だが、それは決して「手書きの爲」と限定して定められたものではなかつた。過去の漢字を研究する中で、よりもとの形との連續性を認め得る字體を目指して、正しい字體が整備されて來たのだ。それを一氣に破壞して「手書き出來る文字」を「これこそ正しい漢字である」と政治的に定めたのが「當用漢字」であり、そこでは何かを「正しい」とする原理それ自體を轉覆せしめてゐる。根本的な原理それ自體が連續性を持たないのだから、「當用漢字」は日本語表記の「革命」なのであり、そんな「革命」が認められる訣がないと云ふのが私の立場だ。けれども、「既に起ってしまった革命なのだから、事実として認め、それを正当化するように理論を組み立てなければならない」と言ふのが、小池や府川といつた人々の考へ方である。しかし、漢字には漢字それ自體の體系や理論・法則、或は觀念が「ある」と考へないで、何うして「現實の姿」だけを見て喜んでゐられるのだらう。そこにはリサーチャーとしての態度はあつても、學問的な態度は皆無だ。
府川は『文字の骨組み』に寄せた「序」で、斯う書いてゐる。

……。文字は世につれ世は文字につれ、本書により、種々の字形をおおらかに渡りつつ、字体もまた時代の子であることに理会する読者の多からんことを衷心より願う次第である。

まさにこの「おおらかさ」こそが、「常用漢字の字体もおおらかに認めよ」と云ふ彼等の主張を支へる「理論」であるのだが、そんな「おおらかさ」は正しさの議論では要らない。なぜなら、現實には大目に見る事があつて良いけれども、原理には嚴正さが必要だからだ。現實と觀念とを取違へる人が、今の漢字研究者には極めて多い――と言ふより、かなづかひの理論的な事にしか私は口を出さないやうにして來たし、漢字については「制限」なんて事が出來ない事實が明かになつて誰もが自づと理解するやうになるだらうと思つてゐたのだけれども、七鍵氏の所謂「哲學」の惡用によつて、依然として「國語改革」は正當化され續け、「常用漢字」の「略字体」はますます強力に正當化されるやうになつて來てゐる。漢字の專門家と言へば白川靜氏がゐたのだが先年亡くなつた。このタイミングで「常用漢字」の見直しと――恐らくは規制の再強化がはかられようとしてゐる。「時代は元に返らない」から國語の状況は惡くなるだけだ、良くなる事はない、と、判つてゐた筈ではあるのだが、それでも目の前で非道い發言が次から次へと出現し、それを信じて正字正かなを氣樂に嘲笑する手合が涌いて出て來る現状には、輕く絶望したくなる。
平成二十一年十月六日
Amazon.co.jp: 正論 2009年 11月号 [雑誌]: 本
カスタマーレビューから。

衆議院選挙での自民党の大敗北以来、自民党の政治家はもとより、産経新聞や読売新聞も「保守の再生」という言葉をやたらと使っているのが目につく。でも、「再生するぞ、再生するぞ、再生するぞ!」と一生懸命に呪文を唱えている一方で、そもそも最近の日本にまともな頭脳を持った保守派なんていたんですかと聞いてみたい気持ちになる。福田恒存以来、冴えたロジックで左の人達にも一目置かれるような保守の論客っていたっけ?全然いないでしょ。だから、「再生」するもなにも、日本の保守派というのは政治家にしろ言論人(そのほとんどは自称「言論人」)にしろ、ただ空虚で浅薄なスローガンを大声でわめきたてているだけの知的レベルの低い人たちだということ。

「保守の再生」というのは、こういう人たちをもっと量産するという意味でしょうか?もしそうだとした、今回の正論11月号はまさしくその意図する通りの内容になっています。なんといっても、日本史についての基本的な知識すら怪しい田母神さんが保守論壇でもてはやされてるんですから。日本を愛する者として、本当に情けないです。保守派のみなさん、せいぜい傷をなめあってください。

實際、右翼・保守主義者の政治主義は否定されるべきもので、政治主義者の跳梁跋扈が論壇の非道い現状を招いてゐるのだが――しかし、では、右翼・保守主義者を嘲笑する左翼・革新主義者・進歩主義者のみなさんは……と言ふと、そちらはそちらで矢張り何うしやうもない状況に陷つてゐる事は指摘されねばならない。
もつともらしく保守主義を批判する人々が、自分自身の政治的意圖を匿す事で「もつともらしさ」を演出してゐるに過ぎず、實は批判される保守主義者と同じやうな――或は、もつと非道い・質の惡い政治主義者である、と云ふ事は、極めて多い。この「水無月」氏の嫌らしい物の言ひ方。自分で自分を日本を愛する者なんて言ふ人間にろくな奴はゐない。皮肉を言つてゐるだけであり、「情けない」なんて他人を見下しても、斯う云ふ人は自分を省みる事が決してないからだ。
「保守派を叩くレトリック」として「政治主義批判」をする人々が「ゐる」――この事こそ、本當に「情けない」事なのだ。特定の黨派の人間だけを叩く時、その人がその黨派と敵對する立場にある時には、「情けない」式の言ひ方は、「レトリック」「文章の技術」でしかない。結局は、身方の黨派を持上げる事を狙ひとした言ひ方であるからだ。もちろん、さうした狙ひがある事が判つてしまへば、その人の説得力は皆無になる。だからこそこの手の言ひ方を好む人は、自分の政治的立場を隱匿し、ひたすら「客觀的」な「價値相對主義者」を演ずる事になるのだが、しかし、よくよく觀察してみれば、何の事はない、政治目的があつて政治目的を隱匿してゐるに過ぎないのだ。さう云ふやり方は卑怯以外の評すべき語が無い。まだしも政治的な立場をはつきりさせて、政治的な事を言つてゐる方が、すつきりしてゐて良い――或は、それでこそ、公正な態度と言へるものだ。同じ政治主義なら、政治的態度を匿して政治的態度をとるより、政治的態度をあらはにしてゐた方がまだ増しなのだ。惡智慧ばかりが働く人間よりも、愚直な人間の方が、はるかに清潔だ、と云ふ事。清潔な許りでも政治的にはダメと云ふ事にはならうが、陰濕な事をやるにも巧くやらねばならぬ。今のウェブで陰濕に振舞つてゐる人々は、「陰濕だ」と指摘される時點で、政治的には無能だと言へる。マキャベリの「君主論」をみよ。
政治主義を非難するのなら、「保守派」「革新派」の區別無く政治主義的な態度をとつてゐる人間を、全て、例外なしに、批判・攻撃しなければならない。同時に、政治とは異る價値を認めてゐなければならない。が、單純に政治知らずであつたり、政治をひたすら貶めて快を貪つてゐたりするのは、これまた駄目、と云ふ事になる。さうなるとよつぽど氣を附けて物は言はなければならない訣で、今の時代には多い御調子ものの人々には、なかなか困難な事であらう。
平成二十一年十月六日
ところで私は、正論2009年11月号に福田恆存の飜譯の拙さを指摘した文章が載つたのを確認したくて、ぐぐつたのだけれども、目次すらも出て來ない現状に氣附いて、それで文句を言ひたいのだつた。雜誌を買つた人がゐたら、誰が何と云ふ題で書いてゐたか、教へて下さい。どうぞよろしく。
平成二十一年十月六日
実名も捨てたもんじゃない - IT戦記
「實名が良い」のではなくて「匿名で惡い事をしてゐる人が物凄く澤山ゐるから實名にするしかない」んだよ。
たぶん Flash は無くならない - IT戦記
HTMLとFlashが直接の比較對象になると云ふのが全く理解出來ない。文書をマーク附けする言語と、マルチメディアのコンテンツと、何うして比較出來るんだらう。

平成二十一年十月五日
祝詞 -- Ray:雑学事典
七鍵氏は雜學にしか興味がないから適當に本を拾つて來てはそこに書かれてゐる事を利用して適當にまとめて「事典」の記事にする。けれども、さうして書かれた記事が「典據がある」からと言つて問題がない訣ではない。寧ろ、屡々問題の「ある」事があるのであつて、この「祝詞」の記事は、正統の神社神道の人が見たら、明かにをかしいと思ふのでないか。

祝詞とは、「のりと」と読み、神道において神徳を称え、崇敬の意を表する内容を神に奏上し、加護や利益を得んとする詞や文章のことである。

今の神社神道では、呪術的な事はしない。神を利用する事になるからだ。だからこの説明は、もつともらしいが誤。少くとも、正統派の神道人には違和感がある定義だと思ふ。以下、神道の無免許運轉。
文部省藏版『祝詞宣命』における山田孝雄の記述は平成二十一年九月九日附「闇黒日記」を參照の事。神社が宗教と異なつてゐる點の著しいのは、この祈願なくして感謝のみであるといふことにも存するであらう。但し戰前の解説であり、「のりと」が「のりときごと」の約まつた語であるとの説明は訂正が必要となる(ノリトの原形はノリトゴトであり、ノリトキゴトではない。『神道への理解』(浪速學院)p.55)。
戰後の神道では――神社本庁編『神社祭式同行事作法解説』に祝詞の説明があり、以下のやうに説明されてゐる。

祝詞、祭詞、祈願詞は、これによつて祭祀の意義を明らかにし、神意を承け、神威を仰ぎ、神徳を称へ、加護を祈り、努力を誓はんとするものである。その奏上に当つては、敬神の姿勢を表はし、神徳の発揚と相俟つて、崇敬神の向上を期し得るやう努めることが肝要である。

1 祝詞作成上の心得
  1. 祝詞は神霊に接し、神徳を讚へ、神前に物を供へて感謝の意を表し、其の恩頼を戴いて信仰心を昂めることを基本的な要件とする。
  2. 祝詞の内容は神威を畏み、恩頼を奉戴して、斯道の宣揚に努め、神ながらなる道義を作興し、以て皇室の御興昌と国民の繁栄及び人類永遠の福祉に寄与し得る内容のものとすること。
  3. 祝詞は神を斎ひまつるときの詞であるから、執行する「まつり」によつて、祝詞の趣旨を考へる必要がある。
  4. 祝詞は言葉で力強く表現されるため、所謂言霊の信仰に基き、それにふさはしい善言美辞を以て綴られるのを原則とする。
  5. 祝詞は元来、神勅を伝へ、且つその神徳を説き聞かせることによつて、祈るものに対し大いなる力を得させた趣旨を心得とすべきである。
  6. 祝詞は神威を奉戴することにあり、道徳的訓戒がここから出て来なければならぬ。随つて祝詞の内容には、神詔を畏むと共に人倫的な方面を洩ることも必要である。
  7. (以下略)
昭和四十六年改正の時の本しか持つてゐないので、今は規定が變つてゐるかも知れないが、根本的には變更がないだらうと思ふ。
神道は現世利益の宗教だと言はれるし、私もちよくちよく言つて來たけれども、嚴密に言ふと、神道人・關係者は直接的な利益の祈願はしない。信者も實際にはさうなのであつて、家庭の祭祀でも御先祖の靈を家に迎へ、また送り出す、といつた御祭で、家人は決して何らかの利益を御先祖に要求しはしない。それと同じで、神社でも神への感謝の言葉は述べるけれども、ひたすら感謝するのであつて、それに對して神樣が酬いる事は「あるかも知れない」程度の認識しかしない。基本的に神道では人間は自助努力を誓ふと云ふ建前なのであつて、神樣はそれを「見守つてゐる」のだし、結果として願ひがかなつてもそれは「神樣を自分の利益の爲に使役した」ものと看做さない(さう看做すと呪術になつてしまふ)で、神樣の意志で努力する人間を助けるのだと云ふ風に考へる。
御願ひをするにしても、御呪ひとは異る事を強調する必要がある。
平成二十一年十月五日
福田恆存の惡影響を言ふ人がゐるけれども、私にしてみれば、寧ろ、呉智英氏の惡影響の方が重大な問題を生じてゐるやうに思はれる。
呉智英氏は、1.5流の評論家であり、確かに今の時代、惡いよりは良い方に屬する人物ではある――のだが、氏が「冷笑派」の人々に「冷笑のテクニック」を齎したのは、今のウェブにとつて不幸な事だつたと思ふ。「他人を冷笑する事で自分の頭の良さをアピールする」テクニックは、道徳觀・倫理觀の缺如した人間にもた易くマスターし得るものであり、實際、さうしたテクニックのみを身に附けて他人を冷笑して好い氣になつてゐる人がウェブには極めて澤山ゐる。もちろん、呉氏自身は、好い氣になる積りもなく、ただ馬鹿を叩く事を目的としてゐるのだが、それが餘りに技術的なものに偏つてゐた爲に、フォロワーの人々には大變便利に利用される事になつてしまつた。直接の弟子系統の人よりも、立場的には微妙にずれのある人々に(まさにその「ずれ」故に、ただ單に利用する・されるの關係となつてしまつてゐるのだが)、呉氏のテクニックは良く使はれてゐる。
――とは言へ、呉智英氏の方にも主張の「隙」はある。殊に1980年代の氏は政治的な意圖を露骨に表はし、「にもかかはらず」と言つては公正な評價を行ふ、と云ふレトリックを濫用してゐた。これは今の政治的な餘りに政治的な人々をして「うまい方法だ」と思はせしめる結果となつた。私は、呉氏の政治的立場よりも――そもそも政治的であつた時點で氏を評價しないのだが、世間には政治的であるがゆゑに政治的な呉智英なる評論家の戰術を學ばうとした人が非常に多かつた。攻撃して他人の足を引張るのが目的である人が、自分の「言説」をもつともらしく見せかけるだけの爲に、呉智英風のポーズを氣取る。呉氏自身も、さうした態度を取る政治的な人――常に左翼だ――の存在を、案外認識してゐたやうに思はれる。自分と同じやうなテクニックを驅使して、「體制側」に攻撃を仕掛けて呉れる事を、呉氏は狙つてゐたのでないか。今、保守派の人々にも、呉氏の主張を評價する人がゐて、さう云ふ人々は呉氏の從來の政治的立場を氣にしないで、氏の理知的な態度に注目してゐるが、私には何うもその邊、再び「狐と狸の化かし合ひ」のやうな事態が出來してゐるのでないかと思はれる。

平成二十一年十月四日
コラム
引用のやり方についての論争まとめ
管理人ページ(2009年10月2日:引用のやり方についての論争まとめ)
平成二十一年十月四日
ネットマナーという語が気持ち悪い - めいぼうじんのはてな日記
平成二十一年十月四日
今の時代、ウェブの發言の類は公的な言論である事を事實として認識しないと拙いだらうと思ふ。「言論w」とか言ふ人もゐるが、さう云ふ發言も、オープンなウェブ上でなされてゐるのだから言論だ。となると、大袈裟なやうにしか聞えない「言論の自由」なる概念も別にをかしなものでも何でもなく全ての人が受容れなければならないし、當然の事ながら批評行爲もまた受容れなければならない。と同時に、批評として正當でない方法は否定されなければならない。
もうちよつとウェブが公共的なものである事實を、人は認識すべきだと思ふ。
なぜか「匿名でやつてゐるから私的なんだよ」とか「個人のホームページだから私的なんだよ」とか思ひ込んでゐる人が多い。中には「意見を述べるのは自由だが、意見を批評するのは禁止」とか――否、「禁止」とは言へないから、「さう云ふ事をする人は嫌ひです」みたいな事を言つて人格攻撃に走る馬鹿もゐる。ちよつと何うかしてゐる。
あと、なぜか「立派な發言だけが言論で、立派でない内容のものは言論ではない」と云ふ定義をする人がゐる。さう云ふ人は自分には内容まで判斷出來る立派な頭があるものと思つてゐるらしい。其處まで私は思ひ上がる積りなんてないよ。しかし、誰にでもアクセス出來る場での言論と、さうでないプライヴェートな場での言葉とは、私みたいな人間にも區別くらゐは出來る。
平成二十一年十月四日
  1. 「絶対的な正しさは存在しない!」っていうのは、「正しさを証明するのが極めて困難な場合がある」ってことだろ。正しさアレルギーを起こすのは、おつむがぼんやりしてるからだよ。
  2. 一方その中で、少なくとも相対的には正しいということを論じることができる。それだけの話だ。価値相対「主義」とかいってあたかも俺の性向のように決め付けた、あの某氏のようなタイプは、固定観念で頭がいっぱいなのではないか。「相対的だ」というだけで、そこで思考を停止させていてはだめだろう。
  3. ちょっと言い換えるか。「相対的に正しい」という結論を悪用して人の話を聞かなくなる人がいる一方、「相対的に正しい」と言ったからといって人の話を聞かなくなる人もいるということ。
  4. 人をすぐに「何とか主義者」と決めつけてかかるのは、ろくな人間と議論してこなかった証拠だ。それ以上でもそれ以下でもない。不幸だったというだけだ。だから俺は別にそこを責めるつもりはない。
平成二十一年十月四日
歴史的假名遣は、日本語の音聲言語と懸離れてゐる、「だから駄目だ」と主張する人がゐる。けれども、歴史的假名遣は、ちやんと讀める。對應關係は、表記→音聲言語の方向で、對應關係が認められる。だから音聲言語とさうさう懸離れたものでないと言へる。
もしそこで「いや、懸離れているとみなすべきだ」と主張する人がゐたら――しかしさう云ふ「嚴密主義」の立場ならば、「現代仮名遣い」で書かれた文章が、實際にその邊の高校生・大學生、サラリーマン、八百屋さん、魚屋さん、郵便屋さん、その他一般の人が喋つてゐる現實の音聲言語と、懸離れてゐる事實を指摘し、「現代仮名遣い」が音聲言語を反映してゐない事實を強調しなければをかしいだらう。
「歴史的假名遣は不便である」と主張する人々は、さう云ふ事にする爲に、もつともらしい理窟を捏ねて、歴史的假名遣に對しては殊さら不都合になるやうに適用するのだが、その理窟を自分自身の支持する「現代仮名遣い」に適用する時は「現代仮名遣い」に都合が良くなるやう歪曲する。大變に公正を缺いたやり方だが、我々のものとしての「現代仮名遣い」を正當化する爲に手段を選ばないのは良い事であるとさう云ふ人逹は確信してゐるから批判に對して聞く耳持たない。
平成二十一年十月四日
また、大變に多くの人が勘違ひしてゐるのだけれども、歴史的假名遣は大昔の日本語を再現するやう人々に強要するものではない。歴史的に成立して來た現代語を認めつゝ、歴史的に變化し・誤を生じて來た語を過去の日本語の姿を見て正さうと云ふものだ。
だから、「過去の日本語の姿」を見出す事は、主觀的な規範作りの作業ではなく、客觀的な學問となる。歴史的な日本語の變化を認識する事も、客觀的な研究となる。そして、當然の事ながら、現代語のあるがまゝの姿を明かにする事も、客觀的な調査である。
あるがまゝの現代日本語が一つ目にある。歴史的な變遷の過程が二つ目にある。變化が生じる以前の過去の日本語が三つ目にある。これらのものをそれぞれ調査・研究するのは、全て客觀的に行はれる事だ。それを組合せて、或種の「あるべき現代の日本語の姿」を構成するには、勿論價値觀を必要とする。歴史的假名遣の立場では、Aと云ふ語について、過去の日本語にあつて、一定の變化が生じて、現代の日本語にも存在するやうになつた、と云ふ全體の流れを見て、綜合的にかなづかひを決定する。だから、過去の日本語に存在せず、或時點に他の語から出現して、獨立の語として成立したもの(あらたなり→あたらしい)について、それ自體として問題にする事はない。もともと「とほい」であつた語が、ある時に「とをい」と書かれた事がある、そして現代の發音は「とおい」となつてゐる――この時、「とおい」と發音される語「遠い」は、本來の書き方に照らして「とほい」を正しい假名遣とすべきである、と主張する。
歴史的假名遣の主張を「昔の日本語を復活させよ」と云ふものだと理解するならば、我々は一切の外來語を排除し、全ての漢語をも排除して、やまとことばとして知られてゐる單語の中からも排除すべきものを見出さなければならないだらう。そのやうな馬鹿な事を歴史的假名遣が命ずる訣がない。
「現代仮名遣」は、現代の日本語の發音を一つの基準として採用する一方で(遠い:とおい)、歴史的假名遣の書き方を恰も現代語の發音つぽく改變してもつともらしい表記をでつち上げて「規範」とし(言う cf. ゆー/「え」の長音に關する規定)、また一部の語については歴史的かなづかひの形をそつくりそのまゝ保存する(「は」「へ」「を」)、と云ふ訣のわからないやり方をしてゐる。
ところでこの訣のわからない・原理の存在しない「現代仮名遣」なる「規範」だが、それが「正書法」として通つてゐる理由は「政治的に定められているから」と云ふものだと、これまた案外多くの人が平然と信じてゐる。けれども、「現代仮名遣」を「使え」と言つてゐる命令は存在しない。あつたら指摘して欲しい。限定された範圍で使用する事になつてゐると言つても、一般人がこの「現代仮名遣」に絶對に從はなければならない理由は一つもない。内閣告示は命令ではないし、そもそも「目安」として定められてゐるに過ぎないから從はなくても全く問題はない。となると、「現代仮名遣」は虚妄であるのだが、さう云ふものが何うして「正書法」であるのだらうか。現代の日本人が一般に用ゐてゐる書き方――そもそも個人の間で書き方には癖があり、一貫した書き方なるものは「存在しない」とすら、客觀的かつ嚴密に見れば言ふ事は可能である。となると、少くとも「規範としての現代仮名遣」「正書法としての現代仮名遣」が虚妄である事は、事實として全ての日本人が認めなければならない。
――となると、基準も無く好き勝手に書いてゐる多くの人々が、歴史的假名遣を非難・攻撃するのは、歴史的假名遣が秩序だつたものである事・そもそも規範として「權威」である事を認め、それゆゑに「權威に對する反抗は現代に於ては善である」或は「我々の自由を奪う憎き秩序は破壞してしまはなければならない」と云ふ今時にはありがちな子供つぽい價値觀に基いてゐると見て良い。

平成二十一年十月二日
定家かなづかひやその他の樣々な書き方を再生するには、爺氏が指摘するやうな美的な感覺が求められるだらうが、しかしそこではさうした書き方が可能であつた樣々な要件を考へなければならない。少くとも、現在の假名文字と漢字の體系だけが認められる環境では、樣々な書き方のみならず定家かなづかひすらもナンセンスの極みと言はねばならないだらう。
と言ふのは、定家かなづかひがあり得たのは、結局のところ美的な目的があつたからで――大野晉が定家かなづかひに於る「お・を」の遣ひ分けについて述べたのを批判して慥か小松英雄が言つてゐるのだが、定家は、アクセントに基いて「お・を」の遣ひ分けをしようとしたと云ふ大野氏の發見は高く評價されるべきだけれども、その邊の遣ひ分けに定家自身は寧ろ割と鷹揚であつたと見なければならない。アクセントの觀點から中立の音は「越」のやうな字を書いてみたり、或はアクセントに適合しない書き方でも、定家は、前後の文字の並びから見てより美しければ、使つてゐると言ふのだ。歌の作者には、定家のかなづかひに拘らない書き方をした人もゐた。さう云つた人々は、書いた時に同じ文字が重ならないやうに、文字を書き分けた。それが一種の「かなづかひ」のやうに見える。
――以下私見――けれども、さうした美的な觀點からの文字の遣ひ分けを行ひ得たのも、そもそも文字が活字でなく手書きで表現されたからだ。文字それ自體に美を見出せたからだ。さらに、明治時代に根絶された變體假名、昭和の漢字制限により消滅の危機にある漢字の異體字、これらもまた、「文字が重ならない書き方」をする爲に大變有效であり、見た目の美しさを増す爲に用ゐられた。斯うした豊富な文字が存在し、無限のヴァリエーションを持つ手書きと云ふ書き方が行はれ得た時代、さう云ふ「豐かな時代」であつたからこそ、さまざまな書き方が存在を許されたと言つて良い。成程、それは一種の「理想」と見る人もゐるだらう。けれども、さうした高度な美的時代において、文字を使ひこなし、美しい文字表現をなし得たのは、一部の特權階級に限定された、と云ふ事實は、指摘されねばならない。
今、定家かなづかひを主張し、或は契冲の假名遣(所謂歴史的假名遣)以外の全てのヴァリエーションを主張するのは、高度に美的で高踏的な・言はば貴族的な書き方ならば「認める」と言ふのに外ならない。が、さうした書き方があり得る程、現時點のインターネット環境・PCの性能は高度なものとなつてゐるだらうか。基本的な環境が整つてゐない限り、美的に至高のものを目指さねばならないその種の書き方の實現は不可能と言つて良い。現在の文字コード・文字セット・書體・フォント……それらは限定的で、未完成である。が、將來、それらが「至高の日本語の書き方」の觀點から「完成」と看做され得る時が來ると、私にはとても思はれない。なぜなら、さうした書き方があり得たのは、文字の種類や組合せの機械的なヴァリエーションのみならず、人間のセンスに基いたアナログな感覺が活かされてゐたからだ。當時の文字は、楷書であつた事は先づなく、全て行書・草書の類であつた。それは、平安繪卷だけでなく、江戸時代の「庶民向け」とされてゐた册子ですら、さうだつたのだ。それらを多くの大衆が讀みこなしてゐたと云ふのも驚きだが――しかしそれなら、現代に於てそのやうな書き方を復活せしめるとしても、それ以前の段階として、國民一般の「教育水準」のより一層の向上がなければなるまい。そもそも「傳達・コミュニケーション」の爲に言葉はあるのであるから、書き手のみならず、讀み手の教育がなければ、定家かなづかひやその他の不特定の個人的な書き方のヴァリエーション全てが存在し得る環境は成立たない、と云ふ事だ。
變體假名を含むありとあらゆるかな文字、異體字を含む漢字、その楷書體のみならず行書・草書の書き方、文字を組合せた時の印象を把握し、調整し得る感性と技術――それらを使ひこなす書き手が先づ必要だが、インターネットでその表現をあり得るものとするには、相當高度な技術の發展が必要だらう。そして、さうした美的な文字表現を享受し得る高い知性と感性を持つた享受者、それが必要となる。もし享受者がゐないならば、何を書いたところで何の意味もない。
もちろん、「誰も讀まない文字を書くバカ」を作つて嘲るのが目的なら、その種の書き方をパロディとして主張するのも「あり」なのだらう。だが、さう云ふ現代的な餘りに現代的な享樂を目的とした態度をとるならば、その人が美的センスのかけらも持たない事は明かであり――いやいや、當人が實踐する氣等さらさらないからこそ、さうした無責任で輕薄な主張がなされるのだし、さう云ふ人は批判されても反省しないから、何を言つても無駄であらう。
平成二十一年十月二日
デジタルの時代・インターネットの時代・現代にも、一往の對應が可能であり、それなりに過去との連續を維持し得てゐる日本語の書き方としたら、契冲の主張したやうな、歴史的なかなづかひしかあり得ない。歴史的假名遣にも樣々な「弱點」が「ある」と指摘されるが、「いろは四十七文字」の範圍内と言ふのが「問題」と云ふのは、問題にする方が惡いし(なぜなら、日本人は歴史的にその四七文字の範圍内で書いて來たのだから)――全て「他にも可能性はあつた」式の「批判」許りで、現實の日本語の表記の歴史それ自體を見ない非難である。「日本人は、日本語を使はない選擇肢もあつた」式の非難をして「日本人が日本語を使ふ事」を否定する「論理」が意味を持たないのは、日本人が現に英語やらフランス語やらを使つてゐないのを見れば誰でも解る筈だ。ところが歴史的假名遣を否定する時には、「何も古典語を規範としなければならない必然的な理由はない」式の「論理」が平然と持出される。けれども、我々は國語の規範には「古典語を採用する」態度をとつてきたのであり、さうした態度が千年も續いてゐればそれは日本人の態度として最有力のものと看做して良いだらう。少くとも、明治時代には、「原點に戻る」近代的な態度が採用されたのであり(多くの人々が、言語學者ですら、歴史的假名遣に、平然と「反動的」だの「尚古的」だのとレッテル貼りをし、罵倒して、片附けてゐるが、それこそ左翼的な思想に基づいた偏見だ。歴史的假名遣は科學的な假名遣ひであり、近代的な態度に基いて定められた假名遣ひだ。そして、人文科學の領域で、科學的・理性的と云ふ事は常に原點囘歸を意味するのである。ルネサンスにしても宗教改革にしても、全て原點囘歸によつて生じたものだ。明治政府も、近代化のスローガンとして復古と言つたが、同時にそれは維新であつた)、明治以來の政府による日本の國家が敗戰に至つたとは言へ、現在の日本國も明治政府以來の方針に從つてゐる事は論ずるまでもない。即ち、過去の因習的な態度を捨て、近代的な態度を身に附けようと、日本人は明治以來一貫して努力し續けてゐる。ならば、明治以來の多くの努力は、現在も繼續されねばならない。手段が變更されるとしたら、それは從來のものが近代化に役立たないと判明した時のみであり、それがかなづかひに於て言へる事だとは思はれない。少くとも、歴史的假名遣に対して「現代かなづかい」が示した「論理」は、さうではなかつた。「現代かなづかい」は、表記の近代化ではなく、寧ろ表記の太古の状態への退行を主張するものであつた。「昔は發音と表記が一致していた」と、表音主義者は言ひ、「現代かなづかい」を支持する多くの人が言つてゐる。明かに、彼等はことばを昔に返さうとしてゐる。「反動的」なのはどつちだらう。
「現代仮名遣」「常用漢字」は、別の意味でも反動的なものと言へる。即ち、政治によつて強壓的に國民を支配するものである事だ。確かに「規範」として押附けられるならば、それが如何に不合理で非科學的なものでも、誰もが使はざるを得ないし、統一的な書き方=正書法が實現する。「現代かなづかい」は、「なぜこんな書き方をするのか」と、とくと考へ始めると、頭がをかしくなつてしまふくらゐ、論理に一貫性が無い。「常用漢字」に至つては、國民の書き方を制約し、統制しようと云ふ意圖の下で作られた、「漢字制限」の爲の「踏み繪」であるから(漢字廢止を窮極の目的として、漢字制限の最初の段階として「常用漢字」は定められてをり、漢字制限の下での暫定的なかなの使ひ方を指示したのが「現代仮名遣」である、兩者は一體のものだ)、内容的に大變制約がある――今の時代の技術で實現する事は可能ではあるが、實現できたから何の意味があると言ふのだらう。しかし、そもそも、何の根據も無く、ひたすら一方的に命令されて、その通りに書くだけしか出來ない、と云ふ「バカのための書き方」が「現代仮名遣」であり「常用漢字」である。そんなものを國家から與へられて、我々國民は有難く押し頂いて使はせていただく、なんて云ふのは、何處ぞの「地上の楽園」國家的とすら言ふ事が出來るのでないか。
歴史的假名遣は、政治が國民に與へたものではない。學問的に發見された正しい存在を、改めて政治が採用し、「政治的にも正しい」と、御墨附きを與へただけだ。だから、今、政治が否定する歴史的假名遣を、我々は「正しい」もの=正統の表記として主張する論理を用ゐる事が出來る。もし政治的な御墨附き以外に何も後ろ楯が無いならば、我々は政治の支持を失つた途端に、態度を一變させるしかない――それは良くない事であるが、我々は「敗戰」を理由にそれを「良し」としてしまつたのである。我々は、たかが敗戰如きで態度をころりと變へ、安易に「逆」方向に突つ走つて「我こそは最先端にあり」と威張つてゐる輕薄な人々を、批判しなければならない――それは、他者を批判するやうであるが、「同じ日本人」の事として考へるならば、自己批判である。我々が日本人であるならば、同じ日本人として自らも輕薄さを文化的に持つてゐる事實を自覺せざるを得ない。だからこそ、さうした輕薄さを短所として認め、反省する事は、必要である。もちろん、さうした反省を「したくない」――「誤を認めたくない」から、多くの人が「反省」を主張する人間を憎惡し、讒謗やら嘲笑やらを浴びせて憂さを晴らさうとする訣であるが、さうした態度をとるのは「良い」事だと本氣で思つてゐるのだらうか。「ウヨ」の反動を嘲笑する「サヨ」の人々の、恐るべき封建性と反動性は、何度も指摘した。問題は、その種の前近代性であり、支持して見せる政治イデオロギーの種類を見て表面的に判斷するのは意味がない。然るに、「體制側」の抑壓を拒絶する態度を示しながら、全體主義的で政治による支配そのものである「現代表記」を「便利」として受容れる態度が、餘りにも當り前のやうに通用してゐる。そもそも日本人には、思想・論理と云ふもの――抽象的な考へ方が、今に至るまで定着してゐないのでないか。と言ふか、全く定着してゐない、と、私はさう思ふのである。

平成二十一年十月一日
今になつて福田恆存戲曲全集の第一卷を買つて來た。えらく肩が赤い。
平成二十一年十月一日
机の一角
ミーシャGRのいれものに入る
チロルチョコ
ミーシャ、ひとりじめを狙ふ
ミーシャ、總つつこみを受ける
何かまぎれこんでる

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