そもそも好きじゃないし「続きを読む」。
哲学史は、科学史が科学の部分をなすのよりもはるかにすぐれて、哲学の部分をなしている。なぜなら、われわれが科学史について多くの知識をもたずに有能な科学者になるのは、必ずしも不可能でないが、まずもって哲学史を研究することなしにみずからの哲学的反省を高度に押し進めることは、決してできないからである。
この書物の本来の目的と範囲は、哲学史というものは哲学的な意味をもっていることを証明し、かつ哲学的認識そのものの本性に照らして哲学史の意味を明確に決定することである。小野昇編『国語改革論争』(くろしお出版)。『私の國語教室』を豫告する福田恆存「国語よ、どこへ行く」を收録。
本来、「現代かなづかい」が良いか悪いかを、あるいは一般にある表記法が適してゐるかどうかを決める場合、その判断の基準は、その学習の難易といふことでもなければ、文化普及の機能といふことでもなく、まづ何よりもそれがその国語の本質にかなってゐるか否かといふことでなければならぬ。多分ダブり。『むさうあん物語』(記録文化社)。平成十年に出た總集篇。『復古神道』中卷(春陽堂)。ヘミングウェイ『老人と海』(タトル)。『論語古義』(商務印書館)。『橘守部全集』第四、第五(國書刊行會)。『三木清全集』五、六(岩波書店)。ダブりの筈。1980年代の重版。フッサール『厳密な学としての哲学』(岩波書店)。間違ひなくダブりだが部屋の何處かに埋つて出てこないので。
- メディア(コンテンツ)はもちろん人間の行動に影響あるよ
- でも「悪」影響があるとはいえないよ
- エロゲとか児ポ規制派とかはそんなこと気にせず言いたいこと言ってるよ
- オマエラもっと怒れ
俺が一番ムカつくのは、規制派が理性を信じていない、つまりは日本国民をバカだと思っているところだ。
性を侮辱し、性に卑劣な仕打ちを加へようとするならば、その作品は
正眞正銘の好色作品として
嚴格な檢閲を望むものである、と云ふ事になる。
もし檢閲を可とすると、檢閲者によつて許された書物は良書だと思はれてしまふ、これほど危險な事は無い、と皮肉を言つてゐる。
まず、「悪」という判断が、例えば為政者であったり、特定の利害関係者の価値に基づくものだとしたら、その判断はフェアとは言えない。例えば、中国が共産党に反対する言論を「悪」とすることや、キリスト教徒がイスラム教徒の価値観を「悪」とすることがフェアからほど遠いことは、容易に理解されよう。
女性をレイプするという表現そのものが、女性抑圧行為なのだという論理だ。と要約し(この要約に反論する積りもないし、しても意味がない)、
どうだ、すげぇだろう?と未識氏は言つてゐる。實を言ふと、未識氏のこの批判は意味がない。なぜなら、Equality Nowに反論したに過ぎないからだ。Equality Nowが全英米國民の發想を代表してゐるものではない。そして、日本の規制派はEquality Nowの聲明に乘つたものと未識氏は示唆するが、實際に兩者のメンタリティに必然的な關係があるか何うかは、實は多いに疑問である。日本の規制派が日本人である限り、歐米の連中と發想は違ふ筈である。少くとも、「派閥」と云ふ集團であるのだから、内部には多かれ少かれ、考へ方の違ひがある。そこでEquality Nowの發想に反論しても、規制派の發想を一括りにして否定し去つた事にはならないのである。
その上で、こういったあり得ないような状況が出現して、全く修正が利かぬままに、私と家族に取って重要な4年間が無為に過ぎていったことに対し、責任の所在を明らかにし,二度とこのような馬鹿げたことが起こらぬようにルールを変えるなり、責任者を処罰するなりしていただきたい。
いわゆるトップページには最新記事が表示されるけど、それは「日記」とか「ブログ」という製本で考えた場合、その中の一部である。つまりそこから先、それよりも新しい「次」のページがある(それは未来であり予定の話)。だから「次」が新しい記事で、「前」が古い記事なのだ。
ちょっと反れるけど、そういった意味で「次」「前」と「ここをクリック」は微妙に違うと思う。つて言ふけど、さうだと思ふ。けれども、曖昧な事には變りがないし――と言ふか、あれは、何かいい(惡い?)例があつた筈だけれども、思ひ出せないんで適當に書いた。
- 相手がなんだか気にくわない。この相手に喧嘩を売るべきかどうか?
- 相手に喧嘩を売られているように見える。この喧嘩を買うべきかどうか?
2の人が喧嘩を始めるケースの多くは実は、売られた喧嘩を2の人が買ってるんじゃなく、2の人が自分から喧嘩を売ってしまってるんじゃないだろうか、ってこと。
だからこそ、この問題への対応は殊更慎重でなければならず、価値観の相違に起因する問題は極力棲み分け(ゾーニング)で共存を図るべきである。正義の錦のもとに突然公共の場に引きずり出し、見ず知らずの『被害者』から罵声を浴びせられ、謝罪と自己反省を強いられる、文革時代の批判大会みたいな社会は真っ平御免被りたい*2
或いはネットや同人においてしばしば過剰なほどアマチュアリズムが持て囃され、嫌儲的な言説が叫ばれるのも、これ以上自分たちの場の公共性を高めたくないという無意識的な危機感の現れなのかも知れない。そう考えると事は嫉妬厨乙で済む問題ではないのであり、ほとほと頭を抱えたくなった今日この頃である。
さらに、2ちゃんねるをほぼ模倣したと思われる匿名掲示板「4chan」が現在になって米国で登場、注目を集めたという逆輸出的な事例もあった。
<div class="news">
でも<div class="kgewatfwsjmai">
でも、HTMLの機能(?)に何も違ひはない――と言ふより、實質的に無害だからこそ、「判つてゐる人同士」で使ふ「ローカルな言語」としてmicroformatなるものが提唱されてゐる訣だ。が、それは無視される事があるかも知れない前提で使ふ必要がある。もし無視された時、divにしてもspanにしても、單なるブロックレヴェル要素のコンテナ或はインライン要素のコンテナでしかない訣で、そんなものに入つただけのテキストやら何やらがあつては困る。Windowsの音引きルール変更
書くといっことがなければ、凡そ言葉の本来の意味でなら、「文学」というものはあり得ない。文学とは一定の形式を意味するからである。そして、記憶がかりに大きな役割を果たすとしても、単なる口頭の伝承では、一定の形式を保証しかねるのである。ギリシア人はそのアルファベットを、ポイニーケー人から取り入れ、最初はその文字を「ポイニーケーの記号」と呼んでいた。……。
「新常用漢字表」の導入に反對する。
資料では「新常用漢字表」の導入が決定事項であるかのやうに記載されてゐるが、導入するか否かを先に愼重に議論すべきではないか。(議論されたのであればその結果の要旨を載せるべきではないか)
また資料では導入のメリットのみを擧げデメリットが隱蔽されてをり、導入の是非の檢討材料としても不十分である。
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