制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
テーマ・主に扱ふ事柄・ネタ
日本人論、政治主義批判、國語國字改革批判、虹裏(img)、深夜アニメ、古本、謎キャラクターによるコント、蟲。及びその他の事。
あとKirokuroや「義」の嫌がらせへの抗議。

闇黒日記


平成二十一年六月三十日
ナビゲーションの「前」「次」とか - すたこん?

平成二十一年六月二十九日
kirokuroやその他の人々が私の發言の誤を執拗に追究し續けてゐるが、なぜか私の「最新」の發言にしか注目しない。私がウェブ用に書いた國語關係の記事を精査すれば、大量の誤が見附かると云ふのに。
定家假名遣に關する記事を書直した。根本的に評價を書換へたので、興味のある人は見て呉れるといい。手持ちの資料を見れば判る、不足の記述が可なりの量あり、相當に反省すべき點があつた。結果として、「アンチ正かな派=定家假名遣派」の嫌みに對する今までの反論の不徹底なる所以が解つた。
定家假名遣を現代人が實踐するには重大な問題がある。定家假名遣は、「お・を」の辨別をアクセントを基準に定めてゐる――が、定家と行阿以降とでは、アクセントに變化があり、當然、同じ「定家假名遣」と呼ばれるものであつても、時代と人とによつて相違が生じてゐる。一定した「定家假名遣」なるものは存在しないのであつて、よつて現代の日本人が「定家假名遣」を實踐しようとしても、從ふべき一つの方式を撰擇しなければならない。が、原理的に考へるならば、現代人の用ゐる現代日本語のアクセントに基いて「お・を」は辨別すべきと云ふ事にならうし、さうなると過去の文獻における假名遣とは當然異るものとならざるを得ない。が、果してそれは可能か、と云ふ問題があるし、また、過去のものと異るのならばそれは「現代の表記」以外の何物でもないのでないかと云ふ非難を受ける事になる。取敢ず定家の定めた規則に從ふとしても、現代人にとつては全く馴染みのないものであるので丸諳記しなければならず闇雲に用ゐなければならないから全く使ひ辛いものとならざるを得ない問題が生ずる。また、契沖以來の研究によつて本來の語形上の「お・を」の違ひが判つてゐるのであり、ならば本來の「定家假名遣」の據るべき發音の違ひも明であるのだからそれに從ふべきであると云ふ考へ方もあり得るのであるが、さうなると事實上「お・を」に關しては契沖の假名遣ひ=正かなづかひと違ひはなくなる。また、「お・を」以外の辨別に就いても、定家の調査よりも精密な形で契沖以降の調査は本來の語形を明らかにしてをり、定家の態度から言つてより精密な表記を採用するのは當然だと云ふ判斷もあり得るが、矢張り正かなづかひと違ひはなくなる。ならば、定家假名遣派と稱しても、原理的には正かな派と合流する以外に選ぶ道はない。そこで依然として「定家假名遣」を「實踐する」と主張するならば、その據るところの「定家假名遣」とは何ぞやと云ふ話になるが、それをきちんと説明出來る「アンチ正かな派」の「定家假名遣派」の人間は一人もゐないであらう。所詮「アンチ」の爲の「アンチ」だから、考へる事も理論も淺薄なのである。
平成二十一年六月二十九日
NHKは、正しい日本語を用ゐる決りがあつた筈だが、なぜわさびの奇怪な喋りを使ふのだらう。衛星アニメ劇場で蟲師最終囘。
平成二十一年六月二十九日
御隣の家が軒先に電撃殺蟲器を吊るしてゐる。夜中、眞つ暗な中に青い燈がぼんやり光つてゐるのは却つて怖い。
平成二十一年六月二十九日
最も限りなく正解に近い - 枝葉末説@ことのはぐるま
最近は敵も利巧になつて、「お前の言つてゐる理想とやらは果して絶對に正しいのか」とか言出すやうになつた。價値相對主義の話に持込めれば勝ちだと思つてゐる人が多過ぎる。
かと思ふと、こちらが讓歩して「さう云ふ見解もあるよね」で穏便に話を濟ませようとしてゐるのに、執拗に「否、お前の見解は絶對に間違ひだ」と絡んで來る人もゐたり。
平成二十一年六月二十九日
枕草子*砂の本

平成二十一年六月二十八日
BS11初恋限定。最終囘。始まる前は大して期待してゐなかつたけれども終つてみれば結構いい出來だつたと思ふ。
平成二十一年六月二十八日
TH-15LD70のウェブブラウザで前夜の最新記事を讀まうと努力して結局挫折した。ブラウザが惡いのか、それとも……。

平成二十一年六月二十七日
冬言響 / 2009-06-27(Sat) : 「続きを読む」

そもそも好きじゃないし「続きを読む」。

新聞社のサイトやYahoo!邊のニュースは、「続きを読む」なるアンカーを設置して、わざと記事を全文讀ませず、一々別のぺーじを開かせてトラフィックを無駄に増大させる工夫がされてゐるけれども、何か意味でもあるのだらうか。
あと、産經とかITproとか、一つの記事を複數のぺーじに分割して、一度に全文を讀ませない嫌がらせをしてゐるサイトがある。
Windows 7の日本語RC版をインストールしてみた:ITpro
「1 2 3 4 5 次ページ」と云ふナヴィゲーションの爲のアンカーを「一番下」に設置し、樂しく讀んで來た讀者が一旦立止まらざるを得ないやうにして、讀者に餘計な手間を取らせようとしてゐる。何なんだらう。
斯う云ふ惡い習慣をはびこらせた犯人は誰だらう。そしてサイト制作者はなぜ斯う云ふ惡習を何も考へずに平然と採用するのだらう。良い事はどんどん眞似すれば良いが、惡い事を眞似するのは馬鹿だらう。

平成二十一年六月二十六日
どうでもいい雑記その586 : 雑記帳 : der Gegenwart
平成二十一年六月二十六日
東京都が“学校裏サイト”の監視スタート、公立2200校対象 -INTERNET Watch
規制とか監視とかにアレルギーを起す人もゐるやうだけれども、今のウェブやエロゲは規制や監視されても仕方がないと思ふ。何處までもエスカレートするのがウェブだから「抑止力」は必要だ――それが「政治権力」なのは納得行かないと言ふ人が非常に多いのだけれども、ならば何ならば納得できると言ふのだらう。民主主義と云ふ政治體制の下で、反權力・反政府の態度と云ふものは、そもそも「あり得る」のだらうか。
平成二十一年六月二十六日
「ネットがないと生きていけない」が23.8%、シマンテック調査 -INTERNET Watch
ひきこもりにインターネットは必須。
平成二十一年六月二十六日
東京古書會館の古書展。書窓会。古い本が澤山あつて豐作。
『萬葉代匠記』一、二(冨山房百科文庫)。初版だつたので。『社会言語学』(おうふう)。ソシュールの「言語学」が切り捨てて來た言語に關する分野が「社會言語學」で、真田信治氏によればその研究領域は「方法論」「属性とことば」「言語行動」「言語生活」「言語接触」「言語変化」「言語意識」「言語習得」「言語計画」に分類されると云ふ。「言語計画」の領域では當然ながら「日本の言語計画」についても扱はれ、國語改革が採上げられる事になる。ジルソン『哲学的経験の一体性』(ヴェリタス書院)。哲学史は、科学史が科学の部分をなすのよりもはるかにすぐれて、哲学の部分をなしている。なぜなら、われわれが科学史について多くの知識をもたずに有能な科学者になるのは、必ずしも不可能でないが、まずもって哲学史を研究することなしにみずからの哲学的反省を高度に押し進めることは、決してできないからである。この書物の本来の目的と範囲は、哲学史というものは哲学的な意味をもっていることを証明し、かつ哲学的認識そのものの本性に照らして哲学史の意味を明確に決定することである。小野昇編『国語改革論争』(くろしお出版)。『私の國語教室』を豫告する福田恆存「国語よ、どこへ行く」を收録。本来、「現代かなづかい」が良いか悪いかを、あるいは一般にある表記法が適してゐるかどうかを決める場合、その判断の基準は、その学習の難易といふことでもなければ、文化普及の機能といふことでもなく、まづ何よりもそれがその国語の本質にかなってゐるか否かといふことでなければならぬ。多分ダブり。『むさうあん物語』(記録文化社)。平成十年に出た總集篇。『復古神道』中卷(春陽堂)。ヘミングウェイ『老人と海』(タトル)。『論語古義』(商務印書館)。『橘守部全集』第四、第五(國書刊行會)。『三木清全集』五、六(岩波書店)。ダブりの筈。1980年代の重版。フッサール『厳密な学としての哲学』(岩波書店)。間違ひなくダブりだが部屋の何處かに埋つて出てこないので。

平成二十一年六月二十五日
livedoor ニュース - 【眼光紙背】「陵辱ゲーム規制」とはプロパガンダだ!
osakana.factory - エロゲー規制派・児童ポルノ規制派の考え方の恐ろしさ
  1. メディア(コンテンツ)はもちろん人間の行動に影響あるよ
  2. でも「悪」影響があるとはいえないよ
  3. エロゲとか児ポ規制派とかはそんなこと気にせず言いたいこと言ってるよ
  4. オマエラもっと怒れ
「悪影響が全くない」のなら、どうして自主規制なんかしてゐるんだらう。良い影響を與へるものであるのならば、堂々と子供にも賣れば良い。
未識氏は一見「論理的」に話を進めてゐるが、何が眞實であるかを明かにするのが目的で書いてゐるのでなく、或特定の方向に世の中を動かさうとして書いてゐる――この事には注意しなければならない。要は「規制への動きがあるのを牽制しようとして、社會に働きかけてゐる」訣で、未識氏の文章はその爲のプロパガンダである。もちろん、プロパガンダである事自體を非難する積りはない。ただ、政治活動としてのPR活動と云ふ事實は、事實として指摘して良いだらう。
一方で、斯うした政治的發言における或種の危ふさを、私としては矢張り指摘せずにはゐられない。未識氏は「日本人の理性をもつと信用していい」と言つてゐるのだが、「人間の本能・欲望をあからさまに表はしながら『理性』『理性』と言つても遁辭ではないか」と私には思はれる。

俺が一番ムカつくのは、規制派が理性を信じていない、つまりは日本国民をバカだと思っているところだ。

私は疑問に思ふのだが――そんなに人間と云ふ存在が「頭の良い」ものであるならば、なぜ妄想を使つて性欲を發散させなければならないのか。
性欲はキリスト教においては「原罪」とされる。生まれながらにして人間が一人の例外もなしに背負つてゐる罪だ。もちろん、それは「クリスチャンにとつて」だ。歐米の連中が日本のエロゲに目くじらを立てるのは當然の話。今囘はそれに日本人が「いや、理性を信用しろ」と反論してゐる訣だ。けれども、キリスト教は、理性それ自體の存在を認め、理性に從へと命ずる良心の聲の働きを極めて重視してゐるが、一方で、それらに限界がある事實を教へる。近代になつてキリスト教の害惡を指彈する人々が現はれて、さう云つた人々がキリスト教の價値觀全體を否定するやうになつて理性主義なり合理主義なりが出現した訣だが、しかし近代の行きづまりは前世紀に散々指摘されたものだ。ところが反近代の思想は乘越えられ、再び近代主義が現代の支配的思想となつてしまつてゐる。近代以來の理性に對する信仰は、反近代の思想においては理性に對する疑問となつたが、それを乗越えた現代では、理性に對する狂信が世を席捲してゐる。理性が強大な力を揮ふ筈の現代において、性欲の「理性的な發散」と云ふ考へ方が現れた訣だが――何うだらう、理性主義の自己辯護としては、いささか無茶が過ぎる樣に思はれる。なぜ現代の理性は、欲望の縮小でなく擴大を支持するのだらう。
常識は教へる。欲望は制約がなければ止めどなく擴大する。
「言論の自由」を主張する私だが(わらひ)、言論には良い言論と惡い言論がある事を確信してゐる。「全ての言論」の「自由」を認めておけば「良い言論」の「自由」も守られる訣だから、制約の範圍を狹めておくのは、當座の「戰術」としては「あり得る」ものだ。だから近代以來の「言論の自由」は「規制の撤廢」を繰返し主張して來た。が、考へてみて貰ひたい、經濟の自由放任主義は、早々に破綻したのであつた。なぜ言論の自由放任主義が何時までもあり得るだらう。
性の文學を書き續けたD.H.ロレンスは、皮肉を籠めて、純愛小説を不潔なエロと斷じ、まだしも(まだしも、である)露骨なポルノグラフィの方が健全であると述べた。が、そのロレンスは同じ文章で、檢閲の必要を主張してゐるのである。ロレンスは、アンチキリストの文學者であり(ちくま文庫に入つた默示録論は讀んでおくと良い)、生気のないキリスト教と云ふものを憎惡して(アンチキリストの立場とは、キリストなる人ではなく、キリストの教へを繼いだとされるキリスト教と云ふ宗教に對するアンチである)、「原罪」の思想に徹底的に抗議して性=生の肯定を叫んだ。さう云ふロレンスは、日常生活では潔癖であり、所謂「下ネタ」の類を嫌つたと云ふ。ロレンスは、健康的な生=健康的な性を通して、人間に再び生き生きとした生を齎さうと考へた。さう云ふロレンスにしてみれば、性を否定する純愛小説よりは、性を肯定するポルノの方が、まだしも増しに思はれた。けれども、エロを追求する事で遂に性を侮辱し、性に卑劣な仕打ちを加へようとするならば、その作品は正眞正銘の好色作品として嚴格な檢閲を望むものである、と云ふ事になる。
「好色文學と猥褻」より
一方で、「保守反動の權化」と看做される(事もある)T.S.エリオットは、もし檢閲を可とすると、檢閲者によつて許された書物は良書だと思はれてしまふ、これほど危險な事は無い、と皮肉を言つてゐる。
『日本の將來・新聞のすべて』
なるほど、「良い」「惡い」の判定は、難しいものだ。未識氏曰。

まず、「悪」という判断が、例えば為政者であったり、特定の利害関係者の価値に基づくものだとしたら、その判断はフェアとは言えない。例えば、中国が共産党に反対する言論を「悪」とすることや、キリスト教徒がイスラム教徒の価値観を「悪」とすることがフェアからほど遠いことは、容易に理解されよう。

「政府の判斷だから何時如何なる場合にも例外ナシに正しい」と極附けるのは誤である。しかし「政府の判斷が全て(一つの例外もナシに)民衆の判斷と相反するものである」と言ふとしたら、それはアンチ權力のドグマティックな主張である。爲政者の判斷もまた時として正しい、と云ふ事は、否定出來ない事實である。が、斯うなると、「何時如何なる場合にも例外ナシに」何うであるか、と云ふ事を考へる事自體がナンセンスでなる。影響が何うか、と云ふ事は、まあ、科學的には幾らでも言へる事になるだらう、水掛け論にならざるを得ない。
そこで我々は、結局のところ、如何なる價値觀を持つべきか、と云ふ事を議論しなければならない訣だ。
未識氏は、Equality Nowの發想について述べて、女性をレイプするという表現そのものが、女性抑圧行為なのだという論理だ。と要約し(この要約に反論する積りもないし、しても意味がない)、どうだ、すげぇだろう?と未識氏は言つてゐる。實を言ふと、未識氏のこの批判は意味がない。なぜなら、Equality Nowに反論したに過ぎないからだ。Equality Nowが全英米國民の發想を代表してゐるものではない。そして、日本の規制派はEquality Nowの聲明に乘つたものと未識氏は示唆するが、實際に兩者のメンタリティに必然的な關係があるか何うかは、實は多いに疑問である。日本の規制派が日本人である限り、歐米の連中と發想は違ふ筈である。少くとも、「派閥」と云ふ集團であるのだから、内部には多かれ少かれ、考へ方の違ひがある。そこでEquality Nowの發想に反論しても、規制派の發想を一括りにして否定し去つた事にはならないのである。
となると、「與黨に反對するだけの野黨」を非難して言ふやうに、「建設的な意見」を述べなければ、未識氏の主張は積極的な意義を持ち得ない訣だ。即ち、エロゲなり兒童ポルノなりを肯定する事が必然的に良い結果につながる、と云ふ事を未識氏は言はねばならない。が、それは無理だらう。惡影響を積極的に認められないならば、好影響を積極的に認める事も無理である。大體――最初に述べた通り、エロゲ業界は自主規制をしてゐるのである。これはエロゲ業界「自身」が、自らのやつてゐる事に後ろめたさを感じてゐる事を示す。
さうした自主規制が、しかし結果として、ただ「規制をすり拔けるだけ」の爲の言ひ拔けを蔓延らせただけであつた事は、問題だつた。エロゲの制作者が「バックパックを背負つた見た目小学生だが実は十八歳以上の女性」とか言つて規制をすり拔けようとした――割と有名な冗談だが、しかしこんな事をやつてゐては、そもそもエロゲの制作者に後ろめたさが「ある」と見る事は不可能だらう。
日本では大手を振つてエロが罷り通つてゐる。レイプだの何だのを平然とエロゲ制作者は表現する。そこに後ろめたさは全く感じられない。規制反對派が「犯罪は起きてゐないぢやないか」と事實を主張したのに對して、規制派は「しかし、エロに後ろめたさを感じないのは如何なものか」と理念で反論する。「ならば法律を制定して、後ろめたさを感じさせなければならないではないか」。
kirokuro氏なら言ふだらう、政治と道徳を混同してゐる、と。しかし、福田恆存も松原正氏も、政治から道徳を完全に拔き去り、非人間的な政治を實現しなければならない、等とは言つてゐないのだ。話は逆で、政治に或程度の道徳性を持込む事は必要だと主張してゐるのである。松原氏が防衞の重要性を主張するのは、國を守り、國民を生延びさせなければ、國民が道徳的な生を實現する事すら出來なくなるからだ。人はパンのみにて生くるにあらず――しかし、キリストがゐない現代の社會で、矢張り我々はパンを必要とはする。kirokuroは、「野嵜は矛盾してゐる」と言ひ續けるだらう……しかし、福田氏も松原氏も、判斷・認識における政治と道徳の混同を否定したのであつて、政治と道徳とを區別した上での適切な實踐は肯定する。政治に國民の規律の維持を分擔させる必要も「ある」。なるほど教育で道徳を身につけさせる事は不可能であるが、教育の結果として子供が道徳を自然に身につける事は「あつてはならない」事ではない。そして教育は或程度政治の擔當する仕事である……。
腦死について松原氏が述べた事があるけれども、安易に腦死を認めるべきでなく、醫師の責任を解除すべきではない。醫師は人の死に對して後ろめたさを持たねばならないからである。
今、エロゲ規制、兒童ポルノ規制を、法律によつて定める事について、規制反對派は「科學的」な反論を試みてゐる。けれども、規制派は「理念的」な理由で規制を實施しようとしてゐる。兩者の間には懸隔がある。話がすれ違つてゐるのだ。が、規制によつて、或程度人々に不健康なエロに對する後ろめたさを意識させる必要は「ある」のでないか。
腦死の議論で「保守的」な意見を述べた松原氏だが、しかし實際の「法の運用」においては、矢張り或程度融通をきかせる必要を指摘してゐる。エロ規制の議論でも、參考にならないか。規制が法律で定められる理念的必然性は「ある」と思ふが――暴力團の存在を、屡々不法行爲を働くにしても、我々は認めざるを得ない訣で、それと同じやうに、不健全なエロの存在も我々は認めざるを得ない――法律の運用において「慎重になる」事で規制派も「現實的」な對應をする事は考へねばならない。
――が、斯うなると、大變深刻な問題が日本には「ある」と言はざるを得ない。日本人は融通がきかない國民なのである。さてさうなると、規制だ何だと言つても仕方がないのであつて、「日本人の後進性」を問題にしなければならない……。
平成二十一年六月二十五日
政治的にだらうが道徳的にだらうが簡單に割切るな。と云ふ事。私の話が長くなるのは當然で、だから要約も出來ない。
そして、議論すれば話が纏まり得ない斯う云ふ問題について、簡單に割切つて共同體全體の方針を定めるのが政治である。一方、さうした割切りで方針を決める事が出來ない窮極の領域があるのであつて、それが道徳の支配する領域である。この兩者は嚴密に區別しなければならない。徳目の強制が廣くなし得るとしたら政治の力によるのみであり、よつて徳目を言ふ事は必ずしも道徳的行爲ではない。一方で、徳目の命ずる「良い事」「正しい事」を實踐するかしないか葛藤するのは道徳的に「善い事」である。結果として實踐しない場合でも、依然として心の内部で葛藤が繼續してゐる限り、その人は道徳的なのであり「善人」である。
未識氏をはじめとして規制反對派の人々に大いに缺けてゐるのは、道徳的觀點である。規制派の人々にも言へる事だが……日本人はもつぱら政治的な觀點から話を進めようとする。そこでは大變多くのものが見落される。さうした見落されたものの存在を私は指摘しようとして、政治と區別される道徳なるものの存在を主張する訣だが……さう云ふ私に對して行はれる反論の多くは「野嵜は矛盾してゐる」である。剩へ「野嵜の無知」を盛に言立てて「野嵜の言ふ事は聞かないやうに」と言つて廻る人すらもゐる。餘り意味のある反論とは思はれない。

平成二十一年六月二十四日
HTML5でid="header"は何を意味するのか - vantguarde - web:g
「HTML5」ってなによ - vantguarde - web:g

平成二十一年六月二十三日
そして即座に翌日の更新。
平成二十一年六月二十三日
おくやみ:中里融司氏 | 訃報ドットコム
今知つた。
十年くらゐ前、中里さんのウェブサイトの掲示板によく入り浸つてゐた。あの頃はみんな元氣だつたな。
平成二十一年六月二十三日
山本弘のSF秘密基地BLOG:作家が死ぬということ

平成二十一年六月二十二日
先日BOOK OFFで買つて來たGA第一卷に續いて今日書泉グランデ地下で買つて來た第二卷を讀んだ。

平成二十一年六月二十一日
何かの悪い冗談 - the OYAKONEWS@Hatena::Diary
現状の日本の政治は、明かに日本の政治のルールに則つたもので、何の問題もない。そこで「惡い政治」が行はれてゐるならば――實は誰も「惡い政治」だとは言つてゐないのであつて、「總理大臣が何度も變つた。みつともない」と言つてゐるに過ぎない。
要するに、主義主張の問題、或は、具體的な失政の問題を言つてゐるのでなく、皆が皆、「人の問題」を言つてゐる訣だ。これはアンチのkirokuroが、「野嵜の政治的主張が氣に入らない」とはつきり言ふのでなく、「松原信者の愚かさ」が何うの斯うのと言つて嘲笑を繰返してゐるのと、何も變らない。皆、阿部だの福田だの麻生だのの「問題」を言ふにしても、「愚かな自民黨」の「愚かな總理大臣」の言動だから愚かと云ふ事にして嘲笑しなければならないと思ひ込んで、適當に理由を故事つけて嗤つてゐるだけだ。では民主に政權が移れば、それだけで日本の政治が良くなるとでも言ふのか。もちろん、誰もそんな事は言切らない。「變れば少しは増しになるだらう」とか適當な言ひ訣をするだけだ。結局のところ雰囲気で語つてゐるだけでしかない。總理大臣がインタビューアを小馬鹿にしてゐるとしたら、「国民」の側だつて總理大臣を小馬鹿にして、こちらは氣樂に樂しんでゐるだけであつて、粘着アンチが人に嫌がらせをして、相手が嫌な顔をするのを見て樂しんでゐるのと何も變らない。
大體日本人は、この手の「嫌がらせをして樂しむ」と云ふ性癖が昔からあつて、それを「餘りにも當り前な事なので、これを疑問に思ふ人間は人間ではないから、嫌がらせをして潰してしまつた方が良い」とすら信じ込んでゐたりする。kirokuroなんかが嫌がらせを繰返して、それで全く反省しようともしないのは、「嫌がらせをする事は良い事である」と云ふ日本人特有の固定觀念があるからだが、斯うした勘違ひは多くの日本人が冒してゐるもので、だからこそウェブでは總理大臣なり政黨なりを小馬鹿にし、愚弄して樂しむ行爲が蔓延してゐる訣だ。「何しろ、惡い事をしてゐるのだから、嫌がらせをされるのは當り前なのだ」と云ふ論理である。ここで注意すべきは、「嫌がらせをされるのは」と受身の形で表現してゐる事だ。「誰が嫌がらせをする」のか、主體を匿す事によつてこの種の「論理」は成立つてゐる。皆が皆「自分には他人を裁き、嫌がらせをして罰する權利がある」と信じてゐるのではない。ただ「受身の形」で表現する事で、「誰が」と云ふ主體を匿し、責任の所在を不明にして、皆で安心してゐるに過ぎない。

その上で、こういったあり得ないような状況が出現して、全く修正が利かぬままに、私と家族に取って重要な4年間が無為に過ぎていったことに対し、責任の所在を明らかにし,二度とこのような馬鹿げたことが起こらぬようにルールを変えるなり、責任者を処罰するなりしていただきたい。

無意味。ナンセンス。所詮、日本人は責任の所在を不明瞭にして、陰濕なやり方で物事を運ぶ國民なのだ。
――大體、日本人は不明朗なのだ。自民黨と民主黨、なぜ彼等は黨派を分かつてゐるのだらうか。自民黨の主義・主張は何で、民主黨の主義・主張は何か。それは決定的に對立するものか。政策はそれらの主義・主張に基いてゐるか。アメリカの共和黨と民主黨とは、立場をはつきり異にしてゐる。だから二大政黨制である意味がある。日本の自民黨と民主黨とは、別に立場に違ひがあるから分れてゐる訣ではなく、ただ政治家が權力爭ひする都合上、分かれてゐるに過ぎない。日本の政黨政治とは明治以來かう云ふものであるのだが、要は日本の政治は近代的な民主主義とは無縁のものであると云ふ事だ。「人」で繋がつてゐる前近代的なものでしかない。そこで「責任」とか言つたところで、「人」をバッシングするのが目的だから、政治的には何の意味もない。ただ怨みが發生するだけの事だ。ところが日本人は全體として前近代的なメンタリティの持主だから、さうした恨みつらみで動く事を「人情的」だと思つて「とても良い事だ」と判斷する。政治で人情も糞もないものだが、日本人には政治も道徳も區別がつかないから――いやいや、日本人は、兔に角「面白さう」なら何でも良いのだ。政治がよくなる事を望んでゐる日本人は一人もゐない。ただ冷やかしたりのぼせ上がつたり出來ればそれで「樂しい」からそれでいいと思つてゐる。さう云ふ國民性だから、日本ではふざけた人間からもつともらいい「政治論」が幾らでも出て來る訣だ。kirokuroがもつともらしい「言説」を吐いて「見せてゐる」のがいい例だ。底の淺い「人の分析」でも、日本人は實に簡單に「ごもつとも」と納得する。
日本では、政治なのに、その邊の二流の營業マンがやるやうな「人と人との繋がり」式の賣込みが重要な要素となつてゐる。何度も營業にきたから、少し商品を仕入れてやるか――この種の「營業活動」と同樣の事が、政治でも要請されて「根囘し」とか言はれる。これをやらないと日本では政治が動かない。これが下手だとその政治家は「政治が下手だ」と言はれる。思想でも信條でも主義・主張でもない、根囘しの技術だけが政治家には要請されるのだ。出たら目もいいところだが、日本人はさう云ふ出たら目を愛してゐる。そんな出たら目が通用してゐるから世の中の風通しがよくならないのだと云ふ事には絶對氣附かない――寧ろ、風通しの惡い社會が政界だ、と本氣で信じてゐるし、さう云ふ政界をうまく泳いで渡つて行くからこそ國民はついて行くのだと思つてゐる。
――そして、私が心底不思議に思ふのは、世代交代が進んで、若い人がどんどん出て來るのに、一向に日本では斯うした物の考へ方が革まらない、と云ふ事だ。「言葉は変化する」と言はれて、「歴史的かなづかひに拘る」事には散々罵聲を浴びせられて來たのだが、何うだらう、日本人の物の考へ方は世代を越えてずつと「一貫してゐる」ではないか。何も變らない。言葉だつて「變らない」でいいだらう。私と世間とでは、「變はるべきでない」「變はるべきである」の點で、發想が正反對であるらしい。
ちやんと政治的な信條を明かにし、さうした思想に基づいて「政界再編」をやる、と、さう云ふ事なら大贊成なのだ。ところが、自民と民主に分れたのは、「自民の内部の事情」――要は政治家同士の仲違ひ、個人的に政治家が互ひに仲が惡くて、一方で權力爭ひをやる都合上、離合集散して適當に分れたに過ぎない。嘗て自民黨と社会党が連立政権を作つた時、散々非難されたものだが(福田恆存は「これは最う駄目だな」と言ひ、西部邁は「正論」か「諸君!」かで自民を大絶贊してゐた。西部と福田氏とは全然違ふ發想の持主だと思ふ)、その自民+社会党から民主黨が生み出されたもので、民主から彈き出された連中が今の自民と社民を構成してゐる訣だが、今の自民は公明黨とくつついて何とか政權を維持してゐる。今の自民も民主も、ただただ政權を獲得する事だけが目的で動いてゐるのであり――ところが日本人は、政權を取らなければ政治を動かせないのだから、それまでは何んな手段を使つてでも權力奪取に動かなければならないし、權力爭ひを否定する事は政治を否定する事で、政治を知らない決定的な證據である、とか思ひ込んでゐる。これが三代くらゐ前のおぢいちやんの發想なら仕方がないのだが、今の若い人――、二十臺三十臺の人の「常識」なのだから嫌になる。昔の人も今の人も、全然變らないんだなあと本當にあきれるのだが、ところがここであきれると、あきれられた人が本氣になつて怒り出すから堪らない。そんなに「保守的」なのがいいんですか、自分は「革新的」で「現代的」だと思つてゐるあなた方が――と疑問を呈しても、最う感情的に怒り狂ってゐるから話が通らない。感情論なんだよ。全部感情論。理窟が通らない。そして、「感情論を正當化するだけの爲の理窟」が大手を振つて罷り通る(kirokuroのが典型だが、民主黨が自民黨を罵倒して言ふ事は大體それだ)。けれども、さう云ふ屁理屈を心から信じ込んでゐる連中にしてみれば、本當の理窟が屁理屈に見えてしまふ。kirokuroの郵政談義なんか――權益に與る當事者でないならば、部外者の暇潰しだらう――政治的信條から必然的に出たものなのか。「小さい政府」とか云つた議論がアメリカの民主主義で出て來るのは、植民地であつたがゆゑに必然なのだが、日本では歴史と無關係に理論だけ持つて來てもつともらしく皆論じてゐるに過ぎない。馬鹿馬鹿しい。自分の權益を守る爲だとはつきり言つて自己主張した方がまだしも筋が通つてゐるが、匿名では一般論しか言へないから、ただただ「薄つぺらい」だけのものに見えるか、でなければ餘計な「裏がある」やうにしか思はれない。ところで日本の政治談義は、大抵「匿名」で行はれるのだ。論者は適當に交換可能だし、ウェブでは露骨に匿名でやつてゐる。煽つてゐる側も遊びで煽つてゐる事が多いし、さうでないにしても判らない。日本で政治は、遊びの道具であるか、でなければ陰濕な工作活動の場である。これを改善しようと、今の日本人は誰一人思つてゐない。ただ「政權交代」「總理大臣の交代」があれば、「何か變はるだらう」と適當に思つてゐるだけだ。明治以來少しは日本人も近代化すればいいのだが、メンタリティはまるで變つてゐない――そして、變らないのを良い事だと本氣で信じてゐる。ところが、用語だとか理論だとか、その邊はもつともらしく「最新のもの」を互ひに提示して威張つてゐるんだから、本當に呆れたものだと思ふ。
國民にしても政治家にしても、政治的な思想・信條を、何處までも馬鹿にしてゐる。アメリカの二大政黨ははつきり思想に基いて分れてをり、共和・民主とも思想に基いて政策を提案する。それを國民は支持したりしなかつたりする訣だ。だからアメリカの政治は、一面で不安定になる訣だが(國内が二分されるのだから一方が安定多數になる訣がない)、他面、大變公明正大な・明朗な政治が實現する事になる。ところが日本では絶對にさうならない。實は二大政黨制は明治時代にあつた訣だが(調べてみれば誰にでも判る事だ)、常に政治家が個人的に好き嫌ひで對立し、同時に露骨な權力爭ひを繰返してゐたから、何うしやうもなくどろどろとした陰濕な政治になつて、最後に破綻して軍國主義者に全權力を持つて行かれた。昭和初期にクーデタをやらうとした青年將校が「清潔」であつた事は言ふまでもない。日本人は昔から清潔が大好きであつたのだ。同時に、陰濕である事も「當り前」だと思つてゐたのだ。この邊、目茶苦茶だが、さう云ふ目茶苦茶な「現實」を――「現實」だからと肯定し、「保守」しようとするのが日本の「保守主義者」で、アメリカの共和黨の示すやうな保守的傾向とは全く關係がない。しかし、何れにしても日本の政治については、政治家も國民も、ろくな觀念を持つてゐないのだし、だからこそ、觀念に基いて行動を決定する、なんて事も出來ない。そして、出來ないがゆゑに、そもそも觀念に基いて行動する事自體を馬鹿にして・否定して、「今の自分」を肯定しようとする。日本人には、反省する能力が決定的に缺けてゐる。大東亞戰爭で負けても、「負けて良かつた」と皆思つてゐるし、さうなると反省する事は出來ない。「負けて良かつた」が「反省」だと皆思つてゐるのだ。今の自民政權についても、何うせ「反省」なんて事は誰も本氣で考へてゐない。ただ誰かを血祭りに舉げたいだけなのだ。大東亞戰爭の「戰爭責任」の議論でも、誰を血祭りに上げるかで散々爭つたものだ。少くとも、過去の「反省」の結果として、日本の政治が良くなりはしなかつたのだから、日本人の「反省」が悉く無意味なもので合つた事は斷定して良い。さうなると、今後の「反省」も全て無意味・無駄、ナンセンスである事は豫想しておいていい。それをもつともらしく主張する人々は、大體いんちきだと決めてかかつておけば欺されない。
平成二十一年六月二十一日
大英図書館、19世紀の新聞200万ページ分をネットで公開 -INTERNET Watch
平成二十一年六月二十一日
YouTube - ヘビとシャクトリムシ
ふたばの蟲板から。
平成二十一年六月二十一日
航空母艦を我々は略して「空母」「空母」と言つてゐるが、『日・英・米・佛・伊・獨・軍艦集 ポケット 海軍年鑑』1937年版(昭和12年3月1日發行・昭和12年3月3日第二版・昭和12年3月5日第3版・海軍研究社)は「航母」と云ふ言ひ方しかしてゐない。

平成二十一年六月二十日
『正かなづかひ――理論と實踐――』(假)の構想。
  1. 規範と價値觀→日本語學史とかなづかひ
  2. 正かなづかひ早わかり
  3. 國語改革の歴史と現在
メモだけ作つて半年くらゐ何もしてゐないので取敢ずここで晒してみる。
平成二十一年六月二十日
久しぶりにBOOK OFFに行つてまんがコーナを見たが、今浦島の思ひ。
平成二十一年六月二十日
Latest topics > SAIで別のマシンで使ってたパレットを引き継ぐ - outsider reflex
作つたデータの次に大事なのがカスタマイズの類の設定。データならMyDocumentのバックアップで簡單だが(私は基本的にMyDocumentには保存しないけれども)、設定ファイルは最う何處にあるか全然判らない、と云つた事が珍しくない。その割に矢鱈カスタマイズし易く出來てゐるプログラムなんてものが屡々あつて、一體何なんだらうと思ふのだけれども、プログラマの人は自分では自作プログラムなんか使はないしカスタマイズなんて絶對しないからその邊の配慮がある事は滅多にない(個人の製作したフリーウェア等)。
私の場合は、「カスタマイズの設定を保存できる」事がアプリケーションを撰擇する際の重要な根據になる。勿論、出來上るデータの互換性が高い事も重要。何れにしても、互換性・可搬性と云つた事は重視する事で、その點で駄目なプログラムは意地でも使はない。
HDDが死んだ時にバックアップがあつても、カスタマイズした内容が復歸できない、なんて事は良くある事で、WXGでせつかくVJE-γ風にカスタマイズした内容が復活できなくて輕くぶち切れさうになつた事がある。以來、最うカスタマイズはしない、と決めて、デフォルトの設定が一般的なものになつてゐる・癖のないプログラムを選ぶやうにしてゐる。
インタフェイスでもアプリケーションで獨自に作つてゐるものは絶對に嫌、OSの提供する部品を當り前に並べてゐるプログラムが一番いい。個性的なプログラムは個性的であるだけで駄目だ。沒個性的で、そのOSにおいて標準的な作りになつてゐるなら、それはそのOSのユーザにとつて大變使ひ易いプログラムだと言へる(その點、FirefoxもOperaも駄目だ。一太郎も駄目)。
プログラマの人は、獨自のプログラムである事を誇りに思ふし、獨特の見た目であるやうに作りたがる。けれども、それはユーザを無視する事だ。ユーザはOSにおける標準的なインタフェイスをアプリケーションも實裝してゐる事を望んでゐるのであり、アプリケーションが獨自の「使ひ易いインタフェイス」を構築するのを全く望んでゐない。
そして、現實の仕事の世界でも、アプリケーションは標準の状態で使はれなければならないし、ユーザは表順状態のアプリケーションを使ひこなせなければならない。アプリケーションが何處でも同じ操作性であり、ユーザが何處でも同じやうに使ひこなせる事は、仕事の效率を上げる爲に重要である。だから、OSのインタフェイスにしても、アプリケーションにしても、基本的な設計が重要なのであり、その時點で間違ひをやらかすと何時までも尾を引きずる事になるから、プログラマやデザイナは最初の時點で一番氣合を入れてしつかりOSなりプログラムなりを作らなければならない。そして、一度作つてしまつたものは、出來が惡くても、何時までも殘さざるを得ないと云ふ事になる。ヴァージョンアップで操作性を改善する爲にインタフェイスを變更すると、それだけで既存のユーザにとつてはストレスになる。
一方、ヴァージョンアップでカスタマイズなり何なりの設定が全部吹つ飛ぶと云ふ事も、勿論避けねばならない事だ。私がFirefoxを怖くて使へないのも、設定がすぐに消える(やうな感じがする)爲だ。ヴァージョンアップしてうまく動かなくなつたらプロファイルを消す、と云ふのは「今となつては昔の話」なのかも知れないが、さう云ふ事が過去に何度もあつたせゐで、「Firefoxはカスタマイズしても無駄になりさう」と云ふのは殆ど刷込みのやうになつてしまつてゐる。
メーラなんかは、どれもこれもメールボックスのバックアップが難しい爲に、選擇の餘地がない。生のtextで保存して呉れる電信八號から乘換へるべきメールユーザエージェントを私は一つしか知らない。Mac向けに一つさう云ふいいメーラがあつた。ただ、Mac OSは、OSをヴァージョンアップすると動かなくなるアプリケーションが何時も出て來るから嫌ひ。Appleは何であんなに互換性を無視するんだらう。MSのいいところは互換性の高いOSを意地で作り續けてゐる事だ。MSの惡口を言ふ人は多いが、Windows同士の間で互換性の問題が起きないやうMSが何んなに苦勞してゐる事か。この點で私はMSの考へ方を支持してゐる。もつとも、Officeのインタフェイスを變更した事は大變な間違ひだつたと思ふが。

平成二十一年六月十九日
川島武宣『「科学としての法律学」とその発展』の表題作は讀み通したけれども、「2.0」の續きを書く氣力が涌かない。ちなみにこの本、一册ちやんと全部讀む氣は毛頭ない。
次はエドワルト・マイヤーとマックス・ウェーバーの論爭をまとめた『歴史は科学か』。
それから沖森卓也編『資料日本語史』(おうふう)と『日本文法辞典』(有精堂)からあゆひ抄の評價、シンポジウム日本語(2)『日本語の文法』(学生社)から宮地裕の山田・松下・橋本・時枝の四氏の文法研究に關する報告を引張つて來て紹介する豫定だが、面倒極まるので秋までに何とかする積りで長期計劃を練つてゐる。
某のあとあやのよりは更新頻度が高いから問題ない。
平成二十一年六月十九日
と言ふか、この手の本を讀んでもつまんないんだもん。
パンセ拾ひ讀みしてゐた方がいろいろ面白い。

平成二十一年六月十八日
八木書店で国語学会編『復刻国語学会会報』(武蔵野書院)を買つて來た。三百圓。當時の國語學會では講演會を行ひ、一線級の研究者が樣々な内容の發表を行つてゐたが、その要旨を研究者當人が纏めて會報に寄せてゐる。
平成二十一年六月十八日
次とか前とか : Weblog : SimpleIsm

いわゆるトップページには最新記事が表示されるけど、それは「日記」とか「ブログ」という製本で考えた場合、その中の一部である。つまりそこから先、それよりも新しい「次」のページがある(それは未来であり予定の話)。だから「次」が新しい記事で、「前」が古い記事なのだ。

ちょっと反れるけど、そういった意味で「次」「前」と「ここをクリック」は微妙に違うと思う。つて言ふけど、さうだと思ふ。けれども、曖昧な事には變りがないし――と言ふか、あれは、何かいい(惡い?)例があつた筈だけれども、思ひ出せないんで適當に書いた。
BLOGのサイトナヴィゲーションは、具體的に「前の記事のタイトル」をアンカーにしてしまつていい筈だし(日附や時間のやうな補助的な情報も入れ込んであると判り易い)、何うせBLOGなんて自動的に内容が生成されるんだからその程度の事はやればいいのだが、なぜか開發者は意地になつて「前」「次」とやりたがる。何なんだらう。
パンクズリストとか言ふのでも、indexだのsite topだのと、訣のわからない書き方が平氣で使はれてゐるけれども(苦笑)、斯う言ふのは本當は良くないんだ。staticな文書を手動で弄つてゐるから、うちは「汎用性」を高めて手拔きしてゐるけれども、プログラムで自動的に生成できるところでは、斯う云ふところは手拔きしないで、機械的に判り易く出來るところは判り易くすればいいと思ふ。
平成二十一年六月十八日
Latest topics > 喧嘩の売り買い - outsider reflex
  1. 相手がなんだか気にくわない。この相手に喧嘩を売るべきかどうか?
  2. 相手に喧嘩を売られているように見える。この喧嘩を買うべきかどうか?
kirokuroなんかだと、どつちになるんだらう。
一般論だけれども、「アンチ」と呼ばれる人々は必ず「信者」の行動を「問題行動」と言つて非難する。これは「信者」の人が「アンチ」の人に「喧嘩を賣つてゐる」と云ふ事に「なる」のだらうか。

2の人が喧嘩を始めるケースの多くは実は、売られた喧嘩を2の人が買ってるんじゃなく、2の人が自分から喧嘩を売ってしまってるんじゃないだろうか、ってこと。

實際、「信者」の人が直接「アンチ」の人に、一對一で、眞向から喧嘩を吹掛ける、なんて事は絶對にない。大抵の場合、「アンチ」が勝手にしやしやり出て、「信者」の「問題行動」を理由に一方的に攻撃を仕掛けるものだ。
Piro氏は、「喧嘩の賣り買ひ」と云ふ見方を止めて、「糧にする」と云ふ態度をとるべき事を主張してゐる。
私にしてみれば、喧嘩上等、やればいい――やり方によつては、喧嘩も十分、意義がある。そもそも日本では馴れ合ひの類が多く、議論が全然起らない。けれども、自分の主張を持つて、相手と意見を戰はせて、それで初めて、何が本當か、何が眞實か、何が正しいのか、と云つた事が、より良く解るやうになる筈なのだ。それをやる爲の喧嘩なら、どんどんみんなやればいい。
しかし、ウェブで低級な喧嘩が絶えない理由は「ある」。「お前は人間として氣に食はない奴だ」とか、「言つてゐる事は正しいが、お前の言ひ方が氣に入らない」とか――「人間」「人格」と云つた事を、或種の人々が、異常なまでに問題視して、平氣で苦情の理由に持出すのだ。さう云ふ非難をするのは、何う考へても良くない事だと思ふのだが、その種の人々は「何う考へても良い事だ」と本氣で信じてゐたりする。
もちろん、或種の論者に就いては、論者自身の人間性が問題になる――「人は言行一致でなければならぬ」、この種の主張をしてゐる當人の事だ。ところが、そんな事を言つてゐない人に、「お前は言行不一致だ」と激しい非難を浴びせて、嫌がらせを仕掛ける人がゐるのである。さう云ふ人は、「言行一致でなければならぬ」の側の人間なのだが、しかし、「言行一致」でなければならないその人が言行の不一致を平然と冒しつゝ、他人を「言行不一致」だと極附け、「それは惡い事である」と平然と言ひ、人格を全否定し、相手の發言を封殺しようとまでするのである。斯うなると、論者の性格は、慥かに問題になるのであつて、「自分は言行不一致でいいが、他人は言行一致でなければならぬ」と主張するkirokuroのやうな粘着アンチは、その人間性を問はれていい。
さう云ふ「他人の人間性を執拗に問題にする人間」の人間性が疑はれるべきなのは兔も角――そんな事をやつてゐても何の意味もない訣で(人が人を裁く事には限界がある)、私にしてみれば「人の人間性を意味もなく問題視する」愚は冒さないに限る。
論者の物の言ひ方には、もちろん、「意味のない罵倒」「侮辱以外に何の目的もない侮辱」――或は、敢て言ふならば「侮辱する資格もないのにする侮辱」――はしないに限るが、一方で、妥當な理由が提示されてゐる限り、嗤はれるのは仕方のない事もある。それが、多くの場合、不快に思はれるのは、嗤つてゐる側が「愚かである」爲だが――當人、自分の愚かさに氣附いてゐないから、何時までも嗤ひ續けて、相手をうんざりさせる事もある。「ガハハ」と私の事を嗤つて呉れた某G氏なんかは、本當にしつこいだけで、頭の惡い御仁であつたが、あゝ云ふのがウェブには大量に棲息してゐる訣で、これでは「健全な笑ひ」なんてものは、ウェブではあり得さうにもない(そして、野嵜の事を嗤つたG氏にしてみれば「野嵜こそ愚か」だと言ふ事になるのであらうが、彼我の意見の對立を「見解の相違」と云ふ事にして取敢ず話を濟ませてしまはうとした私の行爲は反省しておく必要がある。あれは忙しい上、G氏が「話の通じない或種の人々」に屬する事が判つてしまつてゐて面倒に思つた爲だが、それでも徹底的にやつつけておくべきであつた。やつぱりなあなあで濟まさうとしても駄目なのであつて、喧嘩は必要なのである。これはkirokuroが相手でも同じ。本當に愚かな人間には話が絶對に通じないし、理を盡して説明しても嗤はれるだけだが、だからこそさう云ふ相手に對してははつきり喧嘩腰の態度を取る必要がある)。
また、「何でも糧にする」式のポジティヴ思考は、實質的な側面では何時でも誰でも自分の中に持つてゐれば良い。ただ、外見が喧嘩だと、誰も「あいつはポジティヴな考へ方はしてゐないに違ひない」と極附ける傾向がある。G氏も、「科學としての國語學」と云ふ野嵜の主張を嗤つて、野嵜と喧嘩した擧句、こちらがうんざりして話を打切つた時、「あとで纏めてウェブで晒してやる(意譯)」と脅迫して來たが、野嵜がまるでネガティヴな態度しかとらない、議論をしても何も學ばない愚人であるかのやうにG氏は思つて、それで嘲笑してやらうと考へたのだらう。しかし、私にしてみれば、あゝ云ふ同じ事に固執した、頑迷固陋な態度をとるG氏の方こそが、愚かに見える。
ウェブで喧嘩して、それが互ひに成長でも何でも「きつかけ」になつてゐればいいのだが、しかしネガティヴに「あいつは愚かさを露呈しただけだ」と考へる人は非常に多い――さう云ふ人こそ、同じ所に留まつて、全く動かうとしない、「成長しない人」なのだが……。しかし、さう云ふ人とは、議論しても、喧嘩しても、或は馴れ合つても、まるで役に立つ事にはならないと思ふのだ。さうなると、喧嘩を「する」「しない」――さう云ふ事は、考へても仕方がないのでないか。多くの人が「喧嘩をしないのは良い事だ」と信じてゐて、それに私は反對なのだが、しかし、「喧嘩しさへすれば何でも良くなる」とまでは私も言つてゐない。「人格攻撃の應酬」や「相手の説明に耳を貸さず、一方的な態度の押附けに終止する」と云つた喧嘩は「ある」訣で、さう云ふ不毛なやりとりは避けねばならない。が、何うもウェブには、さう云ふ不毛で下らないやりとりを「とてもおもしろいことだ」と心から感じてしまふ人種の人が存在するらしいのである。私にはとても理解出來ない事だが、その種の人々は自分が「人間に關心のある正常な人間」だと本氣で信じてゐるらしいのだ。
で、Narr氏がその邊の事を、最近掲示板で語つてゐるのだ。[957]番邊から。
β-reverse掲示板
――しかし、この手の事は、幾らでも書けるし、興味を持つてゐる人は案外多いらしいから案外受けるみたいだけれども、私にしてみれば、とてもつまらない話なのだ。
「議論のマナー」に關する議論――「議論に關する議論」は、非生産的で、しないで濟むなら、しないに越した事はない。今のウェブで「議論に關する議論」が「盛ん」に行はれてゐるのは、そもそも誰もが常識として持つてゐなければならない事を、誰もが知らないまゝ、議論の場に出て來てゐる事が問題なのだ。議論の仕方は、誰もが知つてゐなければならないのだが、日本の教育現場では絶對に教へられる事が無い。なぜなら、教育者は、「仲良くしなさい」と言ふのが自分の仕事だと思つてゐるので、「仲良くしないで議論する」事をタブーとして子供に信じ込ませるのに許り熱心だからだ。だからさう云ふ子供が大人になつて「あいつは仲良くしない惡い奴だ、やつつけてやれ」と言つて、他人に嫌がらせをして樂しむ「アンチ」種族になつてしまふ。もつとも、人格と獨立した人の主張と云ふものが「ある」と云ふ事は、大學の文學部の一部の講義で教師は學生に教へるのだが、大學生は基本的に大學の授業から實用的な内容以外の事は何も學ばうとしない。その種の講義を受けた學生でも、個人の人格と獨立した「言説」が「ある」と云ふ事に氣附くなんて事はなかなかないだらう。經濟學部だの法學部だの理工學部だのと云つた實學の領域の學部生になると、最うその種の知識はないも同然で、だから却つて不用意に・無造作に・無神經に・亂暴に他人の人格に觸れ、安易に人格攻撃に走る結果になり兼ねない。
――解つてゐる人は解つてゐる訣だから一般論化するのは危險だけれども(文系だらうが理系だらうが關係なく、何しろなのだ、人が人の事を解らない訣がない)、しかし今と云ふ御時世が、「他人」に關してとるべき態度を多くの人に誤解させ、人を人とも思はない非人間的な態度を平然ととらせてゐる事は、指摘しても良いと思ふ。
kirokuroやG氏なんかは、何う考へても文學部の人間でないが、今の時代は文學部出の人間でも人間に關する考察を缺き、上つ面の理論許りで物事をやつつけようとし勝ちになる。その點、私も決して時代の幣を免れ得ない訣だが、開き直つて平然と暴れる人が今のウェブには多過ぎる。「言論の自由」と私が言ふとkirokuroなんかは嗤ふ訣だが、何うだらう、その「嗤ふべき言論の自由」を惡用して、他人に安易な人格攻撃を仕掛けて快を貪つてゐるのはkirokuroではないか。たかが郵政の問題如きに一生懸命になつて、「システム作り」に上せてゐるから、kirokuroは駄目なのだが、さう云ふ駄目な人種に限つて、「自分には他人を裁く權利があるのだ」と信じ込み、他人を見下して好い氣になる。好い氣にならなければまだしもなのだが、kirokuroのやうな人種は當り前のやうに好い氣になるのである。だから駄目なのだが、斯う云ふ駄目な人種の人々がウェブでは大きな聲を張上げて「議論」をしてゐる。もつと論ずべき事は他にあるだらうと思ふのだが、さう言ふと彼等はますます居丈高になつて嗤ふのである。彼等の「郵政」や「ネオリベ」に關する「議論」なんかに比べれば、「議論の爲の議論」でもしてゐた方が無害と言へば無害。何れにしても、暇潰しである。パスカルが氣晴らしについて書いてゐるけれども、パンセでパスカルが述べてゐるやうな意味で人間研究するのなら大いにやれば良い。「アンチ」と呼ばれる人種の人々がしてゐるのは「人間研究」の名に價しない。ただ他人を嘲つて遊んでゐるのであり、虚しい事である訣だが、さう云ふ事を當り前のやうにする人が多い事をパスカルは當時、既に疑問に思つてゐた。
平成二十一年六月十八日
表現の自由と公共性と嫌儲について - 雑念雑記はてな出張所

だからこそ、この問題への対応は殊更慎重でなければならず、価値観の相違に起因する問題は極力棲み分け(ゾーニング)で共存を図るべきである。正義の錦のもとに突然公共の場に引きずり出し、見ず知らずの『被害者』から罵声を浴びせられ、謝罪と自己反省を強いられる、文革時代の批判大会みたいな社会は真っ平御免被りたい*2

「被害者」として嫌がらせを仕掛ける「アンチ」種族が現に存在してゐる訣だけれども、さう云ふ人々の發想それ自體を變へたいと私は希望して――同時にそれが不可能である事實を認識してゐる。人の頭の中はさうさう變らないし、外部から變へる事もさうさう出來ないと云ふ事實を考へると、成る程、「ゾーニング」は「有效」な手段に思はれる。が、それは根本的な解決にならないと云ふ事は覺えておいていい。「共存」なんて事が容易に出來るものなら、それは既に兩者の間に理解が存在するのであつて、しかし現實に「信者」と「アンチ」の會ひだには理解なんてものは存在しない。もつとも、一方的に「アンチ」が理解を拒んでゐるのだし、それを解決しない事には問題も解決しない訣だが、「人はさうさう變らない」から何うにもならない。
そして「何うにもならない」事を考へるのは間拔けだと信じてゐる人々が、簡單に割切つた考へ方をすべき事を主張し、政治的な行動に走る訣だ。しかしさう云ふ政治主義的な態度は、頭の良い行動だけに、手をつけられない危險を伴つてゐる。人を人とも思はない非人間的な行動に即座につながるのだ。「アンチ」種族の政治主義的な行動(彼等の行動は例外なしにアピールである――「信者を排斥せよ!」)の問題は根が深い。
表面的には正義の行動に見られるやうな主張をしてゐても、その實、「アンチ」の言動には「權力への意志」が見え隠れする事も、忘れてはならない。

或いはネットや同人においてしばしば過剰なほどアマチュアリズムが持て囃され、嫌儲的な言説が叫ばれるのも、これ以上自分たちの場の公共性を高めたくないという無意識的な危機感の現れなのかも知れない。そう考えると事は嫉妬厨乙で済む問題ではないのであり、ほとほと頭を抱えたくなった今日この頃である。

平成二十一年六月十八日
「話が通じなさそう」という諦め - すたこん?

平成二十一年六月十七日
のあ
砂糖でべたべたの、ほとんどシロップ状の梅酒つてどうかな。
あやの
おいしいよね。
fankee_jr
お前ら設定上は未成年だろと突込み入れるのが俺でいいのかわからんが……。
平成二十一年六月十七日
正字正かなプロジェクトやつぱり停滯してるね。
平成二十一年六月十七日
Choose Opera 日本支部 - Opera Unite が描く未来
平成二十一年六月十七日
「次(Next)」と「前(Previous)」というナビゲーションには何かスッキリしないものがある - Zopeジャンキー日記
冬言響 / 2009-06-16(Tue) : ノートとファイル
「前」「次」つて、「ここをクリック」と何が違ふんだらう。

平成二十一年六月十六日
無垢材でできた本棚や収納棚を1cm刻みでサイズオーダーできる「本棚屋」

平成二十一年六月十五日
蛙くんがゐなくなつた。

平成二十一年六月十三日
もちはもち屋。
平成二十一年六月十三日
のあ
無印不良品つてどうかな。
あやの
三十點。
のあ
ノークレームノーリターン。
あやの
今の時代、ジョークグッズとして「あり」かも知らんけど……。

平成二十一年六月十二日
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★ - ryuzi_kambe の?D
平成二十一年六月十二日
ひろゆき氏&夏野氏が講演「日本のネットは決してダメじゃない」

さらに、2ちゃんねるをほぼ模倣したと思われる匿名掲示板「4chan」が現在になって米国で登場、注目を集めたという逆輸出的な事例もあった。

いやふたばだろ。
4chan - 日本語
なんですぐ2ちゃんねると關聯附けるんだよバカ。

平成二十一年六月十一日
「ブログ」の何が嫌ひかつて、記事が「完成されたもの」として提出された事になるのが嫌ひ。
提出されたものを元に、何うにかしてより良い「知」を作り上げて行かう、と云ふ方向には絶對に行かず、大抵は即座に・感情的に「賛成」「反對」の意見がぶつけられるだけの結果になる。閲覽者が記事の意見に「反對」の場合、その人は足を引張るコメントを書込むだけで、建設的な意見を述べて話を發展させようとは絶對にしない。「ブログ」はその性質上、本質的に「炎上する」ものであると言つて良い。
私はもともと、ウェブに公開される文章は、「完成されたもの」ではなく、幾らでも書直しが出來るものだと思つてゐた。そして、そのやうな柔軟な考へ方だからこそ、「知の集積」が實現するものだと思つてゐた。ところが、案外多くの人が、ウェブで公開された文章(實は、文章に限らない、繪でも何でも)は「完成形」である筈だと確信し――「完成形の文章」に對しては一方的に非難を浴びせる事が可能であるし、浴びせるべきであるとすら、信じてゐる。
斯う言ふと、「甘えるな」式の非難が浴びせられる訣だし、「お前だつて他人を攻撃してゐるだらうに」と批判が出て來る筈だが――けれども、私は人の意見を批判しても、それがより良い認識・より良い輿論の形成に寄與するならば、世の爲人の爲になるべき事を信じてゐる。ところが、多くの人が、唯自分の樂しみだけの爲に他人の惡口を言ひ、他人の足を引張つてゐる。
何でさう云ふ事が言へるかと言ふと、私は(自分でさう言ふから憎まれるのだが)割と柔軟に考へてゐるのに対し、その手の人々は意味もなく「嚴格」だからだ。私の場合は、自分がドグマ的にならないやうに、何を言ふにも一々考へてゐるから結構意見がふらついてゐるけれども、ドグマに基づいて他人を罵つてゐるその手の人々は、何かを考へる必要すらも意識せず、氣樂に人を嘲る事が出來てしまつてゐる。私の事を「信者」と非難する人がゐるけれども、私が「信者」なら、その手の「アンチ」の人々は私の考へが何時もふらついてゐる所を何うしてつつけるのだらう。逆に、私を非難する「アンチ」の人々が、考へをふらつかせた事は一度もない――彼等は確信を・「信仰」を持つてゐるからだ。そして、「信仰」を持ち、ドグマ的に物事を解釋して、「敵」をばつさり斬るのは、寧ろその方こそ信者的ではないか。
少くとも、ドグマの域に留まつてゐては「知識の集積」の動きに參集する事は出來ない。が、ドグマにはまつてゐる・本當の意味で信者である人々は、自分の信ずるドグマこそが「眞の知」であると確信し、自分の信ずる價値觀と相反する價値觀を「痴」と呼んで嘲るのを當り前の事と思つてゐる。彼等が、頑迷固陋な發想に陷ると同時に、傲岸不遜の態度に陷る所以である。
「ブログ」は、さうした「信者としてのアンチ」が活動するのに、ひたすら便利な「ツール」である。が、同時に、『信者としてのアンチ」には「ブログ」を書く「ブロガー」がゐなければならない。足を引張るべき對象が存在してゐなければ、「アンチ」は何も出來ない。寄生蟲には寄生主が必要である。何時の時代にも、寄生される人間は生延びてをり、寄生蟲には「餌」が常に存在した。が、現實の世界で、我々は寄生蟲を驅逐しつゝある。
もちろん、斯うした譬喩で語る事に危險は多い。けれども、斯うした寄生蟲的「信者としてのアンチ」の活動を考慮しない、現状の「ブログ」なるシステムには、問題が「ない」と言ふ事は出來ない。そして、我々は常套句・紋切型で物事を考へてはならないのであつて、頭から「清潔」を否定し、「世の中には汚い側面も必要」等と云ふ、それこそ「甘い」發想を許してはならない。寄生蟲の存在にも「一理はある」としても、盜人にも三分の利があると云ふのと同じ程度の意味をしか見出すべきでない。
逆に言ふならば、社會的な利益を志向する立場からの發言には、周邊の人間はそれなりに柔軟に對應すべき理由があるのであつて、さうでもしなければありとあらゆる異見が、今のウェブのシステムでは、封殺される事になる。實際のところ、戰術的に・感情的に、大多數の側から、意見が否定されたとしても、それは社會的に受容れられなかつたと云ふ客觀的な事實としての意味を持たない――その意見の正しさそれ自體が否定された事にはならない訣である。が、だからと言つて人々が安直に言論を封殺する態度に出るならば、我々は社會において「物を言ふ」意義を喪失する事になる。そこで人々が皆、默る方向に行つてしまふならば、世の中は甚だ風通しの惡いものになつてしまふ。我々はさうした「風通しの惡さ」をこそ拒否すべきなのであつて、その爲には「言論の自由」を惡用した「アンチ」的な主張を「多數」の側から否定する努力が缺かせない、と云ふ事になる。
福田恆存が指摘する通り、自由主義には「自由を否定する自由」を容認せざるを得ない「理論的な穴」がある――が、さうした「穴」がある事實を認めつゝ、我々は自由主義で「やつて行かなければならない」のであつて、ならば我々は精々自由を肯定する側の人間が多數になるやう、社會的な「工作」を續けて行くしかない。となると、從來の「ブログ」のコメント欄のやうに、「破壊的要素」の存在を助長するシステムは反省される必要があると云ふ事になる。殘念な事に、我々の社會では、「アンチ」による「破壞的要素」の發言が大變目立つのであり、多くの人が持つてゐる筈の「創造的要素」を含む發言は案外目立たない。一般の人々が事なかれ主義に流れ、無害な發言ばかりを繰返してゐる事が、大きな要因である。
「創造的要素」と云ふものが「力」を持ち得るとしたら、それは積極的な發言に據るしかない。建設的な意見が表明されて、「痴の集積」でなく「知の集積」が行はれる現實が出現しなければ、「創造的要素」が社會的に「力」を發揮する事はあり得ない。結局のところ、人々の發想が根本的に變革されねばならない訣だが、「ブログ」のシステムはさうした變格を拒否し、惡い意味で人々を「保守化」させるのに「役立つてしまつてゐる」としか言ひやうがない。實際、「ネット言論」が「保守化」してゐると言はれるが、何うも惡い意味での「保守化」が目立つやうに思はれる。
今のウェブには「風通しの惡さ」許りが目立つし、それは「ブログ」の記事の「完全性」――と言ふより、ウェブで公開される發言の「完全性」を誤つて確信した多くの「保守的なネット言論」の側の人々によつて惹起されてゐると同時に、さう云つた誤つた確信を惹起する「ブログ」なるシステムそれ自體にも問題がある。「ガハハ」と嘲笑つたりするやうな人々にも大變な問題があるけれども、さうした人々の氣樂な「言論活動」を許すシステムを構築してしまつた「理系の人々」の極樂蜻蛉ぶりにも問題があつたのでないか。人間の「明」の側面ばかりを見て「知の集積」を「容易に實現出來るもの」と考へた「開かれたインターネット」を作つた人々は、人間の「闇」の側面がある事實を忘れてゐたし、今も忘れたまゝ相變らず「アンチ」種族の人々の活動を容易にする「ツール」を提供し續けてゐる。
平成二十一年六月十一日
要するに、普通の人々には一々反省や自重を迫る割に、惡意の人々にはまるでうしろめたさを感じさせない、さう云ふ「惡意の人々が一方的に有利なシステム」を作り上げてしまつた事について、我々は反省すべきだ、と云ふ事。
人は放つておけば惡い事をする存在だから、「知の集積」を目指すにしてもインターネットはその邊の事を最うちよつと考へて作られてゐるべきであつた。もちろんそれは歴史的に無理な話ではあつた訣だが……もともと「閉ざされた環境」であつたインターネットだからこそ「理想的」なシステムとして作られた訣で、それをそのまゝ「商業目的での利用」に開放した爲に「現實的」な問題が生じてしまつてゐる。しかし好い加減、惡意の人々にも幾らかのリスクを背負つて貰ふやうにしなければ、公正さは保たれないくらゐに、ウェブは非道い状態になつてしまつてゐるのでないか。
平成二十一年六月十一日
似非学者、牧野富太郎
植物學者・牧野富太郎が學歴を持たない「素人學者」であつた事は事實である。さうした「素人學者」は、悲しいかな、常に或種の專門知識を缺き、偏狹の誹りを免れない。今、ここに非難を浴びてゐるのはその爲である。が、その非難を浴びせてゐる側もまた「素人」である事實を我々は看て取らねばならない。
「素人學者」は常に偏狹の缺點を持つ――それは私自身、體驗から言ふ事が出來るのである。が、我々はその缺點を衝いて非難する事が出來る。が、さうした缺點を見るだけで我々が評價を終はらせて良いか何うかは、實は檢討し、反省する必要がある。缺點のみを見、その缺點ゆゑにありとあらゆる美點を無視・默殺するならば、それは公正を缺いた見方である。
「素人學者」の偏狹を非難するのはた易い。或種の「絶對の正しさ」を以て、人は「素人學者」の無知を斬る事が出來る。けれども、さうした偏狹さは、ただ無知のみに基づくものでない事は言ふまでもない。上に示したサイトでは、「素人學者」を非難する「素人」が、「絶對の正しさ」たる知識を振りかざして「素人學者」に切りかかつてゐる。が、切りかかつてゐる「素人」の物の見方は、公正を缺いてゐるのである。知識ではなく、物の見方に問題がある訣である。
この「物の見方」のレヴェルで公正を缺いてゐる事こそが、實は大變な問題であつて、專門教育の目的はさうした「公正を缺いた物の見方」を排除する事にある――が、案外、日本の專門教育では、「物の見方」に關する教育が行はれず、單なる知識の傳授のみが依然として續いてゐる。ただ、建前として「專門家」は知識を持つのみならず、物を見る正しい見方を身に附けてゐる事になつてゐる。が、それが案外當てにならない。「專門家」にこそ、案外偏狹な物の見方をする人がゐるのである――それは「知識を持つた素人」の偏狹と同樣(と言ふより、兩者は全く同じである)、大變な問題となる。
無知を自覺するならば、「素人學者」である事の方がまだしも増し、と云ふ事になり兼ねない。事實、英國においては、さうした「素人學者」の趣味的な活動が、常識的なものとして認められ、評價される事がある。ところが、日本では、素人の活動がさうさう評價される事はないやうに思はれる――少くとも、一般人からは。
「道化的」な、或は非道く陰濕な、他人の足を引張る「批判」だけが、日本では受容れられる。相手を侮蔑し切つた上で、自己の優位を自覺して、「優しさ」を發揮する人はゐるが、さう云ふ「お情け」が非道い侮辱である事は、福田恆存の言葉を援用しなくても、誰でも知つてゐる事だらう。が、さう云ふ侮辱の爲だけの侮辱行爲を、日本人は屡々「面白い」「面白い」と言つて、「いい批判だ」と持囃す。その時、人はその「批判」の内容を見ない。人をただ嘲るだけで、人の言つてゐる事を何ら見てゐない「批判」が、日本では批判として通用する。が、そこには、我々が本當に憎惡しなければならない偏狹と云ふものが存在する。
公正と云ふ事が、日本人には常識として全く理解されてゐないのである。「自分に有利だから相手に優しくしてやる」と云ふのは、侮辱であつて、公正さの發露ではない。「自分に不利になるかも知れないが、相手の發言を出來る限り優しく見て、甘く判斷しようとする」事が公正な態度である。そして、さう云ふ公正な態度をとりながら、それでも、何うしても相手の言つてゐる事が明かにをかしいと判斷せざるを得ない時がある。そこで文句を言ふならば、それは公正な批判と云ふものになり得る、と云ふ訣だ。何處までも相手の發言を好意的に見て、それでも誤を見出さざるを得ない――しかし、さうした態度をとればこそ、相手に對して隙のない、強力な批判として作用するのでないか。最初から惡意で解釋してゐれば、「見解の相違」と云ふだけの話で終つてしまふ。ところが日本人にはそれが解らない。「私が惡意を持つたからには、一般の人が全員、私と同じやうに惡意を持つに決つてゐるのだ」――さう云ふ思ひ込みを持つてゐれば、主觀的な攻撃をしながら、自分は客觀的だと勘違ひする事は容易である。さうした勘違ひをして、ただただ惡意で相手の言つてゐる事を惡く解釋して――歪曲して、それで非難を浴びせても、「惡意で歪曲するな」と云ふ反論が待つてゐるだけである。
――が、日本では、そこで「惡意」を覆ひ隱す爲に、「知識」が持出されるのである。
大變重要な事だが、他人の發言の一部を取出し、知識に照らして、そこだけを判斷材料にして、その發言全體、そして發言者全體の價値判斷をしようとしたら、それは大變偏狹な態度である。知識に照らして「正しい」「正しくない」と言ふ事は構はないが、それが「全體」についてなのか、「一部」についてなのか、を無視するならば、それは公正を缺く態度である。日本人は、さうした意味で公正さを屡々缺き、偏狹な非難を屡々やらかす。かかる偏狹な非難は、矢張り一つの誤であり、我々は誤は一般に避けなければならない。
牧野博士の紹介
賛否の兩方があり得る人に對して、その長所を見る事を、「長所のみを見る」事と歪曲し、「信者」のやらかす典型的な誤だと極附けて、「アンチ」は「信者」攻撃に走る。が、私にしてみれば、長所を見出して褒めてゐるのはまだしも良い事であるやうに思はれる。
牧野氏の隨筆をちよつと讀んだ事があつて、些か感心しない書き方がされてゐた記憶はあるが、その人格を全否定するやうなまでの攻撃をしなければならないものとは思はなかつた。けれども、「アンチ牧野」の人なのだらう、何うしても牧野氏の人格それ自體から否定してかからねばならないと云ふ確信を持つてしまつたらしいのだ。それはただ、その人を偏狹にし、公正さを失はせるだけで、何の益もないのだが――矢張り「日本人」なのである。
「松原信者」を非難する人もゐるやうだが、松原氏が激しく人を批判する時の批判の仕方に、相手の人格を全否定するやうな仕方はない。「信者」は松原氏の仕方を模倣する。だから、人格否定のやうなやり方は「教祖」の教へに反するものとして、自ら封じてゐるのである。私の見る限り、「松原信者」の批判の仕方を「人格攻撃」と見る「アンチ」こそ、本當の意味での人格攻撃を、驚くほど安易にやつてゐるもので――「人格攻撃」と云ふ概念それ自體が彼我で正反對の意味を持つてゐるやうに思はれる。斯うなると、「見解の相違」が大變重要な概念となつて來るのであり、「松原信者」を「アンチ」の人々は「見解の相違」を理由に叩いてゐるゐるものと言はざるを得なくなるのであるが、それは「アンチ」の人々にとつて大變不名譽な事である筈だ。
平成二十一年六月十一日
そもそも、「一つの觀點」から、他人を判斷し、その「一つ觀點」に拘つて、相手の發言を解釋し、歪曲して、非難・攻撃し續けるなら、それは大變稚拙なやり方と言へるだらう。小説でも、ワンアイデアストーリーは、素人が書くものでしかない。さうした小説は、下手な小説であり、評價され得ない。が、それが下手である事、評價されないものである事を自覺出來ないからこそ、素人だと言へるのである。多少の反省は何時でも必要だらう。
平成二十一年六月十一日
http://d.hatena.ne.jp/tetotan/20090610/1244651605
「ブロガー」が「ブログ」を「續けられる」理由があるとしたら、現實には、「人の足を引張る人間の事を無視出來てゐるから」であつて「更新を樂しみにしてゐる人の事を思ひ浮べられるから」ではない。逆に、「ブログ」をやめた人になぜ「ブログ」をやめたかと理由を尋ねたら、「惡意の人間」の存在を指摘する「ブロガー」は多いだらう。
平成二十一年六月十一日
Twitterやはてなのブックマークのコメントを私が嫌ひなのは、結局あれらもあんな短文でありながら「完成形」でなければならないから。何うして其處までしてさつさと完全な結論を出してしまはなければならないんだらうか。
――實際、そんな無茶な要求が受容れられはしないから、だからこそ、多くの人が感情論で簡單に極附けたり、單純な知識で簡單に判定したりして、話を適當に濟ませてしまふんだ。
もつとちやんと長く纏まつた文章を書ける事が必要なのだし、さう云ふ長文は簡單に完成され得ないから、相當長期間に亙つて、公開されてゐても「未完成」として扱つてもらはなければならない筈なのだが、短かからうが長からうがお構ひなしに「完成された記事」として等し並みに扱はれる傾向がウェブにはある。
これだから皆、長い文章を敬遠して、その結果、何も考へないで短い文章を書き毆り、單純明快な割切り方をして斬つて捨てるパフォーマンスに走る事になるんだよ。そして、さう云ふ「わかりやすさ」が「もとめられてゐる」とか云ふ話になつてしまふ。けれども「わかりやすい」事は「正しい」事とは必ずしも一致しない。寧ろ、屡々、より不正確になつてしまつてゐる。その種の危險を誰も言立てない。「ブログ」で「マスコミは○○についてなぜ黙っているのか」なんて尤もらしい事を言つて見せる某氏も、「ネット言論はなぜ自分逹が安直かつ不正確である事について默つてゐるのか」なんて事は絶對に論じようとしない。それあさうだらう、自分が馬鹿である事を自覺してゐないのなら、なぜ自分は馬鹿なのか、なんて事は書き得ない。
平成二十一年六月十一日
IPv4アドレス枯渇で「Google マップ」が“虫食い”に!?
Googleが展示にGoogle ChromeではなくFirefoxを使つてゐる。

平成二十一年六月十日
「Safari 4」正式版が公開、高速化と標準準拠をアピール
平成二十一年六月十日
米Apple、「Mac OS X 10.6 Snow Leopard」を9月発売
平成二十一年六月十日
先日買つて來た穗積重遠『新譯論語』(昭和二十二年一月十日發行・財團法人社會教育協會)が、讀み易く、かつ調子が高い、いい本なので、讀み始めた。のちに講談社学術文庫に入つてゐる。
Amazon.co.jp: 新訳論語 (講談社学術文庫 549): 穂積 重遠: 本

平成二十一年六月九日
山田孝雄『日本文法学要論』(書肆心水)
山田孝雄『国語学史要』(書肆心水)
山田孝雄『日本文字の歴史』(書肆心水)
平成二十一年六月九日
今さらだけれども、この「日記」の讀者でも、うちのサイトを讀んで呉れてゐない人は結構ゐると思ふし、讀んでゐても案外判らないだらうから、改めて「野嵜のおすすめ本」を書いておかうと思ふ。ネタが無いんだろとか言はないやうに。
――西尾幹二の協力の下に福田恆存が編緝した筑摩書房の日本思想大系本『反近代の思想』が、私の讀書の下敷になつてゐる。私の言つてゐる事に矛盾點を見出したり、非常識な發言を見出したりする人は、一往參照しておいて呉れると有難い。
福田恆存。嘗て新潮社から出てゐた「福田恆存評論集」。主要な著作はカヴァされてゐるから、古本屋で探して來て讀むといい。全集や今の著作集も惡くはないが、個人的には舊評論集に愛着がある。『藝術とは何か』『人間・この劇的なるもの』或は『私の國語教室』は基本圖書。意外と面白いのが『西歐作家論』。ジョイスは讀まなくていいが舊評論集では巧い事に省かれてゐる。戲曲では「解つてたまるか!」「龍を撫でた男」。それから、失敗作とされてゐて、再刊されてをらず、古書價も上がつてゐるが、長篇小説『謎の女』。大變意圖の解り易い小説で、裏側から福田氏を知るのには都合が良い。著作ではないが、飜譯全集の第八卷、バリやエリオットが入つてゐる卷は、戲曲のアンソロジーとして非常に良く出來てゐる。
松原正。「評論家」として見ると、意外と「これ」と云ふ著作をセレクトし辛い。戰爭や自衞隊に關する評論は、本になつてゐるものはどれを讀んでもいいと言へるけれども、一方で、時事的な・社會的な問題を扱つてゐる爲に、何うしても「時代」を感じさせる――古さを感じさせる事は否めない。その點、『夏目漱石』は古びないが現時點で未完。どれか一册と言ふのなら敢て『暖簾に腕押し』をおすすめする。電子テキストを公開してゐるのでどうぞ。『戰爭はなくならない』『天皇を戴く商人國家』『自衞隊よ胸を張れ』『我々だけの自衞隊』。
唐木順三。昔、不平を述べたら讀者の人に怒られて、大喧嘩した事があるけれども、福田さんと松原先生のほかに、と言はれたら、唐木氏の著作を推す。極初期の文藝評論や『現代史の試み』は讀んでゐて氣分のいいものだが、中世の文學・思想・宗教について書いた中期の本も捨て難い。筑摩叢書に入つてゐるものは全部讀んでいいと思ふ。他には『死とデカダンス』、それから『良寛』がおすすめ。
保田與重郎。文體的には大變影響を受けた人で、私が訣のわからない事を言ひ出したら保田氏の影響だと思つて呉れればいい。基本的にはドイツ浪漫派の影響下にある人で、文體も結局は飜譯調で、多くの人が思つてゐるやうな、頑迷固陋な保守反動の人物と云ふのではない。初期は下手だが、「日本の橋」の「改版」の邊から非常に特殊ながら案外讀める文章になつてくる。『後鳥羽院』『戴冠詩人の御一人者』『皇臣傳』『日本語録』『日本女性語録』はどれもいいが、個人的には全集の『和泉式部私抄』の、表題作とともに收録されてゐる女流歌人論をおすすめする。『和泉式部私抄』の「保田與重郎文庫」には女流歌人論が入つてゐないから全集で。
深瀬基寛。甚だ晦澁な文章で讀み難いが――さう云ふ意味では影響を受けたやうな氣がする。『現代英文學の課題』『批評の建設のために』は相當讀み應へがある。
岸田國士。戲曲家だが新聞小説も書いてゐて『善魔』は一讀するといい。評論集では『現代風俗』そして『言葉 言葉 言葉』。『日本人とは?』等で讀める「日本人畸形説」は日本人論として有名。
清澤洌。『暗黒日記』も有名だが、『日本外交史』がいい。
小林秀雄。いろいろあるが初期の「アシルと龜の子」邊の文章をみつちり讀込んでおくといい。ベルグソン論の「感想」や『本居宣長』は長いが、『考へるヒント』は短い文章を集めた本で讀み易い。當麻等の短文は有名だから「基礎知識」として適當に見ておく事。他に讀むべきなのは、失敗作の『ドストエフスキイの生活』。趣味的には初期の小説。飜譯はどれも小林の「準創作」で、樂しく讀める。飜譯に關聯して、レグルス文庫の『西洋作家論』が案外いい編緝なのでおすすめ。
龜井勝一郎。日本人の精神史研究は勉強の爲に讀んだ。他にも親鸞やら何やら。
河合榮治郎。「一昔前の自由主義者」だが、今の理論一點張りの人と違つてあたたかみがある。講義録だが『自由主義の歴史と理論』は解り易い。
宮崎市定。基本的に讀み易い文章の人なので、中公文庫に入つてゐるものは全部讀んだらいい。『論語の新研究』なんかは參考までに讀んでおけば良い。
井筒俊彦。『マホメット』『イスラーム生誕』。思ひ出したので一往。讀まなくても。『意識の形而上学』は讀み始めたがさつぱり解らなかつた。
白川静。意外と文字に關する本は讀み物として魅力が無い。面白いのは『孔子伝』。
柳田國男。どれを讀んでも讀み方さへ間違へなければ問題ない。『先祖の話』は保守的な立場の言論として注目されるから見ておくといい。『遠野物語』は基礎教養。
折口信夫。小説は讀まなくていい。學術的な文章を讀込んで行つた方が寧ろ面白い。
夏目漱石。『坊つちやん』『明暗』。講演。森鴎外。中期の短篇。後期の歴史小説。齋藤緑雨。アフォリズムだけ讀んでおけば良い。冨山房百科文庫に入つてゐる。
中島敦。小説は有名な作品を押へておくべきだが、特にいいのは「弟子」。
林健太郎。『ワイマル共和国 ヒトラーを出現させたもの』。『明日への歴史』。堀米庸三。『西洋中世世界の崩壊』『正統と異端』『中世の光と影』『ヨーロッパ歴史紀行』等々。
T.S.エリオット。中公の全集と彌生書房の選集は全部讀む事。戲曲は寺院の殺人とカクテル・パーティが成功作で後は失敗作。
D.H.ロレンス。福田譯『戀する女たち』。『チャタレイ夫人の戀人』は基礎教養。
オスカー・ワイルド。『ドリアン・グレイの肖像』。戲曲。『サロメ』が有名だが、他の御芝居も上手に書かれてゐる。童話が案外いい。箴言・アフォリズム集は讀んでおいて貰へると助かる。
ジョージ・オーウェル。『1984年』と『動物農場』は基本圖書。平凡社ライブラリーに入つてゐる評論は全部讀んでおきたい(四卷)。
T.E.ヒューム。親近感を覺えるイギリス人。
クリストファ・ドーソン。どれも歴史哲學として參考になる。特に『近代のジレンマ』が興味深い。『政治の彼方に』。
メルヴィル。『白鯨』は基礎教養。初期の海洋小説は樂しく讀める。
オルダス・ハックスリ。短い評論は讀むと勉強になる。
ジイド。『パリュウド』。『ソヴェト旅行記』及び『同修正』。結構小説は上手なので樂しめる。ヴァレリイ。戰前に飜譯が出た分だけ眺めておけばいい。ランボオ。ボードレール。飜譯ではよくわからない。寧ろヴェルレエヌの方が解る。ベルグソン。アラン。この邊の人逹の「論理」には慣れておいて貰ふと助かる。パスカル。『パンセ』『プロヴァンシァル』「サシとの對話」。パスカルは本當に偉いと思ふ。モンテーニュは今一つ面白くない。サルトル。『嘔吐』。サント・ブーヴ。『我が毒』の他、三卷本の選集が日本では出てゐるに過ぎない。
ドストエフスキー。『罪と罰』しか讀んでない。チェホフ。一幕物の戲曲が良い。
以下の二人は大變重要なので讀む必要がある。マルティン・ブーバー。ニコライ・ベルジャーエフ。以下の二人は些か劣るので樂しみの爲に讀むといい。シェストフ。メレシコフスキー。ブーバー。『我と汝』。ベルジャーエフ。『ドストエフスキーの世界觀』。シェストフ。『惡の哲学』。メレシコフスキー。ナポレオンの傳記。
ニーチェ。キエルケゴール。ヤスパース。ヤスパースのニーチェ論を讀むと一度に二人の事が解るので便利。
橋本治。『ロバート本』は案外讀めた。『浮上せよと活字は言う』もそれなり。小説ははつきり言つて下手。評論の方がいい。『ハシモト式古典入門』が案外まともで驚いた事がある。中村雄二郎。讀めさうな文章なのにさつぱり讀めない哲學者。岩波新書『術語集』は、最近の奇妙に非人間的に感じられる新しい哲學・思想について、血の通つた内容の説明を示して呉れてゐるので有難い。富澤一誠。誠實で眞面目ないい文章を書く人。最う何年も讀んでないけど。と言ふか殆ど讀んでないけど。橋本治より文章はずつといい。清水幾太郎。文章はいいが内容に問題がある。
平成二十一年六月九日
基本的に十年前からこの邊の本の評價は全然變つてゐない。
平成二十一年六月九日
讀んでゐないけれども讀まう讀まうと思つてゐる本は澤山ある。ランケ。ケルゼン。レーヴィット(少し讀んだ筈)。ダンテ(神曲讀みかけ)。スタイナー(今迄に讀んだ分では讀んだうちに入らないと思ふ)。メレシコフスキーやシェストフ、ブーバー、ベルジャーエフも、實は殆ど讀んでゐない。ジルソン。クルティウス。ツヴァイク。この邊の名前はどれもこれも魅力に満ち溢れてゐる。
勉強の爲だつたら、カントだのヘーゲルだのも讀む必要がある。フッサールなんかも買つてあるけれども讀めない。ハイデッガー。
平成二十一年六月九日
橋本進吉。時枝誠記。山田孝雄。以上の人々の本は大體揃へてあるから、そのうち讀まなければならない。新村出はその後、讀んでもいい。服部四郎。勉強の爲に讀む必要はあるだらう。三上章。そのうち讀んでいいかも知れないと思つて買つてはある。常識的な國語學の本や言語學の本。參考書はそれなりに買つてある。讀む氣がしないだけ。
平成二十一年六月九日
敢て擧げなかつた本もある。チェスタトンやオルテガは、今となつては或意味「有害」だらう。もちろん、讀めば面白いから、揃へてはある。
平成二十一年六月九日
本棚に並べた本を確認しようと思つたが、本棚の前に積上げた本の山に邪魔されて何も出來ない。
ここ數年、私が「馬鹿」になつたのも、物理的に手持ちの本を引張り出せない状況になつてゐる所爲もある。
自分で積んでおいて、中に何があるのかさつぱり解らない本の山が、机の右側、つひ右手の屆くところにあつたりするんだから……広辞苑や日本語大辞典がある場所は判つてゐるけれども、引張り出す事が出來ないから茲數年、ひく事が出來ないでゐる。これではどうしやうもない。
平成二十一年六月九日
正しいXHTMLマークアップとは? | umbrella_process blog
闇黒日記が全否定されてる。
divとspanだけで括るのはナンセンスだらう。divとspanをとつぱらつてもちやんとマーク附けとして「なつてゐる」ものである必要がある。「上」の記事のサンプルでは、日附とアンカーが、裸のまゝ存在する事になる。
個人的にはMicroformatsなるものこそナンセンスだと思つてゐるくらゐ。class/idの屬性値は記號的なもので、そこで「意味のある單語」を用ゐてゐてもその「意味」は全く意味を持たない筈だし、持つべきもでない。<div class="news">でも<div class="kgewatfwsjmai">でも、HTMLの機能(?)に何も違ひはない――と言ふより、實質的に無害だからこそ、「判つてゐる人同士」で使ふ「ローカルな言語」としてmicroformatなるものが提唱されてゐる訣だ。が、それは無視される事があるかも知れない前提で使ふ必要がある。もし無視された時、divにしてもspanにしても、單なるブロックレヴェル要素のコンテナ或はインライン要素のコンテナでしかない訣で、そんなものに入つただけのテキストやら何やらがあつては困る。
……と言ふか、一昔前は斯う言ふ人は「div厨」とか言はれて嘲られたんだよな。何でもブロックレヴェル要素はdiv、インライン要素はspanにしてしまつて、それで「安心してしまつてゐる」と云ふのだ。所が今や、正しいリスト項目のマーク附けが疑問に思はれてしまふ始末。
まあ……HTMLの要素を考案するのに參考にされたと思しきWordが、21世紀に入つてから目茶苦茶な仕樣に改惡されてしまつた訣だし……階層化文書なんてものよりも、「リッチな文書」と言ふ方が、世間的には通りがいいんだらう。
HTMLと云ふもの、これが將來どんどんメタボ化していつて、進化の袋小路にはまり込むんでないかと私は思つてゐるのだけれども――では私の支持するマーク附けの方式はと言ふと、それはミニマリズムに外ならず、それはそれで進化の袋小路であるのかも知れない。出來る限り「マーク附けしない」やり方を私は主張してゐるのだが(わかるだけの最低限のマーク附けでなければならない、と云ふ發想)、今の人とつては「わかるだけの最低限」の基準が相當底上げされてゐるやうに思はれる。シンプルに「段落!」或は「リスト!」と云ふのは、今の人には我慢がならない「意味」なのだ。けれども、私にしてみれば、divもspanもナンセンスな要素である。
HTMLの要素・定義リスト(dl)

平成二十一年六月八日
このはてしなく遠い積讀坂をよ… - 朴の木はひとり佇む
HTMLのソースに書いたんだけれども誤字或は脱字。「いう」の誤か「いった」の脱字か判斷がつかなかつたので原文のまゝ。毎度どうもです。

平成二十一年六月七日
CSでWord 2007の使ひ方をやつてゐたので觀てみたが……いろいろ感心したけれども、いろいろ絶望した。ペラのチラシやビラ作るツールにWordが成下がつてる。
平成二十一年六月七日
BSけいおんでサッカーテロ乘つたが、視聽者の誰一人望んでゐないテロを乘せる事に何か意味があるんだらうか。
平成二十一年六月七日
インクジェットプリンターのKGK紀州技研工業|豆知識_文字コードの話/はじめに
平成二十一年六月七日
「このままじっと我慢してれば、そのうち良くなる」。そんな神話を信じる老害社員はなぜ増えたのか? - カレーなる辛口Javaな転職日記
fladdict » 日本の残念なwebを強引にハイブローにするには
と言ふか、今は最う、金に目をギラギラさせる時代ぢやないと思ふんだ。
平成二十一年六月七日
http://homepage2.nifty.com/tomchem/book/book0906.html#d07n01 : Windowsの音引きルール変更

平成二十一年六月六日
日本語組版処理の要件(日本語版)
平成二十一年六月六日
He said - Агитпункт Beu VII
日本人が毛筆で書かなくなつたやうに、歐米の連中もペンを用ゐて筆記體で書くなんて事も少なくなつたみたい。

平成二十一年六月五日
Opera 10 beta入れてみた。メニューバーのところがへんだけれどもウェブサイトの描畫は速くなつたやうな氣がする。ターボ機能は、この界隈見るんだと、あんまり意味ない。
平成二十一年六月五日
雨が降つて來た。ここ數日沈默してゐた蛙が實に嬉しさうに鳴いてゐる。
平成二十一年六月五日
R・C・ジェッブ『ギリシア文學入門』(創元選書238)第一章 序論

書くといっことがなければ、凡そ言葉の本来の意味でなら、「文学」というものはあり得ない。文学とは一定の形式を意味するからである。そして、記憶がかりに大きな役割を果たすとしても、単なる口頭の伝承では、一定の形式を保証しかねるのである。ギリシア人はそのアルファベットを、ポイニーケー人から取り入れ、最初はその文字を「ポイニーケーの記号」と呼んでいた。……。

日本語への旅: はかなさの魔力
BLOGと云ふ名の日記 : 雜記#117

平成二十一年六月四日
http://pmakino.jp/tdiary/20090602.html#p01
適當に改變。

「新常用漢字表」の導入に反對する。

資料では「新常用漢字表」の導入が決定事項であるかのやうに記載されてゐるが、導入するか否かを先に愼重に議論すべきではないか。(議論されたのであればその結果の要旨を載せるべきではないか)

また資料では導入のメリットのみを擧げデメリットが隱蔽されてをり、導入の是非の檢討材料としても不十分である。

まあこんな反對意見も空しく導入されるのかと思ひますが。ある種税金を使はない效果的な景気對策かもしれませんね…!
「鬱」除外、「鷹」追加を 新常用漢字表の議論佳境 - MSN産経ニュース
平成二十一年六月四日
話のすり替へ・論點のすり替へを、呼吸をするやうに自然に出來てしまふ人がゐる。

平成二十一年六月三日
本當に久しぶりに時間が出來たので部屋に山と積まれた本を整理し始めたのだけれども、一晩でとても何うにか出來るものではないと云ふ結論が早々に出たので、積み直しておしまひ。事態は全然改善されてゐない。

平成二十一年六月二日
鳥は既に巣立つたさうだ。
平成二十一年六月二日
例によつて拾つて來た呉茂一・泉木吉『ラテン語小文典』を見てゐるが、ややこしくてすぐにはとても覺えられさうにない氣がする。
一晩で覺えようとして覺えられる訣もないけれども。
平成二十一年六月二日
同じく、拾つて來た『ニュークリティシズム辞典』をぱらぱら捲つて見てゐる。T.S.Eliotの影響下に發達したアメリカの文學批評の方法がニュークリティシズムで、從來の用語と違つた獨特の用語によつて、主に詩を批評する方法を作り上げた。が、結局のところ、個別の詩をそれぞれ獨自の作品と見て、直接的に内容を感得すべき事を言つたもので、「文學作品を理解する理論」と言ふよりは寧ろ理論の抛棄と觀察の重要性を主張した主義であつたと言ふ事が出來る。
先日の古書展では『連歌俳諧 てには論抄』なる大學生向けの參考書を買つたのだけれども、これは中世以來の助詞・助動詞の類(てには)に關する「論」を集めたもので、そこには簡單な定義もあるが、實例を示して語にぢかに當り、内容を自づから悟るべき事を言つた文章も多い。要は「秘傳」に近いのだが――近代以前のものである斯うした方法と、ニュークリティシズムと云ふ近代以降の方法とを同列に扱ふ危險を承知した上で言ふのだが、案外兩者は近いのでないか。
――もつとも私は、アメリカの文學に手を出してゐないし、Eliotを脱却もしてゐないから、上の發言は、責任ある發言として受取らないでもらひたい。
読書の自由と解釈の不自由と (1)
平成二十一年六月二日
しかしながら、割とちよつとしか齧つてゐない私でも割と馴染みになつてゐる、或種の英詩の態度が、多くの日本の人々には依然として見慣れぬものである事――そしてそれが大變異樣に感じられるらしき事、さらにさうした態度を支持した私の態度が彼等にとつて甚だ「言ひ訣がましい」ものに見えてしまふ事は、寧ろ私には奇異な事に思はれる。單純明快に物事を判斷してしまふ「彼等」の態度は、私には嘘吐きの態度に見えるのだ。
現實も、人間の精神も、明快なものではあり得ない。戲畫化して、單純化して、それで自分は「客觀的だ」等と思ひ込んでゐられるとしたら、その方が嘘だ。戲畫化・單純化の過程が、屡々主觀的な歪曲の過程である事を、我々は自覺し、反省した方が良い。

平成二十一年六月一日
家の裏のあけびがぷつくりとした實をつけた。たつた一つだけで、まだ青い。
平成二十一年六月一日
炭火珈琲庵 古炉奈 - お知らせ:古炉奈からのお知らせ : 新装オープンのお知らせ
何だかなー。
平成二十一年六月一日
夜盜蟲の天敵つてゐないのかな。
平成二十一年六月一日
Opera 10PRしか入れてない。

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