制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
野嵜健秀とは誰か
特記事項:野嵜に粘着するネットストーカーについて
テーマ・主に扱ふ事柄・ネタ
日本人論、政治主義批判、國語國字改革批判、虹裏(img)、深夜アニメ、古本、謎キャラクターによるコント、蟲。及びその他の事。

闇黒日記


平成二十一年五月三十一日
5カ国調査、日本はテレビ視聴が長くソーシャルネット利用率は最低

平成二十一年五月三十日
一方で、ミサイルの發射や核の實驗を行つて「挑發」を繰返してゐる北朝鮮も、自分逹の目的は「自衛」だと言張つてゐる訣で、斯うなると「自衛」對「自衛」で戰爭をする事になる。斯う云ふ状況に對して、今の人は當り前のやうな顔をしてゐるけれども、戰爭を肯定するならそれは最う平和主義ではあり得ない。
私が子供の頃、「日本国憲法」の特徴の一つは平和主義だと習つた事がある。私がこの「闇黒日記」で「矛盾」した事を言つたと非難する人々は私が「詐欺」をやつたと言ふ訣だが、では日本の教育も「詐欺」をやつた事にならないか。
或は、さう云ふ「詐欺」に利用されるやうな「日本国憲法」とは一體何なのか。もつとも、「詐欺」をやつて皆が平氣でゐられるやうなら、憲法も糞もない、日本人は嘘吐きだ、と、それだけの事に過ぎない。それで國内的に皆が納得してゐるとして、我々は昔から何とかやつて來た。「だからそれでいい」と言ふ人もゐるだらう――けれども、それが國際社會でどのやうに受け止められるかは、ちよつと考へた方が良い。國内的に互ひに互ひを「嘘吐き」と承知して、呑氣にやつてゐるのは結構だが、それを餘所の國が見て、「日本は信用ならない國だ」と判斷するとしたら、それは日本國にとつてメリットのある事だと言へるか何うか。
「ルールを守る」とか言つても、ルールそのものを變へないで、解釋を変更して、前と後とで態度を變へるのでは、普通は納得されない。ルールを變へて「これからは斯うするんだ」と宣言すれば、態度が變つても、それはそれで納得はされよう。日本人は、ルールと云ふものに關して、ちよつと無神經に過ぎる。

平成二十一年五月二十九日
【北核実験】麻生首相、敵基地攻撃論に「憲法で認める自衛の範囲」 - MSN産経ニュース
恣意的な「憲法解釋」を認める以上、こんな無茶を首相が言出しても誰も咎める事が出來なくなる。
(集団的自衛権)麻生総理が覚悟をもって「集団的自衛権行使の解釈変更」の是非を国民に問うならば、私|中川秀直オフィシャルブログ「From HIDENAO」by Ameba

そもそも、「我が国は国際法上、集団的自衛権を有するが、憲法上その行使は許されない」との憲法解釈の原点は何か。

私は、自衛戦争と「侵略」の区別をつけるためのものであると考える。

餘所の國にある基地でも「集団的自衛権」と云ふ大義名分があれば「攻撃して良い」と云ふ事になるのであれば、最早侵掠なんて概念は存在しなくなる――實際のところ、斯う云ふ憲法解釋に、私は興味が全くない。憲法解釋を「する」と云ふ大前提が出來上がつてしまつてゐる現状に、文句を言ひたいだけだ。
今や、憲法の條文それ自體は完全に無視され、憲法解釋だけが檢討の對象となつてしまつてゐる。即ち、憲法それ自體には全く權威が認められず、運用の都合上、必要である事が「正しい」と云ふ事になつてゐる訣だ。その「正しい事」が、「憲法解釋」と言換へられ、それによつてその「正しい事」は即座に「合憲」である事に「なる」――が、それでは憲法の條文とは何なのだらう。私は、憲法が「ある」事の意義を問ひたい。何の爲に憲法の條文は「ある」のだらうか。今の日本國では、憲法の條文は、全く蔑ろにされ、憲法解釋で國が動いてゐる。
――日本人は、成文憲法なるものが日本に存在しない事實を認め、不文憲法で國を運營するものであると宣言したら何うだらうか。
さうすると基本的人權だの國民の權利だのが蔑ろにされる事になるまいかと心配する人も出て來るだらうけれども、皆がそれぞれ自分に都合の良い事を言ふだらうから、却つて「今の憲法の規定」なんかより自分の權利は「守られる」事になるんでないだらうか。日本人は、思ひ切つて暴力に訴へるより、何時までも延々「議論」をしてゐる方が好きだから、大した問題は起きないだらう。
大急ぎで釋明しておくが、私は本氣でこんな事を主張してゐるのではない。皮肉を言つてゐるだけである。
しかしながら、實際のところ、大日本帝國憲法が法理學上(?)「穴だらけ」なら、「日本国憲法」は國語學上(??)「穴だらけ」であり、その「穴」を衝いて「憲法解釋」が行はれてゐる。と言ふか、今の憲法下では、用語の定義をいいやうに弄る事で、憲法の規定が常識と懸離れたものとなつてしまつてゐるのだが、それを我々は何とも思つてゐないのだ。國防意識の高い人々(?)は、平和主義や戰爭抛棄の條文の用語をいいやうに弄つて當り前だと堅く信じてしまつてゐる。一方、基本的人權だの國民の權利だのに拘る人々は、それらの條文の用語がいいやうに弄られる事は永遠にあり得ないと堅く信じてしまつてゐる。これは「日本国憲法」の條文が、右や左の人々にそれぞれ都合良く解釋され、利用されてゐる事を意味するのだ――が、さう云ふ憲法に何等かの效力は「ある」と言へるのだらうか。「憲法が主で人が從」ならばいい。ところが、今の日本國では、「人が主で憲法が從」である。憲法に力はなく、人に力がある。それでは憲法は何の爲に存在するのだらうか。
自分の主張をする時、憲法に故事つけて言へば「尤もらしく聞える」だらう等と考へるのでは、憲法の權威を認める事にならないと思ふ。

平成二十一年五月二十八日
アニマックスのかんなぎとキッズステーションのひだまりスケッチが兩方カラオケの話。
平成二十一年五月二十八日
いろいろあつてへろへろなので梅酒。アルコールが入ると文章讀めなくなるからしばらく控へてゐたけれども今夜は最うOKなので久々に。
コップ一杯くらゐではさつぱり醉へない。

平成二十一年五月二十七日
文書型の選択 : Weblog : SimpleIsm
漢字に讀み假名を振つた文書があつて、それをマーク附けした時に、結果としてXHTML 1.1適合になつてゐればXHTML 1.1と宣言する――と云ふものだと思つてゐるけれども。
「ルビを使う」「XHTML 1.1を使う」と云ふ言ひ方は、何うなんだらう。
ここにHTML使うかXHTML使うかの選択肢云々についても、マーク附けの基本原則がSGML的かXML的か、と云つた觀點から私なら考へるけれども。
平成二十一年五月二十七日
仕事でHTMLのマーク附けをやつた。他人樣が書いたソースの手直し。目の前で餘りにも目に餘るアレなものを作つてアレしてゐるので散々惡態ついて遊んでゐたら、「ならてめへが直せ」と云ふ話になつて――五分くらゐでやつつける事に。CSSのプロパティの書き方を完全に忘れてゐて、仕方がないから自分のサイトで調べようとしたら、これがまるで役立たずで、失笑した。
元がアレな上にいろいろとアレな事情があるアレなので、完璧な直しにする積りがこちらにも全然なくて、結果、文書はinvalidなものになつてゐるのだけれども、とは言へ、何うせもともとのサイトの文書が悉くinvalidになつてゐるのだから氣にしない。なんか納得して貰へたし。商賣は、良いものを賣るのが大事なのではなく、相手を納得させる事が重要なのだ。
平成二十一年五月二十七日
@nifty:デイリーポータルZ:うめぇ梅酒を作りたい
レシピNAVI | 果実酒くらぶ | 焼酎SQUARE 甲類焼酎のすべて
虹裏imgの某スレより。
平成二十一年五月二十七日
國文法研究史をそろそろ纏めてみようと思つてゐるのだけれども例によつて言ふだけ言つて何もしない結果になるかも。
平成二十一年五月二十七日
我が家の庭では相變らず蛙が元氣に鳴いてゐるけれども、裏のうちでは鳥が庭の木に巣をかけて雛を孵したらしい。街中の住宅地の筈なんだが。
平成二十一年五月二十七日
DTD が先かマーク付けが先か: まじかんと雑記
結局、言語だから、「言語の事實から抽出された規範」と「さう云ふ規範に從つた結果としての現實の言語」とが、行つたり來たりする訣だ。
平成二十一年五月二十七日
樋口了一はFM_FUJIで深夜ラジオやつてた頃、面白くて聽いてた。憧れのレイナで「極彩色」を「ごくさいしょく」と讀んでゐたのは何うかと思つたけれども。
憧れのレイナ/樋口了一 の歌詞:BIGLOBE Music

平成二十一年五月二十六日
文献に現れた述語形式と国語史の不整合性について
横田順彌『とっぴトッピング』アルゴ文庫 1988
またえらくマイナーな本引張り出してきたな……。
平成二十一年五月二十六日
ヤフー、東京の10年間の変遷を地図で確認できる「TOKYO decade」

平成二十一年五月二十五日
金魚が大きなお腹を搖すりながら泳いでゐるのは傍から見てゐるとユーモラスだが、當人(?)は大變なのだらうなあと想像して見たりする。
平成二十一年五月二十五日
福田恆存『藝術とは何か』(改版)を買つた。東京堂書店では、平積みになつてゐた本がバンバン賣れてゐたらしく、最後の一册になつてゐた。
Amazon.co.jp: 藝術とは何か 改版 (中公文庫 ふ 7-5): 福田 恆存: 本
元版にあつた松原先生の解説はそのまゝ改版にも入つてゐる。

平成二十一年五月二十四日
福田恆存「自由と唯物思想」(『福田恆存評論集』第四卷所收)

私たちの間では、精神が行動を左右するといふ事例に乏しい。このことは西洋文化と接觸するやうになつて以來、ますますはつきりしてきたやうに思はれる。戰爭中は「西洋は物質文明だけだ」といふ亂暴な言葉が通用した。戰爭中ばかりではない。最近、ふたたびその種の文句をあちこちに見かける。言ふまでもなく「東洋の精神文化」をそれに對立せしめようといふのだ。さらにアジア主義をそれと結びつけようとするものがゐる。

が、實際は、西洋は物質文明だけなのではなく、私たちが西洋のうちに見ることができたものが物質文明だけだつたのであり、そこに精神を見る能力を私たちは缺いてゐるのである。つまり、私たちは精神をもつてゐないのである。あるいは、西洋の精神が、私たちの精神にとつて、それほど異質なものなのである。

自由論議も、そこまで話をさかのぼらせなければ、決著はつかない。……。

平成二十一年五月二十四日
Amazon.co.jp: お言葉ですが…〈別巻2〉: 高島 俊男: 本
國語改革批判その他が入つてゐる。東京堂書店では平積みになつてゐるが部數は相當絞つたらしい。
平成二十一年五月二十四日
計算尺愛好会 旧名泥沼愛好会
平成二十一年五月二十四日
トンボの鉛筆、MONOけしごむ、そしてコクヨの原稿用紙の組合せは、人を殺せる。
平成二十一年五月二十四日
BS11の初恋限定。がえらくよくできてる氣がする。
平成二十一年五月二十四日
今朝も蛙がゲッゲッゲッゲッと元氣に鳴いてゐる。豫報によると夕方から雷雨らしい。
平成二十一年五月二十四日
http://homepage1.nifty.com/kazuf/renewal.html#tsn_1241540141(エディタとはなにか)
http://homepage1.nifty.com/kazuf/renewal.html#tsn_1243087385(エディタのはなし)
「エディタ」と言ふより「統合環境」のやうなものに見えるのだけれども――斯う云ふ「一つの環境であらゆる事をこなす統合環境」を考へるのは、シングルタスクのシステムを常用してゐた人だからだと思ふ。
今のWindows、或はMacintoshを普通に使つてゐるユーザは、「アプリケーションを使ふ」事が當り前で、深く考へないものだらうから、「一つのドキュメントを一つのアプリケーションの内部で處理する」昔ながらの習慣を守つてゐる事が多いだらう。けれども、私なんかは、エディタで編緝したり、置換ツールで一齋に内容を書換へたり、マイコンピュータの機能で求める文字列を特定の擴張子のファイルの中で檢索したり、と、いろいろやつてゐる。これを「エディタ」の機能だと私は考へない。ただ、必要な作業ごとにアプリケーションやらOSの機能やらを使ひ分けてゐるだけだ。
エディタのはなし: つらつらぐさ
多分、プログラマのセンスと、私のやうな「文系人間」のセンスは、違つてゐると思ふ。BASICは、さはつた事があるけれども、常用した事はない(プログラムを書いた事がない)。その後、Vzは隨分使つたけれども、FD(ファイラ)から起動する事が殆どだつた。印刷はPRT+(だつけ?)も使つたけれども、もつぱらWindows上でやつてゐた。Windowsでも、エディタでテキストを作成して、もし必要ならWordで整形する、と云ふパターン。何だかんだ言はれてもWindows 3.0は複數のタスクを同時に立上げて使へるシステムであつて、そのWindows 3.0から入つた私なんかにしてみれば、必要な作業はそれぞれ別のアプリケーションを起動してやらせる、と云ふのが當り前の感覺になつてゐる。
けれども、どの場合でも、ファイラでファイルを見ながら、適宜、アプリケーションを起動する、と云ふのが作業の基本パターンになつてゐる。エディタ中心に作業を考へる事は一度もなかつた。
基本的にデータは「ある」だけのものに過ぎない。重要なのはアクセス出來る事で、だからネットワーク上に置かれてゐればデータは使へる。ただ、アプリケーションが「ない」事があり得る訣で、だからデータの互換性が重要になる。インターネットも所詮は廣域のネットワークであるに過ぎないのだから、データ形式は何だつて良い訣で、ただ現状、「HTMLが標準」となつてゐるに過ぎない。一往、何處へ行つてもHTMLなら「讀める」ので「一番互換性がある」と云ふ事になつてゐるだけの話だ。それをあちこちの機械で弄れれば、成る程「便利」で「ユビキタス」なんだらうけれども、それを今さら大袈裟に言ふ必要は無いと思つてゐる。

ここで考えているエディタを、PCというデバイスに縛り付けられた単一のアプリケーションと考えるのは既に古くなったイメージかもしれない。ユービキタス・エディタという概念が今後出てきてもおかしくはない。ユービキタス・エディタとして必要な機能を追加してみよう。

私なんかは大變不思議に思ふのだが、普通に私逹はOS上で作業をしてゐるし、インターネットを使つてゐる。それを「エディタ」として「解釋し直す」必要はないんぢやないかなと。OSで「する」作業、ネットワークで「する」作業を、「エディタ」として「見る」必要性とは何なんだらう。さうする事によつて何か新しい世界が目の前に開けて來るのだらうか。坂村健氏の構想やユビキタスの概念は、昔は新しかつたし意義があつた(個人的には非常に疑問に思つてゐる)けれども、今となつては改めて言出すべき事とも思はれない。それ程までにIT化(結局「ユビキタス」なる用語は普遍化しなかつた、ITなんて訣のわからない用語なら一般人にも通用する)は進んでゐるのだが、そこで後追ひのやうに「哲学」「思想」が現實を「解釋して見せる」事には、何か意義があると言へるのだらうか。現時點で實現してゐない夢物語を語るのならば兔も角、「ああ、これつて最う實現されてるぢやん」と言つて「はつと氣附いて見せる」パフォーマンスを「哲学者」や「思想家」がやつて見せる。けれどもそんなものに何か意味があるのだらうか。その人が遲れてゐると云ふだけの事だらう。ケータイで遊んでゐる高校生の方が餘つ程「進んでゐる」。或は、serial experiments lainで示されたえんえん情報が流れ續けるネットサーヴィスなんてものよりも、虹裏の方が遙かにリアルだ。今さらユビキタスだの何だのと「昔の概念」を持出して來て、鹿爪らしく論ずる事に、私は意義を認められない。

平成二十一年五月二十三日
「Google Chrome 2.0」公開、フルスクリーンモードなどの新機能
「次のWeb標準にも貢献したい」Googleがブラウザ開発の今後語る
窓の杜 - 【NEWS】「Google Chrome」v2が正式公開、動作速度や安定性がさらに向上
最近はウェブブラウザがヴァージョンアップしたとか言はれても全然わくわくしない。
と言ふか、最う今時は、レンダリングエンジンとウェブブラウザとを區別して話をした方がいい。さうするとウェブブラウザのヴァージョンアップと云ふ事はそれ自體として意味がなくなる。
平成二十一年五月二十三日
窓の杜 - 【NEWS】フェンリル、IE8標準のレンダリングを利用できる「Sleipnir」v2.8.5を公開
レンダリングエンジンの上にかぶさるウェブブラウザなんてものにはてんで興味を惹かれないが、IE8のMSHTMLが持つ二つのモードを切替へられるとかそれなりに有用で、便利ではある模樣。
平成二十一年五月二十三日
どうでもいい雑記その544 : 雑記帳 : der Gegenwart

私は自分のためにHTMLを使って文章を公開しているので、そもそもXMLとして利用したい人が便利だからとかそういうのはどうでもいいわけで。そんなもんは私的にはXHTMLのメリットにはならない。

自分だけの爲なら公開しないものだらう。公開してゐるからには、誰かが利用する事は想定していい。
もちろん、所謂「XHTML文書」と云ふもの、ただの閲覽者には興味がありません、プログラマやマークアップマニアやXMLオタクがゐたら私のところに來なさい、と云ふ考への下で公開されねばならないと云つたものでない以上、普通の人が見たつていい訣だが――技術者ではない一般人が得られるメリットは別にない訣で、さう云ふ觀點からは、HTMLだらうがXHTMLだらうが大して差はない、と結論するのは「正しい」。
が、だからと言つて一度XHTMLに「した」のを元に返す手間を掛ける必要は無い。
HTMLでもXHTMLでも「大して違はない」のなら、「どつちにしよう」と眞劍に惱む理由はない訣だ。どつちかに「した」なら、深く考へないで、ずつとさうしておけばいいだけの話だ。變に考へてしまつて、自分の公開してゐる文書の内容の事を忘れて、一生懸命書式弄りを始めてしまふと、何の爲にウェブサイトを拵へたのか、わからなくなる。十年この界隈(何處)を見てきたけれども、さう云ふ何うでも良い事に首を突込んではウェブサイトをぐだぐだにして潰してしまつたと云ふ人が何人もゐた。勿體ないと思ふ。
書式に拘るよりも、内容に氣を配る方が、重要だらうと。ゲームしたいならしてゐても良いけど。
平成二十一年五月二十三日
好きな文書型で書けばいいよ、HTML : Weblog : SimpleIsm
DTDに照らしてvalidならさう宣言する事が出來る、と云ふだけなんだから、「HTML 4.01を使ふ」「XHTML 1.1を使ふ」等と言ふのがそもそもをかしいと思ふし――文書型で書く、と云ふのもあり得ないと思ふ。何かを書いた結果としてDTDに適合するだけではないか。
平成二十一年五月二十三日
http://winterzeit.org/?date=2009-05-23#s4a17d2ef1060e
ウェブで公開する文書も「保守的なのが當り前」の筈なんだけれども、世間では誰一人さうは思つてゐないらしい。デザイン面で過激化して見たりマーク附けで過激化してみたり。その結果、ウェブブラウザで閲覽できなくなつたりしたら元も子もなくなる訣だけれども。
平成二十一年五月二十三日
明け方、庭の蛙が凄く元氣に啼いてゐたのだけれども、今になつて雨が降つて來た。

平成二十一年五月二十二日
GoLiveからDreamweaverに乘換へを餘儀なくされて使つて見たけれども、作つた「HTML文書」が讀込めないとか弄るとレイアウトが崩れるとか。操作方法がよくわからないとか。
そんなデザイナさんの惡戰苦鬪を默つて横から見てゐる私。
平成二十一年五月二十二日
.phpのファイルをDreamweaverで編緝とか。
平成二十一年五月二十二日
鯖の中を覗いて見ても何が何やらさつぱりわからないとか。
しかも仕樣を未だに報告してこないとか。
平成二十一年五月二十二日
と言ふか、いろいろ非道いと思ふ。
あとから文句ばつかり言ふとか言はれたけれども、その時にはこちらは何か言へる立場ではなかつた訣だし。
平成二十一年五月二十二日
余計な解説は書かない - (゚ヮ゚)<ポポーダイ
ソースを見ると確かに最後の方に謎の空Pがあつたりする。

平成二十一年五月二十一日
檢定協會の前理事長父子が逮捕された件 - 科學の剃髮
5月20日付 編集手帳 : 社説・コラム : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
讀賣の編集手帳子がと云ふ字を持出してゐるけれども、「漢検」の理事長が逮捕されたのは文部科学省からの役人の天下りを受容れなかつた見せしめとか云ふ話を蹈まへての事なのかな。
平成二十一年五月二十一日
何うやら蛙はうちの庭に定住する事を決めたらしい。何年か前にも一度、雨蛙が居着いた事があるのだけれども、住み心地がいいんだらうか。池も何もないんだが。
なんかすごく元氣に鳴いてる。
平成二十一年五月二十一日
いわゆる“GENOウイルス”が猛威、G DATAがその挙動を解説
平成二十一年五月二十一日
【河田一規のデジカメナビ】シグマ「DP2」
シグマDP2【第1回】扱いやすい画角と向上した操作性
平成二十一年五月二十一日
炭火珈琲庵 古炉奈 - くつろぎの空間で味わいのひとときを…
炭火珈琲庵 古炉奈 - お知らせ : 古炉奈閉店のお知らせ
平成二十一年五月二十一日
【西川和久の不定期コラム】 RC版で既にVistaより快適なWindows 7

平成二十一年五月二十日
小松英雄『いろはうた』が三月十日に講談社学術文庫から再刊されてゐたのを今になつて氣附いたのだが、「学術文庫版あとがき」でうちの評が引用されてゐて吹いた。昔私が何處やらかから中公文庫新書版を拾つて來た時、例によつて惡口を言つたのだが、ウェブで檢索してそれを見附けた筆者はびっくりしたのだとか。以下は「あとがき」にある筆者のコメント。

……、国語政策についての筆者の見解に対する極端な保守主義者の批判で、反論するに値しないものであった。

言語に關しては「極端な急進主義」が當り前だと思はれてゐて、この筆者もさう信じてゐるものらしい。しかし、國語の表記は保守的であるのが當り前であり、私の立場が「極端」だと言ふのは「極端な急進主義者」である筆者の一方的な見解に過ぎない。
それにしても、こんなマイナーな「ウェブ日記」の、それも過去ログなんかから一々反論に値しない記述を穿くり出して、永遠に記録して呉れたと言ふのは、何なのだらう。
平成二十一年五月二十日
同書学術文庫版322〜323ページの邊の記述――同書の結論部だが――には問題がある。
先づ事實の誤認。現代仮名づかいについて、それがこれほど短期間にできあがったのは、占領軍総司令部(G.H.Q.)の指示が絶対的なものであったからには相違ないが、或は、占領軍の強制によって、一夜にして実現した、とある。もちろん、これは事實に反する。國語改革は、G.H.Qによる強制で實現したものではない(藤原正彦『祖国とは国語』にも同樣の記述があるけれども、それが誤である事は以前にも指摘した)――が、筆者が、知つてゐて讀者を變に誘導しようとして書いたものか、知らずに一般の解釈を書いたものかは判らないにしても、本質的な問題ではない。
深刻な問題なのは、事實の解釋の「誤」である。筆者は、現代仮名づかいが、あまりにも短期間に作りあげられたために、現代語それ自体の観察から導かれたものではなく、歴史的仮名遣をもとにした、その改訂という形をとっており、また、いろいろの矛盾した立場の妥協として成立したと見られるふしもあるので、もう一度、根本的に見なおされなければならない。と述べてゐる。直前に、現代仮名づかい口語を表記するために考えられた、歴史上、最初の假名づかいである。と言つてゐるのと整合性がない事も問題だが、一方で、口語に即した表音性の強い表記を高く評價してゐる文脈から言つて、筆者は「現代」の表記をより表音的に改訂すべき事を主張してゐるものと思はれる。しかし、庶民が庶民なりに、口語に即した表音性の強い表記を捨てなかった事の傍證として筆者が示した、東海道中膝栗毛からの引用文を見ても、其處には所謂表音主義的な表記・文字と發音とを一致させようと云ふ態度はないのであり――そもそもコレ 弥次さん。しかにしね。かわに御ていしゆのしつたことじやアね。道れにしてきた。こつちがわりい。どもしかたがねと。あきらめなせとあるうち、強調部の文字遣ひを表音性の強い表記と解釋するのは如何なものか。私ならば、「庶民は庶民なりに、文語に即した表語性の高い表記を捨てなかつた」と解釋する。さうなると、私は「仮名づかいのより一層の表音化」を主張する筆者の見解には賛成し兼ねるのである。
平成二十一年五月二十日
どうでもいい雑記その538 : 雑記帳 : der Gegenwart
「ruby要素を使つてゐないからXHTML 1.1で書いてゐないと言はなければならない」と思ふ理由が解らない。XHTML 1.1つてrubyだけの爲にあるんでは無いと思ふけれども。嘘の宣言をしてゐないなら問題ないぢやん。
書式(?)を氣にしてゐる暇があつたら、もつと他に「やる」べき事が幾らでもあるだらう……。
平成二十一年五月二十日
40代、50代の人たちがなぜあえて表現すべきかよくわかんない - 檜山正幸のキマイラ飼育記
いや、書くべき事なんかない、と云ふ主張。
平成二十一年五月二十日
はてなブックマークへの反論のコストみたいな話 - カナかな団首領の自転車置き場
しかし、思ふのだけれども、書いても書かないでも何うでもいい事を多くの人が書きたがる一方で、書かないよりも書いた方がいい事・書くべき事を多くの人が書きたがらない。そもそも、「何が大事か」を、誰も考へてゐない。ただ「意見を言へれば良い」「反論出來れば良い」――「いいシステムが出來れば自然に皆良い事を言ひ始めるだらう」と、樂觀的な見方をして、氣樂な事を言ひつゝ、氣樂に言爭つてゐる。それは一種の馴れ合ひだが――しかしさうした馴れ合ひですら「コストが高い」のだ。

平成二十一年五月十九日
助動詞のない文法 - ziomの日記
さう言へば例の正字正かなIMEプロジェクト、あれ(どれ)以來音沙汰ないな。
うちのWXGを「正字正かな對應」にするのに、附屬語辭書をNP104にしてあるんだけれども、助動詞を附屬語の形で登録してある。
平成二十一年五月十九日
「メッシュ天気予報」(http://weather.dti.ne.jp/top.html)が數日前から死んでるけど不便だ。
平成二十一年五月十九日
相變らずうちの裏邊で蛙が鳴いてゐる。
平成二十一年五月十九日
日本の新型インフルエンザ(H1N1)対策 - Yahoo!ニュース
平成二十一年五月十九日
新ヤマト(2009年5月19日の急上昇ワードランキング) - Yahoo!検索ランキング
新ヤマトはパワーアップ「波動砲」6連発OK(芸能) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース
宇宙戦艦ヤマト26年ぶり劇場版映画で復活 - シネマニュース : nikkansports.com
今から不安で不安で仕方がない。
平成二十一年五月十九日
玄關の前でみみずに遭遇。靴の爪先でつついたらのたうちまはつて暴れる。この時期よく出てくる。

平成二十一年五月十八日
fladdict» ブログアーカイブ » 手っ取り早くお金を貯める方法
平成二十一年五月十八日
例によつて田村書店の無料箱からコントの『實證的精神論』(信濃書房)なんてものを拾つて來た。

平成二十一年五月十七日
携帯使う中2の1割「すぐに返信せず友だちにキレられた」経験
お話しはしないけれどもメールのやりとりには使ふ、と云ふ子が結構ゐるみたい。或意味書き言葉が話し言葉を凌駕しつゝある。
Woopie、動画の一括ダウンロード機能を搭載した新ブラウザ公開

HTMLレンダリングエンジンは、Internet Explorerの「Trident」を採用する。

なお、インストール後はデフォルトで「標準のブラウザ」に設定されるほか、Internet Explorerの「お気に入り」がインポートされる。

気象庁、XML形式で防災情報を配信する仕様を策定
それよりウェブサイトのHTMLをなんとかしろと。
平成二十一年五月十七日
【河田一規のデジカメナビ】シグマ「DP2」
DP1もマイナーチェンジされるのかな。
【新製品レビュー】キヤノン「PowerShot SX200 IS」
レジャー用にはこんなんで十分なんだよな。

平成二十一年五月十六日
【解説】Webブラウザは互換性の“危機”を回避できるのか : Webブラウザ - Computerworld.jp
http://end-of-file.net/blog/2009-05.html#date-2009-05-16
平成二十一年五月十六日
民主党は鳩山氏が新代表。TBSでその邊歩いてゐる人に話を聞いてゐたが、おつさんが「自民党をぶっ潰してほしい」と言つてゐた。しかし、「政權が變つても世の中は大して變らない」さうだよ。
何の爲に自民黨と民主黨とが分れて存在してゐるのか。なぜ鳩山氏と岡田氏が黨内選擧をやつて爭つたのか。全く意義が解らない。どうせ「民主主義」の態を繕ふだけの爲だらう。みんな「民主主義ごつこ」をして遊んでゐるのだ。それで日本が何とかなつてゐるのは、日本が平和だから。
しかし、これは、逆に言へば、日本が平和でない状況になつたら、今の日本の體制も、日本人の考へ方も、現實に應じて、容易にひつくり返つてしまふ、と云ふ事だ。ならば我々が、ウェブでも何處でも、「議論」をしてゐるのは全くの無駄、と云ふ事になる。何がいいとか惡いとか言つてゐても、さう「言ふ」事に何の意味もないのなら、何も言はないで、世の中の流れに押し流されてゐればいいんだ。「諸君!」が潰れたところで日本人は誰も困らない。
平成二十一年五月十六日
はてなブックマークへの反論のコストみたいな話 - カナかな団首領の自転車置き場
結局のところ皆が言つてゐるのは「議論が自分に有利に展開するやうにしたい」つて事なんだよな。

平成二十一年五月十五日
違、違、違 - 實驗日記(假)

よく「自民黨と民主黨の違が解らない。」等と云ふ意見も目にするが、さう言ふ人達は、「政權が替つたら世の中180度變るべきだ。」とでも思つてゐるのだらうか?物事を單純化しようとしすぎ。

政權が代つたら政策が變らなければ、二大政黨制の意味がない。政策が變らないでいいのなら、自民黨が一黨あればそれで十分だ。「政策が變らなくても、政權が交替する事に意義があるんだ」と思つてゐるのかも知れないが、そんな事には何の意味もない。
日本人は政治に理想を持たない・見ない。しかし、政治家はもつと理念を語るべきだし、國民はもつと理念を尊重すべきだ。惡い意味で「現實主義」の人が多過ぎる。理念を持たない人間が政治に關るから、日本の政治は常に權力爭ひに終止する。戰爭前の日本の政治は――大日本帝國憲法の缺陷ゆゑに失敗した解釋する人が非常に多いけれども、實は憲法と關係なく――政治家が現實主義に基いて權力爭ひに終始したがゆゑに、失敗したのだつた。餘りにも政黨間・政治家同士の權力爭ひが非道く、惡しき「現實主義」が目に餘るものであつた爲に、「理想」を掲げて青年將校が蹶起し、或は「現實」をより強力に處理すべく軍人が臺頭する事となつた。趣味と實益とではなく、理念・理想を基準に、政治家が結黨し、國民が政權擔當者を選んでゐれば、政治は――少くとも誰もが納得して失敗する事も出來たのである。けれども、權力爭ひを繰返した政黨政治家は失敗を無責任に放り出し、それを指彈しつゝ登場した軍人政治家逹は、再び失敗を無責任に放り出して――國民は誰も「自分逹の政治の失敗」として失敗を受容れる事が出來なかつた。此れほどの不幸もない。
「現實主義」と言つてゐるけれども、日本人の場合、現實に流されてゐる事が矢鱈と多いんだよ。そしてひたすら現實を解釋し續けてゐる。「物事を單純化する」なんて言ふのも結局は解釋の仕方の善し惡しを言つてゐるに過ぎない。けれども、さう云ふ「流される生き方」をすると皆、後悔するんだよ。
政治に於て、理念や理想と云ふものは、現實を解釋する方法論ではないし、あつてはならない。それは、主體的に人が現實にかかはらうとする時、指針とすべきものである。理念・理想を選ぶ事で、人は自ら進む道を決める事が出來る。そして、自ら決定した生き方ならば、失敗しても人は納得出來る。
平成二十一年五月十五日
東京古書會館の古書展。今週は愛書会。買つた本。福田恆存『作家の態度』。新聞の切拔きが貼り附けてある。Yahoo!グループにデータを上げておいたから、興味ある人はどうぞ。佐藤輝夫訳『ヴィヨン大遺言書』(創元文庫)。小沼丹『清水町先生 井伏鱒二氏のこと』。内村達三郎譯『アゥグスチヌス懺悔録』。人間選書5『近代精神』(鎌倉文庫)。福原麟太郎『春のてまり』。藝術新潮 第一七九號 臨時増刊 特集「日本美術百選」。矢代幸雄、小林秀雄、鳥海青児が作品を選ぶ過程を全部記録した「座談会」を收録してゐる(115〜167ページ)。
平成二十一年五月十五日
「やもえない」で、あってるだろ!!! - ziomの日記
緑雨の小説に「かくれんぼ」がある。
崩れた口頭語については假名遣を喧しく言ふ事もないだらうと思つてゐる。文章語で書くなら「だらう」は「だらう」だし――意圖的に口頭語を書留めるから「だろ」になる。

平成二十一年五月十四日
Yahoo!グループからのお知らせ : 2009年3月24日 Yahoo!グループ サービスリニューアルのお知らせ
サーヴィスがメーリングリストから内輪向け掲示板に變更されるみたい。
Yahoo!グループ : 言葉 言葉 言葉――松原正・福田恆存・國語國字問題 ( 生活と文化のメーリングリスト)
長期に亙つてほつたらかしにしてあるけれども、まだこのグループは生きてゐるのでどうぞよろしく。いろいろデータをぶちこんであるので興味がある人はよろしく。參加を依頼して呉れれば承認するので、いろいろとよろしく。
平成二十一年五月十四日
メーリングリストに投げた電子テキストを眺めてゐて見附けた。
季刊『聲』第四號 1959年夏「同人雜記」(福田恆存)

……。

 私事が先になつてしまつたが、海の向ふのキーン氏を督促して成功したのは、不手際の埋め合はせにならうか。日本文學史の貴重な資料が外國人の手によつて紹介されたわけである。内容は讀めば解ることで宣傳の要もあるまいが、たゞその日本語について一言。キーン氏の原稿を廻し讀みした同人一同、すつかり感心してしまつた。かなづかひ、漢字、文法、一つの誤りもなく、最後に(原文のまま)と入れようかと大笑ひした。

ドナルド・キーン「鴎外の『花子』をめぐつて」が正字正かなの原稿だつたらしい。
平成二十一年五月十四日
はてなブックマークコメントにはPermalinkもidコールもあるのに、なぜ「反論するコストが高い・面倒」と思えるのがとても不思議なので、その根拠を教えてほしい - import otsune from Hatena
いろいろシステムの話がされてゐるけれども、結局のところ、一行コメントみたいなのには反論し辛い、と云ふのが最大の問題だと思ふ。レッテル貼りだの罵倒だの、好きだの嫌ひだだの、「面白い」だの「つまらない」だの――反論出來るだけの内容がない、ただ結論だけが提示されただけのコメントに、人は反論出來はしないのでないか。
正直、「投票」とか「ミニブログ」とか、「ウェブでつぶやく」とか、そんな今のウェブサーヴィスは、議論を盛にする事を目的にしてゐないんだよ。この手のウェブサーヴィスは、マスコミが行つてゐる「世論調査」と左ほど變りがない。「ネット言論」と言つたところで、結局「マスコミの言論」と本質的には何も變らない。みんな御手輕に結果を出したいだけだ。
平成二十一年五月十四日
一番重要なのは、簡單に結論を下す事それ自體に皆が不信感を持つ事なのだが、さうなるとシステムが問題と言ふより結局はが問題と云ふ事になる。
一般論を言つて簡單に他人の發言を「誤」と極附けたり、定義を杓子定規に當嵌めて簡單に他人の發言を「誤」と極附けたり――「ブログ」で「論じて見せてゐる」人でも、やつてゐる事がコメント欄で一言結論だけ言ふのと何も變らない、と云ふ事が結構ある。
割と皆解つてゐないのだけれども、言ふ事の内容が問題である訣で、「内容の充實した發言をする」事が必要であるのだけれども、さうした意味での「敷居の高さ」を誰一人論じてゐない。
みんなして如何に氣樂に言爭ひできるやうにするかを言爭つてゐる。ナンセンスだよ。
平成二十一年五月十四日
どうでもいい雑記その529 : 雑記帳 : der Gegenwart
正直、「人間は貶す時は兔に角簡單に貶すものである」と云ふ事實を「簡單に貶せるシステム」が全面サポートしてゐる状態にある事に、多くの人が氣附き始めてゐる、と云ふだけの事だ。
「批判をする」と云ふ事を多くの人が知らないから、安易に罵倒やら嘲笑やらをやつてしまふ訣だし、それがインターネットで目立つからみんなで騒いでゐる訣だけれども、結局のところ、システムを通して人間の本性が顯れてゐるだけなんだよ。問題はなのであつて、人を何うにかする事でしか問題は解決しないが、人が何うなると云ふものでもない。だからと言つてシステムを弄つたから何うなると言ふものでもない。
――と云ふ訣で、乱暴なこと言うようだけど、はてブでフルボッコにされたくらいで疲れるようなナイーブな人は Web で情報発信なんてしないほうがいいと思う。いやはてブに限った話じゃないんだけど。と云ふ結論に行かざるを得ない訣だけれども、それでは貶したもの勝ちと云ふ事になつてしまふ。それを何とかする事は、少しは考へていいだらう。システムで何とかならないものなら啓蒙や教育によつて少しづゝでも人を變へて行くしかないだらうし、何うしやうもなく非道い状況が續くのであれば、場當り的に當座、法的な規制を行ふのも一つの手だ。

平成二十一年五月十三日
テレビ東京系で放送中のアニメーション「宇宙をかける少女」のサブタイトル。第四話は「まつろぬ者達」。ところが第八話は「暗闇へのいざな」。第十八話は「よみがる神」。何なのだらう。
平成二十一年五月十三日
最近見てゐるアニメ。日曜日。AT-Xでとらドラ→みなみけおかえり。tvkタユタマ。TX咲。月曜日。tvkティアーズ・トゥ・ティアラ。AT-X二宮くん。火曜日。AT-X忘却の旋律→ポリフォニカ。水曜日。AT-X ARIA→一騎当千。KIDS STATIONでひだまりスケッチ。木曜日。なし。金曜日。BS11アスラクライン。TXハヤテ2期。tvk涼宮ハルヒ(殆ど後で録畫を)。土曜日。NHKエリン。AT-X怪物王女。BS11初恋限定→奏光のストレイン。BS-TBSけいおん。tvkヴァルキュリア。平日夕方。BS11うたわれるもの。大體こんなところ。あんまり見てないね。
平成二十一年五月十三日
実名かどうか - カナかな団首領の自転車置き場
はてなブックマークコメントをマイナス評価で非表示にするという話 - カナかな団首領の自転車置き場
ブクマコメントは下品で勘違いばかりだから表示しない方がいい - カナかな団首領の自転車置き場
はてなブックマークは単独表示できるようにならないの? - カナかな団首領の自転車置き場
「氣に入らない人間を罵倒する爲」に活動をする人は「ゐる」のであつて、それが問題である、と云ふ事は、案外認識されてゐない。そして、さう云ふ問題についてこそ考へなければならない、と云ふ事は、誰も氣附いてゐない。
はてなでもTeaCupでも、IDを取つて、「ブログ」でも何でも立上げて、「くっく」と嘲笑つて見たり、「信者」は何うだと極附けたり、一方的に罵倒を浴びせる、なんて惡意の塊のやうな人は「ゐる」んであつて――で、それに對して、はてなやら何やらのシステムを問題にする「善意の人々」がゐる訣だが、システム弄りをして樂しんでゐるだけで、意味のない事だと思ふ。
繰返すが、問題は、システムを利用してろくでもない事をするにある。さう言つた人の言動を「見ない」とか「マイナスに評價する」とか、皆いろいろシステムを考へてゐる――「對抗的なシステムを作る」アイデアを皆、智慧を絞つて捻り出さうとしてゐる。けれども、結局、それは「システム作り」を樂しんでゐるだけだ。何度でも繰返すが、問題はにある。と言ふか、問題のある人が「ゐる」のである。その事をもつと考へなければ行けない。勿論、考へても結論が出る訣はないが、だから手取り早くやつつけで何とかしてやらうと皆、システム作りの事を考へてゐるのである。が、それは逃避行動と云ふものだらう。
一人でぶつぶつぶつぶつ「呟いてゐる」のは良い。それに好感とか嫌惡感とかを「持つ」のも良い。けれども、それを「自分が見られるやうになつてゐる」と「嫌だ」と言ふ。もつと皆言ひ合つたらいいんだよ。今の「ブログ」のシステム、或は「掲示板」のシステム、問題にするのなら、互ひに「簡單な評價」だけを附けられるに過ぎないシステムであるのが問題だとは言へる。言爭ひのし易いシステムはウェブ上に一つもないんだよ。「はてな」の「ブックマークコメント」は字數制限があるし、コメントにコメントは出來ないし、そもそもその場でコメントできてしまふ事が問題だし、……、「スター」のシステムだつてただ結論だけを表明する爲のシステムだ。「なぜ」その結論に至つたかをコメンテータのやうな人々に出來るだけ表現させないやうに、「簡單なシステム」が提供されてゐる。が、これは、サーヴィス提供者が惡いんではなくて、さう云ふサーヴィスを望んでゐる多くのユーザが惡い。殆ど全ての人が、簡單に結論を言へる事を「よいサーヴィスだ」と心から信じてゐる。けれども、結論に至るまでの思考の過程こそが重要なのだ。それを表現させまいとするウェブの多くのシステムは惡いシステムだが、そもそもさう云ふ惡いサーヴィスを「良いサーヴィス」だと思ふユーザが澤山存在する事が問題なのだ。矢張り根本的にが問題である訣だ。多くの人が、簡單に書く事を、大變良い事だと信じてゐる。そして、澤山書く人を「頭がをかしい」と簡單に判斷するし、場合に據つては「荒し」だと即斷する。が、さう云ふ發想を多くの人が持つてゐる事が問題だ。コメント欄にしても、掲示板にしても、一行書き逃げを容易に出來る粗暴なシステムでしかない。が、さうした粗暴さを「洗練された」ものと殆ど全てのユーザが勘違ひしてゐる。一方、澤山書け、と私に要求されたコメンテータが、無駄口ばかり書込んで、肝腎の理窟を全然書かない、と云つた事態が最近發生した。「解つてゐない」のだ。要は、「理窟を書く」「説明する」といつた事の重要さを、ユーザが一人も解つてゐないのだ。「結論をずばり書く」「極附ける」といつた行爲を、多くのユーザが「とても良い事」だと信じ、少くとも「當り前の事」だと思つてゐる。「何を書かなければならないか」「書かなければならない事をきちんと書くのにどれだけの分量が必要か」を、ほぼ全てのウェブのユーザが解つてゐない。「少い言葉で表現してゐれば、それは素晴らしい事である」と、先づ大體のユーザが心から信じてゐるし、少くとも「或程度は認める」筈である。が、「必要な事が適切に表現されてゐる」事の重要性を、誰も信じてゐない。それが問題なのだが、さうなると、ユーザの知的レヴェルこそが問題だ、と云ふ事になる。けれども――それを言出すと、「ならお前の知的レヴェルは何うなんだ」と周圍から攻撃される事になる。さうした攻撃を「受けたくない」から、誰もさう云ふ事は言ひ出さない。出來るだけの問題は見ないやうにして、誰もが氣樂に話せるシステム作りの話を、無責任に、「しよう」とする訣だ。さう云ふ無駄な御喋りを樂しむ場がウェブだ、と云ふ訣だ。だが、正直言つて、さう云ふ惡口を皆が積極的に引受けようとしない限り、ウェブのやうな小さな社會ですら、良くならないよ。ウェブでは皆が逃げ腰で、當り障りのない事を言ひつゝ、批判に怯えて暮してゐる。そして、「批判する方が惡い」と云ふやうな空氣を作りださうと皆一生懸命努力してゐる。何かが根本的に間違つてゐると思ふ私が間違つてゐるのだらうか。
平成二十一年五月十三日
Greenbear Diary - CSSを「ちゃんと」書けるようになりたい
俺がHTML&CSSを覚えた方法 - Life goes on
HTMLとCSSを学ぶ : 雑記帳 : der Gegenwart
HTMLとCSSを学ぶ話の続き : 雑記帳 : der Gegenwart
世に出てゐる本について、前は隨分いろいろ言つたものだけれども、最近思ふのは、最うどれ讀んでも別にいいやと云ふ事。どんなに非道い物を讀んで非道い知識を身につけてしまつても、良いぢやないかと――ただ、さうした非道い知識に基いて作つた非道いサイトが、批判された時、反省できる人ならば、と云ふ條件がつくけれども。とつかかりなら何だつて良いんだよ。それがいいとつかかりなら幸せだと言ふのだらうけれども、別にろくでもないものから初めて、叩かれて叩かれて叩かれ捲つて、それでいい方向に進歩して行けるのなら、それはそれで寧ろ良いのでないか。結局、「叩かれたくない」と云ふ及び腰の姿勢から、「ぢやあいいスタートの切り方教へて」と云ふ要求が出て來るのだ。人はもつと批判と云ふ事の意義を認めた方が良い。
出來るだけ樂をしながら皆で幸せになりたいとか、そんな蟲の好い考へで誰もが物を言つてゐる氣がする。
平成二十一年五月十三日
本當に、今のウェブのシステムはをかしくなつてゐて、「うつかり下手な事を言へない」と云ふ飛んでもなく窮屈な状況が出來上がつてしまつてゐる。こんなに息苦しい氛圍氣の場もないと思ふのだが……。
ウェブはもつと氣樂に間違ひを言へる場であるべきなんだよ。もちろん、わざと間違ひを言つてもOK、デマを皆が信じてしまつて全然構はない、なんて訣ではない。けれども、間違ひを言つたら誰かが間違ひだと指摘する、間違ひの間違ひである所以を叮嚀に説く、さうして、皆が自然に正しい知識を共有出來る――そんな場であつていい筈だ。けれども、ネットワークなんて、さう云ふ風に使はれなければ、存在意義が無いだらう。今では、間違ひを言つた、なんて愚かな人間なんだ――さうして皆が即座に罵倒に走つてしまふ。間違ひを二囘、三囘と言ふ、さうすると、その人が他に何を言つてゐようと關係なく、「この人物は異常人格者です、みんなで無視しましょう!」とキャンペーンを張るアンチが涌いて出てくる。明かにをかしな事を信じてゐる人間が、さう云ふ出たら目なアンチになるのだが、ところが皆、さう云ふ行爲が「ある」事を問題視せず、只管處世と云ふ事について考へ始めてしまふ。問題のある人については全く考へようとしない。さう云ふアンチが出てくるきつかけを作つた人を詰る事はあつても。
斯うなると皆、警戒してしまつて、積極的な事は何も言へなくなる。根本的に勘違ひをしてゐる人に、突込みが澤山入る、さう云つた事は自然にあり得る話だが、それですら「炎上」とか言つて大騷ぎし、「ウェブは怖いところですね」とか言つてみる。或は、本當にをかしな事を言つて叩かれると、をかしな側が自分のサイトを閉鎖して、「ネット自殺」をして「反撃」する。或は、サイトを閉鎖させる事を目的に叩き捲る異常な人物が跳梁跋扈する。デマを流してサイトの主宰者をウェブにゐられなくしようとする。どんどんどんどんをかしな行爲が蔓延する――そしてそれが「當り前」とされてしまふ。異常な行爲に對して「過剩反應する方がをかしい」とか言はれ始める。「無視する」方に話が進み始める。
批判と云ふ行爲それ自體を誰も信用してゐないのだ。
――が、よく考へれば、ウェブを利用してゐる大部分のユーザが、別に「言ひたい事」なんて持つてゐないのだ。これでは批判も糞もあつたものではない。が、別に言つても言はなくても何うでもいい事をユーザが「言ひたがる」一方、さう云ふ何うでもいい事だけがウェブには「あつていい」と信ずる人がゐる。不眞面目であればあるほどウェブでは生延び易い。さうなると、最う「正しいHTML」だのCSSだのと言つたりしても意味がないし、批判の有用性だとか言論の公益性だとかを主張しても意味がないと云ふ事になる。ところが、それではウェブは眞面目な人間が排除される場なのか。感情的な意見だけが垂れ流されるだけの場なのか。さうした場それ自體の存在は許されるのか。「今が楽しければそれでいい」式の發想が今のウェブを支へてゐるが、さう云ふ場で我々が議論してゐる積りでゐるとしたら、その議論は大變限定された議論でしかない訣だ。
平成二十一年五月十三日
理窟を言へば「鬱陶しい奴だ」。批判をすれば「あいつは鬱陶しい事をする」。「鬱陶しい事をしているんだから鬱陶しい事をされても文句を言うなよ」と言つて人格攻撃。アンチに人格攻撃されてゐても擁護すれば自分もアンチに因縁附けられて「鬱陶しい」からやらない。「私は鬱陶しがられるようなことはしません」と言つて威張る。「鬱陶しがられる事はしないようにしましょう」。「鬱陶しい事をする人はみんなで村八分にしましょう」。
「鬱陶しい」と云ふ言葉が餘りにも便利に使はれ過ぎてゐる。そして「鬱陶しい」と云ふ非難は誰も反論出來ない、感情的な罵倒であり、非道いレッテル貼りであるのだ。「鬱陶しい」とは排除以外に何も目的のない罵倒であり、「鬱陶しがられる事はしていません」とは自分が排除されるべきでない決定的な理由である。
――が、そこに人と人との關係は成立するのか。
ウェブでは、飛んでもなく輕く他人を見、飛んでもなく無害に自分を見せかける事が、極めて頻繁に行はれてゐる。それは非常にをかしな事だと私は思つてゐる。

平成二十一年五月十二日
高密度小池 / ネットブックではインターネットは出来ない
ネットブックは自宅で使うもんじゃない : 雑記帳 : der Gegenwart
ごめん、東芝のNB100、自宅で使つてる。
GV-MVP/RZぶら下げてAT-Xの番組を録畫するのに使つてゐる。値段が安く場所をとらない録畫用PCとしてネットブックは優秀。
平成二十一年五月十二日
わかつきめぐみに「月は東に日は西に」と云ふ作品があつて、主人公の茗が何うしても夜眠れなくて晝間非道い事になるエピソードがあるのだけれど、今の私の状況がまさにそれ。
ちなみにわかつきめぐみはタイトルを附けるのが非常に下手で、「月は東に日は西に」にしても「So What?」にしても非道いとしか言ひやうがない。けれども、何れも内容は十分讀めるものなので、讀むものがなくて困つてゐる子は何處からか探し出して讀むといいと思ふ。星雲賞を受賞した「So What?」は、まだ漫畫文庫で入手可能だと思ふ。比較的新しめの本は新刊で買へる筈。

平成二十一年五月十一日
庭に蛙が迷ひ込んできたらしく、ゲッゲッゲッとか鳴いてゐる。
平成二十一年五月十一日
http://homepage1.nifty.com/kazuf/renewal.html#book_1241794758
松岡先生がどこかで書かれていたのは、本を読んで理解するということは要約が作れることであって、そのような作業が重要なんだということ。――要約を作るとは正しく理解して纏めると云ふ事で、歪曲して自分に都合良く「書き手の言ひたい事」をでつち上げるのとは違ふ。
正しく讀み手の言つてゐる事を讀取り、咀嚼して自分なりに纏めるのが要約を作る事だが、その先に批評なり批判なりと云つた事がある。それを案外多くの人が解つてゐない。
平成二十一年五月十一日
福田恆存「世俗化に抗す」

……。が、私は語法でも文字遣でも、昔の通りにせよなどと言つてもゐないし、實行してもゐない。私は過去を基準とせよ、鑑とせよと言つてゐるのであつて、過去の通りにせよと言つてゐるのではありません。

私は……革命主義に反對します。革命主義と漸進主義との違ひは、一方が急激に、他方が漸進的にといふ程度の差にあるのではない。後者は飽くまで基準を過去に置くといふのに對して、前者はさうしないのみか、自分の基準によつて過去を否定するのであつて、それは基準そのものの否定になります。隨つて、兩者はAなる基準とBなる基準との對立ではなく、基準は必要だといふ考へ方と基準は廢棄すべしといふ考へ方との對立に基くものなのです。

それこそ國字問題に限らない、私逹の文化はすべてこの二者擇一の危機に直面してゐるのです。……。

平成二十一年五月十一日
紙と手書きの時代 - ziomの日記
要するに「手書きに拘らないと漢字アンチは何うにもならない」と云ふ話。
ところで、田村秀行『日本語力の磨き方』に第五章に、ドナルド・キーン氏ほどの日本文化研究者でも、かつては日本語で文章を書くことができなかったが、ということを紹介しましたが、とあるさうだが、「聲」に書いたキーン氏の原稿が正字正かなだつたと福田氏が何處かで書いてゐたやうな記憶がある。
平成二十一年五月十一日
http://mitsuhikokaneko.hp.infoseek.co.jp/
平成二十一年五月十一日
福田恆存『私の國語教室』第六章

……。

日本では言語學、國語學ばかりでなく、すべての社會科學が同樣の誤謬を犯してをります。西洋の思想や學問の受入れ時代がたまたま向うの反動期に相當してゐたためですが、その前提ぬきで、いきなりアンティテーゼの中にのめりこんでいく。觀念論の歴史をもたずに唯物論の中に立てこもり、尻馬にのつて、いや、それを成りたたせるために、逆に日本の歴史にはありもしなかつた觀念論をなんとかしてこしらへあげて攻撃する。ですから、その唯物論はただ攻撃的、破壊的であり、觀念論よりも觀念的、非生産的なものになつてしまふのです。……。

平成二十一年五月十一日
http://www.is.nagoya-u.ac.jp/lab/phil/iseda/works/pp/pp43.html

平成二十一年五月十日
城ヶ崎文化資料館發行(名著出版製作・發賣)の木村博編『柳田国男』は相模民俗学会關係の記念誌(實際には書籍)との事で、柳田の文章、郷土史研究家の人々の文章も收められてゐるが、後半は木村氏自身の文章で占められてゐる。
木村氏が「先生の文体」と題して柳田國男の文章についての隨想を書いてゐる。民俗學の研究家・研究者や郷土史の研究者は柳田の文章を讀んでゐても當り前だが、意外にも民俗學と餘り關係がないであらう人々が柳田の文章を讀んでゐる事がある。年老いた農家のご隠居さん高齡の仏教学者が柳田の愛讀者である事實があつて、木村氏はそれを知つて驚いたと言ふ。
そして木村氏は以下のやうに續けてゐる。

大体において、年配の方達は先生の文章の「味」がわかるらしく、そこに惹かれるらしいのだが、若い人達には理解しにくくなっているらしい。私自身も、先生の文章は立派だとは思うものの、容易に理解できないことがある。

現代風の新聞記事やルポルタージュ、さらに所謂論文調のものを読みつけているものにとって、先生の文章は次から次へと話題が移ってゆくので、論旨をとらえにくいのではないかと思う。そういう意味では「甚だ難解」なのであろう。しかしながら、或る青年から「柳田国男って人は文章が下手ですね」といわれたときは、あいた口がふさがらなかった。反撥する気にもならなかった。これが時代の差なのか、とまず思った。高校時代に文学をやったという青年であった。

私は「文章の上手・下手」よりも、普通の学者の書くものを、二度三度と読み返すことはまずないが、柳田国男の文章は何度でも読み返したいと思う。


平成二十一年五月九日
昨日東京古書會館の古書展で十五年以上探してゐた本を見附けて買つて來た。中村勝範『正論自由 国民に訴える』、中村勝範・永久寿夫『正論自由 聽け!!赤い国々の呻き声』。それ以降の卷はBOOK OFFで見附けて大體全部揃へられてゐたが、最初の二册だけなかつた。
ほかにスティーヴン・スペンダーの『エリオット伝』とT・S・エリオット『F・H・ブラッドリーの哲学における認識と経験』、郡司勝義『小林秀雄の思ひ出』も買つた。

平成二十一年五月八日
HnU - ハルノウレイ

会社の自販機にリボンシトロンが売ってたんですよ

トップ絵は擬人化されたリボンシトロンが会社の自販機に何かを売ってるところらしい。

平成二十一年五月七日
日本語学史
專門家が書いただけに、さすがに要領良く纏まつてゐると思つた。
平成二十一年五月七日
アクロニムと漢字熟語と同音異義語 - ziomの日記
平成二十一年五月七日
それにしても俺のとてもわかりにくいぐねぐねとした文章、よくみんな讀んで呉れるなあと感心する。何うも有難う。誤字の指摘に就いては一往全部訂正した積り。
平成二十一年五月七日
タイムボカン オハヨー出版エースファイブコミックス タツノコプロ 1976年発行 ムスビー
商品売価(送料・税込)\14,000
何だこの値段。持つてゐるが面白くないぞこれ。
平成二十一年五月七日
9時45分頃、NHKの視聽率が一部で跳ね上がると云ふ。今夜はサーヴィス囘。

平成二十一年五月六日
なんで消費者が欲しがつてゐるものを生産者は供給しないんだらうな。
平成二十一年五月六日
今の時代、IT技術のおかげで自由に漢字が使へるやうになつた事は、我々が再び漢字の力を有效に使ひ得る環境を得た、と云ふ事だ。漢字がPCや携帶電話で容易に扱へるやうになつたのは、漢字リテラシーなるものの空洞化でも脆弱化でもあり得ない――話は逆だ。我々は漢字を最大限に生かすチャンスを得たのである。
日本語への旅: 漢字と日本語表記(その2)
「手で書けないからダメ」と言つてゐる人々は、「手で書けなければならない時代」が過ぎ去り、今の「手で書く機會が減つた」時代の到來を危惧してゐる――なぜなら、漢字を罵倒する理由が一つ減つてしまふからである。「書けない」と云ふのを理由に尤もらしく漢字を攻撃して好い氣になつてゐた自稱「日本語通」の、その實「日本語アンチ」の人間は、今、IT技術によつて日本語がより自由に使へるやうになつてしまつた事を「大變困つた事だ」と本氣で思つてゐる。彼らは日本語を復活させ、漢字を復活させたIT技術を逆恨みしてゐる。
けれども、IT技術の進歩は(もちろん、經濟的な理由に基づいてであるが)人間の生活を便利にしようとして實現しただけの事だ。そして、そこでは人間の現にある生活をありのまゝに受容れて、理念とか主義とかとは關係なく、ただ全てを合理的にしようとする努力だけが行はれた。漢字を排斥するのは所詮、理念・主義の産物に過ぎない。漢字を使ふ事は自然な事であり、技術がそれを便利に出來るやうにするのも自然な事であつた。それを「漢字リテラシー」が何う斯うと適當な理窟を附けて罵倒するのは、矢張り理念・主義によるものだと言ふ事が出來る。
平成二十一年五月六日
漢字の「難しさ」を殊更強調する人々は、なぜか英語やフランス語を「とてつもなく簡單」だと言張る。けれども、WordにしてもOutlookにしても、スペルチェッカが附いてゐる現實を彼らは何う解釋するのか。
要は、英語だらうがフランス語だらうが、綴りを正確に綴るのは難しい、と云ふ事だ。アルファベット26文字は簡單だ――だが、それらの文字を適切に組合せて正しい綴りの語を作るのは、難しい事だ。その難しさと、漢字の難しさとを比較すべきなのであつて、語を構成するアルファベットと、語を表現する漢字とを、直接比較して「漢字は難しい」と結論するのは不當な比較に基いた不當な結論だと言つて良い。
日本語への旅の筆者は、さうした不當な比較をして平然としてゐるのだが、これは意圖的な行爲なら詐欺的であり、意圖しないものであるならば思慮の足らない勘違ひである。何れにせよ、「漢字は難しい」と云ふのは間違つた認識であり、その間違つた認識に基く獨斷を垂れ流してゐるのは社會的に有害な事である。
平成二十一年五月六日
漢字が複數の讀みを持つ事を、日本語への旅の筆者は、日本語における漢字の面妖なところだと言つて罵る。ところが、それを面妖だと解釋する事こそが、既に客觀的な觀察の域を逸脱してゐるのだ。
實は、漢字に複數の讀み方が「ある」のは當り前で、それは日本語と云ふ言語の當り前の現實であるに過ぎない。ところが、さうした當り前の事實に對して、殊さら面妖と言つてゐるのが、多くの「日本語マニア」=「日本語アンチ」の「常識的な態度」と云ふ奴なのだ。
「日本語マニア」=「日本語アンチ」は、日本語を論じながら、實は日本語に對して極めて強い憎惡を抱いてゐて、何とかして「難しい日本語」を破壞しなければならない、と心から信じてゐる。その爲に、「難しい日本語」を「簡單な日本語」に改造してしまひたいと思つて必死になつて「日本語の面妖なところ」「コッケイなところ」を探し出しては嘲笑ひ、侮辱を加へて、人々の日本語に對する印章を惡くしようと劃策してゐる。けれども、彼らの「日本語は難しい」=「日本語は惡い言語である」と云ふ判斷は、思ひ込みであり、盲信にすぎない。けれども、良く知られてゐるやうに、アンチの思ひ込みは、大變に強烈なものである一方、アンチ自身には絶對に自覺されない。彼らは自分の思ひ込みは「常識」であり「當り前」のものであると本氣で信じ込み、その「信じてゐる」だけであると云ふ事實を認識しない。そして、獨斷的な餘りに獨斷的な「日本語は惡い」と云ふ結論を正當化する爲に、彼らは「客觀的な證據」を拾ひ集め、理窟を捏ねる。けれども、彼らは「日本語は本當に惡いのか」と自分の下した結論を反省する事が出來ない。反省する能力それ自體を失つてゐるアンチだからだ。そして實際、何んな反論が來ても、彼らアンチは「信者というやつはこれだから愚かだ」と吐いて捨てるやうに言つて、反對者を侮蔑し、嘲笑を浴びせ、排斥して――一方、自分は「仲間」を集める爲に印象操作をし續ける。アンチは大變困つた人種であり、個人をターゲットに活動しても迷惑なのに、日本に於ては「日本語アンチ」は日本語と云ふ多くの人間が用ゐてゐるものをターゲットに定めて活動し、既に「實績」を擧げてしまつてゐるのだから本當に性質が惡い。国語改革は「實現」し、「日本語アンチ」の活動は既に一つの「成果」を擧げてしまつてゐる。結果として日本語は目茶苦茶になり、それによつて却つてIT技術への對應が遲れる事となつてしまつてゐるのだが(JISの文字セットが目茶苦茶な事になつて、今に至るまで混亂が續いてゐるのは、國字改革で既存の大系的な漢字が無秩序な漢字の寄集めになつてしまつた事が最大の原因だ)、「日本語アンチ」はさうした自分逹の「成果」が引續く日本語の混亂を惹起してゐる事實を認めず、驚くべき事に「日本語本來の性質」が混亂を生じさせてゐるのだと再び宣傳してゐるのである。出たら目にも程があるが、「日本語アンチ」と言ふべき人々には自分が混亂の原因だ、と云ふ自覺がない。アンチには冷靜かつ客觀的に物事を見る目が備はつてゐないからだが、斯うしたをかしな人間が日本では「主流」なのである。
平成二十一年五月六日
しかし「小畑 優」なら「小畑 優」なる名前を「正確に讀めなければならない」とは、或は「一夜かぎりの出会い」を「正しく讀めなければならない」とは、「日本語アンチ」の連中は、恐ろしいまでに強烈な「正しさへの志向」を持つてゐる言はざるを得ない。彼らは、何時如何なる時も例外なしに「正しくなければならない」のだ。
何と窮屈な發想だらう。或は、何と非人間的な發想だらう。
けれども、アンチの發想とはさう云ふものなのである。アンチは何時でも他人に「正しくある事」を要求する。そして、他人が「正しくある事が無理である」となると途端に罵聲を浴びせかけ、侮辱を加へ――そして「正しさ」それ自體を否定してしまふ。「誰も實現できない正しさなんてものには價値なんてないんだよ」――結局のところ、「あの葡萄は酸っぱいのだ」と云つたイソップの狐の狡さと同じ狡さを、アンチの連中は持つてゐるだけなのだが、さうした狡さを、狐が自覺しなかつたからあのお話は滑稽なのであり、アンチが自覺しないから彼らの行動は迷惑なのである。
平成二十一年五月六日
少くとも、「日本語アンチ」の連中は、既成の「難しい日本語」を「難しい」まゝ保存する事を正當化する技術も論理も、端から拒絶する。日本語への旅の筆者氏が、IT技術を憎惡し、ふりがなを憎惡するのは、「難しい日本語」をそのまゝ認める事に繋がつてしまふからである。筆者氏は、日本語が嫌ひなのだ。
――しかし、アンチの人間は、常に「自分こそ本當に好きなのである」と云ふ論法を持出して、「信者」を誹謗する。アンチは常に、「信者は本當は好きではないのだ」と極附けて、「證明」し、非難を浴びせる。けれども、誰が何う見ても、「好きでも何でもない」からこそアンチはアンチをやつてゐるのである。ただ、反論されたから、反論に反論し、反論してきた「信者」を叩く爲に、アンチは尤もらしく自分を正當化し、敵である「信者」の人間的缺陷を言立てる。
相手に缺陷があらうがなからうが、ありのまゝの相手を受容れる事が「愛する」事だ。ところが、「愛するからこそ、私は日本語をより良く改造したいのだ」と「日本語アンチ」は決つて言ふ。そして、「ありのまゝの日本語」を保存しようとする行爲を「日本語信者が日本語を好きでない決定的な證據」と言張り、「日本語信者」に對する憎惡の心をあらはにする。しかし、「だからこそ」のやうな言ひ方は、惡い意味でレトリックであり、詭辯である。そのやうな論理展開があり得ない時、無理に話を尤もらしく見せかける爲に、「こそ」と言つて強引に話を繋げてゐるのである。それを「アンチ」は當り前のやうに言つて見せる。が、彼らアンチは自分逹の「論法」が説得力を缺くものである事實を認識してゐる。だからこそ(笑)、彼らアンチは「信者」に對する憎惡を増幅させ、より激しく罵倒を繰返し、相手に嫌な印象を持つやう宣傳工作を熱心にし始める。「日本語アンチ」に限らない。アンチと呼ばれる人種一般に共通した性質である。(説得力を缺く、だから反省して默る、と言ふのなら解る。ところがアンチだから、説得力を缺く、だからこそ餘計に居丈高になる、と云ふ目茶な話になる訣だ)
そして、日本語への旅の筆者氏にも見られるが、彼らには切迫した危機感がない。常に彼らアンチ人種は餘裕ぶつこいた態度を見せびらかす。彼らの文體は大體同じである。常に反對者を見下し、「敵の敵」たる傍觀者に媚びる言ひ方をする。彼らは「憎惡」と云ふ行動原理に從つてゐるから、言つてゐる事を良く讀めば誰でもその惡意は看て取れる。ところが、その「惡意を看て取る」と云ふ他人の態度を、アンチは大變嫌ふし、「嫌ふと嘲る」と云ふのはアンチのパターン化された行動である。彼らアンチは、反對者を憎むが、その憎惡を「餘裕を見せ附ける」形で示す。彼らが叮嚀語を好んで用ゐるのも、結局は「私には餘裕があるんですよ」と言ふ爲だが――しかし、斯うした態度の嫌らしさを、我々が認識し得ないとしたら、我々の感性は相當鈍つてゐるのである。さうした鈍つた感性に基づいて、今の日本人は、日本語の問題にしてもアンチの問題にしても、適當な判斷を安易に下してしまつてゐる、と、私は思つてゐる。

平成二十一年五月五日
日本語への旅: 漢字とローマ字

西欧諸語は「声」が優位に立つ言語である。

これに対して、日本語は「文字」が優位に立つ言語である。

だから、日本語の世界では弁論や雄弁が発達しないのだ。

結論は兔も角――この種の「比較」は良く見るけれども、本當だらうかと何時も疑問に思ふ。

西欧諸語の世界では古くから話しことば中心主義の観念が根強い。

言語の本質は音声にあり、書きことばは話しことばにつき従うしもべにすぎない、という考え方ですね。

ルソーは「言語は話されるために作られている」と言っている。

名前は忘れたけれど言語学のえらい先生だって「文字言語に存在理由があるとすれば、それはことばを再現することにすぎない」と断じている。そして、「文字言語はことばを見る目を覆う」と苦々しく吐き捨てる。

一方、日本語の世界では伝統的に文字を尊重する傾向が強かった。

というよりも、ことばに関して文字と声を対比する、という発想そのものがあまりなかった。

ましてや、声を文字の上に置くという考え方はまるでなかった。

どうしてこのような違いが生まれたのだろう?

私はそれぞれが用いている文字の違いに起因しているのではないか、と考えている。

漢字とローマ字の視覚的効果の違いである。

漢字は見るからに威厳があって、頼りになりそうだ。

それに比べると、ローマ字は何となくおもちゃっぽい感じがしませんか。

比較は兔も角――「果して書き言葉は話し言葉の影である」と云ふ西歐の發想それ自體、眞實なのだらうか」と私は何時も思う。

西欧諸語で音声中心主義が生まれ、漢字圏で文字偏重主義が生まれたのも無理はない。

實は、漢字圏と一括りに言へるか何うか、甚だ疑問がある。漢字専用の中國語と、漢字を音讀みしかしない韓國語、そして音讀みと訓讀みとを用ゐる日本語とで、同じ語圏と言つてしまへるか何うか。或は、まとめて漢字圈と言ふにしても、だからと言つて一括りで傾向を言つてしまつて良いものかどうか。
もつとも、語圏の特徴と云ふ域を超えて、書き言葉と話し言葉との關係を言つた方がより正しいやうに思ふ。
ローマ字を使ふ西歐諸國と言ふけれども、アルファベットを用ゐる諸國がアルファベットを日本語のローマ字的に用ゐてゐる國は餘りない。イタリア語が割と日本語のローマ字つぽく表音的に表記の規則を作つてゐるけれども、嚴密に「發音そのまゝ」である訣ではない。フランス語は、表記から發音へは割と規則的に戻せるけれども、發音をそのまゝ表記すると云ふ事はない。英語における發音と表記の乖離は明白だ。多くの人が勘違ひしてゐるけれども、表音文字であるアルファベットを、表音的な表記で使つてゐる言語は、先づ、ない。多くの言語でアルファベットを用ゐてゐるけれども、表記には基本的に綴りと云ふものがある。(但し、後から表記にアルファベットを採用した後進國の言語は別)そして、例へば日本人は英語を語の綴りとその讀み方を諳記する事から學習し始める。
日本語の場合、もともと和語の語彙だけで話が行はれてゐた事は推測されるけれども、そこに漢語が入つて來た事の影響は大變に大きい。和語だけでどこまで難しい會話が行はれてゐたかは今となつては判らないが、漢語が入つて來て以來、日本では複雜で抽象的な概念はほぼ全て漢語で表現されてゐる。和語の語彙それ自體の發達は漢語が入つて來た時點でストップしてをり、以後は漢語をより同化する事によつて日本語は複雜な概念を操る道具として發達して來たと言つて良い。その過程で、和語それ自體にも漢語の文字を宛てる試みが行はれ、「漢字を音讀みする」形で和語の語彙の意味的な擴張と精密化を行つてゐる。それが良かつたか惡かつたかは、良く判斷が示されてゐるけれども、言つても意味がない。現にある日本語は、さうした歴史的な事實の積重ねの上に成立つてゐる、それだけの事だ。さうした事實に我慢ならない人が、日本語の改造を唱へる訣だが、性急な改造が改良と言へるか何うかには疑問がある。寧ろ、日本語の發達の歴史を客觀的に把握して、そこにおける發達の必然性を見出す努力をするのが先決だらう。
が、何れにしても、斯うした考察を通して、發音と表記と云ふ二つの具體的な存在を我々は意識して來たに過ぎない。そこで「發音か、表記か」と言つた目に見えるものを基準にした單純な議論が行はれてきた訣だが、そもそもさうした議論が、言語と云ふ人間が意識して用ゐる「概念的道具」を考へる事として不十分だつたと反省する事が必要である。
辭書には「犬」や「table」と云ふ語が載せられてゐる。ところが、我々はさうした語を單純に使はない。「犬が」何うしたとか、何かがあるのは「on the table」だとか、現實的にはさう云ふ言ひ方をする。英語ではIがmyやmeに變化して格を示すが、日本語だと「わたし」と云ふ體言は常に「は」「の」「へ」「を」「と」その他の助詞を伴ふ。斯うした實際使用される言語から抽象的に取出されたものが個別の語であるが、我々はさうした語を意識して用ゐると言ふより、語を格に應じて變化させたり語に格助詞を附けたりした結果を覺えてそれを自然に用ゐてゐると考へた方が良い。
發音にしても表記にしても、さうした現實に覺えて用ゐてゐる言語を、耳に聞える・目に見える形にして、表現した結果に過ぎない。だから、發音にしても表記にしても、或は語の概念にしても、結局のところ、現實の言語の影でしかない。さう考へると、發音が重視されるとか、表記が重視されるとか、さう云ふ事は言つても餘り意味がないと云ふ事になる。即ち、發音と表記とが直接相互に關係してゐる、と云ふ事はなく、どちらも言語の影として並立してゐるに過ぎない訣だ。
ただ、現實に存在する發音と表記とは、意識され易いものだから、意識に基いて相互に影響を及ぼす。それを從來、言語學では極端に大袈裟に捉へてゐたのだが、もつと限定的なものと考へた方が良いのでないか。
平成二十一年五月五日
日本語への旅: 漢字と日本語表記

日本列島の人々は、漢字伝来以来、不便だ不便だとぐちをこぼしながらも漢字を使い続けてきた。

漢字が日本語表記になじまないことが分かっていながら、ベトナムや韓国・朝鮮のように漢字を排除することはなかった。

漢字廃止論もないではなかったが、結局それが現実化することなく今日までやってきた。

なぜだろう?

どこが分かれ道になったのだろう?

既に述べた通り、日本人は「不便だ」と不平を述べながらも、漢字を便利に使つて來たのである。「漢字は日本語に馴染まないでゐる」と意識としてゐながら、その實、日本語は漢字ナシではやつて行けないやうに發達してしまつてゐる。と言ふより、漢字を採入れる過程で、日本語は日本語の獨特の性質を強化する方向で進化する事となつた。英語圈でI think ...と言ふけれども、日本語でも古代は格助詞なしに我思ふと言つた。それが現代の日本語では私は思ふと必ず格助詞を用ゐて言ふ。もちろん、昔だつて我は思ふだの春はあけぼのだのと言つた訣で、助詞を用ゐたけれども、用ゐない言ひ方も普通にした。ところが今の日本語は、何んな場合でも概念語に格を示す助辭を附けて言ふ。「私思ふの」は、保守的な女子の言葉に過ぎない。
概念を示す「詞」と呼ばれる部類の語に、格やら何やらの文法上の機能を示す「辭」と呼ばれる部類の語をくつつけて、文章を作る、と云ふのは、今の普通の日本語のあり方だ。これは、漢語を日本語に取込む過程で、概念を表す漢語をそのまゝ利用する都合上、漢語の語形を變化させないと云ふ性質を認めて、語に助辭を附すやり方を採用して、それを一般化させたものだ。
現在、漢字の使用頻度が減つて、カタカナ語を使ふ事が多くなつてゐると言ふ。が、カタカナ語を使ふ時、我々は常に漢語を當嵌めて來た位置にカタカナ語を當嵌めて使ふ。動詞ならば「コミュニケートする」が「正しい」筈だけれども、別に「コミュニケーションする」と言つたつて日本人の間では大して問題にならない。と言ふより、日本語だと絶對に「コミュニケートする。」であつて「コミュニケート。」ではない。日本人に於て、概念語は所詮、詞として認識されるのであつて、辭を附けないと日本語らしくならない。が、逆に、辭を附けて言はれれば、取敢ず何んな言語の語でも概念語として日本語に取込めてしまふ。saoudoajasjagなる語があるとして(そんなもの現實には無い)、「saoudoajasjagは」と言へば、取敢ず日本語の中に「saoudoajasjag」なる「語」(現實には存在しないにしても)は取込めてしまふ。これは、西歐の言語學で言はれてゐるけれども、概念語は記號的に概念を示すものであり、記號として幾らでも交換可能である、と云ふ性質に基いた事實にほかならない。が、重要なのは、さうした記號的に用ゐられる概念語を、我々日本人は、辭を用ゐて日本語に取込める、と云ふ事――それは日本語の本質が、記號的な概念語の語彙にあるのではなく、概念語に文法的な機能を示す辭をくつ附けて文章を表現すると云ふ文法それ自體にある事を意味する。
そもそも、西歐の言語學でも指摘されてゐる事だが、言語において、語彙は容易に變化するが、文法は案外變化しない。日本語の場合でも、漢語の語彙がより少く用ゐられるやうになり、カタカナ語の語彙がより多く用ゐられるやうになつても、文法は本質的に何も變つてゐない。となると、漢語の多寡を單純に日本語の消長と結び附けて言ふ事は、無意味と云ふ事になる。漢字が消滅しても、「saoudoajasjag」何うの斯うのと云つたやうに、てにをはを使つて文章を組立てる方式は、日本語が日本語である限りなくならないからだ。
そして、重要なのは、さうしたてにをはが、日本語では歴史上、實によく變化してゐると云ふ事と同時に、常にそこには語意識が働いて、發音から乖離した書き方をする傾向が極めて強いと云ふ事だ。「は」「へ」「を」が、「現代仮名遣」においても依然として辭と云ふを示す爲に原形を保つてゐる事は、もつと注意されて良い。これを單なる例外と看做す事は誤だ。寧ろ、斯うした強烈な語意識が保たれる語群がある事實を、我々ははつきり日本語の表記の特徴として自覺し、認め、積極的に活用しなければならない。辭とは、日本語に於ける文法上の機能を示す文の部分である訣だが、「私は」の「は」のやうな格助詞の類と共に、「行かう」の「かう」のやうな用言の活用語尾と助動詞の類を指す。用言の方では活用語尾と云ふ形で概念語と半分融合してしまつて、それで語が「活用」するやうに見える現實があるけれども、それが文法上の機能を示してゐる事には變りがない。これらの辭こそが日本語を日本語らしくしてゐる重要な語である訣だが、辭は常に假名で表記される。そして、「現代仮名遣」では目茶苦茶になつてしまつたが、從來の假名遣ではきちんと語意識に基いて發音とは異る「綴り」のやうな規則的な書き方が存在した。これに對して、概念を示す詞と呼ばれる語は、漢字で表記される漢語(音讀み)や和語(訓讀み)であつたし、或はカタカナで表記される外來語である。大體、概念語は、辭で用ゐられるかなとは異る種類の字を使ふのが普通で、それによつて讀み手に概念を素早く傳達する事が出來るやうになつてゐる。詞と辭とで用ゐる字を違へる事は、歴史的には漢字のみで表記する漢文に訓讀の爲のてにをはを附する作業から發生したものと言へようが、概念語と文法上の機能を示す語とを明確に分離する方向に日本語の表記が發達する結果に結び附いた。

日本語の表記システムが世界でもっとも複雑怪奇で孤立したものであることなどあまり意識することもない。

日本語の表記システムは、世界中の言語の中で、恐ろしく單純明快であると言つた方が正確なのだ。文法上の機能を示す辭は常に假名、概念語は大體假名以外、と、極めて明快に用字は分離されてゐる(もちろん、「假名以外」と言つても、假名で表記された語を絶對に排除すると言つたものではない。が、少くとも概念が判り易く傳はるやうな形で表現される事が、概念語である日本語の詞では要求される。「ほう助」や「ら致」のやうな書き方が嫌はれる所以)。
一方、漢字は表意文字と呼ばれている(私はこの表現も正しくないと思っている)。と言はれてゐるけれども、實際、漢字は概念語それ自體、或は概念語の一部を構成する部品として捉へた方が良い。さう云ふ意味では、正確には表語文字と呼ぶべきだらう。もちろん、文字であるからには、發音をも示すが、我々が見る時には發音を示す性質よりも語を示す性質を重視する、と云ふだけの事だ。(漢字はつまり、音声とは独立して機能する文字なのだ。と云ふ指摘は誤。だから、語に據つて發音も定まる。日本語における漢字は読めない文字だ、「小畑 優」を讀めるか、と云ふ指摘に對しては、具體的な個人がゐる限り、その「小畑 優」の讀みは定まる、と言ふ事が出來る。困ったことに、その正解はご本人にしかわからない。と言つてゐるが、本人が判り、周邊の人間が判るならば、何も困らない。ただ「讀み辛い」と云ふだけの話であり、「讀めない」と云ふのは認識・解釋の誤。ローマ字圏ならこんな混乱はないだろうし、中国語でも漢字の発音は一義的に定まるから迷いはないはずだ。と云ふ主張は、英語と米語で發音の違ひがある事實の指摘だけで論破が完了する)
然るに、英語でもフランス語でも、表記と云ふものは基本的に、語を示すものである。發音を示すものではない。ローマ字の優位を言ふ人々が必ず無視する事だが、我々がローマ字圏の言語を習得する時、常に障礙となるのは、結局のところ語を諳記しなければならない、と云ふ事實である。我々は英語でもフランス語でも單語を諳記する。最うこれは何うしやうもない。日本語の語彙から類推で英語の語彙を取出す、等と言つた事は絶對に出來ない。英語の語彙なら英語の語彙が「ある」と認めて、丸諳記しなければならない。勿論、一度、ヨーロッパの一つの言語をマスターしたなら、そこから次の言語に移つて、前の言語の知識を應用する事は、ヨーロッパの中の言語の間でならば、それなりに出來なくはない。が、基本的に、言語が異れば、その中の語彙は大きく異る。我々は言語を習得する際、何うしても語を習得しなければならない。その時、我々は單語の綴りを覺えなければ、單語を書けないのである。ローマ字ならば簡單と言ふ人々は、languageでもbilingualでも、studyでもwomenでも、簡單だと言へるだらうか。イタリア語だつて――そもそもイタリア語だつて、綴りがない訣ではない。或は、an appleのaの讀みが「同じ」だとローマ字主義者の人は言ふだらうか。
それどころではない。專門用語となると、英語でもドイツ語でも、容易には書けない。「顰蹙を買ふ」を日本語への旅: 漢字と日本語表記(その2)の筆者は手書きで書ける人は少ないと言ふが、しかし、覺えてゐれば書ける。が、アルファベット二十六文字しかない英語の單語を、我々日本人はしよつちゆう間違へるのである(と言ふより、英語圈のネイティヴですらしよつちゆう間違へる。この事はインターネットの普及で多くの日本人に普通に知られるやうになつた)。
一方、英語に限らず、その他のアルファベットを用ゐる言語では、綴りの難しさとともに、略語の難しさと云ふ事が問題になる。「DOPの取り組みの一環として、ITUでは、DOIというICTについての指標を開発している。」等と言つても、すぐに解る人はあんまりゐないだらう(Wikipediaの「国際電気通信連合」を參照の事)。漢字の場合、或程度略しても、漢字の意味から何となくぼんやりとした概念は思ひ浮べられる。ところが、アルファベットの略語だと、これは最う知つてゐないと何うにもならない。
鈴木孝夫は「漢字のあまり知られていない特性について」で、hydrogenですら、初めて見たイギリス人やアメリカ人は、その意味を察することも出来ない筈だと指摘してゐる。もちろん、一度意味を知れば覺えるし、教養として歐米の人々は知つてゐる。けれども、知らない人は類推で意味を考へる事すらできない。或は。

もっと沢山面白い例があります。例えばアメリカの悪名高きペンタゴンという場所があります。国防総省があって、Pentagonと書く。これは言葉としてはどういう意味か。それはペンタというのはギリシャ語で五つということで、ゴンというのはゴニアーの崩れたもので、角ということですから、ペンタゴンとは五角です。五角というのは我々日本人には五つの角と読めるのですが、ペンタゴンは読替えができないのです。こっちのほうが分が悪い。つまり言葉の内部が素人に覗けるか覗けないかが、素人であっても難しいことが解るようになるかどうかの境目です。だから結論を言いますと、漢字が学問を一部の特権階級のものにして庶民から遠ざけたなどと言う者もあるが、私は逆だと思う。漢字があったために庶民が勉強してしまったから、日本に大学が九百もできて困っているのです。……。

もうひとつ英語の例を挙げます。Ventilator――ヴェンチレーターと日本語にもなっている、羽根がぐるぐる回っていて、風を送ったり出したりする、それをヴェンチレーターと言います。普通のアメリカ人やイギリス人は、これがヴェンチレーターだということは知っているのですが、言葉としてはどういう意味か解らない。日本人は、例えば送風機といいますとカゼをオクる機械なんだ、だから風が出てこなければ故障だと文句が言える。ところが英国ではヴェンチレーターとはああいうものだと知っていても、ヴェンティというのはラテン語のヴェントスであって英語のウインドに当るのだということが解るのは、三十の大学を出た一部少数者に限る。……。

いや、效能の話をしなくてもいい。鈴木氏は「外来語をめぐって」で斯う述べてゐる。

難しい漢字は特別に教育を受けなければ読むことも書くこともできないが、仮名ならば誰にでも分かると考えられたのである。たしかに日本語の仮名文字は良くできた音声記号であるため、読み書きに困難は殆どないが、文字が読める書けるということは必ずしも意味が分かるということを保証しない点が忘れられていた。そこで漢字を悪玉として嫌う思想と、日本人の新し物好きの国民性があいまって仮名書き外来語の大洪水が起こり、結果は平易な国語どころか相当の教養ある人々にさえ理解できない日本語が溢れる始末となったのである。ところが一見やさしく見える仮名書きの外来語は見るからに難しい漢字語に比べて本当は遥かにタチの悪い性質を持っているのだ。それは分からない場合に調べる手段がないという点である。知識のない人にとって仮名書き外来語は読むことはできても、どの国の言葉だか見当がつかない。たとえ何語だと分かっても、言語の綴りを仮名書きから割出すことは至難の業である。シビルからcivilを見出すことは誰にでもできるわけでなく、ボールがballを指すのか、それともbowlのことなのかは外国語の専門家でないと分からない。

IT技術だけが今日の日本語表記を可能にしている、と言ったのはこういう意味である。と言ひ、PCのかな漢字變換プログラムが漢字を一般人に「使はせてゐる」と云ふ批判は、しかし、知識こそが語の表記を可能にするものである、と云ふ常識を忘れてゐる。そして、知識があつても、言語の場合、發音を語に還元する能力は、相當の訓練を要する。鈴木氏は外來語を論じてゐるから書き言葉としての「ボール」から原語の綴りに還元する話をしてゐるのだが――日本人がballとbowlのネイティヴの發音を聞いて、正確に書き分けを出來るかと言つたら、結構難しいのでないか。或は、別にボールに限らない、それ以外の語でも――我々日本人にとつては、英語のヒアリングのテストが難しいものに感じられるものだ。しかし、ネイティヴのアメリカ人、イギリス人が、ヒアリングのテストで滿點をとる(事がある)からと言つて、英語の綴りが簡單であると言ふ事はできない。そして、日本語に於ける漢字は、英語の單語の綴りに相當すると考へるのが妥當なのだ。
しかし、それでも「英語は簡單」「漢字は難しい」と、單純に言ふ人は絶えない。が、日本人が學習する「基礎語彙何千語の英語」と、一般的な語彙の日本語とを比較して「英語は簡單」のやうな言ひ方をし、「やつぱりローマ字は有利だ」等と言つたら、相當の短絡思考だ。が、日本語への旅の人はその種の思考の仕方をしてゐるやうにしか私には思へない。
平成二十一年五月五日
それにしても、技術の發達によつて容易に漢字を使へるやうになつた事實を、漢字リテラシーの脆弱化、空洞化だと解釋して、殊さら意義を小さく見せかけようとする態度にはあきれる。

そして、深刻なのはこうした漢字リテラシーの脆弱化、空洞化がIT技術に覆われて表面化しない、多くの人々の意識に上らない、ということだ。

手書きとワープロ書きとでは書く爲のメソッドが違ふに過ぎない。重要なのは、書かれた文章を讀む事・讀める事だ。
私は思ふのだが、「手で書く」と云ふ行爲に幻想を抱いてゐる人はちよつと多過ぎるのでないか。なぜそんなに「手で書く」事に拘らなければならないのだらうか。「顰蹙を買ふ」に吝嗇を附けてゐるけれども、辭書を引けば誰でも「顰蹙」は書ける。その「辭書を引く」手間を、かな漢字變換プログラムは人間に代つてやつて呉れてゐるだけだ。

わたしたちが表記における主体性を喪失したとき、その書きことばの未来は暗い。

これ等、主体性を喪失したとき未来は暗い。と云ふ定型的な一般論で、何の意味もない――と言ふより、この程度の文句は、現代の科學や技術一般を否定し、現代文明を批判するのに精々御立派さうに見えるスローガンとして使へるくらゐだ。だが、「表記」と限定した時、如何にももつともらしく人々の目に映る。恐るべきインパクト!と云ふ奴だ。だが、それがトリックでしかない事に、我々は氣附かなければならない。
万人が手書きをする時代 - ziomの日記
平成二十一年五月五日
と言ふか、手書きで「書けない」としてもそれはただ知識がないだけだろ。「憂鬱」なんかは茲數年、急激に手書きで書ける人が増えた。これは斷定出來る。鬱の人が増えた事もあるけれども、涼宮ハルヒの憂鬱の影響は非常に大きいと思ふ。斯う云ふ事があると、「顰蹙」ですら何かのきつかけで一般人が皆書けるやうにならないとも限らない。
平成二十一年五月五日
一方で、滑稽な話だが、漢字廢止論者が滑稽と云ふ語を大變好んだ、と云ふ「事實」がある。漢字廢止論者は漢字が嫌ひだから「コッケイ」とカタカナで書く訣だが、そこまでして漢語を使ひたいのなら素直に漢字で書けば良いのにと思つた。大久保忠利や、或は共産主義者の人々がよく「コッケイ」「コッケイ」と書いてゐたものである。
顰蹙を買ふだつて、さうさう言換へる事ができない「インパクト」のある表現で、漢語にはかう云ふ強い表現・印象的な表現がある。和語のやはらかさを強調する人も、漢語の力強さを否定する事はできないのであつて、日本語が和語と漢語の兩輪でまはつてゐる限り、和文脈とともに漢文脈の表現は存在し續ける筈だし、必要とされ續ける筈である。或は、さうした或種の表現への嗜好がなくなつた時、人間の言語感覺は消失してゐる筈だから、日本語が何う斯うと言つても仕方のない段階に逹してゐる事だらう。が、それでは困るのである。
平成二十一年五月五日
忘却の旋律 @ AT-X。白夜岬篇終了。このアニメを見てゐる人の中でどれだけの人が切實に解つてゐるのか疑問に思つた。そもそもこのアニメを作つてゐる人がどれだけ解つてゐるのかもよくわからない。
平成二十一年五月五日
「信者」「ビリーバー」と言つて人を非難する行爲について。それは「間違つた事を正しいと勘違ひして信じてゐる」事への非難か。實は、正しい事を正しいと正しく認識して信じてゐる事へも人は非難を浴びせる。正しい事を知る事は、決して幸福とは結び附かない。だから人々は、正しさの主張に、幸福と云ふ觀點から、批判を試みる。
ところで我々は、幸福について正しい幸福・誤つた幸福を判定できるか。それが出來ないと判斷しない限り、幸福の觀點からの正しさへの非難=「信者」批判があり得る事は肯定出來ない。

平成二十一年五月四日
カフカの『変身』は無職のひきこもりの御話。
虹裏の「」は體驗に基いて語るから説得力があり過ぎる。
平成二十一年五月四日
TXの事前の發表から放送時刻が變更になつてゐて、夏のあらしと咲の録畫に失敗した人續出の模樣。
平成二十一年五月四日
BS11でうたわれるもの放送中。月曜日〜金曜日の18:00〜18:30。今さつき第一話がオンエアされた。すげえ畫質いいと評判。

平成二十一年五月三日
毒吐きネットマナーPlus
例によつて中身讀んでない。
平成二十一年五月三日
「護憲派」の人つて第九條しか見えないから第一條を守る氣さらさらないよね。何處が護憲派なんだ。

平成二十一年五月二日
一日は缺番。
平成二十一年五月二日
飯島宗享編『世界の思想家15 キルケゴール』(平凡社)「思想と生涯 実存思想の源泉キルケゴール」

しかし、ひるがえって考えれば、キルケゴールという思想家は己の思想をその生きた意義において伝達するためにあらゆる考慮を払い、読者の位相のそれぞれに応じて相手の立場にまず身を置いて語るすべを心得ていたし、またそれぞれの理念の化身として語ることを試み、さまざまの偽名にそれを託しつつ間接的伝達をおこないながら、読者自身が実存することになるためのソクラテス的産婆役を演じるものであった。キルケゴールにとって真理そのものであり、実存的な人間の行き方の範型であるのは、ひとりイエス・キリストのみであって、そのことは彼自身にとってだけでなく万人にとってのことである。したがって、真理であり範型であるという意味で、「見よ、この人なり」といわれうるのは、イエスだけであって、それ以外のキルケゴールでもなければ誰でもない。いいかえれば、イエスの生と死において啓示された真理だけが、各人がそれぞれに、それもセカンドハンドでなく直接みずから、生活経験の事実のうちにさぐって受けとめて、わがものにすべきものなのである。それがキルケゴールのいいたい唯一のことである。

こういう事情のもとでは、生活経験の事実のうちにさぐるとは、他の誰の事実でもなく、各人自身の生活の事実のうちでイエスの生と死における経験の事実をさぐることにほかならず、それこそキルケゴールの思想の眼目である「イエス・キリストとの同時性」の実現である。人は誰しも単独で神の前に立つしかない。そこに他人の介在する余地はない。どれほどの愛をもってその人の身を案じようとも、その人自身が、自由に、主体的に立つしかない。それゆえ、「人は他人に対して何を為しうるか」が、この絶対的単独性の基礎の上で、キルケゴールにとって並々ならぬ深刻な問いとなり、そこにソクラテスの産婆役の意義が自己限定として答えとなったのである。ひとが無自覚的に実は求めているものの正体が何であるかを示唆し、その人がそれを正体において知りかつ求めうるあり方に覚醒するのに役立つこと、つまり、その人が自己を生み自己となるのを助けること、これが他人のなしうるすべてであり、キルケゴールは自らの著作活動の立場を明らかにこのことに限定している。

客観的知識の究明や、それらの体系的構築を企てる思想と異なり、おのれの生を根底において問うあり方へ向けての「覚醒」と「建徳」(信仰への促し)が、思想的課題となるゆえんである。覚醒が端緒につき、自己が生成の動きに入れば、そのための機縁に過ぎなかったすべては、もちろんキルケゴールその人も、消え去るべきものであり、残るのは各人の自己、すなわち不断に自分自身にかかわる関係を通じて神にかかわる関係だけである。それゆえ、キルケゴールはいう、「もし私の著作を読んでいるうちに、幸いにも自己に覚醒することがあったならば、著作の残りの部分を読むことなどやめて、ただちに自分自身にかかわることを進めてほしい」と。自分自身にかかわることなしに、キルケゴールであれ誰であれ、特定の人を師表としたり、研究したりしようとすることは、キルケゴール自身の最も忌み嫌う非実存的なことである。その人自身の実存と無縁に、客観的知識として、「キルケゴールの思想と生涯」が大学の講壇などでいわば屍体解剖される図を想像して、キルケゴールは怖気をふるっている。……。

それゆえ、キルケゴールの生涯を史実的に研究し、かれこれの秘密を解明し、それとの関連において諸著作の意図と内容の理解に迫ろうとすることは、それがみずからの実存という主目的に仕える限りにおいて、またその主目的の実現の場をなす限りにおいて、許されることである。そうでなければ、それは興味ある人物の興味ある秘密に関する客観的な、いいかえれば傍観者的な、さらにいえば好事家趣味や覗き趣味に発する詮索や観察が、学問的研究の名のもとにおこなわれるということであり、非実存的で非キルケゴール的なことといわれなければならない。しかし、研究者自身の実存のためにこの種の研究がなされる場合にも、研究という知的・学問的営為が一般にそうであるごとく、そして歴史的研究においては特にそうであるが、研究者の主観にかかわる制約が主体的問題を重層化する。

すなわち、第一に、何が特に研究対象として選ばれるかにおいて、研究者自身の関心の所在が示され、そのようなことに関心を持つあり方を現にしている研究者の自覚が、自らの実存に関して新たな問題をそなえるということである。この意味では、キルケゴール研究は、キルケゴールに関する史実的実像の究明そのことよりも、そのことを通じてなされる研究者自身の自己確認の方がはるかに明確であり、決定的な意義をもつ。蟹は甲羅に合わせて穴を掘るという言葉があるが、すべての理解と研究は、おのれの理解しうるものを理解し研究するだけであり、このこともまたキルケゴールが鋭く指摘するところである。しかもキルケゴールは、おのれが現に理解しえないものを理解しうるおのれへと生成することをこそ実存的課題としたのであるし、その飛躍へのスプリングボードとなりうる震撼的な自己否定の衝撃の経験、あるいは経験を自己否定への衝迫的感動として新鮮に体験することを重視している。したがって実存にかかわる研究においては、史的研究の場合にも、研究と究明を通じて研究者自身が常に新たな衝撃と感動に邂逅し、それによってたえず自己変革を実現するようなものでなくてはならない。

第二には、人は学問的研究の名のもとにさえも、当人が秘密にしておきたがっている内面的事実にどこまで立ち入る権利をもっているかという問題である。これは科学とか研究とかに関する人間論的定位にまで普遍化されうる問題であるとともに、すぐれて実存的な人間理解に発する問題意識でもあり、キルケゴール自身が取り扱った事柄である。内なるものと外なるものとの区別、そして内なるものの外化が直接的でも全面的でも根本的でもありえぬこと、それゆえ外面から内面を知ることは閉ざされていること、これらはキルケゴールの思想の出発点における前提であった。人知れぬ秘所で、したがって他のすべての人から隔絶した孤独な場で、おのれ自身に対面し、また神に対面するのが内面性の営みである。それは表現して知らせようとして知らせることのできるものでもなければ、他人がそこまで内に立ち入って知ろうとすることが不敬虔なことであるような、いわば聖域である。それは他人にとって謎であるとともに、自分自身にとってさえも謎であり、少なくとも表現して他人に知ってもらえる形での知り方としては、自分自身にとってさえも知られていない。このような内面をひとは誰もがもっており、それが各人の人格の核をなしている。預言者たちが神の声を聞きえたのはこの核においてであり、ソクラテスにおけるダイモニオン、またしばしば良心という言葉で解されるのも、これにかかわるものである。

平成二十一年五月二日
ところで喜六郎が野嵜はヨーロッパ信者だと言つてゐたが、なぜヨーロッパ信者が惡いかは言はず、例によつて分類する爲のだけの分類をした途端に感情的に罵倒をしたものなので、私には反論する機會すら與へられてゐない。
しかし、日本人なら西歐べつたりになつて當り前だらう。それに、既に述べた通り、日本人にしてもイスラムの人間にしても、例外なしに西歐化の方向へ進んでゐるのであり、そこでイスラムの文明の事を知つて途端に自分の見方が「ヨーロッパ寄りすぎる」と自覺するのは無目的で、ただ「自覺の爲の自覺」をしたものと言つていい。そこでヨーロッパの事を以前よりもより「冷靜」に見るやうになるとは――實は從來の見方ですら日本人は餘りに日本寄りにヨーロッパを見てゐるのであつて、そこでヨーロッパを「冷靜」に見るやうになれば、それはヨーロッパを不當に低く見る事になる。
喜六郎と云ふ人は、公正な立場と云ふものを全く理解してゐない人間なので、「より冷靜になるならば全て例外なしに良い事である」と簡單に割切つてしまつて、さうした「冷靜になる事」それ自體が立場を變へるものである事實を意識しない。そして、或立場から離れた時、その或立場が當然あるべき立場であるならば、その人は「より冷靜」な方に移動したのだとしても、それは敵方に移動したのであり、單純に褒められるものではないのである。
平成二十一年五月二日
http://homepage1.nifty.com/kazuf/renewal.html#mse_1241180442

図書街の話も出ているが、書物をPC上で閲覧するというのは松岡先生も言われているように現在のディスプレイでは無理な話なのである。机ぐらい広いディスプレイで何冊か広げて閲覧できるようにする。そして書棚が背景に見える。書棚は簡単に切り替えられるし、配置も好みにしたがって自由自在なシステムである。書棚の本の背表紙にワンタッチすると素早く広げることができる。ワンタッチで元の本棚に戻す。ドラッグで本の表示位置は変えられる。本の立て方も自在の傾きを選べ、3次元的にコントロールできる。書棚も近くに引き寄せたり、遠ざけたりできる。そんなのが欲しいねえ・・・。現在の日記記事もそのように取り扱えると楽しいかも。

アナログな紙と書棚のイメヂをモニタ上に展開するのつて、インタフェイスとして良いものなのだらうか。デザイナの人なんかは、さうした「具體的なイメヂ」にすると多くの人が喜ぶものと思ふらしいのだが――結構おっさん的な發想でないか。
今の人は本なんて讀まない。ケータイの畫面に横書きの文字が表示されるのを當り前だと思つてゐる。そこで紙の本だの書棚だのと言はれても、寧ろ困惑するだけでないか。
私個人は、本が本棚に並んでゐるのは大變好ましい事だと思ふが、それは現實での事だ。自分の手で觸れるから紙の本がいいのだし、自分で運べるから本棚の本はいい。iPhoneのインタフェイスのやうになつてゐたとしても、ヴァーチャルの本や本棚なんてものは、所詮メタファに過ぎない、自分では觸はれない。モニタ上に映すテキストは、メディアが變つただけだつたら、何の魅力もない。結局、コンピュータで處理できる事がコンピュータでテキストを利用する最大のメリットで――ならば、平面的な現在のスタイルで十分、そして全文檢索ができればそれでいい。或はタイトルだけで檢索・ソートが出來る。そこで紙の本や書棚のメタファが用ゐられてゐても、無駄な裝飾としか私には思へない。

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