そもそも、「我が国は国際法上、集団的自衛権を有するが、憲法上その行使は許されない」との憲法解釈の原点は何か。
私は、自衛戦争と「侵略」の区別をつけるためのものであると考える。
ここにHTML使うかXHTML使うかの選択肢云々についても、マーク附けの基本原則がSGML的かXML的か、と云つた觀點から私なら考へるけれども。
横田順彌『とっぴトッピング』アルゴ文庫 1988
私たちの間では、精神が行動を左右するといふ事例に乏しい。このことは西洋文化と接觸するやうになつて以來、ますますはつきりしてきたやうに思はれる。戰爭中は「西洋は物質文明だけだ」といふ亂暴な言葉が通用した。戰爭中ばかりではない。最近、ふたたびその種の文句をあちこちに見かける。言ふまでもなく「東洋の精神文化」をそれに對立せしめようといふのだ。さらにアジア主義をそれと結びつけようとするものがゐる。
が、實際は、西洋は物質文明だけなのではなく、私たちが西洋のうちに見ることができたものが物質文明だけだつたのであり、そこに精神を見る能力を私たちは缺いてゐるのである。つまり、私たちは精神をもつてゐないのである。あるいは、西洋の精神が、私たちの精神にとつて、それほど異質なものなのである。
自由論議も、そこまで話をさかのぼらせなければ、決著はつかない。……。
エディタとはなにか)
エディタのはなし)
ここで考えているエディタを、PCというデバイスに縛り付けられた単一のアプリケーションと考えるのは既に古くなったイメージかもしれない。ユービキタス・エディタという概念が今後出てきてもおかしくはない。ユービキタス・エディタとして必要な機能を追加してみよう。
私は自分のためにHTMLを使って文章を公開しているので、そもそもXMLとして利用したい人が便利だからとかそういうのはどうでもいいわけで。そんなもんは私的にはXHTMLのメリットにはならない。
技術者ではない一般人が得られるメリットは別にない訣で、さう云ふ觀點からは、HTMLだらうがXHTMLだらうが大して差はない、と結論するのは「正しい」。
天と云ふ字を持出してゐるけれども、「漢検」の理事長が逮捕されたのは文部科学省からの役人の天下りを受容れなかつた見せしめとか云ふ話を蹈まへての事なのかな。
古炉奈閉店のお知らせ
びっくりしたのだとか。以下は「あとがき」にある筆者のコメント。
……、国語政策についての筆者の見解に対する極端な保守主義者の批判で、反論するに値しないものであった。
見解に過ぎない。
反論に値しない記述を穿くり出して、永遠に記録して呉れたと言ふのは、何なのだらう。
現代仮名づかいについて、
それがこれほど短期間にできあがったのは、占領軍総司令部(G.H.Q.)の指示が絶対的なものであったからには相違ないが、或は、
占領軍の強制によって、一夜にして実現した、とある。もちろん、これは事實に反する。國語改革は、G.H.Qによる強制で實現したものではない(藤原正彦『祖国とは国語』にも同樣の記述があるけれども、それが誤である事は以前にも指摘した)――が、筆者が、知つてゐて讀者を變に誘導しようとして書いたものか、知らずに
一般の解釈を書いたものかは判らないにしても、本質的な問題ではない。
現代仮名づかいが、
あまりにも短期間に作りあげられたために、現代語それ自体の観察から導かれたものではなく、歴史的仮名遣をもとにした、その改訂という形をとっており、また、いろいろの矛盾した立場の妥協として成立したと見られるふしもあるので、もう一度、根本的に見なおされなければならない。と述べてゐる。直前に、
現代仮名づかいが
口語を表記するために考えられた、歴史上、最初の假名づかいである。と言つてゐるのと整合性がない事も問題だが、一方で、
口語に即した表音性の強い表記を高く評價してゐる文脈から言つて、筆者は「現代」の表記をより表音的に改訂すべき事を主張してゐるものと思はれる。しかし、庶民が
庶民なりに、口語に即した表音性の強い表記を捨てなかった事の傍證として筆者が示した、東海道中膝栗毛からの引用文を見ても、其處には所謂表音主義的な表記・文字と發音とを一致させようと云ふ態度はないのであり――そもそも
コレ 弥次さん。しづかにしねへ。かわへそふに御ていしゆのしつたことじやアねへ。道づれにしてきたは。こつちがわりい。どふもしかたがねへと。あきらめなせへ。とあるうち、強調部の文字遣ひを
表音性の強い表記と解釋するのは如何なものか。私ならば、「庶民は庶民なりに、文語に即した表語性の高い表記を捨てなかつた」と解釋する。さうなると、私は「仮名づかいのより一層の表音化」を主張する筆者の見解には賛成し兼ねるのである。
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なお、インストール後はデフォルトで「標準のブラウザ」に設定されるほか、Internet Explorerの「お気に入り」がインポートされる。
よく「自民黨と民主黨の違が解らない。」等と云ふ意見も目にするが、さう言ふ人達は、「政權が替つたら世の中180度變るべきだ。」とでも思つてゐるのだらうか?物事を單純化しようとしすぎ。
2009年3月24日 Yahoo!グループ サービスリニューアルのお知らせ
……。
私事が先になつてしまつたが、海の向ふのキーン氏を督促して成功したのは、不手際の埋め合はせにならうか。日本文學史の貴重な資料が外國人の手によつて紹介されたわけである。内容は讀めば解ることで宣傳の要もあるまいが、たゞその日本語について一言。キーン氏の原稿を廻し讀みした同人一同、すつかり感心してしまつた。かなづかひ、漢字、文法、一つの誤りもなく、最後に(原文のまま)と入れようかと大笑ひした。
乱暴なこと言うようだけど、はてブでフルボッコにされたくらいで疲れるようなナイーブな人は Web で情報発信なんてしないほうがいいと思う。いやはてブに限った話じゃないんだけど。と云ふ結論に行かざるを得ない訣だけれども、それでは貶したもの勝ちと云ふ事になつてしまふ。それを何とかする事は、少しは考へていいだらう。システムで何とかならないものなら啓蒙や教育によつて少しづゝでも人を變へて行くしかないだらうし、何うしやうもなく非道い状況が續くのであれば、場當り的に當座、法的な規制を行ふのも一つの手だ。
松岡先生がどこかで書かれていたのは、本を読んで理解するということは要約が作れることであって、そのような作業が重要なんだということ。――要約を作るとは正しく理解して纏めると云ふ事で、歪曲して自分に都合良く「書き手の言ひたい事」をでつち上げるのとは違ふ。
……。が、私は語法でも文字遣でも、昔の通りにせよなどと言つてもゐないし、實行してもゐない。私は過去を基準とせよ、鑑とせよと言つてゐるのであつて、過去の通りにせよと言つてゐるのではありません。
私は……革命主義に反對します。革命主義と漸進主義との違ひは、一方が急激に、他方が漸進的にといふ程度の差にあるのではない。後者は飽くまで基準を過去に置くといふのに對して、前者はさうしないのみか、自分の基準によつて過去を否定するのであつて、それは基準そのものの否定になります。隨つて、兩者はAなる基準とBなる基準との對立ではなく、基準は必要だといふ考へ方と基準は廢棄すべしといふ考へ方との對立に基くものなのです。
それこそ國字問題に限らない、私逹の文化はすべてこの二者擇一の危機に直面してゐるのです。……。
第五章に、ドナルド・キーン氏ほどの日本文化研究者でも、かつては日本語で文章を書くことができなかったが、ということを紹介しましたが、とあるさうだが、「聲」に書いたキーン氏の原稿が正字正かなだつたと福田氏が何處かで書いてゐたやうな記憶がある。
……。
日本では言語學、國語學ばかりでなく、すべての社會科學が同樣の誤謬を犯してをります。西洋の思想や學問の受入れ時代がたまたま向うの反動期に相當してゐたためですが、その前提ぬきで、いきなりアンティテーゼの中にのめりこんでいく。觀念論の歴史をもたずに唯物論の中に立てこもり、尻馬にのつて、いや、それを成りたたせるために、逆に日本の歴史にはありもしなかつた觀念論をなんとかしてこしらへあげて攻撃する。ですから、その唯物論はただ攻撃的、破壊的であり、觀念論よりも觀念的、非生産的なものになつてしまふのです。……。
年老いた農家のご隠居さんや
高齡の仏教学者が柳田の愛讀者である事實があつて、木村氏はそれを知つて驚いたと言ふ。
大体において、年配の方達は先生の文章の「味」がわかるらしく、そこに惹かれるらしいのだが、若い人達には理解しにくくなっているらしい。私自身も、先生の文章は立派だとは思うものの、容易に理解できないことがある。
現代風の新聞記事やルポルタージュ、さらに所謂論文調のものを読みつけているものにとって、先生の文章は次から次へと話題が移ってゆくので、論旨をとらえにくいのではないかと思う。そういう意味では「甚だ難解」なのであろう。しかしながら、或る青年から「柳田国男って人は文章が下手ですね」といわれたときは、あいた口がふさがらなかった。反撥する気にもならなかった。これが時代の差なのか、とまず思った。高校時代に文学をやったという青年であった。
私は「文章の上手・下手」よりも、普通の学者の書くものを、二度三度と読み返すことはまずないが、柳田国男の文章は何度でも読み返したいと思う。
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日本語における漢字の面妖なところだと言つて罵る。ところが、それを
面妖だと解釋する事こそが、既に客觀的な觀察の域を逸脱してゐるのだ。
面妖と言つてゐるのが、多くの「日本語マニア」=「日本語アンチ」の「常識的な態度」と云ふ奴なのだ。
西欧諸語は「声」が優位に立つ言語である。
これに対して、日本語は「文字」が優位に立つ言語である。
だから、日本語の世界では弁論や雄弁が発達しないのだ。
西欧諸語の世界では古くから話しことば中心主義の観念が根強い。
言語の本質は音声にあり、書きことばは話しことばにつき従うしもべにすぎない、という考え方ですね。
ルソーは「言語は話されるために作られている」と言っている。
名前は忘れたけれど言語学のえらい先生だって「文字言語に存在理由があるとすれば、それはことばを再現することにすぎない」と断じている。そして、「文字言語はことばを見る目を覆う」と苦々しく吐き捨てる。
一方、日本語の世界では伝統的に文字を尊重する傾向が強かった。
というよりも、ことばに関して文字と声を対比する、という発想そのものがあまりなかった。
ましてや、声を文字の上に置くという考え方はまるでなかった。
どうしてこのような違いが生まれたのだろう?
私はそれぞれが用いている文字の違いに起因しているのではないか、と考えている。
漢字とローマ字の視覚的効果の違いである。
漢字は見るからに威厳があって、頼りになりそうだ。
それに比べると、ローマ字は何となくおもちゃっぽい感じがしませんか。
西欧諸語で音声中心主義が生まれ、漢字圏で文字偏重主義が生まれたのも無理はない。
漢字圏と一括りに言へるか何うか、甚だ疑問がある。漢字専用の中國語と、漢字を音讀みしかしない韓國語、そして音讀みと訓讀みとを用ゐる日本語とで、同じ語圏と言つてしまへるか何うか。或は、まとめて漢字圈と言ふにしても、だからと言つて一括りで傾向を言つてしまつて良いものかどうか。
日本列島の人々は、漢字伝来以来、不便だ不便だとぐちをこぼしながらも漢字を使い続けてきた。
漢字が日本語表記になじまないことが分かっていながら、ベトナムや韓国・朝鮮のように漢字を排除することはなかった。
漢字廃止論もないではなかったが、結局それが現実化することなく今日までやってきた。
なぜだろう?
どこが分かれ道になったのだろう?
日本語の表記システムが世界でもっとも複雑怪奇で孤立したものであることなどあまり意識することもない。
一方、漢字は表意文字と呼ばれている(私はこの表現も正しくないと思っている)。と言はれてゐるけれども、實際、漢字は概念語それ自體、或は概念語の一部を構成する部品として捉へた方が良い。さう云ふ意味では、正確には表語文字と呼ぶべきだらう。もちろん、文字であるからには、發音をも示すが、我々が見る時には發音を示す性質よりも語を示す性質を重視する、と云ふだけの事だ。(漢字は
つまり、音声とは独立して機能する文字なのだ。と云ふ指摘は誤。だから、語に據つて發音も定まる。
日本語における漢字は読めない文字だ、「小畑 優」を讀めるか、と云ふ指摘に對しては、具體的な個人がゐる限り、その「小畑 優」の讀みは定まる、と言ふ事が出來る。
困ったことに、その正解はご本人にしかわからない。と言つてゐるが、本人が判り、周邊の人間が判るならば、何も困らない。ただ「讀み辛い」と云ふだけの話であり、「讀めない」と云ふのは認識・解釋の誤。
ローマ字圏ならこんな混乱はないだろうし、中国語でも漢字の発音は一義的に定まるから迷いはないはずだ。と云ふ主張は、英語と米語で發音の違ひがある事實の指摘だけで論破が完了する)
手書きで書ける人は少ないと言ふが、しかし、覺えてゐれば書ける。が、アルファベット二十六文字しかない英語の單語を、我々日本人はしよつちゆう間違へるのである(と言ふより、英語圈のネイティヴですらしよつちゆう間違へる。この事はインターネットの普及で多くの日本人に普通に知られるやうになつた)。
初めて見たイギリス人やアメリカ人は、その意味を察することも出来ない筈だと指摘してゐる。もちろん、一度意味を知れば覺えるし、教養として歐米の人々は知つてゐる。けれども、知らない人は類推で意味を考へる事すらできない。或は。
もっと沢山面白い例があります。例えばアメリカの悪名高きペンタゴンという場所があります。国防総省があって、Pentagonと書く。これは言葉としてはどういう意味か。それはペンタというのはギリシャ語で五つということで、ゴンというのはゴニアーの崩れたもので、角ということですから、ペンタゴンとは五角です。五角というのは我々日本人には五つの角と読めるのですが、ペンタゴンは読替えができないのです。こっちのほうが分が悪い。つまり言葉の内部が素人に覗けるか覗けないかが、素人であっても難しいことが解るようになるかどうかの境目です。だから結論を言いますと、漢字が学問を一部の特権階級のものにして庶民から遠ざけたなどと言う者もあるが、私は逆だと思う。漢字があったために庶民が勉強してしまったから、日本に大学が九百もできて困っているのです。……。
もうひとつ英語の例を挙げます。Ventilator――ヴェンチレーターと日本語にもなっている、羽根がぐるぐる回っていて、風を送ったり出したりする、それをヴェンチレーターと言います。普通のアメリカ人やイギリス人は、これがヴェンチレーターだということは知っているのですが、言葉としてはどういう意味か解らない。日本人は、例えば送風機といいますとカゼをオクる機械なんだ、だから風が出てこなければ故障だと文句が言える。ところが英国ではヴェンチレーターとはああいうものだと知っていても、ヴェンティというのはラテン語のヴェントスであって英語のウインドに当るのだということが解るのは、三十の大学を出た一部少数者に限る。……。
難しい漢字は特別に教育を受けなければ読むことも書くこともできないが、仮名ならば誰にでも分かると考えられたのである。たしかに日本語の仮名文字は良くできた音声記号であるため、読み書きに困難は殆どないが、文字が読める書けるということは必ずしも意味が分かるということを保証しない点が忘れられていた。そこで漢字を悪玉として嫌う思想と、日本人の新し物好きの国民性があいまって仮名書き外来語の大洪水が起こり、結果は平易な国語どころか相当の教養ある人々にさえ理解できない日本語が溢れる始末となったのである。ところが一見やさしく見える仮名書きの外来語は見るからに難しい漢字語に比べて本当は遥かにタチの悪い性質を持っているのだ。それは分からない場合に調べる手段がないという点である。知識のない人にとって仮名書き外来語は読むことはできても、どの国の言葉だか見当がつかない。たとえ何語だと分かっても、言語の綴りを仮名書きから割出すことは至難の業である。シビルからcivilを見出すことは誰にでもできるわけでなく、ボールがballを指すのか、それともbowlのことなのかは外国語の専門家でないと分からない。
IT技術だけが今日の日本語表記を可能にしている、と言ったのはこういう意味である。と言ひ、PCのかな漢字變換プログラムが漢字を一般人に「使はせてゐる」と云ふ批判は、しかし、知識こそが語の表記を可能にするものである、と云ふ常識を忘れてゐる。そして、知識があつても、言語の場合、發音を語に還元する能力は、相當の訓練を要する。鈴木氏は外來語を論じてゐるから書き言葉としての「ボール」から原語の綴りに還元する話をしてゐるのだが――日本人がballとbowlのネイティヴの發音を聞いて、正確に書き分けを出來るかと言つたら、結構難しいのでないか。或は、別にボールに限らない、それ以外の語でも――我々日本人にとつては、英語のヒアリングのテストが難しいものに感じられるものだ。しかし、ネイティヴのアメリカ人、イギリス人が、ヒアリングのテストで滿點をとる(事がある)からと言つて、英語の綴りが簡單であると言ふ事はできない。そして、日本語に於ける漢字は、英語の單語の綴りに相當すると考へるのが妥當なのだ。
漢字リテラシーの脆弱化、空洞化だと解釋して、殊さら意義を小さく見せかけようとする態度にはあきれる。
そして、深刻なのはこうした漢字リテラシーの脆弱化、空洞化がIT技術に覆われて表面化しない、多くの人々の意識に上らない、ということだ。
わたしたちが表記における主体性を喪失したとき、その書きことばの未来は暗い。
主体性を喪失したとき
未来は暗い。と云ふ定型的な一般論で、何の意味もない――と言ふより、この程度の文句は、現代の科學や技術一般を否定し、現代文明を批判するのに精々御立派さうに見えるスローガンとして使へるくらゐだ。だが、「表記」と限定した時、如何にももつともらしく人々の目に映る。
恐るべきインパクト!と云ふ奴だ。だが、それがトリックでしかない事に、我々は氣附かなければならない。
しかし、ひるがえって考えれば、キルケゴールという思想家は己の思想をその生きた意義において伝達するためにあらゆる考慮を払い、読者の位相のそれぞれに応じて相手の立場にまず身を置いて語るすべを心得ていたし、またそれぞれの理念の化身として語ることを試み、さまざまの偽名にそれを託しつつ間接的伝達をおこないながら、読者自身が実存することになるためのソクラテス的産婆役を演じるものであった。キルケゴールにとって真理そのものであり、実存的な人間の行き方の範型であるのは、ひとりイエス・キリストのみであって、そのことは彼自身にとってだけでなく万人にとってのことである。したがって、真理であり範型であるという意味で、「見よ、この人なり」といわれうるのは、イエスだけであって、それ以外のキルケゴールでもなければ誰でもない。いいかえれば、イエスの生と死において啓示された真理だけが、各人がそれぞれに、それもセカンドハンドでなく直接みずから、生活経験の事実のうちにさぐって受けとめて、わがものにすべきものなのである。それがキルケゴールのいいたい唯一のことである。
こういう事情のもとでは、生活経験の事実のうちにさぐるとは、他の誰の事実でもなく、各人自身の生活の事実のうちでイエスの生と死における経験の事実をさぐることにほかならず、それこそキルケゴールの思想の眼目である「イエス・キリストとの同時性」の実現である。人は誰しも単独で神の前に立つしかない。そこに他人の介在する余地はない。どれほどの愛をもってその人の身を案じようとも、その人自身が、自由に、主体的に立つしかない。それゆえ、「人は他人に対して何を為しうるか」が、この絶対的単独性の基礎の上で、キルケゴールにとって並々ならぬ深刻な問いとなり、そこにソクラテスの産婆役の意義が自己限定として答えとなったのである。ひとが無自覚的に実は求めているものの正体が何であるかを示唆し、その人がそれを正体において知りかつ求めうるあり方に覚醒するのに役立つこと、つまり、その人が自己を生み自己となるのを助けること、これが他人のなしうるすべてであり、キルケゴールは自らの著作活動の立場を明らかにこのことに限定している。
客観的知識の究明や、それらの体系的構築を企てる思想と異なり、おのれの生を根底において問うあり方へ向けての「覚醒」と「建徳」(信仰への促し)が、思想的課題となるゆえんである。覚醒が端緒につき、自己が生成の動きに入れば、そのための機縁に過ぎなかったすべては、もちろんキルケゴールその人も、消え去るべきものであり、残るのは各人の自己、すなわち不断に自分自身にかかわる関係を通じて神にかかわる関係だけである。それゆえ、キルケゴールはいう、「もし私の著作を読んでいるうちに、幸いにも自己に覚醒することがあったならば、著作の残りの部分を読むことなどやめて、ただちに自分自身にかかわることを進めてほしい」と。自分自身にかかわることなしに、キルケゴールであれ誰であれ、特定の人を師表としたり、研究したりしようとすることは、キルケゴール自身の最も忌み嫌う非実存的なことである。その人自身の実存と無縁に、客観的知識として、「キルケゴールの思想と生涯」が大学の講壇などでいわば屍体解剖される図を想像して、キルケゴールは怖気をふるっている。……。
それゆえ、キルケゴールの生涯を史実的に研究し、かれこれの秘密を解明し、それとの関連において諸著作の意図と内容の理解に迫ろうとすることは、それがみずからの実存という主目的に仕える限りにおいて、またその主目的の実現の場をなす限りにおいて、許されることである。そうでなければ、それは興味ある人物の興味ある秘密に関する客観的な、いいかえれば傍観者的な、さらにいえば好事家趣味や覗き趣味に発する詮索や観察が、学問的研究の名のもとにおこなわれるということであり、非実存的で非キルケゴール的なことといわれなければならない。しかし、研究者自身の実存のためにこの種の研究がなされる場合にも、研究という知的・学問的営為が一般にそうであるごとく、そして歴史的研究においては特にそうであるが、研究者の主観にかかわる制約が主体的問題を重層化する。
すなわち、第一に、何が特に研究対象として選ばれるかにおいて、研究者自身の関心の所在が示され、そのようなことに関心を持つあり方を現にしている研究者の自覚が、自らの実存に関して新たな問題をそなえるということである。この意味では、キルケゴール研究は、キルケゴールに関する史実的実像の究明そのことよりも、そのことを通じてなされる研究者自身の自己確認の方がはるかに明確であり、決定的な意義をもつ。蟹は甲羅に合わせて穴を掘るという言葉があるが、すべての理解と研究は、おのれの理解しうるものを理解し研究するだけであり、このこともまたキルケゴールが鋭く指摘するところである。しかもキルケゴールは、おのれが現に理解しえないものを理解しうるおのれへと生成することをこそ実存的課題としたのであるし、その飛躍へのスプリングボードとなりうる震撼的な自己否定の衝撃の経験、あるいは経験を自己否定への衝迫的感動として新鮮に体験することを重視している。したがって実存にかかわる研究においては、史的研究の場合にも、研究と究明を通じて研究者自身が常に新たな衝撃と感動に邂逅し、それによってたえず自己変革を実現するようなものでなくてはならない。
第二には、人は学問的研究の名のもとにさえも、当人が秘密にしておきたがっている内面的事実にどこまで立ち入る権利をもっているかという問題である。これは科学とか研究とかに関する人間論的定位にまで普遍化されうる問題であるとともに、すぐれて実存的な人間理解に発する問題意識でもあり、キルケゴール自身が取り扱った事柄である。内なるものと外なるものとの区別、そして内なるものの外化が直接的でも全面的でも根本的でもありえぬこと、それゆえ外面から内面を知ることは閉ざされていること、これらはキルケゴールの思想の出発点における前提であった。人知れぬ秘所で、したがって他のすべての人から隔絶した孤独な場で、おのれ自身に対面し、また神に対面するのが内面性の営みである。それは表現して知らせようとして知らせることのできるものでもなければ、他人がそこまで内に立ち入って知ろうとすることが不敬虔なことであるような、いわば聖域である。それは他人にとって謎であるとともに、自分自身にとってさえも謎であり、少なくとも表現して他人に知ってもらえる形での知り方としては、自分自身にとってさえも知られていない。このような内面をひとは誰もがもっており、それが各人の人格の核をなしている。預言者たちが神の声を聞きえたのはこの核においてであり、ソクラテスにおけるダイモニオン、またしばしば良心という言葉で解されるのも、これにかかわるものである。
図書街の話も出ているが、書物をPC上で閲覧するというのは松岡先生も言われているように現在のディスプレイでは無理な話なのである。机ぐらい広いディスプレイで何冊か広げて閲覧できるようにする。そして書棚が背景に見える。書棚は簡単に切り替えられるし、配置も好みにしたがって自由自在なシステムである。書棚の本の背表紙にワンタッチすると素早く広げることができる。ワンタッチで元の本棚に戻す。ドラッグで本の表示位置は変えられる。本の立て方も自在の傾きを選べ、3次元的にコントロールできる。書棚も近くに引き寄せたり、遠ざけたりできる。そんなのが欲しいねえ・・・。現在の日記記事もそのように取り扱えると楽しいかも。