制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
野嵜健秀とは誰か
特記事項:野嵜に粘着するネットストーカーについて
テーマ・主に扱ふ事柄・ネタ
日本人論、政治主義批判、國語國字改革批判、虹裏(img)、深夜アニメ、古本、謎キャラクターによるコント、蟲。及びその他の事。

闇黒日記


平成二十一年二月二十八日
俺は「旧仮名遣い」と云ふ言ひ方が「過去のもの=死物」と云ふニュアンスを持つから使はないのだが、「歴史的かなづかひ」もまた「歴史的なモニュメント=死物」のやうな印象があるから餘り使ひたくない。
平成二十一年二月二十八日
おせっかいな文章 3

いっている内容の「正しさ」と無関係に、その分量自体が暴力的と解釈されることがあるわけです。これまでに野嵜さんが書き込んだ分量は、「コメント欄荒らし」といわれても仕方ない水準に突入しています。

これは、松永氏が「正字正かな」と云ふ言葉を暴力的だと言つて非難してゐるのと同じだ。tanzenが「正字正かな」と云ふ言葉を使ふのは偏狹だといつて非難してゐるのと同じだ。
「暴力的だ」とか「偏狹だ」とか言つた評價を、印象に基づいて「する」事一般を俺は否定してゐる。徳保氏は印象で語る事を、松永氏がするのを否定した。しかし、俺を非難するのに、徳保氏は印象で語つてゐる。
若し、斯う云ふ二重スタンダードを適宜遣ひ分ける事を許すならば、徳保氏は松永氏の立場にこそ近いのであつて、正義とか眞理とかの敵だ。だから俺の敵だ。

アンチの方が結束力がある、というのは、まあ、その通り。でも野嵜さんがあんなにたくさん書くものだから、「アンチが徒党を組んで野嵜さんをやっつけてる感」が直感的に伝わってこない。ふつうに考えたら、単に野嵜さんを叩くためだけに登場した喜六郎さんとか、ひどいんだけど。でも、という。

アンチの攻撃に俺が對抗し得たと云ふのなら、それで良いぢやないか。それの何が問題なんだ。アンチの行爲をもつと人に印象づけて、俺の惡い印象を廣めたいと、徳保氏は思つてゐるのか。

松永さんは話の通じる人なので、松永さんの態度を硬化させるようなやり方(=コメント欄への集中豪雨的投稿)をせず、例えばメールなどの手段で意見交換すれば、話の落としどころは見えてくると思う。

これもをかしい。何で蔭でこそこそやらなければならないんだらう。松永氏だけを説得し得さへすれば、俺は滿足するに違ひない、と徳保氏は信じてゐる。徳保氏は、解つてゐると思つてゐた。解つてゐないのだ。

ともかく、私が松永さんなら、野嵜さんをコメント禁止にするし、質問にも答えない。「こういうヘンな人とは、まともに意見交換なんかできるわけがない」と考えます。主張の正誤ではなく行動に問題がある。こういう状態で野嵜さんが松永さんの沈黙を「不誠実だ」といっても、たぶん社会的に勝ち目がない。

變なのは、少ししか書かない事、説明しないで根據拔きで結論だけを書く、レッテル貼りをする事だ。さう云ふ不誠實な態度がウェブ、「ブログ」で一般化してゐる。それに對して俺は反對してゐる。俺は、多くの人が、コメント欄で澤山書くやうになる事がいいと信じて、實踐してゐる。例の「福田恆存をやっつける会会長」ですら、Yahoo!ブログのコメント欄で澤山書けないと不滿を漏らしてゐた。コメント欄で澤山書けるやうな風潮を作らなければならない。「長文失禮します」ではなく「短文で大變申し訣ありません」と人々が普通に言ふやうな社會にならなければならない。さうした社會になつてゐないから、間違つた一般の風潮に合せなければならない等とは全く思はない。
結局、徳保氏は、一つの原理に從つて物を考へる、と云ふ事が出來ない人なのだ。だから解らない。
あと、俺があゝ云ふ書き方をする立場の人間である事は、十年の「附合ひ」がある河上イチロー=松永氏だから、解つてゐる筈だ。松永氏は正字正かな派を裏切つたのだが、それでも俺は信用してゐるからあゝ云ふ態度をとつていいと判斷した。さうでなければあゝまではやらない。

何度もたくさん書きたければ自分のブログでどうぞ、というのがコンセンサス。こうした意見に野嵜さんが同意していないことは知っています。知っていますが、私の見る限り、野嵜さんのやり方は不幸な連鎖を生んでいると思う。

コンセンサスそれ自體を疑へと言つてゐるんだ。なんでさう云ふコンセンサスなるものを疑ふのが惡い事なんだ。コンセンサスコンセンサスと言つてゐるから、「現代仮名遣はコンセンサス」みたいな「論法」で押切られる事になる。
平成二十一年二月二十八日
基本的に俺は松永氏の「ブログ」の記事のテーマから外れない範圍でコメントを書いてゐる積りだ。だから、テーマが外れるとなつたら書込まないで自分のところで記事を書く――實際、それは既にやつてゐる
福田恆存が「劣化した」としか見られない哀れな讀者 - 闇黒日記2.0 - Yahoo!ブログ
記事のテーマについてコメントする、と云ふルールさへ守つてゐれば、長文は許容されるべきだ。「其處までして自分の正しさを主張したいのか」と非難する人は、非難する事自體が間違つてゐる。手間をかけずに獨斷を垂れ流し、レッテル貼りをして濟ませるやり方をするのが「ブログ」のコメント欄のコンセンサスだと徳保氏は無意識に思つてゐるが、そんな「コンセンサス」が「ある」としたらぶつ壞したい。そもそも歐米で、「ブログ」は「ミニ報道機關」として考案されたものであり、そこではニュースに對して考察を加へる事を目的に記事を書くのが當り前となつてゐる。それに對して反論するならば、コメントが長文になつても構はない。勿論「贊成」「反對」と一言言ふだけのコメントもあるが、しかし――ならばなぜはてなのシステムとして長文が投稿出來、それも何囘も繰返し投稿出來るのか。議論の爲には長文投稿も繰返しの投稿も可であると、運營者側が考へてゐたからだらう。少くとも、さう云ふシステムを採用し、一切の制限を加へないで松永氏は「ブログ」をやつてゐる。さう云ふ場所で「短文しか書込まないのがコンセンサス」のやうな極附けをされるのは――俺はをかしな話だと思つてゐる。「ブログ」は報道機關の眞似事であり、素人が報道機關ごつこの「遊び」をする爲のものだが、だからこそ、オピニオンの一方的な垂れ流しではなく、互ひに意見をぶつけ合ふ場として認識されねばならない。コメント欄でも、記事同樣の長文の反論を許す、と言ふより當り前の事として普通に受容れる態度を、「ブログ」を作り、運營する側のみならず、見て、讀んで、コメントを附ける側も、常識的に持たなければならない。逆に、レッテル貼り、極附けに對しては、率直かつ即座に、否定のコメントを入れる習慣を、多くの閲覽者は身に附けなければならない。俺は思ふのだが、「ブログ」のコメント欄は、閲覽者の數に比べて、餘りに少いやうに思はれる。
平成二十一年二月二十八日
虹裏を見てゐると、スレ本文で面白い事を言つて受けてゐるのよりも、レスで面白いスレの流れを作る職人技が受けてゐる方が多い。もちろん、變な投稿で流れが變つてゐる例もあるが、再反論やつつこみがあつて、それはそれで面白い事になつてゐる事がある。詰らないスレの筈が、氣狂ひのマニアがスレ畫像に反應して變な愛の籠つた長文を連投し、「またお前か」と言はれてゐる事も屡々ある。限定的ではあるけれども、さう云ふ習慣が定着し、受容れられてゐる點で、虹裏は健全だ(勿論、餘りにをかしな印象操作や粘着行爲は、嫌はれてゐる。一方、投稿される内容がエロに偏つてゐる事實があるので、良家の婦女子の方々は見に行かない事)。
掲示板での流れがレスによつて簡單に變り、それで面白い結果になつてゐる例を、俺はよく見る。それと同じ事が、何うして「ブログ」であつてはならないのだらうと何時も思つてゐる。2ちゃんねるでも何處でも「必死だな」の心ないレスを當り前のやうにする人々が多過ぎる。必死で何が惡いんだ。變で何が惡いんだ。森茉莉が、鴎外(茉莉の父である)のやうな日本語狂ひがゐたからこそ、戰前は日本語を壞す試みが封じられてゐたんだ、と書いてゐる。喜六郎は民主主義を信じてゐない筈だが、「現代仮名遣」が支持されてゐるのは民主主義をの惡しき面が現はれてゐるだと森は言つてゐる。(「日本語とフランス語」:『私の美の世界』(新潮文庫)p.241〜)
平成二十一年二月二十八日
私が歴史的仮名遣を使用する理由 - 枝葉末説@ことのはぐるま

その點、橋本(進吉)博士は偉かつたと思ひます。國語の音韻研究におけるその劃期的な業績にもかかはらず、博士は決して表音主義の陷穽に落ちなかつた。音韻といふものは既成の語の分析の結果に見出されるものであつて、語以前に音韻の存在と、その自律性を考へるべきでなく、まして語にたいする音韻の絶對支配を目標とする表音主義の不可なることを見ぬいてゐたからです。

しかし、おそらく博士はそんなことは當然のこととしてゐたのでせう。單純に表記法は語に從ふべしとしか言はなかつた。時枝博士においても同樣、かなづかひ問題では、その表語性を重んじる橋本博士の論點を支持してゐるだけです。

福田恆存『私の國語教室』第二章

文字は現象論的に考へるときにのみ、それがなければ表語も表音も出來ないものですが、本質論的に考へるならば、語があり、その語を構成する音聲がなければ存在の理由も必要もなかつたものであります。ですから、表意文字は音を伴ふと言ふのと同じに、表音文字は意味を伴ふとは言へないのです。表音文字は、意味、あるいは語に仕ふと言ふべきです。

福田恆存『私の國語教室』第二章

しかし、歴史的かなづかひの原則はそんな單純なものではありません。そこにおいて最も大事なものは、既に言つたやうに、語の自律性といふことであります。それを確立するために、私たちは時代を通じての歴史的一貫性や直ちに識別しうる明確性を求めるのです。

福田恆存『私の國語教室』第二章
我々の前には既に日本語が存在してをり、その日本語の中に日本語の語が存在してゐる。語は存在してゐるものだが、語の存在をそれ自體として認める、と云ふのが、歴史的かなづかひの立場の根本にある。語それ自體の存在を認める事で、語それ自體を表現するやり方として語それ自體の規則に從ふと云ふ態度が生ずる。語それ自體の規則が「ある」か何うかを檢討した時、確かに「ある」のであり、それは全體として體系性を持つてゐる。だから語それ自體を表現する歴史的假名遣では、理論的にも歴史的にも一貫性がある事になるし、ある筈である。理論的・歴史的な一貫性は、日本語のそれ自體の持つ一貫性の現はれたものに過ぎない。さうした既存の體系としての日本語に、自己を去つて、慫容として從ふ、と云ふのが歴史的かなづかひを支持する――と言ふより歴史的かなづかひに從ふ人間の態度だ。
今、歴史的かなづかひが使はれず、「現代仮名遣」が一般に廣く使はれる状勢となつてゐる。そこで歴史的かなづかひこそが多くの人に從はれるべきものである事を主張するのに、「正統」である事實を押し立て、「正しい」ものであると廣告する――それを「政治的」だと非難するのであれば、非難する以前に、さうした政治的な態度をとらせた責任が「現代仮名遣」支持の側にある事實を問題にする必要がある。即ち、政治的に「現代仮名遣」が歴史的かなづかひのあるべき立場を乘つ取つたのだから。
平成二十一年二月二十八日
喜六郎を、黄色黒季肋朗のやうな別の名前で呼ぶ事は良くない。それは喜六郎の存在を隱蔽する事だし、また揶揄するやうな調子では喜六郎を見下してゐる態度を示してゐる證據となつてしまふからだ。俺は一時期以降、喜六郎の名前は喜六郎とはつきり書くやうにしてゐる。喜六老とWXGは屡々誤變換し、それは意味的には正しいかも知れないが、敢て正確に喜六郎と書いてゐる。
また、喜六郎の文章を引用して直截的に批判したり、「ブログ」の存在をはつきり示したりする必要がある。「小屋」以外の別のブログに、コメントを投稿し、俺に對する侮辱を行なつてゐる場合は、そのコメントを轉載して、喜六郎に惡意の存在する事實を事實として指摘するのが重要だ。
なぜか喜六郎の存在を示唆する許りで、喜六郎の問題のある文章・問題のある論理展開を、或は喜六郎と云ふ名前を「隱蔽」し、喜六郎の誤を擁護してしまつてゐる人が目立つ。
喜六郎が、人を見下してゐる事實を知らせる事が批判として必要だ。その際、我々は、喜六郎に對抗して見下すやうな調子を用ゐるのでなく、喜六郎に見下されてゐる人間が下から怒りの聲を上げてゐる事實を示すべきである。彼我の關係は對等である筈だし、あるべきだが、にもかかはらず喜六郎が一方的に人の立場を貶めてゐる事實がある。その事實をこそ、廣く一般に知らしめるのが批判として正しい。同じ態度を示すのは、ただの復讐に過ぎない。と言ふより、喜六郎が「お前と同じ事をお前に對してもしてやつてゐるんだ」と復讐の姿勢を明かにしてゐる以上、こちらは復讐でない事を示し、正當な批判を可能とする對當の地位を恢復するのが目的である事實を示す必要がある。
平成二十一年二月二十八日
SEOの重要性が説かれるやうになつて以來、しかし、ウェブで意見を述べる事によつてその意見の地位が向上する事實が意外にも認識されないでゐる。反論する事によつて意見の相對化が實現する事實が意外にも認識されないでゐる。今のウェブでは、内容のある文章を澤山書く事が重要だ。一言・二言・三言で切つて捨てるやうな言ひ方は、無内容のものとして價値を下げる必要がある。「無視する」「スルーする」と云ふ事は、無價値の事として、排除されねばならない。しかし、さう云ふ現在のウェブの状況を、案外多くの人が解らないでゐる。
――或は、長文を排除しようとするのは、長文で書かれるとその意見が廣まつてしまつて困るからだ、と見る事が出來る。
一方、短文で切つて捨てる人が今でもゐるのは、その場で強い印象を與へられればいい、それを見てゐる特定の相手にだけ嫌な思ひをさせられればいい、と考へてゐるからだ。
平成二十一年二月二十八日
仕事の話、個人的な人間關係の問題が含まれる話、プライヴェートな樂しみの爲の話は、メールですればいいし、mixiのやうな閉鎖環境ですればいい。しかし、公開の場で展開される議論は、途中からメールに切替へて、内輪で手打ちして、話を收めれば良い、と云ふやうなものではない。
平成二十一年二月二十八日
BLOGという名の日記 : 雑記#57

 人間教訓を得るためについ過去を振り返りたがるものだが、過去に縛られすぎた挙句判断の基準としてこびりついてしまっては、元も子もない。大事なのは過去と現在を峻別すべきことで、自分が昔の偉人や善い人に肖ろう等とするときに、猿真似で済ませてしまうにとどめるのは良くないことである。

現在の誤を正す基準として、神なり宗教なりを信じない人間にとつてあり得るのは、論理的に正しい事か、でなければ、過去に正しかつた事のどちらかだ。が、さうしたものを採用してゐる人間を罵り嘲るのには「猿眞似」と云ふレッテル貼りが大變便利なものとして屡々利用されてゐる。が、猿眞似かさうでない本當の眞似かを區別しようとする時、相手に不都合なやうにわざと惡く解釋する傾向がある。
良い事を眞似るのは良い事であると一概に看做す必要がある。何でもかんでも眞似をしてゐる人を猿眞似呼ばはりする傾向があれば、人はそもそも良い事を眞似ようとしなくなるものだ。人は、「本當に良い事」が出來ないからと言つて、「じゃあ惡い事をしても良いんだ」と信じ込む。それが一番惡い事だ。
たかがゲームの話に割込んで言ふのも何だけどさ。
平成二十一年二月二十八日
しかし實際、惡人と云ふものは、權威を利用できる間は徹底して利用し、權威が權威を失つた途端、權威を依然として支持する人を嘲る事でマイナスの方向で權威を利用するからな。
偉い人に肖つてより良い人間にならうとするのでなく、偉い人の權威を利用して惡どい事をする。さう云ふ人は、偉い人の存在を認め、偉い人に肖つて自分もより良い人間にならうとするのが時代遲れになると、さつさと立場を移動して、權威を利用する惡どさを説き始める。
平成二十一年二月二十八日
プログラミング知らないHTMLコーダーがダメな理由
HTMLコーダーやWebデザイナーをバカにしているプログラマーは全員腹切って死ね - kwatchの日記
プログラ(略)がダメな理由とか言うプログラマーがきっとダメ - Caffeine::Diary
「プログラミングできないHTMLコーダ」と云ふ存在と、「HTMLコーダと呼ばれる人々」とは、イコールで結べないのだが、匿名氏はそれを「結べる」と思つて論じてゐるから話がをかしくなる。匿名氏は、最初に自分の個人的な價値判斷を入れ込んでおきながら、恰も客觀的な議論のやうに話を展開してゐる。
斯う云ふ誤を冒す人は、案外多い。さう云ふ人の意見は、根本的な部分で誤つてゐる以外、至極論理的だから、尤もらしい意見に見られる。特に言つてゐる當人が自分の意見は尤もらしいと思ひ込んでゐたりする。
しかしこの手の侮辱と言ふか勝手な思ひ込みによる惡口と言ふか、さう云ふものに對しても、しをらしく反省のコメントを發しておくべきなんだらうな。
どうでもいい雑記その419 : 雑記帳 : der Gegenwart
かう言ふ事を言つておけば、匿名氏のやうな偏見に滿ちた人も滿足して何も文句を言はなくなるんだらうから。偉さうな事を言つて人を罵倒する偏見に滿ちた人間は、他人にかしづかれさへすれば御機嫌になるのだから。けれども、さうやつてをかしな人を操る術を使ふのは――寧ろ政治的と言へるのでないか。
平成二十一年二月二十八日
おせっかいな文章 4

私がおせっかいを申しているのは、もし自分が野嵜さんの立場だったら、「より多くの人の誤解を解く」ことを目標にするからです。コメント欄への集中豪雨的投稿は、この目的に合致しません。

なんで斯うやつて「自分の立場」を強調するんだらう。松永氏やtanzen、喜六郎らに俺が何で苛立つてゐると思つてゐるんだ。「自分」「自分」と言ふからだ。「現代仮名遣」を支持する連中に苛立つてゐるのだつて、「自分の時代の表記」に拘つてゐるからだ。なんでそんなに「自分」を主張したがるんだ。
なんで自分を守るだけの爲に自分と云ふ立場を主張するんだ。それこそ政治的と云ふものだ。

野嵜さんが利より理を取るのはわかっているけれども、日常生活の全部をそうされているわけでもないはずで、だからおせっかいを申しました。ここは利を取ってもいい場面なのではありませんか、と。

「ブログ」のコメント欄は日常生活だと徳保氏は言ひたい訣か――俺はさうは思はないが、徳保氏だつてさうは思つてゐないだらう。何で日常生活なんて關係のない事を持出したんだ。俺は徳保氏の事が相變らず全然理解出來ない。
大體、俺のやりたい事は政治活動ではないんだよ。もし今利を取らうとして行動したら、その時點で松永氏の指摘こそが正しいと云ふ事になつてしまふ。
俺は利を優先して理を引込めるなんて眞似はしたくないし、した方がいいと政治的な人間に忠告されても、絶對に出來ない。「政治的に、結果として勝てさへすればいいんだ」と云ふ發想を、俺は受容れられない。
平成二十一年二月二十八日
そもそも、「ブログ」のコメント欄が「一般に讀まれない」と言ふのであつたら、それを疑ふのが最初ではないか。何で疑はないんだ。或は、「一般に讀まれない」としても、なぜだからと言つて「讀まれるべきでない」と云ふ事になるんだ。徳保氏は、疑ふべきところで疑はない事がある。疑ふべきところで疑はず、疑ふべからざる所で疑ふ――さう云ふ今の日本人に俺は大變苛立つてゐるのだが、徳保氏もさう云ふ今の日本人で、だから俺は徳保氏にも苛立つ。
なんで「ブログ」のコメント欄で長文を書いたら行けないんだ。「必死だから」と云ふのは閲覽者の側の勝手な感想だし――しかも、そもそも必死になる事は惡い事ではなく、ふざけてゐるより必死である方が遙かに良い。どうして、御ふざけで人を嘲るのは人間として良い事で、必死になつて反論するのは人間として惡い事なんだ。誰か説明できる人間がゐたら説明して呉れ。長文の連投を繰返してログを流す、だからteacupの掲示板やYahoo!の掲示板、或は虹裏では荒し扱ひになる。それは掲示板の性質、新しい投稿があると古い投稿が消える、と云ふ仕樣があるから、さう云ふ事になる。けれども、掲示板と「ブログ」のコメント欄は違ふ。「ブログ」のコメント欄で人がいくら書いても、過去ログを消す事にはならない。「ブログ」のコメント欄の投稿記事は、何時までも殘つてゐて、例へば喜六郎なんかにほぢくり返され、相當時間が經つてから改めて「アーカイブス」とやらに轉載される事になつたりする。ならば、連投でも長文でも、それだけを理由に荒しと呼ぶ事は出來ない。「福田恆存をやっつける会」会長等と名乘つて長文を投稿する人間の場合、名譽毀損的・侮辱的な内容の文章をマルチポストしたり、風説を流したりすれば、それは投稿の内容それ自體に問題があるから非難されるのであつて、「長文である」と云ふ投稿の外見が問題であるのではない。要は、古臭い仕樣の掲示板を前提に未だに考へてゐるから、長文の投稿は荒し、等と言へるのであつて、さう云ふ古臭いだけの事に固執する態度こそ打破しなければならない。「ブログ」が歐米で、マスコミの眞似――擬似報道機關として出現し發展した以上、「ブログ」においては意見が述べられなければならないし、その意見に附けられるコメントもまた意見である筈だ。さう云ふ意見は、一言で言盡せる筈のものではなく、長文になる事はあり得る。特に松永氏のあの記事では、松永氏が長文を書いてをり、當然の事ながら、さうした態度――そもそもそのテーマに對しては、こちらも長文で應酬する事が必然となる。「ブログ」それ自體の本質から言つても、また松永氏のその記事の性質から言つても、眞面目に意見を述べ合ひ、議論する事が要請されてゐるのであり、そこで長文投稿が増えても、自然であり、逆に其處で不眞面目に「釣り」を樂しんだり、短文で極附けたりする態度を取る方が、場の空氣を讀まない、また「ブログ」本來の意義を理解しない、荒し的な態度だと言つて良い。と言ふより、インターネットそれ自體がそもそも意見を述べ合ふ場である訣で、そこでは從來の掲示板の仕樣の方が不自然であつたし、從來の掲示板の仕樣に基いて考へられた「ネットマナー」こそが「時代の制限」下にあつた古めかしく偏狹なものであると言ふ事が出來る。技術的に進歩した今のウェブで、技術的な制限のあつた時代の「理想的」な態度に固執する事こそ、誤だと言へる。しかし、もともとインターネットでは、NetNewsで長文投稿の應酬をやるのは自然だつたし、長くてもしつかり意見を言はうとする態度こそが正統的なインターネットの態度だと言ふ事が出來る。今は技術が進歩したから本來あるべき姿が技術的には恢復しつゝあるんだよ。今こそインターネットの傳統に歸るべきだ。
平成二十一年二月二十八日
さらに言はせて貰ふならば、あの場ではtanzenが俺を挑發したのであり、俺はあの場に留まる積りはなかつたが、tanzenの「釣り」にひつかかつて留まらざるを得なくなつた、と云ふ事實がある。惡いのは俺を引込んだ擧句、執拗に引張り囘したtanzenの方であり、俺もまた被害者であつて、そんな俺も惡いと言はれるのは心外だ。俺にあれだけ書かせたのだから、tanzenが惡い、と非難すべきだ。何で俺だけを惡者にしたがるんだらう。俺が何か惡い事を言つたか。「正字正かな」と言つた、「長文」を連投した――内容と何の關係もない。
平成二十一年二月二十八日
徳保氏なんかは、「結果として正字正かなをみんなが使ふやうになれば野嵜は滿足するんだらう」と、漠然と思ひ込んでゐる。俺が政治運動をやつてゐると思つてゐるのだ。それなら、松永氏の非難した理由と同じで、俺にとつては誤解でしかない。誤解を基に、松永氏は俺を攻撃し、徳保氏は俺をなだめてゐる、それだけの違ひだ。それだけの違ひでしかない。結局、誤解は解けてゐないのだ。一つの誤解を解く爲に、決定的な誤を犯せと、徳保氏は言ふ訣だが、徳保氏自身が言ふやうに、おせっかいもいいところだ。いや、そもそもおせっかい等と高踏的・傍観者的に言ふところに、徳保氏の問題はあるのであり、松永氏にも喜六郎にもその問題がある。のみならず、その他の大勢の日本人にもある。
平成二十一年二月二十八日
うつかり確定申告の書類作成をIEでやつたら非道い目に遭つた。セキュリティが何うの斯うのと云ふ問題。最後のPDFがIEでは表示されないのだ。
Operaでやつた方が簡單だつた。こちらは何の問題もなく表示されて、印刷できた。
OSとくつ附き過ぎてゐるからIEは却つて面倒になる。
平成二十一年二月二十八日
印刷は、なんでキャンセルが簡單に出來ないんだらう。WindowsでもMacでも同じ。スプーラや印刷ユーティリティで印刷のタスクをキャンセルしてもしつこくタスクが殘つてゐる。タスクの「削除中」が何時までも何時までも續くのだ。何なのだらう。即座にタスクだけでも削除すればいいのに。
プリンタもプリンタで、一枚給紙すればいいのに、なんで二十枚も三十枚も吸込むんだ。吸込んだら銜へ込んで意地でも離さないとか。
プリンタは使ひ勝手が惡過ぎる。自宅では年に一度しか使はない状況が續いてゐるが、毎年毎年嫌な問題許りが起きる。
平成二十一年二月二十八日
そもそも確定申告つて何だらう。税金を多く拂ひ過ぎたから、御願ひして返して貰ふ、と言ふのだが、さう云ふ事を國民に強ひるなんて、間違つてゐるだらう。あらかじめ少くとつてゐれば國民に負擔をかけないのに。なんで拂ひ過ぎになるやうに制度を作つておくのだらう。國民が申請しなければ取つたもの勝ちで、政府まる儲けとなる。一方、確定申告だの何だのの應對の爲に、税務署は税金を投入してゐる。無駄だと思ふ。色々役人は無駄をやつてゐる。もちろん、國民が役人の無駄を許してをり、或は制度を改めない役人根性を國民自身が持つてゐるからこそ、無駄が何時までも無駄に續く訣だが。公務員は國民に奉仕すべきものだと憲法に書かれてゐるが、實際、公務員である税務署員は、國民に負擔を掛けさせるのを仕事と心得てゐる。最近の公務員は、表面的には隨分態度が良くなつたが、内心は何も變らない。しかし、それは、國民も同じだ。
たまには詰らない政治の話も書いてみる。
平成二十一年二月二十八日

優先順位の問題です。私は、より優先順位が高いのは、「正字正かな派」への誤解を解くことだと思いました。

優先順位の問題と言ふならば――日本人が價値觀・發想を根本的に轉換する事が最初で、その結果として當り前のやうに日本人が正字正かなに囘歸すればいい。俺は堅くさう信じてゐる。ただ「正字正かなを使へばそれでいい」と云ふのではないんだ。徳保氏にはそれがわからない。多くの日本人にわからないだらうと思ふ。福田恆存も、斯う云ふわからない日本人を相手に戰ひを挑んだ。だからこそ、俺は福田氏を尊敬するし、信ずる。徳保氏のやうな人物は、尊敬もできなければ、信頼する事すらもできない。松永氏もわからない。「正字正かな派」と云ふ言葉をみた時、「正」と云ふ字に松永氏が疑念を抱いた、その瞬間に、松永氏は最う一般の日本人と同じであり、假名遣の先の問題――本質的な問題を見る事が出來なくなつてゐた。本質を明かにしようと考へる事それ自體を、松永氏は拒否した。それはしかし、多くの日本人が當り前の事と思つてゐる。徳保氏もさう思つてゐる。さう云ふ通念を打破しなければならないと俺は信じてゐる。さう云ふ通念をこそ先づ最初に打破しなければならない。そこでは小手先の技・人心を操縱する術・政治的手段は不要だし、寧ろ有害だとして排斥される。

平成二十一年二月二十七日
tanzenが誠意を見せて來た。あゝも傲慢な態度でも誠意と言つていいかどうかは知らないが。
「正字正かな」と云ふ言ひ方、國語問題協議會のデータCDだか何だかに入つてゐる筈の國語國字のテキストがあれば、大體どの頃から使はれてゐるか判る筈だが、買つてゐないから判らない。
正字正かなと云ふ言ひ方は、當り前過ぎて普通に使つて來たが、實際、何を見てさう言ひ出したか覺えてゐない。俺は三歩歩くとものを忘れる性質だから、知つてゐる筈の事でも固有名詞でもすぐ忘れて、掲示板等で羂を張つてゐる連中に度々恥をかかされて來たが、正字正かなと云ふ用語でそれをやられるとは思はなかつた。俺にしてみれば空氣を呼吸するやうに當り前のものとして(何も考へないで・價値判斷もしないで・事實を指示するものとして)普通に使つて來たけれども、それでは行けないらしく、由來を言へと強要されてゐる。
平成二十一年二月二十七日
tanzenが意地でも福田恆存の「正字正かな」發言を出せ、と強要してきたので(俺は「正字」「正かな」「正統表記」のどれでも出せば十分だと思つてゐたから、例によつて嫌がらせ目的である)、國語問題協議會四十五年史をひつくり返してゐた。「舊かな」と言つてゐる事例は見附かつた。その後、福田氏は考へを改めて正かなづかひと言ふやうになつたのだから、その意志を尊重するのは當り前だが、罰當たりなtanzenが「福田氏は常識に還れ以降劣化した」と言つてきかない、それ以前に「正字正かな」と言つてゐなければ俺の勝ちだと執拗に繰返す。なんて偏狹な人間なんだらうと思ふのだが、さう云ふ人間に正字正かな派は偏狹呼ばはりされてゐると云ふ奇妙な事實。同じ日本人なのに、俺とtanzenとでは、同じ日本語の言葉を逆さまの意味で認識してゐるらしい。閑話休題。
四十五年史には國語問題講演會のさはりが載つてゐる。第六十二囘(平成十一念五月十五日)、林巨樹氏が「假名の音價・假名遣縁起」と題した講演をしてゐて、そこで斯う述べてゐる。

明治新政府は、右の復古的假名遣を正統のものとして、公用文・教科書に適用しようとし、社會一般もこれに從つた。しかし、この國語假名遣ひと字音假名遣とを合はせて「歴史的假名遣」として確立したのは、明治三十三年公布、明治三十六年刊行の國定讀本からである……。

何うだらう、斯うなるとやつぱり「歴史的かなづかひ」と一纏めにして呼ばれてゐるものについては、問題があると言はざるを得ないのでないか。我々は「歴史的かなづかひ」を必ずしも絶對に守らなければならないと云ふものではないのではないか。即ち、我々が意地でも守らなければならないものは國語の假名遣である、字音假名遣ではない、と云ふ事。實用上は、國語假名遣が必要であるが、必ずしも字音假名遣は必要としない。さうした意味で松永氏の「露伴派」と云ふ態度は、實は正字正かな派の考へ方と表面的には何も變らない。
平成二十一年二月二十七日
「正字正かな」を探せ、とtanzenに言はれて、探す必要もないのに大學生がレポートを書く爲に文字列を探すやうに福田さんの文章を讀んでゐる。そこで「正字正かな」と云ふ文言はさつぱり出てこないが、思つた以上に屡々見出したのが「正統」「正統性」と云ふ言葉。「問ひ質したき事ども」にも軍にとつて何よりも必要なのは、その正統性であり、その要員である。或は(一)は國家、社會における軍の正統性と士気を保證する憲法の問題であり云々と云ふ文章が出てくる。
平成二十一年二月二十七日
恥をかく勇氣のない奴は正字正かな使はないでいいよ。
人に恥をかかせて樂しむ目的で恥をかかせる奴は死んでいいよ。
平成二十一年二月二十七日
詞の玉垣

野嵜さん、ああ云ふのを『出来レース』つて言ふんですよね。自分が勝敗の判つてゐる事柄を持出して、勝負を挑んで、其りや勝てるわな。だけど、今回のは単なる事実の指摘であつて、議論して勝つたのとは違ふんだよ。

其れとは逆に、松永さんは誠実に対応して呉れてゐました。何より自分の意見を述べようと努力してゐたのは文章から確り読取れましたから。あ、此処で書いておくけど、私も絶対的な正しさつてのは無いと思つてゐます。だから、自分自身正しいと認識する事柄に附いて、第三者が必ずしも正しいとは考へない事もあるのは知つてゐます。論理に矛盾は無いか、多くの人が納得可能な内容か、さう云ふ点を大切にし乍「之が正しいのだ」と主張して行きたいのです。

松永氏が誠實だとはちつとも思はない。默つてゐるんだから。俺の矛先が逸れて助かつたとでも思つてゐるんだらう。
tanzenも松永氏も、「正字正かな」とが言つたかを問題にして、スキャンダルにしようとしてゐる。連中は、下らない事を、さも重大な問題のやうに言つてゐる。そして、重大な問題であると喜六郎は言ふ。奴は客觀的な「裁判員」となる快を貪つてゐる。裁判所に行くのは手間だから嫌だが、手間さへかからなければ、他人を裁くのが喜六郎は大好きなのだ。喜六郎くらゐ嫌な人間はゐない。
平成二十一年二月二十七日
「アンチ野嵜」の人間が、殊さら、論理を言ひ、正字正かなと言ひ、政治主義と言つて見せるのは、奴らが、「野嵜の言葉」を使へば「野嵜はぎゃふんとなる」と思つてゐるからだ。
連中は、信じてもゐない價値觀を振りかざし――と言ふより、信じてゐないがゆゑに誤解して、わざと人の信ずる價値觀を歪曲して嫌らしい物に仕立て上げ、「どうだ、これがお前の大好きな價値觀の本當の姿なんだよ」と見せ附け、「お前は自分が信じたこんな嫌らしい價値觀の前に敗北してゐるんだよ」と言つて、嫌がらせをして、好い氣になつてゐる。なんて嫌な人間なのだらう。
平成二十一年二月二十七日
喜六郎は、と學會の眞似をして、「トンデモの人間である野嵜」を叩いて、樂しんでゐる――と言ふより、樂しんで見せてゐる。山本氏のやうなと學會の人々は、眞理・正しさを志向してゐるからこそ、見るからにをかしな事を言つてゐる人々の相對的な價値を認めて樂しんでゐるのだが、さう云ふ態度を喜六郎は絶對に眞似しない。人間が陋劣に出來てゐるからだ。
喜六郎は、正しさ・眞理を尊重しない。喜六郎が何時も言ふのは、否定の文句だけだ。彼は、自分が何を信じ、何を支持するのかは、絶對言はない。さうする事によつて、他人を見下す立場に立つ事が出來るからだ。喜六郎はただ「賢人」の振りをして、他人を見下す事で、自分がこの世で一番偉いと確認したいのだ。彼は、この指摘を否定するが、では、一體自分が何をしたいのかは、一言も言はない。自分の立場を明かにしようとしないのだ。誰が何う見ても、喜六郎は他人を侮辱するだけの爲に侮辱してゐる。さうする事で自分が「賢い」と云ふ事をアピールしたいのだ。
喜六郎は、「トンデモ」の側の人間であり、しかし、「トンデモ」の人間も自分の頭の良さをアピールする爲には智慧を働かせるから、と學會の方法が有效だと解ると早速眞似をする。その爲に、何うあつても「笑ふべき對象」を必要として、たまたま俺が目に入つたものだから、喜六郎は俺に粘着し始めた。が、俺以外の人間に喜六郎は非難がましい事を言つたりしない。喜六郎は、俺ならば非難しても大丈夫だ、と俺の事を舐めてかかつたのだ。が、俺以外の人間に對して、喜六郎はてんで意氣地がない。喜六郎が非難するのは、俺でなければ木村さんと、後はまれにコメントを附ける「野嵜フォロワー」だけだ。自分の領地の中でなら、喜六郎は無敵である。が、自分のテリトリーから出てしまふのを、喜六郎は巧妙に避ける。大體、「大衆」とか「一般市民」とか、或は「誰某(政治家)を非難する人々」のやうな非常に曖昧な存在を、喜六郎は非難して見せる。その程度なのだ。具體的に誰かを相手に使用とすると、喜六郎は決して勝てない。俺のやうな頭の惡い人間でなら、喜六郎は勝てる。だから俺だけを相手にする。しかし――俺の事を散々馬鹿にしながら、喜六郎は俺が必要なのだ。俺がゐなければ、喜六郎は詰らない一般論を垂れ流して、「そこそこ頭の良いブロガー」の一人として、埋沒するだらう。「アンチ野嵜」の人間も、失望して去る事だらう。だから時々、俺が喜六郎に言及するのを、喜六郎は待つてゐるのである。そして、俺が挑發したと言つて、喜六郎は喜んで俺を見下して見せる。そして「喜んでなどゐない」と韜晦して見せる。あれはポーズに過ぎない。喜六郎が「ブログ」をやり、掲示板をやつてゐて、はしやいでゐるのは、傍から見てゐるととても良く判る。しかし、「アンチ野嵜」の人間には共通して言へる事だが、彼等は常に、自分の立場を力強く宣言する事によつて「事實」と化す習性がある。「闇黒日記2.0」に誰かがして呉れた投稿を「自作自演」だと言つて喜六郎が嘲笑した時、俺の事を別に好きでもない「喜六郎より」の人がなぜか忠告して呉れて、曰――俺(野嵜)が「自演してゐない」と宣言すれば話は收まる。宣言する事がそんなに大事なのかと俺は驚いた。宣言なんてした所で、證據になどなりはせず、意味はないからだ。ところが、宣言を尊重する人がこの世には存在するのである。こんな事を言ふからせつかく「忠告」したのにと、その人は俺の事がますます嫌ひになるのだらうが、しかし事實だから言ふのである。
「宣言すれば事實になる」「宣言しても事實とは何の關係もない」――この價値觀は相反するものだ。その一方を俺は取るのだが、アンチの人は俺と逆の價値觀を取る。不思議でならない。
アンチの連中が俺を非難して必ず指摘するのが、文章が長い事だ。俺もアレクセイ田中幸一の長い長い文章を難じたものだが、あれは何時までも何時までも「俺は偉い」「俺は偉い」と繰返すだけの無内容のものだから非難されて當然だ。しかし、俺が長い文章を書くのは、正確に言ふ爲だ。「アンチ野嵜」の連中は、俺を非難する時、非常に短い惡口を言ふ。それは何時も根據のないレッテル貼りだが、さう云ふレッテル貼りの短い文章をアンチの連中は正しいと信じてゐる。しかし、嘘を吐く事、わざと曖昧に書いて事實を歪曲する事こそ、俺は許せないと思つてゐる。だから文章が長くなる――俺にしてみれば、短い文章を書く方が無責任で不誠實な事だ。この點でも俺とアンチとでは價値觀が異る。そして、俺はアンチの連中の價値觀は間違つてゐると思ふ。だからこそ、連中に對して俺は何時も價値觀の事を問題にするのだが、連中は話に絶對に乘つて來ない。連中は、事實で爭つて、俺が必ず不利になるやうな形で「事實を提示しろ」と要求し、俺が「できない」と言ふと、「野嵜は負けた」と喜んで、宣傳を始める。
――しかし、「宣言すれば事實になる」と、アンチの連中も、實は信じてゐないのだ。俺が、「自分は正確な事を書かうとしてゐるのだ」と宣言しても、連中は認めない。連中は、俺が長い文章を書くのは「負け犬の遠吠え」だと極附け、その極附ける文章が短いがゆゑに「眞理である」と信ずる。連中は、自分にとつて都合のいいやうに物事を解釋するのを當然の事と思つてゐる。俺にはさう云ふ惡しき「相對主義」は受容れられない。ニーチェだつて、さう云ふ「相對化」を乘越えるべき事を主張してゐる。
平成二十一年二月二十七日
實際に正しく歴史的假名遣を使つてゐるか何うかが問題なのではなくて、書く時に間違つたらそれを正す基準として歴史的かなづかひに據るんだ、と云ふ意識を持つてゐる事が重要なんだ。
「現代仮名遣」で書くと言つてゐる人は、實際には、間違へても「現代仮名遣」と云ふ「規範」に照らして訂正しようだなんて全く考へてゐない。それより、自分達の書き方に合はせて「規範」の方が變れば良い、と考へてゐる。それでは規範が規範として機能しない事になつてしまふ。
現實が規範に合はせるのではなくて、規範が現實に合はせる、と言ふのでは、規範は何の爲にあるんだらう。それは現實の言語をただ記述・記録しただけのものではないか。或は、そんな「規範」で現實を「正す」事は出來ない。そんな「規範」に現實を「正す」力はない。
――だから全部意識が問題なんだよ。事實を言ふのは意識の問題が片附いてからだ。
科學は事實の問題を扱ひ、哲學は價値觀の問題を扱ふ。哲學によつて價値觀が決定されてから、初めて事實を扱ふ科學が可能になる。科學が自律的に存在し、機能するなんて事はあり得ない。
平成二十一年二月二十七日
みんな誤解してゐるんだけど、眞理や正義は人に恥をかかせる爲のシステムなんだよ。それも途轍もなく平等な。眞理や正義を使つて一方的に他人に恥をかかせる事なんて出來ない。だから「正義を振りかざす」なんて非難の仕方は不可能なんだ。正義を振りかざしても、その正義は振りかざした當人にすら襲ひかかるかも知れない狂暴な存在だ。だから、アンチの連中は「野嵜の正義」を「野嵜本人」に向ける。しかし、それこそ正義と云ふものが公平無私なものである決定的な證據だ。
正字正かなを使ふ事は、正字正かなの正義を振りかざす事ではない。自分自身が誤つた時、正字正かなの正義は自分自身にも恥をかかせるものだからだ。
そして人間は、傲慢に陷らない爲に、自分自身にも恥をかかせ兼ねない正義を持つてゐなければならない。
平成二十一年二月二十七日
喜六郎なんかは、獨斷で俺を否定するけれども、獨斷を眞理だと信じ込んでゐる――自分の解釋を何の根據もなしに眞理だと信じ込んでゐるから、傲慢である事が明かなんだ。
喜六郎は、俺が何を言つても反論しないし、反論する價値もないと云ふけれども、反論する價値があるか何うかを判断する事自體が價値判斷だし、價値判斷したその時點で最う再反論される事は可能なんだ。
何でさう云ふ事が喜六郎には解らないのだらう。

平成二十一年二月二十六日
しかし白石良夫の主張は奇妙です。
白石は歴史的かなづかひが必ずしも合理的でなく、流動的であるとして非難します。そして、一般の國民には難し過ぎ、支持されなかつたと言ふのです。ところが、「現代仮名遣」について述べる時、規範は學問的である必要などない、社會的な約束として決める事が大事なのだ、と言ふのです。そして規範は、一度決めたら押通す事が大事なのだと説いて、「現代仮名遣」を守るべき事を言ふのですが、なぜ歴史的かなづかひでやつて行くと明治時代に決めたのに、それを押通さないでいいと言ふのか、解りません。
――實は、白石は、あゝ言へば上祐ではなかつた、あゝ言へば斯う言ふの典型で、場當り的に、自分に都合良く、物事を判斷する基準を、くるくる變へてゐるのです。
が、さうしたやり方で、「今通用してゐるもの」を既成事實として正當化するのを、私はある議論で既に見てゐます。それは大日本帝國憲法を否定し、「日本國憲法」を肯定する、あの議論です。
大日本帝國憲法を非難して、多くの條項に穴があり、國民からも支持されなかつた、と言ひながら、しかし、「日本國憲法」を擁護して、社會的な約束として憲法は爲政者にとつて都合の良いやうに自由に決める事が許されるし、一度決めたらそれを守つて行かなければならない、と言ふ――なぜ大日本帝國憲法でやつて行くと明治時代に一度決めたのに、それを守らないでいいと言ふのか。
「日本國憲法」にしても「現代仮名遣」にしても、その出自は大變怪しい――ところが、さう云ふ指摘に對して、大日本帝國憲法も歴史的かなづかひも出自は怪しいぞと「反論」し、だからこそ「社會的な約束」として勝手に決めていいと言つて、「日本國憲法」と「現代仮名遣」だけが存在していい、と結論する。社會的な約束としてなら、大日本帝國憲法でも歴史的かなづかひでもいい筈です。が、さう言ふと「不合理である」「不便である」「穴だらけである」と言出す。そこで「日本國憲法」も「現代仮名遣」も不合理だ、穴だらけだ、と指摘すると、「國民が支持してゐる」と來る。堂々巡りです。しかし、さうやつて「順番」に「話を進める」からもつともらしく見えるだけで――或は、鼬ごつこになつて逃げ切れたやうに見えるのであつて、冷靜に論理で考へると、「日本國憲法」でも「現代仮名遣」でも、それだけを「正しい」とする理論は存在し得ません。「既成事實」と云ふ事で「悔しかつたら現實を變へて見ろ」と言放つて、反對する人間を嘲る事で、「日本國憲法」や「現代仮名遣」の「支持者」は勝つた氣になつて好い氣になるだけです。これでは議論になりません。そもそも、「既成事實」が「ある」と云ふのなら、大日本帝國憲法でも歴史的かなづかひでも、一度は通用した實績があるのです。その「歴史が淺い」と非難するのなら、「日本國憲法」でも「現代仮名遣」でも、歴史が淺い事に變りはありません。ところが、同じ「歴史が淺い」と云ふ文句が、「日本國憲法」「現代仮名遣」には通じない。二重基準も良いところです。
「日本國憲法」や「現代仮名遣」と云ふ既成事實を楯にとる人々に、理念的な話は通じないのです。これは大變困つた事です。
現實に何か起きてからでないと動かない人がゐます。が、何か起きてからでは間に合はないのです。だからこそ、事前に理論的なシミュレートをする訣ですが、「今大丈夫だからいいんだ!」と言つて話を拒否する。それでその人だけが困るのなら構はないのですが、憲法でも國語でも、全國民が困る事になるから、さう云ふ頑な態度をとるのは良くない訣です。
平成二十一年二月二十六日
http://greengablez.net/diary/h2102#H201225-4

『何うしてKyouとhaの間に空白があるのだらう。Kyouhaで變換できなければをかしいぢやないか。』の意味がわからない。そもそもSKKは「分節」ではなくて「單語」を變換するソフトウェアであるので、『體言の「今日」と助詞の「は」を分斷』するのがあたりまへである。

『SKKは「今日」「は晴」「れです」と日本語の文章を分ける。』とも書かれてゐる。しかし實際に使へばわかることであるが、SKKの使用者は「今日」「は(無變換)」「晴-れ」「です。(無變換)」と分けて考へる。

だーかーらー。單語を變換するのでは使へないんだよ。だつて俺は文章全體をまとめて思ひ浮べるんだから。少くとも、「今日は」は一續きで考へる。「今日」「は」と分けては絶對に考へない。日本語なのだから、詞と辭とは膠着してゐるのが當り前だ。それを分斷するのだからSKKは駄目だ。
そもそも文節を意識せず、單語を變換出來ればそれでいいなんて發想で日本語の入力ソフトを作つてゐるのが間違だ。
平成二十一年二月二十六日
Apple×HTML5? - vantguarde - web:g

「HTML5はブログ用」とか「迎合」みたいな事をいう人が居たりしますが、内容モデルを見たりすると、必ずしも#headerがheaderに対応したりするわけではなかったりするんですよね。まあ、そう言うのも無理はないなあとも思いますが。

いや、HTMLだつて、あれか、これか、のどつちか、に分れるのだし、HTML 5は何うしたつて認められない。
歴史的假名遣と「現代仮名遣」とで、「現代仮名遣」を認められないのと一緒。根本的な理念が違ふんだよ。
平成二十一年二月二十六日
正字正かな - カナかな団首領の自転車置き場
2009-02-26 - 大和但馬屋日記
昔キーボード入力よりも手書き入力が發達すべき事を主張して某さんと言爭つた事がある。
平成二十一年二月二十六日
おせっかいな文章 1
おせっかいな文章 2
松永氏やtanzen氏の場合、俺が「正しい」「正しい」と言つてゐるから當てつけで「正しいなんて云ふ事はないし、言ふ人間は正しくないのだ」と極附けてゐるだけだ。喜六郎もさうだ。彼等の「論理」も、全て俺が「論理は重要だ」と言つてゐるから、その「論理」を使つて俺を凹ませてやらうとしてゐるに過ぎない。彼等は、俺の立場を否定して――俺と云ふ人間を否定する事で、自分は偉いのだと確認しようとしてゐるのだ。さうした個人的な快樂の目的の爲に、俺と云ふ個人を潰しにかかりながら、彼等が恰も自分逹が公益性を主張してゐるかのやうに擬裝してゐるから、俺は彼等が許せない。
さう指摘すると、彼等は、「野嵜こそ、正しいと言ふ事で、自分が快樂を追求してゐるのをごまかしてゐるのだ、野嵜こそ惡人なのだ」と極附ける。さうやつて俺をやり込めようとしてゐるのだ。が、叮嚀語で松永氏の「ブログ」に書込んだtanzen氏が、俺に反論されると、飛んでもなく侮蔑的な調子で俺に對する恫喝を始めたのを見れば、tanzen氏が俺を馬鹿にして快樂を得ようとしてゐただけなのは明かだ。tanzen氏は、俺を愚か者で惡人と云ふ事にしたくて俺を嘲つてゐる。喜六郎にしても、俺を一方的に罵倒する許りで、俺の反論を何時も無視する。俺を馬鹿にして樂しむ目的で粘着をしてゐるのだ。彼等は「野嵜を馬鹿にするだけであり、そこから先の、論爭においては絶對に必要な事――何らかの眞理や正義を闡明しようとする事――には、手を着けようともしない。俺個人を攻撃するのが終着點であるのだから、彼等のしてゐる事は個人攻撃であり、公益性のある批判ではない。
一方的に俺を攻撃するだけで、俺の反論に眞面目に再反論して來ない連中は、俺を馬鹿にする事・俺に對する個人攻撃が目的だ、と見て間違ひない。もし本當の事・正しい事・眞理を知りたい・明かにしたいと思つてゐるのなら、俺の反論に對して、彼等は自分の批判を反省し、その上で再反論して來る事だらう。彼等が、自分が最初に仕掛けた攻撃の仕方に固執して、俺の反論に應じて自身の思考を變化させず――俺の反論を無視して、ひたすら自分に都合良く話を展開しようとしてゐる事は、彼等が俺と議論をしようとしてゐるのでなく、一方的に俺を攻撃しようとしてゐる事實の決定的な證據だ。
平成二十一年二月二十六日
MS、Autorunを正しく無効化するための更新プログラムを公開
平成二十一年二月二十六日
Piro氏、野嵜氏、2ちゃんねる利用者の内の善良なる諸氏、そしてその他の諸氏への辯明
なんかあつたらしいがよく知らない。變な子が暴れてゐるらしい。と言ふか、斯う云ふのは變な子が惡いだけで、それに迷惑してゐる人が變な子に代つて謝る必要はないと思ふ。
俺も「義」が俺の名前を騙つてあちこちの掲示板や「ブログ」のコメント欄を荒してゐるのについて、最う何とも思はない事にしてゐる。
責任感の強い人をやつつける目的で、わざと無責任な行爲をやつてその人に責任をかぶせようとする惡い奴がゐるけれども、責任感が強い人が惡い人間である訣がない。
平成二十一年二月二十六日
http://www.geocities.jp/janggijp/2009-02.html#D26-2(續々・IME)
KEFUhaHAREdesuとか。
WATASHIhaTADASHIitoIFuKOTOwoMITOMEteOKitainodaとか。
平成二十一年二月二十六日
「諸君!」でもなんかあつたらしいが氣附かなかつた。最近の俺の情報收集能力の低下は異常。WiLL四月號で深澤成壽氏が「文藝春秋 福田恆存「剽竊疑惑」の怪」と題して、「諸君!」の二月號と三月號で竹内洋と云ふ人が書いた文章を批判してゐた。
深澤氏に據れば――福田恆存が有名な「平和論に對する疑問」を書くのに、清水幾太郎の書かうとしてゐたネタを盜んだのではないか、と云ふ疑惑を竹内氏が二月號で發表し、「當時、大熊信行と云ふ人が剽竊を指摘してゐた」と「證據」を提示した。その竹内氏は、三月號で、福田全集第三卷の「覺書」を見て、剽竊でない事が判つた、話は逆で、福田氏が話した事に觸發されて清水氏が文章を書いたのだ、と述べ、疑惑は氷解したと結論した。
しかし、そこで話を收めてゐればまだいいものを、清水幾太郎のうさん臭さを福田氏が嗅ぎ附けたのでなく、清水氏の剽竊を恨んで、のちに福田氏が清水氏批判の「近代日本知識人の典型 清水幾太郎を論ず」を書いたのでないか、と再び竹内氏は臆測を書いてゐると云ふ。
深澤氏は、竹内氏が「福田ファン」を挑發し、煽らうとした輕薄を批判し、福田恆存が意外に讀まれてゐない事を嘆く。その點では同感だ。しかし、福田全集を出した文藝春秋の、福田氏が屬してゐたとされる保守派の雜誌「諸君!」の編緝者ですら、福田氏を讀んでゐない――深澤氏は、文春の論調が變貌しつつあるのではないかと國民新聞に書いたさうで、この邊、「WiLL」的な餘りに「WiLL」的な話の持つて行き方であり、感心しない。

「平和論の進め方についての疑問」論文から四半世紀、清水幾太郎は「諸君!」の昭和五十五年七月號に「核の選択 日本よ 国家たれ」を發表する。それはさながら「自民党右派御用達」のやうな論文で(内容省略)、「あの清水幾太郎が!」と世間は騒然となつたが、私は、「何をいまさら」「よく言ふよ」と鼻白む思ひであつた。

斯う書いた深澤氏が、期せずして本誌『WiLL』三月號で、西尾幹二氏がずばり「『文藝春秋』の迷走」として別の視點からこれを深く論じてをられた。と論文を纏めてゐるのである。俺にしてみれば、西尾もまた「何を今更」であり「良く言ふよ」なのであるが――全てを承知の上で深澤氏が西尾を襃め殺しにしてゐるのではないかと疑ふ必要はない。深澤氏、眞面目に西尾を褒めてゐる訣で、當てこすりや皮肉を言つてゐるのではないと見て良いだらう。
平成二十一年二月二十六日
チャンネルnecoであのなつかしい糞アニメ・タクティカルロアをやつてゐるが、DVDヴァージョンらしく、おまけのノークレジットオープニングまで放送してゐる。DVD-Rに燒くのでオーサリング作業をしてゐて氣附いた。
平成二十一年二月二十六日
松永氏の「ブログ」のコメント欄で、tanzenと喜六郎が結託して俺の事を引つ掛けやがつた。しかも正字正かな派の人間は誰一人あのコメント欄で俺の事を擁護しようとしない。喜六郎大喜び。アンチ野嵜大喜び。アンチ大勝利。俺涙目。正字正かな派壊滅だ。アパッチ正かな軍なんて詰らないジョークに反應して喜んでゐた連中は、一人として信用できない。さう云ふ好い氣になる馬鹿がゐるからこそ、松永氏は正字正かな派批判を書いたのだらうし、喜六郎やtanzenのやうな連中が跳梁跋扈するんだ。

平成二十一年二月二十五日
言葉が時代につれて變化するものなら、「現代仮名遣」は既に古びてゐよう。
もし時代の趨勢が誤に流れるもので、「現代仮名遣」が現代の趨勢に從つたものならば、「現代仮名遣」は誤に流れたものであらう。
全て文化的なものは、變化する間に墮落する。その時、人は過去のものに標準を再發見する。「現代仮名遣」は堕落である。我々は改めて正しい假名遣を再發見しよう。
平成二十一年二月二十五日
鳩笛雑記帳 2009-02-24
一往コメント入れて來た。誤字はそのまゝ。
  • 2009/02/25 00:36

御參考までに申し上げますが、「現代仮名遣」にあれだけ反對した福田恆存は「正統表記」と云ふ用語を昭和六十二年の福田恆存全集第四卷の覺書の末尾ではつきり塚つてをります。

かうして幾多の先學の血の滲むやうな努力によつて守られて來た正統表記が、戰後倉皇の間、……、慌ただしく覆されてしまつた、まことに取返しのつかぬ痛恨事である。

正統表記と云ふ言ひ方を福田氏が使つた事は、我々正字正かな派の立場が全く偏狹とは無縁のものである事實を福田氏が認めてゐた決定的な證據と言へませう。

平成二十一年二月二十五日
2009-02-25 - 大和但馬屋日記

八十年代のサブカルに憧れた同世代人ほど頑迷な保守主義者は居ないんぢやないか。

平成二十一年二月二十五日
詞の玉垣
  • anthy の正字正かな辞書の製作、進捗状況改変のみで「お」の途中。なので、公表できず。
氣にしないで出せば良いと思ふ。
HDDが死んだりしてデータをなくした時、誰かが拾つてゐれば、なんとかなるし。
平成二十一年二月二十五日
http://d.hatena.ne.jp/matsunaga/20090222#c1235520518
tanzen氏の傲岸不遜な囘答が返つて來た。

2つばかりの用例をあげることが何で「正字正かな」などという言葉をほとんど使っていない、という記述の反証になるんだ?

しょせんは一種のコスプレ愛好家のくせになにを威張っているんだ。

この人、他人を「偏狭」と言つて罵つたのと同じ人なんだよね。何を考へてゐるんだらう。
平成二十一年二月二十五日
歴史的仮名づかいについて教えてください。 - BIGLOBEなんでも相談室
字音假名遣は歴史的かなづかひから除外した方がいいかも知れない。「現代仮名遣」でてにをはのかなづかひと字音のかなづかひを區別してゐないものだから……。
平成二十一年二月二十五日
khipu :: かなづかい入門 - <その1> (tetu@"aqua"internet版khipu別館)

……。・白石良夫「かなづかい入門 歴史的仮名遣 vs 現代仮名遣」(平凡社新書)は実に刺激的な副題の書である。しかもその帯に「『考へる人』は『考える人』よりえらい?」(仮名遣ひ相違部分に上点あり)とある。かういふ所でかういふ発想をすること自体が私は異常だと思ふのだが、この帯の自著を流通させてゐる白石氏はこのコピーを認めてゐるに違ひない。仮名遣ひに上下があるとすれば、それは政治の世界のことである。私は書名を見て、これは政治の世界の人の仮名遣ひ論だと思つてしまつた。……。

tanzen氏にしても松永氏にしても、白石氏と同じ發想の仕方をしてゐるんだよな。
平成二十一年二月二十五日
字音假名遣なんか覺えなくたつて實用上何の問題もないのに、「現代仮名遣」派――と言ふより、アンチ歴史的かなづかひ派は、歴史的かなづかひを支持する人間は字音假名遣を全部完璧に覺えてゐなければならないと言つて人を脅す。何なんだらう。さうやつて人を脅すやうな人間が「現代仮名遣」は「いいぞ」と猫撫で聲を出す。tanzenも、どすの利いた口調と、猫撫で聲とを、巧みに使ひこなしてゐる。「アンチ歴史的かなづかひ」の人間は、やくざなのだらう。
字音假名遣の難しさ・數の多さは、「字音假名遣の問題」でしかない。歴史的かなづかひを使つて漢字假名交じりで日本語の文章を書く、と云ふ立場の人間(正字正かな派の事だ)を攻撃するのに、「字音假名遣の問題」を持出すのは、的外れも良いところだ。これは、何も知らない素人を騙す爲に、專門家が知識を惡用してゐるのだ。
現實には、日本語の文章は漢字假名交じりを本則とするから、字音假名遣は漢字の蔭に隱れて出てこない。だから、實用上は字音假名遣を覺える必要がないし、そもそも字音假名遣を驅使してかなだけで日本語の文章を書かうとするのは間違つてゐるから、實際の文章で字音假名遣を使ひこなして見せる人がゐるとしたらその方が間違つてゐる。
平成二十一年二月二十五日
結婚式 教えてQ&A 旧かなづかいについて
親切な人が詳しく教へて呉れてゐるけれども、字音假名遣の事を言出したら質問者がびびつてしまつた。
實際、字音假名遣つて、かなづかひではないんだよな。支那語音を日本語の音韻――と言ふか、日本語のカナモジで何う書表すか、と云ふ決りだから、發音記號なんだよ。
他の正字正かな派の人では違ふ意見の人が多いだらうけれども――俺は、日本語の文章は必ず漢字假名交じりで書表すから、「かなづかひは常にかなで書かれるてにをはの部分にのみ存在する」と看做すべきだと思ふ。
「字音假名遣」を歴史的かなづかひから排除せよ――或は、「上代特殊假名遣」と同じやうに、「表記としての假名遣」の範疇から「字音假名遣」も除くべきだ。字音假名遣は、漢字の發音記號だ。
平成二十一年二月二十五日
南橘北枳: 「かなづかい入門」
白石の本、本當に廣範圍に惡影響を及ぼしてゐるやうだ。粘着アンチの「義」がデマを流してゐるのと同じだ。

「歴史的かなづかい」は平安時代前期のかな表記(当時の発音どおり)を基準にしているので、当時存在しなかった言葉や、当時の文献に用例のない言葉は、理論的な推定(語源など)をして「かなづかい」を決める。いわば架空の言葉(実際に歴史的仮名遣いをネイティブとして使った人はいない)ということになり、かなりの学習してやっと使えるもの。普通の人が使うにはかなり無理がある。

白石のわかりやすすぎるくらゐわかりやすい文章に説得されたやうだ。けれども、納得させられたやうなさせられなかつたやうな、變な氣分であるらしい。

「泥鰌」の表記についても、

  • 「泥鰌屋ののれんに『どぜう』とかいてあるが、あれは間違いだぜ、旧かなでは『どぢやう』の表記が正しいんだよ」

なんて思っていましたが、「どぢやう」も多数説という程度のようです。

実際、中世の文献では「どぢやう」、「どづを」、「どぢを」、「どじやう」、「どじょう」、「どぜう」などが出てきており、平安時代には用例がない、とのこと。

その通りで、くぢらかくじらか、とか、いろいろ「判らない爲に正しい表記を決められない」例はいつぱいあります。が、だからと言つて「發音通り」の「現代仮名遣」ならいいか、と言ふと、實は大變問題があつて――何うして我々は或發音をするのか。
發音通りに書いて文章が通じるやうにする爲には、正しい發音を我々がしてゐるか何うかを判斷出來ないと困ります。發音通りに書いて正しく文章を書ける爲には、事前に正しい語を知つてゐなければならないのです。ところが、をかしな話です、正しい語を決める爲には、正しい發音を決めなければならない訣ですから。斯うなると、最う鷄が先か、玉子が先か、訣が解らなくなつて來ます。しかも、「現代仮名遣」と云ふ書き方の決りがあつて、これが「發音通り」と云ふ建前なので、書き言葉が話し言葉を規定してしまつてゐる、と云ふ甚だをかしな事になつてゐるのです。しかも、「現代仮名遣」で「は」「へ」「を」と書く事になつてゐるにもかかはらず、發音は「わ」「え」「お」です。それだけではありません、「脳内」「妄想」を「のうない」「もうそう」と書いて「のおない」「もおそお」と讀ませようと言ふのです。「経営」「衛兵」も「けいえい」「えいへい」と書いて「けえええ」「ええへえ」と讀ませようと言ふ。或は、さう云ふ發音の語を、發音通りでない「決り」に從つて書かせようと云ふのです。これは何うでせう。
歴史的かなづかひが正しい表記を決めるのに屡々根據を缺いてゐるのは事實です。ところが、「現代仮名遣」の場合、「正しい表記」は決つてゐるけれども、なぜさう決めたのか、と云ふ原理が全く解らないし、屡々説明と現實の決りとが食違つてゐるのです。「現代仮名遣」を決めた人々は、「これは決まりなのだから、日本人は黙って従っていればいいのだ」と言ひ、「現代仮名遣」を支持する人もさう言ひます。けれども、歴史的かなづかひを支持する人は、「わからないものはわからない」と正直に言ふのです。私は、歴史的かなづかひを支持する立場の人間の方が、遙かに正直でゐられると思ひます。「現代仮名遣」のやうに、嘘を吐き、詭辯を弄して、「決り」を押附けるやり方は、何うかと思ひます。
白石は官僚で、「現代仮名遣」を維持する立場の人間です。さう云ふ人が詭辯を弄し、嘘を吐き、或は脅迫して、「現代仮名遣」を意地でも守らうとしてゐるのです。官僚は、公務員は、國民に奉仕すべき事が、憲法で定められてゐます。否、最う、白石は公務員ではない、私人として意見を公開したのだ――さう云ふ反論も「ある」かも知れません。けれども、公務員時代に、斯かる意識を匿して、それで國民を裏切り、馬鹿にした政策を、默つて實施してゐたのだとしたら、それこそ問題ではないでせうか。
例の朝日新聞社襲撃事件で、「實行犯」と稱する人が週刊新潮に「事件の真相」を書いてゐて、本當か嘘か――何うも嘘らしい、と言はれてゐますが、あとで自分のやつた犯罪行爲を、最う責任を取る必要がないから、と言つて、告白であれ自慢であれ、平然と述べてゐるとしたら、道徳的に如何なものでせうか。そもそも、今、責任を取る必要がないと言つても、當時やつた事が「惡くなくなつた」訣ではないのです。週刊新潮の記事の場合、センセーショナリズムがあつて、編集部が讀者獲得の爲に派手な文章を載せようとしてあんなものが載つたのでせう。けれども、白石の場合――何うも自分では惡い事をした意識が無いのです。さう云ふ人が官僚として、裏から國の政策を操作し、國民の生活を左右してゐる。これは恐ろしい事だと思ひます。
平成二十一年二月二十五日
『かなづかい入門』 - 博客 金烏工房@長春
此處でも白石の本に説得されてゐる人が。しかし。

その批判の舌鋒はかなり熱く、私自身ももっともだと思う所が多いのですが、そこまで批判をしなくちゃいけないほど口うるさい歴史的仮名遣愛好家が今の日本にどの位いるものなのかと疑問に思ったり……

現行憲法無效論を主張してゐる人が大變少い現状にもかかはらず、多くの憲法概説書で現行憲法無效論をいちいち論破して見せてゐる。それと同じやうな事を白石がやつてゐる、と、この人は無邪氣に指摘してゐる。白石ら「現行かなづかい」派の人々は、何を恐れてゐるのだらう。案外、白石のやうな人々は、國民を、脅したり、すかしたり、いろいろな方法で「説得」してゐるけれども、その説得に自信がないのでないか。

本書では全国民の表記の規範としての歴史的仮名遣は歴史が意外と浅く、もともとが明治政府によって政策的につくられたもので、終戦の時点までで100年の歴史すら持っていなかったこと、しかも歴史的仮名遣や、漢字の音読みを示す字音仮名遣は使う側にとって複雑すぎてかなり無理のあるもので、既に明治20年前後に表音式仮名遣いを要求する世論がおこっていたことなどを指摘し、現代仮名遣を毛嫌いし、歴史的仮名遣を称揚する向きに対して批判をしています。

そもそも日本では近代化の歴史が淺い事、にもかかはらず歴史的に近代化は否定出來ない事、契沖の假名遣は近代的な假名遣の整備の試みであつた事、近代化の實現を目的とした明治政府は既存の假名遣の近代化の方法である歴史的かなづかひを合目的的であるとして採用した事――さう云ふ事を考へれば、「歴史の浅さ」と云ふ指摘自體が意味をなしません。
字音假名遣は漢字に隱れて實用上無視して良い事は、何ども述べた通りです。
「現代仮名遣」に反對してゐる正字正かな派は、毛嫌ひをしてゐるのでなく、その正體を良く知つた上で反對してゐます。寧ろ、「アンチ歴史的かなづかひ」の人こそ、歴史的かなづかひを毛嫌ひしてゐると言へます。
表音的假名遣を要求したのは、一部の知識人でしかありませんでした。文部省の官僚が積極的に國字の表音化を主張した事實があり、注意が必要です。彼等は自分逹の手で日本國を變へたかつた――自分逹の實績を作りたかつたのです。白石も官僚で、先輩の實績を潰したくなかつた、だから過去に先輩官僚の手によつて實施された國字改革を擁護し、自分逹に反對する人間の批判を潰す爲に、活動を續けてゐるのです。
平成二十一年二月二十五日
jiyunの本棚 - かなづかい入門―歴史的仮名遣vs現代仮名遣 についてのレビュー | ブクログ
レビューと言ふより、拔き書き。
これらの白石の指摘を、レビューアーの人は「尤もだ」と思つたのだらうか。

44p 「規範というものは,学問的に正しくなければならない,というものではない」  規範としての仮名遣問題を定義するなら,それは,発音と仮名表記とのあいだにあるずれ,それによって引き起こされる仮名のつかい方の混乱を,いかに社会的な約束で調整するか,ということに尽きる。

規範仮名遣のなかった九世紀の日本人が歴史的仮名遣を念頭において仮名をつかっていたわけではない。この時代の仮名のつかい方(記述仮名遣)をもとにして定めたのが歴史的仮名遣(規範)であるから,結果的に表記が一致するだけの話である。……空海や紀貫之の仮名表記をさして歴史的仮名遣といったら,思考の方向として逆を向いていることになる。……学術用語としての「歴史的仮名遣」は,現代仮名遣が施行されるまえに日本人の規範であった仮名遣をさして言うのが普通である。

「社会的な約束」として「調整」する根據は必要ないのか。
九世紀の日本人の目の前には、固定的な規範は存在しなかつた。が、「正しい書き方はある筈なのだ」と彼等は信じてゐた。弘法大師が作つたと信じられたいろは歌に現れる四十八文字のかなが、當時の人々にとつては一種の規範であり、そのかなで以て當時の言葉を書記す事が、規範に從つて書く、と云ふ事だつた。何しろ近代ではないのだから、近代的に整備された規範がある筈がない。しかし、科學が未發達だつた時代に、人々が神の攝理を信じたやうに、規範としてのかなづかひが未發達だつた時代の日本人が何處かに存在する正しいかなの使ひ方を信じてゐたと考へる事は不自然ではないし、寧ろ我々現代人は、先祖のさうした正しさを志向する意識を信ずるべきではないか。

46p 仮名遣の創始者が藤原定家だといったが、定家が仮名遣の必要を痛感したのも、じつは、われわれとおなじ環境におかれていたためであった。発音どおりに仮名がつかわれていない、おなじ発音なのに違う仮名で書かれている。定家とわれわれの決定的な違いは、われわれには出来あがったルールがあってそれに従っているのに、定家にはそのつかい方のルールがまだなかったことである。だから、定家は自分がそのルールを作らねばならないと考えた。仮名遣問題を論じるとき、したがって、この定家を避けて通れない。「仮名遣とは何か」という本質的な問いと答えは、定家の仮名遣のなかにこそ隠れているといっても過言ではない。

實際、定家は「お」と「を」の遣ひ分けを、アクセントに從つて決めようとした。この點、定家の假名遣には「ルールを創作する」態度が紛れ込んでゐたと言ふ事が出來る。が、この點は反省すべき點であり、學ぶべき點ではない。「自分でルールを作つてしまつていい」と考へる事がそれ自體として許されないのだ。白石によれば、定家は表記のルールを作らうとした、だから我々も表記のルールを作つて良い。そんな事はない、勝手にルールを作つてはならないのだ。それは傲慢な事だ。

p85 仮名遣にとって大事なのは、どれを選ぶかではない。選んだもので押し通すということ、これが仮名遣の本当の意味なのである。

これは大間違ひだ。間違つたかなづかひは正さねばならない。當り前の話だ。間違ひでも一度選んだのだから押通さねばならない――そんな事を契沖は思つてもみなかつただらう。白石は、間違だと指摘されても構はない、「現代仮名遣」を選んだものとして押通さなければならないと言つてゐるのだ。白石に據れば、規範は理窟でない、と云ふ事になる。

111p 契沖仮名遣は、はるかいにしえの人間との対話の道具であることに意味があるのであって、そもそも現実のコミュニケーションのためのものではなかったのだ。

112p 歴史的仮名遣は、古代人との心の感応の道具だった契沖仮名遣を近代の実生活の場に復活させた、時代錯誤の代物だった。現実の生活には不向きな言語だったのである。

契沖が試みた「過去の人間と現代の人間とを繋ぐ」事を、より一般化して、實生活の場で行はうとする、それの何が惡いのだらう。
近代化を目指した明治政府は、しかし、近代化の爲に復古と言ふ手段を用ゐた――それを時代錯誤だと言ふのだらうが、近代化の過程では常に過去への囘歸が試みられる。それは時代錯誤として切捨てて良いものではない。寧ろ、過去の正しかつた時代への囘歸――と言ふより、過去を省みて現代の誤を正す、と云ふ態度は、我々が絶對に忘れてはならない態度である。或は、現代に生きる人間は、先祖によつて營々と蓄積された過去の傳統と云ふものの上に立つて生きてゐる。この事實を改めてはつきりと意識する事は必要な事で、それによつて我々は、改めて今、自分が生きてゐると云ふ活き活きとした實感を得る事が出來る。
明治政府の行つた事は、過去と現代との間に聯關をつけておかうと云ふものであつた。封建時代、地方ごとに分れて地域の共同體の中で生活してゐた日本人を、近代國家として一つに纏めて行かねばならない歴史的な流れの中で、明治政府が大和民族の意識の昂揚をはかり、例へば民族統合の象徴として歴史的な存在としての天皇を、改めて現代の統治者として戴く方針を示した事は、歴史的に必要な事であつたし、今から見てもこれ以上に有效な近代化の手段はあり得ないやうに思はれる。明治政府の近代化政策の多くは、明治になつてから考案されたものばかりでなく、既に江戸時代に試みが始まつてゐたものがあつた。そして、江戸時代に行はれてゐた試みは、日本人の主體的な近代化の試みであつた。契沖のかなづかひを含む、國學の運動は、思想的な近代化の運動であつた。外壓によつて明治政府は國家體制の近代化を行はざるを得なかつたが、しかし、日本人の内發的な近代化の試みとしてかなづかひの整備の試みが江戸時代、既にあつた、と云ふ事實は、何があつても守らなければならないもののやうに私には思はれる。
さうした内發的・主體的な日本人の近代化の試みである歴史的かなづかひに對して、國語の表音化は外壓に屈する形で日本に近代化を齎さうと云ふものであつた。先進國の制度である表音式の表記を移入し、それによつて日本の富國強兵を容易に達成しようと言ふのが表音主義者或は文部官僚の主張であつた。然るにその主張は、盲目的な西洋崇拜に基いたものであり、當然の事ながら、西洋の制度の正確な把握に基いたものではなかつた。言はゞ「西洋信者」が西洋の權威を利用しようとした訣である。彼等は、日本の文化・日本の歴史を尊重してなどゐなかつた。ただ力づくで事態を動かさうとしたのであつた。さうした策動は、森鴎外ら、日本の文化、日本の歴史を良く理解した人々によつて阻まれた。大東亞戰爭の敗北によつて、文化や歴史が全く顧みられなくなつて、彼等は目的を達成し得た。彼等國字改革推進派の主張が文化的でも歴史的でもない事實は、敗戰直後の混亂期に一擧に事がなされた事實によつて明かである。

  あとがき  p211 歴史的仮名遣は、適用範囲や理念のうえで契沖仮名遣とは異質であり、国民が共有する正書法、という役割しか担わされていなかった。だが、国民が共有するにはいささか過激で不便であったので、現代仮名遣に取って替えられた。/現代仮名遣に取って替えられたそのときから、歴史的仮名遣は、不幸にも、文化や伝統の継承者という幻想を、一部の声高なひとたちによって背負わされたのである。それを「伝統の捏造」とおとなしく言ってみた。

江戸時代の自主的なかなづかひ整備の試みであつた契沖の假名遣が學問的な範圍内のものであつた事は事實である。が、それが學問的であるがゆゑに、合理的であり、合理的であるがゆゑに、近代的である事實は、明治時代に政府が近代化の手段として契沖の方法を採用した理由として十分である。其處では、契沖の方法が、契沖の意圖と異つた目的で採用されてゐるが、しかし契沖の目指したより正しい假名遣を實現しようと云ふ意識は、明治時代に歴史的假名遣を守らうとした人々に受繼がれ、繼續的に假名遣の整備が行はれた。
歴史的かなづかひは、實用上、何の問題もなく、諸外國に比べても十分高度な教育によつて、一般の國民でも當り前のやうに用ゐる事が出來た。さうした現實を見ないで、「國字を簡易化すればより效率的に國民は働ける筈だ」と觀念論に基いて、官僚や一部の軍人、そして「西洋信者」の表音主義者らは機會を狙ひ續けた。それが一度として實現されなかつたのは、戰前には常識が通用したからである。
戰後、表音主義者と文部省は、「現代かなづかい」と云ふ微温的で中途半端な國語表記の表音化しか實現し得なかつた。その時から「現代かなづかい」は、不幸にも、國語の簡易化の最後の砦と云ふ使命を、一部の陰險な人々によつて背負はされたのであつた。それを「規範の捏造」と大人しく言つてみたい。
平成二十一年二月二十五日
かなづかい入門―歴史的仮名遣vs現代仮名遣 についてのレビュー・感想 : 白石 良夫 : 本 - ブクログ

平成二十一年二月二十四日
正字正假名遣ひを攻撃すると必ず負けてしまう、たつた一つの理由
わざわざアクセス數が増えるやうに、日附が變つてもゐないのに新しい日附の記事と云ふ事にして一番上に出て來るやうにする俺。
平成二十一年二月二十四日
齒を磨いて階段を上つたら、そろそろと這ひ進む團子蟲くんと遭遇。丸めて外へぽいと。今夜もえらく寒いのだが……。
平成二十一年二月二十四日
ここで松永氏に尋ねたいのだが――日本國は正しい國なのだらうか。樣々な面で江戸時代以前のありやうを檢討しなければならないとしたら、山城國や相模國、さう云つた國こそが國であつて、それらを一つに纏めて言ふ「日本國」は成立たないのでないか、と云ふ疑問が出て來る。
松永氏には、なぜ日本人は一つに集つて、日本國と云ふ一つの國を作つてやつて行かなければならないのか、其處には如何なる必然的な理由があるのか、御尋ねしたい。
松永氏には、近代化、と云ふ觀點を排除した上で、合理的な説明を要求したい。松永氏の立場では、明治以來の近代化は、受容れられないものである筈だ。
平成二十一年二月二十四日
かなづかい入門 - 酔っ払いのうわごと

この本で最初に衝撃を受けたのは、歴史的仮名遣いとは確定した言葉遣いでは無い、というところです。

歴史的仮名遣いは、学問的だと言われる事があります。歴史の積み重ねを踏まえているからでしょう。しかし、時に、それは逆の事態を招く事があるというのです。それは学問が、そこで終わるわけでは無く、時代と共に深まっていく物だからです。

歴史的仮名遣いは、「歴史的」というくらいですから、昔の言葉の遣い方を正しいと見なします。それは江戸時代の言葉よりも平安時代の言葉、更には万葉集、日本書紀の言葉という具合にです。ところが古文の研究が進めば進むほど昔の言葉が発掘される事があるのです。時折、万葉仮名の書かれた木管などが出土したというニュースを聞く事があります。この時に木管に未知の言葉遣いが書かれていたとしたら、どうなるでしょうか。

歴史的仮名遣いは、それに合わせて見直しを迫られるのです。

これを現在の学校教育の場に持ち込んだら、どうなるのでしょうか。学んだ学年によって言葉づかいが違ってしまうかも知れないのです。学問的には兎も角、規範としての仮名遣いとは言えないと思います。

いや……言葉と云ふものは變化するものだから、それが當り前でせう。實際、昭和の頃に、「さうらう」か「さふらう」かについての研究があつて、假名遣が變つた事があるのです。
けれども、それの何が惡いのでせう。「教育現場が混亂する」と云ふのは、をかしな話です。「間違ひに氣附いたら正す」と云ふ態度を子供に見せるのは、大變教育的な事ではないでせうか。

戦後も歴史的仮名遣いを使用している言論人などは問題無く学べたのでしょうけれど、『明治20年前後、表音式仮名遣を要求する世論がおこった』(111p)と言うのです。普通の人には歴史的仮名遣いは難しかったのでしょう。そして、明治30年、40年代には、かなづかいの見直しが試みられたと言います。そして、その試みを阻んだのは戦前も『歴史的仮名遣の学問的権威に漠然とあこがれる作家や文化人の情緒的な声』だったそうです。

これも、どうでせう。そんな輿論は起きてゐない筈です――と言ふより、その時、國語の表音化を主張したのは一部の專門家だけだつた筈です。普通の人には歴史的かなづかひでも別に問題はなかった筈で、昭和二十年まで普通に歴史的かなづかひが使はれてゐました。「國語を表音化せよと云ふのは輿論」とか「歴史的かなづかひは難しい」とか言ふのは、國字改革の當事者が、自分に都合良く、事實を歪曲してゐるのです。
また、歴史的仮名遣の学問的権威に漠然とあこがれる作家や文化人の情緒的な声、と云ふのは、誰の目にも明かな惡口ではないですか。欺されては行けません。何の根據もないレッテル貼りです。もちろん、文學者が聲を上げたのは事實ですが、文章の專門家が聲を上げるのは當然の義務です。それを官僚である白石氏が「感情的・情緒的なものに過ぎない」と極附けてゐるのです。しかし、文章とは、感情や情緒を表現するものであり、感情的・情緒的な反對と言ふのも十分に説得的な論據であるとは思へませんか。

白石氏は、歴史的仮名遣いの難しさに、このような例を出しています。

「家」「革」の字音的仮名遣は「か」「かく」であるが、「花」「獲」のそれは「くわ」「くわく」である。「印」は「いん」であるが、「院」は「ゐん」である。「応」は「おう」であるが、「央」は「あう」、「押」は「あふ」、「王」は「わう」。「勝」は「しょう」であるが、「商」は「しやう」、「小」は「せう」、「渉」は「せふ」。「農」は「のう」であるが、「脳」は「なう」、「納」は「「なふ」、その他、漢字の数だけ仮名遣はあるかに見える。(114P)

白石氏は、この例を出すに先だって、こうも言っています。

日本人にとって漢字は無数にある。その無数にある漢字一字につき固有の漢字音があって、固有の漢字音はさらに呉音・漢音・唐宋音・慣用音と数種類。これらの歴史的仮名遣のかなのつかい分けをそらで覚えることなど、普通の日本人には不可能である。パターンがあって、パターンさえわかれば簡単というかもしれないが、パターンがわかるまで勉強すれば、とっくに漢字学者になっている。普通の人はそんなに暇人ではない。(113P)

歴史的仮名遣いは、難しいとは思っていましたけれど、学者になるほど勉強しなければ身に着ける事が難しいとまでは思っていませんでした。私は、不可能な事に憧れていたのかも知れません。

日本語の文章は漢字假名交じりを本則とします。字音假名遣は常に漢字の蔭に隱れます。字音假名遣は、一般の人は覺える必要のないものです。白石氏がなぜ字音假名遣を問題にするかと言へば――實は、表音主義者は、漢字を使はない事を原則とする爲、ひらがなやローマ字のみで文章を書かうとすると、漢語が殘存してゐる状態では漢字の讀みが生で出て來てしまふのです。しかし、漢字を漢字で書く、と云ふ當り前の書き方をしてゐる限り、學者になる必要なく、大抵の日本人が大體正しく正しい假名遣で文章を書けるのです。
漢字の多さ、漢字の字音の多さを以て、白石氏は讀者を脅します――しかし、斯うした「學問的な脅し」こそ、「學問的權威」を利用した「情緒的な聲」ではないでせうか。

私も、これからは歴史的仮名遣いに何の拘りも無く、現代かなづかいを使っていこうと思います。

字音假名遣に拘らなければ、歴史的かなづかひで十分、日本人は文章を綴る事が出來ます。字音かなづかひも含めた全ての歴史的かなづかひに拘るからこそ、歴史的かなづかひで文章を書かない、と云ふ結論に至つてしまふのです。私は、普段、文章を書く時、字音假名遣に何のこだはりもありません、それで當り前のやうに歴史的かなづかひで書いてゐます。
また、實際には、歴史的かなづかひの規範性にこだはる人々は、歴史的かなづかひを使ふならば、完全に・正確に・一つの誤りもなく・完璧に、文章を綴らなければならないものである、と思ひ込んでゐます。一方で、「現代仮名遣」ならば、間違つても良いし、適當で良い、樂である、と思つてゐます。これは何なのでせう。
非常に多くの日本人が、この二つの比較を以て、「歴史的かなづかひは駄目だ」と言つてゐます。oguogu氏も、實はこの立場から物を言つてゐます。しかし、こんな比較はナシでせう。oguoguさんは今、「自分でも」を寺分でもと誤つて書いてゐます。(ほかにも木簡を木管と書いてゐますね)これは歴史的かなづかひで書かうが「現代仮名遣」で書かうが關係なく誤です。が、さうした勘違ひ・ミスを、「現代仮名遣」の立場なら許すが、歴史的かなづかひの立場なら絶對に許さないものである、と、多くの人が思ひ込んでゐます。ちよつとそれは何うでせう。歴史的かなづかひを支持する立場の人で、「何時如何なる場合にも例外ナシに、一つの間違ひもない、完璧な文章を書かなければならないのである」と眞面目に主張する人が、何人ゐるでせうか。一人もゐないと思ひます。歴史的かなづかひを支持する立場を取るにしても、現實に書かれる文章には間違ひがあるものであると云ふ事は全ての人が認めるのです。「いや、間違ひは絶對にゆるさないよ、と正かな派の人間は言はなければ嘘である」等と言ふ人がゐるとしたら、その人は架空の正かな派を相手にシャドーボクシングをしてゐるのです。歴史的かなづかひを正しいと認める事は、理想としての歴史的かなづかひを認めると云ふ事であり、現實には歴史的かなづかひに大體從つてゐればそれでいいと誰もが考へてゐるのです。
一方で、「現代仮名遣」の立場と云ふものは――よくよく考へてみると、誰も支持してゐないのです。oguoguさんも、自分は「現代仮名遣」を支持してゐる、と思つてゐるのですが、實はただ「歴史的かなづかひ」を支持しないだけで、「現代仮名遣」の規則に嚴密に從つて、日本語の文章を綴らうだなんて、ちつとも思つてはゐないのです。けれども、それは當り前の話でせう。誰もが自分が書いてゐる文章は大體文法的に合つてゐて、假名遣も合つてゐるだらう――合つてゐる筈だと信じてゐるものです。その「信仰」は、實際に「現代仮名遣」の内閣告示に自分の文章の記述を照し合せて、確認した上で、確立されたものではない筈です。ただ、漠然と、「みんな讀めてゐる筈」と、思ひ込んでゐるだけです。實際には、言葉を使つてコミュニケートする時には、誰もがその程度のあんまり根據のない確信と言葉への信頼で以て、言葉を使つてゐます。「現代仮名遣」を「支持する」と言ふ人も、その程度の曖昧な確信と信頼を「現代仮名遣」に對して抱いてゐるだけです。が、その程度の信頼なら、別に歴史的かなづかひで書いても持てる筈です。それに、歴史的かなづかひで書いてゐる積りで、書き方を度忘れしたりしても、當座、そんなに重要でないのなら、適當に判るやうに書いておけばよいのです。詰らないところで拘つても仕方がないでせう。ところが、正かな派の人間は、何時でも何處でもさう云ふところに拘るものだと、多くの人が勘違ひしてゐます。さうではありません。正かな派だつて、常識的に、適當に言葉を使つてゐますし、適當に文章を書いてゐます。「現代仮名遣」では氣樂に書いていいが、歴史的かなづかひだと肩肘張つて書かなければならない――そんなのは迷信です。大體、昭和二十年邊まで、多くの人が氣樂に歴史的かなづかひの文章を大體正しく書いてゐました。それが必ずしも嚴密に正確でなかつた事は、今、書かれてゐる多くの文章が、「現代仮名遣」の規則に照らして嚴密に正確でないのと同じです。
けれども、「現代仮名遣」と歴史的假名遣とでは、使用者の意識に、確かに違ひがあると言ふ事は出來るでせう。「現代仮名遣」を使用する人は、「現代仮名遣い」と云ふ規範があつても、そんなものは所詮、便宜の爲のものでしかない、と思つてをり、規範を輕侮する傾向があります。一方、歴史的かなづかひを使用する人は、實際には正しく書けない事があるにしても、ちやんと正しい書き方と云ふものはあるのだ、と理想を信じてゐるのです。逆に言へば、「現代仮名遣」を支持すると言ふ人は、理想的な歴史的かなづかひをこの世で實現する事が出來ないがゆゑに、絶望して・やけになつて、正しくない書き方で出たら目に書き散らしてやれ、と思つてしまつてゐるのです。しかし、そんなやけのやんぱちみたいな意識でゐて――「あなたは仕合せでせうか」と書きたくなりました。
實は、正字正かなとは、傳統を墨守するだけの形式主義ではありません。その點、形式的な規範であるに過ぎない「現代仮名遣」「常用漢字」と違ひます。正字正かなと言つて、私が主張してゐるのは、受動的に傳統に從ふ消極的な態度を要求するのではありません、逆に、現代人は意識的に傳統に接續しようとすべきだと、積極的な態度を要求してゐるのです。多くの人が假名遣の問題を、「形式に從ふか・從はないか」の問題と捉へてゐます。それは間違ひです。と言ふより、現代人は自分逹を生成した過去の時代と我々自身の連續性を意識すべき事、或は意識的に過去の人々と現代に生きる我々との間に繋がりを維持しようとすべき事を主張する歴史主義・保守主義の一環として、歴史的かなづかひを主張してゐるのです。
平成二十一年二月二十四日
――と書いたけれども、實は「同じ正字正かな派」の人々が俺と同じ考へ方をしてゐると思へない節もある。少くとも俺は、多くの人が思つてゐるより遙かに許容範圍が廣い筈。逆に、俺に反對してゐる人の方が、案外許容出來ない事が多かつたりするみたい。
みんな意外と眞面目で――例へば俺が餘所の文章を何行かづつ引張つて來て、コメントを附けて、その後またいつぱいいろいろ書いて、と云ふのをやつてゐるのは、コメントを附けながら相手の文章を現在進行形で讀んでゐるんだし、讀み終つたから當座の印象を纏めてゐるのだし、要はまだ書きかけの状態をそのまゝ書出してゐる。だからその後またまとめの文章が現はれたり、思ひ附いた事が追加されたりする訣で、それでどんどんどんどん長くなるんだが――さう云ふ書き方をする人は、と言ふよりそもそも書きかけの状態をそつくりそのまゝオープンにする人は、殆どゐないみたい。これが俺には信じられない。
http://d.hatena.ne.jp/funaki_naoto/comment?date=20090220#c

お気遣ひありがたうございます。もりやまさんの記事は存じてをりますし、後でお答へするつもりです。たゞ言葉を見つけるのに時間が掛つてゐます。

普通は斯う云ふ受答への文章を引張つて來てコメントするなんてする人はゐないが、俺はする。申し訣ない。舩木さん眞面目な人なのだ。俺と違つて。舩木さんは、「ブログ」の記事を書かうとして(だと思ふが)、完全な記事を一本何とか一發で捻り出さうと苦労してゐる。この態度は、大變眞面目なものだが、實は極めて多くの人が當り前の事だと思つてゐないか。その邊の「ブロガー」の人は、多分九割九分九厘まで、毎囘毎囘、完全な記事を上げる事を目標に「ブログ」を書いてゐる。と言ふより、ウェブで物を言つてゐる人は殆ど皆、さうだと思ふ。俺はさうではない。俺は書きかけの思考を垂れ流しにしてゐる。勿論、推敲するけれども、思考の過程を全部この「日記」に書出す事を毎日やつてゐる。記事として完成してゐない事も非常に多い。が、それを俺は當り前の事だと思つてゐる。ウェブサイトだつて、書きかけ・作りかけの未完成でどんどん記事を上げてゐる。これが一般的でない事が、俺には信じられない。
Wikipediaでも、「この記事は書きかけです」と云ふ註釋の入つた記事が幾つもある。ならば、個人のサイトで書きかけがあつても、何の不思議もない筈だ。ところが、多くの人が何とか完全な文章を公開しようとして、なかなか文章を發表できないでゐる。何なんだらう。掲示板の文章ですら、或は「ブログ」のコメント欄ですら、一つの完全な完結した文章を書込むべきものである、と云ふ考へ方の持主が、ウェブには澤山ゐる。
さうした完全主義者が、不完全だと言つて俺の事を馬鹿にする訣だが、俺にしてみれば思考過程が不完全でも當り前の事で、それを不完全だと言つて馬鹿にするのは何うかしてゐると何時も思つてゐる。大體、面と向つて互ひに口で喋つてゐる時には、決して指摘しない言ひ間違ひ・記憶違ひを、掲示板や「ブログ」のコメント欄だと多くの人が當り前のやうに指摘する。口頭では何とも思はないのに、ウェブで公開された文章では、さう云ふ間違ひはその人が愚かである決定的な證據であると――例へば喜六郎なんかが派手に宣傳してゐる。だが、記憶違ひぐらゐの事でぎゃーぎゃー騷ぐなと言ひたい。
ウェブにおいて、或完全主義者は當り前のやうな顔をしてちよつとした誤を嘲り、また或完全主義者は當り前のやうな顔をして不完全な文章の公開を拒絶する。完全主義をウェブから驅逐せよ――さう言ひたいくらゐだ。と言ふより、以前から何度も何度も俺は完全主義の打破を主張してゐる。それを「自分に都合が良いから」言つてゐるものと極附けて嘲る喜六郎のやうな人間が、ウェブにはうようよしてゐる。松永氏の言葉によれば、俺は「政治的」だと言ふのだらう。しかし、さう云ふ渠等完全主義者のやり方が、ウェブに於て、言論を逼塞させ、發言を抑制してゐる事實は否めない。けれども、ブレーンストーミングでは何んな意見でも言つて良い筈だ。そして、何でも言つてみる事によつて、物事を進展させようと云ふのがブレーンストーミングの意圖だ。ウェブに於ては、大量の人間がゐるのだから、さうした人々が何でも言つてみるならば、相當の智慧が現はれてもをかしくはない。勿論、可能性の話であるが、その可能性をすら摘み取りたいと云ふのが喜六郎らで、ならば彼等にこそ何かの意圖があるものと見なければならない。
平成二十一年二月二十四日
あとね、不滿を言ひたいのだけれども――俺が誰かに反論を書くと、「もう話は濟んだ」と言つて、默つてしまふ人が非常に多いんだよね。俺の言つてゐる事は完全なものですか。そんな筈はありません。
俺が何かを言出して、或は、俺が議論を始めて、誰かとやり合ひ始めると、みんな傍觀してゐる。俺は何時も皆が默り込むので、その度に、俺は何も言はない方がいいのではないか――言はなければ良かつた、と後悔する。
平成二十一年二月二十四日
俺は「反論しない」事は相手を見くびつてゐる事だと思ふ。喜六郎なんかがさうだらう、反論しないで、嘲つてゐる。あゝまで露骨な人も珍しいが、でも、多くの人が反論しないで、しかしそれが相手を尊重したものだと言つて良いかは疑問に思ふ。
俺はよく相手を馬鹿だの何だのと言ふけれども、それで相手の言つてゐる理窟や證據を全部却下してゐると思つてほしくない。寧ろ、何だかんだ言ひながら兔に角相手の言つてゐるいちいちの事に就いて反論しようとしてゐる邊を見て貰ひたい。相手の事を罵つてゐても、相手の言つてゐる事を眞面目に採上げてゐるならば、俺は相手に對等に對してゐるものだと思つてゐる。相手の言つてゐる事を無視して、相手を馬鹿にして話を濟ませる喜六郎のやうな態度こそ、相手を下に見る、人を見下した態度だと思ふ。
何うだらう。
言葉遣ひの亂暴さだけを人は見るが、しかし言葉遣ひが叮嚀であれば人は滿足するか。慇懃無禮と云ふのは惡い事でないか。官僚が言逃れの答辯を叮嚀語でするのを見て、多くの人が苛立つのは、何なのだらうか。アレクセイ(沖泰光)は、慇懃無禮は上等な事だと言つたが、上等下等は問題ではないだらう。
平成二十一年二月二十四日
と言ふか、そもそも俺のやうな素人で無知な人間が、何うしてさうさう立派な事を書けるだらう。だが、俺以外の全ての人が立派な文章を書ける才能を持つた人物である、等と俺は思はない。ならばそんなに文章の出來を氣にして「ブログ」でも何でも文章の公開に躊躇する必要はないのだ。
さうして出て來た文章の出來が拙い事は屡々あり得るし、それをその場で叩く人はあつていい。が、だからと言つて、その人物の出す文章は何時でも例外ナシに出來が拙いものと端から極附け、或はそのやうにレツテルを貼つて話を濟ませようとする横着は、してはならない。アンチとは、その種の横着を當り前の事と思ひ込み、剩へ、さうした努力なしに他人を叩く行爲で以て快を貪る人種の事を言ふ。
快を貪るのが目的だからこそ、執拗に一人の人間に附き纏ふ。アンチが粘着化する所以である。もし快を貪るのが目的でないなら、その人は相手の言ふ事に怒る筈である。腹を立てず、嘲つて喜ぶのならば、その人は明かに快を貪るのが目的である。眞理を明かにする事が目的ではない。さう云ふ人間は場から自然に排除されるべきである。

平成二十一年二月二十三日
實際のところ、俺は正字正かなの書き方の面を好んでゐると言ふ人でも――或は、正字正かなで書いてゐないが正字正かなの立場を認めてゐると言つてゐる人ですら――非難・攻撃の對象とする積りはないし、實際にそのやうな事をした事もない。ただ、俺自身は、正字正かなの支持者の一人として、理論の面・理念の面で正字正かなの正しさを訴へる一つの立場があり得ると考へて、その立場を分擔してゐる積りでゐる。
趣味として正字正かなの書き方を使つてゐる事、正字正かなと云ふ書き方の趣味的な樂しさについて感想を書く事だけが許される――さう言つて、松永氏やその他の「アンチ正字正かな」の人は、正統表記と言ひ正字正かなと言つてゐる俺のやうな人間の活動それ自體を否定する。これは異常な事だ。なぜなら正しさを好むと云ふ事はあつて良いからだ。
好みならば良い、と言つてゐるのに、なぜか正しい事を好む事だけは絶對に許せない、と言つて、アンチの立場をとつて攻撃を仕掛ける人が、今の日本には大變多い。訣が解らない。
松永氏は、人の行爲について「政治」だの何だのと言つてゐるが、正しい事を好むのは政治か。「それを廣めようとするのが政治なのだ」と非難するのかも知れないがが、ならばさう言つて人の活動を妨碍しようとする事も政治だ。さう云ふ政治が許されるのなら、俺の政治だつて許されるだらう。なぜ許さないのか。
アンチは人を許さない。これ程傲慢でこれ程現在の日本の政治體制に合致しない行爲もない。ところが渠等は自分たちの行動を正義の行動だと心から信じ、同時に、自分の行動は正義でもなく政治でもない、と平然と主張する。自分の行動の意味も解つてゐないなら愚かだし、解つてやつてゐるのなら嘘吐きだ。何れにしても間違つてゐる。そして、間違ひを糺彈する權利を持つのは、正しい事を愛好する人間だけだ。正しさに價値を認めない人間に、他人の言つてゐる事を「正しくない」と非難する權利はない。當り前の話だ。何うして正しい正しくないに價値が無いと思つてゐる人間が、他人を「正しくない」と言つて、それで「俺は價値のある批判をした」と思ふ事が出來るのだらう。本當に訣がわからない。
平成二十一年二月二十三日
速記とは - はてなキーワード

速記文字を駆使し、人の喋る言葉を書きとめていく技術みたいなもの。

http://d.hatena.ne.jp/matsunaga/20090222#20090222f1

*1:速記:「すばやく書きしるすこと。」岩波国語辞典

はてなの中の人、松永氏がはてなキーワードの誤を指摘してゐるみたいだよ。もちろん、松永氏もはてなの中の人だがな。はてなキーワードが間違つてゐるのなら、何で松永氏は直さないのだらう。
もちろん、松永氏は自分の間違ひを間違ひと認めたくないだけなのである。
速記
すばやく書きしるすこと。特に、速記術を使って、人の話す言葉を写し取ること。
「速記術」の略。特定の符号を使って、演説や談話をすばやく書き取る技術。
岩波国語辞典第三版
松永氏の引用は不十分で――明かに、自分に都合よく解釋出來る部分だけを取出したものに過ぎない。松永氏は、人が話した言葉を素早く書き記したのだらうか。さうではあるまい。大體、自分の話した言葉を自分で素早く書き記した、なんて事はあり得ない。松永氏は、胡麻かしをやつてゐる。
こんな好い加減な人間が、わたしにとっては、たとえば「べき。」問題がある。等と偉さうに言ふのだ――が、そんな資格が松永氏に「ある」のだらうか。何うせ「正しい」と云ふ事に價値を認めてゐないのだから、松永氏は此處で間違ひを胡麻かさうとしたのが曝露されたからと言つて、反省もしないんだらうが……「お前ら、正しいと言つてゐるのに、こんな間違ひも看過するんだなw」。松永氏はただ嫌みを言つただけなのだ。
平成二十一年二月二十三日
松永氏は、攻撃する事だけを目的に他人を攻撃してゐる。正しさを目標としないのなら、その人が他人に對して出來るのは、個人攻撃だけである。
一方、正しさを目標とするのなら、人を批判しても個人攻撃にはならない。その批判された人は、その個人は、正しさを追求する際に必要な批判の題材として採上げられたに過ぎない。そこでは理念的な正しさ・眞理についての批評が行はれてゐるのであり、個人が何う斯うと言つた次元から超越してゐる。
すぐに「個人攻撃」と言出す人は、その邊のけぢめがない人で――自分自身、常に個人攻撃をしてゐる人である。
平成二十一年二月二十三日
しかしこの「速記」の註釋等、松永氏の木で鼻を括つたやうな應對の仕方は、かの喜六郎の應對の仕方を髣髴とさせる。文體の類似と言ひ、喜六郎と松永氏は同一人物ではないのか。若し違ふとしたら、喜六郎や松永氏のやうな人間の類型が「存在する」と言ふ事が出來るのでないか。松永氏は元オウムだが、喜六郎もまた何かの新興宗教の信者たる事はあり得るやうに思はれる。變な説得で容易に變な信仰に引きずり込まれる可能性のあるタイプの人間である。
平成二十一年二月二十三日
「旧字旧かな」といふ呼稱こそイデオロギー的表現である - 科學の剃髮
その通りだ。
ちなみに松原先生は、正字正かなに對して、今の漢字の字體や「かなづかい」は不正字不正假名遣である、と述べてをられた。
平成二十一年二月二十三日
雨後晴 / 八度 ― 十六度 - 月の塵
手のすさびに一々咎め立てする積りもなし。
平成二十一年二月二十三日
なかなか「滅び去ってくれない」迷信による「批判」 - 鳩笛雑記帳
なんと言ふか、偏見にマジで反論しても全然效果はないんだよな。現代の日本は過去の日本と同樣、偏見が強いから。云々。
平成二十一年二月二十三日
チョウチョとチョコレートと血 - the OYAKONEWS@Hatena::Diary
表音主義者の人は、「ちょ」に代る適切な表記を考へて普及させようとしたら何うか。或は、「現代仮名遣」の致命的な問題として、「ちょ」のやうな書き方を認めてゐる事が擧げられる。云々。
平成二十一年二月二十三日
詞の玉垣の平成廿一年二月廿一日と平成廿一年二月廿二日。
よしなに。
平成二十一年二月二十三日
2009-02-22 - 備忘録ことのはインフォーマル
何時の間にか追記されてゐた。松永の喜六郎化が進行してゐる。

わたしはすべてにおいて「正しさ」を振りかざす言説を信用しない。「正確さ」は求めることができるが、絶対的な「正しさ」としてそれを振りかざす者を信用しない。自分の信念を持ち、「自分はこの考え方を選ぶ」というのならわたしは尊敬するが、「これが正しい。みんな従え。従わない奴は馬鹿」といった発言は受け入れられない。それは「正義」を振りかざす者どもも同様である。「正字正かなではなく旧字旧かなや歴史的仮名遣いなら許容できる」というのはそういう意味である。なぜなら、他のヴァリアントの存在を受け入れる度量がそこにはあるからだ。

俺は正しさと云ふものを信用しないと宣言する人間の言説、苦笑、を信用しない。なぜなら、その人は、自分の好みに合つたもの・自分にとつて都合の良いものの存在ならば受容れられるが、自分の主張と對立する主張が存在する事それ自體は決して受容れられない、と云ふケツの穴の狹さを隱匿してゐるからだ。
俺は正字正かなの假名遣としての正しさを主張するし、正字正かなの正しさを多くの人が納得して受容れる事を求めるが、單純に従わない奴は馬鹿等と言つたりはしない。俺は、説明し、説得してゐる。ところが、説得や説明を端から受附けようとせず、「惡い奴だ」と極附け、レッテルを貼つて、兔に角この世から排除しようとする人間がゐる。松永や喜六郎のやうな人間がそれだ。さう云ふ態度をとつたら、俺は「馬鹿だ」と非難する――自分の主張の正しさを主張する爲には、手續きの正しさが必要であり、當然の事ながら、相手を馬鹿だと非難するのにも必要な手續きを取る。松永のやうに、「これが正しい。みんな従え。従わない奴は馬鹿」といった發言を正字正かな派は一般にしてゐるのであると何の根據もなしに極附けるやり方はしない。
喜六郎は「松原信者」と言ひ、松永は「正字正かな派」と言つて、先づ定義をでつち上る。渠等は、その定義をもとに、罵倒を行ふのだが、それは架空の存在であり、現實の人間とは何の關係もない。喜六郎も松永も、惡人を妄想し、その妄想の惡人を、現實の人間と混同して、好い氣になつて罵つてゐる。

あえてここで出典を書くのは、それがわたしの勝手な命名や造語ではなく、ある意味「自称」として用いられていることを示すためである。何かというとわたしがシャドーボクシングみたいな見えない敵と戦っているような印象操作を行なう人たちがいるので、それを避けるためでもある。一方で、わたしが書いていないことについて、勝手に「こういう動機だろう」と決めつけている人たちは実在する

斯う松永が言つてゐるのは、ただ防衛の爲に豫め豫防線を張つてゐるのであり――しかし如何に力強く宣言した所で、そんな宣言は何の意味もない。人の宣言を信用しないから松永は正字正かな派の正義の宣言を拒絶したのでなかったか。
繰返す。喜六郎や松永等――アンチの主張の仕方は何時も同じだ。必ず、架空の惡人をでつち上げ、それを現實の人間と混同する。
なあ松永よ、「これが正しい。みんな従え。従わない奴は馬鹿」と言つたのは何處の誰だ。誰に對して言つたのだ。典據は何だ。答へられないだらう。ならばあんたは印象操作を行なつてゐる。
妄想の激しい人間だから、松永はオウムなんかにはまつたんだらう。
それにしても、わたしは尊敬するがつて、喜六郎も言つたやうな氣がするが、この手の事を平氣で言へる人間つて何なんだらう。何うして尊敬と輕蔑の兩極端でしか、人と人との關係を考へられないのだらう。オウムだつた松永は麻原なんかを尊敬してゐたのだらうが、尊敬か・輕蔑かの二通りの態度しか他人に對して取れないのなら、あつさり欺されても仕方がない。
他人の言ふ事に對して、即座に、尊敬する・輕蔑する、と態度を決めてしまふ。これを「正しい態度だ」と松永も喜六郎も心から信じてゐる。渠等は、對等の關係で他人と對峙する、と云ふ事を知らない。渠等は、自分が勝手に決めた態度を正當化する爲に、簡單に信仰に入つたり、罵倒したり、してしまふ。その時、對話は成立せず、議論は成立たなくなる。渠等は、最初に價値判斷してしまつて、人に對する態度を表明し續ける事で、何か「ものを言つた」事になると信じてゐるのだ。
議論が成立つのは、互ひに相手を尊重するからだが、その時、相手を尊敬する必要も、輕蔑する必要もない――と言ふより、議論する爲には、尊敬する相手でも、輕蔑する相手でも、言つてゐる事をありのまゝに受取り、對等の存在と認めなければならない。それによつて互ひに相手の主張の誤を指摘したり、正しい事を正しいと認めたりする事が出來る。その過程を通して、互ひに自分の言つてゐる事の誤を正し――結果として、物事を正しく認識し、より正しい價値判斷に行きつく事が出來る。
最初に相手の人間性を判斷してしまつて、以後、その自分勝手な判斷を絶對の指針として採用し、相手の言ふ事をまともにきかない、喜六郎や松永の樣な態度は、議論を拒絶するものであり――同時に、自分の主張を絶對化するものである。喜六郎も松永も、自分は度量が大きい人間である、と言つてゐるも同然だが、實際には自分が輕蔑すると決めた人間に對しては、途轍もなく狹量となり、かつ、冷酷になる。そして、さうした自分の態度を客觀的に見る事が出來ないから、自分が狹量だと氣附く事が出來ず、ひたすら「俺は度量が大きいのであるぞ」と自らの偉大さを誇り續ける事になる。これは大變傲慢な事だ。松永も喜六郎も、自分は大變頭の良い、人格的に優れた、立派な人間であると信じ込み、さうした偉大な俺樣は度量が大きいから卑小さを認めたか弱い存在には慈悲を垂れてやる餘裕があるのだぞと平氣で言つて、それを傲慢だと自覺しない。

正字正かなに並んで「正文法」を主張したらどうなるだろうか。明治新政府(あるいは大日本帝国)によって押しつけられ、ゆがめられた日本語を是正するとして。

松永は、明治政府が嫌ひなのである、何うも明治政府によつて行はれた近代化それ自體を憎んでゐるらしき節がある――と書かうとして、氣附いた、彼はただ當てこすりを言つてゐるだけなのだ。かう言へば「正しい」と言つてゐる人間が嫌がるだらうと。嫌がらせが目的で言つてゐるのだから、本氣である訣がなく――松永は、自分の主な主張が悉く根據薄弱で、俺に論破されてしまつてゐる事實に氣附いてゐるのである。さう云ふ事實を偉大なる松永樣が認められる訣がないから、嫌みを言つて憂晴しをしようとしてゐるのだ。要は、自分が一番偉いとか自分は誰某を尊敬するだとか、松永は自分、自分と言つて、自分を宣傳したいのであり、自分を世に知らしめる爲の道具として、論理でも何でも言つてゐるに過ぎない。自己顯示欲の塊と云ふ奴だ。それを松永は疑問にも思つてゐない。なるほど、或意味日本人の傳統的な態度だ。日本には、「自分が一番偉い」と信ずる傲慢を許さない價値觀と云ふものが存在しない。松永の大好きな江戸時代や室町時代や鎌倉時代や平安時代や奈良時代や飛鳥時代を通して、日本人は價値觀の意識を全く育てなかつた。日本人はただ、美意識を持つか、金儲けのやうな世渡りの術・處世術を發達させるか、しかしなかつた。何れにしても、増上慢の罪と云ふものを咎める價値觀は、日本では存在しなかつた。キリスト教は、如何なる人間の上にも絶對者が存在すると規定し、それによつて人間が「俺はこの世で一番偉い」と思ふ傲慢を抑止し得る。斯う云ふ價値觀は、日本には全く存在しない。「お客様は神様です」なんてのはただの商賣の秘訣にすぎない、物が賣れて金が稼げれば、商人は心の中でどれほど愚かな客を嘲るものであるか。斯うした日本人的な餘りに日本人的な價値觀を、松永は當り前のものとして持つてゐる。松永は、他人を馬鹿にして、自分が一番偉いのだ、と確認したいのだ。さうする事で快を貪りたいのだ。さう云ふ人間にとつて、對人關係は常に「どつちが上」で「どつちが下」かの關係だ。松永がわたしは尊敬するがのやうな言ひ方をするのは、彼が常に上下關係を氣にする人間であり、即ち彼が「自分は上の存在だ」と言ひたがる人間である事を示す。さう云ふ人間だからこそ、他人の言動にも自分と同じやうに上下關係を確定しようとする劃策を見出し、眞實を求める態度にすら松永は「權力の意志」の所在を確信する。だが、人は屡々自らを否定すべき文句で以て他人を罵る、人は自分自身の影を他人に見出して罵る。他人に「上下關係の意識」を見出さんとする松永は、實は自分自身が上下關係で人間關係を捉へてゐるのだ。松永の強烈な自我の發露が、正字正かな派を松永そつくりの人間に見せかけ、その「鏡像たる松永」を松永は激しく罵つてやつつけてゐる。
平成二十一年二月二十三日

ここで「いわゆる古典文法」と述べているのは、過去の日本の文法すべてを指すからである。源氏物語と平家物語と徒然草と浮世草子がそれぞれの時代の異なった文法に基づいて書かれていることを総称している。

俺が「正統表記」と言つてゐるのは、過去の日本の表記全てを指すからである。弘法大師のいろは歌にある文字を意識した表記、定家假名遣、契冲假名遣、その他諸々がそれぞれの時代の異つた規範意識に基づいて書かれてゐる事を總稱してゐる。
重要なのは、さうした規範意識が、常に「正しい書き方=正確な書き方」を志向したものであつた事で、俺はさうした意識が繼續してゐるべき事を主張する(だから「正しい系統」の意味で「正統」と言つてゐる。意識が重要なのだ)。「現代仮名遣」は、「正しい書き方」と言つてゐるが、「正しいと決めた事を正しい事とする」と云ふ發想で「正しい書き方」であるに過ぎない。そこには正確への志向は存在しない。歴史的かなづかひ以前の假名遣にあつた規範意識と、「現代仮名遣」にある強制的・強壓的・官僚的な「規範」としての硬直性とは、本質的に異るものである。よりはつきり言へば、「現代仮名遣」に對しては、何の意識も存在しない。ただ「ある」から使ふ、と云つた機械的な反射的態度があるだけである。
松永は、斯うした區別をしようとしない。松永は、無爲自然は認められるが、人間は意識を持ち、價値觀を持つてゐる、と云ふ人間として自然なあり方を認められないからだ。だからこそ、概觀的な「おしつけ」だの何だのだけで類似を確信し、人間の行爲としての思想と云ふものを無視してしまふ。明治時代――實際には江戸時代頃から――の人間が、近代化を意識し、既成の表記の近代的な再構築を行つた事と、昭和の敗戰期に――と言ふより、近代化の意識的な試みである事實に氣附く事も出來ず、明治以來、ずつと繼續的に試みられて來た事だつたが――「樂をしたい」と云ふ怠惰な發想から國語を破壞した事とを、松永は混同する。明治維新の精神と、敗戰後の精神の缺如とを、精神的な側面から人間の世の中・歴史を見る事が出來ない松永は、認識出來ない。
しかし、人間の營みを、人間の外側からのみ眺める態度は、正しいか。人間の内部の働きを見出さないのは、正しいか。「正しいか」と聞く俺が、松永は憎くて憎くて仕方がないだらう。俺が「正しさ」を要求し、それ以外のものを認めないからだ。けれども、正しさを追求する態度なくして、松永も批判をする事が出來ない。松永だつて、「これが正しい。みんな従え。従わない奴は馬鹿」といった発言は受け入れられない。と言ひ、或種の言ひ方を「正しくない」と非難して、自分の正義を主張してゐる。誰だつて「正しさ」を主張するからこそ他人を非難する。他人を非難しておいて、自分は正義を主張してゐない、等と言逃れする事は、それこそ許されない。松永よ、あんたは自分が正義を主張しながら、何うして他人が正義を主張するのを許さないのだ。答へよ。
「これが正しい。みんな従え。従わない奴は馬鹿」といった発言を「しないのが正しい。みんな従え。従わない奴は馬鹿」と松永は言つてゐるんだ。松永は正しさを振りかざしてゐるんだ。何でそれが解らないんだ――と言ふより、それが解らないから松永こそ、自分の「言説」を絶對化してゐると言へる。自分の主張が正義の主張だと自覺してゐる人間こそ、自分の主張の相對的である事を自覺してゐるのであり、寧ろ信用できると俺は信ずる。松永のやうな、正義の立場を自覺しないで自説を絶對化する「言説」こそ、信用できないし、信用してはならない。
平成二十一年二月二十三日
例のnoz_watcherこと新霊光輝が創作し、「義」や喜六郎が盛に転載し捲つてゐる例の「松原信者」の定義――或は、アレクセイこと田中幸一こと沖泰光が俺を非難した怪文書を見てもいい、そこで俺は必ず「傲慢だ」と極附けられてゐる。俺がちつとも自分を傲慢だとは思つてゐないのに。
實は、「傲慢」と云ふ概念もまた相對的なのだ。
喜六郎も沖泰光も、「俺はこの世で一番偉い」と思つてゐる人間だ。一方、俺は自分が一番だとは決して言はないし、思つてもゐない。けれども、人は互ひに對等な存在だ、と信じてゐる。互ひに對等だからこそ、議論をやらうとしてゐる。ところが、それが連中には氣に食はなかつたのだ。「俺が一番偉い」と思つてゐる人間が、「いや、對等だ」と言はれたら、「生意氣だ」「傲慢だ」と怒るだらう。彼等の場合もそれだ。
俺が議論をしようとする事それ自體を憎む人間は――議論と云ふ事それ自體を憎む人間は、實は「議論などしたくない」のではなく、「議論するまでもなく俺が正しい」と信じてゐるのだ。「俺は一番正しい」よつて「俺は一番偉い」、さう信じてゐる。そこに俺が議論を吹つ掛けて、俺と御前は對等だ、なぜなら俺も御前も同じ人間だからだ、と言つたら、それは連中、氣に入らないだらう。だが、それは當り前の話なのだ。人間と人間は當然對等だ。それを「對等ではない」と言ふのは、「俺がこの世で一番偉い」と傲慢な事を思つてゐるからだ。喜六郎も「義」も、或は松永も、この種の傲慢に陷つてゐる。アレクセイ田中幸一もさうだ。人の言ふ事を、その人が何うだからと言つて、まともに受止めない――議論しようとしない、その態度こそが、傲慢であり、人を馬鹿にした態度だ。文體・言ひ方・言葉遣ひ、そんなものは枝葉末節にすぎない。その手の事を頻りにつついて、議論を妨碍しようとするのは、自分が議論を拒絶する傲慢な人間である事實を隱蔽し、「自分がこの世で一番偉い」と云ふ妄想を尤もらしく他人に押附けようとする惡辣な劃策である。
平成二十一年二月二十三日
石炭をば早や積み果てつと書いた鴎外は、その後お佐代さんは何を望んだかと書いた。美文調の文語體を使つた鴎外は、現代的な言文一致の文章を書いたのである。
明治政府が力づくで「國語」なるものを國民に一方的に押附けたと、私は單純に言切る事が出來ない。明治時代には、國民の側からも積極的に日本の近代化を促進する努力が行はれた。言文一致の運動は、政府主導のものとは言へず、多くの文士が參加しての文藝の運動があつた。或は新聞。それは、自ら近代化を目指して、主體的に行はれたものであつた。それが完全なものであつたと言ふ事は出來ない。しかし、試みとして行はれざるを得なかつたものを、後世の立場から見下したやうに誤を指摘して濟ませる事は許されない。と言ふより、現在も近代化の試みが繼續してゐる事を我々は自覺すべきである。さう云ふ意味で、明治時代も現代も、歴史が繼續してゐる事を、我々は認める必要がある。
平成二十一年二月二十三日
ピラミッドが如何に壮麗であつても、それは死物に過ぎない。エジプト文明は過去のものである。
平成二十一年二月二十三日
歴史的かなづかひは、例へば博物館に飾られるやうな、或は、骨董屋の店頭に飾られるやうな、死物として存在し續けるだけで良いやうなものではない。だからこそ、骨董趣味としての「旧字旧かな」だけは存在を許すと云つた松永のやうな「度量の廣さ」等と云ふものを受容れる訣には行かない。松永は、歴史的かなづかひを殺し、最早日本人の生活から懸離れたものとして、趣味で愛でる事だけを許すに過ぎないのだ。然るに、松永が嘆くやうな墮落した姿であつても、生きたものとして歴史的かなづかひは存在し續けねばならない。だからこそ、普段の生活で使はれる歴史的かなづかひこそが重要なのであり、その爲には松永のやうな狹量な態度には徹底して抗しなければならない。それゆゑに、私は飽くまで歴史的かなづかひが正統の假名遣であると理論的に主張するのであり――逆に、趣味的なものに過ぎないかのやうに言ふのを拒絶する。「現代仮名遣」こそ、趣味のものとして存在を許しても良い、となら、言つても良い。が、「現代仮名遣」が現在、「理論的正當性」を主張してゐる以上、歴史的かなづかひについても理論的に對抗せずにはゐられない。
「現代仮名遣」が正當性/正統性を主張してゐるからこそ、歴史的かなづかひも對抗して正當性・正統性を主張してゐるのだ。さう云ふ事情を松永は全く解つてゐない。事情も解らないで一方的に極附ける松永のやり方は、公正を缺き、批判として甚だ問題がある。斯う云ふ人物が「ブロガー」代表みたいな顔をして通用してゐる日本の將來は、悲觀的である。

平成二十一年二月二十二日
2009-02-21 - HM weblog
日本語が滅ぶだの滅ぼせだのといった話題がかまびすしいが - 備忘録ことのはインフォーマル
松永英明は昔河上イチローと名乘つてゐた人物で、河上イチローは慥か正字正かなの掲示板をやつてゐた事があるのだが、何で突然こんな裏切り行爲を働いたのだらう。

まあ何が言いたいかといえば、言語を人為的に滅ぼしたかったら、それを政治的に禁止するだけの圧力をかけるか、話者を殺し尽くすかのどちらかしかないということ。逆に、放っておいても「昭和戦後から平成の日本語」なんて気がついたらすぐに滅び去っていくだろうということ。そして、何十年後かには、現代人のまるで読めない「日本語」がおそらく生き残っていて、その時代の人たちは平成の日本語の文献を未来日本語訳して読んでいるだろうということ(ちょうどわたしが明治や大正の日本語を現代日本語に訳しているように)。これらのことは間違いないと断言してよい。

それにしても、日本語を捨てて英語にしようとか、そういう人たちが定期的に出てくるのはどうしてなんでしょうね。明治時代にも、戦後すぐにも、日本文字を捨ててローマ字にしよう運動が一部で起こったわけだが。

一言で言つて、この人、喜六郎と全く同じで、ただの「分析」をして見せてゐるに過ぎない。そして、その「分析」に過ぎないものを、何か立派な「言説」のやうに見せかけてゐるのだ。斯う云ふ傍觀者の立場に立つたやうな顔をしながら、偏見に滿ちた發言をするのは許し難い事だ。
幾つか河上イチローの偏見――と言ふか誤を指摘しておく。先づ、古典文法と現代文法しかこの世には存在しない、と云ふのが誤。と言ふか、この人は日本語はまるで同じ言語とはいえないほど転変してきた。と書いてゐるのだ。

縄文時代の日本語(もちろん、当時は日本などという概念も集団も言語もなかった)、弥生時代に水稲耕作をもたらした倭人と混じり合った時代、そして漢字を使って日本語を表記することが始まり、大量の中国語が日本語に押し寄せてきた。日本人はそれを漢文として日本語化して読み(もちろんそれは日本語の中国語化でもあった)、やがて何とも言えない日本の言葉を生み出していった。

明治維新にともなって、大量の西洋の概念が流入したが、それはほとんどすべて漢字を使った新造の漢語によって取り入れられることになった(つまり、外国の言葉を別の外国の言葉で訳して導入したのだ)。明治政府は新たな「日本語」を作り出し(「です」「ます」の誕生)、山田美妙らは言文一致運動を起こし、そして帝国の統治と密接な関わりのある「国語」の誕生へとつながっていく。

ところが、この河上イチローが、正字正かな論者が古典文法ではなく現代文法で書いていることについてと言ふのだ。をかしいだらう。「をかしくない」と思つてゐるのは、「古典文法」と「現代文法」の幼稚な二元論で語つてゐる河上イチローや、かれと同じ程度の頭の所有者だけだ。「日本語と云ふ言葉には転変がある」のに「日本語には二つの文法しかない」と河上イチローは眞面目に言つてゐる。馬鹿だ。馬鹿だと思はない奴がゐるとしたら、そいつも馬鹿だ。
假名遣だつて、定家假名遣と契冲假名遣の二つしかない、と言ふのだ。定家假名遣も契冲假名遣も、現實に存在しない。現實に存在しないのだから、それらを「使つた日本人がゐた」等と考へる事は絶對に出來ない。ところが河上イチローは頭が惡いから、考へてしまふ。
河上イチローは事實を「分析」する。そして言ふ。
日本語が滅びるという前に、「正しい日本語」いや「これぞ日本語」というものなど存在しないということを認識すべきである。
ちなみに、中国語も清代以前と中華民国以後ではまるで違っているのである。
英語だって大変化している。16世紀以来の大母音変化は言うまでもない。そして、生きた動物と死んだ動物の肉を別の言葉で表わすといった例もあって(たとえばカウとビーフ、ピッグとポークなど)英語そのものがケルト人・ゲルマン人・ノルマン人・フランス人の手によって作られた「混成言語」であるということを考えねばならない。
要は、河上イチローは、「日本語」も「中國語」も、或は「英語」も「存在しない」と言つてゐるのだ。ところが、その同じ口で「定家假名遣」も「契冲假名遣」も「存在する」と言つてゐる。出たら目だ。こんな出たら目を平氣で言へるのだから、河上イチローの頭が惡い事は明かだ。ところが頭の惡い人間は自分が頭が惡いのでないかと反省する事が出來ない。自分は大變素晴らしい事を言つてゐる、自分は一貫した内容の事を言つてゐる、と思ひ込んでしまふし、だからこそ好い氣になつて、こんな高慢ちきな文體の、異常なまでに氣持の惡い、女の腐つたやうな奴が書く文章を平氣で書いてしまふ。男なら男らしく、すぱつと物を言へば良い。奧齒に物の挾まつたやうな氣持の惡い文章を書くな。

まあ何が言いたいかといえば、言語を人為的に滅ぼしたかったら、それを政治的に禁止するだけの圧力をかけるか、話者を殺し尽くすかのどちらかしかないということ。逆に、放っておいても「昭和戦後から平成の日本語」なんて気がついたらすぐに滅び去っていくだろうということ。そして、何十年後かには、現代人のまるで読めない「日本語」がおそらく生き残っていて、その時代の人たちは平成の日本語の文献を未来日本語訳して読んでいるだろうということ(ちょうどわたしが明治や大正の日本語を現代日本語に訳しているように)。これらのことは間違いないと断言してよい。

正字正かなを「滅ぼした」のが國字改革の名の下に行はれた「政治的な禁止」である事は事實。否、それこそが事實として言はねばならぬ事だ。ところが、それを河上イチローは言はないで、「日本語は變化するものである」と云ふ一般論をしれつと言つて見せてゐる。これは詐欺だ。喜六郎も良く使ふ手口で、箸にも棒にもかからない一般論を言つて見せるのは、詭辯のテクニックの一つだ。それ自體としては誰も文句を言へない眞實だが、それを言つても何の意味もない所で言つて、わざと話さなければならない内容を書かないで濟ませる。
話を戻す。一貫した日本語や一貫した中國語、或は一貫した英語と云ふものはこの世に存在しない。なるほど、嚴密に言へばそれはその通りだ。俺は反論しない。だが、改めて讀者に問ふ。そんな日本人と中國人とイギリス人は、自分たちの國語で喋つて、互ひに話が通じるか。
通じない――この事は全ての讀者が承認して呉れると思ふ。「これぞ日本語」「「これぞ中國語」「「これぞ英語」、そんなものが「存在しない」として、だからと言つて日本語、中國語、英語、と云つた言語が「存在しない」とは言へない訣だ。さう、この、日本語も中國語も英語も存在してゐるのだ。
が、斯うなると、どう云ふ觀點に於て或言語が存在し、どう云ふ觀點に於ては或言語が存在しない、と云ふ事になるのか、よくよく反省してみなければならない。元河上イチロー、現松永英明は、その邊の區別をしないで、概念を曖昧なまゝにしておいて、その曖昧さを利用して、現實に存在しないと言へる「これぞ日本語」と云ふものと、現實に通用してゐる「所謂日本語」と、理念的に存在する「或時代の日本語」とを、故意に混同し、自分に都合の良いやうに話を展開して見せたのだ。斯うした松永英明の「論法」は詐欺師の論法であり、詭辯と言ふ。が、斯うした詭辯は、一見單純な理論に見え、説明の文章が短くなる。だからこそ多くの讀者が騙され――就中、松永英明自身が自分の言葉に騙されてゐる。
平成二十一年二月二十二日
そもそも松永の「歴史」と云ふものの感覺がをかしい。

そもそも現代の日本語というものがどれだけ歴史の浅いものか。明治以降の言文一致運動と、帝国の「国語」としての統治との関係、そして戦後の大変化について、まず押さえておくべきだろう。

「現代の日本語」は「現代」にしかあり得ないもので、「浅い歴史」しかあり得ないのは當り前だ。馬鹿馬鹿しい。ところがその馬鹿馬鹿しい事を松永はいきなり文章の冒頭で言つてのけてゐるのだ。まともな人間ならば、この時點で松永の論理がをかしい事は察知できて、續く「悪文」を讀みはしないだらう。ところが「松永信者」の人間は、松永が書いた、と云ふだけで松永の駄文・惡文を讀むのだ。頭を使はない信者ほどたちの惡いものは無い。
「古代の日本語」「中世の日本語」「近世の日本語」「現代の日本語」――それらは非常に幅のあるもので、嚴密に言へば境目は存在しない――即ち、歴史的に日本語は變轉を繼續しながら存在し續けて來たのだ。過去の或時點の日本語と、現代と云ふ時點の日本語とを比較すれば、それは明白に違ふ。が、その間には無限の階梯があり――歴史的に兩者は連續してゐる。斯うした意味でのみ「歴史的」と云ふ言葉を使ふのは許される。或は、はつきり言はう、日本語には長い歴史がある
さうした中で、日本語の文法もまた少しづつ少しづつ變化を續けて來た。が、その變化は緩やかなものだ。過去の日本語の文法と、現代の日本語の文法との間には、中間的な文法が無數に存在する。「これぞ過去の日本語文法」「これぞ現代の日本語文法」と言ふ事は出來ないし、古典の文法と現代の文法との間には歴史的な連續があつて、嚴密に何處から何處までが過去のもので何處から何處までが現代のものと言ふ事は出來ない。
ならば、正字正かな論者が古典文法ではなく現代文法で書いていることについて云々するのは無意味だ。古典文法とは何か。現代文法とは何か。
古典文法と現代文法とは無關係のものか――「さうだ」と松永氏は主張するか。しないだらう。し得ない。兩者のけぢめはない。もし「ある」と言ふのならば、「日本語と云ふもの」も松永氏は「ある」と言はねばならない。松永氏の指摘は、それ自體としてナンセンスであり、批判として無意味である。松永氏の「論理」は破綻してゐるのだ。
しかし、殘念な事に、正字正かな派の立場を非難する松永氏やその他の人々は、自分たちの「論理」が破綻してゐる事に氣附かない。頭が惡いからだが、頭が惡い人は大變多い。さう云ふ現實を反映するからこそ、現實の日本語の文章はをかしいものが多いし――しかし、だからこそ駄目な現實の文章を基準に、理想的な日本語のあり方を決めようとしてはならない。理想的な日本語のあり方・理想的な日本語の表記と云ふもの、それを我々正字正かな派は「理念として存在する」と一般論として認めておくべきだ、と主張してゐる。これは政治的な主張ではない。政治的な主張だと言ふのは、自分が政治的な人間だからだ。權力への意志と云ふ事を考へてゐる人は、ニーチェを讀め。
平成二十一年二月二十二日
と言ふか。松永氏は「思う」と言つてゐるのだ。松永氏が勝手に思つてゐるだけにすぎないのだから偏見なのは明かだ。

たとえば、正字正かなで有名なサイトの一文を引用するが、「當サイトを「非現實的」と言つて非難する人が結構たくさんゐるやうなのですが、理想を追求する事に何の問題があると云ふのでせうか」という表現のどこが古典文法なのか。もし仮にこれが

  • 「當サイトをば非現實的とて非難せむ者多からんも、理想追求せんとて何の問題あらんや」

と書かれているのであればわたしは「筋が通っている」と思う。しかし、「やうなのですが」「せうか」といった明治以降の表現を使って平然としていることに対して、わたしは滑稽で中途半端な復古主義(つまり、戦前を理想の日本とする勘違い日本主義)であると言わねばならない

そして、正字正かなサイトの中でも特に有名な上記サイトからの引用であり、他の文章も同様なのであるから、「正字正かなサイトは、現代日本語の口語的表現を旧かなで表記する」という観察について「偏見」呼ばわりされるいわれはない。

勝手に思つてゐるだけなのだから偏見だ。偏見以外の何ものでもない。なのに松永氏は「偏見ではない」と主張する。出たら目だ。
平成二十一年二月二十二日
と言ふか、河上イチローと松永英明の間に連續性はない――と、さう云ふ事を言ひたいが爲にわざわざ「過去の日本語」と「現代の日本語」とは別物だ、と言張つて、それだけの爲に假名遣の事を笑ひものにしたのか。さもありなん。
平成二十一年二月二十二日
松永氏は「表記は現代の假名遣を、語法は過去の文法を用ゐてゐるのが筋が通つてゐる」と主張してゐる。
俺は、「表記も語法も、過去から自然に變化した現代のものを使ふのが筋が通つてゐる」と主張してゐる。
どちらの方が筋が通つてゐるだらうか。
ちなみに、「現代仮名遣」は、「過去に用ゐられてゐた假名遣が自然に變化して成立した現代の假名遣」ではなく、「言語を人為的に滅ぼしたかったので、それを政治的に禁止するだけの圧力をかけた」結果のものであるので、「現代の假名遣」ではない。人工のものだ。それを「自然のものだ」と松永ら國語統制派は言張るから、話がをかしくなる。
平成二十一年二月二十二日

ウェブサイトの「正字正かな」の人たちは、なぜか万葉仮名まではさかのぼらない。そして、致命的なことだが、彼らは現代日本語の口語的表現を旧かなで表記する。古典文法にて書きたる者ついぞ見かけざるはいかなることにやあらん、正字正かなとぞ言ひたる者ども、ただ懐古の趣をあらはすのみにてあさましからんとぞおぼゆ。

松永の致命的な誤は、正字正かな派が現代の時點から物を言つてゐるのに對し、「正字正かな派は過去に遡らうとしてゐるのである」と判斷してゐるところにある。
と言ふか、ただ懐古の趣をあらはすのみが偏見なのは、火を見るよりも明かな事だらう。何うしてとぼけるんだらう。懐古と言つてゐるが、どこがどう「懷古」すなわち現代の事に基づかないのであるといふのか、まったく述べようとしない。
平成二十一年二月二十二日
何度言つても馬鹿には通じないから言つても無駄かも知れないが、歴史的かなづかひとは、現實に存在した「過去の或時點で定められた特定の規範」の事を指すのではなく、さうした「規範を作らう」と考へるやうな人間の「正しさ」の意識に基いた、理念的に存在する日本語表記の方法の觀念の事を言ふ。理想的な假名遣ひの事だ。
そして、理念・觀念、或は理想のレヴェルで存在する歴史的かなづかひと云ふものは、現實に存在しないが、だからと言つて現實に存在させてはならない訣ではなく、逆に存在させるやう努力しなければならない。
我々は歴史的かなづかひ=正しい假名遣・本當の假名遣(今言ふこれらは、特定の具體的な或方法を指すのではない)が「理念として存在する」「理想として存在する」と信じなければならない。そして、理念・理想として存在する事を認めるならば、それを現實に適用して少しでも實現するやう努力せねばならない。
が、理念として「あるべき假名遣」「理想の假名遣」を考へる場合、我々は「今、自分が使つてゐる表記」を、「今、自分が使つてゐるから」と言つて、「事實」だと言つて、即座に「當爲」に轉換してはならない。「俺たちは今、假名遣Aで書いている。だから俺たちはその假名遣Aで書かなければならない」――これは理窟ではない。こんな「だから」はあり得ない。もしあり得るとしたら、それは「さう云ふ原理」を主張してゐる事であり、即ち、一般論として、「我々は自然に〜する」時には一つの例外もナシに「我々は〜しなければならない」、と云ふ「原理」を主張してゐなければならないし、それを實踐してゐなければならないし、また全面的に受容れられてゐなければならない。が、「人は屡々殺人を犯すものである」事實に對して「だから人は殺人を犯さなければならない」と云ふ「べき」論に話をすり替へる××××はゐない。ならばそんな一般論は「ない」のであつて、よつて「我々は『現代仮名遣』で書く」だから「我々は『現代仮名遣』で書かねばならない」等と主張する事は許されない。これは論理的な必然的歸結であり、全ての人間が反論できない。
平成二十一年二月二十二日
はてなブックマーク - 日本語が滅ぶだの滅ぼせだのといった話題がかまびすしいが - 2009-02-18 - 備忘録ことのはインフォーマル
穴だらけの松永の文章を支持する阿呆が何人もゐるのだ。茲で晒しておく。
信者
松永らしくてgood。
上から目線
正字正かななー、まあ好きにしたら良いと思うけど、あれは些か滑稽だよな
輕佻浮薄
待ってました!! / まぁ、言葉というのは常に、今の時代を共に生きる人のために紡ぐべきものだと思うよ。
平成二十一年二月二十二日
(わしの中ではあれは「難読字難読かな」です(←バカにした表現
馬鹿はどつちだ。わらひ。
俺にしてみれば、馬鹿が書く「わかりやすい」文章ぐらゐ、訣のわからない、苛々させられる文章はない。
わかりやすいとは、レッテル貼りで派手に惡口を言つてゐると云ふ事だが、レッテル貼りをしてゐるとは、偏見で物を言つてゐると云ふ事だ。馬鹿は常にレッテル貼りで侮辱を加へる。
偏見に滿ち滿ちてゐて、それゆゑ反論のしやうが無いだけなのに、馬鹿は「反論できなければ俺の勝ち」と本氣で言ふ。
平成二十一年二月二十二日
論爭を展開して行くうちにただでさへ荒つぽい言葉のやりとりがどんどん非道い事になつて行つて收拾がつかなくなる事があるのだけれど――さう云ふところで「義」が大暴れを始めて、それで言爭つてゐた全員が一致團結し、事が終結する、と云ふ事が何度かあつた。今度もさう云ふいい決着になるだらうと期待してゐる。「義」が荒せば荒すほど、被害者一同の結束が高まる――そして「義」による嫌がらせの「被害者」とは、野嵜の敵も身方もひつくるめて全員、の事なのだ。
平成二十一年二月二十二日
CSS方面その他ではモヒカン族とか言はれてゐるらしいが、正字正かな方面では是非ともアパッチ正かな軍と呼んで貰ひたい。
よくわからんけど適當な用語をでつち上げて流行らせられると面白い。どうせ松永はまともに反論して來ないだらうし、アンチは何を言つても俺の話をきかないから。
俺としては最う話を遊びにしてしまつた方がいいと思つてゐる、松永等への眞面目な反論をするより、彼等の攻撃に對して自虐的にでも何でもネタにしてしまつて笑ひ飛ばした方が良い。
平成二十一年二月二十二日
ホイジンガに據れば、遊びこそ人は眞劍にすべきなのだ。この邊、糞眞面目な人々には理解出來ない事らしいが、そもそも學問だらうが政治だらうが、或は法律の運用だらうが、ルールを決めて守る、と云ふ點では遊びと何も變らない。
と言ふか、俺が遊びと言へば「何で遊びなんだ、不眞面目だ」といきり立つて怒る人が非常に澤山ゐるみたいだから言ふけれども、遊びであり巫山戲た事であり、それで同時に眞面目であり眞劍である、と云ふ事は「あり得る」んだよ。皆ルイス・キャロルや吾妻ひでおのナンセンスギャグに深遠な意味を見出さうとするぢやないか。それが論爭だとなんで淺薄に笑ひをおふざけと捉へてしまへるんだらう。さうした方が自分にとつて得だから、と言ふのなら、松永氏の所謂政治的な表現をあえてとる人たちなんかよりも、より惡質な、「政治的な行動をあえてとる人たち」に屬する事になつてしまふ。
平成二十一年二月二十二日
ちなみに、正字正かなを政治的な表現だと言ふ松永氏の認識は、偏見であり、或は異常。なんで政治政治つて言ふんだらう。ニーチェの權力の意志邊から一種の心理學が發達したのだけれども、ニーチェだつたら定型的な心理分析なんかには再び反旗を翻し、批判を加へる事を眞の哲學の態度として當然の事として行つた事だらう。今の多くの日本人が、「政治」「政治」と言ふのは、刷込まれた文句を機械的に繰返して言つてゐるだけの事だらう。
自分が「政治」と言ふ行爲を、反省する事すらも出來ない人間が、常に「政治」と言ふ。反省したらいいのだ。或は、「政治」と云ふレッテルを貼る事自體、政治の行爲だらう。若し「政治」である事が「惡い事」なら、そんな惡い事を自分が率先してするのは、やめるべきだ。逆に「良い事」なら、批判的に「政治」と言ふのはやめるべきだ。どつちにしても、政治なんて安易に言ふのは止めた方が良い。精々「自分に都合の良くなるやう劃策する事」=「政治」と云つた程度の、底の淺い認識に基づいてゐるだけであり、ただ他人を罵倒するだけの文句を言つてゐるだけなのだから。
平成二十一年二月二十二日
ちなみに、俺が「道徳」と對置させて「政治」と言つてゐるのは、そんなのとは違ふ。次元の違ふ話だ。T.S.エリオットやその他の英國文學者、福田恆存、松原正、といつた人々は、個人と個人の關係に屬する道徳と、集團・組織に關する政治とを、區別して考へようとした。「我と汝」の關係が道徳的な關係であり、「われ・それ」の關係が政治的な關係であると松原氏は説明した。
斯うした區別に對して、否、相手が身内だらうが何處かの政治家だらうが、結果として自分にとつて有利になるやう劃策するのなら、それは政治である、と云つた事を言ふ人がゐるのだが、さう云ふ淺薄極まる言ひ方をして何うしたいんだ、と思ふ。「親を欺して金を得ようとする穀潰し」の外形を見て、政治的な行爲、と言ふ人がゐるとしたら、さう云ふ物の見方をする事がそれ自體として間違つてゐると言ひたい。親ならば身内であり、「我と汝」の關係に含まれるが、當然、子は親に對して何をするのでも感情を抱くし、さうした「感情を抱く事」がそれ自體として道徳的な行爲である訣だが、一方、その邊の知らない人でも當り前のやうにするやうな事を親に對して何も考へないでやつてもそれは道徳的な行爲とは呼べない――もつとも「無道徳」の行爲として非難する事は出來よう。それに對して、何んなに本氣で怒つてゐるかのやうに見せかけたとしても、「ブログ」なんかで麻生や中川をやつつける行爲は道徳と何の關係もない行爲で、政治的な行動である訣だが、そこでは「政治家がターゲットである」事も「自分に都合良く世の中を動かさう」としてゐる事も全く何の意味もなく、ただ單に相手が「遠い存在である人間」である事実を以て政治的な行爲であると斷定される。
平成二十一年二月二十二日
學問的な誠實を求めるのは、「政治的な行爲」ではない。ややこしいのは、眞理を求める行爲が、「眞理はある」と云ふ信念――或は信仰を傳統的に持つてゐる西歐では、純粹に道徳的な行爲であると斷定出來るのに對し、信仰も何もない無宗教の日本に於ては單純に斷定出來ないと云ふ問題がある事だ。
日本では、基本的に生延びる事が多くの行動の原理であり、この原理に從つてゐない行動は「異常」「愚劣」なものと看做され、嘲笑される。
生延びる爲の行爲なら、自分にとつて都合の良い行爲になり、淺薄な意味で「政治」と言ふ人々からは、全ての行爲が政治的と云ふ解釋をされる可能性があるし、それに對して生延びる事を「價値」と信ずる我々日本人はまるで反論できない。
學問的な誠實を求める動機を日本人は「自分にとつて都合がいい」以外に説明する事が出來ない。もちろん、それでも我々は屡々、學問的な誠實を尊重し、或は信じてゐるのだが、しかしそれを嘲笑する意見が出た時には――松原先生の言葉(福澤諭吉の言葉)に據れば「痩せ我慢」に據るのだとしか言葉の返しやうがない。が、これは概念の認識・觀念の意識において未熟である日本だからの事で――しかも、日本人が眞似せざるを得ずに眞似をしてゐるヨーロッパにおいて、學問の誠實は道徳的なものと看做されてゐるから、日本人も同じやうに看做さなければならない。それは義務だ。日本人は、ろくろく理解もできないまま西歐の學問を採入れたが、しかし、それゆゑに學問における誠實を追求する義務をも默つて受容れる事となる。
そこで意地になつて反對してゐるのは、やつぱり、彼等の考へる意味で、彼等自身が「政治的」であるのだらう。
と言ふか、松永氏の文章には、松永氏の所謂「政治的」なにほひがぷんぷんする。
平成二十一年二月二十二日
と言ふか松永も、懐古厨乙と言ひたいのなら、うちの文章をネタにしないで、ちやんと懐古厨の人のサイトを採上げればいいのに。
何うも俺を相手にすると騒ぎになつて人を呼べさうとか、さう云ふ計算が働いてゐるやうな氣がするんだよな。あれだけ穴だらけな文章にしてゐるのも「釣り」のやうにすら思はれてくる。
或は――「正字正かな」と言つたら俺しか思ひ浮かばなかつたのか。好い加減だな。手拔きしないでもつとリサーチしろよ。「ブログ」で人氣稼ぎしてゐる癖に、記事書くのに話題性だけで人を釣らうとして、ネタを集めるのに何の手間もかけてゐないのなんて、怠慢も良いところだ。それとも、所詮人集めが目的だから、記事のクオリティを上げるなんて事を考へてゐないのでないか。松永の「ブログ」なんか詰らなくて全く見てゐなかつたが、たまに見ると本當に駄目な記事を上げてゐて、俺の見るサイトを選ぶ選擇眼の正しさを改めて認識させられる。
平成二十一年二月二十二日
俺がよく本を「讀まない」で批評するのを、隨分叩かれたものだ。が、一般に、人は、本を讀まないで判斷してゐる。本屋で本を買ふ時には、「これを買ふんだ」と考へると同時に、「これ以外の本は買はないでいいんだ」と云ふ判斷が働いてゐる。讀まないで、讀みもしないうちから、讀む價値は無いと判斷してゐる。
ところが、「讀んでゐない」本を貶すと、大帝「讀んでゐないとは何事か」と向きになつて怒つて來る人がゐるのだ。さう云ふ人は本を讀んだ事すらもないのだらう。
平成二十一年二月二十二日
俺の事を「事實に反した事を書いてゐる」と非難し、自分が「事實を書いてゐる」事を誇る人がゐる。成る程、俺はしよつちゆう事實の間違ひを書いてゐる。が、さう云つた連中は、自分が「事實を書いてゐる」のか「價値判斷を書いてゐる」のか、全然意識してゐない――屡々價値判斷を書きながら「事實である」といけしやあしやあと述べてゐる。
俺は何時も自分が價値判斷を書いてゐる時には「價値判斷を書いてゐるのだ」と云ふ意識を持つやう心がけてゐる。この點で、「事實」だの「論理」だのと言葉だけ綺麗事を言つてゐる連中よりは増しだと考へてゐる。
「事實」を述べてゐると力強く宣言し、如何にも尤もらしい文章を書いてゐても、事實と價値判斷とをごちやまぜにしてゐたら、結論はただの出たら目であり――それ以前に、紛れ込んだ價値判斷を事實として讀み手に信じ込ませてしまふ危險を孕む。
松永氏にしても喜六郎にしても、その邊の意識は全然ないだらう。連中、驚くほど氣樂に「事實」を述べてゐる。反省する餘地もないくらゐ自分の言つてゐる事は全て例外ナシに「事實」だと信じ込んでゐるのだから處置なし。
平成二十一年二月二十二日
「人は〜するものである」と言つた時、それは事實の指摘なのか、それとも命令なのか。日本語だと非常に曖昧だが、この邊を意識して書いてゐない人は大變に多い。喜六郎もさうで、彼の「小屋」の文章にはこの手の事實を言つてゐるやうで實は當爲の文章であると云ふものが極めて多い。「〜するのが當り前」と云ふのも、事實を述べてゐるのか、すべき事を命じてゐるのか。
自分の文章を見て、ここは事實の指摘、ここは「すべき事」の主張(價値判斷)、と、分類してみよう。その結果、事實と當爲とが入亂れた、甚だ詭辯的な文章を書いてゐる事に、氣附けた人は幸である。多くの人が氣附けもしないだらうし、氣附いても氣にしない事だらう。
平成二十一年二月二十二日
正字正かなについての速記 - 備忘録ことのはインフォーマル
また人を小馬鹿にした「報告調」の文章が上げられてゐる。

きちんとまとまっていないのでメモ書き程度になるが、「日本語が滅ぶだの滅ぼせだのといった話題がかまびすしいが」でちらりと触れた(したがって言葉の尽くされていない)正字正かなについての発言が、いわゆる「正統表記」を用いる「正字正かな派」(id:kahusiさんの用語)の逆鱗に触れたようである*1。もともとがメモ的に書き流したエントリーなのだが、改めて簡単にポイントを押さえておきたい(いずれ清書するつもり)。

「ようである」とは何だ。偉さうに。しかし、速記の意味を勘違ひしてゐるな。

「正」という言葉は、必然的に「邪」(善悪)または「誤」(正誤)との対照で使われるものである。いずれにしても、「正しからざる漢字・かな遣い」が存在し、それを排除したいという表現である。一方、「旧字旧かな」であれば過去の一ヴァリアントとしての表記法という意味になる。わたしは旧字旧かなを使うこと自体を否定はしないし、プライベートでは旧字旧かなを読んだり書いたりするのも好きである。(わたしがブログ等で旧字旧かなを使わないのは、旧字旧かなを読めない現代日本人の大多数に届かなくなってしまうからである)

「正しい」と言ふ事が氣に食はない、と言つてゐる。何なんだらう。「懐古厨の癖に古いと認めない」と云ふのが氣に食はない、と云ふ事らしい。「旧字旧かな」こそが「正しい」と松永は言つてゐるのだ。偏見まみれの屑野郎は、「正しい」と言はないで「自分の正しさ」を主張する。その方が陰險で陰濕だ。しかし、正字正かなが何で正しくないのだらうか。正しいと云ふ事實があるのだから正しいと言つて良いではないか。正しくないのなら正しくない所以を示せ。氣に食はない氣に食はないと感情論で物を言ひながら、松永は自分が事實を言つてゐるかのやうに裝つてゐる。鄙劣な詐欺的論法はよせ。

「正字正かな」という主張は、戦後のいわゆる「現代表記」を批判するものである。それが国家によって進められたがゆえに定着したという事実はそのとおりである(が、強制力によって押しつけられた場合の話は、言語が滅ぶか否かという話の関連であって、ここで持ち出すのは筋違いではある)。ともあれ、「正字正かな」派は、その戦後の押しつけに反発し、契沖に定められ、それをもとに戦前まで用いられた表記を「正」とする。あるいは、戦前までの「歴史的仮名遣い」の結果としての戦前までの表記を「正」とし、戦後を「正でない」とする(このあたりは論者によって揺れがあるように思われる)。いずれにしても、「正字正かな」は「戦後の文部省が推し進めた表記」を誤/邪とする、と定義して間違いないと思われる。以上は正字正かなの主張についてのわたしの認識である。

強制力によつて假名遣は滅んだのだ。何が筋違ひなのだらう。また、さう云ふ「認識」が「ある」のなら、なぜ正字正かなを「正しい」と認められないのだらう。
そもそも、契沖の假名遣は定家の假名遣を訂正したものだし、定家の假名遣はそれ以前のスタンダードの誤を訂正したものだ。正しいかなづかひを用ゐようと云ふ意志は、日本で書き言葉が使はれるやうになつて以來、ずつと存在した。さうした傳統があると認めるべき事を我々正字正かな派は主張してゐる。さうした意志に基いて、幾つかの假名遣の方式が定められたし、さう云ふ事實は確かにあるが、さう云ふ外面的な事實だけを認識するのでは不十分と云ふ事だ。定家にしても契沖にしても、權威として認められた假名遣の規範の代表的なものである、と云ふ事。我々はもつと人の内面的な事實をしつかり見なければならない。

わたしは常々、「日本の伝統」とされるもののうち、かなりの割合のものが実は「明治以降」に定着した、「極めて歴史の浅いもの」であることに関心を持っている。厳密に言えば、水戸学の系譜を引く国学によって江戸時代に萌芽が見られ、その後明治になって主導権を握った「日本的なもの」というものは、実は江戸時代以前の日本文化と大きく異なるものである。たとえば、靖国神社の教義(滅ぼされた者の怨霊を鎮めるのではなく、官軍の犠牲者を一まとめの神として祀る、など)は、幕末に生まれた新興宗教というべきである(がこの話は別のところできちんとやる)。「神前結婚式」なども明治以降の極めて新しい日本的文化である。「横浜開港150周年」であるが、およそ150年前を境に新しい日本が作られ、それがあたかも古来の日本であるかのように勘違いされるようになった。そこにわたしは大きな疑問を持っている。そして、日本の多くの「民族派」の主張(日本財団に代表される)が、「戦前に回帰せよ」=「戦後民主主義への反発」であることに、まったく共感を覚えることができない。なぜなら、彼らの主張する「古きよき日本」が江戸時代や室町時代や鎌倉時代や平安時代や奈良時代や飛鳥時代のスタンダードを顧みないからである。彼らは明治維新以後終戦までを美化することによって現代の「戦後民主主義」を批判しようとする。(※正字正かな派と民族派は異なるが、終戦を境に正邪/正誤が分かれると考えている点では共通しているとわたしは感じている。また、その意味でわたしは呉智英が嫌いではない。)

明治以來、我が日本國は歐米の文物を移入し、近代化を實現した。それは事實だ。しかし、近代化しようとした我等が御先祖樣の意志をこそ、我々現代人は見なければならない。そこで行はれたのは「復古」と云ふ形の近代化であるが――ルネサンスがギリシャ時代以前への囘歸によつて中世を否定し、宗教改革におけるプロテスタントが教會の否定と云ふ形で原始キリスト教への囘歸を圖つたのと同じ事だ(嚴密な話をしてゐるのでないから突込み不要。人を無知に見せかける爲に斯う云ふ表現をすると「事實でない」とわざわざ指摘する人がゐるから爲念)。それを否定したいと松永氏は言ふ。だが、さうした明治政府の「復古の形態をとつた近代化」と云ふ方針が、敗戰と云ふただそれだけの事で否定された事は、吾々の御先祖が選び取つた近代化の進め方を放棄し、現代人の都合によつて過去と斷絶した現代人だけの世界を、現代の日本人が構築しようとしてゐる事實を意味する。これは許されない。
然るに、明治政府は鎌倉・室町・江戸の時代の文物を近代的な物の見方で近代的に解釋し直したのであり、實は傳統を大變に重視したのであつた。靖國神社にしても、そもそもの國家神道にしても、嘗ての神社、嘗ての神道を近代國家にふさはしからう形態に再生せんとした試みであり、其處では傳統の近代的な再生の試みが行はれたのだと見るのが正しい。それは傳統そのままの繼續ではなく、傳統の近代的な再生があつたのだ。それを「傳統の斷絶」と松永氏は見るのだが、しかし近代を受容れる事が日本人の運命であつたのであり、その運命に日本人は意志的に從ふ事によつてのみ自律的な近代化を實現し得る。だからこそ明治の日本人の意志を我々現代人は尊重すべき事は言ふまでもなく、ならば明治以來の近代化の方針を我々は繼續して行かなければならない。そこで江戸以前の因習への囘歸を叫ぶ松永氏のやうな立場こそ、近代化を否定し、日本の歴史を否定する立場だと言ふ事が出來よう。俺はさう云ふ松永氏らの立場を肯定出來ない。俺は近代化と云ふ歴史的な運命を受容れざるを得ないし、それをさんざんの葛藤の末受容れた明治の日本人の意志を認めざるを得ない。

わたしは戦後民主主義の信奉者というわけではない。しかし、大日本帝国や明治維新を美化するつもりもない。それ以前のすべての時代と同じく、変化し続けてきた日本の一形態であると思っている。

俺は戰前と戰後との間には斷絶がある事實を認めるし、連續的な變化ではないと判斷する。俺は、憲法や表記の外見だけで判斷するのではない――さうした形式の斷絶を容認する日本人の精神のレヴェルで、變化ではない、斷絶を見る。その斷絶を俺は認められない。

したがって、戦後の政治による現代漢字・かなの押しつけを批判するなら、大日本帝国による「国語」政策も、明治新政府による言語政策も、同じく批判されるべきであり、「戦前はよいが戦後は悪い」というのは認められない。明治時代にどれほど日本語が「作られた」かを考えれば、戦前の表記は伝統を受け継いだものであり、戦後の表記は伝統を破壊するものだ、というような考え方をわたしは受け入れることはできない。いずれも日本語の表記の歴史におけるヴァリアントにすぎない(ただし、その中でどれが好きとか嫌いとかいう程度のことは否定しない)。

明治政府による近代化政策を、傳統的なものの近代的な再解釋と見、近代を受容れる爲に必然的に要請したものであると、俺は認める。明治時代に行はれたのは、日本語の創作等と言つたものではなく、既成の無意識的に存在した日本語の概念を近代的=意識的に日本語として成立させる爲の試みであり、標準語にしても表記の體系にしても明治時代に成立したのは傳統の破壞ではなく傳統の近代的な再生であつた。そして、近代化の試みとしての國語の表記の整備は、既に江戸時代に試みられてゐた契沖による整備を引繼いだものであり――と言ふより、既に契沖によつて國語の近代化が試みられてゐたのであつて、江戸時代、既に日本人は自立的に近代化への歩みを始めてゐた。國學の出現が江戸時代に日本人が一種のルネッサンスを開始してゐた事實を示す。近代化の流れが生じてゐる中で、黒船來航と云ふ事件があり、強力な西歐の齎した文物を受容れる形で日本の近代化が促進された。明治に、外來的な近代化の流れが生じながら、日本人は國語の表記において飽くまで江戸時代以來の近代化を繼續しようとしたのであり、それは傳統の繼續である。

戦後批判という側面を持つ「正字正かな」運動であればこそ、昭和二十年(ごろ)までの「戦前の表記」が「正」とされるのであろう。しかし、わたしにとって「正」という基準は存在せず、ただ過去の表記もヴァリアントとして尊重したいと思う。だからこそ、「戦前表記」をもって現代文を表わす者「だけでなく」、たとえば定家仮名遣いを基準にして記すサイトや、平安仮名遣いを基準にして記すサイトや、万葉仮名をもって日記を書くサイトなどがあってもよいと思う。少なくとも「歴史的仮名遣い」というものがその最終形としての戦前表記だけに限定されるのはおかしい。もし、正字正かなサイトがこれらの歴史的表記のすべて(あるいはある程度)をカバーしているのであれば、わたしもさほど反発を覚えなかっただろう

正字正かなの運動と云ふものは、單なる戰後批判ではなく、戰前と戰後の連續を目指す肯定的な主張だ。もちろん、趣味のかなづかひのサイトがあつても良い。けれども、さうした趣味だけは許すが、歴史的かなづかひの正統である事實を主張するサイトが存在してはならない、と云ふ松永氏の主張は認められない。と言ふか、なんでこの人はこんなに「私は思う」「私は思う」と私の主觀で物を言つてゐると繰返し言ふのだらう。これこそ松永氏が偏見に滿ち滿ちた、獨斷的・主觀的な、感情論を、何の客觀的な根據もなしに、主張してゐるに過ぎない、と云ふ事を端的に示してゐる事實はないのでないか。

「正字正かな」の「正字」も、康煕字典を規範とする流れにある。「戦後日本政府の強権による漢字字体の制限」とは言われても、「康煕帝の強権による漢字字体の制限」などという批判が聞こえないのは気のせいか。わたしは繁体字・簡体字・現代日本漢字のそれぞれをヴァリアントとして認めるし、「俗字」「略字」の対義語としての「正字」という言葉遣いは認めるが、「これこそが正しい、あとは間違い」という考え方は受け入れない。そして、楷書体以外の様々な漢字(それこそ甲骨文字から始まる)のさまざまな「字形」の差をすべて(正邪の区別なく)受け入れた上で、自分の採用する文字はこれとする、という表明だけを行ないたい。

康煕字典を目の敵にするワンパターンな攻撃。しかも、正しい字體を求めて行はれた康煕字典の作成と、字體の制限とを、外見的な類似から即座にイコールで結ぶ淺はかさ。何でこれほどまでに皮相淺薄な「批判」をしか出來ないで、大きな顔をしてゐられるのだらう。「當用漢字」以來の略字體は、「正しい字體を求めた」ものではなく、ただ便宜主義によつて字體を減らし、劃數を減らし、手間を減らさうとしただけのものであつた。そこで出現した「當用漢字」の字體に、松永氏は一貫性・體系性を認められるのだらうか――と言ふより、それを「認められない」のを松永氏は當り前の事としてゐるのだ。だが、一貫性のない、體系性を缺いた表記である現代の日本において使はれてゐる字體のセットは、果して近代的な社會に於て整備されたものと言へるだらうか。それは劣化であり、向上ではない。我々は歴史の中で漢字が變遷してきた事を知つてゐる――が、その變化を我々は一面で自然のものと捉へる一方、別の一面で意志的なものと見なければならない。其處では誤つた意志による改變の存在を認める事もあり得るし、その改變に對して意志的な補正を試みる事もあり得る。「當用漢字」として出現した改變に對して、意志的な補正を主張するのが正字正かな派の態度だ。

「正字正かな」は表記だけの問題であるから、文法などは関係ない、と主張された。さらに、わたしの「正字正かな利用者が古典文法で書かない」という指摘について「古文と旧仮名遣いが一体だと思っている、現代教育の犠牲者」というような批判までなされた。わたしは、「表記」と「文法」が切り離して考えられることについては理解している。しかし、その上で、正字正かなが「表記」における批判にとどまり、文法についてはまったく顧慮しないことを中途半端だと考えている。わたしにとって、「失われた仮名遣い」に対する郷愁は、「失われた表現方法」への郷愁の一部である。であるから、わたしにとっては「旧字旧かな」という「字面の表記」だけでなく、「明治大正の擬古文」という文体や、言文一致運動以前の文体、あるいはいわゆる古典文法の文体といったものすべてに及ぶ。逆に言えば、「正字正かな派は、字面の表面的なものだけしか扱っていない」という批判である。日本語表現における相対的な視野が完全に欠落している。文字表現は文法や文体を含めた記述システム全体の中で論じられるべきであり、正書法だけを切り離して論じるのは片手落ちである。

文法にしても語彙にしても、變遷する事は當然だ。それらは話し言葉において出現し、それを書き言葉の側では受容れざるを得ない。が、だが、飽くまでさうした變遷が話し言葉における變遷である事実を我々は認識しなければならない。話し言葉を表記する際には、書き言葉の自律的なルールが適用される。文法・語彙の生成・變遷・消滅は、話し言葉の次元で行はれる。表記は飽くまで書き言葉の次元で存在するものである。文法と表記は、別の次元のものなのだ。それを混同するのは、松永氏が物事を切り分けて考へられない、低レヴェルな頭の持主である事實を示す。
――と言ふか、青方の中村の旧かなにしても、河上イチローの旧かなにしても、所詮は郷愁に基づく趣味的なものでしかない事實がはつきり分かつた。だからこそ、趣味を擁護する感情論を渠等は表明し、趣味とは違ふ俺の立場を激しく罵倒するのだ。趣味なら勝手に隅つこの方でやつてゐればいい。何を偉さうに。正字正かな派――と言つて、渠等と俺とを同じ派閥であるかのやうに言ふ事自體、汚らはしく思はれて來た。正字正かな主義者野嵜分派(笑)が主張するのは、理論的に守り得る最低限の領域を守るべき事だ。が、それは、絶對に讓れない・讓つてはならない最後の堡壘を守るべき事の主張である。「絶對に讓れない」ものを守れ、と言ふのだから、それは最小のものに限られる。趣味的に物を言つてゐる松永氏や青方の中村等は、趣味の範圍だから、何處までも領土を擴張して勝手な事を言へる。氣樂に過ぎるんだよ。と言ふか、俺なんかよりよつぽど傲慢だらう。趣味を押附けてゐるんだから。

わたしにとっては、たとえば「べき。」問題がある。「べし」は古典文法から現代文法に生き残った言葉である。これは、終止形が「べし」となるはずなのに連体形「べき」で終わる「○○すべき。」という表現が気持ち悪くてたまらない。係り受けもしていないのに、連体形で終わるのである。しかし、正字正かな派はそういうことを問題視しない。何だよ、正しい表記とかいいながら、「べき。」を見逃すのかよ、と思う。

「べき」の論は、假名遣の論とも、漢字の論とも關係がない。その邊の事は、正字正かな派に限らず、多くの人が問題にしてゐる。そもそも正字正かな派が問題に「してゐない」とは、何處を見て言つてゐるのだらう。松永氏は斯うやつて、虚僞をそつと事實の論の中に紛れ込ませて、人を騙さうとする。氣をつけなければ行けない。

正仮名遣いは、現実に使われている発音とまったく無関係でよい、正字法は独立した存在だ、という主張もある。それはもちろん言文一致的な流れとまるで対極に位置する(完全な言文一致は不可能である。音声学・音韻論を学べばそれはわかる。しかし、だからといって現行の発音と無関係でよいというのは極論である)。かな文字というものが本来、当時の日本語の音を表わすために漢字を借りて作られたシステムである以上、それは時代の変化とともに更新されてしかるべきではないか。

福田恆存は、例へば音便の説明で、表記が發音の變化に附合ふ部分がある事實を指摘してゐる。しかし、同じ音便の説明で、書き言葉が書き言葉としての自律性を守る領域がある事をも指摘してゐる。表記は、話し言葉とも關係があるが、書き言葉としての自律性も持つ。常識的な話だ。そこで極端な説を主張しなければならない理由はない。また、表音文字であつても、表音的な表記に使はれなければならないと云ふ必然的な理由はなく(それを勘違ひしたのが表音主義者だ。松永氏も同じ勘違ひに陷つてゐる)、英語でアルファベットが綴りとして表意的に用ゐられてゐる事實を見ればその事は明かだが、假名文字も假名遣として表意的に用ゐられて良い。「現代仮名遣」でも助詞の「は」「へ」「を」は表意的に用ゐられ、それは自然である。その表意的に用ゐられるべき領域が存在してゐる事實を正字正かな派野嵜分派、わらひ、は主張してゐる。時代の變化とともに更新されて良い領域はあるが、更新されるべきでない領域ある。

わたしは幸田露伴派を名乗ることにする。それは、幸田露伴の思考方法とわたしが非常に似ているからであり、主張もうなずけるものが多いからである。幸田露伴は、「普通文章論」でこのように書いている。

然るに、露伴は決して正字正かなを否定したのでなく、飽くまで正字正かなで書いてゐる。この事實を松永氏は何う見るか。實は、福田氏も、字音假名遣については、或程度の整理の行はれて良い事を述べてゐる。露伴もその程度の事を言つたに過ぎない。蝙蝠にしても躑躅にしても、或は蝶々にしても、その假名遣は漢字の陰に隠れて普段は見えない假名遣である。その邊で煩い事を言つても仕方がない、と云ふだけの話だ。露伴が全面的に表記の表音化を主張したと思つたら大間違ひだ。露伴は飽くまで守るべき所は守つたし、守つても守らなくても普段の生活では問題にならない部分では讓つても仕方がないと言つただけだ。松永氏が露伴派――笑はせて呉れる。

そもそも、文字表記というのはすべてが「約束」にすぎない。「し」という文字でshiの音、「よ」でyoの音、「しょう」でshouの音を表わすというのもすべて約束事にすぎない(ギリシア語のιはiの音である)。であるから、「せう(seu)」を「しょう」と読む、というのも約束の一つである。約束は、多くの人が共有しているということが前提である。表音文字の場合、同じ音が伝わることが大前提である。同じ音が伝わればよい約束であり、同じ音が伝わらなければよくない約束である。

喜六郎(或はその信者)の「憲法論」を見てゐるやうな氣がした。約束を外見的にしか捉へられない人の言葉だ。人は意志的に約束に從ふ。人の意志を俺は事實として認める立場だから、喜六郎や松永氏のやうな、何處までも「客觀的」な物の言ひ方には從へないし、一般に從ふべきでないと信じてゐる。話し言葉を書き言葉に寫すのには、ルールがある――が、さうしたルールに從つて書かれた文章は、長く殘るのだ。これが書き言葉の話し言葉と決定的に違ふ性質だ。長く殘るものだから、書き言葉における規則は繼續的に人を支配する。書き言葉の規則は變化を拒絶するのだ。書き言葉における約束としての表記の規則は――否、それ以前に、話し言葉ですら、言葉の約束と云ふものは、實は人ではなく言葉の側に「主導權」がある。鴎外も假名遣意見で指摘してゐる事實だ。
松永氏や喜六郎といつた人々が、「わたしは」と執拗に言つたり、「人が」約束を支配すると云ふ事を主張したりするのは、個人主義的であり、現代的であり、戰後民主主義的である、と指摘するのは可能だと思ふ。餘りにも人の地位を渠等は高く言過ぎる。その一方で、人の意志には何の興味も無いらしいのだ。世の中が變化するのは自然である――運命である。が、運命に對してあり得る人の意志を見出す事を、渠等は許せない。老荘思想の一種でもあるのだらうか。しかし、渠等は無爲自然に流されて生きるのでなく、なぜか「自分の意見」を執拗にいふのだ。訣が解らない。日本人には斯う云ふ訣のわからない立場をとる人が非常に多い。無意識的な領域に日本人が留まつてゐる證據であらう。それは日本人が依然として近代以前の状態に留まつてゐる事實を示す。松永氏の正字正かな批判は、契沖の頃に行はれた定家假名遣派による契冲假名遣への批判と似たやうな内容で、論理的根據を缺き、ひたすら「私の支持する傳統」を主張してゐる點で共通する。或意味興味深い。
平成二十一年二月二十二日
一言で言へば――松永は、自分が懐古厨で「旧かな」支持であり、みんなも自分と同じ趣味を持つてゐるべきだと堅く信じてゐるがゆゑに、「正字正かな派」と自稱する人間の存在する事が許せないのだ。
なんて馬鹿馬鹿しい話なんだらう。松永はただのアンチに過ぎない。
平成二十一年二月二十二日
昔河上イチローがやつて呉れてゐた「旧字旧かな掲示板」で「旧字旧かな」の普及の方策を話し合つてゐた人達が、サクラ大戦を利用して「旧かな趣味」を擴めるのは何うだらうかと言つてゐたところに俺が入り込んで「そんなのやめろ」と言つた事があるのだが、あれを未だに根に持つて恨んでゐる「旧かな派」の人は何人かゐさう。kanchan氏は「あつち」の世界から「こつち」の世界に戻つて來て呉れたのだけれども、そのkanchan氏が一番ヲタ趣味にのめりこんでゐるやうな外見があつて――結局ヲタとしての自覺がある人ほどまともなんだなあと思つた事がある。自覺なき趣味人のヲタ的性向ほどたちの惡いものはない。或は、外面だけ見た判斷は案外當てにならない。kanchan氏は、ヲタ的振舞ひをわかつてやつてゐたから、ヲタに淫してゐたのではなかつたのだ。「淫する」とは、無意識であるがゆゑに、何かにどつぷり漬かつてしまふ事だ。
平成二十一年二月二十二日
嘲笑的な人はゐるし、自虐的に自分を嘲笑して見せるパフォーマーもゐる。けれども、自分がやつてゐる事を笑はれて一緒になつて笑へる冷靜な人は少い。他人を嘲笑し、自分を嘲笑して見せるパフォーマーは、自分が嗤はれると逆恨みして、アンチに轉化し易い。自戒をこめて言ふのだが、みんな氣をつけよう。
平成二十一年二月二十二日
機嫌よく喋つてゐる人ほど、茶々を入れられると機嫌を惡くしがちだし、邪魔をして呉れた人を陰險に憎むものだ。自分が機嫌よく振舞つてゐる立派な人間だと以て自任してゐる人ほど。
叮嚀語で喋つてゐる人間も、概して見せびらかす爲に叮嚀さを裝つてゐるに過ぎないものだ。心の底では何んな陰險な事を考へてゐるか――人當りの良い人物には寧ろ氣をつけた方が良い。
平成二十一年二月二十二日
江戸時代から明治時代への移行で日本の近代化は象徴的に示される。そこでは黒船と云ふ外部からの壓力で近代化が促進された訣だが、當時の日本人は意志的・自律的に近代化を遂行しようとした。明治の近代化は「和魂洋才」の近代化だつた。それは確かに無理があつたから、敗戰で破綻に至つた。が、だからといつて他に何うしやうもない。
昭和二十年前後、敗戰によつて、日本の近代化は大きく原理を變更してゐる。敗戰以來、日本の近代化はただ「近代化の流れ」に乘る事だけで行はれ、便宜主義によつて推進されてゐるに過ぎない。「商人國家」と松原正氏は呼んだが、戰後の日本ではひたすら經濟原理が社會を動かした。松原氏の言ひ方では「無魂洋才」の近代化である。
「和魂洋才」の近代化である明治の近代化は、意志的に行はれたもので、その點、精神史的には歴史の繼續である。一方、時代の流れに棹さし、流された昭和二十年以後・戰後の日本の近代化は、「無魂洋才」の近代化であり、便宜主義的で、そこに精神の介在する餘地が無い。よつて精神史的に日本の歴史は敗戰で斷絶したと言つて良い。明治の維新と、昭和二十年頃の「改革」とでは、精神的に・根本的に=歴史的に意義が異る。それを「同じ改革」だと外面的にしか物を見ない人が言ふけれども、大變淺はかな事だ。
平成二十一年二月二十二日
たんご屋本舗 「かなづかい入門」
やつぱりあの惡書、有害な影響を廣く與へてゐるみたいだ。アンチ正かな派の策謀許りが流通してゐて、最う日本語は駄目だ。
定家假名遣も契沖の假名遣も今の日本人は知らない――今の日本人の無知にアンチ正かな派はつけ込んで、「改革」の「正当性」を刷込んで行く。無知な人は自分が頭が良くなつたと思ひ込んで、偏見を植附けられた事にも氣附けない。最う駄目だよ。

この本の後半では、歴史的仮名遣が廃れて現代仮名遣が横行することで日本語の伝統が破壊されるとか仮名文字の情緒性が薄れたなどと主張する歴史的仮名遣愛好者を厳しく批判している。単なる啓蒙書に見えて、実はある一方の考えを強く主張しているけっこう過激な本のようだ。門外漢としては著者のいっていることはいちいち納得できる。だが、もう一方の側の主張も読んでみたくなった。

で、實際に讀んで、單なる「公平」な判斷から一歩脱け出して呉れれば良いが――無理だらう。「公平」な人は、偏見と、本當に正しい事とであつても、「公平」に扱はうとしてしまふ。それは偏見にとつて大變有利な事であり、正しい事を否定する事にほかならないのだが、自分で自分が「公平」な積りでゐる人はそれが絶對に解らない。偏見に對しては「認めない」と云ふ態度こそが正しい態度であり、正しい事については「從ふ」と云ふ態度こそが正しい態度であるのだが、さう云ふ正しい態度をとらないのなら、その人は正しさを認めてゐない事になる。それを「公平」のやうな、「喧嘩兩成敗」のやうな態度で、何でもかんでも認めてしまふのが、今の多くの人が「正しい」と信じてゐる態度だ。大變困つた態度だが、誰もそれが惡い事だと思つてゐない。
「国語改革」「国字改革」と呼ばれる、強壓的なやり方で國語の表記の規則が改變され、強制によつて國民が表記を變へる事になつても、それが年を經て、「自然に變化した」のだと教へられるやうになつて、多くの何も知らない人が騙されて、虚僞を信じ込んでしまつてゐる。しかも、長い間に、日本人は虚僞であつても自分に有利ならば信じ込んでしまつて良い、と教へ込まれてゐる。虚僞を虚僞であるがゆゑに拒絶する、と云ふ態度を、日本人は持つてゐない。
或は、國であれ共同體であれ、日本人は「權威」であると思ふ。そして、さう云ふ權威に「大多數」が「從つてゐる」のなら、同じやうに何も考へないで自分も「從ふ」のが「樂である」し、「樂である」のは良い事である、と云ふ價値觀が蔓延してゐる。そこで、「樂になる」事を否定する價値觀の持主が出て來ると、多くの日本人が、「嫌惡感」を抱き、その「嫌惡感」を動機として排除に動き始め、動機を正當化する爲の「排除の原理」を念入りに作り上げる。その「排除の原理」は動機を隠匿するのが目的だが、自分に對しても動機を隠匿する事となり、結果として自分が嫌惡感と云ふ感情に基いて排除を目的に動いてゐる事實を自覺できなくなる。そして、この時、自分こそが排除の對象である、と云ふ認識的・心理的なすり替へが行はれる。一方的に「嫌な奴」を追出さうとしてゐるにも拘らず、自分自身に「嫌」な印象を與へるからと言つて相手を加害者だと云ふ事にしてしまひ、自分自身が相手を排除しようとしてゐる加害者である事實を自覺する事を自分で心理的にブロックしてしまふ。かう云ふ自己欺瞞が行はれると、その人の言ふ事は頑なになる。感情的な攻撃が、自分自身にとつては理性的な攻撃に見えるやうになり、事實の認識と、價値判斷とのけぢめをなくす。
平成二十一年二月二十二日
「新常用漢字表(仮称)」のカッコ書き - yasuoka の日記

……。まだ、流し読みした程度だが、やはり、どう見ても平成明朝体だ。だとすると、現在の常用漢字とは微妙に字体が変わってしまう。……。

表を作ると、その表を作つた時のフォントが問題になるらしい。何なのだらう。「文字のデザイン」とやらが此處まで論じられるのは無駄ではないか。
多くの人がこの手の無駄な事を「無駄だ」と思ふ事すら出來なくなつてゐる。そして、無駄な努力をやれる人を偉い人だと思ひ、無駄な揚げ足取りをした人を頭が良い人だと思つてしまふ。
字體と云ふものの概念が「當用漢字」の「字体表」以來ぐだぐだになつてゐる事實を認識しないでゐる限り、この手の「フォントのデザイン」に依存せざるを得ない「現実に存在する表」の議論を「無駄だ」と認識する事は出來ない。しかし、無駄な議論を眞面目にできるのは頭の惡い決定的な證據だ。
多くの頭の良い筈の人が頭の惡い議論を繰返してゐるのを見ると、何だか哀しくなる。安岡さんも眞面目な議論をしてゐる積りなんだらう。御苦勞な事だが、偉い事だとは全然思はない。結局、今の文字の議論を安岡さんは肯定してゐるのであり、文字セットそれ自體も肯定してゐるのであり――國字改革を大前提として全肯定してゐるからだ。國字改革の愚を認識しないで、その後の全ての文字の問題――文字セットの問題も含めて――を論じても、何の意味もない。文字セットの問題で、指摘されてゐる「をかしな事」も、何うせもともとをかしな状況で出現してゐるをかしな事に過ぎず、瑣末な問題にすぎない。
平成二十一年二月二十二日
@nifty:デイリーポータルZ:スーパーのうずら卵から、ひな鳥ピヨピヨ!
まさゆき研究所 『スーパーのうずら卵から、ひな鳥ピヨピヨ!』(@DPZ特集)
平成二十一年二月二十二日
うずらの気持ちも考えろ
吹いた。匿名だとこの手のアンチアンチした文章がまともに相手にしてもらへるんだね。
平成二十一年二月二十二日
人工無能うずら(人工痴能,!人工知能) uzura is AI(Artificial Intelligence)?
うずら語録

平成二十一年二月二十一日
のあ
花より洟。
あやの
花粉症か……。
のあ
うん(ずるずる)。

平成二十一年二月二十日
ネットショップ&アフィリエイトのためのSEO対策 Lesson 17. コンテンツの安全性に配慮しよう
平成二十一年二月二十日
出会い系サイトに顧客データ流した男逮捕、架空請求の被害も
平成二十一年二月二十日
単語辞書をネットワークで共有する「Social IME」公開
斯う云ふのにも荒しが涌いて出るんだらうな。さう云ふのの對策、何うするんだらう。
平成二十一年二月二十日
正字正かなIMEつて最う誰も作る氣ないだらうな。SKKがあればいい、と云ふ人しかゐなくなつてるんだから。
俺SKK嫌ひなんだよ。文章を細切れに入力しなければならないんだから。SKKの入力方法は餘りに不自然だ。
SKK - 意味・説明・解説 : ASCII.jpデジタル用語辞典
Kyou haHaRedesu
何うしてKyouとhaの間に空白があるのだらう。Kyouhaで變換できなければをかしいぢやないか。日本語では「今日は」で一續きなのであり、「今日」「は晴れです」なんて切れ方はしない。
またHaRedesuのRも不自然だ。HAredesuなら訣がわかるが、HaRedesuは訣が解らない。SKKは「今日」「は晴」「れです」と日本語の文章を分ける。こんな氣持の惡い入力プログラムは使へたものではない。いや、分けてゐない、ただ入力する時にさう云ふキーの操作をするだけだ、と反論する人もゐるだらう。けれども、誰が何う考へても、この操作では體言の「今日」と助詞の「は」を分斷してゐる。SKKは、日本語の文章を一聯のものとして入力出來ない――だから日本人の感覺に合はない。
平成二十一年二月二十日
何よりSKKが氣に食はないのは、その場その場で文字を確定させようとするからだ。俺は既に一聯の文章を考へてゐて、それを打込みたい。ところがSKKは、考へた文章の一部分だけを兔に角強引に確定させようとする。何でざつと全體を打込んで夫れから推敲するのを禁止するんだ。ATOKが昔單文節變換をユーザに強要してゐたけれども、あれは「單文節變換」ではなく「單文節確定」だらう。連文節だからこそ「變換」→「確定」と云ふ過程が出現する。
豫測變換も要らない。豫測された部品を選んで文章を作り上げるものではないからだ。俺は豫め文章を頭の中で作り上げて――或は文章を打込みながら一聯の文章の流れを組上げてゐる。さうした纏まつた文章、或は文章の一聯の流れと云ふもの――SKKにしても單文節變換のかな漢にしても、さう云ふ「一聯の流れ」と云ふものをユーザが頭の中に組上げる事を許さない。ひたすら細切れの文字・文章の斷片を、ばらばらに確定させる事を、SKKも單文節變換時代のATOKも、ユーザに強要してゐたし、現在も強要してゐる。
平成二十一年二月二十日
ウェブの文章を讀み漁つて、いい文章を見出さうとする、と云ふ人は、結構多いらしい。が、俺はそんな事、やらうと思はない――やる氣がしない。いい文章を讀みたければ、目の前の棚から本を取り出せば事足りるからだ。世間の人は何うしてそれをやらないで、「ブログ」だの何だのを一生懸命手繰つて讀まうとするのだらう。不思議でならない。古典として認められてゐる本には、間違ひなく讀む價値のある文章が含まれてゐるのだ。それを讀まうともしないで、わざわざ廣大なウェブの中で「名言」を拾はうとする。理解出來ない。或は、最近の流行作家の本ばかりを讀まうとする。新刊ばかりを讀まうとする。そして、その中から「いい本」を見附けて、喜びを得ようとする。理解出來ない。最う名著と判つてゐる本を讀めば、それでいいだらう。わざわざ海の物とも山の物ともわからない新刊ばつかりを、好んで讀む事もないだらうに。
――もちろん、生きのいい、最新の言葉を、見たい、と云ふ欲求もある。實は、俺がそれで、だから俺はリロードする度にスレッドが上つて來る虹裏を好んで見るし、何んなものが出て來るかわからない新人作家をラノベを好んで讀む。が、さう云ふ本當にリアルタイムで更新されるコンテンツや、本當にヴィヴィッドな感性の表はれてゐる本許り讀んでゐると、更新が滅多にないウェブのコンテンツ、或は、決り切つた内容のベストセラーには全く興味を惹かれなくなる。一日に一度か二度、精々三度くらゐしか更新されない「ブログ」とか、「誰もが望んでゐるもの」を解つて書いてゐるヴェテラン作家の本とかを、俺は最う、讀む氣になれない。さう云ふものは退屈だ。
新人のラノベでも、結構「ありきたり」の内容と讀む前から判つてしまふものがあつて、さう云ふのは何うにも讀む氣になれず、積ん讀にしてしまふ事がある。
ウェブの多くの文章は、リアルタイムで更新されないものであり――ならばそれらは退屈だ。2ちゃんねるですら更新が遲過ぎる。また、書き手がどんな事を書くものか、パターンが知れてゐて、しかもそのパターンが讀者に媚び媚びの、ありがちのものであると判つてゐると、最う讀む氣になれない。「ブログ」でもワンパターンの内容のものが結構あつて――それを「ブロガー」當人は「いい」と思つて書いてゐたりするのだが、さう云ふのにはうんざりする。もともとオフラインのリアルの新刊本を讀まない俺だが、段々ウェブの文章も讀まなくなつて來た。ニュースだつて、何年も生きてゐると、パターンが見えて來るものだ。通り魔殺人でも有名人のスキャンダルでも――と書いた時點で、さう云ふ事件が、どぎつい印象を當座與へるだけで、パターンに納まつてゐる事は明かだ。
平成二十一年二月二十日
日本人は、誰かを嘲笑ふ事は良く知つてゐても、物事を笑つて濟ませる事は知らない。
平成二十一年二月二十日
リンク集:オンラインコミュニケーションの定番!こんなにありますSNS
なんでこんなにまでして人と人とをつなげたがるんだか。みんな自己啓発セミナーやエヴァを嗤へないよ。

平成二十一年二月十九日
サイバークリーンセンター(CCC) | ボット ウイルスの駆除手順
NHKでやつたからリンク張つたが、TVでURLが流れた直後に落ちた。
平成二十一年二月十九日
Webデザインとグラフィックの総合情報サイト - MdN Interactive - Web STRATEGY最新号 - vol.20
SEOつて變だよな。何で人間でなくサーチエンジンの爲に「最適化」しなければならないんだらう。ウェブサイトはユーザにとつて「最適」でなければならない。當り前過ぎるほどに當り前の話だが、それがわからない人が異常なまでに多い。
最初に「SEO」と言つたのは誰だつたのだらう。とんでもなく大量の人間を勘違ひさせたのだから、とんでもない「罪」がある訣だが――責任を追求してみても始まらない。最早遲きに失するとは言へ、今までSEOSEO言つてゐた人は反省し、訂正すべきだ。「SEOなんてしてはいけない」と、啓蒙を行ふ必要がある。「サーチエンジンの爲の最適化」――そんな事はやつてはいけない。そもそもできない。この事實を、心ある人は世に廣めるやう努めるべきだ。
ユーザにとつて使ひ易い、ユーザにとつて「最適化」されたウェブサイト、それこそが求められてゐるウェブサイトだ。ユーザにとつて必要な情報を適切かつ迅速に提供する。さうして、ユーザに高く評價される事によつて、結果としてサーチエンジンからも評價されるやうになるのは良い。さう云ふ結果論的な「サーチエンジン對策」が「實現してゐる」のならばあり得る話だし良い話でもある。が、サーチエンジンに許り目が行つて、ユーザを完全無視する、なんて事をやつて、それで「SEOだ」と言ふのなら、それは根本的に勘違ひしてゐると言つていい。さう云ふ勘違ひをしてゐる人は、業界に非常に多く――さうした人々の爲に、世間には大變な被害が齎されてゐる。
雜誌Web STRATEGYはいい雜誌で、この邊の「落し穴」をちやんと説明してゐる。關係者には一讀を薦めるが、しかし、相變らず「SEO」と言つてゐる點だけは評價出來ない。そろそろ流行り言葉としての「SEO」を撲滅すべき時期が來てゐる。と言ふより、「SEO」と言つてゐる誤つた啓蒙者を糺彈し、人々の目をサーチエンジンから剥離してユーザに向けさせるやうにしなければならない。その爲には既存の技術的なノウハウが排除される必要がある。「小細工はしない」と云ふ事を常識化する必要がある、と云ふ事だ。我々は技術で以てウェブサイトを何とかしようと考へる發想の仕方を根本的に改める必要がある。即ち、情報を傳達する手段としての技術に許り關心を寄せる姿勢を改め、技術によつて傳達される情報それ自體の質を重視するやうにならなければならない。
平成二十一年二月十九日
一般サイトで犯罪被害に遭った児童792人、出会い系サイト上回る
「出会い系」でなくても大體ウェブのサーヴィスは人と人との「繋がり」を作る事を目的としてゐる。人と人とを「繋ぐ」事で「面白い」事が起きる、と開發者は必ず言ふのだ。コミュニケーションを商賣にする事をウェブ業界の關係者は當り前の事と信じて來た。しかし、人間と人間との繋がりは何時でもいい繋がりになるとは限らない。澤山の人間が「繋がる」サーヴィスが人間同士のトラブルを呼込む事は判り切つた話だ――ところが開發者は「面白い」としか言はない。
ウェブのサーヴィスを作つてゐる連中が人間を知らないからこんな非道い状況が出來するやうになつたのだと俺は思つてゐるが、ところが「俺は人間を良く知つてゐる」と思つてゐる多くの開發者や利用者は、自分たちが樂しんでゐると云ふ事實を以て批判に對抗する。けれども、さうした事實が「一面の事實」でしかない事を渠等は忘れてゐる。或は、自分たちは樂しめてゐるのであり、それを樂しめない人間は劣等人種である――とすら渠等は思つてゐる。
もちろん、いい關係を築ける場合だつて「ある」んだらうよ。けれども、だからと言つて、負の側面を無視していいつて話にはならない。と言ふか、どちらかと言ふと、ウェブで提供されてゐるコミュニケーションを賣りにしたサーヴィスは、惡い方に繋がるサーヴィスになつてしまつてゐる事が多いやうな氣がする。「線」越しのコミュニケーションは、相當注意してやらないと行けないもので、それを無頓着にやるとトラブルになる可能性が非常に高い。それなのに、實に安易に「サーヴィス」の名の下にウェブではコミュニケーションの機會が提供されてゐる。ウェブを「公の場」と認識し、公開された文章は全て學術的な論文と同樣のものと看做して、互ひに批判し合ふ、と云ふのならば、激しい應酬があつて當然だよ。けれども、人と人との個人的な關係は、もつと繊細に扱ふべきものだ。ところが、ウェブのいろいろなサーヴィスが、繊細に扱はれるべき事柄を、やたらぞんざいに扱ふやうユーザを仕向けてしまつてゐる。商賣の爲・金の爲、と云ふのがさう云ふ沒道徳的状況を作り出すのを正當化してゐるとしたら――ウェブの商業利用への開放は、やつぱり良い事ではなかつた、と言はざるを得ない。
Latest topics > モヒカン族と村人の衝突に、俺達はあと何度遭遇しなきゃいけないんだっ……!! - outsider reflex
Latest topics > 行為をバカな事だと言ったのか、人を馬鹿な人だと言ったのか、それがわかりにくいのが問題だ - outsider reflex
モヒカンだの何だのと皆が言つて、大騷ぎしてゐるのも、結局のところ、ウェブつて何の爲にあるんだらう、と云ふ事を誰も解らなくなつてしまつてゐる事實を反映してゐるのだ。俺も最う訣が解らん。俺はウェブを「公開の場」だと思つてゐるし、そこで提示される文章は言論として認識されるべきものだと信じてゐるが、さうした發想を受容れられない人はどんどんどんどん増殖してゐて、さう云つた人々はウェブを「出逢ひの場」「コミュニケーションの場」としてのみ捉へてゐる。コミュニケーションにしても「いい關係」のみが存在していい存在してゐる筈の場だと思つてゐるから、ガチな態度を當然と思ふ人を憎むし、或はさう云ふ態度の人間に對して復讐を企んだりする。
平成二十一年二月十九日
もともとインターネットは善意に基いたシステムで、だからこそ惡意の行爲は手の施しやうがないのだけれども――では善意に基かないネットワークのシステムは可能かと言ふと、技術的に無理。だからネットワークを維持する爲には、最う人間の革新でもなければ何うしやうもないのだけれども、そんな事は土臺無理で、だからインターネットはこれからもどんどん非道い状況になつて行くと思ふ。それでも時代の流れだから何うしやうもないのであつて、そこで抵抗しても現實的には何にもならない。俺は抵抗するけど。
でも、さう云ふ現實を認識出來ない人は結構多いと思ふ。今の非道い時代を「非道い時代」だと思はないで、當り前のやうにをかしな事をして暮してゐる人は、多分相當の數、ゐると思ふ。それでみんな結構幸福であるやうな氣分でゐられるのだけれども、さう云つた人々は、さうでない人もゐる、と云ふ事に氣附かないでゐるだけだ。
平成二十一年二月十九日
XMLの基礎知識があつて本當に良かつた。

平成二十一年二月十八日
97/100 日下公人著『2009年の日本はこうなる』(WAC、2009年1月5日初版、isbn:9784898311295) - 科學の剃髮
この紹介の仕方、何う見ても「日下氏はをかしい」と言つてゐるやうには見えないんだが、をかしいよな。

私の結論を言えば、「外務省は廃止せよ」である。外交はいま外務省がやっている程度でよければ、内閣官房で十分にできる。世界中がトップ外交になっているからである。

この「理窟」、日下氏が本氣で言つてゐるとしたら、ちよつと何うかしてゐる。トップ外交で全てが決まる、なんて事はあり得ない。外交は、外交官の個人的な交流の次元で既に行はれてゐるのであり――實はそのレヴェルでの外交が極めて重要な意義を持つてゐる。個人的な外交官同士の信頼關係が成立つてこそ、トップ外交も成立つ。その邊の事を日下氏が知らないで物を言つてゐるとしたら、專門家としてちよつと恐ろしいくらゐの無知だと言はざるを得ない。
外交官に加へて軍人同士の交流も重要で、だから駐在武官と云ふものが存在する。こちらの方は關係者から直接話を聞いた事があるが詳しくは書かない。相手が信用できる國の信用できる武官だと思はれるやうになつてゐると、重要な話を、事態が起きる前に、事前にそつと漏らして呉れるやうになるのだと云ふ。
外交と言ふのも、ただ、偉い人同士が話をして「かうやりませう」と約束する、と云ふだけのものではない。相手から必要な情報を引出し、或は、場合に據つては、相手に渡して良い情報を適切に渡す――さう云ふ地道で細かい日々の附合ひこそが重要な外交となるのであつて、さう言つた邊りの事を日下氏は全く無視して――或は全く知らないで――氣樂に外交の事を語つてゐる。知識や常識が缺落してゐる――さうでなければ、想像力が缺落してゐる。日下氏は、「トップ外交」と言つて、餘りにわかりやすい「理窟」を言つてゐる。けれども、さう云ふ簡單な言葉で説明してしまふ事は、時として危險な誤を犯す原因となる。相手の國の事を知り、相手に自分の國の事を知らしめる――それこそが外交においては重要な事だ。もつとも、「情報戰」と言つてしまふとまたニュアンスが違つてしまふ。簡單な言葉遣ひでは案外重要な意味が缺落するものだ。よくよく注意して言葉は使はなければならない。
いづれにせよ――今の日本の外交能力は、依然として不十分であつて、と言ふより、十分だと思つたら危險極まるのであつて、それなのに外交に携る人間を減らせと言ふのは、日本の外交能力を削減しろと主張するのに等しい。日本の外交は決して立派なものではない。そんな外交能力を更に殺がうと言ふのは、日本をさらに弱體化させようと言ふのと同じだ。日下氏のは大變危險な主張だ。

以前塩川正十郎氏と以下のような雑談をしたことがある。ODA一兆円を二割削減すれば二千億円浮く。これで「国際貢献基金」をつくる。内実は「世界謀略基金」で、この機関でやることは、世界中から人を雇い、いろいろなアイデアを出してもらい、日本にとって有利な世界戦略を練り、それを実行する。

此の提案も何うかしてゐる。思ひ附きで物を言つてゐるのだらうけれども、專門家が言ふ事ではないよ。さう云ふ雇はれた人が必ずしも日本にとって有利になるやうな世界戦略つて呉れるとは限らない。昔のお雇ひ外人の時代なら兔も角(あの頃は日本がこんなに立派な國になるとは誰も思つてゐなかつた。一方で、弱體な日本と云ふ意識の下、日本人も眞劍だつた)、今となつては日本は假想敵國として認知され得る國であり――少くとも金で雇はれただけの人が本氣になつて餘所の國の事を考へて呉れる訣がない。日本人の御人好しにも程がある暢氣な態度を、さう云ふ人々は侮るだらう。或は、まともな人だつたら、自分の國が一番有利になるやう動くに違ひない。金を積まれれば人は何でも話に應じると思つたら大間違ひだ。

アメリカ大統領選挙に投入するというのも一つの方法である。二千億円もあれば、選挙の行方を左右することができる。

これなんか、心あるアメリカ人が聞いたら本氣で怒ると思ふ。日下氏、何を考へてゐるんだらう。
iwamanさんは天才的な洞察力だと思ふ。しかし、日本では、「常識」の壁に阻まれて、絶對に受け入れられない發想であるとも思ふ。と述べてゐるけれども、ちよつと非道過ぎると思ふ。何でこんな非道い事を言ふ人の事を天才的と言へてしまふのだらう。
斯うやつて批判すると、「何を偉さうに」みたいに俺に文句を言ふ人が出て來るけれども、では、俺が今指摘した日下氏の發言の問題、どれも「全く問題でない、寧ろ日下氏の方が正しい」と言切れるか。「日下氏は偉い人だ、野嵜如きが批判して良いものではない」みたいな「反論」が返つて來るだけだと思ふ。
平成二十一年二月十八日
あと、副島隆彦の「信者」の人がゐたと思ふけれども、副島氏も可なり非道いと思ふ。何であんな人の言ふ事を眞面目に受取れるんだらうと不思議に思つてゐる。
Amazon.co.jp: 副島隆彦の今こそ金を買う: 副島 隆彦: 本
結局うまい金儲けをする爲の本ぢやねーか。馬鹿馬鹿しい。副島先生と言つてゐる人は怒つて文句を言つて來るだらうし、副島先生には大きな意圖があるんだと説明して呉れるんだらうけれども、何う見ても副島氏の價値觀つて、そんな大した物ではなささうだ。國家戰略にしても資産防衛にしても、結局のところ人が生延びる巧い方法に關する事でしかないんで――ならばそんなのは價値觀と呼べたものではない。
經濟的には確かにパンには價値が存在する。けれども、人の價値觀と云ふものは、人はパンのみにて生くるに非ず、と云ふところから先に存する。少くとも、さう見る人々が世界には存在する。――副島氏にさうした觀點が「ある」だらうかと、俺は疑つてゐる。副島氏の發想は、案外凡庸な日本人の發想でしかないやうに俺は思つてゐる。ならばそこに日本人が學ぶべき事なんてないんだよ。副島先生と俺なんかとの間には、知識の多寡と云ふ相對的な違ひがあるに過ぎない。
平成二十一年二月十八日
Microsoft Office の新しいユーザー インターフェイスの概要 - ヘルプと使い方 - Microsoft Office Online
今のオフィスのインタフェイスは、正しい使ひ方を出來るユーザにとつて使ひ易いインタフェイスでなく、正しくない使ひ方を當り前のやうにする普通のユーザをリサーチして作り直したインタフェイスだ。結果として、正しくプログラムを使ふのが不可能になつてしまつてゐる。
もともとワードと云ふプログラムは、はつきりした思想の下に作られてゐた。けれども、Microsoftは、さうした思想を理解しないユーザの爲に一見便利な機能を追加する、と云ふ形でプログラムをヴァージョンアップして來た。ワードは間違つた進化を續けて來たと言つて良い。そしてインタフェイスの變更だ。ワードの初期の思想は完全に否定された。俺はワードの思想を氣に入つて使つてゐたし、その後の間違つた進化の中でも辛うじて根本的な部分に手が入れられなかつたからワードを支持できた。けれども、その思想をMicrosoftは放棄してしまつた。今のワードは目茶苦茶で支離滅裂なプログラムだ。こんな糞みたいな代物を俺は支持できない。
今のワードは、開發者自身が思想を忘れた結果として、プログラムが一貫性を失ひ、「死亡」した典型例だ。ワードは死んだ。
本來ワードは、アウトラインモードで見出しを作つて、その見出しの下に文章を書き、長文を作成するやうに出來てゐる。さうして出來た文書を元に、見出しや段落にスタイルを指定して、文藝書のやうなフォーマットで整形する。ワードの思想は、アウトラインモードで階層化された文書を作成し、スタイルシートで見た目を決定する、と云ふものだ。斯うした使ひ方こそが當初のワードで意圖されてゐた正しい使ひ方であり、それ以外の全ての遣ひ方は例外的な使ひ方の筈だつた。ところが、日本人でもアメリカ人でも、長文を書かない人が普通であり(長文を書いて他人に見せるのは失禮であるとすら信じられてゐる)、多くの人がチラシや新聞のやうに畫像やキャッチコピー、或は短い文章の塊を、ペラの紙に配置する使ひ方をしたがつた。そんな使ひ方はワードでは邪道な使ひ方であり、すべきでない事だつたが、Microsoftは「多くの人にそのやうに使はれてゐる」と云ふ事實を認めてしまひ、本來さう云ふ目的で作られたのでないにもかかはらずワードをさうしたやうな使ひ方を「し易くなる」やうに「改良」し始めた。日本語版1.2Aは、海外で既に邪道な使はれ方をし始めたヴァージョンを持込んだものだつたが、まだまだピュアなもので、可なりいいプログラムだつた。ところが一太郎と勝負する爲に、一太郎に搭載されてゐる機能を取込んで、結果としてワードは破綻した。罫線機能なんてものをワードに持込んだ時點で俺はワードが腐り始めたと思つたのだが、世間の人はそれを大歡迎したらしい。世間の人も腐つてゐるが、さうした腐つた連中からのフィードバックを當り前のやうに受容れてプログラムをヴァージョンアップしたMicrosoftも腐つてゐる。オフィスにはPublisherと云ふプログラムもあつて、チラシや新聞もどきを作りたがる一般人にとつてはその方がずつと便利なものである筈だし、さうした用途に最適化するのも容易だつたはずで、それは廣く提供すれば良かつたのだが、Microsoftはなぜかワードを執拗にユーザに押附け續けた。ユーザにとつてもプログラムにとつても不幸な話だつたが、最初にワードを賣らうとして、それで有名になつてしまつたから、後で引込みがつかなくなつたのだらう。何れにしても、ワードはひたすら「配置」ツールとして使はれ續け、さうした用途に適した形にインタフェイスが改變されてしまつた。が、素性が素性だけに、やつぱり不自然なのだ。ペラのチラシを作る多くのユーザは、文字列の一部分を太字にしたりサイズを大きくしたりし易くなつて便利に感じるかも知れないが、ワードで長文を作成し、整形して來た、ワードの思想を知つてゐる本當のユーザにとつて、今のワードは最早使ひ物にならない駄目プログラムになつてしまつた。
ワードは死んだ。
――では代替プログラムはあるのかと言ふと、一つもない。OpenOffice.orgのワードプロセッサがワード代用となるかと言ふと、なりはしない。一太郎。駄目に決つてゐる。ワードが示唆してゐたあり得べき本當のワードプロセッサは、ワードが脱落して、地上から消滅した。競爭の結果、全てが臺無しになつた。
思想的なものは思想を失つた瞬間に死ぬ。Microsoftは、開發者の入代りが激しいから、ワードを考案した人が直ぐにゐなくなつて、後の人が何も理解しないで適當な事をやつて、ワードを殺したんだらう。
しかし、プログラムが死ぬのは、Microsoftでだけの事ではない。そもそも思想的なものが死ぬのは、ITの世界でだけの事ではない。ちやんと思想をリードする人が腰を据ゑてがんばり續けない限り、大抵のものは誤解されて、すぐに死ぬ。
オープンソースのプロダクトでも、企業のプロダクトでも、結局のところ、開發する人間がプログラムの思想を理解しなくなつたら、プログラムは死ぬ。
平成二十一年二月十八日
HTML 5もHTMLの死亡を意味する。
開發者・設計者は「使ひ易いHTML」を作らうとして、HTML 5を作つてしまつた。HTML 4.0 Strictで示された思想を無視したのだから、出て來た仕樣が死んだものである事は明かだ。それが如何に「使ひ易く見える」ものでも、思想的に死んでゐるのだから、從來の思想を受容れて、正しく使つてゐた人間にとつて、新しいHTML 5は使ひ物にならない仕樣・死んだものでしかない。
平成二十一年二月十八日
俺はHTML 4.0 Strict(そしてISO/IEC 15445:2000)の彼方にシンプルで輕快なHTMLの姿を見てゐた。最小限の記述で十分に表現が可能である形式の文書を、だ。ところが世間の人は、シンプルと云ふ事に我慢がならなかつた。意味を表現するんだと言ひ、リッチにすると言つて、HTMLをぶくぶくと太らせた。HTML 5は、リッチなHTML――と言ふより、メタボのHTMLだ。

平成二十一年二月十七日
Google 検索: 村上春樹
TVのニュースでスピーチを見たけれども、英語喋れるんだね。言つてゐる事は實に詰らなかつたけれども。
戰爭する國は・人は必ず大義名分を主張するし、その「大義名分を主張する」と云ふのは、それはそれで事實であるのだから、さうした事實を事實として傳へる公正さを持つのが小説としては絶對に必要な事だ。と同時に、戰爭をする人の中で、例へば普段の生活で浮氣しながら戰爭に出かけて威張つてゐる半ばアル中のおつさん上等兵とか、正義を信じて眞面目に訓練してゐる青年の士官とか、或は、ミサイルを撃ちこまれてゐる地區では、少年その一と少女その一が親の目を盜んで逢引してゐたり、意地の惡いをばさんが金が無いので生延びる爲に隣の人の好い御爺さんを欺して玉子を強奪してゐたり――と、そんなこんなの細かい事柄を、嘘佯りなくなく書くのも構はない。さうした(小説的な)事實を(あり得る事ならば)ありのまゝに書いた上で――作家が見解を示す事は、まあ、ありだらう。
村上氏の小説は讀んだ事がないから知らないけれども、その邊の事實を歪曲したり、見解を正當化する爲にあり得ない事をあり得る事であるかのやうに書いたりしてゐなければ、結構な話だ。讀まれればいい。
作家の見解を讀みたくて讀む讀者はゐるが、しかし作家の良心は作家の政治的信條の爲に事實を歪める事を許せない――さうである筈だ。
平成二十一年二月十七日

十五世紀の不良少年ヴィヨンは、恐らく最初の最も偉大な近代的詩人であらう。ヴィヨンの正確に日付を記された最も古い詩は『形見の歌』で、一四五六年のクリスマスの日に書かれた。その劈頭に、自分は不貞極まる女に絶えず惱んでゐたのであるが、ここに心機一轉、正道に邁進しようと決然志をたて、女を忘れるためにパリを去つてアンジェエに赴く。諸行無常、何時歸るとも解らぬ旅だから、ここに形見を配たうといつて、一々形見を與へる詩を書いてゐる。ところが、詩を書いてゐる筈のこの晩に詩人は、カイユだのニコラだのといふ後には絞首刑になつたほどの惡漢共と、ナヴァアル神學校に泥棒に入り、まんまと大金を盜み出し、パリを逐電してゐる。これは見張の役をさせた文學士タバリイが、半年ほど後、べらべらと人にしやべつて密告され、それから一年以上も經て捕へられて白状した。その裁判の調書によつて解るのである。ところがその調書の中に、ヴィヨンがアンジェエに赴くのは、その土地の大金を貯めてゐる老僧から盜むのが目的だと書かれてゐる。即ち、ヴィヨンの『形見の歌』は、かういふ一連の惡事を行ふために、アリバイを作つてゐることになるのだが、不在證明にしては餘りに文學的藝術的良心的で、立派すぎる。それに女の不貞を嘆く所など、本當にその事實が評判になつてゐなければ、不在證明にもならない。だから、詩人が天職か泥棒が本業か解らない。

作家の良心と云ふ奴。鈴木信太郎『小話風のフランス文學』(河出新書)
作家は事實を書く――と言つても、その「事實」とは小説的事實の事であつて、現實の事である必要は全くない。お話の中であれ、現實に「あつてもをかしくない」やうに「巧みな表現」で書く事を言つてゐるのであつて、さうして立派なお話を書いてゐる一方で、現實には非道い事をやつてゐても、その作家は作家としては立派なのであつて、作家としては非難されるべきでない。もちろん、泥棒でもやつてゐたら泥棒としてとつつかまつて、刑でも罰でも受ける事になる。作家として立派だらうが刑法の前では關係ない。それが作家と云ふものだ。
要は、文章を書くならば巧く書く事だけが重要だ、と云ふ事。作家の良心と言つたけれども、別に本當に作家か何うかは關係ない。
平成二十一年二月十七日
Mac OS X 10.4のアーカイヴユーティリティ。zipファイルを解凍してゐる間に固まつて何時までも固まり續けてゐる事があるんだけれども、何なんだらう。
平成二十一年二月十七日
窓の杜 - 【特集】次期Windows“Windows 7”で標準搭載ソフトはどう変わる?
平成二十一年二月十七日
アキバ店員のPCパーツウォッチ( Seagate製HDD )
平成二十一年二月十七日
nana1451
ほぼ0から始める地デジキャプチャ
平成二十一年二月十七日
PCパーツブランド『挑戦者』入口
平成二十一年二月十七日
俺が頻りに言つてゐるのは、政治を輕侮しろとか嘲笑しろと云つた事ではないんだよ。それを解らない人が野嵜は政治を馬鹿にしてゐると言つて非難する。これは勘違ひだ。なぜか「ここ」を見てゐる人はIT屋の人が多いやうだけれども、例へばさう云ふ人が八百屋の仕事を見て、難しい顔をしてあゝしろ斯うしろと言つてみたり、或は馬鹿にして嘲笑したり――そんな事をしたらをかしいだらう。ところが政治家の仕事を見たら皆當り前のやうにさう云ふ事をする。八百屋に對してしたらをかしい事が、何で政治家に對してはをかしくないんだよと。
俺の事を非難する人は俺が政治を馬鹿にしてゐると思ふ。話が逆なんだよ。政治の事を氣樂に喋る「あんたら」の方こそ政治を馬鹿にしてゐるんだよと。
平成二十一年二月十七日
一方、俺は「素人には全く發言する權利はない」とも言つてゐない。素人でも發言する事は可能で、それは、一つには調べて物を言ふ事で可能であり、最う一つには常識に基いて物を言ふ事で可能である。が、何れにしても、對象となる領域の内部の事として發言可能な範圍で言ふ必要がある。
政治については、現在は民主主義の時代だから、誰でも發言する權利はある。が、政治について物を言ふならば、政治の領域で發言可能な事のみ發言して良いだけである事は意識しておくべきだ。さう云ふ意味で政治と文學の峻別は重要であると俺は主張してゐる。
政治の領域に道徳的な説教を持込んでも何の意味もない。日本人は政治を知らないから、無闇に政治以外の事を政治の領域に持込んで、政治を語らうとする。

平成二十一年二月十六日
fladdict» ブログアーカイブ » みんなで協力して告知システム作れないかな
平成二十一年二月十六日
はてなブックマークのタグやコメントで嫌がらせすることは可能か - the OYAKONEWS@Hatena::Diary
はてブで夜の発言は慎むべき(+蛇足)
コメント附ければ文句言はれる可能性が「ある」んだが、ではコメント附けなければいいかと言ふと「何でコメント附けないんですか」と絡まれる可能性がまた出て來る。世の中いろいろな感性の人がゐる。コメントする側もされる側も、それなりに寛容になる必要があるんだらうけれども――
平成二十一年二月十六日
ネタ元とか書いてるやつなんなの
引用なら出典を書くのが當り前なんだが、なんか微妙にさう云ふ話ではないつぽい。
「ネタ元」というのを見ると少し残念な気持ちになる。 - 遥か彼方の彼方から
「ニュースサイト」の話、と云ふ變な文脈が「ある」らしいし。
Re:「ネタ元」というのを見ると少し残念な気持ちになる。
と言ふか、「常連」とか「巡囘」とか、何うしてさう云ふ事が問題になるのかさつぱり解らない。
「引用なら出典を明示する」と云ふのは文章を書く際の基本的なルール――それだけの話ではないんですか。
「ニュースサイト界」みたいなものが「ある」らしいけれども、さう云ふ閉ぢた世界を前提にした議論つて何かをかしいやうな氣がする。と言ふか、その手の「閉ぢたコミュン」がオープンなウェブ上に「ある」と云ふ前提で、非常に特殊な議論が平然と展開されてゐる。何なのだらう。マナーが何う斯うと云ふのが喧しく言はれる。「二次創作界」とか「BLファンサイト界」とか。兔に角「人と人との繋がり」が異常なまでに強調される。喜六郎なんかが平然と「論じられてゐる内容」ではなく「論じてゐる人間」を問題視するのも、この種の變な「慣習」が一般化してゐるのと平行的な現象なのだらう。みんなをかしい。なんでそんなに「人」が大事なのだらう。何處かのサイトを讀むならば「常連」になつてゐなければならないとか、どう云ふ發想なんだらう。「議論する資格」「サイトを讀む資格」。なんで斯うもがつちがちに人を縛らうとするんだらうか。それも合理的な理由があつて正當なやり方で制約を行ふのでなく、ただ「人の感情」と云ふ曖昧なものを根據にそれとなく「空気読め」みたいな言ひ方で縛らうとする。擧句、「空気を読まないお前は極惡人だ」みたいな極附けで徹底的に氣に入らない人間を罵る。そんな理由で人を罵る事は許されないだらう。なのに罵つてゐる人は「俺は今いい事を言つてゐる!」と心から信じてゐる。「合理的な考へ方をして」「正しい論理に基づいて」と云ふのならばいいけれども、曖昧であやふやな「個人の感情」を「公憤」と取違へて、それつぽく「理論」みたいな感じのものをでつち上げて、それを理由に大威張りで他者を攻撃する。何なのだらう。何なのだらう。
「嬉しいから」「寂しいから」つて、そんな理由で「何々しませう」「何々しちや行けません」と「命令」するのは、何處ぞの「水伝」とかと一緒で――はつきり言つてトンデモだと思ふ。
平成二十一年二月十六日
糸柳は下水に溺れて死ぬ - ぼく最速戦記君劇場@自宅の日記 Not Found - 技術日記
京王線のルミネ口の上の便所を愛用してゐる。
平成二十一年二月十六日
昔は定期券を改札口の驛員に見せればそれだけで通れた。ところが、今は定期券を、定期入れから出してスリットに通すか、センサに當てて巧く讀取らせなければならない。利用者が苦勞しなければならなくなつたのだ。これはサーヴィスの低下に他ならない。
パスモ定期を使つてゐるが、勝手に讀取りに失敗した癖に、人が惡い事をしたかのやうに足をひつぱたいて呉れる――ゲートが閉つて呉れるのだが、人にばつの惡い思ひをさせた上、勝手に人を締出しておいて最う一度センサにパスモのカードを當てろと無理を要求して來る。何なのだらう。
磁氣定期券もパスモも大變不便な代物だ。昔のやうに人が目で見る方式の方が遙かに良かつた。技術の發達がサーヴィスを惡くした典型的な例である。
平成二十一年二月十六日
バスや電車の行先表示幕が、何時の頃からかLEDになつた。驛の案内表示もさうだ。これもサーヴィスの低下だ。なぜなら、アナログな表示の方がLEDによる表示よりも解像度が高く精細な表示だからだ。LEDによる文字の表示は、從來の方式による表示よりも、ずつと讀み難い。技術の發達がサーヴィスを惡くした例である。
平成二十一年二月十六日
カラオケに行ってきました - 黎明日記
ちよつと前、BS日テレの懷かしのメロディだか何だかの歌番組で軍歌を特集してゐて見てゐたのだけれども、當時から日本人は既に「笑ふ」と「笑む」を混同してゐたんだなあと思つた。何の歌でだかは忘れた――と云ふ訣でぐぐつて調べようと思つたが、「軍歌 "笑" 歌詞」で檢索すると、(笑)ばつかり引掛かつて肝腎の歌詞が全然引掛からない。なんで(笑)なんて表現が横行してゐるんだらうと腹が立つた。迷惑だ。
平成二十一年二月十六日
Panasonicのデジタルテレビ、TH-15LD70がまた豫約の實行をさぼつて呉れた。先日勝手にアップデートをやつてゐたが、結局無意味だつた訣だ。
夕方七時からのアニメ7の録畫を失敗。このTH-15LD70と云ふテレビは、夕方の豫約を時々失敗して呉れる。TH-15LD70のファームウェアには多分根本的な缺陷があるのだらうが、メーカの人間は誰一人その缺陷に氣附いてゐない。これはメーカの開發者が無能である事を意味する。
前にも何度も書いてゐるけれども、Panasonicはもともとデジタル放送に關しては技術力のない會社で、デジタルテレビにしてもCATV用のセットトップボックスにしても、動作の遲い、劣惡なプログラムを何時までも何時までも使用し續けてゐる。先日のソフトウェアアップデーとで直つたかと思つたが、やつぱり全然直つてゐなかつた。何を直した積りでアップデートして呉れたのだらう。
斯う云ふ駄目な會社に限つて執拗にデジタル放送關聯機器を作り續けて呉れてゐる。大變迷惑な話だが、市場シェアを握るのは、技術力ではなく意味のない執拗さである事が屡々ある。粘着が跳梁跋扈するのも斯うした嫌な事實があるからだ。なんでいい會社が評價されず、しつこいだけの會社が評價されるのだらう。
平成二十一年二月十六日
今夜の蟲師もまた二十五分遲れだよ。

平成二十一年二月十五日
一錢も貰へないのでやる氣がしないのだが、しないと寢る事も出來ないので、本の山を整理した。取敢ず動線を確保。部屋から出られる。
整理と言つても何も捨ててゐないので状況は餘り變つてゐない。
平成二十一年二月十五日
http://homepage1.nifty.com/kazuf/renewal.html#science_1234617108
どつちにしても「立国」したい訣だ。日本人つて奴は。
平成二十一年二月十五日
と言ふか、メレシコフスキーとベルジャーエフと竹友藻風の本が山の下の方からぞろぞろと。
平成二十一年二月十五日
讀みかけのまゝ行方不明になつてゐた鈴木信太郎『小話風のフランス文學』(河出新書)が山の中から出て來たので讀んでゐるが何處まで讀んだのかさつぱり判らなくなつてゐるので最初から讀直し。
何年の出來事と云ふのが以前はぴんと來なかつたのが、最近はニーチェの事を勉強してゐるので、それに關聯附けて何時の頃の話と云ふのが何となく判るやうになつた。キミキスでなんか似たやうな話が出て來たので微妙な感じ。AT-Xでまたやつてゐるのをたまたま觀てしまつたがゆゑに……。
平成二十一年二月十五日
海馬の基礎知識
平成二十一年二月十五日
一般医薬品の通販規制「反対」が97%、厚労省のパブコメ結果

 なお、厚労省が同省令を公布する一方で、舛添要一厚労大臣は、この問題について議論するための大臣直轄の検討会を開催する意向を示している。しかしケンコーコムによれば、この「医薬品新販売制度の円滑施行に関する検討会」の構成員は、同省令に関わる過去の検討会の構成員で大多数を占められているという。

「國字改革」をやつた後の国語審議会とまるで同じ状況となつてゐる。役人は「一度決めた事」を守る爲に何んな鄙劣な眞似でもする。そしてかう云ふ役人根性は、役人でも何でもない一般の日本人にも染みついてゐる。だから「役人だけが惡いのではない」と云ふ言ひ方は、擁護でなく批判としてなら「あり」だ。
平成二十一年二月十五日
Debian 4.0 から無線 LAN - 黎明日記
よくわからないがunixなら動かなくても自分で幾らでも弄れて直せるんぢやなかつたつけ。

平成二十一年二月十四日
例の「会長」が、前にもWikipediaを荒してアク禁になつてゐたと云ふのに、またぞろWikipediaを荒すと宣言。かふしさんよろしく。
もつとも、Wikipedianの方も、「典據」を示されれば、相手が荒しと判つてゐても、最う對處出來ないか。荒しは狡いから、對處されると智慧を附けてくる。客觀的なら「いいんだらう」と威張つて「それつぽいこと」を言出すのだ。さうすると客觀主義は最う對處できなくなる。「客觀的」の看板を押し立てられると最う反論出來なくなる――客觀主義の缺陷だ。ところが、客觀主義はさうした客觀主義に問題があるとは氣附けない。荒しが自分に問題があると氣附けないのと同じ。
みんな「正しい事を言ふ」のが重要だと云ふ事を忘れてゐる。Wikipediaの人は「檢證可能性」と言ひ「典據が必要」と言ふ――が、さうした手段だけが重要になつてしまつてゐる。けれども、結果として言はれる事の正しさを求めないのであれば、「言ひ訣さへすれば何をしたつていい」と云ふ荒しの言ひ分と何も變らない事になる。
――だから荒しはつけあがるんだよ。
平成二十一年二月十四日
正しい事を言ふのにも、證據だの典據だのを擧げさへすればそれで言つた事が「正しい事」になると云ふのではない。正しい事を人が言ふには、その人に先づ見識がなければならない。勿論、俺は己が見識を誇りたい訣ではない(必ずさう云ふ「動機」を邪推して非難してくる輩がゐる)。
少くとも俺には「事實として正しい事を正しいと言ひたい」と云ふ考へ方がある。それに對して、「説得によつて或事を正しいと云ふ事にする」と云ふ考へ方がある。成る程、政治的な正義は相對的だから、大義名分をでつち上げて主張を正義の主張に見せかける事は出來るしあり得る。が、事實としての「正しさ」と、政治的な「正しさ」とは、同じ「正しさ」と云ふ語を使つてゐるだけで、別の話だから、聯想ゲームのやうに話を繋げて、同じやうに語つてはならない。事實としての正しさは、「正しい事にする」と云ふ事が許されない。それは眞理としての正しさであり、政治的に何かを「正しいとする」事によつて「正しい事になる」と云ふのとは話が全然違ふ。
そして、事實を指摘するのには、典據を擧げる事と共に、最う一つ重要な條件がある。それは、指摘する人間が、典據を正しく解釋してゐると云ふ事の保障である。案外、この事は皆、忘れてゐる。典據が「ある」事は、客觀的な事實に過ぎない。その一つの事實が、價値觀としての「正しさ」に繋がる爲には、間に「解釋」と云ふ操作が必要となる。この解釋が正しく出來てゐなければ、結論としての正しさも本當の正しさとはならない。
案外多くの人間が、自分には物事を解釋する能力がある、と云ふ思ひ込みを持つてゐる。ところが、物事と云ふ客觀的な事實を、主觀的な判斷に轉換するのだから、其處には價値觀が介在する。この事を認めない人間が、現代の世の中には飛んでもなく大量に存在する。價値觀拔きで、「事實を語る」輩の存在である。喜六郎がその典型であるが、或はエロゲの高橋氏もさうだ、あの人物も、自分が價値觀に基いて判斷してしまつてゐる事に氣附かないで、ただ「自分は客觀的な事實を指摘してゐる」だけだと何時も主張してゐた。かう云ふ輩は、自分の言つてゐる事が、價値觀を基にした判斷だ、と云ふ事を認めない――ひたすら、自分の言つてゐる事は、價値觀を拔きにした、事實だ、と言張るのだ。かう云ふ輩とは、對話が成立しない。彼は、相手が價値觀を持つてゐると認めた時點で、相手の言ひ分を聞入れなくなるからだ。相手が自分には價値觀が「ない」と事前に宣言してゐない限り、彼は相手が主觀的であり、即事實に反した事を言つてゐるものと極附ける。一方で、自分が何らかの價値觀に基いた發言をしても、その發言は飽くまで客觀的な事實の指摘だと彼は言張るし、それを認めない他人を、心から憎惡して、徹底的に輕蔑し、侮蔑と憐憫と嘲笑を投附け、相手を不快にし、自分の不快感を解消しようとする。斯うした感覺に基いた言動を行つてゐるのだから、明かに彼は主觀的であるのだが、にもかかはらず彼は自分が客觀的である事を主張し續ける。
平成二十一年二月十四日
解釋と云ふ事を俺が強調するのは、兔に角この解釋がをかしい人間が餘りにも多いからだ。
青方の中村が、俺が掲示板で誰だかを非道い言葉で罵倒してゐて、それが許せなかつたと言つて來た事がある。俺は、勿論激しい言葉遣ひをする人間だと自覺してゐるし、掲示板に書込んでゐた事もあるから、誰かを激しく批判した事があつただらうと思つた――が、だからと言つて俺が行き過ぎた言葉遣ひを「した」と認める事は出來ない。俺は何時だつて行き過ぎた言葉遣ひをしてゐないと思つてゐるからだ。となると、解釋の違ひであるのだが――青方の中村は自分(青方の中村)の解釋だけが正しく、俺(野嵜)の解釋は絶對に正しくないと極附けた。そして俺に對して攻撃を仕掛け始めたのだが――その攻撃の仕方は陰濕で、粘着的で、執拗であつた。俺がした陽性の攻撃と比べて、青方の中村のやり口は格段に汚かつた。例へば、自分の素性を匿して、木村さんに接近した。あれが陰濕でないやり方だとはまともな人間なら絶對に思はない。おれはさう信じる。ところが青方の中村は、自分が素性を匿すのは當然の事だと主張したのだ。價値觀が根本的に狂つてゐるとしか言ひやうがないし、その解釋も根本的にをかしいと言はざるを得ない。
喜六郎もまた、「松原信者」のやり方を非難した人間だ。が、その喜六郎が「松原信者」に對してとつた非難の仕方が、これまた粘着と云ふ極めて陰濕なものだつた。かの新霊光輝ことnoz_watcherも同じだが――喜六郎のやうなアンチは、「松原信者」の「攻撃」を「許し難いもの」と極附けながら、必ず「信者」を攻撃するのに常識では考へられない陰濕なやり方をとる。「信者」の行爲よりもアンチの行爲の方が、常にたちが惡いものなのだ。「義」なんかは、最早犯罪の域に入り込んでゐるくらゐだ。
彼らアンチは、明かに、物事を解釋するやり方がをかしい。或は、價値觀が狂つてゐる。人の事を「やつてはならない事をしてゐる」と非難するのに、それ以上に非道い事を自分はやつて、「これはやつて良い事である」と言ふのだ。喜六郎の言葉を借りれば、「自分には甘く、他人には嚴しく」と云ふ奴だ。そして、そのやうな事を「許せない」と言ふ喜六郎が、しかしその事を自分には許す。異常としか言ひやうがないのだが――しかし、價値觀がをかしい人間には、異常な事が正常な事に見えてしまふのだらう、幾ら異常だと言つても彼らは自分が異常かもしれない等と反省する事すら出來ないのである。
平成二十一年二月十四日
ウイルスの集大成「PE_VIRUX.A」が感染拡大、国内で7900台
こんな日なのに殺伐とした話題が續くなあ。
平成二十一年二月十四日
DVD-Rの偽ブランド品にご注意!

法律で取り締まる事が難しいからといって、結果的に他人を騙す事はどんなに言葉で飾り立てた所で許されぬ行為です。

皆様も、悪質な詐称まがいの販売に騙されてしまう事の御座いません様。くれぐれもご注意ください。

平成二十一年二月十四日
日本人のパラドックス - 枝葉末説@ことのはぐるま
平成二十一年二月十四日
正字正假名文庫
平成二十一年二月十四日
蟲之囈言
平成二十一年二月十四日
私立玉川用賀村中央図書館(新館)
平成二十一年二月十四日
Wikipedia をメディアが引用し、誤情報に「情報源」が発生 - スラッシュドット・ジャパン
自社出版物に書いてあつたからさう書いたら間違だつた、と云ふ事もよくある。

平成二十一年二月十三日
毎年黄梅が咲く。
必ず最初に一つだけ花をつける。一週間くらゐこの状態。この最初の花が枯れて落ちる頃になつて周りの枝に附いた蕾が花開き始める。
――と云ふうちの庭の風物詩を書かうと思つて撮つておいたのだが、今見たら肝腎の花がぴんぼけになつてゐて寫眞として全然駄目。
平成二十一年二月十三日
岩波講座 世界文學 深瀬基寛『現代文學の諸傾向 評論』(岩波書店)

……エリオット……は既に吾國にも紹介されてゐるやうに、ある意味で純粹文學の提唱者である。純粹文學といふ時に吾々の最も陷りやすい誤解は藝術至上主義との聯想から生れる。藝術至上主義が實は人生に屬するあらゆる情緒の傳播を意味し、哲學、神學等の代用物であつたのに反し、エリオットに於ては、明確な文學的標準を所有することは必然に明確な道徳的標準を持つことを意味するものであり、文學の研究が他のものの研究に導くことを認め、それにも拘らず、否、その故に兩者の區分を明確に認識する人の文學純粹論である。……

平成二十一年二月十三日
古野電気(フルノ) FURUNO - 魚群探知機、レーダー、GPS、ETCから骨密度測定器まで
「世界を変える100人の日本人」で魚群探知機の話をやつたのでぐぐつてみたら。
GPSロールオーバー問題に関する重要なお知らせ|重要なお知らせ|古野電気(フルノ) FURUNO
「GPSロールオーバー問題」だつて。なんかいろいろあるなあ。
GPSロールオーバー問題 - Google 検索
時と周波数のエコー計測器株式会社

尚、現時点の弊社のGPS受信機では、2040年12月31日まで、正確なUTCを出力できますが、それ以降は停止しますので使用できなくなります。永遠に続く時刻と有限なリソース(資源)でしか物を表現できないエンジニアとの戦いはどこまでも続きます。

すげえなあ。
平成二十一年二月十三日
ヤバいノリといえば - 黎明日記
ボックスティッシュはアレだけれども、ティッシュは受驗の必需品。机や椅子がぐらつく時、足の下にかますのに使ふ。
本棚とか箪笥とかの家具でも、ぐらつく時には、堅いものではなくて、段ボールとかの柔らかいものをかますのがセオリー。
平成二十一年二月十三日
雨戸ががたがた言つてる。春一番の時には空氣が何時もと違つたにほひがする。

平成二十一年二月十二日
最近の日本人は「本当の自分」が大好きだけれど、例へば、何か間違を仕出かしてしまつて反省した、二度と惡い事はやりませんと誓つた――さうしたら、その人の「自分」とやらは何うなつてしまふのだらうか。
自分の人間として持つてゐる弱み、弱點を自覺して、それを意識的に隠す努力をし續け、演戲してゐたら何うか。そして、強者として振舞ふ演戲を死ぬまでやり通したら何うか。
――なんて下世話な事を言つてみるけれども――ニーチェは二度、態度を大きく轉換してゐる。あゝ云ふ哲學者と路傍に轉がつてゐる石のやうな俺なんかとで話を繋げて見るとしたら、そして「ここ」の讀者とも繋げて見るとしたら、話の枕として下世話な言ひ方をしてみても許されはすまいか。
ニーチェは、「悲劇の誕生」「非時代的考察」の頃、「人間的な餘りに人間的な」「曙光」「悦ばしき知識」の頃、そして「ツァラトストラ」以降(「善惡の彼岸」「道徳の系譜學」、「偶像の薄明」「アンチキリスト」「この人を見よ」「ニーチェ對ワーグナー」、及び遺稿)と、その思惟に三段階がある事をヤスパースが指摘してゐる。これらを見る時、例へばワーグナーへの評價ははつきり逆轉してゐるし、單純に「一貫してゐる」と言切れない事は言はうと思へば容易に言へる。さうなると、ニーチェと云ふ一人の人物における「本當の姿」は「ある」のか。ヤスパースに據れば、これら三期に分けられるニーチェの思想は、段階的な發展の過程である。矛盾してゐる・途中で考へを變へてゐる、と見られる部分も、實は先行する思想に後の思想の萌芽が含まれてゐるのを指摘する事が出來る。我々がニーチェの「本當の姿」を知りたければ、個別の思想を單純に比較・檢討するのでなく、これら變化した思想全體を通してニーチェの態度を眺める必要がある。ニーチェにしてみれば、發展・變化する考へ方に意識的に忠實であらうとする事が、その哲學的な態度の根本であつた。だから、我々はその態度そのものを認識しなければならない。同時に、さうしたニーチェの態度とともに、ニーチェが述べた發言それ自體にも我々は著目しなければならない。ニーチェの文章から離れては、ニーチェを理解した事にはならないと言ふのだ。
平成二十一年二月十二日
東京堂書店の棚からレグルス文庫と冨山房百科文庫が消えてる。
平成二十一年二月十二日
「御繰合せ」なのか「送り合せ」なのか。

平成二十一年二月十一日
http://d.hatena.ne.jp/eccoHowling/comment?date=20080817#c
ちよつとこれはひどいと思ふ。
平成二十一年二月十一日
以前は一往ちやんと本は讀んでから感想なり批評なりの記事は作る積りでゐたんだけれども、最うその邊拘る事もないと思ふやうになつた。讀んでゐなくても奧附やあとがき使へばそれなりの情報拾へるし、それで適當極まるコンテンツを作つてしまつても、讀み終つたらきちんとフォローすればいい。知らないのなら何も言はないのが誠實だなんて、素人が一々考へる方がをかしい。俺は素人だから、素人らしく無手勝流でやるのが正しい。――と、さう最近悟るやうになつた。諦めたとも言ふ。
平成二十一年二月十一日
虹裏imgで話題のたまのこしかけを買つて來た。嫌な事にいろいろネタが良く解る。
平成二十一年二月十一日
parallels2をデチューンして、個人ニュースサイトリンク集『ぱられる1.2』を作ってみた。 - おちもなにもないただのにっき。
たまにはニュースサイト界隈からネタでも拾つて見ようかと見てみたが、2ちゃんねるみたいな掲示板のログにリンク貼つてゐるところばつかりで見る氣なくした。ニュースサイトつて2ちゃんねるに依存し過ぎだと思ふ。と言ふか、2ちゃんねる等の掲示板のログに依存してウェブサイトをやつてゐるのがニュースサイトつて定義でいいのかな。うちはニュースサイトではないんだな。
平成二十一年二月十一日
Googleのストリートビューを使つてゐると時々落ちる。何なのだらう。

平成二十一年二月十日
Theoria というカスがドワンゴに見学に来ている - ぼく最速戦記君劇場@自宅の日記 Not Found - 技術日記
無題 - 黎明日記
吹いた。がんばれ。
平成二十一年二月十日
どうでもいいけど日曜日の晝間にファミリー劇場かけたら宇宙戦艦ヤマト2をやつてゐてデスラー艦がヤマトに體當りされてた。古代が負傷しながらデスラーと對峙するのだけれども出血で氣が遠くなつて倒れてしまふ。蔭から見てゐたユキが飛び出して行つてデスラーの銃から古代を庇ふ。燃える。或は萌える。
こんなんで「ヤマトへの恨みは消えた」とか言つてしまふデスラー總統も何なんだらうとか突込みどころは滿載なんだけれども、にもかかはらずヤマトつて良いよなと思つた。
ユキつてスターシャに生寫しなんだよな。デスラーはスターシャに戀してゐたとか云ふ裏設定があつて、この時點で其處まできちんと考へて話作つてゐたんなら偉いと思ふけれども、ヤマトはみんな場當り的に適當に作つてゐるからさうさう辻褄が合ふ筈がない。
ちなみにその後すぐTVの電源切つた。
平成二十一年二月十日
何うせだから俺の名前もオープン化してやらうか。野嵜健秀 2.0だ。わけわからん。使つたら俺本人に報告すれば認證する時は認證すると。勿論、無斷使用は俺でない證據だ。
平成二十一年二月十日
山田吉彦・林達夫譯『昆蟲記』
拾ひ物の本でもちやんとウェブサイトのコンテンツを作れる。
平成二十一年二月十日
ヤマトと言ふか森ユキの話を書いた直後に恋姫無双 @ tvkを見たら丁度サロンパ草の囘で吹いた。
平成二十一年二月十日
Theoria ゴスロリ写真大公開! - 黎明日記
虹裏に投下して「」の反應を見てみようかと思つた。やらないけど。
ライセンス文だがPhotoshopとかでなら畫像のファイル情報にEXIFとかと一緒に埋め込める。
平成二十一年二月十日
フラットでリニアな闇黒日記2.0の設定畫面を弄りまくつた上糞みたいな文章を書き毆つてぶち込んだらひどいDQN状態になつた。頭が惡過ぎて我ながらおもしろいのでそのまゝ公開しておく事にする。「義」は「今世紀最高にフラットでリニアな野嵜健秀です」とか書き捲つて呉れるだらうか。
平成二十一年二月十日
Operaかんからかんのかあん。
平成二十一年二月十日
テオリアより、ドワンゴの皆様へ - 黎明日記 コメント欄
ドワンゴが Theoria から迷惑を受けたか - ぼく最速戦記君劇場@自宅の日記 Not Found - 技術日記
うつかり紋切型辭典に「なにいってんだ偉そうに」を登録してしまつてから一往ぐぐつてみた。
ニコチン中毒ではない正常な頭の人に聞きたい - Yahoo!知恵袋
よりによつてYahoo!のコンテンツが一番に出て來る。
平成二十一年二月十日
やじうまWatch 2009-02-10
「Yahoo!ニュース」で過去の投稿までさかのぼってID公開中!
平成二十一年二月十日
やじうまWatch 2009-02-09
ねつ造が確定してもまだ信じる人が……ネットデマのしつこい性質
やじうまWatch 2008-04-11
2年間のすったもんだで、ようやくねつ造確定“福島瑞穂の迷言”

いまでは、「ある」と主張していた人がすっかりネタ切れになってしまい、いわゆる「コピペ荒らし」を繰り返すようになってしまった。2年経って、ようやく終結の時期を迎えたようだ。お疲れ様でした。

平成二十一年二月十日
Ad special:うちの会社のExcelデータ管理はもう破綻している・・・「働くDB」でカンタン業務改善!データ入力・管理を無くす!?―― p1 - CNET Japan
CNETの廣告ぺーじ。データ入力の一元管理はイントラ使ふとかいろいろ「ある」けれども、何れにしてもウェブブラウザを利用する時點でやたら使ひ辛くなる問題がある。ウェブの出現は世の中をいろいろ便利にしたけれども、案外基本的な部分で便利になつてゐないよな。
平成二十一年二月十日
マニアックな文法論議 - SGML の注釈宣言
Firefoxがこの邊ちやんと實裝してゐるのに氣附かされた。IEやOperaは好い加減。
平成二十一年二月十日
今朝も京王線が遲れたのだけれども、神保町に著いた時、東京都交通局の車掌が「京王線内でのダイヤ亂れにより到着が遲れまして誠に申し訣御座いません」とか謝つてゐた。自分の事でない事で謝るのが習慣化してゐるのは如何なものだらう。
ところで都營の人がよく「奥までおくりあはせ下さい」とアナウンスするのだけれども、何なんだらう。

平成二十一年二月九日
河合榮治郎『學生に與ふ』「一 社會に於る學生の地位」

ここに文化の發展創造と云ふからとて、この任務が所謂學者とか藝術家とかと云ふ、特殊の職業に就いてゐるもののみの使命だと誤解してはならない。一般の知識階級例へば會社員とか官公吏とか技師であつても、夫々特殊の持場を擔任しながら、科學や哲學や藝術に關心も興味も持ちうるのであり、又持たなければならないのである。若しさうでないならば、學者や藝術家がその創作を發表した場合にも、それを理解し評價して呉れる對象を持たない譯であり、それでは學問も藝術も發展創造する刺戟がなくなることとなる。現に讀者と稱し聽衆と稱せられるものがあつて、學問や藝術の水準が維持され發展してゐるのである。一般知識階級は學問や藝術に就てもかくの如く沒交渉でないが、況んや各々の持場に於て政治・經濟・財政・技術等々の文化を維持し發展させてゐるのである。若しも經濟・財政・技術などの領域に、高等教育を受けたものがゐないならば、之らの過去の文化を相續しえないのみならず、將來へと承繼せしめるものもないだらう。……。

平成二十一年二月九日
マスコミ v.s. 「ネット言論」とやら - 闇黒日記2.0 - Yahoo!ブログ
珍しくながいながい文章をあつちに書いたからリンク張つておく。なぜ長くなるかと言ふと推敲も何もせず思ひ附いた事をひたすら書き毆つてゐるから。構成も何も考へてゐない。日記なんだからそんなんでいいだろ――と思つてゐたのだが、どうも「ブログ」と云ふのは「完成された原稿」を公開する場であるらしく、何であれ未完成の部分があつたら突込まれるものらしいのだ。俺が「ブログ」を好まない理由はそれ。ウェブ日記は日記であり、日記ならば何でも書き毆りでいい筈なのだが、日記と違つて「ブログ」は「ネット言論」であるらしいのだ。
平成二十一年二月九日
池田雅之『猫たちの舞踏会 エリオットとミュージカル「キャッツ」』を讀んでゐるのだが、いろいろ考へるなと思ひつゝ、成る程深讀みも出來るんだなと納得させられつゝある。ナンセンス詩であるオールドポッサム云々は、從來、そんなに評價されてゐなかつた、が、ミュージカルの制作者逹はそこに深い含意を讀取り、物語として再構成してしまつた。池田氏によればキャッツのせりふは基本的にエリオットの詩を基にしてをり、案外改變はないのだとか。そして駄洒落・地口・ナンセンスジョークを大量に投入し、笑ひを誘ひながら、エリオットはひそかに鑑賞者に或種の理念を傳達しようとしてゐると池田氏は言つてゐる。
英語のジョークだから俺はさつぱりわからなかつたが、ナンセンスと云ふものは俺も好きで、さう云ふ意味ではエリオットと氣質的に通ずるものがあるのかも知れない――と言ひたいけれども、何となくエリオットには馴染めないんだよな。
ちなみに俺のネタ發言を「ネタ發言だ」と眞に受けてしまつたのが喜六郎ら。ナンセンスジョークを通して意味のある事を言はうとする試みは、或種の人々には全く通じないらしい。ナンセンス文學と云ふものが「ある」と云ふ事を連中は理解できないんだ。糞眞面目な人つて本當に困るよ。「義」なんかは毎週毎週休みになるとネットカフェに「出勤」して、コピペの文章をあちこちの掲示板や「ブログ」に貼り捲るし。何で其處まで律義にやれるんだ。でもつて、不眞面目になるとこれが本當に不眞面目になつて好い加減になつてしまふから何うしやうもない。日本人はかう云ふところで兩極端になつてしまふから駄目だ。精神的に硬直してゐるんだよ。福田さんがワイルドの箴言集を編んだりしたのも、硬直した日本人の精神を柔軟なものに變へようと云ふ試みだつた。福田さんの御芝居は、全くナンセンスなどたばたではないけれども、はつきりと喜劇であり、ナンセンスな仕掛けやせりふが大量に入つてゐて、しかも一見渾沌とした状況を作りながら、全體としてしつかり構成されてゐて、筋の通つた主張が盛込まれゐた。面白をかしい中に思想を潛り込ませる――巧い文學作品と云ふのは、メッセージを露骨に表現するものでなく、メッセージを巧みに隠したものだ。
「キャッツ」の場合、「巧みに隠されたメッセージ」を「讀み取る試み」として、成る程「あり得る」けれども、けれども、ナンセンスであるのをナンセンスであるがゆゑに「實は」意味があるとしてメッセージを「讀みとつてしまふ」のはやり過ぎで、その點、注意が必要だ。「キャッツ」を讀む池田氏の試みも、何うなんだらう。エリオットの意圖とは違つて、ミュージカル制作者が隨分自分逹の價値觀を盛込んで解釋し、池田氏もそのミュージカル制作者の價値觀を讀取つてしまつてゐるだけなのでないか。さうなると、エリオット研究としてではなくミュージカル「キャッツ」の研究として、別の物として評價しておくのが安全か。じつはよくわからない。
平成二十一年二月九日
誰か「義」が俺の名を騙つて書込んだ掲示板のプリントアウト作つて呉れないかな。奴さんが俺のメールアドレスも一緒に書込んだのがあるといい。今囘は俺以外にも被害者が出たから、最う集團訴訟起せると思ふ。
「義」にはそろそろ自重していただきたい。やめて呉れるなら何も言はないから。

平成二十一年二月八日
価格.comのCOOが“荒れない口コミ掲示板”成立までの歴史語る
ユーザのモラルなんてものに全く期待出來ない今の時代、結局「ID制」みたいなシステムで暴れる子を抑制するか、ユーザの「メリット」を言ふかしか、掲示板の類ひを「荒れさせない」爲には何も出來ないんだらうね。
平成二十一年二月八日
読売新聞の神崎氏が「発言小町」運営の苦労や裏話を語る
あとは事前檢閲だが、まともでない運營者が檢閲し始めるとろくな事にならない、と云ふ問題がある。読売邊ならまあまともな筈だが、自分の掲示板だからと言つて自作自演で一人三役やつてるアレな運營者もこの世には存在する。
平成二十一年二月八日
ネットの逆流(10):ブログでの名誉毀損で国内初の一斉摘発 一歩間違えれば自分も加害者 (1/2) - ITmedia エンタープライズ
俺も某もと國營企業の社員と云ふ立派な社会人にYahoo!掲示板で中傷された經驗がある。その時Yahoo!は中傷する側を守つた。
また、この手の中傷を行ふ人間には、ウェブ・インターネットと云ふものそれ自體を憎んでをり、また言論の自由を尊重する氣が全然ない――寧ろネットワークを潰してやれ、言論の自由を破壞してやれ、と考へてゐる危險分子が少からず存在する。喜六郎は「自由と言ふ奴は信用出來ない」と述べ、自由主義や民主主義に敵意を抱いてゐる事を告白してゐる。斯う云ふ人間相手にネットリテラシーが何うの斯うのと説教しても何の效果もない。
平成二十一年二月八日
Business Media 誠:近距離交通特集:向谷実氏が考える鉄道と音楽(前編)――発車メロディ3つのオキテ (1/3)
いろいろ考へてゐるんだな。
京王は未だに發車ベル(ブザー)派で、保守主義者の俺(わらひ)は何時までも昔の形態を殘しておいてほしいなんて思ふのだが、時代の趨勢――と言ふか、古いだけのものは斯う云ふ合理的な理由を持出されると弱いからな。都營地下鉄の神保町の驛では、メロディを使つてゐる三田線とブザーを使つてゐる新宿線で、雰圍氣が全然違ふ。新宿線に慣れてゐる俺は三田線は軟弱だとか思ふけれども、逆の立場の人は新宿線は怖いとか思ふのだらうか。
平成二十一年二月八日
MSがWindows 7 UAC問題に言及、ユーザーの意見をRC版で反映へ | パソコン | マイコミジャーナル
テスターが「ダイアログボックスを表示して責任をユーザに押附ける」方式を提案してゐる。テスター馬鹿だろ。
平成二十一年二月八日
ついったーの楽しみかた - はてなグループ::ついったー部
うわめんどくせえ。
最近はサーヴィスに登録する行爲それ自體が面倒臭くて――おまけに「友達100人フォロー」とか言はれると最う氣が遠くなる。
一日に四、五枚DVD-Rのオーサリングして、深夜アニメ見て、闇黒日記を書いて、とやつてゐると、餘計な事をする暇がないし、氣力も湧かない。
ええと本屋で立讀みするのは空氣を呼吸するのと同じで生きて行くのに最低限必要な事だから氣力とか暇とかは關係ないですね。ですよね。
平成二十一年二月八日
俺は2ちゃんねらーでもウィキペディアンでも同じだと思つてゐる――それだけの事だ。「」でも、へんな自意識だか矜持だかがある奴は、やつぱり頭がをかしいし。誰でも參加出來る――と言ふより誰でも書込める掲示板によく書込むからと言つて「同族(屬?)意識」なんて持つても意味ないよ。古本市によく行くからと言つて「俺は古本業者」なんて思ふ奴がゐたら異常だろ。まあ「古本市に参加してきました」なんて書いてゐた新古本好きの某氏がゐたけれどさ。賣手は古本市に參加してゐるけれども買手はただ買ひに行つてゐるだけなんだから參加でも何でもない。と言ふか、業者向けの市と一般向けの古書展の事を言つてゐる「古本市」とは全然別。
平成二十一年二月八日
MacキーボードをWindowsキーボードっぽく調整してみた - Liner Note
職場のMacにWindowsのキーボード(106キーボード)を繋いで使つてゐるけれども、インフルエンザで一月に休んだ時、他の人が使はうとして戸惑つたらしい。

平成二十一年二月七日
Googleトップ刷新 ロゴの変遷を追う
I'm feeling luckyの機能はまだ生きてゐるので必要な人は俺のLCPを利用するといい。
平成二十一年二月七日
画面で比較 こんなに変わったWindows 7 Part1
一部Mac OS Xの後追ひとしか思へないやうな機能が。と言ふかタスクバーの設計つて根本的に腐つてゐるよな。
平成二十一年二月七日
Windows Server World Online - システムトラブル緊急救命室 “いざ”というときにほんとうに役に立つ管理者必携のトラブル解決ツール使いこなしガイド
昔に比べると最近のWindowsは隨分壞れにくくなつたと思ふ。
平成二十一年二月七日
http://www.page.sannet.ne.jp/hirasho/diary/diary0902.html#5p1
戰爭と平和ぐらゐ古本屋に幾らでもあるだろとか思ふ俺は神保町腦。
千圓も出さなくたつて幾らでも手に入るこの手の名作を、何うしてわざわざ圖書館で借りようとするのか理解出來ない。なぜか意地でも本は圖書館から借りて讀まねばならないと思つてゐる人が世間には異常に多いのだが何なのだらう。買へばいいのに。本なんて安いんだからさ。
何とか世界文學全集トルストイ篇とかにも入つてゐるだらうと思ふけど。河出とかの。
平成二十一年二月七日
マガジンワールド | カーサ ブルータス - CASA BRUTUS | 107
見てゐるだけだと實に樂しい住宅の特集――の筈だが、讀んでゐて非常に嫌な氣分になつたので書かうと思つて忘れてゐたが今思ひ出したので書く。
「捨てる事で豐かになれる」とか書いてゐる人がゐた。何を考へてゐるんだらうと思ふのだが、茲數十年の間、この手の事を「書く」のがトレンドとなつてゐるらしく、何處へ行つても見かける。本當に頭がをかしいんでないかとすら思はれるのだが、物を捨てれば捨てるほど豐かになると本氣で信じてゐる人が日本では物凄い勢ひで増殖し、存在してゐる。
この手の住宅のガイドだか何だかを見てゐて、或は「豪邸訪問」のテレビ番組を見てゐて、いつも思ふのだが、なぜか誰も本を持つてゐない――と言ふより、どの住人も、「おしゃれ」なそれつぽい本は少しだけ持つてゐても、書庫を持つてゐる事が絶對にない。本棚をきちんと備へ附けてゐて、そこにちやんとした本をきちんと並べてゐる事が絶對にない。
今の日本人は――否、昔から日本人は、「何もない」事を「おしゃれ」だか「豐か」だかだと思ひ込んでゐる節がある。
そんな馬鹿な話があるか。ある訣がない。昔から營々と蓄積して來た歴史的なものが、何んなに貴重であるか。藏書は多ければ多い程いい。本は情報を蓄へた貴重な記録であり、それを溜め込む事は良い事に決つてゐる。ところが、「捨てるのは豐かになる事である」と勘違ひしてゐる多くの日本人が、本を溜め込む事を極度に嫌ふ。「一度讀んだら二度と讀まないのは良い事である」と心から信じて、出來る限り本を買はず、しかし情報を得るだけの爲に圖書館で借りる。馬鹿だらう。一度しか讀まないで良いやうな本なら、讀まなくても良い本だ。そんな事も解らないのだ。良い本ならば、持つてゐたくなるのが當り前だ。圖書館で借りて、讀めば良い、なんて――正直言つて、そこまでして一度だけ讀まなければならないものなのか。
俺は、本をきちんと並べられるだけのスペースがあり、床が丈夫で拔ける事なく、濕氣や埃がそんなにない、さう云ふ住宅があればぜひ欲しいと思つてゐる。引越しするにしても、藏書を捨てるなんて事は考へられない。なぜその邊の人は平氣で物を捨てられるのか。捨てられるやうなろくでもない物ばかりを集めてゐたと云ふ事だらう。もともと精神的に貧しいから、物があらうがなからうが、關係ない、ただなくなつてせいせいする、と云ふだけの事だ。それを「豐かになつた」とか言つてまたごまかしをやらうとしてゐるから、俺なんかは氣持ち惡いと思ふ訣だ。
平成二十一年二月七日
Wikipediaの「要出典」、「独自研究」はやり過ぎ−JanJanニュース
俺が書いた記事も青方の中村に潰されたんだよな。
あそこは書き手を潰すのに恐ろしく便利なシステムになつてゐるからまともな人間は一人も書きに行かない。特に專門の研究者が書く事は絶對に無い。全員素人が書いてゐる。Wikipediaは素人が尤もらしい言葉遣ひで尤もらしい記事をでつち上げる遊びの場だ。問題は「遊び」の積りである事を誰も意識してゐない事にある。
平成二十一年二月七日
アンサイクロペディアだと「遊び」を眞劍にやらうとしてまたをかしくなつてゐたりするから駄目。
平成二十一年二月七日
Wikipediaが「檢證可能性」を求めてゐるなんて建前だろ。現實に、ちやんとした專門家や研究者が書込んでゐない事實を見れば、あんなの素人の遊びだと云ふ事は明かだ。
はてなブックマーク - Wikipediaの「要出典」、「独自研究」はやり過ぎ−JanJanニュース
Wikipedianが威張つて書いてゐるけれども、2ちゃんねらーと同じで變な選民意識でもあるんでないか。Wikipediaなんてただの掲示板なのに、建前だけ「しつかり」してゐるから、まるで權威であるかのやうに思ひ込んでゐる。
と言ふか、そもそも「百科事典」なんて作つたつてしやうがない、と云ふ事を、ウィキペディアンは一人も認識できてゐない。制度だの社會のシステムだのを考へて遊ぶのと同じ。下らない遊びだ。連中は、下らない事を一生懸命やつてゐる――と言ふより、やつてゐるやうな積りになつて、威張つてゐるに過ぎない。
Wikipediaは、何の權威もないのに、SEO效果だか何だかで無駄にGoogleでの位置が上つてしまつて、他の情報を押し下げる事になつてしまつてゐる。非常に迷惑だ。あんなものに加擔するのは、或意味ウェブに對する挑戰だと言つて良い。
平成二十一年二月七日
檢證可能な事をわざわざ文章として書起こさうと考へるのが理解出來ない。リンクを張れば良いだけだ。默つて信頼できるリソースにリンクを張つてゐれば良いのに、わざわざ文章を書いてゐる。馬鹿だらう。
それに、「要出典」とか言つてゐる割に、現實には出典も何もない事柄が當り前のやうに大量に書込まれてゐる。「要出典」が貼り込まれる基準がわからない。記事の書込みを妨碍する爲に適當に「要出典」が貼り込まれてゐるやうにしか思へない。
平成二十一年二月七日
そもそも、誰にでも書換へられるのに、わざわざ研究成果を書込む專門家や研究者がゐる訣がない。檢證可能か何うかなんて――人文科學でさう云ふ事を言つてゐたら、何一つ書けやしないだらう。
それに、馬鹿が馬鹿な揚げ足取りを當り前のやうに書込んで來るんだから、まともな人間は氣が狂ふ。俺は松原先生の記事に「松原先生が、福田恆存を干したのは猪木正道だ、と言つた」と、ちやんと根據のある事を書いた(「松原先生が言つた」と云ふのは事實だし根據があるしちやんと何と言ふ文章に書かれてゐるか出典も書いた)。さうしたら、「福田恆存を干したのは猪木正道だ」と云ふのは「檢證不可能だ」――「根拠なーし」、と本文に書き手を愚弄するやうな事を書かれて、あれでWikipediaが本氣で嫌ひになつた。誰が何う考へても、「松原先生が書いた」と云ふ事が事實であればいい話なのに、その書かれた内容について「根拠なーし」なんて言出す馬鹿が書込めるのだ。ユーザとして登録しなければIPが出るとかやつてゐるけれども、知的レヴェルが一定以上でなければ書込めないとかしなければ駄目だろ。
Wikipediaは、頭が惡く人間として何うしやうもない輩が、當り前のやうに書込んで來る。まともな人間ならWikipediaに書きたくなくなるのが當り前だ。それでもWikipediaを擁護しようとする人間は、頭がをかしいに違ひない。2ちゃんねらーが2ちゃんねるを擁護するのは頭がをかしいからで、あれと同じだ。
平成二十一年二月七日
最近知つたのだが「ノズラー」つて言葉が某方面以外の某方面に既に「ある」模樣。エアガンだかモデルガンだかのノズルを弄りたくなる人を言ふらしい。
派遣会社に委ねたことってなんだろう? (おさんぽさんぽ)
★ノズラーとは?★云々のコピペ。「義」もこのコピペが好きだな。コピペ腦と云ふのもこの世には「ある」んだらう。
「義」が捕まれば、ニュースでこのコピペが流れて、多くの人を笑はせる事になるんだらう。犯罪者として一番恥かしい報道のされ方だと思ふ。
ちなみにふみんぐさんも俺の事を知つてゐる筈だから「義」の書込みを見れば爆笑すると思ふ。
平成二十一年二月七日
と言ふか四次元衛星が有名。よくしらんけど。
それにしても、適當な用語を作つて既存の言葉とバッティングさせるのはよろしくないが、さう云ふ事を平氣でやるのは馬鹿だと思ふ。
平成二十一年二月七日
個人攻撃に荷担する2典Plus - Diary - Quadrilateral space

平成二十一年二月六日
ATOK2009の文語モード、標準辭書の變換候補に正字體が。 - 科學の剃髮
ATOK2009の文語モードで色々試してみた - 科學の剃髮
さう言へば先日Mac OS X 10.4のことえりで何だつたか變換したら突然正字が候補に出て來てびびつた。しれつと正かなで變換出來るやうになつたらMac買ふ。
平成二十一年二月六日
「ブルーレイ課金は当然、早期実施を」権利者団体が意見表明
ブルレイにはひよつとしたらウェブサイトのデータが保存されるかも知れないから課金してウェブサイトをやつてゐる人間に支拂はれるやうにすべきだとか詰らない發言がウェブに續々と現れると豫測。
平成二十一年二月六日
「製品候補時点で21社80種類」、マイクロソフトがIE8向け新サービスを説明:ITpro
何うでも良いと言へば何うでも良いけどそろそろブラウザとレンダリングエンジンは分離してそれぞれ別々に進化するやうになつて良いと思ふんだ。
平成二十一年二月六日
「ブログ炎上」ネット上の悪弊に警鐘 虚偽の中傷も摘発 (1/3ページ) - MSN産経ニュース
平成二十一年二月六日
どこぞのタレントを脅迫した廉で捕まつた女性がそのタレントは「人殺し」とか云ふよた話を眞に受けてゐたとか、韓國でドラマの役柄と俳優の人柄を混同して中傷する人がゐるとか、いろいろアレな話が出てゐるけれども、斯う云ふのを見てゐると「ブログのコメント欄腦」みたいなのが「ある」んでないかと思つたり思はなかつたり。「ゲーム腦」なんてないらしいけれども、ウェブのへんな情報を眞に受けて――或は自分で勝手に設定を作つて他人を攻撃し始めて、偏執的に粘着したりする人は、何か妙な腦を持つてゐてもをかしくないと言ふか何と言ふか下手な事を言ふとまたぞろ附け狙はれる事になりかねないから何も言はない。
平成二十一年二月六日
人は何で横に並んで歩くんだらう。男女ならくつついてゐるから邪魔にならないが、男と男、女と女だと、可なりの確率で間を開けてゐて、歩道の幅一杯を占有する。しかも、非常に高い確率で、彼らはぺちやくちや御喋りをしてゐる。なんで横に並んで歩き、しかも御喋りをするのだらう。追越せないやうにブロックするのが目的ではないだけに、文句も言へないし、非常に困る。
平成二十一年二月六日
人は何で自轉車で横に並んで走るんだらう。この場合、例外ナシに、運轉者はべちやくちや御喋りをしてゐる。後ろから追越すのもやりにくいが、對向してすれ違ふ時に彼らが絶對に退かない事は重大な問題だ。正面衝突してやる積りで向つて來るのではないし、文句を言はうにもスピードが出てゐるから何うにもならないが、危ない。
と言ふか、基本的に自轉車は横に並んで走つては駄目。特に許されてゐる場所でない限り、禁止されてる。
平成二十一年二月六日
携帶電話を持つ人は、なぜ携帶電話を何時でも「持つてゐる」のだらうか。日本語だと非常に判りづらい言ひ方だが――携帶電話を所有する人は、なぜ携帶電話を何時でも手で持つてゐようとするのか、と云ふ事。電車に乘ればメールをチェックし、電車を降りれば途端に誰かと喋り出す。何なのだらう。が、まあ、それはいい。夜道をてくてく歩きながらみんなケータイで喋つてゐる。異樣だがまあいい。
自轉車に乘るのに片手にケータイを携へてゐる――何なのだらう。これだけは理解できない。と言ふか、許せない。危ないからやめて。
平成二十一年二月六日
問題が解決したらその方法をサイトに書き留めておこう - AZ note
mixiなんかが困るのは、さう云ふ閉鎖的なところに一部の人だけが見られるやうに情報を書く人が出て來る事。オープンの場で情報が相對的に少くなつて來てゐるやうな氣がする。特に個人からの「情報發信」は、SNSが發達するにつれてどんどん減つてゐて、ウェブのオープンな場は企業サイトが御金儲けの爲にコンテンツを置くところになりつゝある。もともとインターネットはオープンな場で、情報が博く一般に行き渡るやうに――それも個人が非商用の目的でやれるやうに出來てゐたのだけれども、今では個人は片隅に追ひやられ、企業サイトがサーヴィスを提供して何とか商賣を成立させようと頑張つてばかりゐる。
今や深刻な問題となりつゝあるのが、さう云ふ「現状」を「既成事實」として全肯定し、企業が活動する事には何も言はないが、個人が活動すると「傲慢だ」「思ひ上つてゐる」と極附けて、抑壓にかかる人が澤山出現してゐる事。「ブログの炎上」だつて結局のところは「個人がやつてゐる」から「潰してやれ」と云ふ發想が「ある」訣で、ウェブは企業が明朗なサーヴィスを提供するか、匿名の人間が陰濕な工作を行ふか、の兩極端な活動が行はれる場になつてしまつてゐる。人助けをしようとか、何かの役に立つかも知れない事をウェブで博く公開する、と云ふのも、現在では「匿名で攻撃する正當な理由」に「なつてしまつてゐる」。「そんなバカな」と思ふ人が、まだゐるとしたら、それだけが救ひだが、今となつては「は、なんでやつちやいけないの?」と絡んでくる人の方が多いのでないか。もちろん、不活發な人が大多數であり、それを除いた活發にウェブで活動してゐる人は、と云ふ事。
いや本當に、今は非道い時代になつてゐると思ふ。「書きたければ匿名で2ちゃんねるに書け」とか、本氣で思つてゐる人は案外多いやうな氣がする。「匿名でなく、實名である事は、賣名行爲である決定的な證據である」とか、「ブログのコメント欄を荒らす腦」の人は當り前のやうに言ひさう。
平成二十一年二月六日
「炎上」と言へば、粘着してコメント欄に惡口を言ひ捲る行爲が屡々問題になる訣だが、では「ブログ」のコメント欄を塞げば事態は解決するのか、と言ふと、そんな單純に話は濟まない。「ブログ」をやつてゐたらコメント欄に粘着が涌いた――ではコメントを書き込めなくしよう。ところが、さうなると、粘着は最う「離れられない」精神状態になつてゐるから、大體2ちゃんねる邊にスレを立てて「陰口」を叩くやうになる。さらに「症状」が進めば自分で「ブログ」を作つて罵詈雜言を浴びせ、「お仲間」を呼び集めて惡口を言はせたりする。
恐ろしいのは、それを彼らが「惡い事」だと思つてゐない事。彼らは自分逹が正義の行動を取つてゐると本氣で信じてゐる。アンチこそ本當の意味で信者だと言つて良いと思ふ。
コメント欄で粘着するのも、「ブログ」等を作つて粘着するのも、本質的には同じ。
今、「炎上」「炎上」と言つてゐるのは、派手な現象だから。人は派手な現象に常に目を奪はれる。結果として物事の本質は常に看過される。
平成二十一年二月六日
噂の一人歩きでブログ炎上 : サイバー護身術 : セキュリティー : ネット&デジタル : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
「ブロガー」の間違つた發言・非道い發言が原因の「炎上」と、根も葉もない噂を信じた連中が原因の「炎上」とは區別する必要がある、と云ふ當り前だが案外みんな(マスコミの人)忘れてゐた指摘。
「ブロガーが惡い」から非難されるのと、「コメントを附ける人がをかしい」場合とは、區別した方が良い。「炎上」と云ふのは、結果としての現象を見ただけの、皮相淺薄な表現だ。
人が攻撃されるのには、攻撃された人が惡いのと、攻撃する人が惡いのと、二通りがある。「攻撃されたからには、當然のやうに、攻撃される理由があるのだ。なぜ反省しないのか」と云つた無茶な攻撃の仕方をする人がゐるけれども、反省する必要があるのは、どつちだらう。
實際、へんな妄想・思ひ込みに陷つた人による粘着と云ふ事例がある。「ネットの噂」と云ふ言ひ方も、微妙に現實を歪曲するもので、必ずしも正確ではない。
平成二十一年二月六日
のあ
仕事が遲くて契約切られた擧句、會社が倒産してしまつて、逆恨みして「訴へてやる」とか言つて來るDQN社長つて何うかな。
あやの
何うかなぢやないだらう……。
のあ
IT業界つてやくざ多いね。
あやの
いや洒落になつてないからやめろよ。
平成二十一年二月六日
「新常用漢字表(仮称)」の性格 - 科學の剃髮
今の「国語行政」と云ふ奴は官僚システムの一番惡い面が一番非道い形で現はれたものだからな。役人は明治以來の「方針」を墨守してゐるんだよ。それを利用したのが表音主義者。そして國民は斯うした官僚主義を官僚主義と認識する事も出來ないで、「既成事實」だからと言つて容認してゐる。
平成二十一年二月六日
派遣会社に委ねたことってなんだろう? (おさんぽさんぽ)
Re:派遣会社に委ねたことってなんだろう? (おさんぽさんぽ) - 實驗日記(假)
派遣切り批判をあえて批判する | 時評コラム | nikkei BPnet 〈日経BPネット〉
トヨタと自動車産業、そして派遣切り|六本木で働いていた元社長のアメブロ
リンク先は適當。
派遣の問題でも例によつて「派遣になつた責任」とか云ふ話が出て來てゐる。さう云ふ精神論だか道徳論だかを言つてゐれば何でも話が濟むと言ふのなら、政治家は要らないよ。派遣を切つて國が助かるならさうするのが政治だらうし、もと派遣の無職を救つて國が助かるならさうするのが政治だらう。どつちにしてもそれなりに理窟がくつ附くから最終的には數で決める。それが民主主義。獨裁者は、獨斷で事を決められるけれども、それをやつて恨みを買ふと革命か何かで權力を失ふやうになつたから、近代以降暢氣に構へてゐられなくなつた。何れにしても、こんな事を本氣になつて議論しても仕方がないのだし、本氣で明日の事を考へなければならない人は議論なんて悠長な事はやつてゐられない。この手の政治の議論を暇潰しに出來るのは餘裕がある人だけだ。
平成二十一年二月六日
東京古書會館の古書展で、昭和四年に出た續國譯漢文大成の陶淵明集・王右丞集を買つて來た。漢文なら英文と違つて何となく讀めるし感覺的に解る。釋清潭と云ふ人の緒言が漢文訓讀調で書かれてゐるのだが實にいい。擬古文を書く人は多いけれども、あんなのはそれつぽく誰でも書ける。漢文訓讀調のきりつとした文章を書ける人は、俺を含めて、今は先づゐないだらう。それが殘念だ。
明治四十年に出た伴信友全集第二も買つたのだけれども、こちらはとても讀めない。國學者の文章は、やまとことばで綴られてゐる訣だが、寧ろとつつき難い。宣長でもよくわからない事がある。徂徠や闇斎はさつぱり。

平成二十一年二月五日
キッズステーションでひだまりスケッチ×365が始まつた。例によつてサイドカットされてる。
平成二十一年二月五日
shinzlog - Clips: 企業サイト改変不要論
「派手な作りにして人目をひかうとする」リニューアルと、「地味に使ひ勝手を良くしてリピータを増やさうとする」再構築とがある、と云つた話。
それにしても、最うウェブデザインの話となると、企業のウェブサイトの話ばつかりで、個人が作るウェブサイトの事は、みんな忘れてゐるんだよな。個人は「ブログ」やつてゐればいい、みたいな感じ――そもそも「何かを言はなくてはならない」と云ふ事でやつてゐる個人サイトが全然ないものだから、何も言ふ事が無いやうな人は「ブログ」やらついったやらで適當にぼやいたり呟いたりしてゐればいいみたいな風潮が出來上がつてしまつた。
なんで個人に言ふ事が無くて、法人に言ふ事がある、なんて状況が出來してしまつたんだらう。
平成二十一年二月五日
個人ニュースサイト界隈で最も「情報元」になっているサイトTop30
メモ。そのうちリンク集の修正に使ふ。この手のニュースサイトは全然見てない。
平成二十一年二月五日
某サイトのデバッグ作業(「デバッグ」であるらしい)。面倒なので適當にW3CのValidatorにHTML文書を投げて返つて來たエラーを報告してゐる。無茶苦茶意地が惡い事をやつてゐるやうに思はれるかも知れないけれども、HTMLでやれと言つてやつてあるのに勝手にXHTMLで作つて來るんだからあつちが惡い。
平成二十一年二月五日
「気持ち悪い」と言われるはてな
個人が匿名で適當に喋れる場として2ちゃんねるもはてなも似たやうなもんだろ。
掲示板と「ブログ」の間に違ひは殆どない。スレッド式の掲示板は誰でもスレを立てられる。「ブログ」は「ブロガー」だけがスレを立てられる。それ以外は全部同じだ。勿論、掲示板には管理人がゐてスレを立てた子がレスを勝手に消す事は出來ない一方、「ブロガー」は附いたコメントを管理出來る。けれども、さう云ふのは些細な違ひだ。スレを立てた子にしても「ブロガー」にしてもレス或はコメントの流れをコントロールしようとしたら叩かれる。
あと「はてなブックマーク」みたいな「ソーシャルブックマーク」が2ちゃんねるのやうな掲示板と殊さら「違ふ」と言ひたがるはてなーの人がゐるけれども、やつぱり似たやうなものだ。誰かがネタを提供しようとして、スレを立てるか、「ブックマーク」するか、の違ひがあるだけだ。皆で貼られたURLにあるサイトを話題にする點では何も變らない。
それにしても、「なぜこのは氣持ち惡いと書いたのか」と動機を詮索しようとしてゐるはてなーがゐて、まるで2ちゃんねらーみたいだと思つた。
人が問題になるべき時にはシステムの話題に話を逸らし、斯う云ふシステムの話に過ぎない事を人の問題にすり替へる――何で人間つて斯う云ふ正反對の事を平氣でやらかせるんだらう。
平成二十一年二月五日
「はてブ」で末永く提供したい“ゆるいつながり”〜伊藤直也CTO
平成二十一年二月五日
ウェブのインタラクティヴ性と云ふ奴――こつちからデータを投げると即座に反映される――これが「掲示板」として利用されたり「ブログ」のコメント欄で使はれたり、或は「ソーシャルブックマーク」となつたりしてゐる訣だが、結局根源は一つ。CGIが投げ込まれたデータを巧い事利用して結果を出してゐる、それだけの事だ。
ユーザから投げられたデータを何う組合せてもつともらしい「利用法」をでつち上げられるか――「ウェブサーヴィス」が細分化され、個別に成立し得たのも、ただ「何う解釋するか」と云ふ點でサーヴィス提供者が一生懸命工夫を凝らし、自らの獨自性をアピールしてゐるからに過ぎない。
平成二十一年二月五日
システムとしては單純に「CGIが動いてゐる」と云ふだけの話。
平成二十一年二月五日
解釋として「こんな使ひ方があるね」と云ふだけの話。
平成二十一年二月五日
だがどんな使ひ方が提案されたとしても、使ふのは人間で――さうなると結局のところ人間性と云ふものは何時だつて何處だつて變らないのだし、ならばさうさうヴァラエティのある表現だつて出て來るものではないと云ふのは當り前の話なのだ。
平成二十一年二月五日
CGMサイト、管理者は活用するが従業員の利用はリスクを懸念
で、俺が今適當にだらだら書いたやうな事は最う誰かが考へてゐて「CGMサイト」とか言つて一括りにして呉れてゐる訣だ。
平成二十一年二月五日
お笑い芸人をブログで中傷、男女18人を名誉毀損容疑で立件へ
Google 検索: 炎上
Google 検索: 中傷
Google 検索: 誹謗
「コメント欄の炎上」で「ブロガーが被害に遭ふ」例と、「ブロガーがブログで誰かを中傷してゐる」例とがある。今囘は「炎上」と云ふキーワードが獨り歩きしてコメントの問題だけがクローズアップされてゐる氣がする。結構問題のあるブログを作つてゐる「ブロガー」は「ゐる」よ。問題のある掲示板の管理人もゐるし。一方、掲示板やコメント欄で中傷を書く輩もゐる訣で、要は「問題のある人間は何處にでもゐるからシステムが何うの斯うのと言つても仕方がない」と云ふ事。
恐ろしく厄介なのは、さう云ふ問題を起す人間には、他人を中傷するのに矢鱈工夫を凝らす人がゐる、と云ふ事。『トンデモ本の世界』で有名になつた「と学会」だけれども、あそこの人が言つてゐる事の口眞似をして、トンデモさんがまともな科學を攻撃する事例が現在では結構「ある」。自分を攻撃してくる戰術を、自分も利用して有效に反撃してやらうと云ふのだ。。同じやうに、他人を中傷して樂しむ人間が、自分の事を棚に上げて、「あいつは他人を中傷して樂しんでゐる」と宣傳し、他人を中傷する事がある。
「誰某が他人を中傷してゐる」と云ふ話をしてゐる「ブロガー」の話だつて、輕々には信じられない――さうやつてその「ブロガー」はその誰某を中傷してゐるのかも知れないのだから。
と言ふか、マスコミは「炎上」と「中傷・脅迫」とを混同して――と言ふより、「炎上」と云ふ現象を派手に採上げて面白がつて報道してゐる。これでは中傷や脅迫の類は減らないよ。マスコミの連中、本氣でその手の嫌な事をなくしたいと思つてゐないから氣樂に面白がるんだ。しかし、今囘とつつかまつた側でも、「炎上」を面白がつて祭だと思つて派手な事を言ひ捲つた輕薄な人がゐた筈で、ならばどつちもどつちと言ふしかない。
平成二十一年二月五日
電撃文庫の新刊を買つて來た。
平成二十一年二月五日
帰りに本屋行くべきか - (゚ヮ゚)<ポポーダイ
ダブつてゐるのを百も承知で買つたり、本の山を崩してゐるとぞろぞろダブりの本が出て來たり――俺の場合、いつぱい同じ本が出て來ると嬉しくなつてしまふんだけれども、それつて世間樣からしてみれば變なんだらうな。
何處かに「ある」と判つてゐても出てこない事の方が最近は多いし、ダブり捲ると此處でネタに出來るし。やけくそ。
平成二十一年二月五日
ヤスパアス『ニイチェ』と云ふ本が上下卷であつて(草薙正夫譯・創元社)、うちには上卷も下卷もある。だけど、古書會館の古本市で創元文庫版の『ニイチェの根本思想』(草薙譯)と云ふのが出てゐて、これが五百圓とちよつと割高。ダブりかも知らんと思つて何うしようかとちよつと迷つたのだけれども、まあいいやと割切つて買つて來たのだが――。
ヤスパースの『ニイチェ――彼の哲學することの理解への手引』と云ふ本がある。創元の上下卷の本はこれの飜譯なのだけれども、上卷はこれの第一部で、下卷はこれの第三部。間の第二部が、實はそつくり拔けてゐた。その拔けてゐた二部が別に出てゐたのであつて、それが『ニイチェの根本思想』――これが先行して飜譯・出版されてゐて、あとから上下卷の本が追加で出たものらしい。
調べたら、新潮文庫で出直してゐて、理想社の選集ではまとまつてゐるみたい。
兎にも角にも全部揃つた事實が發覺したので、喜んで讀み始めてゐる。多分相當時間がかかると思ふ。
平成二十一年二月五日
氷上さんの『ニーチェとの対話』は讀み終つた。茂吉に續いて草田男の話が出てゐて、草田男はニーチェを讀んでゐたのだけれども、用語を見てもさうさう繋がりがあるやうには見えない、しかし表面的な類似を指摘するのは斯うした場合寧ろ危險なのであつて、實はやつぱり氣質的に兩者は似てゐるので、物の見方や態度に共通點があると氷上氏は指摘してゐる。
あと、内村鑑三-レッシング-キルケゴールの結び附きを、宗教觀と云ふ觀點から考察してゐる。結構いろいろ興味深いところがあるし參考になつたところがある。

キェルケゴールにとっては、真理伝達は間接的伝達としてのみ可能であった。それは古代においてはソクラテスの場合、イロニーとしてあらわれたものだが、レッシングもまたそうした間接的伝達に終始したというのが、キェルケゴールの究極のレッシング観である。そしてキェルケゴール自身もそうした伝達者、最後まで両刀の剣に傷ついた思索者・求道者であったといえよう。

客観的内容ならば直接的伝達は可能であるが、主体的真理は間接的伝達のみが許されるのであり、それは「伝道」という観点から見るならば、各個人に決断の余地を残すものであり、個人をして彼自身の真理を捉えさせるという独立を維持させるものである。内村鑑三の「伝道」もそうした主体性による自己抑制のきいたものであったといえよう。

「内村鑑三とレッシング」の結論部近くに上のやうな文章があるのだが、俺はすぐ次の事を想起した。
「完全な批評家」より
宗教觀についての話だつたが、それは即座に宗教を離れた批評家の話に繋がつてゐるやうに思はれる。となると、内村もキルケゴールも、宗教家として見るのみならず、批評家として宗教とは離れた立場にある事を考へる事が出來る。そしてキルケゴールはニーチェ同樣のアンチキリストの系譜に連なるのだし、さうなると今度はメレシコフスキーが聯想される事になる。

平成二十一年二月四日
一往の審査があつてそれが通つてユーザ登録されたサイトでドキュメントとか畫像とかを落さうとするとやけに使ひ辛いインタフェイスになつてゐて、ジャンルやら何やらで情報を絞り込まなければならないとか、チェック入れたデータを鯖がzipで固めて送つて呉れるとか――何かやる度にエラー出したり鯖が重かつたりで苛立たしい事この上ないサイトなのだが、そんなところを使はなければならない羽目になつてゐて苛々してゐる。何でこんな手間のかかる作りにしたのだらう。ユーザも面倒だが、制作者も面倒を背負ひ込んでゐるやうな印象を持つた。
データを拾はせるにしても、シンプルにデータに直リンクで良いだらうと思ふのだけれども――兔に角今の時代は「デザインしなければならない」とか思つてゐる人がうようよしてゐて、さう云ふ人逹は無闇に工夫してサイトを作つて呉れる。迷惑な話だ。
なんでウェブサイトはデザインしなければならないのだらう。文章があつて、必要があればアンカーがあつてリンクが張られてゐる――それで充分でないか。なんで「動く」やうになつてゐたり、「マルチメディア」になつてゐたりしなければならないのだらう。「さうしないとユーザは滿足しない」とデザイナは決つて言ふのだけれども、ユーザは自分の求めるデータに即座に行着けなければ満足しないのであつて、「インタフェイスが複雜なのに滿足する」なんて事はあり得ない。多くのデザイナは、自分が「デザインする」事でユーザが「滿足する」と思ひ込んでゐるが、反省してみる必要がある。
あつちでぴょこぴょこ、こつちでゆらゆら、畫像が動いてゐるけれども、そこをつついてみても「じりもわー」とか書かれたウィンドウが現れるだけ――とかだつたら、ユーザはすぐに飽きると思ふ。だつて何もないんだもの。
ごてごてと飾り立てられたポータルサイトより、Googleの方が、ユーザを集めてゐる事實を見れば、やつぱり「情報に素早くアクセスできる」と云ふ事は割と多くのユーザにとつて魅力に感じられるものだ、と言つて良いと思ふ。
イラストを展示するのが目的のサイトなら、畫像があるのはいい。けれども、人を呼ぶ爲に適當な畫像を作つてサイトを飾つてみる――そんな事をやつて本當に人が來るものだらうか。案外多くのデザイナが、デザインとして作られた畫像なんてちつとも魅力がないんだ、と云ふ事實に氣附いてゐない。ぎんぎらぎんのボタンを置いても、そんな畫像にユーザは魅力なんて感じない。CSSで作るプルダウンメニューなんてお遊びが一時期流行つたものだけれども、制作者が面白がつてゐたところで、そんなのユーザにとつてはちつとも面白いものではない。
いや、綺麗なデザインのサイトを作つてもいいんだよ。けれども、それが機能的である事は重要だし、それ以上に「デザインだけ」ではない中身がちやんと「ある」事こそがウェブサイトにおいては重要なんだよ。「綺麗なサイトだけれど、ここ何のサイト?」とユーザに言はれたら、恥だと思つた方が良い。
平成二十一年二月四日
オピニオン雜誌が景氣の話題一色になつてゐて、マスコミが何かの話題で一色に塗り潰されるのを嗤へたものではないなと思つた。かつてのニーチェ學者までが經濟の話だか何だかに夢中になつてゐる。派遣切り批判に派遣切り批判批判と、大體水掛け論になる以外あり得ない話題に一生懸命喰ひ附く裕福な讀者が日本にはまだゐる。景氣が惡いと言つたつて、この手のネタで雜誌が當り前のやうにやつて行けるのだから、日本は安泰。
平成二十一年二月四日
氷上英廣『ニーチェとの対話』を相變らずじりじりと讀み進めてゐる。茂吉がニーチェを讀んでゐた事の指摘は、茂吉が結構適當にニーチェの文章を摘んで物を言つてゐた事の指摘に移り、結論として「二人は氣質が似てゐた」と云ふ事に。氷上氏は茂吉が引用した發言をニーチェの膨大な著書から一生懸命探したらしい。最初の邊の隨筆は密度の薄い内容だつたが、途中から矢鱈濃い内容になつて面白い。死後の出版なので編緝した人にバランス感覺があつたのだらう。一方で氷上さん自身も眞面目な學者さんだつたやうに感じた。

平成二十一年二月三日
本棚の前に堆く積み上がつた本の山を崩して再構築する試みを行なつてゐるうちに、何時の間にか行方不明になつてゐた竹友藻風『文學論』(ARS刊)を掘り出した。氷上英廣の本をだらだら讀みつゝある今日この頃今空前のニーチェブームのただ中にゐて(ただし俺個人の中で)ヤスパースのニーチェ論をようやつと揃へて讀み始めた許りなのにふらふらと浮氣。もちろん、例によつて一章讀んだら切りがいいからと言つて抛り出すのだが――要はこの手の本はラノベなんかに比べたら相當に讀み難いのだ。氣力がない俺のやうな人間にはこの手の本を一氣讀みするのは無理。
可なり古い本ではあるのだが、讀んで見たら案外古くない。大學では今でもこの手の事は教へてゐる筈だし(教養レヴェルでは多分)、福田恆存もこの手の事は常識として辨へつゝ藝術を論じてゐた筈。勿論、さうした常識レヴェルの内容を「古い」と稱して「專門」的に論じたい人は勝手に論じてゐれば良いが、寧ろ俺にはこの手の當り前となつたやうな基本的な事實を押へる事こそが重要だと思はれるのだ。文學とは文字で書かれたものであり面白いものである。
面白いとは何か、文字で書かれてゐる意義とは何か――さう云ふ事を一々書く積りは無い。俺は一々説明する爲にこの「日記」をやつてゐるのではないからだ。面倒な事を「しろ」と俺に命令してくる輩がゐるが、嫌がらせ以外の何ものでもない。俺に説明を要求する前に、俺が紹介した本を何處からか掘り出してきて讀めば良からう。竹友氏は、極めて優秀な英文學者で――英文學のみならず語學に堪能であり、有名な『神曲』の飜譯がある――本書でも懇切叮嚀に、かつ具體的に、わかりやすく文學と云ふものを説いてゐる。興味を持つた人は古本屋で探して讀むと良い。アーノルドとかペイターとか、T.S.エリオットを讀んだ人にならおなじみの名前が頻出する。
平成二十一年二月三日
Googleで検索結果がすべて「危ないサイト」になるトラブル
Googleニュースも一瞬落ちてた氣がするんだけど、全然話題になつてない。
平成二十一年二月三日
http://www.google.co.jp/nwshp?hl=ja&utm_source=ja-wh&ncl=1272263216&topic=y
市役所に嫌がらせ電話を繰返して逮捕→服役→出所したら電話再開、と云ふ粘着クマガイヤー。粘着は自分がしてゐる事を少しも惡いと思つてゐないからたちが惡い。
平成二十一年二月三日
中公バックス版世界の歴史を一册百円で册拾つて來た。例によつて一卷の最初の邊だけ最う讀んだが、後は多分放置すると思ふ。このシリーズはどの卷もえらく讀み易い。
平成二十一年二月三日
近日オープンする某サイトの爲のヘルプを暇なので適當に書いて納品。目茶苦茶書き辛くて困つた。基本設計がアレなので何處から説明していいか困惑した擧句最う何も氣にしない方針でその邊のサイトにある注意書から適當にネタを拾つてそれつぽい恰好に仕立てたがヘルプとして機能するか何うかわからない(文章は全部ゼロから起したので問題ない)。技術的な説明を場當り的に適當に書いたらウェブマスターが「ふーん、サウナンダ」と納得してゐた。
ウェブマスターさんは紙のデザイナ出身の人でデザインの面から無茶な要求ばつかりしてゐて、仕事を受けたところも技術がない上に適當な事をやつてゐるところなので、いろいろアレな状況になつてゐて俺にまで餘計な仕事がまはつて來ると云ふ無茶なプロジェクトになつてゐる。何と言ふか、俺だつたらその邊のフリーソフトを寄集めて適當に安くでつち上げるだらうところを、妙にきつちり打合せを行ひ、全然融通がきかない仕樣に固めてしまつた擧句、制作側も妙にガチガチの融通がきかないシステムを組んできて、テスターがみんな文句を言ひ捲つても全然直して呉れないは、制作側はぎりぎりになつて初期の頃の約束を持出して變にシステムを弄つて呉れるはと大混亂に陷つてゐる。しかもいろいろ柵がある仕事なので、相當な額のお金が動いてゐたり、時期的にアレな事もあつたりして、雙方ぴりぴりしてゐる樣子が、傍で見てゐて手に取るやうに分かつてしまつたりする。そんな中、ウェブマスターさんはただ一人、じつと耐へて、頑張つてゐる。俺が傍觀者でなかつたら、關係者を斬つて斬つて斬り捲つて喧嘩してゐただらう状況――と言ふか先方が既に戰鬪モードに入つてゐて、無茶な内容のメールを何通も送り附けて來たりと、可なり非道い事になつてゐるのだが、それでも我等がウェブマスターさんは、目茶苦茶咳込みながら(毎年風邪を引く人)叮嚀に返信を書いてゐる。傍で見てゐて何だかなあと思ふ。
商賣でウェブマスターをやるには、技術力は決して必要でない――氣が長い事だけが必要なんだなと、自分のいろいろアレな過去を思ひ出しつゝしみじみ感じた。一往契約時の仕樣書に爆彈を一箇仕込ませて貰つておいたから、いざと言ふ時には爆發させられるやうになつてゐるけれども、それをやるとあちこちに迷惑がかかるから本當にアレな状況にならない限り傍觀してゐる積り。俺も自分が動くといろいろ周圍に迷惑をかける體質の人間だと云ふ事は自覺してゐるんだよ。そつとしておいてくれ。と言ふか、傍觀してゐたら無害なネタが一箇爆彈に化けてゐた。何なんだらう。
サイトがオープンしたらまたいろいろアレな事が起きるんだらうと期待してゐる。何處かは秘密。多分誰もわかんないと思ふ。
平成二十一年二月三日
Mac版Opera 9でメールサーヴァの認證に失敗とエラーが出るやうになつて調べて見たらパスワードが消えてゐた。何うやら前日、Mac OS X 10.4では動かなくなつたAdobe PhotoshopElementsの古い奴を消す前に、なぜかPhotoshopElementsフォルダの中に入り込んでゐたOpera 7を起動してみたのが原因だつたらしい。なんでそんなところにOperaが入り込んだのかわからない。しかし、何かあつたら記録されてゐるパスワードが消える仕樣はいい。が、何が何だかさつぱりわからない事件で――世の中、コンピュータがわけのわからない動作をした、と怒る人がいつぱいゐるけれども、結構ユーザが氣附かないうちにやらかしてゐるミスが原因になつてゐる事が多いのでないかと思つた。
平成二十一年二月三日
節分には恵方卷を食ふと云ふのは關西のものであり關東にそんな習慣は存在しない。少くとも俺の住んでゐる邊でそんなものを食ふなんて事はしなかつたのであり、だから俺は感覺的に受附けない。精々豆を撒いて年齡の數だけ食ふと云ふのを小學生の頃にやつただけだ。恵方卷なんてものはセブンイレブン邊が賣らうと思つて流行らせてゐるだけの事で、地方の習慣だ。今の時代、さうした地方の習慣を流行らせようとして全國的な「年中行事」に貶める事がよくあるけれども實に嫌な事だ。皆が皆さうした流行に乘つて大はしやぎするが、なんでこんな劃一化の流れが一般に定着してしまつたのだらう。

平成二十一年二月二日
いろいろ修正。ノシ
平成二十一年二月二日
まじかんと雑記: 悪習
何時の間にか世間では「完成したプログラム」が賣られてゐる事になつてゐるらしい。
普通は何んなプログラムでもバグがあるし、ユーザだつてさう云ふ事は承知でゐるべきだ。その程度の鷹揚さは必要だと思ふ。
それよりも、プログラムであれ何であれ、缺陷が「あるかもしれない」と云ふ事こそ、常に意識してゐるべきで、「最う完成品だから缺陷はない」と思ひ込んで安心して賣出してしまふ事こそ、後で深刻な問題を惹起こすのでないか。
――等と抵抗して言つて見るけれども、こんな「〜する恐れ」を心配して見せ合ふ「論爭」と云ふものは何の意味もないんだよな。假定を前提に議論するのは、詭辯の何たらかんたらでも戒められてゐた事だよ。あんまり意味がない。
平成二十一年二月二日
インターネットなんかは、通信網がぐだぐだになつても何とか通信が成立するやうにと開發された軍事ネットワークが原點にあるのだけれども、一方で、通信をいろいろと試みて失敗したら別ルートを探して、と云つた方法をとるものだから、「通信に失敗する」事は豫め折込みずみのシステムになつてゐる。要は「繋がらない事もある」通信システムだ、と云ふ事。こつちでリソースを寄越せと要求するとあつちでは取敢ず送り出すが、徑路の状況次第でデータがなくなる事はあり得る。メールなんかはなくなる事が當り前のやうにあり得るのだけれども、ウェブの場合でも本質的には變らない。となると、それなりに信用できるインフラではあるけれども、そんなに信頼できるインフラでもない、と云ふ事になる。みんなその程度の認識で使つてゐる筈だ――が、案外「どうして繋がらないんだよ」と怒り出す人は多い。
Windowsなんかにしても、Windows 3.0の頃なんかは落ちるの前提で使ふものだつたのが、Windows95邊からそれなりに安定し始め、それなりに信用して使ふ人も現はれ始めた。NT系に主流が切替つてからは(實質的にXP以降)餘程非道い状態のシステムでない限り落ちなくなつたから、素人が多いWindowsユーザ、笑、にはWindowsは落ちないものと安心して使ふ人が大量發生する事になつた。のだらう。
フリーウェアですらも今ではそこそこレヴェルが上つてゐるから、あんまり落ちないし、あんまり非道い擧動もしなくなつた。だからみんな安心して使つてゐるけれども――でも、個人開發のフリーウェア・シェアウェアの類はもともと自己責任で使ふべきもので、ノークレームノーリターンと云ふのは「常識」だつた筈だ。それが今や「出來の惡いプログラムは淘汰されるべき」と云ふ、豫め開發すらも封じ込めるやうな主張が現はれて來て、プログラムの批評でさう云ふ立場から「惡いプログラム」を潰しにかかる人まで出て來る。
言説(謎)でもプログラムでも、批評の對象にはなるよ。でも、人間の作るものなんだから常に完全と云ふ事はあり得ない。さう言ふと「甘えるな」式の、「上から目線」と云ふ奴? さう云ふ高壓的な言ひ方で、と言ふより、戰前に屡々使はれた方法――精神論的な攻撃の仕方で、「駄目」なものを叩きに叩く、さう云ふ人が出て來る。これなんかは今の時代、「古い」んだよ、民主主義の時代に・自由主義の時代に、なんで精神論が罷り通るんだらう。民主主義にしても自由主義にしても、「人は完全ではあり得ない」と云ふ眞理に基づいて、批評を盛にして不完全な物を寄つてたかつて改良し、また不完全な人間が絶對者たらんとする事を阻止する安全策としてのシステムを作り上げてゐる。日本人は、自分で民主主義や自由主義を作り出したのではないから、餘所の國から貰つて來て便利に使つてゐるけれども、結果として精神的には「民主主義・自由主義より前」の段階に依然として「ある」。おまけに、流行を採入れる事ばかりが巧い日本人だから、民主主義と言へば「疑へ」と云ふ言葉が條件反射的に出て來る始末で――さうなると今度は再び民主主義以前の精神が顏を出す事になる。危險な「人間を絶對化する精神」だ。ところが、さう云ふ精神は、まあ、ウェブなんかの片隅で顏を出しても、今の社會の中では本當に邊境の地の事でしかあり得ないから、ちぢこまつて――獨裁者のやうにのびのびと暴力を奮ふのでなく、精々陰濕に他人樣にちよつかいをかける程度の事しか出來ない。が、さう云ふ態度が當り前のやうに横行し出したら、世の中、何んな嫌な状況になつてしまふ事だらう。
平成二十一年二月二日
インターネット全体が危険であるという認識は正しい - ぼく最速戦記君劇場@自宅の日記 Not Found - 技術日記
この人の「ブログ」は或意味18禁なので氣をつけて見に行く事。
平成二十一年二月二日
偉い人の名言を引く時にも注意が必要だ。屡々單純に・一面的に意味或は「教訓」を引出して事足れりとする我々は、反省が必要であらう。

獨り居の寂しさに堪へぬ人々にいはう。縱ひ獨語するときにも、公けの前にゐるごとく、つつましくなくば、矢張りそれは不行儀なともがらである。

これはニイチェの「曉紅」のなかの言葉である。と言ふのだが、何うだらう。これを讀んで「成る程」と單純に思ふ人はゐるだらう。が、續けて齋藤茂吉は斯う述べてゐる。

これはニイチェの「曉紅」のなかの言葉である。さはれ、吾等のやうに氣の弱い、はにかみ勝ちのともがらは、ひとり言の間ぐらいは我儘でありたい。……。

茂吉は、時々唐突にドイツ語を持出して語つてゐたが、ニーチェの讀者であつたからで、それも原文について讀んでゐたのだと氷上英廣は「齋藤茂吉とニーチェ」で指摘した。そこで、例として引用された一節であるが、孫引きした。ニーチェの發言(『曙光』――茂吉が『曉紅』と譯した――のアフォリズム569である由)だけを讀むか、茂吉の感想まで含めて味はふかで、我々の感想は違つて來る。
平成二十一年二月二日
小林秀雄の、三木清との對談より。『小林秀雄對話録』(創藝社)
小林
僕も前に福澤諭吉の事を書いたことがあるけれども、福澤諭吉は『文明論之概略』の序文でかういふ事を言つてゐる。現代の日本文明といふものは、一人にして兩身あるがごとき文明だ、つまり過去の文明と新しい文明を一つの身にもつてをる、一生にして二生を持つが如き事をやつてゐる、さういふ經驗は西洋人にはわからん、現代の日本人だけがもつてゐる實際の經驗だといふのだよ。さういふ經驗をもつたといふことは、われわれのチャンスであるといふのだ。さういふチャンスは利用しなくちやいかん。だから俺はそれを利用し、文明論を書く、と言ふのだ。西洋人が日本を見る時にはどうしても空想的に見るけれども、日本人は一身で西洋文明と自分の過去の文明と二つ實驗してゐる。だから、議論は、西洋人より確實たらざるを得ない。さういふチャンスを利用して俺は『文明論』といふものを論じる。さういふ立場から論じてゐるだらう。あの人は……。さういふのが實證精神だらう。
三木
さうだ。
小林
實證精神といふのは、さういふものだと思ふのだがね。何もある對象に向つて實證的方法を使ふといふことが實證精神ではないよ。自分が現に生きてゐる立場、自分の特殊の立場が學問をやる時に先づ見えてゐなくちやならぬ。俺は現にかういふ特殊な立場に立つてゐるんだといふことが學問の切掛けにならなければいけないのぢやないか。さういふふうな處が今の學者にないことが駄目なのだ。日本の今の現状といふやうなものをある方法で照明する。さうでないのだ。西洋人にはできないある經驗を現に僕等してゐるわけだらう。さういふ西洋人ができない經驗、僕等でなければやれない經驗をしてゐるといふ、さういふ實際の生活の切掛けから學問が起らなければいけないのだよ。さういふものを僕は實證的方法といふのだよ。
小林
あゝいふ福澤諭吉のやつた樣な眞摯な、物に即した學問の方法が何處に行つて了つたかといふ事が不思議でならない。あなたは、あゝいふ實學の方法がカント流のヒューマニズムに蔽はれてしまつたといふやうなことを書いてをつたらう。それはどういふことですか、もう少し説明して下さい。
三木
對象時代に出てきた教養といふ思想だね。それが實證的な精神を失はせて、觀念的に教養といふものを作り上げたね。さうしてものに對して或るポーズをすることが教養だといふことになつたんぢやないかね。
小林
さういふ事になると、やつぱりどうもただ考への問題といふよりも人間の問題だね。どうもやつぱり福澤諭吉といふ人間が豪かつたといふふうに考へる。教養といふやうなものを、さういふふうに解釋してゆくといふのも、要は人間が貧しいからさう解釋してゆくわけでせう。何もカントがさういふ男であつたわけではないからね。それにもう堪へられないのだね。
三木
嚴しさに堪へられないのだね。
小林
論證するには論理でよいが、實證するには文章が要る。哲學といふものを創るといふ技術は、建築家が建築するやうに、言葉といふものを盡す必要がある。それを言ふのですよ。考へるとは、或は見るとは創ることだといふ命題は、ただディアレクチックではとけないのだと思ふ。
小林秀雄と三木清は、冒頭でモンテーニュは詰らない、或は齡をとつて讀むと段々詰らなく感じられて來る、けれどもパスカルは逆だ、段々面白くなる、と言合つてゐる。
「桑原武夫との對話」で小林氏は斯う發言してゐる。
小林
主體的という言い方は曖昧に思われるが、僕はただものを考えるのに、精神全體をいつも行使しようと心掛けているだけなのです。理性というものは、精神の一部だ。自然は人間理性に服從する面をもつが、服從しない面ももつ、自然の質とか多樣性とかいうものは、理性にはどうしても適合しない。事實(fait)という言葉をパスカルの樣に深刻な意味に解すれば、自然のfaitには、樣々な異質的なもの、ordreの異つたfaitがある。そういうfaitをすべて受け入れるのには、精神の全能力が要る。全緊張が要る。そういう風に精神を緊張させているという事が主體的に考えるという事なら、僕はそうだと言えます。
伊吹(武彦=司會)
そこにミスティックの現われる基礎があると思うが、桑原君、今の日本にミスティック――神秘的な考え方――があつてよいかどうか、君はどんなふうに考えますか。
桑原
できるだけ消してゆきたいと思つています。
小林
パスカルのミスティシズムというものはね、自然は合理的解釋では汲みつくすことが出來ぬという、極めて嚴格な洞察の結果として現われているのですよ。

平成二十一年二月一日

私は私に對する批評家逹において、屡々無頼漢の印象を受けたことがある。語られる事柄でなくて、その事柄を私が語るといふこと、そして正にこのがどの程度までそれを語りうるかといふこと――これが彼等の唯一の趣味であるらしく思はれる……世人は私について評價するが、私の作品を何ら問題としようとしないのだ。彼らは私の作品の發生史について説明する――それでもつて問題は充分に片付けられたものと考へてゐるのだ。

ヤスパースがニーチェについて書いた本で、自己を限定するといふ點で正當であるが、自己を絶對化するといふ點で誤であると言つて、ニーチェを誤つて解釋する「四つの方法」について述べた部分があり、そこで以上のニーチェの言葉を引いてゐる。
ヤスパースが述べた誤つた解釋の仕方は以下の通り。
  1. ニイチェの個々の教説を孤立化したり、體系化したりして、それを彼獨自の業績として示すこと。
  2. ニイチェの個性を觀念化(形態化)し、それによつて、それ自身として纏まり、直觀的に觀照せられるところの一つの全體としての一つの完結的な運命として孤立化すること。
  3. ニイチェに永遠的意味と歴史的根據の深みを與へるために、彼の現實全體を神話的象徴によつて説明すること。
  4. ニイチェの思想や態度を心理学的に説明すること。
草薙正夫譯ヤスパアス『ニイチェ 上 ―生活―』(創元社)より。
平成二十一年二月一日
BLOCKQUOTE要素とCITE要素をめぐる考察
dl要素の仕様についての疑問 - Webtech Walker
Re: dl要素の仕様についての疑問 : Weblog : SimpleIsm
「定義」と「説明」を「グループ化したい」と云ふ希望があるらしい――「らしい」と言ふのは、俺は「グループ化する必要」を自然に全く感じないでゐるからで、「そんな希望を持つ人がゐるんだ」と云ふ感覺がある。termとかdescriptionとか言つてゐるけれども、さう云ふ名前は記號に過ぎず、記號とその指示するものとに必然的な關係は存在しない。何んな名前でもいいと云ふ訣だが、なのにやたら「定義と説明」と云ふネーミングに拘つて考へる人が世間には多い。
その結果として、XHTML 2.0では「定義と説明をグループ化する」事をdi要素なんてもので「出來るやうにしよう」としてゐる。俺は大反對だ。
http://www.w3.org/TR/xhtml2/mod-list.html#edef_list_dl
XHTML 2は、「意味に基いて」と云ふ御題目の下、HTML 4.01のシンプルさ・大雜把さを殺いで、「意味」に拘つてしまつてゐる。
http://www.w3.org/TR/xhtml2/mod-list.html
「廣い意味でリスト」ならば「リスト」、と云ふ發想は排除され――例へばリストであつてもナヴィゲーションの爲なら嚴密に區別され、nlにしなければならない、と云ふ、變な嚴格主義を採用しようとしてゐる。恐ろしい事に、仕樣書にはつきりnavigation barだのmenuだのと書かれてゐる。XHTML 2.0は、視覺的であれ何であれプレゼンテーションの爲の文書記述言語であり、テキストをマーク附けする爲の言語ではない。斯うした見た目を重視する傾向は、例の「HTML 5」にもはつきり表はれてゐる。
これならHTML 4.01 Transitionalで見た目を制御するのでも良いぢやんとか思ふのだが、何で「XHTML 2」や「HTML 5」が定められなければならないのだらう。HTML 3.0の過ちを繰返してゐるだけにしか見えないのだが、新しいHTMLの仕樣を支持してゐる人逹は「違ふ」と言張つてゐる。俺には全く同じ傾向のものにしか見えない。
平成二十一年二月一日
「XHTML 2」と「HTML 5」は、何としても潰さなければならない。こんな「嚴密主義的」で「具體的」な仕樣を認める訣には行かない。特に「HTML 5」。
「HTML 5」は、典型的な「ブログ」を記述するだけの爲の言語であり、汎用性がないし、これに從つた文書は劃一的なものにしかなり得ない。「HTML 5」は、「ヘッダー」と「サイドバー」と「本文」と云つた「ブログ」のレイアウトをする爲に必要なものを用意してゐるのであり、ブラウザに表示させる爲のレンダリング制御言語として定められてゐる。テキスト文書をマーク附けして汎く使へるやうにするマーク附け言語ではない。
俺が氣に食はないのは、「HTML 5」の要素は、明かにレンダリング制御目的で用意されてゐると「解釋できる」のに、それぞれの要素のネーミングと説明がもつともらしく「意味に基いてゐる」からだ。なるほど、さうした要素が「ある」からと言つて即座にブラウザが「ブログ」風に表示する訣ではない――「HTML 5」の文書でも、それらしくブラウザが表示する爲には、制作者がCSSでレンダリングを指示する必要がある。だが、誰がどう見ても「この要素はこの目的の爲にある」と「わかる」のだ。
俺には「HTML 5」は、訣のわからない仕樣にしか見えない。だが、何うして世間の人はみんな「理解できてゐる」のだらう。「ブログ」を使つてゐる人はもう「ブログ」のフォーマットは「當り前」のものに思はれてをり、それをHTMLの仕樣として定める事に抵抗感が「ない」のだらうか。
平成二十一年二月一日
「XHTML 2」でも、もともと見た目を制御する爲の要素(例へばbr要素)を、單純にマーク附けの方法を變へるだけで(l要素)「意味(semantic)に基いてゐる」事にしてしまふいんちきをやつてゐる。しかし、そんな書換へ・置換へで觀念が質的に變化するとは、とても思へない。l要素が「意味に基いてゐる」のなら、それに言換へる前のbr要素も「意味に基いてゐる」事になるのでないか。何で單純な置換へ作業を「質的變化」のやうに言ふのだらう。詐欺だとしか思はれない。「改行」が見た目の制御で、「行」は意味である――W3C關係者の主張だが、納得出來ない。
と言ふか、斯う云ふいんちきが可能であるならば、W3Cの言ふsemanticと云ふものも、何うせいんちきなんだらう。W3C關係者は、semanticと云ふものの信用をなくしたいのだらうか。
平成二十一年二月一日
semanticと言へば、「サイドバー」でも「ナビゲーションバー」でも視覺プレゼンテーションの爲のものではなく「意味のあるもの」になつてしまふらしいのだ。口から出任せも好い加減にしてほしい。便宜主義でやりたければ、Netscape NavigatorにありInternet Explorerにもあつた要素を全部既成事實として認めて「仕樣」にしてしまつてゐれば良かつたんだ。なんでHTML 4.01なんてものを定めたのだらう。剩へStrictなんて言つて。
平成二十一年二月一日
dl-dt-ddでは、「dt=インライン要素だけが入れられるリスト項目」であり「dd=インライン要素とブロックレヴェル要素のどちらも入れられるリスト項目」であると定義されたのだが、「term」と「description」と云ふ用語の所爲で、「意味」が重視され續け、定義それ自體が無視される結果となつた。ネーミングは重要だねとか教訓を引出しても仕方がない――記號としての要素の名前に引きずられて考へる人しかゐない、と云ふ状況下で議論が進んでゐる事實に戰慄すべきなのだから。さう云ふ變に具體的な意味に心引かれる人が集つて新しいHTMLの定義を考へてゐる今、「意味」の無闇な細分化が行はれ、最低限必要な要素ではなく、「あれば便利」と云つた要素がどんどんどんどん追加されて、仕樣が、理念的・觀念的に抽象化されたものから、ただ「使ひ易い」「便利」なだけのものに質的に變容して行つてゐる。便宜主義に理想主義が蹂躙された形になつてゐるのだが、俺にしてみればこんな非道い状況を「改善」だの「進歩」だのと看做す訣には行かない。
平成二十一年二月一日
【iPhone用カーリングゲームその後:2009/2/1】鷹澤遊戯場 過去日記

 最初に出たときは、ストーンの挙動が余りにもおかしくてカーリングとして成立しておらず、更にCPU対戦が無いおかげで暇つぶしにもならないという酷い出来で、App Storeにもそういう内容のレビューを書いたんだが…

 …その後、地道に細かいバージョンアップが繰り返され、徐々にストーンの挙動がまともになっていき、最新のバージョンではついにCPU対戦が付き、そこそこ出来が良いアプリになった。

 ということで、今ではアプリの中身はApp Storeに当初書いたレビューとはかなり異なっているんだが…早いうちに出すだけ出してアプリを売っておいて、細かい修正はその後やればいいやなんて悪習がデベロッパの間にはびこるのを防ぐ為に、レビューはこのまま修正しない事にしよう。

何うしてそれが悪習なんだらう。いいことぢやないか。この人は良く解らない理由でクレームを附ける事がある。
平成二十一年二月一日
しかし、「誰がどう見ても良い事」を「惡い」と言つて非難する人が、世間にはゐるのだ。この事には最近氣附いたのだが、何でそんな解釋が出來るのか、と、不思議でならない事が時々ある。
誰が何う考へてもそんな解釋は不可能だ、と云ふやうな解釋をして、公然と人を非難するクレーマーが、ウェブにはうようよしてゐる。クレーマー氣質の人には氣をつけた方が良いけれども、さう云ふ人に限つて自分は良い事をしてゐると信じてゐるんだよな。
平成二十一年二月一日
http://homepage1.nifty.com/kazuf/renewal.html#dk_1233459471

キーン先生は日本は儒学思想に大きな影響を受けていると見ているが、司馬遼太郎は日本にはどのような思想でも載せることのできるお皿のようなものがあるというのがおもしろいところじゃないか、儒学も皿の上の一つに過ぎない考え方を出されるのだが、これについては議論が収束しなかった。お皿というのは一種のメタフレームワークのようなものだと考えられる。もっと議論が深まるとおもしろかったと思う。

俺は司馬遼太郎を全然信用してゐないのだが、ドナルド・キーンも今一つ信用してゐない。それは兔も角。
日本人は、思想的に割と融通がきくやうでゐて、實は恐ろしく保守的で、表面的には何でも受容れるやうだが、或種の思想は本質的な部分で絶對に受容れない。それはキリスト教的な思想で、絶對者の存在を日本人は受容れる事が出來ないし、絶對的な眞理の存在も受容れる事が出來ない。だから日本人は「和」を亂すと云ふ理由で、批判と云ふ行爲それ自體を憎惡するし、平和主義と云ふ逃げの態度を積極的な思想と勘違ひする。日本人に出來るのは物事の相對化だけであり――しかもその相對化を、何らかの眞理とか正義とかを信ずる立場から行ふのは許せず、飽くまで「相對主義」の立場から、對象を愚弄したり、嘲つたりして、樂しむ事でしか「やつてはならない」と信じてゐる――信じてゐると云ふより、精神の底にさう云ふ態度が染み着いてゐて、自然とさう云ふ態度を取つてしまふし、さう云ふ態度をとらうとしない人間を無意識的・本能的に嫌つて排除しようとしてしまふ。意識化され、客體化された思想ではなく、無意識的・本能的に行なつてしまふ行爲だから、日本人の「他人を馬鹿にし、他人の足を引張つて樂しむ」習性は、反省される事がなく、ゆゑに日本人の基本的な精神として定着してしまつてゐると言つて良い。が、さう云ふ意味では、儒學でも、ただ他人を罵るだけの爲の根據として用ゐられる鬪爭の具であるに過ぎないと言ふ事すら出來てしまふ。日本人には、そもそも思想と云ふものが、なじまない。日本人にあるのは、ただの意地の惡さと妬み・嫉み――あとは金儲けしたいと云ふ欲望だけだ。日本に思想と呼べるやうなものは殆ど存在せず、世間にはせいぜい便宜主義があるだけだ。さう云ふ便宜主義を信奉し、價値相對主義で他人の足を引張つて樂しみ、周圍の人間と闘ふ事だけを考へてゐる「常識的な日本人」にとつて、思想と云ふものはその存在自體が許し難い、憎き敵であり、思想を主張する人間は、人間として看做す事の出來ない、嫌らしく、道徳的に不潔で、侮蔑し、嘲笑を浴びせるべき「人間の屑」である。
さう云ふ閉鎖的な考へ方をしてゐる日本人の存在を、明るみに出し、批判する必要は「ある」と俺は信ずる。もちろん、彼等にとつて俺のやうな主張をする人間は、「傲慢」で「思ひ上つた人間」に「見える」。それは「常識的な日本人」の精神に染み着いた、批判を許さない閉鎖的な根性が反感を示すもので、單なる排他的な傾向であり、さう云ふ島國根性は、近代社會で近代的な思想が見出して來た樣々な理論や考へ方を、依然として或種の人間を排除する爲に有效な武器として利用しようとする。近代思想を日本人が受容れたと言ふけれども、實際には從來の精神的傾向を維持したまゝ、それをより強力に發揮しようとして、眞新しい武器である近代の思想や哲學の方法を表面的に採入れてゐるに過ぎない。
平成二十一年二月一日
戰前と戰後の間の連續を福田恆存は重視して、それで國字改革にしても新憲法制定にしても反對したのだが、その「連續」の觀念の意義を殊さら閑却して、表記にしても憲法にしても俺がただシステムをシステムとして殘して運用したいと主張してゐると、俺に反對してゐる連中は頻りに言ふ。こんなに解らない連中がゐるのかと思ふと、現實に俺の主張が通らない事は火を見るよりも明かだ。俺はその程度の事は承知の上で言つてゐる。
現行憲法無效論にしても、俺が大日本帝國憲法でもやつて行けるからやつて行く具體的な方法を提示して見せてゐる――パフォーマンスをやつてゐると、俺に反對する連中は言つて批判してゐる。が、俺は憲法の運用だの何だのの仕組を作る事――政治をする事には全く興味が無い。福田さんだつてさうだつただらう。飽くまで、戰前と戰後との斷絶に反對し、兩者に聯關を附けておきたいと云ふのが福田さんの考へだつた筈だ。
現行憲法無效論の他に、戰前と戰後の憲法を連續せしめる説があつて、その立場では「日本國憲法は欽定憲法である」と看做す。これに對して、例へば喜六郎なんかは、何を反對したら良いのか、全く想像もつかないだらう。この説は憲法學者の大石義雄が主張したもので、爲政者たる天皇が發議し改正を行つたのだから日本國憲法は欽定憲法で、天皇の權威に基いて有效であるとする事になる。戰前と戰後の爲政者は連續してをり、それは天皇である、と云ふ説だ。これならば戰前と戰後の斷絶は、理論上「ない」事になる。
葦津珍彦は、現行憲法無效論とともに、現行憲法欽定憲法説の存在を認めてゐる。葦津氏は、「占領」状態において性急に事をすすめるのを避け、當座教義を定めないでやつて行く、と云ふ戰後の神道の立場から、その何れの説が論理的に優位であるかをはつきり述べてゐない。

關聯リソース/特記事項

前の記事
日記バックナンバー
2009年1月
「闇黒日記」の關聯サイト
Yahoo!ブログ - 闇黒日記2.0
Love Cream Puff
言葉 言葉 言葉
PC Tips
inserted by FC2 system