1メール=1テキストファイルに保存するメーラ。思想的には全然違ふつぽいけど。
これを憂慮してか、第二版では「XMLの機能や拡張機能が必要ない場合は、HTML 4.01の採用も検討すること」という文が新たに設けられました。HTML 4.01であれば整形式のエラーも程度はあるものの許容されますし、語彙については内容的にXHTML 1.0と変わりありません。
あくまで感覚的なものですが、「Web標準ならばXHTML+CSS」といった流れがあるように感じています。しかし、HTML4もWeb標準であることには変わりません。
闇黒日記の日別閲覧スクリプト。
假に今日發音的に新しく或る假名を定められたと考へませう。さうしたならば此の新しい假名遣が又間もなく歴史的になつてしまふのであります。
といふ箇所を引用して、「森鴎外は歴史的假名遣を擁護したのではない」といふやうなことを述べてゐた。
日本語における漢字の撤廃は明治時代から唱えられていた。全てを平仮名に、という考え方は、正確にはなんと昭和四〇年まで続いたらしい。国語審議委員会で「国語は、漢字かな交じり文を以て、その表記の正則とする」という提案をしてそれに終止符を打ったのが、癌研究に多大な功績を残した医師の吉田富三博士(一九〇三−一九七三)であった。漢字が消滅すれば、日本語本来の創造性も消えてしまうと語った。
特に吉田は同音異義語の重要性を説いたそうである。同じ音を漢字で区分けして考えているのが私たち日本人の感性であり、その言語感覚を奪ってしまうことになる、と。例えばこれが存在するからこそ、掛詞や縁語の文化は成熟してきたといえる。これを事例として漢字かな交じり文を奪うということは、日本人から様々な想像力を奪うということに他ならないと、吉田は提言(「吉田提案」と呼ばれている)した。
漢字とひらがなとカタカナの三者の混合の網。例えば一文に意味の分からないものが存在していたとしても、あれこれと通じさせようと無意識に頭を働かせてしまう。あるいはまた私たちはこれらの特性を生かして、新しい言葉を作り出してしまうことも得意である。私が語るまでもなく、新語・流行語の類を引き合いに出せば明らかだろう。これらのことは三つ巴による想像の賜物であるだろう。例えば吉増剛造や鈴木志郎康らの詩人たちを代表とする六〇年代の現代詩の数々は時にこれらに拠りながら、よりラジカルにユニークに生産されていった。今もなお後代の私たちの詩も、これら自律性の恩恵を受け続けている。私という現代詩人は、日本語の内部の精神活動に育てられてきたと言えるだろう。先人の先見の明に感謝をし、つなげていかなければならない。
歴史に残るということである」と語つたと書いてゐる。さうした觀點から(微妙にぶれがあるが)文章を綴つてゐるが、歴史的に繼續して殘つて行くならばどのやうな國語の表記が必要となるか、と云ふ事は考へず、個人の努力によつて優れた作品を作る事が必要であると云ふ信念を述べるだけで、話を終へてゐる。
假に今日發音的に新しく或る假名を定められたと考へませう。さうしたならば此の新しい假名遣が又間もなく歴史的になつてしまふのであります。
「森鴎外は歴史的假名遣を擁護したのではない」といふやうなことを述べてゐた。と書いてゐるが、實際に讀んでみるとさうではなかつた。青木氏は鴎外の主張を先づ要約して、
……仮名遣いを性急に表音化しようとする文部省の意向に対し、明治四一年の臨時仮名遣調査委員会の席に「一人軍服を着して』登場した森鴎外はあたかも非近代的に歴史的仮名遣いの価値を擁護し、表音主義的改革が行なわれるにしてもそれは緩やかになされるべきだと主張した。と述べる。
鴎外の論調は、生きた口語の急速な変遷に対比される書き言葉の「保守性」の擁護にあるように見える。しかしその奥には、語り言葉と書き言葉の本質的な差異、文字の誕生による言語の質的な変容といった事態への行き届いた理解が窺われる。
……思想を表記すべきその文語を、表音文字の媒介による語り言葉と書き言葉との透明な一致を理念とみなす表音主義者の性急な改革の手に委ねることは、鴎外にとって、文字化された思想の歴史的客観性に矛盾するように見えたのである。と書いてゐる。
鴎外が意見書で真に守ろうとしたのは、歴史的仮名遣いではなく思想である。と氏は結論してゐるが、要は、鴎外は客觀的な「書かれたもの=思想」を主觀的な「口で言はれる事=思ひ附き」と區別したかつたがゆゑに、書き言葉を話し言葉と「一致させる」と云ふ發想に反對したと言つてゐるのだ。鴎外は、表記のシステムと云ふものを、システムとして守る爲に守らうとしたのではないと。文章で表現される事によつて初めて客觀的な思想が成立する以上、文章が話し言葉と化すならば思想と云ふものが成立する事がなくなると鴎外は考へた、と青木氏は解釋する訣である。
ところがその論説を読んでみると、正直、論拠がずいぶん適当っていうか……、「外国語に不案内な私」だが、「世界中で一番いい言語」はフランス語ではないかと思うって、あのう、先生、思い込みでものを言われては困ります。と、批判的だ。
こちらは正字正かなをタブー視といふか、完全に「もう終つた物」扱ひしてゐた。とiwaman氏は感想を書いてゐるが、この特集の関係者は正字正かなをタブー視してゐる訣ではないよ――ただ「知らない」だけだ。
教化するのは最早困難だと指摘する一方で、大衆の側が口語・俗語を使つてもそれが「国語」を驅逐する程の力は持ち得ないと指摘する。その上で氏は述べる。
極端な例を挙げれば、ネットでは近代の規範的な〈国語〉が全く書かれていないわけではないし、また水村が「表音式かなづかい」の登場によって失われたことを嘆く「伝統的かなづかい」を使って文章を書く人々すら、一定の層として存在している。しかし、彼らの選択は彼ら自身を満足させるものにしかならず、ネット全体の傾向としてそのような表記を行おうというような風潮は決して起こらない。また同様に、携帯電話で若い女子が使っている「ギャル文字」やケータイ小説の文体、あるいはまた掲示板などで符丁のように使われるネットスラングなどが、全てのネットユーザーにとって標準の言葉として選ばれるわけではない。各人が見たいものを自由に選び、書きたいことを自由に書けてしまうネットでは、全ての言葉が個別に成り立ち、発展していくことをシステム的に許してしまう。……。
……もろもろのオピニオン誌の凋落は、「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いているんだから、あんなもん読む気がしない」といういささか性急ではあるがその現実性を否定しがたい社会的な力学と無縁でない。そんな状況下で、人がなお他人のブログをあれこれ読んだりするのは、それが「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いている」という安心感を無責任に享受しうる数少ない媒体だからにほかならず、「羞恥心」のお馬鹿さんトリオのときならぬ隆盛とオピニオン誌の凋落とはまったく矛盾しない現象なのだ。……。
わたくしは、批評家として、この種の時限装置の装填だけは周到に避けてきた人間である。実際、「あんなもん読む気がしない」という言葉だけは一度も口にしたことがないし、かりに諧謔としてにせよ、「「競争相手は馬鹿ばかり」の世界へようこそ」などと書いたこともいっさいない。と述べ、マクシム・デュ・カンが
ヴィクトル・ユゴーのような「文豪」にくらべてみれば明かに才能を欠き、知性も劣り、言動も稚拙で、自分が多少の世話をやいてやったところで、とても大成しそうにない小物だと看做してゐた對象がボードレールやフローベールといつた人逹であつたのを知つてゐるからだと説明してゐる。
日本臣民タルノ要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ルとか
日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有スとか云ふ條文。法律に據りさへすれば何をやつても良いと考へるか、或は權利を守る爲に法律を濫用するのを避けねばならないと考へるか。
入門・川村湊、論考。インタビュー・エッセイ・高橋英夫、勝又浩、渡邉一民、日野啓三、池澤夏樹他。
帝国に抗する力を表現した作家)。そんなに政治を論じたければ政治家にでもなればいいんだよ。日本の文學者は未だに政治コンプレックスであるらしい。そしてさう云ふライターを求める「文学ファン」もまた。正直言つて買はなくていい。
本当に人の心がどういうものなのか、わかってます?と言つてゐるけれども、解らないんだよ――特に自分の心。
[本人備忘]こんなのも読んだ。と云ふ事でリンクが張られてゐる。俺にしてみればこれで最う議論の結論は出てゐるだらうと思ふのだが、世間では意地でも議論を續けたいと云ふ人が多いやうだ。幾らでも話を續けられるからこそ「讀み易さ」と云ふテーマは「ブログ」で採上げるには便利であるらしい。しかし、そんなの無意味だよ。
しまった。「落札後何時間(何日)以内に連絡がない場合は購入の意志無しと見なす」旨の記述を見落としていて、マイナス評価が付いてしまった。
出品者の人にも「詫びとかはいらないから、もう二度とオークションに参加するな」ときついお叱りを受けた。
それにしても不思議なのは、野嵜健秀および「野嵜喜び組」達は「明治憲法から現行憲法への改憲は正当な手続きを踏んでないから無効だ!」と盛んに連呼してたくせに、明治憲法の改正になると「貴族院を復活させる必要はなくて、參議院が代行すればいい。」だなどと今まで拘ってた正当性はどこへやら、たちまち便宜主義者に大変身。
へんじがない、ただのしかばねのようだ。と言つてゐるけれども、返事が聞えない人には困つたものだ。
野嵜憲法論叩きは、これでお終い。と書いてゐる。喜六郎は、俺に反論出來ない事を知つてゐるから、豫め「へんじをしない」と書いてゐる訣だ。これは即ち、喜六郎が敗北を認めた事を意味する。
ブログの方のヤミグロ日記に登場した「112」氏は、「明治憲法を契約と言うならば、誰と誰との間に結ばれた契約なのか教えて欲しい」と野嵜健秀に対して言ってるにすぎない。
だから野嵜健秀がするべきことは、明治憲法が誰と誰との間に交わされた契約なのかを具体的に説明することである。
それが出来ないんだったら、自説を撤回しなさい。
大日本帝國憲法の出自は果たして何うだつたのか――ナンセンスな質問だ。なぜなら、憲法は作られ、國家が「それを守る」と約束したがゆゑに、契約が成立したのだから。契約書が何處から涌いて出たかは關係ない。一度「約束を守ります」と言つたら、國家は約束を守らなければならない、それだけの事だ。人が「約束」をして、それを破つたら、「××詐欺だ」と騷ぐ人がゐる。まとめサイトを作つて騷ぐくらゐ大袈裟に騷ぐ。その同じ人が、國家に關しては「約束を破つた」と言はないのだ。不思議な話である。
野嵜憲法論叩きは、これでお終い。と言つて、逃げの態勢に入つてゐる。喜六郎が敗北してゐる事實は明かだ。
色々と書きたいことを書くにしても、「良い事」を一つでも言へるか何うか。
それにしても不思議なのは、野嵜健秀および「野嵜喜び組」達は――と云ふ喜六郎の言葉。俺に「喜び組」が「ゐる」と喜六郎は言ふのだが、何なのだらうと思ふ。喜六郎は俺の事を一番よく知つてゐる人物だと思つてゐたのだが。俺には「喜び組」なんてゐない。俺を取卷いて世間の攻撃から遠ざけてゐる、そんな「喜び組」は存在しない。俺が叩かれた事がないなんて喜六郎は思つてもゐないだらう。俺に「喜び組」なんて存在しないのだつて喜六郎は知つてゐる筈だ。何をとぼけてゐるのだらう。
- 投稿者:q 2009/1/26 23:08
- あっちの反応を見る限り、「攻撃」よりも「無視」のほうのダメージが大きい気がします。やっぱり無視して暴れさせておくのが最良の手かと。
- 投稿者:名無し 2009/1/27 0:08
- あんな出来損ないはもう相手にするなよ喜六郎さん。もう十年福田や松原を持ち上げつつ自己PRに努めてきたけど、あの有り様。どこぞの高校教員と五十歩百歩。いつかジャーナリズムからお声がかかるのを待っているのだろうが、無理無理。才能ないんだから。
2ちゃんの煽りで真っ赤になって怒るなんて逆に恥ずかしいな
下劣で陰湿な文章添削と言ひたいが爲に、喜六郎もこんな古い時事ネタを持出したのだらう。最う漢字テストの話なんて誰も覺えてゐないよ。俺を攻撃する爲に麻生總理が利用された、だなんて、名譽な話のやうなさうでもないやうな。取敢ず、斯う云ふ記事の作り方は、喜六郎は下手だと思ふ。
ということは、彼にとって鯨のことはまったく眼中になかったようだ。ずいぶんと莫迦にされたものである。
「私たちは反省を介して目覚める。すなわち、私たち自身へと還帰することを強制されて覚醒するのである。だが、抵抗を欠いてはいかなる還帰もなく、客体なくして反省は考えられない」。人間がじぶん自身に立ちもどるのは、とはいえたいていは「客体」からではなく、主体から、つまりみずからとひとしい者たちからだ。人間がとりわけて立ちむかう「世界」は、人間に応接する共同世界であるからである。……。
ディルタイが「作用連関」としての「正の連関」を、また「人間世界」としての「世界」を語るとき、かれがもともとまなざしていたのは、この共同相互存在の世界である。
……。僕は自分の雑記執筆スタイルにもそろそろ飽きてきている。毎回毎回「index.htmlを開いてDLを目で追ってDTに日付を挿入してDDを打ち込んで初めて雑記を書き始める」というその手間が、もう許せなくなっている。そして書き上げた後で文末のupdatedを書き換えて、それから月別一覧ページにコピペして、FTPでサーバーに上げる…なんて作業が残っているから、少し文章に詰まるだけで書き上げようという気力まで失ったりしてきた。ツールに思考が制限されるのが嫌だといって自動管理システム作る・使うのを避けていたけど、ちょっと考え方を変える必要があるかもしれない。
ただし修正は楽でも、更新に手間がかかる今のやり方だと、新しい記事をアウトプットするのが面倒。原稿書いてマークアップして、まではいいんだけどその後の作業のせいで、ああもうお蔵入りでいいや、とかすぐ思ってしまう。あれはほんと、嫌な気分だけが残る。
1/24/2009 (Sat.)/[ノーム・チョムスキー] 言葉と物 LCXXII - 言語と思考
言葉に意味が生ずるのはそれを読んだ人間の心においてである。フーコーが人間が消滅しようとしていると書いたのは、いわば人間同士の適切なコミュニケーションが成立しにくくなったことを言いたかったのかもしれない。そのような危機感はフッサールの「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」のような言説に端を発しているようにも思える。この本もルネサンスからガリレイ、デカルト、ロック、バークリー、ヒューム、カントを廻っている。
フーコーが人間が消滅しようとしていると書いたのは正しい。
アプリケーションの間で容易にデータのやりとりが出來ないと云ふ俺の發言を、「クリップボード」と云ふ文脈を無視して、わざと「unixのツール」の話にずらし、unix禮讚に結び附けてゐる。
情報をプログラムから切り取るかまたはコピーすると、その情報はクリップボードに移動します。クリップボードの内容を消去するか、あるいは別の情報を切り取るかコピーするまでは、情報はそのまま残っています。
データのやりとりの事を言つてゐる俺にTheoria氏はなぜ
パイプは? ソケットは?と言出したのだらう。明かに俺の發言の意圖を無視して、unixの優位をひたすら主張するだけの爲に、話をねぢ曲げたに違ひない。
確かに Slackware のようなディストロにはパッケーマネージャなどありませんが、それを使う人々は今では少数派です。 Windows95 を使う人々が少数派であるように。
別にアプリケーションユーザーだろうがなんだろうが、ソースぐらい読めて普通でしょ。そうでない人が手を出すから、おかしな話になる。
私も Windows のことはよく知りませんし、いまどきの Windows は便利だそうですから、それなりのプログラマでもそれなりに使えるでしょう。でも、いざとなるともう訳がわからなくなるのが Windows 。少なくともプログラマにとって困る事態が起きると、もうお手上げ、ということになりがちです。まあ、たかがそんな理由で仕事を放棄していいなら、 Windows 大歓迎ですけど、そういうわけにはいきませんし。
- wiseler 2009/01/21 02:47
- Vistaの重たさには色々原因が……。1. マイクロカーネルであるVistaはモノリシックカーネルであるLinux/Unixより遅い傾向にあります。2. Hardware Acceleratorを搭載していないPCにもかかわらずVista適合済みを宣伝する企業の存在。3. Vista自体のデバック不足から来る未完成さ。いちどマイナスイメージが付いてしまえば、それを覆すのは難しいということです。
パイプは? ソケットは?
プログラムにデータを突込んで加工して吐出させる、と云つた作業をやらせる爲の仕組だろ。クリップボードではない。と言ふか、
てか、もし輸入してなかったら、 Windows からは未だにインターネットが利用できないはず。つて何だ。全然別の話ぢやん。クリップボード經由でWindowsはインターネットを利用してゐるとでも言ひたいのか? そんな訣なからう。悔し紛れに何の關係もない別の話を持出して「何うだ!」と威張つて見せてゐるに過ぎない。
セレクションは、ペーストするアプリがX サーバを介してコピーしたアプリに問い合わせを行い、データを要求したフォーマットに変換してもらってから受け取る。
今やカットバッファは完全に時代遅れとのこと。
完全に時代遅れつて言はれてゐる。
よくいわれることだが、どこかに不具合が発生しても MS が修正を行うまで放置せざるをえない。
そして Windows の面白いところは、まともなパッケージマネージャがないということだ。
こんなの分るかッっての。
新しいソフトウェアが欲しいと思ったら、ウェブブラウザを開いて、検索して、手動でダウンロードして、手動で展開して、手動で適切な場所に配置する。当然管理も手動。
思うと書いてゐる。よく見るとそれ以外のところで結構ひらがながある。
いくらなんでも、IE系(トライデント)や、その他多くのレンダリングレンジンを無視するのは酷い実装じゃないだろうか。と評してゐる。しかし、肝腎のテキストは、右端まで表示されてゐて、讀めるのだ。agendaで、最低限のリーダビリティは常に確保されてゐる――ならば、問題は何もない。俺はさう思ふ。
- なんだか変 2009/01/19 14:46
- そこまでしてサムネイル欲しいかなぁ
- nyama 2009/01/19 15:42
- ……。
- もちろん、従来のテキストの一覧のほうがいいという意見があるのも知っていますので、最終的にはテキストによる表示とサムネイルによる表示をユーザの好みで設定できるといいかなと。
俺もサイト始めてはや数年。敵を作るのが商売みたいなサイトだし(最近も CSS コミューンを敵にまわした)、 2ch で隔離スレが立ったことも、はてブで叩かれてホッテント入りしたことも、炎上したこともある。だからどうしたのか、という感じだ。だいたいからして、アフェリエイトの一つさえないのだから、アクセス数が幾ら増えたところで一文も儲からない。最近では計測すらしていない。
最初はほんのすこしだけ書いてすぐに上げるつもりだったのが、だんだん長文になってきたのでそろそろ「下書き保存」して置かうと思った矢先の出來事。何故かクリップボードの中身も一緒に消えるといふ謎現象。XだかGnomeだかのクリップボードはアプリケーションの側と同期でもしてゐるのか? アプリケーションを終了させると、そのアプリからコピーした内容が消える(「消える」といふか「ペースト」できなくなる)。よくわからない。
- 支持するの意味でのはてブ数が一定のところで止まってしまうのはどうしたものか。
しかし、このレイアウトはIEに対応していないという欠点を持つ。と書いてゐる。けれども、でもそれでagendaのマルチカラムデザインはただマルチカラムにならないだけで「讀めなくなる」訣ではない。だからこそ「讀み難い」式の非難を「する」訣だけれども――何うもこの「見にくい」「讀み難い」式の非難は、非難としてそもそも成立たないのでないか。人は「見にくい」「讀み難い」と云ふ主觀的な判斷を、何んな場合にも「する」事が出來る。それが程度問題であるのなら、議論をしても精々「どこからどこまで」と云ふ範圍を絞つての議論が出來る程度で、ありとあらゆる環境・状況で通用する眞理の話なんてものは絶對に出來ない筈だ。それが結構多くの人には解つてゐないらしい。
このブログ記事によれば、リキッドデザイン主張者が「余白がもったいない」とも述べているようだが、そもそも、紙のデザインでも、余白を上手に生かせずにとにかく紙面を埋め尽くそうとするのは、初心者デザイナーのよくやる「センスのない誤り」なのだ。余白を埋めればいいというものではない。
国政に関する権能を有しない、よつて政治的には絶對に利用される筈がないし、利用されるべき政治的價値と云ふものもあり得ない、だから、現行憲法を「有效である」と認める限り、天皇の政治的な危險性が議論される筈がないし、指摘されるべき理由がない。ところが今に至るまで天皇の政治的利用の可能性は執拗に指摘され、批判されてゐる。これは事實上、現在も大日本帝國憲法における天皇の地位が「承認」されてゐる事を意味する。ならば大日本帝國憲法は現在も有效である。
ルイズタンハァハァつて何時の日本語だ。
jintrick スルー 「義」だのなんだのというのは「荒し」なのか? 個人に粘着して嫌がらせをして喜ぶ行為と、場を荒らして喜ぶ行為は、別々のレイヤーで考えなければならない筈だから、安易に「荒し」というラベルを用いるのはどうかと 2009/01/04
★ノズラーの性質★ 「正字正仮名」がいかに正統な仮名遣いであるかをネット上の掲示板などで布教する が、語り口が傲慢なので皮肉にもかえって「正字正仮名」に嫌悪感を示す人を増やす という事態に陥っている。 また、「正字正仮名」こそが現代の日本に残された数少ない(唯一?)伝統であり、こ れを守ることこそが真の保守であると盲信しているので、保守を名乗りながら「正字正 仮名」を使わない西部邁や西尾幹二やその信奉者を罵倒することを生き甲斐にしてい る。 Commented by 木村某 at 2009/01/11 (Sun) 16:47:08
ここでは「問い合わせが幾つか」と穏やかに書きましたが、Opera の BTS にも複数の登録がされていたりします。
大御所の意見も云々。
大御所なんかぢやないよ、勘辨。
この法則、広告だけでなくホームページのレイアウトにもあてはまるんです。