制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
野嵜健秀とは誰か
特記事項:野嵜に粘着するネットストーカーについて
テーマ・主に扱ふ事柄・ネタ
日本人論、政治主義批判、國語國字改革批判、虹裏(img)、深夜アニメ、古本、謎キャラクターによるコント、蟲。及びその他の事。

闇黒日記


平成二十一年一月三十一日
Open Mail Environment(OME) - トップ
電八みたいに1メール=1テキストファイルに保存するメーラ。思想的には全然違ふつぽいけど。
Mac OS XではOperaのメーラを使つてゐるからこれは使はないと思ふけれども興味を持つ人はゐると思ふ。
平成二十一年一月三十一日
ウェブの話をする時、今でも案外紙の本のメタファを持出して語る人が多いのだけれども、何なのだらうと何時も思ふ。本の背表紙を並べてクリックすると引張り出されて讀めるやうになるとか。それつて判り難くない? 判り易いとデザイナの人が主張してゐたのだけれども……。
ナビゲーションとは何か、そしてそれは「分離」すべきなのか (agenda)
ウェブサイトのナヴィゲーションと云ふ奴も、「順番に讀んで貰ふ」「制作者の意圖した順番に讀んで貰ふ」と云ふ發想に基くのならば、案外アナログな、書籍か雜誌を讀ませるやり方を應用した發想である、と言へないだらうか。
GoogleやYahoo!、或はMSNで檢索をかけて、出てきたぺーじを適當に眺める。さう云ふ讀み方を案外する人は多いのでないか。
一方で、現在も「ウェブブラウザのブックマークに登録されたサイトを、上から順番にチェックして行く」と云ふ閲覽の仕方は、結構よくされてゐるみたいだ。俺のやうに「ブックマークなんかしない」と云ふユーザは、珍しいどころか馬鹿呼ばはりすらされるんだから、世間ではブックマークするのが常識らしい。
はてな等のユーザなら、はてなブックマーク――ではなくて、はてなアンテナをブラウザのブックマークのやうに利用してゐる人は多いのでないか。この邊、ネーミングと使用實體とに懸隔があるやうに思はれる。
ナヴィゲーションと違ふ話になつてゐるやうだけれども、「どこから見るか」「どうやつて見て行くか」と云ふ「ウェブを閲覽する技術」の一般論として論ずるならば、もう少し話が廣がつても全然問題ないだらう。「ウェブサイト」と言つて「ひとつのかたまり」と看做してゐる一群の文書の間で、文書の聯關を附ける「技術」(?)が「ナヴィゲーション」であり、それらウェブサイトの間の聯關を附ける「技術」として――實はそこで、檢索とか言つた方法があり得るに過ぎない、と云ふ事實が、WWWをややこしくして、SEOだの何だのと妙な理論を生み出させてゐる原因となつてゐる。トラックバックだつて、さうした觀點から論じられるしかないだらう。「ウェブサイト」同士の結合・聯關を、「ウェブサイトの制作者」はコントロールできない――ただ「ウェブサイト」内部の結合・聯關を「ナヴィゲーション」として提供出來る。けれども、どつちにしても制作者は閲覽者をコントロールするのは、殆ど不可能だと云ふ事は、覺えておいていい。

平成二十一年一月三十日
国語の問題 | 水無月ばけらのえび日記
俺なんかは國語の讀解問題の解き方を高校の時、大學受驗對策で叩き込まれたものだけれども、實際、道徳だの價値觀だのを問はれてゐるのではないんだよな。「それ」とか「この」とか言つた指示代名詞なんかをチェックして行くと必ず具體的に作者が言つてゐるところにぶち當る。それを指摘するのが讀解の問題の正解の出し方。これは訓練すれば誰でも大體出來るやうになる。問題は、さうした訓練を生徒にやらせられる教師が案外ゐない事。先生が結構「カン」に頼つてゐたりする。豫備校が大學入試の過去問題をまとめて本にしてゐるけれども、あれの解答例も結構ひどかつたりする。豫備校の先生ですら、正答を引出す手順を身につけられてゐない事があるんだ。
大學入試の國語の問題では、文章を論理的に正確に讀み取る能力の有無を問はれる――そんなのは常識だと思つてゐたし、世間の人はさうした訓練を經てゐる筈だと思つてゐたのだけれども、案外さうでもないんだよな。何うしても道徳だの價値觀だのを文章から讀取つてやらうとする人が、世の中には滅多矢鱈と多いんだよ。さう云ふ人相手には何を言つても話にならない。これが一番困る事。その手の人に限つて道徳だの價値觀だので變に頭が凝り固まつてゐるから、理窟が通じないし、勝手な理窟を言ふし、それでいいと思つてゐるし――しかも、さう云ふ人は、理窟で責められると相手を恨む、と云ふ惡癖を持つてゐる。
平成二十一年一月三十日
XHTML Media Typesの第二版が公開 | Web標準Blog | ミツエーリンクス

これを憂慮してか、第二版では「XMLの機能や拡張機能が必要ない場合は、HTML 4.01の採用も検討すること」という文が新たに設けられました。HTML 4.01であれば整形式のエラーも程度はあるものの許容されますし、語彙については内容的にXHTML 1.0と変わりありません。

あくまで感覚的なものですが、「Web標準ならばXHTML+CSS」といった流れがあるように感じています。しかし、HTML4もWeb標準であることには変わりません。

平成二十一年一月三十日
http://junkieta.net/fragment/2009-01.html#DAY29-2
闇黒日記の日別閲覧スクリプト
平成二十一年一月三十日
定額給付金遲えよバカ。
一誠堂のセール明日までだよ。間に合はねえよ。
一誠堂書店
大英図書館と取引があるさうな。R.O.Dではなぜやられたんだらう。

平成二十一年一月二十九日
小説をより良く讀む爲には、小説を書いた經驗を持つてゐた方が良い。小説を書く時のやり方、考へ方を知つてゐる事――その上で、なかなか巧く書けない事を、經驗しておく事は、巧い小説が如何にして巧く書かれたかを想像するのに役に立つし、或は巧い小説を書いた作家の書き方の巧さ、そして書く苦勞を評價するのに役に立つ。
――文藝批評をやるには、下手であつても創作を試みておく必要がある、とは、松原先生の御言葉だ。
平成二十一年一月二十九日
「美しい日本語」特輯を讀んで - 科學の剃髮

假に今日發音的に新しく或る假名を定められたと考へませう。さうしたならば此の新しい假名遣が又間もなく歴史的になつてしまふのであります。

といふ箇所を引用して、「森鴎外は歴史的假名遣を擁護したのではない」といふやうなことを述べてゐた。

發音を表音的に記述しようとしても、記述を行つた瞬間から表記は發音から離れ始める、だから「表記は發音を寫すべきものである」と云ふ主張は成立たない――さう云ふ常識的な話を鴎外はしてゐる。これは何う考へても鴎外が歴史的假名遣を擁護した發言なのだが、これを「擁護したのではない」と解釋する人が「ゐる」らしい。何うして正しい解釋をしないで正反對の解釋を出來てしまふのか全く理解出來ないが、日本人はさう云ふ全く正反對の解釋を平然と出來る國民らしい。何なのだらうと以前は不思議だつたが、解釋次第で既成事實を正當化出來れば、それが正しい事なのである、と日本人は心から信じてゐる、と云ふ事が最近良く解つて來た。日本人は論理的・理論的な話をする爲に必要な價値觀を有してゐない。
大體ユリイカなんて最う古いよ。なんでみんなこんな物を買つてゐるんだらう。70年代かそこらの遺物みたいな雜誌。
平成二十一年一月二十九日
ANIMAXでザブングル最終囘。詰らないので何時も觀てゐなかつたが、たまたまチャンネルを合せたらやつてゐたので、最終囘だけ觀た。本當に詰らない最終囘だつた。なぜ詰らないかと言へば、何かの思想や主義――正義の爲に戰ふのを描いてゐないで、欲得づくとか物質的利益とか、或は精神的な利益=誇りとか云ふものの爲に戰ふキャラクタ許りを描いてゐるから。即ち、日本人的な餘りに日本人的な詰らない「正義」の爲に戰つてゐる人許りを描いてゐるから。富野の殆どのアニメには思想がない。富野は「それでいい」と思つてゐるらしいが、詰らないよ。
ガンダムシリーズでも、ジオニズムと云ふはつたりをかましてきた1stだけは觀るに堪へ得る。Z以降は、個人が自分の信念と云ふものだけで動いてゐるから、思想性皆無であり、非常に詰らない。00もまた。「平和の爲に戰ふ」なんてのは、如何にも日本人が考へつきさうな事だ。そんなの正義でも思想でもないよ。
平成二十一年一月二十九日
俺は現代思想と云ふものを嫌つてゐるけれども、何故嫌つてゐるかと言ふとそれは現代思想が近代思想でしかないから。殊に日本のアカデミズムと云ふ奴は、ただ御堅いと云ふだけでしかない代物で、好き者が暇潰しに讀む爲のものだ。構造主義もポスト構造主義も(適當に用語は拾ひ上げたに過ぎない)、結局のところ既成の近代的な理論を發展させたもので、近代の枠の中に收まる。官僚が先代の擔當者のやつた仕事を引繼いでやつてゐるやうなもので、ダイナミックさに乏しい。
現代思想と云ふものにはさうした生氣のなさが目立つ理論・主義が多い。生き生きとした生の喪失は、近代特有の事象で、それに對する抵抗運動が反近代の思想として出現し、ニーチェやキルケゴール、はたまたマルクスもそれに屬するが、さうした思想を引繼ぎ、發展させた、と云ふ點で――理論を發展させた、と云ふ點で、現代思想は全て反近代と云ふ意志を失つた、死んだ思想だと言ふ事が出來る。
日本の純文學も、さうした死んだ文學であり、現代文學である。諸君! や正論、或はWiLL、世界、その他のオピニオン雜誌に掲載されるほぼ全ての論文もまた、死んだ批評であり、ただ理論を主張してゐるに過ぎない。
ニーチェの思想と言ふものを例にとつて見れば、大いなる午後にしても超人思想にしても、ただの理論に過ぎない――が、さうした理論を主張し、世界を支配してゐたキリスト教的な價値觀を破壊する事が、ニーチェの狙ひであつた事を理解するならば、理論は外觀に過ぎず、さうした理論を展開したニーチェの精神のダイナミズムが見えて來る。ニーチェは、死につゝあるヨーロッパ文明を救ひ、新たなる生命をヨーロッパ人に與へんとしたのであつた。神への死の宣告と、人を超えた鳥人の出現の豫告は、ロレンスがフェニックスで象徴的に示したやうな、死と死からの再生を意味する。が、超人と云ふ發想に至つた事がニーチェの失敗であつたのは言ふまでもなく、人は人を超えられたものではない――人は外部の據り所を必要とする、と云ふ眞理をニーチェは見落してゐた。それゆゑにニーチェは發狂に至つた。このニーチェの理論をより現實的な政治理論に整へ、より明瞭な形で失敗したのがマルクスで、神を排除し、人が自立する事を主張したマルクスは、結局のところ「より現實的なニーチェ」であつたと言へる。このマルクスの失敗は、矢張り人間が一人で立てると勘違ひした事にあるのだが、それを指摘したのがドストエフスキーであり、ドストエフスキーはそれゆゑ「人間解放」を是とする現代の發想にはつきり背を向け、キリスト教への信仰を改めて採上げた。これを指摘したのがベルジャーエフだつた。ドストエフスキーとニーチェの關係は氷上英廣が指摘してをり、何れも反近代の思想の系譜に連なる思想家であると言つて良いが、動機の面で一致するにしても、兩者の思想的な發達の仕方はまるで逆であつた。斯うした思想的對立を含みつゝ、全體として一貫した理論を示し得ない――さうした、所謂思想的とは言ひ難い、言つてみれば極めて文學的な表現として、反近代の思想と云ふものはあり得るが、この「反」=アンチと云ふ表現が示す通り、この「思想」の命名は一面的な見方に基くものでしかない。彼等の志向した事が、單純な反撥のみであつた訣でない事は言ふまでもなく、何とかして現代の死んだ文明を超克せんとした試みであつた事は明かで、だからこそ福田恆存は改めて命名して超近代の思想と呼んだ。これもまた思想的には一貫性のかけらもないものだが、全體として一つの方向性だけは持つてゐる。繰返し言ふが、それは生き生きとした生の復活の主張であり、文明の死・人類の精神的死を乘越えんとする意志の表明である。ダイナミックな精神の唱道を超近代の思想は全て特徴的に行ふのであり、人間精神の再生への意志が、浪漫主義の形態をとるにしても、或は古典主義の形態をとるにしても、精神の根柢に一貫して存在してゐる。單純な理論の構築を現代思想が行なつてゐるとすれば、それは結局精神的死への服從に過ぎず、現代の風潮への埋沒に結果せざるを得ない。人間の機械化を志向する現代思想(記號論に依據する思想の何と多い事か)に對して、超近代の思想は抵抗する。
平成二十一年一月二十九日
明治維新は王政復古であつたと言はれるが、武家政權の時代であつても一貫して政治を行ふ幕府の上には日本を統治する天皇の存在があると信じられて來た。これは國體の意識であり、即ち不文の憲法であつたと言へる。近代になつて、開國した日本に於ては、國體を明瞭に示す事が必要であり、不文の憲法として存在してゐた觀念が大日本帝國憲法として明文化された。大日本帝國憲法は欽定憲法であり、天皇の神聖とは既存の國體觀を近代的に表現したものである。
――と云ふ説明は、神道の學者が既に行なつてゐるところのものである。俺の獨斷で言つてゐるものではない。
平成二十一年一月二十九日
ユリイカ二千九年二月號、特集日本語は亡びるのか? を買つて來た。詩人の和合亮一氏が書いてゐる。

日本語における漢字の撤廃は明治時代から唱えられていた。全てを平仮名に、という考え方は、正確にはなんと昭和四〇年まで続いたらしい。国語審議委員会で「国語は、漢字かな交じり文を以て、その表記の正則とする」という提案をしてそれに終止符を打ったのが、癌研究に多大な功績を残した医師の吉田富三博士(一九〇三−一九七三)であった。漢字が消滅すれば、日本語本来の創造性も消えてしまうと語った。

特に吉田は同音異義語の重要性を説いたそうである。同じ音を漢字で区分けして考えているのが私たち日本人の感性であり、その言語感覚を奪ってしまうことになる、と。例えばこれが存在するからこそ、掛詞や縁語の文化は成熟してきたといえる。これを事例として漢字かな交じり文を奪うということは、日本人から様々な想像力を奪うということに他ならないと、吉田は提言(「吉田提案」と呼ばれている)した。

漢字とひらがなとカタカナの三者の混合の網。例えば一文に意味の分からないものが存在していたとしても、あれこれと通じさせようと無意識に頭を働かせてしまう。あるいはまた私たちはこれらの特性を生かして、新しい言葉を作り出してしまうことも得意である。私が語るまでもなく、新語・流行語の類を引き合いに出せば明らかだろう。これらのことは三つ巴による想像の賜物であるだろう。例えば吉増剛造や鈴木志郎康らの詩人たちを代表とする六〇年代の現代詩の数々は時にこれらに拠りながら、よりラジカルにユニークに生産されていった。今もなお後代の私たちの詩も、これら自律性の恩恵を受け続けている。私という現代詩人は、日本語の内部の精神活動に育てられてきたと言えるだろう。先人の先見の明に感謝をし、つなげていかなければならない。

和合氏は、井上光晴が「藝術とは、歴史に残るということである」と語つたと書いてゐる。さうした觀點から(微妙にぶれがあるが)文章を綴つてゐるが、歴史的に繼續して殘つて行くならばどのやうな國語の表記が必要となるか、と云ふ事は考へず、個人の努力によつて優れた作品を作る事が必要であると云ふ信念を述べるだけで、話を終へてゐる。
青木純一・倉数茂の兩氏による「日本語論必読ブックガイド」では、露伴「五重塔」、漱石『文學論ノート』、鴎外「假名遣意見」、折口信夫「言語情調論」、時枝誠記『國語學原論』、志賀直哉「國語問題」、三浦つとむ『日本語はどういう言語か」、吉本隆明『言語にとって美とはなにか』、辻幸夫ほか『ことばの認知科学事典』、北原保雄監修『みんなで国語辞典』、北原保雄編著『KY式日本語』、水村美苗『日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で』、が採上げられてゐる。これらは全て「思想」或は「哲学」の觀點から論じられてゐて、さうした見方から全ての文章が解釋されてゐる。

假に今日發音的に新しく或る假名を定められたと考へませう。さうしたならば此の新しい假名遣が又間もなく歴史的になつてしまふのであります。

iwamanさんは、青木氏が此處で「森鴎外は歴史的假名遣を擁護したのではない」といふやうなことを述べてゐた。と書いてゐるが、實際に讀んでみるとさうではなかつた。青木氏は鴎外の主張を先づ要約して、……仮名遣いを性急に表音化しようとする文部省の意向に対し、明治四一年の臨時仮名遣調査委員会の席に「一人軍服を着して』登場した森鴎外はあたかも非近代的に歴史的仮名遣いの価値を擁護し、表音主義的改革が行なわれるにしてもそれは緩やかになされるべきだと主張した。と述べる。

鴎外の論調は、生きた口語の急速な変遷に対比される書き言葉の「保守性」の擁護にあるように見える。しかしその奥には、語り言葉と書き言葉の本質的な差異、文字の誕生による言語の質的な変容といった事態への行き届いた理解が窺われる。

青木氏は、口語が人間の意識が表に現われたものである事は事實だが、それが「思想」として成立するのは文語に於てである・文學の作品として結實した時である、と論理を述べ、……思想を表記すべきその文語を、表音文字の媒介による語り言葉と書き言葉との透明な一致を理念とみなす表音主義者の性急な改革の手に委ねることは、鴎外にとって、文字化された思想の歴史的客観性に矛盾するように見えたのである。と書いてゐる。鴎外が意見書で真に守ろうとしたのは、歴史的仮名遣いではなく思想である。と氏は結論してゐるが、要は、鴎外は客觀的な「書かれたもの=思想」を主觀的な「口で言はれる事=思ひ附き」と區別したかつたがゆゑに、書き言葉を話し言葉と「一致させる」と云ふ發想に反對したと言つてゐるのだ。鴎外は、表記のシステムと云ふものを、システムとして守る爲に守らうとしたのではないと。文章で表現される事によつて初めて客觀的な思想が成立する以上、文章が話し言葉と化すならば思想と云ふものが成立する事がなくなると鴎外は考へた、と青木氏は解釋する訣である。
倉数氏は志賀「国語問題」の感想を言つて、ところがその論説を読んでみると、正直、論拠がずいぶん適当っていうか……、「外国語に不案内な私」だが、「世界中で一番いい言語」はフランス語ではないかと思うって、あのう、先生、思い込みでものを言われては困ります。と、批判的だ。
iwaman氏は、百合以下(誤變換だが吹いたのでママイキ)の特集に批判的だが、實際にはそんなに非道いものでもないと思つた。讀んで有益なところはさつぱりないと思ふけれども、まあ、世間での國語に對する考へ方はこんなものだらうし、非常に「常識的」な事しか書かれてゐないと思ふ(勿論、「常識」と言つても、ただ「みんなしってる」と云ふ程度の事だ)。こちらは正字正かなをタブー視といふか、完全に「もう終つた物」扱ひしてゐた。とiwaman氏は感想を書いてゐるが、この特集の関係者は正字正かなをタブー視してゐる訣ではないよ――ただ「知らない」だけだ。
平成二十一年一月二十九日
何かの編集者だと云ふさやわか氏が同誌の特集に書いてゐる。さやわか氏は、マスメディアの發信する「国語」が大衆を教化するのは最早困難だと指摘する一方で、大衆の側が口語・俗語を使つてもそれが「国語」を驅逐する程の力は持ち得ないと指摘する。その上で氏は述べる。

極端な例を挙げれば、ネットでは近代の規範的な〈国語〉が全く書かれていないわけではないし、また水村が「表音式かなづかい」の登場によって失われたことを嘆く「伝統的かなづかい」を使って文章を書く人々すら、一定の層として存在している。しかし、彼らの選択は彼ら自身を満足させるものにしかならず、ネット全体の傾向としてそのような表記を行おうというような風潮は決して起こらない。また同様に、携帯電話で若い女子が使っている「ギャル文字」やケータイ小説の文体、あるいはまた掲示板などで符丁のように使われるネットスラングなどが、全てのネットユーザーにとって標準の言葉として選ばれるわけではない。各人が見たいものを自由に選び、書きたいことを自由に書けてしまうネットでは、全ての言葉が個別に成り立ち、発展していくことをシステム的に許してしまう。……。

正字正かなを使ふのは、前に坪内祐三が「ファッション」と呼んだけれども、さやわか氏は「自己満足」だと指摘してゐるが、これらは「自然」に現はれた惡口で、大した意味を持たない(現代の日本人が、やたらめつたら人の意識・感情を推測したがり、一方、自分の意識や感情を自分で規定して宣言したがる傾向は、この特集に寄せられた文章を見ると、はつきり判る)。普通の日本人が常識的に他人のやつてゐる事の動機を臆測で語つてゐるだけだから、別に腹を立てる必要はない。
ただ、このさやわか氏の文章もまた、例によつて、規範意識を缺いた、ただの現状分析とその追認にしかなつてゐない、と云ふ事實を指摘するだけで、大した意義を持たない事は示せる。物を見る基準となる價値觀を缺いた、分析と解釋だけの文章は、意味のない文章で、讀んでも裨益されるところはない。
平成二十一年一月二十九日
蓮實重彦が「あんなもん讀む氣がしない」と「言ふ」行爲を批判してゐるが、この人何と生氣のない文章を書くのだらうと唖然とした。

……もろもろのオピニオン誌の凋落は、「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いているんだから、あんなもん読む気がしない」といういささか性急ではあるがその現実性を否定しがたい社会的な力学と無縁でない。そんな状況下で、人がなお他人のブログをあれこれ読んだりするのは、それが「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いている」という安心感を無責任に享受しうる数少ない媒体だからにほかならず、「羞恥心」のお馬鹿さんトリオのときならぬ隆盛とオピニオン誌の凋落とはまったく矛盾しない現象なのだ。……。

蓮實氏は、わたくしは、批評家として、この種の時限装置の装填だけは周到に避けてきた人間である。実際、「あんなもん読む気がしない」という言葉だけは一度も口にしたことがないし、かりに諧謔としてにせよ、「「競争相手は馬鹿ばかり」の世界へようこそ」などと書いたこともいっさいない。と述べ、マクシム・デュ・カンがヴィクトル・ユゴーのような「文豪」にくらべてみれば明かに才能を欠き、知性も劣り、言動も稚拙で、自分が多少の世話をやいてやったところで、とても大成しそうにない小物だと看做してゐた對象がボードレールやフローベールといつた人逹であつたのを知つてゐるからだと説明してゐる。
が、斯う云ふ姿勢を「保身」の姿勢だと指摘する事は不可能だらうか。案外、この種の、非常に保身的で、同時にその己の保身を誇示する態度は、戰前の思想家にも見られた事のやうに思はれる。と言ふより、小林秀雄の「讀まなくたつて解る」式の言ひ方を俺は相當に意志的なものと看做すが、蓮實氏の態度はただ消極的であるだけのやうに思ふ。保身の爲の劃策ならばまだしも、蓮實氏のやうな場合、ただ「なにもしない」「なにもいわない」だけなのだ。何もしないのはゼロの地點に留まると云ふだけの事であり、精神的には「死」と同じである。エリオットが「何もしないよりは惡い事をした方が増しだ」と述べたのは、マイナスでもプラスでも、ゼロではない事が重要である(マイナスでも絶對値ではプラスになる)事を指摘したものだ。惡い感情が激しくこちらに向つて來た時には、確かに鬱陶しいが、人が嫌がるであらう行爲を機械的に・無表情に繰返してゐる人間の不氣味さよりは遙かに増しだ。ところが、今の日本國では――と言ふより、昔から日本國では、斯うした不氣味な人のありやうを、不氣味とも思はない、「保身」を正當化する一種の「理論」が存在してゐた。感情を示す事を「子供」「ガキ」のする事と極附け、嘲る流儀が一般化し、さうでない「大人」の態度を持上げる事でその「理論」は無意識のうちに日本人の中に「正當の理論」として刷り込まれた。さうした態度が、近代には「知性」の擁護の「理論」に對する「精神的裏づけ」として用ゐられ、現代の思想家はひたすら「知性」の觀點から意志の活動を輕蔑して來た。さうした「傳統」を、蓮實氏も免れる事が出來なかつた。そして、案外「日本的な思想」に染まつた思想家を、日本の「思想ファン」は「ラディカル」で「画期的」と看做す傾向がある。
平成二十一年一月二十九日
小林秀雄の評論に人氣があつたのは、小林氏がはつきり「小林秀雄らしさ」を押出してゐたからだが、その文章には意志的な強さが顯れ、氏の「人間としての強さ」が讀者には強く印象づけられる事となつた。それは、當時であつても文章それ自體の獨斷を恐れる空氣があつた爲で、多くの思想家・作家が恐る恐るそれでも獨斷を述べてゐたのであつたが、それを殊さらスタイルに高めて頭一つ拔出したのが小林氏であつた。それは賣りとしての強みであるのみならず、人としての強さそれ自體を示すものであり、さうした人間み・人間臭さを「示す」態度それ自體が、實は客觀性と傍觀主義の中で精神的な沈滯を生じてゐた近代〜現代の思想界に對する反逆であり、小林氏を反近代の思想の中に位置づける決定的な理由であつた。
が、さうした強さの「誇示」は、ただ反感を買ふ、と云つた下世話な理由――と言ふより外部的な理由ではなく、寧ろ、人間自身の持つ弱さによつて・内面的な理由によつて、崩潰する危險を持つ。ニーチェは、超人思想を唱へ、Godなどには頼らない、強い人間の出現を主張したが、自ら強い人間たらんとして發狂した(梅毒であつた等と云ふ説は、思想的に取るに足らない)。ニーチェを福田恆存は讀んでゐたし、またシェストフにも觸れてゐたらしいが、「人が自立的な態度を取り、神たらんとして人を超えんとする」危險を知つてゐて、それでD.H.ロレンスの主張に移行した。が、ロレンスはまたロレンスで弱點を持つてゐて、それは神秘主義的であつた事だ。神秘主義は浪漫主義と隣接するもので、神の存在しない・宗教性を缺いた思想である。ロレンスはアンチキリストの立場から神秘思想を採らざるを得なかつたが、Godなき日本に生きる福田氏にとつてロレンスの思想は何うしても參考とせざるを得ないものに思はれた。一方で、アンチキリストの思想が一世を風靡した後、思想それ自體が死んで「常識」として機械的で無機的な文明が出現する事となつたヨーロッパでは、再びキリスト教が存在意義を認識されるやうになつてゐる。英文學ではT.S.エリオットがキリスト教への囘歸と云ふ形で自己の歴史の中における再生を果した。エリオットもまた福田氏にとつては大變強く關心をひかれる存在であつたらう事は容易に想像出來る。が、Godが留守であるに過ぎないヨーロッパと、初めから存在しない日本とでは、状況がまるで異り、エリオットの信ずるヨーロッパの傳統とヨーロッパ的な宗教であるキリスト教を、福田氏が自らの物として信ずる事は出來なかつた。さうした意味で、福田氏には弱點があるのだが――ところがその弱點は我々日本人が絶對に免れる事のできないものであると認識し、強く主張したのが松原正氏であつた。
平成二十一年一月二十九日
氷上英廣氏の『ニーチェとの対話』をじりじりと讀み進めてゐるが、最初に思つた以上に面白い文章が多い。
平成二十一年一月二十九日
SAPIOの昭和天皇特集号を買つた。俺は昭和天皇が大好きだ。
平成二十一年一月二十九日
池田雅之『猫たちの舞踏会――エリオットとミュージカル「キャッツ」――』(角川文庫)を買つた。ナンセンス詩にみんな意味を見出し過ぎ。
平成二十一年一月二十九日
上栖綴人『彼女は眼鏡HOLIC3』(ホビージャパン)を買つた。これで完結なのだと。賣れなかつたのだらうか。
聞くところによれば眼鏡つ娘は世間で人氣がないらしい。しかしHJ文庫の投込み散らしには『放課後の世界征服』に使はれるイラストから眼鏡の娘をチョイスして大きく載せてゐるのだが。編緝者にはさう云ふ嗜好があるらしいと思ふのだが、讀者の好みとはずれてゐるのだらうか。
平成二十一年一月二十九日
福田恆存の御芝居、解つてたまるか! のラストに福田氏自身、ロレンス的な物の見方が表はれてゐる事を述べてゐるが、特に初期の作品に論理性よりも神秘性が強く表はれてゐる。前田嘉則が疑問を抱いたのも、前田氏がクリスチャンであると自認する一方で、福田氏が飽くまで非クリスチャンとしての立場を崩さないからだらう。
福田氏は「キリスト教の無免許運轉」と言つたが、日本人にとつてキリスト教は全く外部の事で、無免許運轉等と云ふ事はあり得ないと、松原氏が後に指摘してゐる。
龍を撫でた男は、發狂によつて話が終るが、經緯を無視して、ニーチェの發狂と關聯附けて考へるのは「あり」だと思ふ。エリオットとの聯關は寧ろ薄いやうな氣がする。

平成二十一年一月二十八日
修正したよ。何うも有難う。ノシ
平成二十一年一月二十八日
續・もの思ふ葦: ジョージ・オーウェル
平成二十一年一月二十八日
日本臣民タルノ要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ルとか日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有スとか云ふ條文。法律に據りさへすれば何をやつても良いと考へるか、或は權利を守る爲に法律を濫用するのを避けねばならないと考へるか。
日本人は、法の「拔け道を探す」のがその法を尊重する事であると、なぜか思つてゐる。日本人は法律でも憲法でも「拔け道を探す」方向に進むのが好きだ。それは民主的な方向に進む事ではないのだが、多くの日本人には物事の意義を逆に捉へようとする癖がある(喜六郎をみよ)、法の穴を衝いて明かに獨裁的・軍國主義的な行動を取つたのを「法にかなつた行動だ!」と本氣で主張する。「法に穴が用意されてゐるのだから、その穴を衝いて、法の精神を蹂躙するのが、法の精神を生かす事である」とは、目茶苦茶な考へ方だ。が、日本人は、なぜかさう云ふ目茶苦茶な考へ方を平氣でするし、しない人間を笑ひものにする。
英國ならば、憲法の規定が不完全であつても、運用でより民主的な方向に世の中を持つて行かうとしただらう。マグナ・カルタでも何でも、英國の成文憲法は、全て穴のあるもので、だからこそ憲法の精神=不文の憲法を英國は奉じてゐる。
法の條文それ自體に不備があつても、國民の精神がそれを補ふならば、問題は起きない。日本人には、現在も、民主主義の精神や法治主義の精神なんてものは身についてゐないから、法の不備を見れば惡用しようとする(そしてそれを「惡用ではない」と言張り、自分が如何に正しいかを誇示しようとする)。それが日本人の重大な問題であるのだが、日本人は自分の缺點を指摘されるのを極度に嫌ふ。或は、缺點を指摘されると、指摘した人間を「惡事をなした」と極附け、なぶりものにして樂しむ。
日本人は、憲法の連續性に全く興味を抱かず、寧ろ憲法と云ふ概念それ自體を搖るがせる事許りを言つて樂しむ(樂しんでばかりだ)。日本人は、民主主義や法治主義を、まるで空氣のやうに「あつて當然のもの」と看做し、享受しながら、馬鹿にして樂しみ、安心してゐられる。價値觀なんてものは、「あつて當然」である訣がないのだが、日本人は價値觀を持たない事を當然と思つてゐるから、必要な價値觀をすら「守らう」と思ふ事が無い。
平成二十一年一月二十八日
ラノベでもアニメでも、或は漫畫でも、暇潰しである事は言ふまでもなく、讀まなくても全然構はない――のだが、ならば、所謂純文學でも、WiLLのやうな雜誌でも、暇潰しだと言つて讀まないのが當り前の話になる。と言ふより、純文學として賣られてゐる多くの大人向け小説、オピニオン雜誌の殆どの文章、それらこそ讀むに値しないものばかりであり、それよりはまだしもラノベなんかの方がマシだと言へる。
勿論、ラノベには下らないものも少くないし、マンガには下らないものが壓倒的に多いのだが、たまに目のさめるやうな見事に書かれた御話がある。新人作家がデビューしようとする時に、飛んでもなく巧みに書いた小説を提出して來る事がある。まだマンネリに陷つてゐない時期に、大變新鮮な作品を書く作家は、特にラノベの世界に、比較的多く見る事が出來る。これが純文學だと、最初からパターンが決つてゐて、大體書き方は「讀めて」しまふ。ラノベも、フォーミュラ化された側面はあるのだが、それでも、さうした「制約」の中で、意圖的にストーリーを構築し、巧みに語らうとする作家は依然ゐる。さうした作家と巡り合ふのはラノベ讀みの樂しみだ。けれども、巧い書き方をしてデビューした作家が、二作めで既にマンネリに陷つてゐる事も屡々で、さうなると俺はその作家との附合ひをやめる。
アニメは「綜合藝術」であり、巧みに作られたものは滅多にない。俺がアニメに期待するのは――と言ふより、俺は大して面白くもないアニメを觀てゐて、それが突然化けるのを樂しみにしてゐる。おくさまは女子高生とかちょこシスとか、或はLAPが、さうした「化けた」アニメで、殊にLAPは、非常に出來の惡い部分と共に、途轍もなく良く出來た部分が混在してゐて、恐ろしく鮮明な印象を殘して呉れたのだが、しかし、殆どのアニメはさう云ふ大化けを期待しても化けない事が多い。深夜アニメを見てゐても、まあ、時間の無駄に終る事が多いだらう。もつとも、今のアニメは濫作されてゐるので、結構レヴェルが上つてゐて、何一つ見るべきものがない、と云ふものは滅多にない。とは言へ、平均點が高くても、極端な駄作が減つただけで、名作は増えないのでは、ただ箸にも棒にもかからない中途半端な作品が犇めく事になるのであつて、さうなると却つて個々の作品の印象は薄くなる。何うしやうもない駄作と云ふものは、それはそれで強い印象を殘すものだ。それなりの作品を量産するのがサンライズで、俺はサンライズアニメと言ふと「つまらない」ものと思つてゐたのだが、コードギアスはそんなサンライズが突然出してきた面白い作品で、いろいろ言はれてゐるけれども、あれで俺はサンライズを見直した。が、それでもコードギアスは冗長な部分があり、夾雜物が混じてゐて、サンライズらしい大味な作品である事は否めない。一般にアニメーション作品はどれも卑俗であると言ふより冗長であり、多くは構成が緩く、緊張感に缺ける。俺の知る限り、完璧な構成を持ち、完全な演出の行はれた作品は、山本天志氏が監督した二作品のみであり、それ以外の全てのTVアニメーションは、作品構成に多かれ少かれゆるみ・たるみがある――のみならず、ほぼ全てのアニメーション作品に言へる事だが、常に何らかのマンネリズムに陷つてをり、決り切つた演出方法に從つてゐて、作畫が凄く、動畫が凄くても、意外な程生氣に乏しい。もちろん、さうしたパターンの存在を前提としてゐても、山本監督のやうに完全な形に仕上げて來るならば、觀るに堪へ得るのだが、ほぼ全てのアニメに不完全な部分があり、目を背けたくなるやうな演出がなされてゐる。
平成二十一年一月二十八日
ところで、政治家の人々が、國會や何とか委員會で見せる演戲と云ふもの――彼等のしてゐるのはパフォーマンスであり、一種の演戲であるが、どれもこれも猿芝居も良いところの下手くそな演戲である事は、指摘されねばならない。小沢が麻生に面して、にやにや笑ひで小馬鹿にしたやうに振舞ふのは、演戲であるが、下手な演戲である。渡邊氏が離黨した時にぷんぷん怒つて見せたのは、下手な芝居である。例の「漢字テスト」、あれは流石に多くの國民が下手な演戲であると氣附いたけれども、露骨なパフォーマンスをしない時の政治家の行動を「下手な芝居」と言つて非難する人は、案外少い。と言ふより、日本では、この手の下手な芝居をするのは當り前で、下手な芝居を下手な芝居と言つて罵るのは馬鹿だ、と云ふ空氣がある。吉本の喜劇は、どれも演劇としては大變下手糞な芝居で、大袈裟な身振りや馬鹿な言動で笑はせる低級なものだが、あゝ云ふ芝居を「當り前」だと思ふのが日本人で、巧い芝居・良い芝居を日本人は敬遠し――或は憎む。これは何う考へても逆な筈なのだが、日本人の多くは「逆だ」と言はれても何の事やらさつぱり解らないだらう。下手だからこそ滑稽で面白い、そしてさう云ふ面白さを樂しむのが芝居の樂しみだ。日本人はさう思つてゐる。けれども、巧く演ずるのが俳優の使命であり、俳優が巧く演じたら賞賛するのが觀客の役目だらう。そして、下手くそな芝居こそ、排斥されねばならない。けれども――渡邊喜美の離黨についてぐぐつてみたところ、あのパフォーマンスに「勇氣」を見出してゐる人がゐるのだ。下手な商業演劇を樂しむ日本人は、下手な政治家の御芝居を眞面目に受取つてしまふ。
自民黨と民主黨の「對立」なんてものも、馬鹿馬鹿しい御芝居で、兩者には對立する理由がない。動機づけがない状態でただ「對立」を演じてゐるので、演技は棒になり、觀客たる國民は、さすがに白けてゐる。價値觀によつて裏打ちされた行動でない限り、人のやる事は薄つぺらになるが、それは御芝居でもさうで、ただシチュエーションが設定されて、そこでそれつぽい行動をキャラクタがとるだけの御話では、ドラマとして成立たない。純文學でもさう云ふドラマとして成立つてゐない御話が「高尚」な小説として「評價される」。けれども、さう云ふ御話は讀んで白けるのが當然なので、餘程の好き者でなければ最う讀まない。その點ではラノベの方が案外増しで、或は一部の漫畫にも白けないで讀めるものがある。俺は、さう云ふ作物に期待して、ラノベでも漫畫でも讀むのだが、まあ、日本と云ふ國で價値觀を意識し、ドラマとして成立ち得るものを作らうとするクリエイターは殆どゐないので、極稀にしか樂しめる作品にはめぐりあはない。寧ろ、名作として定評のある海外の或種の小説や評論を讀んだ方が、時間を無駄にしないで良い。が、さうした良いものを求めると、政治の世界における猿芝居には本當にがつかりさせられるし、或はウェブなんかでも、わざとらしい演戲をしながら當人は「俺今いいこと言つた!」と一人で嬉しがつてゐるらしき氣配のする「ブログ」を見る事が出來てしまふ。喜六郎なんかも芝居が下手なのだけれども、やつぱり當人、氣附いてゐないんだらうなと思ふ。評論でも演戲は必要で――「フォルスタッフがインタビューを受けて答へてゐる」と云ふ設定で三人のシェイクスピアの御芝居に關係した人が文章を書いてゐたけれども、二人の人が眞面目に書いてゐたのに對して福田恆存が實にフォルスタッフらしく小心かつ大雜把な感じに答へて見せてゐたのが何とももつともらしく、しかもその囘答が實に核心を衝いてゐて見事であつたのが、印象的だつた。今の評論家に、あゝ云ふいい芝居つ氣を發揮できる人がゐるだらうか。西尾にしても西部にしても、何うもおつさん臭く語る事で滿足してゐるやうで、巧く「演じてゐる」といつた感じを與へないやうに思ふのだが――何れにしても福田氏の正統の後繼者として見るのは無理だ。
平成二十一年一月二十八日
直し忘れも直したよ。毎度どうもです。
俺がやるとしたら、ほかの人もやらかす類の間違だらうから(世間には澤山人がゐます)、間違の指摘は殘しておいていいと思ふ。
と言ふか、まあ、普通は相手が間違を正したら最う「晒しておかない」方がいいんでないかと思ふのが普通なんだよな。どこぞの誰かさんみたいに、自分は全然話に絡んでゐないのに、嫌がらせをする爲に、勝手に餘所から間違を言つたのをコピーしてきて「まとめ」とか稱して見せ附けて、人に恥をかかせてやらうとするのは異常なんだよ閑話休題。マーク附けのくらゐ別に耻でも何でもないから(と言ふか間違を言ふのは耻でも何でもない)、何時まででも晒しておいてやつて下さい。あと、メールだと多分途中の何處かではじかれてとどかないと思ふ。メールフォームからのでもがんがんスパム除けやつてるし。先日來「義」の所爲でメールが事實上使へない状態。屆く人は屆くけれども屆かない人は永遠に屆かない。申し訣ない。
平成二十一年一月二十八日
IE8インストール時の注意点、Windows XP SP3の場合は要確認
亂暴に要約すると「面倒な事が嫌ひなら入れるな」。
平成二十一年一月二十八日
スパイウェア対策ソフト「Spybot-S&D 1.6.2」公開
1.6.0の畫面上でアップデータを檢索して1.6.2に上げるのは出來ないみたい。直接サイトから落して來ないと駄目らしい。
平成二十一年一月二十八日
新バージョンのGeckoエンジンを搭載した「Lunascape5.0 rc」
大したプログラムでないやうな氣がするんだが。と言ふか、レンダリングエンジンだけが重要だと思つてゐるからガワだけの「ブラウザ」には興味が無い。
KHTMLだかWebkitだかは何かのブラウザを入れなければ使へないから仕方なくSafariかGoogle Chromeかを入れてみるけれども、TridentならIEで十分だしGeckoもFirefoxでいい。と言ふかうちではOperaしか使はない事がはつきり判つてゐるからほかのブラウザは最う滅多に入れない。
平成二十一年一月二十八日
うい。何うも有難うございます。
平成二十一年一月二十八日
やっちゃう - (゚ヮ゚)<ポポーダイ
OperaでWikipediaを見てゐる時、うまくテキストを反轉させられなくて苛々する時があるよ俺。
平成二十一年一月二十八日
リキッドレイアウトとソリッドレイアウト - カナかな団首領の自転車置き場
はてなブックマーク - リキッドレイアウトとソリッドレイアウト - カナかな団首領の自転車置き場
一寸先は餡の雲、先は文乃さんストーリー
舞台裏は乱雑に : Weblog : SimpleIsm
そろそろフォローし切れなくなつて來た。
平成二十一年一月二十八日
河出書房新社|中島敦
中島敦 生誕100年、永遠に越境する文学 - livedoor BOOKS | 新刊 | 文芸 | 国文学 | 著者研究
賣れてるみたいなんだが……。

入門・川村湊、論考。インタビュー・エッセイ・高橋英夫、勝又浩、渡邉一民、日野啓三、池澤夏樹他。

何でこんなに魅力のない執筆陣を揃へたんだらう……と思つたのだが、俺が斯う思ふと云ふ事は「文学ファン」諸氏には途轍もなく魅力的な執筆陣に見えてしまふのだらう。いきなり川村湊が中島文學の政治性を語つてゐてげんなりした(帝国に抗する力を表現した作家)。そんなに政治を論じたければ政治家にでもなればいいんだよ。日本の文學者は未だに政治コンプレックスであるらしい。そしてさう云ふライターを求める「文学ファン」もまた。正直言つて買はなくていい。
平成二十一年一月二十八日
ハクの戯言 京都から発信: にせかがくかぁ〜
漬物倉庫(嘘):消す、消す、消す。 (2009-01-28)のこめんと欄。
「心を広く持て」「他人を叩くな」と言ふ人は大體、「他人を批判してゐる人」に對して、實に狹い心で接して、穏やかな口調で辛辣な叩きをやらかすんだよな。Narrさんが本当に人の心がどういうものなのか、わかってます?と言つてゐるけれども、解らないんだよ――特に自分の心。
喜六郎とかさ、あれなんかも本當に非道いぜ。世の中、嫌な奴ほど善人ぶつて見せるものだ。
平成二十一年一月二十八日
日本人はね、立派な人間が格下の人間をたしなめる事だけが許されると屡々信じてゐるんだよ。だから何の權威もないのに他人を批判をする人間を「僭越だ」と言つて非難する。もちろん、斯う云ふ時に非難するには別に權威のある人間である必要はない、他人の足を引張るのに權威は要らない、と云ふ「理窟」。けれども、本當に立派な人間と云ふものはこの世界が出來て以來――傳説によればだけれども――たつた一人しか存在しない。それはイエス・キリストで、それ以外の全ての人間は一人の例外もなく原罪を背負つてゐるのであり……と云ふのはキリスト教の教へだけれども、まあ、惡い事を考へた事もない立派な人間は絶對にこの世に存在しないと言ひ切つて良い。さうなると、人間は「立派でない」と云ふ點で完全に平等なのであり、だからこそ、批判は許される。
人は完全ではない――完全を求めるならば、人は自分の外部に依據するものを持たなければならない。だから、他者を批判するのに「檢證可能な事を言ふ」と云ふルールを守る事が要求される訣だ。
ところがその爲に根據を擧げて論じようとすると、日本人は「偉い人間の權威に縋つて偉さうに物を言つてゐる」と非難を始める。Narrさんは水傳を批判してゐるけれども、單なる「エセ科学批判」では濟まないんだよ、日本人の價値觀それ自體の問題なんだから。
平成二十一年一月二十八日
日本人の多くの人が、「他人に意見する」のは「他人の人格に干渉する」事だと信じてゐる。「水傳」でも、そこに「教訓を讀み取る」のは、全てのものが「人格」と關係があると信じてゐるから。日本人は大變に「道徳的」――と言ふより道徳的な潔癖症だ。だからこそ、他人を批判する行爲を、單純に「他人の人格に鑑賞しようとしてゐる行爲」だと解釋して、「なんて僭越な事をする野郎だ」と怒る。そして「御前は僭越な行爲をしてゐるのだから、俺のやうなろくでもない人間に足を引張られても自業自得だ」と云ふ「理論」を言出す。喜六郎にしても「義」にしても、さうした「理論」に據つてゐる。これは根本的に「人間は對等な存在である」と云ふ發想を否定する發想で、だから彼等は對等に意見を述べ合ふ自由を認める民主主義を否定するし、法の下の平等を認める法治主義を否定するのも當り前だと思つてゐる。

平成二十一年一月二十七日
俺の「專門」以外のジャンルで用語が不正確でも、素人なのだから仕方がない、知つてゐる限りの言葉を竝べ立ててアイデアを表現するしかない。それを「用語を知らない」=「馬鹿だ」と極附けて、默らせようとするやり方は――それこそ「漢字テスト」で麻生氏を攻撃するやり方と一緒だらう。お茶の間バラエティにしたい手合にしか、さう云ふ事は出來はすまい。
前から言つてゐる事だけれども、文學や哲學或は思想の領域で、言葉を正確に用ゐなければならない人間が、言葉を不正確に用ゐてゐるのであれば、その人は非難されなければならない。けれども、「專門用語を正しく使ひこなさねば發言する事が許されない」と云ふのとは話が違ふ。それが「言葉」と云ふ唯一點の共通項でもつて話を繋げて、聯想ゲームのやうに「理論」を組み立てて、他人を罵倒する根據にしようとする輩が存在する。斯う云ふ人間こそ、樂な攻撃の仕方をしようとする知的怠惰の人間で、許し難い。ところが、さう云ふやり方で他人を攻撃するのが「當り前」と云ふをかしな價値觀の人間にとつては、批判においてはより正しいやり方を採用すべし、と主張する人間は、ただ「自分に都合の良い事を言つて自衛しようとする鄙劣な人間」だと思つてしまふ。けれどもそれは、卑怯な手を使つて他人を攻撃しようとしてゐる人間が、公正な手段で議論しようと主張する人間を憎む、と云ふ、異常な態度なのである。
平成二十一年一月二十七日
一言で言へば喜六郎は自分に都合よく何でも解釋してゐる、と云ふ事だが、「他人を攻撃出來さへすれば、理由なんて何うでも良い」と喜六郎は思つてゐるから、何を言はれてもわからないんだよな。
平成二十一年一月二十七日
喜六郎は「野嵜の現行憲法無效論」は破綻しただか何だか言つてゐるが、「野嵜の」なんてものは存在しない。ただ「現行憲法は無效である」と云ふ結論があるだけだ。そして、俺の説明が下手だとしても、俺の結論が間違だと云ふ證明にはならない――何しろ、福田氏の「當用憲法論」を喜六郎は論破してゐないのだから、現行憲法は無效だ、と云ふ福田氏の主張は「生きてゐる」。
福田氏の主張の根本にあるのは、「戰前と戰後を斷絶させてはならない」と云ふもので、「連續」の觀念を日本人が受容れなければならない、と云ふ考へ方がある。主眼は「連續」の部分にあるのであり、そこで喜六郎らが「憲法の出自」なんて事を言ふのは、さう云ふ發想をしてしまふ價値觀それ自體に問題があると云ふ事だ。福田氏は、日本人が「連續」の觀念を價値觀として尊重しなければならない、と主張してゐる。喜六郎は、その主張の存在それ自體を認識できないで、「システム作り」の話をしてゐる積りで、「具體的な話」をして、それで樂しんでゐるに過ぎない。「契約」と言つた俺の言葉遣ひを非難してゐるのも、結局は「漢字テスト」と同じ事をやつて、樂しんでゐるに過ぎない。
平成二十一年一月二十七日
ブログで小説! 「余白があったほうが読みやすい」という人のほうが数は多い@データ
「読みやすい」事の議論は全部いんちき。正字正かなの論爭をしたから解る。「讀める」「讀めない」は二者擇一だから論爭出來るが、「読みやすい」「読みにくい」は二者擇一ではなくリニアに繋がつてゐる相對的な比較の問題だから論爭になり得ない。ただそれつぽく、もつともらしい言ひ方をして「どつちに近い」かを主張する事が出來るだけだけれども、しかしこの手の相對的な違ひしかないものに關する「爭ひ」に限つて人は感情的になつて「俺の方が壓倒的に優位!」と言張つて相手を頭ごなしに否定し、力づくでねぢ伏せようとする。相對的な話なのだから相手を全否定するなんて事は絶對に出來ないのに。と言ふか、それが解つてゐるからこそ、頭ごなしに否定する・力づくでねぢ伏せる、と云ふ態度が現れるのだらう。
しかし、今囘の「議論」での「調査結果」なんてものは、御苦勞な事だが全部徒勞だよ、無駄な努力だよ。そんな事をしても何の意味もない。ただ自説をもつともらしく見せかけて人を騙すのにしか役に立たない。要は有害無益と云ふ事だ。事實を基にしてゐるから一見非常にもつともらしい、と云ふのが却つて有害性を高めてゐる。
画面横幅を900px以上にするメリットとデメリット。右端が欠けることに注意 (ユーザビリティ実践メモ)
[本人備忘]こんなのも読んだ。と云ふ事でリンクが張られてゐる。俺にしてみればこれで最う議論の結論は出てゐるだらうと思ふのだが、世間では意地でも議論を續けたいと云ふ人が多いやうだ。幾らでも話を續けられるからこそ「讀み易さ」と云ふテーマは「ブログ」で採上げるには便利であるらしい。しかし、そんなの無意味だよ。
ちなみにhttp://adankadan.blog47.fc2.com/blog-entry-296.htmlは、「餘白がある時もある」けれども、ブラウザのウィンドウ幅を狹めると「餘白がなくなる」。リキッドレイアウトの一種。
『ウェブ文書の素敵ポイントを――』で言ひたかったこと - HM weblog
平成二十一年一月二十七日
俺は讀み易さとか云つた事は餘白だの何だので決められるとは思つてゐない。飽くまで俺個人の事だが――俺はウェブの「ぺーじ」でもテキストファイルでも、讀んだところをマウスでなぞつてマークする癖がある。これをやると、餘白だの行間だので「讀み易さ」を追究してゐるウェブサイト制作者の努力は全部意味をなくすのだが、しかし斯う云ふ讀み方をしてゐる人つて世間には多いのではないか。それとも滅多にゐないか。何うなんだらう。
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平成二十一年一月二十七日
Latest topics > ヤフオクの評価がマイナスになった - outsider reflex

しまった。「落札後何時間(何日)以内に連絡がない場合は購入の意志無しと見なす」旨の記述を見落としていて、マイナス評価が付いてしまった。

またえらく心のせまい出品者だな。

出品者の人にも「詫びとかはいらないから、もう二度とオークションに参加するな」ときついお叱りを受けた。

心が狹いと言ふか、その人、出品者だからと言つて思ひ上つてゐるんではないかと思つた。
本當に詰らないところで人からの評價が下げられるのつて良くある事で、だから俺なんかは最う適當でいいやとか思つてゐるのだけれども、さうすると詰らない事で怒る人はやつぱりまた俺の事を怒るらしい。俺はそんなに人の評價なんてしない方だから適當に文句を言つてもそれだけで濟ませるんだけれども、人によつては評價したらその評價に何時までも拘り續けて徹底的に嫌な相手を叩きのめさうとするものらしいんだよな。人と人との關係は何だか良くわからない。俺も相當の意地惡だけれども、俺なんか足下にも及ばないくらゐ意地の惡い人は世間にはごろごろ轉がつてゐるらしい。
本當に詰らない事で人の評價を決めようとする人が多いから、評價を下げられても氣に病まない方が良い。特に自分で自分を責めるタイプの人は。自分で自分を責めるやうな人が惡い人間な訣がない。それを責めるやうな人こそ惡い人だ。と言ふか、自分で自分を責めるやうな相手だからこそ、そこにつけ込んで殊さら評價を下げて相手をいたぶつて樂しむ人間はいつぱいゐる。だから「反省しない馬鹿」になる事も時として必要になる。何時でも反省しないのではなくて、必要もないのに反省する必要はないと云ふ事。
責められたからと言つて即座に反射的に反省してしまふのは――個人的にはその方が「樂をしようとしてゐる」やうに見えてしまつたりする事がある。
平成二十一年一月二十七日
ローマの教會が免罪符を賣出した後、抗議をした人がルターで、以來ローマ教會にプロテストする人々をまとめてプロテスタントと呼ぶやうになつた歴史的事實は良く知られてゐる。今や免罪符と言へばろくでもない代物と云つた印象しかみんな持つてゐないが――では當時、免罪符を買つた人々は「善行をした」事に「なる」か否か。
「否」、免罪符と云ふものは間違なのだから、免罪符を買つたのも間違――さう言ふ人は、どのくらゐゐるだらうか。案外多さうだが、信仰と云ふものの見方として間違つてゐる。
カトリックの考へ方としては――或教へが後に誤だと判明しても、それより前にその教へを信じてゐた人の信仰は信仰として認めるものである。
徳目それ自體の是非は問はれない。ただ「信じた」か何うかが信仰では問題となる。これはキリスト教に限らない、新興宗教でも同じで――だからオウム真理教のやうなものでも、信仰はあり得る。鰯の頭も信心から、と云ふ言ひ方を、我々は良く信仰を嘲つて言ふのに使ふが、信仰のありやうを解つてゐないと言はざるを得ない。(かの福澤諭吉も解つてゐなかつた)
平成二十一年一月二十七日
はいはい可読性可読性 - 枝葉末説@ことのはぐるま
どうやら全然解つてゐない業者を使ふ事になつて困つてゐるらしい。
まるで解つてゐない業者も困るけれども、ちやんと勉強して來てそこそこ良いものを作つて來る業者は何うだらう。すごくがんばつてゐる事が解るだけに、すごくもつたいない部分があつていろいろ口出ししたくなる。しかも傍觀者の立場にあるんでさうさう口も出せないと云ふ場合。HTMLのソースは綺麗なんだけれども、見出しのテキストを何故か畫像にしてゐたりとか。
平成二十一年一月二十七日
ねこまたぎ
平成二十一年一月二十七日
喜六郎の小屋 - 野嵜健秀の大敗北

それにしても不思議なのは、野嵜健秀および「野嵜喜び組」達は「明治憲法から現行憲法への改憲は正当な手続きを踏んでないから無効だ!」と盛んに連呼してたくせに、明治憲法の改正になると「貴族院を復活させる必要はなくて、參議院が代行すればいい。」だなどと今まで拘ってた正当性はどこへやら、たちまち便宜主義者に大変身。

いや、なんで代行しては行けないのか、その理由が全く解らないんだが。代行が行けないのなら、例へば攝政は行けない存在なのか。攝政は天皇の行爲を代行するのだが、それでもその行爲は正當だよ。
へんじがない、ただのしかばねのようだ。と言つてゐるけれども、返事が聞えない人には困つたものだ。
沙漠に住む駝鳥は、敵に追はれた時、砂の中に頭を突込んで「自分は逃げ切れた」と思ひ込むのださうだ。「敵が見えなくなつてゐれば敵は最うゐないのだ、だから敵を見ないようにすればいい」と彼等は信じてゐるらしい。
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どうでもいいけど、喜六郎は「絶對に代行してはならない」理由を説明してね。もちろん、さうしなければならないと日本人が信じなければならない理由も。さう云ふ詰らない部分での嚴格主義を人間が採用しなければならない事を、しつかり説明して貰ひたいものだ。價値觀の問題に就いて、喜六郎には論じてほしいと俺は要求したのだが、喜六郎には話が通じなかつたらしい。
平成二十一年一月二十七日
と言ふか、俺は返事をするのだが、喜六郎が俺の問ひかけに眞面目に返事した事は、過去に一度もない
今囘も、返事をしないのを正當化するために、喜六郎は野嵜憲法論叩きは、これでお終い。と書いてゐる。喜六郎は、俺に反論出來ない事を知つてゐるから、豫め「へんじをしない」と書いてゐる訣だ。これは即ち、喜六郎が敗北を認めた事を意味する。
平成二十一年一月二十七日
ところで喜六郎よ。
喜六郎の小屋 - 悔しかったら反論してみなさい

ブログの方のヤミグロ日記に登場した「112」氏は、「明治憲法を契約と言うならば、誰と誰との間に結ばれた契約なのか教えて欲しい」と野嵜健秀に対して言ってるにすぎない。

だから野嵜健秀がするべきことは、明治憲法が誰と誰との間に交わされた契約なのかを具体的に説明することである。

それが出来ないんだったら、自説を撤回しなさい。

反論する以前に、俺は既に説明してゐるのだが。
すげえ大事な事を言ひ忘れてゐた - 闇黒日記2.0 - Yahoo!ブログ
と言ふか。

大日本帝國憲法の出自は果たして何うだつたのか――ナンセンスな質問だ。なぜなら、憲法は作られ、國家が「それを守る」と約束したがゆゑに、契約が成立したのだから。契約書が何處から涌いて出たかは關係ない。一度「約束を守ります」と言つたら、國家は約束を守らなければならない、それだけの事だ。人が「約束」をして、それを破つたら、「××詐欺だ」と騷ぐ人がゐる。まとめサイトを作つて騷ぐくらゐ大袈裟に騷ぐ。その同じ人が、國家に關しては「約束を破つた」と言はないのだ。不思議な話である。

ここで「誰と誰の契約?」なんて質問するのは、あまりに子供染みてゐないか。何うしてこんな幼稚な質問を112はしてしまつたのだらう。その尻馬に乘つて俺を叩かうとした喜六郎も幼稚だ。誰がどう見ても「約束」と云ふ事を俺が言つてゐるのは明かだし、そこで「契約は成立した」と言つたからと言つて「誰と誰の?」なんて聞くのはをかしいだらう。そもそも、常識として、憲法は國家が國民に對してする約束だし、そんな事は説明しなくてもいい筈だ。なぜ喜六郎は「いや、よくない、説明しないのは惡だ」と思つたのだらう。勿論、喜六郎から返事はあり得ない。喜六郎は、自分に都合の惡い事を言はれると、常に無視する。今まで闇黒日記2.0で俺は隨分喜六郎の問題を指摘した。それらに喜六郎は一度として眞面目に答へてゐない。統計をとつたら何うだらう――面倒だから一々勘定なんてしないが、喜六郎が俺にした返事の數は、俺が喜六郎にした返事の數より、明かに少い。「へんじがない」なんて俺が言はれる筋合ではない、喜六郎こそ返事をしないで來たのだから。剩へ、今、喜六郎は野嵜憲法論叩きは、これでお終い。と言つて、逃げの態勢に入つてゐる。喜六郎が敗北してゐる事實は明かだ。
俺は別に喜六郎なんかに勝利したくて物を言つてゐる訣ではないから、別に喜六郎が「勝利宣言」を出して勝手に負けて呉れても何うでもいいんだが――しかし、自分を欺瞞して「勝つた」氣になつて、それで喜六郎、色々と書きたいことを書くにしても、「良い事」を一つでも言へるか何うか。
それと、それにしても不思議なのは、野嵜健秀および「野嵜喜び組」達は――と云ふ喜六郎の言葉。俺に「喜び組」が「ゐる」と喜六郎は言ふのだが、何なのだらうと思ふ。喜六郎は俺の事を一番よく知つてゐる人物だと思つてゐたのだが。俺には「喜び組」なんてゐない。俺を取卷いて世間の攻撃から遠ざけてゐる、そんな「喜び組」は存在しない。俺が叩かれた事がないなんて喜六郎は思つてもゐないだらう。俺に「喜び組」なんて存在しないのだつて喜六郎は知つてゐる筈だ。何をとぼけてゐるのだらう。
投稿者:q 2009/1/26 23:08
あっちの反応を見る限り、「攻撃」よりも「無視」のほうのダメージが大きい気がします。やっぱり無視して暴れさせておくのが最良の手かと。
投稿者:名無し 2009/1/27 0:08
あんな出来損ないはもう相手にするなよ喜六郎さん。もう十年福田や松原を持ち上げつつ自己PRに努めてきたけど、あの有り様。どこぞの高校教員と五十歩百歩。いつかジャーナリズムからお声がかかるのを待っているのだろうが、無理無理。才能ないんだから。
こいつらを「喜六郎喜び組」と呼ばずして何と呼ぶんだ? 俺にはこんな馬鹿な御追從を言ふ讀者はゐないぞ。然るに、斯う云ふコメントを書込む名無しを喜六郎が咎めた事は一度もない。喜六郎と、喜六郎の「ブログ」にコメントを書込む手合との癒着は、非道いものだ。
平成二十一年一月二十七日
何うでも良いが、あつち=「闇黒日記2.0」のコメント欄で、こつち=「闇黒日記」の事を言及するのなら、さう言つてよね。
しばらく「あつち」の何處で「契約」と言つたか、探しちやつたよ。「こつち」で言つてゐたんだね。しかし、俺は「約束」と云ふ事を言つてゐるのに、一々「誰と誰の契約?」なんて揚げ足取りして來る人が出て來るとは思ひもよらなかつたし、剩へ、よりによつてこんな子供の尻馬に喜六郎が乘つて盲滅法叩いてくるとは想像すらできなかつた。結果として喜六郎も俺に反論しやうがなくなつて、仕方なく「勝つた」風を裝つて撤退するしかなくなつたのだけれども、これで喜六郎が懲りるとはとても思へないんだよな。俺の何が彼の「琴線」に觸れてしまつたのかわからないけれども、斯うやつて「他人を評價する」事に生き甲斐みたいなものを感じてしまふ人に目をつけられると、本當に迷惑なんだよね。
と言ふか、喜六郎は、自分のやつてゐる鬪爭が、自民黨と民主黨の政治家がやつてゐる鬪爭と、同類だと、何うして思はないんだらうか――と言ふと、俺が喜六郎を攻撃するだけの爲に政治家の話を持出した、と喜六郎は思ふんだらうな。この手の「鬪爭」が無意味である事、下らないものである事を、俺は言ひたいのだが、批判的な言辭を「誰かを攻撃する爲の手段」としてしか喜六郎は捉へる事が出來ないらしいんだ。さう云ふ人間だからこそ、喜六郎は人に絡んで「戰ふ」のを好むんだらう。俺は無意味な戰ひは嫌ひだよ。權力鬪爭でも自己顕示の爲の鬪爭でも、俺は否定してゐる。「国益」なんてものだつて、結局は利益の爲のものだし、そんなものの爲に戰ふ「自衞戰爭」でも何でも、俺は否定する。俺は正義の爲に戰ふ事を否定しないし、世の中には正義を信じて戰はうとする人がゐる事を認めるし、さう云ふ態度を取るからこそ人間は人間であると信ずるから、戰爭は無くならないし十把ひとからげにして「無くせ」と言ふべきでないと言つてゐるだけだ。
平成二十一年一月二十七日
/ねこまたぎ
平成二十一年一月二十七日
俺は欲得づくの政治が嫌ひだが、システム作りをする爲だけの政治なんてものにも興味はない。ただ正義を實現しようとするがゆゑに行はれる政治に關心を持つ。
それは同時に、正義と云ふものを徹底して輕蔑し、所謂政治と云ふものをゲームと看做して樂しんでしまふ――さう云ふ反政治的な人物にも、興味をそそられる、と云ふ事だ。
ツヴァイクはジョゼフ・フーシェと云ふ人物を、大變興味深い存在として描いた。ツヴァイクは、理想を持つてゐたし、その理想を實現する政治の出現を望んでゐた。『昨日の世界』でツヴァイクは世界の情勢、自國の状況を嘆き、擧句絶望して果てた。そんなツヴァイクが、理想に燃えた鬪士らによつてなされた革命期と、革命を利用して出現したアンチキリスト・ナポレオンの治世、そして既得權益を守るべく行はれた王黨派による反革命の時代を渡り歩き、ひたすら無節操に撤して生延びた、「ろくでもない人物」フーシェを、生き生きと描いてゐる。政治的には變節漢であるフーシェだが、道徳的には實に立派であつた。フーシェにとつて、政治家は職業に過ぎなかつた。こんな人物がゐても政治は良くなりはしないが、ツヴァイクはそんなフーシェを興味深い人物として採上げた。
なるほど、フーシェは政治家として最低だが、しかし、此處まで非道い政治家が、日本には出現し得ただらうか。フーシェの場合、政治を愚弄し、愉しむ爲に政治家を操る事を徹底した。そんな事があり得たのも、結局のところ、フランスの政界にそんな人物を受容れる懐の深さがあつたからに違ひない。日本でそんなふざけた人間が、政治家としてやつて行ける訣がない。そもそも、政治家にならうだなんて思はない。喜六郎は、ふざけた人間だが、ふざける爲には政界に入つて當事者にならうと思ふ筈がない――傍觀者としてでなければ、日本では政治で遊ぶ事は出來ない。それは、逆に言へば、日本の政治が政治として全然成熟してゐない事を意味する。小沢にしても麻生にしても、俺には飛んでもない惡人には見えない。そしてどちらも、政治にはそれなりに熱心だ。自民と民主の政治家は、皆、權力鬪爭を熱心にやつてゐる。現實の政策を論じて、いろいろ文句を言つたり、黨の方針と云ふ事で從つたりしてゐるけれども――けれども日本の政治家には、正義を實現する・理想を實現する、と云ふ考へがない。否、「いい政治」を實現したくて、彼等は政界に入つたのだが(今の時代、政治家にならうだなんて、餘程の御人好しだ)、それは「いい政治」であつて、「理想に基いた政治」ではない。「國民の暮しが良くなれば良い」と云ふのは、理想ではない。自民黨にも、民主黨にも、理念はない――だから自民黨を脱けて民主黨に入る政治家が當り前のやうに「ゐる」訣だ。日本の政黨で、理念をもとに結束してゐるのは、共産黨だけだ(社民黨は「おかはいさうに」の感情論で結束してゐるに過ぎない)。革新政黨に對抗するのは保守派の政黨で、保守派は現實主義を標榜するから(現實主義は理想ではない)、理想はなくても大して困らない。けれども、現實問題として、人は理想を求めるのだ。この點で、日本の保守化した政治に國民が失望してゐるのも自然なのだ。「中二病」のやうな言葉が流行してゐるが、その結果として悟りすました(惡い意味で)禅坊主みたいな態度が定着して、日本人は若々しさを失ひつゝあるし、それを是としてゐるがゆゑに世間的に沈滞ムードが漂つても何うにもならない事になつてしまふ。景氣が惡いのは結果であつて、それ以前から日本の社會は澱んだ空氣に満たされてゐる。さう云ふ状況で2ちゃんねるのやうな場が一頻り賑はつて――結局それも數年で飽きられる事になる。惡口を言ふのでも、たいていの人は一通り言盡したら、飽きるものだ。斯うした状況には變革が必要だが、變革を起すには理念が必要で、その理念を「持つ」事それ自體を日本人は馬鹿にしてゐる。これでは何うにもならない。江戸時代の鎖國の時期にも、似たやうな状況は出現してゐた筈で、時代の閉塞は黒船の大砲で打破されたが、開國して數世紀を經た今となつては最う「維新」はあり得ない。ところが、維新があつても、日本の社會は常に閉塞ぎみであるのだ。明治時代の政治家の行動を我々は本で知る事が出來るが、今の政治家とまるで同じやうな鬪爭をやつてゐた。大正デモクラシーなんて言つてみても、そこで實現した政黨政治は、相變らず政治家同士が個人的に爭ふだけで、それまでの政治と何も變らなかつた。だからこそ軍部によつて政治が乘取られ、非道い負け戰に突進んで――そこで再びアメリカ軍に「第二の開國」をさせられたと云ふ訣だが、そのアメリカが「力を失つた」のであれば日本は何うなるだらう。反米保守の人々は、アメリカの勢力が消滅する事を「チャンス」だと言ふが、ナショナリズム如きで變はるほど日本の社會は生き生きとした力を持つてゐるか。派遣の問題なんて當座の問題を賣り物にして保守派の雜誌が部數を伸ばしてゐるが、御金で解決する問題を「論じて」ゐても世の中は何うにもならない筈だ。
平成二十一年一月二十七日
「本當に派遣社員に勤勞意欲はあるのか」と疑問を呈する人はゐるし、「派遣でゐるのは働く氣のない決定的な證據だ、人間として生きてゐる事は許されない、ガス室で『人道的』に處理せよ」と云ふ主張が通つて實行される可能性は、民主主義の國では、可能性としてはあり得る。が、日本の政治家に其處まで言ふ勇氣も信念もないし、ただ傍觀者の「ただの人」が粹がつて派手な事を言つて目立たうとするだけの事だ。そもそも「働く」と云ふ「美徳」の背後にはそれ以上の理念が存在しないし、存在しない理念を信じる人間なんて存在する訣もないから、言ふとしても理念に基いた激しい主張にはなり得ないし、所詮は欲得づくで言つてゐるか、ただ氣晴らしに暴言を吐いてゐるに過ぎない。ヒットラーを、變に仰ぎ見たり、變に貶めて見たりはするけれども、あゝ云ふ飛んでもない人物が出て來る程、日本の社會は活力を持つてゐない。ナチス・ドイツの招來した不幸ほど、軍國主義の齎した不幸は、悲慘なものではない。死者が出、物が壞れただけだ。結果として生じたのは、ふざけた文化の破壞だけであり、喜劇だけだ。
平成二十一年一月二十七日
ところで靴下にすぐ穴があくのだけれども、何うしたら良いんだらう。爪はちやんと切つてる。
平成二十一年一月二十七日
さう言へば、神保町の小宮山書店がリニューアルしたのを目の當りにしてしょっくをうけた事を書くのを忘れてゐた。
表のワゴンで塩野七生『マキアヴェッリ語録』とケルゼン『デモクラシーの本質と價値』を拾つた。

平成二十一年一月二十六日
下手くそな検索について - the OYAKONEWS@Hatena::Diary
最初から絞り込まうとすると巧く行かないよね。大雜把に檢索して、出て來る情報が多過ぎたら條件を追加して行くのがセオリー。
最初に「やり方」なんて言葉を入れて條件を絞つてしまふと出て來る情報も出て來ないんでないのと云ふ指摘は、その通りだな。
平成二十一年一月二十六日
ネットショップ『ベストカカク.com』2chの書き込みに激怒し予約中止! - プリキュア様崇拝日記

2ちゃんの煽りで真っ赤になって怒るなんて逆に恥ずかしいな

なんでちゃねらーつて必ず斯う云ふ事を言ふんだらう。
平成二十一年一月二十六日
こんな僻地までゴクローサン - 黄色いガードレールの上で
「義」の場合、最う粘着がネタにしかなつてゐないんだよな。
一方で喜六郎は年明け早々嫌みたらしくも一往の「粘着卒業」を宣言してゐて、それを俺が見ないでゐたものだから「闇黒日記」が喜六郎に粘着してゐる状態になつてゐて、此處に來て喜六郎がぶち切れてまたぞろ俺に粘着し始めてゐた。なんと言ふか――今まで粘着して來た喜六郎の所爲だからな。俺は何も惡くない。と言ふか、112の尻馬に乘つて俺を叩いた次の記事で、民主が麻生を叩いてゐるのを「時流に乘つて」とか言つてゐたのは何うか(してゐる)と思つた。前の日に自分が何をやつてゐたかくらゐは覺えてゐていいと思ふけれども、喜六郎の場合、本當に完全に忘れてゐるんだらうな。
ちなみに――
のあ&あやの
平成二十一年一月二十六日
俺は行當りばつたりに物を言つてゐるけれども、何時でも言つてゐる事の背後に一本筋を通さうとしてゐるから、だからこそ突込まうと思へば突込みが可能になつてゐると思つてゐる。
喜六郎の場合、本當に行當りばつたりで場當り的だから、矛盾でも何でも指摘したところで暖簾に腕押し、糠に釘で、何を言つても話が通じない。それにしても、今年に入つてからの喜六郎の「ブログ」のエントリ、毎日毎日政治批判ばつかりで、お前は朝日新聞の記者かと。あと喜六郎の掲示板を見てゐて気附いたのだけれども、相變らず右翼だ何だと言つてゐて、十年前のYahoo!掲示板のやうな――と言ふか小林よしのり全盛期(笑)がまだ續いてゐるのかと思つた。なんで政治の話を好んでする人々は毎日毎日同じやうな話題を飽きずに延々繰返し話せるんだらう。
ちよつと前に大學受驗の參考書か何かをぱらぱら捲つて見てゐて氣附いたのだが、明治時代の國會で當時の政治家は今の國會とまるで同じ政治鬪爭をやつてゐた――と云ふのは前に書いたけれども、さう云ふ事に氣附いてしまふと、改めて「今」の政治を云々する氣力は失はれる。「知らない」からこそ喜六郎は有頂天になつて政治批判をやらかせるのだらうけれども、まあ、やつても仕方がないと解つてゐて、それで批判を出來る訣がないのであつて、喜六郎は「やる意味がある」と思つてゐるのだらう。しかし、どう見ても喜六郎のは淺薄な、ぱつと見で「よくない」事を「よくない」と言つてゐるだけの「批判」だから、確かにその邊の人は同意して呉れるだらうが、別に言つても言はなくても何うでもいいやうな事を言つてゐるとしか俺には思はれない。百年前、五十年前、二十年前にも同じやうな事をやつてゐた政治家は「ゐる」のであつて、それを貶してみても、同じ事を言ひながら時に應じて固有名詞を入換へてゐるだけの事であつて、それなら文章として大して意味がある事ではない。それを「意味がある」と思ひ込んでゐるとしたら――と言ふか、思ひ込んでゐるからこそ、喜六郎は政治主義者なのであり、頭が惡いと言切れるのだが、さう言はれると喜六郎はむかついてむかついて仕方がない筈である。
その時その時の政治なんてものにはまるのは政治マニアの惡癖で、マニアだからこそ批判されると怒る訣だ。しかし實際問題としての政治は外野から何を言つても意味はないのだし、にもかかはらずそこで偉さうな事を言ふのがマニアのマニアたる所以。喜六郎はマニアだし、例へば西尾幹二、或は西部邁もマニアだ。だからマニア同士で詰らない事にいがみ合ひつゝ、マニアである事それ自體を批判されると結束して對抗する。アニヲタ或はゲームヲタと似たやうなものだが――アニメやゲームより政治の方が高尚だと思つてゐるから政治ヲタは濟はれない。喜六郎は、政治は高尚なものだと堅く信じてゐるから、俺みたいに政治家と八百屋とを區別しない考へ方をする人間を心から憎んで、しかし「高尚」であると云ふ自負から、憎惡をはつきり表に出す事が出來ず、侮蔑と嘲笑と云ふ形をとつて人に對しなければならない。それが喜六郎らの性格をひねこびたものにしてしまふ理由。
しかし日本人くらゐ政治と云ふものを無闇に持上げたがる國民も珍しい。しかも、持上げる割に、政治それ自體は陰濕でじめじめしたものになりがちで――日本の政治の悲劇と言ふ事が出來よう。政治を論じたがる人もさうした風潮を免れる事が出來ず、やつぱりじめじめとした陰濕なやり方を好んで、粘着ブログを作つたり、或は人の名前を騙つて惡戲をして見せたりと、下らない工作をする傾向が強い。アメリカにしてもイギリスにしても、政治的な手腕を持つた有能な政治家が澤山ゐる、と云ふ訣でもなく、ただ政治的なセンスを醸成する風土があつて、國民が政治の限界をはつきり認識しつゝ、やれる事はきつちりやる、と云ふ姿勢が定着してゐるやうに思はれる。日本だと、ひたすら「目立つところでうまくやる」事許りに氣を取られて、裏工作に走り勝ちだ。もちろん諸外國でも工作はするが、それでも表の場でそれなりに立派に恰好を整へて來るから侮れない。日本の場合、國會でも何とか委員會でもみつともない事をやつてしまふが、依然として後進國なのだなあと思はせられる。それを批判する國民も、喜六郎みたいに、大した事を言へない――と言ふか、所詮粘着アンチレヴェルの發想しか出來ない人間しかゐないから、處置なし。
平成二十一年一月二十六日
喜六郎の小屋 - 「野嵜健秀」化した民主党
喜六郎は政治バカ。政治とそれ以外のものとを區別できないでごつちやにしてゐる。俺は、麻生の漢字テストなんて馬鹿な事をやつてゐるなあと思つてゐた口だから、この喜六郎の記事の最後の二つのフレーズは完全に的外れ。西尾や西部は學者だから、ちやんとした文章を書かなければ駄目と云ふだけの話。政治家の文章なんて一々添削する氣もない。何で解らないんだらう。どうも喜六郎は、前から俺の本當の姿を見ないで、非難するのに都合の良い「愚かな野嵜健秀」と云ふ架空の存在を頭の中に構築して、それを罵つてゐるものらしい。さう言へば「義」も「野嵜健秀」なる架空の人物をでつち上げてゐたな。アンチは妄想が激しいらしい。
と言ふか、下劣で陰湿な文章添削と言ひたいが爲に、喜六郎もこんな古い時事ネタを持出したのだらう。最う漢字テストの話なんて誰も覺えてゐないよ。俺を攻撃する爲に麻生總理が利用された、だなんて、名譽な話のやうなさうでもないやうな。取敢ず、斯う云ふ記事の作り方は、喜六郎は下手だと思ふ。
と言ふか、何時までも「文章添削批判」だけで「商賣」するのは、やめなよ。それで十分「信者批判」として成立つてゐると思ふのは、飛んでもなく甘いと思ふ。或は、知的怠惰と言ふやつだ、もつと頭使へよバカ。アンチのドグマティックな態度は、最う爆笑を誘ふだけだ。
平成二十一年一月二十六日
OKULO | 闇黒日記
俺が或集團の傾向を論じると、必ず「いや、人には個性がある」式の反論がある。「日本人論」でもさう。さう云ふ反論こそ卑怯だよ。だつてそれだと最うエスペランティストと云ふ概念も日本人と云ふ概念も「成立しない」と云ふ主張に行かなければならないのに、其處まで立場を徹底させて反論する積りなんてないんだから。
しかし。

 ということは、彼にとって鯨のことはまったく眼中になかったようだ。ずいぶんと莫迦にされたものである。

斯う云ふ風に人は受取るものなのだなあと思つた。
けれども、そんなに「獨自」の立場でゐたいのなら、エスペラントでも何某國民でも、立場を捨てればいいんだよ。この人、エスペラントと云ふものを擁護しようとして、エスペラント批判に反論を書いた時點で、最うエスペランティストと云ふ存在なのだけれども、その自覺がなかつた。
何で都合良く「集團の中の一人」と「個人」とを行つたり來たりするんだらうと、何時も思ふ。
私は(私に限つては)さうではありません」と云ふ「反論」は、しても良いけれども、その時「あなた以外」の人に對してなされた批判は全部「通用して良い」と云ふ態度が必要だ。「私」を守りたければ「私以外」の人間は「見捨てる」と言はなければならない。エスペラント批判に對する反論で「エスペランティストの中でも特に私」は違ふと言ふのならば、その他のエスペランティストに對する批判は受容れなければならないし、その時點で最初のエスペラント批判は有效になつてしまふ。
「エスペランティスト全員をひつくるめて批判する」事が不可能であると言ふのなら、「エスペランティスト全員をひつくるめて擁護する」事も不可能と云ふ事になる。その時點で「エスペラント批判」は部分的であれ眞實となる。さうなると「反論」は意味をなさない。――論理の話だ。簡單な話だ。
平成二十一年一月二十六日
レーヴィット『共同存在の現象学』(熊野純彦訳 岩波文庫)を出た時に買つて來たのだけれども、何うしても讀めない。飜譯が非道過ぎる。

「私たちは反省を介して目覚める。すなわち、私たち自身へと還帰することを強制されて覚醒するのである。だが、抵抗を欠いてはいかなる還帰もなく、客体なくして反省は考えられない」。人間がじぶん自身に立ちもどるのは、とはいえたいていは「客体」からではなく、主体から、つまりみずからとひとしい者たちからだ。人間がとりわけて立ちむかう「世界」は、人間に応接する共同世界であるからである。……。

「序論」の冒頭で、最初にシェリングからの引用が出て來るが、引用だからまあ許すにしても(「還帰」つて何だらうと思ふが、學術用語なんだろ)、「人間に応接する共同世界」つて何だ。
意味のないひらがなもむかつく。なんで無意味にひらがなにひらくのだらう。漢字のひらきを作つてもおいしくないぞ。
二十四ページ。

ディルタイが「作用連関」としての「正の連関」を、また「人間世界」としての「世界」を語るとき、かれがもともとまなざしていたのは、この共同相互存在の世界である。

「まなざし」と云ふ名詞はあるが、「まなざす」等と云ふ動詞があるとは知らなかつた。岩波国語辞典にすら載つてゐない。こんな變な日本語を知つてゐるとは熊野氏、隨分凄い先生なのだらう。
開卷早々わけのわからない日本語が連續して、讀む氣をなくした。何うしてこんな非道い飜譯を、岩波は平氣で出版できるのだらう。
例へば、サンリオSF文庫の非道い飜譯は、具體的な描寫があるから、想像で何とかなるけれども、斯う云ふ抽象的な内容の哲學書だと想像で何とかなるなんて事はあり得ない。だからこそ注意して飜譯すべきだし、何とか意味を取れる日本語に仕立てるべきなのだが、それが專門家の人には解らない。そして、文句を言ふと、「知らない人間は默れ」式の壓迫が、讀者に加へられる。
平成二十一年一月二十六日
http://anond.hatelabo.jp/20090122140158
http://akkycc.tumblr.com/post/39296072
詭弁の特徴のガイドライン
詭弁のガイドラインとは - はてなキーワード
平成二十一年一月二十六日
ヤブ医者ブログ: 事実に対する仮定は詭弁か?
平成二十一年一月二十六日
WiLLに西尾幹二の論文が掲載されてゐるのを立讀みしたが、恐ろしい事に今さらナショナリズムの昂揚を叫んでゐて何だと思つた。これがかつてのニーチェ學者だと言ふのだから、聞いてあきれる。
三島由紀夫の事を書いた西尾の本を買つて來た。取敢ず半分位立讀みしたが、内容が薄い事は否めない。
平成二十一年一月二十六日
氷上英廣の『ニーチェとの対話』を讀んでゐる。最初はやつぱり内容が薄い感じだつたが(ゲーテが山登りした話なんて大した内容ではない)、ニーチェとドストエフスキーの關係を論じた文章邊から段々讀めるやうになつて來る。アンチキリストのニーチェが實はキリストその人をドストエフスキーと同じく「白痴」と見てゐた事――D.H.ロレンスが『默示録論』その他でキリストその人をどう見てゐたかと關聯させて考へると興味深い(氷上氏はロレンスを論じてはゐないが、関聯がある事を示唆してゐる)。ゲオルゲとリルケに關する文章では、藝術至上主義を論じてゐる。宗教や倫理の價値を排した藝術の純化は、神性を排した人間性の解放と同じで、近代の現象であり、近代的人間の危機に繋がるものであると氷上氏は指摘してゐる。ヨーロッパの藝術至上主義は必然的に破綻し、反動を生ずる――と云ふ話だが、まだ途中なので結論まで書けない。
平成二十一年一月二十六日
http://d.hatena.ne.jp/smallball/20090126/p1
まあ精神科に行つて呉れるやうなら最初から變な事はしないと思ふんだ。
はてなブックマーク - ネタ帳とHolyGrail、なぜ差がついたのか?慢心・環境の違い?

平成二十一年一月二十五日
釣りをしてたつもりもないのに珍魚が釣れていて誰かがキャッチ&リリースしておいてくれていたらしいことに今頃気づいた件
例のリキッドデザインとかの話。
平成二十一年一月二十五日
初心者を馬鹿にしているのは誰か
最う隨分前から氣附いてゐるのだけれども、それなりに長くウェブを使つてゐる人でも案外うまくウェブの檢索サーヴィスを利用してゐない事がある。
例へば俺なんかは「あかね色に染まる坂」の情報を探すとしたら「あかね色」でぐぐるが、案外「あかね色に染まる坂」と叮嚀に全部打込む人は多いのでないか。英語の單語で調べようとする時にも、俺はうろ覺えで適當にぐぐつて「もしかして」で正しい綴りが出て來るのを期待するけれども、先に辭書を引いて正しい綴りを調べてから檢索しようとする人は多いのでないか。
少し前まで、LCPのデフォルトキーワードは「しょぼい 」だつた。これはアニメのタイトルを後ろに入れて「しょぼいカレンダー」にひつかける目的でやつてゐたものだ。自分一人で使ふにはこれがベストだつた。さすがに一般の人には迷惑だらうと(と言ふか、詰らんだらうと思つて)昔のやうに適當な時期に適當に書換へるやうにしたけれども、しかしこの好い加減なキーワードで十分引掛つたのだし、寧ろ檢索キーワードは曖昧にしておいた方がいろいろ引掛かつていい。
一發で適切な情報を引出さうとする嚴密主義的な態度が、案外素人さんや初心者さんのみならずそれなりにウェブを使つてゐる人にも見られる。そこまで嚴密にやらなければならないの? と思つたりするのだが、檢索をかけるまでの準備に割と多くの人が一生懸命になる。さう云ふのは「下手」な使ひ方だらうと思ふのだが、何うだらう。俺は兔に角先づは檢索、適當なキーワードで檢索して、それでも結構ちやんとぐぐる先生は的確に必要な情報を示して呉れるし、駄目ならまた適當にキーワードを追加して絞り込んで行けばいい――好い加減にやつてもそれなりに何とかなるのが現在のGoogleなのだし、その好い加減さを使ふ事が「巧く使ふ」事だらうと思ふのだが――何うも世間の人は皆、眞面目らしいのだ。
平成二十一年一月二十五日
もちろん、正確にキーワードを打込んだ方が良い事もあるけれども、キーワードの部分でぐぐると正式名稱や正確な名稱が出て來るので、そこでそれを撰擇して改めて檢索をかける――と云ふ事がOperaだと簡單に出來る。
平成二十一年一月二十五日
虹裏で知つた『二丁目路地裏探偵奇譚』を讀んだ。
そんなに大した内容ではない筈なのに一氣に讀めない。結構疲れる。今のところ二卷まで出てゐる。
平成二十一年一月二十五日
WHITE ALBUMが、觀てゐていらいらする展開なのだが、意外と後を引いてなぜか視聽繼續中。
平成二十一年一月二十五日
http://d.hatena.ne.jp/smallball/20090125#p1
「義」が暴れてゐるらしいが、俺の知合の人にこんな事をやつてもみんな「義」の仕業だと知つてゐるから意味ないよ。
不特定多數の人にこの手のメールを送りつけてゐるのなら、完全な犯罪だよね。なんで斯う云ふ犯罪者に、俺は憎まれるんだらう。
「義」にしても喜六郎にしても、俺に嫌がらせをして何をしたいんだらうね。俺には彼等がやつてゐる事の意味が解らない。俺は別に間違つた事なんてしてゐない積りだ。連中だつて俺の何が惡いかを何も言つてこないんだから、俺が惡い事をしてゐるとは本當は思つてゐないんだらう。連中は、俺をただ罵倒し、俺に嫌がらせをして、喜んでゐるだけだと、俺は理解してゐる。俺には「何の非もない」から、連中は俺に嫌がらせをしてゐるのだらうと。
解るやうに言つて呉れれば俺だつて反省すべき點は反省する積りだ。けれども、「義」みたいな事をされても俺は反省する事が出來ない。喜六郎の「ブログ」だが、これは惡意が露骨過ぎて、見るに堪へないから、見てもゐない。見てほしければ見て貰へるやうに努力しようよ。喜六郎の文章なんか、氣持ち惡くて、まともな人間はみんな讀んでゐないよ。トラックバックを送り附ければ讀むだらうとか、横着な考へ方はするな。
俺は何時でも正しい事を言はうとしてゐるし、正しい事をしようとしてゐる。その「しようとしてゐる」意圖だけは汲んでほしいと思ふのだが、意地でもそれだけは解つてやらないぞみたいな雰圍氣が「義」や喜六郎から傳はつてくる。連中の惡意が俺にはさつぱり解らない。なんでそんなに惡意で人を見る事が出來るのだらう。
平成二十一年一月二十五日
「アレクセイの花園」の田中幸一こと沖泰光が、俺の惡口をアンチに書かせる爲に掲示板を作つた事があるけれども、あれと同じ事を喜六郎もやつてゐる。なんで俺の事が嫌ひな人々は、同じやうなをかしな行動をとるのだらう。
何うも俺の事を嫌ふ人々には、特定の行動パターンがあるやうな氣がする。即ち、仲間と一緒に「嫌な奴」の惡口を一齋に言ふ、それを殊さら見せ附けて「嫌な奴」を不快にさせようとする――「義」なんかは單獨行動だが、それでも「嫌な奴」が不快になるやう行動して、仲間と共同歩調をとつてゐる事は明かだ。ただ間接的な接觸で「義」の場合は滿足してゐる。その邊が途轍もなく氣持ち惡いが――實際のところ、この手の人種はとても氣持ち惡い存在だと思ふ。ストーカーは氣持ち惡い存在だ。
正直、ストーカー行爲の中に入れて、斯う云ふ行動は取締れるやうにすべきだ。治安維持の爲には、この種の氣持の惡い行動は最う警察で取締るやうにしなければしやうがない。今となつては完全にモラルが崩潰してゐるのだから、社會だの何だのに期待しても始まらない。警察が治安を維持して行くしかない。それでウェブが息苦しいものになつてしまつても、さうなるやうにしたのは「ネチズン」自身の責任だ。喜六郎や「義」は、今は「自由」を謳歌してゐるが、こんな事を續けてゐては、ウェブでの「自由」が規制される事になつてもしやうがない。喜六郎や「義」は、ウェブの「自由」を惡用して、結果としてウェブを殺さうとしてゐる。
ただ、どう見ても、喜六郎や「義」は、民主主義や自由主義を嫌つてゐて、ウェブなんてものは無くなれば良いと思つてゐるらしき節がある。連中は自分がリアルな社會で立場にゐる、と云ふ自負から、ウェブはニートで無職の人間が遊び惚ける場だと信じてゐる。だからこそ、俺のやうにウェブで物を自由に言つてゐる人間が氣に食はなくて仕方がない――俺のやうな人間は自分の立場を考へない人間で、連中は自分の不自由さを心の中で「誇り」に變換して何とかやつてゐるのだから、俺みたいな人間が現れると自分の「誇り」が傷つけられたやうに思つてしまふ。だから「義」なんかは執拗に俺の事を無職と言つて嘲つてゐたのだ。喜六郎にしても、「義」と似たやうな言ひ方で俺を嘲つてゐたのだから、心理は同じ。ウェブを憎む――と言ふより、連中は「自由にものを言ふ」事それ自體を無茶苦茶憎惡してゐる。
平成二十一年一月二十五日
――と書いたが、アレクセイの行動パターンはこの解析に當嵌めて説明できるのか。何うやら、あれも「アレクセイ・ホランド・ナイルズ」の一人三役を使つてゐるのを見れば、自分自身の口で「自由にもの言ふ」事が出來ないのを、不滿に思つてゐるのだ。それで俺が俺自身の口で物を言つてゐるのが憎くて憎くて仕方がなかつたのだ。木村さんが木村さんとして物を言つてゐたのも氣に入らなくて、自分のフィールドに引きずり込んで騙し討ちを仕掛けたのもその所爲だ。人格が分裂してゐるのだから、あれは明かに精神異常で、精神異常なのを隱蔽する爲にあれは「演技」で「遊び」だと言張つてゐるに過ぎない。
コンプレックスでも何でも持つてゐなければ、人はハンドルだの僞名だのを使はないよ。一方で、匿名を使はなければならない、と云ふのも一つのコンプレックスを顯す原因となる。匿名を使はなくても自由に物を言へるのなら、何も抑壓はない訣で、逆に匿名を使はなければならない・ハンドルや僞名を名乘らなければならないとなると、相當の抑壓が生じると言つて良いと思ふ。2ちゃんねらーが皆、自由に物を言つてゐるやうで、相當鬱屈した感情を抱へてゐる事は――或は、匿名で「ブログ」や掲示板に書込む多くの人が、鬱屈した感情を抱へてゐる事は、彼等が常にひねこびたやうな文體を用ゐる事實に、はつきり表はれてゐる。
喜六郎の、妙にはつちやけたやうな文體も、わざとあゝ云ふ人間を「演じてゐる」事が判つてしまつて、可なりイタい。アレクセイの自作自演・一人三役も、「キャラを演じる遊び」であつて、やつぱり不自然で、陽氣さの背後にじめじめとした暗さを感じさせる。
數年前の一時期は、その邊のおつさんが「ほーむぺーじ」を作つて遊ぶのがブームで、おつさんは屡々「如何にもおつさんらしいおつさん」を演じて喜んでゐたものだが、イタいにしてもあれなんかはまだしも微笑ましいものだつた。が、その人におつさん臭さや、當人「いい」と思つてやつてゐたのだらう、演じてゐる「タヌキ」だの何だののキャラの馬鹿らしさを指摘すると、その人、かんかんに怒つたものだ。
その手の人が屡々妙な主張をしてゐる事があつて、「南京大虐殺」でも何でもやつぱり變なキャラを作つてゐる人が言つてゐたものだが、俺はその邊の變な事を度々指摘した。その結果として俺は憎まれる事になつたのだらうが――しかし、やつぱりその種の下手な演技は、何かのコンプレックスの裏返しなのだと思ふし、となると變な主張や變な論理も同じくコンプレックスの裏返しだと解釋せざるを得ない。憲法の話でも、大日本帝國憲法と「日本国憲法」の連續性の話なんてものは當り前の話なのだが、喜六郎のやうな變な人はそれを理解しようともしないで、憲法の「出自」の話を持出してくる。それで「どつちも出自があやしい」のだから「どつちの憲法も權威はない」と結論づけて、「日本国憲法」に「權威はない」と、普通に言へばいいのに、なぜか「日本国憲法の權威」を認めてしまふ。變にねぢけた「論理」が展開されてゐるのだが、この邊の妙な「論理」を使つて無理を通さうとする人は、何かのコンプレックスがあつて道理を認められないのだらうと思ふ。
俺としては、抑壓やコンプレックスの存在を何とかする事が、世の中の風通しを良くするのには一番だと思ふから、何時でもその存在を指摘して意識させようとするのだが、意識したくない事だからコンプレックスだし抑壓である訣で、俺に指摘されるとたいていの人が怒る。俺が「怒らせるために怒らせてゐるのだらう」と彼等は短絡的に思ふらしいのだが、そんな意圖はこちらには無い。「義」なんかに嫌がらせされるだけの結果になつてゐるのだし、「義」の存在をみれば俺が單純に樂しむ爲にやつてゐるなんて事があり得ない事實は誰でも解るだらうと思ふのだが――俺が「義」に嫌がらせをされて喜んでゐると、喜六郎やその取卷きは思つてゐるのだらうか。さう思つてゐないからこそ、嫌がらせをされれば俺が不快になると知つてゐるからこそ、喜六郎らは俺の惡口を言ひ、俺に粘着してゐるのでないか。だが、その事こそが、俺が樂しみなんかの爲に物を言つてゐるのでない決定的な證據だ。
平成二十一年一月二十五日
昔どこかで「ウェブで匿名で人を中傷して樂しまなければならないほど現實の世界で鬱屈した人生を送つてはゐません」とか書いてゐた人がゐたけれども、一言で言へば、まあ、さう云ふ事だな。
平成二十一年一月二十五日
警察の人にも「鈍感力」が必要とか言はれてゐる訣で、「義」なんかの嫌がらせも氣にしないでゐる積りだからいいけど――これで「義」がぶち切れて俺を殺しに來たりしたら大騷ぎだよな。
今年はウェブサイト再活性化の試みとして「闇黒日記友の會」だか「反省(しない)會」だかみたいな感じで週末か何時かの夕方に神保町邊で集まりでもやらうかと考へてゐたのだけれども、どうしたもんだらう。
平成二十一年一月二十五日
マクセル臺灣の十六倍速DVD-Rでもエラー。最うDVD-Rは駄目だと思ふ。
平成二十一年一月二十五日
Junkieta Fragmentの「Note,2009-01-25, 手作業に飽きてきた:」。

……。僕は自分の雑記執筆スタイルにもそろそろ飽きてきている。毎回毎回「index.htmlを開いてDLを目で追ってDTに日付を挿入してDDを打ち込んで初めて雑記を書き始める」というその手間が、もう許せなくなっている。そして書き上げた後で文末のupdatedを書き換えて、それから月別一覧ページにコピペして、FTPでサーバーに上げる…なんて作業が残っているから、少し文章に詰まるだけで書き上げようという気力まで失ったりしてきた。ツールに思考が制限されるのが嫌だといって自動管理システム作る・使うのを避けていたけど、ちょっと考え方を変える必要があるかもしれない。

俺は毎囘毎囘diary.htmlを開いて、dlやらdtやらを目で追つて――と其處までは一緒だけれども、dtは毎囘「前」のところからコピーして、適當に日附を合はせて、あとはddに適當に文章を打込んで、それでFFFTPで鯖にぶち込んでゐる。實際「それだけの作業」でしかないと思つてゐて、さつぱり手間ではなかつたりするので、「闇黒日記」の更新は大したものでもないと思つてゐる。FFFTPだと「前囘」作業してゐたディレクトリが出て來るから、毎囘同じomakeフォルダで作業をしてゐると、決り切つた作業が目の前には「ある」だけで、大した手間に感じられない。updateの日附まで手動で手直ししてゐると、確かに手間だらう。其處まで俺は叮嚀に作業してゐない。

ただし修正は楽でも、更新に手間がかかる今のやり方だと、新しい記事をアウトプットするのが面倒。原稿書いてマークアップして、まではいいんだけどその後の作業のせいで、ああもうお蔵入りでいいや、とかすぐ思ってしまう。あれはほんと、嫌な気分だけが残る。

眞面目な人だと眞面目に更新しようとして眞面目に文章を書いて眞面目に更新履歴なんかを表示しようとするから面倒になるんだらうと思ふ。俺なんかは何處までも好い加減に濟ませる事でその邊の精神的な負荷を引下げようとしてゐる。
「適當にやる」と云ふのは更新頻度を上げるのには大變重要な事で、ひたすら眞面目にやつてゐたらそのうち自分で自分を許せなくなる。勿論、適當なやり方は叩かれる理由になるし、俺もしよつちゆう叩かれてゐるけれども、その邊は「百も承知」と割切つてやるのも――「ウェブ日記」でも「ブログ」でも、アクセスを集めるのが目的であるならば、必要な事だと思ふ。
平成二十一年一月二十五日
思ふに、「ブログ」を眞面目に書かうとしてゐる人は、「ブログ」で勝負しようとしてゐる人なのだ。けれども俺はこの「闇黒日記」で、人を集めても、それは「闇黒日記」以外の「言葉 言葉 言葉」と云ふサイトの記事、殊に正字正かなの記事に人を誘導しようと云ふのが目的であつて――言つてみれば「闇黒日記」は「人寄せ」の爲のパンダのやうな存在でしかない。それ自體にはただ樣々なネタを仕込む事に主眼があつて――人目を引く事、それ以上には目的がない。そして、うちの記事に人を誘導するのは、そこから先、うちのサイトに書かれてゐないけれども示唆されてゐる事、福田恆存とか、松原正先生とか、さう云つた立派な評論家の方々、或は、橋本進吉や時枝誠記、或は山田孝雄といつた人々の主張に讀者が興味を持ち、それらを直接參照するやうにする事を――さう云つた人々の著作に直接アクセスするやうになる事を、俺は意圖してゐる。だからこそ「闇黒日記」は抛げつ放しのアイデア、或はネタ發言だけで構成してゐるのであり、しかしさうしたものの背後に何かが「ある」のでないかと讀み手の人々に示唆する事が出來ればそれで充分だと云ふ考へ方がある。「闇黒日記」自體に價値は無いと思つてゐるし、そこから先に讀者・閲覽者の人が進んで呉れる事を俺は希望してゐる。だからこそ俺は「闇黒日記」の更新に、そんなに眞面目にならないし、敢てならないやうにもしてゐて、ひたすら「更新する」だけに留めてゐるし、それで充分效果が擧がつてゐると思つてゐるし、それでダメな人は「切り捨て」てもいいと思つてゐるぐらいだし――そもそも俺はウェブサイトの更新にそんなに本氣になつてゐない。
「闇黒日記」以外のコンテンツに就いても、そんなに深く考へないで、兔に角數だけ増やす、或は記法を氣にしないで内容だけ増やす、と云つた事だけを實踐してゐる。
平成二十一年一月二十五日
俺は非常に不思議に思ふのだが、「ブログ」に多くの人が異常に熱意を捧げてゐる。俺にしてみれば、「闇黒日記」のやうな「ウェブ日記」でも「ブログ」でも、所詮は「おまけ」に過ぎないものだ。其處では所詮、時事的な記事だけがあり得る。時事的な話題は永續的な話題ではあり得ず、價値は低い。當座、アクセスを集められるだけで、永續的に價値を持ち續けるものではない。意外な事に、さう云ふ事實を忘れて、SEOとか何とかの觀點から「ブログ」の價値は高く評價されてゐる。だが、「ブログ」にそんな價値がある訣がない。
だから、「ブログ」のプレゼンテーションに特化した「HTML 5」に價値は無いと俺は斷定するのである。なんでそんなに「ブログ」を高く持上げねばならないのだらう。過去帳行きとなつた「ブログ」の記事は全て價値をなくす。數日すれば「ブログ」の記事は價値が無くなる。ならば「ブログ」に永續的な價値はない、と言ふのが正しい態度だらう。何でそんな事も皆解らないのだらう。
平成二十一年一月二十五日
ええと今夜は貰ひ物の赤ワインをかつくらつてへべれけの状態で書いてゐるので、文章がぐだぐだでもかんべんしてね。へろへろ。
平成二十一年一月二十五日
「義」にしても喜六郎にしても俺を何う斯うしようとは全く考へてゐないんであつて、だから彼等は自分たちだけで樂しむ爲に嫌がらせをやつてゐる。で、それを知つてゐるから俺も喜六郎の「ブログ」なんか自分からは一度も讀みに行つた事がないし、「義」のだつて報告がなければ全然氣にしない。逆に言へば、報告する人がゐるからこそ俺は「義」が何かやつてゐると氣附くだけの事であつて、それで三分ぐらゐなんかいやな氣分にはなるけれども、「義」の行爲だからこそ「また『義』か」程度の感想を抱いたらそれで御終ひ。「義」は「義」である時點で最う俺に對する嫌がらせとして效果を失つてゐるんだよ。それでも「義」が嫌がらせをしてゐるとしたら、それは最う何處か別の世界での話にすぎなくて、「義」のひとりあそびに過ぎない。勿論、意地になつて俺が本當に不愉快になつて自殺でも何でもするやうな事をしたら、それは犯罪で「義」は告訴されて逮捕され、前科がついて就職にも支障を來すやうな事になるだけだから、やりたければやればいい。俺は喜んで「義」の人生を目茶目茶にしてやるが、それは「義」自身が選んだ道だ。俺は他人の人生に責任を取れない。
何うせ「義」と喜六郎しか俺の事に文句を言つて來る人間はゐないんだし、俺は安心して今までのやり方を通すだけだ。それに「義」と喜六郎が文句を言つて來ても、それは奴らのルーチンワークにすぎないから、こちらも全然氣にしない。何年も粘着し續ければ效果が薄れる事ぐらゐ、解るだらう。「義」も喜六郎も、俺に耐性をつけさせるだけの爲に粘着してゐただけで、批判として何の意味もないんだよ。馬鹿。
匿名での批評なら、一撃必殺の致命的な攻撃の仕方をすべきで、それが出來なくて粘着するなんてのは愚の骨頂だよ。結局のところ「義」にしても喜六郎にしても、俺を一撃で仕留め損なつて、それで粘着してゐるのだから、連中こそ恥を晒してゐるやうなものだ。俺は一度として連中に一番痛いところを衝かれた事はない。ならば俺は無傷だ。俺に傷をつけられるやうな偉い奴が出て來るならばそれに越した事はないし、さう云ふ人間の出現を俺は十年待ち續けてゐる。粘着なんて低級な人間に俺が負けられない所以である。
と言ふか、いいかげんうちを越えるサイトが出て來て良い頃だよ。
平成二十一年一月二十五日
Webページを使うユーザの姿は見えているのか? (おさんぽさんぽ)
と言ふか、「IEか、Firefoxか」みたいな、二者擇一の状況に陷つてゐる事自體が、インターネット産業なるジャンルの狹さを端的に示してゐるんだよ。と言ふか、unixとWindowsしかOSの選擇肢がないと云ふのも、さう。PCが一般化し大衆化したと言つても、そこでは産業が成立たないんだから、何うしやうもない。
IT産業の誇りは、收益だの何だのを擧げられる事ではなく、わけのわからんプロダクツが群雄割據できるリベラルな雰圍氣ではなかつたか。
平成二十一年一月二十五日
やり方検索 - the OYAKONEWS@Hatena::Diary
いや、適當に單語でも何でも並べて、出て來る情報がそれなりのものならいいぢやん。俺なんかはさう云ふ適當な檢索をする方がよつぽどまともな檢索のやり方だと思ふ。きつちり完全なキーワードを入れて檢索しようとして、下準備に手間がかかつてゐるとか云ふ方がよつぽどアレだし。「やり方」檢索でもいいぢやん。
ところで「てにおは」ではなくて「てにをは」。
「てにおは」とは申しません

平成二十一年一月二十四日
ずつと文句を言ひ通しだつたTH-15LD70が先日内藏ソフトウェアをアップデートして呉れて以來動作が輕快になつた感じがする。俺が散々惡口言つた所爲ではないんだらうけれどもやつぱり作つてゐた人逹もいろいろ氣になつてゐたんだらうな。
平成二十一年一月二十四日
不毛な論争は続く - 黎明日記
ユーザが出した要望を「馬鹿なユーザは默つてゐろ」と言つて切捨てる開發者は、ちよつと何うかしてゐると思ふんだな。さうした要望が「ある」と云ふ事實を眞正面から受止めて、「さうした要望に應へる事でより良いシステムを作る事が出來る」と考へるなら、その開發者は隨分「向上心がある」と思ふ。
平成二十一年一月二十四日
アニメでも文藝でも、或は政治でも、領域は關係ない、ITだか何だかでもさうだ、「批判するなら誰でも出來る」式の言論封殺が横行してゐる。「自分で作れないのなら・自分でやれないのなら、默れ」と云ふ頭ごなしの言ひ方、これが日本では飛んでもなく暴力的に、批判者に投附けられる。俺は、批判する事こそが――それこそ素人が積極的に批判する事が、專門家・玄人・プロの「專横」を阻み、「專門的な領域」を閉鎖的にするのを防ぐ、最良の手段だと信じてゐる。何であれ閉鎖的である事・何も言へなくなる事が、一番良くない。世間はもつと風通しが良くていい。その爲には、何も知らない・曖昧で不正確である意見であつても、みんなどんどん言ふべきだ。それを頭ごなしに叱り附け、默らせる爲に暴力的な手段を平氣で使ふ――そんな事が起きたならば、それこそ皆で力を合はせて、自由な言論を護る爲に戰ふ必要がある。「自分の言つた事には責任を持て」と云ふ言ひ方が、ただ發言を控へさせ、萎縮させるだけの爲に用ゐられるのなら、「責任ある言論」なんて觀念は、糞でも喰らへ。「人間として言つてはならない事」を言はないと云ふのは當り前だが、さうではないのなら、人は、それこそ無責任に、どんどんものを言つた方がいい。そこで矛盾でも間違ひでも言つてゐるならば、指摘すれば良い。指摘する「必要をなくす」爲に發言者の發言を封じ込める、と云ふのは、寧ろそれこそ横着で無責任なやり方だ。俺は最う何年も、さうした無責任極まる暴力行爲に惱まされて來た。政治的な主張をしてゐる人――に限らず、文系方面で駄目な人が結構ゐて、「南京大虐殺」にしても憲法の問題にしても、興味を持つてゐる人が、俺に反對して、俺の發言それ自體を封殺しようと何度となく嫌がらせを仕掛けて來た。さう云つた非道い眞似を、ウェブの理系の人が仕掛けて來た記憶は、今のところは一度もない。俺は理系的な發想が出來ない典型的な文系人間だが、理系の人・プログラマの人に理性的で論理的であるのみならず公正であつさりしてゐる長所を屡々見出してゐて、それゆゑ理系の人相手に理系的ならざる話を平然と振つてみたりしてゐる訣だ。文系の人でも理系の人でも――確かに、まともな人はまともだし、變な人は變なのだが、根本的には變らない同じ人間だし、ただ理窟を言つたら、文系の、殊に「思想的」な人なんかより、理系の人の方がよつぽど良く通じる。理系の人は、變に思想にかぶれてゐない人が多いから、變に政治的に偏向してもゐないし、思想的・政治的な主張を持つてゐても、正反對の主張をしてゐる人間の意見をそれなりにまともに聞く姿勢を持つてゐる事が多いから、話が成立つ事が思つた以上に結構よくある。ならば俺が文系人間だからと言つて文系の人だけを相手に物を言つてゐる必要はないと思つた。
平成二十一年一月二十四日
意見の違ひから・考への違ひから・知識の量の違ひから、相手の言つてゐる事に反對したり、間違ひを指摘したりする事はあり得るし、それで話が通じるのなら、互ひに何か得るところがある筈であつて、それはいいんだ。
良くないのは、「反對するだけの爲の反對」であつて――さう云ふのを俺は何度となくされてゐるけれども、話が通じないのなら、それは誰をも裨益しないし、互ひに屁の役にも立たないのであつて、時間の無駄であるのみならず、さう云ふ事をやつて快を貪るのだから寧ろ有害であるとすら言へる。ところが、ただひたすら馬鹿笑ひをして他人を嘲るだけの事を、今の結構多くの人が、當り前の事と思ひ込み、或は、時として、そんな下らない事を「大變に善い事」だと勘違ひしてゐる事がある。
俺は文系の人間だから、理系の人と話をするのは、寧ろ有益で、得るところが多いと思つてゐる。同じ文系である人と話をしても、屡々何も得られない事があつた。ただ思想的に對立してゐるだけでは結局のところ「同じ發想」に基づいて異つた事を言つてゐるに過ぎず――或はそもそも發想なんてもののない人ならば、ドグマティックな「議論」が行はれるだけであつて、互ひに話が通じない、と云ふ事になる。それこそ不毛だ。
平成二十一年一月二十四日
向上心なんてものを俺は全然信じないのであつて、ただ人は裨益される事がある――それで常に精神を新たにして行く事が出來るだけだと思つてゐる。進歩なんてものはさうさうあつたものではないし、言葉で言はれただけで良くなつて行くのだつたら人間は便利なものだ。そんなものである訣がない。「自己啓発」の本なんかでも、一方的な意見を聞かせられて、それで「啓発」なんて事がされ、金儲けでも何でも出來るやうになるものなら、話がうますぎる。
が、「国益」なんて言葉でも同じだけれども、「自己啓発」でもさう、日本人はただ物質的なメリットを得る事を、人間的な向上だと思ひ、國家的な利益だと思ふ傾向がある。「士氣」でも「誇り」でも同じ、結局のところ「よくはたらける」とか云つた事が重要であるのなら、精神とは關係ない、物質的な話だ。國民が金錢的に設けられるのも、國家が他の國家から尊敬されて國際社會で優位に立てるやうになるのも、何れもただ利益を得るのが目的なのであつて、精神的に向上する事ではない。會社で有能だと認められたり、或はベンチャーで獨立して優れた經濟人に見られたりするやうになる事を、どの「自己啓発」の本でも、素晴らしい價値のやうに言つてゐる。が、そんなのは價値でも何でもない。ただ自分を賣込むのに有利になる、と云ふだけの話だ。それは結局、金儲けと何も變らない。物質的な目的を追究してゐるだけの事だ。
日本人は、精神と云ふものに關して甚だ無頓着で、精神的な修養と云ふのが「ある」としたらそれは物質的な利益を上げるのに有利になるから採用されるに過ぎないと信じてゐる。だからこそ、詰らない事で自分を立派だと信じ、また他人を蔑む事が出來る。俺なんかは、その所爲でしよつちゆう馬鹿にされてゐる。が、その結果として日本人は對話をしようともしないでゐる事が屡々ある。對話の必要性を認めない事こそ精神的には何の向上心も持つてゐないと云ふ事實を示す決定的な證據であるのだが、日本人は精神に就いて何も知らないから――知らないがゆゑに、非常に亂暴に精神の問題を切つて捨て、他人を切つて捨てる。そこで何も學べないと云ふ事實を知つたら、そんな事はやつても意味がないのだ、と、悟らねばならないのだが、日本人は屡々それに氣附きもしないのだ。
平成二十一年一月二十四日
俺は、對話の準備をするのには意味があると思つてゐる。言論の自由の問題にしても精神の問題にしても――人格の問題にしても、全て對話を可能にする重要な前提條件に關聯してゐるから、論じてゐる。
平成二十一年一月二十四日
ウィンドウのリサイズボタン @ MacOSX Safari - カナかな団首領の自転車置き場
ふーん、サウナンダ。
Safariはあんまり使はないからな……。
平成二十一年一月二十四日
http://homepage1.nifty.com/kazuf/renewal.html#nc_1232765674
1/24/2009 (Sat.)/[ノーム・チョムスキー] 言葉と物 LCXXII - 言語と思考

言葉に意味が生ずるのはそれを読んだ人間の心においてである。フーコーが人間が消滅しようとしていると書いたのは、いわば人間同士の適切なコミュニケーションが成立しにくくなったことを言いたかったのかもしれない。そのような危機感はフッサールの「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」のような言説に端を発しているようにも思える。この本もルネサンスからガリレイ、デカルト、ロック、バークリー、ヒューム、カントを廻っている。

デカルトを現代の問題の基點と見るのは現代を批判する立場からは一つの常識となつてゐる。が、そもそもデカルトを最初に批判したのがパスカルであると云ふ事實は(デカルトは神を不要にしようとしてゐる)、現代を批判する思想が現代以前の思想に再び接近しなければならない事實を示してゐる。そこで依然として現代の現代を批判する思想が神を蔑ろにした思想であるならば、それはその思想がデカルトを批判してゐるやうで相變らずデカルト以來の現代の思想の延長上にある事實を意味する。
平成二十一年一月二十四日
キリスト教を非難する人はキリスト教の狂信性・獨善性を指摘する事が非常に多い。が、キリスト教は、他の宗教と違つて、寧ろ狂信と獨善を出來る限り排する立場をとつて來たと言へる。さう指摘されても、依然としてキリスト教に獨善を見出さずにはゐられないとしたら、それはアンチキリストとしての狂信と獨善をその人が無自覺に内部に抱へ込んでゐる事實を示す。
平成二十一年一月二十四日
キリスト教は、確かに一つの教義を持ち、一つの目的の爲に突進んでゐるから宗教だが、にもかかはらず、その宗教として「ある」爲の手段として、公正と云ふものを重視してゐる。一つの眞理に至る事をキリスト教は目指してゐるし、その爲に教義に基いて割切つて事態を扱ふ事も多かつたが、同時に、事態に對して・人に對して公正な態度で當つた上で結論を引出す方法を常に採用してきた。キリスト教が、公會議において神學的な議論を經て、正統と異端とを區別してきたやり方は、甚だしく公正を缺いたものとは言へず、神學として檢討に價する――學問として檢討に價すると云ふ點で、極めて公正で客觀的な志向性を持つものだと言ふ事が出來る。バーナード・ショーが指摘してゐるけれども、魔女裁判に含まれるやうに見えるジャンヌ・ダルクの裁判は、大變に公正なものであつた。キリスト教における聖人の認定において、裁判の形式と似たやり方が用ゐられる事は注目して良い。
キリスト教は「一つの眞理がある」事を認めてゐる。が、その眞理が、必ずしも人間に解つたものではない、と云ふ考へ方をとつてゐる。教義を定めるにしても、それを絶對の眞理として強壓的に定める事はしてゐない――三位一體説でも何でも、根本的な教義・正統の教義は、常に公會議における議論によつて定めてゐる。さうして一度定められた教義は、歴史的なものとして、容易には覆されない。しかし、一方で、キリスト教――と言ふよりカトリックの思想として、地上の教會は飽くまで天の神の代理人に過ぎず、權威を持つ一方で、神のやうには常に正しくあり續ける訣でもないと云ふ認識を持つてゐる。だから、教會の權威で以て採用された方針は、從ふ事に意義を持ち、それがのちに誤であると判明しても、判明する以前にその方針に從つて行はれた行爲に就いては善行として認めるが、しかし誤だと指摘され、證明された時には、誤が認められ、撤囘される、と云ふ事があり得る。
我々、クリスチャンでない日本人にとつて、徳目と道徳の關係の問題、價値觀の問題は、意識されない問題であり、それゆゑその邊の事は甚だルーズに考へられて來た。だからこそ安易に他人を罵り、嘲るやり方が横行して、アンチと云ふ名の狂信者が續々と生れてくる訣だが――一方で、キリスト教が力を失ひ、アンチキリストの思想が蔓延する時代になつて、西歐にも狂信が横行するやうになつた。マルクス主義が典型的な現代の狂信であり、狂信の行き附く先が常にこのやうな悲慘な・非人間的な社會である事を示してゐるが、精神に就いて不感症ぎみの人間が大量に存在する現代と云ふ時代においては、ソ聯の消滅は民主主義國の「政治的な勝利」としか看做されなかつたし、當然の事ながらアンチと云ふ狂信を反省する契機として全く役に立たなかつた。精神的に現代の人間は死にかけてゐるのであり、フーコーが人間が消滅しようとしていると書いたのは正しい。
平成二十一年一月二十四日
昨日の古書展ではニーチェの書簡集とか聖アウグスティヌスの『眞の宗教に就いて』とかを買つた。あとR・ベネディクト『文化の諸様式』、『キエルケゴールの言葉』(日本文庫)、森銑三の本を二册、岩波の日本思想大系で平田篤胤・伴信友・大國隆正。そして、持つてゐるのだけれども、本の山に埋つてしまつて出て來ないのと三百圓だつたのとで、ダブり承知でメレジュコーフスキイ『先覺』。
平成二十一年一月二十四日
例へば俺はニーチェの永劫囘歸の思想とか超人思想とかの理論それ自體に興味を持たない。ところが、思想を扱ふとは、さう云ふ理論それ自體を體得する事だと思つてゐる人がゐる。それは何うだらう。
嘗てえろげの高橋氏が、俺が英文學をやつたと言つて英國經驗主義の方法を「とらなければならない」と極附けて非難して呉れた事があつたと思ふけれども(氏の非難は、少くとも理論・方法論を墨守すべきであると云ふ立場の非難だから、俺には屡々理解出來なかつた)、さう云ふ「方法論」の類に俺は何の興味もないし、さう云ふものに拘るべき理由を知らない。
ニーチェにしても、その沒落の主張が第一次大戰前の獨逸が全盛期に現はれた事實、キリスト教に對するアンチの思想であつた事實が指摘される事で、初めて俺には諒解できる。
平成二十一年一月二十四日
ところで福田恆存は、反近代の思想では駄目だ、超近代の思想でなければならない、と言つたさうだ。今になつてみれば福田氏の考へ方は、身にしみて良く解る。
アンチでは駄目だ。

平成二十一年一月二十三日
幅固定か可変かではなく、読者環境に合わせて見やすいデザインを提供しよう - Liner Note
CSSレイアウト : Weblog : SimpleIsm
平成二十一年一月二十三日
はてなブックマーク - きっと http://jintrick.net/ のHTMLを見たときになんだこ... - Wassr [OKIGARU Messaging Hub]
平成二十一年一月二十三日
ヤシカ、7,980円の軽量コンパクトデジカメ
紹介し忘れ。「ブログ」に貼る程度の寫眞ならこれで充分だと思ふ。
平成二十一年一月二十三日
日本写真家協会、写真の光ディスク保存に関する技術研究会
最うまともな製品がないから光メディアには保存しても仕方がないとか結論が出るなら有益な研究會だと思ふ。
平成二十一年一月二十三日
リキッドレイアウトについて云々 - カナかな団首領の自転車置き場
平成二十一年一月二十三日
と言ふか、手輕に使へる汎用のコンピュータでは、unix系のOS以外にはWindowsしか選擇肢がない、と云ふ現状は可なり怖いと思ふ。
もちろんケータイとか制御系とかにはいろいろあるとは知つてゐるけれども――。
平成二十一年一月二十三日
しかし、嘗てのDOS時代にはWindows要らねと言はれ、今に至つても相變らずけなされ續けてゐるWindowsは可なり氣の毒だと思ふ。
インタフェイスとかファイルI/Oとか(よく知らない)その邊の事を一手に引受けて「プログラマの人の手間を省く」と云ふコンセプトで作られたWindowsが、その邊の事を事細かに弄りたいプログラマから嫌はれてゐると云ふ――。

平成二十一年一月二十二日
http://www5e.biglobe.ne.jp/~kamisiro/diary/d0901.html#d2009-01-20
昨日の。
平成二十一年一月二十二日
http://esu.oresama.org/200901c.html#20090121_s1
http://diary.imou.to/~AoiMoe/2009.01/late.html#2009.01.21_s01_p04
WindowsのクリップボードとXのカットバッファとセレクションと - HM weblog
無題 - 黎明日記に「追記」あり。
Theoria氏は、アプリケーションの間で容易にデータのやりとりが出來ないと云ふ俺の發言を、「クリップボード」と云ふ文脈を無視して、わざと「unixのツール」の話にずらし、unix禮讚に結び附けてゐる。
今讀返すとこちらもカットバックとセレクションの話を寢惚けて讀取り損ねてとんちんかんな事を言つてゐるけれども、何れにしても「コピーするとメモリにメタファイルデータが入つて、メモリにそれがある間は他のアプリケーションから何時でも使へるやうになつてゐる」Windowsと違つて、unixの方は(Xサーヴァ經由で)アプリケーション同士、データのやりとりをしてゐる。これはWindowsの方が――「進んでゐる」か何うかは兔も角、手輕で便利だし、時と場合によつては有益だ。

情報をプログラムから切り取るかまたはコピーすると、その情報はクリップボードに移動します。クリップボードの内容を消去するか、あるいは別の情報を切り取るかコピーするまでは、情報はそのまま残っています。

unixの方での「セレクション」はそれと似てゐるから比較對象になるが、さう云ふ意味でのデータのやりとりの事を言つてゐる俺にTheoria氏はなぜパイプは? ソケットは?と言出したのだらう。明かに俺の發言の意圖を無視して、unixの優位をひたすら主張するだけの爲に、話をねぢ曲げたに違ひない。
WindowsのDDE/OLEの話は伏線――「セキュリティ」の話とOLEの話からTheoria氏はActiveXを想起すれば良かつたのだし、俺もその程度の事はみんなわかるだらうと思つて書いたのだが――Theoria氏はWindows嫌ひでunixの事しか知らないから、當然Windowsの弱點の原因を知らなかつた。俺の話から俺の狙ひが理解出來なかつたのも、なるほど仕方の無い事だつた訣だ。俺も最近は面倒臭くなつて、どうせ解らない人には解らないのだからと「しらないひと」がゐる事を無視して適當に文章を書流すやうになつてゐる。今囘も何時も通り中途半端な知識に基いた話をしてゐるが、それが適當に書流す所爲で輪をかけて目茶目茶になつてゐて、それでますます訣が解らないことになつて、それでTheoria氏は文句を言出したと。そこで「どうせ」云々と流せれば俺も大人物なのだらうが――
平成二十一年一月二十二日

確かに Slackware のようなディストロにはパッケーマネージャなどありませんが、それを使う人々は今では少数派です。 Windows95 を使う人々が少数派であるように。

良く解らんが、切り分ける義務はTheoria氏にあるだけでないのか。と言ふか、過去のWindowsのWindows95と今のWindowsであるWindowsXP/Vistaとは、世代が違ふから、話を「切り分ける」も何もないのだが。然るにubuntuとかとslackwareとかとは平行して進化し續けて同世代のディストリビューションゐるのだから、話を切り分けなければならない。
平成二十一年一月二十二日
ところで今のunixの世界では、パッケージマネージャを使はないでプログラムを配布する事は最早ないのだらうか。Theoria氏自身が認めてゐるけれども、パッケージマネージャを利用しないLinuxのディストリビューションが存在してゐる――さうしたOSでもプログラムを導入して使用する事が出來てゐる。ならば、別にパッケージマネージャがあるかないかはプログラムの配布とは關係がない話だし――そもそもOSの出來それ自體とも何の關係もないと言つて良い。
パッケージマネージャは、OSそれ自體の機能ではなくて、Xとかと同じ、周邊のツールだ。「パッケージマネージャがある」と云ふのは、unixと云ふOSそれ自體の優位性を示すものではない。ただ單に、アプリケーションが相互に調整しなければならない必要性があつて、後から開發されたツールであるに過ぎない。さうやつて調停されなければプログラムが互ひに互ひの動作を支障し兼ねない状況がある、と云ふ意味では、unixだつてWindowsだつて似たやうなものだ。
平成二十一年一月二十二日

別にアプリケーションユーザーだろうがなんだろうが、ソースぐらい読めて普通でしょ。そうでない人が手を出すから、おかしな話になる。

それは無茶だ。HTMLとCSSなら「解るやうに書かれてゐて當然」とか俺も思つてゐて公言してゐるけれども、プログラムのソースを「讀めるのが當り前」なんて、流石に言へない。Firefoxが落ちてデータが何處かに言つてしまふ――それが嫌ならソース嫁、つて、そんな話にしたいのか知らんけれども、無茶も良いところだと思ふ。なるほど、そこまで出來る人なら、コンピュータのトラブルなんて「ない」のか知らんけど。
平成二十一年一月二十二日

私も Windows のことはよく知りませんし、いまどきの Windows は便利だそうですから、それなりのプログラマでもそれなりに使えるでしょう。でも、いざとなるともう訳がわからなくなるのが Windows 。少なくともプログラマにとって困る事態が起きると、もうお手上げ、ということになりがちです。まあ、たかがそんな理由で仕事を放棄していいなら、 Windows 大歓迎ですけど、そういうわけにはいきませんし。

それなりのプログラムでそこまでの事態が起きるものなのか何うか。Windows用の大量のプログラムがそこまでWindowsの深部に關はつてゐると想像するのは、unixのハッカーだからだと思ふけれども、考へ過ぎだと思ふ。
平成二十一年一月二十二日
wiseler 2009/01/21 02:47
Vistaの重たさには色々原因が……。1. マイクロカーネルであるVistaはモノリシックカーネルであるLinux/Unixより遅い傾向にあります。2. Hardware Acceleratorを搭載していないPCにもかかわらずVista適合済みを宣伝する企業の存在。3. Vista自体のデバック不足から来る未完成さ。いちどマイナスイメージが付いてしまえば、それを覆すのは難しいということです。
メーカが必要なだけのメモリを載せないでPCを安く賣つてゐる所爲で、新しいWindowsには「重い」と云ふ印象が必ず附くものらしいですが。
平成二十一年一月二十二日
基本的に1960年代から續いてゐるunixと、80年代に開發が始まつたWindowsとが對等のものとして論じられてゐると云ふのが、にんともかんとも。俺はunixつて、少くとも思想的には古臭いと思ふ。
平成二十一年一月二十二日
何處かの兄ちゃんには「正しい」と言はれたけれども、まあ、俺の方が知識はないし經驗もないし理解も淺いしで、コンピュータのOS論議としてネタをふつたけれども別にこちらが全面的に正しいとか、そんな事は思つてないから。俺のは個人の感想と言ふより素人の感想で――でも、專門家なら素人の意見を素人の意見に過ぎないとか言つて無礙に卻けるやうな眞似はしないでほしいと。
平成二十一年一月二十二日
と言ふか俺、unixを今使ふとしても、結局X上からCUIのツール使ふ事になるだらうと思ふ。テキスト弄るツールでもコマンドラインから使ふだらうし。さう云ふのがunixを使ふ意義だと思つてゐるから。さう云ふunixなんだから、そこでunixの人が熱心にunixのGUI環境は出來が良いんだぞとかさう云ふ事を言つて辯護して呉れても困る。
unixの利點なり何なり――さう云つた事があるのは百も承知で、でもWindowsの方が便利な領域もある、出來のよい部分もあると、俺はさう言つてゐるんだから。
そこで對話を拒否して、頑なに――ドグマティックに、と言つたらいいか――「unix教」の教義に從つて――「unixのよさ・素晴らしさ」許りを一方的に主張する人は、アンチWindowsの人であるのだが、困つた存在だと思ふ。
平成二十一年一月二十二日
と言ふか、俺は、Windowsが弱點だらけである事と、それを克服して來た(そして克服し切れてゐない)歴史とを、はつきり知つてゐるんだよ。Windowsの弱點を知つてゐて、で、unixに意義も價値もある事も知つてゐる。だが、その上で俺はWindowsを「愛してゐる」と言つたとしたら――それは惡か。unix原理主義でアンチの人は「變態」呼ばはりして呉れるだらうが、「變態」と「惡」とはイコールで結び附けられるべきものだらうか。何うもその邊、日本人は屡々考へが足らないやうに俺には思はれるのだ。
平成二十一年一月二十二日
WMFCopy
平成二十一年一月二十二日
ウィンドウズメタファイルとは 【WMF】 - 意味・解説 : IT用語辞典
平成二十一年一月二十二日
俺も今のWindowsのクリップボード周りの事は最うよくわからない。前もそんなに解らなかつたんだけど。いつの間にかアプリケーションの「クリップボード」がなくなつてゐて、コピーしたデータを見たりするツールは「クリップブック」になつてる。
平成二十一年一月二十二日
C#で作る、あなただけのメモ帳 〜コピー/ペーストの実装〜 - ものえおさむ - builder by ZDNet Japan
@IT:Windows TIPS -- Tips:クリップボードの中身をのぞき見る方法
適當に書いてからぐぐつて情報集めて自分の言つてゐる事が合つてゐるか何うかを後から確かめる癖は、例の事件もあつて、直すべきだと思ふんだが、勢ひと云ふものがあるんで適當にであれ先づ物を言はうとする惡い癖は何うにも直らない。そこで間違つてゐるとけちをつけてくれる人がゐる訣だけれども、さう云ふ人はやつぱり俺が何う云ふやり方をしてもけちをつけるだらうと思ふんだよ。
平成二十一年一月二十二日
「常識に基く」なんて言つても――俺の場合、基本的にうろおぼえの知識に基いて判斷して、それで思つた事を「人なら思ひ得るだらう」と思つて兔に角書いて話題を振る。そもそも俺は精々「廣く淺く」の人間だから大した知識はない訣で、話題を振つたら後は知つてゐる人に任せる積りで何時も適當に書いてゐる。そこで結構いいかげんな事を言ふんだけれども、そこで「それが許せない!」といきり立つて俺が話を振るのすらも妨碍するのは、出來ればやめていただければと>某氏。話題を投げる事自體に俺は意義があると思つて、それで頻りに話題を投げて議論を呼ばうとしてゐるんだけれども、それは惡い事だらうか。正確な事を言へる人しか物を言へないなんて、それこそ息が詰まる社會だと思つてゐるから、俺は兔に角物を言はうと思つていろいろ言つてゐる。皆樣にはフォローなり何なりして頂ければ幸で、そこで駄目なら駄目とその場限りで罵つたり嘲つたりしてもらつても構はないと思つてゐる。ただ、粘着は駄目だらうと。
しかしunixの話なんかだといろいろ確執あつた筈の人でも普通に話して呉れるんだなと。理系の人にもへんな人はゐるけれども、一方でへんに拘る人は文系方面の人よりかは少いのかもなと。こんごともどうぞよろしく。
平成二十一年一月二十二日
かのこん十二卷。よく續いてゐるなーと思つた。内容は最うパターン化してゐるし。十册以上附合つたから多分最後まで讀むと思ふ。

平成二十一年一月二十一日
無題 - 黎明日記

パイプは? ソケットは?

プログラムにデータを突込んで加工して吐出させる、と云つた作業をやらせる爲の仕組だろ。クリップボードではない。と言ふか、てか、もし輸入してなかったら、 Windows からは未だにインターネットが利用できないはず。つて何だ。全然別の話ぢやん。クリップボード經由でWindowsはインターネットを利用してゐるとでも言ひたいのか? そんな訣なからう。悔し紛れに何の關係もない別の話を持出して「何うだ!」と威張つて見せてゐるに過ぎない。
カットバッファとやらはクリップボードに似てゐるみたいだが、全然使へないさうぢやん。一方で。
X Window System のクリップボード - メモ帳

セレクションは、ペーストするアプリがX サーバを介してコピーしたアプリに問い合わせを行い、データを要求したフォーマットに変換してもらってから受け取る。

今やカットバッファは完全に時代遅れとのこと。

Firefoxだとこつちみたいだが、完全に時代遅れつて言はれてゐる。
unixの「GUI環境」は、まともに使ひたければCUI時代の仕組を利用しなければならない訣で、アプリケーションユーザにとつて見れば「デスクトップ環境として全然統合されてゐないぢやん」と云ふ話になる。
平成二十一年一月二十一日
クリップボードと全然關係のない話を持出されたが、別の話だから別項目として扱ふ。Windowsについての批判。

よくいわれることだが、どこかに不具合が発生しても MS が修正を行うまで放置せざるをえない。

unixだつて、バグがあつたら誰かが直さなければならない。「自分で直せば良い」と云ふのは觀念論で、アプリケーションユーザには無理。それにプログラマだつて、自分で勝手に直して、それで濟ませる訣には行かない。コミュニティに報告するなり何なりするなり(よく知らない)フィードバックしなければ修正は取込まれないし、でなければ、それこそ誰かが別のやり方で修正して、「次のヴァージョンアップ」の際に自分の作業を無駄にする形でちやんとしたのが出て來るかも知れない(來ないかも知れない)。
アプリケーションユーザにとつて、「文句を言ふべき對象」が「ある」事は重要で、Microsoftは何だかんだ言はれてゐるけれども、「言はれてゐる」がゆゑに「役目」を果してゐるのであつて、それが「責任者」としての役割である。フリーのunixだと、最う何處にも責任者は存在しないから、自己責任でやるしかないが、それが苦痛だと云ふ人間の方が、自分で何でもやれる事に喜びを覺える人より遙かに多い。
平成二十一年一月二十一日
また別の話。

そして Windows の面白いところは、まともなパッケージマネージャがないということだ。

Windowsの場合には、大抵バイナリレヴェルで互換性があるから、パッケージマネージャが「要らない」んだよ。セットアップは「ある」――が、DLLとかを適當な場所に放り込んだりレジストリを書込んだりして準備するもので、パッケージマネージャとは違ふし、makeとは根本的に概念が違ふ。makeだと、動かなければユーザがソースを直す必要があるけれども、それは動かない事があり得るから當然の話。同じunixでも違ふ環境では違ふバイナリを必要とするからプログラムの作成者はプログラムをソースで配布して、ユーザが使ふ時にコンパイルをするやうにして互換性を維持してゐる。それを便利にするのがmakeと云ふだけの話。繰返すがWindowsでは、Win32でインテルインサイドの環境なら何處でもバイナリは同じ。makeは必要ない。思想とか以前に環境からしてWindowsは何處でも同じだから、アプリケーションも同じ、と云ふだけの話。CPUが違つてもソースを弄つて移植が出來るやうになつてゐるunixと同じに考へる必要はない。Windows98とWindowsXPで同じバイナリの實行ファイルが動くんだぜ。單にWindowsは機種に依存してゐると云ふだけの話だが、unixとまるで違ふものなのだから仕方がない(CPUが違ふと「同じWindows」でも別のバイナリが必要になつた。今はintelのCPUで動くWindowsしか殘つてゐないからみんな忘れてゐる)。
と言ふか、オペレーティングシステムとしてWindowsに比較するのなら、「unixと呼ばれるもの全體」ではなくて、特定の、例へばLinuxの何とか言ふディストリビューションとか言ふものを對置した方が、嚴密に言へば「適切」だらう。LinuxLinuxと一括りにして言つてゐるが、Linuxなんかはディストリビューションが違へば事實上別のOSだ。
aptは、Linuxの特定のディストリビューションで採用されてゐるパッケージマネージャだ。そんなものがなくたつてLinuxのディストリビューションとして成立するので、ないディストリビューションだつてある。後附けで導入する場合もあつた筈。個人制作のOSだとそんなものがない、と云ふ場合だつてあり得る――と言ふか、面倒だから「趣味のOS制作」をやる人でも、其處まで作り込むのは餘程の暇人に決つてゐる。
それに、パッケージの名前とかを知らなければget出來ない。
Debian etchでGNU archをインストールしたい - HM weblog

こんなの分るかッっての。

unixユーザでも、情報を得る爲にはぐぐつたり何なりしなければならない事がまゝある。と言ふか、unix方面で必要な情報を得るには結構「こつ」が要るやうな氣がする。
Theoria氏。

新しいソフトウェアが欲しいと思ったら、ウェブブラウザを開いて、検索して、手動でダウンロードして、手動で展開して、手動で適切な場所に配置する。当然管理も手動。

なんてWindowsを非難してゐるが、非難としてあんまり意味が無い。「事前に情報を知つてゐなければ何うにもならない」と云ふ點ではWindowsもunixも似たやうなものだ。
この點では、ユーザ數とユーザの「レヴェル」が重大な障壁と化してゐて――unixは情報が手に入り難い。。基本的にunixの場合はドキュメントが少い。一般ユーザが情報を手に入れようとして、相當苦労しなければならないと云ふ場合が結構ある。それに、情報を理解するのに苦勞しなければならない場合が實に屡々ある。時として「ソースを見ろ」なんて事すら言はれかねないのであつて、さうなるとアプリケーションユーザにとつてはとんでもなく敷居が高いと云ふ事になる。Windowsの場合、「情報があふれんばかりに存在する」上、「ユーザのレヴェルが低いからドキュメントも程度を落して書くのが習慣」と云ふ「利點」がある。
平成二十一年一月二十一日
プログラマにとつて、Windowsは「つまらない」「わけがわからない」「弄れない」と云ふ「缺點」がある、一方、unixは「おもしろい」「わからうと思へばわかる」「弄り甲斐がある」と云ふ「長所」がある――と言つたつて、そんなものはプログラマの獨り善がりだと思ふ。
その邊に掃いて捨てるほどゐるアプリケーションユーザにとつて見れば、unixほど訣のわからない、難しい代物はない。テキストや畫像のコピーやペーストで作業を進めて行く「素人」のユーザにしてみれば、unixは技術偏重の「とても使ひ難い」システムに見える。そこで「unix信者」のプログラマが「unix最高!」とか言つたところで、獨善にしか見えない。「Windowsだとクリップボードにテキストをコピーしてとつておけるのに、unixだと出來ないぢやん」――それにunixを便利に使ふプログラマの人は反論できない。
小説を書いたり、アニメの感想を書いたりするのに、わざわざperlだのawkだのsedだの(よくしらない)を使ふ人はあんまりゐない。と言ふか一々スクリプトを組んだりする人はゐない。秀丸か何かで頭から書いて行つて、クリップボード經由でテキストの切り張りをやつたりした方がよつぽど效率良く作業できる訣で、素人はみんなさうする。さうなると、unixはそんなにいい環境でもないのであり、Windowsの方がずつと便利に感じられる、と云ふ事はあり得る。
平成二十一年一月二十一日
俺にしてみれば、別にunixでもそれなりに使へるだらうと思つてゐるけれども、まあ、それなりと言へばそれなりだらうと思つてゐる。一々apt-getとかコマンドラインでやる積りはないし、GUIのフロントエンドでやればいいとも知つてゐるから一々面倒な事はないと思つてゐる。以前、餘つたPCに、無料のTurboLinuxだか何だかを入れた時には、Operaをgetして入れて遊んだ事がある。ただ、うちにあるキャプチャユニットでTVの録畫を出來ないとか、DVDを燒くのにいろいろ面倒があるとか、その程度の障碍があるので使はない、といつただけの話だ。別にunixに恨みはないから惡口だつて言ふ積りはない。ただWindowsの得意分野とunixの得意分野は違つてゐて、unixを一般ユーザがunix特有のプログラムを動かして利用するのは、あんまり意味がないし、時として無駄があるし――さうでなければ、Windowsに比べてunixは機能不足と思ふ事だつてあると、さう云ふ事を言つたまでの事だ。edで小説を書くなんて效率が良いとはとても思はれない。viを使ふとかすれば話は別だが、それなら秀丸でも變らない(ちなみに俺はemacsを使はない)。
ただ、今のunixの世界では、Windowsのデスクトップ環境の眞似をしたGUI環境を作つてゐる人がゐて、それが史上を席捲しつゝある氣がする。さうなると、クリップボードの機能程度で比較されても仕方がないだらうと。そこで、いや、パイプ處理だつて出來るんだぞ、ソケットなんかの概念があつてそれでインターネットを我々は實現してゐるんだぞと、威張つて見たところで始まらない。パッケージマネージャとか言つてみたところで、「そこまでして管理しないと動かんのか」とか好い加減な非難が出て來たつて仕方がないだらう。
平成二十一年一月二十一日
SolarisやAIXは言ふまでもなくunixだが、Mac OS Xも現在は明かにunixだ。
Linux系のOSの殆どはPOSIXの認定をされてゐないし、unixの商標も取得してゐない。WindowsNTはPOSIXサブシステムを搭載してゐて、POSIX準據となつてゐる。Linuxカーネルを利用するOSは、複數ある――と言ふより、理論上は無數にあり得る。ディストリビューションは、便宜の爲にツール類がまとめられた「典型的なOS」だが、ユーザが自前でツールを集めてLinuxカーネルを中心に動くやうにしてOSを作つても構はない。
BSDは幾つも分派があつて、互ひに抗爭してゐる。
平成二十一年一月二十一日
unixの場合、管理者として管理するのと、ユーザとして利用するのとは、話が別であつた筈であつて、それが個人ユースに使はれるパーソナルunixが出現して、解り難くなつてしまつてゐる現状がある。
ログインして利用する一般ユーザなら、例へば使用出來るディスクの領域は「決つてゐる」もので、ただデータを處理するだけなら、一々ディスク管理なんて自分でする必要もない。データ領域に置けるデータの量を考慮しておけばいいだけの事だ。それは管理者に御伺ひを立てて貰ふもので、自分で用意するものではない。一方、管理者は、自分のプログラムを使ふのではなく、一般ユーザがプログラムを使へるやうに・便利に使へるやうにシステムを管理するのが仕事。兩者のする事は截然と分かたれてゐて、混同はない。――これが「昔のunix」と言ふかコンピュータの利用の仕方だつた。それを現在のunixも引きずつてゐて、アドミンとその他のユーザとで權限が違ふのはその所爲(また、今でもウェブ用にディスクスペースを借りる時には、古くからのしきたりが殘つてゐる)。
今のPCなんかで動く、Linuxなんかだと、自分でコンピュータを管理しつゝ、自分でコンピュータを利用する。ユーザとしてアプリケーションを使ふ一方で、管理者として使ふ目的に適合した適切な状態にシステムを管理して維持する必要がある。斯うなると、アプリケーションを使ふのと、システムを管理するのと、違ふスキルが必要であるのに、同時にそれらをマスターしなければならない。アプリケーションを使つてデータを作つたり――と言ふか、精々日記を書きたいとか報告書を作りたいとか、その程度の事しかやりたくもないユーザであつても、システムをセットアップし、プログラムなり何なりを入れ、良い感じにカスタマイズし、なんて事を、氣を附けてやらなければならない。ところが、さう云ふ事だけをやらうとすると、例へばディスクドライヴが假想化されて隠蔽されてゐたりするものだから、ディスク容量を氣にしたくても知る事が出來ず、使つてゐるうちにうつかりデータで滿杯にしてしまつたりする。ログファイルを不用意に作るようにしてゐると、そんな事態を起す事は、昔はよくあつたさうだが、今でも結構なヴェテランユーザがそんな詰らない初歩的なミスをやらかしてシステムを止めたりしてゐる。一昔前のunixの入門書には「管理者に聞け」と云ふ指示がやたらあちこちにあつて、パーソナルunixを使つて訣が解らなくなつて本を見ても困惑させられるだけと云ふ非道い事態がよくあつたけれども、さう云ふ事態は案外今でも「ある」やうに思はれる。その邊の一般人向けの「unixを使はう」なんて本だかムックだかを見てみても、システム管理のやり方なんて何處にも無かつたりする。あれはひどいよ。
Windowsの場合、兔に角「使へる」やうにする事を目的にシステムが作られてゐるので、管理には「それなり」のスキルがあれば問題ない。そもそも個人ユース前提のシステムだから、例へばディスク管理でも、エクスプローラで直接ドライヴの容量を見る事が出來るし、簡單にハードウェア的に別のディスクドライヴの間でデータを移動したり出來るから、データが滿杯になりさうだつたら適當に外部のドライヴにデータを移動する、とか適當な處理で問題を解決できてしまつたりする。一往メモリの容量とかハードディスクの容量とかは知つてゐないと困るけれども、さう云つたハードウェア情報と、現在使用してゐるシステムで必要な要件とを、比較して調べようと思つたら、Windowsは割と簡單に出來る。システムを隱蔽する方向に動いてゐるが、ユーザが知りたい程度の事ならWindowsは露骨と言つていいくらゐに何でも「開示」してゐる。
――よくしらないから想像で書いてゐるし、今のunixのデスクトップなんかは割と解り易い筈だから、それなりのユーザでもそれなりに使へる事は知つてゐる。でも、いざとなると最う訣わからなくなるのがunix。少くとも、アプリケーションユーザにとつて困る事態が起きると、最うお手上げ、と云ふ事になりがちなのがunixだ。
あと――ユーザディレクトリとかホームディレクトリとか、その邊の「正しい使ひ方」が「ある」と云ふ意識を持つてゐると、ぞんざいな使ひ方はしづらいものだし、さうなると結構unixのシステムを「正しく使ふ」のは面倒臭い、と云ふ事になる。Windowsだと――と言ふか、DOS以來のPCユーザだと、データなんて何處にだつて好きにおけばいいと思つてゐるから相當適當に、と云ふ事は氣樂にシステムを使ふ事が出來る。unixは御作法にうるさいやうに思ふ。その點ではWindowsは自由だ。もちろん、弄つては行けない事もいろいろある訣だけれども、その邊、Windowsも長い事使つてゐると大體解つて來る。
unixは突然訣のわからないトラブルを起してユーザを困らせる事が多いやうな氣がする。「突然××が動かなくなつたら」――「○○を書換へる」とかいつたアドホックな解決方法が示された文書が、ウェブにはごろごろ轉がつてゐる。Windowsなんかでさう云ふ不思議な事が起きるのは、或意味當り前だけれども、それがunixでも起きると言ふのが信じ難いのだが、結構しよつちゆうあるみたいで、FAQになつてゐる事がある。が、それが何時までも通用する訣でないのもunixの世界で、突然修正されて大丈夫になつたり――しかし、その頃にはまた全然別のところで全然別の問題が發生して、それが何處かのメーリングリストか何かで話題になつて解決法が人知れずネットワークをさまよつてゐたりする。また、「知りたい情報が見當らない」事がやたら多いのと同時に、unixの世界では「遭遇したくないトラブルには必ず遭遇する」事がやたらと多く、何とも詰らないところにバグが殘つたまゝLinuxのディストリビューションが配布されたりとか、非道い事態が屡々ある。Windowsの場合には、設定プログラムに問題があれば大體アルファかベータ版の時點で直されて來るが、unixだと(特にフリー)本當にまぬけとしか言ひやうのないバグが當り前のやうな顔をして存在し、「そのバグに觸れない方法」とか「バグにはまつてもなんとかする方法」が「一部の開發者の間で有名」になつてゐながら多くの何も知らないユーザを困惑させてゐたりする。何時だつたか、何處だかのLinuxのディストリビューションで、正式版なのに、ネットワークの設定をするGUIのフロントエンドにバグがあつて、弄るとネットワークに繋がらなくなる、なんて馬鹿な不具合が生じた事があつたのだが、それがCD-ROMを附けた雜誌の「使ひ方」のぺーじに「これは使はないやうに」とか書かれてゐて、あきれた事がある。
平成二十一年一月二十一日
http://homepage2.nifty.com/tomchem/book/book0901.html#d21n02
あーmakeの事を書かれてゐたからmakeの事しか考へないで文章書いた。
平成二十一年一月二十一日
かな漢字變換のプログラムなんかだと、Windowsでもunixでも本質の部分でのプログラミングについては大して變らないと思ふ。
平成二十一年一月二十一日
『生徒会の四散』と『おあいにくさま二宮くん 七卷』を讀んだ。生徒会はアニメ化されるんだと。無茶な話。おつかれさま二宮くん。シリーズ完結。引續き『かのこん』を讀んでゐる。ラノベはすぐに讀み終へられるから暇潰しに最適。
『二宮くん』は相變らず日本語としてをかしな表現が見られる。「押しも押されぬ」が間違ひだと云ふのは有名な話だが、開卷早々出て來る。なんで誰もチェックしないんだらう。正しくは「押しも押されもせぬ」。
平成二十一年一月二十一日
ウェブ文書の素敵ポイントを殺して置きながら何が「ウェブ」デザインだ - HM weblog
靜かなる浸透の2009-01-20「解像度とブラウザサイズが比例しないケース」

平成二十一年一月二十日
松岡正剛著『白川静 漢字の世界観』(平凡社新書、2008年11月14日、isbn:9784582854404) - 科學の剃髮
『マノン・レスコー』アベ・プレヴォー 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇
ウェブだと思うと書いてゐる。よく見るとそれ以外のところで結構ひらがながある。
今の人は漢字の開きが好きだからな。
平成二十一年一月二十日
SeagateのBarracuda 7200.11などにアクセス不能になる不具合
平成二十一年一月二十日
WDのふるーいHDDをHITACHIのそんなに新しい訣でもないHDDに交換しただけなのだが、TMPGEnc DVD Authorの動作が隨分速くなつた。今まで20分がかりだつた作業が15分くらゐに短縮された。そのくらゐ。
平成二十一年一月二十日
web屋が主張する「リキッドレイアウト」に騙されないために
かう云ふ意見に騙される人は多いと思ふのだが――鍵っ子氏の主張にこそ騙されてはいけないと思ふ。
agendaがIEでこんな風になるのを鍵っ子氏は問題視する。
2009011206_s.gif
これを鍵っ子氏は、いくらなんでも、IE系(トライデント)や、その他多くのレンダリングレンジンを無視するのは酷い実装じゃないだろうか。と評してゐる。しかし、肝腎のテキストは、右端まで表示されてゐて、讀めるのだ。agendaで、最低限のリーダビリティは常に確保されてゐる――ならば、問題は何もない。俺はさう思ふ。
問題はテキストが「讀めない」場合にのみ認め得る。例へば――鍵っ子氏のブログのレイアウト。幅決め打ちだが――斯うだ。
20090120Kagikko01s.jpg
これは非道過ぎると思ふ。右端が隱れて讀めない。と言ふより、殆ど本文が隱れてゐて、讀めない。
俺は通常、Operaをウィンドウ状態で使用してゐる。かう云ふ状態で、非常に多くの「幅決め打ちサイト」が讀めない。「讀み辛い」どころではない、明かに「讀めない部分がある」のだ。これは致命的な缺陷だ。デザインとか言ふ以前の問題だ。ところが、斯う云ふ事をやつてゐるサイトの制作者が「デザイン!」と言ふ。何か間違つてゐると思ふのは俺だけだらうか。

平成二十一年一月十九日
録畫データを書込むHDDが最う七年くらゐ使つてゐるロートルで、そろそろ死にさうな氣がする。と云ふ訣で、まだしも増しと思はれる、PCIの擴張IDEボードにぶら下がつた別のHDDと入換へを行つた。その後、CMOSがクリアされて時刻が卷戻つた爲、キャプソフトが大混亂と云ふ事態が生じたものの、時刻を直してOK。しかしその後、OSが突然死ぬ現象が出現。
これは電源供給の問題ありと判斷して再び解體して電源ケーブルを繋ぎ直したのだが、その際、電源ユニットから伸びたケーブルと分岐ケーブルの繋ぎ目の接點、あれが變なのに氣附いた。赤・黄・黒のケーブルが端つこの端子に刺さつて、それが互ひに喰ひ合つて接続される訣だが、この刺さつてゐる端が半拔けになる。それも電源ユニット側。ケーブル端子の設計が惡いのは明かで、接續しようとすると端子が互ひに押し合ひつこをして、弱い側が押されて抜ける。斯うなると、接觸不良になる。
電源が接觸不良だと、使つてゐて何時死んでも不思議はないのであつて、必死になつてみつちり押込んで繋いだが、不安で不安で仕方がない。
なんでこんなに接觸不良が起き易い設計なのだらう。そもそも、電源は勝手に切れては困るものであつて、だから密着して固定されるべきなのだが――例へばコンセントを見よ、あんなに拔け易い代物もこの世には滅多にない。何であんなに拔け易く設計されたのだらうと思ふくらゐよく拔ける。PC内部の電源ケーブルもさうであつて、あんなに華奢な設計のものが、よくPC全體の縁の下の力持ちになつて動作を支へられるとあきれる。
そもそも、PCのケーブルはどれであれ華奢も良いところであつて、しかも最初からコストが切詰められて本當に非道い代物が使はれてゐるとしか言ひやうがない。ケーブルが原因で動作不良に陷つてゐるPCは多いのでないかと豫想するが、そんな下らない原因でPCが駄目になつたりしてゐるとしたら、技術の進歩も糞もあつたものではない。何でケーブルだけは昔から非道いのだらう。
USBのケーブルの非道さ・信頼のおけなさは何度も指摘した。けれども、PC内部のケーブルの非道さはUSBケーブル以上だ。SATAのケーブルも非道いやうだが、IDEのリボン状のケーブルも充分非道い。マザーボードと電源ボタンやリセットボタンを接續するケーブルも非道い。何でこんなに非道いのだらう。
オーディオケーブルなんかは、脚に引つ掛けても簡單に拔けて機材が壞れないやうになつてゐるとか、馬鹿な説を聞いた事があるが、今の纖細な電子機器は電源ケーブルが引つこ拔けて電通が突然止まる方が惡いだらう。なのに昔の發想で拔け易いケーブルが使はれてゐる。今の時代、拔け難いケーブルを使ふ必要がある、と云ふのは常識だ。ケーブル開發者だか設計者だかの人には、その邊の事を良く考へて、いいケーブルを作つて貰ひたい。電氣の特性だの何だのと言ふ前に、電氣が通はなければ話にならない。さう云ふ簡單な事が、技術者の人には案外忘れられてゐる。
平成二十一年一月十九日
今日のナイトリー - Another 朝顔日記
なんだか変 2009/01/19 14:46
そこまでしてサムネイル欲しいかなぁ
俺が憎惡する「名無しさん」の意見だが、俺もこの手のサムネイルは要らないと堅く信じてゐるから贊同する。何でサムネイルを表示したがるんだらう。「さうできるから」と云ふ事で、機能を澤山搭載するだけの爲にやつてゐるとしか思はれないんだが。Operaのスピードダイヤル機能なんかもさう。Windowsのタスク切換でもアプリケーションのウィンドウをサムネイル表示する方式があるけれども、あれも無意味だと思つてゐる。
畫像を表示する爲に僅でも遲れが生ずるのなら、テキストで一瞬で表示された方が良い。
nyama 2009/01/19 15:42
……。
もちろん、従来のテキストの一覧のほうがいいという意見があるのも知っていますので、最終的にはテキストによる表示とサムネイルによる表示をユーザの好みで設定できるといいかなと。
斯う云ふ機能、プログラムに實裝されると何時までも必ずデフォルトで「オン」になつてゐるんだよな。意地でもユーザに使はせたいらしいが、其處までアピールしなければならない機能なのだらうか。
俺は、この手のは無意味な「畫像信仰」だと思つてゐる。グラフィカルに見えればユーザは嬉しいに決つてゐる、と云ふ變な「教義」がこの世には存在するのだ。さう云ふ考へに嵌まつて、ドグマ的にグラフィカルな畫面を唱道してゐる人が、この世には餘りにも多いと思ふ。少くともウェブには異常に多いと思ふ。
平成二十一年一月十九日
例の幅決め打ちレイアウトとリキッドレイアウトの問題。
幅決め打ちだとウィンドウを狹くした時、部分的に見えなくなる事がある。全部見えない事があつても「デザイン的にいい」と言へるのか。
リキッドレイアウトだと何時でも最低限「全部見える」。もちろん「下」の方はスクロールしないと見えないけれども、横は全部見える。「全部見える」と云ふのは最低限のアクセス性を確保してゐると云ふ事だから、俺は「いい」と思ふのだが、何うして幅決め打ち派の人はそれを價値として認められないのだらう。
「良い時は良いが駄目な時は全然駄目」なのが幅決め打ちレイアウト。「駄目な時でもそれなりだが良い時は普通に良い」と云ふのがリキッドレイアウト。どちらが良いか。論ずるまでもないと思ふのだが、それでも因縁を附けてリキッドレイアウトの印象を惡くしようとするアンチの人がウェブにはうようよしてゐる。アンチは意味もなく他人を惡く言つて樂しみたいのだ。
※こちらも他人を惡く言つてゐるが、ちやんと意味があつて言つてゐるのだからアンチとは違ふ。アンチはその違ひが認識すら出來ないからアンチになるのだが、相當知的レヴェルの高い人ですら認識出來ない事があると云ふのは何う云ふ事なのだらう。

平成二十一年一月十八日
天と言つた時、支那でなら天帝の觀念もあり得るだらうけれども、日本ではどうも「天命」邊の觀念、決つた運命みたいな考へ方ぐらゐしかないのでないか。
平成二十一年一月十八日
今日のニュース - 黎明日記

俺もサイト始めてはや数年。敵を作るのが商売みたいなサイトだし(最近も CSS コミューンを敵にまわした)、 2ch で隔離スレが立ったことも、はてブで叩かれてホッテント入りしたことも、炎上したこともある。だからどうしたのか、という感じだ。だいたいからして、アフェリエイトの一つさえないのだから、アクセス数が幾ら増えたところで一文も儲からない。最近では計測すらしていない。

んーあれで「敵にまわした」積りであるのなら、ちよつと認識が「甘い」と言ふかずれてゐるやうな氣がする。Piroさんが「反應した」けれども「CSSコミュニティ」は全體として平靜と言ふか相變らず誰も反應しなかつたんだし。「炎上」の觀念もちよつと「違ふ」んでないか。
平成二十一年一月十八日
textareaでものを書くのはやめておけ - HM weblog

最初はほんのすこしだけ書いてすぐに上げるつもりだったのが、だんだん長文になってきたのでそろそろ「下書き保存」して置かうと思った矢先の出來事。何故かクリップボードの中身も一緒に消えるといふ謎現象。XだかGnomeだかのクリップボードはアプリケーションの側と同期でもしてゐるのか? アプリケーションを終了させると、そのアプリからコピーした内容が消える(「消える」といふか「ペースト」できなくなる)。よくわからない。

コピーしたデータをメモリ上に保持する機能をきちんと實裝してゐるOSつてWindowsぐらゐのものでないだらうか。
と言ふか、Windowsが初めてその邊を意識してクリップボードを設計したんだと思ふ。メモリ上でメタデータ化してクリップボードで管理とか。さう云つた事をきちんとやると云ふ思想があつて、DDEやOLE或はデータの埋め込みなんて事をやつてゐる。だから未だにその邊に關してWindowsはMacやunixの何年も先を行つてゐると言へるんだ。
unixは、OS自體はちやんとしてゐるからアプリケーションは御立派なものが作れてプログラマは大喜びするけれども、データについては何も考へて呉れてゐなくてアプリケーションが個別に適當に處理するから一般のユーザは困惑するしかない。unixなんてアプリケーションを開發する人以外には何のメリットもないOSなんだよ。常識的なアプリケーションユーザはWindowsを使ふ方が幸せになれる。
基本的にunixは、プログラムにデータを突込んで加工して吐出させる、と云つた作業をやらせる爲に存在するのであり、1960年代頃のコンピュータの概念を未だに引きずつてゐる。CUIやGUIは後附けでありおまけである訣で、さう云つた環境は基本的にunixでは不自然な存在だ。Xなんかまともなデスクトップ環境であり得ないし、Gnomeだの何だのだつて無理やりOSに乘つかつてゐるに過ぎない。そこで統合的なクリップボードのシステムなんてものが構築できる訣がないし、そもそもそんなものを使ふ發想がプログラマにはないから、優秀なWindowsのクリップボードのシステムを模倣する氣を誰も起さなかつた。今のunixを利用したデスクトップ環境は、Windowsもどきになつてゐるけれども、Windowsのやうに最初から完成されたウィンドウシステムを目指して開發されたものには永遠にかなはないんだよ。そして、さう云ふものだからこそ「Windowsよりもセキュリティ面で頑丈」とか云つた事が言はれる訣。アプリケーションの間で容易にデータのやりとりが出來ないから「unixはセキュリティが強固」なんて言はれるやうになつてゐるに過ぎない。
平成二十一年一月十八日
textareaが何う斯うと言ふより、そもそもブラウザが落ちる事がをかしいのであつて、そのをかしな状況を非難せずにtextareaを非難するのはをかしい。
Windowsでもunixでも、アプリケーションは落ちるのだし、落ちたらデータが消滅する事には變りが無い。「unixの方がOSとして安定してゐる」なんて言つたところで、OSの上で動いてゐるアプリケーションが安定してゐるかゐないかは關係ない。
個人的な感觸では、unixアプリは理不盡に落ちる傾向があるやうな氣がする。OSは動いてゐるけれども、アプリケーションは内部で無限ループに陷つてゐる、と、そんな事が結構よく起きる。
Windowsアプリは、NT系になつてからunixつぽく無限ループに入る事が屡々あつたけれども、最近はどれも洗練されて來て、普通に使ふ限りでは安定して動き續けて呉れる。開發者も、何年も使つてゐるうちに、OSの癖を飮込んで、それなりに安定して動き續けるやうに作れるやうになつてゐるものらしい。
平成二十一年一月十八日
Mac出自のAdobe製品がWindows版でもMacアプリらしく身勝手なクリップボードの實裝をしてゐてデータをなくして呉れたりするけど、あれの開發者も頭が惡いよな。Windowsの最大のメリットを殺して不便な自前のシステムを載せてゐるんだから。
平成二十一年一月十八日
その余白がもったいないと思う感覚とどうにかしようとするデザイン魂
web屋が主張する「リキッドレイアウト」に騙されないために
ページが読みにくい?それなら Opera でしょ! - manatee
はてなブックマーク - ページが読みにくい?それなら Opera でしょ! - By manatee
デザインとブラウザ - A blog? with Σαιτω

- 支持するの意味でのはてブ数が一定のところで止まってしまうのはどうしたものか。

なんかいろいろつつこみどころの多い「議論」だなと思つた。はてなの使ひ方まで絡んで來て目茶苦茶。
キンチョウリキッドが何うの斯うのに就いては「ブラウザをフルスクリーンで使つてゐる」か「ブラウザをウィンドウ化させて使つてゐる」かの情報を得てスクリプトでスタイルを書換へるとか、そこまで話が進行して行きさうな氣がする。が、そんなにまでする必要あるんだらうか。みんな考へ過ぎ。
大體閲覽者はみんなそこまでデザインに拘つてゐないよ。なんでデザイン萬能の思想を持つてゐる人は、そんなにデザインなんて大事でないと云ふ事實が解らないんだらう。デザインは一切要らないと言つてゐるんぢやない。ただ、デザインで全てを解決出來る、と考へてゐる人がゐるが、それは間違ひだ、と指摘してゐる。
あとさ、「読みにくい」と「読めない」は違ふんだぜ。正字正かなの話でも必ずこの邊を曖昧にして他人を非難する人が出てくるんだけれども、曖昧にすれば何でも惡口の對象に出來ると云ふ非道い事實があつて、俺はさう云ふ惡い曖昧化を嫌ふ。鍵っ子の人はjintrick氏を非難して、しかし、このレイアウトはIEに対応していないという欠点を持つと書いてゐる。けれども、でもそれでagendaのマルチカラムデザインはただマルチカラムにならないだけで「讀めなくなる」訣ではない。だからこそ「讀み難い」式の非難を「する」訣だけれども――何うもこの「見にくい」「讀み難い」式の非難は、非難としてそもそも成立たないのでないか。人は「見にくい」「讀み難い」と云ふ主觀的な判斷を、何んな場合にも「する」事が出來る。それが程度問題であるのなら、議論をしても精々「どこからどこまで」と云ふ範圍を絞つての議論が出來る程度で、ありとあらゆる環境・状況で通用する眞理の話なんてものは絶對に出來ない筈だ。それが結構多くの人には解つてゐないらしい。
平成二十一年一月十八日
「サイトの横幅」再論:950px時代のウェブデザイン[絵文録ことのは]2009/01/14

このブログ記事によれば、リキッドデザイン主張者が「余白がもったいない」とも述べているようだが、そもそも、紙のデザインでも、余白を上手に生かせずにとにかく紙面を埋め尽くそうとするのは、初心者デザイナーのよくやる「センスのない誤り」なのだ。余白を埋めればいいというものではない。

餘白を設ける事に意味があると主張するデザイナは極めて多い。が、さう云ふデザイナの「俺の餘白は大變素晴らしい餘白だ」と云ふ主張は受容れ難い。ことのはの「餘白」も、別に意味があるとは思はれない。何より松永氏のサイトは、ブラウザの横幅を狹めると横スクロールバーが出ると云ふ致命的な缺陷を持つてゐる(Opera 10PR)。そんな使ひ方をする方が惡いと松永氏は言ふのだらうか。また、既存のウェブサイトの「横幅」を調査してゐるが、これに意味があるのだらうか。「ある」と松永氏は言ふのだらうが、ナンセンス以外の何ものでもない。さう云ふ事をやつてゐるサイトが「ある」と云ふだけの話で、閲覽者の側が何う思つてゐるかの感じ方をまるで無視してゐる。
鍵っ子氏も松永氏も、「横幅いっぱい」の「リキッドデザイン」を、何か目の敵にしてゐるやうに思はれる。が、俺にしてみれば、さう云ふデザインで何も不都合を感じないのだから、目の敵にする人間は目の敵にして罵る目的で目の敵にしてゐるやうにしか思はれない。「横幅いっぱいだと読みにくい」と云ふ非難だが、横幅いつぱいだと段落の頭の部分だけ拾ひ讀みするのに大變都合が良い。鍵っ子氏も松永氏も「文章を隅から隅まで一文字も漏らさず讀むのに都合が惡い」と考へてゐるのだが、ウェブを見る人は、殊に慣れてゐる人は拾ひ讀みをするもので、そんなに熱心の一言一句まできつちり讀むなんて眞似はしない。さうなると、横幅いつぱいでざつと讀むのは、結構便利なものだ。逆に、俺なんかは、横スクロールバーが出てゐるやうな状態のサイトで、段落の頭だけざつと讀んで、隱れてゐる部分をまるで無視してしまふなんて非道い讀み方も屡々する。鍵っ子氏のブログなんかは、左のメニューがフルに見えてゐるけれども、右の本文は半分隱れてゐて、でも、最初に讀む時はそんなに眞面目に讀んでゐないから、そのまゝスクロールさせてざつと内容を把握して濟ませてしまふ。議論として大して興味が無ければそれで俺はブラウザの「戻る」ボタンを押して、或はOperaではzキーを押して、「前の記事」に戻つて、忘れてしまふ。
――と言ふか、一畫面に大量のテキストが入つてゐれば、その方が斜め讀みして内容を大體把握するには便利だ。縱方向に情報が壓縮されてゐれば、その方がざつと讀むには便利と云ふ事。
平成二十一年一月十八日
最う全然次元の違ふ方面から指摘したいけれども、リキッドデザインやマルチカラムなんかは大して問題ではない。實は、ウェブデザインでは廣告の存在が大變重要で、松永氏のブログには「自動生成アフィリエイトリンク」なんてものが存在してゐる。これを、まあ、普通の讀者は、無意識のうちに讀飛ばす。かう云ふものを仕込む事をデザイナは何も考へないが、俺は大變重要だと思ふ。閲覽者にとつて要らないもの・餘計なものを畫面に入れるのは、それ自體として惡いデザインで、それを惡いと思はないデザイナはなぜ惡いと思はないのか。俺にしてみれば、畫面のデザインよりも内容のデザインこそが重要だ。それをデザイナは解らうとしない。
平成二十一年一月十八日
あと、ヴィジュアル系の雜誌しか紙の本はないとデザイナは信じてゐる。少くとも鍵っ子氏や松永氏はさう信じてゐる。それが俺には信じられない。新潮文庫や岩波文庫は本ではないのか。創元選書は本ではないのか。その手の非ヴィジュアル系の本をデザインとは無縁だと松永氏等は心から信じてゐる。
文庫本で無駄な餘白があるのを俺は見た事がない。俺は文庫本の紙面も――と言ふより、そもそもマルチカラムなんて物は、文藝書籍や週刊新潮や週刊文春或は月刊正論や文藝春秋のやうな雜誌が基準に考へられる筈のものだと承知してゐて、なのになぜかヴィジュアル系の本でマルチカラムをやつてゐるかのやうに殆どのウェブデザイナーが議論してゐるのを異常だと思つてゐる。松永氏らは、本を讀まないのだらうか。鍵っ子氏は、ゲームしかしない・アニメしか見ないのだらうか。ラノベくらゐは讀むだらう。ラノベだつて、電撃文庫なんかは、上下左右、みつしり活字を詰め込んでゐる。けれども、さう云ふ本を基準にデザインを語ると、デザインを知らない、なんてデザイナ氏は非難して呉れるのだ。何なのだらう。

平成二十一年一月十七日
インフルエンザで一週間自宅謹愼してゐたのだけれども、熱出してメシ食へなくて二、三日殆ど絶食したのに全然體重減つてない。
平成二十一年一月十七日
Seagate Barracuda Hard Drives Plagued By Failures -- Storage -- InformationWeek
Are 1TB Seagate Barracuda 7200.11 drives dropping like flies? | Hardware 2.0 | ZDNet.com
Google 検索: Seagate Barracuda 7200.11
平成二十一年一月十七日
http://www.mcd-holdings.co.jp/news/2009/promotion/promo0115b.html

平成二十一年一月十六日
現行憲法の無效なる事は、現在も「天皇制反對」の議論が、飽くまで大日本帝國憲法の體制が繼續してゐる事を前提に行はれてゐる事を見れば明かだ。「日本国憲法」の定義によれば、天皇は国政に関する権能を有しない、よつて政治的には絶對に利用される筈がないし、利用されるべき政治的價値と云ふものもあり得ない、だから、現行憲法を「有效である」と認める限り、天皇の政治的な危險性が議論される筈がないし、指摘されるべき理由がない。ところが今に至るまで天皇の政治的利用の可能性は執拗に指摘され、批判されてゐる。これは事實上、現在も大日本帝國憲法における天皇の地位が「承認」されてゐる事を意味する。ならば大日本帝國憲法は現在も有效である。
また、「天皇には政治的利用價値が無い」=「天皇は不要である」と云ふ主張が「護憲派」から出てくる事が誤である。「日本国憲法」は、天皇の政治的利用を不可能としながら天皇を「必要」だと規定した憲法だからだ。護憲派は何時でも「第九條」の問題をちらつかせる事で話を胡麻かして來た。しかし、「憲法全體」を全て「護る」とか護らないとか言つて來た事がいんちきであつた事は論ずるまでもない。が、何れにせよ、其處に胡麻かしが行はれ、「日本国憲法」の規定を――或は「日本国憲法」の定められた時の「精神」を蔑ろにし、寧ろそれ以前の「正常な状態」を前提に「解釋改憲」が繰返されてゐるのを見れば、「日本国憲法」なるものはそれ自體として效力を持たず、寧ろ大日本帝國憲法の方が「精神的」に有效性を保つてゐる事は「言へる」と思ふ。
平成二十一年一月十六日
大日本帝國憲法の出自は「明治天皇が定めた憲法」であり、だから欽定憲法と呼ばれる。明治天皇が君主として國民に約束した事である訣で、三代に亙つて天皇はこの憲法を守り通した。それを一氣に國民の側から御破算にして「日本国憲法」を作つた、と云ふ訣だが、これは話がをかしい。
アメリカの占領下にあつて、國民に自主性はあり得ない。だから國民が自主的に憲法を定める事は絶對にあり得ない。「日本国憲法」の出自こそ怪しい。「日本国憲法」の出自が怪しいのなら大日本帝國憲法の出自も怪しいと「見なければならない」と言ふのは、意地でも大日本帝國憲法を「無效」にしてやらうと云ふ爲にする議論で、まともな人間なら言出す事など恥かしくて出來ない事だ。それを平然としてゐる人が「憲法の專門家」にすらゐる、と云ふのが、今の日本が異常である決定的な證據だ。大體、それを言出したら、日本の憲法は「全部出自が怪しい」と云ふだけの結論しか出ない、さうなると、どつちみち「日本国憲法」は「無效」と云ふ結論に繋がるのであつて、「なのに日本国憲法は有效!」と云ふ結論を引出してしまふのは、それこそ三百代言の論法と云ふものだ。目茶苦茶を言へば目茶苦茶な結論を出していい、と云ふ目茶苦茶な「論理」だが、斯う云ふ事を言ふ人間に限つて、自分に有利に話が運ぶやうに、目茶苦茶な暴力をふるつて反對派に嫌がらせを仕掛けたり、人格攻撃を仕掛けたり、卑怯な事をするものだ。はつきり言へば喜六郎や「義」がさうで、あゝいつた人間的に何うしやうもないろくでなしだからこそ、ろくでもない「日本国憲法」を正當化しようとする訣である。それ以外にも、俺の知る限り、「日本国憲法」を正當化し、俺の現行憲法無效論を罵倒・嘲笑する連中は、一人の例外もなく、人間的に何處か缺陷を持ち、暴力的な人間、不良、惡辣な性格の持主であつた。公正に物を見られる人ならば、俺の現行憲法無效論に、精神的な抵抗がある事を認めても、其處に何らかの意義がある事をちやんと認め、程度には差があれ、それなりに承認して呉れてゐる。
平成二十一年一月十六日
實際、俺の主張を全否定するのみならず、居丈高に俺個人に侮辱を加へ、或は言葉の暴力に訴へて俺を罵倒して來る人間は、一人の例外もなく、暴力主義者で破壞主義者だ。
俺は、今までもいろいろと「極論」を言ひ續けてゐる。「南京大虐殺」は「あつた」と主張し、「従軍慰安婦」が存在したと主張して、「日本人は謝罪しろ」と要求する日本人は、散々やつつけた。それは俺が恨まれる最初の機縁となつたものだが、俺に粘着し、俺に嫌がらせを仕掛ける人間が續出したのは、あれ以來の事だ。「戰爭反對主義者」の極惡非道ぶりは今でも忘れない。連中も今でも俺の事を憎んでゐるのだらう。アンチこそが狂信者である事は、あの極道連中を見て來たから良く知つてゐる。喜六郎もあの連中の仲間の一人だ。「義」がYahoo!掲示板時代に暴れた荒しのなれの果てだと云ふ事は大體判つてゐる。「戰爭反對主義者」は、荒しのzak_kが俺に嫌がらせを仕掛ける度に喝采の聲を上げた。あゝ云ふ連中が「戰爭反對」を叫ぶのだから、戰爭反對とは實に陰濕で愚劣な行爲だと改めて悟つたものだ。
あゝいつた異常な連中をあぶり出し、斬り捲つた結果として、連中は徒黨を組んで俺に向つて來た訣だが、彼等は常に俺の事を惡人だと宣傳した。それは即ち彼等が自分逹は善人であると宣傳するのが目的だつたからだ。今、喜六郎がしてゐるのも將にそれで、喜六郎は自分が大變な善人で、史上稀に見る公正な人であるかのやうに裝つてゐる。勿論、連中自身、さうは言はない、「南京大虐殺」は「あつた」と主張してゐる連中は、自分自身が「反省してゐる最中」だと言ひ、喜六郎は「一傍觀者」を氣取る筈である。が、それこそ「自分は罪から免れた人間である」と宣言してゐる事にほかならない。「自分は裁きから免れてゐる」と主張する事は「自分が正しい」と云ふ事の消極的な・裏からの主張であつて、それは積極的な主張と違つて、大變陰濕で卑怯なやり方である。
俺のする事が氣に入らない連中は、「我こそは善人である!」と傲慢にも主張する極惡人だ。然るに、その傲慢さを隠匿する爲、わざと「俺は傍觀者に過ぎない」と言ふ――それは謙虚でも何でもなく、狡い言ひ方であるに過ぎない。さうした狡さを、俺を攻撃する連中は常に持つてゐる。それが俺には堪らなく嫌だ。なぜ自分の狡さ・陰濕さが、連中は嫌にならないのだらう。
平成二十一年一月十六日
喜六郎も「義」も、そのうち犯罪起して捕まるだらうと思つてゐるのだが、さうすると「野嵜に粘着してゐた」とか報道される事になつてこつちが被害を被る訣か。

平成二十一年一月十五日
「道徳とは人格と人格の間の精神的な相互關係に關する事柄だ」と言ふと、讀者の殆ど全ての人が首を傾げる。俺の事を意味もなくただ感情的に嫌つてゐて、俺の全ての發言をひたすら機械的に異常と極附けるアンチの連中は論外だが、さうでない普通の人も、「は? 道徳とは良い事をするやうにすすめる例のうざったいお説教のことだろ」程度にしか思つてゐない。
だが、例へば「デカルトとファルツ公主エリザベトとの間でやりとりされた書簡では時として道徳の問題が論じられた」と言つた時、その「道徳」を「お説教」の類だと解するのは無理があり過ぎる。
デカルト『エリザベトへの手紙』野田又夫譯編・アテネ文庫七十七・弘文堂
「個人の生き方の問題」と言つても大體同じだが、個人とは何とか言つた疑問が提出される可能性がある。結局のところ、重要なのは人格の觀念であつて、「同じ人間」を問題にするのであつても、人格を認める時にはその問題は道徳の問題であり、人格を認めない・認める必要がない集團・組織を對象に話をする場合にはその問題は政治の問題である。
人格が重要な要素であるべき場合に、故意に人格を無視して議論しようとするのは、政治的に議論しようとする事であり、政治主義と言つて誤つた態度であるから、批判されるべきであるが、日本人の多くの人がこの誤を誤だと認識する事が出來ない。基本的に日本人は人格と云ふものを知らないし、よつて人格を尊重すべき事も知らない。暴虐極まるアンチ活動・粘着行爲に據る人格攻撃を、平然と行ふ輩がゐる事實を見れば明かだ。日本人は、人格の存在を知らないし、氣にしない、だから人格の存在を無視して人間を集團・組織的=機械的に見る非人間的な政治主義的議論を大變好む。制度作りに精を出す事、システムの構築に血道を上げる事――それに何一つ疑問を抱かない事は、日本人の重大な缺陷だ。如何なる制度が作られようとも、そこで活動する人間には人格が存在する。さうした事實を見ないで「能率的」で「合理的」な制度を作つて見ても、非人間的であるだけで、何のメリットもなく、屡々悲慘な結果を招く。
平成二十一年一月十五日
Latest topics > 「ディアスポラ」「順列都市」をよく読み返す僕にはたまらなかった、SFで青春な「ゼーガペイン」 - outsider reflex
虹裏ではDVDの賣れた本數の單位として「1ゼーガ」が使はれてゐる。觀た人の評價は高かつたのに全然賣れなかつた事で有名。
平成二十一年一月十五日
アニヲタはキモイ - Google 検索
ルイズタンハァハァつて何時の日本語だ。
虹裏では一時期赤シャナ呼ばはりされてゐたが、今ではレモンちゃんとしか呼ばれない。原作者の評價がうなぎのぼり。
平成二十一年一月十五日
のあ
彼氏が「ブログ」に改變コピペの記事上げてる。別れたい……。
あやの
彼氏なんかゐるのか?
のあ
fankee_jr……。
あやの
fankee_jr……?!。
平成二十一年一月十五日
俺はデザインが嫌ひなんぢやない。
ただ、ごてごてとみつともなく飾り立てて、それで「デザインでござい」と見栄を切つて見せる人がゐるから「それは違ふだらう」と言つてゐるに過ぎない。
Windowsの畫面を見て「いいデザインだ」と言ふ人はゐない。なのに、ウェブデザインの世界では、なぜかWindowsのやうな滿艦飾が理想のデザインのやうに言はれてゐる。何なのだらう。
平成二十一年一月十五日
今の非道いWindowsの畫面を見るたびに思ふのだが、Windows 3.1のデザインの方がよつぽど上品で「いい」のでないか。
Windows95以降、Windows 3.0/3.1の基本的な部品の上に次から次へと化粧をしてゐる事は明かで、WindowsXPのルナなんかは最う、おしろいを塗りたくつた擧句、バカ殿さまみたいにしてしまつてゐるやうに思へてならない。MSには無能なデザイナしかゐない事を世間の人は全員知つてゐるが、何うしてMSの偉い人達はそれを認識できないのだらう。
と言ふか、WindowsNT 3.51は、Windows 3.1と全く同じGUIだつた筈なのだが、にもかかはらず、Windows 3.1よりも落著いて見えたものだ。プラシーボ效果とか云ふ奴だらうか。
平成二十一年一月十五日
のあとあやのの愛の交換日記
暇潰しに過去ログ作つてゐて氣附いたのだがのあとふぁんきーの關係は五年の間破綻もせずに續いてゐたらしい。
平成二十一年一月十五日
突然、Windows が立上がらなくなつてしまつた。別れたい……。取敢ずセーフモードで立上げてみようよ。
平成二十一年一月十五日
本棚の本を使へばいくらでもコンテンツは作れるが暇と氣力が續かない。
と言ふか既に棚に並んでない本の方が多いのだが暇と氣力は兔も角場所がないので整理出來ない。
平成二十一年一月十五日
出來るコンテンツが何うしても中途半端なものにしかならないのは仕方がない。そもそも割切つてせいぜい量だけでも充實させようとそれだけを目指して作つてゐるんだから。何で質の面で文句を言つて來るの。こちらがそこまであからさまに弱點を晒け出してサイトをやつてゐると云ふのに、わざわざ其處を衝いて攻撃して來るのは卑怯だ。そこは百も承知で「弱い」まゝにしてあるんだから、攻撃しても意味ないんだよ。嫌なら攻撃するのでなくて補へばいいんだ。
平成二十一年一月十五日
今さら伽藍とバザールでもないんだらうけど、あれを根據にオープンソースを信奉してゐる人は、統制のない社會では足を引張る人がゐてバンバン足を引張り捲つて物事を何でも台無しにしてしまふ、と云ふ事實を忘れてゐる。バザール式の開發でも結局は強力な指導者・統率者が必要なんだよ。勿論それは企業であつても同じだが、さうなると伽藍だのバザールだのと言つてゐる事がナンセンスだつたりする。
平成二十一年一月十五日
やつと氣附いたんだが、俺の現行憲法無效論に、條文だの制度だのの面から矢鱈と反對してつつかかつて來る人達は、俺が憲法を弄りたいんではなくて、憲法を扱ふ人間の方が良くならなければならない、と言つてゐるのが、解らないんだ。だから「野嵜の言ふ事は穴だらけ」とか言つてみたり、何うでも良い揚げ足取りをして喜んだりしてゐる。
あゝ云ふ連中が扱ふんでは、何んな憲法でも駄目だ。

平成二十一年一月十四日
最近、ストーカー→殺人の流れが「定着」してゐる觀があるんだけれど。
そろそろ警察は、粘着行爲、ストーカー行爲をやらかしてゐる人を犯罪者豫備軍とはつきり認識して、事前に危險人物としてマークしておく必要があるんぢやないか。ストーカーは道徳觀がをかしい、と云ふ事は最う常識だらう。
Latest topics > 女性を殺した後に細切れにしてトイレから流して捨てたというあの事件 - outsider reflex
Google 検索:足利父娘銃撃/栃木・足利市親子銃撃事件
俺自身だつて何時ストーカーと化すかも判らず、人間誰だつてをかしな行動を始めるか判らない訣だが、さうなつて誰かを不幸にする前に取締つて貰へれば、俺なんかは大變有難いと思ふ。ストーカーや粘着と云ふ人種は、ひたすら他人を呪ひ、「幸福な誰か」を不幸に貶めてやらうと思つてゐる惡意の塊だが、さう云ふ不幸な存在になつてしまふ事は人間誰しもあり得る訣で、それを道徳律やら何やらで何うとも出來ない現状、警察の力を用ゐる事しか對處の方法はないだらう。
取敢ず、身の周りで變な人がうろついてゐるとか、妙な「監視」をされてゐるとか、「視線」を感じるとか――さう云ふ違和感がある人は、警察に相談するといい。それで何事もなく事態が收まつてくれればいいけれども、何か「あつた」時、ストーカーがゐたと判つてゐたなら、事件の發生を事前に食ひ止める爲にはストーカーの本格的な規制が必要だと、社會的に廣く認識されるきつかけになるかも知れない。
今の日本は、ストーカーが平然とその邊を闊歩してゐる危險な社會と化してゐる。ウェブでも、粘着行爲を自慢し、誰かに被害を與へてゐる事を誇示すると云ふ、飛んでもない人間が多數存在する。斯うしたストーカーの大量發生が起きた事は、日本の近代化が矢張り「進化」「進歩」と何ら關係がなく、ただの物質的な豊富さの擴大が「あつた」に過ぎない事を意味する。
どう云ふ性癖の人間が犯罪に走り易いとか云ふ「議論」もあるみたいだけれども、血液型で性格を判斷するやうなもので、無責任極まりない話だと思ふ。惡意に頭を支配されて變な行動に走つた時點で異常であるのだし、問題は惡意にある。それを理解したがらない人――惡意に基いて既に行動を起してゐる人――だからこそ、殊さら他人の性癖だの趣味だのを論ひたがつてゐるのだと思ふ。さう云ふ人が日本には多いから、今後も「異常な犯罪」は日本で當り前のやうに起り續けるだらう。それでは困る。
平成二十一年一月十四日
國家主義とか全體主義とかになると困るけれども、一方で、規律正しさは大變重要だ。風紀の紊れた軍隊は弱いが、腐敗を排除した軍隊は精強なものになる。
――バーナード・ショーは戲曲「聖女ジャンヌ・ダルク」に附けた長い長い序文の中で、樣々な事を論じてゐるが、ジャンヌが弱體であつた當時のフランス軍を立直した理由も合理的に説明してゐる。

平成二十一年一月十一日
tvk土曜深夜のアニメマラソンまとめ。
屍姫 玄。超額縁。
鋼殻のレギオス。超額縁。
ドルアーガの塔。HD。
WHITE ALBUM。HD。
とある魔術の禁書目録。HD。
今期は録畫豫約が入れ易い。安心して寢られる。
平成二十一年一月十一日
はてなブックマーク - 「荒しはスルー」の效果 - HM weblog

jintrick スルー 「義」だのなんだのというのは「荒し」なのか? 個人に粘着して嫌がらせをして喜ぶ行為と、場を荒らして喜ぶ行為は、別々のレイヤーで考えなければならない筈だから、安易に「荒し」というラベルを用いるのはどうかと 2009/01/04

いや「義」は荒しだよ。「粘着であると同時に荒しでもある」と言つた方が正確だらうけれども、何れにせよ同一人物なのだから區別する必要はない。やつてゐる行爲全體に一貫して一つのメンタリティがある訣だし。
Latest topics > 僕は何故自分語りをする? - outsider reflex
「ノズラー」云々のコピペを、俺がリンクを張つた先に貼り捲る、と云ふなつかしい嫌がらせ。今囘はPiroさんのところに貼つてゐる。苦しがつて昔の手口を復活させたのだらうけれども、犯罪にもならない行爲に限定せねばならないので苦しくて仕方がないらしい。しかも犯罪にもならないやうな事だと、そもそも嫌がらせにならない訣で、こちらは痛くも痒くもない。ただただ「ノズラー」等と罵倒されてゐる人間が被害者である事實を世間に知らしめるだけの事で、アンチ乙としか言ひやうがない。
なんでこんなに「アンチ」の人間つて頭が惡いんだらうね。性格も惡い。「アンチ」問題はそろそろウェブ全體の問題として論じられていい頃だ。「義」のコピペ連投がそのきつかけになつて呉れると嬉しい。
虹裏でも「アンチ」は「」の多くに哀れまれるやうになりつゝある。先日は「アク禁になつたから別のISPと契約した」と報告するスレを立てた「」がゐて、歸つて來るなとか散々言はれてゐた。糞コテも嫌はれてゐるのになぜか虹裏に居着いてゐて何う考へても頭がをかしいと言はれてゐる。
平成二十一年一月十一日
何うして嫌がらせとか攻撃とか、さう云ふ誰からも嫌はれるだけの行爲をやつて自分だけ樂しんでゐられるのか理解できないが、この手のをかしな事を平氣でするをかしな人は、何んな批判をされてもさつぱり自覺しないから困る。自分が惡い事をしてゐると心から反省する事等できなくて、唯「みんなが責める」と不平を述べる。虹裏で、變な子が變なスレを立てて「二度と來るな」と多くの「」に言はれてゐるのに「土下座して謝ればいいのか」と勘違ひした事を言つた事があつて、「」はあきれてゐたが、あきれるのが當り前の道徳觀の持主だらう。變な子は、責任問題ではないのになぜか責任をとれば許されるんだらうと思つてゐる。他人には一方的に要求を出す割に自分は謝罪で濟ませられるとか本氣で信じてゐる邊、變な子は變な子なのだが――虹裏の變な子に限らない、その邊のアンチと荒しとを往つたり來たりしてゐる子はみんな同じだ。さう、アンチの子、粘着行爲をする子と、荒しの子は、實際、同じ人物であるのであり、問題を起す變な子は特定の少數の人間だ。惡意の行動を取る變な子は、その變な行動が、場面に應じて「粘着」「アンチ」「荒し」と分類されるだけで、メンタリティは一貫してゐる。彼等は、さう云ふ惡意に基いた誰も樂しめない、誰も裨益しない、無意味で有害な行動を、無意味で有害であるがゆゑに「するな」と言はれてゐるのに、ただただ「嫌はれてゐるだけに過ぎない」と勘違ひして、せいぜい好かれようとする。ところが、そんな變な子が好かれる筈もなく、嫌な事を言へば言ふほど嫌はれるものであり、さうなると變な子は怒つて、さらに嫌な言動を續ける事になる。謝罪するのも變な子にとつては所詮「好かれる」目的でする手段に過ぎず、そこに何ら反省はない――ところが「反省したのだから俺の事を好け」と無理を言ひ、それでも嫌はれてゐる事に氣附くと激昂して逆恨みする。明かに異常人格者だが、斯う云ふ人間は矢鱈目立つて、何處のコミュニティにも發生し、放置しておくとコミュニティを喰ひ潰し、破壞する事になる。その破壞行爲を彼等異常人格者は自らの功績として誇る傾向がある。それでゐてなぜか自分は好かれてゐるのだと勘違ひし、自分に反對する人間がゐると恐るべきしつこさを發揮して嫌がらせを繰返し行ふやうになる。アンチの不思議な思ひ込み・「嫌がらせをしなければならない」と云ふ使命感――使命感そのものは、人間の精神の基底に存在する普遍的なものだが、その上に存在する樣々な常識、倫理感、價値觀、知識が異あつて、普通は使命感の暴走を抑制する。さうしたものが缺落した、何處か足りない人が、ひたぶるに使命感を發揮して、思ひ込みに從つて「敵」を攻撃し、執拗に粘着し、場を荒し、「達成感」を味はつて自己滿足する。他人を「信者」と罵り、「信者」を「嫌はれてゐる」と極附けて場から追放しようとするのだが、それは自分が「好かれたい」と云ふ希望の裏返しである。然るに、彼等は自分が好かれる爲の積極的な行動が取れないものだから、惡意のものとしか傍目には見えない嫌な言動だけを繰返すのであり、その結果より嫌はれると云ふ悲慘な事態に陷つて行く。斯う云ふ異常な人間がインターネットを自由に使へる事は、異常でない人間もまたインターネットを自由に使へる權利の保障されてゐる事を意味するが、然るにこの手の異常な人間が異常でない人間を抑壓し始めると、その粘着氣質ゆゑに抑壓を達成してしまふ事態が屡々生ずる。斯うなると、權利は保障されてゐても現實には權利が守られないと云ふ困つた事態が生じてゐる訣で、これに關しては何らかの方法で對處がなされなければならない。ウェブでは自淨作用が働かないのであり、變な子は放つておかれれば何時までも執拗に困つた行動を續けようとする――ちよつとした對處では全然懲りないで却つてつけ上がり、居丈高になつてより惡質な振舞ひを始めるから、變な子には徹底した對處が必要である。これは仕方の無い事だ。俺は自由と云ふものをそれ自體として力であるとは決して信じてゐない。だから、秩序を維持して自由な發言を守る爲には、跳ね返りの變な子の行動は何らかの方法で抑制しなければならないと信ずる。インターネットには政治の介入が必要である。
 ★ノズラーの性質★ 
 「正字正仮名」がいかに正統な仮名遣いであるかをネット上の掲示板などで布教する 
 が、語り口が傲慢なので皮肉にもかえって「正字正仮名」に嫌悪感を示す人を増やす 
 という事態に陥っている。 
 また、「正字正仮名」こそが現代の日本に残された数少ない(唯一?)伝統であり、こ 
 れを守ることこそが真の保守であると盲信しているので、保守を名乗りながら「正字正 
 仮名」を使わない西部邁や西尾幹二やその信奉者を罵倒することを生き甲斐にしてい 
 る。 
Commented by 木村某 at 2009/01/11 (Sun) 16:47:08
例の「教義」だ。粘着アンチの變な子には斯うしたドグマへの異常な傾斜が見られる。
アンチの信仰は「信者」のそれ以上の狂信であり、他人の「信仰」を否定しながら自分自身は別の價値觀を信仰し、それに全面的に屈服・依據して、「信者」以上に信者らしい言動を繰返す。之には論理的な反論はナンセンスで(なぜなら、アンチは「信じてゐる」のだから)、力で抑へ込む以外に手はない(だからこそアンチは「信者」を力づくで抑へ込まうとしてゐるのだ)。彼等アンチは、「信者」の行爲を非難しながら、常に「信者」のしてゐるとされる「惡い行爲」を自ら實踐してしまふ。だからこそアンチになつてはならないのだが、アンチになるやうな人間にはそれがわからない。憎惡に凝り固まつたアンチの頭は、どんな批判も、どんな反論も受け附けない。ドグマ主義であるが、これは「信者」と言つて他人の價値觀を否定する爲には自分自身が異る價値觀に凝り固まらなければならない、と云ふ批判の方法それ自體の根本的な矛盾に端を發する。「アンチ」は、「信者」のしてゐる行爲を理論的に否定しようとして「方法として間違つてゐる」と言つてしまふ。その結果として「正しい方法」を實踐して見せるのが己の義務だと思ひ込んでしまふのだ。それが誰の目にも惡意に基く嫌がらせであるのは明かだが、アンチは「嫌がらせ」と「見られる」事を「當り前」と思ひ込み、「それでもやらねばならぬ」と異常な使命感を燃やす。その結果、普通の人間が唖然とするやうな惡辣な言動を何時までも何時までも執拗に繰返す事になる。
ウェブの治安を維持する爲には、この手の異常人格者、アンチ・粘着の類、執拗な荒しに對しては、インターネット全體として取組む必要がある。「言論の自由」を俺は信じてゐるし、俺の言論の自由を守る爲には、俺より非道い言論の存在も自由であるべきだと思ふが、一方で、現實に俺自身の言論が妨碍されるやうな状況が起きてゐるのだから、さうしたとても言論とは呼べないやうな嫌がらせ行爲には對抗せざるを得ない。俺の理想は、斯うした言論未滿の嫌がらせを普通に「しない」と皆が思ふやうになる事だが、それは無理だ。俺は人間に其處まで期待してゐない。だからこそ權力による犯罪行爲への對應を俺は主張・要請する訣だ。
平成二十一年一月十一日
アンチは自分の「信者を叩かねばならない」と云ふのが「教義」でありドグマである事實を認識出來ず、自分自身が信者と化してゐる事實を絶對に理解できないんだよ。だから批判も受容れられない。議論も出來ない。反省も出來ない。やれるのは一方的に惡口(=教義)を投げつける事だけ。
ベルジャーエフは、キリスト教とアンチキリストの思想との對立を論じて、アンチの側のドグマティズムの存在を剔抉した。だからこそ、殊にアンチと呼ばれる人はベルジャーエフを讀むべきなのだが、「自分に都合の惡い事を言つてゐる」と言つて彼等は常に批判を囘避する。マルクス主義者もベルジャーエフを排除して――ベルジャーエフに限らない、多くの思想家をマルクス主義者は排除し、或は殺害して來た。先の世紀の末にソヴィエト聯邦は崩潰し、ロシアのマルクシズムが無效と化した事は屡々指摘されてゐる。けれども、マルクス主義の根柢にあるアンチキリストの思想、或はアンチの發想は、全く反省されてゐない。表面的な見方をする人々はアンチの發想それ自體に徹底した批判を加へてゐるベルジャーエフもまた「單なるマルクス主義批判」と見、「古い」と言つて排斥する筈である。それでは困るのだが――表面的なものの見方をする事こそ「正しい」と信じてゐる輕薄な人は今の日本にどんどん増えてゐる。恐るべき「割切り」主義が日本には蔓延し、單なる揚げ足取りや言葉尻を捉へる事が「本質的な批判」に思はれてしまつてゐるし、單なるレッテル貼り、單なるドグマの押附けが「立派な戰術」のやうに信じられて實踐されてしまつてゐる。

平成二十一年一月十日
リンク集:無料で始める!お手軽ブログ2009〜日記・アルバムにどうぞ
リンク集:スパムフィルタも無料、大容量で快適! 使いこなそう無料Webメール
インプレスのINTERNET Watchが作つてゐるリンク集は、さりげなく「使へる」サイトを普通に纏めてゐるんだが、どの程度注目されてゐるんだらう。
平成二十一年一月十日
Firefox率が高いサイト=おっさん臭いサイト
やじうまWatch 【2009/01/09】
Operaを利用するユーザが多いのは……。
はてなブックマーク - Firefox率が高いサイト=おっさん臭いサイト
案外Operaは女性や若い男性が使つてゐる。Macだと、FirefoxよりもOperaを使つた方が便利だつたりするし。と言ふか、最近、意外なところにOperaユーザがゐる事を發見して驚いてゐる。
平成二十一年一月十日
Opera スクロールマーカー - A blog? with Σαιτω
そんな機能だなんて教へて貰はなければ誰も氣附かないよ。上端下端に行つた時、變なところに出て來るんで、氣持ち惡くてさつさと消しちやつたよ。

ここでは「問い合わせが幾つか」と穏やかに書きましたが、Opera の BTS にも複数の登録がされていたりします。

みんなわけわかんなかつたんだな。それあさうだらう。
平成二十一年一月十日
かもされてきた。
平成二十一年一月十日
CHUO SPECIAL RAPID » プラグインには気をつけろ
本当に必要なプラグインか考えてから入れる|AZ note
Windowsだつて無闇にアプリケーション入れるものではないしな。
ところでタイトルに»を入れるのは何かの嫌がらせだらうか。
平成二十一年一月十日
宮崎信彦『ベルヂャエフ』(アテネ文庫68・弘文堂)讀了。いい本だが、讀んでも理解出來ない人は多さう。
と言ふか、讀むべき人に限つてベルジャーエフ讀んで呉れないんだよな。マルクス主義は死んだけれども、マルクス主義の「效率的な經濟活動が全て」と云ふ思想は未だに生きてゐて、殊に日本では強力なドグマと化してゐるから、だからこそベルジャーエフは讀まれなければならないのだけれども、依然として何でもかんでも經濟經濟で日本人は全てをやつつけようとしてゐる。
「自由」と言ふと何とかの一つ覺えで「馬鹿にすれば良い」と信じ込んでゐる人までゐて、何とも嘆かはしい事だけれども、人間の自由意志の存在を基盤として成立したキリスト教の傳統がないからこそ、日本では個人の人格と云ふものを極度に輕視した考へ方は「當り前」で、マルクス主義のやうな全體主義を(もちろん、極右の全體主義も)自然に受容れられてしまふ。
逆に、「自由」「自由」と言つてみても、社會的に相互に調整を行ふ事が「可能」とか云ふ飛んでもない發想で以て自由の絶對化をはかる人もまた存在する。が、當然の事ながら、社會的・組織的に運用される「自由」なんてものは自由でも何でもない訣で、それは自由の名の下に自由が消する事を意味しし、自由の消滅は同時に個人の人格の消滅を意味する訣だから受容れる訣には行かない。然るにその手の極端な「自由主義者」は、自らの「自由」の觀念を絶對のものと看做す觀念のドグマ化に陷つてをり、反對者を即座に「自由に對する抑壓者」と看做して侮蔑・排撃する態度に走る。
平成二十一年一月十日
「信者」と「アンチ」の對立に就いても、その對立構造と云ふものを反省する事が可能である。「何んな觀點で對立するか」を見る事で、對立する二つのものを一つの地平に列べて立たせる事が可能である。この時、對立は解消され、「或種の觀點」と云ふ部分で批評する事が可能である。
平成二十一年一月十日
或既存の觀念とその信者に對して、それが或種の抑壓であると指摘する立場がある――その立場がアンチであるが、アンチの信者に對する「抵抗」が「復讐」の形態をとり、「信者の抑壓」を遙かに凌ぐ冷酷無慘なものと化した事が、歴史上には何度となくあつた。キリスト教に對する憎惡が唯物主義・無神論そしてマルクス主義を生じたのだが、キリスト教に對抗して行つた思想の尖鋭化はアンチのドグマ化を生じ、また宗教の否定は非宗教である思想の擬似思想化を生じた。マルクス主義が、ユダヤ人マルクスの氣質に由來すると許りは言へない、歴史的に必然的に生ずるアンチのメシア思想であつた事は、ベルジャーエフが指摘するところである。
平成二十一年一月十日
キリスト教に抵抗した無神論の類は、抑壓された人間の救濟を目的として、悉く人間の社會化・組織化を目指したが、その結果として思想それ自身の必然的歸結として個人の抑壓に陷つた。ベルジャーエフに據れば、經濟的・物質的な抑壓は、本質的な問題ではないと云ふ。寧ろ、個人の人格が抑壓され、否定された事こそが、近代の無神論の齎した深刻な問題だ。個人の人格の存在を前提としたキリスト教の方が、まだしも、或は遙かに、無神論よりも増しであると、ベルジャーエフは言ふ。
平成二十一年一月十日
經濟的な利益――「国益」でも同じだ――さう云つた觀點から物事を見るのは、飽くまで觀察であり、事實の確認に過ぎない。そこでは現實を記述して「〜である」と述べる事のみが可能である。が、「〜である」と云ふ事實の記述からは「〜であるべきである」と云ふ價値判斷は必然的に引出す事が出來ない・許されない。社會科學に基いた主義・イデオロギー、或は思想が「〜であるべきである」の類の價値觀を提示する時、それは全て矛盾を内包し、結果として現實對處の方法としては大變危險な結果を齎す。
キリスト教のやうな宗教、或は道徳と云ふものは、全て「〜であるべきである」「〜すべきである」の形で示される價値判斷を示してゐる。これに反駁する時、我々はその反駁が矢張り「〜すべきである」の形で示される價値判斷となつてゐる事に注意しなければならない。
平成二十一年一月十日
アンチが事實を指摘してゐるかのやうな顔をして信者の主張を否定する時、アンチはただ信者の價値觀と異る價値觀を披瀝してゐるだけに過ぎない。が、価値観を表明するならば、その人は矢張り信者であるのであり、ただ攻撃対象の信者と異る信者であるだけに過ぎない。信者であると云ふ事それ自體を非難してゐるのなら、アンチと云ふ名の信者もまた非難されるべきである。アンチが述べる理論に對して理論で反駁するのはナンセンスである。單に異る價値觀を披瀝してゐるだけなのであり――ただ、アンチの場合、常にその價値觀の絶對的眞理である事を疑はないドグマ的思考に陷つてゐる爲、どんな形で反駁されても、アンチは否定すべき信者の言に耳を貸す事はない。
平成二十一年一月十日
取敢ず、ドグマティックな態度に陷らない事は、みんな氣をつけような。アンチの人の方が「教義」に捉はれて非人間的に他人を罵る傾向が強いから、反省した方がいい――もちろん、それが出來ないからアンチなんてろくでもない存在に平氣で成下がれるのだらうが。
平成二十一年一月十日
――アンチ野嵜の人は斯う言はれると、「野嵜こそ」云々と、何時ものやうに反射的に・ドグマティックに攻撃の文句を書連ね始める。俺の豫言、最う嫌になるくらゐ當り捲つてゐて、するのも嫌なのだが――。
例の人なんかは、何時ものやうに(本當に「何時ものやうに」なんだよ、嫌になつちやふ)何も考へないで、ただ「野嵜が言つた事は何であれ馬鹿にしなければならない」と云ふ「教義」に忠實に從つて、それで罵倒の文句を書連ねるのだが、かう云ふ人こそベルジャーエフのやうな人の本を讀まなければならないんだよ。讀んでも理解出來ないだらうけれども、まあ、俺が言及した本は讀んでから反論して呉れと言ひたい。俺が「權威」に據つてゐるとか、「教義」に從つたおなじみ無内容の「反論」をして呉れるんだらうけれども――その手の「反論不可能」な、ただの「教義」に書かれてゐる通りのやり方の「攻撃の仕方」を繰返されても、困るし、話にならないから詰らない。相手の言ふ事に聞く耳持たないで、ひたすら一つの「攻撃する方法」を、命じられたまゝに何度も何度も執拗に繰返す粘着的な態度を、ドグマ的と言ふんだよ。

平成二十一年一月九日
肘をぶつけたら痺れが取れない。
平成二十一年一月九日
続 CSS コミュン批判 - 黎明日記
大御所の意見も云々。
うちからのアクセスが17。Piroさんところからが58。闇黒日記の寂れ方が非道い。數だけで言つても大御所なんかぢやないよ、勘辨。

平成二十一年一月八日
水鏡希人『静野さんとこの蒼緋(ふたご)』と竹宮ゆゆこ『とらドラ・スピンオフ〈2!〉』をげっと。いづれも電撃文庫。
昔はファンタジイだらけで辟易したラノベ界だつたが、いまや純然たるファンタジイが賣れない時代。
平成二十一年一月八日
水鏡希人『静野さんとこの蒼緋(ふたご)』讀了。ふたごの妹の方だけでなく兄の方も可愛いと思へる人ならば存分に活用(謎)可能だと思ふが、さう云ふ意味では前作と本質的に變らないと言へる。文章は拔群に巧いので安心して讀めるが、設定や本の外觀は如何にもな作りなので周邊の數多くの類書の中に埋沒ぎみ。
平成二十一年一月八日
[WBS]ワールドビジネスサテライト : テレビ東京
「ワールドビジネスサテライト」で紹介された「京都タワー」の情報 - MAPPLE 観光ガイド
なんで昔の日本人は觀光地の觀光スポットにわざわざうるさいゲーム機を置いたのだらう。と言ふか今でも平氣で置く人がゐるけれども、何なのだらう。相模原の古本屋・博蝶堂で以前、ゲーム機を置いてゐた事がある。全く理解出來ない(その後撤去された。當り前だ)。橋本サティの本屋のフロアには、なぜか本屋のすぐ隣にゲームコーナがある。ABCが潰れたのもゲームコーナの所爲だらう。いい雰圍氣を全部ぶち壞すのがアーケードゲーム機だが、こんな糞みたいな代物をなぜか好む人がゐると云ふのが信じられない。サティのゲームコーナは何時も閑散としてゐるが、さつさと撤去すべきだ。
平成二十一年一月八日
WBSの「心理エコノミー」のコーナ。視線(目線?)の話をしてゐて、廣告はZ型目線を意識して作るものだと話してゐた。で、その應用で、ウェブサイトもさう云ふ作りをする事があると言つてゐた(勿論、ウェブだと事情が違ふから試行錯誤が續いてゐると指摘あり)。
製造業のホームページ制作・作成:F型・Z型目線を意識する:製造業の顧客開拓ヒント:株式会社イプロス

この法則、広告だけでなくホームページのレイアウトにもあてはまるんです。

何うだらう。信用できるだらうか。全く信用出來ないと思ふが如何。ウェブを見る人は誰も左上のサイトのロゴなんか見ないし、右端の廣告には絶對目をやらない。ひたすら本文の記事だけ見て、必要な情報があるか何うかを確かめて、あれば讀むし、なければ「戻る」ボタンをクリックする(OperaだとZボタンを押す――或意味「Zの法則」が「ある」と言へる)。
ウェブで「Zの法則」は絶對ないと思ふ。と言ふか、さう云ふ法則に從つてゐるウェブサイトが蔓延してゐるがゆゑに、慣れたユーザはさうした「企業が注目して貰ひたい部分=廣告」を無意識に避けるやう視線を動かすやうになつてゐる。
ところで、映畫でもテレビでも字幕は「下」に出る。案外、モニタでものを見る時には「下」の方が注目されるのでないか。眞ん中邊が見えるやうに「下」に字幕は出るのだが、斯うなると人間の習性として、見る場所が「下」に行くやうになる氣がしてならない。

平成二十一年一月七日
tvk深夜のあにめ。WHITE ALBUM――HV。まりほり――額縁。恋姫無双――額縁。
平成二十一年一月七日
正社員が給料だけでは生活出來ないと言つて故郷に歸る職業。
平成二十一年一月七日
禁煙、その後。(TexTsiTe)
秋津透がルナ・ヴァルガーの最終卷で文體變へて來た時のがつかり感。
平成二十一年一月七日
無題 - 黎明日記
まあ大抵のソフトウェアのバグはユーザの工夫で何とかなつてしまふもので、返信出來ないからメールアドレスコピーして新規作成で新しいメール作つて送つた。
平成二十一年一月七日
昔、Windows 3.0向けのコラムスクローンがあつて樂しく遊んでゐたのだけれども、これが非道いバグを一箇抱へてゐて、右から二列目の一番下と三列目の下から二番目に赤の四角が並ぶと問答無用で修復不可能なアプリケーションエラーになると云ふろくでもない代物だつた。勿論その場合、點數は記録されない。そこそこいいところまで行つてそれで落ちると云ふ事が何囘もあつて、最初は無茶苦茶腹が立つたもの。ところが、「そこに赤いのを落さない」と云ふ方針で遊び始めたら、殆ど眞劍勝負になつて、却つて面白くなつた。やつぱり、失敗したら完全におじやん、と云ふ方が、プレイには集中できる。そのうち、右上の邊で無理に積上げるとなぜかランダムに四角が消えるとかわけのわからないバグが發見されて、さらに樂しめるゲームになつた。本當にランダムで役に立たない事もあつたりして、一發逆轉できたりできなかつたりと、實にスリリングな展開になるのだが、これ絶對仕樣ではないと思ふ。多分四、五年飽きずに遊んだ。
仕事とかとは無關係の領域ではバグ持ちアプリでも許せる事がある。
平成二十一年一月七日
Latest topics > 僕は何故自分語りをする? - outsider reflex
俺は「自分語り」の類はしないやうにしてゐる。アンチが附くやうになつたらわかるよ。
……と書かうかと思つてゐて書かなかつたけれども。
Latest topics > 謝りたくないでござる! 絶対に謝りたくないでござる! - outsider reflex
かんなぎの事を書いたら、かんなぎアンチの××××に絡まれてる模樣。
なんでアンチつてみんな××××なんだらう。まあ××××だからアンチなんだらうが。××××でないアンチを見た事がない。アンチと云ふ人種に絡まれたら、絡まれた方が惡かつた事は先づない。アンチが幾ら聲高に非を鳴らさうとも、大抵をかしいのはアンチ。
最近は「モヒカン族」とか言ふのよりアンチの跳梁跋扈の方が問題だ。そろそろネット全體で大問題になつてもいい頃だと思ふ。なんでみんな口を噤んでゐるんだらう。虹裏でも最近は變な子がちやんと規制されるやうになつた。
平成二十一年一月七日
モヒカン族とは - はてなキーワード
なんか非道い定義が書かれてゐて「松原信者」とか「ノズラー」とかの「定義」と同レヴェルだけれども、何でこんなのではてなの人とかは平然と議論出來るんだ。暇人は多いんだね。
と言ふか。
void GraphicWizardsLair( void ); // 「ネットのお宅くんたちの理屈は気持ち悪いので聞き入れるつもりは有りません」というありがちな遮断
明かに某コミュン近傍の事を念頭に置いたネタ發言なんだが、これを出發點になんでマジレスだらけの大論爭が起きたんだらう。

平成二十一年一月六日
憲法の話をするとすぐに飛び掛かつて來る――目の前で手を動かされると反射的に鎌を振り下ろす、まるで螳螂のやうな人がゐるので、書いてみる。
大日本帝國憲法の出自は果たして何うだつたのか――ナンセンスな質問だ。なぜなら、憲法は作られ、國家が「それを守る」と約束したがゆゑに、契約が成立したのだから。契約書が何處から涌いて出たかは關係ない。一度「約束を守ります」と言つたら、國家は約束を守らなければならない、それだけの事だ。人が「約束」をして、それを破つたら、「××詐欺だ」と騷ぐ人がゐる。まとめサイトを作つて騷ぐくらゐ大袈裟に騷ぐ。その同じ人が、國家に關しては「約束を破つた」と言はないのだ。不思議な話である。
大日本帝國憲法を、日本と云ふ國家は「守る」と約束した――それが或日から「いや、今日から俺は日本国憲法を守る事にした。大日本帝國は最う守らない」と云ふ事になつた。變な話ぢやないか。變だから變だと言つてゐる、それを變だと思はないのが「現代人」だと言ふのなら、現代人の道徳觀がをかしいに決つてゐる。「自由に持つて行つて下さい」と言つてゐるのを持つて言つたら「普通の人は持つて行かないのが正しい道徳觀」とか非難する人がゐるくらゐで、確かに現代人はをかしい。だが、それでは困る。
馬鹿馬鹿しい話で、子供だつて理解できる筈の話だ。「約束は破らないものである」――ところが、日本の政府が率先して破つてゐるのだ。これでは日本人の道徳觀がをかしくなつても仕方がない。
俺はただ、日本と云ふ國家が約束を破つてゐる、と言つて「粘着」してゐるだけである。俺の「粘着」が嫌なら、「日本国憲法」なんて撤囘すればいい。笑ひ。
國家がする約束は、變更するならちやんと正しいやり方で變更しなければならない。それに、何うせ今の「日本国憲法」なんて紙切れ同然だと、誰もが思つてゐるのだ。そんな權威のない、矛盾だらけで穴だらけの駄目憲法なら、やめてしまつて構はない。しかし、そんな「日本国憲法」においても、人權の條項や自由の條項は存在し、現代の憲法として、なるほど必要である事が書かれてゐると言へる。さうした事柄は守られる必要はある。現在の權威のない憲法では、とても守られない。だからこそ、權威のある憲法が必要なのであり、だからこそ、正統の憲法が必要であるのだから、俺は大日本帝國憲法の有效の確認と、その現代的な内容への改訂、さらに、さうしたより良い内容を含んだ憲法を「守る」と改めて現在の政府が誓約する事の重要性を主張してゐる。
俺に反對してゐる人々は大抵、「今のままで十分」「憲法なんて信用する奴は馬鹿」といつた考へを持つてゐる(舊弊的な「護憲主義」は、まあ、「一部に殘つてゐる」んでせう)。だが、さうした考へ方こそ、現在の憲法に基いた體制を盲信して安心し切つたものではないか。「憲法なんて信じない」等と言ふ人に限つて、現行の憲法の下で大いに「権利」を享受し、「自由」奔放に振舞つてゐるのでないか。いや實際さうだらう。ところが、さうやつて安心してゐられる今だからこそ、現行憲法のやうな代物で「やつて行けてゐる」に過ぎない。それで良いのかと俺は疑問を呈してゐる訣だが、俺が「疑問を呈する」のを何とかして封じたいと考へる人がゐるのである。何か俺に指摘されては困る事を指摘されてゐるとでも言ふのだらうか。
平成二十一年一月六日
なんか最近再放送ばつかり觀てゐる氣がする。神様家族とか蟲師とか。最新のアニメより面白いんだよな。

平成二十一年一月五日
近年の自己啓発・能力開発に対する意識の低さには目を覆いたくなるものがある。
今日のニュース - 黎明日記
「自己啓発」なんてものが好きな人は本當に好きで好きで仕方がないらしいのだが、何でそんなものを讀むのだらうと思ふ人間にはその手の本が氣色惡くて仕方のない物であつたりする。大體「成功した」と稱する人間は、自分が大変偉大な事を達成したかのやうに思ひ込んで、「成功してゐない」人間を、見下す一方で、同時に憐れんで見せる事に快感を覺える傾向がある。しかし、その「成功」とやらを伺つて見ると、大概「幾ら幾ら儲けました」といつた程度の事でしかないのだ。そんなに儲けて何うするの。
基本的に日本人は何の信仰も持たない國民であるが、僅かな例外として「拜金思想」だけは廣く行き渡つてをり、「お金を大事にしよう」「お金を儲けよう」と云ふ「教へ」は「絶對」に守らなければならない徳目として、支配的な地位にあると言つてよい。が、俺にしてみれば、これほど嫌な「信仰」はあつたものではないのだ。なぜなら、所詮は「地上に寶を積む」だけの事でしかないから。
俺はクリスチャンではないが、一往さう云ふ教育は施されてゐるので、「天に寶を積む」と云つた概念はそれなりに頭に入つてゐる。そして、さう云ふ概念が一般の日本人には無いと言つた事が不思議で不思議でならないでゐるのだが、一方で俺自身もまた日本人であり、大して「天に寶を積む」やうな事をする氣もないでゐる。が、だからと言つて「地上に寶を積んで威張れ、誇れ」なんて他人に「説教」する積りは毛頭ないのであり、或はさう云ふ「説教」を喜んで聞く人間・喜んでする人間を大變嫌つてゐる。個人としては「いいひと」が多いのだが、しかしやつぱりさう云ふ「成功」ばつかりを求める人間は嫌だなあと思ふ。
と言ふか、「自己啓發本」を、讀みたければ讀めばいい。ただ、さう云ふ本許りを讀む人は、本當にその手の本許りを讀みたがる。他には何も讀まないのだ。それが俺には大變氣に入らないのだ。「自己啓発」マニアの人は、「自己啓発」以外の本が「成功」に繋がらない、「幸福」に繋がらない事を知つてゐるのかも知れない――だが、ならばこそ、尚さら他の本を讀むべきだ、と言ひたい。論語でも聖書でもいいし、或はフランス文學やロシア文學の、文豪と呼ばれた人々の名著・古典を讀んでも良い。英文學でも構はない(渡部昇一が譯したベネットは除く)。自己啓發の本は現世の御利益を得る事で滿足する事を教へるが、立派な本はこの世で幾ら成功しても、そんなのは大して意味がないのだ、と云ふ事實を教へる。結果として人は不幸になる訣だが、文學でも宗教でも、人が不幸である事を教へるものでなければ全部いんちきだ。そして、この世で完全に滿足する事を教へるものは、全て例外ナシにいんちきであると言つて良い。この世では、精々當座の樂しみを得る事のみが可能であるに過ぎない。心の持ちやう――人は心の平安を得る事は可能だ。だが、さうした平安は決して永續きするものでない。この事を我々は知らなければならない。何時までも續く平安が「ある」、「自己啓発」本の著者は、さう書く。だが、それは大嘘だ。人間は神ではない。本能で一般の讀者は、その手の「自己啓発」の嘘を見拔く、「氣持惡い」と反撥する感覺は正常だ。人は神でないのだから、完全な心の平安を得る事は出來ない――その事實を本當に良心的な著者は書かなければならない。「斯うすれば人は心の平安を得る事が出來るのです」、嘘つけ。自己啓発の本の著者は、事實を書かないで、嘘を吐く傾向がある。
例へば木達さんが讀んでゐると何處かで書いてゐた加藤諦三、あれなんかは途方もないいんちきライターで、松原先生がその無道徳ぶりを散々叩いてゐたのだけれども――さう、道徳觀念が缺落してゐて、現實をひたすら肯定する立場が「自己啓発」なのだ。成程、さう云ふ生き方は氣樂だが、しかしそれは人間の生き方ではない。人間は「〜である」をひたすら肯定する生き物ではない。「〜すべきである」と信ずるところがあつて、それを心に抱いて生きるから人間として生きる事になるのだ。「「〜すべきである」と云ふ信念は、常に現實の「〜である」と衝突する。この衝突をこそ、人間は肯定しなければならない。それを囘避して、氣樂に生きよう、或は囘避すればこそ「成功」できる、と説くのが「自己啓発」本である。こんな非道い代物は、讀んではならない。
日本人には、「價値觀を持つ」事の大事が屡々理解できない。「戰後民主主義」の惡影響如きは大した問題ではない。ただひたすら現實を追認し、既成事實と云ふ事で強壓的に何でも押通す――さう云ふ根つからの日本人の性質、これが大變深刻な問題を生じてゐるのだ。日本人が價値觀と云ふものの存在を認識できず、理解できない事――日本人の致命的な缺陷だ。が、それが日本人自身には認識すらできない、と云ふ處に問題の根深さがある。日本人は、例へば戰爭をしてもただ「生き延びる」事だけにしか大義名分を見出せないし、戰爭を放棄すれば他の戰爭をしてゐる人間を「無駄に破壞行爲をしてゐる愚か者」のやうに思つてしまふ。だが、世界的に、戰爭をするのは當り前であり、戰爭を始める動機は屡々正義感である。否、そんな大問題に目を向ける必要はない。日本人は屡々正義の觀念を自分が抱いてゐる事すら自覺しない。だからこそ、他人を「信者」と氣樂に呼んで攻撃しつゝ、自分自身のやつてゐる行爲が「信者」以上に狂信的である事に氣附けないでゐる――現に起つてゐる事態だ。價値觀とか正義とかが、日本人では無意識の領域に押込められつゝ、現實には、意識してゐる人間以上に激しく・冷酷な形で現れる事が屡々ある。さう、無意識に正義の行爲を行ふ人間は、より意識的な人間以上に、非人間的で・冷酷な態度をとる傾向がある。これでは困るのだが、「自己啓発」の本の著者は、さうした事を論じないし、そもそも本當に論ずべき觀念の存在を認識してゐない。寧ろ「目を逸らす」事を読者に教へてゐるやうな事が大變に多い。「自己啓発」の本は、視野を確實に狹くする。
覚え書き@kazuhi.to: links for 2008-07-17
木達さんが「自己啓発」の本の事を嬉しさうに書く度に、俺は何だかなーと云ふ感想を抱いて來た。此處を讀んでをられるさうだから「自己啓発」アンチぶりを發揮していろいろ書いてみた。「自己啓発」の本なんて、所詮は「良い事」しか書いてないんだよ。そんな片端の本は讀むに値しない。
平成二十一年一月五日
天氣豫報の精度は此頃、相當に上がつてゐるさうだが、晴れか曇りかの違ひ程度では、「當つた」か「當らない」で都市の住人が死ぬほど困る事などない。けれども、長期豫報が外れて深刻に困る農家は今でも結構ある筈だ。颱風は、近く五日先の豫報まで出るやうになるとの事だが、隨分大雜把な豫報になるやうで、日本列島をすつぽり覆ふ豫報圓なんてものが今後は現れる事になるらしい。斯うなると「當るも八卦」の領域で、大して當てにならない。町に住んでゐる人間には大して問題にならないだけの事である。
が、それを言ふなら經濟學なんてものも、大して當てにはならないのであり、經濟豫測なんてものはますます當てにならない。「斯うすれば景氣が恢復します」と云ふ提案だつて、どれも當てにはならない。それなのに「自分の提案は根據がある」と言つて競つてゐるのだから、百鬼夜行とはこの事だ。自民黨にしても民主黨にしても、景氣對策の案を提示して、互ひに叩き合つても、どうせ叩く爲に叩くだけの事であり、實行すればどれもそれなりの成果は出るのだらうし、景氣それ自體の行方次第で何うにでもなり得る。まあ、あんまり意味は無い議論だ、とは確實に言へる。が、さう云ふ意味のない議論だからこそ、論者が熱くなりがちで、互ひに相手を激しく罵つて「眞劍勝負」の樣相を呈す。眞劍も糞もあつたものではない。
「自己啓発」の類の提案も、この手の「何うにでもなり得る」の類で、當てにはならない。大體、確實に成功するのなら、その手の本を一册讀めばみんな成功してしまふのであり、巷には成功しなかつた人間がごろごろ轉がつてゐる。それが當り前で、しかし失敗しても「次こそは確實」と思つて買ふから「自己啓発」本市場が成立つてゐる。ぱちんこ屋が繁昌するのと同じだ。ぱちんこ屋は、釘を緩めて呉れる事もあるからたまに當るが、「自己啓発」の本の著者は何もやつて呉れないから、當らない事の方が多いし、當らなくても救濟措置はまるでない。まだしも商賣のギャンブルの方が人情味があつて増し。最近は世相を反映してか世知辛いやうなので、讀者にはギャンぶるなんかに手を出さないやうにと忠告しておくが、ドストエフスキーなんかは賭博にこそ人生の本質があると考へてゐたりした位で云々。
平成二十一年一月五日
IE6 叩きについて思うこと - 頭ん中
IE6に気を使わなくてもいい理由
ウェブブラウザなんかに気を遣わなくてもいい理由 (agenda)
うちは「仕樣にしたがつてゐれば良いや」と思つてゐるけれども、borderの太さがInternet Explorerだと他のブラウザより太くなつてゐるんだよな。本質的な問題ではないから放置してゐるけれども、これが氣に入らなくてアンチになつてゐる人もゐるかも知れない。
平成二十一年一月五日
BLOCKQUOTE要素とCITE要素をめぐる考察
平成二十一年一月五日
電信八号で返信しようとしたら「Reply.defに無条件のテンプレートが指定されていません」と云ふ訣のわからないエラーメッセージが出て返信出來ない。開發者は何を考へてこんなユーザを困惑させるだけで意味のないメッセージを出さうと思つたのだらう。返信したいから返信しろとユーザは要求してゐるのに、拒絶するとは何事だ。電八はたまに斯う云ふ非常に苛々する事を言出すから嫌ひだ。エラーメッセージを出すなら出すで、ユーザの要求には最低限答へるやうにしたらいいんだ。DOSのコマンドぢやあるまいし、なんでこんなに融通がきかないのだらう。プログラマと云ふ人種はユーザが困つて文句を言ふと、何故か融通のきかない事を言つてユーザを怒らせて喜ぶ惡癖があるが、それでいいと心から思つてゐるから困る。
他の全てのメーラが一つの例外もなく糞だから仕方なく電八を使つてゐるが、こんな腐つたメーラは本來使ひたくて使つてゐるのではない。
平成二十一年一月五日
晝夜が逆轉し切つたところで連休が終る。
二週間あると元に戻るやうな氣がするのだが、氣のせゐ。戻らない事は前に經驗濟み。
平成二十一年一月五日
何うでも良いが、年末年始のおやすみ中は、一日二食、エアコンはコンセントを拔いておく、と云ふ窮乏生活をした。全ては經費削減から。
平成二十一年一月五日
フィルタキーではなく固定キーを殺せば良いのか。ユーザー補助は訣が解らない。
平成二十一年一月五日
電車で眠り込んで一驛乘り過ごしたり、蹴つまづいてすつ轉んだり。
平成二十一年一月五日
あんなにみんなが騒いだ田母神論文、今や話題として完全に風化してゐると思はないか。
ついでに言ふと、西尾幹二の皇室批判も、當然の事ながら、今となつては完全に過去の話題である。
ウェブでは、この手の話題は突然涌いて出て、大騷ぎになつたと思つたら、あつと言ふ間に消費されて、誰も見向きもしないやうになる。だが、月刊誌しかなかつた時代には、斯うした話題、例へば何年もかけて、じつくり消費されたものだつた――と、ちよつと待ち玉へ、我々は簡單にさう言つてしまつて良いものだらうか。實は(と言ふのも大袈裟だが……)、斯うした政治の話題は極めて早くに古びるのである。
政治の話題は長く持たないのだ。ならばそんなものに一生懸命になる必要はない。眞劍になつて――否、眞劍になつた積りで、案外多くの人が、政治の事を論じて見せる。だが、政治の問題はさして大した問題ではない。眞劍になつた積りでも、ちよつと反省してみよう、それは單なる勘違ひに過ぎないではないか。我々は政治の事を矢鱈重要なやうに思ひ込みたがる。けれども、繰返し言ふ、政治なんて大した問題ではないのだ。例へば編緝が春に出すべき本がスケジュールが遲れに遲れてとても出せないと言つて騷ぐのと同じ程度に「重要」であるに過ぎない。いや騒いではゐないけれども結構落著いて休日出勤してゐたりする位で、まあ、政治家の人も大抵その程度の氣分で仕事をしてゐるものだ。

平成二十一年一月四日
さういへば初夢は、骨董とか瀬戸物とかを賣つてゐる店が並んでゐる裏通りで古本賣る露店が開いてゐたので物色してゐたら見た事もない深瀬基寛の本を發見すると云ふ相變らずのパターンのものだつた。昔の黄色と白のトゥートーンの河出文庫みたいな裝釘なのに、縱に長いバベルの圖書館みたいな判型、と云ふ訣のわからんデザインだつたのが印象的だつた。

平成二十一年一月三日
今年も正月は虹裏とアニメで潰すと云ふ毎年恆例の駄目な過し方をしたのだけれども今年の目標オンライン版。取敢ず個人サイトの立て直しはやつておかうと思ふ。最う何年も更新をしないでゐる數多くの(本當に多い)コンテンツの書直し、修正、訂正、のみならず、新しい記事の追加、情報の追加、これをやつて行きたい。マーク附けやスタイルシート、ユーザビリティ・アクセシビリティの類の見直しは多分しないでいいと思ふ。と言ふか、その手の事はあらかじめ「しない」と言つておく。「しない」と言ふか「すべきでない」と思ふ。ウェブデザイン弄りは絶對にしない。しないし、「させない」啓蒙活動にも力を入れて行かうか。デザインにはまる人が多過ぎる。
デザインだの何だのに氣を取られて、肝腎のコンテンツの充實に全然力を注がないでゐる人がこの界隈(何處)と言ふかうちの讀者にも大量にゐるので、さう云つた人々にははつきり言つておきたい、ウェブデザインだの何だのを考へる前に、デザインを適用するコンテンツを用意しておき玉へ、と。三つか四つ、その程度のHTML文書しかないのに一生懸命ウェブデザイン――なんて、そんなの意味がないでせう。なんでそんなにデザインに凝るの? デザインセンスがある人がやるのならまだいいけれども、大した才能もない我々(自分を卷込むな、つて?)が凝つたところで意味はない。目立ちやしないんだよ。うちなんかだつて、古くからある、と云ふだけの話――それで「闇黒スタイル」なんて言はれてゐるけれども、これはデザインだのスタイルだのと言はれるほどのものではありません。ただ、そつけないブラウザの標準スタイルにされるよりはそれつぽくスタイルシートをあてがつておいた方が世間體を保つには必要と、さう云ふ程度の理由でスタイルシートを使つてゐるだけ。スタイルなんかに拘らない人が多ければ、俺だつてスタイルシートなんか作らないでがんがん文書書き捲つてゐた筈。まだ氣力があつた時代の事だから、さう云ふ頃に文書を用意してゐれば、今こんなに寂れる事もなかつただらうし、その後のアレな状況もいくらかましな事になつてゐたかも知れない。
デザインなんか作つて遊んでゐる暇があつたら文書を作れ、イラストや繪を描きたければ描け――さう言ひたい。なんで飾り如きに眞劍になれるんだらう。アクセシビリティを考へたければ、アクセシビリティを要求して來るやうなユーザが大量に來るやうになつてから考へれば良い。一日二ヒット三ヒットの弱小サイトがアクセシビリティなんて言つてゐたところで笑ひ話にしかならない。極論するけれども、ウェブサイトにデザインなんて要らないんだよ。アイデア・ネタ、或は情報量、面白さ、必要性、さう言つたものこそがユーザをサイトに集めるのであつて、ただ見た目が綺麗なだけですつからかんのサイトになんか誰も來ない。それをなぜか理解しようとしないで、意地になつてデザインに「はまつてみせる」人がうちの讀者になぜか多くて、俺は一時期本當に絶望してゐた。
平成二十一年一月三日
例へば、年が變つたからコピーライト表記を書換へだー、とか言つてゐる人がゐるけれども、その精力をもつと別の事に使つたらいいんでないか。普段から大して更新もしてゐないやうな人に限つて、さう云ふ事に一生懸命になる。アンテナが更新したと言ふから見に行つて見れば、2008年が2009年に變つただけだつたりして。さう云ふ時の讀者のがつかり感と言つたら最う。何でそこまでして讀者の期待を裏切らなければならないのか。
コピーライト表記なんて讀者にとつては何の意味もない代物だし。企業サイトならその手の要求もあるんだらうし勝手にやれば良いけれども、個人サイトでやるのは「ごつこ遊び」以外の何物でもない、無意味。ナンセンス。やつても誰も幸せにならないんだから、やらない方が良い。
俺はここ數年の間、記事を書直す度にその手の無駄な記述は削つて來た。ヘッダの著作権情報とかも、なくたつていいと氣附いてから一切書かないし、書いたものは削るやうにしてゐる。どうせあつたところで盜用が好きな異常な人はガンガン盜んで行つて呉れる訣だし、盜みなんかしない普通の道徳觀を持つてゐる人に一々注意を促したつて嫌みなだけだし。
平成二十一年一月三日
去年のアニメは實に「大量」だつたのだけれど、コードギアス 反逆のルルーシュR2を除いては大して興味を引かれないもの許りだつた氣がする。やたらはつたりがきいてゐたセキレイと、不滿はあるが破天荒遊戲ぐらゐしか印象に殘つてゐない。ひだまり365とか恋姫無双とか、あまつき、ロザパンなんかも、それなりに樂しかつたけれども、まあそれなりはそれなりだし。
恋姫無双は最後まで觀てゐないのでtvkでやるから改めて觀てみようかと思つてはゐるのだけれども、TXの何だかと被つてゐるから觀ないかも知れない。と言ふか、今年の冬は寒いとか體力が續かないとかで全然深夜枠のアニメ觀てない。
かんなぎは、山本寛氏が割と凡才なのを確認できた氣がする。倉田がさう云ふタイプだから仕方がないのだけれども、話を盛上げるより妙に外す演出を大變好む倉田を判つてゐて使つてゐるのだからにんともかんとも。同じ山本なら山本天志氏が天才なのだけれども監督業やらせて貰へないのかな。兩山本氏とも、演出では抜群のセンスを發揮して話を面白くするのだけれども、ヤマカン氏は監督よりも演出をやつてゐた方がよつぽどいいとしか思へない。天志山本氏は、監督を二囘しかやつてゐないが、その場限りの演出ではなく、作品全體を通して最高の效果を狙つた作り込みをする監督をやつてほしいものだと思はせる。
平成二十一年一月三日
闇黒日記平成十七年六月分
ふと過去ログを適當につついて讀み始めたが良かれ惡しかれ興味深いのでリンクを張つてみる。いろいろ駄目になりつゝある頃の文章だがまだ讀める。
平成二十一年一月三日
かんなぎ第十三話(最終囘)。馬鹿にしながら見るとそれなりに面白いのだが、いろいろ駄目。「御話としてきちんと作つてゐない」のが問題で、「好い加減」で行當りばつたりなのが視聽者を苛立たせる。「女の子の前であたふたする主人公」なんて紋切型のキャラクタは、現實にも存在しないものだけれども、作品を「まんがちっく」にして視聽者を白けさせる以外の效果を持たないのに未だに制作者に愛用されてゐて、このアニメーション作品でも惡い效果を擧げてゐる。男の主人公がヒロインの前で「うわあああ」とか「ぎょええええ」とか叫び捲るアニメは、とても多いけれども、制作者――就中、脚本家――の無能を表はしてゐると言つて良い。と言ふか、演劇でも、登場人物に叫ばせる臺本は、どれも駄目なものだよ。それが解つてゐない制作者が餘りにも多過ぎる。連中、登場人物が叫ぶとインパクトがある、とでも思つてゐるらしい。うざつたいだけである。
闇黒日記 平成十七年七月分
平成十七年七月十三日に書いた涼風第二話の評だが、かんなぎにもそれなりに當嵌る氣がするので冒頭だけ書換へてそつくりそのまゝ轉載しておく。かんなぎは、演出とエロで胡麻かしてゐるので目立たなくなつてゐるが、「デレ」たのだとか言つて言ひ訣してゐても、仁の行動はちよつとをかしい。
平成二十一年一月三日
かんなぎを矢鱈けなしてゐるやうだけれども、TOKYO MXとtvkとANIMAXと、たまにBSJで觀た(觀てゐる)ぐらゐだから、繰返しの視聽には堪へてゐる、と云ふ事だけは言つておいた方がいいやうな氣がする。
らきすたやぱにぽにだっしゅがさうだけれども、「それなり」の出來の筈なのに何度でも觀る事が出來るアニメは「ある」んだし、逆に「いい」筈でも繰返し觀る氣にはなれないアニメも結構多い。

平成二十一年一月二日
Windows版Safariのダイアログボックスは、左がキャンセルボタン、右がOKボタンのMac式でユーザを混亂させるのだけれども、なぜか「ポインタを自動的に規定のボタン上に移動する」が有效になると云ふ美點を持つてゐる。
平成二十一年一月二日
年末年始に觀たTV番組。BS日本の日本の歌。軍歌等。「月月火水木金金」「加藤隼戦闘隊」「同期の桜」その他。當時既に「笑む」と「笑ふ」を區別してゐない。と言ふか「笑む」とすべきところで「笑ふ」を使つてゐる。CSテレ朝チャンネルのプロレスリング。1980年代の猪木。K-1よりも昔のプロレスの方が面白い。tvkのガンダム映畫。えんえん8時間觀てゐた。虹裏の實況を見ながらだと非常に樂しい。BS11のZは觀てゐない。1stとZ以降とではSF志向かストーリー志向かの違ひがある。BS日本のプロレス。と言ふかジャイアント馬場懐古。昔のプロレスは良かつたと思ふ。今の挌鬪技はリアルなバトルを求めて少しも面白くないものになつてしまつた。大體團體が濫立して訣が解らなくなつてゐるし、それぞれの中で小さく纏まつてしまつてゐて詰らない。昔は大雜把かつ大らかで大變良かつた。
平成二十一年一月二日
ボーっとシフトキーを押し続けていると突然起動するあのユーザ補助機能を無効にする方法 - F.Ko-Jiの「一秒後は未来」
WindowsXPの「ユーザー補助」機能は屡々惡さをする。殊に「フィルタキー」は大變迷惑な機能で、これの所爲で今まで擧動が遲くなつてゐたらしい。設定したら秀丸→FFFTPの切換へで一瞬FFFTPの動作が止まる現象がなくなつた。なんでMSはこんな馬鹿な機能を搭載したのだらう。「障がい者」對策ならもつといい別の方法を使へばいいだらうに。わざわざ「健常者」が使ひ辛くなるやうな方法を採用すれば、「健常者」から反感を買ふだけだ。もともとPCと云ふものはわざと「健常者」が嫌な思ひをするやうに作られてゐて、キーボードの配列なんかにも都市傳説があるけれども、例へばキーリピートのレートが遲くされてゐるのは、「キー入力が苦手な人」を基準にしてゐる所爲。

平成二十一年一月一日
キッズステーションのCHAOS;HEADプレイバックを見てゐて第一話は面白かつたんだなあとか思つてゐたら年が變つた。一時からAT-Xでらき☆すたOVA。
今年もろくな事がない年になりさう。
平成二十一年一月一日
麻生内閣が支持率低下で何時「崩潰」するかに「興味が集つてゐる」と云ふが、實際のところ、衆議院を解散しても何の意味もないし、よつて案外多くの人が期待してゐない。
衆議院を解散して選擧で自民黨が假に勝利しても、相變らず參議院は民主黨が多數を占めてゐるから現状と何も變らないし、先づは負けるだらうと皆思つてゐる。が、さう云ふ事は何うでも良い。
民主黨と言つても、そこにゐる政治家の相當數が元自民黨所屬で、今の状況は單に自民黨が割れてゐるに過ぎない。今後、「政界再編」が起きたところで、所詮自民黨所屬の政治家が元自民黨所屬になるだけでしかない。民主黨に案外國民が期待してゐないのは、所屬してゐる議員の多くが「元自民黨」だからだ。
嘗て社會黨と自民黨が「野合」して連立政權を作つた時、福田恆存が「最う駄目だ」と言つたと云ふ話だが、名目上とは言へ一往は理念を掲げてゐた政治家が、理念を完全に捨てて權力獲得に走つた事を福田氏は憂へてゐたのであつた。あの時以來、日本の政治家は「現實主義」に立場を變へて、目の前の問題に當座、どのやうにすれば巧く對處できるか、で「議論」を戰はせるやうになつた。それを「良し」とする空氣はあつて、西部邁のやうな「現實主義者」もあの連立政權を肯定してゐたのだし、俺もさうした事を言つたのだが、今に至つて流石に福田氏の先見性を改めて認識せざるを得ない。
今、自民對民主の構圖が成立し、「二大政黨制」のやうな外觀を呈してゐるが、自民黨も民主黨も理念を持たない。何れの黨も、理念に基いた政策案を提示するのでなく、ただ、現實に有效と思はれる「現實的な案」を提示して、「こつちの方が良い」と互ひに威張つてゐる。「現實主義」も、「地に足の附かない理想主義」と對峙してゐるのであれば強みを發揮するが、互ひに自分の主張を「現實主義的」だと宣傳した時には、何の效果も發揮しない。ただ、永遠にをはらない言爭ひが始まるだけの事だ。そして互ひに相手の失策を頻りに突つき合ふ展開になる。如何に相手が駄目かを互ひに指摘し合ふのであるが、これは最早、自分逹の有能さを誇示し、相手の無能を世に知らしめる事が目的の、鬪爭でしかない。要は權力鬪爭であるが、今の自民も民主も、それをやつてゐる訣だ。○○主義の政黨と××主義の政黨が、理念を掲げて支持者を集めようとしてゐるのではない。今さら俺が指摘するまでもないが、自民黨所屬の議員と元自民黨所屬の議員が、權力を求めて爭ひ、有權者にアピールしてゐるのだ。實に下らない。
日本の政治家は、戰前も今と同じ事をやつてゐた。帝國議會で、日本の政治家は、政黨を作つて戰つたが、そこではひたすら權力鬪爭が繰返されただけだつた。政黨内閣が實現しても、相變らず行はれたのは權力鬪爭であり、政黨政治の餘りの無爲無策ぶりに軍がつけ込む結果となつて軍國主義を齎した事實は、日本の政治を「立派なもの」に見せかけたい「愛國者」の人々によつて「隠蔽」されてゐる。然るに戰前の日本の政治家には、「未だ民主主義が實現してゐない」と云ふ有難い免罪符があつた。今、日本には民主主義が存在してゐて、最早權力鬪爭に明け暮れる政治家には免罪の理由が無い。國民にとつて民主主義は當り前に存在するものであり、そこで活動する政治家には有能さが當り前のやうに要求される。斯うした状況下で政治家が戰前と同じやうに權力鬪爭だけに興味を持つて大騷ぎしてゐるとあつては、國民が政治家に愛想を盡かすのも自然な話。
今だからこそ、現實的な政策の背後に理想の後ろ楯を必要とするのである。今さらマルクス主義でもないし、社會主義でもないのであるが、要は日本の政治家は、「日本人好みの現實主義」で國民に媚び續けたがゆゑに、現代に通用する政治理念を追究し損ねて、遂に理想を失つたのであつた。理想理想と言ふと「地に足がつかない」「非現實的」と云ふ罵倒が即座に飛んで來る訣だが、さうやつて理想を馬鹿にした擧句、理想と縁を切つたら、皆「現實的」になつて、似たやうな案を提示し合つて、ひたすら「自分の方が巧く行くに決つてゐる」と言張るだけの、底の淺い議論をせざるを得ない状況に陷つた。政策を通して理想を驗すのでなく、ただ思ひ附きを驗すだけなのだから、政策と言つても見ただけで何處の政黨の政策とはわからない。斯うなると最う政黨なんてものは看板だけになつてしまつて、論爭はあからさまな權力鬪爭の樣相を呈すのみである。これで國民にアピールすると本氣で思つてゐるとしたら政治家は本當に無能だが、今の日本の政治家は本當に無能なのでないかと俺は思つてゐるし、何うも他の人もさう思つてゐるのでないか。麻生氏にその邊の事を省みてゐる餘裕は無いだらうが、小沢一郎も餘裕ぶつこいてゐる今ですらさうした事まで考へてゐるとはとても思へない。
小沢氏も所詮は「元自民黨」であり、自民黨の中にゐても權力を握れさうにないから民主黨に走つたのだと「我々」は皆思つてゐるし、さう云ふ印象を小沢氏が拂拭しようとしてゐるかと言へばそんな氣配は微塵も感じられない。自民の造反しさうな議員も、結局のところ權力が欲しくて、今の「魅力が無い麻生」を見限らうとしてゐるに過ぎない。剥き出しの權力鬪爭を今の政治家はやつてゐる。これで國民が政治家に何かを期待するとしたら、そんな國民こそをかしい。
長々と書いたが、構成も何も考へないで思ひ附きを垂れ流してゐるから仕方がない。大して突飛な事を言つてゐる積りはないし、まあ大體その邊の人が普通に考へてゐるだらう當り前の事を俺も書いてゐるに過ぎない訣だから凡庸と謗られても仕方がないが、しかし若しこれが當り前の國民の感想であるなら、それがどうして政局に反映されないのか。
どうも國民も今の政治に對する不満の理由を解つてゐないのでないかと思ふ。理想を失つて國民は滿足してゐる。理想なんてものはない方が良いと信じてゐたからだ。理想を掲げるのは國民を變な方向に引張つて行く變な人間のする事だと國民は理解してゐる。にもかかはらず、理想拔きの「現實主義」的な政治論爭が、斯くも魅力のない、あからさまで見るに堪へない權力鬪爭になるとは、國民も豫想してゐなかつた。斯かる状況は、過去の歴史から見れば、「大變危險」である。昭和の初期には軍の無茶な政界進出を許すきつかけとなつた。が、今となつてはその危險はない。田母神氏のやうな人物がせいぜいで、今の自衞官に威張つて國民を統治する、なんて眞似は出來さうにもない。福田氏は、だから今のやうな時代には、喜劇的な事態しか起らないと見て、滑稽な獨裁者もどきが出現する御芝居を書いて笑つて見せた。「總統いまだ死せず」だが、公明黨の進出を重ね合せてみても意味は無い、何うも現實の世間の状況は福田氏の豫想のはるか下を行つて目茶苦茶にぐだぐだなのであつて――しかし「總統いまだ死せず」ですら世の中を笑ふだけで解決策は何一つ提示してゐないのである。

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