以前から Opera に多く寄せられる希望の一つに、Opera Mail を外した軽量化バージョンを出して欲しいというものがあります。自分は Opera のメールは使わないから Opera Mail を分離してくれたら少しでも動作が軽量になり、メモリ消費も抑えられるのではないか、というものです。
Opera Mail を構成している実行ファイルサイズはわずか数百 KB です。Opera Mail を分離しても Opera のファイルサイズは大して変りません。
Windows でもコマンドラインオプションを付けて Opera を起動することが可能です。
これで満足しましたか。
過去10年間、有力なWebレンダリングエンジンは1つも新しく登場していませんが、少なくとも今は4つ存在しています。われわれOpera、Mozilla、WebKit、IEそれにACCESSも含めても良いでしょう。有力なエンジンが複数あって、選択肢があることが大事なのです。
彼(ベルヂャエフ)は人間を人格性において捉へる。人間がもし人格者でないならば、彼は世界の他の事物と何の變りもない。自然的存在、社會的存在として人間を理解する諸科學――生物學、心理學、社會學等に從へば、人間は世界から發生したもの、世界に行はれる過程よりの發生物として對象化されて理解される。しかし人格としての人間は、世界の一部ではなく別種の起源を有つてゐる。人格は小宇宙、それ自身完全なるひとつの宇宙であり、宇宙の内容を統括して個體的な形態をとつた可能的宇宙たりうるものである。人格は部分ではない。いかなる種類の全體に関係しても部分をなすものではない。人格は宇宙の一部ではなく、宇宙が人格の一部である。それは世界の實存的中心として、無限の主體性において理解されなければならない。人格は主體として、その根を存在の内面的組織、すなはち精神の世界、自由の世界に有するものであるから、これを客體中の客體に化することはしを意味する。從つて人間の問題は人格の問題であり、社會化され合理化され文明化された人間の表層を人間として捉へる社會學的な人間觀は悉く誤つてゐるのだ。更にまた人格は未來の實現であり、創造的行爲によつて成り立つから、必然的に自由を豫想する。自由の神秘は人格の神秘となる。それ故人間の價値はあらゆる隷從、あらゆる對象化よりの解放にかゝり、存在、神、自然、社會、國家、制度、文化、自己等々に對する、あらゆる形態の隷從から自由になるところに成立する。
この人格の自由なる行爲といふことは、當然に抵抗を假定し、鬪爭と拒否を豫想するものであるから、創造と自由の道は苦惱の道でなければならぬ。人格を否定し、周圍の世界に默從することは或ひは苦惱を減ずるであらう。人は容易にこの道につかうとする。そして苦惱を除かうと圖るものは人間の自由を拒否しようとする。しかし人間の價値は人格であり、自由であるから、苦惱は人格の生誕を意味する。人間の苦惱の除去を目指して行はれる社會の合理化が、人格の否定、自由の犠牲において行はれるのは、この理由に基づく。
しかし人間は自己を超克し、超越する存在であつて、人格の實現はこの絶えざる自己超越によつて行はれる。これは二つの方向をとる。一つは對象化の方法、すなはち普遍的強制の形式をもつ社會へ、また普遍的強制の法則をもつ科學への道であり、他は超主體的なものに、超人格的價値に向つて動く道である。この超主體的なものへの過程は人間の内的體驗である。こゝに人はカタストローフを經過し、深淵を越え、その存在に斷絶を體驗し、内在化される。この超人格的價値が存在せず、神が存在せず、生の神的な水準が無い限り、人格は遂に實現されず、その充溢を現じ得ない。人間の人格の像は人間の像であるばかりでなく、神の像であり、この事實に人間の謎と神秘の一切が隠されてゐるのだ。しかし超人格的價値がひとたび人間の人格を目的に對する手段に変ずる時人間はあらゆる種類の偶像崇拝に陷る。人格はいかなる階層的全體に對しても、部分をなすものではない。
ベルヂァエフははその哲學的思索の全行程を通じて、以上見たやうな人格の自由と創造性の主題を追究しつゞけた。「わたくしの見解によれば、根本的な哲學問題は、疎隔に、自由と人格の喪失に、一般者と必然者への隷屬に依存する客體化の問題である」と自ら語つてゐる。その哲學的類型からすれば、彼の立場は實存哲學の範疇に入ることを自認するが、しかしそれはハイデッガーやヤスパースの哲學とは全く異つた意味においてであると彼は主張する。『私の書いたものはどれも歴史哲學と倫理に關係するものであり、私は何よりも歴史の研究者、モラリストであり、またフランツ・バーダー、チェスズコフスキィ、ウラジミール・ソロヴィヨフのキリスト教的神智學の意味において、神智學者である。わたくしはモデルニストとよばれてきたがこれはわたくしがキリスト教における新しい時代、精神の時代の可能性を信じた、また信じてゐるといふ意味において、正しい。」とも告白する。(The Russian Idea. p.213)要するに彼においては、人間、人格、自由、創造性、現象的世界と本體的世界との二元論に對する終末論的、メシア的解決が基本問題をなしてゐて、こゝに痛烈な社會哲學の構想が結び合ふのである。一九一七年のロシア革命の體驗、一九二二年のロシアよりの追放、それ以後におけるロシア・エミグレとしての、激動し苦悶するヨーロッパの思想的社會的状況の透察が、彼を特異な思想家に作り上げたのである。
以上のべたやうに、ドストイエフスキィは、ロシア人の内部にはたらく虚無主義的默示的傾向を明敏に察知し、文化的傳統の根幹を缺いたロシアにおいては、學問、藝術、國家、宗教などが輕々しく否定され、その歴史的な關係が切斷されて、未來の國土、未知の彼方に突進することの必然を豫見したのである。しかしそこに行はれるロシア人の觀念の過程には大なる虚僞があるといふこと、そしてこの虚僞の故に、ロシア人の意圖する革命への努力は最初に揚言した理想を裏切つて未開の暴政と奴隷状態とに至るべき必然を含むといふことをも見落してはゐなかつた。勿論彼は單なる保守主義者でも反動家でもなく、更に深い意味における革命的な精神の人である。彼の精神は甚だ默示主義的であり、現代が單に以前の平和な状態に復古しようなどと空想する人ではなかつた。むしろ世界にはじまつてゐる未知の運動と一切のものが終末に向つて轉落してゆく状態とを最初に感知してゐた人であつた。かくの如き人は單なる保守主義者とよぶことはできない。彼の革命に對する敵意は舊い社會體制に何らかの實利を感じてゐる陳腐な精神をもつ人間のそれではなく、反キリストとの至高の鬪爭においてキリストの側に立つ默示主義的人間の敵意であつた。彼は實利的な革命家にも、實利的な反革命家にも、共に與しない。これは例へばニイチェやカーライルの如き人々についても言へる。彼等は「革命家」なのか、「反革命家」なのか。恐らくデマゴーグの見地からすれば、かうした人々も反革命家の内に並べられるであらう。何故ならばあらゆる眞の革命的精神は表面に革命の名を保持する一切のものに敵意を有し、また一般に精神の革命は革命の精神に反對するからである。
ドストイエフスキィは自由が自意志に墮落するとき、人間はその神的な起源を拒否した必然的な運命として、反逆と革命とに至らねばならぬことを知つてゐた。革命派外的な原因や環境などによつて決定されるものではなく、内的に決定されるものである。革命は人間が神や世界や仲間の人間と結び合はされてゐる本來の關係を斷滅してしまつた破局の姿である。ドストイエフスキィはこの革命への徑路とその辨證法とを明かにし、人間性の極限と人間生活の諸相とを人間學的に考究した。個人の運命に洞察されたものは大衆の運命にも見出される。「一切が許されてゐるか」どうかといふ自由の問題は、各自の人間に提示されると同じく、大にしてはまた社會に提示される。そして個人を驅つて犯罪に至らしめる路が社會を驅つて革命に至らしめるのだ。そしてまた犯罪に至る個人と革命に至る社會とが、、それが許された限界を逸脱することによつて、ひとしく自由の喪失を來すのは、一つの刑罰である。ドストイエフスキィは革命において自由が信じ得べからざる奴隷状態となつて喪失する宿命的な過程を豫見し、その曲折の細部に至るまでも豫言してゐた。彼が革命を嫌悪したのは實にこの理由による。革命は人間の隷屬状態とその精神の自由の喪失に導くからである。彼が革命の原理を排斥したのは、それが奴隷化と人間における平等並に兄弟關係の否定に至るからなのである。彼は革命の欺瞞、すなはち革命はそれが約束したものを決して與へないことを證明するのである。
ドストイエフスキィは「自由」の最大の擁護者であつた。彼のパトスは自由のパトスであつた。そして自由の最大の象徴はキリストであつた。彼は人間の不幸と苦惱とが自由に由來することを知つてゐたが、たとひ人間を幸福にするためであるにしても、人間の尊厳である「自由」が犠牲にされることを彼は望まなかつた。同時にキリストにおいて、キリストへの自由の愛において保持されない人間の自由が、必然的に自意志に變化し、自由の反對物である惡しき暴力と奴隷状態とに變化する辨證法を明らかに知つてゐたのである。從つて自由と革命とに對する彼の態度は一見極めて二律背反的であつた。彼は自由を飽くまでも肯定する。しかも自由の自意志化と逸脱とをどこまでも否定する。彼は自由及び自由な愛といふ宗教において、神、人間、世界を肯定した。そしてこの點こそドストイエフスキィを截然と虚無主義者から區別するところのものであつた。彼は虚無主義を否定した。彼は反虚無主義者であつた。しかしわれわれはドストイエフスキィの自由と自由な愛の宗教に聽くまへに、彼が試みた虚無主義の内的なパトスの解明に赴かなければならない。
そして個人を驅つて犯罪に至らしめる路が社會を驅つて革命に至らしめるのだ。と言ふのは、『罪と罰』のラスコーリニコフにおける社會正義の爲の犯罪と云ふ特殊な事例と、ロシア革命等近代的な社會正義の爲の革命との根柢に一致するものがあると云ふ指摘。個人の犯罪なら何でも良いと云ふものではない。
国産ブラウザーと言ひ、
Lunascapeの取り組みは日本にもちゃんと技術力はあるのだ、という気にさせてくれる、等と言つてゐるのだけれども、何うだらう。
Lunascape5.0は「Gecko」「WebKit」「Trident」の3つのレンダリングエンジンを切り替えて使用できるウェブブラウザー。
以前のデザインの評判が良かったと云ふのは本當なのだらうか。
以前のSFCのページは、サイトコンセプト/アクセシビリティ/デザイン面が非常に評価されていたと思います。 雑誌やWebデザイン本などで参考用にSFCのWebが紹介されているのを何度も見たことがあります。
ただ、人に「こういうことがしたいんだけど」とか言われた時には、ついGimpの方を勧めてしまうなあ。そういう人達に対してPhotoshopは明らかにオーバースペックなのに、Photoshopのように「なんでもできる」事を望んでいて、それでいて出費はしたくない、そんなケース。
たぶんブラウザ側がきちんと解釈してんだから、別にいいだろ的な考え方だと思われますが、なんかカッコいいなと思った。
仕様上省略できるから省略してるだけでしょ。この人わかっててこの記事書いてるのかな。それなら別にいいんだけど、HTMLを理解しないでこんなこといってるようだと問題。
カッコいいと言つてゐるんだからいいと思ふけど。
昔の学生には読むべき定番的な3つの本があった。大学生の「三種の神本」の一つとされるものの筆頭が倉田百三の「出家とその弟子」である。残りの2冊は西田幾多郎の「善の研究」と阿部次郎の「三太郎の日記」だ。
そして、なんとなんと岩波は、倉田百三『愛と認識との出発』までも復刊した! 角川文庫版が絶版になって以来、文庫で読むことが叶わなかったわけだから、個人的には喜ばしい。が、底流に何があるのかはわからない。「まさか、教養主義の復興?? ならば、阿部次郎『三太郎の日記』なんかも、そう遠くないうちに出版されたりして。そこまではあるまい・・」とぶつぶつ独りごと。
そんななか、19日(水)朝日新聞朝刊一面下、書籍広告欄を目にして仰天。「永遠の青春の書」がここに甦る!『新版 合本三太郎の日記 阿部次郎』(角川選書)とあるではないか。これで、西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫・講談社学術文庫)を合わせ、三役そろい踏みか。 といっても、若い年代の方には通じないだろう。旧制高校生が“三種の神器”として読んだ3冊である。
その旧制高校に入学した学生は必ず読むべき本として伝えられた3冊の本があった。三種の神器とも呼ばれた。その三冊とは西田幾多郎の『善の研究』、阿部次郎の『三太郎の日記』と倉田百三の『出家とその弟子』であった。
展示している本は、旧制高校生にとって“三種の神器”だった西田幾多郎の「善の研究」、阿部次郎の「三太郎の日記」、倉田百三の「愛と認識との出発」から、マルクスの「資本論」、ニーチェ、夏目漱石と幅広い。