制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
野嵜健秀とは誰か
特記事項:野嵜に粘着するネットストーカーについて
テーマ・主に扱ふ事柄・ネタ
日本人論、政治主義批判、國語國字改革批判、虹裏(img)、深夜アニメ、古本、謎キャラクターによるコント、蟲。及びその他の事。

闇黒日記


平成二十年十二月三十一日
獨裁者ナポレオンとヒットラー或はムッソリーニの相違について――? 案外皇帝とファシストとの間に違ひはない。
メレシコフスキーはナポレオンを「反基督」として描いてゐる。
ナポレオンの偉大を否定しない(寧ろ大袈裟に言ひ、強調してゐる觀すらある)が、それがしかし神への信仰なしの人としての「偉大さ」である事を強調してゐる。
平成二十年十二月三十一日
「神道は神道であるがゆゑに惡であり、存在が許されない」のやうな發想は、今でも「サヨク」の人々が當り前のやうに持つてゐるらしいけれども、「人間は人間であるがゆゑに惡であり」のやうな事を言ふと「カルトだ」と罵るのも同じ人であつたりする。
先づ一點、神道をそれ自體として「惡」と極附けて非難する事は、思考の停止であり、許されない。「それ自體として惡」のやうな極附け方をするのは、それこそ「アンチ」のやる事だし、それを理由に「存在」を否定するやり方は、少くとも思想的にはあり得ない。だから「サヨク」とは、左翼的な思想を理由に他人を侮辱し、人格を否定して、攻撃する事を樂しむ「運動家」の意味になる。
次に。「人間は人間であるがゆゑに惡である」と云ふ發想は、實はキリスト教のもので、キリスト教はカルト的な思想を根本的に持つてゐると言へる。この事を多くの日本人は忘れてゐるし、日本のクリスチャンも「許された」と云ふ時點で安心してしまつて神樣を慈愛に満ち溢れただけの存在のやうに思ひなしてゐる。が、異教徒にとつては依然としてGodは意地の惡いだけの存在でしかない。もつとも、信者に對してであつても神はただ慈愛の神・アガペーの神であるのみならず、アブラハムに息子を生贄として要求した舊約における神であり續けてゐるのだが。

平成二十年十二月三十日
Opera をメールなしで使う - A blog? with Σαιτω
かう云ふ木で鼻を括つたやうな應對の仕方はやめた方がいいと思ふんだけどな。

以前から Opera に多く寄せられる希望の一つに、Opera Mail を外した軽量化バージョンを出して欲しいというものがあります。自分は Opera のメールは使わないから Opera Mail を分離してくれたら少しでも動作が軽量になり、メモリ消費も抑えられるのではないか、というものです。

斯う云ふ要求に。

Opera Mail を構成している実行ファイルサイズはわずか数百 KB です。Opera Mail を分離しても Opera のファイルサイズは大して変りません。

Windows でもコマンドラインオプションを付けて Opera を起動することが可能です。

オフィシャルで斯う云ふ對應されたら俺ぶち切れるかも知れない。
「輕量化して欲しい」と云ふ要求に「數百キロバイト程度しか輕量化できないから無意味」と云ふ囘答は、囘答になつてゐない。なぜなら、さう云ふ要求を出したユーザは「數百キロバイトでも輕量化されたら意味がある」と思つてゐるからだ。そして、機能が外された結果として輕量化される事こそに意味があるのに「輕量化はされないけれども機能を外せます」と言返すのは、要求を出すユーザを煽つて怒らせる事が目的だとしか思はれない。と言ふか。

これで満足しましたか。

明かにユーザを怒らせようとしてゐる。
オフィシャルではなく個人の「ブログ」が面白がつて適當に言つてゐる事だから仕方がないのだらうが――これでは日本のユーザがOperaに見切りをつけても仕方がないのでないか。
平成二十年十二月三十日
今年は「音樂の本質」で言爭ひをしたけれども――では「酒の本質」は何であらうか。音樂の本質が音階であるやうに酒の本質はアルコールであると俺は思ふのだが。なるほど、音階そのまゝでは聽けたものでないし、生のアルコールは飮めたものではないが――。
平成二十年十二月三十日
RSSも使はなければチャットなんかもしない俺。と言ふかチャットは虹裏見てゐるから。
それ以外にもスピードダイヤル要らないとか。8だとタブを全部閉ぢられたのに9以降は何時でも最低一つは開きつぱなし――何か氣持ち惡いと思ふのは俺だけなんだらうけれども。
Opera 9以降、妙にHDDにアクセスする頻度が高くなつてゐる氣がするのだけれども、何なのだらう。そもそも起動が、8から9になつて、矢鱈遲くなつた。
と言ふかさ、かつて「世界最速」を謳つてゐたOperaが今や重量級のブラウザに成下がつてゐる訣だよ。何處でOperaは間違へたんだらうと、昔からのユーザは思つてゐる訣だよ。そこで「不便」とか言はれても、ねえ。速い事に意義を感じてゐたユーザは、Operaから離れるのが當然だよ。便利なブラウザなら――それこそFirefoxにいろいろ組込んで行けばいい訣で、Operaを選ぶ必然的な理由は何一つなくなつてしまふ。今、Operaを「選ばなければならない理由」つて何だらう。速くないし。機能は擴張出來ないし。サポートあやしいし。虹裏をマウスで快適に見られる、と云ふ程度のメリットしかないんだが、「」やとしあきの類はそんなに大量にこの世に存在してゐては行けないと思ふ。(しかも、9以降よりは8の方が虹裏見るだけなら寧ろ便利だつたりする)
Google Chromeが速度は斷然だし、結構Safariも行けるし、OperaがWindowsに居殘るべき理由は少くなりつゝある。そこで「機能」が何う斯う言つてゐるやうではOperaも終りだと思ふんだが。
平成二十年十二月三十日
ぐぐる先生はメレシコフスキー=メレジコフスキイ=メレジュコーフスキィ=メレシコーフスキイ=メレジコーフスキイなのを知らないらしい。Amazonも同樣。他にも表記のヴァリエーションがあるけれども略。斯う云ふのは知らないと何うにもならないし、檢索エンジンとかの側でもプログラムの組み方で何うにか出來るものではないんだらう。
【古本・古書(販売/買取)】本を愛する人の総合サイト・スーパー源氏: 在庫一覧: メレ
平成二十年十二月三十日
「アンチは荒しと區別できない」。

平成二十年十二月二十九日
京王新宿の古本市に行つたが買ひたい本が何もなかつた。
正確に言ふと、何もない訣ではなかつたが、御財布の中身と相談すると購入を斷念せざるを得なかつた。
平成二十年十二月二十九日
メレジコーフスキイ作・米川正夫譯『ナポレオン』(東晃社)讀了。非常にオーソドックスなナポレオンの傳記。勉強になつた。
平成二十年十二月二十九日
服部四郎が時枝誠記の惡口言つたのつて要は表音主義者が國字改革に反對してゐる人間を潰さうと企んだと云ふ事なんだらうな。

平成二十年十二月二十八日
Chrome登場でダウンロード2割増! Opera創業者に聞いた − @IT

過去10年間、有力なWebレンダリングエンジンは1つも新しく登場していませんが、少なくとも今は4つ存在しています。われわれOpera、Mozilla、WebKit、IEそれにACCESSも含めても良いでしょう。有力なエンジンが複数あって、選択肢があることが大事なのです。

非常に不思議なのだけれども、WordやInDesignが持つてゐる出力機能をメーカは何うしてレンダリングエンジンに流用なり應用なりしないのだらうか。WordとInternetExplorerと云ふ似たやうなプログラムを別々に開發してゐるのは無駄だと思ふのだが。
逆に言へばCSSの印刷メディア對應が強化されて行けば既存のDTP/ワープロソフトは不要になる。
ところで何時まで「HTML5」なる奇怪千萬な代物は推進され續けるのだらうか。「ブログ記述專用言語」としてなら認めても良いが、汎用的なHTMLとして規定するのは大間違ひだらう。Operaのやうな營利企業が推進してゐるのを見れば、「HTML5」は營利目的で提唱されてゐるのあつて理想とは何の關係もないと云ふ事は明かだ。「HTML5」は目的が極めて限定された特殊領域でのレンダリング制御言語であり、汎用的なHTMLの「次世代ヴァージョン」として規定されてはならない。
平成二十年十二月二十八日
OperaでSafariをgetしようとしたら出來ない。アップルは何を考へてゐるのだらう。WindowsXP。
平成二十年十二月二十八日
インタビューからOperaの見ているWebの未来を推測する (kuruman.org > Kuruman Memo)
平成二十年十二月二十八日
Mac OS XだとWebkitのナイトリービルドを入れるのは簡單で、アプリケーションフォルダにぶち込んでアイコン叩くとSafariのガワの中でWebkitが動く。
Windows XPだと、zipを展開して出來るフォルダの中にrun-nightly-webkit.cmdなるファイルが出來てゐるから叩くのだけれども、Safariがないと立上がらない。で、Safariを入れると立上がるのだけれども、元のSafariとちやんと違ふものが起動してゐるのか何うか、それがわからない。

平成二十年十二月二十七日
櫻花
ほれ、わたしの鞄には三册の本が入つてゐる。何の爲だと思ふ?
のあ
……電車の中で讀む爲……?
櫻花
惜しいな、微妙に違ふ。本が三册入つてゐて、何時でも讀めると思ふと、電車の中で安心して寢られるからだ。
あやの
いや讀めよ。
平成二十年十二月二十七日
ウェブで公開出來ないやうな寫眞を撮る度に「こんな物撮つて何うするんだらう」と何時も思つてゐるのだが、よく考へれば家族寫眞の類を我々はアルバムに貼つてとつておき、何年も經つてから眺めて懐かしむのだ。
藝術とかエンタテインメントとかウェブ日記のネタとか考へて何かしようとする習性は、ウェブで遊んでゐると「當り前」のやうな感覺になるけれども、反省した方が良い。と言ふか反省しろ>俺。
何でもかんでも「公開しようぜ」と言つて登録する事を要求するウェブのいろいろなサーヴィスの提供者がゐる訣だけれども、別にさうした人々の口車に乘せられる必要もないのだ。ソーシャルネットワーキングサーヴィス、寫眞や畫像を公開してコメントを附けて貰ふシステム、云々――「新しい發想」を次から次へと商賣にするウェブのサーヴィスは、人間の從來の感覺を狂はせるのに「貢獻」してしまつてゐるところがある。單純に「新しい價値」を創出してゐるとだけ考へねばならない必然的な理由はない。へんな意味で「エンタテインメント」しようと考へられるやうになつてゐるから、犯罪豫告だの何だのが「流行る」結果に繋がつてゐるとも言へる。「そんな事をしてしまふユーザが惡い」のだけれども、他面、さうした事を新しい技術によつて容易に「出來るやうにしてしまふシステム」を我々が作りつゝある事も事實だ。

平成二十年十二月二十六日
飯島愛さんの死|デヴィ夫人オフィシャルブログ「デヴィの独り言 独断と偏見」by Ameba
しれつと秘密ばらしてるし。
平成二十年十二月二十六日
イーヤマのモニタが死亡。電源をオフにしてゐる間に絶命したらしく、スイッチを押しても起上がらない。前からぱちっぱちっと畫面がちらつく現象が起きてゐたから壞れるのも時間の問題だつたのだらうけれども、よりによつてこんな時期に壞れる事もないだらうに。
取敢ず餘つてゐたシャープの液晶モニタを繋いだ。1024x768までしか出ないから畫面が狹い。

平成二十年十二月二十五日
革新的メールクライアントが欲しい (kuruman.org > Kuruman Memo)
職場の某さんにOperaのメーラを使つてもらつたら、他のメーラと勝手が違ひ過ぎて困惑してゐた。
俺は、Windowsでは電信八号を、MacではOperaのメーラを使つてゐる。
平成二十年十二月二十五日
ねとらぼ:Webページにベーコン画像を貼り付けられる「Bacolicio.us」 - ITmedia News
iframe殺したOperaではベーコンしか見えなくなる羂。
http://bacolicious.s3.amazonaws.com/bacon.pngを呼んでゐるのだけれども、いいのだらうか。

平成二十年十二月二十三日
リンク集:無料動画も盛りだくさん! 映像配信・共有サイトで年末年始を楽しもう
平成二十年十二月二十三日
年末までに作業の終らない事が段々リアルに感じられて來る今日この頃。
しかし冬休みはしつかりとる積り。
平成二十年十二月二十三日
正直正字正かなの運動なんてものをやつても現實には何の甲斐もないと思つてゐるし、やればやるだけ恨まれるから個人的には非常に嫌なものだし、或は正しいHTMLの運動なんてのも最早何うでも良いと思つてゐるけれども、俺にだつて意地くらゐはあるのでやめない。正字正かなを使ふ自由くらゐは認めて貰ひたいものだと思つてゐるし。その程度の自由も認められないやうな社會なら崩潰してしまつた方がいい。
正字正かなが妥當なものか何うかは知らない。俺は「福田恆存教の信者」だし「松原正教の信者」だから正字正かなを使ふ。それだけの話だ。正字正かなが間違つてゐて師匠と一緒に地獄に落ちようとも――それなら地獄行きで結構だ。利巧な連中は天國に行つて威張つてゐればいい。
平成二十年十二月二十三日
Opera 10、Opera 1と認識されるケース - 今後問題広がる可能性 | エンタープライズ | マイコミジャーナル
Operaはこんな分野でも先進的だな。
平成二十年十二月二十三日
宮崎信彦『ベルヂャエフ』(アテネ文庫68・弘文堂)五ページ〜八ページ

彼(ベルヂャエフ)は人間を人格性において捉へる。人間がもし人格者でないならば、彼は世界の他の事物と何の變りもない。自然的存在、社會的存在として人間を理解する諸科學――生物學、心理學、社會學等に從へば、人間は世界から發生したもの、世界に行はれる過程よりの發生物として對象化されて理解される。しかし人格としての人間は、世界の一部ではなく別種の起源を有つてゐる。人格は小宇宙、それ自身完全なるひとつの宇宙であり、宇宙の内容を統括して個體的な形態をとつた可能的宇宙たりうるものである。人格は部分ではない。いかなる種類の全體に関係しても部分をなすものではない。人格は宇宙の一部ではなく、宇宙が人格の一部である。それは世界の實存的中心として、無限の主體性において理解されなければならない。人格は主體として、その根を存在の内面的組織、すなはち精神の世界、自由の世界に有するものであるから、これを客體中の客體に化することはしを意味する。從つて人間の問題は人格の問題であり、社會化され合理化され文明化された人間の表層を人間として捉へる社會學的な人間觀は悉く誤つてゐるのだ。更にまた人格は未來の實現であり、創造的行爲によつて成り立つから、必然的に自由を豫想する。自由の神秘は人格の神秘となる。それ故人間の價値はあらゆる隷從、あらゆる對象化よりの解放にかゝり、存在、神、自然、社會、國家、制度、文化、自己等々に對する、あらゆる形態の隷從から自由になるところに成立する。

この人格の自由なる行爲といふことは、當然に抵抗を假定し、鬪爭と拒否を豫想するものであるから、創造と自由の道は苦惱の道でなければならぬ。人格を否定し、周圍の世界に默從することは或ひは苦惱を減ずるであらう。人は容易にこの道につかうとする。そして苦惱を除かうと圖るものは人間の自由を拒否しようとする。しかし人間の價値は人格であり、自由であるから、苦惱は人格の生誕を意味する。人間の苦惱の除去を目指して行はれる社會の合理化が、人格の否定、自由の犠牲において行はれるのは、この理由に基づく。

しかし人間は自己を超克し、超越する存在であつて、人格の實現はこの絶えざる自己超越によつて行はれる。これは二つの方向をとる。一つは對象化の方法、すなはち普遍的強制の形式をもつ社會へ、また普遍的強制の法則をもつ科學への道であり、他は超主體的なものに、超人格的價値に向つて動く道である。この超主體的なものへの過程は人間の内的體驗である。こゝに人はカタストローフを經過し、深淵を越え、その存在に斷絶を體驗し、内在化される。この超人格的價値が存在せず、神が存在せず、生の神的な水準が無い限り、人格は遂に實現されず、その充溢を現じ得ない。人間の人格の像は人間の像であるばかりでなく、神の像であり、この事實に人間の謎と神秘の一切が隠されてゐるのだ。しかし超人格的價値がひとたび人間の人格を目的に對する手段に変ずる時人間はあらゆる種類の偶像崇拝に陷る。人格はいかなる階層的全體に對しても、部分をなすものではない。

ベルヂァエフははその哲學的思索の全行程を通じて、以上見たやうな人格の自由と創造性の主題を追究しつゞけた。「わたくしの見解によれば、根本的な哲學問題は、疎隔に、自由と人格の喪失に、一般者と必然者への隷屬に依存する客體化の問題である」と自ら語つてゐる。その哲學的類型からすれば、彼の立場は實存哲學の範疇に入ることを自認するが、しかしそれはハイデッガーやヤスパースの哲學とは全く異つた意味においてであると彼は主張する。『私の書いたものはどれも歴史哲學と倫理に關係するものであり、私は何よりも歴史の研究者、モラリストであり、またフランツ・バーダー、チェスズコフスキィ、ウラジミール・ソロヴィヨフのキリスト教的神智學の意味において、神智學者である。わたくしはモデルニストとよばれてきたがこれはわたくしがキリスト教における新しい時代、精神の時代の可能性を信じた、また信じてゐるといふ意味において、正しい。」とも告白する。(The Russian Idea. p.213)要するに彼においては、人間、人格、自由、創造性、現象的世界と本體的世界との二元論に對する終末論的、メシア的解決が基本問題をなしてゐて、こゝに痛烈な社會哲學の構想が結び合ふのである。一九一七年のロシア革命の體驗、一九二二年のロシアよりの追放、それ以後におけるロシア・エミグレとしての、激動し苦悶するヨーロッパの思想的社會的状況の透察が、彼を特異な思想家に作り上げたのである。

注。日本人の中には解らない人がゐる筈だから書いておくけれども、ここで言はれてゐる「人格者」とは、日本人が大好きな「人格的に立派な人」の事ではなくて、ベルジャーエフにおける特殊な用語で「人格を持つてゐる存在者」の事。原文では傍點が振られてゐる。鉤括弧とか傍點とかが附されてゐたり、HTML文書でなら強調されてゐたりする場合には、その語を一般的な意味でなく特殊な意味で使つてゐる、と云ふ事だ。この邊、思想的・哲學的な文章――評論の類も含む――を讀まうとする人は注意した方が良い。斯うした文章の書き方の基本的な事を氣にしないで無頓着に讀んでゐると、書き手の意圖が解らなくなつて、自分の思ひ込みに基づいた勝手な判斷をしてしまひがちになる。一往、自分の常識とか、自分の知識とかを離れて、公正な立場で文章に接して、先づ書き手の意圖と云ふものをありのまゝに理解しなければ、文章は正しく理解出來ないし、書き手の主張も正しく理解出來ない。何の訓練もしてゐない素人の讀み手は自分勝手に讀んで他人を裁斷する誤をしよつちゆう冒すけれども、哲學を專門にやつてゐる筈なのにさう云ふ基本的な文章の讀み方の訓練すら出來てゐない、と云ふ人がたまにゐたりするから日本は困つた國だと思ふ。何んな教育が行はれてゐるんだか、ねえ。ベルジャーエフの主張から可成かけ離れた「注」になつたからこの邊で。
平成二十年十二月二十三日
宮崎信彦『ベルヂャエフ』(アテネ文庫68・弘文堂)十三ページ〜十六ページ

以上のべたやうに、ドストイエフスキィは、ロシア人の内部にはたらく虚無主義的默示的傾向を明敏に察知し、文化的傳統の根幹を缺いたロシアにおいては、學問、藝術、國家、宗教などが輕々しく否定され、その歴史的な關係が切斷されて、未來の國土、未知の彼方に突進することの必然を豫見したのである。しかしそこに行はれるロシア人の觀念の過程には大なる虚僞があるといふこと、そしてこの虚僞の故に、ロシア人の意圖する革命への努力は最初に揚言した理想を裏切つて未開の暴政と奴隷状態とに至るべき必然を含むといふことをも見落してはゐなかつた。勿論彼は單なる保守主義者でも反動家でもなく、更に深い意味における革命的な精神の人である。彼の精神は甚だ默示主義的であり、現代が單に以前の平和な状態に復古しようなどと空想する人ではなかつた。むしろ世界にはじまつてゐる未知の運動と一切のものが終末に向つて轉落してゆく状態とを最初に感知してゐた人であつた。かくの如き人は單なる保守主義者とよぶことはできない。彼の革命に對する敵意は舊い社會體制に何らかの實利を感じてゐる陳腐な精神をもつ人間のそれではなく、反キリストとの至高の鬪爭においてキリストの側に立つ默示主義的人間の敵意であつた。彼は實利的な革命家にも、實利的な反革命家にも、共に與しない。これは例へばニイチェやカーライルの如き人々についても言へる。彼等は「革命家」なのか、「反革命家」なのか。恐らくデマゴーグの見地からすれば、かうした人々も反革命家の内に並べられるであらう。何故ならばあらゆる眞の革命的精神は表面に革命の名を保持する一切のものに敵意を有し、また一般に精神の革命は革命の精神に反對するからである

ドストイエフスキィは自由が自意志に墮落するとき、人間はその神的な起源を拒否した必然的な運命として、反逆と革命とに至らねばならぬことを知つてゐた。革命派外的な原因や環境などによつて決定されるものではなく、内的に決定されるものである。革命は人間が神や世界や仲間の人間と結び合はされてゐる本來の關係を斷滅してしまつた破局の姿である。ドストイエフスキィはこの革命への徑路とその辨證法とを明かにし、人間性の極限と人間生活の諸相とを人間學的に考究した。個人の運命に洞察されたものは大衆の運命にも見出される。「一切が許されてゐるか」どうかといふ自由の問題は、各自の人間に提示されると同じく、大にしてはまた社會に提示される。そして個人を驅つて犯罪に至らしめる路が社會を驅つて革命に至らしめるのだ。そしてまた犯罪に至る個人と革命に至る社會とが、、それが許された限界を逸脱することによつて、ひとしく自由の喪失を來すのは、一つの刑罰である。ドストイエフスキィは革命において自由が信じ得べからざる奴隷状態となつて喪失する宿命的な過程を豫見し、その曲折の細部に至るまでも豫言してゐた。彼が革命を嫌悪したのは實にこの理由による。革命は人間の隷屬状態とその精神の自由の喪失に導くからである。彼が革命の原理を排斥したのは、それが奴隷化と人間における平等並に兄弟關係の否定に至るからなのである。彼は革命の欺瞞、すなはち革命はそれが約束したものを決して與へないことを證明するのである。

ドストイエフスキィは「自由」の最大の擁護者であつた。彼のパトスは自由のパトスであつた。そして自由の最大の象徴はキリストであつた。彼は人間の不幸と苦惱とが自由に由來することを知つてゐたが、たとひ人間を幸福にするためであるにしても、人間の尊厳である「自由」が犠牲にされることを彼は望まなかつた。同時にキリストにおいて、キリストへの自由の愛において保持されない人間の自由が、必然的に自意志に變化し、自由の反對物である惡しき暴力と奴隷状態とに變化する辨證法を明らかに知つてゐたのである。從つて自由と革命とに對する彼の態度は一見極めて二律背反的であつた。彼は自由を飽くまでも肯定する。しかも自由の自意志化と逸脱とをどこまでも否定する。彼は自由及び自由な愛といふ宗教において、神、人間、世界を肯定した。そしてこの點こそドストイエフスキィを截然と虚無主義者から區別するところのものであつた。彼は虚無主義を否定した。彼は反虚無主義者であつた。しかしわれわれはドストイエフスキィの自由と自由な愛の宗教に聽くまへに、彼が試みた虚無主義の内的なパトスの解明に赴かなければならない。

そして個人を驅つて犯罪に至らしめる路が社會を驅つて革命に至らしめるのだ。と言ふのは、『罪と罰』のラスコーリニコフにおける社會正義の爲の犯罪と云ふ特殊な事例と、ロシア革命等近代的な社會正義の爲の革命との根柢に一致するものがあると云ふ指摘。個人の犯罪なら何でも良いと云ふものではない。
「自由と言う奴は胡散臭い」と淺薄な事を言つた人がゐるけれども、彼はベルジャーエフもドストエフスキーも知らない筈である。最近は自由主義それ自體を否定する「言説」が巷に流行してゐるけれども、必ず「国益」のやうな實利的な目的と共に語られるのであつて、さうした「言説」なら俺は全く興味を惹かれない――と言ふより、人の人格と云ふものを否定するがゆゑに自由をも否定する人物が、「實利的」「功利的」で、相對主義的・虚無主義的な主張を繰返してゐる時、俺は反感だけを覺える。

平成二十年十二月二十二日
大日本帝國憲法改正試案 ver. 2
平成二十年十二月二十二日
Google マップ:古本屋地図
Google マップ:古本
shoufu(Google マップ)
平成二十年十二月二十二日
やっぱりGoogle Chromeより速いか!?「Lunascape5.0 β版」
Lunascapeを国産ブラウザーと言ひ、Lunascapeの取り組みは日本にもちゃんと技術力はあるのだ、という気にさせてくれる、等と言つてゐるのだけれども、何うだらう。

 Lunascape5.0は「Gecko」「WebKit」「Trident」の3つのレンダリングエンジンを切り替えて使用できるウェブブラウザー。

レンダリングエンジンは全て外國製で、Lunascapeはただの「ガワ」に過ぎない。何處に技術力が投入されてゐると言ふのだらう。
ただの「タブブラウザ」を恰も「本物のブラウザ」のやうに言つて持上げる傾向があるのを、俺は前から苦々しく思つてゐる。レンダリングエンジンそのものを作つてゐる人々と、「タブブラウザ」なんかで商賣をしてゐる人々とは、嚴密に區別すべきだ。と言ふか、その邊を嚴密に區別して來なかつた「我々」にこそ「非がある」だらうか。
平成二十年十二月二十二日
Lunascape 5βを入れてみたが、Webkitで起動しようとしたが遂に起動しないので強制終了。立上げ直したら何とVisual C++ランタイムエラーが出た。
「セーフモード」で起動してブラウズを始めようとしたらWebkitのダウンロードからやり直しを始めやがつた。Lunascapeのインストール時にWebkitも入れたんではなかつたのか。何なんだらうこれ。
Webkitをデフォルトのエンジンにすると立上がらない。駄目だこれ。使へない。動かないのに使へる訣がない。即アンインストール。
なんでこんなに苛々する作りなんだらうと思つた。メニューの表示は、OSの部品を使つてゐないから違和感ばりばりだし。設定ダイアログは混亂を極めてゐるし。そもそも「ホームページ」すら設定出來ないんだから何うしやうもない。何處かで設定出來るのかも知れないが見附けられなかつた。アンインストールしたが本當に完全にアンインストール出來たか何うかすら疑はしい。レジストリにゴミだけ殘して呉れた氣がする。二度と使はない。
平成二十年十二月二十二日
OperaにしてもFirefoxにしてもさうなのだが、「Windowsのアプリケーション」らしからぬ擧動を示すのが嫌で嫌で仕方がない。GUI部品を、OS標準のものを使はないで獨自に作つてゐるから違和感があるのだが、開發者はそれをとても良い事だと信じてゐるから絶對に過ちと認めない。
なぜか「獨自の世界」を主張したがるアプリケーションを、GUIのOSの上で動かしたがる開發者がゐるのである。嘗て一太郎Ver.6がWindowsに乘つて來た時も感じたのだが、MSが開發するWindows用のアプリケーションと違つて、微妙に、時には明白に、擧動が標準的なアプリケーションと違ふ、さう云ふアプリケーションが「ある」。Lunascapeもさう。メニューの展開が「ぱたぱた」と明かに「描畫してゐる」といつた感じがするのだが、Explorerなんかの標準的なメニューの開き方とははつきり違ふ。
平成二十年十二月二十二日
秀丸エディタが、多くの缺點を持ちながら、それでも他のエディタに比べて格段に「良い」のは、「如何にもWindowsアプリ」といつた雰圍氣を巧く演出してゐる點だ。
割とメジャーなテキストエディタにも、妙にばたばたとした描畫をする、WindowsアプリらしからぬWindowsアプリがごろごろ存在してゐる。どれも違和感があつて使へない。

平成二十年十二月二十一日
數年ぶりに本棚を整理する試み。と言ふか本棚の間の本の山をひつくり返してみた。何とも魅力的な本が大量に埋つてゐてこれらの本は死ぬまでに何時か讀まうと決意を新たにしたのだが、ダブりの本がぞろぞろ出て來てげんなり。ロダンの言葉が三册出て來たのには我ながらあきれた。二册は二見書房で一册は三笠書房。
平成二十年十二月二十一日
http://d.hatena.ne.jp/smallball/20081219
Twitterを閲覽しようとする人つてゐたんだ。
あれは呟きたい人が一方的に呟くだけで誰も讀まないものだとばつかり思つてゐた。
俺は「ブログ」にしてもTwitterにしても自分から讀みに行く事は先づない。正字正かなつかひとかのあんてなに登録されてゐる分は一往見てゐるけれども、それ以外には最う何處にも。
虹裏を見てゐた方がまだしもいい話題に遭遇する確率が高い。
平成二十年十二月二十一日
SFC の Web サイトリニューアルが酷すぎて話題になっている件 - [ぴ] (2008-12-19)
SFC 慶應義塾大学 湘南藤沢キャンパス
舊版(HTML版)だつて、見てみると相當非道いソースなんだが、以前のデザインの評判が良かったと云ふのは本當なのだらうか。
Geekなぺーじ : 慶應大学湘南藤沢キャンパス(SFC)のリニューアルWeb

以前のSFCのページは、サイトコンセプト/アクセシビリティ/デザイン面が非常に評価されていたと思います。 雑誌やWebデザイン本などで参考用にSFCのWebが紹介されているのを何度も見たことがあります。

divだけで全部やつてゐるのに「評價される」と云ふのが解らない。
平成二十年十二月二十一日
早稲田大学
W3CのValidatorにかけるとエラーがぞろぞろ見附かるが、それでも慶應の糞ソースよりは遙かに増し。
なんで慶應の舊サイトのやうな糞ソースを「高く評價する」輩が未だにゐるんだらう。あんなサイトを平氣で作つてゐる慶應にW3Cを任せてゐるからW3Cも駄目になるんだ。
平成二十年十二月二十一日
Opera 10PRではHTML文書のソースを見る時に不具合が出る。秀丸で見る設定にしてゐると、秀丸でソースを見ようとする度に、普通にファイルを開くほかに、なぜかさらに別に何かを開かうとダイアログを表示するやうになつた。秀丸ももともと變なプログラムなのだが、Operaも何か餘計な事をやつてゐる氣がする。何とかならないかと設定を弄つてみたけれども何うにもならないので、仕方なくOperaでソースを見る設定にした。ユーザにさうさせるのが目的だとしたら、非常に惡質な仕樣變更だ。Operaだからさう云ふ事は平然とやり兼ねないと思ふが、ユーザに不信感を持たせるやうなヴァージョンアップしかしてこなかつたOperaが惡い。
平成二十年十二月二十一日
ブラウザ比較記事 - A blog? with Σαιτω
師走に爆速の最新ブラウザーはどれだ!?
そんなに速くなくてもユーザは大して困らない。そもそも俺なんかは「重い」サイトに行かない。
ブラウザがヴァージョンアップする度に操作性が變り、追加された要らない機能を殺す手間だけが増える。その事をなぜか誰も指摘しない。Opera 10PRを常用してゐるが、昔のOperaの方が使い勝手が良かつたし、使つて不具合が出ても納得出來た。今のOperaは、まともに動かない部分は減つた筈だが、却つてうまく動かない時にむかつくやうになつた。
「不具合はあるが愛せるブラウザ」と「機能が向上した筈だが愛せないブラウザ」と、どつちがユーザにとつて「良いブラウザ」なのだらうか。
平成二十年十二月二十一日
Latest topics > Gimp嫌われすぎワロタ - outsider reflex

ただ、人に「こういうことがしたいんだけど」とか言われた時には、ついGimpの方を勧めてしまうなあ。そういう人達に対してPhotoshopは明らかにオーバースペックなのに、Photoshopのように「なんでもできる」事を望んでいて、それでいて出費はしたくない、そんなケース。

つPhotoshop Elements。今でもスキャナのおまけに附いてくるんでは。
Gimpはインタフェイス云々以前に用語が出たら目で訣が解らない。もともとお遊び用だから仕方がないけれども、ならばお遊び以外に使はうとするのは間違つてゐるだらう。基本的にプログラマがふざけて作つてゐるから、Gimpのインタフェイスなんて御話にならないんだ。
Firefoxは、本體はまあまあだけれども、アドオンだか何だかの方はお遊びで作つてゐる人が多いから、やつぱり、ねえ、いろいろな意味で使ひ辛い。
平成二十年十二月二十一日
http://www.page.sannet.ne.jp/hirasho/diary/diary0812.html#21p10
平成二十年十二月二十一日
あと、はてなアンテナ - 正字正假名遣ひの爲のアンテナつて、名前に反して略字略かなのサイトばかりが登録されてゐるんで、正字正かなサイトのチェックにはまるで使へないんだよな。ソーシャルブックマークだか何だかが表示されてゐた一時期、無闇に重くなつてゐたのは、ばつさり削られて改善されたみたいだけれども。

平成二十年十二月二十日
俺は昔から叢書とかシリーズ物とかのファンで、だから早川の銀背やらサンリオSF文庫やらを輯めた後に、創元選書を輯め出してこれに凝つたのだが、今に至るまで日本出版史上最も高雅で最も美しく、且面白いのはこの創元選書だと信じてゐる。
創元選書コレクション
企畫・立案は林秀雄。裝釘は青山二郎の手になる。が、この叢書の裝釘は何度となく變更されてゐる。一貫して、上と下に緑色の模樣があり、創元選書の文字、タイトル、著譯者名、通卷番號、そして創元社發行の文字が並ぶ。が、通卷番號の腋の模樣にヴァリエーションがある。緑色の葉つぱなのが、*になつたり、他の模樣になつたりしてゐるし、後には茶色に變つてゐる。
本自體のサイズも變化してゐる。これは戰時中の用紙の統制によるものだが、岩波等の文庫が小さくなつたのに對して創元選書は大きくなつてゐる。戰爭末期にクロース裝がカヴァなしの紙裝に變り、のちに前のやうなハードカヴァに戻るが、昭和五十年代の「末期」に再びソフトカヴァの輕裝版になつてゐる。この最期の頃は、上下の模樣が變化してをり、特に下端部の三本線の部分がダブらされて五本の線になつてゐる。『フランスの大聖堂』は既にさうなつてゐる。本のサイズが大きくなつたのに、後になつて氣附いて、バランスをとる爲に弄つたものと思はれる。バーコードが入るに至つて模樣を削つて妙なデザインになり、非道く醜惡な印象を持つた。新刊が出ない状況下、殆どの既刊が品切になつてをり、今では新刊書店で見る事は出來なくなつた。
サイズが大きくなる前の小振りの頃、或は戰爭が終つて半世紀が經つた、シリーズ末期の頃、いづれの時期のものもとてもいい雰圍氣を纏つてゐて、觸つてゐるだけで嬉しくなる。敗戰前後の非道い時期のものもそれなりに味があつて惡くない。戰爭に敗けても實は用紙は意外と惡くなくて、しばらく經つてから、昭和二十二、三年頃に用紙事情が一番惡くなるのだが、その後、状況が多少好轉して、ハードカヴァに戻る。しかし、戰前の最良の時期に比べると明かに見た目も非道くて、昭和三十年代になつてもかつての時代のものより一段落ちて見えるのだから面白い。さすがに昭和五十年代に入ると、古臭い中にも高級感を持たせようと云ふ意圖が現はれて、しつかりした作りになつて來るのだが、この時期には最う大半が絶版になつてゐて「シリーズ」としての態をなしてゐないから、新刊書店でも最うコーナ等なかつた筈だ。『フランスの大聖堂』と『惡の華』は、昭和59年に出てゐるが、ソフトカヴァで本來のクロース裝/ハードカヴァではない。『概説西洋史』『概説現代史』も1990年代には生きてゐて、矢張り重版はソフトカヴァになつてゐたと記憶してゐる。ただ、小林行雄『日本考古學概説』がなぜかこの時期にもまだ生きてゐて(大學教科書として需要があつたらしい)、遲くまでハードカヴァで重版されてゐた筈だ。『考古學』は最後まで生きてゐた創元選書であつた筈で、さすがに終りの頃にはソフトカヴァ化されたが、バーコードが附いた時に非道いデザインの改惡をされて慘めな外觀になつてゐたのが哀れだつた。

平成二十年十二月十九日
歸りの京王線の中で、如何にも鹿爪らしい顔をしてケータイから何處やらの掲示板に書込んでゐるさらりーまんの人を見かけた。壺ではないらしいが文體から見て似たやうなところだらう。
平成二十年十二月十九日
最近は、何かある度に、ふーん、サウナンダ、と呟くのがマイブーム。
平成二十年十二月十九日
くろご式 ことわざ辞典
平成二十年十二月十九日
週末恒例東京古書會館の古書展。本日の買物。太宰治全集第二卷『虚構の彷徨』(創藝社近代文庫35)、栗林一路『写真 スキー・スクール』(現代教養文庫259)、森槐南『唐詩選評釋下』(冨山房百科文庫二七)、吉川寅二郎『嗚呼至誠の人乃木希典将軍』(展転社)、佐藤清『英詩の精髓』(研究社)、氷上英廣『ニーチェとの対話』(岩波書店)、ポール・グゼル集録『ロダンの言葉』(二見書房)、深瀬基寛『エリオットの藝術論』(比叡書房藝術論叢書)、星野徹・中岡洋訳『T・S・エリオット詩論集』(国文社)、T・S・エリオット著・福田恆存譯『カクテル・パーティ』(小山書店)、内村鑑三『ヨブ記の研究』(創元選書167)、杉江重誠『びいどろ』(甲鳥書林)。
ところで『殉死』で乃木大將を貶めた司馬遼太郎を「保守派」が何うして支持するのだらう。或は、天皇家をとても尊敬してゐるとは思はれない西尾幹二を「保守派」は何時まで支持し續ける積りだらう。
平成二十年十二月十九日
僕の一番の讀者であり、論語を讀んでゐるらしい某氏は、何うやら荻生徂徠を讀んだ事など一度もないらしい。

平成二十年十二月十八日
戲曲は基本的に綜合藝術である演劇として上演されて初めて商品として認識される。逆に言へば上演された演劇の附屬物としてしか戲曲は認識されないと云ふ事だ。單體で賣り物にされる事の方が珍しい。早々と全集で多くの戲曲を讀めるやうになつた岸田國士は偉大な戲曲家だつた。
岸田國士は、優れた批評も書いてゐるが、創作家の「餘技」だつたと言つて良い。戲曲にしても小説にしても、近代的で洒落た――中には「凄み」のある作品を岸田は殘してゐる。
一方で、戲曲家として今見直されようとしてゐる福田恆存の戲曲は、寧ろ批評家の「餘技」として見た方が良いと思ふ。創作のセンスでは、福田氏は岸田に及ばない。殊に「凄み」を福田氏は「避けた」と言つても良いだらうが、一番良く出來てゐると思はれる「解つてたまるか!」の幕切れでも「燒き芋」と云ふ小道具を用ゐて「凄み」を外す「工夫」をしてゐる。これを「巧みな工夫」と見る事は可能だが、何うだらうか、どちらかと言ふと俺は「センスの缺如」だと思ふ。福田氏は些か野暮なのだ。その點で、創作家としては必ずしも福田氏は偉大でないと言はざるを得ない。
以前は、戲曲は「難しい」等と言はれてゐたものだ。けれども今、若い人でもTVアニメーションの表現に慣れてゐる事もあつて、戲曲を樂しむことは割と可能だと思ふ。ただ、脚本は映像作品を樂しんだ後に參照すべき「參考資料」だと認識されてゐるやうだし、エヴァの脚本集が賣れたのも結局はさう云ふ目的が「あつた」のだらう。が、脚本・シナリオ・戲曲は、それ單獨で樂しみ得るものだ。單なる映像藝術の附屬物である訳ではない。戲曲の讀者は「演出家」として戲曲を讀みながら映像藝術を「創作」する自由を持つ。福田さんの「戲曲全集」は「批評家による戲曲」を集めたものとして、結構失敗と言つて良いやうな物が入つてゐるけれども――と言ふより、どちらかと言ふとさう云ふものばかりなのだが――逆にそれゆゑに「面白く讀まうとする試み」それ自體を樂しめるだらうと思ふ。「面白いものを讀む」のではない、讀者が主體的に「面白く讀む」のだ。其處には創作的な樂しみがある。割とさう云ふ鑑賞者による積極的な關與が可能な藝術は世の中には少い。そもそも積極的に創作に關與すると云ふ態度自體が、殊に日本では一般的でない。インタラクティヴな「ブログ」でも、案外さうした讀み方をしてゐる人は少い。「駄目なものは駄目」と言つて「小馬鹿にする」態度を「樂しむ」人は結構多いが、さう云ふ「樂しみ方」は惡い意味で「評論家的」なものだ。もつと良い意味で評論家的な讀み方をする事は出來るだらう。

平成二十年十二月十七日
嘗ての自然主義の時代には、「作家=清廉の人」と云ふイメヂで文學が賣られてゐた訣だが、そんなのが藝術として邪道である事は言ふまでもなく、ヨーロッパの本物の文學が知られるに至つて自然主義文學は賣り物にならなくなつた――が、それと共に日本では文學が全體として商賣として成立たなくなつた。洋ものの文學は日本人の好みに合はなかつたのだ。
日本人が説教好き・道徳好きである事、有名人とスキャンダルの關係に何處までも固執する事――が、藝術それ自體の自立を不可能にした。
「藝術のための藝術」なんてものは、あつちの國でも流行らなかつたがこつちでも流行らなかつた。それは當然だが、然るにそんな觀念的な藝術があつちの本物の藝術であつた筈もなく、地に足の附いた藝術が彼の地には「ある」。それは彼らヨーロッパ人が精神的に成熟の域に逹してゐる事を示してゐよう。老成と言つても良い。ヨーロッパが老いた社會である事を指摘する人は日本にも結構ゐる筈である。が、老成の中から彼の地では何度となく精神的な革新が繰返し生じ、生活を生き生きとしたものにしてきた。藝術は精神的な逃避を目的としたものであり、同時に逃避から歸還する事で現實の生を再び生き生きとしたものにする機能を持つ。日本では「逃避」の一語を單純に採上げる事で非難の種とするし、それは歐米でも「ある」事だが、スタティックな「逃避」と云ふ概念で捉へようとする人間の頭の固さ・頑迷さこそ打破すべきものである。
現在では、「ブログ」の世界で個人の生活が曝露され、如何にも「自然な自分」をさらけ出してゐる「ブロガー」が嫉妬交じりに非難されつゝも人氣を集める。さう云ふ傾向に俺は反抗したかつたのだが、「アンチ」の諸氏には何うしても俺「個人」と云ふものが必要であるらしい。依然としてウェブで自然主義は生きてゐると言はざるを得ないが、俺はさう云ふ日本の現状を良しとして受容れる事が出來ない。日本人の笑ひが常ににやにやとした不明朗なものである事は屡々指摘される事である。精神的な停滞が日本では肯定されてゐる。それは良くない事だ。
平成二十年十二月十七日
麻生總理大臣の評判が大變良くないさうだが、將來の評價では恐らく不景氣が全てを説明して呉れる事になるだらう。

平成二十年十二月十六日
またPanasonicのTH-15LD70が叛亂を起して、ヤッターマンの録畫に失敗した。パナソニックはデジタル放送の機器を作れる數少いメーカだが、必要最低限の機能は搭載できるけれども安定動作を實現できないと云ふ實力のないメーカで、J:COMのセットトップボックスにしてもVIERAにしてもろくでもない性能しか持たない。J:COMのサポートに據れば、STBは長時間動かしてゐると動作がをかしくなるので時々電源を切るやうに、との事。TVも、電源オン直後は動作が途轍もなく緩慢になるし、今囘のやうに時々録畫豫約をさぼる。
Panasonicは二流メーカだが、他の全てのメーカが三流メーカだから、乘換へる事が出來ない。例へば、シャープのTVは、毎週録畫の豫約を入れられない。ソフトウェアの動作はパナソニックよりもきびきびしてゐるが、最低限の機能も搭載されてゐないのだから使へない。東芝やソニーのTVは、どれも大き過ぎて置けない。
小さくてそれなりの機能を持つたTVを賣つて呉れていいと思ふのだが、全ての家電メーカは、高いTVで儲けようとしてゐる。だから今のデジタルテレビの殆ど全てが缺陷品だ。
平成二十年十二月十六日
東京古書會館の古書展。新宿展。
買つたもの。ホイジンガ『レンブラントの世紀』(創文社歴史学叢書)、世界文學全集『ノヴァーリス「青い花」ヘルダリーン「ヒュペーリオン」』(講談社)、C・S・ルーイス『新しい文学批評の方法』(評論社の教養叢書1)、ジョン・ラスキン『胡麻と百合』(玄黄社)、米倉充『キリスト教概説』(国際日本研究所)、柳田國男『西は何方――國語變遷の一つの例――』(甲文社)、柳田國男『俳諧評釋』(創元選書218)、オーギュスト・ロダン『フランスの大聖堂』(創元選書287)、D・H・ロレンス『ロレンス短篇傑作集』(あぽろん社)、佐藤春夫『國文學入門』(酣燈社學生文庫)、『トマス・ド・クインシー著作集4』(国書刊行会)、保田與重郎全集第二十一卷『南山蹈雲録・校注祝詞』(講談社)。唐木順三編『森鴎外の人と作品』(学研)、柳田國男『遠野物語』(大和書房)、折口信夫全集別卷(中央公論社)、ニーチェ全集第13卷『偶像の黄昏・反キリスト者・ヴァーグナーの場合・ニーチェ対ヴァーグナー・附録』(理想社)。
平成二十年十二月十六日
俺は「松原信者」であると人から言はれるけれども、それは一面の事でしかない。文體の面では保田與重郎の信奉者であり、保田氏の文章を初めて讀んでから十年以上經つが依然としてその影響から脱し得ないでゐる。以前は極めて晦澁になるがゆゑに殊さら保田氏の亞流の書き方を避けたもので、PC Tipsの文章等は「わかりやすさ」だけを追究した結果としての聊か味氣無いものになつてしまつてゐる。が、さうした努力を幾らしたところで、例へば「義」、例へば喜六郎は俺の文章をそもそも解らうとしないから、無駄だと悟つた。だから最近はさうした「拘り」は捨てて好き放題に書流してゐるが、結果として何處ぞの哲学徒氏を途方に暮れさせてしまつて申し訣ないと思つてゐる。
平成二十年十二月十六日
俺はまた唐木順三の讀者でもあつて、殊に大學生の頃は良く讀んだ。以來、ちよくちよく本棚から取出して眺めるのだが、最近は一册を通してちやんと讀む事が無い。主な著作は全て讀んでしまつたからで、殘つてゐるものまで全て隅から隅まで讀むほど俺は忍耐力が無い。が、主立つた唐木氏の著作は人には勸めたいもので、この「言葉 言葉 言葉」と云ふサイトには最初から唐木氏の事を紹介したコンテンツがあるのだが、ちよつとばかり唐木氏の缺點を指摘した時に「信者」の人から猛反發を食らつただけでまるで反響が無い。オフラインで某氏に勸めた時には「難かしさう」と言はれて拒絶された。あの時は愕然とした。最近別の某さんが讀者である事を知つて頼もしく思つた。『現代史の試み』は割と誰でも讀めるだらう。その後の中世文化への言及は、實は禅に關する考察だが、禅それ自體が案外大した物でないのだから、恐れる必要はない。どれを讀んでも感覺的には解るだらう。『良寛』は、ちくま文庫で出た時、新字新かなになつてゐたから殘念な思ひをしたが、「日本人が書いた漢詩」の本なので、日本人なら解らない事はない筈である。
平成二十年十二月十六日
福田恆存とニーチェの關係について。ロレンスを專門にした福田氏はニーチェを讀んでゐる。さう云ふ觀點からニーチェを讀んで見る試み。
平成二十年十二月十六日
ニーチェの物の言ひ方を――飜譯を通して――見ても、保田與重郎がドイツ文學の飜譯に影響を受けて「獨特」の文體を作つてゐる事が判る。
平成二十年十二月十六日
林達夫が「新聞について」と云ふ文章で國語問題を論じて、國字改革の推進に協力した新聞の矛盾・自家撞着を指摘しつゝ、文士による改革反對の運動に理解を示してゐる。筑摩書房版・現代日本評論選8『深瀬基寛「共通感覺」林達夫「反語的精神」』所收。
平成二十年十二月十六日
粗忽亭日乘: くだらない議論を
平成二十年十二月十六日
保田與重郎の本では、『後鳥羽院』を最初に讀んだが、『日本語録』のやうな人物評傳の類が良い。『和泉式部私抄』の全集版が個人的には一番のおすすめで、これに入つてゐる前川みどり『みどり抄』の書評が非常に良い。前川みどりは歌人前川佐美雄の奥さん。『みどり抄』は、保田氏の紹介が非常にいいのでずつと探してゐるが未だに見附からない。多分死ぬまで見附けられないだらうと思ふ。新学社の文庫版『和泉式部私抄』では短文が全部省かれてゐるので古本屋で講談社の全集を探す事。黒岩涙香『小野小町論』を採上げた文章もあつて、とても良い本だと保田は褒めてゐる。
平成二十年十二月十六日
黒岩『小野小町論』は後に現代教養文庫に入つたが、新字新かなに改められてゐて、しかも版元倒産で入手出來なくなつた。
――と思つたが、ぐぐると今でも入手可能な模樣。版元の社会思想社は潰れたが、現代教養文庫の一部のものは版元を移して在庫が確保されてゐる。データ販賣もされてゐる。
松岡正剛の千夜千冊『小野小町論』黒岩涙香
オンライン書店ビーケーワン:小野小町論 OD版 教養ワイドコレクション 069
【楽天ダウンロード】[立ち読み版]小野小町論
平成二十年十二月十六日
網迫のホームぺージ(新館)
電子テキストもある。著作權が切れてゐるから。普通のほーむぺーじだと思つて開くと長いので注意。
黒岩 涙香『小野小町論』

平成二十年十二月十五日
ラノベを馬鹿にする人は多いけれどもラノベにはラノベの使ひやうと云ふものがあつて、酒を呑んだ歸りの電車で暇潰しに讀むのには大變便利だ。眞面目な本を讀んでも頭に殘らないから、斯う云ふ時はラノベに限る。
最近讀んだ微妙なラノベ。リリスにおまかせ。毎卷樂しみにしてゐるのは俺ぐらいなものだらうと思つてゐたが、ちやんと續刊してゐるところを見ると賣れてゐるらしい。先日三卷が出た。ここまで他愛のない話も珍しいが、何も起きないので安心して讀める。

平成二十年十二月十四日
めも。
神奈川県警/「神奈川県迷惑行為防止条例」の概要

平成二十年十二月十三日
Jintrick.netさんのTOPページの書き方について - 教えてお星様

たぶんブラウザ側がきちんと解釈してんだから、別にいいだろ的な考え方だと思われますが、なんかカッコいいなと思った。

Jintrick.net
どうでもよくはない雑記その301 : 雑記帳 : der Gegenwart
はてなブックマーク - Jintrick.netさんのTOPページの書き方について - 教えてお星様

仕様上省略できるから省略してるだけでしょ。この人わかっててこの記事書いてるのかな。それなら別にいいんだけど、HTMLを理解しないでこんなこといってるようだと問題。

別にカッコいいと言つてゐるんだからいいと思ふけど。
平成二十年十二月十三日
御風呂場で靴下を濡らさないやうに履くサンダルが、濡れるとその度にじーじーじーじー文句を垂れるのだけれども、何なのだらう。何が氣に入らないのかわからないが、人でもサンダルでも何だか良くわからない事を言つて不滿を表明するものらしい。ただ、人と違つてサンダルは愛敬があるだけ増し。
平成二十年十二月十三日
Opera 10PRでView Sourceがうまくできない。使用エディタ=秀丸。
平成二十年十二月十三日
昔の大學生が必ず讀んだ三册の本があつて、それが倉田百三『出家とその弟子』、西田幾多郎『善の研究』、阿部次郎『三太郎の日記』だ。
――と、如何にも「知つてゐる」かのやうに語つて見せてゐるけれども、出家とその弟子が出てこなくて、取敢ず善の研究 三太郎の日記でぐぐつて調べたのは秘密だ。
平成二十年十二月十三日
ミネルバのフクロウ : 大学生の三種の神本(No.117 08/06/04)

昔の学生には読むべき定番的な3つの本があった。大学生の「三種の神本」の一つとされるものの筆頭が倉田百三の「出家とその弟子」である。残りの2冊は西田幾多郎の「善の研究」と阿部次郎の「三太郎の日記」だ。

〈本と音楽〉 風太郎の気ままな水先案内: 旧制高校生の〈三種の神器〉本復活か?!

そして、なんとなんと岩波は、倉田百三『愛と認識との出発』までも復刊した! 角川文庫版が絶版になって以来、文庫で読むことが叶わなかったわけだから、個人的には喜ばしい。が、底流に何があるのかはわからない。「まさか、教養主義の復興?? ならば、阿部次郎『三太郎の日記』なんかも、そう遠くないうちに出版されたりして。そこまではあるまい・・」とぶつぶつ独りごと。

そんななか、19日(水)朝日新聞朝刊一面下、書籍広告欄を目にして仰天。「永遠の青春の書」がここに甦る!『新版 合本三太郎の日記 阿部次郎』(角川選書)とあるではないか。これで、西田幾多郎『善の研究』(岩波文庫・講談社学術文庫)を合わせ、三役そろい踏みか。 といっても、若い年代の方には通じないだろう。旧制高校生が“三種の神器”として読んだ3冊である。

不安の力(VII) -倉田百三の場合-

その旧制高校に入学した学生は必ず読むべき本として伝えられた3冊の本があった。三種の神器とも呼ばれた。その三冊とは西田幾多郎の『善の研究』、阿部次郎の『三太郎の日記』と倉田百三の『出家とその弟子』であった。

旧制高校生の愛読書を展示 松本の記念館 | トピックス | 信州Liveon - 信州生活をもっと楽しく!長野県のイベント情報や話題が満載のサイト! - 信州ライブオン

展示している本は、旧制高校生にとって“三種の神器”だった西田幾多郎の「善の研究」、阿部次郎の「三太郎の日記」、倉田百三の「愛と認識との出発」から、マルクスの「資本論」、ニーチェ、夏目漱石と幅広い。

どつちだ倉田。
平成二十年十二月十三日
「なぜ歴史的かなづかひで書くのか」を反省してゐて気附いたのだが、「現代仮名遣の方が自由」だと言ふ人に限つて「現代仮名遣」の制約に從はないで書いてゐるよな。
平成二十年十二月十三日
mAgicTV5の録畫豫約、「有効期日」の存在意義がわからない。寧ろ無い方が良い。勝手に録畫豫約が消えて迷惑だ。自分で録畫豫約しないやうな人間が仕事でプログラムを作つて、「ヴァージョンアップするから機能を増やせ」とか言はれて適當に附けたんだらう。何とかしてこの有害無益な機能を殺す事が出來ないものだらうか。
全てのプログラムでヴァージョンアップする度に餘計な機能を増やす傾向があるが本當に何とかならないものか。
平成二十年十二月十三日
Windowsの場合、古いプログラムでも新しいヴァージョンのWindowsで結構動くが、Macの場合、OSが新しくなると古いプログラムが動かなくなる事が屡々ある。
不要な機能許りが増え、操作性が低下した新ヴァージョンを「使ひたくない」と思つても、Macの場合、機械を新しくするとOSも新しくせざるを得なくなり、アプリケーションも更新しなければならなくなる。
Macは、「PCではない」らしいが、實際、ワープロ專用機の方に近い。
平成二十年十二月十三日
Opera 10PRは、ぺーじの一番上や一番下に行着くと横線が出るものらしいのだが、これが鬱陶しくて仕方がない。何とかして消せないかと設定を探したが、何處にもオフに出來るところが無い。
平成二十年十二月十三日
opera:configを見たがさつぱりわからない。
平成二十年十二月十三日
User PrefsのEnable Scroll Markerを0にすればいいらしいがよくわからない。
平成二十年十二月十三日
それにしても何うしてこの手の設定パネルの類では「Enable」と「Disable」、「Show」と「Do Not Show」が混在してゐるんだらう。Enableのチェックを外せば當然Disable状態になるのだから書き方は簡單に統一出來る。それを殆どの開發者がやらないで、設定する畫面は何んなプログラムでもぐちやぐちやになつてゐる。プログラマはユーザを混亂させたいのだらうか。惡意が無いのならただ頭が惡いだけである。
平成二十年十二月十三日
Enable Scroll Markerでぐぐつたら出てきた。
OperaのEnable Scroll Markerに変更。 - あまたの何かしら。
ぐぐればいいのだらうけれども、「Scroll Marker」と云ふネーミングを知らなければぐぐる事も出來ない。開發者はいろいろ機能を生んで呉れるけれども、その機能を知らせる義務=その機能を示す名前を知らせる義務は全く感じてゐないらしい。
平成二十年十二月十三日
と言ふか、「Scroll Marker」なんて機能に「意味がある」と何うして開發者は思つてしまつたのだらう。ウィンドウにはスクロールバーがあるのだから、マーカーだか何だか知らないがそんなもの無駄なだけだらう。何となく「附けやすさうだから」と言つた適當な理由で附けただけのやうにしか思はれない機能だ。
平成二十年十二月十三日
そもそも「プログラムの設定をするところ」が何うして幾つも「ある」のだらうか。
Operaも非道いが一番非道いのは秀丸。あれは昔から非道かつたが、誰も「何とかして欲しい」と要求を出した事が無いのだらうか。

平成二十年十二月十二日
福田恆存の戲曲全集が出てゐるけれども、あれを「福田さんの思想を知る爲」に讀むとか「批判する爲」に讀むとかいつた讀み方をするのなら、讀まない方が良いと思ふ。
何しろ御話なのだから、先づは樂しく讀まうとすべきだ。ラノベでも戲曲でも、御話を讀む基本は變らない。讀んでゐて樂しければそれでいいし、考へさせられたら考へればいいし、詰らなければ投げ出せばいい。

平成二十年十二月十一日
僕は最近の日本で批評と云ふ言葉を正確に・嚴密に使はうとしてゐる試みを見た事がないのだ。
日本で「批評」と言はれる場合、誰かの文章を非難する目的で發せられる事が殆どだ。誰かが「批評をしてゐる」と言つた場合、それはその發言者を攻撃する意圖で言はれてゐる事が殆どである。
平成二十年十二月十一日
批評は書かれた文章であり、文章である限りにおいて文藝作品である。さうした作品に就いて我々は判斷を下すが、それを書いたらその時點でその文章は再び文藝批評となる。
平成二十年十二月十一日
批評自體を非難する批評を書くのを「商賣」としてゐる人々がゐる。一錢も儲からなくても、精神的にであれ「報酬を得てゐる」のならば、一種の「商賣」である。
平成二十年十二月十一日
善事は匿されてこそ善事である。
一方、他人の不正を暴き立て、嘲り、罵る惡意の行爲は、公然と行はれる事を自づから望む。

平成二十年十二月十日
ステファン・ツヴァイク『ジョゼフ・フーシェ』(潮文庫 赤七A)讀了。割とメジャーな本だから、本好きの人はみんな讀んでゐる筈。ツヴァイクは以前から興味ある人の一人で、『昨日の世界』は讀んで立派な名作だと思つたが、他の本も輯めてゐて、何時か讀む積りでゐた。で、潮文庫版をたまたま百圓で拾つてたまたま讀み始めた訣だけれども、滅法面白かつた。内容は今さら俺が書くまでもなく、ぐぐれば色々な人のいろいろな感想が幾らでも出て來るだらうから俺が詳しく書く意味も意義もないから書かない。フーシェ氏は、既に過去の人物・歴史的人物であり、最早畏怖される事はなく、侮蔑・嘲笑を浴びる時代も過ぎ、憐憫の目を向けられる時代でもない。然るにこの惡魔的で「沒道徳的」な人物が、この本ではツヴァイクの手によつて、實に生き生きと、殆ど魅力的に描かれてゐる。ツヴァイクは、政治的に日和見主義で、權力の周りに附纏ひながら、何時も表には立たず、陰で絲を引く事許りを熱心に行つたこの陰濕な人物が、家庭ではよき夫でありよき父親であつた事實を指摘してゐる。ただツヴァイクの「哀れな最期」を描いただけであるなら、凡庸な結末にしかならなかつただらうが、フーシェの政治的ならざる側面をも知つてゐる。その爲、或意味波瀾萬丈の生涯を、非道く屈辱的な状況で終らせねばならなかつたこの人物の死を、讀者は「何とも悲劇的な最期であつたのだな」と受取る事が出來る。
平成二十年十二月十日
騷の元は2ちゃんねる - 實驗日記(假)
Latest topics > 産土神は処女なのか否か - outsider reflex
どうでもいい雑記その297 : 雑記帳 : der Gegenwart
かんなぎにしても何にしても、これは二次元だから・三次元だからとか議論するのは意味がない。ただ、「怒つた」結果として行はれてゐるらしき行動が見るからに異常だと云ふ事だけが我々には判つてゐる。その「誰が見ても異常」な行動が、アンチの目には絶對異常と映らない、と云ふ事が問題だ。アンチが、自己の「正義」に醉つて、常人にはやれないやうな異常な行動をとつてゐる事の問題。斯うした粘着的な行爲、エスカレートしたアンチの行爲、度が過ぎたクレーマーの行爲と云ふ奴、これらは現代の社會で大變深刻な問題となつてゐる。昔は、その邊の無名の人間が騷いでも誰も氣にしなかったし、尻を持込まれた人間も問題にしなかつたから、この手の問題は問題とならなかつた。問題に「する」爲には、それこそテロ行爲にでもエスカレートさせねばならなかつた。犯罪者たるべき異常者は、異常性を發露したものだし、それが派手に出來ない状況では「抑止力」が「働いてゐた」のだ。が、今では、インターネットを利用して派手に「抗議」の行動を宣傳する事が出來るし、噂は直ぐにウェブ上を驅巡る。犯罪者になるほどでもないが異常である人間が、異常な行動をやらかすのが、今は途轍もなく容易になつてゐる。結果として異常な行動が目立つやうになつた訣だが、「目立つ行爲」をしたがるのはさう云ふ「ちよつと異常な人」の常で、しかも世の中、「ちよつと異常な人」は相當の數が存在する。彼らは常識によつて自己の行爲を自分で抑制する事が無く、ただ常識を利用して自分を他人にアピールする才覺だけを持合せてゐる。だからこそアンチの行爲はウェブでは盛になる一方で――殊に昨今は目に餘るものになりつゝある。自分の氣に入らない事を支持する人間を「信者」「翼贊」と侮辱しつゝ、自分だけは潔癖で、しかも、聲を擧げない全ての無言の人々の代辯者であるかのやうに、彼らは振舞ふ。その思ひ上りを苦々しく思はない常識人は、多分まだ少からずゐる筈で、だから虹裏でもその手の行爲をやらかさうとすると散々叩かれるのだが、叩かれれば叩かれるほどアンチはつけあがる。
平成二十年十二月十日
Google 検索: 中村保男
平成二十年十二月十日
デザイン關係でごたごたしてゐるプロジェクトのHTML文書が出て來たのだけれども、えらく綺麗なソースなので驚いた。豫想ではもつとガチガチにtableなんかで固めて來ると思つたのだけれども、XHTMLでCSSになつてゐる。一箇だけエラーがあつたのは御愛敬。
ちなみに俺は一切關はつてゐない。

平成二十年十二月九日
人間は物事に對して、理性で善惡について判斷し、その判斷を受けて良心は行爲を「しろ」「するな」と命じたり禁じたりする、が、そこでその行爲を「する」か「しない」かは自由意志が選び、決定する。
――これはキリスト教のカトリックで常識とされてゐる人間の精神の三つの能力「理性・良心・自由意志」の關係を示したものだが、このうち自由意志の存在を認めるのが正統のカトリックの特徴と言へる。
が、自由意志の働きを認め、何んな場合にも良心の命令に從はねばならず、良心に背くならば惡である、とするカトリックの道徳の考へ方を、俺はそのまゝ受容れる事は出來ない。分析としては正鵠を射たものであり、カトリックはこの圖式を普遍的であるとするのだし、西歐の思想では、肯定的であれ、批判的であれ、斯うした發想が必ず根柢にあるので、知つておくべきだし、日本では西歐の思想が普及してゐるので一往斯うした考へ方が「ある」事は、頭の中であれ理解しておくべきものではある。が、それは日本人の血や肉の中にまで染み込んだ發想となつてゐない。その分析が正鵠を射てゐたとしても、日本人がした分析でなく、西歐の連中がした分析であるといふ事實は、日本人の精神文化が斯うした分析をなされてゐないまゝ形成された事實を意味する。
即ち、日本人にとつて、理性も良心も、或は自由意志も、無意識の中に埋もれたものであると云ふ事だ。意識の上では「知らない」と云ふ事になる。ならば斯うした分析で示された、精神的能力は、日本人では、精々無意識的にしか働いてゐない。
意識の上で、我々日本人はもつと單純に物事を判斷し、行動に結び附けたり、行動をやめたりしてゐた。或は、行動をするにしてもしないにしても、日本人は意識と云ふものをしないで、ただ漠然と行つてゐた。さうなると、命令する・禁止する徳目それ自體と、結果として現れる行動と、我々日本人は、まともに區別して考へる事をしなくなる。
その爲、日本人は徳目ですべき事・すまじき事を定めるのと、實際に「する」「しない」のとを、直結して考へる傾向を持つ。これらを殆どの日本人は全く區別出來ない。言行は一致する筈のものだし、しなければ即座に「惡」である。
もちろん、舊約の頃の聖書でも、單純にさうした考へ方をしてゐた。掟は絶對であつた。その掟の力が彼我で大きく違つてゐた事も重要なポイントだ。イスラエルでの掟は強力だが、日本では大した力を持たない。そしてイスラエルでは、掟それ自體を文字通りに解釋する硬直した思想に、イエス・キリストが反逆を果す。新約におけるキリストの活動は「人間らしさ」の恢復の運動であつた。それが日本にはない。彼我で道徳の觀念に對する發想・思想に差異が生じたが、西歐人の道徳觀念に比して日本人の道徳觀念は未發達だ。(それは即座に日本人の方が西歐人より道徳的に立派でない等と云ふ事を意味しはしない。ただルーズに道徳の事を考へる人は日本人には多いだらう)
平成二十年十二月九日
2008-12-08 - 大和但馬屋日記
井上靖『しろばんば』・『夏草冬濤』・『北の海』 (イノウエヤスシ『シロバンバ』・『ナツクサフユナミ』・『キタノウミ』) - 関心空間
なつかしい。三部作の方を先に讀んだからあすなろ物語は粗筋のやうに思へたもの。後に行くほど厚くなるけれども北の海まで樂しく讀めると思ふ。なんかいいところで終つてゐたやうな記憶が。もつと續くと思つたんだけれどなー。と言ふか續いてほしかつた。
平成二十年十二月九日
行方不明だつた竹友藻風『敍情詩論』がひよつこり出て來る。
平成二十年十二月九日
ツヴァイクの『ジョゼフ・フーシェ』は下手なラノベより面白い。あと何度でも言ふけれども潮文庫版。譯文の日本語がたまにへんなのも味。
平成二十年十二月九日
今、評論の地位が低いのは、評論家を目指す若い人が皆無であるからだ。
平成二十年十二月九日
ADP: 再確認:abbrとacronym
と言ふかもともとHTMLの一部の要素は相當ルーズな定義しかされてゐないものだから、それなりに融通をきかせて適當に使つておけばOK。
平成二十年十二月九日
【プリキュアで誘拐:2008/12/8】鷹澤遊戯場 過去日記
アニメがオンエアされなくなれば録畫しなくて濟むしHDDの空きを作る爲にDVD焼かないで良くなるから氣が樂になるんだよな。
プリキュア様崇拝日記

平成二十年十二月八日
恐怖、眞冬の冷藏庫水浸し事件。しかも深夜。

平成二十年十二月七日
Opera 10 アルファ版が公開
ためしに入れてみたら確かに速くはなつてゐる。
けれどもふと8.54を起動したらその方が遙かに速い。特に虹裏。何だかんだ言ひながら9を使つてゐたけれども8に戻らうかと本氣で思つた。Opera何をやつてゐるんだらう。

平成二十年十二月六日
@-noz-document(TexTsiTe)

平成二十年十二月五日
ちよつとショックだつたのだけれども、世間の人に俺は相當誤解されてゐるらしいのだ。即ち、俺は政治を一切不要と主張し、道徳的に良いとされてゐる事をひたすらするのだけが大事だと人々に説教してゐる、と云ふのだ。そんな馬鹿な事、と思つたが、俺の一番の讀者が誤讀してゐる事を告白して呉れたから判つた。しかしそれはとんでもない勘違ひだから釋明しておく。
俺は飽くまで、「不特定多數の爲」の政治と、「特定少數の爲」の道徳とを、嚴密に區別すべきだ、と言つてゐるに過ぎない。そして、世の中の多くの人が、前者の政治に許り興味を持つて、後者に就いては非常におざなりにしか考へない傾向があるのに反對して來た。だからこそ、常識的な範圍で政治にも道徳にも注意すべきだ、と俺は言つて來た積りだつた。ただ、世間一般の人の政治に對する強い興味・關心を俺は否定し、それゆゑ俺は「政治には關心がない」と言つてゐたに過ぎない。政治もまた大事である事は――そもそも俺が戰爭と云ふ事を頻りに論じてゐたのを、多くの讀者が覺えてゐるだらう。戰爭は他の手段を以てする政治の延長である――俺が政治を一切否定してゐるとしたら、戰爭なんて事は、否、そもそも正義と云ふ事は、斷然無視してかかつた筈だ。正義は政治に屬する。その正義の重要性を俺が何度となく説いてゐる事は、俺が政治にも意義を認めてゐる事の決定的證據だ。だから誤讀する人は無いと思つて來た――が、正義を道徳のうちに入れてしまふ通念があり、俺の一番の讀者で俺をウオッチする專門の「ブログ」まで作つて呉れてゐる頭の良い某氏ですら、さう云ふ通念・常識で俺の發言を見てゐたのだ。だからこそその某氏は俺の事を勘違ひし、俺を理解出來ないでゐるのだが、ならば世間には俺の事を誤解してゐる人は多いのだらう。世の中、そんなに精密に人の言つてゐる事を讀まうとする人はゐないものだ。殊にウェブでは。誤讀はされる側よりする側が惡いに決つてゐるが、しかしその誤讀に基いて相手を侮辱してゐるとしたらそれは最う何うしやうもなく惡いに決つてゐる。けれども、その何うしやうもなく惡い事を、誤讀するやうな人は自覺し得ないから、どんどん侮辱を垂れ流し續ける。それで迷惑するのは誤讀された側なのだが、大體世の中、惡い事をする人間が一方的に利益を得、される人間はただひたすら忍從するしかない、と相場が決つてゐる。「被害者の救済」と云ふ事がまともになされないのは多くの讀者が知つてゐる事だらう。「さう云ふものだ」と諦めるしかないが、だからこそ俺は言ふのだ。人間はなんて嫌なものなのだらう。

平成二十年十二月四日
古本屋で潮文庫版のツヴァイク『ジョゼフ・フーシェ』を百圓で拾つた。で、歸宅の電車で讀み始めたらえらく面白くて寢るのも忘れてガンガン讀み進めてゐる。みすず版よりも樂しく讀めるいい譯文だ。
潮文庫は創価の潮出版社が出してゐた文庫で、宗教の出版社らしいと言へばらしいけれども、何うも宗教を理由に編緝者が好き勝手やつたとしか思へない無茶なラインナップで、いい書き手によるいい本を澤山出してゐた。慥か谷沢永一が褒めてゐた鶴見祐輔譯のプルターク英雄傳も潮だつたと思ふ(再刊)。第三文明社も創価だが、そこから出てゐるレグルス文庫も結構いい本を出してゐる(池田大先生は兔も角)。創価はカルトだけれども、創価にも功罪の功の方が「ある」のであつて、關聯の出版社が非常に良い本をバンバン出してゐたのがそれだ。もちろん、アレな本もしれつと交じつてゐるからさう云ふ本は除けていいけれども、さうでない本の中には名作が相當入つてゐる。もともと池田大大先生が、案外いい趣味をしてゐて、文學や思想に可なりの興味があつて、教祖さまになつたのを良い事に信徒に押附けて呉れてゐる。未だに聖教新聞の一面にはロマン・ロランの話なんかが平氣で載るんだが、ロマン・ロランなんて今の普通の人は誰も讀まないだらう。創価の人が近所に住んでゐると、晝の十一時なんて人が寢てゐる時間に平氣でなんみょーほーれんげきょーをやるから迷惑だが(異常に早口でやるので、窓を閉めてゐるとボッボッボッボッボッボッボッとリズミカルに何かを焚いてゐるやうな異樣な音に聞えて氣持が惡くなる)、創価關聯の出版者が出した本は、店頭で買ふ分には、説伏も何もされないし、創価に個人情報が渡る事もないので安心だ。地方の本屋には最うないだらうが、神保町の東京堂にはまだレグルス文庫の棚がある。在庫が隨分減つてゐるけれども、見かけたらちよつと見てみると面白い。福田恆存の『太宰と芥川』とか小林秀雄とかもラインナップに入つてゐたりする。晝休みに行つてたまにぱらぱらページを捲つてみる事がある。

平成二十年十二月三日
リアルGoogleサーヴィスマジほしい。
ロゲンドルフ一卷選集を何うやら俺は買つてゐるらしく、ぐぐると闇黒日記が出てくるのだが、リアルで見附からない。本棚の何處かに埋つてゐるらしい。と言ふか本棚の前に本の山が出來てゐる俺の部屋の現状は異常。部屋の眞ん中からあつち側に行けないとか何うしろと。これでは探せる物も探し出せないよ。餘りにもアレなので寫眞は勘辨。
斯うなるとリアルストレージサーヴィスも希望したいところだ。檢索すると即座に本が一發で出てくる本棚。檢索をかけてから出て來るまでのタイムラグは最小に願ひたい。
――Googleの中の人たちは優秀らしいからこの程度の事は技術的に簡單に解決できる筈だ。期待してゐる。
あと多分角川から出たどん底。岸田國士が倒れた後に出たものがあつた筈なのだが、本の山に埋もれたらしく何年も探してゐるのに出てこない。灰色の表紙の新書。結構貴重な筈。
平成二十年十二月三日
めりけんのブッシュ大統領がイラク戰爭の事を振返つて、必ず大量破壞兵器が見附かると思つてゐた、とか語つてゐたのだけれども、やつぱりあの時は本氣だつたのだなと。
日本人にしてもアメリカ人にしても、メディアやら何やらがブッシュを小馬鹿にしたり非難したり當てこすつたりするいろいろな事をやつてゐたが、やる側が相當意地惡であるのに對し、ブッシュは實に素朴で意地の惡いところの無い人であつたのだなあと。
平成二十年十二月三日
福田恆存戲曲全集の第五卷と福田恆存評論集の第五卷を買つて來た。十一月の新刊。
戲曲全集、評論集のいづれも解説なし。戲曲全集は半年づつ間を空けて殘りが出る模樣。

平成二十年十二月二日
YAGIのDTC110がフリーズしてリセットがかかつた。おかげでミチコとハッチン(BS)のOPの録畫に失敗。本篇は録れてゐるつぽいが何なのだらう。
PanasonicのTV經由でも録畫する積りが、TVの豫約を入れ忘れたらしくて録畫失敗。PCのキャプボの録畫は始まつてゐたが、當り前だが眞つ暗な映像しか録れてゐない。
もつとも、J:COMのチューナ經由で録るやうにも仕掛けておいたので、それで一往データはとれた筈。例のNB100+RZ。
何で録畫に失敗する時は複數の機械で失敗するのだらう。三臺で録畫豫約を仕掛けて一臺しか成功しないつて何だよ。
平成二十年十二月二日
先日箱を落して左手にぶつけたのだけれども、神經に障つたらしくて何ともないのに突然變に痛くなる。

平成二十年十二月一日
フレームは非論理的、再掲 (agenda)
二十一時五分 - smallball
二十一時十四分 - smallball
いやフレームつつたつてどうせnoframesの中にサイトナヴィゲーションの記述必須だろ。
ええとフレームの「中」に表示される文章――これ、「フレームの外」に表示される事もあり得るんですが、その時にはnoframesの中の記述が表示される筈で、その時の爲に豫め其處に「サイトナヴィゲーション」の記述をしておく必要があると。
linkでもいいと言へばいいけど。
HTMLの要素・本文(body)
HTML 4.01 FramesetのDOCTYPE宣言はどの文書に書くものなの?
link要素云々 : Weblog : SimpleIsm

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