制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
ちなみに各地の掲示板やブログのコメント欄を荒らしてゐる「野嵜健秀」氏(「女性」らしい)とは別人です。と言ふか、粘着アンチが人の名前を騙つて荒らしてゐるので、俺も被害者。→野嵜健秀とは誰か
テーマ・主に扱ふ事柄・ネタ
日本人論、政治主義批判、國語國字改革批判、虹裏(img)、深夜アニメ、古本、謎キャラクターによるコント、蟲。及びその他の事。

闇黒日記


平成二十年九月三十日
全日本教職員連盟
全日本教職員組合
日本教職員組合ホームページ[e-station]
平成二十年九月三十日
めがほり第二卷。眼鏡を買ひに行く話。「検眼」のところが個人的にえらくなつかしくて泣けると言ふか、世間の人は眼鏡を作る前には目の檢査しないの?
俺の場合、普通にこの程度の檢査はしてから眼鏡を作つてゐた。俺はもともと目が惡いから、眼科で眼鏡を作るので、目の檢査は必ずやつた。隨分行つてゐないが、相模原驛の青柳眼科なら多分今でもこの本に書かれてゐるくらゐの檢査はしてから眼鏡を作つて呉れると思ふ。この本には書かれてゐないけれども、フレームを選んだあと、最後に眼鏡屋のをぢさんが目の向きを見て、目がまつすぐ見る方向の中心をレンズに書込んで御終ひ。人の目の位置は千差萬別なんだからさ。
と言ふか、眼鏡屋にも眼科醫が常駐してゐなければ行けないとか、何か決りがなかつたつけ? ちやんと調べて貰つてからでないと眼鏡は作つては行けないんだよ。みんな何うして氣樂に出來合の適當な眼鏡を買へるんだらうと俺は以前から不思議に思つてゐる。ずいぶん前に某さんが眼鏡作ると言ふので眼科に行く事をすすめたけれども、なんか當り前のやうにそこいらの眼鏡屋に行つてゐた。あの後何うなつたんだらう。
平成二十年九月三十日
めがほりでぐぐっても全然ひつかからない。
HJ文庫&キャラの!
上栖綴人『彼女は眼鏡Holic 2』(HJ文庫)。誰にとつても面白いとは全然保證出來ないけれども御金とかいろいろ餘裕がある人は買つて上げてね。
平成二十年九月三十日
手続きの簡略化がもたらしたもの - 大和但馬屋日記

アクセルとブレーキの踏み間違ひによる急発進事故は、AT車が一般に普及してからこちら、絶へ間なく起つてゐるものと考へてよからう。オートマ限定免許なるものができてからもうすぐ二十年くらゐになるのかな。

ここで「絶え間」が正解と例によつて野暮なつつこみを入れる。「絶やす」-「絶える」。「耐へる」「堪へる」と「絶える」とは違ふんですね。
WindowsやMacintoshのダイアログボックスで「OK」ボタンと「キャンセル」ボタンが隣接してゐて紛らはしいのと似たやうな問題――と言へる。?
それにしてもマウスの右ボタンと左ボタンを押し間違へて大變な事になつたと云ふ話は餘り聞かない。
あと、PCの操作をする時には、キーボードで手が塞がるのになぜかマウス操作が必要になるとか、案外操作性の事つて考へられてゐないよね。最う一本手がある生物ならキーボードとマウスはスムーズに使へる筈。二本しか手がない人間はキーボードを使つてゐる間マウスが使へないしマウスを使つてゐる間はキーボードをまともに使へない。

平成二十年九月二十九日
アメリカの共和黨の場合、背景には強固な保守主義がある。各政治家には信念があつても、政黨の旗の下に集ふには政黨の理念を支持し、それに從ふのが當然の事となつてゐる。これに對して自民黨の背景には理念がない。アメリカの民主黨にも理念はある。然るに、日本の民主黨には理念がない。日本の政治家は、權力を得ると云ふ目的の爲に行動してゐる。アメリカの政治家も、もちろん權力を目指してゐる。が、その爲に理念を掲げてゐる。日本人の政治家は、場當り的に、目の前の問題を巧みに解決して見せる。自らの政治手腕をアピールして「票を稼ぐ」。日本人の政治家には理念がない。何んな風に問題を處理しても、その處理の仕方は場當り的で、自分自身、或は政黨の理念に基いたものではない。自民黨を民主黨が(或はその逆)非難する時、現實の問題に對して處理の仕方が拙かつた、と言つて非難する。理念は全く存在しない。民主黨の場合、「反自民」で寄り集まつてゐる事は有名だが、その爲、全體として統一された理念を持ち得ない。ただ、權力奪取だけを目的にした烏合の衆に過ぎない。自民黨も、「現実主義」と云ふ名目はあるが、派閥の集合體であり、理念はない。
日本人の場合、自民黨にしても民主黨にしても、或はその他の政黨にしても――政黨のみならず、日本人一般に――共通して強固な「體質」がある。それは「事なかれ主義」で、これは日本國民にとつては「至高」の「理念」となつてゐる。事なかれ主義は、一見「保守的」だが、保守主義とは違ふ。西部邁は保守主義者の積りでゐるが、そのかなづかひに對する考へ方は保守的でも保守主義でもなく、飽くまで事なかれ主義に基く。事なかれ主義に逆らふ事は日本人にとつて最大の「罪」で、それだけで罵聲を浴びせられ、嫌がらせをされるべき理由となる。逆に、事なかれ主義に從つてゐる人間はそれだけで「聖人」であり、尊敬されるべき存在となる。
事なかれ主義は理念ではなく處世術だ。日本人は處世術を尊重する。しかし理念は侮蔑する。
平成二十年九月二十九日
hxxk.jp - DOCTYPE スイッチについてのまとめと一覧表 (HTML 5 や IE 8 Beta 2 のモードスイッチなどの情報も含んだ 2008 年版 )
氣にした事ねえや。
平成二十年九月二十九日
ところで粘着行爲つて一種のストーカーだよね。どうしてストーカーが偉さうに人の「犯罪傾向」だか何だかを心配できるんだらうね。自分こそ犯罪者にならないやう、自覺的になるべきだよね。
まあ、ストーカーは自分の行爲が惡い事だと自覺できないからストーカーになるらしいからね。だから警察が實力でストーカー行爲をやめさせる訣なんだよね。命令されないと解らないらしい。もつとも、ストーカーするなと命令されても、殆どのストーカーが解らないらしいけれども。
ウェブ上の粘着行爲を取締る法律もさつさと出來てほしいですね。言つて聞かせて解らないものなら、實力で取締るしかないんだから。
平成二十年九月二十九日
失言でやめた大臣の事を論じた文章が一つの例外もなく人を馬鹿にして快を貪つてゐる件について。
「馬鹿にされてもしやうがない事をしたら思ふ存分馬鹿にして嘲り倒して快を貪つて良い」と心から信じてゐる人しかこの世には存在しないらしい。しかも、快を貪るなら貪るで素直に「氣樂に罵倒できて氣持がいい」とでも書けば良いのに、變に氣取つて眞面目に「日本人ははたして単一民族か?」とか成田の運動は何うだつたとか日教組は今では何うとか檢討して見せたり。そこまでして自分の頭が「失言大臣」とは違ふ事をアピールしたいのかと、げんなり。
新聞も社説やら何やらでもと大臣叩き一色。此處まで一つの論調にマスコミが塗潰されると、警戒する人が出てきてもいいのに、「馬鹿にされるべき人」を擁護したら自分も袋叩きの目に遭ふから誰一人支持しない。
で、月遲れで正論や諸君!邊がそつと大臣の主張を載せてみたり。その頃には日本人全員が「失言」のあつた事實を忘れてゐる。臆病なひねくれ者が保守派の雜誌を見て快哉を叫んでみたりするくらゐ。

平成二十年九月二十八日
右寄りの人でも「大臣が失言」と云ふ報道が出ると最う即座に追隨して左を利するやうな事を率先して言ひ始める。
それが本當に客觀的で冷靜な評價だつたら立派な批評で、素晴らしい事なのだけれども、「失言をした大臣」だからと云ふ事で安心して馬鹿呼ばはりし、貶め始めてゐるのがありありと判るのだから何うしやうもない。明かに「俺は馬鹿大臣なんかと違つて頭が良くて立派な人間なのだ」と宣傳するのが目的だなと解つてしまふ。
「失言」だの「責任」だのと言ふのは不毛だから、好い加減やめようよ。たかだか片言隻句で何が判ると言ふんだ。「失言にこそ本音が出る」と云ふのは紋切型だが、その紋切型を心から信じてゐる人間がゐる事が信じられない。まあ、どうせ、他人の足を引張り、貶める爲に都合が良いからさう言つてゐるだけなのだらうが。
大體、「失言」だらうが「本音」だらうが、言葉に過ぎないではないか。何故そんなに言葉にしがみつかずにゐられないんだらう。その人物がその後するであらう一切の行動が二言三言、或は四言、30分か1時間、半日、その程度の談話だの講演だので、どうして決定されるんだ。その人の言葉だけでその人が作るであらう業績だの失策だのを全て完全に豫想出來るだなんて、それこそ思ひ上りだ。揚げ足取りの爲に何も出來ないまゝ消え去つた人は過去の歴史の中で澤山ゐる筈だが、それは損失ではないのか。「ない」と斷定出來る資格を持つた人間がどれだけこの世にあり得ると言ふのだらう。
平成二十年九月二十八日
ブラスレイター最終囘。ひどい板野サーカスで吹いた。
平成二十年九月二十八日
コードギアスR2。豫想通りの決着だが、これ以外にこの話の結末はあり得ない。コードギアスはサンライズのTVアニメーションで初めて面白いと思つた。可なりメロドラマ的だが現代では不可能に近い悲劇なるものを一往實現して見せたのは高く評價できる。
まあシェイクスピアならもつといい死に方用意したんだらうけれども、今の人間にそこまで高い要求をしても無理だらうし。

平成二十年九月二十七日
アンチとは、自分の解釋は常に絶對の眞實であり、相手の釋明は常に「逃げ」であると、何の根據もなしに心から信じる事の出來る、天才と紙一重の人間の事である。
平成二十年九月二十七日
喜六郎も、「ブログ」なんかでお山の大將になつてゐないで、新聞記者にでもなつて思ふ存分、氣に入らない世の中の事だの人だのを叩きまくつたら何うだらうか。喜六郎の才能なら、そのくらゐ簡單に出來るんだらう。
平成二十年九月二十七日
「ブログ」やら「ウェブ日記」やらも「修養」とせずにはゐられない日本人の貧しさ。
平成二十年九月二十七日
マクセルの台湾製のDVD-Rが外れロットだつたらしくてまともに燒けない。十六倍速で燒くとベリファイでNG續出。12倍速だと問題なく燒ける。何なのだらう。
「日本製」のマクセルDVD-Rは、太陽誘電からのOEMで、台湾製の方がまだしも増しらしい。
森メディア
国内一流メーカーで特別に製造された森メディアのオリジナルブランド製品は、製造メーカーの国内製造終了に伴い2008年9月2日で終了いたしました。
森メディアほどでないにしてもそれなりの品質のディスクがあれば良いのだけれども、現時點でDVD-Rはまともなのが一つもない状況。
と言ふか、HDDにしてもデータを保存する「メディア」としては使へない訣だし、デジタルデータを如何にして保持し、後世に遺して行くかは、案外重大な問題になつてゐる。
テキストなんかはウェブにばらまけば何時まででもしつつこく殘つてゐるんだけれどもねえ。
平成二十年九月二十七日
Opera 9.52の不具合。文字列を撰擇すると「ウェブアドレスに移動」のメニューが出るのだけれども、その文字列がアンカーになつてゐるとメニューが出ない。Opeara 8だとちやんと出たのだから、仕樣變更したのかも知らんが、それなら改惡。
Opera 9.52を一往常用してゐるけれども、動作が重くなつてゐるは、操作性が惡くなつてゐるは、8に比べて良いところが全然ない。何でこんな代物をOperaの開發者は「いい」と言つてリリースして來るのだらう。良いところはただ一つ、*.mhtでの保存が異樣に速い事だけだ。
平成二十年九月二十七日
デジカメのメーカも、畫質やら何やらを向上させるのには熱心だが、データを長期に亙つて保存する事には全然關心がない。
平成二十年九月二十七日
SEOだけで満足できない人のためのmetaタグ情報まとめ (前編) 「http-equiv編」 | WebとPCのメモ帳
SEOだけで満足できない人のためのmetaタグ情報まとめ (後編) | WebとPCのメモ帳
metaは書かなければ書かないで仕樣上別に問題ないと云ふ事もあつて、最近俺は削る方向で作業してゐる。大量に文章があるとヘッダの使ひまはしをしてゐるうちに別の文書用の記述を殘してしまつて、變な記述をした文書が出來てしまふ事がある。間違ひを書くくらゐなら書かない方が増し。
平成二十年九月二十七日
中山国土交通相の發言を支持する人も多いだらうに、マスコミその他は「失言」と云ふ事で「叩け」と云ふ方向に話が固まつてしまつてゐる。
日教組のやうな組織の問題、或は教育の問題、さう云ふ抽象的な問題を云々するより、大臣の首を何うすると言つた話の方が、多くの人にとつて面白いからだ。人は輕薄だから、面白い事は一生懸命やる。具體的な・特定の個人の地位、特に偉い人・有名人の地位を剥奪するやうな「言論」を、日本人に限らず、人間は大變好む。
政治家としてやつて行くには、無難で無意味な事を言ふに限る。そして、敵の「失策」を採上げて、問題にしてゐればいい。結果として政治が何うならうが氣にしなければ、政治家は偉くなれるし、選擧民からの評判も良くなる。
平成二十年九月二十七日
まじかんと雑記: またもや Another HTML-lint の話

確かに、いい加減 Another HTML-lint に代わる新たな HTML-lint の出現が望まれる。というか、Another HTML-lint と名乗っているくせに他の HTML-lint を全然見かけないのはどういうことなの。

もともとjweblintの代りに作られたからAnotherだつたんだよな。
Another HTML-lint : Introduction
Another HTML-lint
今後の課題のところに、誰か、もっと優れたプログラムを書いてください。とある。「それは課題か?」と云ふ突込みはあんまり意味ないよね。
平成二十年九月二十七日
問題は「貴方が何処に属するか」でなく「貴方のその主張が正しいか」なんですよ、いやそれ以上に貴方失礼な事云ってませんか - 黄色いガードレールの上で
コメント欄。
 2008/09/27 13:01 
左と右の単語を全部逆にしても文意が通りそうだなw
結局はただの感情論。
斯う云ふのを「もつともだ」「すばらしい意見だ」と思ふやうな人が「喜」の言つてゐる事に同調してゐるんだらうなと思つた。
別に「左」と「右」を入換へて文意が通つたからと言つて、書き手としては「左」或は「右」を攻撃するのが意圖ではないんだから、何の問題もないんだよね。なのにこの手のコメントを當り前のやうに書込む人には解らない。「w」と書いてゐるけれども、要はこのコメントを書込んだ人が、やつぱり「感情的」なだけであつて、理窟を言つてゐるやうで理窟になつてゐない――ちつとも論理的でない、と云ふ事。
「喜」なんかも、自分は正しい事を言つてゐる積りなのだらうが、人の言つてゐる事を短絡的に結び附けて「矛盾だ」と言つてゐる訣で、その言葉が發せられた前提とか状況とかを考へてゐないから、比較として不適切な事を比較してゐるだけで、ならば、とても論理的とは言へないんだよ。もちろん、それが解らないから、「矛盾だ」と云ふ非難が、單に發言者個人を非難するだけの目的のものになつてしまつて、より一般的な批判として昇華されない訣だ。
僕等は斯う云ふアレな人々がゐる状況でも依然として正攻法をとらねばならない。ヨーロッパでは、キリスト教の教會なんかが正攻法をえんえん二十世紀の長きに亙つてとり續けてきた傳統があつて、正攻法と云ふ事に人々は信頼を置ける。日本においては、正攻法が通用した事の方が珍しいのであつて、だから人々は正攻法を信じない。ヨーロッパの現代人は、この點、羨むべき實に惠まれた環境にあると俺は思つてゐる。彼等は、正攻法の權威を信頼して、安心して正攻法に反撃できるんだよ。だから反抗と云ふ行爲が常に眞劍勝負になる。日本では正攻法が弱つちいから、正攻法を侮辱する側は大抵怠惰になるし、それで十分通用してしまふ。「義」や「喜」が暴れて氣樂さうな事と言つたら。

平成二十年九月二十六日
さるさる日記 - 龍宮城と現代の落差にビックリ 2008年09月25日

チルドレンの育児放棄どころかチルドレンのことなどスッカリ頭から消えてゐるのだらう

絶対可憐なチルドレンを思ひ浮べた俺は相當終つてゐると思ふ。
アニメは未だに小泉さん出して來るし。
平成二十年九月二十六日
またぞろ「喜」の字が絡んで來て呉れてゐるけれども、彼(?)のは例によつてただの揚げ足取りに過ぎない。だからさう指摘したのだがさうしたら奴さん、反論できなくなつて、何時ものやうに人格攻撃に移行した。
好い加減にして貰ひたい。
平成二十年九月二十六日
どうでもいいけど、俺の事だけを「批評」して――批評ならいいけれども、ただひたすら惡口を言つて、人格攻撃を繰返して、それで「ブログ」を「やつてゐる」なんて、何なんだらうね。知的怠惰と言ふものではないか知ら。
俺だけを何年ネタにしてゐるんだよ。俺に依存するのも好い加減にしろ。もつと廣い世界を見ようよ。
平成二十年九月二十六日
どうでもいいけど「知的スノッブ」なんて惡口、ただのバカでも口に出來るんだよな。
平成二十年九月二十六日
チェックツールとしては有用だけど、やっぱ厳しすぎるっていうか、変。 - 黒いほう
デフォルトの設定で100点取る必要はないと思うんだ : 雑記帳 : der Gegenwart
はてなブックマーク - チェックツールとしては有用だけど、やっぱ厳しすぎるっていうか、変。 - 2008-09-21 - 黒いほう
Another HTML-lint の話(半分めも) - カナかな団首領の自転車置き場
Another HTML-lint gateway
http://members.jcom.home.ne.jp/ksmiracle/を檢證したら<INPUT TYPE="RADIO"> の CHECKED は属性名と属性値が同一です。属性名を省略して属性値だけの指定にしましょう。と言はれた。
AHLの缺點つて、仕樣だけではなくてブラウザの動作の事も考慮したやうな結果を出す事。どんどんブラウザもヴァージョンアップされて行くのに、何で一々特定のブラウザの動作を考慮して呉れるんだらう。
AHLに一貫した思想は「ない」。割と場當り的にチェック項目が決められてゐる――と言ふより、AHLが作られた頃は「さう云ふもの」だつた。當時としてはAHLは劃期的だつたと思つてゐる。けれども、AHLも作られて十年が經つて、さすがに思想的な未熟さが目立ち始めた。と言ふより、俺にしてみれば納得の行かない部分が可なりあつて、最近は殆ど使つてゐなかつた。OperaだとめにゅーでW3CのValidatorにHTML文書を投げられるし。
そろそろ新しい檢證つーるが作られてもいいころのやうな氣が。AHLは最う古いよ――歴史的なツールではあるけれども、最うそろそろ世代交代の時期では。今見ると、その邊のスクリプトなんかと違つて、人間臭いところがあつて、それなりに好きではあつたけれども、今となつては、ちよつと、ねえ。
平成二十年九月二十六日
大體「言論の自由と言う奴を疑え」だの「知的スノッブ」だの、如何にも「今時の知識人」つぽい事を言つて見せてゐる時點で駄目だらう。
平成二十年九月二十六日
「知的スノッブ」ならまだいいよ、知的でも何でもないただのスノッブが一番困りものだ。
平成二十年九月二十六日
たかが粘着の癖に偉さうによく言ふ。
と言ふか、粘着だからこそ偉さうな態度をとる、と言ふべきか。
粘着は、虹裏でもさうだが、大體「惡いのは誰某」と他人の所爲にして、批判されても必ず話を逸らす。他人を惡く言つてゐさへすれば自分は免責されると粘着は信じてゐる。それも大抵感情的に(と云ふ事は、何の根據もなく、と云ふ事だ)個人を嫌つてゐるだけに過ぎないのだが、自分のやつてゐるのは正義に基く彈劾だと心から信じてゐたりする。困つたものだが、周圍の人間から何を言はれても粘着は自分が惡いとは認識出來ない。だから粘着はとんでもなくしつこく、空氣は讀まないし、嫌つてゐる相手の發言の意圖もわざと曲解する。粘着は、相手が言つた言葉を、正しく理解しようとしない。必ずその相手にとつて都合が惡くなるやうに解釋する――それは粘着の解釋であつて、一般的な眞實ではないのだが、粘着にとつて自分の解釋は「絶對の眞理」である。
粘着が粘着である事を「惡い」と思はないでゐられるのは、「惡いのは誰某」と云ふ結論が彼の中に最初に存在してしまつてゐるから。その結論を引出す爲に粘着はありとあらゆる理由を故事つける。故事つけである。個人的な解釋である。だが、粘着には自分が解釋してゐると云ふ自覺はない。自分は正しい事を認識してゐるのだと勘違ひしてゐる。粘着は、自分が故事つけをしてゐる自覺がなく、また「故事つけだ」と言つた反論を「責任逃れだ」と極附けて排斥する。それで十分論破した積りになれるのである。本質的に粘着はおめでたい人種だ。
平成二十年九月二十六日
それにしてもよくもまああゝも大量の得體の知れない名無しさんを集めたものだと感心する。一人としてまともな素性の論者がゐないんだぜ。恐ろしい「コミュニティ」もあつたものだ。言ひつ放しの無責任な名無しだけが「喜」を支持してゐる。「類は友を呼ぶ」と言ふしな。
平成二十年九月二十六日
親の顏を見たい。と言ふか、正直「あなたの御子さんは粘着行爲を何年もし續けてゐるんですよ」と云ふ事を「喜」の親に知らせてみたい。「喜」の行爲を「喜」の親は喜ぶだらうか。
――喜ぶのだらう。子も子なら、親も親。子は親を見て育つものだ。親も粘着質で、他人を蔑むのが當り前、自分が一番偉い、と心から信じてゐるやうな、ろくでもない人間だつたのだらう。だからこそ「喜」のやうな子供が出來てしまつて、他人樣に迷惑をかけてゐる訣だ。もちろん、「義」もまた。「義」一族と云ふものがあるのなら、ろくでなしの系統に違ひない。
平成二十年九月二十六日
先づ「逃げ」だと云ふ非難は意味がない。ナイフを突きつけられれば逃げる。當り前だ。さう云ふ時、ナイフを突きつけた側が「お前のは逃げだ」等と言つても意味がない。
正しくない解釋が示された時、正しい解釋を示した――少くとも、さう云ふ意圖で言つてゐたのだと申告してゐるのは當人だ。「そんな意圖はあり得ない」と言ふのなら、粘着はその「あり得ない理由」を提示したらいいのであり、それをしないで「逃げだ」等と言つて「逃げ場を塞がうとする」のは、ただの横着に過ぎない。が、粘着に自分の横着さは自覺できない。粘着は、自分が大變熱心で、大變立派な人間である、と心から信じてゐるから、客觀的に批判されても批判した人間が「自分の見下してゐる人間である」ならばそれだけの理由で「主觀的に非難されたに過ぎない」と「合理化」して、自らを省みる機會を囘避してしまふ。

平成二十年九月二十四日
LinuxとFreeBSD、どつちがいい?

平成二十年九月二十三日
サイト乗っ取り - elderrisの日記
俺なんか「名前乘取り」やられてるし。俺の名前騙つて各地の掲示板を荒らしたり、中傷メールを送り捲つたり。
何と言ふか、頭のをかしい人は最う法律で何うにかするしかないよ。頭がをかしいから道徳とか言つても仕方がない。法律が出來るまでは何も出來ないからウェブは××××の天下。さう云ふ状況だからこそ俺は頑張つてゐる訣だが、だからこそ××××は俺の事が憎くて憎くて堪らないと云ふ事になるらしい。
平成二十年九月二十三日
最後のタブを閉ぢるとFirefoxが終了する - 實驗日記(假)
平成二十年九月二十三日
漫録
RZ3は何うか知らないけれどもRZ2は内藏のUSBハブが結構アレな代物で、たまにチューナが認識されなくなる事があつた。單獨で使用してゐても、外附けHDDの拔差しをすると認識されなくなる事があり(「必ずさうなる」訣ではないから頭にくる)、何度も録畫をミスつた。頭に來てRZ2一臺叩き壞した事がある。
別の機械でRX2EとRZ2を共存させてゐるけれども、こちらのRZ2は問題を起した事が殆どない良い子。外部入力の映像がモノクロになつた事が二囘あるけれども、信號が來てゐない時コンポジット端子とS端子の判定をミスるのが原因、外部チューナの豫約を少し早めにしておく事、と云ふ解決法が壺にあつた。
RZだとハブを内藏してゐないので認識されなくなる事は滅多にないし、割と安定して動作して呉れる氣がする。3次元YC分離の機能がないけれども、S端子からの入力で録畫する分には問題ない。もつぱらAT-Xの録畫に使用中。
平成二十年九月二十三日
割と信用できるのはGV-M2TV/USB2。發賣時、既に「古いチップ使つてゐる割に綺麗」とか言はれてゐた位で、畫質には期待しない方がいいけれども、動作はすこぶる安定してゐた。
GV-MVP/SXは、やつぱり畫質は今一つ、しかも設定を「速度優先」から「畫質優先」にしておかないと非道い事になる、と云ふ癖のあるキャプボ。一往それなりに使へたけれどもソフトウェアエンコードのボードは何うしても限界が。
GV-MVP/RX2Wは、現在メインのPC・無名戰士二號くん改(推定)で使用中。一臺で裏表の二番組を撮れるが、それなりのスペックが必要と云ふ奴。今は大抵の環境が必要スペックを滿たしてゐる筈だが、うちのは古い機械なので推奬環境にすら達してゐない。が、「表」の一番組だけを撮る分にはAMDの古いCPU(1GHz・名前わすれた)でも大丈夫。たまに録畫開始時に負荷をかけてゐると機械にリセットがかかるけれども、ごくたまになので注意してゐれば大丈夫の筈。
アイ・オー・データのキャプボでも、信用できるものは信用できるので一往。と言ふか、キャプボの方は問題なくても、外部のチューナに問題がある事がうちでは多い。録畫豫約を間違へるとか(人的ミス)。あとはアンテナ。受信環境は豫め整備しておくべきで、非道い受信状態でうまく録畫が出來ないと云ふのはキャプボに文句を言つたら可哀想。うちの場合、可哀想な事にキャプチャユニット數臺とテレビ一臺破壞してやつと判つたので、ほかの人は豫め氣を附けて下さい。しかしTH-15LD70の動作の遲さはちよつと度を越してゐる。
平成二十年九月二十三日
あと、内藏されたUSBハブだかコントローラだかの「癖」でチューナがPCから認識され辛くなつてゐるGV-MVP/RZ2を使つてゐる場合、mAgicマネージャの「その他」タブで「デバイスの自動検出を行わない」にチェックを入れるのが基本。
チェックを外しておく(デフォルト)と、デバイス(RZ2)が認識されない場合、mAgicTVが勝手に豫約を消して呉れる。チェックを入れると、RZ2が認識されてゐなくても取敢ず豫約を殘しておいて呉れるので、五十件くらゐ入れた豫約が全部消えて泣くなんて事態を避けられる。
平成二十年九月二十三日
ところのジャンク屋 電気・通信・分解
平成二十年九月二十三日
闇黒日記の最新更新箇所を見つける - 徒書
ちよつと書き方變へたので修正よろ。
平成二十年九月二十三日
本當に大事な事は書かないんだよ……。
Wikipediaなんかは專門家が絶對書込まないから本當に大事な事は書かれない。が、さう云ふ事ではなく、ウェブでは「義」や「喜」のやうな何でも人の言ふ事を馬鹿にし貶める人間がゐるから、本當に大事な事は書く事が出來ない。一種の「自主規制」だが、ただ「馬鹿な事を言はない」(「犯行豫告」の類をしない、等)と云ふ事ではなく、貶められてはならない本當に大事な事を守る爲には貶める事を平氣で言ふ人間がゐる場で言つてはならない、と云ふ事。
俺は言論の自由は大事だと何度も何度も言つて來たが、誰も笑つたり貶めたりしようとしないのでこの種の本當に大事な事を言つても大丈夫と云ふ意味での言論の自由が必要だと言つてゐる。
「噂の真相」邊の連中が言つてゐる低俗な「言論の自由」等は、俺は全く要らないと信じてゐるし、「義」や「喜」のやうな粘着の自由も要らないと思つてゐる。「喜」は、俺が「噂の真相」の連中なんかのと全く同じ意味で「言論の自由」を主張してゐると宣傳してゐるが――何うしてあゝ云ふ嘘附きの××××がこの世に生れて來るのかと俺はこの世に絶望してゐる。
「義」や「喜」――のみならず、あの惡性氏の言ふ事でさへ、平氣で信ずる手合が、嫌な事にこの「闇黒日記」の讀者、或は「野嵜シンパ」の中にも當り前のやうに存在する。惡性氏が「掲示板荒しの野嵜さん」と言つてゐる怪文書を見て、「判斷出來ない」等と平然と口にする「野嵜シンパ」――俺はさう云ふ人が「野嵜の言ふ事を信ずる」と宣言しても絶對信用できないと思つてゐる。
平成二十年九月二十三日
未だに"Web Log"略して「ブログ」と云ふ言葉に違和感を持ち續けてゐる。
logは、丸太とかの意味でないならば、「航海日誌」の類、船や車で旅をしてゐる間の記録で、diaryではない。が、では「日誌」と「日記」の違ひは、と考へても――少くとも英和辞典は役に立たない。この邊、ぐぐつても、大體の解説サイトが大した解説を載せてゐない。最う記號として「weblog」或は「ブログ」なるものが存在してしまつてゐる、と云ふ前提の下で、機能面から説明して、わかつたやうなわからないやうな事になつてゐる。
そもそも「ブログ」と云ふのは、日本人がよくやつてゐた「ウェブ日記」が海の向うではメジャーでなくて、なのにそれが突然目立つ事件があつたから、飽くまで向かうの連中の間で「あつた」と認識されたものだ。實は「ウェブ日記」も「ブログ」も、もともと違ひはない。ただ、發達の過程で、日本の「日記システム」が「制作者が投稿する仕組」を發達させたのに對し、あつちの「ブログ」が「コメントする仕組」を發達させたのが、日本人にとつて「目から鱗」の大發見に見えた――そして「ウェブ2.0」と云ふ言葉で、古臭い「インタラクティヴ」の概念が再生されたのと連動して、妙に目立つ事になつて日本で「ブログ」なる言葉が大流行したそれだけの事にすぎない。「日記CGI」も「ブログツール」も結局のところ「廣い意味でのCMS」に入る訣で、ただ、「ブログツール」の幾つかが海外でCMSのツールとして高く評價されたから「これからはブログの時代だ!」と海外で思はれるやうになり、海外信仰の篤い日本にもさう云ふ思想が上陸した、と、さう云ふ事だ。
が、さうなると、ますます「ブログ」と云ふ言葉の怪しさが際立つ。殊に日本では、海外の本來の意味から離れて、「ブログ」の概念が極めて特殊な狹い意味のものに限定されてしまつてゐる。もちろん、そのやうに斷定してしまふのも、俺自身あつちの「ブログ」もこつちの「ブログ」もよくしらない訣で、危險なのだらうが、にもかかはらず過去の日本人の歐米思想受容の歴史を鑑みるに、今の「ブログ」についても同じやうな類推が可能のやうに思へてしまふ。
と言ふかさ、なんで未だに「ぶ」ログと云ふ、嫌な語感の言葉を、日本人が當り前のやうに使へるのかと。最初に「ぶ」がつくんだぜ、「ぶ」。嫌な言葉だと直感的に思はないか。少くとも恰好いい言葉ではないだらう。なのに普通に「ブログ」なんて言つて、誰も恥かしがらない。
最近の日本人のセンスは異常だ。
俺なんか、小馬鹿にしながらでなければ、「ブログ」だの「2.0」だのと言へない。「闇黒日記2.0」なんか、最うげらげら笑ひながら、我ながら下らねえタイトルをつけたなーと思ひつゝ、つけた。さうしたら、これが「ふざけたタイトル」だと誰一人解らない。解らないで「野嵜サンは、ブログを馬鹿にしてゐた筈なのに、なんとブログを使つてゐる!」などと、大眞面目に言ふ人が出て來る始末。「使ふ」となるとすぐ「大眞面目に使ふ」事になつてしまふのだからをかしい。俺のサイトを讀む人は、福田さんの本を讀めよ、讀んで理解しろよ、福田さんは「演戲する」と云ふ事を、何度も言つただらう。もつとも、福田さんの本を讀んでも、馬鹿みたいに眞面目な人には解らないのだらう。「喜」なんかは永遠にわからないだらうと思ふ。あれくらゐ糞眞面目で融通のきかない馬鹿も珍しい――と言ひたいが、あゝ云ふ場かは何うもウェブに限らず日本には矢鱈めつたら存在するやうなのだ。
「ブログ」なんかも、日本人は眞面目に受取り過ぎてゐる。ジャーゴンだから――と言ふ人もゐるけれども,ジャーゴンならば不眞面目な言葉だと理解したら良いだらう。なんでいまだにブログブログ言へるんだらう。好い加減すたれてもいい頃と思ふのだが。

平成二十年九月二十二日
今よりちょっとだけクオリティを上げるために。|CSS HappyLife
うちなんかISO-HTMLだからどのぺーじもみんな同じと思つてゐる人もゐるかも知れないけれども、HTML文書適當に書いてゐるから構成が全部違ふ。デザインを意識したサイトならそれなりにどのぺーじも同じやうにマーク附けとか文書の構成とかするんだらうけれども、白背景に黒字の詰らない見た目のうちなんかだと好い加減でもデザイン的に氣にならないから統一が出來てゐない状態になる。良くないのだと思ふが、十年も蓄積してしまふと直すのは無理。物理的に無理ではないけれども氣力が。
class使ふ頻度はどんどん減つてる。無ければ無いで困らないとなると、書かないで濟ませる事も屡々。既存の文書で使つてゐるところがあるけれども、同じやうな記述も最近はclassなしで濟ませるやうに。リンクのところだけclassで見た目變へてゐたけれども、さうしなければならない必然的な理由もない訣だし。
あと、「classだのidだのを使はない」事それ自體よりも、さう云ふ事を「したくない」とか思ふ精神の方が問題だつたりする。「面倒」と思ふやうになつたら、それは最うサイト更新のモチベーションを失つてゐたり、氣力をなくしてゐたりする證據。ま、がんがんデザインを變へる人ほどがんがんHTML文書を増やしてサイトを豐かにしてゐると、單純に言切れないのも事實ではあるけれども。
平成二十年九月二十二日
a Japan:Wind Report - AOLダイアリー
なんかややこしい事を言つてゐるけれども、要するに「麻生氏の價値觀を平野氏は疑つてゐる」と云ふ事。ならさう言へば良いのに。
もつとも平野氏、「いやさうではない、俺は純粹に客觀的に『眞意』を知りたいだけなのだ」とか言ひさうなんだが、人間、客觀的でゐられる事なんて、あり得ないんだよ。麻生氏の價値觀を問題にする平野氏自身の價値觀と云ふものは「ある」んだよ。なら平野氏は自身の價値觀を披瀝してから語るべきだ。自分だけどこか他人とは違ふ平面にゐるかのやうに振舞つて見せるのは、傲慢だ。
俺が昔から他人の態度に苛立つのは、その人が自分の價値觀を故意に隱匿して、恰も客觀的な物の見方しかしないかのやうに振舞つてゐる時だ。價値相對主義と言つてゐる連中、あれなんかは自分が價値を信じてゐないかのやうに振舞つて見せ、それで優越感を持たうとしてゐる。「南京大虐殺」でも、「大虐殺はあつた」と言つてゐる連中が殊さら自分の政治的信條を隱匿して、自分がただ「歴史的な立場」にあるかのやうに振舞ひ、しかし露骨に左翼的な主張を繰返して、右翼的な事を言つてゐる人間の人格を貶めて面白がつてゐたのが氣に入らなかつた。
人が傲慢になるのは、自分が中立の立場である、客觀的な立場である、ただの傍觀者である、ただの通りすがりである、と嘘を吐きつゝ、露骨に主觀的な態度を示す時だ。だからこそ、俺は自分の立場を鮮明にし、自分の主義主張を前面に押出す――が、さう云ふ態度こそ寧ろ公正であるとは福田恆存さんが言つてゐる事だ。
主觀がはつきり表明されてゐるのなら、第三者の人はその人の主張を補正して理解する事が出來る。「自分は客觀的である」と言張つてゐる時、第三者の人はその人の主張を理解する爲に行ふ補正を禁止されてゐるとすら言つて良い。
平成二十年九月二十二日
「義」がまたぞろ惡事を働いてゐるので注意の事。例へばカリビアンコムに勝手に人のアドレスを登録したり、なんてのは別に何うでも良いが、俺の名前を騙つて松原先生公式サイトのウェブマスターに先生を中傷するメールを送つたりしてゐる。足がつかないやうゲラゲラ(remote-host:219.127.170.2)からやつてゐるが、七鍵氏もあきれてゐる。
當然の事ながら、「義」が俺の名を騙つたところで、俺は一切無關係であり、一切責任をとれない。被害者の方は、俺のところに尻を持ち込まないで下さい。俺も被害者です。
具體的に被害の生じた方は、俺の名を騙つてゐる人物――通稱「義」――を相手に訴訟を起して下さい。俺も被害者の一人であり、要請があれば嫌がらせをされた證據を提出する事は可能です。
平成二十年九月二十二日
粘着のアンチくらゐタチの惡いものはない、と云ふのは、虹裏でも良く知られてゐるけれども、案外多くの人がその性質の惡さを理解してゐない。「粘着される方が惡い」等と本氣で信じてゐる人すらゐる。粘着はするよりされる方が道徳的に遙かに増しだし、いくら嫌がらせをされても俺は最う默る積りもないが、しかし今、此處を見てゐる閲覽者の方々には「粘着のやうな嫌がらせで他人を潰さうとする行爲」を憎む正義感を持つていただきたい。正義に對して日本人は酷い不感症なのだが、日本では「正義對惡」の強烈な對立が存在しない。それは大變良くない事だと俺は思ふ。
平成二十年九月二十二日
と言ふか、粘着行爲で俺をウェブから追出さうとしてゐる時點で「義」その他の「アンチ野嵜」の連中の負けは確定。以前から「追出し=勝利」だと俺は言つてゐるんだから。
平成二十年九月二十二日
と言ふかウェブ上で粘着されても別に何ともないし。どうせ俺の名前でぐぐるとアレクセイの中傷文書が一番に出て來るんだから、今さら名前を騙られてもダメヂにはならない。「義」は多分「野嵜は掲示板荒し」と云ふ「事實」を捏造しようとしてゐるのだけれども、それが捏造だと知られればアレクセイの文書も怪しく思はれるやうになるだけだし。
平成二十年九月二十二日
何と言ふか、俺は仕返ししてやつてゐるんだ、とか本氣になつて思つてゐる人が粘着には多いやうな氣がする。ウェブで何をやつても意味ないのに。
俺は普通に其の邊でも神保町でも歩ける訣で、なら「義」のやつてゐる行爲は無意味だ。身邊に危害が及ぶ危險は全くないし、「ある」と云ふなら警察に何とかして貰ふだけの話。「義」も「喜」も警察の御世話にはなりたくないから狡猾に立ち囘つてゐる。しかし、狡猾に立ちまはれば立ちまはるほど、俺の身は安全なまゝだつたりする。
「義」にしても某「喜」にしても、餘りに假想世界にのめりこんで、現實と區別がつかなくなつてしまつてゐるのでないか。少し冷靜にならうよ。何で俺なんかの爲に一々インターネット喫茶に金拂はなければならんの。あと時間も無駄に使つてゐる訣だし。
俺なんかの爲に眞劍になつて呉れて或意味感謝しなければならないやうな氣すら。一般の人より「義」や「喜」の方が遙かに熱心に「ここ」見て呉れてゐるよね。
平成二十年九月二十二日
どうでもいいけど「闇黒日記」でぐぐつた時の「他のキーワード」はひどいと思ふ。
平成二十年九月二十二日
田村書店の無料箱。何處かのをぢさんがいつぱい鞄に詰込んで、さらに天皇の世紀だか何だかを物色してゐたのだけれども、ラムの『エリア随筆』(平田禿木譯・新潮文庫)の上下卷揃をなぜか無視してゐたので、悠々とげっとして來た。
平成二十年九月二十二日
かのこん十一卷が發賣。七卷まで讀み進めた。えろいらのべは眞面目なラノベよりもいろいろ凝つてゐる事が案外多い。シリアスな内容は、シリアスに語るよりは、笑ひを含んだ語り方をすべきであるとは、あの山本夏彦が言つた事だ。さう云ふ事。電車の中で讀むとどきどきするよ。
平成二十年九月二十二日
『正論』十月号感想、松原正篇 - あび卯月☆ぶろぐ

いつも切れ味鋭い松原先生のこと、どんな内容だろうと思い勇んで読んでみたが、どうも煮えきらぬ気持ちだけが残った。

というのも、西尾氏の危惧は平たくいうと「皇太子夫妻は将来、天皇・皇后として皇室の伝統を背負ってゆく覚悟が出来ているのか?」ということであり、天皇としての自覚のない皇族が皇位につけば、国民は皇室を見離し、最悪の場合「天皇制」の廃止に繋がりかねない、というものだ。

これに対して松原氏は明確な回答なり反論を提示せず、「日本人が日本人である限り、「天皇制」を止めてしまふやうな事態には決してならない」とか「日本が日本である限り「天皇制」は決してなくならない」など、根拠の無い断言が目立った。

正直俺も「いつもの切れ味」はないと感じた。最う御歳だから仕方がない。
松原先生は「西尾は國民が皇室を信じなくなる事を危惧して見せてゐるが、西尾自身皇室を信じてゐないではないか」――西尾の「危惧」は嘘だ――と指摘した。俺はさう理解してゐる。
實際のところ、松原先生、西尾幹二、そして俺は、世代が違ふから、それぞれの間で感覺が全然違ふ。確かに、西尾氏の危惧も一種、根拠の無い部分があり、杞憂とみる向きもあるだろうが、皇太子夫妻に対して疑念なり、疑問を抱いている国民が増えていることは事実だ。と云ふのは「嘘」だと俺は思ふ。そもそも皇室にどれだけの國民が關心を抱いてゐるだらうか。俺は果たして多くの国民から尊敬を受けない天皇は天皇たりうるのだろうか。 と云ふ「疑問」を疑問として實感しないし、私は今ひとつ、楽天的になり得ないでいる。と云ふ事も實感しない。關心があるならばまだしも増しなのであり、「關心すらない」と云ふ人は、俺なんかもさうだが、今の日本人の若い世代には増えてゐる筈だ。さう云ふ世代の人間が「皇室に對する疑問」を抱き得るとしたら、それは「抱かされた疑問」であり、本心からのものではない。そして、さう云ふ状況をこそ、松原先生は心配してをられるのだが、――。「保守」の世界にどつぷり漬かつた西尾は、世間のこの状況を認識してゐるのか何うか。西尾は、天皇がゐなくなつても日本は存在し續ける、と信じてゐる。それに松原先生は異議を唱へてゐる――天皇がゐなくなつたら最う日本は日本ではない――のだが、――。
そもそも問題は何なのか。「天皇を戴き續けて日本人は日本人としてやつて行くのか」「天皇を失つて日本人は日本人以外の何物かになるのか」――西尾に天皇の問題は、あれか、これか、の問題だと認識出來てゐない。それが松原先生には苛立たしかつた筈。
平成二十年九月二十二日
粗忽亭日乘: 京都の日本料理店、ミシュラン掲載を拒否
ミシュランガイドくらゐなら別に何うでも良い話。
今や「現代」は世界を覆ひつゝあるのであり、「世界標準は世界標準」と言つて見ても「世界標準」の文化を我々日本人は受容れつゝある。と言ふより、明治以來、我々は歐米の文化が「世界標準」になると判斷して積極的に採入れる方針をとつた。長い目で見れば、拒絶しようが何うしようが、歐米の文化は日本に入り込んだ筈だし、かの大東亞戰爭の時ですら、歐米を相手に我々は歐米から學んだ武器を手に取つて戰ひを挑まざるを得なかつた。ゼロ戰だつてプロペラはアメリカのメーカからのライセンス品だし、照準機はドイツから輸入した飛行機に附いて來たもの(ドイツでは既に舊式化してゐた)をコピーして取附けたものだ。
もちろん、我々日本人にヨーロッパの連中の文化を理解する事は困難で、漢詩の方がまだしもよく理解できるものだつたりする。高島氏のやうに漢詩の理解困難と強調するのは、程度の違ひを滅却して、日本と支那の違ひを日本と歐米の違ひと同じであるかのやうに見せかけるものだから、有害だと俺は思つてゐる。「全面的に理解出來る」等と思つて良いものではないが、ヴェルレエヌやランボオ或はT.S.エリオットよりは漢詩の方がずつとよくわかる(情感とか、だ)。が、「わかる」か否かと云ふ事實の認定は問題か。理解が困難である異文化のものを我々は受容れ――と言ふより積極的に採入れようと、明治時代に決めたし、現にしつゝある。この時、「わからうとすべきである」か否か、こそが重要な問題となる。
ミシュランガイドくらゐなら、と言つたのも、料理屋の親爺が意地を張つたところで別に大した事ではないが、國民全體の態度として日本人が今さら歐米の文化を拒絶する事が出來ると本氣で信じたら――否、そんな事、誰も本氣で信じられる訣がないので、なのに、そもそも「そんな事が出來る」と云ふ大前提で話をする人が日本人には案外多い、と云ふのが問題だと俺は思ふのだ。平野氏ならば「定義の問題」と話を相對化するだらうけれども、實際、日本人が歐米の文化を受容れ可能か、と云ふ設問については、定義次第で何とでも言ひやうはある。が、さうやつて「哲學的な議論」をしてゐても意味はないので、日本人がかつての日本人と大きく異つた生き方をしてしまつてゐるのは事實だ、それを認める事は必要だと思ふ。今の日本人は既に無理をしてゐるんだよ。けれども、「無理するな」とは最う言つてもしやうがないのだし、また、幾らかでも樂をしようとしてもそれこそ無理なので、まあ、いろいろと取返しがつかない事になつてゐる事實を認めようよ。俺の議論だから解決法は出てこないが説得力皆無なのは百も承知。寧ろ簡單な解決策があるかのやうに言ふ人こそ詐欺師なのだから。
平成二十年九月二十二日
追記。『東洋の歴史 11中国のめざめ』(人物往来社)も田村の無料箱で拾つた。宮崎市定の執筆。月報に宮崎氏が寄稿した文章「概説と同時代史」も滅法面白い。宮崎氏の歴史學に文句を言ふ人は決つて氏の學問の「概説」的なるところに文句を附ける。ところが、氏にしてみれば、「概説」にしろ何にしろ文章ならば面白く讀ませねばならないし、面白く讀ませる爲には筆者の關心・問題意識と主張が必要となる――さう云ふ訣で氏は單なる事實の羅列・事實の提示に留まらず、價値觀に基いた事實の再構成を目指す。そこが「主觀的」で偏つてゐる、と云ふ批判を受ける理由になるのだらうが、けれども歴史と云ふのは人間の目と腦を通して行はれた事實の再構成にほかならない。宮崎氏の場合、價値觀に基いた事實の選別・選擇と再構成は意圖的に行はれてゐるし、根柢にある人間の價値觀の自覺がある。「純客觀的」な歴史研究と云ふものが現在の研究者の間では大人氣だが、しかし「自分は客觀的である」と云ふ思ひ込みには落し穴がある。既に何度も述べたから繰返さない。概説を書くということは、どうしてどうして、そんなにらくなことではないのである。宮崎氏は良い文章を書かうとした。その點、評價されていい。

平成二十年九月二十一日
脱げば良いじゃん - うらおめが
外部CSSファイルなら兔も角HTML文書作るのすらめどいとか思ひ始めると更新が止まる。
平成二十年九月二十一日
ソーシャルマークアップとかソーシャルスタイルシートとか。

平成二十年九月二十日
小池百合子さんが自民黨の總裁選に立候補してゐるけれども、何う見ても優位に立つてゐる麻生さん或はその他の候補者の人が當選して總理になつた時、入閣を要請されても拒否すると言つたさうだ。曰「政策の違ひが大きい」云々。
政策が大きく違つてゐても同じ黨にはゐられるが、入閣は出來ないんだと。訣が解らない。
そんなに政策が違ふなら、民主黨に行けば――と思つたが、ところで自民黨と民主黨で政策はそんなに違ふだらうか。
そもそも日本で、政策の違ひは黨派を違へるべき決定的な理由にならない。日本では、單に、人間關係だけが黨派を違へる根據となる。誰某が嫌ひ、と云ふだけの理由で、あつちの黨からこつちの黨に鞍替へする人が澤山ゐる。政策はただ、鞍替へをもつともらしく見せかけるだけの爲に言はれる事に過ぎない。
と言ふより、日本に於て、黨派と云ふのはただ、權力爭ひをする爲に存在する。自民黨と民主黨とは、政策的に何も違はない。今の状況も、自民黨が二つあるやうなものだ。日本では、政治家が、権力を握るだけの爲に、手を結んでゐるのが、結果として黨派になつてゐるに過ぎない。選擧での政策論爭が「ごつこ」遊びの域を出ないのは、政治家の言ふ政策が所詮自分の行動をもつともらしく見せかけるだけの爲のものに過ぎない事を示す。
さう言ふと、俺が日本の政治を馬鹿にして喜んでゐる、とか言つて非難する「アンチ野嵜」(ここでも典型的な日本的黨派性が見られる)が出てくる。が、昔から日本の政治はさうだ。明治時代の政黨の消長を見よ。板垣退助らの自由黨は三年で消滅。大隈重信らの立憲改進黨は、大隈が黨を離れて弱體化する。のちに板垣、大隈は隈板内閣を作るがこの内閣は四箇月で崩潰。この間、立憲自由黨を經て再び自由黨が成立、立憲改進黨改め進歩黨と合同して憲政黨を作つてゐるが、憲政黨と憲政本黨に分裂して隈板内閣崩潰の原因となる。憲政黨は、板垣黨首の下から伊藤博文の下に黨員が移動して立憲政友會となる。この間、政治家の鬪爭は總て権力鬪爭であり、政策論爭よりも黨員・黨首に對する好き嫌ひが黨員の態度を決定した。斯うした「傳統」は戰後の政治に引繼がれてゐる。
平成二十年九月二十日
民主黨と國民新黨もいろいろひどいよな。
平成二十年九月二十日
テレパシー少女・蘭。肱に人面瘡。ピザが伏線だつたんだな。
平成二十年九月二十日
Latest topics > Firefoxの開発者にはUIの設計という事に対するポリシーが欠けている - outsider reflex
Operaでもさうだが制作側の方針が一定しなくてヴァージョンアップするたび使ひ勝手がころころ變ると云ふのは本當に困る。が、WindowsにしてもOfficeにしてもさう云ふ事はざらにあるのであつて、斯うなるとヴァージョンアップと云ふ事それ自體が疑問視されるべきなのではないか。
自動車なんかでもただ單にユーザの興味を惹きつけ續ける爲に計劃的なアップデートが行はれて來た。家電製品でも意味のない仕樣變更がしよつちゆう行はれ、いらない機能が附け足されてもともとの製品の性格を歪めてしまふ事態は屡々生ずる。
そして、かう云ふ事には長い間批判が繰返し行はれてきたのである。未だに改善される氣配はない。
HTMLの仕樣でも、「需要」に應じて、と云ふ名目で、ごてごてと「機能」が盛込まれる傾向がある。
平成二十年九月二十日
AT-Xでかのこんアニメがまた始まつたので今さらながら觀た。既にあちこちでいろいろ言はれてゐるけれども、主人公が能登なのはスタッフ解り過ぎてゐると思ふ。

平成二十年九月十九日
階段で轉んだ。
平成二十年九月十九日
AT-Xで最近やつたおいら宇宙の探鉱夫を觀た。拔群に面白いのに二話で未完。殘念な思ひをした。
http://www.on.rim.or.jp/~scirocco/
かつて存在した探鉱夫專門サイトだが何年も前に死亡。観たい人はInternet Archiveで見るやうに。畫像の大半が消えてゐると云ふか權利的な理由で消されてゐるつぽい。テキストのみ殘つてゐる状況。
平成二十年九月十九日
富士見ファンタジア文庫今月の新刊發賣。あにめと全然違ふ原作版ご愁傷さま二ノ宮くん第十卷。あと生徒会の番外篇とか。

平成二十年九月十八日
直書きライクな、HTML+CSSコーディング。 | kimihiko Tech
よくわからんがブログの世界も大變だな。特にソース。人のサイトのソース久しぶりに眺めて樂しんだ。
と言ふか。
これはひどい、いやひどすぎる : 雑記帳 : der Gegenwart
これはひどい、(ry の続き : 雑記帳 : der Gegenwart
der Gegenwartも、過去記事へのアクセスの仕方が判りにくいと言ふかメニューがあると氣附き難いとかいろいろ問題あるやうな。
平成二十年九月十八日
“世界初”トリプルエンジン搭載 TraceMonkey採用の「Lunascape 5.0α」 - ITmedia Biz.ID
Lunascape 5.0α - 實驗日記(假)
「レンダリングエンジンを搭載した」と言ふけれども、「タブブラウザ」なんか既成のエンジンにガワかぶせただけだろ。LunascapeもSleipnirもIEのガワだよ。
SafariにしてもGoogle ChromeにしてもKHTMLだし。
平成二十年九月十八日
http://try.swift.ws/

Swift is now dead. I haven't worked on it in months and really just don't want to anymore.

Wikipediaの「飜譯」が非道くて吹いた。翻訳サイトによる直訳:スウィフトは、現在死んでいます。私は数か月でそれに取り組みませんでした、そして、本当にちょっと、もう必要としないでください。なんで機械飜譯に頼るんだらう。しかも誰も直さうともしない。やつぱりWikipediaはダメだよ。Swiftは最う死んでゐます。私は何箇月も何もやつてゐませんし、これ以上最うやりたくないんです。

平成二十年九月十七日
私が探すと見附からない。
と言ふか二週間前まで目の前に置いてゐたものが、大整理の最中にしまひこんだら二度と出てこなくなるつて何だよ。
平成二十年九月十七日
目の前で機材新調するのに六十萬圓必要と云ふ見積りが出るのを見てゐた。
俺のものではない。
平成二十年九月十七日
かのこん三册めまで到達。
平成二十年九月十七日
らきすた六卷やつと買つて來た。
平成二十年九月十七日
最近のカレンダーには西暦何年は書かれてあつても平成何年は書かれてない。いろいろ都合があるんだとか云ふ話だが。
カレンダー業者の間に競爭はないから、どこまで「機能」を盛込むかで競つたりはしなくていいらしい。カレンダーが進歩しないのも當然。
平成二十年九月十七日
平成何年何月何日(何には具體的な數字を入れてね)でぐぐると闇黒日記がとっぷで出て來る。一時期出て來なくなつたが最近はまたちやんと出て來る。
平成二十年九月十七日
セキレイ @ TOKYO MX。見事に終つてゐない最終囘。2期は原作のストックがないんで多分無理とか。取敢ず見てゐる間は樂しかつた。

平成二十年九月十五日
Opera 9つてキーボードとかマウスとかからの入力への反應、にぶくない?
WindowsXP自體もにぶいけれども、Opera 8に比べても9の應答は遲い。
平成二十年九月十五日
ごみ捨て場にごみを捨てようとしたら、もの凄い勢いで止められた : akiyan.com
JTなんだから仕方がない。
JTは、社員が勤務時間中にYahoo!掲示板で煽つたり、人に粘着したりしてゐる會社だ。良い事をしてゐるやうに見せかけても、中の人間の底意地の惡い事はすぐにわかる。もとは専売公社と言つて、社員と言つても官僚みたいなものだ。
平成二十年九月十五日
tvkでS・A最終囘。駄目なところは多かつたけれどもつつこみどころも含めて愛すべきB級あにめ。
平成二十年九月十五日
BOOK OFFでひろつてきたかのこんを讀んでみた。なんかいろいろなつかしい雰圍氣。AT-Xでまたやるから見てみようと思ふ。あにめもエロいらしいし。
平成二十年九月十五日
なんかまた贋物(物で十分だ)氏が暴れてゐるらしい。
平成二十年九月十五日
連休中ずつと虹裏見てゐた。わけわからん人が増えて管理には苦勞してゐるみたい。管理人さんには同情する。
平成二十年九月十五日
あにめ化はいいけどぐぐつても原作の感想出てこなくなるのが困る。

平成二十年九月十三日
http://d.hatena.ne.jp/smallball/20080913

わたしは殺されるのは嫌だし手を怪我するのも嫌だろう . 人を殺して罰せられるのも嫌だ . わたしは“何故迷惑を掛けてはいけないのか”に答える事は出来ないが , “God がお決めになられた”よりずっとマシだと思う . これは“水からの伝言”を問題視するのと同じ理由だ .

答へる事が出來ないなら理窟ではないし、増しかどうかを判斷した基準は論理的でも何でもない、ただの感情論でしかない。飽くまで「わたし」の主張に過ぎないんだよ。個人的な餘りに個人的な主張であつて、それが通るのは、個人主義と云ふものが西歐から齎され、日本で「一般化」してゐるから。
ところで僕の言つてゐる事は、山口氏には全く説得的でないやうに見える筈だ。當然の話で、僕自身、Godの存在を信じてゐない。僕は日本人だからだ。Godよりは八百万の神々の方がまだしも存在感を覺えられる。そんな僕がなぜ西歐のGodを――と言ふより、キリスト教を擁護して見せるのか。

それどころか科学者が神様の存在を疑問視して罰せられたってケースもある . こういう“踏み込んではいけない領域”を作る姿勢は大嫌いだ .

結果として、さう云ふ「領域」の存在した西歐でのみ近代科學が生じ、キリスト教に限らない、非合理的な宗教・思想を否定する思想、そして技術が成立した。この事實が僕には大變興味深い。その種の「縛り」がなかつたのは、西歐以外になら「あつた」筈だが、西歐以外の何處でも産業革命は生じなかつたし、合理主義に基いた個人の解放もなかつた。
僕は歴史的な事實を言つてゐるんだよ。觀念的に反對なんてしても仕方がない。

“右の頬を打たれたら , 左の頬を差し出せ”――冗談じゃない .

その通り、冗談ではない、と云ふのが人間なら當り前の感覺だ。が、その當り前の感覺だけを肯定して來た日本人と、人間の當り前の感覺を否定する價値觀の存在を常に意識して來た西歐人と、何處か異る部分があつても不思議ではない。

“日本”と“西洋”を対比させるって凄く愚かしくないか .

愚かしいんだよ。だが、日本人と西歐の連中とを同一視するよりずっとマシだと思ふんだよ。あつちの連中が自前で育て上げた文明を僕等日本人は貰つて生きてゐる。だから僕等の今の文明はものまねの文明なのだけれども、それを僕等が自前のものと思ひ込んでしまつたら、それは思ひ上りだ。實際、僕等の文明は、僕等の生き方に、微妙な部分で歪みを生じてゐる。それを僕等は意識しようとしないし、僕みたいに「意識すべきだ」と言ふと非難される訣だが、自分のをかしなところに目を瞑るつてそれこそ凄く愚かしくないか。
僕はキリスト教抜きのキリスト教文明なんて不自然だと思つてゐるが、その不自然な日本にキリスト教を移入しようなんて思つてはゐないし、そんな事は出來ないと思つてゐる。自分自身、キリスト教を信じてゐないし、日本人にキリスト教を信じさせようとも思つてゐない。が、だからと言つて、現在、キリスト教を信じてゐる連中がこの世に存在する事は疑へないし、さう云ふ連中が世界を支配してゐる事を僕は事實として認めざるを得ない。さう云ふ今の状況を見る限り、僕等日本人がキリスト教をカルトなんかと一緒にして無視してかかり、或は馬鹿にしてかかるのは、それこそ愚かだし、または思ひ上りだと思ふ訣だ。
日本人は自分で自前の近代社會を作り上げる前に、先行して成立しつゝあつた西歐の近代社會を見てしまつたんだよ。僕等日本は「後進國」の立場から「先進國」に追附かうとして――で、今となつては追附いてしまつた訣だが、それで僕等はあつちの連中と對等だと思ひ込んで良いのか。政治にしても何にしても、體制だけは立派だが、あつちの連中の精神的強靱さと比べて、僕等の方は何うだらうか。
平成二十年九月十三日
さて。
http://d.hatena.ne.jp/smallball/20080913/p5

どーでもいいけどイスラム教の話って華麗にスルーされる傾向が多いよね .

僕がキリスト教の話を一生懸命し始めると、必ず「じゃ、イスラム教は?」と云ふつつこみが入るんだよね。けれども、斯う云ふ事を言ふ人は、なぜ自分が話を逸らしてゐると云ふ自覺に缺けてゐるのだらう。
先日、ちくま學藝文庫で『囘教概論』が復刊されてゐたよ。戰爭中の本だが、當時、イスラムの世界に深い關心を抱いてゐた人がゐたんだ。部分的に誤はあるが全體としては良く出來てゐて、日本では未だに通用する内容を持つと評されてゐる。さて、この『囘教概論』を書いたのは誰か。大川周明だ。
Amazon.co.jp: 回教概論 (ちくま学芸文庫 オ 17-1): 大川 周明: 本
筑摩書房 回教概論 / 大川 周明 著
回教概論 | 宗教学・特定宗教の教義研究 | 人文科学 | 学問理解おすすめ本 | 日本の大学
ところで僕等日本人にとつて「同じ亞細亞」のイスラームが「近しい」存在に思はれると云ふのは、何うだらうか。岡倉天心が「アジアは一つだ」と言つたが、それは何うも事實でないやうに思はれるのだ。一方で、それを「事實」だと言ふのなら、ユダヤ教・キリスト教もまた、我々日本人と「同じアジア」に生れた宗教だ。
平成二十年九月十三日
Wikipediaでは矢鱈大川周明が好意的に書かれてゐるのだけれども何なのだらう。
イスラームと言へば井筒俊彦、皇國史觀と言へば平泉澄だが、この二人と大川とには關係がある――と云ふ話だが、この事に何か意味なり意義なりを見出すべきだらうか。
平成二十年九月十三日
新小説の對談では「純文學」と「大衆文學」の違ひ、對立、その他の事が語られてゐるのだけれども、我等が福田恆存は「司會」として話を仕切る立場にありながら、前半しか發言してゐないし、しかも數が少い。幾つか拔出してみる。

先程江戸川(亂歩)さんがお話になつたが、はつきりさういふ(純文學と大衆文學の)對立が讀者層にも、又作家の方にも表面に出て來たのは、大正末期の頃でせうが、もつと根本的に言へば、日本の近代文學の出發點で、すでに二葉亭と紅葉との對立があり、それ以後も兩方がずうつと尾を引いてゐる。

その大衆性といふことはかならずしもおもしろさや娯樂性とは關係ありませんね。

漱石などがもてたのは、その道義の主張、乃至は解説で、ごく一般的な日常生活者に如何に生くべきかといふことを教へたからです。「ほとゝぎす」にしても「金色夜叉」にしても、多かれ少かれその手でもてたので、日本の大衆が一番好きなのは、道義ではないかと思ひます。

坂口(安吾)
總て專門の世界には、常に一般性はない。
木々(高太郎)
本當を言ふと、僕はさうではないと思ふ。
江戸川
偉大なる學問には、總て大衆性があると思ふ。世の中を變革する力を持つてゐるやうな學説は結局大衆性を持つわけです。
福田
さういふ問題も日本とヨーロッパとの現實の差をよく考へたうへでなければ、かんたんにはいひきれないでせう。
木々
私はその點に非常に興味を持つてゐる。然し、私はもうこれからは、ヨーロッパの文學も、日本の文學も一緒に考へてゆく事がよくはないかと思つてゐる。そして、この邊で本當のものへみんなで入りこむ時が來てゐるのではないかと思ふ。今迄の發育も意味のあることだつたが、もうお別れの時に來たといつてよいではないか。
福田
私の考へでは、日本はまだそこまでいつてゐないやうな氣がします。暫くまだかういふ状態が續くのではないか。いや、へたすると日本は、いつまでたつても花道で、本舞臺にはつひに足がかからないのかもしれませんね。……
木々
現状を見るとね。……然し打開の意志はなくてはならぬと思ふのですが。――
福田
方向としては、一緒になるべきものと考へますが、今さういふやうに概念的に一緒になるべきだ、といつて一緒になつた錯覺を持つよりも、別れて、それぞれの仕事をした方がよいではないでせうか。
平成二十年九月十三日
「僕」は福田さんの初期の一人稱で、これを使ふと「語る」のに非常に便利なんだが、俺自身「僕」なんて言つた事がないからやめろと言はれるならやめよう。
http://d.hatena.ne.jp/smallball/20080913/p7

確かにキリスト教的な聖域が存在する“西洋”で近代科学が成長し個人の開放を求める運動があったのも事実だが , それはキリスト教が“反面教師”に過ぎないって事だろう .

俺にしてみれば、反面教師にしてもいい仕事をしたとしか思ひやうがない。それに、反面教師になつた場合、大抵、根本的なところで「生徒」と「教師」は似てゐるものだ。キリスト教が近代の西歐の精神・思想・技術・その他に遺した樣々な要素は、斷片的どころではなく、根本的であり、意外な程現代の西歐の連中の本質に食込んでゐる。それを理解すると云ふのは、日本人には困難な事だが、他者を理解するとは、全く異る發想を理解すると云ふ事だらう。自分と似てゐる存在を「理解する」と云ふのは意味がない。
平成二十年九月十三日
http://d.hatena.ne.jp/smallball/20080913/p8

言っとくが俺は日本と西洋を同一視しろとは一言も言ってねえぞ , 単一の国家である“日本”と大雑把なくくりである“西洋”を比較するのが愚かしいと申してるのだ .

「神道の國・日本」と「キリスト教社會・西歐」とは比較出來るよ。國境線はヨーロッパでは大した意味を持たない。現に、キリスト教をよりどころに、ヨーロッパは國家として分斷された歴史を乘越え、共同體としての再生を目指してゐる。トルコのEC加盟が問題になつてゐるのも、結局のところ、トルコがキリスト教社會の外部の國だからだ。單純に經濟的な理由でECが存在するのなら、トルコの加盟が問題になつたりはしない。
「アジアは一つ」と云ふスローガンは事實に反したもので、正しくない。けれども、ヨーロッパは一つなんだよ。そしてヨーロッパ外部に生きてゐる我々日本人が、さう云ふヨーロッパを見て、殊さら地域を分斷して考へる必要はない。我々は外部にゐるから「客觀的に見る」事も出來る。けれども、ヨーロッパの「内部」に生きる人々は、自分の事として主觀的に態度を決めてゐる。其處にはヨーロッパ人の意志があるのであり、意志的な行動については精神の觀點から見るべきだ。彼等ヨーロッパ人がヨーロッパと云ふ世界を統一的に見、その統一の據り所としてキリスト教の存在を認めてゐる。
一方で――では、日本は「単一の国家」と單純に言つてしまつて良いのか。嚴密な峻別主義(?)で行くのならば、日本だつて江戸時代以前は幾つもの國に分れてゐた。さうなると、日本と云ふ「くくり」ですら「大雑把」と言ふ事は出來る事になる。
何れにしても、「現在」の國境線を基準に話をする「嚴密主義」はあり得ない。歴史・時間の觀點を採入れないで、「嚴密な話」をしてゐる積りになる、と云ふのは、感心しない。
平成二十年九月十三日
もつと大雜把に言ふと、ヨーロッパと北米をひつくるめた「歐米」は一つの文明圈として括つてしまつていい。それに對して日本はそれだけで一つの文明圈だ。
もちろん、東北部アジアで括る向きもある、支那、韓國・朝鮮と、日本を一つにひつくるめてもいい。それとヨーロッパを對比させる、それで滿足するなら満足していれば良い。が、それだと話が無駄に擴散するだけだ。俺たちは日本人だから、取敢ず日本を代表させて、それで語つていい。別にChinaやKoreaを絶對的に輕んずる積りはなくて、單に「日本人にとつて」と云ふ文脈から言へば相對的に「日本が一番重要」と云ふ事になるだけだ。
平成二十年九月十三日
俺が大雜把な見方――鳥瞰的な把握をしようとすると、どうして非難が集まるのだらう。それも非道く個別的で斷片的な見方を禮讚し、それこそ嚴密で合理的である、みたいな變な信念を持つた人からの。
病的な峻別主義(?)が日本では餘りにも多いやうな氣がする。意味もなく話を細分化しても仕方がないだらうに。「嚴密」とか言へば自分が立派になつたやうに思へるのかも知れないが。
平成二十年九月十三日
大體「ブログ」だのウェブ日記だので、そんな細かい話をしても意味がない。學界に提出する論文でなら重箱の隅をつつくやうな細かい話をしても認められるだらうが、そんな事をここでする積りは俺にはない。當り前の話で、學者先生がするやうな事を俺がここで眞似たつて「ごっこ遊び」にしかならない。それこそ愚かしい事だらう。それを「やらない」と言つて俺を非難するのは、自分が「ごっこ遊び」をしてゐると云ふ自覺もない人だ。
平成二十年九月十三日
新聞記事や雜誌の記事に「專門性がない」と難癖をつける人はゐない。ところが、「ブログ」だのウェブ日記だのの記事にはさう云ふ難癖をつける人が澤山ゐる。變な話だ。權威主義なんだよみんな。自分自身が權威主義だからこそ、他人も權威を求めてゐるなんて變な極附けを出來てしまふんだ。
平成二十年九月十三日
坂口安吾「FARCEに就て」
平成二十年九月十三日
asahi.com(朝日新聞社):月刊誌 冬の時代 相次ぐ休刊、雑誌の今後は - 出版ニュース - BOOK
asahi.com(朝日新聞社):ネット・携帯におされる雑誌 総合・映画誌…相次ぐ休刊 - 出版ニュース - BOOK
平成二十年九月十三日
出版業界の就職・転職、求人情報サイト 出版ドットコム
誰が何う見てもhttp://www.syuppannavi.com/なるURLは「出版ドットコム」でないのだが。「http://www.出版.com/」は支那のサイトにつながる。

平成二十年九月十二日
ナルシシズムは墮落だよ。それも最惡の。
平成二十年九月十二日
身内が癌になると物書きは早速本にして賣出す。
平成二十年九月十二日
http://d.hatena.ne.jp/smallball/20080912/p1
そりや多いよ。日本人には理解し難いよ。そんなもんが世界を支配するヨーロッパ文明の精神なんだから日本人は困つてゐるんだ。
と言ふか、山口氏も「專門家」の仲間なんだよな。教義に興味があつて、精神には興味がない。
平成二十年九月十二日
CBC NEWS i「土浦8人殺傷、金川被告の2通の手紙」
荒川沖の驛で無差別に人にナイフで切りつけた殺人事件の犯人がTBSに手紙を送つて「罪惡感はない」云々と書いてゐた件。TVで觀てゐたら、「殺人が犯罪といふのはそっちの理窟」だか何だか言つてゐたけれども。これに對してTVの側の人が「子供の理窟」とコメントしてゐた。が、「子供の理窟」式の言ひ方が理窟でない事は、smallballの山口氏なら同意して呉れる筈。その山口氏。
二十時二十九分 - smallball

何故殺人がよくないのかに対するは返答は“犯罪だから”でいいんちゃうの , 仮に法律で守られていなかったらお構い無しに人を殺しても好いと思うよ . だって許可されているンだからな , ただし自分も殺される危険性を忘れずに . 因みにわたしは殺人はしない .

山口氏の場合、わたしは殺人はしない訣だが、金川容疑者の場合には「する」だつたと。
日本人は「殺人をしない理由」を、理窟で説明できない。精々「法律で禁止されてゐるから」「迷惑だから」と言ふ事が出來るだけだ。が、「なぜ法律で禁止されてゐるのか」「なぜ迷惑な事をしてはいけないのか」と聞かれると、ほぼ全ての日本人が鬱陶しさうな目で相手を見て「子供の理窟だ」と言出すだらう。そこで「なら大人の理窟とやらを御聞かせ願ひたい」と言出せば、それこそ××××を見る目で見られる事だらう。が、いづれにせよ、日本人に「説人をしては行けない理由」を説明する事は出來ない。だから金川容疑者のやうな日本人が出て來るのは當り前。殊に現代では、價値の相對化が一般に滲透し、當り前の事とされるやうになつてゐるので、昔から齒止めの效かない人はゐるけれども、さう云ふ自分を正當化して威張つてをかしな事をやらうとする人は現代の日本には増えてゐるものと思はれる。
金川容疑者は「自己愛性人格障害」であると判定されたさうだが、責任能力はあるとされ、起訴された。ナルシストで、自分が一番偉いと思ひ込んでゐる人は、例の惡性の人なんかを思ひ起せばわかつて貰へるものと思ふが、ウェブにいつぱいゐる。さう云ふ人物が、價値相對主義なんかを信じてゐたりすると、自己の正當化の爲に大變強力な武器を持つてゐる事になる。
この種の價値相對主義の怖いところは、道徳における絶對の命令をも相對化するところだ。「人を殺すな」「盜むな」のやうな問答無用の命令を、相對化してしまつたら、人は平氣で非道い事をする。ところで、日本に於ては、實はこの種の道徳における命令と云ふものが、もともと根據薄弱である。現時點では、そもそも價値觀と云ふものに對する自覺が日本人にはない爲に、自己正當化・犯罪行爲の正當化、抑止力の相對化、といつた事が、「武器」として意識的に用ゐられる事が少い。「犯罪だから」「法律で禁止されてゐるから」と云ふ官僚的な發想で、日本人は十分に行動を抑止される。それにしても、斯うした發想を持つ日本人は、官僚を憎惡し、非人間的な法律を憎みつゝ、同時に、官僚を愛し、法律の條文と云ふ味氣無いものを愛してゐるのだが、奇妙な話だ。
クリスチャンの場合、殺人を禁止する理由は簡單だ。Godが禁止したからだ。Godの命令は絶對であり、反論が許されない。
それでも歐米では殺人が横行してゐると言ふけれども、歐米で殺人者は異常者である。コリン・ウィルソンが殺人者に強い關心を抱いてゐるが、結局のところ既成の價値觀に挑戰するアウトサイダーとしての異常者と云ふ認識がある。一方、日本でも一般に殺人者を異常者と看做すけれども、その人物の價値觀に興味を抱くと云ふのはあり得ず、状況の異常さに關心を抱くか、その人の生立ちを知りたがるか、その程度である。
一方で、ドストエフスキーの『罪と罰』で示されてゐるが、キリスト教教徒の殺人は、強烈な悔恨の契機ともなる。日本人の場合にも死刑囚の悔恨があるけれども、彼我の間には大きな違ひがあるやうだ。少くとも、大地に接吻なんて眞似を日本の殺人者がやる事はない。
價値觀を振囘し、觀念・理念を語つて大暴れする口説の徒の殺人鬼を、福田恆存が描かうとしたけれども(「解つてたまるか!」)、必ずしも成功したやうには思はれない。結構浪花節に流れてゐる部分があつて、主人公は日本人的な殺人鬼であるので、あのラストシーンは必ずしも納得の出來るものではない。
平成二十年九月十二日
夕方、薄暗い歩道の眞ん中で、何もないのに蟻が四、五匹集まつてわさわさ何かやつてゐた。人間だつて意味もなく何となく集まつて駄辯る事はあるのでそんなものなんだらう。
平成二十年九月十二日
日本人が自ら獲得した近代的な概念は皆無で、全て外國の眞似だ。今でも日本人は外國の流行を採入れる事に夢中であり、よつて日本人が血肉化した近代的な概念は依然として皆無である。
自由にしても、先進國の流行を採入れたものであり、例へばイギリスで定着してゐるやうに日本に自由は定着してゐない。そして、先進國で自由が疑はれるやうになつたからこそ、日本人も眞似して自由を疑ひ始めた。結果、日本では「自由と言ふ奴は疑はしい」等と知つたやうな口をきいて好い氣になる人物が現れるだけである。自由の先進國では、疑はれながらも依然として自由が效力を發揮してゐる。日本では「疑ふ」と云ふ流行だけが存在し、自由が單に力を失つて――結果として近代以前の野蠻な暴力が猛威を揮つてゐる。
これでは困る。
平成二十年九月十二日
東京古書會館の古書展。買つたもの。
「新文學」昭和二十二年新春號(春陽堂)。江戸川亂歩なんかと一緒に福田恆存が出てゐる對談「新文學樹立のために」掲載。前田氏のリストに載つてゐるし、氏が何か言つてゐたやうな記憶もあるが、なぜか氏が何時の號か具體的に書かなかつたので、探し當てるのに苦勞した。毎度出て來る「新文學」を片つ端から見てゐたのだが、今囘の古書展までこの號だけ出て來なかつたので、なんでないんだと不思議に思つてゐたが、單に出て來なかつただけで全然不思議でも何でもない。
「文學會議1」。何うも持つてゐるやうな氣が今して來た。福田恆存「近代の宿命」掲載。

……。

そればかりではない。イタリアに起つたルネサンスと北歐の宗教改革とを一括して無差別に論ずる俗論に對して、この兩者をことさらに峻別する風潮もあるわけであるが、このさいにも氣になるのは近代ヨーロッパの發想を南歐のルネサンスに見る立場にせよ、あるひはそれを宗教改革に求める立場にせよ、兩者の性格的相違をあまりに峻別しすぎるきらひがあることだ。ぼくは宗教改革こそ近代精神の原動力であると信ずるものであり、南歐のルネサンスが眞にヨーロッパ近代史のうちに織りこまれ、そのうちに文化的遺産として受けとられるためには、宗教改革の精神に先導されねばならなかつたと考へてゐる。それにしても――といふより、それゆゑにこそ、宗教改革とルネサンスと、この二つの事象は當時の歴史的事實として峻別して考へるべきであつても、つぎに來るべき史的展開をとほして一本に統一されていつたといふ點から、のみならずこの二つの劇の主人公はあくまでおなじ中世であつたといふ理由から、やはりひとつ運動として考へるべきである。

「書評」昭和二十二年一月(日本出版協會)。福田恆存が永井荷風著「來訪者」の書評を寄せてゐる。

平成二十年九月十一日
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音樂を形成する要素は音階と律動である。それらはどちらも音樂との場において等しく、對等な立場にあり、それでかつ尚、お互いに獨立した要素である。

七鍵氏は音階と律動が對等だと言つてゐるのだが、言つたそばから律動の重要性だけを強調し、音階の價値を全く認めない。何なのだらう。

あくまでも感覺的な話であり、萬人共通の統一された「音樂の本質」などあらうはずもありません。

誰も現代音樂の起源についての話などしてゐません、私は音樂の本質について話をしてゐるだけであり、起源がどうのとの話をしてゐるわけではない、そのやうなことは今まで一言も申してをりません。

最うかうなると七鍵氏が何を話してゐるのか理解し難い。音樂の本質は、あるのか、ないのか。
七鍵氏が好むのは「自由に演奏された音樂」であり「演奏者が意圖的に行ふ音の搖らぎ」である、さう云ふ事は判る。しかし、それは飽くまで七鍵氏の嗜好だ。趣味だ。個人的な餘りにも個人的な好みの話だ。個別性が個別性の領域に留まる限り、話は本質と關りを持ち得ない。
七鍵氏がクラシック嫌ひである。それは個人の自由だ。僕は他人の嗜好の自由を認める。大いに結構だ。が、嗜好を聲高に叫ぶだけでは、個人主義の領分に立籠つてゐるに過ぎない。僕としては、個人の嗜好を、個人を超えた全體に囘歸せしめたいのだ。その時、文學なり何なりと言つた藝術と云ふ個人的なものが、個人を超えた全體に歸屬する事となる。
クラシックもまた音樂であるし――近代的な音樂であると云ふ點で、注目に價する。僕は指摘したいのだが、クラシックと呼ばれる音樂、チェンバロで演奏されたバッハから、大掛りな樂團によつて演奏されるベートーベンまで(もちろん、それだけに限る必要もないが、當座、思ひ附く人物で代表させたに過ぎない)、西洋の音樂は最高潮に達し、そして以後、一氣に墮落した。と言ふより、既にベートーベンの頃には、墮落が始まつてゐたのだ。モーツァルトは鎮魂曲を書いて死んだ。マタイ受難曲のバッハにしても、全て宗教音樂だ。と言ふより、西洋の傳統的な音樂と言ふのは全てキリスト教的な祈りの音樂である。近代の西洋音楽は、實は中世を引きずつてゐた。そして、中世に訣別し、個人を發見して以來、近代は現代に直結する時代に轉化するのだが、クラシック音樂も浪漫派の音樂に轉化する。そして浪漫派以降の音樂は現代の音樂に直結してゐるし、最早宗教と云ふ「くびき」をはなれた「自由」な音樂であるが、當然の事ながら、自由への傾斜は墮落である。ベートーベンは、最末期の古典派の巨匠であるが、同時に浪漫派的な要素を既に示してゐる。ベートーベンの影響を受けたブラームスは、形式的には古典派的であるが、しかし最早浪漫派の時代の作曲家であつた。浪漫派以降の西洋の音樂に、宗教的な祈りの要素は消え失せる。現代の音樂は、飽くまで個人の音樂となつてゐる。音樂は慥かに普遍的であるが、しかし個人を志向した現代の音樂は、嘗ての西洋の音樂が持つてゐたやうな全體への囘歸の發想を決定的に缺く。
平成二十年九月十一日
……長々と書連ねてみたけれども、僕の音樂に關する知識は高校以來全くと言つていいほど進んでゐない。上の文章も教科書的な記述でしかない。さう云ふ意味では觀念論に過ぎないが、僕としては少くともさう云ふ指針のもとに聽いてみようと云ふ心構へがある。漫然と聽いて心安らぐ氣分になるのも結構だ。それが音樂だと言はれれば反論する氣はない。が、意識的に音樂を鑑賞しようと言ふのなら、何らかの指針は必要だらう。あとは實際の曲に當つて、指針との距離を測る事が必要なだけである。別に現實を指針に合せてねぢまげよなんて、そんな事は言つてゐない。ただ、何も基準がなければ、何も分かりはすまいと、さう僕は信じてゐるだけだ。
平成二十年九月十一日
http://d.hatena.ne.jp/smallball/20080911/p4
別に誰もあんたにありがたがれなんて言つてゐないと思ふけど?
なんか知らんけど、この手の事には反感を抱かねば頭がをかしいとか本氣で思つてゐるかと思ふとちよつと。
平成二十年九月十一日
今の日本人くらゐ「合理主義」に盲ひた國民もゐなくて、殆ど狂信的と言つて良い。
「宗教」と云ふ文字を見ただけで頭にかッと血が上る人が矢鱈澤山ゐる。キリスト教と云へば即座に非合理だし、邪惡だし、何とかして撲滅し、この世からなくさなければならないと考へる。
日本人は、さう云ふ自分の「合理主義」を、全く疑はない。「合理主義」の支配下で安心してゐる。「合理主義」の命ずる價値判斷を何の反省もナシに受容れて、それでゐて自分で物を考へたかのやうに思ひ込んで滿足してしまふ。
誰もが物事を判斷する爲には、價値觀を持つてゐなければならない。或價値觀に基いて、人は判斷を下す。この事を多くの日本人が全く自覺しない。殊に、客觀的な物の見方をしてゐるとか、合理主義的な考へ方をしてゐるとか、自ら以て任じてゐるやうな人に限つて、さうだ。
山口氏のキリスト教に對する非難を、山口氏自身は一體如何なる價値觀に基いてやつてゐるのか。山口氏は自覺してゐない。キリスト教その他全ての宗教を超越した、もつと普遍的で一般的な價値觀か。そんな筈はない。そんなものはないからだ。だとすると、ただ單に、山口氏は、キリスト教ではない別の宗教的價値觀に基づいて、キリスト教を罵つたに過ぎない。が、山口氏にさう云ふ自覺はない。山口氏は、典型的な日本人の一人として、無神論の立場から、合理主義的に、非合理的なキリスト教を、客觀的に否定したのだ、と信じてゐる。が、無神論も、合理主義も、一種の宗教的信念だ。特に、日本人の中に拔き難く存在する一種の唯物主義は、日本人の國民性と直結したもので、一種の日本的宗教と言つて良い。佛教も神社神道も、さうした國民性=國民的信念=國民的宗教の上に被さつて、現象として出現してゐるに過ぎない。内面的に、日本人は「この世が全て」と云ふ「信仰」を抱いてゐる。宣長が死後の世界即黄泉の國の事を語つて、ただただ陰慘で暗い、どうしやうもない世界であると言つてゐるのは、結局のところ、生の世界だけを宣長が信じてゐた事を意味する。が、今に至るまで多くの日本人が宣長と同じ考へを持つてゐる。山口氏にしてもさうだ。俺も例外ではない。死後の世界に何かを期待する事が出來る日本人は、さうさうゐたものではない。大體生延びるであらう人の爲に死ぬのであつて、死後に自らが救はれる事を期待して日本人は死んだりしない。新興宗教にしても世俗の宗教にしても、日本人の場合、大抵現世利益が目的であり、信じたら生きてゐる間に何か良い事がある、とをしへられる。それが嘘だつたと言ふので、高い壺を買はされただの何だのと訴訟が起きる。
平成二十年九月十一日
ドーソンによれば(『近代のジレンマ』)、現在に至るまでにキリスト教も再三變化してゐる。
初期のキリスト教がのちのキリスト教と根本的に異つてゐる事は、D.H.ロレンスの『默示録論』を見ても解る。
過去のキリスト教は、大宗教として、ヨーロッパ人をヨーロッパ人たらしめる役割を果したのみならず、ヨーロッパ文明の危機を何度となく救つて來た。西ローマの時代には分裂した社會を精神的に統合する役割をカトリック教會が擔つた。當時のカトリック教會が、西歐の野蠻化を阻止し、外部の文明から西歐文明を護つた事は、否定出來ない。しかし、近代に至つて、カトリックは現實的な力を失つた。その後、カトリックは改革を行つたが、以前の時代のやうな絶大な力を揮ふ事は出來なくなつた。代つてプロテスタントが力を持つやうになつたが、カルヴァンやルターの思想が資本主義出現の契機となつた事は指摘されてゐる。ピューリタニズムは現在に至るまで資本主義社會の集大成的存在であるアメリカの精神的支柱となつてゐる。が、近代化が完了するに至つて、プロテスタントも新たな社會の危機に立向かふ爲には力の不足を見せるやうになつた。さうした現代のヨーロッパにおいて、キリスト教は何ら力を持たないのか――再び變質が必要であるが、可能である。カトリックこそが再生と變成を經る事によつて、改めて現代の危機に對する力となり得る。ドーソンは指摘してゐる。
當然の事ながら、我々はドーソンの見解に一々從はなければならない義務も何もない。が、かと言つて、單に教義を眺めて、現代人の視點からあゝだ斯うだとケチを附けても始まらないし、さう云ふ物の見方こそ危險である。
平成二十年九月十一日
アンチキリストの立場の文學者としてD.H.ロレンスの名を擧げたが、ロレンスの出た現代のイギリスに歸化し、プロテスタントからカトリックに囘歸したアメリカ出身の文學者にT.S.エリオットがゐる。戰後直後にノーベル賞を貰つてからは殆ど活躍しなかつたが、傳統主義者・古典主義者として有名で――政治的な主張は全く何も言はなかつたが、藝術に對してははつきり保守主義の立場をとつた。
評論「伝統と個人の才能」で、エリオットは、個人の藝術に及ぼす傳統の力の極めて強力である事を述べ、良い藝術は個人的な才能によつて生れるが、その才能は常に先人の示した才能と同じものであると指摘してゐる。
エリオットが世間に知られるやうになつたのは、詩の爲であるが、英國の現代詩はこのエリオットによつて創始されたと言つて良い。現代の危機を歌つたエリオットの難解極まる詩が當時の詩壇に與へた衝撃は大きく、エリオットの影響下、イギリスでは詩の變革が成し遂げられた。そのエリオットは、現代における數々の危機を歌ふ中で、現代人の失ひつゝあるもの=傳統の存在を強く意識し、ヨーロッパの傳統とは即キリスト教の傳統であると自覺するに至つた。結果、もともとアメリカ人であつたエリオットはイギリスに歸化し、プロテスタントからカトリックに改宗するのだが、さうした中で詩から詩劇に轉向し、『寺院の殺人』を經て『カクテル・パーティ』で最高潮に達する。この二つの演劇は宗教を扱つたものだが、『カクテル・バーティ』は、一見して宗教劇である事を感じさせないコメディでありながら、用意周到に「神の不在」を描きつゝ「今はゐない神を信じられないにしても、恰も信じてゐるかのやうに振舞ふ事で現代人は何とかやつて行くしかない」事を示唆した。福田恆存が「神のアリバイ證明」と指摘してゐるやうに、エリオットの主張は「神はゐる」と云ふものである。Godなき國日本の作家・森鴎外が「かのやうに」を書いたのとは訣が違ふ。
晩年にエリオットは「キリスト教社會の理念」と云ふ長い評論を書いてゐる。現代におけるキリスト教再生への提言として讀むといいのだらうが、所詮はヨーロッパ人向けの文章であり、日本人が讀んでも直接役に立つものではない。ただ「ヨーロッパ文明を受容れた日本人」と云ふ事を意識して讀む限り、日本人にとつても示唆的な内容を含んでゐる――筈だが、十五年も前に讀んだきりなので、内容を完全に忘れてゐる。結構難解だつた氣がする。
エリオットについては深瀬基寛の文章が參考になる。エリオットからの影響下に書かれた評論『批評の建設のために』は、えらく讀み辛いが、問題意識を共有出來るなら極めて刺戟的な内容を含んでゐる事を感じ取れよう。
平成二十年九月十一日
『渚フォルテッシモ』を讀み始めたが『ほうかご百物語』といろいろ似てゐる。

平成二十年九月八日
坂口安吾の『散る日本』を讀んでゐるのだが、安吾は戰爭中の話として、體操をしたり、水風呂に浸かつたりして鍛へてゐた、と書いてゐる。この邊、ニーチェが『この人を見よ』に書いてゐる事を聯想した。
平成二十年九月八日
安吾の「戰爭論」なんか、實に詰らない事、今の日本人が常識的に言ふやうな事が、當り前のやうに書かれてゐる。安吾の言ふ事だからと言つて、別に無條件で崇め奉る事はない。
平成二十年九月八日
大體文章で尤もらしい事を言ふには、他人の文章を讀むのが一番だが、一流の人を相手に選ぶと苦勞する。モンテーニュなんかを讀んでも、大して話題性のある事は言へない。二流の文學者の文章は、何とも刺戟的で、反論なり意見なりをでつち上げて、適當な文章をウェブに晒すには、持つてこいの材料となる。ジイド邊が適當で、コンゴ紀行でも何でも適當に讀んで、適當に一節を引張つて來れば、論爭的な文章が簡單に出來る。太宰でも安吾でもいい。
一番よろしくないのは、餘所の「ブログ」の文章で、先づひつかかるのは大概ろくでもない發言であり、さう云ふ代物に一々反論しても、大した事を言へる筈がない。大手の「ブログ」は、話題性は十分だが、相手にすると面倒な事になるだけだ。何も反論してこない、もう死んだ文學者を相手にするのが氣樂でいい。
平成二十年九月八日
近代音樂の墮落についても、精神についても、安吾の「FARCEに就て」に書いてあつた。全部が全部俺の言ひたい事と一致してゐるものでもないが、面白いから俺の言つてゐる事が氣に食はないなら讀んでみるといい。
ぐぐつたら未だに電子テキストになつてゐないらしい。青空文庫もまだまだ使ひ物にならない。
みんな「ブログ」書くのに一生懸命だから、個人サイトで電子テキストを作るなんて地道な作業、最う嫌なのだらう。「ブログ」の所爲で、樣々の有爲の事がなされなくなつてしまつた。みんな日記を書いて滿足してゐる。「ブログ」の罪は重い。
平成二十年九月八日
ちなみに「FARCEに就て」は、樣々なヒントが埋め込まれた文章で、福田恆存の「幽靈やしき」の註釋として、はたまたラノベのアニメ化に關する適切な解説として、讀む事すら可能な部分がある。
平成二十年九月八日
朝、電車の中で隣に坐つた女の人のヘッドフォンから音が漏れて來たが、てってけてけてけてってけてけてけと云ふリズムがえんえん續いてゐる。ヴォーカルはちやんとメロディのある歌を歌つてゐるらしいのだが、ヘッドフォンから漏れてくる音は打ち込みのリズムだけ。ヘッドフォンの音漏れはなんでこんな風に聞えるのだらう。
平成二十年九月八日
俺が教科書に書いてない事を書くと「教科書に書いてない事を言つた。野嵜はバカだ!」と極附ける人がウェブにはやたら多いやうな氣がする。
俺が專門家の使ふのと違ふ用語を使ふと「一般的でない用語で話をしてゐる。曖昧だ! 野嵜はバカだ!」と云々。
專門家なら素人の言葉を自分の知つてゐる言葉に適切に飜譯して理解する努力をしろよ。俺の知る限り、ウェブに跳梁跋扈する專門家氣取りの馬鹿は、自分の知つてゐる用語を並べてもつともらしい文章を作る能力は長けてゐるが、他人が言つてゐる事を適切に理解して、自分の語彙に飜譯する能力は持つてゐない。また、語彙は持つてゐて、用語は知つてゐても、正しい論理展開を行ふ能力は持つてゐない。
平成二十年九月八日
極稀にきまぐれで廣告リンクをつつくと反應が無い。
平成二十年九月八日
地獄の箴言: レマルクの問ひ

しかし論壇に屡々登場する右派智識人たちが書くのは相も變はらず左翼の惡口ばかり(最近は右派の内輪揉めも増えてゐるやうだが)で、國家や戰爭や道徳について本質的な疑問に答へてくれる議論は全然見當たらない。

ウェブでも批判と言ふと表面的な揚げ足取りが主流。何が本質的に大事なのかには全く興味がない人がやたら多くて、さう云ふ人に限つて人間としての本質を疑はれるやうな眞似を平氣でして威張つてゐる。粘着行爲とか騙りとか。

平成二十年九月七日
CSSオフの方がはるかに便利なtxqz經由。
「B-CAS」がなくなると本当にうれしいか? - 日経エレクトロニクス - Tech-On!
と言ふか日経エレクトロニクスのHTML文書について。結構まともつぽい割に變な文書なのだけれども。a name="pagetop"がbodyの直下に置いてあつたり、何なのだらう。
「1」「2」「次のページへ」のところのマーク附け。これがol要素。なるほど考へてはあるのだけれども、CSSオフで見ると、なんかへんだ。順序がある時はol――それはさうだけれども、番號を振る一般的なブラウザで見た時、なんかへんな感じがする、と云ふのは、何うなのだらう。
平成二十年九月七日
誤讀をしておきながら自分は公正だフィロソフだと宣傳する輩には讀まれたくない。
平成二十年九月七日
「利己的」だとか「国益」だとか、今の人は何うして「利益」と云ふ事ばかりを氣にするのだらう。そんな事を言つてゐれば自分は免責されるとでも信じてゐるのでないか。
馬鹿々々しい。
さう云ふ事を言ふ手合に限つて、なぜか人間の精神性を全く無視してゐるものだ。人間には立場や價値觀がある、さう云ふ事をこそ自覺すべきだ。そして自覺は外部に示せるものではない。利己的か何うかと道徳的に反省して見せるのはポーズに過ぎない。
平成二十年九月七日
論理にしても公正にしても、必要なものだが、一方で、求めなければありえない、と云ふ事を解つてゐない人が案外多いやうに思ふ。
イデオロギー的な態度を非難する意見を書くのはいい。けれども、それで自分が即座にイデオロギーから解放された、と考へる事は許されない。
また、ひたすら論理的で分析的――非人間的に文章を書く態度も、許されない。論理的なだけの人間、分析的なだけの人間、そんな人間はこの世に存在しないからだ。
公正な態度、論理的な態度は、非人間的な態度を言ふのではない。人間が人間である限り、人間は何らかの立場をとり、何らかの價値觀を選ぶ。その立場、その價値觀を十分自覺する事こそ、公正な態度をとる第一歩だ。自分が何らかの偏つた思想を抱いてゐる事實の認識――それに基いて、先づ物事をありのまゝに見据ゑ、次いでそれに對して價値判斷を行ふ。それでこそ公正な態度と云ふものだ。
自己の立場を隠匿して、それで自分が公正だと言張るのは、卑怯なだけではない、單に公正を缺いてゐるだけだ。なぜなら、どんなに客觀的な風を裝つても、何かを言ふ爲に、人は事實を選別しなければならない。その選別をしてゐる時點で、人は價値判斷に基いて、事實の取捨選択を行なつてゐる。提示された事柄が事實に基いてゐても、選擇された事實である時點で、最早純粹な事實と別物になつてゐる。この事を自覺してゐる人は少い。ただ「事實を言つてゐる」と云ふだけの事で、自分が公正で客觀的な人間だと勘違ひし、安心してゐる人が、世の中には結構澤山ゐる。さう云ふ人に限つて、反省する事が無く、自分を省みない。
自分のやり方を「意志的でない」「純粹に客觀的な態度である」と思ひ込んでゐる限り、その人は自分のやり方を反省する事が出來ない。根本的に反省する契機すら無い思考の方法を採用してゐるのは、大變傲慢な事である。俺はそんなやり方をとらない。
平成二十年九月七日
平野は、自分が批判でも何でもないただの言掛かりをつけただけである事を未だに自覺しないで、もつともらしい事をくつちやべつてゐる。嫌らしい。
「過去を振返つて現在を反省する」と云ふ事が復古の精神だ。西歐のルネサンスにはそれがあつた。日本にルネサンスはないが、復古的な國學には類似したものがある。さう言つたのをてんで理解しようともしないで、近代的自我の創出か,資本主義的経営の確立か,主権国家の成立か。などと、もつともらしく「具體的な事」を言ひ、俺を乱暴すぎる。と極附けて嘲笑した。これが俺は甚だ氣に食はない。
剩へ、滔々と自分の知つてゐる知識を竝べ立てて、いかに自分が物知りで、客觀的であるかを誇示しようとした。そして、逆に言えば,両者を比較して多くの共通点を見出し,近代化における「復古」の一般則みたいなものを提言できるのであれば,それはそれで非常に面白い話になる。等と、俺の意圖を全く汲み取らない、適當な一般論を言つて、それで自分は合理的な事を言つてゐると宣傳した。
現在まで、平野は自分が誤讀してゐる事を認めようとしない。自分の誤を認められないで何が合理主義で何が批判だ。フィロソフだ。馬鹿か。
SUB SPECIE AETERNITATIS:Wind Report - AOLダイアリー
人を小馬鹿にして好い氣になるのも好い加減にしろ。
平成二十年九月七日
平行する復古:Wind Report - AOLダイアリー
平野は、自分が合理的で妥當な非難をした積りでゐる。が、これの何處が批判なのか、俺には全く理解できない。
ここではルネサンスが近代的自我の創出に大きな意味をもったという点を指摘するにとどめたい。――それが西歐の近代化の端緒であるルネサンスは復古以外の何物でもない。を完全に論破した結論であると平野は勘違ひしてゐる。全然別の話を持出しただけの事だ。批判にも何にもなつてゐない。
明治維新において王政復古の大号令が発せられたことからも知るように,近代日本の建設者たちは時として「古」を強調した。これらの「復古」は,ニッポンという主権国家の創設に捧げられたものと言える。――契沖は明治の人間ではないし、明治政府どころか江戸幕府とも關係してゐない。俺の言つてゐる事を平野は理解しようともしないで、ただ「王政復古」と云ふ文字で話を關聯附けて、それつぽい事を言つて俺を黙らせようとしたにすぎない。
西欧も復古で近代化,日本も復古で近代化,歴史的平行現象,と片付けるのはあまりにも粗雑すぎる。――細かい事を言へば幾らでも「違ふ」と言へるだけの話だ。平野は一般論で話を方附けようとしてゐるに過ぎない。
平野は、自分の持つてゐる知識で考へてゐる。俺の用語を、自分の用語と完全に一致するものと極附け、自分の用語が組織してゐる體系と、俺の言つてゐる事の體系とが喰ひ違ふものだから、一方的に俺の言葉を間違ひと極附け、自分の知識を開陳し、しかし結論は單なる一般論でしかない。平野は、自分の知つてゐる構圖に俺の言つてゐる事を嵌め込まうとし、それが無理だから、俺の方が間違つてゐる、と極附けた。平野は俺の言つてゐる事を亂暴だと極附けたが、亂暴なのは平野の方だ。
平野は反論しない。平野は何時だつてさうだ、自分が間違つてゐるとは絶對に認められない、自分は合理主義者だ、だから正しい、さう信じてゐる。自分の觀點でしか物を見られない。殊に平野の缺點として言へるのは、自分の一般的な知識に安心して、用語が人によつて違ふ事を意識しない事――平野は、他人の言つてゐる事をきちんと飜譯して正しく解釋する事が出來ない。同じ用語なら、何時でも誰でも全く同じ意味で使ふ、と信じてゐて、疑ふ事が出來ない。恐ろしく素直で良い子なのだらうが、俺はさう云ふ人に法律的な問題を任せたくない。平野氏が裁判官になつたら、實に困つた裁判官になるだらうし、辯護士になつたらやつぱり困つた辯護士になるだらう。平野氏は、人間の精神の存在を認める事も出來ない。だから法律的な問題に對處するにしても、實に有能な法律家として法解釋を開陳する一方で、困つてゐる人の惱みを全く認識しないまゝ非人間的な結論を平氣で出すだらう。俺はそんな法律屋は嫌だが、平野氏はさう云ふ事をするのが「合理的な法解釋」をする正しい法律家だと信じてゐる。
平成二十年九月七日
『器官切除』マイケル・ブラムライン(白水社) - I guess everything reminds you of something.

技法的にはとくに見るべきところはなく、まあ凡庸に物語が語られるだけだが、認識と語り口が絶妙にからみあったときはやはりとても面白い。

俺にはかう云ふ言ひ方が甚だ觀念的に見える。

経歴から明らかなように工学的な技術が可能にするものの臨界に位置する緊張感、切実感がギリギリに高まっていて、その分、たとえば事態を根本的に変えるような科学的/工学的見通しが立てばまったくアクチュアリティが失われてしまう危険性もあるが、まあいまのところはまだまだじゅうぶん刺激的な本だと思う。

斯う云ふのも俺には解らない。「刺戟的である」と云ふのは、書評の世界にはあふれ返つてゐる文句で、さう云ふ言葉は無意味だと極附けて良い。となると、渡邊氏は何を言つてゐるのだらう。
平成二十年九月七日
大體俺は、内容は兔も角形式的には復古の形態をとるのが近代化だ、と言つてゐるので、そこで、形式は兔も角内容的には全然違ふ、等と言つても、意味は無い、と言ふよりそもそも見てゐるところが違ふだけだ。視點が違ふだけなのに、「亂暴」だの何だのと馬鹿にしたやうな言ひ方をし、一々忠告のやうな言ひ方をして恩を着せる。餘計な御節介にも程がある。
大體かう言ふ餘計な揚げ足取りの所爲で、俺の言ひたい事はうやむやにされ、ただただ「野嵜がまた誰かと喧嘩した」――「野嵜が批判した人間を攻撃して默らせた」と云ふ事にされてしまふ。平野は、さうなるやうに「批判」して呉れたのだらう。ならば平野の行爲も一種の運動である。
平成二十年九月七日
日本人には人權意識がない。
そもそも日本人にとつて、人命は「尊重するものでない」。人命輕視の思想が日本人には惡しき傳統として「ある」。
そんなところにどうして人權意識が育ち得よう。
平成二十年九月七日
ところで僕は、惡しき傳統までも「傳統だから」と言つて肯定する積りはない。
日本人は、惡しき傳統ほど「大事」にし、良き傳統ほど輕視して無かつた事にしてしまはうと必死になつて努力する。
平成二十年九月七日
ビル・エモット 特別インタビュー 「自民党から民主党へ政権交代もやむなし」|News&Analysis|ダイヤモンド・オンライン
今の状況つて要は「二大政黨制も良い事ばかりではない」と云ふ事なんだよな。
システムの話をしてもしやうがないけれども、二大政黨制をとるならば、衆議院・參議院の二院制をやめて、三院制にすれば、一往政治の停滞だけは免れないか。
平成二十年九月七日
政治家の失言、有名人の失言を捉へて、鬼の首でもとつたやうに喜んで責め立てる。さう云ふ風潮を僕なんかは輕蔑して來た。失言こそ本音である。なるほど。本音を言つた人間は叩くに限る。本音を言へない世の中の方が住み心地がいいのださうだ。そんな馬鹿な。
ウェブなんかでも、例へば掲示板、或は「ブログ」。そんなところでは、酒を呑みながら適當な事をぶち上げる、そんなのと同じやうに、適當な事を言つていいのでないか。「書き言葉」である。だが、今のウェブなんかは最う書き言葉と言つても書き捨てで、話し言葉と何ら變りはないではないか。それでも「書かれた文章である」と言つて、兔角何でも言葉尻を捉へ、必死になつて叩いて、潰さうとする。それは當座樂しい娯樂なのだらう。けれども、その所爲で、ウェブが甚だ風通しの惡いものになつてしまふ。それは避けるべきではないか。
人が皆、樂して御釋迦樣にでもなれると言ふのであれば――いやいや、何うにも聖人になどなりやうがないのが人間と云ふものだ。だからこそ、詰らない理由を故事つけては他人を叩く樂しみが生ずる。しかし、人が人である以上、責任だつて限界があるものだらう。無限に責任を追求する姿勢は、ただただメディアの風通しを惡くするだけだ。風通しが惡いよりはいい方が良い。或程度の事は見逃す――それは「御互ひ樣」の精神にもかなふ事だ。
もちろん、何でもかんでも許せば良い、と云ふものでもない。惡質・惡辣な粘着行爲は、最早言論活動であり、責任を取らせる必要がある。ちやんと我々は、發言の意圖や目的を汲んで、正當なものを支持し、不當のものを却下する姿勢を身につける必要がある。

平成二十年九月五日
小宮山書店の百圓均一で拾つた奧の細道を讀み始めた。易しい文章だから皆讀むと良いと思ふ。
平成二十年九月五日
奧の細道讀了。
平成二十年九月五日
俺は「言葉の記號性」に拘る事を散々非難して來たが、一方で「言葉の記號性」を十分以上に理解してゐる。だからこそ「人が或語を用ゐた時に、その語をその人がどのやうに定義してゐるか」を俺は十分意識して讀取らうとする。と同時に、俺もまた自覺的に俺獨自の定義に基いて語を用ゐてゐる。
ところが、專門家諸氏――平野氏もさう――は、なぜか知らないが、人は一般的な定義に基づいて語を用ゐなければならないし、その人獨自の用語法をしてゐたらその時點でその人間は許されない行爲をしてゐるのであり、罵倒・嘲笑を浴びせる事が自分の義務である、と心から信じてゐる。
獨自の用語法をしてゐるからと言つて、即座に、その人が主觀的な話をしてをり、一般性のない妄想を開陳してゐる、と云ふ事にはならない。
全ての人間の用語は、その人の定義に基いてゐる。だからこそ、正しく人の言つてゐる事を理解する爲には、自分とは異る定義に基く用語法が存在する事を意識しなければならない。用語は相對的である。そこに絶對性を持込むのが惡しき專門家である。さう云ふ人間は、自分がいかにももつともらしい事を言つてゐるから、客觀的である、と信じ込み、また、正しい事を言つてゐると專門的な立場の人からは見られるに違ひない、と信じ込んでゐる。しかし、これでは、他人が言つてゐる事を正しく理解できない。理解できないからこそ、彼等專門家は、素人を愚弄して、好い氣になる。快を貪る。理解できれば、もつと眞面目に、人の話を聞ける筈である。「〜の構圖に持込みたいのだらう」と平野氏は言つてゐるが、自分こそ、なんか知らんが、俺の言つてゐる事を、變な構圖に嵌め込んで解釋しようとしてゐる。迷惑だ。
平成二十年九月五日
平野氏や渡邊氏が「面白い」と言ふ。それが俺にはさつぱりわからない。平野氏や渡邊氏が「面白い」と言ふ事、それらが「面白い」と言はれる――何が何うして「面白い」のだらうか。ただの事實を採上げて、二人とも「面白い」と評するのである。俺には二人の價値觀が全く理解できない。そもそも二人に價値觀は「ある」のだらうか。
人は一人の例外もナシに、一切を價値觀に基いて判斷する。ところが、二人は價値判斷なんてものが無いかのやうに振舞つて、ただ事實をとりあげては、ひたすら「面白い」と評する。俺にはこれがさつぱりわからない。如何なる觀點から面白いのか。それが二人の場合、さつぱりわからないのだ。

平成二十年九月四日
闇黒日記 文學 でぐぐつてみた。最初にひつかかるぺーじ(何)を讀んで見た。なにもかもなつかしいが、そこから張られたリンク先がこれまたなつかしいと言ふか最近の讀者にとつては驚くべきリソースの筈で、俺の大學時代の文章だ。いまどきの大學生の文章の方が餘つ程増しな内容だが、一往文學の事を書いてゐる。と云ふ訣で、がんばつてさがしてほしい。
ほんのちらつとなんで怒らないでね。
と言ふかアクセス權なくして放置してゐるのになぜか削除されないで殘つてゐるんだ。いろいろ痛い文章なので結構困つてゐる。
平成二十年九月四日
まじかんと雑記: 「オープン」とは
平成二十年九月四日
ところで俺は例の惡性氏事件以來、人を様よばはりする奴を信用しない事にしてゐる。
平成二十年九月四日
music(2)へのご意見・ご感想

できあがつた音樂を便宜上、機械的に表現し直したものが樂譜や音階である。

音階に限つた話をすれば、むしろビブラートのやうな音の機微から先人逹は音階を發明した、私はそう想像してゐる。

もちろん、自然には音が先にあつて、人は音階を後から發見したのだらう。けれども、音階は一度發見されると、以後は音樂の中心となつた。人は音階のある音の組合せでのみ音樂を考へ得る。
作曲家は、頭の中で音が鳴つて、それを音符で書き留める。けれども、鳴る音は既に音階を持つた音である筈だ。音階のない無段階の自然の音の變化を音階で表現してゐるのではなからう。
そもそも、純粹な「ビブラートの音」なんてものは存在しない。何かの音階の音をビブラートさせる事しか出來ない。音の本質は音階であり、演奏の際に附加される音の機微の表現がビブラートなり何なりだ。
なほ、ギリシャ時代に既に和音が見出され、研究されてゐる。
平成二十年九月四日
弱つたな。
平行する復古:Wind Report - AOLダイアリー

さて本題の3。この二つの事例を,平行現象と言えるか。イタリア都市のルネサンスは異教的世界観の再導入,人間中心主義運動としてあらわれた。その栄華は,資本家の後援のもと,学問や技芸といった精神活動において花開き,後に近代的自我を形成した。日本の「復古」運動は,主権国家を創設するという目的のもと,政体変革の過程において援用された。太古を振り返る視線において,両者に類似を見出すことはできるかもしれない。だがその内実に踏み込むと,発端,担い手,活動範囲,持続時間,結果など各要素の多くにわたって食い違う。そもそも「近代」には多くの側面があり,両者が近代化をもたらしたといっても(少なくとも直接には)相異なる分野においてのことだ。西欧も復古で近代化,日本も復古で近代化,歴史的平行現象,と片付けるのはあまりにも粗雑すぎる。

似たやうな現象である事は認めるけれども、こんなに違ふ事があるんだぞ、、だから同じ現象ではない――さう云ふ「論理」。俺は「似たやうな現象」と言つてゐるのに、「全く同じなのでない」と言つて「似てゐる」事實すらも壓殺しようとする。
日本の明治以來の近代化は、西歐の近代化と同じではない。そんなのは俺が何度も何度も言つた事だ。平野氏に説教される理由はない。平野氏は、逆に言えば,両者を比較して多くの共通点を見出し,近代化における「復古」の一般則みたいなものを提言できるのであれば,それはそれで非常に面白い話になる。等と、他人事のやうに行つてゐる。俺は「面白い話」で濟ませられる問題でないと思つてゐるから、安易に西歐と日本の近代化を一緒くたにする議論に反對して來た。
一方で、日本人にもまた西歐の連中と同じやうに、自然で内發的な歴史的自覺が見られたのであり、それが江戸時代に契沖等の歴史的な反省に表れてゐる。その點を俺は何度も何度も強調して來た。
しかし、そもそも平野氏は、根本的な勘違ひをしてゐる。平野氏は、両者を比較する事が「できる」と認めてゐる。ならば、その時點で既に両者が平行現象だと認めてゐると言つていい。全く無關係の現象であるならば、比較のしやうがないからだ。比較對照し得るならば、その時點で二者は既に何らかの類似が存在してゐるし、關聯も存在してゐる。だからこそ、平野氏もまた直感的に「比較出來る」と言へたのだ。俺にしてみれば、一種の同意をしてゐるのにもかかはらず、平野氏が不同意を唱へてゐるのは不自然に見える。例によつて、專門家氏は何をとぼけてゐるのだらう、と俺は思ふのだ。
大體、今の問題で、俺は議論なんてしたくないんだよ。議論は好きな人が勝手にすれば良い。それこそ專門家の仕事だ。俺は煽つてゐるんだよ。
と言ふか、俺の言葉をみれば、平野氏が何を因縁を附けてゐるんだか、さつぱり訣が解らない。俺は日本人の近代化が復古の形式をとつたのは、偶然であるかも知れないが、一方、歴史的には平行現象であつた。と言つた。平野氏は執拗に内容を問うてゐる、が、俺は形式と言つた。内容と形式とでは次元が違ふ。平野氏は違ふ次元の事をごつちやにし、知つたかぶりをして、因縁を附けてゐる。
平成二十年九月四日
何と言ふか――俺の言つてゐる事を正しく讀取る積りのない人に限つて誤讀するとしか。
平成二十年九月四日
内藏HDDの一臺がまた異音を發してゐるのでそろそろ壽命つぽい。データを待避させる事に。HDDが死んでゐるアイ・オー・データ製の外附けHDDが一臺(なんか物凄く舌足らずな言ひ方だと思ふけれども、ではなんて言へばいいんだこれ)と、繋がれてゐない生のHDD(所謂内藏HDDとして賣られてゐる奴だが内藏してゐない状態で内藏HDDと言ふのもアレ)が一臺あるので、外附けHDDをばらして中身を入換へた。アイオーの外附けHDD用の基盤は基本的に作りがいいが糞みたいなHDDが入つてゐる。いいHDDに入換へると結構いける。その邊の玄人志向とかの外附けユニットなんかを使ふよりアイオーの中古をばらして使つた方がずつと信頼性は高い。多分。

平成二十年九月三日
まじかんと雑記: Unix はそんなに閉鎖的か
ならば「Linux」といつて一括りに言つてゐるのは何なのだらう。
FedoraとかUbuntuとか、別物である訣だけれども、「Linuxのユーザ」と云ふものを合計して勘定してゐるのは何なのだらう。
ディストリビューション別に別のOSのユーザと云ふ事で勘定するのが筋ではないか。
或は、「Windowsのユーザ」も「存在しない」のであつて、「WindowsMeユーザ」「2000ユーザ」「XPユーザ」「Vistaユーザ」「CEユーザ」等が個別に存在してゐるだけではないか。
平成二十年九月三日
今のunixにおける最大の問題として、飽くまで「情報の少さ」――と言ふより「情報の入手し辛さ」そして「必要とする情報の多さ」を指摘してゐる事に注意。
「ぐぐればいい」に限らずunixにはアドホックな――と言ふか場當り的な解決の仕方が矢鱈多い。「突然××が動かなくなつた」と云ふ問題に對して「○○を書換へろ」云々と云ふ「原因は示さないで對處方法だけを示す」解決の方法が當り前のやうに與へられる。
Windowsの場合、最初から訣のわからない代物なのだから訣のわからない事態が起きて訣のわからない解決があつても、それはそれで筋が通つてゐる。「さういふものなんだ」で納得するしかない。
そんなWindowsの擧動なり何なりを、非難するunixユーザは多い。彼等はunixのオープンである事を頻りに言ふ。けれども、オープンな筈のunixで却つて訣のわからない事態が多く、訣のわからない解決法の提示が多いのだ。此れは筋が通らない。少なくとも、ユーザとしてはすつきりしない。
平成二十年九月三日
Windowsの場合、兎にも角にもユーザが絶對的に多く、情報も絶對的に多い。これは使ふ側にとつて見れば、安心な話で、實際、困つても割と樂に解決策を見附けられる。
一方、unixは、ユーザが少い。その上、少いユーザが、數多くのプロジェクトにばらばらに附いてゐる。Linuxでも、ディストリビューションごとにユーザがわかれ、細分化されてゐる。情報は何うしても少くなる。
ところが、Windowsに劣らず、unixは情報が必要である。そして、unixはWindowsよりも、仕來り・作法の數が多い。基本的な事柄まで、大體決つてゐる。が、その情報は、全て一般ユーザには手の屆かないところにある。これが困る。しかも、更に困つた事に、unixに通じたユーザならば、その手の情報は簡單に探せる場所にある、と云ふ事になつてゐるらしいのだ。unixの世界で初心者は歡迎される筈だが、歡迎の仕方は割と荒つぽく、どちらかと言ふと「體育會系」的なノリがあるやうに思はれる。敷居が高いんだよ。
平成二十年九月三日
長部日出雄『「古事記」の真実』(文春新書 649)を買つて來た。いろいろ知つてゐる人の名前が澤山出て來る。山田孝雄とか有坂秀世とか。
平成二十年九月三日
musicへのご意見・ご感想
飽くまで俺のはhttp://d.hatena.ne.jp/smallball/20080831/p8のパロディだから。
聲優にしても俳優にしてもはつきりとした喋り方をするのは「ありのまゝを見せる」のよりも「まざまざと體感させる」のを目的としてゐるから。そして藝術は單にリアルであるものを鑑賞者に與へる事よりも、より生き生きとしたエクスペリメントを鑑賞者に與へる事を目的とする。
僕等は屡々藝術における技術を論ずる。が、僕にはその技術の分析が一つ何か段階をすつ飛ばした議論であるやうに思はれるのだ。藝術の目的が先づ明確になつてゐなければならない。その目的の爲の手段として技術がある。
平成二十年九月三日
ところで僕は英語がからきし苦手だ。フランス語も、もともと大してやつてゐないがすつかり忘れた。ドイツ語なんてやつた事がない。
なぜかドイツ語の本のOCRなんて變な作業がまはつて來たりして難儀した。ソフトウェアは読んでココだから當然英文モードで適當にひろつて手を入れると云ふ面倒な事をする。スキャナのおまけで何でもやらうとする俺。
Macで入力する時のメモ。option+sでエスツェット、option+u→uとかaとかoとかでウムラウト。言ひ方も打込み方も場當り的にぐぐつて調べてゐるのだから讀んで意味が解る訣も無い。取敢ず保存する時はutf-8にしておけばいいのか。なにがなにやら。
平成二十年九月三日
あと、ビブラートは音樂の本質ではない。純然たるビブラート等と云ふものは存在せず、或音階の音をビブラートさせられるだけだ。
樂譜は音階によつて規定された音の輯合の時間軸に沿つた流れである。
演奏者が自己の判斷によつてビブラートを附加へる。しかし、かつてはさうした效果は、注目されるべき演奏者にのみ許された。今はその種の演奏法が濫用される傾向がある。Wikipediaで調べた限りではさうみたい。
ビブラートのやうなものは音樂の墮落である。「人でなければ表現できないもの」を求めるのは現代的な欲求だ。電子テキストを排斥し紙の本を珍重するのと同じセンチメンタリズムに過ぎない。
平成二十年九月三日
僕等の時代、「味」と云ふ事が頻りに強調される。アナログの味とか云ふ奴だ。が、それは現代だからこそ強調される事でしかない。職人技と言ふのは、アクロバティックな技術ではなく、機械的な正確さを實現する事だ。ただ、素材が一定しない場合に臨機應變の對處が行はれる爲、藝當のやうに看做されるに過ぎない。
記憶は、知識や概念に關しては大腦が司るらしい。が、運動の記憶は小腦が司る(思考パターンに關してもさうらしい)。大腦においてはニューロンによる囘路の生成が記憶である。が、小腦では、囘路の破壞が記憶であると云ふ事だ。何パターンかある動きの記憶囘路のうち、巧く行かない經驗をしたものは、使はれないやうにブロックされる。結果として上手く行くやうな動きをする記憶の囘路だけが殘つて、熟練が生ずると云ふ事らしい。
運動は大腦が指示し、思考は大腦で行はれる。ところが、そのパターンは小腦にコピーされるのださうだ。何も考へないで手や足を動かせるのは小腦に動きのパターンが記録されてゐるかららしいし、年を經て考へ方が固まつて來るのも思考パターンが小腦に記録されてゐるかららしい。無意識は小腦に支配されてゐると云ふ。
割と人間も機械的なのだ。記憶も記録も英語では同じmemoryである。
今出てゐるニュートンの別册に書いてあつた。立讀みで濟ませたから用語その他いろいろ不正確だと思ふ。
平成二十年九月三日
もつとも、さうした機械の側面だけを強調するのは僕の意圖ではない。ただ、基本的にはさうだ、と云ふ事を、現代人は忘れがちだ、と云ふ事を指摘したいだけだ。熟達した上での味と云ふものまでも、僕は否定したい訣ではない。が、一足飛びに「味」なり何なりに飛び附いてしまふのは、現代人特有の性急さだと思ふ。
平成二十年九月三日
今の「ブログ」の類には餘計な機能が多過ぎる――「ブログ」に限らない、多くのウェブサイトが樣々なサーヴィスを提供してゐる。なるほど、そんなものは無視してしまへば良い。廣告を無視する技術を我々は日々培つてゐる。
ところが、屡々俺はその手のサーヴィスを無視出來ない。サーヴィス提供者がサーヴィスの存在をこれ見よがしに見せ附けるからだ。
はてなブログでは、見出しの腋に奇妙なアイコンが並ぶ。それ以外の「ブログ」でも、屡々そんな事がある。アクセスすると、ずらずらとアイコンが十も二十も並んでゐるけれども、本文が全然現れない、そんな「ブログ」まで存在する。「それ」しか見えないのでは、無視のしやうもない。頭に來て直ぐにブラウザの「戻る」ボタンを――Operaだからzを押す。ところが、その手の「ブログ」に限つて、なぜか戻れない事が多い。Opera 9.52の不具合かも知らんが。
Yahoo!ブログなんかにも「送信」なるボタンが麗々しく貼られてあつて、取敢ず押して見るとログイン畫面が出て來たり。Yahoo!なら俺は今のところIDを持つてゐるから入れるが、はてななんかでログイン畫面を出されても困る。
先日來いらついてゐるのが讀賣新聞のウェブサイトで、何だかよく知らないが「クリップ」なる機能があるらしい。記事にアクセスすると毎囘毎囘新サービス「ニュースクリップ」 スタートしました!とポップアップが出て來て紙面(?)を覆ひ隱して呉れる。どうせクリップしてゐる人なんて數人だし、閲覽者の九割九分九厘までが必要としてゐない機能だが、そんなサーヴィスのアピールが閲覽する度必ず現れる。何なんだらうと毎囘思ふ。この手の「面白さうな機能」「役に立ちさうな機能」は、大概開發者の自己滿足に過ぎない。
今の人は、商賣と云ふものを、商品にサーヴィスをどんどんどんどん附加して行く事だと信じてゐる。さうしないと賣れない、と云ふのだが、その爲に無駄な機能、無意味な機能、あつてもなくても良い機能、あつてもなくても良いがどちらかと言へばない方が良い機能、ない方が斷然良い機能……がどんどんどんどん追加されて、當初はシンプルで良かつたものが何時の間にかぶくぶくに太つて駄目になつてしまふ。
平成二十年九月三日
http://d.hatena.ne.jp/smallball/20080903/p2

お前は何を言っているんだ . 現代的な欲求ってビブラートは百年以上前からあった技術だぞ .

強調は野嵜。百年二百年は昔ぢやないよ。特に西歐の音樂に關しては。
平成二十年九月三日
再生:Wind Report - AOLダイアリー

所論のルネサンスが14-6世紀イタリアの人文主義運動のことだとして(*),それが何を否定して何を再生しようとしたのかを考えれば,明治維新と「平行現象」だなんて片付けることはできないはず。

  • (* 他にもカロリング朝ルネサンス,中世ルネサンスなどが知られている。)

のじたんの議論に総じて言えることだが,定義に揺らぎをもちこんで結論を誘導している。「近代化」という変数がこの実行コンテキストにおいていかなるオブジェクトを指示しているのか。近代的自我の創出か,資本主義的経営の確立か,主権国家の成立か。あるいはそれらの総てなのか。明確なことばに基づかない言説は批判に対して開かれていない―――ポエムとしてならばそれで良いのだけれど,学問的誠実さには欠ける。

強調は野嵜。この手の專門馬鹿には附ける藥がない。
大體、西歐が内發的な近代化であるのに對して、日本のは外發的な近代化だ。だから一致しないのも當り前。その程度の事は百も承知だ。その上で俺は暴論を言つてゐる。
なぜ暴論を言ふか。「ポエム」だからだよ。D.H.ロレンスもニーチェも、或はシュペングラーも、「ポエム」だよ。「反近代の思想」と云ふのは、全て近代の宿痾である嚴密主義と專門家主義を否定して、象徴的に問題を指摘する。だからちやんと意圖を汲取つた上で、理解しなければならないのだ。
「ポエム」とか馬鹿にしたやうな事を言つて嘲つても無意味だ。俺が文藝的と言つてゐるのを「逃げ」だとアンチ連中は言ふが、文藝的な物の言ひ方と言ふのはあるのだし、その讀み方もある。それを理解出來ないで、ひたすら馬鹿にするのが、結局のところ現代人の愚かなところだらう。アドラー&ドーレン『本を読む本』は、第三部で「文学の読み方」を扱つてゐる。日本人には案外この文學の讀み方を解つてゐない人が多い。
平成二十年九月三日
安吾の『散る日本』(角川文庫3004)を拾つて來た。

本書に収められた評論十九篇は、文学的出発から晩年までの広範囲にわたって集められたもので、内容的にも文学論から文芸時評、社会時評の類までを含み、まさに安吾の捉えどころのない魅力の展示場といった趣きがある。また評論と書いたが、「ラムネ氏のこと」「散る日本」などは全集では小説として扱われており、単に小説とか評論といった容器には盛りきれない、安吾文學の捉えどころのなさを示している。

この手の捉えどころのない文章を、「安吾」の名前が附いてゐれば有難がつて讀む連中が、「野嵜」の名前が附いてゐれば「ポエム」「ポエム」と言つて馬鹿にして快を貪る。
創元版安吾選集の監修を福田恆存がやつてゐる。福田氏は安吾のやうな捉えどころのない文章を大變好んだ。俺も好む。
もちろん、その手の文章を、多くの日本人は誤讀するし、しないとすればそれは作者名が附いてゐるからに過ぎない。ワイルドの箴言集を作つて福田氏はこの手の文章を受容れる寛容さを日本人は身につけるべきだと言つた。實際、ワイルドには大量の知識の誤があり、表面的な矛盾がある。が、同時に、ワイルドが意圖した事を、全體として理解する事は可能である。日本人は、それが苦手である。
平成二十年九月三日
俺の主張が批判に対して開かれていないと平野氏は言ふ。が、平野氏が徹底して俺の意圖を無視し――そもそも理解しようと努力すらしてゐない事を俺は指摘したい。專門家は皆さうだ。自分の知識の中にあるパターンに適合しない事を言ふと、即座に「誤だ」「バカだ」と嘲り、罵り出す。專門家の言ふ事を俺は屡々參考にするが、しかし專門家は素人の言ふ事と見ればすぐに馬鹿にする。プログラマが人を馬鹿にするのも自分が專門家だと思つてゐるからだが、專門家の傲慢さには反吐が出さうだ。
乱暴。それは結構だ。亂暴な事を言つてゐるのだから亂暴と言はれても全然構はない。ただ批判にすらなつてゐないだけだ。なぜ俺が亂暴な事を言つたのか。それを理解しようとしたか。表面的な知識のレヴェルで「俺の知識に適合しない」と平野氏は言つただけだ。それはさうだ。頭のいい專門家の頭の中に整理されてゐる細分化された知識を、俺は問答無用で破壞したいだけだ。
近代と言つたら行けないらしい。だが、なあ、平野氏よ、では、近代は存在しないのか。あるのは、近代的自我の創出資本主義的経営の確立主権国家の成立あるいはそれらの総て、と、そんなものだけなのか。最後のそれらの総てとは、足し算で全ては何とかなる式の發想だな。今となつては誰も見向きもしないマルクスですら、辨證法と言つたんだぜ。明確でない。なるほど。明確である事だけを議論したいと。それは明確でないものは全部切捨てろと。專門家のやり方は何時だつてさうだ。切捨てて、わかるものだけ採上げて「わかつた」と言ふ。
平成二十年九月三日
西歐の音樂と云ふものだつて、結局のところ專門家のやり方と同じなんだよ。ピアノの音、ヴァイオリンの音――全て樂器の音は、抽象化されて純化された音だ。が、さう云ふ純化は、切捨てを伴つてゐる。さうした純化への反動が、七鍵氏のやうなビブラート愛好のやうな面で現はれて來る。
平成二十年九月三日
ところで僕の九月一日の文章は、自我とか、經營とか、國家とか、そんな事を語つてゐただらうか。契沖の復古假名遣は學問的な復古だ。ルネサンスもまた學藝の復興だ。そこから僕は綱渡りを演じて見せたんだよ。彼我の復古には平行現象と言へる側面がある。專門家なら、それをいきなり否定して見せるのはどうかと思ふんだよね。平行現象と言へるのでないかと指摘されれば、一往檢討して見るのが誠實な專門家の態度と云ふものだらう。素人考へだと極附けて、詰問して、困らせて、默らせようとする。專門家の嫌な手口だ。平野氏は若いうちからさう云ふ專門家の惡逆非道な手口を身につけてしまつてゐる。俺は平野氏は大成する頭のいい專門家だと思つてゐる。そして俺の「頭のいい」は惡口だ。頭のいい專門家諸氏にはわからない惡口だらう。少くとも、平野氏がやる學問に、俺は何の興味も抱けまい。平野氏は、嚴密に何かを明かにして、學問的な業績を作るだらう。けれども、それが俺にとつて何か意味のある事になるだらうと、俺は思はない。世間一般に對しても、意味のある事になるだらうとは思はない。學問の世界の中では實に立派な事を見出すだらうが、それに俺は何の興味も抱かない。さう云ふものに平野氏は興味を持つ人物だ。そして、今の學問と云ふ奴。さう云ふ味氣無いものにばつかり興味を抱く事を言ふのだ。砂を噛むやうな味氣無い學問。
平野氏の場合、何物からも超越した公正の立場をとりたがつてゐるらしき氣配があるが、けれども、近代的自我の創出か,資本主義的経営の確立か,主権国家の成立か。あるいはそれらの総てなのか。と云ふ文句ではつきり判る。平野氏は、イデオロギーとか、政治とか、さう云ふ觀點から物を見たいんだ。
俺はちつとも曖昧な事は言つてゐない。ただ、平野氏の語彙では語つてゐないだけだ。
何處ぞの專門家氏やその周邊の連中も、俺の發言が誘導的だと非難してゐた。實際は、彼等が或方向に行きたがつてゐて、さう云ふ態度を俺が根本的に否定してゐるから連中「誘導」だと思つて不愉快に感じたに過ぎない。
平成二十年九月三日
http://d.hatena.ne.jp/smallball/20080903/p3
「記憶なんてただの記録」はserial experiments lainの重要な命題だよ。
平成二十年九月三日
惡口を續けるのだけれども、今の文學と云ふ奴、これなんかもまあ、味氣無いものばつかりだ。
I guess everything reminds you of something.
渡邊さんの惡口を言ふのも何うかと思ふんだけれども、正直「專門家ずれ」した文章だよなと、見るたびに毎囘思ふ。この手の「それつぽい言ひ方」を繰返すけれども、「で、それがどうした」としか思ひやうのない内容の、例へば書評、例へば評論――ヒゲミゾ先生日下三蔵先生なんかが昔つからさうだつたけれども、著書二册めおめでたうございます――……。
サルトル・メモ(4) - I guess everything reminds you of something.

基本的な趣旨はやはり想像力、自我論と同じで、情緒も非反省的地平における意識に発し、そこでこそ理解されるべきであるとする。意識を条件づける身体(脳その他)という考えに慣れた私などからするとサルトルの論理を構成する例示とその解釈は奇妙な印象を与え、そこまですべてを意識の元におかなくても、という気にさせる強引なものだが、ある意味では人間的「意味」を断片化してしまう自然科学的思考を如何にして乗り越えるか、というのが当時のサルトル(そしておそらくは彼のみならず多くの哲学者たち)にとっての焦眉の急となる課題だったのだろうと推測されないではない。

專門家的な嚴密主義の實に精緻な文章だが(もちろん、俺の言ふ言葉は惡口である)、ここまで意味のない文章もさうさうないだらうと思ふ(もちろん、世間にはこれよりよつぽど意味のない文章が幾らでも見附かる)。
こんな事ばつかりやられてゐては、亂暴な物の言ひ方をしたくなると云ふものだよ。さうすると「乱暴だ」と專門家氏には言はれる訣だが、俺にしてみれば、捉へどころのない曖昧な言葉をえんえん書連ねて、眞實の周邊をぐるぐるぐるぐるまはつてゐるやうな文章は――なんだらう、虎がバターになつて行くのを見てゐるやうな氣が。?
何處にでも良いから着地して見せろよと、僞江戸つ子の短氣な俺は思ふ訣だ。
飛降りて何處かに居着いてしまつた人間を、ふらふら飛び廻りながら見下ろして、俺は自由だ、お前は馬鹿だ、さう嘲つて呉れてゐる――そんなイメヂが(惡い意味での)專門家にはある。
平成二十年九月三日
世の中、誰もが切實に感じてゐる問題、全ての人に關係のある疑問、さう云ふものがある筈で、だからこそ偉大な發見と云ふものがある。ニュートンが發見したのが萬有引力だつたから偉いので、首縊りの力學なんて言つてゐたら歴史に名前なんて殘らなかつただらう。
平成二十年九月三日
と言ふかさ、平野氏は名前の附いた現象しか認識出來ないんだよ。俺は現象の過程を見るからさ。「亂れた世の中を反省して、眞實があつた過去を振返る」――この事を俺は言つてゐるんだよ。さう云ふ態度の事を言つてゐるんだよ。そんな態度なんて知つた事ではないと平野氏は言ふんだらう。人間が或種の態度をとる――それは事實なのだけれども、專門家にしてみれば「學問的でない曖昧極まる事」なんだよ。だから切捨てる。しかし、さう云ふ切捨て方をして、純化された概念=言葉を操作して、それでもつともらしい事を言つたつて、何になるんだ。專門家同士で通じ合ふ符牒が又一つ増えるだけだ。そんなもの要らない。
日本人は專門家に欺されて來た。
平成二十年九月三日
何だつけ、最近讀んだラノベで言つてゐたよ。過去に理想を見るアルカディア型。未來に理想を見るユートピア型。
平成二十年九月三日
と言ふか、俺には平野氏がなぜ何だかかんだかを要求してゐるのかさつぱり解らない。俺は日本の復古の運動とルネサンスとは平行現象だと言つた。ところが、平野氏は、何か別の現象を出して平行現象と證明しろ、と要求してゐる。何で別の物を持出さなければならないんだよ。馬鹿か。俺は日本の復古の運動と西歐のルネサンスを平行現象だと言つてゐるんだよ。何でいきなりそれを俺自身が否定しなければならないんだ? 平野氏は何を要求してゐるんだ。話を摩り替へるな。專門家はいつだつて話を摩り替へて「何うだ、正確だろ、俺正確」と言つてはしやぐ。ところが、俺にしてみれば、別次元の事をいきなり言出して、素人を困らせて喜んでゐるやうにしか見えない。
復古の思想の精神・復古の運動の精神と、ルネサンスの精神を比較するのに、何うして、何か心理学だか経営学だか、はたまた政治学だかの成果物の一致を示す必要があるんだ。訣が解らない。人の物の見方、考へ方、或は生き方を俺は言つてゐるんだよ。それを抽象的だの批判できない曖昧な言ひ方だのと非難されても――非難する方が惡いに決つてゐる。人の言つてゐる事をありのまゝに受止めて、意圖を理解する、それは何んな文章を讀むのでも最低限必要な事だ。ところが專門家は自分の專門の領域に話を引き附けなければ理解できないと言ふ。これは專門家の歪曲なのだが、自分は專門家だからと專門家は自分の客觀性を盲信し、自分のやり方を反省しない。俺は平野氏の發言を見てきて、專門家と云ふものがどれ程度し難い人種かをまざまざと知つた――と言ひたいが、實際のところ、專門家づらした連中がウェブにはうようよしてゐるから、平野氏に限つた事ではない。
平成二十年九月三日
精神なんだよ。人間の精神。
專門家の人には人間の精神と云ふものがわからない。わからないと言ふより認識出來ない。言葉と云ふものがあると思つてしまふ。人間の精神が言葉を使ふ、と云ふ事がわからない。だから言葉を弄つて平氣だつた。戰後の國字改革をやつて國語を破壞したのは專門家だつた。

平成二十年九月二日
【福田退陣】「なぜ?」海外も驚き隠せず 対日関係に思惑さまざま (1/3ページ) - MSN産経ニュース

1日は「レーバーデー(労働者の日)」の休日のため、米政府の公式反応は出ていないが、米側は後任の首相に、海上自衛隊によるインド洋での給油活動など「テロとの戦い」における協力の継続を期待している。

「世界の笑いもの」になる事くらゐは氣にしなければいいだけで大した問題ではないけれども、防衛の觀點から見れば外交の繼續性がアメリカから疑問視されるのは大變な問題。一方、日中關係や日韓關係は、右翼が氣にしてゐるだけで、そんなに重大には考へなくていい。
平成二十年九月二日
2ちゃんねらーの4割は女性、30−40代が中心 高齢化のせい? - MSN産経ニュース
虹裏の「」は九割九分までが野郎であると言はれてゐる。一昔前までは「」全員が無職であるとされてゐたが、最近はその邊の御約束が崩れつゝある。
平成二十年九月二日
2chやYouTubeより長い「発言小町」利用時間 - ITmedia News
虹裏邊だとユニークユーザは數百人からせいぜい千人くらゐだらうが利用時間は月間で數十時間とかが當り前だつたりするんではないだらうか。
平成二十年九月二日
Googleが独自ブラウザ「Google Chrome」を9月2日にリリース
WebKitベースだからSafariの親戚で、新しいレンダリングエンジンを使つてゐるのではないみたい。
平成二十年九月二日
どうでもいいけれども音樂とか大嫌ひで理由はリアリティを殺してゐるから。 そんなにはつきりと一音一音音階が確定してゐる自然の音なんてねえよとか思つてしまふ。
――と言つたら何うか。
http://d.hatena.ne.jp/smallball/20080831/p8
平成二十年九月二日
自己啓發の本を讀めるのは根が素直でいい人なんだと思ふ。俺は絶對に讀みたくない。

平成二十年九月一日
明治以來の歴史の繼續と言つてゐるけれども、それは不正確であつて、僕は日本における近代化の繼續を主張してゐる。
中世の混亂を經て近世に我々の御先祖は復古と云ふ方法で近代化を圖つた。明治維新にしても、西歐の方法を採入れつゝ、王政復古を唱へた。歴史的かなづかひは名前からして復古假名遣である。基本のラインに復古があり、それを實現するのに歐米の方法・技術・思想・その他を採入れた。それを昭和二十年の敗戰の際、一擧に破毀して、便宜を名目に無原則の欧米化を進めるやうになつた。それは原理の抛棄であり、原理の抛棄は文明の放棄である。
復古と言ふと甚だしく時代錯誤に見られようが、西歐の近代化の端緒であるルネサンスは復古以外の何物でもない。日本人が復古を名目に明治維新を推進めたのは、どこまで解つてゐたのか・どこまで自覺的であつたのかは不明だが、正しかつた。近代化は、現實の國際社會で、絶對に必要な事だ。そして、近代化を實現したヨーロッパが經驗し、乘越えて來たのが、ルネサンスであり、復古であつた。日本人の近代化が復古の形式をとつたのは、偶然であるかも知れないが、一方、歴史的には平行現象であつた。それを、たかが敗戰をきつかけに、日本人は徹底的に抛棄したのである。その結果、「今の日本」がある訣で、その既成事實を楯にとつて、「現實主義者」「現代主義者(?)」は敗戰直後の日本人の囘心を正當化するのだが、では、今の日本の近代化は正常なものか。「正常だ」と言張るのは、「現代主義者」が自分の立場を正當化する爲にする主張である。誰が何う見ても、今の日本の近代化は歪んだものだ。
平成二十年九月一日
例へば「自由主義・民主主義を採用しさへすれば人間の精神は立派なものになる」と云ふ主張は嘘で、「戰後民主主義」の嘘として知られてゐる。が、ならばマルクス主義を採用する主張や、或は軍國主義は何うか。何も變らない。共産主義者が敵を罵り、人格を否定したのは、「マルクス主義を信じてゐないから」と云ふ機械的な判斷に據るものだつた。軍國主義者が「非國民」を彈壓したのも同じ事だ。今、「民主主義を疑へ」だの「自由と言ふ奴を疑へ」だのと言つてゐる連中、あれも、「疑ふと云ふ方法」を採用するかしないかで、機械的に人間の正邪を判定し、「誤つてゐる人間」の人格を否定して平然としてゐる。それは、マルクス主義者がブルジョアを、軍國主義者が非國民を人間と看做さなかつたのと全く同じで、要は方法・主義・イデオロギーだけを見て、人間を見ない、甚だ機械的な――近代の宿痾である――物の見方をするものである。
もちろん、「自由を疑へ」式の言ひ方をする現代の流行の最先端にゐる連中に、この事は理解できないし、そもそも認識すら出來ない。彼等は、自分がマルクス主義者でなく、軍國主義者でない、と云ふ形式的な物の見方で安心し切つてゐる。さう云ふ安心を出來る人間に、理窟は通じない。「或方法に從つて機械的に判斷する非人間的な態度」を、俺は憎むのだが、さう云ふ態度をとつて當り前である人間には、その種の態度のおぞましさが認識出來ないし、自身の態度を非難する人間は最早「人間ではない」からありとあらゆる方法で嫌がらせを行ひ、人格を否定し、彈壓し、存在を消し去らねばゐられない。が、さう云ふ非人間的な態度を、繰返すが、俺は認めない。
近代化の方法において、日本人はひたすら「方法に機械的に從ふ」事を實踐して來た。だが、俺にしてみれば、寧ろ或方法を採用するに當つての人間の態度こそ重要である。「大日本帝國憲法がどうである」と云ふのを多くの日本人の論者は問題にする。が、俺にしてみれば、憲法に對する日本人の態度こそが重要である。「どうである」から「どうするものである」式の發想を、俺は認めない。大日本帝國憲法をどのやうに扱ふかは、日本人が主體的に決めるべき事であつた。今の憲法論で、「國民が決める」と言つてゐるものは結構多いが、現實に「日本国憲法」に對して日本人はただただ「受容れる」態度をとつてゐるに過ぎず、主體的に排除する行動を取る積りは全くない。主體的に受容れる、等と云ふ事はあり得ない。容認は全て受動的である。大日本帝國憲法に對して、美濃部達吉が唱へた天皇機關説は、國民の憲法に對する態度に基づいて憲法の運用を主體的に行はうと云ふものであつた。それが戰前、失敗に終つたのは、「歴史の必然」であつて否定出來ないが、しかし、だからと言つて、以後、絶對に省みてはならないものである訣ではなく、寧ろ、だからこそ、戰後の日本人は積極的に採用すべきものであつた。それを、「日本国憲法」をありがたがつて受容れて、神棚に祀つて崇めるやうな、古臭い態度をとつて、當り前のやうな顔をしつゝ、大日本帝國憲法を支持するのを「古臭い」と言つて嘲つてゐるのが現代の日本人である。
平成二十年九月一日
現代の日本人の態度は目茶苦茶であつて、その目茶苦茶な態度を俺は非難しつゝ、過去を省みて修正を加へるべき事を言つてゐるのだが、「修正を加へるのは人間のする事ではない」と主張する人が現代人には餘りにも多い。「目茶苦茶なのではない、自然なのだ」――かう言ふ人は絶對に自分の誤に氣附けないし、當然ながら反省もできない。ところが、さう云ふ人に限つて、精神的には極めて古臭いから、實に安易に他人の人格を評價し――否定する。
歴史的かなづかひにしても、俺は飽くまで「自分の外部」に基準を求めるものである。それを「外部の權威」を求めてゐると言ふ人がゐる。別に外部に權威があつたところで俺自身に權威が生まれるものでないのは當り前の話だが、なぜか俺に權威が生ずると考へてしまふ人がゐるらしい(俺には理解できない事だ)。自分自身こそが權威である、と考へるよりよつぽど増しだと思ふのだが、自分こそが偉いのである、と主張するのは大變謙讓な事で、自分自身以外の誰かに偉い人がゐる、と言ふのは恐るべき傲慢であると、なぜか今の人は考へるらしい。俺には全く理解出來ない話だが、さう云ふ顛倒した發想に基いて非難されるのは全くもつて御免被りたい。
平成二十年九月一日
http://return0.dyndns.org/log/2008/08/31#s_3
昔から疑問に思つてゐるので聞いてみようと思ふのだけれども、unixで新しいHDDを追加した時、その中にディレクトリを掘る時は何か作法があるんだらうか。/homeとか/usrとかunixの人は當り前のやうに言つてゐるけれども、ディスク管理の方法についてunixには一般的な見解があるんだらうか。unixを使ふ時には何かの作法に従はなければならないと理解してゐるのだが、その作法がさつぱりわからないので俺はunixを使はなくなつてしまつた。/usrだの/homeだのを、或ドライヴに置いてゐたのを、或日別にドライヴを買つて來て繋いだからそつちに移動したい、と思つても、そんな事はして構はないのだらうか。と言ふか、移動するには何うしたら良いのだらうか。最う基本中の基本の事がさつぱりわからないのがunixで、しかもその手の事をわからないと運用しては行けない見たいな雰圍氣がunixにはあるからやりづらい。
何と言ふか、unixだとディスクアレイもディレクトリの下にマウントする訣で(よく知らんから用語は適當)、ハードウェアの假想化が進んでゐると云ふ話なんだが、ところが個人でコンピュータを使つてゐると、その種の假想化は話を面倒にするだけでしかない。ハードウェアを自分で管理するのだから、OSで假想化されてゐるハードウェアの實體を何とかしてほじくり出してソフトウェア的に管理しなければならない訣で、これは二度手間以外の何ものでもない。
個人が使ふコンピュータで、ハードウェアは直接見えてゐた方が話が簡單だ。何でもかんでも隱蔽しようとする今の風潮は、何うもunix方面の所爲だと俺は直感してゐるのだが、良くないものだ。
平成二十年九月一日
と言ふか、unixの場合、知らなければならない事がやたらあるにもかかはらず、情報を手に入れるのに變なテクニックを必要とする事が多過ぎるやうな氣がする。
apt-getの方法とかも、コマンドラインだか何だか、それで「やさしい」と云ふのがWindowsユーザとしては最う全然感覺がずれてるとしか(よく知らない)。或は、パッケージが配布されてゐるにしても、Linuxはディストリビューションが幾つもあるから、自分のでちやんと動くのかとか。
unixの互換性と云ふ奴。ソースで配布されてゐてmakeすれば動く。まあそれはそれで「あり」だとは思ふけれども。しかし、「動かなければソースが配布されてゐるから最小限の修正をすれば動く」=「互換性が高い」と云ふ發想。プログラマ以外のただのアプリユーザに修正は無理だよと。修正無理なら互換性も糞もねえよと。
Linuxの場合、ディストリビューションが違ふと別のOSも同然。だから、或ディストリビューションで使へるテクニックだの何だのが他では使へないとか。ドキュメントがあつても特定のディストリビューションでのみ通用するとか。情報が欲しければコミュニティに所屬しろとか。使ふだけは許されなくて、プロジェクトに貢獻しろとか。この邊の事は、實は「バザール」でござーる(違)式の開發手法の問題であり、結局のところプログラマにあらざれば人にあらず的な發想の問題だが、プログラマにその邊の問題意識は薄いと言ふよりプログラマはこの世に存在する人間は全員一人の例外もナシにプログラマにならねばならぬとかそんな傲慢な事を當り前のやうに言ふのだから話にならない。
何と言ふか、文藝でも政治でも實踐者とは別の評論家の存在が許されないやうに、コンピュータの世界でもプログラマとは別の評論家の存在が許されない。これは批評を封じ込めてゐるだけだと俺は思ふのだが、さう思はない人が現代人には多いやうだ。何でも權威權威權威、權威がなければ發言する資格なし――權威拔きで發言するから評論家なのだが、さう云ふ事を言ふのは權威主義者どもにしてみれば恐るべき傲慢な事であるらしい。
平成二十年九月一日
http://anond.hatelabo.jp/20080831131619(title空だよHTMLとして不正だ)
無題 - 雑念雑記はてな出張所
闇黒日記は、だからわざと毆り書きだらけなんだよ。
平成二十年九月一日
七位連一『丸鍋ねこ改造計画(仮)』と仮名堂アレ『コピーフェイスとカウンターガール』を表紙買ひして讀んだ。内容は全然違ふが本質的に同じやうな作りの話。
平成二十年九月一日
現在發賣中の月刊「正論」に松原先生の文章が掲載されてゐる。
――のだが、朝刊の廣告で見逃すは晝に本屋の店頭で雜誌を見ながら見逃すはで、さつきやつと氣附いた。最近の俺の情報蒐輯能力の低下は異常。明日買つて來る。
平成二十年九月一日
安田敏朗『金田一京助と日本語の近代』を今さら買つて來た。俺の情報蒐輯能力の低下は云々。相變らずとっしーの立場は曖昧で、例へば福田對金田一論爭を採上げて、金田一の論調に隨分批判的だが、不毛なやりとりと云ふ實にひどい總括の仕方をしてゐる。これは、安田氏が「現代かなづかい」「現代仮名遣」は「正しい」とする立場の人だからで、その爲に「現代かなづかい」の正當化に失敗した金田一に批判的であり、同時に歴史的假名遣の支持者である福田氏を評價出來ない。だが、安田氏が明確に自己の立場を表明する事はなく、ひたすら「中立」の位置に留まらうとする。安田氏の政治的信條はうつすらと透けて見え、また戰後の國字改革に對する態度も何となくわかる。けれども、氏は、どんな時にも、いざとなると決定的な判斷は避け、一般論に逃げてしまふ。安田氏の文章は、讀んで隔靴掻痒の感を拭へない。ところが、曖昧極まる一般論と云ふ奴、安田氏は何うも「解る人には解る」類の書き方をしてゐるらしく、まあ、はつきり言つて當てつけで、俺は散々苛々させられた。或意味金田一の紹介を書くには打つてつけの人物だが、この種の書物は有害で、また内容は實に皮相的だ。かう云ふ本を平然と讀める人はちよつと何處かをかしいのではないかとすら思ふ。
平成二十年九月一日
もつとも、ウェブの、政治關係と「コトバ」關係のサイトには、一方的な價値判斷を言葉の端々に見せながら、結論をぼかし、しれつと「自分は中立でござい」と言つてゐるところが澤山あるし、さう云ふ處を當り前のやうに見てゐる人が澤山ゐる訣で、要は世の中全體が鈍感であるのだ。だからこそ安田氏の本も普通に受容れられるのだらう。

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