アクセルとブレーキの踏み間違ひによる急発進事故は、AT車が一般に普及してからこちら、絶へ間なく起つてゐるものと考へてよからう。オートマ限定免許なるものができてからもうすぐ二十年くらゐになるのかな。
国内一流メーカーで特別に製造された森メディアのオリジナルブランド製品は、製造メーカーの国内製造終了に伴い2008年9月2日で終了いたしました。
確かに、いい加減 Another HTML-lint に代わる新たな HTML-lint の出現が望まれる。というか、Another HTML-lint と名乗っているくせに他の HTML-lint を全然見かけないのはどういうことなの。
今後の課題のところに、
誰か、もっと優れたプログラムを書いてください。とある。「それは課題か?」と云ふ突込みはあんまり意味ないよね。
2008/09/27 13:01 左と右の単語を全部逆にしても文意が通りそうだなw 結局はただの感情論。
チルドレンの育児放棄どころかチルドレンのことなどスッカリ頭から消えてゐるのだらう
<INPUT TYPE="RADIO"> の CHECKED は属性名と属性値が同一です。属性名を省略して属性値だけの指定にしましょう。と言はれた。
いつも切れ味鋭い松原先生のこと、どんな内容だろうと思い勇んで読んでみたが、どうも煮えきらぬ気持ちだけが残った。
というのも、西尾氏の危惧は平たくいうと「皇太子夫妻は将来、天皇・皇后として皇室の伝統を背負ってゆく覚悟が出来ているのか?」ということであり、天皇としての自覚のない皇族が皇位につけば、国民は皇室を見離し、最悪の場合「天皇制」の廃止に繋がりかねない、というものだ。
これに対して松原氏は明確な回答なり反論を提示せず、「日本人が日本人である限り、「天皇制」を止めてしまふやうな事態には決してならない」とか「日本が日本である限り「天皇制」は決してなくならない」など、根拠の無い断言が目立った。
確かに、西尾氏の危惧も一種、根拠の無い部分があり、杞憂とみる向きもあるだろうが、皇太子夫妻に対して疑念なり、疑問を抱いている国民が増えていることは事実だ。と云ふのは「嘘」だと俺は思ふ。そもそも皇室にどれだけの國民が關心を抱いてゐるだらうか。俺は
果たして多くの国民から尊敬を受けない天皇は天皇たりうるのだろうか。と云ふ「疑問」を疑問として實感しないし、
私は今ひとつ、楽天的になり得ないでいる。と云ふ事も實感しない。關心があるならばまだしも増しなのであり、「關心すらない」と云ふ人は、俺なんかもさうだが、今の日本人の若い世代には増えてゐる筈だ。さう云ふ世代の人間が「皇室に對する疑問」を抱き得るとしたら、それは「抱かされた疑問」であり、本心からのものではない。そして、さう云ふ状況をこそ、松原先生は心配してをられるのだが、――。「保守」の世界にどつぷり漬かつた西尾は、世間のこの状況を認識してゐるのか何うか。西尾は、天皇がゐなくなつても日本は存在し續ける、と信じてゐる。それに松原先生は異議を唱へてゐる――天皇がゐなくなつたら最う日本は日本ではない――のだが、――。
概説を書くということは、どうしてどうして、そんなにらくなことではないのである。宮崎氏は良い文章を書かうとした。その點、評價されていい。
Swift is now dead. I haven't worked on it in months and really just don't want to anymore.
翻訳サイトによる直訳:スウィフトは、現在死んでいます。私は数か月でそれに取り組みませんでした、そして、本当にちょっと、もう必要としないでください。なんで機械飜譯に頼るんだらう。しかも誰も直さうともしない。やつぱりWikipediaはダメだよ。Swiftは最う死んでゐます。私は何箇月も何もやつてゐませんし、これ以上最うやりたくないんです。
わたしは殺されるのは嫌だし手を怪我するのも嫌だろう . 人を殺して罰せられるのも嫌だ . わたしは“何故迷惑を掛けてはいけないのか”に答える事は出来ないが , “God がお決めになられた”よりずっとマシだと思う . これは“水からの伝言”を問題視するのと同じ理由だ .
それどころか科学者が神様の存在を疑問視して罰せられたってケースもある . こういう“踏み込んではいけない領域”を作る姿勢は大嫌いだ .
“右の頬を打たれたら , 左の頬を差し出せ”――冗談じゃない .
“日本”と“西洋”を対比させるって凄く愚かしくないか .
どーでもいいけどイスラム教の話って華麗にスルーされる傾向が多いよね .
先程江戸川(亂歩)さんがお話になつたが、はつきりさういふ(純文學と大衆文學の)對立が讀者層にも、又作家の方にも表面に出て來たのは、大正末期の頃でせうが、もつと根本的に言へば、日本の近代文學の出發點で、すでに二葉亭と紅葉との對立があり、それ以後も兩方がずうつと尾を引いてゐる。
その大衆性といふことはかならずしもおもしろさや娯樂性とは關係ありませんね。
漱石などがもてたのは、その道義の主張、乃至は解説で、ごく一般的な日常生活者に如何に生くべきかといふことを教へたからです。「ほとゝぎす」にしても「金色夜叉」にしても、多かれ少かれその手でもてたので、日本の大衆が一番好きなのは、道義ではないかと思ひます。
- 坂口(安吾)
- 總て專門の世界には、常に一般性はない。
- 木々(高太郎)
- 本當を言ふと、僕はさうではないと思ふ。
- 江戸川
- 偉大なる學問には、總て大衆性があると思ふ。世の中を變革する力を持つてゐるやうな學説は結局大衆性を持つわけです。
- 福田
- さういふ問題も日本とヨーロッパとの現實の差をよく考へたうへでなければ、かんたんにはいひきれないでせう。
- 木々
- 私はその點に非常に興味を持つてゐる。然し、私はもうこれからは、ヨーロッパの文學も、日本の文學も一緒に考へてゆく事がよくはないかと思つてゐる。そして、この邊で本當のものへみんなで入りこむ時が來てゐるのではないかと思ふ。今迄の發育も意味のあることだつたが、もうお別れの時に來たといつてよいではないか。
- 福田
- 私の考へでは、日本はまだそこまでいつてゐないやうな氣がします。暫くまだかういふ状態が續くのではないか。いや、へたすると日本は、いつまでたつても花道で、本舞臺にはつひに足がかからないのかもしれませんね。……
- 木々
- 現状を見るとね。……然し打開の意志はなくてはならぬと思ふのですが。――
- 福田
- 方向としては、一緒になるべきものと考へますが、今さういふやうに概念的に一緒になるべきだ、といつて一緒になつた錯覺を持つよりも、別れて、それぞれの仕事をした方がよいではないでせうか。
確かにキリスト教的な聖域が存在する“西洋”で近代科学が成長し個人の開放を求める運動があったのも事実だが , それはキリスト教が“反面教師”に過ぎないって事だろう .
言っとくが俺は日本と西洋を同一視しろとは一言も言ってねえぞ , 単一の国家である“日本”と大雑把なくくりである“西洋”を比較するのが愚かしいと申してるのだ .
何故殺人がよくないのかに対するは返答は“犯罪だから”でいいんちゃうの , 仮に法律で守られていなかったらお構い無しに人を殺しても好いと思うよ . だって許可されているンだからな , ただし自分も殺される危険性を忘れずに . 因みにわたしは殺人はしない .
わたしは殺人はしない訣だが、金川容疑者の場合には「する」だつたと。
……。
そればかりではない。イタリアに起つたルネサンスと北歐の宗教改革とを一括して無差別に論ずる俗論に對して、この兩者をことさらに峻別する風潮もあるわけであるが、このさいにも氣になるのは近代ヨーロッパの發想を南歐のルネサンスに見る立場にせよ、あるひはそれを宗教改革に求める立場にせよ、兩者の性格的相違をあまりに峻別しすぎるきらひがあることだ。ぼくは宗教改革こそ近代精神の原動力であると信ずるものであり、南歐のルネサンスが眞にヨーロッパ近代史のうちに織りこまれ、そのうちに文化的遺産として受けとられるためには、宗教改革の精神に先導されねばならなかつたと考へてゐる。それにしても――といふより、それゆゑにこそ、宗教改革とルネサンスと、この二つの事象は當時の歴史的事實として峻別して考へるべきであつても、つぎに來るべき史的展開をとほして一本に統一されていつたといふ點から、のみならずこの二つの劇の主人公はあくまでおなじ中世であつたといふ理由から、やはりひとつ運動として考へるべきである。
音樂を形成する要素は音階と律動である。それらはどちらも音樂との場において等しく、對等な立場にあり、それでかつ尚、お互いに獨立した要素である。
あくまでも感覺的な話であり、萬人共通の統一された「音樂の本質」などあらうはずもありません。
誰も現代音樂の起源についての話などしてゐません、私は音樂の本質について話をしてゐるだけであり、起源がどうのとの話をしてゐるわけではない、そのやうなことは今まで一言も申してをりません。
しかし論壇に屡々登場する右派智識人たちが書くのは相も變はらず左翼の惡口ばかり(最近は右派の内輪揉めも増えてゐるやうだが)で、國家や戰爭や道徳について本質的な疑問に答へてくれる議論は全然見當たらない。
近代的自我の創出か,資本主義的経営の確立か,主権国家の成立か。などと、もつともらしく「具體的な事」を言ひ、俺を
乱暴すぎる。と極附けて嘲笑した。これが俺は甚だ氣に食はない。
逆に言えば,両者を比較して多くの共通点を見出し,近代化における「復古」の一般則みたいなものを提言できるのであれば,それはそれで非常に面白い話になる。等と、俺の意圖を全く汲み取らない、適當な一般論を言つて、それで自分は合理的な事を言つてゐると宣傳した。
ここではルネサンスが近代的自我の創出に大きな意味をもったという点を指摘するにとどめたい。――それが
西歐の近代化の端緒であるルネサンスは復古以外の何物でもない。を完全に論破した結論であると平野は勘違ひしてゐる。全然別の話を持出しただけの事だ。批判にも何にもなつてゐない。
明治維新において王政復古の大号令が発せられたことからも知るように,近代日本の建設者たちは時として「古」を強調した。
これらの「復古」は,ニッポンという主権国家の創設に捧げられたものと言える。――契沖は明治の人間ではないし、明治政府どころか江戸幕府とも關係してゐない。俺の言つてゐる事を平野は理解しようともしないで、ただ「王政復古」と云ふ文字で話を關聯附けて、それつぽい事を言つて俺を黙らせようとしたにすぎない。
西欧も復古で近代化,日本も復古で近代化,歴史的平行現象,と片付けるのはあまりにも粗雑すぎる。――細かい事を言へば幾らでも「違ふ」と言へるだけの話だ。平野は一般論で話を方附けようとしてゐるに過ぎない。
技法的にはとくに見るべきところはなく、まあ凡庸に物語が語られるだけだが、認識と語り口が絶妙にからみあったときはやはりとても面白い。
経歴から明らかなように工学的な技術が可能にするものの臨界に位置する緊張感、切実感がギリギリに高まっていて、その分、たとえば事態を根本的に変えるような科学的/工学的見通しが立てばまったくアクチュアリティが失われてしまう危険性もあるが、まあいまのところはまだまだじゅうぶん刺激的な本だと思う。
できあがつた音樂を便宜上、機械的に表現し直したものが樂譜や音階である。
音階に限つた話をすれば、むしろビブラートのやうな音の機微から先人逹は音階を發明した、私はそう想像してゐる。
機微の表現がビブラートなり何なりだ。
さて本題の3。この二つの事例を,平行現象と言えるか。イタリア都市のルネサンスは異教的世界観の再導入,人間中心主義運動としてあらわれた。その栄華は,資本家の後援のもと,学問や技芸といった精神活動において花開き,後に近代的自我を形成した。日本の「復古」運動は,主権国家を創設するという目的のもと,政体変革の過程において援用された。太古を振り返る視線において,両者に類似を見出すことはできるかもしれない。だがその内実に踏み込むと,発端,担い手,活動範囲,持続時間,結果など各要素の多くにわたって食い違う。そもそも「近代」には多くの側面があり,両者が近代化をもたらしたといっても(少なくとも直接には)相異なる分野においてのことだ。西欧も復古で近代化,日本も復古で近代化,歴史的平行現象,と片付けるのはあまりにも粗雑すぎる。
逆に言えば,両者を比較して多くの共通点を見出し,近代化における「復古」の一般則みたいなものを提言できるのであれば,それはそれで非常に面白い話になる。等と、他人事のやうに行つてゐる。俺は「面白い話」で濟ませられる問題でないと思つてゐるから、安易に西歐と日本の近代化を一緒くたにする議論に反對して來た。
両者を比較する事が「できる」と認めてゐる。ならば、その時點で既に
両者が平行現象だと認めてゐると言つていい。全く無關係の現象であるならば、
比較のしやうがないからだ。比較對照し得るならば、その時點で二者は既に何らかの類似が存在してゐるし、關聯も存在してゐる。だからこそ、平野氏もまた直感的に「比較出來る」と言へたのだ。俺にしてみれば、一種の同意をしてゐるのにもかかはらず、平野氏が不同意を唱へてゐるのは不自然に見える。例によつて、專門家氏は何をとぼけてゐるのだらう、と俺は思ふのだ。
日本人の近代化が復古の形式をとつたのは、偶然であるかも知れないが、一方、歴史的には平行現象であつた。と言つた。平野氏は執拗に内容を問うてゐる、が、俺は形式と言つた。内容と形式とでは次元が違ふ。平野氏は違ふ次元の事をごつちやにし、知つたかぶりをして、因縁を附けてゐる。
音階によつて規定された音の輯合の時間軸に沿つた流れである。
新サービス「ニュースクリップ」 スタートしました!とポップアップが出て來て紙面(?)を覆ひ隱して呉れる。どうせクリップしてゐる人なんて數人だし、閲覽者の九割九分九厘までが必要としてゐない機能だが、そんなサーヴィスのアピールが閲覽する度必ず現れる。何なんだらうと毎囘思ふ。この手の「面白さうな機能」「役に立ちさうな機能」は、大概開發者の自己滿足に過ぎない。
お前は何を言っているんだ . 現代的な欲求ってビブラートは百年以上前からあった技術だぞ .
所論のルネサンスが14-6世紀イタリアの人文主義運動のことだとして(*),それが何を否定して何を再生しようとしたのかを考えれば,明治維新と「平行現象」だなんて片付けることはできないはず。
- (* 他にもカロリング朝ルネサンス,中世ルネサンスなどが知られている。)
のじたんの議論に総じて言えることだが,定義に揺らぎをもちこんで結論を誘導している。「近代化」という変数がこの実行コンテキストにおいていかなるオブジェクトを指示しているのか。近代的自我の創出か,資本主義的経営の確立か,主権国家の成立か。あるいはそれらの総てなのか。明確なことばに基づかない言説は批判に対して開かれていない―――ポエムとしてならばそれで良いのだけれど,学問的誠実さには欠ける。
本書に収められた評論十九篇は、文学的出発から晩年までの広範囲にわたって集められたもので、内容的にも文学論から文芸時評、社会時評の類までを含み、まさに安吾の捉えどころのない魅力の展示場といった趣きがある。また評論と書いたが、「ラムネ氏のこと」「散る日本」などは全集では小説として扱われており、単に小説とか評論といった容器には盛りきれない、安吾文學の捉えどころのなさを示している。
捉えどころのない文章を、「安吾」の名前が附いてゐれば有難がつて讀む連中が、「野嵜」の名前が附いてゐれば「ポエム」「ポエム」と言つて馬鹿にして快を貪る。
捉えどころのない文章を大變好んだ。俺も好む。
批判に対して開かれていないと平野氏は言ふ。が、平野氏が徹底して俺の意圖を無視し――そもそも理解しようと努力すらしてゐない事を俺は指摘したい。專門家は皆さうだ。自分の知識の中にあるパターンに適合しない事を言ふと、即座に「誤だ」「バカだ」と嘲り、罵り出す。專門家の言ふ事を俺は屡々參考にするが、しかし專門家は素人の言ふ事と見ればすぐに馬鹿にする。プログラマが人を馬鹿にするのも自分が專門家だと思つてゐるからだが、專門家の傲慢さには反吐が出さうだ。
乱暴。それは結構だ。亂暴な事を言つてゐるのだから亂暴と言はれても全然構はない。ただ批判にすらなつてゐないだけだ。なぜ俺が亂暴な事を言つたのか。それを理解しようとしたか。表面的な知識のレヴェルで「俺の知識に適合しない」と平野氏は言つただけだ。それはさうだ。頭のいい專門家の頭の中に整理されてゐる細分化された知識を、俺は問答無用で破壞したいだけだ。
近代的自我の創出、
資本主義的経営の確立、
主権国家の成立、
あるいはそれらの総て、と、そんなものだけなのか。最後の
それらの総てとは、足し算で全ては何とかなる式の發想だな。今となつては誰も見向きもしないマルクスですら、辨證法と言つたんだぜ。明確でない。なるほど。明確である事だけを議論したいと。それは明確でないものは全部切捨てろと。專門家のやり方は何時だつてさうだ。切捨てて、わかるものだけ採上げて「わかつた」と言ふ。
近代的自我の創出か,資本主義的経営の確立か,主権国家の成立か。あるいはそれらの総てなのか。と云ふ文句ではつきり判る。平野氏は、イデオロギーとか、政治とか、さう云ふ觀點から物を見たいんだ。
基本的な趣旨はやはり想像力、自我論と同じで、情緒も非反省的地平における意識に発し、そこでこそ理解されるべきであるとする。意識を条件づける身体(脳その他)という考えに慣れた私などからするとサルトルの論理を構成する例示とその解釈は奇妙な印象を与え、そこまですべてを意識の元におかなくても、という気にさせる強引なものだが、ある意味では人間的「意味」を断片化してしまう自然科学的思考を如何にして乗り越えるか、というのが当時のサルトル(そしておそらくは彼のみならず多くの哲学者たち)にとっての焦眉の急となる課題だったのだろうと推測されないではない。
1日は「レーバーデー(労働者の日)」の休日のため、米政府の公式反応は出ていないが、米側は後任の首相に、海上自衛隊によるインド洋での給油活動など「テロとの戦い」における協力の継続を期待している。
不毛なやりとりと云ふ實にひどい總括の仕方をしてゐる。これは、安田氏が「現代かなづかい」「現代仮名遣」は「正しい」とする立場の人だからで、その爲に「現代かなづかい」の正當化に失敗した金田一に批判的であり、同時に歴史的假名遣の支持者である福田氏を評價出來ない。だが、安田氏が明確に自己の立場を表明する事はなく、ひたすら「中立」の位置に留まらうとする。安田氏の政治的信條はうつすらと透けて見え、また戰後の國字改革に對する態度も何となくわかる。けれども、氏は、どんな時にも、いざとなると決定的な判斷は避け、一般論に逃げてしまふ。安田氏の文章は、讀んで隔靴掻痒の感を拭へない。ところが、曖昧極まる一般論と云ふ奴、安田氏は何うも「解る人には解る」類の書き方をしてゐるらしく、まあ、はつきり言つて當てつけで、俺は散々苛々させられた。或意味金田一の紹介を書くには打つてつけの人物だが、この種の書物は有害で、また内容は實に皮相的だ。かう云ふ本を平然と讀める人はちよつと何處かをかしいのではないかとすら思ふ。