闇黒日記


平成十八年十二月三十一日
何處でもやつてゐる今年のあにめ總括を藝もなくやつてみるよ。
一月〜三月。昨年度に入るのかも知れないけれども。マジカノ。正月に先行放送があつて、結構期待させた。途中で失速したのが殘念。鍵姫物語。ネギまでいろいろあつた宮崎なぎさ監督作品。あちこちに無理があるけれども案外良い話になつた。最終話が番外篇。落語天女おゆい。話は兔も角、毎回繪はかはいらしかつた。後藤さんの最終囘の熱演がリアル過ぎて泣ける。タクティカルロア。自衞隊が協力するまでもなかつたあにめ。実況の保存したスレを見返したら結構エロかつた事を思ひ出した。エロだけだと忘れられると云ふ典型的な例あー戰鬪シーンもあつたけれども忘れました。陰からマモル。阿智太郎のあんまり面白くない原作に比べるとあにめは割と觀られる出來になつてゐた気がする。ばーななばななばーななとともにふたば方面ではとしあきが登場した事で記憶される。よみがえる空。自衞隊が協力して良かつたアニメ。しかしかう云ふ方面でないと自衞隊を褒めてはならないのかねえ。LEMON ANGEL PROJECT。ネームヴァリューを利用した「續篇」だが「前作」を遙かに超える良作。最近も相變らず作られ續けるアイドル養成アニメの中でも出色の出來と言つて良いと思ふ。個人的には今年一番好きなアニメ。作畫のレヴェルが低下するのと反比例して話が面白くなつたので、早い頃に切らない方が良い。特に第一話。ただ、全部觀た人の間でも評價が眞二つに分れるから、肌に合はない人には徹底的に合はないらしい。練馬大根ブラザーズ。かしましガールミーツガール。ともに「狙ひ過ぎ」で出來は今一つ。パピヨンローゼTV版。非道過ぎてワラタ狙ひだつたみたいだが今年はもつと非道いアニメが續出して埋沒。怪。化猫の御話のみ。テクスチャ作畫がいかす。過剩演出で大評判。前期からの繼續組。ガンパレードオーケストラ。期待に反してどんどんエピソードが糞になつて行つたアニメ。最初の章が一番増しだつたと云ふ非道い落ちで非難轟々。クラスターエッジ。總集篇が前半に集中する珍しいアニメ。一時期までこのまゝ行けば可なりの糞アニメに終るだらうなと變な期待をさせて呉れたのだけれども、後半は案外普通の出來でややがつかり。蟲師。良作と稱せられるが慥かに普通に良作。Canvas2。第一話が如何にも詰らなさうな點、最終囘に纏め損ねた點以外は良作。あとOpEdが良い。プレイボール2nd。普通にキャプテン→プレイボールのつづき。谷口さんが無茶な人なのがよくわかるアニメ。
四月〜六月。涼宮ハルヒの憂鬱。微妙→ライブアライブ。第一話の乘りは俺は面白く感じたけれども世間では反感買つたらしい。途中は今一つなエピソードが結構多い。ライブアライブで大化け。と言ふかあれがなければこのアニメ何うなつてゐただらう。吉永さん家のガーゴイル。若本の出て來る御説教アニメ。良く纏まつてゐたとは思ふ。錬金3級 まじかる?ぽか〜ん。意外と希少なアニメオリジナル作品。第一話と最終話が微妙で後は樂しめる話が多い。アンドロメダ田無の話なんかがあるから結構侮れない。Soul Link。一往辻褄は合つてるが、その爲に超展開にするのはいかがなものかと。ひまわりっ!。聲優の人は兔も角本筋がほつたらかしにされてゐたのはいかがなものかと。話は平凡な「よいおはなし」が多い。第二期始まりますね。CMで中の人がますます下手になつてゐる。女子高生。割と樂しい御話が多かつたけれども纏める氣がない最終囘には云々。夢使い。原作が剩りにアレなので内容を改變されたと聞いた。第一話のそこそこ良い氛圍氣の話を作り續けられなかつた失敗作。西の善き魔女。長い長い原作を一クールに無理やり納めた怪作。勢ひだけで突走つたので結構面白かつたけれども竜頭蛇尾の觀がある最終囘にはちよつとがつかり。姫様ご用心。全體に微妙。後半ちよつとだけ盛上がつたけれども結局微妙。以下は次期(以降)に續く。ストロベリー・パニック。ウィッチブレイド。ひぐらしのなく頃に。BLACK LAGOON。うたわれるもの。ARIA The NATURAL。エア・ギア。吉宗。
七月〜九月。ゼロの使い魔。色々無茶してゐるけれども話はきちんと纏まつてゐた。割と良くキャラクタが描かれてゐた氣がする。つよきす。寒い&いろいろと詰めが甘い。世間ではいろいろ言はれてゐるけれども、個人的にはそんなに嫌ひでなかつた。中原まいまいが何時もと違ふ演戯をしてゐたのが良かつた。内閣権力犯罪強制取締官財前丈太郎。最近増加中の馬鹿アニメの中でも、とりわけ目茶目茶な作品。演出その他とても眞面目にやつてゐる筈なのに結果として却つて笑へる出來になつてゐるのが凄まじい。カットインする爲にストーリーがあるとかもつぱらの評判。史上最強の実況向けアニメと言つて良い。一言で言へばだっぽん。しかし最後までテンションが下がらないどころか寧ろ無茶苦茶盛上つて終つたのだから侮れない。コヨーテラグタイムショー。第一話・第二話のテンションを維持出來ないまゝだらだらシチュエーションの説明に終止したアニメ。となグラ。キャラにいろいろ問題あり。今のやうにアニメが濫發されてゐる状況で、賣りがエロだけなのでは商賣として成立たないのでは。恋する天使アンジェリーク。中途半端なのは否めないが馬鹿アニメとしての片鱗を見せてゐたので視聽。話が終つてゐない。と言ふか、二期がある。前期からの繼續組。ストロベリー・パニック。終盤の展開が御都合主義的で纏めをミスつた印象あり。途中までの馬鹿展開は樂しかつた。作畫が今一つでも脚本と演出で許せるとまで言はれたけれども、慥かに個々の御話は面白いものが多かつた。脚本家がそれぞれ勝手に話を作つてゐて、全體として整合がとれなくなつてゐたのは大問題。企劃自體が半死半生状態だつたのを盛返したアニメの功績は大きいと言へば大きい。ウィッチブレイド。戰鬪がしよぼくて日常シーンが良かつたアニメ。最終囘の纏め方が拙かつた氣がする。BLOOD+。全體にかつたるいアニメ。部分部分では笑へるネタもあつたのだけれども。最終囘の纏め方は、ウィッチブレイドよりは良かつた氣がする。特にEd。ひぐらしのなく頃に。ネタアニメとしては割と理解可能。面白いか何うかと問はれれば微妙としか答へやうがない。うたわれるもの。文句を附けようと思へば幾らでも附けられるけれども、アニメ制作者が相當氣合を入れて作つてゐた事は看て取れる出來で、好感が持てる。良作。ARIA The NATURAL。脚本・作畫等いろいろな點で文句を附けられるけれども、餘り深く考へないでぼんやりながめてゐるのが一番正しい觀方。そもそも俺はこの作品を端から評價してゐない。エア・ギア。意圖はよくわかる小中脚本だけれども、面白さが附いて來ない。吉宗。豫想以上に樂しめたけれども結末が訣解らなかつた。まあまあ。以下は次期(以降)に續く。ちょこッとSister。N・H・Kにようこそ。
十月〜十二月。乙女はお姉さまに恋してる。ハルヒがライブアライブで強い印象を殘したのと同じで、ロメオとジュリエットの囘で強い印象を殘した。實際途中には案外面白くない話がある。終盤盛返して巧く纏めた。演劇的な演出を隨所で用ゐて無理な話を濟つてゐる。シェイクスピアと同じで、御芝居だと割切つて無理な設定も氣にしないのが正しい。らぶドル。今年のアイドル養成ものの中では一番非道かつた。凡庸なプロットが作品を殺してゐる。くじびきアンバランス。ストーリーや設定よりも「繪が動く」事を樂しく見るのが正解のアニメ。樂しく觀られた點では今年のアニメの中でも可なり上位に入る。話もそんなに惡くないよ。Gift 〜ギフト〜 eternal rainbo。ぎゃるげ原作アニメの極北として歴史に殘りさうなのらしい。銀色のオリンシス。一貫して作畫レヴェルが低いアニメ。話は超展開なので実況するには良かつた。夜明け前より瑠璃色な。キャベツ。最終囘邊、辻褄合せの超展開も素晴らしい。この位非道くないと最近は埋沒する。マージナルプリンス。馬鹿にしながら觀るのに丁度良いアニメ。tvkではちょこシスと何故か毎囘ネタ的に連係してゐて笑へた。案外面白い。ギャラクシーエンジェる〜ん。キャラクタがシチュエーションに流されてばかりで面白くない。何かが起きると一々全キャラクタが順番に感想を述べる。藝がない。キャラ自體は可愛らしい。前期からの繼續組。BLACK LAGOON。第一期の時點では割と單純に面白かつた。第二期は非道い話ばつかりだけれども何うせ世の中こんなものとか思つて觀れば大體納得。現象學ネタで〆。ちょこッとSister。実況スレでは花屋が嫌はれ捲つてゐた。釘宮が登場した後半、前半の糞ぶりが嘘のやうな佳作エピソード連發。最終囘が結構良い。まさかちやんと纏めて來るとは思はなかつた。あざといけど。特にねこにゃんダンス。N・H・Kにようこそ。がんばつて觀てゐたけれども最終囘前一箇月の邊で脱落した。以下は次期(以降)に續く。銀河鉄道物語。コードギアス。少年陰陽師。ゴーストハント。ネギま?! 天保異聞妖奇士。パンプキン・シザーズ。武装錬金。蒼天の拳。奏光のストレイン。
平成十八年十二月三十一日
Internet Explore 7マジ糞だな。2.6MBの*.mht讀込ませると表示するのに三十秒位かかる。
平成十八年十二月三十一日
Revival Gate - 今年最も「残念」だったアニソン決定戦!:エントリー

平成十八年十二月二十九日
上野修『スピノザ 「無神論者」は宗教を肯定できるか』讀了。『神學・政治論』の正しい讀み方を教へて呉れる。スピノザは、無神論者だが、神を奉ずる宗教の存在を「敬虔」の觀點から評價して認める、と、さう説明してゐる。日本の「無神論者」なんかは「宗教を認める」と言つても「馬鹿どもは勝手にやつてゐれば良い」みたいに嘲つて言ふ訣だが、スピノザは眞面目に宗教の價値を認めてゐる。
平成十八年十二月二十九日
藍原みつと『フォーソルティアの風』(電撃文庫)を先日讀了。大體空を飛ぶ話は「良い話」だが、これもさう。キャラクタも大體パターン通りだが惡くない。ヒロインは典型的なつんでれ。描寫には光るところもあるが時々妙にイメージし辛い部分がある。
平成十八年十二月二十九日
世間で大變評判の良い支倉凍砂『狼と香辛料』(電撃文庫)讀了。慥かにヒロインは魅力的であり、また經濟の事・商賣の事だけで話を押通して成功してゐるのも評價出來る。一方、例の「すべからく」の誤があつたり、誤變換に據ると思はれる誤字があつたり、「現代仮名遣」が支配的な現在でも一般に誤とされる「しずらい」なる表記があつたり(慥か)、と、引掛かるところが數箇所あつた。
平成十八年十二月二十九日
メールのデータつて何時までとつておくべきなんだらうな。
メールボックスに溜め込むタイプのメーラだと溜め込み過ぎると動作がをかしくなつたりするし。俺の電八でも一つのフォルダに千件未滿だかの制限がある。
一日何百件何千件メールを受取つて仕事をしてゐる人なんかは何うしてゐるんだらう。

平成十八年十二月二十八日
武装錬金スペシャル。恐らく年明けに放映豫定だつた十四話を前倒しで放映したらしく、前囘の粗筋がやけに長い。
平成十八年十二月二十八日
マジプリ最終囘 @ MX。いい駄ニメだつたとしか言ひやうがない。
平成十八年十二月二十八日
アニメ新番組リスト-----アニ通 「アニメ」、「声優」ファンサイト
アニメ新番組情報
MOON PHASE - ANIME
【レポート】30本弱のアニメが新年スタート、2007年冬期アニメ新番組リスト (MYCOMジャーナル)
WEBアニメスタイル_TOPICS
なんか來期は續篇二番煎じその他のアレな企劃が幾つも。
平成十八年十二月二十八日
新着番組情報
AT-X邊で録畫した方が畫質は良いしCMカット必要ないしで良い事多いのに氣附きつゝある。但し地上波より放映が遲い。
平成十八年十二月二十八日
Latest topics > 瀧田代表理事の写真がダチョウ倶楽部の「ダァー」にしか見えない件 - outsider reflex
Mozilla關係昔話。

平成十八年十二月二十七日
半年くらゐぶりにmixiにろぐいんしたよ。今まで氣附いてゐませんでした。さう云ふ訣で云々。
とか「ここ」で報告する俺。mixiの立場なし。

平成十八年十二月二十六日
エスペランティストは、エスペラントは中立公平で学びやすい国際共通語です。みたいなスローガンを、心から信じてしまふ。實に御目出度いと思ふ。
――と云ふ事を、一方、エスペラントを學ぶ事は何を意味するでせうか。それが「文化」的に曖昧なものである以上、エスペランティストの知るべき知識に就いてもそれは曖昧なものであると言はざるを得ません。この時、エスペランティストが、エスペラントの定義からエスペラントの意義を取得し、それを絶對的な眞實として(主觀的に)受容れてしまふ危險性はあります。と言つて示唆したのだが、エスペランティストに認識して貰へず、代りに辭書の定義を持出されてしまつた。「ある概念の内容やある言葉の意味を他の概念や言葉と区別できるように明確に限定すること。また、その限定。」(goo国語辞典)から「エスペラント運動を他の運動と区別できるように明確に限定すること」と私は捉えたので、云々とか言はれて、こちらは相手が何を言つてゐるのか全く理解出來ず、混亂してしまつた。
何でこんなに話が喰ひ違ふのだらうかと俺は不思議でならない。エスペランティストがとぼけて俺を揶揄つてゐるのだとしか思へないのだが、相手にその自覺はないだらう。天然くらゐ困つたものはない。

平成十八年十二月二十五日
さう云ふ訣で勝手に轉載して勝手に整理した。
福田恆存への言及
「クリスマスプレゼント」として「贈られた」ものを活用したのだから無斷轉載でも問題ない。
しかし、かうやつて整理してみると、本當に元のデータが非道い状態で記述されてゐる事が判る。何で英字で全角と半角をごたまぜに使ふのだらう。何でウェブで公開する文書で丸附き數字を平氣で使ふのだらう。何で段落の途中でわざと強制改行を入れて別の段落に見せかけるのだらう。
この手の文字の遣ひ方を全然解つてゐない人が正字正かな派にゐる事が俺には信じられない。平成疑問假名遣の高崎一郎氏も、以前はこの手の事が全然理解出來ないでゐたやうだつたけれども、今は何うなのだらう。文字の遣ひ方について無知をひけらかしつゝ文字の遣ひ方について説教しても信用されないと云ふ事が解らないで正字正かな派をやつてゐる人には反省して貰ひたい。
平成十八年十二月二十五日
前に福田氏の對談リストも公開されてゐたけれども、どうやつたら探し當てられるんだ? わざと判り難いところにデータを埋もれさせておく根性が氣に入らない。
平成十八年十二月二十五日
言葉の救はれ――福田恆存論: 福田恆存の對談・鼎談
ぐぐって見附けた。ぐぐった方が早いのだから、「ブログ」のナヴィゲーションは全くのナンセンス。
平成十八年十二月二十五日
コルダ。當り前の話なのだけれども音樂をやる人は音樂を好きになりませうと云ふメッセージ。最後。腹黒がひのちゃんを呼び捨て。屋上。
よあるり。糞アニメらしい超展開と無駄な話の盛上げで爆笑。最終囘。
GAる〜ん。キャラなんかの作畫をほつたらかして3DCGに全力を投入したらしい。何時も通りの「ただのパロディ」なのだけれども無駄に力が入り過ぎてゐて笑へた。最終囘。
平成十八年十二月二十五日
銀色のオリンシス最終囘。何から何まで完全に終つてゐる。一體何だつたのだらう。

平成十八年十二月二十四日
おとボク @ tvk。いい最終囘だつた。げーむ原作にしては良く話を纏めたんでないか。
少年陰陽師 @ tvk。前半終了。これで終つても何の問題もない氣がするけれども。
らぶドル @ tvk。今のアニメひどかつたね。あんまり腹は立たないのだからそんなに惡かつた訣でもない氣がしないでもないけれども、非道いと言へば非道い。
平成十八年十二月二十四日
くじアン最終囘 @ tvk。いろいろ超展開があつたシリーズだけれども普通に生徒會引繼で御終ひ。個人的には好きでした。
ウィンターガーデン。前半くじアンと被つてゐて未だ觀てゐないけれども大體「いいおはなし」で終つた感じ。と言ふか終つてゐない。シリーズ化希望。ネタアニメの筈なのに普通に良い話になつてゐるのがネタとして面白い。
ローゼンメイデン。何時の間にかぐだぐだになつてゐたシリーズを補完する特番。アリスゲームとか恰好良い言葉を使つてゐるけれども要は姉妹の御人形が肉體言語で語り合ふ頭の惡い作品で、銀さまが切れてブローチ割つたり眞紅がジャンクと罵つたり。眞面目に觀ない方が良い。ネタアニメとして觀ると面白い。
平成十八年十二月二十四日
Gift。ぐだぐだになつてゐた話を何かもつともらしく纏めて良い話で終らせようとしながらCパートで臺無し。
平成十八年十二月二十四日
見出しの階層構造:ITpro(最上位レベルのh1タグは、あるページに出てくる唯一の見出しにしか付けられないタグである。
覚え書き@kazuhi.to: Re: 見出しの階層構造(この記述を読んで、h1要素がWebページ中に1回だけしか登場してはならないものと仕様書上定められている、などと誤解する人が増えてしまうとよろしくないかなぁと。もちろん、制作ポリシー(何)としてそのような決まりを定めるぶんには(良し悪しは別として)概ね問題ないと思うのですけど、少なくともW3Cの仕様上はそのようには書かれていないわけで。
此の種の「W3Cは言つてゐない」式の言ひ方、必ずしも説得力を持たないと思ひますが如何。
「object要素の中身にブロックレヴェル要素を入れる事は可能」と云ふ主張は、多くの人から「正しくない」と非難されました。しかし、W3Cの仕樣書には「そのようには書かれていない」のでして、實際、その種の記述はW3CのValidatorを通ります。
そもそも、W3CのHTML 4.01 Strictですら、見出しレヴェルに基いた文書の階層化なんて事は全く言つてゐません。屡々「W3C原理主義者」が非難するとされる「テーブルレイアウト」ですら、仕樣書では禁止されてゐません。本文中に見出しが存在せずテーブルのみが記述された文書であつても、Validatorは「正しいHTML文書」と判定する事はあり得ます。
と言ふより、そもそもW3CのHTMLに關する定義は大變に曖昧で、そこで「正しいHTML」と言つてゐる事自體が或意味問題だと言へます。とほほ先生のやうな(?)tableレイアウトやfont弄りを肯定する立場の人々に一貫した記法の主張が存在しないのは、「やり方なんて出たら目で良い」「好い加減な記述でもそれつぽく見えればOK」と云ふ彼等の主張に對して、矛盾してゐません。しかし、「正しいHTMLを主張する立場の人」が、互ひに異る解釋をしながら、それぞれ「W3C準據」を謳つてゐるのは、根本的なところで問題を含んでゐるやうに思はれます。要は、「W3C原理主義者」が、必ずしも「W3Cが言つてゐる事」の範圍内で物を言つてゐるのでなく、「W3Cが言つてゐない事」を勘案していろいろ言つてしまふ事がある、それは問題だ、と云ふ事。
實際のところ、W3Cの言つてゐる事は常に不十分であり、解釋によつて缺けてゐる部分を補はなければ「説明にならない」事が屡々ある。この時、我々は「W3C準據」を謳へるのですか。
個人的な意見ですが、現實問題として、我々は純粹に「W3C準據」の話をし得ません。だからこそ、どんな「HTMLの解説」であつても、嚴密には「書き手の判斷が根本にあつて創作されてゐる」と判斷せざるを得ません。「W3C準據」と稱してW3Cには無斷で公開されてゐる多くの記事についてW3Cが「著作權侵害」の訴へを起さない・起せないのは、そこに理由があるのでないか。
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平成十八年十二月二十四日
「現行憲法無效論」を批判して、「現行憲法の下で成立した法律その他が全て無效になる」と言ふ人々に對して。
井上孚麿が『現憲法無效論』で大日本帝國憲法には以下の記述があると指摘してゐる。

第七十六條 法律規則命令又ハ何等ノ名稱ヲ用ヰタルニ拘ラス此ノ憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ總テ遵由ノ効力ヲ有ス

井上氏は、法の公信力の原理を知つてゐればその種の批判はあり得ないと指摘し、また上記の大日本帝國憲法の條文を引いて、このやうにして、無效復原は、法的安定を紛更させて、日本国憲法を基礎として作られた一切の法制・政治・立法・司法・行政はもちろん、公私の法律に至るまで、土崩瓦解することになりはせぬかといふ懸念は、全くいはれのないばかりでなく、むしろ却つて法的安定を確保するためにも、無效復原は必須不可缺のものであることが明らかにされるのである。と述べてゐる。
平成十八年十二月二十四日
言葉の救はれ――福田恆存論: 福田恆存論のあれこれ
クリスマスプレゼントなのだと。何時も思ふのだが何うしてこの人はかうもぐだぐだなフォーマットでしかデータを提供出來ないのだらうか。
大體、過去帳行きになつたら埋もれてしまふ「ブログ」の記事なんかに、この手のデータを埋め込んでおくのは何うかしてゐる。

平成十八年十二月二十三日
スーパーブロッコリータイム。
ウィンターガーデン。話自體は色々突込みどころがあるのだらうけれども、ネタアニメなので苦笑しながら見ると樂しい。
ローゼンメイデン・オーベルテューレ。薔薇乙女の一聯のあにめでは一番面白い氣がする。
明日くじアンtvkとウィンターガーデンがかぶる。仕方がないからくじアン觀てウィンターガーデンは録畫。
平成十八年十二月二十三日
コードギアスと妖奇士も、なんかよくわからないが、兔に角はじけてて面白かつた。特に妖奇士。會川昇が無茶苦茶やつてる。
神アニメの狹間で銀河鉄道物語が埋沒。
平成十八年十二月二十三日
野嵜が前に「スピノザの態度は極めてキリスト教的である」と指摘したところ、「スピノザは無神論者だからキリスト教的である筈がない。野嵜は頭がをかしい」と非難を浴びせて呉れた人がゐた。野嵜が「キリスト教的」と言つた意味を全く理解しようとしないで、「キリスト教」と云ふ用語と「無神論者」と云ふ用語の一般的な意味だけを見て「矛盾だ!」と極附けた例だが、かうした「文脈を讀まうとしない」「兔に角相手を矛盾と極附けて默らせようとする」惡質な人間の存在は困つたものだと思ふ。
野嵜が「キリスト教的な態度」と言つてゐるのは、前から野嵜の言つてゐる事を知つてゐて、正しく理解出來てゐる人ならば、誰一人誤つて解釋する事はない筈だが、「物事を嚴密に區別する態度」の事で、「政治と道徳とを嚴密に區別する」と云ふ事を「キリスト教的な態度」の一例として擧げておけば野嵜の言ひたい事は、解る人には解るだらう。ところが、野嵜の言ふ事を解りたがらない人がゐて、かう云ふ説明をされても「野嵜の言ふ事だから」と言つてひたすら無視して、阿呆のやうに野嵜を嘲笑ひ續ける。
スピノザは、『エチカ』で(日本人ならば)驚くべき「理性的」な態度をとつてゐて、これはこれで「キリスト教的な態度」であるのだけれども、「理性的な態度」を「キリスト教的な態度」と云ふ事が、野嵜を嘲笑ふ人間には理解出來ない。しかし、日本人の態度とクリスチャンの態度とを比較すれば、日本人が極めて非理性的で、クリスチャンが極めて理性的であると云ふ比較は、可能だらう。「否、絶對にそんな比較はあり得ない」と反論する人もゐるだらうが、その手の「反論」が屡々「だつて野嵜の言つてゐる事だもの、間違ひに決つてゐる」と云ふ何うしやうもない「根據」にしか屡々基いてゐない事は、何とも嘆かはしい。
で、『神學・政治論』は、『エチカ」とはまた別の、スピノザの重要な著作だが、これが極めて解り辛い代物である事を上野修氏は正しく指摘してゐる。その上で、これが書かれた背景を説明しつゝ、上野氏はスピノザのこの著作を「單純な無神論者の著述」でない事を示してゐる。
スピノザは『神學・政治論』で、哲學と神學の嚴密な區別を立てようとしてゐた。或は、理性と經驗とを嚴密に分離しようとしてゐた。スピノザが『神學・政治論』を書かうとした背景として、自由主義の國オランダの當時の情勢があると上野氏は言つてゐるが、動機の穿鑿は何うでも良い。兔に角、スピノザは嚴密に「物事を分かつ」事を企圖した。それはスピノザが「キリスト教文化圏のヨーロッパ」で生れ育つた事の「必然的な歸結」であると俺は見るのだし、だからこそスピノザのさうした態度を「キリスト教的な態度」と言ふのだが、野嵜の言ふ事を出來る限り愚かしい事に見せかけたい人々がゐて、野嵜の説明を出來るだけ異常なものに見せかけるべく、かうした野嵜の説明を無視し、人々の目に觸れないやうにして、ただ、結論としての「スピノザはキリスト教的」と云ふ言葉だけを取出して、そこに「スピノザは無神論者」と云ふ常識を持出して、「野嵜の言つてゐる事は矛盾」と極附ける。斯うしたやり方は、恐ろしいまでに非理性的で、同時に恐ろしいまでに日本人的だ。俺にして見れば、その手の性急な結論の下し方をして「俺は正しい事を言つた!」と信じてゐる連中は、近代以前どころか野蠻の領域に片足をつつこんでゐるのだし、それは良くない事なのだけれども、連中はさうやつて野蠻の領域を「保守」し、出來るだけ近代的で「キリスト教的」である事を排除しようとするのが「正しい」事であると心から信じてゐる。

平成十八年十二月二十二日
D.H.ロレンス『ロレンスのヨーロッパ史』「第一章 ローマ」

ただローマの市民は、自分たちもその作成に関与していた法律を遵守しなければならなかった。ローマの市民であることは――ローマの真に偉大な時代においては――誇り高き自由な人間、どんな主人の支配をも受けない人間、自由の法律を臆せず擁護する人間たることを意味した。

ここで、「法律」なる語に譯註が附されてゐて、以下のやうに書かれてゐる。

共和政の初め、法律はなお慣習法であって、貴族が勝手に解釈していたので平民は不満であった。そこで、前四九四年、平民は、ローマ市北方の「聖山(モンス・サケル)」にたてこもり、ローマからの分離を企てた。こうして貴族との妥協により、護民官が設置されることとなった。後、この平民の権利を保護する護民官テレンティリウス・ハルサの提案により、法を成文化することとなり、前四五一年、初めて成文法としての十二表法ができた。平民は、この成文法を根拠に貴族の不当な権利の侵害を防ぐことができた。なお、前二八七年のホルテンシウス法で、平民会の議決が元老院の承認を経ず、直ちに無条件に国法となった。

平成十八年十二月二十二日
山本啓他『行政・政治学のすべて』(公務員試験協会)「第2編 行政学」
行政學を體系化した人物としてローレンツ・フォン・シュタインを採上げ、以下のやうに説明してゐる。

その著『行政学』などで展開された彼の論理には特異なものがある。彼はヘーゲル流に国家をその国民と融合しあった有機体ととらえ、ヘーゲル左派とおなじようにヘーゲルの国家論を批判してみせた。労働にもとづく財とその分配をめぐって自由競争-適者生存がおこなわれる欲求の体系としての市民社会が、「他の諸個人の下へ諸個人を従属させること」いわば「他人の従属による個人の完成」であるのにたいして、国家は、「もっとも完全な自由、もっとも完全な人格的発展へと個人を完成させること」にある、とシュタインは考えた。この国家は、まさにヘーゲルのいう理念としての国家とおなじものである。この人格性へ高められた理念的困家は、人格としての自我を表象する機関を元首に、全体意思を立法権に、全体的行為を執行権にそれぞれ帰せしめる有機的国家でなければならない。つまり、理念的国家は、その理念を体現する現実の国家へと具体化されなければならないのである。この現実の国家というのは国家の政治制度や行政機構をただちに想起させるであろうが、この理念としての国家と現実の国家との区別は、初期のマルクスやアーノルト・ルーゲの国家論にも類似しているといえる。シュタインは、国家が最高の人格として最高度に発展していく宿命を担い、かつその能力をそなえているとするならば、万人、つまり国民すべての発展のためにも国家が最高の力を発揮して、それを遂行しなければならないと主張した。この国家の諸機関によっておこなわれる国家活動(「国家の労働」)すなわち、国家から市民社会への働きかけを彼は「行政(Verwaltung)」の原理ととらえ、逆に国家意思の形成と決定とに個々人が有機的に参与する機構、すなわち市民社会から国家への働きかけを「憲政(Verfassung)」と呼んだ。国家から国民への働きかけとしての「行政」と国民から国家への働きかけとしての「憲政」という二重構造によって、国家と市民社会の上からと下からの有機的な連関が説かれていった。

シュタインの發想は、河合榮治郎の所謂「理想主義」の發想と平行するものだ。
『自由主義の歴史と理論』
「自由」について
で、このシュタインが大日本帝國憲法(明治憲法)制定に影響を與へてゐる。
JOG(242) 大日本帝国憲法
平成十八年十二月二十二日
ぐろりや会。買つたもの。国語教育講座『国語教育問題史』『国語教育の実態調査/国語教育におけるローマ字教育』(刀江書院)。諸橋轍次選書六『古典のかがみ』(大修館書店)。上野修『シリーズ・哲学のエッセンス スピノザ 「無神論者」は宗教を肯定できるか』(NHK出版)。井上孚麿『現憲法無效論 憲法恢弘の法理』(日本教文社)。ほか。
平成十八年十二月二十二日
「人の上の人」の存在を認めない人――「天皇制」と言つて「天皇を自分の自由を抑壓する人」と極附ける高橋直樹氏等――は、自らを絶對化したり、或は逆に他人に完全性を求めたりする傾向が強いやうに思はれる。
例へば、人のミスを指摘する人が、何時までも何時までもそのミスをした人を「この人はミスをする人である」と言ひ續ける、そんな事が、特にウェブでは非常に目立つ。その人が何を言はうと、「ミスをした人」であるならば、「何を言つても間違ひである人」であると、極附ける。或は、「間違ひしか言はない人」と云ふ事にする爲に殊さらその人のミスを見附けて言立てる。
――「人間のする事に絶對はない」と信じてゐて良い筈の人が、「この人は正しい事を絶對に言はない」と極附けて、さう宣傳し續ける事がある。逆に言へば、その手の人は、人間に對する信頼が極端に強い爲、信頼出來ない人間を「人間でない」として排除しようとしてゐる。「義」なんかが野嵜を中傷して廻つて野嵜の發言を封殺しようとしたけれども、嘗てのアメリカの白人が有色人種に對して持つてゐた「あいつらは人間ではないから、どんな事をしても良い」と云ふ恐るべき發想と、同じやうな發想を「義」も持つてゐるのだらう。白人が黒人を奴隷化して全く良心の呵責を覺えなかつたのは、白人が黒人を「同じ人間」と思つてゐなかつたからだ。「義」にしても、平氣で野嵜に關する惡質なデマを流し續けられたのは、野嵜の事を「人間でない」と信じてゐたからに相違無い。
平等を原理とした共産主義の信者が極端なエリート主義に陷つた事實があるけれども、相對主義者とか云ふ連中こそ寧ろ極端な「絶對主義者」であると言つて良い。その手の「絶對主義者」は、「絶對的に優れた人間」のみを「人間である」と看做すから、「優れてゐない」と判定された人間は「人間でない」と看做すし、その「人間でない存在」に對して途轍もなく殘虐な事をして平氣である。
平成十八年十二月二十二日
雜誌「世界整形」1975年1月号が「象徴天皇とは何か」なる特集を組み、「天皇制を考える」なるアンケートに井上清京大教授(當時)が答へてゐる。

天皇制は、現行憲法上のそれのような象徴天皇制であっても、日本人民の幸福と進歩のためには、百害あって一利もない。しかも象徴天皇は、今や事実上国の元首となり、陸海空軍を統率する大元帥になりつつある、……。かくて議会レベルでは、天皇の大元帥化は合意されたコースのように見える。天皇というものを、象徴の名においてでも、存在させておくかぎり、このコースを阻止することは、不可能であろう。もし本氣に日本軍国主義を防ごうと思うなら、マッカーサーが「二十箇師団にまさる戦力」といった天皇をいっさいの政治的公的制度から除かなければならない。

せめては、現天皇ヒロヒトの戦争責任=犯罪ぐらいは、はっきりさせねばならない。

日本の民主主義だの平和主義だのといっても、最大最高の戦争犯罪人に指一本ふれないで、依然として君主の地位にとどめておくようでは、とうてい本物とみることはできない。

大學教授に屡々とんでもない馬鹿がゐるけれども、こんな人が京都大學で先生をやつてゐて、歴史學者としてやつてゐられたと云ふのだから、日本は本當に駄目な國なのだなあと思ふ。
大日本帝國憲法を井上先生は知らなかつた。いや、そもそも法律に關して井上先生は知識を持つてゐなかつた。だから天皇の「戦争責任=犯罪」を「はっきりさせろ」と主張してしまつた。憲法には第三條 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラスとある。大東亞戰爭當時は大日本帝國憲法が有效だつた。だから天皇は無罪である事は明かである。こんな常識的な事も、井上先生は解らなかつた。
民主主義と法治主義とが密接に結合してゐる事實も、マルクス主義者の井上先生は認められなかつたのだらう。マルクス主義では、支配者が被支配者を支配する手段としてしか法律の意義を認識できないから、法治主義を井上先生は認められなかつたのだらう。と言ふより、マルクス主義者が「民主主義」と言ふ時、それは常に「マルクス主義」の隱語である。左翼が「民主主義」と言ふ時には注意しなければならない。大概、本來の意味での民主主義とは異る事を言つてゐる。それでゐて「俺樣の言ふ民主主義こそが本當の民主主義だ」「御前が主張する民主主義は本當の民主主義ではない」と居丈高に言放つから腹が立つ訣だが、連中の言ふ「本當の民主主義」が、本當の民主主義でなく、マルクス主義を意味する事は覺えておいて良い。
しかし、此れほど偏つた發想の持主であり、此れほど何も知らない人物が、立派な歴史學者として世間に通り、未だに信奉者・支持者を持つてゐると言ふのは、一體どうした事だらう。と言ふか、この時代遲れの井上先生と同じ事を未だに本氣になつて「ブログ」で書いてゐたりする何うしやうもない左翼の人が存在したりする。日本は本當に駄目な國だとつくづく思ふ。
あと、この手の昭和天皇の「戦争責任」を何時まで經つても執拗に言立てる人は、一人の例外も無しに、共産主義を擁護する人である。少くとも、宮本顕治氏の「犯罪」の責任を追及しようとしない人である。宮本氏は戰前の共産黨リンチ事件に關與し、殺人を犯したとされてゐるのだが、現在に至るまで左翼は一言もそれに觸れない。さう云ふ連中が執拗に昭和天皇の「戦争責任」がどうたらかうたら言つてゐる。あきれた二枚舌だと俺は思ふのだが、左翼の連中は、反對者をぶつ潰すと云ふ聖なる目的の爲には手段を擇ばないし、自分逹の不利になる事を言はないで嘘を吐くのは道徳的な善事であると勘違ひしてゐるから、自分逹は正しいと傲慢にも信じてゐるし、野嵜のやうな「右翼」を「人間ではない」と極附け、「右翼」を默らせる爲には卑劣な手段を平氣で使ふし、卑劣であればあるほど自分の行動に誇りを持つ。何とも困つた話だし、常識的にこの手の左翼の發想は「おぞましい」ものだが、根本的に彼等の價値觀は我等の價値觀と正反對なので、この手の批判が批判として全く通用しない。と言ふより、批判として通用しても、彼等は「戰術」としての價値のみで物事を判斷するから、ますます惡質な方法で批判を封じようと劃策し始める。
もつとも、この手の左翼と同じ事を、右翼の連中も屡々「やる」――のだが、俺はさう云ふ左翼も右翼も、全く同じメンタリティの人間だと見てゐる。と言ふより、さう云ふ連中は、時代が「右寄り」なら右翼になつて反對者に暴力をふるひ、「左寄り」なら左翼になつて反對者に暴力をふるふ。彼等は、非人間的で冷酷であると同時に、自らの行爲を正當化して安心したがる人間の弱さを持合せてゐるから、ファシズムだのナチズムだのの自分の行爲を正當化して呉れる思想をありがたく信奉する。大體、人間のやる或種の事を保證して呉れる思想なんてものは疑つてかかるべきだが、この手のイデオロギーを信奉する連中はそれが解つてゐない。
平成十八年十二月二十二日
それにしても、「反天皇制」の人逹は、あの時代に昭和天皇が「大元帥として軍隊を統率してゐた」なんて事を、何うして信じられるのだらうか。歴史的な事實として、我々は、當時の軍國主義者が天皇の名の下に天皇の望まない政治を勝手にやつた、と云ふ事を知つてゐる。ところが、或種の左翼の人々は、さう云ふ歴史的事實を歪曲して平氣である。彼等の言ふ事がふるつてゐて、彼等に反對する人は「歴史修正主義者」なのださうだ。どつちが歴史を「修正」してゐるだらうか。昭和天皇が「南京大虐殺」を實行せよと命令した、と、Yahoo!掲示板で左翼の論者は頻りに主張してゐた。或は、連中、「そんな事は言つてゐない」と主張するかも知れないが、ならば何故「南京大虐殺」を「實行せよ」と命令してゐない天皇に「南京大虐殺」の責任をかぶせられるのだらうか。その邊、主張が支離滅裂なのだが、さう云ふ支離滅裂を平氣で言ふのが左翼である。
井上清氏の發言にしてもさうだが、左翼諸氏は餘りにも安易に價値觀を決定する。そして、反對者の用語を屡々「不正確」と批判し、「間違ひばつかり言つてゐる、こいつの言ふ事は信用するな」と宣傳して廻る癖に、自分は平氣で曖昧な用語を曖昧に用ゐる――と言ふより、彼等のやり方は一貫してゐて、全て「印象」でやつつけてゐる。自分逹左翼の言ふ事は「もつともらしい」やうに「見えれば良い」のであり、それに欺されて人民が附いて來ればそれで十分である。敵對する連中は「愚かな右翼」と云ふ事にしてしまつて、全體として言つてゐる事が正しくても、細かい部分をつついて相手を馬鹿に見せかけ、人民からの信頼を無くせればそれで良い。言つてゐる事の眞實性は、連中には全く價値が無い。と言ふより、結果として自分逹に都合の良い事になる事であればそれが彼等にとつては「眞實になる」のである。「南京大虐殺」「従軍慰安婦」は、最早「時代遲れ」の話題で流行らなくなつたが、流行つてゐるうちはそれらを頻りに言立てる事で人民を欺して世の中を「左寄り」に持つて行かうと連中はがんばつてゐたのである。大體「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」は小林よしのりが採上げて、それで「ブーム」になつた代物で、或意味、さうしたブームに便乘して左翼は「左」の思想を宣傳しようとしてゐた訣だ。
平成十八年十二月二十二日
大日本帝國憲法は、發布以來、必ずしも完全には機能しなかったけれども、それに基いて國會が開かれ、有效であつた事は歴史的事實として認められねばならない。
さうした有效な憲法がある状況下で、「日本国憲法」が定められて施行された訣だが、有效な大日本帝國憲法から「日本国憲法」への移行が妥當なものでないならば、「日本国憲法」は有效でないと言はねばならない。
餘りにも當り前の話で、「現行憲法無效論」が「有效」である所以だが、ところが何故か頭から「今の憲法が有効でない訣がない」と極附けて、その結論を絶對の眞實とする爲に「現行憲法無效論」を何とかして「ないもの」にしてしまはうとする人々がゐる。「ゐる」と言ふより、とんでもなく澤山ゐる。これ程まで思想が統一されてゐるのはをかしいと俺は思ふのだが、「普通」は思はないらしい。

平成十八年十二月二十一日
ストレイン。詰らない訣ではないんだが面白い訣でもない。微妙。期待してゐたのとは可なり違ふ展開。落ちは大體豫想通りになりさう。
平成十八年十二月二十一日
http://www.page.sannet.ne.jp/hirasho/diary/diary0612.html#18
平成十八年十二月二十一日
ちょこシス。良い最終囘だつた。一クールめがあんなにぐだぐだだつたのに良く盛返したと思つた。
マジプリ。割と面白いのだけれども人氣無いみたいで殘念。何處が面白いのか説明しろと言はれても困るが。
平成十八年十二月二十一日
蒼天の拳。いろいろアレしてゐて面白い。
平成十八年十二月二十一日
ギャラクシーエンジェルはキャラクタが話を引張つてゐるけれども、ギャラクシーエンジェる〜んはキャラクタが話に引きずられてゐる。言ひ方を變へると、GAは臺詞が行動を引出し、GAる〜んは行動が臺詞を引出してゐる。
ギャラクシーエンジェル第二期、AT-Xでやつてゐるので觀始めた。

平成十八年十二月十九日
新宿展最終日。買つたもの。ポパー『歴史主義の貧困』。日本文學報國會編『東條義門』。『現代哲学を考える』(有斐閣選書)。
平成十八年十二月十九日
Latest topics > おこがましい という思考停止 - outsider reflex
文章を書いて他人に讀ませてゐる時點で、既に相手の心情にズカズカと踏み込んでゐるのではないですか。他人に全く影響を與へたくなければ、他人との接觸を全て絶たねばなりません。

平成十八年十二月十八日
金色のコルダを見終つた時點で熱が三十七度くらゐあつた(推定)ので早めに寢た。
平成十八年十二月十八日
新宿展 @ 東京古書会館。買つたもの。小林秀雄全集第二卷、千五十圓。D.H.ロレンス『ロレンスのヨーロッパ史』。雜誌「新劇」臨時増刊 戦後一幕物傑作集(一九五七年、「堅壘奪取」を再録)。中島悦次解釋『小倉百人一首』。

平成十八年十二月十七日
豫想より面白くて割と自然な展開が續いてゐるおとボク @ tvk。貴子さんにばれた。ちよつと不自然な印象がないでもない。
豫想より面白くて良く繪が動いてゐるくじアン。腹黒副會長さん謀反。今一つ繪の動きが良くない氣がしないでもない。
Gift。何が何だかさつぱり解らないまゝ來週で最終囘。
平成十八年十二月十七日
AT-Xで西の善き魔女再放送。すつかり内容忘れてゐたのだけれども、第一話、無茶苦茶面白くなりさうな作りだつたんだなーとなつかしく思つた。ふたばのtvkの実況ではいろいろとディープと言ふかアレな連中が騒いでゐたもの。
平成十八年十二月十七日
「誰某は突込まれたら物凄い勢ひで怒り始めた。だから誰某は人間として最低な奴だ。生きてゐる資格がない」云々。

平成十八年十二月十六日
カナかな団首領の自転車置き場 - 陰謀
あのですね、某所の高橋さんなんかに言はせれば、前者は「歸結」だから正しく、後者は「歸結」でないから間違ひなのださうですよ。其處に矛盾はないさうです。「歸結」つて何ですか。私も知りませんが、高橋さんは「俺には判るんだ」と言つてをられました。
平成十八年十二月十六日
今のえろげなんかのネタ、二十年くらゐ前に花ゆめ邊でばんばん出て來たやうな氣がする。高橋氏の「アート」ですか、あんなのもあの頃、既に「少女漫畫」で消費され盡した「ネタ」だ。或種のシチュエーションに興味があるとか高橋氏は書いてゐたけれども、俺には「何を今更」としか何うしても思はれなかつた。
野妻まゆみなんて可愛らしい繪を描く漫畫家の人も『ピエタ』なんてガチレイプ漫畫を早い頃に描いてゐた。しかしそれが歴史的な作品でも何でもなく單なる「一例」でしかないところに「少女漫畫」がアレであつた所以がある。花ゆめ方面で活躍してゐたアレな少女漫畫家の方々、のちに一齋にレディースコミックを描き始めて、女性向けのエロを(も)扱ふ「新しいジャンル」を成立させる事になるのだけれども、ジャンルが出來て早々、酒井美羽が『レディースコミックなんかいらない』なんて作品を描いて止めを刺して呉れたりするから、あつと言ふ間にジャンルは「擴散と滲透」の過程を經て、以後は別に事もなく、何も新しいものは現れずに今に至つてゐる。現在ではなかよしなんかでも平氣で無茶苦茶なエロシーンが描かれてそれを小學生の兒童が樂しく讀んでゐるなんて状況が生じてゐて、それなのに男子はエロゲかよと、何となくげんなりしてゐる今日この頃ですが、皆樣いかが御過しでせうか。晝間某さんが風邪でダウンして早退しました。師走の忙しい日々が續いてをります。體調管理には十分御氣をつけ下さいまし。ではでは。
平成十八年十二月十六日
漫畫の事調べてゐたら星崎真紀のコミックがドラマ化されてゐたのを知つた。丁度一箇月前と云ふのが。なんか色々話題の人が主演だつたらしい。
平成十八年十二月十六日
http://diary.imou.to/~AoiMoe/2006.12/middle.html#2006.12.14_s01_p02
立法よりも「法解釈」の出番らしいよ。良く知らんけど。
平成十八年十二月十六日
コードギアス。オレンジレンジの囘。
銀河鉄道物語。何かがをかしい筈なのだが良く出來てゐたやうな氣もする。動畫があちこちで死んでる。
平成十八年十二月十六日
妖奇士。実況のスレで聞いた話だが蠻社の獄を知らない人がゐるらしい。

平成十八年十二月十五日
世間では「スルー力」「スルー力」言つてゐるけれども、氣に入らん人間の書いてゐる「日記」や「掲示板」を一々監視して、氣に入らん事を書いてゐないか何うか毎日チェックするのが愉しみ、とか云ふ奇特な人も世の中には「ゐる」訣で、云々。
平成十八年十二月十五日
la_causette: 「スルー力」を被害者に要求することの残酷さ
平成十八年十二月十五日
Winny判決直後もノード数は変わらず、ネットエージェント調査
Winny使つてゐる奴、五十萬人もゐないんだよ。
平成十八年十二月十五日
東京古書會館の古書展。新興展。ジョージ・オーウェル『戦争とラジオ BBC時代』(晶文社)と雜誌「新潮」昭和三十五年六月號を買つた。「新潮」は、卷頭の匿名コラム欄「新潮雜壇」に「『現代國語』論爭」なる短文を載せてゐる。

平成十八年十二月十四日
十五分遲れ奏光のストレインは、軍隊としてのリアリティが全然ないのを除けば面白かつた。詰り微妙。
平成十八年十二月十四日
武装錬金。桜花さん死を免れる。
平成十八年十二月十四日
ちょこシスMX。ちょこが消えて戻つて來る御話。惡くはないけれどもそれだけと言つたらそれだけ。
マジプリMX。結構面白いけれども人氣無いのかなー。提供と豫告がどんどんアレな事に。
平成十八年十二月十四日
蒼天の拳も順調に馬鹿アニメの度合を強めつゝある。
平成十八年十二月十四日
技術の進歩が使ひ勝手の改善に全く繋がらない典型的な例がテレビ放送。
平成十八年十二月十四日
VHFとUHFですら區別出來ず――と言ふよりそもそも「一チャンネル」から十二チャンネル」までしか「テレビ」は「ない」と信じてゐる日本人は、少くとも關東地方邊では相當多數存在する筈。「BS」の普及が遲れたのも、VHFのほかのアンテナをわざわざ立てて、しかも專用のチューナを用意しなければならない事が、理解されなかつたからだ。八木アンテナを屋根の上に立てて細くて黒いアンテナ線を「繋ぐ」とぱつと映像が出る、それが「テレビ」と云ふものだ、さう云ふ「信仰」は、現在まで存在する。VHFやUHFであつてもチューナを使つて信號から映像を取出してゐるのだけれども、今までの「テレビ」ではそれが完全に隠蔽されてゐた。VHFの、今でこそ「地上アナログ放送」と特に呼ばれる放送であつても、嘗てはそれが「テレビ」であつたし、今でも多くの人にとつてさうである。普通のをぢさんをばさんは、映像が出てゐればそれで滿足であり、それ以上の事を望まない。ゴーストが出て、ノイズまみれの映像であつても、それが「テレビ」だ。そんな状況下で、「地デジ」なんて言つてみても、理解される訣がない。今のテレビの世界の状況について、難し過ぎて解らない人が世間には澤山ゐる筈だ。ところが、放送局の人にはそれが判らない。
Winnyを利用し、YouTubeを樂しんでゐる人が世間に「澤山ゐる」と、放送局の人は普通に信じてゐるし、そのせゐで商賣が成立たなくなつてゐると信じてゐる。ところが、さう云ふ「アンダーグラウンド」な樂しみ方をしてゐる人は、多く見積つても數百萬人はゐないだらう。殘りの數千萬人は、普通にテレビを觀てゐる一般人である。ところで、放送局の人、番組を作つてゐる人は、さう云ふ數千萬人の存在を完全に無視してゐる。視聽率と云ふ觀點では意識してゐるけれども、コンテンツビジネスと云ふ觀點では完全に無視してゐる。數千萬人の一般人は、TV番組を、觀たらそれつきり。觀逃しても「あー觀逃した」程度の感想を抱くだけの人である。さう云ふ人にはCM攻勢を掛ける。けれども、さう云ふ人に「コンテンツを買つて下さい」と御願ひはしない。しても賣れない。賣れるのは、「拘り」のある人、マニア、「御宅」で、そして、さう云ふ人々は、Winnyを使つたりYouTubeを見たりする。
今のデジタル放送が、いろいろな意味でその種のマニア層を「ターゲット」にしてゐる事は明かだ。「高畫質」は、マニア心を擽る。一方で、專用機材や事前の設定を必要とする事、これもまたマニア向けであると言へる。VHF/UHFの八木アンテナから來たケーブルと、BSのパラボラアンテナから來たケーブルを、テレビの別の端子に繋ぐ、そんな簡單な事ですら、素人の數千萬人には出來ない。フィーダー線とか同軸ケーブルとか、そんな事を言はれても解らない一般人は案外多いだらう。さう云ふ人々を置いてけぼりにして、行政と業界の連中は放送のデジタル化に邁進してゐる。例へば、普通に「テレビ」が映つてゐた既存のアナログ放送用のテレビ、これが二千十一年には映らなくなる。「地デジチューナを附ければ今までのテレビでも番組を觀られます」と、行政の人・業界の人は平氣な顏をして言ふ。マニアの人は慥かに解る。けれども、「外部入力」と云ふ事を全く理解出來ないをぢさんをばさんは極めて多い。大體、「今までチューナなんてなくても映つたのに、どうしてそんなのが今更必要になるんだ」と、皆怪訝な顔をするし、中には怒り出す人もゐる。既存のアナログテレビにも、アナログのチューナが載つてゐるのだが、普通の人はそんな事、意識しない。皆、マニアではないのだ、素人なのだ。さう云ふ視聽者が大多數である現状で、しかし、テレビのデジタル化は推進されてゐる。一般人にとつて、二千十一年の「アナログ停波」は「テレビの終り」を意味する。
一方、デジタル放送は、マニアの「著作權侵害」行爲を極めて強く意識して、仕樣が定められてゐる。端的に言へば、全てのデジタル放送が、コピー制限の信號を載せて行はれてゐる。コピー制限をするのは、違法なコピーを制限する、と云ふ目的で、明かに「マニア對策」だ。ところが、この爲にデジタル放送は益々「難しい」ものとなつてしまつてゐる。コピー制限は、録畫に制約を課してしまつてゐる。マニアなら、その種の制約が「ある」事は、解る。けれども、素人の人がちよつと「ディープな世界」に手を出して、HDDレコーダなんかで録畫をした時、妙な制限が出て來て、「訣がわからない」事態に陷る。即ち、録畫機のメーカにクレームを入れる訣で、メーカのサポート部門が音を上げつつある。
録畫機は、もともとマニア向けだが、今や家電で、マニアだけを相手にしてゐたら商賣にならない製品となつてゐる。しかし、仕樣は相變らず「マニア寄り」で、と言ふより、今のテレビ放送の仕組では、どうしても難しいものにしかならない。テレビと繋ぐ事で先づ素人は躓くし、次にテレビを録畫する事で躓く。ケーブルがスパゲッティ状態になるのは「恐怖」だ。コピーワンスなんて制限が「ある」事は「認識すら出來ない」。それが數千萬人の側の當り前の状態だ。それを放送業界の人は全く理解出來ない。
チャンネルが増える事は「良い事だ」と、業界の人は、どうも「素朴」に信じてゐるらしき雰圍氣がある。それはサーヴィス向上だと、彼等はどうも「素朴」に信じてゐるらしい。もちろん、そこで生ずるのは競爭で、彼等はその點では困つた事だと考へるのだが、しかし、撰擇肢が増えるのは良い事だと「素朴」に信じてゐる。ところが、現状の「十二チャンネル」(關東)ですら、チャンネルは多いのだ。數千萬人の一般人が、NHK総合からテレビ東京までのVHFで放送されてゐる「テレビ」で、十分滿足してゐる。と言ふより、彼等はその「テレビ」が、あつてもなくても大して氣にしない。「ある」から觀る、と云ふ程度の人々だ。澤山チャンネルが出來て「嬉しい」のは、マニア層の發想に過ぎない。ところが、さう云ふ「増えたチャンネル」を傳送する媒體――デジタル放送は、マニアが使ひ辛いやうに、わざと使ひ勝手が惡くなるやう、「設計」されてゐる。そして、結果として、ただでさへ訣が解らない一般人を、さらに困惑させてゐる。
實際のところ、僅かな數のマニアさへ相手にすれば、現在のコンテンツビジネスは成立つ。その極めて小さな市場の事を考へて、現在の放送業界は動いてゐる。ちよつとどころか相當をかしいと俺は思ふのだが如何だらうか。
嘗て、「一チャンネル」から「十二チャンネル」まである日本のテレビは「チャンネルが多過ぎる」と批判されてゐた。イタリアだかフランスだかは、國營放送と民間放送の合せて二つか三つのチャンネルしか存在せず、しかも晝間は放送を休んでゐた、けれどもそれが世界の「當り前」、日本みたいに朝から晩まで大量の番組が垂れ流される状況は、世界的に見れば「異常」だ――そんな批判が、昭和の頃には「あつた」。今、彼の地でも状況は變つてゐようが、しかし、「テレビは必要か」と云ふ疑問は依然「ある」のでないか。さうなると、やつぱり今の状況はをかしくないか。
平成十八年十二月十四日
話し言葉は自然に變はるものだけれども、書き言葉は出來るだけ變へないやうにした方が良い。

平成十八年十二月十二日
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20061212
平成十八年十二月十二日
何の氣なしに神保町の中野書店を覗いたら、店頭見切り品コーナで落語天女おゆいの内部資料が賣られてゐたのでうつかり購入。繪コンテのコピー。ほかにらぶげの資料もあつたがそちらは買つてゐない。

平成十八年十二月十一日
http://www.page.sannet.ne.jp/hirasho/diary/diary0612.html#10p10
http://www.page.sannet.ne.jp/hirasho/diary/diary0612.html#10p11
http://www.page.sannet.ne.jp/hirasho/diary/diary0612.html#10p12
最近は「自衞隊は違憲」と言ふと右翼認定されるらしい。
平成十八年十二月十一日
沈黙の艦隊のアニメだつけかに「專守防衞」「專守防衞」言つてる「自衞官キャラ」が出て來た事があるけれども、あんな自衞官、ゐる訣ないよな。
少しでも國を守る氣概のある自衞官ならそんな生つちよろい事を言ふ訣がないし、氣概のない自衞官なら消極的であれ何かをしようだなんて考へない。
平成十八年十二月十一日
エロゲ規制に反對する人々が「性欲をリアルでなくゲームで解消してゐるのだから犯罪を抑止するのには寧ろ役立つてゐる」と云ふ説を唱へてゐるさうだけれども、これ、本當だらうか。俺の知る限り「エロゲをやつてゐると性犯罪をやらかさない」と云ふ信頼出來るデータは無い。
大體、性欲なんて解消出來るか? 「エロゲで主人公が女性キャラとアレする事で、プレーヤは性欲が解消される」なんて事は絶對にあり得ない。プレーヤは、性欲がキャラに轉移して、すつきりする――そんな馬鹿な事はあり得ない。プレーヤは昂奮する。のみならず、見てゐるだけではたいてい不滿が殘る。妄想を掻き立てられて現實に變な事をしでかさないとも限らない。まあ、これにも信頼出來るデータなんてないがね。笑ひ。とは言へ、何處ぞの高橋氏に言はせれば、政治では可能性で十分なのださうだよ。
理窟では何とでも言へる――人間の生理と云ふ現實を全然考慮に入れなければ。けれども、さう云ふ抽象論では駄目なんだよ。
と言ふかさ、欲望なんて結局のところ物理現象なんだよ。マウスの腦の快感を覺えるところに電極を埋め込んで、ボタンを押すと電氣が流れる仕掛けにしておくと、マウスは何時までもボタンを押し續けるんださうだ。猿に自慰を教へると――なんて話も有名。欲望は解消されない。人間にしても動物にしても、さう云ふ風に出來てゐる。さう云ふ欲望を原理に、「互ひに自重する」なんて説を立てても、無理があると云ふものだ。欲望を自由の充足と言換へても駄目だよ。同じ事だ。人間にとつて重要なのは、「欲望を如何に充足するか」でなく「擴大する欲望を如何に抑へつけるか」だ。
人間が動物と違ふのは(一つには)欲望を抑へる精神を持つてゐる點にある。欲望を充足すべく、言動の自由の擴大を願ひ、實現しようとする――それはすぐに限界にぶち當る。その時何うやつて自己の内部の不滿と折合を附けるか。これは最う何千年も前から大問題で、偉い思想家は皆、この問題と取組んでゐる。何世紀もの間、この問題は論じられて來て、結局未だに解決してゐない。しかし、さう云ふ厄介な問題を簡單にすり拔けて、安易に抽象論を展開する手合が多過ぎる。
平成十八年十二月十一日
金色のコルダは面白いが、その後によあるりとGAる〜んが待つてゐる日曜深夜。
平成十八年十二月十一日
http://d.hatena.ne.jp/DocSeri/20061209
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20061211
そもそも日本人は、自らの信ずる正義に基いて積極的に戰爭を行つた事が一度もなく、それゆゑ正義の戰爭と云ふ事を想像する事すら出來ません。だから、そのやうな事を言ふと、思ひがけない事を言はれて反射的に「とんでもない事だ!」と怒り出す人が出て來る訣です。自分がやつた事がないから、日本人は正義の戰爭と云ふ觀念そのものを否定するのですが(都合の良い事に、春秋に義戰なし、なる言葉が、歴史上日本人の御手本となつてゐた支那にあります)、正義は相對的であるのが當り前で、さう云ふ正義に基いて行はれる戰爭なんか、歴史上ざらです。例へばこの間のアメリカの對イラク戰爭、あれだつて、傍から見れば「俺逹にとつては正義でない」だけで、アメリカのブッシュ大統領その他の人々は正義の戰爭として戰つてゐたものです。あゝ云ふ戰爭を「起させない」だの何だのと、平和主義者の人は言ふのですが、それが大體のところ正義の觀念の否定に「歸結」します。人間が動物と違ふのは、「自分には正義がある」と言張るところで、正義は人間的である訣ですが、それを平和主義者の主張は常に否定します。即ち、平和主義者は、人間が人間たる所以のものである正義を否定する=人間を一段動物竝に低める事を狙つてゐると、さう言ふ事が出來ます(高橋氏の所謂「歸結」です)。私は、人間は人間的であるべきだと信ずるから、戰爭それ自體を否定する事等出來ません。
他人を批判する事――これと、他國を攻撃する事と、どの程度の違ひが「ある」と言ふのでせうか。「他國を侵掠するのは惡い事である」、平和主義者は「讓歩して」さう云ふ事を「認める事がある」。しかし、さう云ふ平和主義者が「反動勢力」或は「戰爭主義者」と目した人物に對して、實に屡々、卑劣で嫌らしい攻撃を仕掛けます。國が侵掠を仕掛けるのが惡くて、平和主義者が氣に入らない人物に「戰爭主義者」だの何だのとレッテルを貼つたりして嫌がらせを仕掛けるのは良い事である――私にしてみれば、平和主義者の態度が認められるのならば、侵掠國の態度は當然のやうに認められるものです。平和主義者だつて、結局のところ、暴力を用ゐるのですから、暴力を用ゐるのは許されない、なんて言ふ事は出來ないでせう。まあ、ガンディーのやうな平和主義なら敬意を拂はざるを得ませんが、日本の平和主義者にガンディーのやうな立派な精神を持つた人間は一人もゐません――と言ふと語弊があるでせうが、物質的な利益を目的にしてゐる平和主義者が大半である現状、立派な平和主義者がそんなに澤山日本にゐるとは考へ難いでせう。
平和主義者と「戰爭主義者」の對立が集團對集團の對立であり、そこで暴力が積極的に認められてゐる。勿論、平和主義者は「私逹は暴力等使つてゐない」と主張するのですが、ウェブやオピニオン雜誌なんかを見ればすぐに判ります、大概、平和主義者は惡意で以て氣に入らない人間を罵り、デマを流し、自國を裏切り、敵國に有利になるやうに話を運ばうとし、邪魔な人間には嫌がらせをして默らせようとします。實際、私はさう云ふ平和主義者の嫌がらせの被害に遭つた事があります。連中の性根が腐つてゐる事は疑ひやうもありません。しかし、さう云ふ彼等は、自分の信ずる平和主義は正義であり、その正義を實現する爲には何んな手段を用ゐても良いと信じてゐるのです。ならば、國家が、自らの信ずる正義を實現する爲に、軍事力を用ゐても、全然構はないではないですか。平和主義者は「戰爭では死人が出る」と言ふものです。成程、死者が出るのは良くないですか。では、死者が出なければ良いのですか。「さうだ」と平和主義者は斷言します。だからこそ恐ろしい。彼等は、「生かさず殺さず」と云ふ、人殺し以上におぞましい事を平氣でやります。特に、氣に入らない人間、敵と看做した人間に對して。戰爭は國と國との決鬪です。そこには仁義があります。平和主義者の「言論テロ」には仁義なんて物がありません。彼等は、生延びる事だけが目的であり、その爲に「より良く生きる」事を説く道徳を目の敵にします。道徳を信じない――即ち、平和主義者にはモラルがありません。渠等のやる事は常に卑劣です。戰爭の方がまだ増しです。
平成十八年十二月十一日
「愛國心教育」とか云ふ奴、原則として私は反對の立場です。「日本は素晴らしい!」と信じ込ませる教育ならば、それは愛國心を教へる事にはなりません。何んなに非道い國であれ、そこが「私が生れた國」であるから「愛する」――それが愛國心です。私は日本を散々罵つてゐるので、「愛國心がない」などと非難されてゐますが、餘所の國よりは自分が生れた國である日本を愛してゐます。
けれどもですね、現在、教育の現場では、「日本は嫌な國であり、憎惡すべき對象である」と散々教へられてゐる訣ですよ。さう云ふ状況があるからこそ、反動が起きて、右傾化なんて事になつてゐる。が、實際は、右と左とに日本は分裂してゐる状況にある。兩者の對立が深まつてゐる状況にある。
ここで、「反日教育が一般化してゐる」と云ふ教育の現場に對して、「愛國心教育」を打出して政治的に對抗する、と云ふ事態が生じてゐる――ここで「愛國心教育反對」を主張するのは誰でせうか。反日教育を支持してゐる勢力である訣です。しかし、これはをかしい。「愛國心教育」が許されないのならば、「反日教育」だつて許されないでせう。逆に、「反日教育」が許されるのならば、「愛國心教育」だつて許されて良い。
「政治的に押附けられるのが許されない」と反日勢力は言ふ訣ですが、政治の外部から――教育の現場に侵入して、兒童・生徒を政治的に洗腦する方が、よつぽど汚いやり方です。日本の社會を實質的に支配してゐるのは、慥かに戰前・戰中は體制側でした、けれども戰後は反體制の勢力の側です。民主的に政治レヴェルで決定される事なく、實質的に社會が「さうなる」やうに、戰後の「支配勢力」は動いて來ました。例へば、表音主義者は、国語審議会を乘つ取つて國字改革を強行しました。政治の外部で實質的に社會を動かしてしまふ――さう云ふ大變危險な事を、左翼勢力は屡々やつてゐます。それに對して、保守政權の側は、今までは「體制側」として手足を縛られ反攻を封じられてゐたのです。しかし、それはをかしい。
平成十八年十二月十一日
愛國心の教育を否定する手合の政治的信條を觀察してみると良い。大體、反日的な事を常に言つてゐるものだ。さう云ふ連中が愛國心の教育を否定してゐるのは、政治的な目的があると考へて良い。高橋氏の言ふ「歸結」と云ふ奴だ。彼等は、日本人が愛國心を喪ふ事を狙つてゐる。その場では綺麗事を言つて見ても、別の場所では別の事を言つてゐる。
反日勢力の言つてゐる事は「いちいちもつとも」だ。だが、それだけに渠等の言ふことは怪しい。高橋氏のやうに彼等の「言つてゐない事」をよくよく檢討してみる必要があるだらう。と言ふより、その場で言つてゐない事でも、他の場所で彼等はいろいろ言つてゐるのだ。それらの間に屡々齟齬が看られる。それが怪しい。
「愛國心教育」を「洗腦」と言ふのは結構だ。が、さう言ふ人が、現に行はれてゐる反日教育を洗腦と呼んで非難する事は、決してない。これが何を意味するか、何を「歸結」するか。
結局のところ、彼等は、自らの政治目的である日本の弱體化を推進する爲、敵勢力の伸張を阻害しようとしてゐるに過ぎない。「愛國心教育」なんてやられたら、自分逹の目的が達成出來なくなるのだ。だから必死になつて妨碍する。
ただ、その妨碍を「政治的な信條に基いたもの」と言はないところが、彼等の卑劣なところだ。彼等は常にその主張を、右とか左とかは超越した次元の主張だと言張る。それが嘘なのだ。彼等はとぼけてゐる。政治的な人は、はつきり、俺は左翼だから右翼のする事を妨碍したい、と言ふがよろしい。その點、右翼はまだしもすつきりしてゐる。寧ろ、左翼の方こそ、その邊の事をごまかして、他人を欺さうとする事が多い。言つてゐる事は全體として左翼的なのに、客觀的で公正な事を言つてゐるかのやうに裝つてゐる左翼が餘りにも多過ぎる。何うかと思ふ。
平成十八年十二月十一日
WindowsXPのタスクマネージャのtip。「プロセス」タブでタスクの「優先度の設定」が可能。「イメージ名」のところでコンテキストメニューを出す。ウェブを閲覽しながら音樂を聽いたり動畫を見たりしてゐると、ブラウザでサイト間を移動したりリロードしたりした時ぶちぶち音聲が切れるとか、そんな問題が起きる事があるけれども、マルチメディアプレーヤのタスクの優先度を上げると改善される。
平成十八年十二月十一日
UA-HD133Cが糞なので中古でATA133PCIを買つて來て入換へたけれども載つてるチップ同じだ。意味ない。ファイルの連續コピー試驗をしてみたら當然のやうにコピーミス發生。
平成十八年十二月十一日
Life is beautiful: 「天下りあっ旋全廃に反対したらもう自民党には票を投じない」バトン
「りあっ」て言ひ方が面白い。漢字と假名の交ぜ書きつて良くないよね。「りあっ」でぐぐると約 67,600 件ひつかかる。和んだ。
記事の内容は讀んでない。

平成十八年十二月十日
http://www.page.sannet.ne.jp/hirasho/diary/diary0612.html#9p8
http://www.page.sannet.ne.jp/hirasho/diary/diary0612.html#9p9
平成十八年十二月十日
サイトの横幅を640ピクセルにする理由――統計と現状に基づく結論 [絵文録ことのは]2006/11/25
HTML文書見て、テーブルで固めてゐるんでないんだから別に良いやと思つた。たかがスタイル如きで騷ぐ事はないもの。
寧ろ、<p>でなくて<p >みたいに、變な空白文字がソースにあるのが氣になつた。それと<a name="more"></a>とか。
あと、「パン屑リスト」つて言ふんですか、笑ひ、それがp要素なのがですね、「何とか原理主義者」的にはアレですね。リストならリストに。
と言ふか、「ブログ」の記事を普通は印刷しないよ。統計とつた訣ではないけどね。まー印刷されるにしても、横幅がどうたらかうたら以前に、この記事のリンク用URLだのコメント&トラックバックだのと餘計な文字列が多過ぎるだらう、それが問題ではないですか。
平成十八年十二月十日
なぜか誰も指摘してゐないけれども、IE7でことのはのこの記事、印刷プレビューすると、スタイルが適用されてゐなかつたりする。
Kotonoha20061125.jpg
<link rel="stylesheet" type="text/css" href="http://www.kotono8.com/styles-site.css" media="screen,tv" />だと、印刷時にスタイル適用されないんでないかい。
平成十八年十二月十日
金曜日の古書展 @ 東京古書会館は、古い本が多くてとても樂しかつた。山田孝雄『國語學史』『日本文法學概論』、入江隆則『敗者の戦後』、木枝増一『假名遣研究史』及び雜誌「世界文學」昭和二十三年三月號、「中央公論」昭和二十七年四月臨時増刊號(春季文藝特集號)を購入。
平成十八年十二月十日
メモ。
歴史的假名遣の定める書き方に從ふ「正しい書き方」があれば、「現代仮名遣」の定める書き方に從ふ「正しい書き方」もある。この時の「正しい」は、それぞれの假名遣の規則の下で「正しい」と云ふ事。
「歴史的假名遣と『現代仮名遣』とではどちらが正しいのか」を判斷する時、判斷する基準は「それぞれの假名遣の規則」とは異るレヴェルの基準となる。
話し言葉は即座に消滅するが、書き言葉は話し言葉よりも長期間保存される。假名遣は書き言葉の規則である。この時、書き言葉として長期保存される事を大前提に考へるならば、歴史的に變更がない事が望ましい事になるし、それが「正しい」事になる。「書き言葉は歴史的に變更がない事が正しい」――この事が承認される時、それを前提に「歴史的假名遣の方が『現代仮名遣』よりも正しい」と言ふ事が出來る。
平成十八年十二月十日
AT-XのLAP再放送終つた。俺もさすがにこれを今年のアニメの最高傑作とは主張しないけれども、個人的には今年のアニメで一番好きな作品だつた。
平成十八年十二月十日
今日はノジマで300GBの外附けHDDを買つて來た。御會計の時、値札とレジで言つて來た價格が違つたので指摘したら、店員さんが確認して、値札の價格に直して呉れた。御店で變だと思つたら店員さんに一往確認してみよう。

平成十八年十二月九日
PanasonicのLet's note+GV-MVP/RZ2でも帶状ノイズが發生。J:COM、キャプチャユニットを疑つたが、結局Let's noteが惡いと判明した訣だ。何うして呉れよう。
一往Sヴィデオのケーブルを交換して樣子を見る。これで駄目ならLet's noteが惡い事は確定。
平成十八年十二月九日
MPEG2のデータ、HDD間でコピーした後のファイルを再生するとノイズが出るのだけれども、コピー前のデータを再生するとノイズが出ない。と云ふ事は、ファイルをコピーしたのが惡い?
WindwosXPで巨大なファイルをコピーするとデータが化ける、つて何?
1GB程度のファイルをデジタルでコピー出來ないつて、Windowsつて馬鹿?
平成十八年十二月九日
色々考へてやつと判つた。HDD繋いでゐるSUGOI ATA133が惡いんだ。
スゴイATA133 UA-HD133C 製品情報
これにぶら下げてゐるHDDでデフラグしたらデータが飛んだりMPEG2のデータが化けたりしてゐた。あちこち疑つたが一番怪しいパーツを疑ふべきだつた。名前からして怪しいし。
http://nozakitakehide.web.fc2.com/diary/20031102.html
平成十五年十一月十四日に買つて來て取附けたもの。よくはたらいてくれたけれども信用ならない事が判明したから近日中に何とかして排除する豫定。と言ふか、これにぶら下げてゐてをかしくなつたHDD、DECAのIDE TO USB2.0 変換アダプター「IDE-35US」で繋いだら問題なく讀書き出來るんだよ。
http://nozakitakehide.web.fc2.com/diary/20060401.html
文句を言つてすまなかつた。いや、結構あやしいんだけどさ。
平成十八年十二月九日
どうも、PCの世界ではストレージデヴァイス(とメディア)が十年以上の間、全く進歩してゐないやうに思はれる。HDDなんてただ容量が増えただけで、本質的には何も變つてゐない。CD→DVD→HD DVD/ブルーレイの「進歩」も、やつぱり基本的には殆ど進歩してゐないと言つて良いのでないか。レーザーで讀書きするとか、やつてゐる事は大體同じなんだし。そろそろ全く新しい發想でデータを保管するデヴァイスが出て來ても良い頃でないか。
フロッピーディスクがすたれたけれども、バックアップにかける時間・手間とか、或は、バックアップし忘れてデータを失ふ頻度、等々は、案外「昔」と大差ない――と言ふか、寧ろ今の方が昔より非道い状況になつてゐるのでないか。
ストレージデヴァイスの容量が増える一方で、データも巨大化する一方。膨大な量のデータを、CDやDVDに書込んで保管するのには時間がかかるし、バックアップする以前には昔と變はらず何時死ぬか判らないHDDにとつておかなければならない。十年前と状況は何一つ變らない。CD-RやDVD-Rは、却つて以前の方が品質が良かつたりする。HDDも、量的に擴大が實現したに過ぎず、質的に向上したとは言へないだらう。
何うだらうか。
平成十八年十二月九日
「日記系サイト 2.0 勧告」が明日で六周年なんだな。
「ブログ」が一般化して、何時の間にかうちも「古い日記系」の一つになつてしまつた訣だが云々。
平成十八年十二月九日
パンプキンシザーズ。話は詰らないが言つてゐる事には共感出來る。しかしそもそも「話」になつてゐないだらうこれ。
コードギアス。結構面白い。
銀河鉄道物語。今囘の御話、何の救ひもないまゝ終つて唖然。
平成十八年十二月九日
http://www.page.sannet.ne.jp/hirasho/diary/diary0612.html#8p3
平成十八年十二月九日
例へば。高橋氏の言動に對して、誰かが「高橋氏は俺の自由を抑壓してゐるやうに感ずる」と述べたとする。それに對して高橋氏が「俺は他人の自由を抑壓してゐない」と言つたとする。この時、高橋氏の言動は、「誰か」氏の申告に基いて、「自由を抑壓するものである」と判定されて、高橋氏は法なり何なりに據つてその自由を制約される可きか。或は、高橋氏自身の宣言に基いて、「抑壓ではない」と判定されて、高橋氏は制約されざる可きか。
――こんな問題が實際に起きたら、その時、「基準は人權です」等と言つたところで、何の意味があるだらうか。
平成十八年十二月九日
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20061209
平成十八年十二月九日
はてなの茶碗 - 彈壓
平成十八年十二月九日
天保異聞 妖奇士。割と巧く漢字學を扱つてゐる氣がする。白川靜氏、あの世で何う思つてゐるだらう。今囘もしつかり漢字ネタで落ち。放映始まるまでは何うなる事かと思つてゐたシリーズだが、思つたよりも面白い。會川昇も結構のめりこんで脚本書いてゐるみたい。
平成十八年十二月九日
WindowsXPつて、巨大なファイルは正確にコピー出來ないの? Let's noteの内藏のHDDからIDE-35USを使つてUSBにぶら下げたHDDにMPEG2のファイルをコピーすると、その時點でコピー元とコピー先とでファイルが一致しないのだけれども。
平成十八年十二月九日
内藏のHDD間でコピーすると問題ない。IDE-35USが信頼出來ない? HDDもインタフェイスも信頼出來ないとなると何うすれば良いのか解らない。取敢ず、ファイルコピーで化けるのに、ファイルの比較ツールで比較すると化けてゐる事が「わかる」のがをかしい。どうして「わかる」のだらう。
と言ふか、Windowsのエクスプローラでファイルコピーする時ベリファイかけるやうに設定出來ないんですかね。
平成十八年十二月九日
あやしいDECA -DECA IDE-35US検証- by しあにんなお昼ごはん

(ちなみにこの製品、HDD間のデータ転送に使うと結構遅延エラーやデータ化けが起きたりしますんで、その辺はやっぱり安物だなぁという気もしました。HDDには使わない方が良さそうです)

なんて書かれてゐる。やつぱり駄目つぽい。日立のHDDぶら下げるとWindows側で認識されないし。
平成十八年十二月九日
ケーブル&コネクタ図鑑
平成十八年十二月九日
教えて!goo HDDのジャンパーピンの設定
めろんぱん || よりすぐりメルマガサイト
平成十八年十二月九日
コマンドプロンプトでxcopyに/vオプション附けて實驗中。
平成十八年十二月九日
結論。スゴイATA133 UA-HD133CとDECA IDE-35USでは、大きなファイルをコピーすると必ず化ける。
スゴイATA133 UA-HD133Cは使ふな。
DECA IDE-35USでHDDは使ふな。
平成十八年十二月九日
まとめた。
「UA-HD133C」と「IDE-35US」を使つてはいけない
平成十八年十二月九日
と言ふかUA-HD133Cにぶら下げたHDDに入つてゐるデータ全部信用出來ないつて事ぢやん。死ねよ。
平成十八年十二月九日
例へば「掲示板荒しのfankee_jr氏が、最うAA連貼りしたり管理人を無職と侮辱したりしません、今日から野嵜健秀と本名を名乘ります、と宣言して、それを實行する」のと、「掲示板荒しのfankee_jr氏が、或日突然消えたと思つたら、ハンドルをのあたんと改め、ISPも變へつゝ、アレクセイ氏の掲示板で萌え萌えキャラとして活躍してゐるのが發覺した」のとでは、どつちが「反省」として信用出來るか。
大日本帝國が、戰爭で負け、アメリカによつて民主主義陣營の下に組入れられて、日本國と名前を變へた――それで周りの國が納得するかしないか。「内容さへ良ければ良いのだ」式の主張で誰もが納得するとは言へない。憲法でも同じ。

平成十八年十二月八日
高橋氏に據れば、人間は自らの欲望を十分に充足する事を望むし、それを實現する事が自由だが、自分一人が突出すれば他人の自由を抑壓する事になるので、さう云つた事が無いやうに互ひに調整しなければならないし、それを行ふ爲に法がある。
なるほど、一見して、實に尤もらしい。これ自體として、理論として「あり得る」やうに見える。けれども、この「高橋理論」には致命的な缺陷がある。人間の欲望は、放つておけば限りなく大きくなる。欲望を原理として、互ひに自重し合ふ、なんて事を考へるのは、完全な矛盾。限りなく擴大する欲望を前提に、欲望を抑制する事を考へるのが、「高橋理論」の缺陷である。
ホイジンガは、『朝の影のなかに』で高橋氏のやうな「生の哲學」を批判してゐるが、その結論部で、以下のやうに述べてゐる。

時代のジレンマは、日々に緊迫の度をくわえている。昏迷の国際情勢を、まあ、みてみるがいい。いたるところに紛争があり、解決の必要は、つとに声高に語られている。だが、解決しようにも、一方の正当な利害を傷つけず、他方のもっともなのぞみをしりぞけずにすますことのできるような解決法は、ほとんど考えられないのであって、このことは、第三者的な観察者ならばだれでも、みとめざるをえないところなのである。弱小国家の問題がある、不当な境界線、人びとの自然のまとまりの否定、耐えがたい経済関係といった問題がある。人びとは、心に苦い想いをいだいてこれに耐えているのであって、いついかなる瞬間にも、これが炉床となって、ほのおがもえあがるかもしれないのである。いずれのばあいにも、ある権利がある権利に対している。解決の道はふたつしか考えられない。ひとつは戦いの暴力である。ひとつは、せまい枠を越えた国際的善意にもとづく規制である、たがいに正当な要求の放棄、あいての権利と利害の尊重にもとづく、約言すれぱ、無私と公正にもとづく規制である

だが、無私と公正と、この徳目から、今日の世界は、遠くはなれてしまっている。かつて幾世紀ものあいだには、世界がこれをすてようとした、すくなくともそのふりをしたこともあったが、今日の事態は、とうていその比ではないのである。国際政治における公正と国際間の福祉という原理的要請さえもが、多くの人によって否認されているしまつである。なにものにも制約されない権力国家という教説は、すすんで征服の自由を説いている。世界は、新たな、より無惨な荒廃をふところにかくした破滅的な戦争の到来を感じ、その狂気に脅えて、無力に立ちつくす。

自らの欲望を抛棄するからこそ他人に對して寛容になれる――さう考へる方が自然でないか。
高橋氏は、大衆社會である現在が「良い方向」へ既に進みつゝあると言ひつゝ、同時に、大衆は信用出來ないからエリートが指導すべきであると主張した。今、高橋氏は、人は欲望を充足したがるものだと言ひつゝ、人々は互ひに欲望を抑制すべきだと主張する。
竝立し得ない正反對の内容の二つの發想を、高橋氏は認めてしまふ。その上、それらを同時に原理として採用し、一つの主張をでつち上げてしまふ。高橋氏の主張が、一見大變に尤もらしく、何でもうまく説明出來さうに見えてしまふのは、かうした矛盾した根據を同時に認めてしまふ高橋氏の基本的な態度が原因である。もちろん、このやうな矛盾を含んだ主張は、そもそも思想として破綻してゐるし、現實に適用すれば常に恣意的な運用を許す事になつてしまふ。それでは困る。高橋氏には、自分(高橋氏自身)の言つてゐる事がただ「尤もらしく見える」だけの物であり、良く考へると支離滅裂なものである事を、自覺していただきたい。
平成十八年十二月八日
「言葉」でぐぐつても全然「言葉 言葉 言葉」が出て來なくなつたけれども、一方で、例へば「平成十八年十二月八日」なんて文字列でぐぐるといきなり「闇黒日記」が出て來る。何なのだらう。
平成十八年十二月八日
高橋氏、「法解釈学」と言ふと、何か物凄く難しくて專門的な事みたいに言つてゐたけれども、別に常識から外れた特殊な學問ではないんだよね。ただ單に、法が適用される前に、法が何を要求してゐるか、を明かにするのが法解釋學の目的なのだけれども、基本的には普通に條文を讀む。ただ、條文は文章で書かれてゐるから語句が抽象的で、具體的な事例に適用した時、價値觀の對立を生ずる可能性がある。それを豫め檢討して、語句の意味を確定する。この時、法の條文に就いて意味を確定しようとする立場と、必ずしも條文の語句には拘らないで立法の意圖・精神に基いて新しい現實に對應しようとする立場とがある。前者が概念法學の立場であり、後者が自由法學の立場。現在は、社會正義を實現する事が重要だとして、後者の立場が主流。但し、その場合にしても、恣意に流れる事は許されない訣で、基本的には法の目的を理解して、それを前提に議論を進める事になる。
有斐閣の末川博編『新版法学入門』に據る。この本によれば、現行憲法は戰爭抛棄の平和主義を原則とし、憲法第九條をあらゆる戰力の保持を禁止するもの。さう云ふ立場から、現實に「第九條に反する法が制定されてゐる」(即ち自衞隊は違憲)と云ふ書き方をしてゐる。
平成十八年十二月八日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20061208
高橋氏が何か必死になつて反論してゐるけれども、計算づくだの欲望だのと言つてゐる時點で反論になつてゐないと云ふ事が解らないのかな。欲望が原理である時點で、調整だの何だのと言ふ事が無意味なんだよ。高橋氏も無意味だと解つてゐるからこそ、權力とか法とか、さう云ふ仕組で何とかしようと一生懸命になつてゐるのだらう。でも、それは人間性の觀點から鑑みて、無理があるんだよ。その無理の存在が理解出來ないやうでは、高橋氏の主張は、ただの「押附け合ひ」ゲームの規則作りの主張にしかならない。

欲望を追及したい人は思うがままに追求すればいいのです。ただし、他人の権利を侵害することは許されるべきではなく、そこで初めて公権力の出番となるわけです。そこでは強制力が働きます。 そして、逆に言うと、それ以外の仕事は公権力はやるべきではないのです。それは迫害、弾圧です。

高橋氏は、「人は止めどなく欲望を擴大する」と言ひつゝ、「欲望と欲望を調整するのに公權力が必要だ」、と言つてゐる。一見尤もらしいけれども、まー口から出任せとは良くも言つたもので、こんな好い加減な議論も無い。高橋氏は「公權力」と言つてゐるが、人間とは無關係の「公權力」なら完全に動作するだらうけれども、「公權力」は人間と關係があるものだから常に「完全動作」するなんて事はあり得ない。が、高橋氏、そこで困つた事が起るならばそれは「迫害です、弾圧です」と罵る。罵つて罵つて罵り捲つて、困つた事が起ると考へる事すらも惡い事であるかのやうに見せかけようとする。が、「惡い事だ」と言つたところで「惡い事はやつては行けない」と云ふ最低限の「モラル」がない人間には全然意味がない。そもそも、「惡い事だ」「迫害だ」「彈壓だ」と云ふ判斷――此れが、今は一般論だから何とでも言へるが、具體的な事例について行はれた場合、高橋氏の獨斷である事が大いにあり得る訣なのだが、それが高橋氏には解らない。高橋氏は「何が自由で何が抑壓であるのか」を判定する「大審問官」だ(と自分で自分の事を思つてゐる)から。
罵倒して何かが解決すればこれほど簡單な話はない。高橋氏の議論では、困ると常に罵倒が出てくる。それで何でも解決すると高橋氏は信じてゐる。御目出度い人だなーと何時も思ふ。
平成十八年十二月八日
それから、手許の『新版法学入門』(有斐閣双書)、隨分前から家にあるものなのだけれども。一往、最低限の知識くらゐは持つてゐないと行けないから。
平成十八年十二月八日
權利は英語でright――人權(human rights)のrightはlegal or moral entitlement: authority to actの意(Pocket Oxford Dictionary 8th edition)。entitleやauthorityを引くとrightにリダイレクトされるからPODもなかなか好い加減だ。entitleはgive (a person) a just claim or rightの意(その名詞形がentitlement)、authorityはpower or right to enforce obedienceの意。
平成十八年十二月八日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20061207

私的な自由の話としては、

  • 「他人の権利を侵害する行為は許されないが、そうでない行為は自由である」

公的な規制の話としては、

  • 「他人の権利を侵害する行為のみが公的な規制に値する。それ以外の行為に公的な規制を掛けてはならない。そのような法改正は多数決の結果であれ許されるべきではない(その違憲性を訴えるなり、法改正を求めるなりで、つぶすべき)」
一見尤もらしいのだけれども(俺が今、「尤もらしい」「尤もらしい」と殊さら強調して言つてゐるのは、要は「うさんくさい」と言つてゐる)、これ、飽くまで一般論なんだよね。それも恐ろしく抽象的な。特に「私的な自由の話」と高橋氏が言つてゐる事、これ、「法解釈」並に解釋が必要な文章なのだけれども、高橋氏、自覺してる?
法律なんかでも同じだけれども、此の種の「規則」と云ふ奴、飽くまで「規則」に過ぎないのであつて、何んなに力強く「單純だ!」と言つてみても、實は何の意味もないし、寧ろ、單純だからこそ恣意的な運用が行はれ易くて、それで俺も高橋氏のこの「単純な規則」を疑ふ訣だ。高橋氏の言ふ「権利」「侵害」「許されない」「行為」「自由」――これら全ての語が、異る價値觀の許では、と言ふより、異る立場の人間から見れば、解釋が異り得る。ところが、餘りにも單純に高橋氏は割切つてゐる。端的に言へば、高橋氏は、自分だけが「自由」か「抑圧」かを判定できる、と、さう考へてゐると「歸結」する。しかしだねえ、それは傲慢と言ふものだよ。しかも、當人、自分が傲慢である事を正當だと思つてゐるらしい。(http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20061206#p3)
平成十八年十二月八日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20061206#p2
人権という価値基準は、憲法の外にあるものだ。云々。「人權」と言ふのは、漠然と「人がして良い事」(嚴密ではない言ひ方だが、要は「漠然とした事」)を言つてゐる。「して良い」「しては良くない」と云ふのを嚴然と分かつて、具體的に定めるのが基準。だから、人權は基準ではない。日本語の問題。閑話休題。

基本的人権の尊重の部分は(細かい条文だとか、新しい概念の導入だとかはともかく、根本理念の部分は)それこそが不動の正義なので、変えちゃいけないが、自衛力の放棄などという解釈は変えてもいいし、それこそ改憲しちゃえばいいんじゃないのかとか。ただ「戦力には自衛力は含まないこととする」と書き加えるだけなら、今と特に変わらないと思うしね。

http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20061129で高橋氏、こんな事を言つてゐた訣だけれども。

臨時措置法が日本国憲法を引き継ぐといったって、

だが、日本国を滅ぼしかねない第九条(2)と前文は、採用しない。また、改正手続きを定めた「日本国憲法」第九六条は不要となるから削除する。

なんだから、戦争は出来ちゃうし、前文にうたわれている国民主権の原理、特に「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」あたりがなくなるのはまずいし、改憲の限界についても既存の制約が取っ払われちゃうわけでしょ。

戰爭が出來て良いのか良くないのか、その邊が何うも曖昧だけれども、それはそれとして。
前文で言つてゐる事を大變重要だと言ひながら、それは所詮、高橋氏にして見れば、前文が大事であるのでなく、言つてゐる事に大事な事が含まれてゐる、と云ふだけの事に過ぎない。高橋氏の御氣に召すのならば、「臨時措置法」では前文全體を削除しないで人權關係の記述は殘したつて構はない(小山氏の主張には、人權思想そのものに對する保守派の疑問が絡んでゐるが、今は話をややこしくしない)。ところが、高橋氏は、敢て茲で「言つてゐない事」を重視して見せて、小山氏の現行憲法無效論を疑つて見せるのだが、それが高橋氏の場合、現行憲法無效論全體を疑つて良いと示唆する異常な「歸結」になつてしまふ。
平成十八年十二月八日
議論の場合、適當に相手の言つてゐる事を斟酌して「自分にも受容れられる妥協點に逹し得るかどうか」を考へてから相手の意見を判定するものだが、高橋氏の場合「何とかして自分が受容れないで濟むやうに」話を持つて行かうとする。最初に「相手は間違ひ」「俺は正しい」と極附けてゐるのだが、それを何時までも何時までも引きずつて議論してゐるから高橋氏のは話にならない。俺も、正しい事を言はうとしてゐるし、相手が間違つてゐると判斷したから批判を始める訣だが、相手の反論が正當であれば、こちらは批判を引つ込める用意がある。ところが、高橋氏の場合は、何時までも何時までも相手を「間違つてゐる事にする」事に拘る。
高橋氏の場合、議論の目的が意見の「押附け合ひ」だから(それは高橋氏が宣言するのに反して、高橋氏が價値相對主義者である事を示す)、「議論を通して、何が正しくて何が正しくないか、を檢討する」と云ふ事が高橋氏には何うしても出來ない。
相手の意見を否定するにも、邪推して「言つてゐない事」を理由に極附ける。この高橋氏のやり方は大變に拙い。實際、高橋氏の議論は、後でどんどんぼろが出てくる。高橋氏はそれを自覺出來ないでゐるが、それが「傲慢だ」と俺は見る。相手の意見を出來る限り寛容に解釋して、にもかかはらず何うしても讓れない點がある(だから讓らない)――それなら話は解るし、俺は常にさう云ふ議論をしてゐる(積りだ)。その方が普通だらうし、説得力もあるだらう。
平成十八年十二月八日
高橋氏は、自分が信ずる或信條があつて、それを實現するのに都合の良い事が書かれてゐる憲法の一部分を利用出來ればそれで良い、と云ふ發想を持つてゐる。しかし、さう云ふ都合の良い「憲法の利用の仕方」は可能か。俺は不可能だと見てゐる。なぜなら、それなら憲法それ自體に權威が無くなるからだ。憲法それ自體に權威があつて、だからこそ憲法による「押附け」が説得力を持つ訣だが、その權威が高橋氏の「理論」では存在しないし、そもそも不要である。高橋氏にして見れば、重要なのは人權思想であつて、それが結果として實現されてゐさへすれば良い――と言ひたいが、それを憲法が最初に宣言してゐる事は、大變に重要な事だ、と高橋氏は言ふ。この邊、俺には無茶苦茶矛盾があるやうに思はれるのだが、高橋氏は「俺の主張に矛盾はない!」と斷定してしまふ。
高橋氏にとつて、憲法は大事なのか、大事でないのか。何うも「あるものは利用すべきだし、利用出來るものを利用出來なくなるのは損だ」と、その程度の發想で高橋氏は場當り的に物を言つてゐるやうに見える。
俺にして見れば、憲法それ自體が權威を持つて、その權威で以て人権尊重の思想を「押附け」て呉れる事は大變有益であるやうに思はれる。その權威なくして、高橋氏は何を憲法に期待してゐるのか、さつぱり解らないが、高橋氏にして見れば、内容さへ良ければそれで憲法は權威を持つ、と云ふ事になるらしい。しかし、それでは、寧ろ、憲法こそが人權の權威を利用してゐる、と云ふ事になる。話があべこべだ。
平成十八年十二月八日
目的としては國民の人權が守られれば良い。その爲に、憲法の權威を利用する。それが俺の立場。だから、憲法自體が權威を持つてゐる事は重要で、だから正統性が必要であり、體系性が必要である。國家主義の下で制定された憲法が、民主的に改正される――さう云ふ歴史的な流れが「ある」事もまた、改正された憲法の權威を高める事になる。嘗ては非民主的だつた憲法が、民衆の手によつて民主的なものに改められた、さう云ふ歴史があるから、だから反動的な憲法改惡は許されない、と主張し得る。實際のところ、既存の非民主的な體制を打倒して民主的な革命が行はれた時、それはそれで歴史の流れが「ある」訣だから、さう云ふ事で既存の憲法が破毀され、民主的な憲法が成立する、と云ふ革命も「あり」ではある。ただ、革命の場合、歴史の「動因」が實力行使だから、反動勢力が實力に愬へる反革命もまた「あり得る」事になつてしまふ。理性でなく暴力を用ゐた場合、暴力でやり返された時に理性を根據として反撃しても意味をなさない事があり得る。それは困つた事だと俺は言つてゐる。
高橋氏もまた、人權や自由を守る事は大前提として考へてゐる。だが、一方、それを實現する手段として、憲法を考へてゐる。その爲、憲法の權威は憲法の内容に依存する。憲法自體に權威はなく、ただ、人權保護や抑壓の排除を目的に、「他人に迷惑をかける事」を取締る爲の規則として憲法を考へてゐる。憲法の條文に人權の尊重の事が書かれてゐれば、それゆゑに高橋氏はその憲法を「利用價値がある」と看做す。人權や自由の權威があつて、それで樣々な事を押附ける具體的な規定としての憲法の權威が生れる、と高橋氏は考へてゐる。兔に角人權と自由については反論無用、寧ろ高橋氏の發想では、それらへの反論はタブーである。
平成十八年十二月八日
ところで、高橋氏はどうも根本的な勘違ひをしてゐるやうに思はれる。憲法は、それ自體として、國民に何かを押附ける爲の存在なのだらうか。高橋氏はさう考へてゐるらしい。けれども、高橋氏は勘違ひをしてゐる。高橋氏は、憲法と法律とをごつちやにして考へてゐるのでないか。
國民に押附けられる具體的な決り事は、法律である。統治者は法律によつて國民を統治する。憲法は、その法律に制約を課すものである。と云ふ事は、即座に、憲法は統治者の行爲に制約を課すものである。憲法は、統治する側の人間に對して效力を發揮する。憲法は、間接的に、統治される側の人間の權利を擁護する。
憲法と法律とでは、根本的に性質が異る。何うも、この事を高橋氏はすつかり忘れて議論をしてゐるやうに思はれる。

平成十八年十二月七日
奏光のストレイン。なんか視聽者の豫想の斜め上だか下だかを無駄に往つたり來たりしてゐるやうな氣がする。と言ふか今囘はいろいろひどい。
平成十八年十二月七日
虹裏img死亡?
平成十八年十二月七日
ちょこシスなんか鬱展開に。マジプリで中和。岩男潤子。
平成十八年十二月七日
毎囘何かが根本的に變な蒼天の拳、今囘も變だつた。水曜深夜のあにめは豐作だな。
平成十八年十二月七日
全長約766mm 動く・鳴る・光る・精巧に劇中シーンを再現できる 「1/350スケールプラモデル宇宙戦艦ヤマト」 2007年1月27日(土) 全国発売 | バンダイ | プレスリリース
價格は兔も角、この手の「組立てる物」つて作るの面倒で俺には向かないです。
平成十八年十二月七日
img移轉したらしい。dnsが更新されれば見えるようになる筈ですだつて。なんかふたばに粘着して潰しにかかつてゐる人がゐるみたい。
平成十八年十二月七日
代アニ倒産。情報仕入元:虹裏img。
http://www.tdb.co.jp/tosan/syosai/2239.html

平成十八年十二月六日
GV-M2TV/USB2がまたやつて呉れてゐた。テレ東地上波アナログのときメモと半分の月どらまを録畫させたら、半分の月の半分ちよつと手前で録畫が終了してゐた。mAgicTVのライブラリには「一時間録畫したよ」と出てゐる。別の機械でも録畫してゐたから「見逃し」にはならないけれども、録れるべき番組が録れてゐないのは不快であり、そもそも機械は常に全く同じやうに動作しなければ存在意義がないのだから、存在意義の無くなつた機械がそこに「ある」事自體が不愉快。
餘りに不愉快なので、御藏入りさせてゐたMonsterTV V-Fを復活。GV-MVP/XVDと共存させても動くのでGV-MVP/XVD導入濟みの機械に共存させる形で入れてみた。GV-MVP/XVD、録畫を始めるとPCをリセットして呉れる糞ボードで、それを入れたPCが「非常用」にも使へない状態だつたので、それを救濟する目的。前は共同アンテナ經由で入って來る電波が不安定で、畫像補正機能のないMonsterTV V-Fは使ひ物にならなかつたのだが、何時の間にか安定してゐたらしい、取敢ずそこそこ見えてゐる。録畫も出來るみたい。當座、地上波のバックアップに使用豫定。録畫のメインはさらに別のPCのGV-MVP/RZ2で、一緒に入れたGV-MVP/RX2Eと共存させてある。半分の月はこのGV-MVP/RX2Eで録つてあつたので一往見られるけれども、畫像補正機能がない上、入力する信號が弱つてゐるので、映像・音聲が今一つ。
と言ふか、J:COM經由のスカパー録畫は依然、GV-M2TV/USB2頼りなので、エラー出さないでほしい。PC:無名戰士くんとは相性良かつたのに、Let's noteにぶら下げたら途端に機嫌が惡くなつた。何なのだらう。誰か持つてゐる人、GV-M2TV/USB2かGV-MVP/RZのお古、讓つて下さいませんか。
平成十八年十二月六日
J:COM經由の東京MXの映像が時々ノイズまみれになる。どうせ本據地は東京にあるのだからそこで受信して光ケーブルだか何だかで神奈川まで引張つて來れば良いだらうに――と思ふのだが、技術的に出來さうでもなぜか出來ない事が世間には「ある」らしい。
なんか地上デジタルだと、東京なら東京、神奈川なら神奈川と地域を指定する必要があるのだが、さうするとUHFなんかが觀られる筈なのに觀る事が出來ないやうになるとか、異常な事になるらしい。技術的に可能な事を、わざわざ技術で不可能にする、と云ふのがそもそも異常なのだが、どうして放送と云ふ世界はかう云ふ異常な事を當り前のやうに「やる」のだらう。
大體、放送をうまく録畫出來れば合法で、失敗してnyなんかで補完すれば違法、と云ふのは何なのだらう。
DVD燒きの爲にオーサリングを始めたら、MXソースのちょこシスが保存用としては腐れてゐる事が判明。これだからtvkやキッズステーションでも録畫をしておかなければならない訣。私的な利用の範圍では、放送から録畫するのならば、幾つ録つても完全な合法。それにしてもこの間のtvkちょこシス、どこだかの地震の所爲で非道い事になつてゐたね。キッズステーションでも例の局ロゴが乘るし。わざわざ番組を屑映像にしてから流して、それでスポンサーや視聽者から金を取る放送局はをかしい。
平成十八年十二月六日
USBのTVキャプチャユニットは、物凄く大雜把に言へば、ユニットでエンコして出來たMPEG2データをPCに送り、PC側ではデータを受けるだけ、と云ふ簡單な仕組で動いてゐる筈。これなら問題が起る筈もないだらうに、何でトラブるんだらう。一々マイクロソフトのUSBドライヴァでないと動きませんとか、變な事を言ふメーカがある。HDDなんか、普通に動くのに。データの轉送をするだけなのだから、似たやうなものだらう。一方で出來て他方で出來ない、と云ふのは、をかしい。
PCIのキャプチャボードでも、音聲を一度サウンドボードに出して、それを改めて取込んで映像と結合する、と云ふ變な仕樣のものがある(GV-MVP/SXとかカノープスの何だかとか)。何なのだらう。メーカは技術的に變にややこしくしてトラブルを増やし、ユーザからのクレームを貰ひたがつてゐるとしか思はれない。普通に一枚のボード上でデータの轉送を完結させれば簡單な筈と、素人は思ふのだが、專門家に言はせれば技術上の難しい問題が「ある」らしい。
平成十八年十二月六日
GV-MVP/SX

GV-MVP/SXは気軽にテレビを見る、録ることができるソフトウェアエンコードタイプのTVキャプチャボードです。ロープロファイルのPCIスロットしか搭載されていない省スペースパソコンでも、PCI&LowProfile PCI両対応となっていますので、金具を付け替えるだけでご利用いただけます。

大體メーカの言ふ事だからややこしい事は無いのだけれども、この上の文章だけを信用して買ふとトラブる。

本製品を利用する際には、添付の「内部接続用オーディオケーブル」でサウンドカードの入力コネクタと接続する必要があります。ご利用のサウンドカードに内部音声入力端子が装備されていることをご確認ください。

こんな但し書きがある。これを讀み落として、それでトラブつた人は結構ゐるのでないかと思ふのだが。俺は何とか出來たけれども、こんな方法では音聲の質が惡くなるので、すぐに使ふのを止めた。映像が何んなに綺麗でも、アナログケーブル經由で音聲をサウンドボードに出して、なんて方式では、ろくな音聲にならない。
平成十八年十二月六日
GV-M2TV/USB2がさぼるので折檻を加へたら録畫しなくなつたので秋葉原の中古ショップを廻つて代替機を購入する事に。あちこち見たけれども小さな店にキャプチャユニットなんて全然なし。やつとカクタソフマップでGV-MVP/RZを發見して購入。それで歸れば早かつたのだが、ついでにソフマップ五號店も覗いたら困つた事にGV-MVP/RZ2を發見。仕方がないからそつちも買つて、二つのキャプチャユニットを抱へて歸宅。六千圓くらゐ損。
GV-MVP/RZ2を繋げてみる事に。ドライヴァの導入やmAgicTVの導入はウェブからアップデート版を落して。取敢ず認識その他は一發。
しかし茲からが苦行で、録畫する爲には録畫豫約を入れなければならないが、それが三十件近くあつて、しかも動作確認しなければならないから、取敢ずAT-Xのおゆいで録畫テスト。録畫が終はつて改めて何を豫約しなければならないか番組表を睨みながらちまちまと入力。で、それが終つたところでうつかりPCを再起動。これが致命的なミス。GV-MVP/RZ2には重大な缺陷があり、PC起動時に認識されない。
ところのジャンク屋 電気・通信・分解
GV-MVP/RZ2は複數繋いで平行して録畫できる仕組を持つてゐるキャプチャユニットだが、その「繋ぐ」爲にUSBハブを内藏してゐて、これがPCから認識され難い不具合を抱へてゐる。キャプチャ機能自體には問題ないのに、餘計な機能のUSBハブが糞で問題を起す。
で、再起動したらデヴァイス即ちGV-MVP/RZ2が認識されなくて、それだけならともかく、デヴァイス認識で轉けるとmAgicTVが一々それまでに設定された録畫豫約を消して呉れる。俺の場合、三十件近い豫約が全部消された。馬鹿か。I-Oの開發者は餘程無能に違ひない。
仕方がないから全部入れ直して、で、そこでUSBの外附けHDDにデータを移す關係で(PCにはUSBのポートが二つしかない)USB接續のマウスのケーブルを拔いたのだが――マウスのケーブルの積りがGV-MVP/RZ2のケーブルで、それでデヴァイスが「ない」事になつてまた豫約が全部ぱー。アイ・オー・データの開發者は本當に無能だと思つた。仕方がないからまた豫約の設定をし直した。
mAgicTV 5の豫約の仕方も糞で、地上デジタルの放送の豫約はmAgicガイドなるプログラムで一覽できるのだが、外部入力の豫約はそのmAgicガイドに出て來ない。衛星放送の番組の表示なんて無意味な設定は出來るのに、外部入力の豫約を表示させる設定が存在しない。しかし、外部入力の録畫豫約は出來るのだし、今はケーブルテレビが存在するから外部入力經由の録畫を目的にキャプチャユニットを利用するユーザはゐるだらう。ところが、さう云つた利用の際に、現状のmAgicTVは全然使へない。どうせ開發者は、プログラムなんてそれつぽく作つておけば良いのだらうと適當に作つたに違ひない。と言ふか、自分では利用しないプログラムを開發してゐるから、開發者は役立たずのプログラムを平氣で作つてしまつたのだらう。臆測だが考へるとさう云ふ事に「歸結」する。そして、此の種の臆測に基いた「歸結」なるものは何時いかなる場合にも例外ナシに「眞實」を言當ててゐるものであるのでその「歸結」を根據に非難された人間は反論する事が許されないらしい。ざま見やがれ。
大體今の「テレビ」の世界はをかしい。VHFアナログ・UHFアナログ・BSアナログ・BSデジタル・CSアナログ・CSデジタル――これらの異るメディアが存在するのだ。最初の二つ、VHFとUHFのアナログ放送だけ、なぜかチューナが普及してゐて、極めて容易に扱へる。一方、あとのものは全部「特殊な放送」で、專用のチューナを必要とする爲高價になつてゐたり――そもそもチューナの載つた機械を容易に入手出來なかつたりする。録畫機では、アナログのチューナが載つてゐるだけなのが普通、御金を出すとBSアナログのチューナが載つてゐる機械を買へる。デジタルのチューナになると、これは物凄く高價であり、また、技術的に樣々な制約が加へられてゐて大變に使ひ辛い。大體、「外部」に接續するチューナと言ふのが途轍もなく「難しい」代物であるのは――例へば、ちよつと齡をとつた人に、BSチューナの載つてゐないヴィデオデッキを使つて、BSチューナ内藏のTVから映像と音聲を出力させて、デッキの入力から取込んで録畫するやう、頼んでみれば判る。そろそろ定年と云ふ邊の人なら、最う絶對そんな事出來ないから。ところが、さう云ふ難しい事を、今の技術屋どもは普通にやらせようとしてゐる。2011年で地上アナログ放送は終るが、その後、今世間にごろごろ轉がつてゐるアナログテレビ、これをゴミにさせない爲に、放送關係者は外部に接續するチューナを普及させようとしてゐる。年寄が使へるかよそんなもの。專門家になると、この程度の事もわからなくなる。
取敢ず、「ここ」を見てゐて呉れてゐる閲覽者の方の中に、珍しい本當の意味での專門家の人がゐて、GV-MVP/RZ2の録畫豫約をバックアップして、豫約が消えた時簡單に書き戻せるやうにするソフトウェアを作つて呉れる人は、ゐないだらうか。機械の不具合は仕方がないとして(上のリンク先の人は何とかしてしまつてゐるけれども)、それを埋合はせるソフトウェアはあつても良いと思ふのだ。メーカは融通が利かないから、どうせそんなものは作つて呉れない。と言ふより、アイオーは糞。なんで俺アイオーの機械ばつかり集めてゐるんだ。殆ど中古だが。

平成十八年十二月五日
乙女はお姉さまに恋してる、つよきすなんかよりずつと演劇的に出來てゐるよなー。アニメの話だが。
平成十八年十二月五日
高橋氏の言つてゐる事は、二つ、「俺の自由を抑壓するな」「自分の自由を主張し過ぎると元も子も無くすからみんな適當にしようぜ=法律で適當に自由を制限する事は必要」。これらの主張は、それ自體としては極めて尤もらしい。
けれども、高橋氏が現實の「制度」だか「體制」だかを論ずる時、これらの原則の適用が常に恣意的になる。Aは俺の自由を抑壓してゐる。Bは必要な自由の制限。これらを高橋氏は惡い意味で適當に決定してゐる。二つの原則はあるけれども、それらを統合する原理が高橋氏には全く存在しない。これは問題だ。少くとも議論にはならない。ダブルスタンダードの人とは議論なんて出來ない。
高橋氏に纔かに見られる「原理」は「專門家が言つてゐる」と云ふもの。「專門家が言つてゐるのだから信用出來るし信用しなければならない」或は「論據は專門家の意見でなければならない」。この手のやつだ。ところが、この「理窟」、實に怪しい代物で――革命の專門家は、革命の原理の專門家であり、即ち革命支持の人である。さうに決つてゐる。さう云ふ專門家の意見を採用するならば、當然の話ながら「何時如何なる場合にも革命支持が正しい」と云ふ結論に歸結する。「革命反對」の意見を封殺するには實に便利な「理窟」だ。だから高橋氏は、意識的にか無意識にかは知らないが、此の「理窟」を採用してゐるのだらう。しかし、俺は欺されない。俺は、國字改革の專門家が國字改革推進派であり、國字改革推進派が國字改革の專門家である事實を知つてゐるからだ。

平成十八年十二月四日
日曜深夜のおたのしみ金色のコルダ @ TX。今週はヴァイオリンの人が意地惡される囘。ひのちゃんは普通に演奏。
平成十八年十二月四日
GAる〜んがまた只のパロディアニメに戻つた。
平成十八年十二月四日
「言論の自由」と「思想の自由」とは區別しなければならない。
「思想の自由」は、先づ「人が何かを考へる事それ自體は取締れない」――これは「憲兵であつても取締れない」と元憲兵の人が言つてゐる。おまはりさんの前でエロい事を考へても、大體おまはりさんがエスパーでもなければ「考へてゐる」事自體がわからないし、エスパーのおまはりさんがゐて「わかつてしまつた」としても立證出來ないから立件出來ない。或は、仲間内で集まつて猥談をしても、それは「自由」――會社で大聲でやつてゐればセクハラで訴へられるかも知れないけれども、誰かの家で他に聞かれないやうにやつてゐれば誰にも文句は言はれない。昭和の初期には共産主義の參考書なんかを讀んで勉強會をやればとつ捕まつたけれども、今は自由にやる事が出來る。此處までは「思想の自由」。
さて、「ペドフィリア」を(ロリコンを吾妻ひでおなんかは自稱したけれども)思想として「持つ」事自體は、やつぱりこれも取締れない。身内に「告白」しても別にそれはそれで犯罪にはならない(セクハラは駄目)。けれども、「ペド趣味」を實踐したら――それは人權侵害でとつ捕まる。個人でやつても、身内で集まつてやつても、本物の幼兒に何かアレな事をしたら、それは人權侵害で犯罪になる。そこで「思想の自由」だ! と言つても通用しない。思想は自由だが、行動は自由でない。
では、本物の人間でなくて畫像なら何うか――と云ふのが昨今、問題になつてゐる。最近は、畫像でも「三次」ならアウト、と云ふのが定説。寫眞なら撮影される訣で、その時點で人權侵害=犯罪が發生してゐる。で、その寫眞を需めるのは犯罪を助長する事になる。と云ふ訣で昨今は、三次のろりぺど畫像を持つ事も取締りの對象となりつゝある。
が、問題はその先。「三次が駄目なら二次は」と云ふ話。子供を虐待する訣でないから繪なら良いのでは、と云ふ意見。高橋氏なんかは、ここに拘つて、最近出てゐる日本の「ポルノ規制」法案に大反對してゐる。「人權侵害」の文脈で「春畫禁止」を言ふのは無理があると。なるほど。しかし。
上で、猥談について書いて俺は「セクハラと看做される事がある」と指摘した。茲で、「セクハラ」は「人權侵害」と何か關係があるのか、と云ふ問題が提出可能である。一人でエロいイラストを描くのは、誰も判らないのだから取締りやうがない。身内で集まつてその手の繪を見るのも、まあ、御咎めなしだらう。此處までは「私的な領域」で問題ない。が、その先が問題――そのエロい繪を、不特定多數の人の目に觸れる場所に出したら何うか。ここで「思想の自由」の問題は「言論の自由」の問題に切替る。即ち、今までは、思想なる私的な領域の問題として「取締れない」ものだつたのが、言論と云ふ「公的な領域」の問題に切替はるので、取締りの對象と「し得る」事になるのだ。もちろん、即座に「取締る」のは問題が「ある」にしても、兔に角、「取締りの對象」として特定可能となる事は間違ひない。思想には「形がない」(世間に出てゐなければ「形がない=證據がない」と看做さざるを得ない)が、世間に出て人の目に觸れてゐれば歴然と圖畫は「ある」訣だ。そして、この時、セクハラと云ふ個人の感情が問題になるのと同樣、社會的な「感情」が問題になる。飽くまで「感情」と言つても社會が「思ふ」事はあり得ないので、そこは「曖昧」になるのだが――ここで「アウト」と云ふ事になれば、その手の圖畫の流布は「犯罪」として「取締りの對象」たり得るし、さう云ふ圖畫を所持する事は「犯罪」を助長する事たり得るとして「取締りの對象」たり得る。
ところで、讀賣新聞が讀者に寫眞の投稿を募ると、必ず子供の寫眞で應募する人がゐて、何故かは知らないがそれが何時も高く評價されてゐる。大概、裸で水遊びしてゐる寫眞だつたりするのだけれども、そんな寫眞がカラーで誌面を飾つて、誰も文句を言はない。で、「規制法」がこの手の寫眞を取締るのかが問題。多分、取締らないのではないですか。マンネリズムの詰らない寫眞と野嵜が思つても、それは藝術として「良い」ものと看做されるし、モデルにされる事も人權侵害ではなく一種の名譽とされるので、ポルノではない訣だ。三次で取締られないのなら、二次でも同じ――藝術と見なされ得るものなら、畫像でも大體は辯護可能だし、逆に本當の藝術なら、そこで取締られたら積極的に反論しなければならない(D.H.ロレンスがしたやうに)。が、そこで多くの人が「藝術なら取締られない」と云ふ事で安直に「藝術」を稱し始めるのだが、目的が性的なものである訣だから、隨分藝術を馬鹿にした話で――更に言へば、取締り逃れが横行すれば、最う官憲も面倒臭くなつて、そこで本物の藝術までもが卷添へを食ふ事になり兼ねない。それが一番危險だと考へる。

平成十八年十二月三日
Internet Explorer 7正式版、「Web ページの保存」に相變らずバグが殘存。ユーザが保存を命じても、保存を始めないでダイアログボックスの進捗度が0%のまゝになり、キャンセルも效かない、と云ふ事態が頻發。
平成十八年十二月三日
土曜日深夜のtvk。
おとぼく。生徒會會長の話。
少年陰陽師。もののけさんの御話。姫樣の役立たずぶりは異常。
らぶドル。アイドル養成ものの中でも特にひどいアニメ。今囘もいろいろ突込みどころ滿載。
くじアン。今週も良く動いてゐて樂しかつた。落ちに吹いた。
Gift。修羅場。
平成十八年十二月三日
高橋氏は、自分が何かの專門家であると言つたり、專門家の言ふ事は常に正しいと言つたりする。ところが、さう言ふ高橋氏は政治の素人だし、專門家にも意見の相違がある事は認めない。
話をするとき大變困るのが、話の筋道を忘れる論者で、高橋氏もそれに該當する。俺が民主主義について話をしたら、高橋氏は「民主主義は三權分立」と言出した。それは構はないが、後になつて、高橋氏、「今の話は三權分立制度の國家毎の違ひの話だ」なんて言出した。最う目茶苦茶で、御話にならない。現行憲法無效論についても、高橋氏は自分では最初に話を打切つてゐるのだし、だから俺が小山氏の文章を轉載したのは別に「高橋氏向け」でも何でもない。それを高橋氏が勝手に「興味を持つて」因縁を附けて來たのだし、俺は高橋氏に反應してほしいなんて言つてゐない。今絡まれてゐるのは俺の方だと云ふ事。
平成十八年十二月三日
AT-XでLAP。

平成十八年十二月二日
正直な事を言ふと、最近ウェブサイト作りに飽きてきた。
平成十八年十二月二日
專門家のたんぽぽ先生に説教されてしまひましたよ。明治憲法が成立したのは法的には「合法」でないんださうです。でもそれが有效であるのは「公理」として認められてゐる事にしてゐるだけなんだと。しかし、それなら現行憲法を「公理」としても「問題にならない」などとたんぽぽ先生は拔かしてゐる。ここで「專門家」のごまかしが始まる訣ですよ。なぜ「ごまかし」か。論理と歴史との違ひをたんぽぽが閑却してゐるからです。
平成十八年十二月二日
NaokiTakahashiの日記 - 一般大衆に深い理解を得る必要は無い

表現規制問題、表現の自由に対するほとんどの大衆の認識は、うちのおかんと大差ない。そういう人々を一からリプログラミングしようなんて、迂遠過ぎてやってられません。だいたい、そんな勢いで興味を持ってない問題にまで深い思索を求められるようになったんじゃ庶民としては大変すぎます。俺だって、表現規制に関して強く興味を持ち学んでいるだけで、それ以外ではおかんと変わらない、ただの大衆です。自分にあまり関係のない問題にそこまで深く首つっこみたくないですよ。

一見もつともらしいけれど、高橋氏の言つてゐる事つて要は愚民政策肯定論なんだよね。「愚民どもの代りに俺たちインテリのエリートさまが頭を使つてやるのだぞ」と、さう言つてゐる訣。エリートの高橋氏、「親切心」で「大衆」の代りに頭を使つて呉れてゐるのださうです。
ジョージ・オーウェルの『動物農場』を讀んだ人には、この高橋氏の言つてゐる事が實に危險である事が判りますよね。高橋氏にして見れば「あれはおはなし」に過ぎないのでせうけれども、「寓話」ですからね、文學的に讀む必要があります。高橋氏は文學を文學的に讀む事が出來ますか。
高橋氏、かう續けます。

つまりジャーナリズムです。素朴に規制推進派を「いいひとたち」と思っている人には、まず具体的で直接的で卑近な問題を提示して、彼らに対して正しく幻滅してもらうことで一歩前進するわけです。メジャーなマスコミはどうもこういう話をやってくれないので、俺はインターネット・ジャーナリズムにこういう方面への発展を期待します。

高橋氏すらも「正しい」と云ふ觀念の存在を認めてゐる訣です。問題は、その「正しい」と云ふ事について、高橋氏は「自分の思つてゐる事だから正しい」と言ふのです。

自分の意見が間違っていて世間の意見が正しいと思うなら、何も主張なんかする必要ないでしょうに。自分が正しいと思うから主張するんでしょうが。何かわけの分からないことをいってますねえ。

馬鹿ぢやねえの。いや、だから、形式言語理論もわからんようなトーシロがよくコンピュータ言語の仕様に意見する気になるよなあ、ということなんですが? 理系舐めてません?なんて拔かしてゐやがるけれども、高橋氏みたいなのを「專門馬鹿」と言ふんだよ。と言ふか、高橋氏が專門家面をしてゐるのは、自分の意見が正しい事を論證する手間を省くのが目的か、或は、自分の意見が實際は正しくないのに「正しい事」に見せかけて周圍の人間を騙すのが目的か、そのどちらかだらう。さうとしか思へないよ。俺はさう云ふ俺の判斷は正しいと思つた、で、正しいと思つた事を主張するのは正しいと、さう高橋氏は言ふ訣だ。ならば俺の言つてゐる事は正しい訣だ。何か問題?
平成十八年十二月二日
昨日の買物 @ 東京古書会館。雜誌「人間」「展望」のバックナンバー。昭和二十一年〜二十四年頃。主に福田さんの文章が掲載された號。原田種成『漢字の教養』(愛育出版)。原田氏のは大體國字改革反對の立場から書かれた漢字(漢字教育)の本。もつとも、漢字は簡單になつて行くものだから、「当用漢字」で字體が簡略化されたものは何を言つても戻る事はない、よつて字體を元に戻せと叫ぶのは愚の骨頂とか書いてゐやがる。大體のところは穩當な意見なので、ネタ本として利用する積り。ただ、ウェブサイトを作るモチベーションが最近はめつきり減つたので、買つたら買ひつぱなしで何處かに埋もれさせてしまふ可能性大。
平成十八年十二月二日
俺の言つてゐる事に、例へば高橋氏の「ブログ」のコメント欄に書込んだたんぽぽ氏は反論し得たんだよね。たんぽぽ氏の指摘の一部は慥かに正しくて、俺の書込みには慥かに誤があつた。しかし、開き直つて言ふけれども、この「反論可能である」事を言つてゐた俺は、反論不可能な事を繰返し言つてゐる高橋氏よりも、増しな筈なんだよ。俺の言つてゐる事は檢證可能な事だからだ。高橋氏が「この文章が何を帰結するか」を「読み取る」なんて言つてゐるの、それが正しいか何うか、とても檢討出來ないもの。「檢討出來る主張」は、それが結果として誤であれ、「檢討出來ない主張」よりは意味があるんだよ。高橋氏の言つてゐる事は皆ナンセンスだ。
平成十八年十二月二日
だが、そんな「たんぽぽ」なる人物の言ふ事も、これまたをかしい。「たんぽぽ」は、數學の公理が取替へ可能な取決めに過ぎないのと同様に、憲法も取替へ可能な取決めだと主張した。これはをかしい。なぜなら、憲法が存在してゐるのは、數學の世界でなく、現實の世界だから。
現實に、我々は、法治主義を採用すると云ふ大前提の下にある。「たんぽぽ」はこの大前提を失念してゐる。この大前提を肯定する限り、我々は一度採用した取決め事を、無法に別のものに交換する事が許されない。數學で、ユークリッド幾何學を用ゐず、非ユークリッド幾何學の考へ方で考へる事が許されるのとは、訣が違ふ。
「法律の專門家」である「たんぽぽ」が、法律の知識をひけらかしながら、法治主義の概念を失念してゐるのは、一見奇怪だが、法律の知識をまる諳記し、パズルのやうに法律を解きながら、法律が存立し得る原理を認識しないのは、日本の法律專門家が常に陷る誤である。「なぜ法律があるか」を、日本の法律專門家は屡々勘違ひする。「支配者が被支配者を支配する爲」と、彼等は屡々勘違ひするのだ。支配の爲に、法律は都合良く取替へられる、と、彼等はさう主張するのである。が、そんな事が行はれると困るから、支配者の專横を抑へるべく、近代になつて法治主義が登場したのだ。支配者の專横、それを規制し、社會的な取決めに全ての人が從ふ事を、法治主義は要求する。憲法は、さうした近代社會において、支配者・被支配者の區別を超えて、一般に「法の支配」を「押附ける」。ここに、法治主義は、「人に據る押附け」を否定し、「理窟による支配」を實現する。が、これが過去の政治體制よりも、民主主義を志向したものである事は、改めて論證するまでもない事實である。
支配者の專横を否定する爲、或前提の下に法は定められる。その目的は、飽くまで支配者の專横を否定し、國民全體を一樣に一つの取決め事で「縛る」事である。法治主義の重大な目的は、支配者の專横を抑制する事だ。その目的の爲に、法治主義は存在する。
この時、法治主義は取決め事について、一度決めた事は無法に變へてはならぬと、人々に要求する。憲法は無から生じない、成程「たんぽぽ」の言ふ通りだ、だが、一度生じてしまつた憲法は、それ自體として「自律的」に「存在する」のである。それを改める事は、それ自身の規定に據らねばならない。これが法治主義である。法治主義は、歴史を通じた一貫性を法に要求する。その始まりは問はない、始まつてから以後の一貫性を、である。
もちろん、現實には、高橋氏の言ふやうに革命によつて憲法が停止される事は「あり得る」。が、それは大變例外的な事と言はねばならない。實際、革命で政治體制は「常に良くなる」ものではなく、革命後には支配者の專横が殆どの場合、顏を出すのである。フランス革命以後、フランスは政體が共和制と帝政を往つたり來たりした。ロシア革命の後、ソヴィエト聯邦は事實上の獨裁政權の下で運營された。高橋氏は革命を讃美してゐるが、實際にはそんなに革命も良い事ばかりではない。
支配者の專横を防ぐ――その爲には、實は革命なんてない方が良いのである。イギリス人は、ただ一度、過ちを冒したが、その過ちを直ぐに理解した。彼等は革命に據らずして、寧ろ安定した自由主義・民主主義の體制を確立した。その過程で植民地化等の「問題」を生じたから、樣々な非難が浴びせられる訣だが、しかし、イギリスと云ふ國の内部で、自由主義や民主主義の理念が成長した事實は否定出來ない。彼等は、支配者の專横を否定しつゝ、國民が支配者と化して專横を行ふ危險を知つてゐた。だから、今に至るまで、英國王室は存在し續けてゐる。同時に、イギリスは、不文憲法の國で、ただ、過去の歴史上の取決め事を基に、理念としての憲法を持つてゐる。彼等は、誰が何う見てもとても民主的とは思はれないマグナ・カルタを筆頭に、古めかしい文章の取決め事を、全て歴史的な存在として受容れて、常識として成立した一種の觀念を憲法として信じてゐるのである。が、かうした不文憲法を日本人は持たない。日本人は、自分の力で近代社會を作つたのではなかつたからである。
日本人は、明治になつて、近代なるものを輸入した。明治以來、「天皇の支配下」と云ふ名目で大日本帝國が存在した訣だが、この帝國は、過去の日本とは違つた、新しい國家作りを目ざした。歐米流の近代國家である。この方針は、現在も續いてゐる。この近代國家たる事を目標に、日本人は大日本帝國憲法を成立させたのだが、この成立過程において、「たんぽぽ」の言ふやうな「權力者による押附け」があつたと考へても良い。別に、成立過程は問題にならないからだ。否、實は成立過程は重要であつて、兔に角、社會的な取決め事として認められる事は必要なのだ。そして、大日本帝國憲法は、一度、社會的に認められた。この時點で、大日本帝國憲法は合法の存在となつたと言へる。
この合法の存在である大日本帝國憲法は、立憲政治が崩潰し、軍人の政治に移行して、骨拔きにされた訣だが、軍人主導の政治が結果として日本に敗戰と云ふ事態を招いた事は否定出來ない。が、さうした事態が、大日本帝國憲法の外部の要因として、大日本帝國憲法を停止せしめた事は、重大な事實である。米軍による占領が行はれた、さうした状況下で日本国憲法が制定された。
ここで我々は、日本国憲法の制定が占領と云ふ状況によつて齎された事に注目しなければならない。占領期間だからこそ、日本国憲法は成立した――と言ふより、成立させられたのである。が、その日本国憲法が、占領期間が終つたのに、引續き憲法として扱はれてゐる。これは異常である。
占領期間が終つたら、日本人は日本の自主性を恢復した筈である。慥かに民主化されたが、しかし、國家としては占領以前のものに戻つた筈である。戻つたから恢復した訣だ。改めて日本國が建國された訣ではない。もちろん、市民革命なんて、事實として行はれなかつた。となると、法治主義の出番である。法治主義は、飽くまで法の歴史的一貫性を要求する。時間を超越した取決め事としての法の存在を認め、支配してゐる人間に關係なく、法の支配を要求する。何度でも言ふが、法治主義とは、法の支配である。法による支配者の支配ではない。支配者の專横を防ぐ爲の統治の方便が法治主義だ。支配者の支配する權利が「正統である事」を根據にしたのと同樣、法による支配の權利も矢張り正統である事を根據とする。法が法の外部の力によつて交換されるのは、法自體が支配するのでなく、支配者が法を利用してゐる事を意味する。それは「法が支配する」と云ふ法治主義の原則と矛盾する。「法が支配する」爲には、法自體が法を律する事が必要となる。だから、歴史的に時間を超越して法は存在し續けなければならない。そして、さう云ふ法に基く法治國家もまた。そもそも、日本國が「獨立を恢復した」と言ふのならば、日本國は大日本帝國の正統の後繼者でなければならない。
大日本帝國と無關係に成立した新國家であるのならば、成程、法的な連續の消滅は「あり得る」。が、實際に日本國は大日本帝國との連續を主張する。日本国憲法もまた、大日本帝國憲法の「改正」されたものと、主張してゐる。我々は、さうした建前が存在する事を事實として認めねばならない。そして、さうした建前が、現實の憲法のあり方を否定してゐるのである。
と言ふより、現代の日本人は、餘りにも自分逹に都合良く、憲法を利用してゐると言つて良い。が、さう云ふ「憲法を利用する」と云ふ態度がそもそもをかしい。法を利用した人間に據る統治が、日本國には存在するのである。が、それでは日本國は法治國家でなくなつてしまふ。建前と實態とがとんでもなく乖離してゐるのである。「別に乖離してゐても良いぢやん」と云ふのが、高橋氏や「たんぽぽ」の立場だが、それでは困る。先づ第一に、それでは建前――憲法やら何やらが存在する意味を持たなくなる。書かれた憲法なんかは何うでもよくて、解釋によつて存在する「憲法」があればそれで良い、と言ふのなら、成文憲法は要らないのである。第二に、書かれた憲法の内容が何んなに素晴らしくても、解釋によつて支配者の都合の良いやうに憲法が利用される、と云ふ事である。これは、要は支配者の專横を許すと云ふ事で、それで都合が良いのは、支配者だけだらう。ところで、かう云ふ支配者の專横の危險を、なぜか法治主義を否定する側の人間は、全く危惧しない。却つて、法治主義を主張する野嵜の方に、彼等は支配欲の影を看て取る。どうも、彼等は自分逹の内部にあるものを、反對者に投影して、それで反對者を罵つてゐるのではないかと思はれる。高橋氏や「たんぽぽ」ら自身にこそ、支配欲があつて、その支配欲を滿たす爲に、利用出來るものを利用したいと云ふ考へがあるのではないか。事實、高橋氏にしても「たんぽぽ」にしても、「專門家」による「大衆」の指導、と云ふ發想が見られる。俺には、このやうな愚民政策主義者の存在こそ、危險に思はれる。
平成十八年十二月二日
俺は無知だから事實を知らない事がある。俺はおつちよこちよいだからちよつとややこしい事を言はれると直ぐに勘違ひする。けれども、俺は馬鹿だから、筋を通す事は大事だと信じてゐる。
野嵜を無知だと罵り嘲る手合は少くないが、彼等は下らない揚げ足取りをして好い氣になつてゐるだけだ。野嵜の言つた言葉を適當に繋ぎ合はせて野嵜をだまくらかさうとする連中も少くないが、ややこしい事を言つて混亂させて煽つても仕方がないだらう。少くとも、彼等には「本當の事を知りたい」と云ふ欲求が存在しない。彼等はただ、自分逹が愉しく生きられればそれで良いと心の底から信じてゐる。それは馬鹿の俺には許し難い事に見える。
平成十八年十二月二日
日本人は、知識の詰込み教育を非難しながら、實はそれを大變に愛してゐる。知識が無い事は、その人間が無知である事の決定的な證據だと看做すくらゐに。
平成十八年十二月二日
お笑いパソコン日誌:今日の浅い思索と駄反応・マックのCMとウィンドウズの時計
Windows 3.1以前にあつたclock.exeつて、慥かWindows95で無くなつたんでしたつけ。PC-98ではclockつて名前が使へないから日本語版Windows 3.0でtokei.exeだつた奴。
Mac OS Xは良いOSですよ。業務で使ふのだつたら安定してゐる。Windowsに比べてフリーソフトが少いとか、ベクターでMac用のソフトウェア探すとOS 9用とX用とがごつちやになつてゐてややこしいとか、そんな「問題」はあるけれども。
從來のMacintoshの深刻な問題點は、ハードウェアが特殊でPCとは異るパーツが必要だつた事。或はパーツの繋ぎ方の作法がWindows方面と違つてゐた事。IBM PC互換機の世界の「すばらしいところ」は、ハードウェアの互換性が無茶苦茶高い事。intel Macになつて状況變つたのかなー。新しいMacではWindowsも動くやうになつて、或意味御買得。Windows Vistaが一般向けに出たらintel Mac買はうかと。
平成十八年十二月二日
Clock.exe は、 Windows 2000 のクリーン インストールで見付かりません。
NT 4.0にclock.exeはまだあつたみたい。2kではなくなつた。
平成十八年十二月二日
妄言師@無銘の銘柄 - 古典文法を勉強してゐるゾ
平成十八年十二月二日
天保異聞妖奇士は最ういろいろとネタ滿載だな。

平成十八年十二月一日
高橋氏の「ブログ」のコメント欄に「たんぽぽ」なる人物が出現。(2006/11/30 00:37)

そもそも野嵜と議論なんて馬鹿馬鹿しいですよ。彼は福田恆存が昔書いたことをバカの一つ覚えで繰り返しているだけ。

憲法制定能力云々などということを考えたことはありません。「明治憲法が合法的に成立」などという文句を見て思わず笑ってしまいました。法と政治の関係について何一つ根本的に考えたことのない人の文句です。むろん高橋氏もおわかりのように、あらゆる法は当初は「押し付け」です。時間の無駄です。

笑ふのは勝手だが、人の發言の意圖を汲取らないで、言葉尻を捉へて笑つて見せてゐるのなら、それは只の揚げ足取りだ。と言ふか、「アンチ野嵜」の連中は、俺を罵倒するのに「福田恆存のエピゴーネン」と馬鹿の一つ覺えで繰返して何うしようと言ふのだらう。大體、俺は小山氏の文章を引用したし、そこに書かれてゐる事は福田氏が述べた事と決して一致してゐないのだから、俺が福田氏の言葉だけを繰返してゐると云ふ非難の反證ではないか。もちろん、「アンチ」の連中に、かうした反論の言葉は意味がない。彼等は、自分逹に都合の惡い事實を見ようとしないからである。
また、法が「当初は押し付け」である等と尤もらしく言つてみても意味がない。押附けだから何だと言ふのだらう。此れほど意味のない書込みも珍しいと言ひたいが、ウェブではざら。日本に馬鹿が多いのは本當に嘆かはしい事だ。
大體、法は「押附け」ではないよ、社會的な取決め事だ。

そうです。もう一度書きますが、明治憲法は「合法的」に成立してなどいませんよ、野嵜君。すべて法は当初は無根拠です。

「野嵜」と云ふ書き方をしてゐるのを見れば、大體この「たんぽぽ」なる人物の素性は判らうもの。
しかし「押し付け」と言つたり「無根拠」と言つたりたんぽぽ先生、思想的に落著きのない御仁だ。
平成十八年十二月一日
NaokiTakahashiの日記 - 西洋倫理学の三本柱
Rachels, James[ジェイムス・レイチェルズ]
ホイジンガが『朝の影のなかに』で非難してゐる「生の哲學」ですな。
平成十八年十二月一日
連中が大威張りであるからには、世間の人も大體高橋氏に同調して、法律の條文と、法解釋とは、異つてゐて良い、と言ふものなのだらう。けれども、何うしてそれらが「異つてゐた方が良い」のだらうか。それに、高橋氏は「法理論」なんて言つてゐるが、その「法理論」で一貫して現行憲法の各條文は解釋されてゐるだらうか。ゐやしない。現在の法解釋は、恐ろしいまでに場當り的である。憲法第九條なんかは、當座、現實の社會情勢の下で都合が良くなるやうに――それこそ體制側に都合の良いやうに、解釋が變更されて來た。しかし、そんな風に解釋が搖れるやうでは、社會的な取決め事として、信頼出來ないでせう。契約書なんかで、さうした解釋の搖れがあつたら大問題だ。取決め事なら書かれた通りの意味で理解されるやうにすべきなんだよ。
で、今の憲法なんかは、條文に書かれた通りに解釋するととんでもない事になる。大體、高橋氏が禮讚する前文、あれが飛んでもないいんちきで、例へば――「全ての法は当初は押附け」なんて言つてゐるたんぽぽが呆れ返るだらう事に――現行憲法は國民自身が確定したものなのださうだ。高橋氏流に解釋すれば、たんぽぽは「天皇が國民に現行憲法を押附けられた」と言ひたいのかも知れない。が、それならたんぽぽは高橋氏と根本的に主義主張が異る訣だ。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。と前文には書かれてゐる。この前文の規定からして「自分逹で自分の國を守るんだ」と云ふ意圖を日本人が持つ事は許されない。現行憲法の各條文は、この前文の記述を大前提として解釋されるべきものだから、第九條第二項も當然、侵掠戰爭はもとより自衞戰爭をも否定するものであると解釋されねばならず、結果として「自衞隊」は「違憲」と云ふ事になる。高橋氏の立場では、前文の規定は大變重要なものだから、かうした解釋を排除する事は出來ない。ところが、そんな高橋氏は、野嵜のかう云ふ解釋を「ナイーヴ」と言つて小馬鹿にするのである。「法理論」も糞もあつたものではない。
平成十八年十二月一日
俺の言つてゐる事をわざと曲解して、言つてゐない事を「言つた」と云ふ事にして、異常な「野嵜の言つた事」をでつち上げて、それをやつつけて、野嵜に勝つた氣になる「アンチ」が多過ぎる。
mimasa氏なんかもその手合で、だから俺はXHTMLなんかをいんちきだと斷じて憚らない訣だ。
平成十八年十二月一日
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