闇黒日記


平成十八年十一月三十日
奏光のストレイン。今週も話が進まない。來週も馬鹿話つぽい。
平成十八年十一月三十日
高橋氏の「讀み方」を實踐してみるよ。これは野嵜の本音ではなくて、飽くまでシミュレーションだ。飽くまで、高橋氏の理論を高橋氏の言つてゐる事と突合はせるとかう云ふ事になつてしまふ、と云ふ話。
高橋氏は、「書かれてゐない事」を讀取らねばならないと言つてゐる。今の憲法解釋では、現行憲法の第九條に「書かれてゐない事」が肯定されてゐて、詰り「條文上は違憲」の自衞隊が「憲法解釋によつて合憲」とされ、事實として存在してゐる。高橋氏はかう云ふ解釋と事態を肯定する。さらに、「自衞隊」と言つてゐるが、勿論高橋理論では「書かれてゐない事」を讀取らねばならないから、「自國を守る」以上の「思惑」を讀取らなければならない。となると、當然の事ながら、高橋解釋では「自衞隊」は侵掠の爲の軍隊と云ふ事になる。高橋氏はさう云ふ「自衞隊」を肯定してゐる。となると、高橋氏は、戰爭反對の立場をとつてゐるやうで、實は戰爭賛成の立場である訣だ。
以上はただのシミュレーションだが、恐ろしい事に辻褄が合つてゐる。高橋氏は反論するだらうが、それも當然何等かの「思惑」が「ある」訣で、裏を讀んで構はない(と云ふのが高橋理論)。何うだらう。かうしたシミュレーションを續けると、高橋氏は、基本的人權を「條文の上で肯定」しつゝ、「事實上侵害」出來れば良いと考へてゐる事になつてしまふ。更に裏を讀むならば、野嵜の言つてゐる事に反對してゐるのは、それに據つて野嵜の主張を實現しようと考へてゐる、と云ふ事にまでなる。最早目茶目茶な推測だが、高橋理論を忠實に實踐すると、そんな事にまでなつてしまひ兼ねない。さうした「危險」を自覺せずに、當座、自分に都合の良い話を出來るからと言つて變な「讀み方」を採用してゐる高橋氏の自覺のなさは異常。
平成十八年十一月三十日
東京MX、今夜のちょこシス→マジプリは神編成だつた氣がした。
平成十八年十一月三十日
中途視覚障害者の触読効率を 向上させるための総合的点字学習システムの開発 表紙・目次
平成十八年十一月三十日
コラム統計計算文法考
平成十八年十一月三十日
昨日買つた本。西尾幹二『悲劇人の姿勢』サイン本。今日拾つた本。谷沢永一『古典の読み方』。谷沢のは宮崎市定の論語の譯を褒めたり、シェイクスピアのジュリアス・シーザーに學んだり、プルタークの河野與一譯を貶して鶴見祐輔譯を褒めたりしてゐる本。祥伝社NON BOOKの知的サラリーマン・シリーズだから、「その手の本」だと言へば書き振りは大體判らう。

平成十八年十一月二十九日
「現行憲法無效論」について。これくらゐ引張つて來ないと話がさつぱり見えて來ないので小山氏には申し訣ないが可成長く文章を轉載させていただきます。
小山常実『憲法無効論とは何か 占領憲法からの脱却』(展転社)第四章「第三節 「日本国憲法」無効論に基づく憲法改正手続」

ようやく、「日本国憲法」無効論の憲法改正方式を具体的に述べる段取りとなった。以下、菅原裕『日本国憲法失効論』(国際倫理調査会、二〇〇二年)と拙著『「日本国憲法」無効論』(草思社、二〇〇二年)を参考に、考えていきたい。この方式は、前述のように、大きく二段階からなる。第一段階は、「日本国憲法」の無効確認及び明治憲法の復原確認と、臨時措置法の制定という二つの作業からなる。第一段階では、憲法改正の第一目的である第九条と前文の始末を行う。これは、今後一年ほどの間に早急に行わなければならない。

そして第二段階では、第二目的である自由主義的な民主主義の再建を可能にする新憲法をつくる。第二段階の作業も、二つの作業からなる。第一の作業は、第七三条を改正して、議会の議決後に国民投票を行うことを規定することである。第二の作業は、改正第七三条に基づき、議会の審議や国民投票をふまえて、新しい憲法を確定していくことである。二つ目の作業である新憲法の確定は、ゆっくりと五年から十年程かけて行うこととする。以下、二段階四つの作業を順に述べていくこととしよう。

同「無効確認の意味」

第一段階の第一作業は、「日本国憲法」の無効と明治憲法の復原を確認することである。この確認は、法的に言えば、首相他内閣を構成する国務大臣の副署に基づき、天皇が無効・復原確認を行えば十分である。ただし、政治的には、国会による決議がなければ立ち行かないだろう。それゆえ、国会による決議を経て、内閣総理大臣他の副署に基づき、天皇が正式に無効と復原の確認行為を行う形がよい。

「日本国憲法」無効確認とは、様々な意味をもつ。何よりも一つ目の意味は、「日本国憲法」が憲法としては無効な存在であり続けたことの確認である。二つ目の意味は、占領管理基本法説に立つならば、「日本国憲法」は占領解除までは有効であったこと、占領解除によって失効するが無効確認が行われるまでは有効の推定を受けることの確認である。また、占領管理基本法としてさえ無効であったとする立場に立つならば、「日本国憲法」は占領中も占領解除後も一貫して本来無効であるが、やはり無効確認が行われるまでは有効の推定を受けることの確認である。いずれにせよ、無効確認とは、現在の「日本国憲法」は失効している又は無効であるが、有効だと推定されているということの確認である。

従って、無効確認がされたからといって、戦後五十九年間「日本国憲法」に基づき日本国が行ったことは全てなかったことにされるわけではないし、全て無効であったことにされるわけではない。つまり、三つ目の意味は、無効確認の効力は、将来に向けてのみ発生するのであり、過去に遡ることはないということである。

実際、無効確認の効力を過去に遡らせようと主張する「日本国憲法」無効論者は、誰一人存在しない。にもかかわらず、世の中の憲法学者等は、「日本国憲法」無効論をとれば、戦後五十九年間「日本国憲法」に基づき日本国が行ったことは全て無効であったことにされてしまうから、無効論をとるわけにはいかない、と述べたりする。この誤解は正しておかなければならない。

さらに四つ目の意味は、「日本国憲法」の無効確認は必然的に明治憲法の復原をもたらすということである。

同「臨時措置法の制定」

第一段階の第二作業は、新憲法が作られるまでの臨時措置法を制定することである。復原した明治憲法をそのまま機能させても、社会の混乱を招くことになるから、憲法改正手続きを規定した明治憲法第七三条以外の効力を停止し、臨時措置法を制定する。臨時措置法の内容は、法的安定のためにも、「日本国憲法」の条文を基本的に採用する。だが、日本国を滅ぼしかねない第九条(2)と前文は、採用しない。また、改正手続きを定めた「日本国憲法」第九六条は不要となるから削除する。

同「新しい憲法の制定」

そして、「正気」を取り戻し、国家論と自由主義的民主主義を学習しなおしたならば、第二段階として、明治憲法第七三条の規定の趣旨にそった改正手続きで、新しい憲法を作ればよい。明治憲法第七三条によれば、天皇が発議して、貴族院と衆議院で可決されて憲法改正がおこなわれる。貴族院はもう存在しないから、参議院によって代替すればよいだろう。それゆえ、第七三条の趣旨をいかして復原改正の具体的方法を探れば、内閣を構成する国務大臣の副署に基づき天皇が発議し、衆議院と参議院が各々三分の二以上の議員の出席により議事を開き、出席議員三分の二以上の賛成により、憲法改正を決定する方法が適当だろう。

新しい憲法は、じっくりと五年でも十年でもかけて、明治憲法の改正という形で作ればよい。民主主義の観点からすれば、この第二段階の作業は、細かく言えば二つの作業からなる。第一の作業は、第七三条を改正して、理代社会に合った憲法改正手続きを規定することである。この作業には、二つのポイントがある。一つ目は、天皇とともに両院にも憲法改正の発議権を与えることである。そうすれば、政府原案が出された時、その原案に対する自由な修正権が議会に認められることになる。二つ目は、議会の議決後に国民投票を行うことを規定することである。国民の政治参加意識の高まりからすれば、国民投票を規定して、国民自身を憲法改正に参与させることが必要であろう。

第二の作業は、改正第七三条に基づき、議会の審議や国民投票をふまえて、新しい憲法を確定していくことである。

この新しい憲法は、日本人自身が自由意思に基づき、正統憲法たる明治憲法を改正して作るものだから、正統性及び正当性を回復することができよう。たとえ「日本国憲法」と全く同一のものが作られたとしても、その正統性・正当性は、「日本国憲法」とは比較しようもないものとなろう。

平成十八年十一月二十九日
で、現行憲法の「有効推定」に關する小山氏の記述も一往。
小山常実『憲法無効論とは何か 占領憲法からの脱却』(展転社)第四章「第三節 「日本国憲法」無効論に基づく憲法改正手続」「有効推定を受ける「日本国憲法」」

以上、おおよそ七つの理由から、永久憲法としては、「日本国憲法」は無効な存在であると言わねばならない。すなわち、占領軍は、永久憲法として「日本国憲法」を作らせようとしたが、失敗してしまったのである。

だが、ハーグ陸戦法規第四三条によれば、占領軍司令官に現行法をそのまま尊重する義務を課しているが、「絶対的ノ支障」がある場合には、占領軍司令官が、占領期間中の暫定法をつくることは許される。したがって、「絶対的ノ支障」が何かを示せれば、「日本国憲法」を、占領下の占領管理基本法あるいは暫定憲法としては有効なものだったと位置づけることは出来る。「日本国憲法」が占領管理基本法あるいは暫定憲法として有効だとすれば、当然に、一九五二(昭和二十七)年の占領解除とともに、「日本国憲法」は法として失効する。これに対して、「絶対的ノ支障」が何か示せない場合には「日本国憲法」は占領管理基本法としてさえも無効な存在となり、あらゆる意味で無効となる。

筆者は、理論的には、占領管理基本法説をとっても、占領管理基本法としても本来無効だとする説をとっても、いずれでもよいと考えている。いずれを採用するかは、政治的な判断に拠ろう。占領管理基本法説ならば、当時のGHQや議員たちの行動をそれほど批判する必要はなくなるし、基本的に免罪することになろう。これに対して、占領管理基本法としても本来無効だとする説をとれば、特にGHQの行動を厳しく批判する必要が出てくるかもしれない。

しかし、いずれの説を採用しようとも、失効・無効の確認がなされるまでは、本来無効な「日本国憲法」が、一応有効であるとの推定を受ける。有効の推定を受ける以上、失効・無効確認があるまでは、「日本国憲法」は守らなければならないことは当然である。

平成十八年十一月二十九日
上の文章は本をSmartOCR Lite Editionで讀取らせて一發。スキャナのプレビューに時間がかかるやうになるけれども、讀込んだら既に畫像の向きなんかは調整濟、見開き補正は必要になるけれども、それをやつて、領域指定すれば即座に完璧に讀取つて呉れる。スマートリーディングは業務を終了してゐて、OCRのソフトウェア、開發・配布を終へてゐるけれども、何處か買取つて開發・販賣を續行しろよ。良いプログラムなのにもつたいない。
ぐぐつたらなんか無斷で配布してゐるらしきサイトがある。
平成十八年十一月二十九日
高橋氏のトンデモ理論。國家主義者でも言論の自由を言ふ、だから野嵜は國家主義者だ。高橋氏、三段論法の出る幕は無いんです。なんて言つてゐるから、こんな異常な「論理」を當り前だと思つてゐるのだらうなあ。
平成十八年十一月二十九日

誤読誤解がどうこう以前に何を(意図的に)書き落としているのかに注目すべきだ。

この高橋と云ふ人の恐ろしいところは、かう云ふ事を平氣で書けてしまふ事なんだよね。
「書いてある事」を讀取るのは當り前。けれども、「書いてない事」を讀者が恣意的に讀取るのはをかしな事だ。そのをかしな事を高橋氏は推奬してゐる。
ところで高橋氏、この高橋氏の指摘、高橋氏自身の「言説」に當嵌めてみたら何うなるかな。
平成十八年十一月二十九日

臨時措置法が日本国憲法を引き継ぐといったって、

だが、日本国を滅ぼしかねない第九条(2)と前文は、採用しない。また、改正手続きを定めた「日本国憲法」第九六条は不要となるから削除する。

なんだから、戦争は出来ちゃうし、前文にうたわれている国民主権の原理、特に「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」あたりがなくなるのはまずいし、改憲の限界についても既存の制約が取っ払われちゃうわけでしょ。

高橋氏のをかしな發言。この人の言つてゐる事はどれもこれもをかしいのだけれども取敢ず。ねえ高橋さん、第九条(2)が今の憲法には「ある」訣だよね。なのになぜ自衞隊が存在してゐるの? 第九条(2)は前文の宣言を大前提に解釋しなければならない訣だが、さうすると、素直に讀めば、日本人は自分の力で自分の國を守る事も許されてゐない。自衞隊は違憲。誰が何う見てもさう。俺も常々さう言つてゐる。ところが、「憲法解釋」で自衞隊は「合憲と云ふ事」にされてゐる。「憲法解釋」と「憲法」とが正反對である訣だ。高橋氏に據ればさう云ふ事は當り前だし良い事であるらしいのだが、俺にして見ればそんな危險な話はない。だつてさうだらう、さう云ふ正反對の解釋を許してしまふのなら、高橋さん、あなたは憲法が規定してゐる基本的人權の尊重を憲法解釋で人權侵害の擁護や推奬に讀替へて良いと言つてゐる事になる。しかし、それでは困るでせう。だから憲法は書かれた通りの意味で解釋されなければならない。自衞隊は違憲。これは高橋氏も認めなければならない事實だ。だが、一方で、國民が自分逹の國を自分の力で守ると云ふ事は世界の常識だし、實際に日本人は自衞隊を持つてゐる。ならば、「臨時措置法」では當座、さう云ふ事實を認めて、規定の方を削除するのが自然でせう。そして、そこで高橋氏は小山氏の「思惑」を邪推して見せるのだが、小山氏が此の種の手續きを一人で實行するのでなく、政治家がやるのだから、政治家を信用すれば良いでせう。そして、高橋氏は、今の日本も世界の歴史の流れの中にあつて、「アナーキズム」に向つてゐる事實があると言つてゐる。ならば高橋氏は政治家がやる事もさうした「流れ」に沿つたものになると期待して良い筈。何が問題があるのだらう。
平成十八年十一月二十九日

時限立法であること、当座の決定に過ぎないことは、安全性を保障しない。

俺がなぜ「事前に新憲法案をまとめておく(現行憲法が要求する程度の民主性は確保するために、国民投票はすべき)」「一分(理想的には瞬時)で新憲法に移行する」と条件をつけたのか、何を恐れたのか、これで分かったと思うけど。きっと中央党も、当座のことだから構わない、とか思ったのだろう。

適當にあつちの文言とこつちの文言を持つて來て、自分勝手にくつ附けて、變な理窟をでつち上げて、そのでつち上げた變な理窟を「野嵜がさう言つてゐる」と宣傳し、變な理窟だから當然論破出來るからそれをやつて見せて、そして「野嵜は變」と結論を下す――高橋氏のやつてゐるのは「八百長」で、論破出來る糞理論を自分ででつち上げて、それを自分で論破して見せてゐるのだ。論外。
平成十八年十一月二十九日
あとさ、明治憲法の改正限界を超えて現行憲法が「成立」してゐるのだよ、そこで高橋氏、何を言つてゐるのだか。

それを民主的に改正して

これは嘘。小山常実案よりも現行憲法の改正プロセスのほうがずっと民主的。

明治憲法から現行憲法に「改正」したのが非民主的な方法に據つてゐたのだから、その非民主的に成立した現行憲法からの改正が「ずっと民主的」でも意味がないんだよ。わからない人だな。

第一に、明治憲法の出自は現行憲法に比べて民主主義的な正当性において勝っている点はありません。第二に、別に由緒正しい憲法を戴いたところで、国家主義者を警戒しなくてよくなるわけではありません。正統性それ自体は衆愚政治や全体主義を防ぐ歯止めにはなりません。

明治憲法の成立の仕方が非民主的だと強調して、何の意味があると言ふのだらう。合法的である事だけが重要なのに。出て來た用語を組合せて適當な理窟をでつち上げ、それで話をするから高橋氏は駄目。高橋氏は、論理學用語は良く知つてゐるらしいが、論理的に考へる事が出來ない人なんだよ。本人に自覺がないから何うしやうもない。
非民主的だが合法的に存在する確實な憲法である明治憲法を、民主的かつ法的に妥當な方法で改正して民主的な内容の憲法を作れば、それは出自と内容の兩面で確實な良い憲法になる、とそれだけの話。内容が何んなに良くても出自が怪しければそこをつけ込まれる。そこをつけ込まれないやうにするのは良い事でないのか。何もベストな物にしろと言つてゐるのではない、ベターな物にしろと言つてゐるだけだ。ところが、ベターであつてベストでないと言つて、高橋氏は嘲笑してゐる。何うかしてゐる。

貴方が紹介した小山常実氏の記述によると、国民投票はしないようですが?

別に「しなければならない」訣でも「してはならない」訣でもないでせう。ならば何が問題な訣? あなたが何を(意図的に)書き落としているのかと言つてゐるのは、かう云ふところにつけ込んで揚げ足を取り捲つて、相手をうんざりさせてやれ、と云ふ事ですか。さもありなん。

あと、国民主権を謳う前文を削るなんて無茶だし(ただでさえ明治憲法をどうこうって言ってるんだから、天皇主権に戻すつもりかと誤解されますよ。実際、前文を無くしてしまえばその可能性は出てくる。

「その可能性」を「實現」してしまふほど現在の日本國民は非民主的なのである、と、さう高橋氏は言ひたい訣ですか。大體、前文に「戰爭抛棄」の原則が書かれてゐても、日本人は自衞隊を持つてゐるでせう。空文とかしてゐる物を何うしてそんなに高橋氏は信用出來てしまふのだらう。

形式的正統性を確保すれば国家主義者が消えてなくなるというオカルト的な世界観を信じるならば、おわかりですよ。

誰も「形式的正統性を確保すれば国家主義者が消えてなくなる」なんて言つてゐない。ただ、さう云つた連中が消えてなくならなくても、さう云つた連中が附け込む隙は憲法の側には無くなる。何か問題?
平成十八年十一月二十九日
高橋氏は、「國家主義者」を「嘘吐き」だと看做し、自分に反對する人間を「國家主義者」と極附ける訣だけれども、かう云ふ人つて、自分が嘘吐きだから他人も嘘を吐いてゐるのだらうと考へてしまふものなんだよね。詰り、高橋氏自身が嘘吐きである訣だ。そして實際、澤山嘘を吐いて、高橋氏は自分に反對する野嵜を馬鹿に見せかけようとしてゐる。となると、高橋氏の方こそ「この文章が何を帰結するか」を讀取られるべきだ、と云ふ事になる。高橋氏がなぜこんなに「國家主義者」の劃策を「懸念」して見せてゐるか、それを邪推して極附けねばならない訣だ。
勿論、俺は嘘を吐くのが嫌ひだし、或は、戰術として嘘を吐くのは「ばれた時まづい」からやるべきでないと思つてゐるし、邪推なんて事も信用を無くすからやらない。俺はただ、高橋氏の文章に「書かれてゐる事」から當然のやうに「讀取れる事」を讀取つて解釋するだけだ。
平成十八年十一月二十九日
本物の專門家なら、素人が言つてゐる事を適切に判斷して自分の語彙で言換へるが嘘は吐かない。素人が自分の知つてゐる語彙で喋つてゐないからと言つて理解しようとしないのは專門馬鹿と云ふ奴だ。さう云ふ專門馬鹿に限つて、自分に都合良く素人の言ひ分を曲解して、愚弄しては好い氣になる。
或は――我々素人は、專門用語をもつともらしく驅使して一般人を欺さうとする自稱「專門家」を警戒する必要がある。
平成十八年十一月二十九日
例へば、人が書いてゐない事を勝手に讀取つたり、人の動機を勝手に極附けたりする輩には、注意しなければならない。
その手の「讀み」を肯定するのは、「義」なんかがしてゐる根據の無い誹謗中傷を肯定するやうなものだ。

平成十八年十一月二十八日
現行憲法無效論について、反對する人は例外ナシに「どうやつて實行するの?」と言ふ。これは結局のところ、原理・原則の點で何一つ反論出來ない事を意味してゐる。原理・原則として正しいのだから「實行しなければならない」と俺は言つてゐる訣で、その爲にいろいろ制度なり法の解釋なりを操作する必要が「ある」事は事實。だから、さうした操作は適當に考へて辻褄合はせすれば良いのだが、現行憲法無效論を否定する人々は常に「そんな操作は不可能だ」と斷定し、辻褄合せの操作を拒絶する。その手の辻褄合せは不可能ではない筈だが――實は、現行憲法無效論を「非現實的」と否定する人々は、常日頃、社會制度やら法やらを弄り囘して遊んでゐる人々だ。それが、現行憲法無效論を見るや否や、突然、制度の操作・法解釋の操作を放棄してしまふ。奇怪な現象だと俺は思ふが、彼等は思はない。
平成十八年十一月二十八日
俺が戰後の國語政策に大反對である理由は――先づ第一に非民主的な方法で強行され・國民に押附けられたからで、第二に國是と極附けられ・誤か何うかの判定を受けないまゝ存續してゐるからだ。俺が現行憲法に大反對である理由は――先づ第一に非民主的な方法で強行され・國民に押附けられたからで、第二に國是と極附けられ・誤か何うかの判定を受けないまゝ存續してゐるからだ。
國語の表記にしても憲法にしても、それ自體として原理的に・同時に民主主義や法治主義の立場から言つても、正統性を維持する事が極めて重要である訣だが、日本人はそれが全く解つてをらず、惡しき功利主義・惡しき現實主義に基いて一度行はれた「變更」を無條件で受容れてしまつてゐる。が、それは大變に危險な事だ。正統性を無視して・非民主的な手段で行はれた過去の「變更」を肯定する事は、將來再び非民主的な何等かの「變更」が現行の制度なり何なりに加へられようとした時、それを容認する根據(既に前例がある!)を提供する事になる。制度それ自體の維持にしても、或はその變更にしても、妥當な根據を用意しておくのは、無法な暴力主義に對抗する權威を確立する事になる。
平成十八年十一月二十八日

# NaokiTakahashi 『コンシューマだとめったに出ないような落ちバグでも相当ユーザからきつく言われるのに、エロゲだと割と許されちゃいますからねえ。そういう空気は良くないと思う。パッチありきみたいなところはありますからねえ。』 (2006/11/11 17:51)

言つてゐる事の誤について、世間の「ブログ」だと相當閲覽者からきつく言はれるのに、高橋氏の「ブログ」だと割と許されてしまひますからねえ。特に高橋氏が。さう云ふ空氣は良くないと思ふ。云々。
うち邊は2ちゃんねらー諸氏に隨分叩かれてゐるよ。云々。
平成十八年十一月二十八日
昨夜の京王線の事故が尾を引いて今朝は京王線のダイヤが大混亂。振替乘車票を持つて小田急線へ。さうしたらこつちも遲れが。武蔵野線のみならず京浜東北線とか常磐線とかのJR線も非道い事になつてゐたみたい。
下高井戸と桜上水の間なんて、京王線の要みたいなところで、此處をやられると京王線は全線止まる。笹塚と調布の間は京王線のネックになつてゐて、そのせゐで増發が制限されてゐる相模原線のユーザは苦しめられてゐる訣だけれども、京王、直す積りがないらしい。となりの小田急はがんがん工事をやつて複複線だよ。京王、矢鱈使ひ辛い新線新宿驛なんて作つたり、やる事なす事場當り的。運轉は小田急なんかみたいにおしとやかでなくアグレッシヴで好感が持てるけれども、それで昨今は事故が多くなつてゐるのでないか。
それにしても長いネックだな。きりんみたい。
平成十八年十一月二十八日
N・H・K落伍組。
平成十八年十一月二十八日
Mac OS 9以前のデスクトップは訣がわからないと云ふ事で意見が一致した。デスクトップにアイコンがあつても、實體としてのデータがデスクトップフォルダの中にあつたりメディアの中にあつたりして何處にあるか直ぐにわからない、だからうつかり必要なデータを削除してしまつたりし兼ねない。云々。
あと、なぜか周圍の人のMacでHDDが死に捲つてゐるのだが、何なのだらう。

平成十八年十一月二十七日
プロの人の言ふ事は素人が言ふより割と正確な事が多い一方で、變にすれた發想になつて素人の常識と懸離れたものになる事がある。
例へば――「サーバのメンテナンス」の類。プロの人だと「當り前」に「やる」事なのだらうけれども、普通のユーザには何の事だかさつぱり解らないし、兔に角サーヴィスが止まるのは困る事である訣だ。
十二月六日の深夜にEPGの配信が、デジタル放送の局のメンテナンスだか何だかで「止まる」と、J:COMの「放送メール」で聯絡が來た。
と言ふか、何うしてTV局は深夜にメンテナンスをやるのだらう。昔は深夜の放送をやらなかつたから良いけれども、今は深夜に普通に放送してゐる。だから深夜の放送を止めてはならないのであつて、それを平氣な顏をして止める。
そもそもTV局の人間は、放送時間の變更について無頓着だ。野球だのバレーボールだのの中繼をして、當り前のやうに放送時間を延長する。これは一般人にとつては異常な事だが、TV局の人間にとつては餘りにも當り前で疑ふ事の出來ない事になつてゐる。プロと一般人の感覺がずれ捲つてゐる一例だが、かうした「ずれ」は、素人の側が執拗に指摘してプロの異常な感覺を矯正しなければ直らないし、プロの言ひ訣を大人しく聞入れてゐてはならない。
平成十八年十一月二十七日
人が狂ふ時は何時いかなる場合にも例外ナシに藥物的な理由があるなんて事になつてしまつて、それで文藝の世界が詰らなくなつたと云ふ事もある訣だがね。
ハムレットなんかは酒を飮れればあんな氣狂ひじみた行動を取らなくて濟んだだらうにとは大昔、とある評論家が言つた事。
平成十八年十一月二十七日
金色のコルダは今週も日野ちゃんががんばつてゐた。
平成十八年十一月二十七日
PCのドライヴァを入換へ。安定して動いてゐたので古いドライヴァをそのまゝ使つてゐたけれども、さすがにそれもアレであらうと。デヴァイスマネージャなんかで表示される機器の名稱でぐぐつて最新版を搜索。メインのPCで使つてゐるカノープスのヴィデオボードは、勿論カノープスがディスプレイドライヴァを配布してゐるけれども、古いので、nVidiaの英語のサイトから直接。オーディオも同樣。Let's noteのヴィデオのは、intelから。何れも普通に國際化對應してゐてインストーラからして日本語で表示される。同じくLet's noteが使用してゐるSigmatel C-audio、これのドライヴァは、困つた事にSigmatelのサイトでは配布されてゐない。契約の關係で技術を提供した先の、PCメーカなんかがドライヴァを提供する事になつてゐて、Sigmatel自身はエンドユーザに直接配布できないのだと。だからPCメーカのサイトに貰ひに行くしかないが、Panasonic、2003年からオーディオのドライヴァ、ヴァージョンアップしてゐない。
平成十八年十一月二十七日
探し物が出て來た。

平成十八年十一月二十六日
金曜日に東京古書会館の古書展で買つたもの。川路柳虹譯『ヱルレーヌ詩集』(大正八年九月二十日發行・新潮社)。J・ホイジンガ『エラスムス ―宗教改革の時代―』(筑摩叢書49)。保田與重郎『芭蕉』(新潮社)。雜誌「文藝春秋」(昭和二十四年九月・十月・十二月號)(荒垣秀雄・福田恆存・矢野健太郎「寸言集」)。
平成十八年十一月二十六日

吾々日本人、そして廣く言つて東洋人には優越感と劣等感というものが頭にこびりついており、いつも頭から離れないようである。何等かの意味で自分より下のものを一人でも見付けたら、それだけを對象にして何が何でも優越感を味わおうとする。また、何らかの點で自分より上のものに出會うと、すぐさま劣等感のとりこになつてヘタヘタとなつてしまう。吾々日本人、そして東洋人の間に、とてつもなく傲慢な人物と、情けない程卑屈な人物の多いのはこの故であろう。

平成十八年十一月二十六日
くじアンは毎週樂しい。
平成十八年十一月二十六日
NaokiTakahashiの日記 - 面白いこと言ってると思うところだけ抜粋。
個人の私的な自由に対して目的だの理想だのを言い出して骨抜きにする共同体主義の罠に立ち向かうことこそ、まさしく自由主義の最先端の話ですよ。と言つてゐるが、それはただの「反動」に過ぎない。過去の功利主義に逆戻りして、「危險」を孕む理想主義的な自由主義のその「危險」を單純に囘避しようとしてゐるに過ぎない。
それから、自由主義の觀念は西歐出自の觀念だ。西歐の文化・文明と自由主義の觀念とは密接に結び附いてゐるのであり、その自由主義が世界規模に廣がりを見せてゐるのは、西歐の文明が世界を覆はうとしてゐるからに過ぎない。高橋氏は氣樂に現代の自由主義が直面している問題、今求められているのは、自由主義を特定の文化に依拠する善の構想からいかに脱却させるか、ということです。と言つてゐるのだが、これこそ寧ろ「無邪氣」な發想だと言つて良からう。
また、高橋氏は俺は多文化主義者ではなく文化多元主義者なので、あらゆる文化に共通して押し付けるべき自由主義の正義があることを疑いはしませんが、それだからこそ、特定の善の構想に依拠した政策立案には反対するのです。と言つてゐるが、西歐的な理念から「脱却」する、と言ふ「反動」的な態度から、高橋氏は非西歐的な「特定の善の構想」に「依拠せよ」と叫ばざるを得ない状況に陷つてゐる。西歐的な發想を高橋氏は「絶對に排除しなければならない」と言つてゐるのだが、それは如何なものか――詰り、元來の西歐的な發想も依然、採用されるべき「自由主義の正義」の一つの撰擇肢に殘つてゐて良い筈で、それを高橋氏のやうに最初から「排除すべきもの」と考へてしまつてはいけないだらうと。
慥かT.S.エリオットが言つてゐたと思ふけれども、西歐人が食人種を研究しようとして彼等の間で生活するのは良い、けれども食人種と一緒に食人をしてしまつたらその人は最早西歐人ではなくなる、と云ふ喩へ話があつて、俺にして見れば、文化なんとか主義なんかの發想よりも、さう云ふ發想の方が常識的に見える。
平成十八年十一月二十六日
「文藝春秋」の昭和二十四年十二月號の座談會で淡徳三郎がこんな事を言つてゐる。

言論の自由といつても、何を喋つてもいいといふことは、決して言へないと思ひます。例へばファシズムを謳歌するやうな思想、これに對しては自由を與へることは出來ないと思ひます。また戰爭を挑發するやうな思想、これに對しても自由は與へられないと思ひます。社會に有害なやうな不逞なる思想は取締る必要がある。これは當然だと思ひます。

「南原聲明と言論の自由」と云ふ題で畑中政春・小森田一記と淡の三氏が對談してゐるその冒頭の發言。引續いて「共産党のアカハタに載つてゐるやうな内容の事柄が取締られるべき不逞の思想か」云々の話に移つて行くのだけれども、しかし、ここで餘りにも當り前で論ずるに値しないかのやうに言はれてゐる「ファシズムを謳歌するやうな思想」「戰爭を挑發するやうな思想」に對する「取締る必要」と云ふ事――これは最近でも「日本は核を持つべきか」の「論爭」で、餘りにも當然として言はれてゐる事だ。
のちに福田恆存は、言論の自由について論じて、言論の自由を否定するやうな思想を主張する言論にも言論の自由は「ある」と斷定してゐて、俺は福田氏に賛成せざるを得ないのだけれども、Yahoo!掲示板でさう言つたら「自由民主主義者」と自稱した某氏が反對して執拗に俺に絡んで來た事がある。他人の言論を實際に抑壓する行爲は取締られるけれども、他人の言論を抑壓する事を正當化する論理の主張はそれ自體としては取締る事が許されない。原理の實踐と、原理の主張とを、區別しない議論が屡々見られる。
高橋氏にして見れば、支配階層と被支配階層とは全くの別物で、對立的に存在する――どころではなく、最早交流すらもないものであるやうなのだが、俺は民主主義・自由主義の社會にそんな事實はないと考へる。だからこそ、議論や對話と言ふものが「ある」としか考へられないのであり、それらを通して當座の問題を凌ぎつゝ自由社會・民主社會は「進んで行く」しかない。と言ふより、對話や議論を手段とすると云ふ前提があつてこそ、多數決で決めると云ふ原理が成立し、多數決原理に基いた民主政治が成立ち得る。その對話の場や議論の場において、なされる主張は常に何等かの正義に基いたものである筈だし、あるべきだ。さうした各種の主張が提出される事には「自由がある」訣だけれども、議論や對話によつてそれらの主張の中から一つの主張が擇び出され、多數決の原理で政治的に實踐すべきものと決定されると、それは社會全體を當座拘束する命令となる。さうした命令の存在を、俺は否定しない。それが當座、自由を抑壓するものであるとしても、だ。なぜなら、民主社會ならば、全ての決定は當座のものだからだ。高橋氏は、抑壓ならば全て駄目、と云ふ發想だが、その爲に永遠の自由を求めてしまふ。けれども、俺は、永遠なんてないよ、としか思はない。理想が地上で實現する事はないのだ。だから地上で完璧を求める高橋氏の發想は誤だと斷定出來る。
平成十八年十一月二十六日
俺にして見れば、社會正義が立入つてはならない個人の理想の領域があつて、その理想の領域だけが守られるべきだと考へる。その爲には、社會正義が立入つて良い場所――寧ろ積極的に關與すべき場所を指定し、一方、それが絶對に入る事の出來ない領域を確保する事が重要だと考へる。その爲に、「個人の理想の領域」の確立が重要なのであり、その價値を訴へる事は極めて重要だと考へる。そこで高橋氏みたいに「個人の趣味」なんて事を言出しては、元も子も無くしてしまふ。政治と道徳とはきつちり區別出來るんだよ。「相手の人格を認める」か否かで、兩者はきつちり區別出來る。政治では個別の人格が閑却される。道徳では個別の人格が重要な意義を持つ。簡單な話だ。
平成十八年十一月二十六日
高橋氏の言つてゐる事が何うしやうもないのは、どれもこれもが「アナーキズム」のエピゴーネンであり、「俺の自由を抑壓するな」原理(?)で押通してゐるところだ。高橋氏は「俺の大好きな『アート』は、俺以外にも好きな奴がゐるだらうし、さう云ふ奴だけ享受して呉れれば良い」と云ふ立場だ。それはそれで「自由」だが、問題は、さう云ふ事を言つてゐても政治的には何の意味もないと云ふ事だ。さう云ふ立場の主張が、高橋氏の政治的な立場である「ポルノ規制法」反對に有效に働くか何うか――俺は全く無效だと判斷した。それはさうだらう、高橋氏のは單なる趣味の主張だし、さう云ふ趣味の主張を「自由」と言張つて正當化する事を、今の日本の社會は受容れない訣で、だから「右傾化」が進んでゐる。ところが、さう云ふ日本の現状を、高橋氏は嘲笑ひ、罵倒しつゝ、一方で、日本は何故か高橋氏の望む方向に着々と進んでゐると斷定する。
はつきり言つて、高橋氏は日本の現状をちやんと把握出來てゐない訣で、今の社民黨みたいに時代遲れになつてゐるのだが、高橋氏は「俺は進んでゐる!」と信じてゐる。高橋氏は「進んだ思想」の存在を仄めかして(それはエピゴーネンに過ぎない)、それを「自分は信じてゐる」から「自分は進んでゐる」と勘違ひしてゐる。しかし、同時にそれは「自分が信じてゐる」思想だから「進んだ思想である」と云ふ循環論法でもある。現實の日本國で、ポストモダンにしてもアナーキズムにしても、一般の大衆は知らない。古本屋でその手の思想書が殆ど棚に並んでをらず、或は竝んでゐてもやけに高い値が附けられて「マニア向け」である事を示してゐるのを見れば判る。
高橋氏にしても他のいろいろアレな匿名の人にしてもさうだが、「新しい思想」を餘りにも買ひ被り過ぎてゐる。その手の本を讀んで「俺はものがよく解つてゐる!」と信じ込んで、それでさう云つた「新しい思想」のエピゴーネンに成り果てておきながら、他人の言つてゐる事を全く理解しようとしないで、ただただ「古い」「古い」言つて排斥しようとしてしまふ。別に「新しい」と云ふ事をそれだけで排斥しようとは思はないが、新しからうが古からうが關係なく、良いとか惡いとかは「ある」のだし――そもそも「新しい思想」を自分逹は完全に理解し得たと本當に思つてゐるのか。高橋氏の場合、「古いもの」に對する優越感とともに、「新しいもの」に對する卑屈な態度が目につく。こちらが提示したものを何一つ理解しようとしない頑迷な態度は、年寄の頑迷固陋の態度と全く同じ種類のものだ。
實際のところ、高橋氏が自分の言葉で何一つ説明しないところを見て、高橋氏は何一つ理解してゐないのだらう、と俺は判斷してゐる。理解してゐないから、例へば「アナーキズム」が「我こそは眞實なり」と「宣言」すれば、それを高橋氏は頭から鵜呑みにしてしまふのだらう。實際、高橋氏が「右翼」やら俺やらを解釋する時の仕方は、「その手の左翼」が「このように解釈しましょうね」と言つてまはつてゐる仕方そのまゝでしかない。高橋氏は、他人をエピゴーネン呼ばはりして好い氣になつてゐるが、其の實、自分がエピゴーネンである。そして、他人がエピゴーネンであるのは惡いと言ひつゝ、自分がエピゴーネンであるのは「信じてゐる理念が良いものだから」良いのだと心から信じてしまつてゐる。だから「自分の事は棚に上げ」と非難されても、高橋氏は何を言はれてゐるのか解らないのだ。
平成十八年十一月二十六日
大體、高橋氏は人の話を聞かない。俺が「一旦明治憲法に戻して、其處で改めて民主的な憲法に改正すべきだ」と言ふと、「民主的な憲法に改正すべきだ」の部分をひたすら無視して「野嵜は昔に戻したがつてゐる」と極附けてしまふ。そして、さう云ふ極附けをして野嵜の言ふ事を封ずるのはとても良い戰術だと心から信じてゐる。何を考へてゐるのだらう。間違ひなく、高橋氏は何も考へてゐない。本人が何を力強く宣言しようとも、高橋氏の態度から斷定出來る。
平成十八年十一月二十六日
日本が核を持つべきかと言へば俺個人は持つても意味がないし寧ろ持たない方が良いと考へるが(持てばアメリカに睨まれるから)、核保有論議をしたければ自由にすれば良いと思つてゐる。
平成十八年十一月二十六日
「人格の存在」を前提とした區別は、マルティン・ブーバーの「我と汝」「我とそれ」の區別と同じ。岩波文庫で出てゐるので興味のある人は讀んで下さい。
で、西歐では此の種の區別まできつちり分析してゐるのに、東洋では修身齋家治國平天下の區別がなく「個人の家」と「國家」とを混同してゐるのだから、東洋は西洋に2000年遲れてゐるとか言ふと、かつときて野嵜を罵り始めるナショナリスト多數。
平成十八年十一月二十六日
BLACK LAGOON @ MX。ハイデッガー。サルトル。
平成十八年十一月二十六日
Google Scholar

平成十八年十一月二十五日
EXPLORE MONOGAMY BLOG - 道徳と関係性

それから、ライトノヴェルと純文学でどちらがどうというような話もあったけれど、これはいい悪いは個々の作品に対して為されるべきで、ジャンルで比べるのは無理だとしかえない。

その點は御説御尤もです。ラノベにもアレなの結構ありますし。
漱石の詩的な文章と言へば――草枕途中で投げた。ベケットはゴドーを讀んだけれども面白かつた。
平成十八年十一月二十五日
水無月ばけらっちを水無月ばけつと誤讀したのは俺が相當疲れてゐるからだと思ふけれどもたまにOperaのレンダリングが崩れて「ら」が「つ」に見える事がある。
平成十八年十一月二十五日
保田與重郎大絶讃の中河與一「ゴルフ」は慥かに興味をそそる。人物は多分斯う言ふのを高橋氏の所謂「書割り」と言ふのだらうけれども、これはこれで「あり得る」ものだらう。
平成十八年十一月二十五日
コードギアス面白い。駄ニメマニアにはたまらない。
平成十八年十一月二十五日
天保異聞妖奇士で會川、完全に白川靜の漢字説に依存して話作つてる。
平成十八年十一月二十五日
GV-M2TV/USB2で録畫したキッズステーションのファフナーとロスユニ、データがノイズ乗り捲りなので削除した。七話まで録つたのだが全て無駄になつた。何なのだらう。どうも3Mbpsで録るとノイズが乘るらしいのだが、今まで(と言ふのはデジタル放送録畫用にLet's noteにぶら下げるやうになるまで)そんな事はなかつたのだから全く訣が解らない。
デジタル放送がコピワンでなければ確實に録畫できるRDで録畫するのだけれども、コピワンだから殆ど博奕状態のPC+キャプチャユニットを使ふしかない。何うして総務省はこんなに一般消費者に嫌がらせをしたいのだらう。高橋氏によれば利權の所爲。

平成十八年十一月二十四日
ROXIK | PICTAPS

平成十八年十一月二十三日
奏光のストレイン第五話。これだけ何もない話も珍しいが、それでもそんなに非道く詰らない訣でもないと言ふのがこのあにめ。苛めネタひつぱりすぎ。
平成十八年十一月二十三日
東京MX。ちょこシス→マジプリ。或意味至福の一時間だな。
平成十八年十一月二十三日
今期有數のギャグアニメ蒼天の拳。
平成十八年十一月二十三日
ニュージーランド政府観光局メディア・サイト > New Zealand
このサイト内記事の転載は大歓迎です。との事。
平成十八年十一月二十三日
人間工学から生まれたエルゴペン
マウス
平成十八年十一月二十三日
手話の五十音
平成十八年十一月二十三日
取敢ず此處だけ拔取れば高橋氏が何う勘違ひしてゐるかは大體判ると思ふので。

単純な徳目とのマッチングであろうが複雑な道徳哲学・倫理学的議論を含むものであろうが、そんなこととは関係なく、道徳的評価と芸術的評価は単に独立している。芸術は自己目的的なものであり、人間を道徳的に教化するための道具ではない。もちろん道徳的な内容を扱うものであって構わないが、問題になるのはその道徳的内容をどう表現しているかであって、内容自体の道徳性ではない。

道徳哲學とか倫理學的議論とか、そんな事は誰も言つてゐない。人間を道徳的に教化するなんて、そんな事も言つてゐない。高橋氏は、自分の考へる「道徳」の域から出ないで、勝手に野嵜の言つてゐる事をでつち上げて非難してゐる。
文學に於て問題になるのは、登場人物を如何に人間として人間らしく正確に描いてゐるかであつて(文藝において「道徳的に正しい」とは「人物を人間的に正確に描いてゐる」と云ふ事だ)、作者の意圖とか趣味とか、或は作者が扱はうとしたテーマではない。俺はさう言つてゐる。ところが、例によつて高橋氏は、野嵜を馬鹿に見せかける爲、左翼らしく、事態を捏造し、嘲笑してゐる。惡質としか言ひやうがない。
また、ロールズを読もうねロールズを読もうね繰返し言つてゐるけれども、他人に要求するだけで此の人、自分は何一つ他人の言ふ事を理解しようとしない。さう云ふ風に讀者を作り上げてしまふのだから、ロールズが書き手であるかは明かだ――だからロールズなんて讀む價値はないし、讀む人間は全員、高橋氏のやうな惡質な人間になるのだと斷定して良い。(茲は笑ふところ)。まあ大體、政治の仕組なんてものばつかりを高橋氏はその手の本を讀んで學んでゐるだけであり、所詮、その手の政治屋のエピゴーネンと化してゐるだけだから、云々。あと、功利主義について高橋氏が何う宣言してゐるかなんて何うでも良い事だよ、一々他人の宣言を文字通りの意味で受取つて信用するほど俺も馬鹿ではない。普段言つてゐる事を見て俺は高橋氏を判斷する。當り前の事だ。
平成十八年十一月二十三日
御話にならない。
  • 文學を含む藝術は道徳を扱ふべきものである、という主張はどこへ消えたのだろうか。
  • 「人物を人間的に正確に描いてゐる」必要など、少なくともアート一般においては、ない。野崎さんの考える文学ではそうなのかもしれんけど、それが文学なのだとしたら、俺にとってそんなものはどうでもいい。というか、そんなことは再三言ってるはずなのだが、野崎さんは自分の文学観について俺にどう言って欲しいのだ?
  • だからロールズなんて讀む價値はないし、讀む人間は全員、高橋氏のやうな惡質な人間になるのだと斷定して良い。(茲は笑ふところ)。あっはっは、面白い面白い。
高橋氏と俺とでそんなに藝術觀に懸隔が「ある」とも思へないのだけれどもねえ。人と人との関係などというものを金や社会関係で踏みにじるからエロいんじゃないですか。その辺のオヤジとオフクロでもやってるようなただの恋愛関係の何が面白いんですか。と高橋氏は言つたけれども、俺が何時その辺のオヤジとオフクロでもやってるようなただの恋愛関係以外、「文學では描いてはならない」なんて言つたんですかね。
もつとも、エロ觀では彼我の間に相當の懸隔がある。別にそんなの「エロ」でも何でもなくて、ただの「當り前の話」だらう。
「何うやつて話を面白くするか」が文藝の問題であるに過ぎない。文藝作品を面白くする方法は、作家が「巧く書く」事以外、あり得ない。が、その「巧く書く」とは何かと言へば、人物を正確に書く事であり、人物の思想と言動を如何にもありさうに描く事だ。それが「道徳を正確に描く」事であり「作家が道徳的である」事だ。と言ふか、そもそも「道徳」を「善事」のみに限定して高橋氏は考へてゐるが、俺にして見れば「善事と惡事・及びその中間」を全て含んで始めて完全な人間の「道徳」だ。それを「正確に描け」と言つて、何が惡いのだらう。
平成十八年十一月二十三日
高橋氏が面白くないとか言つてゐる題材でもそれが自然に人間界に「ある」事ならば面白く「書く」のが職業作家の意地と云ふものだらう。大體、作家と題材との間には關係が成立する訣で、題材に何らかの意味で非凡なところが「ある」のならばそれを尊重して書けば良い御話が出來るし、凡庸な題材である時にもそれを見る作家の側に非凡なものがあれば當然作品は良いものになる(例:フローベール)。
が、何故に斯うした文藝觀・藝術觀の彼我の相違を俺が明かにしようとしたかと言へば、それは彼の文藝觀・藝術觀が彼の「ポルノ規制反對」の主張に説得力を持たせ得るかの問題を明かにする爲であつて、高橋氏が俺の文藝觀・藝術觀を嘲笑・罵倒出來て好い氣になつたとしても、それで高橋氏の主張の説得力が「ない」と明かになれば、それで俺の議論の目的は達成される。
俺の文藝觀は、T.S.エリオットやD.H.ロレンスの文藝觀と繋がるものであり、高橋氏にとつて極めて「幼稚」に見えたとしても、公權力による規制に十分對抗し得る説得力を持つものだ。少くとも、理想主義的な立場にある現代の民主主義の社會において、文藝・藝術の存立すべき意義を主張し得るものだ。この事は、高橋氏の「アート」説に對するアドヴァンテッジだと俺は思ふ。
平成十八年十一月二十三日
しよつちゆう「自分に都合良く人の意見を引張つてくる」とか非難されるけれども、以下の文章は東京書籍の中學生向けだか高校生向けだかの『倫理資料集』から引張つて來たものだから、割と一般的に認められた原著者の意見だと言つて良いと思ふよ。デューイだからそれなりに「權威」もあると言つて良いだらうし。

民主主義は一方において,各人が一人一人社会の事柄の統制に所属する義務と権利に参加することを意味し,また他方において,社会的取りきめが,各人の十分な発展を各人に提供する機会を制限する結果になる,地位や出生や富や性,その他にもとづく外面的取りきめを取りのぞくことである。個人的側面では,民主主義は,社会組織や法律や政府の良否の規準として,個人の潜在能力の解放を採用する。社会的側面では,強制ではなく、共同活動を上から天降りの権威ではなく、相互的やりとりgive and takeの過程の自発的参加を要求する。政治的側面における社会生活の理想として,民主主義は,政府をその範囲内にふくむとはいえ,政府のいかなる形態よりもはるかに広い。それは理想としては,これまで達成された何ものをもふみこえる進歩への要求を意味する。

……道徳的理想としての民主主義は,歴史上,しばしば敵対的に働いた二つの観念,一方における個人の解放と,他方における共通善の促進という,二つの観念を結合しようとする努力である。

まあ強調は野嵜の「恣意」か知らんけれども。
平成十八年十一月二十三日
高橋氏は、個人的な趣味の解放を叫んでゐるのだけれども、それに社會的な意義・公益性が存在する事を示さなければ、現代の理想主義的な民主主義の社會では通用しないんだよ。
單なる「自由の擴張」だけを主張してゐるのであれば、「言論の自由」の擴張を大義名分としつゝ中傷ビラを撒いたり風説を流布したりする事の「自由」を主張するのと同じだよ。それは「自由の自殺」にほかならない。
平成十八年十一月二十三日
Mac OS Xのドックのアイコンうつかり掴んぢやつて、慌ててメニューバーのところに持つて行つて離したんだけれどもアイコン消えちやつた。メニューバーのところで離せばキャンセルぢやなかつたのかよう。
平成十八年十一月二十三日
高橋氏が俺の言つてゐる事を理解できないのは、「xとyの關係」と表現された時、高橋氏が「xと言つた!」「yと言つた!」としか認識出來ないからだ。
醉理學者fankee_jrの所謂「關係と過程の理論」(頭がをかしいと笑ふ勿れ、高橋氏によれば全ての狂氣は物質が原因である!)では、全てが關係と過程として説明されるから、「關係」「過程」の部分を認識出來ないと、一切の事實が正確に認識できないとされる。
文藝作品において、題材・テーマは抽象的な「X」であるが、それは全て具體的に「x」「xとyの關係」「xとyとzの關係」(以下略)として表現される。そして、文藝作品では「Xと著者Aの關係」がある。これは具體的には「xとAの關係」「yとAの關係」(以下略)である。斯うした關係を讀者Rが認識する事を「文藝作品を鑑賞する」と言ふ。
x、y等は、無人格・人格であり得る。花鳥風月のやうな無人格である場合、それに對するAの價値判斷が「ある」爲にその文章は隨筆として文藝作品たり得る。x、yが人格である場合(傳記の類でなければ)創作された御話となる。ここで「xとyの關係」と云ふ「人格同士の關係」は、關係全體として「道徳」であり(「道徳」なる觀念も關係・過程として説明される)、それが正確である事は、創作された物語が適切なものである一つの條件である。それと同時に、xとA、yとAの關係もまた「人格同士の關係」であるが、これが正確である事もまた、創作された物語が適切なものである一つの條件である。

平成十八年十一月二十二日
と言ふか、本質的にマウスオペレーション自體に缺陷があるよ。腱鞘炎になるし。
平成十八年十一月二十二日
先づ第一に問題となるのは、リチャーヅ氏も云ふやうに、詩が何を述べてゐるかではなくて、詩の本質は何かである。
平成十八年十一月二十二日
高橋氏の「論法」はいんちきで、兔に角理念と實踐とが噛合つてをらず、出たら目。例へば、野嵜は現行憲法無效論を唱へてゐて、明治憲法は生きてゐると言ふけれども、それに對して高橋氏は「野嵜の意圖は國家主義に戻す事だ」と何の根據もナシに動機を極附けて非難する。野嵜は、現行憲法の無效を宣言して明治憲法を復活させたら、即座に明治憲法の規定に基いて改正を行ひ、民主的な内容に改める事を主張してゐるのだが、にもかかはらず、高橋氏は野嵜が「國家主義者である」と斷定する。なぜかと言へば、「明治憲法の復活」を野嵜は主張してゐるからだと言ふのだが、「すぐに改正する」と云ふ野嵜の言葉が存在する事を高橋氏は知覺・認識する事が出來ないらしい。或は、認識しても、「意味がない」と極附けてしまふ。意味はあるのだが、高橋氏は自分が知覺出來ない事は存在しないと信じてゐるらしい。野嵜の現行憲法無效論は、飽くまで憲法改正と云ふ手續きを完遂する事にあり、手續きを完全なものとする事で無法な廢棄を防止すると云ふ目的がある。野嵜は、人間が不完全である以上、現行憲法が「民主的で素晴らしい内容」を持つとしても、その誕生の經緯が不明朗であるのだから、無法に破棄され、ファシズム・コミュニズム、或はそれ以外の恐怖政治を敷かれる可能性を考へる。さうした暴力による無法には、正統と云ふ權威で以て對抗するしかないのであり、その爲に既存の全く妥當な形で成立してゐる明治憲法を基に、誰も文句の附けやうのないやり方で民主的な内容に改正し、形式的に完全な形で新憲法を成立させる必要があると野嵜は考へる。が、高橋氏は、形式の重要性を認識できない。兔に角、素晴らしい内容であれば十分だと高橋氏は考へる。が、それはをかしい。素晴らしい内容だから國民は文句ナシにそれに從ふ、と極附けるのは、國民が完全無缺の人間である事を大前提とするからである。しかし、高橋氏の立場は、人間は完全なものではない、と云ふものであるさうだ。俺も、人間は完全でない、と考へるが、だからこそ人間の完全性に依存しない立場をとる。それゆゑ、法的に妥當な形式と云ふ權威を要請する。ところが、さう云ふ説明をすると、高橋氏は再び野嵜の動機を邪推して、權威なる「外部の存在」を「俺(高橋氏)の自由を抑壓するもの」と規定し、野嵜を罵倒しつゝ、一方で、野嵜の反論を「鬱陶しい」と言つて排斥するのである。目茶苦茶だ。が、結構多くの人が高橋氏の出たら目な「論理」を「素晴らしい!」と禮讚するらしいのである。何なのだらう。
ギリシア文明の時代から、アキレスと龜の子のパラドックスに人は惱まされて來たさうだ。が、今、俺は高橋氏の云ふ謎の「自由」説のパラドックスに惱まされてゐる。俺が高橋氏の論理の穴を衝くと、その途端に高橋氏は「俺の自由を侵害するな」と言つて先に行つてしまつて、俺は追附く事が出來ない。何なのだらう。高橋氏の「論理」は何かがをかしいと俺の理性は囁く。
平成十八年十一月二十二日
「自由」について
河合榮治郎も古い人だけれども、その河合さんが功利主義を「古い」と斷じてゐるのであつて、にもかかはらず未だに功利主義でやつて行かうとする高橋直樹と云ふ人の意圖は何なのだらうと俺は思ふ。
平成十八年十一月二十二日
http://nozakitakehide.web.fc2.com/diary/20030901.html
「dnoz」で檢索するとひつかかる闇黒日記の過去ログ。
幾つか訂正を要する事項があつて、例へば106キーボード、ヨドバシカメラ新宿マルチメディアで賣られてゐる。觸つて見たけれどもさすがに價格が一萬円を超えるキーボードは良いです。
平成十八年十一月二十二日
高橋氏が違法なもの・犯罪行爲に興味があるのと違つて、俺は合法的でオーソドックスなものに興味があるんだよ。

平成十八年十一月二十一日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20061118
高橋さんの考へ、自分勝手過ぎるよ。
平成十八年十一月二十一日

あと、「國家がなければ人間社會が立行かない」はダウトですね。これは、近代的な社会や経済は立ち行かない、と限定すべきだ。

今は近代のシステムが生きてゐる時代ですからね。「今」と云ふ條件下では眞實――それに俺は現實主義だから、アナーキズムなんて雲をつかむやうな話は信用しない。
平成十八年十一月二十一日

そもそも忘れられるやうなものなら、國家なんて恐ろしくないんでせう。

そうですね、忘れられるようなものなら重要じゃないんでしょう。政治性かなとかw(面白い誤字変換だったので残す)

何か「俺、とても巧く揚げ足とつた!」と嬉々としてゐる樣子が傳はつて來ますが――。
高橋さん、あなた、右傾化の理由は国家の恐ろしさを忘れた連中が増えすぎたことにあるでしょう。と言つたのではないですか。今の高橋さんの言ひ方では、別に國家が恐ろしくてもそれは重要でない事になつてしまふ――ならば、別に「忘れた」からと言つて問題はない、世間が右傾化しても何の問題も無い。私が言つてゐるのではありません、高橋さん、あなたの論理は「さう」なのですよ。
勿論、かう言はれても、高橋さんは挫けまい。高橋さんは、兔に角自分に都合の良い結論さへ附け足せば、何を言つても良いと信じてゐるからだ。と言ふより、理由は附けたりで、自分が好き放題したい事を出來さへすれば良い――高橋さんは、理窟なんてただの道具であり自分に都合良く利用すべきものだと信じてゐる。今、高橋さんは「w」と書いて面白がつてゐる。面白がつてゐる――ただそれだけなんですよ、高橋さんは。何が樂しいのだらう。何をぎゃはぎゃは馬鹿笑ひしてゐるのだらう。病氣だよ此の人。
と言ふか、この手の惡い意味でのオヤジギャグ的センスつて、何なのだらう。野嵜なんかと違つて高橋氏、言靈の力でも信じてゐるのでないか。
平成十八年十一月二十一日
はつきり言つて、俺は規制大贊成の人間ではありませんし、人権侵害大贊成の人間でもありません――高橋氏は「さう云ふ事」にしたがつてゐますが、左翼の人はでつち上げが本當に好きですねえ。
私は基本的に、人權擁護派であり規制反對派です――大體、「現代仮名遣」「常用漢字」に反對してゐる理由が、「それらは人權侵害であり自由の規制だから」です(正字正かなを侮辱してゐる高橋氏こそ、人權侵害大贊成で規制大贊成です)。
ただ、これらの「言ひ方」を見れば馬鹿でも判る通り、自由だの規制だのは、「物の見方」を巧みに變へる事で幾らでも正反對の事象に適用できてしまひます。「正字正かなを使ふ自由」を野嵜が言へば、高橋氏が「正字正かなに規制されたくない」と言返す。
しかし、ここで重要な事實が一つあります。結局のところ、自由だの規制だのは、「物の見方」であり價値判斷である、と云ふ事です。何を馬鹿な事を、と言はれるかも知れませんが――結局、主觀ですね、主觀的な判斷です。だから、「自由だ」「規制だ」言つて極附けるのは、全く意味がありません。そこで、何が正しいのか、が問題になる。野嵜が正字正かなを支持するのは、それが正しいから――これは客觀的な判斷です、或は、客觀的に反論可能な判斷です。
一方、高橋氏の言ふ「規制」だの何だのの「言説」は、まあ、みんな左翼イデオロギーの命ずるところに從つて發せられた決り文句ばつかりで、大した内容は無い訣ですが、どれも主觀で極附けられた――「詭辯」とはつきり言ふのはアレですが、少くとも客觀的な結論ではないですね。高橋さんの「俺は自由に生きたいんだ!」が、單なる主觀的な主張であるのですから、それに連なる他の「言説」みんながみんな主觀的で一方的な内容になるのは當り前ですが、その手の主觀を言つてみたところで、話になる訣はありません。高橋さんの仰る通りです。まあそれで「一般論」だの何だの言ふのは何うかと思ひますが、しかしこんな独りよがりのサイトを読むのなどやめてしまえばどうですか?なんて言ふのは何うかと思ひますね。繰返すけれども、そんな一般的でない話をするなら、mixiか何處かのクローズドな場で、自分に賛同して呉れる讀者だけを相手に書いたら良いと思ふ。なぜオープンの場で書くのだらう。どうせそこで高橋氏の場合「自由」が言ひ訣に出て來る訣だが、「自由」もなめられたものだ。
平成十八年十一月二十一日

むしろ、「わかりあえないから」法で人権ルールだけは強制しようぜ、って考え方なんですね、僕は。

何と言ふか、俺もその程度の常識を言つてゐるのだけれども、高橋氏、徹底的に俺の言ふ事を間違ひに見せかけたいらしい。
高橋氏の場合、「天皇制」だとか「表現の規制」だとかは、強制し得る「法」と認めない訣だけれども、俺は天皇にしても良くない表現を規制する事にしても全て認め得るものだと思つてゐる。――今、俺は微妙な言ひ方をしてゐて、注意深い讀者は彼我の差異を解るものと思ふ。高橋氏は、虚妄の「天皇制」を事實と混同して大反對し、極端に「一般化」して「表現の規制」に反對してゐる。俺は、事實存在したししつゝある天皇を當り前のものとして認めるし、條件附きで表現の規制に賛成してゐる。
高橋氏、例によつて「反論しない」事で俺に「勝つ」積りだが、高橋氏の言つてゐる事はどれもこれも事實に基かず、イデオロギーに基いた誤つた「言説」で、俺は見過ごせない。高橋氏の誤を「野嵜は看過せよ」と高橋氏は言ふが、そんな「寛容の精神」があるか。誤に對しては苛烈であつて良い。當り前の話だ。
平成十八年十一月二十一日

精神は物質であり機械です(この唯物論者め、アカめ左翼めキョウサンシュギシャめ!(笑))。どんなに深刻に哲学思想をこねくって観念遊びをしたところで、それだけでは「嘔吐」のようにはおかしくならない。あれは嘘なんです。サルトルがメスカリンでトリップ体験をしたときに「自明性の喪失」を味わい、それを何か哲学的な真理に通じるものだと勘違いしちゃったんでしょう*1。

「(笑)」の邊は處置なしだが、俺には高橋氏のかう云ふ「文字通り讀む」讀み方が、それこそ「文学的ロマン主義」であるやうに見える。實際、サルトルだつて本氣で「かう云ふ風にすれば人は皆狂ふものなのだ」なんて考へて、それであの小説を書いた訣ではない。大體、人間が「狂ふ」事の原因を突止めるなんて病理學的な目的でサルトルは小説を書かない。高橋氏はサルトルに限らず小説――と言ふより、文章を讀めない人で、大體のところ、高橋氏に都合良く文章の書き手の意圖を決定して、讀んでしまふ。
これで高橋氏、「文化や性表現に関わるプロ」を自稱してゐるのだから何うしやうもないが、まあ、メシを食ふ爲の文章ではその手の御都合主義は發揮しないのだらう。個人誌レヴェルでは相當手を拔いてゐたやうだ。
平成十八年十一月二十一日
と言ふかさ、高橋氏、國民なり大衆なりを、信頼してゐるの、ゐないの。
いや、高橋さんは、全く大衆を信用してゐない。だから斯う書く。

俺なら、おかんにこう説明しますね。「ワイドショーの話だけ聞いてたらいいことづくめに聞こえるけどね、こういうことやってる連中の背後にはだいたい宗教右翼がついてるんだよ。それに、国が規制をやるときには、必ず利権が発生する。そういうのに群がるハイエナみたいな連中もいるんだよ。いわゆる天下りだよ。結局、役人がエロ業界から金を吸い上げる仕組みを作るだけだよ」とね。

續けて高橋氏は言ふ――つまりジャーナリズムです。冗談ではない。そんなデマゴーグが「ジャーナリズム」を名乘つて貰つては困る。と言ふより、高橋氏、自分がよつぽど偉い人間だと思つてゐるらしい。高橋氏、自分の言つてゐる事が恐るべき愚民政策である事に、氣附いてゐるのか何うか――氣附いてゐるらしい氣配がある。
俺は全く立場が逆で、大衆の常識を信頼する。或は人間を信頼する。もちろん、裏切られてばつかりだけれども、それでも信頼して、「文學的ロマン」を言ひ續ける。天皇だらうが規制だらうが、大衆は立派に受容れ、自分に都合良く「使つて」見せる。少くとも、高橋氏なんかよりも天皇の方が信頼できると、大衆は考へる。それが常識だ。
高橋氏のやうな「エリート」「インテリ」に、欺され續ける愚かな大衆はゐない。高橋氏が、「これが事實ですよ」と言つても、大衆はちやんと嘘を嗅ぎ分ける。やがて、一見善意の人に見えるような連中を疑う感性がついてきたら、そこから個別の、私的な善さの限界についても目が啓かれてくるでしょうし(それこそ政治だ)。だんだんと大衆も知的になっていくのではないでしょうか。その通り、高橋氏のやうな「善意の人」を裝ふ傲慢な人間を、大衆は信用しないものだ。
平成十八年十一月二十一日
さて、勿論、常識は自明の眞理でないから、今、喪はれつゝある。國語ではとつくの昔に失はれた。が、それは困つた事だ。高橋氏は「困らない」と思つてゐるが、それは、自分に都合良く世の中を動かして行くのに「困らない」に過ぎない。俺にして見れば、大衆が無知なまゝ高橋氏のやうな愚民政策を唱道する連中に欺されてをかしな方向に世の中が進んで行くのは困る事だ。だから高橋氏の言ふ事には大反對するし、正字正かなを唱道する。
高橋氏にして見れば、かう云ふ野嵜のやうな手合が一番の困りものだらう。何しろ、高橋氏の邪魔を積極的にするからだ。そこで「寛容の精神」等と一見綺麗な言葉で何とか野嵜の行動を封じ込めようとする訣だが、俺は言葉に騙されない。俺は言葉に關して素人だから、プロと自稱してエリート面する輩の甘い言葉は信用しない事にしてゐる。
平成十八年十一月二十一日
人間なんて藥物で簡單に狂ふ――氣狂ひなんて慥かに「唯物的」に生ずる現象であり、それは否定しません。ニーチェだつて、氣が狂つたのは梅毒のせゐだとか。しかし、あゝ云ふ頭の良い狂ひ方は、日本人はしません。超人思想だの何だの、あんなの出たら目ですが、それにしても良く理窟をでつち上げたものだ。神一人を殺すのにあそこまで無理やりな理窟をでつち上げたのは、まあ、氣狂ひだからでせうけれども、日本人であゝまで理知的な氣の狂ひ方をした人間はゐない。日本では皆、大言壯語するけれども、大概空疎なものです。ユダヤが何うしたとか、詰らない既成の概念を一生懸命唱道したりしてみる。あとは「いろは」がどうたらかうたら。精々大川周明が「立派な狂ひ方」をした程度だ、が、あれもニーチェには及ばない。
ソシュールにしても、あれも半分頭がをかしいのですが、兔に角記號學をでつち上げるのにやけに眞劍に考へて、矢鱈細かいところまで問題にして理窟を捏ねてゐる。既成の文獻學的言語學を叩くのに必死になつて一方的になつてゐる部分もあるけれども、兔に角一つ理論を打ち立ててしまつて、後世に影響を與へてゐる。晩年、アナグラムになんか熱中したのは頭がアレだつた證據でせうね。けれども、そんな人が後世に影響を與へてゐる。日本にそんな偉い氣狂ひはゐません。
大體、氣狂ひが馬鹿な事を言つてゐれば日本人は大喜び、それが少しでも御立派さうな事を言出せば直ぐに叩いて潰さうとする。あつちとこつちとでは氣狂ひの扱ひが根本的に違ふ。あつちの國の方が全體に立派ですね。どうも日本は後進的で行けない。それで却つて先に進まうとして、無理をして、無茶な改革をやらうとする。大東亞戰爭なんかも、さうした近代化の無理を、實は多くの日本人が負ふのを放棄して、一部の國粹主義者や軍隊に押附けたから、國ごとあつさりぶつ潰れたのであつて、それで戰後、正反對の方向に走つて、それで何とかなるだらうと高橋氏なんかは樂觀的に考へてゐるのだが、極端から極端に振れれば結局同じ事だ。事實として、ファシズムの正反對のコミュニズムは、ソ聯で失敗したではないですか。そのコミュニズムにアナーキズムは敗れてゐる。

平成十八年十一月二十日
金色のコルダ。今期トップクラスで面白い。
平成十八年十一月二十日
よあるり。作畫が非道いとそこだけ面白い。話は何うでも良い
平成十八年十一月二十日
ギャラクシーエンジェる〜ん。ほらーなので爆笑しながら觀た。この間のネギま!?と同じ話。落雷で実体化の説明、実況板では不評だけれども、俺には少しだけ感慨深い。
平成十八年十一月二十日
TMPGEnc DVD Authorなんかでも、こんなウィンドウがある訣。
20061120Sumomo.jpg
CMのカット編緝をし終へて、それでOKとキャンセル押し間違へた日には最う云々。

平成十八年十一月十九日
乙女はお姉さまに恋してるが面白かつた。
平成十八年十一月十九日
少年陰陽師。御姫樣が攫はれた。若本出ない。
平成十八年十一月十九日
くじアン。極上な印象。
平成十八年十一月十九日
Gift。なんでえろげをアニメ化する人逹は話に鬱展開を持込みたがるのか。

平成十八年十一月十八日
プログラムのダイアログボックス等で、「OK」と「キャンセル」のボタンが例外ナシに至近距離に配置されてゐる現状は異常。「右か、左か」を論じて、MacユーザがWindowsユーザに優越感を覺えてゐるやうだが、そもそもこれらのボタンがどちらも近くに配置されてゐる點でMac OSもWindowsも違ひはない。至近距離に「ある」事が極めて重大な問題なのだ。
「OK」と「キャンセル」とでは結果が正反對になる。そんな事は誰もが知つてゐる餘りにも當り前の事實だ。なのになぜかプログラマ或はGUIのデザイナは、これら正反對の結果を齎す二つのボタンを、出來る限り接近させて、誤つて押し易いやうに配置する。「さうしなければならない」と云ふ強迫觀念が「ある」のではないかとすら思はれるくらゐ、世間のプログラムでは常にさう云ふ配置が行はれる。何なのだらう。ユーザである俺には、この配置が嫌がらせとしか思へない時がある。Windowsの設定を弄つてゐて、「OK」を押さうとして「キャンセル」を選んでしまつて、カスタマイズを全部ぱーにしてしまふのなら、何も起らないのだから問題はないが、誤つてファイルの削除をしようとしてしまつて、確認のダイアログで「OK」と「キャンセル」を押し間違へたら、結果は致命的である。ところが、その種のダイアログに限つて、何時いかなる場合にも例外ナシに、「OK」と「キャンセル」は至近距離に配置されてゐるのである。
「注意すれば良い」とか云ふ「反論」も「ある」だらうが、それで話が濟むのなら、全てのユーザビリティの話はナンセンスと云ふ事になる。
平成十八年十一月十八日
TBSコードギアス例によつてバレーボール中繼延長の所爲で三十分遲れ。
昨晩のTBSあさっての方向。だが、恐ろしい事に今まで一度も定刻に開始された事がなく、十一月二十三日・三十日深夜の放送も遲れる事になるらしい。非道い話だ。
平成十八年十一月十八日
Let's noteのUSB2にぶら下げたGV-M2TV/USB2の録畫データがノイズだらけでぼろぼろ。何なのだらう。USBのドライヴァは入換へて見た。
平成十八年十一月十八日
GV-MVP/XVDが、録畫を開始した瞬間に毎囘PC本體をリセットして呉れる。何なのだらう。
平成十八年十一月十八日
ThinkCentreではGV-MVP/RZ2とGV-MVP/RX2Eを併用して同時2番組録畫も完璧に出來てゐる。本體の電源を切るとキャプチャボードの認識順がランダムに入代はるので最う半年も電源入れつ放しにせざるを得ない状態なのはアレだけれども、確實に録畫出來ると云ふ點では信頼性が高くて良い。問題は、今一つの電波ソースを畫質向上機能のないGV-MVP/RX2Eで録畫するので畫質がアレな事と、RX2Eの背面の端子の配置が惡くてアンテナ線をF端子で接續出來ない事。何でアンテナ線を繋ぐ端子をわざわざ端に寄せてアンテナ線側の端子を本體のスリットの端と干渉するやうにしたのだらう。
平成十八年十一月十八日
ちりちりちりちり。
[電波とどいた?] - 2006/11b Diary
色々教へていただきました。何うも有難うございます。↑↓
お笑いパソコン日誌:今日のツナミのように・まだまだ Explorer 問題
でも、その邊の設定、全部やつてある……。
平成十八年十一月十八日
お笑いパソコン日誌:最近の驚き・思わぬ方向から矢が
渡る世間は鬼ばかりのOpのメロディの一節がゼンダマンのOpの一節とそつくりなんだけれども、全然話題になりませんね。タイムトンネル ジュオン ジュオン ジュオン♪
海底ガガン
平成十八年十一月十八日
コードギアス面白い。
平成十八年十一月十八日
銀河鉄道物語は良い話にしようとしてゐるが根本的にぐだぐだ。
平成十八年十一月十八日
妖奇士はぐだぐだだが結構面白くなつて來た氣がする。思つたよりまともに漢字ねたきちんと使つてゐる。

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