ようやく、「日本国憲法」無効論の憲法改正方式を具体的に述べる段取りとなった。以下、菅原裕『日本国憲法失効論』(国際倫理調査会、二〇〇二年)と拙著『「日本国憲法」無効論』(草思社、二〇〇二年)を参考に、考えていきたい。この方式は、前述のように、大きく二段階からなる。第一段階は、「日本国憲法」の無効確認及び明治憲法の復原確認と、臨時措置法の制定という二つの作業からなる。第一段階では、憲法改正の第一目的である第九条と前文の始末を行う。これは、今後一年ほどの間に早急に行わなければならない。
そして第二段階では、第二目的である自由主義的な民主主義の再建を可能にする新憲法をつくる。第二段階の作業も、二つの作業からなる。第一の作業は、第七三条を改正して、議会の議決後に国民投票を行うことを規定することである。第二の作業は、改正第七三条に基づき、議会の審議や国民投票をふまえて、新しい憲法を確定していくことである。二つ目の作業である新憲法の確定は、ゆっくりと五年から十年程かけて行うこととする。以下、二段階四つの作業を順に述べていくこととしよう。
第一段階の第一作業は、「日本国憲法」の無効と明治憲法の復原を確認することである。この確認は、法的に言えば、首相他内閣を構成する国務大臣の副署に基づき、天皇が無効・復原確認を行えば十分である。ただし、政治的には、国会による決議がなければ立ち行かないだろう。それゆえ、国会による決議を経て、内閣総理大臣他の副署に基づき、天皇が正式に無効と復原の確認行為を行う形がよい。
「日本国憲法」無効確認とは、様々な意味をもつ。何よりも一つ目の意味は、「日本国憲法」が憲法としては無効な存在であり続けたことの確認である。二つ目の意味は、占領管理基本法説に立つならば、「日本国憲法」は占領解除までは有効であったこと、占領解除によって失効するが無効確認が行われるまでは有効の推定を受けることの確認である。また、占領管理基本法としてさえ無効であったとする立場に立つならば、「日本国憲法」は占領中も占領解除後も一貫して本来無効であるが、やはり無効確認が行われるまでは有効の推定を受けることの確認である。いずれにせよ、無効確認とは、現在の「日本国憲法」は失効している又は無効であるが、有効だと推定されているということの確認である。
従って、無効確認がされたからといって、戦後五十九年間「日本国憲法」に基づき日本国が行ったことは全てなかったことにされるわけではないし、全て無効であったことにされるわけではない。つまり、三つ目の意味は、無効確認の効力は、将来に向けてのみ発生するのであり、過去に遡ることはないということである。
実際、無効確認の効力を過去に遡らせようと主張する「日本国憲法」無効論者は、誰一人存在しない。にもかかわらず、世の中の憲法学者等は、「日本国憲法」無効論をとれば、戦後五十九年間「日本国憲法」に基づき日本国が行ったことは全て無効であったことにされてしまうから、無効論をとるわけにはいかない、と述べたりする。この誤解は正しておかなければならない。
さらに四つ目の意味は、「日本国憲法」の無効確認は必然的に明治憲法の復原をもたらすということである。
第一段階の第二作業は、新憲法が作られるまでの臨時措置法を制定することである。復原した明治憲法をそのまま機能させても、社会の混乱を招くことになるから、憲法改正手続きを規定した明治憲法第七三条以外の効力を停止し、臨時措置法を制定する。臨時措置法の内容は、法的安定のためにも、「日本国憲法」の条文を基本的に採用する。だが、日本国を滅ぼしかねない第九条(2)と前文は、採用しない。また、改正手続きを定めた「日本国憲法」第九六条は不要となるから削除する。
そして、「正気」を取り戻し、国家論と自由主義的民主主義を学習しなおしたならば、第二段階として、明治憲法第七三条の規定の趣旨にそった改正手続きで、新しい憲法を作ればよい。明治憲法第七三条によれば、天皇が発議して、貴族院と衆議院で可決されて憲法改正がおこなわれる。貴族院はもう存在しないから、参議院によって代替すればよいだろう。それゆえ、第七三条の趣旨をいかして復原改正の具体的方法を探れば、内閣を構成する国務大臣の副署に基づき天皇が発議し、衆議院と参議院が各々三分の二以上の議員の出席により議事を開き、出席議員三分の二以上の賛成により、憲法改正を決定する方法が適当だろう。
新しい憲法は、じっくりと五年でも十年でもかけて、明治憲法の改正という形で作ればよい。民主主義の観点からすれば、この第二段階の作業は、細かく言えば二つの作業からなる。第一の作業は、第七三条を改正して、理代社会に合った憲法改正手続きを規定することである。この作業には、二つのポイントがある。一つ目は、天皇とともに両院にも憲法改正の発議権を与えることである。そうすれば、政府原案が出された時、その原案に対する自由な修正権が議会に認められることになる。二つ目は、議会の議決後に国民投票を行うことを規定することである。国民の政治参加意識の高まりからすれば、国民投票を規定して、国民自身を憲法改正に参与させることが必要であろう。
第二の作業は、改正第七三条に基づき、議会の審議や国民投票をふまえて、新しい憲法を確定していくことである。
この新しい憲法は、日本人自身が自由意思に基づき、正統憲法たる明治憲法を改正して作るものだから、正統性及び正当性を回復することができよう。たとえ「日本国憲法」と全く同一のものが作られたとしても、その正統性・正当性は、「日本国憲法」とは比較しようもないものとなろう。
以上、おおよそ七つの理由から、永久憲法としては、「日本国憲法」は無効な存在であると言わねばならない。すなわち、占領軍は、永久憲法として「日本国憲法」を作らせようとしたが、失敗してしまったのである。
だが、ハーグ陸戦法規第四三条によれば、占領軍司令官に現行法をそのまま尊重する義務を課しているが、「絶対的ノ支障」がある場合には、占領軍司令官が、占領期間中の暫定法をつくることは許される。したがって、「絶対的ノ支障」が何かを示せれば、「日本国憲法」を、占領下の占領管理基本法あるいは暫定憲法としては有効なものだったと位置づけることは出来る。「日本国憲法」が占領管理基本法あるいは暫定憲法として有効だとすれば、当然に、一九五二(昭和二十七)年の占領解除とともに、「日本国憲法」は法として失効する。これに対して、「絶対的ノ支障」が何か示せない場合には「日本国憲法」は占領管理基本法としてさえも無効な存在となり、あらゆる意味で無効となる。
筆者は、理論的には、占領管理基本法説をとっても、占領管理基本法としても本来無効だとする説をとっても、いずれでもよいと考えている。いずれを採用するかは、政治的な判断に拠ろう。占領管理基本法説ならば、当時のGHQや議員たちの行動をそれほど批判する必要はなくなるし、基本的に免罪することになろう。これに対して、占領管理基本法としても本来無効だとする説をとれば、特にGHQの行動を厳しく批判する必要が出てくるかもしれない。
しかし、いずれの説を採用しようとも、失効・無効の確認がなされるまでは、本来無効な「日本国憲法」が、一応有効であるとの推定を受ける。有効の推定を受ける以上、失効・無効確認があるまでは、「日本国憲法」は守らなければならないことは当然である。
三段論法の出る幕は無いんです。なんて言つてゐるから、こんな異常な「論理」を當り前だと思つてゐるのだらうなあ。
誤読誤解がどうこう以前に何を(意図的に)書き落としているのかに注目すべきだ。
臨時措置法が日本国憲法を引き継ぐといったって、
だが、日本国を滅ぼしかねない第九条(2)と前文は、採用しない。また、改正手続きを定めた「日本国憲法」第九六条は不要となるから削除する。
なんだから、戦争は出来ちゃうし、前文にうたわれている国民主権の原理、特に「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」あたりがなくなるのはまずいし、改憲の限界についても既存の制約が取っ払われちゃうわけでしょ。
第九条(2)が今の憲法には「ある」訣だよね。なのになぜ自衞隊が存在してゐるの?
第九条(2)は前文の宣言を大前提に解釋しなければならない訣だが、さうすると、素直に讀めば、日本人は自分の力で自分の國を守る事も許されてゐない。自衞隊は違憲。誰が何う見てもさう。俺も常々さう言つてゐる。ところが、「憲法解釋」で自衞隊は「合憲と云ふ事」にされてゐる。「憲法解釋」と「憲法」とが正反對である訣だ。高橋氏に據ればさう云ふ事は當り前だし良い事であるらしいのだが、俺にして見ればそんな危險な話はない。だつてさうだらう、さう云ふ正反對の解釋を許してしまふのなら、高橋さん、あなたは憲法が規定してゐる基本的人權の尊重を憲法解釋で人權侵害の擁護や推奬に讀替へて良いと言つてゐる事になる。しかし、それでは困るでせう。だから憲法は書かれた通りの意味で解釋されなければならない。自衞隊は違憲。これは高橋氏も認めなければならない事實だ。だが、一方で、國民が自分逹の國を自分の力で守ると云ふ事は世界の常識だし、實際に日本人は自衞隊を持つてゐる。ならば、「臨時措置法」では當座、さう云ふ事實を認めて、規定の方を削除するのが自然でせう。そして、そこで高橋氏は小山氏の「思惑」を邪推して見せるのだが、小山氏が此の種の手續きを一人で實行するのでなく、政治家がやるのだから、政治家を信用すれば良いでせう。そして、高橋氏は、今の日本も世界の歴史の流れの中にあつて、「アナーキズム」に向つてゐる事實があると言つてゐる。ならば高橋氏は政治家がやる事もさうした「流れ」に沿つたものになると期待して良い筈。何が問題があるのだらう。
時限立法であること、当座の決定に過ぎないことは、安全性を保障しない。
俺がなぜ「事前に新憲法案をまとめておく(現行憲法が要求する程度の民主性は確保するために、国民投票はすべき)」「一分(理想的には瞬時)で新憲法に移行する」と条件をつけたのか、何を恐れたのか、これで分かったと思うけど。きっと中央党も、当座のことだから構わない、とか思ったのだろう。
それを民主的に改正して
これは嘘。小山常実案よりも現行憲法の改正プロセスのほうがずっと民主的。
第一に、明治憲法の出自は現行憲法に比べて民主主義的な正当性において勝っている点はありません。第二に、別に由緒正しい憲法を戴いたところで、国家主義者を警戒しなくてよくなるわけではありません。正統性それ自体は衆愚政治や全体主義を防ぐ歯止めにはなりません。
貴方が紹介した小山常実氏の記述によると、国民投票はしないようですが?
何を(意図的に)書き落としているのかと言つてゐるのは、かう云ふところにつけ込んで揚げ足を取り捲つて、相手をうんざりさせてやれ、と云ふ事ですか。さもありなん。
あと、国民主権を謳う前文を削るなんて無茶だし(ただでさえ明治憲法をどうこうって言ってるんだから、天皇主権に戻すつもりかと誤解されますよ。実際、前文を無くしてしまえばその可能性は出てくる。
形式的正統性を確保すれば国家主義者が消えてなくなるというオカルト的な世界観を信じるならば、おわかりですよ。
# NaokiTakahashi 『コンシューマだとめったに出ないような落ちバグでも相当ユーザからきつく言われるのに、エロゲだと割と許されちゃいますからねえ。そういう空気は良くないと思う。パッチありきみたいなところはありますからねえ。』 (2006/11/11 17:51)
吾々日本人、そして廣く言つて東洋人には優越感と劣等感というものが頭にこびりついており、いつも頭から離れないようである。何等かの意味で自分より下のものを一人でも見付けたら、それだけを對象にして何が何でも優越感を味わおうとする。また、何らかの點で自分より上のものに出會うと、すぐさま劣等感のとりこになつてヘタヘタとなつてしまう。吾々日本人、そして東洋人の間に、とてつもなく傲慢な人物と、情けない程卑屈な人物の多いのはこの故であろう。
個人の私的な自由に対して目的だの理想だのを言い出して骨抜きにする共同体主義の罠に立ち向かうことこそ、まさしく自由主義の最先端の話ですよ。と言つてゐるが、それはただの「反動」に過ぎない。過去の功利主義に逆戻りして、「危險」を孕む理想主義的な自由主義のその「危險」を單純に囘避しようとしてゐるに過ぎない。
現代の自由主義が直面している問題、今求められているのは、自由主義を特定の文化に依拠する善の構想からいかに脱却させるか、ということです。と言つてゐるのだが、これこそ寧ろ「無邪氣」な發想だと言つて良からう。
俺は多文化主義者ではなく文化多元主義者なので、あらゆる文化に共通して押し付けるべき自由主義の正義があることを疑いはしませんが、それだからこそ、特定の善の構想に依拠した政策立案には反対するのです。と言つてゐるが、西歐的な理念から「脱却」する、と言ふ「反動」的な態度から、高橋氏は非西歐的な「特定の善の構想」に「依拠せよ」と叫ばざるを得ない状況に陷つてゐる。西歐的な發想を高橋氏は「絶對に排除しなければならない」と言つてゐるのだが、それは如何なものか――詰り、元來の西歐的な發想も依然、採用されるべき「自由主義の正義」の一つの撰擇肢に殘つてゐて良い筈で、それを高橋氏のやうに最初から「排除すべきもの」と考へてしまつてはいけないだらうと。
言論の自由といつても、何を喋つてもいいといふことは、決して言へないと思ひます。例へばファシズムを謳歌するやうな思想、これに對しては自由を與へることは出來ないと思ひます。また戰爭を挑發するやうな思想、これに對しても自由は與へられないと思ひます。社會に有害なやうな不逞なる思想は取締る必要がある。これは當然だと思ひます。
それから、ライトノヴェルと純文学でどちらがどうというような話もあったけれど、これはいい悪いは個々の作品に対して為されるべきで、ジャンルで比べるのは無理だとしかえない。
このサイト内記事の転載は大歓迎です。との事。
単純な徳目とのマッチングであろうが複雑な道徳哲学・倫理学的議論を含むものであろうが、そんなこととは関係なく、道徳的評価と芸術的評価は単に独立している。芸術は自己目的的なものであり、人間を道徳的に教化するための道具ではない。もちろん道徳的な内容を扱うものであって構わないが、問題になるのはその道徳的内容をどう表現しているかであって、内容自体の道徳性ではない。
人間を道徳的に教化するなんて、そんな事も言つてゐない。高橋氏は、自分の考へる「道徳」の域から出ないで、勝手に野嵜の言つてゐる事をでつち上げて非難してゐる。
ロールズを読もうね
ロールズを読もうね繰返し言つてゐるけれども、他人に要求するだけで此の人、自分は何一つ他人の言ふ事を理解しようとしない。さう云ふ風に讀者を作り上げてしまふのだから、ロールズが書き手であるかは明かだ――だからロールズなんて讀む價値はないし、讀む人間は全員、高橋氏のやうな惡質な人間になるのだと斷定して良い。(茲は笑ふところ)。まあ大體、政治の仕組なんてものばつかりを高橋氏はその手の本を讀んで學んでゐるだけであり、所詮、その手の政治屋のエピゴーネンと化してゐるだけだから、云々。あと、功利主義について高橋氏が何う宣言してゐるかなんて何うでも良い事だよ、一々他人の宣言を文字通りの意味で受取つて信用するほど俺も馬鹿ではない。普段言つてゐる事を見て俺は高橋氏を判斷する。當り前の事だ。
- 文學を含む藝術は道徳を扱ふべきものである、という主張はどこへ消えたのだろうか。
- 「人物を人間的に正確に描いてゐる」必要など、少なくともアート一般においては、ない。野崎さんの考える文学ではそうなのかもしれんけど、それが文学なのだとしたら、俺にとってそんなものはどうでもいい。というか、そんなことは再三言ってるはずなのだが、野崎さんは自分の文学観について俺にどう言って欲しいのだ?
だからロールズなんて讀む價値はないし、讀む人間は全員、高橋氏のやうな惡質な人間になるのだと斷定して良い。(茲は笑ふところ)。あっはっは、面白い面白い。
人と人との関係などというものを金や社会関係で踏みにじるからエロいんじゃないですか。その辺のオヤジとオフクロでもやってるようなただの恋愛関係の何が面白いんですか。と高橋氏は言つたけれども、俺が何時
その辺のオヤジとオフクロでもやってるようなただの恋愛関係以外、「文學では描いてはならない」なんて言つたんですかね。
民主主義は一方において,各人が一人一人社会の事柄の統制に所属する義務と権利に参加することを意味し,また他方において,社会的取りきめが,各人の十分な発展を各人に提供する機会を制限する結果になる,地位や出生や富や性,その他にもとづく外面的取りきめを取りのぞくことである。個人的側面では,民主主義は,社会組織や法律や政府の良否の規準として,個人の潜在能力の解放を採用する。社会的側面では,強制ではなく、共同活動を上から天降りの権威ではなく、相互的やりとりgive and takeの過程の自発的参加を要求する。政治的側面における社会生活の理想として,民主主義は,政府をその範囲内にふくむとはいえ,政府のいかなる形態よりもはるかに広い。それは理想としては,これまで達成された何ものをもふみこえる進歩への要求を意味する。
……道徳的理想としての民主主義は,歴史上,しばしば敵対的に働いた二つの観念,一方における個人の解放と,他方における共通善の促進という,二つの観念を結合しようとする努力である。
先づ第一に問題となるのは、リチャーヅ氏も云ふやうに、詩が何を述べてゐるかではなくて、詩の本質は何かである。
あと、「國家がなければ人間社會が立行かない」はダウトですね。これは、近代的な社会や経済は立ち行かない、と限定すべきだ。
近代のシステムが生きてゐる時代ですからね。「今」と云ふ條件下では眞實――それに俺は現實主義だから、アナーキズムなんて雲をつかむやうな話は信用しない。
そもそも忘れられるやうなものなら、國家なんて恐ろしくないんでせう。
そうですね、忘れられるようなものなら重要じゃないんでしょう。政治性かなとかw(面白い誤字変換だったので残す)
右傾化の理由は国家の恐ろしさを忘れた連中が増えすぎたことにあるでしょう。と言つたのではないですか。今の高橋さんの言ひ方では、別に國家が恐ろしくてもそれは重要でない事になつてしまふ――ならば、別に「忘れた」からと言つて問題はない、世間が右傾化しても何の問題も無い。私が言つてゐるのではありません、高橋さん、あなたの論理は「さう」なのですよ。
こんな独りよがりのサイトを読むのなどやめてしまえばどうですか?なんて言ふのは何うかと思ひますね。繰返すけれども、そんな一般的でない話をするなら、mixiか何處かのクローズドな場で、自分に賛同して呉れる讀者だけを相手に書いたら良いと思ふ。なぜオープンの場で書くのだらう。どうせそこで高橋氏の場合「自由」が言ひ訣に出て來る訣だが、「自由」もなめられたものだ。
むしろ、「わかりあえないから」法で人権ルールだけは強制しようぜ、って考え方なんですね、僕は。
精神は物質であり機械です(この唯物論者め、アカめ左翼めキョウサンシュギシャめ!(笑))。どんなに深刻に哲学思想をこねくって観念遊びをしたところで、それだけでは「嘔吐」のようにはおかしくならない。あれは嘘なんです。サルトルがメスカリンでトリップ体験をしたときに「自明性の喪失」を味わい、それを何か哲学的な真理に通じるものだと勘違いしちゃったんでしょう*1。
俺なら、おかんにこう説明しますね。「ワイドショーの話だけ聞いてたらいいことづくめに聞こえるけどね、こういうことやってる連中の背後にはだいたい宗教右翼がついてるんだよ。それに、国が規制をやるときには、必ず利権が発生する。そういうのに群がるハイエナみたいな連中もいるんだよ。いわゆる天下りだよ。結局、役人がエロ業界から金を吸い上げる仕組みを作るだけだよ」とね。
つまりジャーナリズムです。冗談ではない。そんなデマゴーグが「ジャーナリズム」を名乘つて貰つては困る。と言ふより、高橋氏、自分がよつぽど偉い人間だと思つてゐるらしい。高橋氏、自分の言つてゐる事が恐るべき愚民政策である事に、氣附いてゐるのか何うか――氣附いてゐるらしい氣配がある。
やがて、一見善意の人に見えるような連中を疑う感性がついてきたら、そこから個別の、私的な善さの限界についても目が啓かれてくるでしょうし(それこそ政治だ)。だんだんと大衆も知的になっていくのではないでしょうか。その通り、高橋氏のやうな「善意の人」を裝ふ傲慢な人間を、大衆は信用しないものだ。