闇黒日記


平成十八年五月三十一日
おもてで霍公鳥が鳴いてゐる。
平成十八年五月三十一日
またキャプチャボードを買つて來た。GV-MVP/RX2E。中古。GV-MVP/RZ2を繋いであるIBM PCに刺して同時録畫出來た。ただ、PCのスロットのところが窮屈でF型接栓が使へない。

平成十八年五月三十日
今まで問題なく燒けてゐたDR-120TY10BAで書込みエラーが出た。やつぱりDVD-Rは糞。

平成十八年五月二十九日
tvkのうたわれるもの二話連續放送。めりはりがあつて物凄い神編成になつてゐた。あの引きの後、二週間放送無いのは非道いよ。
平成十八年五月二十九日
書泉の地下で『まじかるストロベリィ』第三卷と『ストロベリー・パニック!』第一卷を買つた。
平成十八年五月二十九日
小宮山書店の表の百圓均一わごんで丸背のSFマガジンを五册買つた。1960年の4・6・7・8・9月號。
平成十八年五月二十九日
東京webデザイナー日記: 日経平均銘柄225社サイトの脱テーブル率調査
おさんぽさんぽ - 帰るまではやる気満々だったのに , PCサイトビューアーの仕様変更 , 日経平均銘柄225社サイトの脱テーブル率調査 , フルCSSデザ..

平成十八年五月二十八日
tvkのうたわれるもの今夜は第八話第九話の二話連續放送。來週再來週休止。六月十八日第十話第十一話の二話連續放送。
うたわれるもの - しょぼいカレンダー (アニメ番組表)
平成十八年五月二十八日
涼風の秋の頃の囘と、スクラン2学期の先日の囘とを、録畫にミスつた筈はないのだけれども、RDとPCの間でコピーする時だかHDDの中でだかで無くしてしまつた模樣。涼風は何うでも良いとしてスクランはAT-Xで始まつたからそちらで補完すると言ふか全部録り直す積り。ただ、デジタルの放送だからコピー制限が附くので、とても嫌な氣がする。
と言ふか、TV放送、たまたま録畫に成功すればそれは合法的なもので誰にも文句は言はれないで所有出來る、一方、たまたま録畫に失敗すれば合法的には再放送かDVDか或はCS等の放送で補完するしかない――「これつて何かをかしい」と、PCとかインターネットとかを利用してゐると自然に思はれるのだが、何うだらう。或時刻に一齋にコピーフリーのデータが電波でばら撒かれる、それを取得するのは完全な合法。けれども、その時刻以外にその電波以外で、そのデータがばら撒かれるとしたら、それは完全な違法、となる。全く同じデータであつても、電波、と言ふより配布者に據つて、合法違法が決定される――どうにも不合理のやうに思はれる。何うして「同じもの」が、或場合には合法で或場合には違法になるのだらう。放送なるものがいかがはしいものに見えるのは、データではなく放送事業者なるものを基準に全ての「論理」が構成されてゐる點に原因がある。
デジタル放送と言つても、データではなく放送事業者の「論理」が相變らず殘存するので、デジタルのメリットが完全に殺される事になる。「畫質が綺麗になる」と言つても、録畫出來ない・保存し辛いのでは、デジタルデータの存在意義は「ない」と言つても良い。アナログでも電波塔の近く等では畫質は十分良好であるし、デジタルでもビットレートが低いならばそんなに畫質は良くならない。放送のデジタル化で「畫質の向上」の他に「電波の有效活用」も謳はれてゐるけれども、何んなに番組が増えても人は一度に一つの番組しか觀る事が出來ない。複數の番組を觀ようとすれば録畫は必須――だが、デジタル放送で録畫は非常にし辛くされてゐる。視聽者の立場から見れば今のデジタル放送の「論理」は支離滅裂でしかない。繰返すが、今、デジタル放送が何うしやうもない代物であるのは、放送事業者の立場から今のデジタル放送の「論理」が組立てられてゐる事に根本的な原因がある。「通信」と「放送」の融合なんて事が盛に言はれた。しかし、そんな事は、「放送」が從來の「放送事業者の論理」を抱へて堅く守つて行かうとする限り、あり得ない事だ。事實、最近、そんなスローガンはさつぱり聞かれなくなつてゐる。放送事業者も、下手に話をすると突込まれて、放送自體の意義が問はれる事となり、放送の權益を失ひ兼ねないので、默る事にしたのだらう。今後、あり得る世の中の流れは、違法なやり方の水面下での流布か、或は、放送自體の衰退だらう。

平成十八年五月二十七日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20060525
「絡む」と言ふからには絡む訣だけれども、渡邊さんの「動機」は良く解りました。けれども、「だから?」と言はざるを得ません。いろいろと思うところがあるさうですが、その「思うところ」について知りたい――それは渡邊さんの個人的な關心の域を得ないものなのか、それとも、個人的な關心であると同時に超個人的なもの・普遍的なものであるのか。前者なら本當に何うでも良い事になりますし、何うでも良い事を公開の場に書くやうな人は「物書き」ではありませんから渡邊さんは違ふでせう。では、後者なのでせうが、さまざまな文人・学人の言葉に触発される、で、觸發されてどのやうな事を渡邊さんは考へたのか。或は、どのやうな形で渡邊さんの興味と、「文人・学人の言葉」との間に通路が出來たのか。その通路は、渡邊さん以外の人にも形成可能か、形成すべきものか――。はつきり書いてしまふと、俺、渡邊さんの文章が解らない。本の感想がいろいろと書かれてゐるけれども、渡邊さん個人の樂しみ方が書かれてゐるに過ぎない事が屡々ある。その時、渡邊さん以外の人は――例へば私ですが――その本を樂しみ得るのですか。もし樂しみ得ないものであるならば、渡邊さんの個人的な經驗や努力・訓練の類があつたればこそ、その本は樂しめる、と云ふものであるならば、渡邊さんの書かれる感想は、渡邊さん以外の全ての人間にとつて何の意味もないものになる。しかし、渡邊さんが公開の場で物を書いてをられる以上、渡邊さんは個人の域を超えてその本が樂しめる事を言ひたいに違ひない。が、私にはその本の普遍的・超個人的な樂しみ方を渡邊さんから教へられた事があんまり無い。
平成十八年五月二十七日
BLOOD+。反戰思想とかアメリカ批判とか以前にこれ、何か根本的な部分でシリーズ構成がをかしい氣がする。
平成十八年五月二十七日
白水社編『ふりがな廢止論とその批判』
目次を入力した。なんか誤字とか脱字とかありさうなので閲覽者の方々にはチェックに協力していただければと。何かいろいろアレしてゐても氣にせず掲示板邊に書込んでいただければ。
平成十八年五月二十七日
TeaCupの掲示板の過去ログ、何か巧く手輕に取得出來てしかも簡單にきれいにまとめる方法ないですかねえ。いまさら半年分まとめる氣力が湧かない。

平成十八年五月二十六日
例によつて古書會館の古書展。買つたもの。雜誌「思索」創刊春季號(金田一京助「日本は何故漢字が廢されぬか」掲載)・第四號冬期號(福田恆存「自問自答」掲載)・第九號春季號(サント・ブーヴ「閉されし戀」掲載)。雜誌「文學會議」1(http://nozakitakehide.web.fc2.com/Magazine/Bungakukaigi/)。雜誌「文藝」昭和二十八年三月號、昭和二十九年四月號(http://nozakitakehide.web.fc2.com/Magazine/Bungei/)。雜誌「風雪」昭和二十四年十月號。白水社編『ふりがな廢止論とその批判』。『昭和24年度国立国語研究所年報1』。『宣長選集』(筑摩叢書301)。岩波講座六册。
平成十八年五月二十六日
まじぽか。闇黒日記の一部の讀者には、とても興味深く觀る事が出來るだらう。アンドロメダ田無。

平成十八年五月二十五日
http://d.hatena.ne.jp/wtnbt/20060524
なんか絡むやうで申し訣ないのだけれども。と言ふか、絡むのだけれども。

こういうところにすぐに目が行くのが最近の私である。

なんで?
「目が行く」のは判りましたけれども、「なぜ目が行く」のかが解りません。其處が知りたいんですけれども。
俺は渡邊さんの「樂しみ方」を知りたくて渡邊さんの文章を讀んでゐるのだが、今までそれが解つた事がないんだ。それが殘念でならない。「こんな風に讀めば樂しいだらう?」と「樂しみ方」を説明して貰へれば、俺も一つ、未知の「本を讀む樂しみ」を知る事が出來るかも知れない訣だ。
平成十八年五月二十五日
菊村紀彦『連如 乱世に生きたオルガナイザー』(現代教養文庫)なんて本を、多分四箇月くらゐかけてやつと讀了。間の三箇月くらゐ、全然手を着けてもゐなかったけれども。やつぱり西歐のキリスト教の信者の人と、日本の宗教家とでは、態度が違ふよ。彼我共に教團の確立と擴大に力を注いだけれども、「我」の側ではもつぱら勢力擴大・信徒獲得の爲の戰術が重視され、「彼」の側ではさうした側面での努力もあるけれども同時に教義そのものの理論的な強化の努力がなされて來た。日本の場合――と言ふか、眞宗の場合だけれども、親鸞の理論は民衆教化の爲、必ずしも役に立つものでなかつたから、蓮如以來、「封印」されて來た。理論・教義の檢討は否定され、「民衆に分かりやすい方法」が推奬された。言はば「考へるな、感じるんだ」式のやり方が、日本の一般化した佛教の教化の方法だつたと言つて良い。ヨーロッパでは、教義については論爭論爭また論爭で、兔に角正統の教義を確立する事が宗教家にとつては一番大事な事だつた。やつぱり彼と我との間には、可なりの違ひがあると思ふ。ええと、本そのものは、「それなり」の内容で、それ程すごいものではありません。いろいろ勉強にはなつた。

平成十八年五月二十四日
エア・ギア。普通に面白かつた。かう云ふ話だけやつて呉れれば云々。
平成十八年五月二十四日
ラブゲッCHU。若本とサスケ軍団。なんかすごくなつかしい氣分になつた。
平成十八年五月二十四日
BLACK LAGOON @ tvk→ガーゴイル @ MX。既に見たやつそれぞれ後半のみ再視聽。

平成十八年五月二十三日
ストパニ。無茶苦茶面白かつた。作畫監督GJ。
平成十八年五月二十三日

共産主義が現代世界で勢力を得ている少数の宗教の一つであることは、言うまでもない。

平成十八年五月二十三日
GT-X900問題、解決したよ。前に使つてゐたスキャナのドライヴァ、根こそぎ削除して、GT-X900のドライヴァ再インストールしたら不具合なくなつた。ICE digital technology結構使へる。
ファイルのドラッグ&ドロップの問題――ランチャにドラッグ&ドロップしても駄目なんだ。OS/2と同じに考へてゐたから勘違ひしてゐた。すまぬ。
平成十八年五月二十三日
DVD-Rのディスクとドライヴには相性が結構あるやうな氣がするのだが、うちのLF-M821JDとDR-47TY10BAの相性の良さは異常。今まで一度も書込みエラーが出てゐない。
平成十八年五月二十三日
START Lab | That's DVD-R for Master開発秘話
平成十八年五月二十三日
START Lab | 開発者が明かすThat'sの秘密 第1話
START Lab | 開発者が明かすThat'sの秘密 第2話
START Lab | 開発者が明かすThat'sの秘密 第3話
平成十八年五月二十三日
ちなみにまたPanasonicのDVD-RAMが一枚RDで書込みエラーになつた。PanasonicのDVD-RAMは使つてはいけない。DVD-RAMはマクセルに限る。

平成十八年五月二十二日
うたわれるもの。あつさり都陷落。にゃも死亡。これもやつぱり無茶苦茶話の展開が速いのだけれども、微妙に構成が巧くなくて殘念な思ひをする事が時々。

平成十八年五月二十一日
西の善き魔女。内容もいろいろすごいが、展開の速さが無茶苦茶で凄いとしか言ひやうが無い。長い長い原作を詰込む爲らしいが、映像化の際の演出としては寧ろこれが正解。引伸ばすよりは約める方が大概面白くなる。
平成十八年五月二十一日
はてなの茶碗 - 昔話
カナかな団の躁鬱_Previewの「973 棺桶 OS は、不思議な OS なのです」(http://aboutworks.com/shokodei/diary/2006/2006_05_a.html#PrintNo8)
親切なMacの方々どうもありがたうございます。
平成十八年五月二十一日
女子高生 GIRL'S-HIGHは闇黒日記を見てゐる人の一部には受けさう。今囘のイントロは「あやののネコ科占い」。
平成十八年五月二十一日
實はBLACK LAGOONが結構氣に入つてゐたりする。Op恰好良い。

平成十八年五月二十日
文章を讀んだ時に懐く感想――これは人により千差萬別だ。なるほど、その通り。だが、文章を讀んだ時に理解する内容、これは普遍的に一意に極まる筈のものであらう。主觀的な感想と、客觀的な理解とは、區別されねばなるまい。
文學に於て我々は何を以て「鑑賞した」と言ふか。「美」を感じた時か。作者が「美」をこそ表現したかつた時、我々が「美」を論ふ、それは妥當な鑑賞ではあらうか。しかし、哲學や、或は科學啓蒙書にすら、我々は美を見出さざるを得ない時がある。否、もしも美のみが文學を他から分かつものであるとするならば、我々は繪畫、或は音樂を、如何にして文學と區別すべきか。美なるもののみを基準に、文學を語る事は不可である。
言語が論理を生むのではない、論理的な思考があつて初めて觀念は言語化される。しかし、言語が論理的な思考に便宜を供する事、のみならず、その發展に資する事、多大である。この言語が我々の文學を他から分かつ一つの基準であるとする。我々は、既に論理が客觀・普遍を志向するものである事を知つてゐる。「恣意・主觀を正當化する爲の道具」と看做して、論理一般を蔑視するのは不當である(惡い意味での「論理」は、論理全體を否定するならば、却つて存在可能である)。言語を介在して生ずる藝術――それに文學が含まれる。我々は文學作品から、普遍的・客觀的な内容を見出す事が可能である筈である。作者もまた、さうした理解を讀者に要求する。讀者は正當な讀解を義務として課される。もちろん、その讀解は、客觀的になされるものでしかない。が、もし主觀的な感想を述べるならば、それは斯る客觀的で妥當な讀解を經てゐなければならない。そして、作者の意圖は、斯る正當な理解を經て、讀者が一定の觀念を懐く事だ。もし讀者が、作者の意圖から逸脱して、獨自の樂しみ方をしようとするのならば、それは讀者の失敗であると同時に、或意味、作者の失敗である。
全ての文學作品は、作者によつて仕組まれてゐるものである。讀者は作者の仕掛けを讀取り、その上で仕掛けの巧みさを嘆賞する。讀者には人生があり、記憶がある。文藝作品の中に、己が經驗の類似物を見出して、感慨に耽る――不慣れな讀者には慥かにあり勝ちな事である。が、さうした鑑賞は、殊文學に於ては不純である。音樂・美術が語る内容は無限定である。沈默の中から鑑賞者は宇宙の眞理までをも自由に讀取らなければならない。だが、言語に據らない藝術と、言語藝術とは根本的に異る。我々は、好きに觀念を見出したいのであるならば、音樂や繪畫を鑑賞するに若くはない。わざわざ限定的な言語藝術――文學に據る必要はない。
眞に偉大な文學作品は、作者によつて完全に構成され、それに據つて一定の效果を必然的に讀者に與へる。讀者は、さうした作者の巧みな構成を求めて文學作品を讀む。文學作品の示す觀念は、常に常識的で、傳統的であり、良く知られたものだ。文學作品が提示する觀念は、それ自體として新鮮ではあり得ない。無個性的――と言ふより、超個性的であると言つて良い。さうした觀念であつても、作者は巧みな構成で示し得る。その構成もまた、效果的である爲には超個性的である必要がある。
讀者を驚かす新鮮な觀念の提示は、精々近代の文學に於て出現したものに過ぎない。そして、觀念は、最初は新鮮でも、時代を經ると常に古びる。その時、觀念を提示する許りの作品は文學作品として價値を維持し得ない。例へばイプセンのノラですら、觀念自體は陳腐化してゐる。けれども、巧みに作られた劇として、現在でもイプセンの御芝居は讀むに値する。となると、矢張り、觀念を知る事は文學の讀者が求める究極のものであり得ない事は自明である。
平成十八年五月二十日
ウィッチブレイドとかBLODD+とか。
平成十八年五月二十日
文藝作品の觀念とか云つたものに興味があるのはマニアなのであつて、ライトな讀者は先づ小説を讀んで面白いか何うかを氣にする。エンタテインメント寄りの小説は特にさうなのだけれども、さうでない「お文學」の方でも作者が「作者の世界」に閉籠つてゐては行けないのであつて、讀者が「作者の世界」に入り込む通路を作者は用意しなければならない。
設定の面白さとか示されてゐる觀念とかは、讀み始めた時點で、讀者にとつては何うでも良い事だ。冒頭で設定を長々と講釋されたり、或は、小説のシチュエーションが生じた理由を説明されたりしても、それ自體、作者の言ひ訣にしか見えず、讀者にとつて退屈なものでしかない。讀者は、すつと物語の世界に引込まれたいものだ。
讀者が小説に引込まれるきつかけとして、ただ、設定なり觀念なりが「ある」と云ふだけの事では、不十分だ。シチュエーションが用意されてゐる、人物がゐる、喋つてゐる――それだけで讀者はその小説を樂しめると云ふものではない。讀者にとつて、舞臺となる世界や登場人物が、ただの書き割りであつては困るのだ。作者の考へてゐる小説の「世界」、それは讀者にとつては馴染みのないものでしかない。素人作家が話の粗筋を説明して良く言ふのは「なんと〜であつた」と云ふ紋切型だが、小説で生ずる出來事は全て例外ナシに讀者にとつて未知のものであり、「なんと」と驚くべき事等「あり得ない」と言つて良い。
重要なのは、シチュエーションなり何なりを、讀者がすぐ馴染めるやうにする事だ。その爲に必要なのが「見せ方」「演出」である。登場人物が生き生きと動く――大變に重要な事だ。登場人物に重要な科白を言はせる、作者の主張を代辯させる、さう云ふ事が作中であるとして、それがいきなりの事であつたら、讀者は白ける。序盤から人物は「それつぽく」喋る必要がある。「さう云ふ人物である」と讀者が認識する。或種の言ひ方をするキャラクタである、さう認識された状況が出來するのは好ましい事だ。そこで「作者の言ひたい事」が自然に示された。讀者はここで、作者の演出に快感を覺えるのである。シチュエーションにしても見せ方が重要だ。「異世界」でも「地球とは違ふどこかの惑星」でも「未來」でも、或は「江戸時代」でも、「さう云ふ時代・さう云ふ場所である」と宣言して、其處から先、登場人物がしれつと「現代風」「今の日本風」の言動をとつてしまふ――それでは困る訣だが、もつと困るのは、さう云ふ設定の上で、ただ作者一人が愉しんでゐる觀念遊戯が始まる事だ、寧ろ「現代風」「今の日本風」の方がまだ増しだとすら言へる場合が少くない。讀者が「ふーん」「で、それで」と他人事のやうに思つてしまふやうでは困る。「作者の世界」と讀者との間に通路を設けておく必要を強調したい。
讀者は、さう云ふ「通路」の存在をこそ有難がる、のみならず、面白がる。さう言つて良い。さうした彼我の「一蓮托生」の關係の中で、作者が讀者に「もつともらしい嘘を吐く」――「嘘」と言つたら嫌なイメージも持たれるだらうが、SFで行はれてゐる事だ。SFなんかは典型的なのだが、さうでない小説もまた全て虚構であり、表現される内容は全て「この世にない事」であり「嘘」でしかない。が、さうした虚構を通して、作者は讀者に何らかの觀念を與へる、が、その觀念自體が奇拔であれ凡庸であれ、「與へ方」としての「見せ方」「演出」に讀者は面白さを見出す。『1984年』であつても小沼丹であつても、面白い小説は面白い小説なのであつて、表現されてゐる世界や觀念に據つて小説の面白さの度合が決定されると言ふものではない。

平成十八年五月十九日
Macの人は親切ださうだからきいてみよう。
tifの畫像なのですが、QuickTimeのアイコンになつてゐてダブルクリックだとQuickTimeで開かれてしまふ訣ですよ。これをPhotoshopで開くの、ファイルメニューからダイアログ經由でしか出來ないのですか。Photoshopのアイコンにtifをドラッグアンドドロップしても開きません。一箇一箇ダイアログボックス使つて開いて行くの、めどいです。幾つもtifファイルが。
WindowsXPだと、Photoshop開いてドラッグアンドドロップとか、「送る」メニューとか、「プログラムから開く」とか、そんなこんなのいろいろな方法でいつぺんに複數のファイルをPhotoshopで開けるのだけれども、Macにはさう云ふ方法、ないんですか。或は、Macつて、ファイルとアプリケーションの關聯附け、直すの大變ですよね。何うしたものですか。
平成十八年五月十九日
と言ふか、Mac OS 9でGT-X900使ふとまともにスキャン出來ない。こんな組合せで使つてゐてスキャンする時いろいろトラブル起きて困つてゐる人、閲覽者の中にいらつしやらないですか。さうですか。或は問題を解決出來た人。何とかして下さい。
フィルムの塵とか傷とかスキャンする時きれいにして呉れる機能(digital ICE technologyとか云ふ奴)使ふと、メモリのデータが壞れるんだか何だかで畫像が壞れる(事がある)。Photoshop使つてスキャンする時、一度に複數の畫像を取込まうとすると、スキャンのツールが二枚目の畫像をPhotoshopに送り込めなくて固まる。
digital ICE technologyつて何うよ。エプソンのスキャナだけでなく、Nikonだかのフィルムスキャナにも、やつぱりこれが載つてゐるんだけれども。フィルムスキャナでも、これを使ふと畫像取込んだ後のPhotoshopがをかしくなる。
平成十八年五月十九日
メモリ周りの扱ひだか何だかが、Mac OS 9では變みたい。まーMac OS 9つて、GUIは兔も角、メモリ管理とかタスク管理とかはWindows 3.1並でしかないらしいから云々。不安定過ぎ。GUIもWindowsXPに比べれば最う何うしやうもなくしよぼいし。と言ふか、何で起動する前にアプリケーションに必要な量だけメモリを割當てなければならないんだよ。アプリケーションから要求されたら動的に必要なメモリを割當てるのがOSの仕事だらう。Windowsだつてその位の事は當り前のやうにやる。何でMac OS 9つてその邊が駄目なんだよ。假想メモリ使ふと不安定になるとか。Windowsだと假想メモリ使ふのが當り前。
Mac OS X使へば良いと言つた話もあるのだらうけれども、9とXは別のOSだし。Windowsの9xとNTの間よりもMacの9とXの間の方が互換性が低い。さうさう移行出來ない事情だつてあるんだ。
云々。
平成十八年五月十九日
GT-X900、高いだけあつて、さすがにスキャンした畫像は鮮明。digital ICE technologyに據る塵取り・傷取り、データが壞れないで巧く出來ると、結構もつともらしい綺麗な畫像にして呉れる。手作業で畫像の汚れ取るの面倒だからこのスキャナにしたので、巧く動いて呉れると非常に助かる。
と言ふか、遲いよ。補正ナシの取りつ放しだとこのスキャナ、割と早いのだけれども、畫像の補正をドライヴァにさせると、無茶苦茶遲くなる。digital ICE technologyの塵取り作業、2500×2500くらゐでスキャンした時、速度優先で十分くらゐかかるし、品質優先では三十分くらゐかかる。しかも、その擧句、スキャンデータ壞して呉れる(事がある)から糞。
平成十八年五月十九日
http://homepage2.nifty.com/scorpio/elderris/diary2006_0502.html#DAYS06051701

補足を入れると、それ以前に Opera 7.50 以後における標準スキンの名称が Opera Standard なのですから、JoRichter 氏の名づけた Opera 7 Standard もそれ程独創性に富んでいるようには思えません。(しかし名が体をあらわす絶妙なネーミングとは感じます。)深い意味は無く、オリジナルに蛇足を加えたくも無いのでなるべく忠実に近い名称にしているだけなのです。

詰り、JoRichter氏が紛らはしいネーミングをしたのを踏襲してゐるだけだから自分には責任が無いと、さう云ふ事ですか。他人の所爲にして責任逃れするのは如何なものかと思ひます。
と言ふか、こんな紛らはしいネーミングが「絶妙」だとは……「紛らはしいのは良い事だ」なんて思つてゐるのではないかと疑つてしまひました。「エルデリスさんは、Operaの事を知りたいと思つてゐるユーザを騙して、大好きなMozillaに引込まうとしてゐるのではないか」なんて邪推をしたくなりました。

ところでこういった事を仰られても、話の次元が違うので何とも言えません。一体何の話をしているのでしょう。

とぼけるのも好い加減にして下さい。Operaのスキンの名稱が「Opera Standard」だからそれのデッドコピーもその名稱で良いとか考へてゐるみたいだけれども、オリジナルでないのならオリジナルでない事を名前ではつきり示すべきです(そもそもデッドコピーである事自體十分問題だが、それは兔も角)。「Opera 7 Standard」なんて、知らない人が見たら「これがOpera 7のスタンダードなのか」と勘違ひするに決つてゐるでせう。

Opera の標準スキンが Opera Standard であるということが、Firefox の標準テーマが Winstripe であること以上に知名度が低いのが問題なんじゃないでしょうか。

そんなのは問題ではありません。「Opera Standard」なる「Mozillaのスキン」の名稱が、恰も「これがOperaのスタンダードなのです」と主張してゐるかのやうに見えるのが問題だと言つてゐるのだから。問題をすり替へてごまかさうとするのは、やめて下さい。知名度が低い側は泣寢入りしろと、さう仰るのですか。

ところでこういった事を仰られても、話の次元が違うので何とも言えません。一体何の話をしているのでしょう。

とぼけるのは好い加減にして下さい。何で解らないのだらう。

Mozilla 用スキンとやらを入れると何が良いのかわかりません。配布ページその他に置いて、先述の通り Firefox のテーマであるとくどいほど書いてある時点ではつきりはしているものかと。冗長になるだけとしか感じ取ることが出来ず、また必要性を感じられませんのでお断りします。

「入れると何が良い」も何も、入れないのが惡いだけの話です。私は「名稱に『Mozilla用スキン』と入れないのは惡い事だ」と指摘してゐます。詐欺も同然だからです。配布ページの記述なんて知りません。あなたの「配布ページ」を全ての人が見るものでもないでせう。轉載された先でも、注意して書いて呉れる人許りとは限りません。大體、「ブルーライトノヴァ」なる「ブログ」で、あなたはしれつとところにここ、Opera 7 Standard が載っているようです。というかそこからのリファラで知ったわけですけれど。調べてみるとくでんさんの Phoenity Modern とか、影祭りさんの Opera7.5x も載っていますね。なんて書いてゐるではないですか。「ブルーライトノヴァ」のhttp://homepage2.nifty.com/scorpio/elderris/diary2006_0502.html#DAYS06051701の記事の文中では、一言も「スキンだ」と斷わつてゐません。この記事を見た人が「何時いかなる場合にも例外なく絶對に勘違ひしない」なんて事は言へないでせう。そして、「ブログ」は記事毎に參照され得るのです。冗長? 必要な情報を含んでゐるのなら、冗長ではありません。必要な情報を削落としてゐるから問題だと私は指摘してゐます。あなたが何う「感じ取る」かなんて知りません。あなた以外の人間が、確かに今の「Opera 7 Standard」なる名稱は、必要な情報が缺落してゐる、と「感じ取つた」のです。さう「感じ取つた」人が一人でもゐる以上、今の「Opera 7 Standard」なる名稱は問題を含む、と言つて良いでせう。と言ふか、簡潔に思はれたとしても、それで誤解を生じ得るのであるならば、惡いネーミングです。冗長に思はれても、それで誤解を減らせるのであれば、情報量を増やして、より正確にする方がよろしい。當り前の話です。
平成十八年五月十九日
例へば、「闇黒日記風スタイルシート」なんて、あり得る訣だけれども、その制作者がスタイルシートを配布して、そのタイトルに「闇黒日記」なんて附けたとする。スタイルシートの制作者が、自分の「ブログ」で話をする時、「闇黒日記には缺陷があります」だの「闇黒日記が何處其處で再配布されてゐます」だのと報告したとする。「配布ページでスタイルシートの名前だと言つてゐるから良いでせう」等と言つたところで、野嵜の「闇黒日記」と紛らはしい事は言ふまでもない。「闇黒日記風スタイルシート」を「冗長だから」と言つて「闇黒日記」と略すのはよろしくない。
同じやうに、「Opera Standard風Mozilla用スキン」を「Opera Standard」と略すのはよろしくない。
平成十八年五月十九日
「闇黒日記風スタイルシート」、略すなら精々「闇黒日記風」まででせう。うちのスタイルシートを代替スタイルシートに使つて呉れてゐる人は良識的な人が多いですね。
平成十八年五月十九日
CSSサンプル〜闇黒日記風
平成十八年五月十九日
「オリジナルに忠実」は結構だが、さう云ふ名目で「本家と紛らはしい名稱」を正當化するのは如何なものか。本家とはOperaの事。エルデリス氏はJoRichter 氏に義理立てしたいらしいが、Operaには義理立てしたくないみたいだ。Opera社には迷惑がかからないとでも思つてゐるらしい。Mozilla關係者にはOperaを輕蔑してゐる人が多いが、エルデリス氏もOperaを小馬鹿にしてこんな態度に出てゐるのだらう。
「Opera Standard風」とは絶對に名乘りたくない、「風」を絶對に附けたくない、意地でも「Opera Standard」にしなければならない、と言ふエルデリス氏の氣が知れない。「デッドコピーの意地」? 「スキン」なのだから正しく「スキン」と名乘れば良い、とこちらは言つてゐるのに、エルデリス氏は頑に「スキンとは名乘りたくありません」と言張つてゐる。飽くまで單體の「Opera Standard」に見えるやうにしなければならん、と云ふ事だらうか。
平成十八年五月十九日
東京古書會館の古書展。會計であんちやんが本に血をなすりつけて呉れた。岩波講座とか柳田國男とか。

平成十八年五月十八日
まじぽか何か最ういろいろをかしいよ。變なところに力入れ過ぎ。駄ニメがじんわりと凄みのある作品に化けつゝある。

平成十八年五月十七日
路上駐車よりも危ないのはタクシーの停車だと思ふ。交叉點でも客に呼ばれれば止まらざるを得ない訣だが、その所爲で後續車が屡々追突しさうになるのは如何なものか。
平成十八年五月十七日
Mac OS 9でGT-X900がまともに動かない。
平成十八年五月十七日
PC Japan誌でテレビのキャプチャボードを特輯してゐたが、例によつて畫質の話しかしてゐない。實際のところ、キャプチャボードで問題になるのは、畫質ではなくプログラムの安定性と音聲。豫約してもプログラムが落ち捲つて番組をしよつちゆう録り逃がすとか、ステレオ放送なのにアナログでしか録れないとか、さう云ふ事が買つてから本當に問題になる。なのに雜誌では決して觸れられない。それなりの畫質である事は慥かに必要だが、音聲がちやんとしたものである事は當り前であり、安定して録畫出來る事は極めて重要だ。その當り前の事重要な事について全く觸れてゐないと云ふのは、記事として不備があると言つて良い。
キャプチャボードで案外無視され勝ちなのが音聲の取込み方。PCIバス經由で取込めるのか、サウンドカード經由で取込まなければならないのか――それもキャプチャボードの實際の導入の際には問題となるのだが、雜誌ではやつぱり殆ど觸れられない。雜誌の編緝者は、自分は録畫なんて事を日常しないものだから、「畫質の事だけ問題にしてゐれば良いだらう」みたいな好い加減な感覺しか持たないのではないか。
ちなみに俺は、問題が起り勝ちだから、内藏のキャプチャボードを使はないやうにしてゐる。USB接續のキャプチャユニットは、大體のところ安定して動作するし、確實にステレオならステレオで音聲を録つて呉れる。
平成十八年五月十七日
NHKは「公共放送」なのださうだが、民放だつて公共性は「ある」だらう。ならば、公共のものだからと言つて受信料支拂を義務化せねばならない必然的な理由なんて、無いのではないですか。
もし受信料の支拂を義務化すると言ふのなら、「公共放送」のNHKは廢止して、國營放送にすべきだ。國になら御金を拂つても良い。「公共放送」なる鵺のやうな存在に御金を拂ふ義務なんてをかしいと思ふ。こつちは「公共放送」をやつて呉れと頼んだ覺えはない。
と言ふか、そもそもNHKなんて要らないんでないか。なんで誰もNHK廢止論を唱へないのだらう。實際、NHKが何うしても無ければならない理由なんて、一つもない。「民放に出來ない事」を「NHKは出來る」と言はれるかも知れないが、本當に「民放に出來なくてNHKだけに出來る事」なんて「ある」のだらうか。同じ放送局なのだから、民放もNHKも「出來る事」なんて大差ないだらう。別にNHKだけを「公共放送」として區別しなければならない理由なんて無い。民營放送に對して國營放送と云ふ對立ならあり得るが、民間放送に對して公共放送と云ふ對立はあり得ない。
平成十八年五月十七日
「関口宏のフレンドパーク」が嫌ひ。関口宏は「フレンドパーク」の支配人で、ゲストに對していろいろなゲームを「やらせる側」に當る。その関口が、ゲームで失敗したゲストに「殘念」「惜しい」と言ふ。こんな僞善はあつたものではない。
あの「風雲! たけし城」は、たけしが憎つたらしい事ばつかり言つてゐたのだが、だからこそ「フレンドパーク」よりもすつきりしてゐたと言つて良い。たけしは惡役で、視聽者・挑戰者の敵だつた。だから挑戰者を嘲笑しても當り前で、寧ろさうやつて憎まれる方が挑戰者(及び挑戰者の側に立つ視聽者)にとつては心理的に納得出來るものだつた。
「フレンドパーク」で、挑戰者を氣遣ひながら驗す関口に、視聽者は何う云ふ風な感情を抱けば良いのかわからない。少くとも俺はわからない。多くの視聽者が疑問を抱いてゐないと思ふけれども、考へてみれば関口の立場はをかしい。奇妙である。彼の立場は何なのだらう。この奇妙さを意識し始めると、「フレンドパーク」なる番組は實に不快に感じられて來る。が、「クイズ100人にききました」の頃から、関口は視聽者・挑戰者の敵か身方か曖昧だつた。
平成十八年五月十七日

東芝の携帯電話(W32T)に搭載されとりますブラウザで闇黒日記にアクセスすると “このページは表示できません(未対応)”なんてアラートが出てるんです!

ISO-HTMLなのだからうちは惡くない。
さとみかんはJavaScriptで問題を起してゐるのだから惡い。
携帶電話なんて何うせ變なフォーマットの「ケータイサイト」だか何だかだけを見るやうに出來てゐたりするんだから云々。携帶電話がうちの文書のフォーマットを切捨ててゐる事は明か。と言ふか「文書のフォーマット」と「スクリプト」とを混同しては行けない。――とネタにマジレス。
平成十八年五月十七日
http://www.remus.dti.ne.jp/~a-satomi/nikki/2006/05a.html#d16n02
JavaScriptを使つた時點で制作者は文書の互換性を捨てたと言へる。とか適當。
「文書の見た目」を制御するのにJavaScriptを使ふのは如何なものか。徳保氏のところなんかは論外だけれども、スタイルシート切換スクリプトなんかも何うかと思ふし、「あれこれポップアップ」つて言ふんですか、これも何うなんでせうかねえ、感心しません。
と言ふか、「あれこれポップアップ」、NetFrontにとつてはブラクラ以外の何物でもないんですが。或は、他のブラウザでもブラクラとなり得るのですが。
平成十八年五月十七日
http://homepage2.nifty.com/scorpio/elderris/diary2006_0502.html#DAYS06051701
「Opera 7 Standard」とか「Opera7.5x」とか、恰も本物のOperaみたいな言ひ方をするのはちよつと何うかと思ひます。
Opera用だか何だかのツールを作つて「Mozilla」云々「Firebird」云々なんて命名してみようか知らん。
例へば「Opera 7 Standard風Mozilla用スキン」とか何うかな? はつきり「Mozilla用スキン」と名前に入れた方が良いと思ふ。
平成十八年五月十七日
例へばoutsider reflexのテキストに下線が附くなんて、Opera 8のバグだけれども、氣にしなければテキストは讀めるのだからそれはそれで問題ないと言へる。
平成十八年五月十七日
言葉 言葉 言葉のキリ番報告ないね。別にいいけど。

平成十八年五月十六日
ストパニ第七話。神囘だが例によつてえとわーる樣登場の前後で作畫亂れ。

平成十八年五月十四日
EXPLORE MONOGAMY BLOG - Je n’écrirai pas de poème d’acquiescement.
個人と個人の間には斷絶があり、人は孤獨です。けれども、孤獨な個人同士の間を結び附けようと云ふのが藝術ではないですか。すると、さう云ふ「藝術を理解する」と云ふ行爲に何處まで「自分」と云ふものが介入すべきかは疑問があります。慥かに人は全て自分の目で物を見、その點で他者が物を見るのとは異る物を見る事になります。が、さう云ふ個性的な物の見方が表現され、藝術作品となつた時、個人的な餘りに個人的な表現であると同時に、超個人的な物となつてゐる事が必然的に要請されてゐるのではないですか。現代に於て、「一度きりの個別的な體驗」は、意識しておく必要があります。一方で、フッサールの所謂超越論的な主觀性もまた必要である、と言つて良いでせう。特に藝術に關して、日本では、個別性・獨自性が強調され勝ちですが、餘りに個別的で獨自的であるならばそれは最初から他者には傳達不可能で、表現たり得ません。さうした個別性・獨自性が藝術の目指すべきものであるとしたら、藝術家は沈默するに若くはない。
科學なり技術なりを、例へば例の白波子は――或は、高崎一郎さんは――拒絶した訣ですが、私は拒絶しない。科學・技術には、正確さが要求され、研究者には誠實さが求められる。のみならず、それらには、普遍性があり、個人の域を超えて理解が可能である。ならば、惡いものである筈がありません。合理主義の傲慢――個性の壓殺――は批判されるべきですが、だからと言つて反動に走る必要、不合理を支持する必要はありません。さうした反動主義・「不合理主義」には、寧ろ個人と個人の間の理解を否定した、ウルトラ個人主義が這入り込む隙があるからです。
藝術に於ても、我々は不合理を支持すべき理由を持ちません。個性・個別性は、慥かに「ある」ものです、が、個人を超えた價値が示唆されてゐるから、我々は藝術を「解する」ものであると言へるでせう。
藝術の解釋なり鑑賞なりは、單に「個人としての享受」の域を超えたものである筈です。「享受」と云ふ一方通行のものであつてはならない、と言つた方が良いでせう。何んな藝術作品に接する時も、我々は先入見・知識から逃れられない。が、さう云ふものを打破する力を藝術作品は持つ。が、一方で、我々の知識や思想は、藝術作品にも作用し得るのです。其處に「私」と云ふ鑑賞者と「汝」である藝術作品との間の「對話」が成立する。我々が藝術作品に對峙する時、藝術作品から「自分の意見」の修正が要請され、同時に我々は藝術作品の立ち位置を修正する。
時代と共に、藝術作品は、歴史的意義を變へ、發表された時から「變化」してゐます。現代に生きる我々は、過去に成立した「ありのまゝ」の藝術作品を鑑賞する際、その背後に解釋、思想、主義が「歴史的」に成立してゐる事を看て取る。或は、既にそれらを知つてゐて、さうして初めて過去の藝術作品に接し得ると言つても良いでせう。我々はその時、單に自分の眼でのみ藝術作品を見得るものではありません。
生半可な知識で藝術作品を講釋する――その「愚かさ」を渡邊さんは指摘してをられる訣ですが、その「愚かさ」を強調する餘り、渡邊さんは「自分」を餘りにも「賢い」ものであるかのやうに言つてしまつてゐる。小林秀雄であらうが一無名氏の野嵜であらうが、「一行讀んで駄目だとわかつた」と述べた時、人は「なる程」と必然的に言へるものではありませんし、かと言つて「お前の判斷は絶對的に誤だ」と必然的に非難されるべきものでもありません。が、では、「一行」ではなく、「全部」を讀んだ時には何うなのでせうか。全部讀んでゐても、藝術が個別的な表現である以上、人は常に必然的に「正解」を出す事は出來ません。ならば「一行」も「全部」も、その差は相對的である。
平成十八年五月十四日
Googleで「日本語の文字列」をキーワードに檢索した時、「××のニュース検索結果」なんてアンカーが出て來る事があるのだけれども、そこをクリックすると文字化けした變な文字列で檢索されてしまふのは明かなバグだと思ふ。何でこのバグにGoogleの中の人は氣附かないのだらうか。
Googleの社員はGoogleで情報を檢索したりしないものなのだらうか。
平成十八年五月十四日
Internet Explorer 7.0(Win32版)
日本語ベータ2入れてみた。割と良い感じ。
さとみかんの表示、崩れてない?
Adobe Systems Incorporated(アドビ システムズ社)も、上の「プルダウンメニュー」がをかしくなつてる。
平成十八年五月十四日
久しぶりにInternet Explorerを使つて見てゐる訣だが、JavaScriptとかのエラーがあるぺーじ、矢鱈多くないですか。Web ページに問題があるため、正しく表示または機能しなくなる可能性があります。今後、ステータス バーに表示された警告アイコンをダブルクリックすると、このメッセージを表示できます。なんてエラー、あつちこつちで出る。なんで制作者の人は氣附かないのだらう。

平成十八年五月十三日
CSS關係の界隈で、Netscape Navigator 4.xは切捨てるのが當り前だつた。Opera 6は――7ですら――罵倒の對象となつた。彼等が禮讚したのはMozillaであつた。Firefoxは理想のブラウザであつた。Internet Explorerを切捨てると言ふのには躊躇する向きも多かつた。けれども、NetFrontは、誰からも注目されず、排除された。
平成十八年五月十三日
東芝のテレビに搭載されてゐるNetFrontでさとみかんを基點に巡囘してゐると――と言ふより、さとみかんから別のサイトに移動して、戻つて來ると「メモリ不足」云々のエラーが出る。最初はリモコンの「決定」ボタンを押すと取敢ず復歸するのだけれども、そのうち表示すらされなくなる。さとみかんのみならず娘娘飯店しるきぃうぇぶの文書を見てゐると必ず同じエラーが出る。JavaScriptをオフにすると大丈夫なのだけれども、さとみちんは明かにNetFrontを切捨ててゐる。
平成十八年五月十三日
餘所のサイトにリンクを張る時はaのtarget屬性で「別窓」を開いて飛ばすのがマナーとか言つてゐる人がゐるけれども、NetFrontを使つてゐる人間にとつては大變に迷惑な事だ。開けるタブの數が限定されてゐるので、「別窓」を開くやうなリンクを手繰ると、順繰りに隣のタブにその開くべきサイトが開かれる。慥かに、NetFrontではa要素のtarget屬性に關するブラウザ側の處理をオフに出來るのだが、やつぱりさう云ふ事をサイト側でやられるといろいろと困るので、出來ればやらないでいただきたいものだ。
平成十八年五月十三日
何でテレビのNetFrontなんかを使ふかと言ふと、RDでHDDからDVD-RAMにデータを移動してゐる最中、暇潰しにネットサーフィンするのに手頃だから。二畫面表示にして、ブラウザの畫面と外部入力の畫面とを一度に表示させると、RDの作業を監視しながらネットサーフィン出來る。
平成十八年五月十三日
NetFront、それなりに表示はまともなのだが、テレビのリモコンでブラウジングするから操作性が餘り良くない。特に問題なのが畫面のスクロールで、スムーズスクロールなんて事は出來ない。アンカーポイントを辿つて行くやうな畫面の移動の方式で、アンカーがなければちまちま一行だかづつスクロールする。こんな仕樣だから、「ブログ」やCNETとかのニュース關係のサイトで、メニューだの何だのが畫面の左や右にあるサイトでは、矢鱈と操作性が惡くなる。ウェブではWindowsなどの上で動くブラウザの事しか考慮してゐないデザインのサイトが極めて多いのだが、インターネット對應のテレビ、或はNetFrontの事も考へてウェブデザインは行つて頂きたいもの。
平成十八年五月十三日
ACCESS [製品情報]
わざとWindowsXP等に對應させてゐないらしき氣配がある。
平成十八年五月十三日
レンダリングエンジンにInternetExplorerのそれとかGeckoとかを使つてゐるにもかかはらず、「新しいブラウザ」と稱してゐるブラウザつて何なのだらう。
Operaは、獨自のレンダリングエンジンを搭載してゐるから、InternetExplorerやGecko系のブラウザとは違ふ「第三のブラウザ」である訣だが……。
平成十八年五月十三日
めも。
A blog? with Σαιτω - Internal Source Viewer
チーム俺等 - HigeOpera - ソースビューアで行うスタイル変更

平成十八年五月十二日
http://homepage2.nifty.com/scorpio/elderris/diary2006_0501.html#DAYS06051101
IE 7 Beta 2 日本語版關係の記事一覽。
平成十八年五月十二日
東京古書會館の古書展。城北展。古めの本が多くて割と面白かつたが途中でお腹いつぱい。某所の某氏が褒めてゐる棚の配置だつたけれども澁滯發生。棚配置が問題なのではなく一箇所に居坐る困つた人がゐる事が問題。買つたもの。憲法調査会報告書付属文書第七号「前文・天皇・戦争の放棄・改正・最高法規に関する報告書」。パスカル・津田穣譯『人間批評』(アテナ書院)。モンテーニュ・關根秀雄『人間隨想』(養徳社・養徳叢書外國篇1006)。パスカル・津田穣『愛の情念に關する説』(養徳社・養徳叢書外國篇1009)。吉野三郎編著『東洋の名言』(現代教養文庫391)。中野好夫編『ロレンス研究』(小山書店)。林健太郎『ドイツ史論集』(中央公論社)。雜誌「展望」昭和二十四年十二月號(細川嘉六・鈴木文史朗・横田喜三郎・向坂逸郎・林健太郎「座談會 講和の方向」掲載)。「藝術新潮」一九六一年四月号(福田恆存「松本幸四郎を戒める」掲載)。「藝術新潮」一九六五年三月号(きだみのる「新制作座という部落」掲載)。
平成十八年五月十二日
ぐぐつたら『ドイツ史論集』は既に買つてゐる模樣。
平成十八年五月十二日
『東洋の名言』「はしがき」
よい言葉の一句は悪い本の一冊にまさるルナール「その日記」
平成十八年五月十二日
『東洋の名言』「はしがき」
どこから見ても真実だという箴言はごく稀れであるヴォヴナルク

平成十八年五月十一日
http://www.rinku.zaq.ne.jp/bkcyq100/diary/diary_0605_1.html#D20060508-1
HTMLで簡單にウェブサイトが作れるのに、「ブログ」なんてものを利用したがるスットコドッコイがゐる。そんな奴と關り合ひを持つたら百年の不作(?)、コメント欄が炎上したりすれば恨まれる事必定だ。「ブログ」なんて掲示板と一緒、管理が面倒だ、やめとけ、と突つぱねるのが賢明。云々。
平成十八年五月十一日
何うしてWindowsやMacintoshのダイアログボックスの「OK」「キャンセル」のボタンはあんなに小さいんだらうね。もつと大きい方がマウスでポイントして押し易い事は自明なのだけれども、どうして押し難いやうに小さくしてゐるのだらう。
平成十八年五月十一日
プルダウンメニューも、ポイントすべき領域の高さが「一行分」しかないから、選擇をミスり易い。何うしてこんな非道い操作方法が未だに使ひ續けられてゐるのだらう。
Mac OSは當初、メニューバーからのプルダウンメニュー、マウスボタンをドラッグしなければ操作出來ないと云ふ最低の仕樣だつた。のちに、メニューバーをクリックすればメニューが垂れ下がるやうに(する事も出來るやうに)改められた。Appleの連中が「これはいい!」と思つた當初のインタフェイスも、使ひ辛いだけだつたから、改められた訣だ。けれども、この「改善」、實に中途半端なもので、垂れ下がつて來たメニューから子供のメニューを出す時には、メニューの分岐の處をクリックしては行けなくて、Hoverしてメニューを引出さなければならない(Mac OS 9)。Macのプルダウンメニューの操作方法は、大變に不便なもので、Windowsに比べてMacが劣つてゐる點。Mac OS Xで何うなつてゐるのかは知らない。
平成十八年五月十一日
マルチタスクのOSで「アプリケーションのメニューがアプリケーションから分離して畫面の最上部に存在する」「アプリケーションを切替へるとメニューバーも切替はる」と云ふのは、非常に判り辛くて惡いインタフェイスなのだが、Mac OS Xでは從來のMac OSのさう云ふ非道いインタフェイスを引繼いでしまつてゐる。一度間違ひをやらかすと修正出來なくなる例。
Windowsの場合、アクティヴなアプリケーションとアクティヴでないアプリケーションとは、タイトルバーの色が變るので、分明である。カスタマイズで判り辛いものにも出來るが、普通そんな風にはしない。
Mac OSのタスク切換は、畫面上部のメニューの一番右のアイコンからプルダウンで撰擇する事で可能。昔からこのインタフェイスは判り辛くて非道いものだと評判が惡い。

平成十八年五月十日
EXPLORE MONOGAMY BLOG - 花も紅葉も
詩人の成長過程を知る事は詩人を知る事でありそれは必要な事だと思ふ。けれども、大詩人が大詩人となる以前の過程と、そんじよそこらのへつぽこ詩人の駄作凡作とは別物だと思ふ。
D.H.ロレンスのアメリカ文學論、あれなんかは慥かに二流の文學を論じてゐるのだけれども、そこでロレンスが示してゐるのはさう云ふ作品の樂しみ方だ。一方、ロレンスはポーを非難してゐる。ポーを讀んで「面白い」「良い」と判斷する「自分の判斷」はあり得るけれども、ではその「自分の判斷」に對してロレンスのポー論はどのやうな役割を果し得るのか。
T.S.エリオットにもマイナー・ポエットを論じた文章がある。けれども、マイナーである・矮小である事は即駄目である事を意味しない。エリオットにして見れば、世間から必ずしも評價されてゐない詩人逹を、改めて自分の讀み方で評價し、世間の評價を改めさせようと云ふ意圖があつた。が、かうした批評が可能であるのは、「自分の判斷」なるものの絶對化が許されないからだ。
福田恆存の西歐作家論、福田氏はそこで或種の文學作品の讀み方を示してゐる、そこで紹介され論じられてゐる作品、福田氏の讀み方に從つて讀めば、確かに興味深い讀書體驗を得られる。けれども、後に著作集・評論集に西歐作家論を再録する際、福田氏自身がジョイス論を外してゐる――そして、讀んでも、ジョイスの小説は他の小説に比べて魅力的とは言へない。また、松原正氏はガーネットをそれ程高くは評價してゐない。
「自分の判斷」をどこまで信頼するかの問題。
「ろくに讀んでゐない對象を論ずる」事が可能か否かの問題。例へば、アンチ野嵜の方々に、案外野嵜の文章を讀んでゐない人が多いのだけれども、さう云ふ人々の意見は誤つてゐるのか。一部のアンチの人々の非難に乘つかつて野嵜の片言隻句を採上げて、或は文脈を無視して、野嵜を非難する人がゐる。さう云ふ人の意見は全て誤であり無視すべきものか。
「讀んだ」と云ふ事が何う云ふ事なのかと云ふ問題。「映畫を見た」と言へるのは、一體何處まで「見た」時なのか、と云ふ問題。毎日一本、頑張つて二本、意地で三本、そんな風に一年二年、日本映畫の視聽を繼續した擧句、「つまらない」と申告があつたとしよう。「けれども、そこまでのめりこめるなら、あんたは日本映畫が好きなんぢやないか」――さう云ふ基本的な突込みをし度くなる。實際、野嵜はあにめを藝術として認めてゐないと申告してゐるが、アンチの方々に言はせれば、「これだけ觀てゐれば十分アニヲタだ」と云ふ事にならう。
「未知のもの」「讀んでゐない」――これらの言葉にも檢討が必要だ。何囘も引合ひに出してゐるのだけれども、小林秀雄は「一ページ讀んだ」から「其の小説家が駄目だと判つた」と述べた事がある。樂しみとしての讀書にしても、店頭で冒頭數ページを立讀みして「讀む價値がある」との判斷はあり得る、が、かう云ふ判斷が成立つ以上、「全てのページを讀まないと判斷する事は許されない」と云ふ言ひ方は寧ろ許されない。「全てのページを讀まないと判斷が出來ない」のならば、人は一切の讀み物を讀まうとするきつかけを失ふ。
一方、一度投出した小説を、他人の評價をきつかけに改めて讀む、と云つた事もあり得る。一話で切つたアニメを、各方面の評判で改めて觀る、なんて事は日常茶飯事だ。
なるほど藝術は贅澤なものだ。が、贅澤であるのは既に評價の固まつたブランド品としての傑作を享受し得るからだ。それは貴族の贅澤である。一方、エンタテインメントとしての樂しみについて、我々はけち臭い事を言つて良いだらう。效率を最優先にするのも、貧乏人にエンタテインメントが必要であるのならば、必要な事である。樂しければそれで良い、と云ふものの存在を野嵜は認める。が、藝術は「樂しいだけ」のものではないだらう。そして、「樂しいだけ」の域を超えた價値は、「自分」のレヴェルでは「わからない」と云ふ事があつても、「經驗しなければならない」と云ふ事があり得る。定家にしてもさうだが、古典なんかは最早、多くの現代日本人にとつては「樂しいだけ」と云ふ享受の仕方が成立たないものとなつてしまつてゐる。

平成十八年五月九日
tvk深夜。ハルヒ→ガーゴイル→ストパニ。ハルヒ。原作だと作者のセンスが結構古いのだけれども、あにめはがんばつて割と今風になつてゐる。ガーゴイル。若本あにめだがSoulLinkと違つて若本頼みと言ふか若本依存にはなつてゐない、地味だけれども一往話自體が觀られる。けれども妙に説教臭い氣がする。ストパニ。相變らず女の子同士の狹い世界で樂しさうな話を展開中。マリみてよりも面白い説。
平成十八年五月九日
作業が豫定より三パーセント遲れてゐる。數字は適當。
平成十八年五月九日
成分解析 on WEB - 入力した成分を分析します
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.htmlの解析結果
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.htmlの73%は毒電波で出来ています
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.htmlの11%は濃硫酸で出来ています
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.htmlの8%はミスリルで出来ています
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.htmlの6%は心の壁で出来ています
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.htmlの2%は成功の鍵で出来ています
HTML 解析機にURLを入れるとえらーになる。

平成十八年五月八日
なぜOperaを使ふか、ですか。Internet ExplorerよりはOpera――これは説明する必要もないでせう。ではMozillaは? Mozillaは重いですね。Firefox? 重いですね。あれでも重いです。Gecko系のブラウザは、動作がもつさりしてゐますし、プログラムとして不安定な感じがします。
特殊な用途で使ふのですが、物凄い負荷がかかつても最近のOpera、落ちません。昔はOpera、何でもない事でWindowsを卷込んで落ちたものですが、8.5邊になると相當丈夫です。落ちないのはプログラムの美點です。それから、重要な事です。ぺーじを行きつ戻りつするのに、Operaほど素早く出來るウェブブラウザはありません。キャッシュを讀直し、レンダリングし直す、のではなく、前の状態を保存してあるのですね。常に最新の状態を表示しなければならないと云ふ訣ではない時、Operaのback機能は便利です。もつともOpera、特定の條件で100%落ちます。特殊なオペレーション中、うつかりやらかす或操作で、です。さうしないやうに注意すれば問題ナシなので氣にしてゐません。
平成十八年五月八日
渡邊さんが文學における自らの判断の重要性を強調してをられるのだけれども、俺は文學もまた學である以上、自らの判断なるものをも疑はざるを得ない。歴史學や科學において、方法論があり「正しい」事がある――それに對して「何か曖昧なもの」として文學が一般に認知されてゐる。さう云ふ状況に俺は反對したい。文學もまた學であるならば、他の學問で可能であるやうな事が、完全に同一の形態でないにしても、何らかの形態で可能である筈である。亂暴な言ひ方をするけれども、歴史學においても科學においても、再現性は重要な要素だらう。もちろん、歴史は繰返さないが、「事實を良く説明し得る理論」は或事實のみならず他の或事實もまた再び説明する、と云ふ點で理論である。科學の場合は論ずるまでもない。文學においてもまた或種の再現性は要請される。それが單純な方法論とか原理とかで割切れるものでないにしても(歴史學でもイデオロギー的な割切り、歴史修正主義の類が認められないのと同樣)、有效性を持つ思想・發想・或は類型があり得る。
戲曲においては、個別の戲曲であつても、形式の共通性を指摘する事は屡々可能である。況して演戲に於てをや。詩は形式の文學である。小説も形式から逃れ得ない事は言ふまでもない。では批評は。茲に於て、歴史學で客觀的な歴史が不可能であるのと同樣、客觀的な批評が不可能である事は指摘されるべきである。そして、或程度妥當な歴史學の存在が可能であるやうに、或程度妥當な批評の存在も可能であると俺は考へる。「或程度妥當」と云ふのは、所謂文系の學問では常に意識されるべきものだ。が、昨今、所謂理系の方面でも、例へば物理學では、量子力學や相對性理論の出現で、單純な割切りが必ずしも可能でなくなつてゐる。けれども、だからと言つて古典的な力學、ニュートンの理論が全ての領域で完全に無效となつたかと言ふと、さうではなく、或程度妥當な範圍が現在でも「ある」。論理學でも、現代的な論理學で否定される――と言ふより、そもそも古典的な三段論法に「説得力がある」以上の意味はないのだが、しかし、さう云ふ範圍で我々は「正しい」と言つてしまつて良い場合が結構ある(案外、さう云ふレヴェルの話で濟むところで、話をややこしくする爲に新しい論理學を持出す人もウェブでは多いやうだ)。
文學において存在すると渡邊さんが指摘する或種の「決め込む」態度――これは歴史學で、例へば唯物史觀が事實を解釋する時に「決め込む」態度と共通するものだが、これは慥かに排除されるべきものだらう。だが、だからと言つて單純に客觀性を徹底排除すればそれで濟むと云ふものでもあるまい。客觀性が排除されれば、同時に「文學」なるものは雲散霧消してしまふ。
EXPLORE MONOGAMY BLOG - 雨と雨の合間
言へる事として、藝術の受容にも、或程度の先導が必要である。或は、人間が社會に生きるものである限り、思想や傳統は既に存在する。そこから自由になつて、全くの白紙の状態で人間が藝術なり何なりに接する事は出來ない。ただ、傳統なり思想なりがあつて、そこから逸脱する藝術が出現した時、その既存の思想を訂正して行く事は重要だ、とは言へる。
T.S.エリオットが指摘してゐる。詩人の最良の部分は、個人的なものであるよりも寧ろ傳統的なものだ。その一方で、新しい詩は、傳統に新しいものを附加へる。詩の傳統は、詩人に對する「規制」である一方、詩によつて修正されるものである。もちろん、これは「社會が藝術を受容する話」だ。が、社會のみならず個人の場合にも、どのやうな事があり得るか、は、此處から類推出來るだらう。人間には人生があり、誰もが人生觀を持つてゐるものだ。白紙の人間はゐないし、さう云ふ人間は(赤ん坊なんかはさうだ)藝術にしても何にしても受容出來るものではない。だから、人間は藝術に相對して、自らの人生觀なり何なりでもつて當る。その時、世間の評價や批評家の評價は、重要な判斷の材料となり得る。ただ藝術の側からも人間にアプローチがある。それは既存の評價でも個人の人生觀でも、修正を要求する事があり得る。その時に藝術と鑑賞者との間で對話が行はれる。それだけの事だ。場合に據つては、既存の評價が正しい事もあるだらう。批評家の言が正しい事もあるだらう。それを無理に抑壓して「俺の判斷」を無理にでつち上げようとしない事だ。
世間の評價、批評家の評價、なるほど、信頼し切つてはならない、けれども無視し切つてもならない――さて、駄作迷作愚作と呼ばれる類の作品、我々はこれらを何う考へるべきか。「自分の目で見て判斷せよ」。なるほど。それはそれでよろしい。が、判斷する爲に我々は時間を要する。駄作を讀む、觀る、その時間の分、我々は名作を味はふ事が出來ない。我々の生は短い。然るにこの世に藝術は餘りにも多い。ならば我々は、或程度自己以外の判斷も信頼せざるを得ないのではないか。と言ふより、現實問題としてさうだ。「或程度」の妥協は必要だらう。
平成十八年五月八日
最う一つ、藝術の受容には大事な觀點がある。我々は作品を、己の目で見て判斷する爲だけに鑑賞するのではない。重要な事だが、樂しむ爲に我々は藝術に接する。我々は、信頼出來る批評家に屡々從ふ――が、それは、その批評家の言つてゐる事が正しいから、と云ふ許りではない。もちろん、さう云ふ人もゐるだらうが、俺にとつてはさうではない。福田恆存『西歐作家論』――この、新潮社の「著作集」に收められた分、俺はそれを讀んで、或種の「樂しめる文學」を發見した。福田恆存が讀む價値を見出した文學――それを俺も讀んで、讀む價値があると思つた。この時、では、福田さんが他に勸める本は何うか、と考へなければ、俺は福田さんを信用してゐない事になる。が、俺は「樂しめる文學」を紹介して呉れた福田さんを信頼してゐるのだ。それの何處に問題があるか――もちろん、「俺が樂しむ基準」として「福田恆存」と云ふ批評家を擇ぶ、と云ふ行爲について、だ。別に今、俺は「何んな人も福田さんを信頼すべきだ」とか、さう云ふ事は言つてゐない。別に福田さんでなくても良い、SF初心者が大森望氏の文章を讀んであれこれ手を出した、そんな例でも構はない。
「誰某が面白いと思つた」――それが常に絶對の基準となる訣ではない、當り前だ。だが「誰かが面白いと思つたのならば、俺も面白いと思ふ可能性はあり得る」と考へて何がをかしいだらうか。さう云ふ形で「入る」、これは「あり」だらう。藝術への「入り方」について言つたが、「樂しみ方」についても、大體のところ、同じやうに考へて良い。「誰某に教へて貰つた樂しみ方をする」でも、それで「樂しい」ならば、或意味、十分に「藝術を受容した」事に「なる」。
他人からの影響を恐れる事はないんだよと、さう云ふ話。意識して影響を受けるのだつて、必要な事だ。他人なり何なりの影響を受けながら「自分の判斷」は「作つて行くもの」だ。
平成十八年五月八日
* theatrum mundi | 抑鬱亭日乘 *2006-5/8(月) 小手毬

くもりて俄にあつし。

異次元吹いた。

平成十八年五月七日
tvk土曜深夜のあにめ。ひまわりっ。何處に向つてゐるのかさつぱりわからない駄ニメ。個別の話はそれなりに纏まつてゐる。今囘もまあまあ。主人公の聲をやつてゐる人は最初に比べればうまくなつた。氣がする。ひぐらしのなく頃に。原作は贊否兩論、物凄いアンチも附いてゐるげーむ。あにめはげーむの展開を忠實に引繼いでゐて、前囘バッドエンド→今囘リセット。ほのぼのした展開の中に異樣な状況を持込んで怖さを演出しようとしてゐるホラーだが個人的には今一つと云つた印象。女子高生。馬鹿あにめの筈が今囘、後半から鬱あにめに。清水愛が意地惡少女を演じてゐる。誰も馬鹿あにめにこんな話は期待してゐなかつたのでないかと思ふが。作畫は、今囘前半變なところに氣合が入つてゐたけれども後半既に低調、來週はもつと非道さう。能登に變な事を言はせる爲のあにめと思つてゐる視聽者割と多數。夢使い。アニメは原作のいろいろアレなテイストを薄めてしまつてゐて、原作を知つてゐる人からは評判がよろしくなかつた代物。最初おとなしかつたのが段々變な方向に暴走し始めてゐて、落ちが毎囘何ともやり切れないものになりつゝある。ひぐらしよりもこつちの方が或意味怖いと一部で評判。今囘能登の出番なし。西の善き魔女。題名からしておとなしいファンタジイかと思つて觀始めた人が唖然とするやうなネタ滿載。長い長い原作を一クールで全部やる積りらしく、短い時間にエピソードを詰込めるだけ詰込んでゐて、とんでもない勢ひで突走つてゐる。これも能登出演と言ふか今囘は何であんなところに出て來るんだと云ふ場面で登場、しかしその後婦女子の御姫樣が場をかつさらつて行つて云々。最早何が何だか訣のわからない未蹈の領域に達しつゝあるが着地點を間違へなければ今期最高傑作になる可能性も。
平成十八年五月七日
驚異のAmazonショッピング、他 - Open MagicVox.net
http://www.pluto.dti.ne.jp/~rinou/#20060505
http://katagiri.hanya-n.net/d/2006050.html#20060505
お笑いパソコン日誌:Amazonの配送管理システムが『本棚を整理しなくても済む』わけ
と來てうち。
基本的に整理と云ふのは置き場所がないのに無茶苦茶大量に物がある時しなければならない事で、だだつぴろいAmazon倉庫なんかではそんな無理する必要がないのです。何處に何があるかを覺えておくなんてのは或意味何うでも良い事で、兔に角物を置ける場所が欲しい。
平成十八年五月七日
テレビ東京、例によつて野球中繼の爲、放送時間の變更あり。「ARIA THE NATURAL」が25:30から、「スクールランブル二学期」が26:00から。
テレビ東京ウェブサイト「左側」の「番組表」は現時點で表示が誤つてゐて、「右側」の「更新情報」に正しい情報が出てゐる。

平成十八年五月六日
W3C Feed Validation Service, for Atom and RSS
W3C、RSS/Atomフィードの文法を検証するバリデータを公開
Blog戦争:RSSはどこへ行く? - CNET Japan
futomi の独り言(コラム): RSS の行方
RSS利用のための簡単な説明
はてなアンテナの更新情報を元にRSSを作成
平成十八年五月六日
yasuokaの日記
2006 年 04 月 24 日 PM 02:30 - タイプライターのシフト機構。矢沢久雄氏がきちんと記事の誤を認めて「訂正します」のコメント。
平成十八年五月六日
http://d.hatena.ne.jp/Franciszek/20060503/c1146844855
「ブログ」の本文よりもコメントの方が良い指摘だと思つたのでそちらにリンクを張る。
平成十八年五月六日
ホンとに本と。 by gaden
林滋氏。
平成十八年五月六日
タケルの世界
平成十八年五月六日
「ブログ」つて、檢索エンジンで檢索して目的の個別の記事にヒットすればそれはそれで「良い」のだけれども、「檢索エンジンに引掛からない情報を、過去ログを漁つて探す」と云ふ場合には矢鱈と不便な事が多い。
ただ普通に「とっぷぺーじ」に表示されてゐる記事の直前の記事を見ようと思つても、何處をくりっくすれば良いのかわからない、と云ふ事すらあり得る。
カテゴリなんか、屡々變な風に分類されてゐて(「ブロガー」の人がネタの積りで「F××K」だの何だのと云ふ「カテゴリ」しか用意して呉れてゐなかつたりするのだが、かう云ふ事をやるのは何うかしてゐると思ふ)、ログを參照するのには全然使へない場合がある。それなりにきちんと分類されてゐて、纏め讀み出來るやうになつてゐても、クリックするとキャプ畫(何)が1024枚くらゐ貼られた文書が落ちて來てびつくりとか、そんな事も。大體、カテゴリの分類は、その「ブロガー」の人の興味・關心にしか從つてゐない訣で、閲覽者が自分の興味のある事に基いて情報を探さうとしても役に立たない事が結構ある。きちんとしてゐる「ブロガー」の人でも、さほど興味のない事に關しては、「ブログ」の記事で觸れてゐても、カテゴリ化しないでゐる事が多い。と言ふか、記事の中のちよつとした情報なんかは、必要な人には十分役に立つものであつても、カテゴリ分類からは拔け落ちてしまふ。そして、さう云ふ「ちよつとした事」に關しては、興味が無いものだから「ブロガー」の人、結構好い加減な書き方しかしてゐなかつたりする。表記が普通でなかつたりすると、檢索エンジンにも引掛からない、だから過去ログの中に有益な情報が埋もれてしまふ、そんな事態が屡々生じてゐる――やうな氣がする。
雰圍氣からしてその「ブログ」に「探してゐる情報がありさうだ」と閲覽者には推測出來る場合もある。けれども、閲覽者は、「ブログ」が「ブログ」であるがゆゑに、情報探しを諦めてしまふ事があり得る。過去ログを見て情報を探すのが困難だつたり、探す氣力を奪つたりしてしまふ、それが「ブログ」と云ふシステム。
「ブログ」「ブログ」言はれてゐるけれども、システム毎に仕樣が違つてゐるのみならず、「ブロガー」の人がカスタマイズして呉れてゐるので、閲覽者は「ブログ」毎にそこの仕組を手探りで發見しなければならない。これは閲覽者にとつて非道く面倒な事だ。最新の記事以外、「ブログ」の記事は「ブログ」自身からアクセスするのが困難である事が多い。
平成十八年五月六日
「ブログ」がもてはやされ過ぎてゐる事は「闇黒日記」では何度も何度も指摘した。しかし、一般には「ブログ」のデメリットが全くと言つて良いほど指摘されない。「兔に角『ブログ』は、便利で最新でWeb 2.0なんだ」。斯る發想が、一部でドグマと化し、反論を寄せつけないイデオロギーと化してゐる。やうに思はれる。
「ブログ」が「スレッドを立てるのが管理人一人に限定される掲示板」でしかない、と云ふ事は、案外理解されてゐない。けれども、この事が理解出來れば、「ブログ」が掲示板の缺點を全て引繼いでゐる事は容易に理解出來よう。スパム・荒しの問題にしてもさうだが、情報檢索の問題、一覽し難さの問題、それらは全て「ブログ」と掲示板に共通する問題だ。これらの問題を解決しないで、ひたすら「良い」「良い」と持上げられてゐる、これは「ブログ」にとつて、或は、ブームに乘つて「ブログ」を開設した・「ブログ」に移行した「ブロガー」にとつて、大變不幸な事だ。
平成十八年五月六日
INCM@HOME - INCMホームページ
掲示板リーダの爲の共通出力フォーマットとしてCMTと云ふものがあつた(その概要は上記サイトに書かれてゐたのだけれども、今見たらなんかエラーで讀めなくなつてゐる)。亂暴な言ひ方かも知れないが、RSSなんてこのCMTと同じやうなものではないですか。
掲示板の見辛さ・ログの取り難さが掲示板リーダを要請し、掲示板リーダの爲の共通出力フォーマットを要請したた。同樣に、「ブログ」の見辛さ・ログの取り難さがRSSリーダを要請し、RSSを要請した。――さう考へると、RSSなんて世間で言はれてゐるほど大した物でもないやうに思はれる。便利と言つたら便利なのだらうけれども、そんなに革新的なものとは言へないだらう。
平成十八年五月六日
えむいち。: Φなる・あぷろーち(殿堂入り) アーカイブ
tvk方面だと鬱→糞→駄と來た最後にこれの第一話だつた訣で。一時期土曜日深夜これだけが樂しみだつた。
えむいち。: LEMON ANGEL PROJECT アーカイブ
作畫レヴェルがどんどん低下したのと反比例して話がどんどん面白くなつたレアケースでもある。觀返して見たら最終囘の幕切れ、第二話のリフレインだつた。結構構成が良く出來てゐて、伏線が效果的に働いてゐる點でも秀逸。後半に盛返したと聞いて青いスタシオン邊から觀始めた人は、序盤の觀る(聞く)に堪へない話も觀返してみると良いと思ふ。で、誰も指摘してゐないのだけれども、殆どの作品が忘れ去られさうな二千六年一〜三月期のアニメの中でLAP、ネームヴァリューの御蔭で、何うも唯一名前が殘りさうな氣がするんだ。
えむいち。: 鍵姫物語 永久アリス輪舞曲 アーカイブ
駄ニメなんだけれども嫌ひにはなれないと云ふ駄ニメマニアにとつては良いアニメだつた。氣がする。
平成十八年五月六日
「アニメ感想ブログ」みたいなところなんかだと、番組をカテゴリ分類に利用する訣だけれども、どんどんどんどん數が増えて行つて收拾がつかなくなつたりする。
で、諦めて最新の三箇月に放映されてゐる番組に表示を限定したりすると、直前の期のあにめの感想を見に來た人が途方に暮れたりする。
平成十八年五月六日
存在はするのにとっぷぺーじのメニューに出してゐないから過去ログを漁つた時にだけ「ある」事が判ると云ふカテゴリ。
平成十八年五月六日
「アニメ感想ブログ」みたいなところでカテゴリ分類が「アニメ」だけ。
平成十八年五月六日
カテゴリの名稱が閲覽者には判り辛い特殊な略語。
平成十八年五月六日
はてなダイアリーだと、アンカーポイント、同じ文字列なのにリンク先が異る、なんて事になつたりする事がある。意圖的に、公式サイトにリンクする、自分のところのカテゴリ分類に飛ばす、とか、きちんと設定しないと、はてなキーワードに自動でリンクされる。それらが見た目で區別し辛い事が屡々。
平成十八年五月六日
と言ふか、「ブログ」つて、「必要な情報を探す」と云つた目的ではそれなりに「使へる」にしても、「流し讀みする」「氣に入つた筆者のテキストを片つ端から讀む」と云つた目的では相當不便でないですか。
「カテゴリ分類」の機能が餘りにも中途半端で役に立たない事が問題。
平成十八年五月六日
Unordered lists: more than just bullets

平成十八年五月五日
洗面所で齒を磨いてゐたら目の前で毛蟲がぶーらぶら。
平成十八年五月五日
今日もねこまたぎ
平成十八年五月五日
「白波老を憐れむ」。
:: 日出づる國の一無名人のブログ | ビブロス氏と木村貴氏 ::
「白波海太郎」こと青方の中村、自分が裏切者である事を自覺しつゝ、それを良い事だと主張してゐる。何なのだらうこの人。野嵜を裏切るのは道徳的な善事であると。擧句、木村さんにまで「野嵜を裏切れ」と唆す始末。

ビブロス氏のはうがより本質が見えてゐるやうだ。聯絡しないのは「水臭い」仲に戻りたいからである。

「ふつうのヤツ」と思はれるのを極端に嫌ふ、怖れるのが野嵜健秀と云ふ人物。木村さん、あなたが私が貴方方の「批判」者になる事を豫想だにしてゐなかつた平凡「ふつうのヤツ」だと云ふなら私は謝罪する準備があるがどうだらう。

そんな事はどうでもいい。木村さん、私を窘める閑があるなら盟友の常軌を逸した行動を窘めるべきである。違ひますか。かう云はれてもどうのかうの云ふなら貴方に云ふ言葉は何もない。


讀者の皆さんの中には、それでも白波は卑怯者ではないかと考へる人がゐるかもしれないから、最後に附け足す。卑怯だと云ふなら私がどの樣な卑怯な事をしたか。正體が分らうが分るまいが、同じ事を云つた事は既に理解されてゐると思ふ。裏で工作をしてゐるわけでもない。情報源はネットだけ。

文章が亂れ捲つてゐるが、要は「野嵜を裏切れ」と木村氏に奬めてゐるだけだ。「野嵜は常軌を逸した人間だから裏切るべきだ」と。無茶苦茶な理由だが、白波は「これぞ正論」とでも思つてゐるのだらう。しかし、野嵜の何處が「常軌を逸してゐる」と言ふのだらうか。白波は、木村さんに「裏切りの勸め」を説くより――と言ふより、「『國語問題論爭史』騷動」なるものを2ちゃんねる邊ででつち上げる裏工作をするより、具體的に野嵜の行動を採上げて「ここがをかしい」と指摘したら良かつたのではないか。抽象的に「野嵜の言動は常軌を逸してゐる」と言つてみても、そんなのただの惡口にしか聞えないよ。白波はどうせ「野嵜は自覺が足らない」とか言ふだらうけれども、俺にして見れば白波の方こそ自分の言動について自覺が足らない。或は、裏切りを自覺しておいて平氣で實行する白波を見てゐると、自覺なんてものは必要ないだらうとすら思ふ。
しかし「盟友」つて……この人、何でかう云ふ變な言ひ方をするんだらう。盟友――固く誓い合った友人。同志。別に誓ひ合つてもゐないし、政治的な同志である訣でもありません。木村さんは俺の「先輩」です。と言ふか、學校の先輩でもないし、何なのだらう、ええとかう云ふ關係、何て言ふのですか。年上の人に「おともだち」みたいな言ひ方をするのつて變ですよね。「盟友」は違ふ。違和感があるから判る。閑話休題。
平成十八年五月五日
「同じ事を言ふ」のなら、名前を匿して、知人を裏切つても良い、と言ふのですか。それはね、俺だつて、誰が言はうが眞實は眞實だと思ひますよ。でも、野嵜の人間性を云々しようと言ふ白波サンが、結果として「同じ事を言ふのなら」とか言ふのはをかしいんぢやないですか。野嵜の人間性を云々しようと言ふのなら、白波サン自身が高潔で清廉な人間でなければならない。他人の人間性を云々する事がそれ自體、人間として何うかしてゐると云ふ話もありますが、少くとも、匿名で知人を陷れる、なんて、そんな行爲をしたら、その人の人間性は何うしやうもないと見られるのが當然です。
名前を匿して知人に接近する事がそれ自體、「工作」だと思ひまーす。それに、野嵜とか木村さんとかが見ないであらう2ちゃんねるで話を進める事がそれ自體、「工作」だと思ひまーす。と言ふか、そろそろダブハン對策本部長fankee_jr出動のたいみんぐですか。
結果として同じ事を言つてゐるならそれで良いと言ふのなら、野嵜が結果として白波サンと同じ正字正かな派である事を以て、白波サンは「良し」としなければならない。と言ふか、本氣で「結果として同じ事を言つてゐるのならば全く問題ない」人だつたのならば、白波せんせいは野嵜に「違和感」なんて覺えやしなかつたのではないですか。今、白波サンの釋明に「違和感」を覺える人は少くないでせう。さう云ふ「違和感」を白波サンは否定出來ないのではないですか。と言ふより、白波サンはさう云ふ「違和感」を他人に起させるやうな言動はとつてはならなかつたのではないですか。取敢ず、「白波は卑怯」と思ふ人がゐるとしたら、さう云ふ風に思はれる理由を白波サンは考へるべきなのではないでせうか。云々。
平成十八年五月五日
と言ふか、なんかこの邊の展開、前にもあつたやうな氣がするんですがー。同じやうな文章、前にも書いたやうな記憶が微かにある。何度も何度も似たやうな嫌がらせが繰返されると、免疫は出來るのだけれども、やられればうんざりするのです。端的に言ふと、白波さん、あなたの「ブログ」、つまらないでーす。
ちなみに俺、最近、言はれるのが一番嫌な言葉が「つまらない」だつたりする。虹裏で時々こころないレスが附いて云々。
平成十八年五月五日
地獄の箴言: 僞名を使つて何が惡い
木村さんの記事だけれども話題が話題なので一往「ねこまたぎ」の中に。木村さんがねこまたぎされるべき人であると云ふ訣ではありません。

「奴とはもう親しく付合ひたくはないが、あの噂の眞相だけはどうしても知りたい。よしそれなら僞名を使つて電話してやれ」。現實の世界でこんな素晴らしい事を實行する人間がゐたら、世間は何と呼ぶだらうね白波大先生。

木村さんだから穩當な言囘しになつてゐる。
俺の流儀で「要約」すると、「奴とは政治的信條が異る事が判つた。奴とは個人的には知人だが、道徳的な個人の關係よりも政治的信條の方が大事だから、俺は奴を裏切る。裏切るだけでなく、徹底的に潰してやる。潰して、俺の大事な『傳統主義』を守らねばならぬ。『傳統主義』の爲に、俺は何でもするんだ。今、奴の弱みらしいスキャンダルを見附けた。奴のアンチが喜んで乘つかつて來さうだ。それは俺にとつて大變好都合だ。煽り立てて大騷動にしてやれ。奴の敵は俺の身方、奴のアンチも大いに利用してやれ。匿名で奴に釋明を要求し、釋明してもしなくても罵倒し、侮辱してやらう。奴のアンチともこれで聯帶出來る。奴の『盟友』も唆して奴から離反させてやれ。奴を不快にする爲に、奴のアンチも禮讚して見せようぢやないか。兔に角、奴が不快にさへなれば、俺は愉しいんだ。さあ、みんなで愉しく政治運動! レッツ政治!」と云ふ事になる。
――えー。かう云ふ身も蓋もない言ひ方をするから、白波は「常軌を逸してゐる」と俺を非難する訣です。けれども、本當の事だから仕方がない。と言ふか、白波サン、あなた、野嵜を貶める爲に木村さんを引立てて見せたり、或は新霊光輝を褒めて見せたり、「目的の爲に他人を利用してゐる」と云ふ態度が見え見えです。アンチ野嵜のみなさーん、白波子に利用されてゐますよー。まあ、アンチの方々、互ひに互ひを政治的に利用し合つてゐると自覺してをられるやうなのですが。
鴎外の「大鹽平八郎」を讀むと、政治的な目的で亂を起した大鹽を鴎外は突放して描いてゐる。三島はこの「大鹽平八郎」を高く評價したが、政治主義に陷つてゐたからである。松原先生が指摘された事だ。
――と言ふか、白波子、今囘の騷動の落しどころ、考へてゐたのかなー。「頭の良い政治主義者」ならば、何であれ、運動をする際には、それなりの決着の附け方を考へてゐるものだらう。さうでもしなければ、自分の政治生命が絶たれる事になり兼ねないからだ。
と言ふか白波子、野嵜や木村さんだけでなく、アンチ野嵜の人々にも「自分の正體なんてばれやしないだらう」と、さう云ふ甘い讀みをしてゐたのではないか。その讀みが外れて、でも今更引下れないから白波子、開き直つて、野嵜顏負けの居丈高な態度で言ひ訣と釋明を繰返し、自己正當化を計つてゐるのではないか。あー、remote-hostでダブハンがばれて、それでも「何が惡いのですか」と開き直つた惡性氏がゐるけれども、白波子もその仲間ですか。白波子−惡性氏−竹下義朗のライン……。
平成十八年五月五日
俺は、zak_kとかuso888とかJOHN_VOIDとか(IDはうろおぼえ)にYahoo!掲示板方面で鍛へられてゐて、「こちらがした手に出ると相手がつけあがつて却つて俺自身の立場を惡くする」と云ふ事を學習してしまつたから、「相手が偉さうな態度である場合、こちらも敢て意識して高壓的な態度をとる」と云ふ事があります。別に「俺は偉いのだ」と思つてはゐませんし、何時でも偉さうな態度をとつてゐる積りもないのです。なんか「野嵜フォロワー」の諸氏にも誤解されてゐるのですけれども。
と言ふか、「俺は絶對に間違つた事は言はない」とか俺が信じてゐたら、サイト閉鎖なんて事はやらなかつたですよ? 今囘だつてその用意は(r
平成十八年五月五日
さて、これだけ書いても白波子は全く反應しないで、木村さんの方ばつかり向いて喋り續けるであらう事が目に見えてゐたりする訣だが。「對話」する氣ないだろ白波。野嵜の「マナー」「ネチケット」は言ひ訣にならない。
「マナー」とか「ネチケット」とか言ふのなら、「結果として同じ事」が何うたら斯うたら言ふものではないですよね。匿名で知人に接近する事自體がマナー違反だし「ネチケット」違反だ。
と言ふか、何度「と言ふか」と言つてゐるか知らないけれどもと言ふか、白波の言つてゐる事は場當り的過ぎる。要は、白波は自分に都合の良いやうに何でもかんでも利用しようとしてゐる、と云ふ事だ。もつと一貫性のある主張をし玉へ。
平成十八年五月五日
/今日もねこまたぎ
平成十八年五月五日
TPCI - TIOBE Programming Community Index
平成十八年五月五日
日記と稱してゐるからと言つて紙媒體の日記と同じスタイルにしなければならないと云ふ必然的な理由はない。大體、「日記」と云ふ言ひ方を根據にするのでは、「ならば日記と稱しなければ良いのだらう?」みたいな「理窟」で反論が可能になつてしまふ。
ちなみにうちは、日附は見出しになつてゐないし、日附以下にも見出しが存在しない。「日附は昇順、日附より下位のレヴェルの見出しが降順、と云ふ形式のインターネット上の日記は嫌」なる非難は、「闇黒日記」には該當しない。
平成十八年五月五日
「コンテンツを下から上に並べるならば徹底してやらなければならない」としたら、日附や日附以下の個別の記事のみならず、記事を構成する文章もまた下から上に昇つて行かなければならない事になる。行レヴェルで通常とは逆さまの――或は文字レヴェルで(略)。
そんなの無理だ、ならば上から下に順に書いて行け、とさう云ふ話になるのだらうし、Eslafの中の人の意見はさうなのだが(http://eslaf.com/diary/2006/05#d04_04)、理念としては兔も角、現實問題としてそこまで徹底する必要はあるのか。
平成十八年五月五日
例へば、上から下へ、毎日順に記事を追加して行く「ウェブ日記」が「ある」。その「ウェブ日記」の制作者、最近の記事にlatestなるidを與へて、「此處が最新の記事ですよ」と言ひ、「これで最新の記事にアクセスし易いでせう?」と言つてゐる。しかし「idの場所が毎日變はる」――これはちよつと何うだらう。「latestなるidだけは特別なんだよ」と言張れば濟む問題だらうか。d04_04なるidの場所は變らないが、latestなるidの場所は變はる――なんかさう云ふのつて嫌なのだが。
平成十八年五月五日
お笑いパソコン日誌:今日のトホホ・久しぶりに CD-R を焼いてみる
B's Recorder GOLDは獨自のATAPIのドライヴァ入れるから再インストールしてみたら如何。と言ふか、B's Recorder GOLD自體、あんまりおすすめしない。
平成十八年五月五日
DION | セキュリティ・ルール
他のISPと違つて、ちやんと掲示板管理者が荒し被害を報告する方法を示してゐるので、感心した。
ええと、野嵜の名前を騙るとかいつた荒しについては、削除するだけでなく、御手數をおかけしますが、remote hostを見て、荒しが利用してゐるISPに報告するやうにしていただけませんでせうか>各地の掲示板管理者と「ブログ」の人。どうぞよろしく御願ひします。
平成十八年五月五日
海馬日記 - 闇黒日記の過去ログを日附昇順にするユーザスクリプト
闇黒日記くらゐ良く弄られる日記も珍しい。と云ふ氣がする。何うも有難うございます。

平成十八年五月四日
うちの閲覽者がどれくらゐ觀てゐるか知らないがフジテレビの<ノイタミナ>獣王星は十五分遲れで開始。原因は例によつて野球中繼の延長。
番組放送時間変更のお知らせ

平成十八年五月三日
ふたば方面でまじぽかが大人氣。
平成十八年五月三日
ねこまたぎ
平成十八年五月三日
白波海太郎=青方の中村がどんどん「トンデモの人」化して行く。・゚・(ノД`)・゚・。
平成十八年五月三日
例へば「白波先生はなぜ『現代仮名遣』が一般化したのだらうと考へないのか」とか。
平成十八年五月三日
木村さんの「ブログ」の記述しか見てゐない。白波先生には、なぜ野嵜が白波先生の「ブログ」も見ないでこんな事を書いてゐるのだらう、と考へて戴きたい。
平成十八年五月三日
何と言ふか、自分の「傳統主義」だけが正しい、自分の「傳統主義」と違ふ事を言つてゐる正字正かな使用者は間違つてゐる、奴らは傲慢だ、何んな手段を使つてでもぶつ潰してやる、とか考へる原理主義者には困つたものですね。
平成十八年五月三日
一往見た。詰らねえ「ブログ」だなと。白波師、他人と一緒にわいわい騷ぎたいだけなのか。さうだらう。
平成十八年五月三日
野嵜が何時何處で「自分の言ふ事は自分が言つてゐるがゆゑに常に正しい、他人の言つてゐる事は他人が言つてゐるがゆゑに常に間違ひ」だなんて奇妙奇天烈な「論理」を展開しましたかね。
ちやんと俺は物を言ふ時には説明をしてゐますね、それでちやんと第三者は客觀的に判斷出來ますね、俺は常に自己の主張を正當化してゐますが、その自己正當化は何時だつて客觀的に正邪を判定可能ですね。
自己正當化もしないで、ただ他人に「野嵜は正しい、さあ、お前も『野嵜樣は正しい』と言ふんだ、言ふだけでなく、頭の中でもそのやうに思ふのだ」等と洗腦みたいな事をやつて、それが常に實現出來てゐた――さう云ふのだつたら、それは野嵜が「自分は間違つてゐず、間違つてゐるのは常に他者」と云ふ事を、何か知らんが「やつてゐた」事になるでせうが、そんな事は現實問題として無理でせう。
野嵜は「自分が言つてゐるから正しい」なんて言つてゐません、ただ、「誰も否定出來ない論理であるから正しい」と、さう云ふ事は言つてゐます。が、「だから野嵜は傲慢だ」等と言はれても困ります。傲慢だとしたら論理が傲慢なのでせうが、そんな事を言出したら數學だの哲學だの論理學だのは全部傲慢と云ふ事になつて存在を否定されます。が、そもそも論理は非人格的なものだから傲慢も糞も無い。三段論法の大前提・小前提・結論を指して「傲慢だ」なんて言ふ方がをかしい。で、さう云ふ論理的な正しさを認めるならば、論理的な誤りがある事も認めざるを得ません。世の中にはその論理的に誤つた事を言ふ人がゐて、さう云ふ人に對して論理的に誤を指摘する、さう云ふ事を俺は何度もやりました。それを「やつてはいけない」等と言はれても困ります。俺は獨斷(例へば「俺の考へる傳統主義にお前の主張は合致しない」)に基いて相手をやつつけるやうな眞似はしてゐません。いつも論理的にをかしいと、さう言つて來たに過ぎません。實際のところ、俺の方が知識がなくて、こちらで引下がつた事も何度もあります。ですがね、白波せんせいが獨斷(「俺の傳統主義だけが正しい」)に基いて野嵜をぶつ叩いてゐるのが許されるのならば、獨斷でなく普遍的な論理に基いて他人樣を批判するのは當然許される事ではないですか。ええ、白波せんせい、あなたは自分の好みを言つてゐますね。さうではない? はぁ? では、あなたはどんな普遍的な價値觀を持つていらつしやると言ふのですか? 人間性? あなた、他人の人間性を云々するなら、それ以前に、どのやうな人間性が良い人間性で、どのやうな人間性が惡しき人間性であるか、それを判定する普遍的な價値觀があると、さうおつしやるので? では、それを説明していただきませう、で、その判定、白波せんせいが行つて良いと云ふ理由を説明していただきませう。話はそれからだ。人を小馬鹿にしておいて、何が「對話」だ。この糞爺。
平成十八年五月三日
「2006.05.01 Monday」白波曰。

ちよつと落ち着かれたはうがいい。事實關係に就いて書かれた部分、亂れてゐますよ。その調子ぢや話が出來ませんよ。對話は無理。

白波は「對話」をしたかつたのだと一度は言つた。しかし。
「2006.05.02 Tuesday」白波曰。

最初に結論を云ふと私は彼らに以前の知己だと云ふ事を明す積りはなかつたのであるが、それは彼らと以前と同じやうに付合ふ積りがなかつたからであり、糾彈する必要も感じてゐなかつたからである。それは何故かと云へばそれ程の價値あるものとも思へないからである。

白波は、端から人を小馬鹿にした態度で臨んできてゐたのだ。これで「對話してくるだらう」等と本氣で思つてゐたとしたら白波は相當の××××だ。本氣ではあるまい、白波は調子ぶつこいて、面白がつて野嵜等を叩いてゐたのだ。かう云ふ人間性の持ち主が、野嵜の人間性を云々してゐる。ふざけるのも好い加減にしろと言ひたい。
平成十八年五月三日
白波の餘裕ぶつこいた態度が俺には氣に入らない。氣に入らないで相手を叩いて良いと白波は言ふのだから、その白波の論理に從つて俺が白波を叩いても白波は文句を言へない。
――俺は何時だつて相手の論理に從つてゐるに過ぎない。俺は自分の論理を相手に押附けるなんて事は、案外やつてゐない、話は逆だ。「相手」氏は、自分の論理が採用された事を感謝すべきだ。然るに、その「相手」氏は、何時も野嵜の事を自分は間違つてゐず、間違つてゐるのは常に他者と考へてゐる、と極附ける。それだけは、やめていただきたいのだが。
繰返すが、俺は「自分の論理」に從つてゐるのでなく、今「氣に喰はない奴は氣に食はないと云ふだけの理由で叩いて良い」と云ふ白波の論理に從つてゐるやうに、常に「相手の論理」に從つてゐる。言ふなれば、「自分は間違つてゐる、正しいのは常に他者」と云ふ態度をとつて來たのだ。さう云ふ態度をとる俺に「他者」氏は怒る。けれどもそれは、「他者」氏が「他者」氏自身の論理に怒つてゐるのにほかならない。即ち、「他者」氏は、その「他者」氏自身の論理が「他者」氏自身に適用される事で、「他者」氏自身の論理が誤つてゐる事を強烈に思ひ知らされる、しかも野嵜はその時、しれつと「他者」氏の論理の「正しさ」を「認めてしまつてゐる」のだ。
これは論爭の一戰術であり、レトリックである。白波=青方の中村は、さう云ふ俺の論法を、何度も繰返し目にしてゐた筈だ。俺の論敵は、竹下義朗やアレクセイ沖泰光は、この俺の論法に全く氣附けなかつた。氣附けずに、「俺をやつつけるのだから野嵜は惡い奴だ」と思ひ込んで、ひたすら野嵜を「掲示板荒し」呼ばはりし、ウェブから抹殺しようとした。渠等は、野嵜の言論の自由を奪ふ事で野嵜の反論を封じ、それによつて自分逹を「正しい事にしてしまはう」とした。かう云ふやり方を俺は許せない。許せないくらゐだから、俺が自分にその種の態度を許してゐない事は理解していただきたい。
アレクセイ等が俺の論法に氣附けなくても、或意味仕方がない。それは彼等の知性の問題で、人間性の問題ではない、と言へる。知性に問題が無ければ、慥かに人間性の問題だらうが、それは「保身の爲の保身」を渠等がやつてゐると云ふ事になるから非難出來る事である。しかし、「身方」であつた筈の青方の中村にすら、實は俺の論法が理解されてゐなかつた。中村は、野嵜が自分は間違つてゐる、正しいのは常に他者と云ふ態度を常にとつてゐると、さう思ひ込んでゐたのだ。それはちよつと哀しいが、まあ、本音では何うでも良いやと思つてゐる。それは何故かと言へば、青方の中村はそれ程大した人物とも思へないからである。しかし、さう思つてゐたと言ふのなら、その時はつきり言へば良いぢやないかと、僞江戸つ子で短氣な俺はさう思つた。何で今頃になつて「實は〜」なんて言出すんだらうね。取敢ず、中村は、さう云ふ己が不信を匿しつゝ、表面的には俺と「附合つてゐた」と言ふのだ。男同士で「附合ふ」なんて言ふのも何だが、中村の用語だから仕方がない。見方を變へれば中村、「お附合ひ」が表面的に終つてしまつて、それでねちねち恨み言を言つてゐる女みたいに見えなくもない。
平成十八年五月三日
さて、何處の馬の骨とも判らぬ奴が、いきなり「スキャンダルがありますね、釋明しなさい」と命令して來た、しかも、記事を訂正出來ますよとTeaCupの掲示板の仕樣を説明した掲示板の冒頭の文言を讀まずに、訂正の記事を二囘繰返して投稿して來た。URLが書込まれてゐてサイトの宣傳だ、リンク先にはかの粘着・新霊光輝のやうな「ブログ」がある。あーこいつ何うかしてゐるなと判斷しても當り前だらう。青方の中村と名乘つてゐるのならそれなりに敬意は拂ふ、で、中村も昔と今の己れの立場が違ふのを忘れて、で、どんな書き方をしても野嵜は以前のやうな態度をとつて呉れるだらうと、まあ、一言で表現すれば、甘い事を考へた訣だ。甘いんだよ。何處の馬の骨とも判らん奴が、如何にも「わたしは粘着でーす」みたいなオーラを發散してゐる「ブログ」を一々粘着相手の目につくところに目立つやうに書込んだんだ。「荒し」認定して削除しても當り前だらう。と言ふより、削除させる爲に中村はわざとあゝ云ふ眞似をした、とすら邪推させる(が、そこまで中村は惡人ではない、中村は、困つた事に御人好しの善人だ。馬鹿な善人ほど一本氣で困つたものはない)。實際のところ、結果として自分の投稿が削除されて、それで中村は大喜びした。いやいや、中村は何であれ野嵜のリアクションがあれば喜ぶのだ。野嵜のリアクションに、中村は再リアクション(?)をとれるからだ(が、これは「構つてちやん」以外の何ものでもない。中村が粘着に墮ちたてしまつたのは火を見るよりも明か)。しかし、最初から中村は、野嵜を見下してゐた。野嵜のリアクションは何でも良かつた、何も言はなければ卑怯、何か言へば迂闊、と、中村は野嵜の惡口を言ふのだ。かう云ふ「何をしても惡く解釋する」積りで相手にちよつかいを出すのは、最う、「相手を貶める」のみならず「相手を陷れる」のが目的だつたとしか言ひやうが無い。中村は、なんか親切つぽい言ひ訣をしてゐたが、本音は「野嵜を潰したい」のだつた。持つて囘つた囘りくどい態度、何とも2ちゃんねらー的粘着らしいが、何でこんなに嫌な人間に中村はなつてしまつたのだらう。
平成十八年五月三日
と言ふか。

とは云へ、この騷動のそもそもの原因は彼らの人間性にあるから、彼らを論じない訣には行かない。

明かな人格攻撃。
他人の人格を裁く事が出來るなんて、白波海太郎こと青方の中村サマは何とも御立派な方なのですね。
平成十八年五月三日
地獄の箴言: 中村氏の武士道精神
中村は武士と言ふより部落民だな。きだみのるの所謂。
俺は人間に絶望してゐるから、中村みたいな裏切者にもそんなに腹を立てない。まあ、白波師のやうな本當に詰らない事にしか興味を持てない人とは關はりたくないものだ、とは言へる。
文章が長いのは何時もの事だ。多くの閲覽者にとつては「ねこまたぎ」の文章である筈。この手の言爭ひ、自分で讀んでも詰らないと思つてゐるから、多くの閲覽者が迷惑してゐる事だらう。古本の話とかあにめの話とか、或は、もつと本質的な話なら樂しいのだけれども。
と言ふか、辯解であれ釋明であれ、或は自虐であれ、自分の事に言及するのつて、普通は非常に嫌な事でないかい。照れであれ愧ぢであれ――と言ふより、自分で自分を説明するのは、本質的には不可能事だ。俺は本質的な事を愛するから、本質的でない事にはさつぱり興味を抱けない。
平成十八年五月三日
長い。三行に纏めろ。
粘着するな。
自分に向けられると困る「論理」は使ふな。
……何で三行に纏めようとすると二行で收まつてしまふんだらうな。
平成十八年五月三日
と言ふか、中村の言ひ訣、「あとだしじゃんけん」つぽい。或は、物凄い場當り的臭がする。つつこまれるものだから言ひ訣に言ひ訣を重ねる、と云ふ奴。言ひ訣すればするほどみつともなさが増して行く。
平成十八年五月三日
裏切られたから言ふけれども白波サン、あなたが俺に違和感を抱いてゐたと言ふなら、俺だつてあなたに違和感を抱いてゐたんだよ。それでも俺は、ウェブでは先行者であるあなたに敬意を拂つて來たんだが。
平成十八年五月三日
/ねこまたぎ
平成十八年五月三日
竹中総務相の私的懇談會「通信・放送の在り方に関する懇談会」が、TVの民放キー局・地方局の持ち株會社化、經營統合を容認するとかしないとか言つてゐるらしいが、何で私的な懇談會の「決定事項」が公的なTV放送の行方を左右して良いのだらう。それがよくわからない。世の中を動かす爲には私的ななんたらかんたらを立上げて「こんな風に決りました」と言へば良いと言ふのか。嘗ての國字改革においても云々。
で、縣域毎に放送免許を賦與する縣域免許制度なるものがあるのだが、これは「維持したい」のだと。今、P2P、Winnyなんかが汎く使はれて「著作權侵害」が行はれてゐるのは、この縣域免許制度の所爲で放送内容の地域格差が生じてゐるから。はつきり言ふとあにめの放映本數が、例へば神奈川と山形では全然違つたりしてゐて、それで、あにをた向けのアニメが觀られない地域でWinnyなんかを使つて情報を補完しようとする動きが出て來る訣だ。これは當り前の事であつて、それを「著作權侵害」と言つて抑壓しようとしつゝ、その眞の原因である縣域免許制度は維持しようとする――これで「犯罪者」にされる方も堪つたものではなからう。大體、ローカル番組なんか、しよぼくて誰も觀てゐない訣で、そんなものを無駄に地方局に作らせる事が目的であるならば、縣域免許制度なんてものは全く金の無駄使ひ制度であるとしか言ひやうがない。
平成十八年五月三日
ケーブルテレビなんかも、地域毎に一業者しか參入できないやうになつてゐて、それで或業者がその地域で獨占的に營業する、と云ふシステムになつてゐる。かう云ふ風にしてケーブルテレビ業者を保護してゐると云ふ訣だが、その所爲で駄目な業者に當る事となつた地域の利用者は悲劇であり、良い業者に當る事となつた利用者と格差を生ずる事になる。かうした地域格差の發生を、どう云ふ訣か放送行政は容認し、寧ろ奬勵してゐるやうな節がある。どのやうな利權が絡んでゐるのか判らないが、格差の是正は必要な事だらう。P2Pに據るファイル共有の流行は、明かに放送行政の地域格差容認が原因になつてゐる。「著作權侵害であり犯罪である」等と言つて取締りを嚴にするよりも、地域間で放送の格差を縮めて行く事の方が、利用者にとつては幸せな結果とならう。
要は全國のヲタが齋しくアニメを觀られるようにして呉れと。それでWinny問題は方が附く筈だ。

平成十八年五月二日
ウェブで活動する際に、「粘着された」と云ふ經歴は別に致命傷にはならないけれども、「粘着した」と云ふ經歴は致命傷になるものだ。
平成十八年五月二日
PingMag - 東京発 「デザイン&ものづくり」 マガジン » Archive » ウェブデザインのトレンド:死の宣告
お笑いパソコン日誌:ウェブデザインのトレンド:死の宣告經由。RSSつて何うなんだらう。俺は使ふ氣がないけれども? 結局ウェブサイトを讀みに行くのなら二度手間の訣だし。
お笑いパソコン日誌、面白いんだけれども、たまに長い事更新止まるのが缺點。長續きして貰へれば。
平成十八年五月二日
ガンダムを録畫しないと云ふ選擇。ANIMAXに加入してゐれば何時でも觀られる。
平成十八年五月二日
ストロベリー・パニック第五話。えとわーる樣が出て來ないと作畫がまともと云ふ噂。
平成十八年五月二日
何處だかのサイトのやり方なり方針なり何なりが氣に食はない、そこで批判サイトを立上げた――と、それだけならば誰でも出來るので、そこで立止まつてしまつては駄目。ただ噛附いただけでは、同じやうに氣に食はないと思つてゐる人が手を叩いて喜んで呉れるだけ、そこから廣がつて行かない。「それで良い」と言ふのなら仲間同士で集つて内輪で氣に入らない相手の陰口を叩き合つて愉しんでゐれば良いが、それを「運動」と稱するのは如何なものだらう。だから俺はとほほさん批判その他の批判だけでなくPC Tipsなんてサイトを作つて、HTMLとCSSの解説を公開した訣だが、これはとほほさんやその他の解説サイトの制作者のやり方を批判する過程であり得べき説明の仕方を想定せざるを得なくなつて、それでその説明の仕方なるものを實踐の形で示したものだ。と云ふ事は逆に言へば、或種の立場があつてそれで初めて批判が可能であると云ふ事。時枝誠記博士は、ソシュールを批判して、その批判の立場を國語學原論等で明確にした。ソシュール派の人からは時枝博士への再批判が行はれてゐて、時枝博士がソシュールを誤讀してゐたと極附けられてゐるのが現状だけれども、時枝博士のした批判の根柢に博士の考へる言語の原理が存在したからこそ博士のソシュール批判は成立ち得たのであり、その點、博士の批判は批判としてあり得るものだつたと言つて良い。が、さうした批判の原理を明らかにしないで、無闇矢鱈と攻撃してゐるだけの行爲に、批判と稱する事は許されないのであつて、ならば攻撃するのではなく、或は攻撃する一方で、その攻撃の根柢にある己れの信條なり思想なりの表明が必要である。もちろん、單に「私は傳統主義者です」だの「マルクス主義者です」だのと宣言すればそれで濟むと云ふ話ではなく、その論者の據つて立つところの思想――茲では傳統主義なりマルクス主義なりが、一般的に受容れられるべき妥當なものである事、或は、或條件で受容れられるべきものであり、かつ、その條件に現在の攻撃・批判が適合してゐる事を、證明しなければならない。「私の信ずる傳統主義と渠の態度とは違つてゐる」「だから私は渠を許さない」なんて、そんな事で攻撃を仕掛けられては困るのだ。好みの押附けは――と言ふより、單なる好みの押附けは許されないし、一般に受容れられるものではないだらう。そして、さう云ふ處できちんと説明をして、自分の主義主張を正當化する、これが知的誠實と言ふものだ。
ちなみに、「私には理解出來ない」「だから渠は間違つてゐる」――そんな「論理」が屡々ウェブでは横行してゐるけれども、さう云ふのは「馬鹿の原理」とでも言ふべきものであつて、それは「みんなが馬鹿になれば良い」と云ふ主義だから俺には受容れられない。

平成十八年五月一日
青方の中村氏が、「電腦正統記」を疊んで國語問題に關する運動から手を引いたと思つてゐたら、何時の間にかウェブに復歸して、事もあらうに2ちゃんねらーになつてゐたのには愕然とした。
平成十八年五月一日
昔話。昔々、千九百九十八年の秋か千九百九十九年の頃。ウェブに最初に出來た正字正かな專門サイトが「國語問題研究會」で、制作者は會津士魂氏(この人のプロフィルがなぜか俺のプロフィルと混同されてゐた事があつて苦笑した事がある)。Yahoo!ディレクトリにも登録されてゐたのだが、會津士魂氏がウェブを見なくて、更新も慥か二囘あつたきり。「電腦正統記」は青方の中村氏のサイトで、大體正字正かな專門。右翼的な主張と、國字問題關係の資料を當初は公開してゐた。結構良い資料保管庫になつてゐたのだけれども、青方の中村さん、惡い癖で、すぐに飽きてしまつて、資料集から何だかよくわからないアンケートサイトだか投票サイトだかに變更した後、ほつたらかしにして、GeoCitiesだからさつさと消滅してしまつてゐた。で、「言葉 言葉 言葉」は、これらの先行するサイトがあつたから、「ニッチ」の需要に應へる目的で地味な内容としつゝ、敢てサイトとして積極的なアクションは起してゐなかつたのだけれども、「國語問題研究會」は更新がないし、「電腦正統記」は無くなつてしまふし、暫くの間、うちが國字問題關係の「唯一」のサイトになつてゐた、と云ふのは歴史的事實。仕方がないから派手に立囘つて、Yahoo!掲示板なんかで論爭をやつたりして、「名前を賣つた」訣だ。オスカー・ワイルドもさう考へてゐたのだが、無名であるよりは惡名が高い方がまだ増し。HTMLとかCSSとかは、「TokiMeki Network」なるサイトで沢渡氏が書いてゐた文書に觸發された事もあつたけれども、水無月ばけら氏の解説、神崎氏の解説、或は大藤氏のリファレンスなんかが出て來て割とこの界隈で情報が充實し始めてゐた頃、しかし、まだ言へる事がある、と云ふ事で、やつぱり「ニッチ」的な需要を見込んでうちでも解説し始めたもの。俺のHTMLに關する解説におけるスタンス、實は、生まれてきてすいませんの俺的ガンダム解説のスタンスを參考にしてゐる。「生まれてきてすいません」の解説は、amigo氏の「思想」が結構入つてゐるので全面的に信頼して之に基いてガンダムを語る事が出來ないのだけれども、と言ふか、オフィシャルの設定を批判してゐる部分もあるので「正確ではない」のだけれども、一方で、オフィシャルをも批判出來るだけの立場・思想・論理を用意して「戰つてゐる」事は明かで、その點で「信用出來る」ガンダム論になつてゐる事は間違ひない。實際のところ、ガンダムなんかは「お遊び」である訣で、そんなものは「何うでも良い」し「嫌ひ」である人もゐて當然なのだけれども、けれどもガンダムと云ふ藝術作品が「ある」としたら、それについて語る時・論ずる時には、或種のスタンスがあり得る。ガンダムを「下らない」「子供の見るもの」と見る人にも、そのスタンスは參考に出來る筈であり、俺はガンダムに大して興味を持つてゐないが、amigo氏のスタンスは參考にした。で、その後もいろいろあつたけれども、まあ、一時期以降のうちは「拔け殼」。この點は否定しない。うちのサイト、更新が殆ど止つてゐる事は御存じの通りで、俺自身、「やる氣」は全然持つてゐない。リンク集なんかは殆どのディレクトリが腐つてゐる状況で、正直、全部チェックし直してゐる餘裕もないから、誰か、適當に作り直して、最新のデータを野嵜にメールか何かで送り附けていただけると幸ひ。このLove Cream Puff、ブックマーク代りでもあるのだけれども、取敢ずこれだけのリンク集を作つておけばそれなりに利用して貰へて、「言葉 言葉 言葉」なるサイトへも來て貰へるかなと、さう云ふ事を期待して作つたものだけれども、あんまり役に立たなかつたかも。一往、うちのサイトのコンテンツは當初から意圖があつて用意され、その御蔭で長續きしてゐるものが殆ど。その邊の準備を全然しないで漫然と「ブログ」だの何だのを作つてスクラップ&ビルドを繰返すやうな正字正かな關係者に、俺は可成苛立つてゐる。特におつさん方面。良い歳して2ちゃんねるになんかはまるなよ――と言ふか、はまるにしてもはまり方があるだらう。變な保管庫なんか作つて浮かれてゐるんぢやねえよ。「つくる會」の内紛なんかでも、事態を引つ掻き囘して面白がる人物が暗躍したやうだが、スキャンダルにしか興味のない人物が傳統だの何だのを語るんぢやねえ。と言ふか壺に歸れ。
平成十八年五月一日
:: 日出づる國の一無名人のブログ ::
青方の中村の野嵜攻撃を目的とした「ブログ」。一見して例の新霊光輝のサイトと區別出來ない。
何が私が「2ちゃんねらあ」?だ。とぼけるな。匿名大好き人間の癖に。青方の中村なら青方の中村だと名乘つて書込んで來れば良いんだ。「白波」何とかなんて、また新しいハンドルを作つて、それで默つて書込んで來るんだから。木村さんのブログのコメント欄では俺の事を散々虚假にしてゐるし(もちろん、その代りに中村は木村さんをひたすら持上げて煽ててゐる。これも新霊光輝と同じ)。中村は俺を騙し討ちにしようと最初から考へてゐたに違ひない。remote hostが無ければ危なかつた。
日出づる國の一無名人のブログ
日出づる國の一無名人の資料館
何う見ても2ちゃんねらーです。有難う御座いました。
平成十八年五月一日
:: 日出づる國の一無名人のブログ | 「國語問題論爭史」騷動 其之三 ::
正直「はあ?」である。
俺の嫌ひなタイプの人間が必ず言ふ科白。「はあ?」
しかし、以前の青方の中村、俺が保守派であり傳統的日本人であると考へて俺に接近して來た訣だ。で、俺がそんなものではないと判つて、中村、「違和感」を覺えて、俺を罵り始めた。
要は「同じ保守派だ・同じ右翼だ、と思つてゐたのに、違つた。がつかりだ。保守派でない・右翼でないなら革新だ・左翼だ。革新・左翼なら俺の敵だ。だから攻撃する」と、さう中村は考へた訣だ。實に政治主義的だ。俺は中村のやうな政治主義的な人間とは相容れない。中村曰く「日本正常化」――下らない。あんたのはただの復古であり反動だらう。兔に角正字正かなに戻れば良い――さう中村は考へてゐるに違ひない。しかし、單なる復古や反動が行はれるだけでは何の意味もない。だから俺は「正しい」と云ふ觀念について何度も何度も論じてゐる。正統にしても正義にしても「正しい」と云ふ觀念ナシには成立たない。だから正しい假名遣ひにしても正しいHTMLにしても俺は「正しい」と云ふスタンスに著目してその點で等しい價値を置いてゐる。俺にして見れば、假名遣の正しさだけに著目し、それ以外の全ての正しさを「何の價値もない」と看做す中村のやうな態度こそ老人のドグマ的思考でしかない。或は、中村は「大人」の態度で「若者」の俺を窘めてゐるのだが、かう云ふ「大人の態度」こそが國字改革を一般に普及させ、略字略かなを容認させてゐる元兇であると俺は見る。
正字正かな運動は、日本の老人どもから「跳ね返り」と見られて良い――決して若々しさ、いや、そんな言ひ方は氣に入らないのであつて、子供つぽさとか、幼稚さとか言つた方が良い。寧ろ、極端に聞こえるだらうが、迂闊さをすら失つてはならない、と言つて良い。つけ込みたい奴にはつけ込ませれば良い。戰術的に敗北しても構はない。狷介・老獪なやり方、惡い意味で「大人の態度」、その手のものは、寧ろ國字改革の推進者どもに似合ふ。さう云ふ日本人の一番惡いものを拒否するところに、正字正かな運動――と言ふよりも、一種の革新運動の價値がある。俺は單純な保守反動の主張等、最初からしてゐない。ロシアにはスラブ派と西歐派とがあつて對立してゐたが、俺も日本における西歐派だ。が、それは松原氏も一面でさうであり、福田氏も一面でさうであつた。松原氏も福田氏も單なる保守反動の徒ではない、單なる「傳統主義者」ではない。傳統と正統とは違ふのであり、俺は因習を守るだけの中村のやうな傳統主義者になる積りはない。
俺は理想主義者だが、同時に現實主義者でもある積りで、それは松原氏も福田氏もさうだつたからだ。松原氏は、天皇を無くすべきでないと考へてゐるが、同時に、嘗ての日本人が天皇を現人神と看做したやうに現代の日本人が天皇を見ない事を知つてゐる。さう云ふ状況下で、それでも天皇なる存在を「必要である」と主張する――その意義や方法のみならず、可能性或は實現性、と言ふよりその低さをも認識する、それが現實主義の立場で、そこで「今後、天皇が存續して行く事には大變な困難がある」と認識せざるを得ないが、そこではじめてダイナミックな思想が可能となるし、現實批判が可能となる。中村の單なる原理主義・ドグマ的思考では、現實から乖離した單なる「理想」の連呼しか出來ないし、その「理想」に合致しない立場に對する非難と罵倒しか出來ない事になる。實際、中村は、彼の信ずる「理想」に合致しないからと言つて、俺の事を敵と看做し、攻撃してゐる。「思想的に相容れない」と中村は一見、公正のやうな言ひ方をしてゐるが、自己欺瞞であり――中村はさう云ふ公正の假面を被つて、相對的に野嵜を貶めてゐるに過ぎない。
HTMLが皇室や神道と等價か、なんて、愚問であり、それらが違ふものである事は判り切つてゐる。が、それを言ふなら、國語と皇室は等價か。然りと中村は答へるだらう、けれども、かの波江究一も答へるのである――否、波江なら、皇室よりも國語が・いろはが重要であるとでも答へるだらう。中村も波江も俺には同じレヴェルの人間にしか見えない。しかし、國語にしても皇室にしても神道にしても、實は本質的な價値でない――その點でHTMLだのWordの知識だのも同じである、この事を俺ははつきり認識してゐる。中村はそこで「違和感」を覺えて呉れるだらうが、私は一向に構はない。中村は現象レヴェルで保守が可能であればそれで良しとする人間であり、俺はそんなもので滿足出來ない人間である。俺は傳統的ならざる現代の日本人である。
平成十八年五月一日
青方の中村が俺の文章を一々無斷轉載してゐるから(「纏め」と稱する嫌がらせ行爲。コピー&ペーストは誰でも出來る簡單な事だから、實に横着な嫌がらせだ)こちらも中村の文章を無斷で「轉載」して對抗する。

騷動に就いての新情報を木村野嵜兩氏の情報提供に依つて得る事が出來ました。それから云へる事は、この問題は協議會の名譽がどうのと云つた大仰なものでも、わざわざ纏め頁を作る必要もなかつたし、協議會の關係者や玉川大學出版部に問ひ合せをする必要もない小さな問題だと云ふ事です。不名譽なのは木村野嵜兩氏のみ。野嵜氏に情報提供した協議會ホームページ作成係も多少は不名譽かもしれませんが。行掛り上ここで掲載する豫定であつたものを投稿した後に感想を述べてみたい。

中村はそれから云へる事は等と言つて、客觀的な風を裝つて、恣意的な解釋を下して見せる。さう云ふ自分は第三者であるかのやうな態度を取る事がそれ自體として無責任であり知的誠實を缺くと言ふ事だ。「纏めサイト」を作るのが屡々嫌がらせ目的である事は言ふまでもない。新霊光輝が狙つたのはそれだ(そして中村は新霊光輝を評價して見せる。かのけつねうろんの異常な行爲も評價して見せる)。「纏めサイト」と稱して個人に關する惡罵嘲弄のスレのログを集めるのは2ちゃんねるを利用して個人攻撃をやらうとする人間の典型的な嫌がらせだが、それを中村は實行してゐる。「電腦正統記」をやり保守系・右翼系の掲示板で有名だつた青方の中村も、かうなつては墮ちたものだ。
中村は「そんな事をする價値もない」と云ふ言ひ方をしてゐる。これこそ相手をさらに侮辱しつゝ、自分はそつと騒動から身を退き「フェードアウト」して行く事を正當化する、無責任なものだ。青方の中村は、野嵜等を居丈高に誹謗しながら、却つて自分の立場が惡くなりつゝある事を自覺して、或は無意識に、逃亡を企ててゐる。
昔からこの青方の中村と言ふ人は、浮かれ易く、掲示板で騷ぐのが好きな御仁で、波江のやうに掲示板への書込みやメールでスパム的な宣傳を繰返し、所爲で結構「保守系」以外の人から非難されてゐたりするのだけれども、御調子ものだからさう云ふ自分のやり方が他人の目に何う映つてゐるかが判らない。「正義」一本調子のところがある。野嵜の事を迂闊だの何だのと極附けてゐるが、ウェブでのやり方は寧ろ青方の中村の方が迂闊だと言つて良い。サイトを立ち上げては壞し、何か言つては消し、を繰返す――さう云ふ中村の堪へ性のない性格は、決して信用出來るものではない。
平成十八年五月一日
重要な事だが、中村は野嵜の事をただ單に「保守派でない」「傳統的日本人でない」と云ふ事で攻撃してゐるに過ぎない。中村は「政治的に敵だから」野嵜の事を嫌つてゐる。彼の粘着行爲は政治主義的な動機に基いてゐる。

「正統を守りたい人間は、コンピュータは難しいとか、インターネットは難しいとか、言ひ譯をしたり泣き言を並べたりすべきではない。或は、無知は罪である」とも書いてゐるが、正直「はあ?」である。コンピュータやインターネット、HTMLが國語や皇室、神道等と等價なのか。將來は分らないが、今現在は掛け替へのないものとは思へない。それどころか、こんなものは不要だよと云ひたい氣持ちが少なからずある。そんな人こそが、保守派であり、傳統的日本人であると私は考へてゐる。「正統を守りたい人間」とはどんな人間なのか知らないが、お前は違ふよと云はれても、私は一向に構はない。とどのつまりが、野嵜氏は保守派ではないし、思想的に私とは相いれない人間である事には違ひない。

中村は、今はコンピュータやインターネットこんなものは不要だよと思つてゐるらしい。ならば何でコンピュータを使ひ、インターネットで活動してゐるのか、訣がわからないが、當人、この邊は絶對に説明しないだらう、とぼけるのが好きだから、問はれても「はあ?」ととぼけてごまかすだらう。支離滅裂も、とぼければ通るのだから、傳統的な日本の社會とはありがたいものである。そんなに「傳統」が好きならば、コンピュータなんか使ふなよ、インターネットに出て來るなよ。自分で自分のやつてゐる事を否定するやうな事は言ふものでない。
かう云ふ馬鹿だから中村は勘違ひで俺を非難してしまふのだらう、と敢て言ふ。
物を言ふならば媒體である言葉に關心を持つべきだし、ウェブを利用するならばメディアであるインターネットの仕組に關心を持つべきだ。俺の言つてゐる事に何か一貫性のない事がありますか。俺は、保守反動の老人を「ぶつ潰すべき眞の敵」と看做してゐるし、その點で「保守派」でも「右翼」でもない。俺は左翼が嫌ひだが同じくらゐ右翼も嫌ひで――と言ふより、政治を行動の動機とする政治主義者が嫌ひで、だから今の青方の中村も嫌ひである。
青方の中村さんよ、あんた、「國語の正常化」とか「日本の正常化」とか言つてゐるが、何をもつて「正常化」と言ふのですか。何が「正常」で何が「異常」であるか――正常と異常とを分かつ根據は何ですか。その根據は妥當ですか。妥當と言ふのなら妥當性を證明していただきたい。と言ふより、さう云ふ根據だの證明だのは「正しい」と云ふ觀念が無ければ成立たない觀念ですが、さう云ふ觀念こそが大事であるとあんたは思ひませんか。ならば俺とあんたとには接點がない。
平成十八年五月一日

意見の異る人との對話こそ禮儀が必要なのである。敷居が高いと云はれやうが、このブログに「2ちゃん」流は通じない。最低限の禮儀を缺いた書込みは排除する事にする。と書いて考へ直した。資料館のはうで晒す事にする。

禮儀、禮儀、禮儀。マナーとか禮儀とか言ふ奴を俺は信用しない。かう云ふ手合は殊さら論理を閑却し、結果として自分に都合の良い方向に「うまく」話を持つて行かうとする「平和主義者的な傾向」があるからだ。それで「對話」が「成立つ」と思ひ込んでゐるのだからおめでたい。青方の中村も結局のところ「戰後民主主義」の子だつたと云ふ事だ。
しかし、「晒す」だの何だの言つておいて「2ちゃん」流は通じないとは言ふも言つたり。典型的な2ちゃんねる流ぢやねえか。自覺のない2ちゃんねらーくらゐ性質の惡いものはない。まあ、昔からの掲示板のやり方を青方の中村は踏襲してゐる積りなのだらうが――「進歩のない人間」と言ふのも困つたものだと思ふ。
アレクセイにしても竹下義朗にしてもさうだが(彼等はNIfty-serve出身の古いネットワーカ)、古いネットワークの因習から脱け出せないおつさん連中が、今のインターネットではDQNになつてしまつてゐる。かうした「歴史の比較的最近の或時點以降に出來上つてしまつた因習」を打破する事が俺の狙ひであり、その點で俺は「復古主義者」である。略字略かな――と言ふより表音主義な國字改革の思想と云ふ奴、これも「歴史の比較的最近の或時點以降に出來上つてしまつた因習」だらう。
平成十八年五月一日
釋明しておくが、信用してゐた青方の中村に俺は裏切られたのであり、それで怒つてゐる。國語問題協議會なる組織の名譽は知らない、そんな事よりも個人として青方の中村が裏切つたと云ふ事の方が俺には深刻な問題だ。「組織の論理」等よりも個人と個人の信頼關係の方が重要だらう。それが中村には分かつてゐない。そして、中村は、組織・集團の名譽だか何だかを守る爲に、野嵜を貶め、人格攻撃を仕掛けて來てゐる。政治主義の手合は、かう云ふ鄙劣な手段を平氣で使ふ。かう云ふ鄙劣な態度を平氣でとれる日本の因習をこそ打破しなければならないと俺は信じてゐる。日本の傳統と云ふものにこの手の嫌な因習が大量に紛れ込んでゐる事を――否、この手の因習が日本の傳統を作り上げてゐる事を、傳統主義者の連中は自覺するが良いのである。傳統、傳統では駄目なのだ。
平成十八年五月一日
「正字正かな派の名譽」なんて知りません。「正字正かな派」が一枚岩でない事くらゐ良く知つてゐます。かの鐵扇會の會長ですら正字正かな派だ。
平成十八年五月一日
アカウンタビリティ云々が何時いかなる場合にも例外ナシに知的誠實だなどと俺は信じない。默つてゐる事も時には必要な事だ。讀者が知つても仕方のない事は、何んなに讀者が知りたがつても、知らせる必要はない――そこで無理やり口を割らせる爲に「知的誠實」と言はれてもそれは拷問を行つてゐるやうなもので本當の知的誠實と關係ない。
平成十八年五月一日
うちの掲示板では、禮儀だのネチケットだのと煩い事は言はないけれども、名前を匿して野嵜を騙し討ちする、なんて眞似はしないでね。そんな御仁が自分の「ブログ」では禮儀、禮儀と言つてゐたりするけれども。
と言ふか、うちの掲示板、煩い規則は無いし、管理人を罵倒してもなかなかアク禁にならないし、何處よりも自由だと思ふのだけれども。えーと、「申 し わ し た ぞ」みたいな意味のない嫌がらせのコピペを十囘連續で書込んだりすれば、それはアク禁にはしますがー。条域とか未だに書込めるやうにしてあつたりする。

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