いろいろと思うところがあるさうですが、その「思うところ」について知りたい――それは渡邊さんの個人的な關心の域を得ないものなのか、それとも、個人的な關心であると同時に超個人的なもの・普遍的なものであるのか。前者なら本當に何うでも良い事になりますし、何うでも良い事を公開の場に書くやうな人は「物書き」ではありませんから渡邊さんは違ふでせう。では、後者なのでせうが、
さまざまな文人・学人の言葉に触発される、で、觸發されてどのやうな事を渡邊さんは考へたのか。或は、どのやうな形で渡邊さんの興味と、「文人・学人の言葉」との間に通路が出來たのか。その通路は、渡邊さん以外の人にも形成可能か、形成すべきものか――。はつきり書いてしまふと、俺、渡邊さんの文章が解らない。本の感想がいろいろと書かれてゐるけれども、渡邊さん個人の樂しみ方が書かれてゐるに過ぎない事が屡々ある。その時、渡邊さん以外の人は――例へば私ですが――その本を樂しみ得るのですか。もし樂しみ得ないものであるならば、渡邊さんの個人的な經驗や努力・訓練の類があつたればこそ、その本は樂しめる、と云ふものであるならば、渡邊さんの書かれる感想は、渡邊さん以外の全ての人間にとつて何の意味もないものになる。しかし、渡邊さんが公開の場で物を書いてをられる以上、渡邊さんは個人の域を超えてその本が樂しめる事を言ひたいに違ひない。が、私にはその本の普遍的・超個人的な樂しみ方を渡邊さんから教へられた事があんまり無い。
こういうところにすぐに目が行くのが最近の私である。
共産主義が現代世界で勢力を得ている少数の宗教の一つであることは、言うまでもない。
補足を入れると、それ以前に Opera 7.50 以後における標準スキンの名称が Opera Standard なのですから、JoRichter 氏の名づけた Opera 7 Standard もそれ程独創性に富んでいるようには思えません。(しかし名が体をあらわす絶妙なネーミングとは感じます。)深い意味は無く、オリジナルに蛇足を加えたくも無いのでなるべく忠実に近い名称にしているだけなのです。
ところでこういった事を仰られても、話の次元が違うので何とも言えません。一体何の話をしているのでしょう。
Opera の標準スキンが Opera Standard であるということが、Firefox の標準テーマが Winstripe であること以上に知名度が低いのが問題なんじゃないでしょうか。
ところでこういった事を仰られても、話の次元が違うので何とも言えません。一体何の話をしているのでしょう。
Mozilla 用スキンとやらを入れると何が良いのかわかりません。配布ページその他に置いて、先述の通り Firefox のテーマであるとくどいほど書いてある時点ではつきりはしているものかと。冗長になるだけとしか感じ取ることが出来ず、また必要性を感じられませんのでお断りします。
ところにここ、Opera 7 Standard が載っているようです。というかそこからのリファラで知ったわけですけれど。調べてみるとくでんさんの Phoenity Modern とか、影祭りさんの Opera7.5x も載っていますね。なんて書いてゐるではないですか。「ブルーライトノヴァ」のhttp://homepage2.nifty.com/scorpio/elderris/diary2006_0502.html#DAYS06051701の記事の文中では、一言も「スキンだ」と斷わつてゐません。この記事を見た人が「何時いかなる場合にも例外なく絶對に勘違ひしない」なんて事は言へないでせう。そして、「ブログ」は記事毎に參照され得るのです。冗長? 必要な情報を含んでゐるのなら、冗長ではありません。必要な情報を削落としてゐるから問題だと私は指摘してゐます。あなたが何う「感じ取る」かなんて知りません。あなた以外の人間が、確かに今の「Opera 7 Standard」なる名稱は、必要な情報が缺落してゐる、と「感じ取つた」のです。さう「感じ取つた」人が一人でもゐる以上、今の「Opera 7 Standard」なる名稱は問題を含む、と言つて良いでせう。と言ふか、簡潔に思はれたとしても、それで誤解を生じ得るのであるならば、惡いネーミングです。冗長に思はれても、それで誤解を減らせるのであれば、情報量を増やして、より正確にする方がよろしい。當り前の話です。
東芝の携帯電話(W32T)に搭載されとりますブラウザで闇黒日記にアクセスすると “このページは表示できません(未対応)”なんてアラートが出てるんです!
Web ページに問題があるため、正しく表示または機能しなくなる可能性があります。今後、ステータス バーに表示された警告アイコンをダブルクリックすると、このメッセージを表示できます。なんてエラー、あつちこつちで出る。なんで制作者の人は氣附かないのだらう。
IE 7 Beta 2 日本語版關係の記事一覽。
よい言葉の一句は悪い本の一冊にまさるルナール「その日記」
どこから見ても真実だという箴言はごく稀れであるヴォヴナルク
http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.htmlの73%は毒電波で出来ています http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.htmlの11%は濃硫酸で出来ています http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.htmlの8%はミスリルで出来ています http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.htmlの6%は心の壁で出来ています http://members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.htmlの2%は成功の鍵で出来ています
自らの判断の重要性を強調してをられるのだけれども、俺は文學もまた學である以上、自らの判断なるものをも疑はざるを得ない。歴史學や科學において、方法論があり「正しい」事がある――それに對して「何か曖昧なもの」として文學が一般に認知されてゐる。さう云ふ状況に俺は反對したい。文學もまた學であるならば、他の學問で可能であるやうな事が、完全に同一の形態でないにしても、何らかの形態で可能である筈である。亂暴な言ひ方をするけれども、歴史學においても科學においても、再現性は重要な要素だらう。もちろん、歴史は繰返さないが、「事實を良く説明し得る理論」は或事實のみならず他の或事實もまた再び説明する、と云ふ點で理論である。科學の場合は論ずるまでもない。文學においてもまた或種の再現性は要請される。それが單純な方法論とか原理とかで割切れるものでないにしても(歴史學でもイデオロギー的な割切り、歴史修正主義の類が認められないのと同樣)、有效性を持つ思想・發想・或は類型があり得る。
くもりて俄にあつし。
2006 年 04 月 24 日 PM 02:30 - タイプライターのシフト機構。矢沢久雄氏がきちんと記事の誤を認めて「訂正します」のコメント。
ビブロス氏のはうがより本質が見えてゐるやうだ。聯絡しないのは「水臭い」仲に戻りたいからである。
「ふつうのヤツ」と思はれるのを極端に嫌ふ、怖れるのが野嵜健秀と云ふ人物。木村さん、あなたが私が貴方方の「批判」者になる事を豫想だにしてゐなかつた平凡「ふつうのヤツ」だと云ふなら私は謝罪する準備があるがどうだらう。
そんな事はどうでもいい。木村さん、私を窘める閑があるなら盟友の常軌を逸した行動を窘めるべきである。違ひますか。かう云はれてもどうのかうの云ふなら貴方に云ふ言葉は何もない。
讀者の皆さんの中には、それでも白波は卑怯者ではないかと考へる人がゐるかもしれないから、最後に附け足す。卑怯だと云ふなら私がどの樣な卑怯な事をしたか。正體が分らうが分るまいが、同じ事を云つた事は既に理解されてゐると思ふ。裏で工作をしてゐるわけでもない。情報源はネットだけ。
固く誓い合った友人。同志。別に誓ひ合つてもゐないし、政治的な同志である訣でもありません。木村さんは俺の「先輩」です。と言ふか、學校の先輩でもないし、何なのだらう、ええとかう云ふ關係、何て言ふのですか。年上の人に「おともだち」みたいな言ひ方をするのつて變ですよね。「盟友」は違ふ。違和感があるから判る。閑話休題。
「奴とはもう親しく付合ひたくはないが、あの噂の眞相だけはどうしても知りたい。よしそれなら僞名を使つて電話してやれ」。現實の世界でこんな素晴らしい事を實行する人間がゐたら、世間は何と呼ぶだらうね白波大先生。
インターネット上の日記は嫌」なる非難は、「闇黒日記」には該當しない。
ちよつと落ち着かれたはうがいい。事實關係に就いて書かれた部分、亂れてゐますよ。その調子ぢや話が出來ませんよ。對話は無理。
最初に結論を云ふと私は彼らに以前の知己だと云ふ事を明す積りはなかつたのであるが、それは彼らと以前と同じやうに付合ふ積りがなかつたからであり、糾彈する必要も感じてゐなかつたからである。それは何故かと云へばそれ程の價値あるものとも思へないからである。
自分は間違つてゐず、間違つてゐるのは常に他者と考へてゐる、と極附ける。それだけは、やめていただきたいのだが。
自分は間違つてゐる、正しいのは常に他者と云ふ態度を常にとつてゐると、さう思ひ込んでゐたのだ。それはちよつと哀しいが、まあ、本音では何うでも良いやと思つてゐる。それは何故かと言へば、青方の中村はそれ程大した人物とも思へないからである。しかし、さう思つてゐたと言ふのなら、その時はつきり言へば良いぢやないかと、僞江戸つ子で短氣な俺はさう思つた。何で今頃になつて「實は〜」なんて言出すんだらうね。取敢ず、中村は、さう云ふ己が不信を匿しつゝ、表面的には俺と「附合つてゐた」と言ふのだ。男同士で「附合ふ」なんて言ふのも何だが、中村の用語だから仕方がない。見方を變へれば中村、「お附合ひ」が表面的に終つてしまつて、それでねちねち恨み言を言つてゐる女みたいに見えなくもない。
とは云へ、この騷動のそもそもの原因は彼らの人間性にあるから、彼らを論じない訣には行かない。
私が「2ちゃんねらあ」?だ。とぼけるな。匿名大好き人間の癖に。青方の中村なら青方の中村だと名乘つて書込んで來れば良いんだ。「白波」何とかなんて、また新しいハンドルを作つて、それで默つて書込んで來るんだから。木村さんのブログのコメント欄では俺の事を散々虚假にしてゐるし(もちろん、その代りに中村は木村さんをひたすら持上げて煽ててゐる。これも新霊光輝と同じ)。中村は俺を騙し討ちにしようと最初から考へてゐたに違ひない。remote hostが無ければ危なかつた。
正直「はあ?」である。
騷動に就いての新情報を木村野嵜兩氏の情報提供に依つて得る事が出來ました。それから云へる事は、この問題は協議會の名譽がどうのと云つた大仰なものでも、わざわざ纏め頁を作る必要もなかつたし、協議會の關係者や玉川大學出版部に問ひ合せをする必要もない小さな問題だと云ふ事です。不名譽なのは木村野嵜兩氏のみ。野嵜氏に情報提供した協議會ホームページ作成係も多少は不名譽かもしれませんが。行掛り上ここで掲載する豫定であつたものを投稿した後に感想を述べてみたい。
それから云へる事は等と言つて、客觀的な風を裝つて、恣意的な解釋を下して見せる。さう云ふ自分は第三者であるかのやうな態度を取る事がそれ自體として無責任であり知的誠實を缺くと言ふ事だ。「纏めサイト」を作るのが屡々嫌がらせ目的である事は言ふまでもない。新霊光輝が狙つたのはそれだ(そして中村は新霊光輝を評價して見せる。かのけつねうろんの異常な行爲も評價して見せる)。「纏めサイト」と稱して個人に關する惡罵嘲弄のスレのログを集めるのは2ちゃんねるを利用して個人攻撃をやらうとする人間の典型的な嫌がらせだが、それを中村は實行してゐる。「電腦正統記」をやり保守系・右翼系の掲示板で有名だつた青方の中村も、かうなつては墮ちたものだ。
「正統を守りたい人間は、コンピュータは難しいとか、インターネットは難しいとか、言ひ譯をしたり泣き言を並べたりすべきではない。或は、無知は罪である」とも書いてゐるが、正直「はあ?」である。コンピュータやインターネット、HTMLが國語や皇室、神道等と等價なのか。將來は分らないが、今現在は掛け替へのないものとは思へない。それどころか、こんなものは不要だよと云ひたい氣持ちが少なからずある。そんな人こそが、保守派であり、傳統的日本人であると私は考へてゐる。「正統を守りたい人間」とはどんな人間なのか知らないが、お前は違ふよと云はれても、私は一向に構はない。とどのつまりが、野嵜氏は保守派ではないし、思想的に私とは相いれない人間である事には違ひない。
コンピュータやインターネットを
こんなものは不要だよと思つてゐるらしい。ならば何でコンピュータを使ひ、インターネットで活動してゐるのか、訣がわからないが、當人、この邊は絶對に説明しないだらう、とぼけるのが好きだから、問はれても「はあ?」ととぼけてごまかすだらう。支離滅裂も、とぼければ通るのだから、傳統的な日本の社會とはありがたいものである。そんなに「傳統」が好きならば、コンピュータなんか使ふなよ、インターネットに出て來るなよ。自分で自分のやつてゐる事を否定するやうな事は言ふものでない。
意見の異る人との對話こそ禮儀が必要なのである。敷居が高いと云はれやうが、このブログに「2ちゃん」流は通じない。最低限の禮儀を缺いた書込みは排除する事にする。と書いて考へ直した。資料館のはうで晒す事にする。
「2ちゃん」流は通じないとは言ふも言つたり。典型的な2ちゃんねる流ぢやねえか。自覺のない2ちゃんねらーくらゐ性質の惡いものはない。まあ、昔からの掲示板のやり方を青方の中村は踏襲してゐる積りなのだらうが――「進歩のない人間」と言ふのも困つたものだと思ふ。