レスポンサビリティ の検索結果 約 10 件中 1 - 9 件目 (0.62 秒)
レスポンシビリティ の検索結果 約 3,650 件中 1 - 10 件目 (0.14 秒)
SURPRISE!!!と書いてあるのだから驚きなんだらう。ちなみに俺は何事にも驚かない男。
Zulu2DVD+R DL書き込みに対応しマルチドライブ書き込みの安定性も高い
柳田國男「作乃丞と未來」なるテキストを「引用」したページがあつた。以下のリンク先はスキャンした畫像。
昭和十五年の秋、一ケ年の歐洲巡歴を豫定してアメリカに向つた私の旅は、その翌年の正月早々ベルリンに辿りついてからちやうど半年目に獨ソ開戰に遭ひ、さらに半年の後にはパール・ハーバーの運命の日を迎へ、遂に歸路を斷たれて思はず歐州滯在七年の長きに亙つてしまつた。ドイツ崩壞の二年前にスイスに入つた私は、結局滯歐の後半四年を、中立國スイスで暮すことになつたが、日本敗戰の後には再び國外への旅行を試みることもできて、昨年春の二ケ月をフランスですごし、同じく夏はイギリスに飛び、そして同じ年の暮、イタリーのゼノアを出帆し、カルビヤ海に浮ぶ小さなフランスの島マルチニックに立寄り、パナマをめぐつて、北アメリカに三週間滯在の後、この春横濱に歸りつくまで、多少戰後の聯合國の空氣にも觸れることができた。
一つは自分自身のため。さて、それではこの「カテゴライズ」は、閲覽者にとつては無意味なのだらうか。もし無意味であるとすれば、「不要なカテゴライズはユーザビリティを下げる」と云ふ事になるのではないだらうか。即ち「この『カテゴライズ』は、一般の閲覽者には見えないやうにしておくべきである」と云ふ事になる。と言ふか、「自分の爲」と云ふのは釋明にならない。「自分の爲」でしかないものに一般的な價値は無い。「價値がある事」=「公益性がある事」を説明しなければ、釋明とはならない。或は、「世間の人には價値が無いのではないか」と云ふ批判に對して、「自分の爲です」と釋明をするのは、何かをかしい。
二つ目は書き手が何に関心を持っているのかを探るため。「書き手」とは誰の事だらうか。「何の書き手」の事だらうか。「探る」主體は誰だらうか。「探る」のは、どうやつてだらうか。
テーマを決めて書いているBlogならともかく、雑多なことを書いているBlogでは記事を取り上げられても、その後読み続けるかどうかは、関心を引きつけるカテゴリがあるかとその質に寄るので。文章として目茶苦茶で、解讀し難い。意味が全く解らない文章についてコメントするのは不可能なので、コメントしない。わからんものはわからん。
_が一般の閲覽者にとつて何の意味があるのか」「見出しの中にカテゴリを埋込んでおくのが良い事なのか」等の問題に就いて、檢討されん事を希望する。
http://hpbuilder.net/diary/ を HTML4.01 Transitional としてチェックしました。
21個のエラーがありました。このHTMLは 90点です。タグが 23種類 226組使われています。文字コードは EUC-JP のようです。
This page is not Valid HTML 4.01 Transitional!との由。
ただ、2ちゃんねるの戯れ言を気に病んでブログで弁明(?)する行為は正直感心しない。と前田嘉則氏に忠告してゐる。何時の間にか、2ちゃんねらーの發言はnoz_watcherの中で
戯れ言に成下がつたやうだ。
まだしも同情の餘地があり、文中の自慢話も苦笑しながらも聞き流せた、その辯解は不愉快ではあるが、また、しをらしい面もある。
が、今度は2ちゃんねらーから轉身した「福田恆存ブロガー」として
大向うの受けを狙つて、餘りにも粗雜に書流してゐる。
評論家の福田恆存や松原正の著作を愛読し、ネット上の掲示板などで旧かな旧漢字(彼らは正字正仮名と呼ぶ)を使いまくり、自分のことを「反時代的教養人」だと信じて疑わない人たちに「ノズラー」のレッテルを貼り、執拗に攻撃を續けてゐた。
松原正氏と氏と対立している西部邁・西尾幹二両氏を共に好きな批評家として挙げていることをもって、「前田氏はノズラーではない」と考へ、ただそれだけの理由で擁護し賞讃して見せてゐるに過ぎないのではないか。
まぁ、前田氏を「馬鹿」呼ばわりしたのはどの辺の奴であるかは、大方見当は付く。とnoz_watcherが曖昧な書き方をして、當てこすつてゐるのを見れば、彼の惡意は明かである。noz_watcherは、ただ單に、
西部邁・西尾幹二両氏を賞讃しない人間を敵と看做し、人間以下の存在として見下したいだけである。noz_watcherは
西部邁・西尾幹二両氏が大好きで、この
両氏を非難する人間を何とかしてやつつけたい。今囘も、さう云ふ訣で、noz_watcherは「或種の讀者」を苛立たせる爲に、「煽り」の文章を書いて公開してゐるのである。彼は「純粹に批評的な立場から、公正に物事を見る」なんて事の出來ない人間である。彼にとつて「公正」と云ふものは、自らの印象を良くする爲に必要な、利用すべきイメヂであるだけである。
西部邁・西尾幹二両氏を非難する「ノズラー」に當てつけてゐるに過ぎない。noz_watcherは決して前田氏を支持したい訣ではない、單に「ノズラー」に當てつける爲に前田氏を利用してゐるだけである。かう云ふ人物は、ちよつとした事ですぐ人を裏切る――と言ふより、當人は最初から利用するだけの目的で人と接してゐるから、裏切つたと云ふ自覺を持たない。前田氏を裏切る時、noz_watcherはきつと「公正な立場」を標榜する。noz_watcherは、「公正な立場」から、見下したやうな口調で、人をばつさりやる。ばつさりやつて好い氣になる。noz_watcherは以前、野嵜に對して、「野嵜クン」「チミ」と言つた。どうもnoz_watcherには「我こそが本物の反時代的教養人なり」と自負して他の「僞者の反時代的教養人」を見下してゐるらしき氣配がある。
……この本にもケチをつけようと思えば、いくらもケチはつくのだ。たとえば、エッカーマンが文筆上の侍従として仕えた王者ゲーテは、さすがに王者の貫禄を十二分に発揮して、老齢に及んでも十七歳の小娘に恋愛し、結婚まで真剣に考えるほどの「大きな人間」だったのに、惜しむらくはこの本には、ゲーテのそういう「くりかえされた青春」の痕が、ほとんど記録されていないのである。あるいはまた、法相ミュラーが記録しているような「人間ゲーテ」、つまり癇にさわると、一晩じゅう、辛辣この上もないことばを吐きちらすゲーテといったものは、この本には顔を出さないのだ。
しかし、それこそ、この本の貴重な点なのである。なぜなら、そういう「人間ゲーテ」は別に珍しいことでもないではないか。ゲーテとても人間なのだ。むしろ、稀有なことは、そういうみじめなボロを出さない聖者・賢人ゲーテをここに確立したエッカーマンの一途な思い、至り難い人間の極致をここに結晶させたエッカーマンの誠実な人となりではないか。
そういうことが、本当にわかるためには、おそらく年齢を重ねる必要があるであろう。私たちはこの本を熟読することで、とうてい及びがたいとは知りつつも、人間の高さ、深さの限りなさに敬意をあらわそうではありませんか。
しかしじつは近年、國語辭典や漢和字典の字音假名遣は大きく樣變りしてゐるのである。たとへば「ばうし→ぼうし(帽子)」「ずゐぶん→ずいぶん(隨分)」などは、ほとんどの辭書でひっそりと改められてゐる。――辭典において字音の表記が昨今變化してゐる事實を高崎氏は指摘してゐる。これが問題で、高崎氏は「辭書の表記」にしか注目してゐないのである。高崎氏は「字音の研究成果」として「辭書の表記」を受容れてしまつてゐる。しかし、「最近の字音の研究」そのものに言及し、典據としての文獻を明示しなければ、説得力を缺く事になるのではないか。
ただ、「-ゃう・-ゅう・-ょう」は必ず「ng韻尾」といふ法則が、「逆もまた眞」でなくなる影響は大きい。ng韻尾はすべて「-ゃう・-ゅう・-ょう」であった方が、北京語や朝鮮語などとの連絡が單純明快なのである。――字音假名遣は、
北京語や朝鮮語などの「發音を寫したもの」であると高崎氏は述べてゐる。定義の注疏(平成疑問かなづかひ)で
假名遣とは、同音の假名を語によって使ひ分ける規則である。と云ふ
電腦文字研究會のまとめた『正假名遣』の
定義を示してゐるが、その
語によって使ひ分ける規則の基底に
北京語や朝鮮語などの發音が出て來るのでは、「表音主義」と何ら變るところがない、と言ふ事が出來てしまふのではないか。「ng韻尾」には必ず「-ゃう・-ゅう・-ょう」が對應する、のやうな規則は、
北京語や朝鮮語などの發音を日本語の音韻に基いて書き表はす規則であり、假名遣の規則とは言へまい。
發音符號のやうなつもりではいけないのだ、と高崎氏は書いてゐるが、高崎氏の考へる「字音假名遣」は「漢字の發音を正確に寫すもの」である訣で、現實に高崎氏は「字音假名遣」を
發音符號のやうなつもりで扱つてゐると言つて良い。
「使ひ分ける」のが假名遣の根本原理であると述べてゐる。
現今普通には、そんな廣い意味でなく、「い」と「ゐ」と「ひ」、「え」と「ゑ」と「へ」、「お」と「を」と「ほ」、「わ」と「は」のやうな同音の假名の用法に關してのみ用ゐられてゐる、と書いてゐるが、一方で、
本來は假名のつかひ方といふ意味をもつてゐる、と豫め斷わつてゐる。
假名遣の根本原理である等と言ふのはとんでもない間違ひである。
實用上、問題は起らない。ここで「いや、何らかの問題が起るのだ、起るかも知れない、起つたら何うするのだ」と「反論」しても、それは説得力を持たない――そんな「何らかの問題」等は
實用上の問題ではない、と一蹴されるだけである。それに對して有效な反論を行ふ爲には、現在の高崎氏のやり方では不十分だ。そして、「國語問題關聯の論爭にはかかはらないやうにする」からと言つて「問題を見ない」のは、單なる逃避である。敵に追はれた駝鳥は、砂に頭を突込んで「見えなくなつたから敵は最うゐないのだ」と思ひ込み、安心するのださうだが、これは「駝鳥の愚かさ」を言つた話なのであり、我々はさう云ふ駝鳥のやうな眞似をしてはならない。
平成疑問かなづかひ―假名遣標準化計なる文字列があるけれども、明かに大見出しであり、h1でマーク附けするのが正しい。高崎氏は未だに「ブロックレヴェル要素」と「インライン要素」とが理解出來ないでゐるらしい。
- 貴ページは jis罫線を多用してゐて見づらい。
- ホームページ上では jis罫線がぶつ切り状態で表示されるため、ずいぶん見にくいことお詫申上げます。ただ、漢字の音韻學は古來より圖示の巧拙が生命であり、なかなか文章だけでは示しきれないものがあります。また同じ作表をさまざまな場面で使ひ囘しする必要上、特定の環境に依存したデータは不便きはまりないのです。たいへん恐縮ですが、正しく讀むためにはカット&ペーストでエディタソフトに貼つけて下さいますやう、お願いたします。罫線の取扱はいろいろ惱んでゐますので、よい方法がありましたら是非御教示ください。
カット&ペーストでエディタソフトに貼つけても、そのエディタの表示フォントとして、等幅フォントでなく、プロポーショナルフォントが指定されてゐたら、依然、
正しく讀む事は出來ない。そもそも、コピー&ペーストで、餘計な「JIS罫線」や「空白文字」がコピー出來てしまふ事が良くない事なのだ。高崎氏は、「JIS罫線」や「空白文字」を、必要なデータとごちやまぜにしてゐる。「整形」されたテキストによる「圖示」を含む高崎氏のテキストファイルにおいて、必要なデータは、ノイズである「JIS罫線」や「空白文字」の合間合間に僅かに出現するに過ぎない状態となつてゐる。必要なデータを高崎氏が作成した文書から取出すには、ノイズである「JIS罫線」や「空白文字」を削除する手間が必要となる。
定義には忠實にと言ふのならば、實踐したら何うか。それに、HTMLのtableでマーク附けすれば、視覺情報は十分なものとなるし、文字情報はノイズを含まないものとなる。HTMLの規格は、「單なる定義」である訣ではなく、合理性も持つてゐる。高崎氏は、HTMLの何も理解しないまゝ、「一般的か何うか」のレヴェルで話をしたが、すべきではなかつた。もし、さう云ふレヴェルの話をしてゐれば良いと云ふのであれば、「一般的」である「現代仮名遣」を高崎氏は既に使つてゐなければならないし、その時點で高崎氏が正かなを支持すべき理由が失はれる。
ここで思い出さなくてはいけないのがホーキングの哲学的な立場である。ホーキングは実在論者ではなく実証論者なのである。それも、かなり徹底的な。だから、
「宇宙の時間は本当は虚時間なのですか? それとも実時間なのですか?」
というような質問は、そもそも科学的に、正しい質問とはみなされない。
ホーキングは、こんなふうに語る。
実時間では、宇宙は時空の境界をなす特異点にはじまりと終わりをもっており、そこでは科学法則は破れる。だが虚時間では特異点あるいは境界はない。だとすると、虚時間と呼ばれるのが本当はより基本的なもので、実時間と呼ばれているものは、われわれが考えている宇宙像を記述する便宜上、考案された観念にすぎないのかもしれない。しかし、(中略)科学理論はもともと、われわれが観測を記述するためにつくった数学的モデルに他ならず、われわれの精神の中にしか存在しないのである。だから、どれが実は”実時間”であり、”虚時間”であるのかとたずねるのは無意味だ。どちらがより有用な記述であるかというだけのことなのである。
- 『ホーキング、字宙を語る』198ぺージ
この答えに納得のいく読者もいれば、なかなか首を縦に振らない読者もいるだろう。私は個人的にホーキングのこの答えには不満を覚える。なぜなら(以下略)
私は個人的にホーキングのこの答えには不満を覚える。――とても良い批判である。
解散で重要法案が軒並み廃案。
小泉純一郎首相が「殺されてもいい」とまでこだわった郵政民営化法案。と書いてゐる。適切な表現である。
正義を行なうためには、悪い奴を殺さなきゃ駄目ですよ、政治では。殺すというのにはいろいろな意味があるけれど、殺されていたら駄目ですよ。
それは一つの政治的条件になるけれど、その点わたしは非常に主観的に見る。自民党の代議士が、本当の意味での愛国心にめざめるかめざめないかが問題でしょうな。主観的なものなんですよ、政治は。客観的なものじゃないのです。だから、主観的な条件を変えうる人がいるかいないかということになる。そんなときに、客観的な情勢が役に立つというだけでしょう。
そうですね。政治家は、やはり国のためを思わなければ意味ないんですから。資本主義とか社会主義とかにもたれかかっているだけではいけない。政治はイデオロギーじゃないんですからね。国あるいは世界を考える。もっと拡大すれば、宇宙を考える。
なぜ次元が低くなったかというと、戦後、政治家は占領政策に協力しなければならなかったからですよ。だから、いまだに国際問題に対して自主的判断ができない。例えば中国問題なんかそうで、日本人自身がそれほど深刻に考えていない。アメリカの影響で考えることができなくなったんです。
日本人は、アメリカの占領によって、外交感覚をマヒされているんですよ。だから、アメリカにくっついてさえいればいいんだという感覚を払拭するためにも、中国問題を考えなくてはいけないんです。
神は人間の邪悪な生活を矯正し、抑制するため、戦争という手段を用いられ、またこのような患難を通じて、善良で賞賛に価する者を陶冶されるのである。神は彼らをこのように試みたのち、ある者をより良き世界に移し、ある者を他の優れた目的のため地上に引き留められる。
これら理性的存在に対し、神は自由意志を与えられた。それは、もしも欲するならば真の浄福である神を捨てることさえできるような自由であるが、それには必ずや悲惨が伴うであろう。神はある天使たちが矯慢に思い上がり、浄福な生を喜びとするには自分自身だけで十分であると考えて、神とともにある善を捨て去るであろうことをあらかじめ知っておられたが、しかも彼がそうする力を奪い取られなかった。いっさいの悪を禁ずるよりは、悪から善を作り出す方が、神の力にとってよりふさわしく、またこれを明示することになると判断されたからである。
彼らの可変的な本性は、すべてのものを良きものとして創造された・最高善にして変わることなき神によって造られたのであるから、それ自体としては善であり、何らの悪をも含まなかったが、罪を犯すことによって自らに悪をもたらすに至ったのである。罪そのものが、彼らの本性は善であることの力強い弁証である。もし彼らの本性が偉大にして善でなければ――たとえ創造主とは比べられないとしても――、あたかも光から暗黒へ転ずるように、神から離れることは悪ではなかったろう。
このことは盲目が欠陥であり、目は見るために造られていることを示す。盲目は目があらゆる器官の中で、光を受けるにもっとも適したように造られていることを示す。もしそうでなければ、見ることができないということは欠陥ではないことになるであろう。そのように、神を喜びとするように造られている本性そのものが、神を喜びとしないときの惨めさにおいて顕わにされる欠陥そのものにより、本来は善なるものとして造られていることを示しているのである。神は自らの意思に基く天使の墮罪に対し、永遠の悲惨という正当な刑罰を宣せられた。同時に、善なる状態に留まったものに対しては、その堅忍への報いとして、終わることのない保持の確かさを与えられた。
梟かな?
洒落でサイトタイトルを変えるような人に、碌な者は居ない。
本巻に修められた論文の中、いま一つのグループをなすものは、『国語問題正義』『国語の基準』の二単行書を中心とする、規範論的な立場からのものである。それらの多くは、先生が京都帝国大学を停年退官後、シナ事変が勃発し、さらに、太平洋戦争にまで発展した時期における、ナショナリズムの気運を背景にした産物であると言ってよい。云々。
もっとも、国語問題、国語教育など、社会に直接かかわりのある事柄に、研究者が、関心を持つかどうかということは、必ずしも、時世の影響だけによるとは言えないであろう。それは、また、個人の年齢によっても、大きく異なり得るものである。言うまでもなく、言語、文字は、時間の経過につれて、変化するという性質を持っている。ところが、比較的若い時代には、人は、多く、そのような変化を、それとして肯定し、また、それに順応し得る立場にあるけれども、一方、高年齡になるにつれて、それとは反対に、その変化を否定し、それについて行けないような人が多くなるものである。つまり「昔のよき時代」に比べて、今度は、むげにあさましくなって行く、と観ずるのが、年寄の常であって、新しく生じた言語、文字の変化を、すくなくとも、その当初においては、「不正」とみなし、それが一般化し、社会のすみずみにまで浸透した後においてはじめて、しぶしぶ認めざるを得なくなるというのが一般的である。従って、国語国字問題などに対する立場においても、多く能率主義、合理主義を斥け、一種の精神主義に立って、ものを見ようとする傾向が強い。先生ご自身も、どこかで告白しておられるように、明治三十年代、まだ東京で「言語学雑誌」の編集に当り、時評などを執筆し、また、国語調査委員会に関係して、国語国字問題に言及される機会の多かった時には、先生も、それなりに能率主義、合理主義者であったはずである。
従って、先生が、戦争がはじまった頃から、国語国字問題などに関して、精神主義、あるいは、一種のナショナリズム的立場をとられたとしても、それが必ずしも時流に追随された結果であるとは断定しがたいのである。すでに齢い古稀にも近づいておられた時であり、それでなくとも、多くの人が、そのようなものの考え方に傾いて不思議のないお年だったのである。戦争が終って、時勢は一転し、アメリカの占領政策に乗じて、国語政策があからさまな能率主義に立って、強力にすすめられて行く中においても、先生の立場は、すくなくとも精神主義に立つという点では、変りはなかったのである。もっとも、ナショナリズム的発言が表面に出なくなったという変化は、やはり認めざるを得ないであろうが。
漠然と『改憲論』と呼ばれているものが、実は、たがいに反目する、多様な思想の同床異夢であることが明らかになるはずだ。それはさうだらう。餘りにも當り前の事を何でそんなに大袈裟に騷ぎ立てるの?
評価の軸がない。
エコノミストの言動の一部を取り上げ、全体の文脈を取り上げていない個所がある。
エコノミストたちの変節のうちには状況の変化に対する認識の変化があっていいはずであり、時代環境への考察がもう少しほしい。と云ふ批判をしてゐる人もゐる。omr氏(omr氏の 公開しているレビュー)
野嵜サンにはもっと不快な思いをして頂く。なんて言つてゐた。