闇黒日記


平成十七年八月三十一日
あつちで言ふのもアレなのでこつちで。
レスポンサビリティ の検索結果 約 10 件中 1 - 9 件目 (0.62 秒)
レスポンシビリティ の検索結果 約 3,650 件中 1 - 10 件目 (0.14 秒)
平成十七年八月三十一日
My Opera CommunityでOperaのFree registration codesを配つてゐるんだ驚け。SURPRISE!!!と書いてあるのだから驚きなんだらう。ちなみに俺は何事にも驚かない男。
メールアドレスを記入する必要があるけれども、何を入れてもコードが出ると云ふのでみんな適當に入れてゐる模樣。試してみたところ、アドレスによつて出て來るコードが異るやうだ。http://my.opera.com/community/party/reg.dml?email=●●●@○○○の●●●@○○○のところに色々それつぽいメールアドレスを入れて見ると面白い。けれども、サーヴァに負荷がかかるのでやり過ぎない事。と言ふか、やらない事。
Opera Software 1995 - 2005: Celebrating ten years of browser innovation
Opera、10周年記念としてライセンスキーを24時間限定で無料配布
窓の杜 - 【NEWS】Operaが10周年を記念してライセンスキーを無料配布、本日22時開始
ノルウェーOpera,設立10周年を記念して「Opera」ブラウザを24時間限定で無償提供:IT Pro
Operaが10周年記念イベント、「Opera」登録コードプレゼントなど (MYCOM PC WEB)
ITmediaニュース:Opera、10周年記念でブラウザ広告削除コードを無料提供
オペラ、創立10周年を記念してブラウザを無償提供 - CNET Japan
平成十七年八月三十一日
窓の杜 - 【NEWS】「Opera」ライセンスキーの無料配布は日本時間の8月31日22時まで
あれれ、まだ配布してるよ?
と言ふか、これだけバンバンregistration codeが出て行つてゐるのだから、今更無料配布を止めても無意味でせう。無料配布を止める積りはOpera、毛頭ないのでないですか。
平成十七年八月三十一日
ITmediaモバイル:ガイナックス公式携帯サイトにアプリ「安奈のラブラブクッキング」
何と言ふかまた微妙なものを……。

平成十七年八月三十日
昨日買つて來た苺ましまろ四册を一氣讀み。あにめ(今までの分)より面白い。暇潰しには十分使へる。夜中の三時まで讀み耽るやうなものではないのかも知らんけれども。寢ます。
平成十七年八月三十日
田村書店と小宮山書店の表の投賣りコーナで二葉亭四迷全集を拾つて來た。

平成十七年八月二十九日
Zulu2−高い信頼性と安定したライティングソフト
片面二層記録DVDのライティングにも対応した「Zulu2」を発売
Zulu2
某B's Recorder Goldから乘換へ。朝こんびにで支拂をしたら三十分もしないうちにメールが屆いてID番號を知らせて來た。で、今、ためしにDVD-Rを一枚燒いてみた。きちんと燒けた模樣。GUIとか表記とか操作性とかは微妙。馴れの問題かも知れない。動作感は輕いやうな氣がする。ちなみに今でもキャンペーン價格七千百四十圓で賣つて呉れてゐる。
DOS/V magazine公式サイト[Vwalker.com]製品レビュー Zulu2DVD+R DL書き込みに対応しマルチドライブ書き込みの安定性も高い
イージーシステムズ、DVD+R DLに対応したライティングソフト「Zulu2」
イージーシステムズ、DVD+R DL対応のライティングソフト
Japan.internet.com Webビジネス - ドライブ情報を自動取得する CD/DVD ツール、Zulu
ITmedia PCUPdate:片面2層DVD+R記録に標準対応したライティングソフト──イージーシステムズ
ぐぐると色々な評價があるやうだから、機械に據つては上手く動かないかも知れない。うちは少し前の機材なので問題なかつた。と言ふか、相性だか何だかでトラブルが起きる可能性もあるので、購入前に所持するドライヴが動作確認濟みか何うか必ず確認して下さい。

平成十七年八月二十八日
宣傳。
Amazon.co.jp: 本: 学校では教えてくれない日本語の秘密
平成十七年八月二十八日
おふらいんver2 [581] / 韓国人が「苺ましまろ」にファビョる
あにめを政治鬪爭の道具にするのは云々。・゚・(ノД`)・゚・。
平成十七年八月二十八日
苺ましまろ まとめ(仮)
平成十七年八月二十八日
「にゃ〜こ」ばらスィーさん「苺ましまろ」現地レポート
苺ましまろ舞台探訪

平成十七年八月二十七日
なんか懐かしい物が出て來たので貼る。
ロサンゼルスオリンピック關聯のグッズ。
と言ふか鉛筆。
平成十七年八月二十七日
「新現実 Vol.6」掲載の「オクタゴニアン」、話自體、本當に下らない代物で、こんなものを一生懸命考へてゐる原作の大塚英志は極めて頭が惡いのだが、その中で柳田國男「作乃丞と未來」なるテキストを「引用」したページがあつた。以下のリンク先はスキャンした畫像。
柳田國男「作乃丞と未來」(「新現実 Vol.6 p.226」)
何で字體を揃へないのだらう。「字面がぱつと見、それつぽければそれで良い」とでも思つてゐるのだらうか。さうなのだらう。
平成十七年八月二十七日
宮崎駿も富野由悠季も大塚英志も、アニメーションや漫畫を「自分の信ずるイデオロギーを宣傳する道具」としか見てゐない。何でそんなに政治が好きなのだらう。藝術が下らないものなら、同じ位、政治だつて下らないものだ。政治が立派なものなら、本當の藝術だつて立派なものだ。下らない藝術と、立派な政治とを比較して、「政治の方が立派だ」と考へる――馬鹿だ。その馬鹿が「藝術家としての自分」を卑下して、藝術を政治に屈伏させようとする。どうして立派な政治と對等な立場に立てる立派な藝術を作らうとしないのだらう。自分のレヴェルに藝術を引下げるのは止めて貰ひたいものだ。政治家になれないものだから、アニメや漫畫で政治的な影響力を持たうとする――實に低級な考へ方だ。

平成十七年八月二十六日
古書會館の古書展。ぐろりやなので古めの本が多かつた。木村さん @ 晝休みと遭遇。當方も晝休み中(但し俺定義)。本日の買物。笠信太郎『新しい歐洲』(河出書房)。マイエル『希臘主義の東漸』(創元社史學叢書)。高坂正顕『政治・自由及び運命に關する考察』(弘文堂書房)。林健太郎『人間と思想の歴史』。『キリスト教の思想 現代キリスト教講座 第四卷』(修道社)。西谷啓治『禅の立場 宗教論集二』(創文社)。
平成十七年八月二十六日
笠信太郎『新しい歐洲』「序にかへて」

昭和十五年の秋、一ケ年の歐洲巡歴を豫定してアメリカに向つた私の旅は、その翌年の正月早々ベルリンに辿りついてからちやうど半年目に獨ソ開戰に遭ひ、さらに半年の後にはパール・ハーバーの運命の日を迎へ、遂に歸路を斷たれて思はず歐州滯在七年の長きに亙つてしまつた。ドイツ崩壞の二年前にスイスに入つた私は、結局滯歐の後半四年を、中立國スイスで暮すことになつたが、日本敗戰の後には再び國外への旅行を試みることもできて、昨年春の二ケ月をフランスですごし、同じく夏はイギリスに飛び、そして同じ年の暮、イタリーのゼノアを出帆し、カルビヤ海に浮ぶ小さなフランスの島マルチニックに立寄り、パナマをめぐつて、北アメリカに三週間滯在の後、この春横濱に歸りつくまで、多少戰後の聯合國の空氣にも觸れることができた。

と云ふのが笠信太郎。『ものの見方について』がベストセラーになつた。
參考:バートランド・ラッセルのページ: ラッセル協会発起人・著作リスト(笠信太郎)
平成十七年八月二十六日
『キリスト教の思想 現代キリスト教講座 第四卷』(修道社)。卷頭の有賀鐵太郎「西欧精神史とキリスト教」が興味深い。ほかに西谷啓治「神秘主義」等、合はせて全十四篇の論文を收録。

平成十七年八月二十五日
_ [WebDesign]Blogでのカテゴライズ
一つは自分自身のため。さて、それではこの「カテゴライズ」は、閲覽者にとつては無意味なのだらうか。もし無意味であるとすれば、「不要なカテゴライズはユーザビリティを下げる」と云ふ事になるのではないだらうか。即ち「この『カテゴライズ』は、一般の閲覽者には見えないやうにしておくべきである」と云ふ事になる。と言ふか、「自分の爲」と云ふのは釋明にならない。「自分の爲」でしかないものに一般的な價値は無い。「價値がある事」=「公益性がある事」を説明しなければ、釋明とはならない。或は、「世間の人には價値が無いのではないか」と云ふ批判に對して、「自分の爲です」と釋明をするのは、何かをかしい。
二つ目は書き手が何に関心を持っているのかを探るため。「書き手」とは誰の事だらうか。「何の書き手」の事だらうか。「探る」主體は誰だらうか。「探る」のは、どうやつてだらうか。テーマを決めて書いているBlogならともかく、雑多なことを書いているBlogでは記事を取り上げられても、その後読み続けるかどうかは、関心を引きつけるカテゴリがあるかとその質に寄るので。文章として目茶苦茶で、解讀し難い。意味が全く解らない文章についてコメントするのは不可能なので、コメントしない。わからんものはわからん。
あと、ふみんぐさんには「_が一般の閲覽者にとつて何の意味があるのか」「見出しの中にカテゴリを埋込んでおくのが良い事なのか」等の問題に就いて、檢討されん事を希望する。
平成十七年八月二十五日
TBS|新訳・星の王子さま
……某Wikiでもやつたらどうかなと煽つて見る。

平成十七年八月二十四日
Opera 7 Standard Ver.1.1.11 + Ver.1.0.14
Operaそのものではなくて、飽くまでFirefoxの「Opera風のテーマ」。紛らはしい事この上ないネーミング。
ブルーライトノヴァ - Firefox - Opera 7 Standard
平成十七年八月二十四日
livedoor サーチ 登録サイト 検索結果 : エンターテインメント > 萌え
livedoorは何をやつてゐるんだ。奥さまは魔法少女 - TOPを「奥様は魔法少女」と誤つてゐるし。
平成十七年八月二十四日
プラウザ - Google 検索
平成十七年八月二十四日
おさんぽさんぽ
_ [WebDesign][social]各政党のマニフェストページをlintにかけてみる

http://hpbuilder.net/diary/ を HTML4.01 Transitional としてチェックしました。
21個のエラーがありました。このHTMLは 90点です。タグが 23種類 226組使われています。文字コードは EUC-JP のようです。

W3CのValidation Serviceによれば、This page is not Valid HTML 4.01 Transitional!との由。
あと、見出しの横の「_」と[WebDesign][social]のやうな文字列は、アクセシビリティ的に問題がある。「_」をクリックした移動先で「_」をクリックしても「何も起らない」ので閲覽者を混亂させる。[WebDesign][social][Mobile][murmur]等の文字列は、英語表記なので意味が解り難い。假に日本語表記であつても、「分類があつて記事に行く」爲の「分類」ではなく「記事があつて分類に行く」爲の「分類」になつてしまつてをり、そんな「逆コース」的な「分類」は意味がない。また、その種の「分類」は、情報としての「見出し」の中で單なるノイズであり、記事を混亂させるだけのものである。「_」や[WebDesign][social]のやうな文字列は、見出しの中に「ない」に越した事はない。現状の「ブログ」は例外ナシに使ひ勝手が惡い――現状、サイトを既存の「ブログツール」で構築する事は、それだけでアクセシビリティを低下させる。
Another HTML-lint gateway
AHLのフォーム、「チェック方式」のURLの入力欄の「右隣」に「クリア」ボタンが配置されてゐるのは何なのだらう。URLを入力した直後に「送信」の積りで「クリア」ボタンを押してしまつて虚しい氣持ちになるのはこれで何度目かの經驗である。「チェック」なるボタンの位置が惡過ぎる。AHLには、ソフトウェアのマニュアルみたいな但し書きが書かれてゐるが、そんなもの誰も讀まない。フォームのボタンの配置を工夫して、「操作ミス」が生じにくくするやうにすべきだ。

平成十七年八月二十一日
LM-AF120K6 - Google 検索
近所のヤマダ電機で千七百八十圓だつたから二箱買つて來たけれども大外れ。六枚のうち二枚でエラーが出た @ RD。CSデジタル(J:COMの再送信)の番組をHDDからムーヴしたものだからダメヂが大きい。
最初のディスク。エラーが出て「ムーヴ」がキャンセル。何度かチャレンジしてみたら、そのうちなんか知らないが「ムーヴ」成功。しかし、エラー持ちのディスクのエラー部分に書込みが「成功」してゐる訣で、信頼出來たものではない。が、デジタル放送の番組だから、「ムーヴ」が成功した段階でHDDからデータが削除されてしまつてゐるし、一度の移動しか「許可」されてゐないからDVD-RAMから書戻し出來ない。「ムーヴ」してしまつた番組は、仕方がないからエラーのあるディスクに保存するしかない。
二番目のディスク。ディスクに五本入る番組を三本まで普通に「ムーヴ」して、四本目でエラー。仕方がないからそのディスクは、最初に「ムーヴ」した三本を保存するものとする。デジタル放送の番組だから、「ムーヴ」が成功した段階でHDDからデータが削除されてしまつてゐるし、一度の移動しか「許可」されてゐないからDVD-RAMから書戻し出來ない。「ムーヴ」してしまつた番組は、仕方がないからエラーのあるディスクに保存するしかない。
今の日本の放送業界の偉い人は、自分で放送を利用しないから、デジタル放送で「コピー不可」だの「コピーワンス」だのと云つたどうしやうもないものを運用してしまはう等と思ひ附いてしまふ。デジタルのメリットは、劣化なしにデータのコピーが可能だと云ふ點にある。そのメリットを態と殺さうと言ふのが「コピー不可」「コピーワンス」の制限で、さう云ふ制限がある「デジタル放送」に、メリットは全くないのだが、放送を利用しない放送業界の偉い人は解らない。彼らは、「解像度が上つた」→「映像が美しい」→「美しいなら觀るだらう」と云ふ單純な發想しか出來ない。「美しい映像」ならば、觀る人は「保存したくなる」ものだらうが、それが理解出來ないらしい――と言ふよりも、「剩りにも良く理解してゐる」のだらう、「保存したがる人間が出て來てしまふ」→「業界にとつて迷惑だ」と業界の偉い人は考へるのだ。結果として、「保存したくなるやうな映像を保存し難くして放送する」と云ふ支離滅裂な事態が出現した訣である。
WinnyやWinMX等のファイル共有で違法コピーが出囘るから「コピー制限も止むなし」と云ふのが業界の阿呆連中の言ひ分である。しかし、實は、ファイル共有で違法コピーが出囘る理由は、業界の側に「ある」と言つて良い。現在、地上波の放送局は、電波のエリアが設定されてゐる。そして、放送局ごとに獨自の番組編成を組む事が認められてゐる――と言ふより、地域獨自の放送をすべきであると考へられてゐる。これが、良い結果を出してゐれば良いのだが、現實には、單に番組の質・量における地域格差を生じてゐるだけである。ファイル共有で出囘る番組の可なりの割合をアニメーション番組が占めてゐる事だらう。アニメーションは、地域によつて放送本數の格差が極めて大きいからである。UHF局の番組も受信出來る首都圏の埼玉・千葉・東京・神奈川と、宮崎や山形のやうなアニメ番組の「僻地」とでは、週當り受信可能なアニメ番組の數が、實に「桁が違ふ」場合すらある。これでは、地方――敢て「僻地」と言はせて貰ふ――の人間が、觀たいアニメ番組を手に入れる爲、ファイル共有に手を出すのも無理はない。地域格差が生じてゐるからこそ、違法コピーが出現するのである。さう言つた事情を解らないで「コピーするな」と言つて、デジタル放送の番組にコピー制限を掛け、デジタル放送の利便性を落してゐるのが現在のTV業界の人間――「良く解つてゐる」TV局の人間と、「良く解つてゐない」役所の人間――である。
デジタルデータは、コピーし易くて當り前である。その「當り前」の事が出來ない現状は、をかしい。デジタルと云ふ事は、正しく利用されなければならない。それがどんなに業界やら何やらの當座のデメリットに繋がるとしても。インターネットにしても何にしても、「利用し易さ」と「複製し易さ」はデジタルデータの命である。はつきり言つて、データだの情報だのと云つた「目に見えないもの」で「御金を稼がう」と云ふのは間違つてゐる。情報産業は「産業」として滅びるべきだ。TVも新聞も、營利企業が「やる」のは間違つてゐる。インターネットにしてもコンテンツ制作にしても、營利的に「やる」のは間違つてゐる。――否、「營利的」にやりたければ、やつても構はない、ただ、今のやうに「潰れない」やうな形で「ある」のは、をかしい。TV局も新聞社も企業として餘りに大きい。何時でも潰れ兼ねない小企業の營爲として、情報産業が「ある」と言ふのならば、それは「あり」だと思ふ。さう云ふ小企業の「やる」事ならば、「コピー制限」のやうな「圍ひ込み」は、企業戰略として「成立たない」筈のものである。企業戰略として「コピー制限」が「成立つてゐる」現状は、さう云ふ「圍ひ込み」をやる主體が「大企業」と「御役所」だからで、言はば不當な獨占が行はれてゐるが故に、不當な形の「デジタル放送」が成立してゐるのである。巨大な勢力による「獨占」が成立してゐる現状、彼らだけの利益となるやうな形の營利としての放送は許されるべきでなく、彼らはヴォランティア的に利益を視聽者に還元すべきである。
と言ふか、今のやうな「デジタル時代」に、既存の著作權の概念は時代錯誤である。デジタル化を阻むのは、古い著作權の觀念である。著作權に據る既得権益を享受してゐる古いタイプの人間を驅逐しない限り、「IT化」は限界を直ぐに迎へる事であらう。人は俺を保守派だの反動だのと言ふが、俺は「現代の技術時代には或程度のアナーキズムが必然的に要請される」と考へる人間である。國境は、現實世界に「ある」が、インターネット上には「ない」(勿論、掲示板の論爭では「問題になる」が、そんな事を言つてゐるのではない)。領域によつて「アナーキズムは現實に存在してしまつてゐる」――それは事實として認めるしかない。全てを一元的に割切る事は出來ない。デジタル放送を「やる」人々には、もつとちやんと物事を正當に認識していただきたいものだ。今の放送業界の連中は、それが出來てゐない――俺が彼等を阿呆呼ばはりする所以である。利益一邊倒で規格やらなにやらを決めて、「使ひ易さ」とか「互換性」とかの技術的な道理を考へない、さう云ふ日本の現状は極めて異常だ。と言ふか、「コピー制限」をする・「ムーヴ」しか認めない、にしても、「ムーヴ」する先のデータを保存する爲のメディアが百パーセント完璧にデータを保存出來るもの・信頼出來るものでなければ、「ムーヴ」はバックアップ手段として「不確實なもの」=「博奕」にしかならない。ユーザは、一發勝負の「博奕」を打つよりは、失敗しても恢復可能なものを望む――不當な「コピー制限」のやり方は、ユーザが「コピー制限」を囘避す可き理由となり得る。要は「今のよりはもつと増しなやり方があるだらう」と。そして、利益一邊倒の考へ方をしてゐる現状では、改善される見込みは全くないと、俺は思つてゐる。
どうせまともにならないのならば、デジタル放送なんて轉けてしまへと、俺は嫌な期待をしてゐる。デジタル放送の未來は暗い。今の無茶苦茶な數のTVアニメは、アナログ放送が終了すると同時に激減すると思ふ。アニメ趣味は「今が旬」である。時期を過ぎる前に樂しんでおくに越した事はない。どうせ何時までも人はアニヲタでゐられる訣でもなからう。
平成十七年八月二十一日
……と思つたら。
デジタル放送の「コピーワンス」運用見直しを検討開始
ITmedia ライフスタイル:デジタル放送のコピワン番組、運用見直しへ
一往見直しをするみたい。苦情の數が多過ぎてメーカが音を上げた模樣。判り易過ぎるくらゐに判り易い不便・不合理は、多くの人からちやんと反感を買ふものであるやうだ。見方を變へれば、生活水準が上つて「贅澤な望み」が「當り前」になつた時代らしい事態である。戰後直後のどさくさに紛れてやつてゐたら「コピー制限」は大成功だつたに違ひない。

平成十七年八月二十日
NHK BSのガンダム特集。御禿さまインタヴュー。なんかアニヲタ以外の一般人にも影響を及ぼさなければならなかつたけれどもそれが出來なかつたから失敗とか、改憲論者を出してしまつたから失敗とか言つてゐる。餘計な主張を盛込み過ぎた1st以後の作品よりも、聯邦の駄目な御偉いさんなんかは出したけれども戰爭を單なる「惡」とは思はせない1stの方が「より多くの人に受けた」と云ふ事(の意味)を、御禿さまは解つてゐない。九時間全部觀た人は乙。
平成十七年八月二十日
ガンダムの裏でやつてゐたANIMAXの宇宙交響詩メーテルの録畫に失敗。メーテルの録畫に失敗するのはこれで二度め。一度目は、EPGの配信ミスでCATVのホームターミナルがタイマー豫約を全部ミスるやうになつて失敗。今囘は、月曜深夜〜金曜深夜=火曜日早朝〜土曜日早朝の枠なのにチューナの豫約を月曜〜金曜に設定したので失敗。これは、絶對に使はれる事のない「毎日録畫」の設定は實裝するのに「火曜〜土曜に録畫」の設定を實裝しないチューナのメーカの技術者が無能な所爲。メーカはパナソニック。やけに動作が遲いとか、いろいろ駄目なホームターミナルだが、J:COMは變へない積りらしいし、實際、これの他に撰擇肢がないらしい。デジタル放送にまともに對應したケーブルテレビ向けのホームターミナル、何處のメーカも作つてゐないみたいなのだ。デジタルTVとかDVDレコーダとかで使ひ易い製品を作つてゐる東芝がパナソニックの糞チューナを超えるチューナを作つて呉れれば助かると言ふか有難いのだけれども、まあ無理だらう。取敢ず、メーテルは絶對に録畫に成功しない事が判つたので、最う一生觀ない事に決めた。
平成十七年八月二十日
ひるあんどんの雑録

平成十七年八月十九日
2004 JIS をめぐる混乱
Diary / + PCC + / Pasts「2004 JISの責任を負ふ、とは?
月と太陽のおもいで。 - 「2004JISをめぐる混乱」への批判
はてなの茶碗 - 2004 JISの諸々
kahusiの日記擬き - 2004 JIS
Open ブログ: ◆ 文字規格の歴史
「劍劒剣」を全部收録してゐる文字セットを土臺に、包攝の概念だの何だのと後附けの理論をでつち上げて文字セットを弄つて何をしたいのだらうと思つてゐる俺に、この手の問題に何か建設的な提言をする氣は全くないから、以下の文章は只の煽りに見えても當然だし、俺もその積りで書いてゐるから、當事者の方々はそれを承知で讀んで下さい。具體的な事實に基かないで、イメヂで語つてゐるので、必ずしも歴史的に正確な記述にはなつてゐない。觀念論・抽象論のレヴェルではこれで十分だと思ふ。
今の日本語の文字コードだの文字セットだのは、根本的に腐つてゐるんですよ。それもこれも、「正統なんて觀念は崩れ去つてゐる」なんてほざいたり、便宜主義や政治的な損得勘定で言葉の問題を判斷するやうな、腐つた根性の連中が絡んでゐるから生じた問題です。「通じれば良い」のやうな好い加減な考へで、互換性の高い「正しい文字セット」を作れる訣がないでせう。それが當事者の馬鹿どもには解つてゐない。今までの全ての文字コード・文字セットの議論は、當座「それつぽく見える理論」で「それつぽく」處理されて來たに過ぎません。もちろん、當事者は眞面目に議論してゐる積りです。しかし、宗男みたいに「額に汗してやつてきた人々がゐるのですよ」なんて言はれても、「ゼロからやり直す」事を言出さなかつた連中に眞摯さがあつたと、私は認めません。屑のやうなJISの文字セットに繼接ぎして、延命措置を施してゐる連中は、彌縫策をとつてゐるに過ぎません。
平成十七年八月十九日
文字コードの問題は、國語學・言語學の問題として文字を扱へる人間に任せなければならなかつたのであり、それを政治問題として扱はうとしたこれまでの全ての文字コード問題關係者の罪は萬死に價する。日本の國字問題の關係者には、餘りにも政治主義的な人間が多過ぎたし、現在も多過ぎる。とは言へ、それは、日本の國語學・言語學の專門家に、既に政治主義者が多過ぎたのが原因で、國語學・言語學の專門家にそもそもの罪がある。が、「日本人が政治を餘りにも重視してゐる」事にこそ根本的な問題があるのであり、國語學・言語學の問題はその日本人の「政治主義體質」の問題が現はれたものに過ぎない。政治的に決着させようとばつかりして來て、それが積み重なつて擧句につちもさつちも行かなくなつて、それでヒステリックに騒いでゐる。どうしようと言ふのだらう。JISの文字セットの問題は、理念のレヴェルから考へ直さなければ、絶對に解決しない。政治的な決着は、當座の解決にしかならない。
平成十七年八月十九日
と言ふか、「野嵜」でも「野崎」でも同じだらう、どつちで呼ばれても俺は俺だ、と考へる俺には、之繞の點が一つか二つかで大騷ぎする連中の氣が知れない。「御先祖樣が使つて來た字を大事にしたい」とか言ふ奴は、何で歴史的かなづかひを使つてゐないのだらう。御先祖樣は「現代仮名遣」を使つてゐたのだらうか。適當に場當り的な説明をするものではない。全く、何を詰らない處で拘つてゐるのだらう。日本人は屡々、本質的な理念の缺如を氣にせず、運用で發生した些細な問題の場當り的な解決に血道を上げる。
平成十七年八月十九日
正字體をベースに、略字體を實裝するのなら、すつきりとした仕樣が出來る。逆は不可能。それだけの單純な話が、頭の良い方々には全然理解出來ないらしい。之繞の點が一つか二つか――そんな問題だつて、正字體が「ある」と認めて、「正しい」と云ふ觀念を受容れた上で、文字セットを作れば、幾らでも解決のしやうは考へつける筈だ。今の文字セットみたいに、字體毎にコードを割當てたり、包攝の概念で一緒くたにしてしまつたり、適當にやつてゐれば、それは問題が起るだらう。
と言ふか、今の日本語の漢字はそもそもの「当用漢字」「常用漢字」のレヴェルで狂つてゐるので、そこから直さなければならない。「辨辮辯瓣」を一つの字體に纏めてしまつた時點で、まともな文字セットが作れなくなつてゐる事は自明。現在の略字が、全ての問題の元兇なのだ。「辨辮辯瓣弁」は、全て別の文字として、それぞれにコードを割當てなければならない。そして、結果として、「字體が異なれば全て別のコードを割當てなければならない」と云ふ原則が要請され、一方で、それでは數が多すぎるとの理由で「包攝」なる概念が導入されなければならなくなる。「藝芸」の問題も同じ。
そんな訣で、國語審議會の方針だのJISの委員會の方針だのは、全部無視すべきだ。政治的な解決しか考へてゐない連中の言ふ事は聞いてはならない。そして、俺の豫言はとても良く當るのだが、俺の言ふやうな「ゼロからやり直し」は、この日本國では絶對に「ない」。「やつてゐられるか」の一言で、彌縫策が延々積重ねられて行くだけである。大體、まともな「國語觀」を持つてゐるJISの委員や文部科學省の役人が、一人だつてゐるものか。國民からして「正しい」「正統」の觀念を馬鹿にしてゐる。國語問題・文字コードの問題を何とかするには、日本には人材がゐない――百歩讓つて「足らない」。
俺が本気で文字コードの問題を論じられないのは、正しい解決法が解つてゐるのに、それが「政治的に採用され得ない」と云ふ事もまた判つてしまつてゐるからだ。或は、今の文字コードの問題は、量の問題であり、質の問題ではない。俺は、質の問題とか原理の問題とか理念の問題とかならば喜んで論ずる。しかし、「どの字體を捨て、どの字體を拾ふか」なんて、當座の運用の問題を、みんな一生懸命論じてゐる。そんなのは、俺にとつて、餘りにも詰らない問題だ。論ずる氣になれない問題だ。暇人がやつてゐれば良からうと思ふ。俺も暇人だが、みんなも暇人だよ。
俺は文字コードの問題に關はつて「額に汗して頑張つてゐる人」を平氣で馬鹿にする。「無駄な努力」とも言ふ。理念拔きで、表面的なレヴェルで實裝の問題についてあれこれ騷いでゐる。そんなのは、馬鹿のする事だと思ふ。馬鹿と云ふ言葉が穩當でないと言ふのならば、小利巧な奴のする事だ、と言換へても良い。言換へは皆、大好きな事だらう、御氣に召す事と思ふ。JISの文字セットは、どんな彌縫策をとつても、絶對にまともなものにはならない。根本的に腐つてゐるのだ。根本的な處からやり直すしかない。そして、日本人は「根本的な事」が憎くて憎くて仕方がないらしい、「正しい」「正統」と云ふ概念は憎惡と輕侮の對象である。それでは日本人にまともな漢字の文字セットなど作れる筈がない。
平成十七年八月十九日
一往言つておくけれども、俺は他人を馬鹿にして悦に入つてゐるのではないよ。寧ろ、俺に非難された人こそ、俺を「中二病」とか呼んで馬鹿にして喜ぶのではないですか。まあ、俺が俺の事を定義しても決して信用出來るものではないから、俺は悦に入つてゐるとしよう――もし假に、俺が悦に入つてゐるとしても、しかしそれは「御互ひ樣」と云つた事になるのではないですか。
理念だの正義だのと言つてゐる俺が「坊つちやん」である事は、良く自覺してゐる。だが、みんな、惡い意味で「大人」になつてしまつてゐるのではないですか。「大人」ならそれで「良い」と云ふ訣でもないでせう。どんな人にも、「大人である側面」と「子供である側面」とがあつて良い。今の人は、惡い意味で「大人」になつて「子供」を馬鹿にするけれども、それは「自分の事を棚に上げ」と云ふ奴ではないですか。「俺には最早『子供つぽいところ』は全く無い」なんて斷言出來る人は、何處にもゐないでせう。或は、「大人」の考へだつて「子供」の發想で相對化する必要がある、と俺は思ふ。何か知らんけれども、相對主義の人は、變なところで自分の觀念を絶對化するから、反省した方が良いと思ふよ。
平成十七年八月十九日
劇的效果は、演劇では極めて有效なのだけれども、殘念な事に、日本の御芝居では意外な程、御目にかかれない。特に日本の演劇は、アングラ的な演劇ばつかりで、科白劇の類が存在しないから、劇的效果も存在しない。ただ、スペクタクル的な演出があるだけ。そんな演劇を觀る必要はない。
科白の繰返しだとか、伏線を張つて囘收したりだとか、その種の劇的效果は、なぜか日本の御芝居では無視されてゐる。「夕鶴」みたいな、氛圍氣の御芝居はいつぱいある。實寫のドラマも、大體さう。
で、寧ろアニメにさう云ふ效果は屡々見られる、と。この間の極上生徒会とか、今夜の苺ましまろのAパートとか。極上、浪花節的な「落ち」が待つてはゐるし、本質的に「ギャグ」なのだけれども、「佐藤仁史、28歳、職業弁護士、両親は資産家、これ以上にない好条件なお相手」の囘では科白の繰返しが使はれてゐて效果を擧げてゐた。今夜の苺ましまろ、アルバイトの御話、Aパートでやつぱり繰返しネタが使はれてゐた。Bパートで美羽にむかつかなければもつと面白かつた筈。
平成十七年八月十九日
なんでタイトルがかちあふのか不思議な今期。奥さまは魔法少女とおくさまは女子高生。どつちも駄目あにめだけれども、どつちも最近御氣に入りになりつゝある。魔法少女の方、中の人が永遠の十七歳の人は何うでも良いけれども、中の人が清水愛の娘が良いので觀てゐる。突込みが餘りに的確で吹いたり。ここ二囘ほど作畫が非道いのだけれども。女子高生の方、某実況板のMXスレの所爲で毎週二囘づゝ觀る羽目になつて云々。「ギャグ」だと思つて觀るとそれなり。
平成十七年八月十九日
グランドキャニオン - Google 検索
平成十七年八月十九日
ナスカの地上絵 - Google 検索
マチュピチュ - Google 検索
モヘンジョダロ - Google 検索
マヤ文明 - Google 検索

平成十七年八月十八日
R.W.エマソン『アメリカの學者 他三篇』
西歐文明の中心と周邊とでは、「同じ文明に屬する」と言つても、思想に異る傾向があるやうに思はれる。西歐の「中心」の地域である(さうに決つてゐる)ヨーロッパ――イギリス・フランス――の思想が普遍的・超時代的な傾を帶びるに比べると、同じ「西歐文明」に屬してはゐてもその「周邊」に屬する地域であるアメリカとロシアとでは、或時代にのみ通用する・(言つてみれば)相對的な思想が支配的であるやうに思はれる。
典型的な「周邊的」思想として、マルクス・レーニン主義が擧げられる。「マルクス主義はもともとドイツの思想だ」と反論される可能性があるけれども、ドイツもまた「周邊」に近いのであり、境界的であるけれども、マルクス主義は境界的な思想の中でも特に急進的であり、結果として「周邊的」に屬してゐると考へる。そして、レーニンやスターリンと結合して成立したソ聯的な共産主義は、明白に「周邊的」であつたと言へるだらう。その相對性、或は、時代に依存した思想である事は、ソ聯崩潰で明白だと思はれる。
一方、また一つの「周邊」としてアメリカを想定出來ると考へる。アメリカの獨立革命はフランス革命と連動したものだつた。アメリカの建國の精神は、フランス革命の精神と共通する。そして「周邊」に到つて土俗的な方向に「急進化」してゐる。共産主義と違つてアメリカの自由主義は、早い時期に成立したものであり、キリスト教と結合して、穩健な性質を失つてはゐない。けれども、ロシアの共産主義もまた、キリスト教を敵視しながら、結局は「アンチキリスト」としてキリスト教の傳統の延長上に存在する。ロシアの共産主義も、アメリカの自由主義も、「神を否定し、人間が自ら」か「神の代りに人間が」かの違ひはあつても、結局は「人の手によつて地上に樂園を齎す」事を目的としてゐる思想であり、ともに默示的な性質を持つ――指導者なり國民なりは「選ばれた人間」としての自負を持つ。
エマソンの演説なり講演なりには、その詩的な精神の現はれた行文の美しさとともに、使命感を強く意識した自由主義的な精神が看て取れる。そして、さう云ふ詩精神と使命感との結合は、共産主義の文獻にも表はれてゐる。兩者の背後には、共通する精神的傾向がある。
ロシアの共産主義にしてもアメリカの自由主義にしても、時代的な思想・相對的な思想である。既にマルクシズムの文獻が批判的に讀まれるしかない歴史的文獻でしかないやうに、エマソンの講演もそのまゝ受容れる訣には行かない文獻でしかない。が、ソ聯が崩潰してマルクシズムの文獻が反古同然になつた一方で、エマソンのやうな建國期のアメリカの文獻は現在も歴史的な關心から讀まれる理由がある。現在もアメリカは自由主義の國として存續してゐるからである。「國家が存在する」と云ふ理由で「讀まれる理由がある」とするのは、結局のところ相對的な價値をしか認められない事を意味するし、私にとつてエマソンが詰らなく感じられる理由だ。
けれども、9・11以降の「テロリストに對する戰爭」の觀念の出現、「イラク戰爭」の遂行について、のみならず、かのヴィエトナム戰爭や、大東亞戰爭についてすら、その根柢にある「アメリカ人の發想」を理解する必要があるのであり、それには建國期の文獻を史料として讀んでおく事は必要だらう。エマソンの意圖したやうに、教訓的に讀む必要は、必ずしもないだらうと思ふ。詩的な美しい譬喩の使用と、使命感の發露――これらの事から、例へば、寺田透が「詩の復権は可能か」(『講座哲学大系6』所收)で述べてゐる「個人主義を超えた體制下でしか詩は存在し得ないのではないか」のやうな、事實の側面からの感想を聯想する事も、許されるだらう。

平成十七年八月十七日
かつて2ちゃんねらーを禮讚し、自らも2ちゃんねるでスレを立てて、如何にも2ちゃんねらーらしい言葉遣ひをしつゝ、熱心に野嵜を攻撃してゐたnoz_watcherこと新霊光輝が、ただ、2ちゃんねるの戯れ言を気に病んでブログで弁明(?)する行為は正直感心しない。と前田嘉則氏に忠告してゐる。何時の間にか、2ちゃんねらーの發言はnoz_watcherの中で戯れ言に成下がつたやうだ。
前田嘉則氏は馬鹿なのか? 心の羅針盤/ウェブリブログ
noz_watcherは今、以前の「ブログ」を消して、過去の「自分」を抹殺した積りになつてゐる。さう云ふ「變り身」をするのは如何なものかと思はれるが、彼の「變り身」にはそれ自體、まだしも同情の餘地があり、文中の自慢話も苦笑しながらも聞き流せた、その辯解は不愉快ではあるが、また、しをらしい面もあるが、今度は2ちゃんねらーから轉身した「福田恆存ブロガー」として大向うの受けを狙つて、餘りにも粗雜に書流してゐる
新霊光輝ことnoz_watcherは、評論家の福田恆存や松原正の著作を愛読し、ネット上の掲示板などで旧かな旧漢字(彼らは正字正仮名と呼ぶ)を使いまくり、自分のことを「反時代的教養人」だと信じて疑わない人たちに「ノズラー」のレッテルを貼り、執拗に攻撃を續けてゐた。
今、そのnoz_watcherが、前田氏を擁護して見せる文章、それは一見、「公平な態度」に見えるものになつてゐる。しかし、noz_watcherのかつての粗雜な論理展開から、今の彼の論理も推測出來るのではないか。noz_watcherには惡いが、私はnoz_watcherを信頼する事が出來ない。noz_watcherが言ふやうに、「ノズラー」が「松原氏の發言を疑はねばならない」のであれば、それ以前に「ノズラー」は「noz_watcher自身の發言を疑はねばならない」のである。そして、noz_watcherの文章は、疑はうとすれば幾らでも疑へるやうなものでしかない。「疑ひ」が發生する責任は、讀み手である私にではなく、書き手であるnoz_watcher自身にある。
noz_watcherは今、松原正氏と氏と対立している西部邁・西尾幹二両氏を共に好きな批評家として挙げていることをもって、「前田氏はノズラーではない」と考へ、ただそれだけの理由で擁護し賞讃して見せてゐるに過ぎないのではないか。
noz_watcherの魂膽は、何時でも餘りにも見え透いてゐる。今囘もさうであらうと私は確信する。まぁ、前田氏を「馬鹿」呼ばわりしたのはどの辺の奴であるかは、大方見当は付く。とnoz_watcherが曖昧な書き方をして、當てこすつてゐるのを見れば、彼の惡意は明かである。noz_watcherは、ただ單に、西部邁・西尾幹二両氏を賞讃しない人間を敵と看做し、人間以下の存在として見下したいだけである。noz_watcherは西部邁・西尾幹二両氏が大好きで、この両氏を非難する人間を何とかしてやつつけたい。今囘も、さう云ふ訣で、noz_watcherは「或種の讀者」を苛立たせる爲に、「煽り」の文章を書いて公開してゐるのである。彼は「純粹に批評的な立場から、公正に物事を見る」なんて事の出來ない人間である。彼にとつて「公正」と云ふものは、自らの印象を良くする爲に必要な、利用すべきイメヂであるだけである。
noz_watcherが前田氏を襃めるのは、ただ單に、西部邁・西尾幹二両氏を非難する「ノズラー」に當てつけてゐるに過ぎない。noz_watcherは決して前田氏を支持したい訣ではない、單に「ノズラー」に當てつける爲に前田氏を利用してゐるだけである。かう云ふ人物は、ちよつとした事ですぐ人を裏切る――と言ふより、當人は最初から利用するだけの目的で人と接してゐるから、裏切つたと云ふ自覺を持たない。前田氏を裏切る時、noz_watcherはきつと「公正な立場」を標榜する。noz_watcherは、「公正な立場」から、見下したやうな口調で、人をばつさりやる。ばつさりやつて好い氣になる。noz_watcherは以前、野嵜に對して、「野嵜クン」「チミ」と言つた。どうもnoz_watcherには「我こそが本物の反時代的教養人なり」と自負して他の「僞者の反時代的教養人」を見下してゐるらしき氣配がある。
前田氏に忠告するが、新霊光輝=noz_watcherを信頼してはいけない。判り切つた話だと思ひますけれども一往。
と言ふかnoz_watcher。例によつてネットバトルにばつかり興味を持つて、具體的に前田氏の「ブログ」の興味深い發言に言及したりしないのは如何なものか。良い事を言つてゐるのなら何處が良いかを指摘して、それに關聯して意見を述べるなり何なりした方が、「支援」としてもより有效ではないか。ただ漠然と「態度」を「支持する」と言ふのでは、政治家の派閥爭ひみたいで印象が惡い。noz_watcherは「同じ福田恆存ブログ」に媚を賣つて許りゐるが、實に見苦しい。2ちゃんねらーレヴェルの「論評」は好い加減卒業したら何うか。と言ふか、今のまゝではnoz_watcher、「當てこすりや皮肉の爲に福田氏を利用してゐる」とすら見られかねない。それはnoz_watcherの本意ではなからう。
平成十七年八月十七日
現代教養文庫版エッカーマン『ゲーテとの対話』を讀了。ゲーテの晩年の言葉を纏めたもので、ニーチェが愛した本。ゲーテの忠實な弟子エッカーマンの謙虚で私心の無い態度が好ましい。特に「信者キモい」みたいな事を言つてゐる人には一讀をおすすめする。
解説

……この本にもケチをつけようと思えば、いくらもケチはつくのだ。たとえば、エッカーマンが文筆上の侍従として仕えた王者ゲーテは、さすがに王者の貫禄を十二分に発揮して、老齢に及んでも十七歳の小娘に恋愛し、結婚まで真剣に考えるほどの「大きな人間」だったのに、惜しむらくはこの本には、ゲーテのそういう「くりかえされた青春」の痕が、ほとんど記録されていないのである。あるいはまた、法相ミュラーが記録しているような「人間ゲーテ」、つまり癇にさわると、一晩じゅう、辛辣この上もないことばを吐きちらすゲーテといったものは、この本には顔を出さないのだ。

しかし、それこそ、この本の貴重な点なのである。なぜなら、そういう「人間ゲーテ」は別に珍しいことでもないではないか。ゲーテとても人間なのだ。むしろ、稀有なことは、そういうみじめなボロを出さない聖者・賢人ゲーテをここに確立したエッカーマンの一途な思い、至り難い人間の極致をここに結晶させたエッカーマンの誠実な人となりではないか。

そういうことが、本当にわかるためには、おそらく年齢を重ねる必要があるであろう。私たちはこの本を熟読することで、とうてい及びがたいとは知りつつも、人間の高さ、深さの限りなさに敬意をあらわそうではありませんか。

秋山英夫譯の教養文庫版は抄譯。完譯は日本文庫の神保光太郎譯『ゲーテ對話の書』や岩波文庫の亀尾英四郎譯『ゲエテとの對話』その他がある。

平成十七年八月十六日
月下美人が咲いた。
平成十七年八月十六日
TMPGEnc DVD Author 2.0、なんでこんなに出來が惡いんだ?

平成十七年八月十四日
Google Print
ITmediaニュース:Google、出版業界の反発受け書籍スキャンを一時中断
平成十七年八月十四日
「IE依存のサイトで問題ないか」:米国議会図書館著作権局が意見を募集 - CNET Japan
平成十七年八月十四日
齋藤孝のホームページ
今日の新聞に載つてゐた廣告より。
齋藤孝先生 推薦!『書いてみよう ニッポン 日本国憲法』(アスペクト)
齋藤先生、「声に出して読みたい日本語」のやうな著書を出してゐて、明治大学文学部教授であらせられる訣だけれども、まあ、日本語の專門家の先生だと言つて良いだらう。その齋藤先生が「日本国憲法」の書寫の本を推薦してゐる。そんな訣で、齋藤先生は「日本国憲法」の文章を日本語の文章として「良い」と認めてをられるから、「讀者」に「なぞり書き」させる本書を推薦してゐると考へざるを得ないのだが、果して「日本国憲法」は「良い文章」か。
「日本国憲法」が、英文で草案が作られ、それを飜譯したものである、と云ふ事は良く知られてゐる事實だ。もちろん、飜譯であつても、まともな日本語の文章となつてゐる事はあり得る。が、實際の「日本国憲法」の條文は何うか。福田恆存氏も「當用憲法論」で指摘してゐるが、「日本国憲法」の條文は澤山の惡文を含んでゐる。日本語として不自然である、意味が不明瞭である、論理的に可笑しい、云々。そんな「惡文」を含む「日本国憲法」を「なぞり書き」させようと言ふのが、この『書いてみよう ニッポン 日本国憲法』なる本である。
齋藤先生に御尋ねしたいが、先生は「日本国憲法」の文章をどのやうに評價してをられるのですか。「惡文」ではない、「声に出して読みたい日本語」だと評価してゐるのですか。さうでないと言ふのならば――あなたは日本語の專門家でせう、どうして「惡文」を含む「日本国憲法」を「なぞり書き」させるやうな本を推薦してしまつたのですか。
いづれにせよ、私は齋藤先生の日本語に關するセンスと日本語に關する全ての發言を疑はざるを得ない。
Amazon.co.jp: 本: 書いてみようニッポン 日本国憲法
Yahoo!ブックス - 書いてみようニッポン 日本国憲法
セブンアンドワイ - 本 - 書いてみようニッポン 日本国憲法
平成十七年八月十四日
ジョンソン『シェイクスピア論』(昭和二十三年十一月三十日發行・思索社)讀了。讀了と言ふか、もともとジョンソン博士の校訂になるシェイクスピア全集の序文であつた「シェイクスピア論」のパートのみ讀んだ。四百ページ弱ある本だけれども、シェイクスピアの御芝居の註釋を除いた「シェイクスピア論」は百ページ分しかない。この「シェイクスピア論」でジョンソン、從來のシェイクスピアの評價に就いて批判したり、自分の校訂の方針に就いて説明したりしてゐる。まあ大體この手の概論は穩當なものが多い訣だが、ジョンソンの文章、參考になる指摘が幾つもある。ジョンソン曰「シェイクスピア初心者は、一々細かい註釋に煩はされないで、一通り讀んで戲曲の樂しさを理解すべきだ。さう云つた樂しみを失つてしまつた人が註釋を讀めば良い」。今囘はありがたくそれに從はせていただく事とする。ちなみにジョンソンの註釋は、のちにコールリッジが反論してゐるが、寧ろジョンソンの方が正しかつた、と云ふものもあつて、極めて有益である模樣。ジョンソンのシェイクスピア論は、註釋も含めて「シェイクスピア論の基本文獻」であると言つて良い筈。思索社版は、吉田健一譯なので、讀み易かつた。
ちなみに同書は、古書價が五千圓になる場合があるやうだ。(參考:古本 あじさい屋英米文学)當方所藏のものは、田村書店の無料箱から拾つた表紙缺の非道い状態。

平成十七年八月十三日
學研新漢和大字典(平成疑問かなづかひ)
疑問點。
しかしじつは近年、國語辭典や漢和字典の字音假名遣は大きく樣變りしてゐるのである。たとへば「ばうし→ぼうし(帽子)」「ずゐぶん→ずいぶん(隨分)」などは、ほとんどの辭書でひっそりと改められてゐる。――辭典において字音の表記が昨今變化してゐる事實を高崎氏は指摘してゐる。これが問題で、高崎氏は「辭書の表記」にしか注目してゐないのである。高崎氏は「字音の研究成果」として「辭書の表記」を受容れてしまつてゐる。しかし、「最近の字音の研究」そのものに言及し、典據としての文獻を明示しなければ、説得力を缺く事になるのではないか。
ただ、「-ゃう・-ゅう・-ょう」は必ず「ng韻尾」といふ法則が、「逆もまた眞」でなくなる影響は大きい。ng韻尾はすべて「-ゃう・-ゅう・-ょう」であった方が、北京語や朝鮮語などとの連絡が單純明快なのである。――字音假名遣は、北京語や朝鮮語などの「發音を寫したもの」であると高崎氏は述べてゐる。定義の注疏(平成疑問かなづかひ)假名遣とは、同音の假名を語によって使ひ分ける規則である。と云ふ電腦文字研究會のまとめた『正假名遣』定義を示してゐるが、その語によって使ひ分ける規則の基底に北京語や朝鮮語など發音が出て來るのでは、「表音主義」と何ら變るところがない、と言ふ事が出來てしまふのではないか。「ng韻尾」には必ず「-ゃう・-ゅう・-ょう」が對應する、のやうな規則は、北京語や朝鮮語などの發音を日本語の音韻に基いて書き表はす規則であり、假名遣の規則とは言へまい。發音符號のやうなつもりではいけないのだ、と高崎氏は書いてゐるが、高崎氏の考へる「字音假名遣」は「漢字の發音を正確に寫すもの」である訣で、現實に高崎氏は「字音假名遣」を發音符號のやうなつもりで扱つてゐると言つて良い。
平成十七年八月十三日
定義の注疏(平成疑問かなづかひ)で高崎氏は「使ひ分ける」のが假名遣の根本原理であると述べてゐる。
橋本進吉が表音的假名遣は假名遣にあらずで、假名遣を定義して、現今普通には、そんな廣い意味でなく、「い」と「ゐ」と「ひ」、「え」と「ゑ」と「へ」、「お」と「を」と「ほ」、「わ」と「は」のやうな同音の假名の用法に關してのみ用ゐられてゐる、と書いてゐるが、一方で、本來は假名のつかひ方といふ意味をもつてゐる、と豫め斷わつてゐる。
表記における規範としての假名遣ひを、技術的に扱ふのならば、慥かに「遣ひ分け」のレヴェルで話を濟ませてしまつて構はない。しかし、原理としての假名遣ひ、表記の規則が根本的・必然的に據つてゐる原理について考察する時、外見的な「遣ひ分け」のレヴェルで考へるのは不十分であり、トータルな表記の體系を構想しなければならない。「使ひ分ける」と云ふ性質は、假名遣の技術的な側面から觀察した際に見られる表面的な假名遣の性質に過ぎず、假名遣の本質ではなく、假名遣の根本原理である等と言ふのはとんでもない間違ひである。
表記の規則が生ずる必然的な根據を考へる際、我々は重大な困難に直面する――言語を考へる全ての人が理解してゐる筈の事だが、概念と語との關係が必然的な關係ではなく單に記號的な對應關係にあるに過ぎない、と云ふ事である。概念と音聲との關係は記號的な對應關係である。當然、語と表記との關係もまた記號的な對應關係である、と看做す事は、言語學の常識を受容れてゐる人には當然の事と考へられる筈である。そして、高崎氏の字音假名遣に關する考へ方では、かうした「常識的な考へ」に反論が出來ないのである。「中」が「ちゅう」だらうが「ちう」だらうが、「分かれば良い」のであり、實際、「ちゅう」を見たら「中」と思へ式の記號的な對應關係に基いた「規範」を作つても、實用上、問題は起らない。ここで「いや、何らかの問題が起るのだ、起るかも知れない、起つたら何うするのだ」と「反論」しても、それは説得力を持たない――そんな「何らかの問題」等は實用上の問題ではない、と一蹴されるだけである。それに對して有效な反論を行ふ爲には、現在の高崎氏のやり方では不十分だ。そして、「國語問題關聯の論爭にはかかはらないやうにする」からと言つて「問題を見ない」のは、單なる逃避である。敵に追はれた駝鳥は、砂に頭を突込んで「見えなくなつたから敵は最うゐないのだ」と思ひ込み、安心するのださうだが、これは「駝鳥の愚かさ」を言つた話なのであり、我々はさう云ふ駝鳥のやうな眞似をしてはならない。
平成十七年八月十三日
海馬日記 - 暇潰し
平成十七年八月十三日
手書き文字・書字・書写・書 上越教育大学・押木研究室 SHO / calligraphy handwriting / Graphonomics

平成十七年八月十二日
皆樣の聲(平成疑問かなづかひ)
前に比べるとまともなマーク附けになつてゐるのは評價出來るが、まだまだ不十分。例へば、bodyの直下に平成疑問かなづかひ―假名遣標準化計なる文字列があるけれども、明かに大見出しであり、h1でマーク附けするのが正しい。高崎氏は未だに「ブロックレヴェル要素」と「インライン要素」とが理解出來ないでゐるらしい。
Q & Aみたいになつてゐて、論爭しないと言つてゐる割に、いちいち「聲」に「反論」して見せてゐるのだけれども、氣に入らない點があるので「再反論」してみる。
貴ページは jis罫線を多用してゐて見づらい。
ホームページ上では jis罫線がぶつ切り状態で表示されるため、ずいぶん見にくいことお詫申上げます。ただ、漢字の音韻學は古來より圖示の巧拙が生命であり、なかなか文章だけでは示しきれないものがあります。また同じ作表をさまざまな場面で使ひ囘しする必要上、特定の環境に依存したデータは不便きはまりないのです。たいへん恐縮ですが、正しく讀むためにはカット&ペーストでエディタソフトに貼つけて下さいますやう、お願いたします。罫線の取扱はいろいろ惱んでゐますので、よい方法がありましたら是非御教示ください。
「JIS罫線が見辛い」のではない。「JIS罫線」や「空白文字」等を使つてテキストで整形してしまふのが「再利用し辛い」のだ。餘計なテキストの整形は、それだけでデータの再利用性を低下させる。そして「再利用し辛い」データは即「見辛い」データだが、「見辛い」と云ふ事はそれ自體として本質的な問題である訣ではない。
カット&ペーストでエディタソフトに貼つけても、そのエディタの表示フォントとして、等幅フォントでなく、プロポーショナルフォントが指定されてゐたら、依然、正しく讀む事は出來ない。そもそも、コピー&ペーストで、餘計な「JIS罫線」や「空白文字」がコピー出來てしまふ事が良くない事なのだ。高崎氏は、「JIS罫線」や「空白文字」を、必要なデータとごちやまぜにしてゐる。「整形」されたテキストによる「圖示」を含む高崎氏のテキストファイルにおいて、必要なデータは、ノイズである「JIS罫線」や「空白文字」の合間合間に僅かに出現するに過ぎない状態となつてゐる。必要なデータを高崎氏が作成した文書から取出すには、ノイズである「JIS罫線」や「空白文字」を削除する手間が必要となる。
よろしいですか、「JIS罫線」も「空白文字」も「單なるノイズ」です。必要とされる純粹な文字情報を高崎氏の作つたテキストファイルから取出さうとすれば、「JIS罫線」と云ふ餘計な文字や「空白文字」と云ふ餘計な文字を削除しなければなりません。文字情報として、「JIS罫線」と云ふ文字や「空白文字」と云ふ文字は、ノイズなのです。
「表はtableとしてマーク附けする」と云ふのがHTMLでは「決り」なのだから、その「決り」に默つて從ふべきだ。國字問題では論爭しないのに、HTMLの問題ではいちいち論爭したがる、と云ふのはをかしい。HTMLには定義がある。その定義に、どうしていちいち高崎氏は反論するのだらう。定義には忠實にと言ふのならば、實踐したら何うか。それに、HTMLのtableでマーク附けすれば、視覺情報は十分なものとなるし、文字情報はノイズを含まないものとなる。HTMLの規格は、「單なる定義」である訣ではなく、合理性も持つてゐる。高崎氏は、HTMLの何も理解しないまゝ、「一般的か何うか」のレヴェルで話をしたが、すべきではなかつた。もし、さう云ふレヴェルの話をしてゐれば良いと云ふのであれば、「一般的」である「現代仮名遣」を高崎氏は既に使つてゐなければならないし、その時點で高崎氏が正かなを支持すべき理由が失はれる。
「圖示したい」「圖示が必須」と幾ら主張しても、「テキストで圖示は出來ない」のであり、出來ないものは出來ないのだから其處で無理をするのは間違つてゐる。「テキストの整形」なんてものは、手段として間違つてゐる。高崎氏は、その間違つた手段を、正しい目的で聖化してゐるのだが、そんな事が許されないのは當り前の話。或は、パソコン通信時代の當用の方法を、技術が進んだ現在、わざわざ使ふ必要はない。現在は、正しい方法を使へるのだ。
國語の文法に關するメモ
うちでは、tableでマーク附けするのが面倒なので、Wordで作表して、PrintScreenで畫像化してゐる。圖であるとして割切るならばこんな方法も「あり」だらう。
平成十七年八月十二日
廣韻(平成疑問かなづかひ)
依然、マーク附けが全く改善されてゐない。その爲、HTMLの仕樣に從つて正しくHTML文書を解釋するウェブブラウザで、せつかくのコンテンツが「讀めない」まゝになつてゐる。
Operaでどのやうに表示されてゐるか。
平成十七年八月十二日
パティシエなうんこ - ころぺたの正字正假名表示
Gata Durmiente

平成十七年八月十一日
神保町の田村書店は十七日まで夏休み。
平成十七年八月十一日
谷徹『これが現象学だ』讀了。讀むのに三週間かかつたらしい。前もつてフッサールの本を適當につまんで訣ワカンネみたいな状態になつてゐるところで讀むと、現象學が良く解つたやうな氣になれる。
で、引續き、竹内薫氏のホーキングの本にとりかかつたのだけれども、こちらは頭を使ふ必要がない本なので、ばんばん讀飛ばせる。
平成十七年八月十一日
西歐の論理學や哲學が西歐の言語に基いて構築されてゐて、その上で西歐の言語學も成立してゐるのだけれども、この時、西歐の言語學はもとより、西歐の論理學や哲學やは西歐の言語に依存してゐる事は豫想出來る。で、ソシュールの言語學が記號學として成立してゐるのも、論理學や現象學で「Sはpである」式の表現でSとpとの關係だけを記述してしまふのも、孤立語である西歐の言語に特有の現象だと考へてしまつて良いのだらうか。
實際のところ、孤立語であつても、「てにをは」と似たやうな「概念過程を經ない語」は、西歐の言語にもある。それを考へると、現在の西歐の論理學やら言語學やらには、重大な見落しがあるやうな氣がしないでもない。俺の無知故の危惧ならば良いのだけれども。
ソシュールは、arbreについて考へて記號論的言語學を構想したのだけれども、pourだとかenだとかについてそれほど突込んで考へてはゐないやうに思はれる。構造主義的にtoとかforとかはどんな事になるのだらう――何處かで研究されてゐるのだらうか。それは日本語の「てにをは」について考へるのに、或程度は役に立つだらうと思ふのだけれども、誰か御存じないですか。
平成十七年八月十一日
檢索したら時枝誠記の言語過程説とBFスキナーの言語行動論[PDF]が引掛つた。
平成十七年八月十一日
言語過程説について
社會的に用ゐられてゐる語彙に基いて、個人の語彙は形成される。しかし、その時の語彙は、記號的なものであるから、社會的な語彙と個人的な語彙との關係も、當然の事ながら、單なる記號的な對應關係である。ならば、個人的な語彙に、敢て社會的意義を見出す必要はないのではないか。
「個人内部の思想と、個人から外部に發せられた表現とに用ゐられる語彙は、個人の『原語彙』が社會的な語意の形を借りて現出したものに過ぎない」と言ふ事は、可能か。良く解つてゐないで適當にそれつぽい言ひ方をしてみるけれども、「そんな感じ」の表現から野嵜の意を汲取つて貰へれば幸。
平成十七年八月十一日
言語を、例へばA→Bの間の、傳達の機能なり過程なりと看做した地點から考察し始める既存の言語學なり何なりには問題がある。
「Aの表現が必然的にBに屆く」と云ふのが、屡々、言語學の前提となつてゐる。その爲、言語を單純に社會的なものと看做す結果となつてしまふ。
しかし、AにはAの語彙體系があり、BにはBの語彙體系がある――それぞれの語彙體系は完全に一致してゐるものではない。この時、A→Bの傳達と云ふものは「あり得る」のか、反省してみる必要がある。
結果としての表現と必然的に一致し得るものは、表現以前の思考である、と見る事は不可能か。可能であるならば、それだけが必然的な關係を扱ふ確實な學問としての言語學に許された正しい考察範圍となるのではないか。
かうした觀點から、ソシュール的な言語學は反省されて良いのではないか。「そんな反省は不要である・無意味である」或は「既になされてゐる」と云ふ御指摘があれば、實はさう云ふ類の御指摘は待つてゐるので、詳しい知識を御持ちの方はいろいろな方法で野嵜にまで。
平成十七年八月十一日
チョムスキー……?

平成十七年八月十日
郵便物のが届かないなどの事故のお申出
平成十七年八月十日
http://www.phenomenology-japan.com/(現象学研究会ホームページ)
竹田青嗣公式ホームページ
Amazon.co.jp: 本: 現象学入門
竹田青嗣『現象学入門』、玄人筋には評判が惡く、素人さんには受けが良いらしいのだけれども、田村書店で百圓だつたので取敢ず買つて來た。何時か讀む。
平成十七年八月十日
ライオンとペリカンの会
平成十七年八月十日
学協会情報発信サービス トップページ
日本現象学会ホームページ
平成十七年八月十日
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平成十七年八月十日
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平成十七年八月九日
高田馬場の古本市に行つたけれども何も買はなかつたよ。代りに芳林堂で立讀み。神保町の本屋よりも立讀みし易い。
平成十七年八月九日
言葉は、「社會的なコミュニケーションの爲の道具である」と云ふ許りでなく「個人の中における思考・認識の爲の道具である」と云ふ觀點は何うか。
話し言葉は「傳達」の爲に屡々使はれる。書き言葉も勿論「傳達」の爲に屡々使はれるが、さうでない目的の爲にも使はれる。日記は、書き言葉で書かれるが、個人的なものであり、他人に何かを傳へる爲のものでない場合が多い。
話し言葉にしても書き言葉にしても、多くの場合、結果としての表現に我々は注目してゐる。しかし、表現される以前の過程として「言語は存在してゐないのか」を我々は檢討して良いのではないか。判斷を行ふ際、基體Sに對して、規定・意味pを結び附ける。この時、既に「Sはpである」と云ふ言語が成立してゐる、と看做す事が出來る。
我々は言語を根本的に再定義しなければならない。「コミュニケーションの爲の道具」と云ふ定義は、それ以前に、「判斷の爲の道具」のやうな定義を必要としてゐる。個人と個人との間の情報のやりとりは、それ以前に、個人の内部における情報の生成を必要としてゐる。
このやうに考へて來ると、例へば「言葉は変化する」と云ふ「常識」も疑はれなければならなくなる。ここで言ふ「変化する言葉」とは、どのやうに定義された「言葉」なのであるかを、我々は明確にしなければならないのである。「コミュニケーションの道具」としての「社會的な言葉」と、「思考・判斷の爲の道具」としての「個人的な言葉」とを考へる時、「言葉は変化する」と云ふ言ひ方は「社會的な言葉」に對する觀察に基いてゐると言へる。さて、「社會的な言葉」と「個人的な言葉」とは、相關關係がある。「個人的な言葉」は、社會生活を通して「社會的な言葉」を基に個人個人が獨自に作り上げる。さうして出來上つた「個人的な言葉」の語彙體系は、話し言葉なり書き言葉なりの形態をとつて、個人の外部に表現される。この表現が社會に現はれて、初めて「個人的な言葉」は社會に還元され、改めて「社會的な言葉」の成立に寄與する事になる。この時、「社會的な言葉」が變化する爲には「個人的な言葉」が事前に變化してゐる必要がある、と云ふ事は明かである。「變化するものだから變化するのである」と云ふ「言葉は變化するものだ」論は、最早この時點で成立たない事が判る。ところが、事前に變化してゐるべき「個人的な言葉」が、如何にして變化するものであるかは、餘りにも屡々見過ごされてゐる。「社會的な言葉」にしか注目出來ない人は、「個人的な言葉」を見過ごして、一面的に「言葉は變化するものだ」と獨斷的に言つてしまつてゐる。
先づ、「社會的な言葉」からずれた「個人的な言葉」が作られる。その「個人的な言葉」が社會に投げ返されると、「正しくない言葉が發せられた」と觀察される。この觀察は、結果としての「正しくない」の觀察に過ぎず、「ずれ」が生じた原因を見過ごしてしまつてゐる。「正しくない」が、「社會的な言葉」として定着してゐる或種の語彙體系と、表現に現はれた語に據つて端的に示される「個人的な言葉」の語彙體系との、單なる「違ひ」として見られてゐる限り、「正しさ」の觀念はナンセンスである。しかし、「個人的な言葉」を作る際の、既存の「社會的な言葉」からの「コピー」の過程を考へる時、「劣化コピーが生じた」と見るならば、正不正の價値判斷が表現に對して許される理由が生ずる。また、例へば基體「雪」に規定「白い」でなく規定「赤い」を結び附けた時、その結合の結果としての「雪は赤い」が「判斷として誤である」と言ふ事が可能となる。或は、「雪は白い」と云ふ「正しい判斷」の表現として「雪は白くない」と言つた時、肯定の表現と否定の表現とが誤つて取違へられたと看做す事が出來る。かうした判斷の「誤」を前提とした「個人的な言葉」の「社會的な言葉」に對する「ずれ」は、「變化」と言ふ以前に「誤」と評價する方が適切であらう。判斷の「誤」が大規模に發生しても、それが飽くまで判斷の時點での「誤」である限り、結果としての表現もまた「誤」と評價する事が出來る。「社會的な言葉」のみの觀點から名詞を記號と看做す事は、觀察不足である。
「記號學としての言語學」「構造主義的な立場に基く言語學」において、實證可能な觀察對象を我々は「記號と云ふ構造」と呼んでそれに着目するに過ぎない。そして、構造としての・記號としての言葉に關する学問では、單なる「事實の陳述」以上の事は許されないのであり、そこから「可き論」の類は成立させてはならない。構造の陳述が、「あるべき構造」の理論に轉訛した時、餘りにも一面的な思想が出現する――それは危險思想である。「階級鬪爭」が「構造の陳述」である限りは學問であるのに對し、「階級鬪爭史觀」に基くマルクス主義は「あるべき構造」を實現する爲の思想でありイデオロギーである。
平成十七年八月九日
谷徹『これが現象学だ』、後一日くらゐで讀み終へられさうなのだけれども。
西歐の哲學なり科學なりに就いて、「所詮は假説の上に樹てられた論理に過ぎないのだらう」「所詮相對的に正しいだけの論理に過ぎないのだらう」と云ふ批判があり得る。さう云ふ批判に反論する爲、フッサールは一生懸命學問が成立つ爲の條件を考察した――それが「嚴密學としての哲學」としての「現象學」であると。これはこれで「あつちの世界」に行つてしまつてゐるやうな氣もするけれども、合理主義とか論理主義とかを云々する際に一往知つておくと便利な考へ方だとは思ふ。
平成十七年八月九日
現象學の系統の學問は、構造主義とか脱構築とかの系統と微妙に違つてゐて、興味深いのだけれども、一方で、結局のところ、西歐の言語・言語學をベースに論理を考察してゐるので、結局「構造」の話で終つてしまふ。其處が不滿。
「Sはpである」と云ふ述定的判斷の形式は、疑はれない。「ある」と云ふ言ひ方が精々問題になるだけである。「は」とは何か、は、今の處、論理學的には何の意味もない問題である。
日本語の「てにをは」の類は、「格」等の側面から言語學・國語學が説明するけれども、論理學の觀點から・論理の面から、どのやうに説明すべきか、と云ふ事は、今の處、誰も考へてゐない。日本語に於ける「てにをは」とは、認識とか判斷とかに於て、何を意味するのですか。何うしてそれを誰も考へないのですか。
――と、俺は無知だから、適當な事を放言してみる。俺の知らない處で既に偉い先生が何か優れた業績を上げてゐると云ふ事實があるのなら、教へて下さい。
平成十七年八月九日
高田馬場BIGBOXでやつてゐる古本市、會場が薄暗いのは宴會場を無理に古本市で使つてゐる爲。
以前は六階に催事場があつて、そこで毎月大規模に古本市を開催出來た。けれども催事場がカラオケルームになつてしまつて、それは不可能になつてしまつた。籤引きの抽選券を呉れたり、BIGBOXに入つてゐる店舗の割引券を呉れたり、と云つたサーヴィスは、その頃からあつた――と言ふより、BIGBOX全體でさう云ふサーヴィスをやる期間に、古本市の開催期間が重なつただけ。別に妙な事ではない。
とにかく、良いものがありませんでした。俺は不滿足。

平成十七年八月八日
鷹澤遊戯場 過去日記【2005/8/8:郵政法案否決】
平成十七年八月八日
神保町の洋書屋さん、北沢書店がこの秋、店内を改裝するのだと。それで、八月末日まで一階の在庫を七割引で販賣する大バーゲンセールをやつてゐる。X年ぶりに入つて見たのだけれども、十年以上前にあつた本が未だに棚に並んでゐる。學生の頃、高くて買へなかつた本も、七割引なら買へる。やうな氣はしたが、取敢ずOxfordの"Shakespeare Criticism" 1915-1935/1935-1960の二册を購入したのみ。ちなみに新裝開店は十月。
KITAZAWA BOOKSTORE
平成十七年八月八日
田村書店で買つた本。創元ライブラリ版『精神と情熱とに関する八十一章』。千九百九十七年四月二十五日初版だから、再刊されて最う八年が經つのだ。月日が經つのは早い。それにしても創元ライブラリ、まともな新刊がさつぱり出ない駄目叢書で終るのかな。なんで漫畫本を入れるんだよ。
平成十七年八月八日
夕立に降籠められて橋本驛の本屋さんで立讀み。竹内薫『ホーキング 虚時間の宇宙 宇宙の特異点をめぐって』(講談社ブルーバックス)。
「虚時間に意味はあるのだろうか」の項まで來て。

ここで思い出さなくてはいけないのがホーキングの哲学的な立場である。ホーキングは実在論者ではなく実証論者なのである。それも、かなり徹底的な。だから、

「宇宙の時間は本当は虚時間なのですか? それとも実時間なのですか?」

というような質問は、そもそも科学的に、正しい質問とはみなされない。

ホーキングは、こんなふうに語る。

実時間では、宇宙は時空の境界をなす特異点にはじまりと終わりをもっており、そこでは科学法則は破れる。だが虚時間では特異点あるいは境界はない。だとすると、虚時間と呼ばれるのが本当はより基本的なもので、実時間と呼ばれているものは、われわれが考えている宇宙像を記述する便宜上、考案された観念にすぎないのかもしれない。しかし、(中略)科学理論はもともと、われわれが観測を記述するためにつくった数学的モデルに他ならず、われわれの精神の中にしか存在しないのである。だから、どれが実は”実時間”であり、”虚時間”であるのかとたずねるのは無意味だ。どちらがより有用な記述であるかというだけのことなのである。

  • 『ホーキング、字宙を語る』198ぺージ

この答えに納得のいく読者もいれば、なかなか首を縦に振らない読者もいるだろう。私は個人的にホーキングのこの答えには不満を覚える。なぜなら(以下略)

筆者の述べる理由は省略。茲まで讀んで俺は此の本を買つた。私は個人的にホーキングのこの答えには不満を覚える。――とても良い批判である。
平成十七年八月八日
Yahoo!ニュース - 郵政事業民営化
解散で重要法案が軒並み廃案
毎日新聞が小泉純一郎首相が「殺されてもいい」とまでこだわった郵政民営化法案。と書いてゐる。適切な表現である。
平成十七年八月八日
参院否決なら内閣不信任 首相、衆院解散…
平成十七年八月八日
レオ マカラズヤ株式会社
神田写真館 <第一弾> 通神商栄会 街並対象 〜25年の変遷〜 1972年(昭和47年) ⇒ 1997年(平成9年)
平成十七年八月八日
衆議院解散・總選擧の所爲でテレビ埼玉のトランスフォーマー2010にテロップが乘つた模樣。
平成十七年八月八日
虹裏ウイルスの所爲でmayが非道い事になつてゐる模樣。見に行かなくて良い。あと、あぷろだの.exeは實行しない事。フォルダの設定で擴張子を表示するやうにしておくと吉。一往をさまつた模樣。

平成十七年八月七日
軍事評論家=佐藤守のブログ日記 - 「郵政解散」は国益無視
福田逸の備忘録―独断と偏見
平成十七年八月七日
今夜も引用。

正義を行なうためには、悪い奴を殺さなきゃ駄目ですよ、政治では。殺すというのにはいろいろな意味があるけれど、殺されていたら駄目ですよ。

それは一つの政治的条件になるけれど、その点わたしは非常に主観的に見る。自民党の代議士が、本当の意味での愛国心にめざめるかめざめないかが問題でしょうな。主観的なものなんですよ、政治は。客観的なものじゃないのです。だから、主観的な条件を変えうる人がいるかいないかということになる。そんなときに、客観的な情勢が役に立つというだけでしょう。

そうですね。政治家は、やはり国のためを思わなければ意味ないんですから。資本主義とか社会主義とかにもたれかかっているだけではいけない。政治はイデオロギーじゃないんですからね。国あるいは世界を考える。もっと拡大すれば、宇宙を考える。

――如何だらうか。この人は、嘗ての自民黨の政治家である。
この人、ほかにどんな事を言つてゐるか。

なぜ次元が低くなったかというと、戦後、政治家は占領政策に協力しなければならなかったからですよ。だから、いまだに国際問題に対して自主的判断ができない。例えば中国問題なんかそうで、日本人自身がそれほど深刻に考えていない。アメリカの影響で考えることができなくなったんです。

日本人は、アメリカの占領によって、外交感覚をマヒされているんですよ。だから、アメリカにくっついてさえいればいいんだという感覚を払拭するためにも、中国問題を考えなくてはいけないんです。

――何うだらうか。「良い事を言っている」と感じた「反米保守」の人は多いのではないか。
さて、「この人」は誰であつたのだらうか。判つた人はそんなに澤山はゐないだらうと思ふ。實は宇都宮徳馬氏である。
司馬遼太郎対談集『日本を考える』文藝春秋
平成十七年八月七日
人名用漢字の戦後史
岩波新書 人名用漢字の戦後史
Amazon.co.jp: 本: 人名用漢字の戦後史
何うよ。

平成十七年八月六日
「戰爭は愚かな事である」と云ふ考へを、野嵜は受容れない。さう云ふ考へ方は「主體的に人間が戰爭をする」と云ふ發想を前提にした考へ方である。さう云ふ發想は、寧ろ人間の傲慢を意味する。
――かうした野嵜の態度を、日本のクリスチャンは容認しないだらう。しかし、聖アウグスティヌスが『神の國』で以下のやうに述べてゐる。出村彰訳『神の国』(日本基督教団出版局)三十ページ

神は人間の邪悪な生活を矯正し、抑制するため、戦争という手段を用いられ、またこのような患難を通じて、善良で賞賛に価する者を陶冶されるのである。神は彼らをこのように試みたのち、ある者をより良き世界に移し、ある者を他の優れた目的のため地上に引き留められる。

原子爆彈もまた「人間が作つたもの」だと言つてはならないものだ、と野嵜は考へる。もし神が存在するのならば、原子爆彈ですらその攝理に從つてゐるのだらう。
平成十七年八月六日
神は、人を善なるものとして創造したが、それゆゑ人は罪を犯す。惡事ですら神の偉大を證するものである。アウグスティヌスは述べてゐる。

これら理性的存在に対し、神は自由意志を与えられた。それは、もしも欲するならば真の浄福である神を捨てることさえできるような自由であるが、それには必ずや悲惨が伴うであろう。神はある天使たちが矯慢に思い上がり、浄福な生を喜びとするには自分自身だけで十分であると考えて、神とともにある善を捨て去るであろうことをあらかじめ知っておられたが、しかも彼がそうする力を奪い取られなかった。いっさいの悪を禁ずるよりは、悪から善を作り出す方が、神の力にとってよりふさわしく、またこれを明示することになると判断されたからである。

彼らの可変的な本性は、すべてのものを良きものとして創造された・最高善にして変わることなき神によって造られたのであるから、それ自体としては善であり、何らの悪をも含まなかったが、罪を犯すことによって自らに悪をもたらすに至ったのである。罪そのものが、彼らの本性は善であることの力強い弁証である。もし彼らの本性が偉大にして善でなければ――たとえ創造主とは比べられないとしても――、あたかも光から暗黒へ転ずるように、神から離れることは悪ではなかったろう。

このことは盲目が欠陥であり、目は見るために造られていることを示す。盲目は目があらゆる器官の中で、光を受けるにもっとも適したように造られていることを示す。もしそうでなければ、見ることができないということは欠陥ではないことになるであろう。そのように、神を喜びとするように造られている本性そのものが、神を喜びとしないときの惨めさにおいて顕わにされる欠陥そのものにより、本来は善なるものとして造られていることを示しているのである。神は自らの意思に基く天使の墮罪に対し、永遠の悲惨という正当な刑罰を宣せられた。同時に、善なる状態に留まったものに対しては、その堅忍への報いとして、終わることのない保持の確かさを与えられた。

『神の国』第二十二篇「神の国の永遠の浄福について」冒頭の項目――「天使と人間の創造について」と見出しが附いてゐるが――其處では、理性を持ち、神を觀想し、受容れる能力を持つた靈の創造について、檢討がなされてゐる。
神は、理性的な存在を、單に「善い事だけをする存在」としては創造しなかつた。代りに「善い事もするが、それだけに惡い事も出來るやうな、自由な存在」を創造した。「善なるもの」「惡なるもの」は、それぞれ個別に、絶對的に存在するのではない。善なるものとして創造されたものは、惡事も冒し得るものでなければならない。惡事を爲さない努力をしたからこそ善人である。上の「盲目の喩へ」は、價値と云ふものが如何にして出現し得るかを、アウグスティヌスが説明したものである。結果として「善い事である」ならばそれで良いのではない、「善事」を價値とする爲には「價値としての善が出現し得る」「善い事をし得る」前提條件が必要である。それが自由意志である。自由意志があり得る爲には、惡事の存在を否定する事が許されない。そして、惡事には永遠の罰が、善事には永遠の幸福が與へられる――と云ふのがキリスト教の發想であるが、もちろん地上の世界でそんな報いは與へられない。だからキリスト教では、死後の世界で裁きが行はれる、と説明してゐる。そして、その死後の世界で永遠の生を得る事こそがクリスチャンの願ひであり目的である。現世に神の國を齎すのは、キリスト教の本來の發想ではない。
近代以來のヨーロッパ人は、神の國が現世でなく來世にのみ實現する事を認められなくなつた。ロレンスに據れば、既にヨハネ默示録で、さうした人々の不滿の一端が示されてゐるのだが、この世で正義が行はれない事に對して、人間が主體的にアクションを取り始めたのは、やはり近代以降の事と言つて良いだらう。神への信仰から死を選んだトマス・モアですら「ユートピア」を著してゐる。然し、現世に於るユートピアの實現を、本格的に「教義」として確立したのは、空想的社會主義を乘越える事を目指したマルクスである。共産主義は、その無神論と宗教の否定にもかかはらず、人類救濟を目的とした默示的な思想であり、殆ど宗教である。共産主義のみならず、現代の多くの政治思想が、尠からず社會改良主義的な側面を持ち、人間自身による人間の改良を意圖してゐる側面を持つ。ところが、共産主義が典型なのだが、さうした現代の政治思想の多くが、自由主義體制下のものですら、自由意志を否定して「結果としての善事」を押附けるものとなつてしまつてゐる。キリスト教から發して、正統から外れた思想を異端と呼ぶが、さうした異端は――例外ナシにと言つて良いだらうと思ふのだが――何らかの意味で自由意志を否定するものである。現代の多くの政治思想――共産主義も含めて――をキリスト教的異端と見る事は、不可能ではない。少くとも、正統の立場のクリスチャンが異端を非難するその非難は、屡々、現代の政治思想に對する批判として有效である。
平成十七年八月六日
蝉を貼る
梟かな?
油蝉だよ。

平成十七年八月五日
洒落でサイトタイトルを変えるような人に、碌な者は居ない。
ごめん。
Love Cream Puff 特記事項
平成十七年八月五日
新村出全集第二卷で浜田敦と云ふ人が解説を書いてゐる。

本巻に修められた論文の中、いま一つのグループをなすものは、『国語問題正義』『国語の基準』の二単行書を中心とする、規範論的な立場からのものである。それらの多くは、先生が京都帝国大学を停年退官後、シナ事変が勃発し、さらに、太平洋戦争にまで発展した時期における、ナショナリズムの気運を背景にした産物であると言ってよい。云々。

浜田氏は、新村出の言語學研究を高く評價してゐるが、國字問題に關する發言を時局に迎合したものと看做してゐる。さらに、浜田氏は以下のやうに書いてゐる。

もっとも、国語問題、国語教育など、社会に直接かかわりのある事柄に、研究者が、関心を持つかどうかということは、必ずしも、時世の影響だけによるとは言えないであろう。それは、また、個人の年齢によっても、大きく異なり得るものである。言うまでもなく、言語、文字は、時間の経過につれて、変化するという性質を持っている。ところが、比較的若い時代には、人は、多く、そのような変化を、それとして肯定し、また、それに順応し得る立場にあるけれども、一方、高年齡になるにつれて、それとは反対に、その変化を否定し、それについて行けないような人が多くなるものである。つまり「昔のよき時代」に比べて、今度は、むげにあさましくなって行く、と観ずるのが、年寄の常であって、新しく生じた言語、文字の変化を、すくなくとも、その当初においては、「不正」とみなし、それが一般化し、社会のすみずみにまで浸透した後においてはじめて、しぶしぶ認めざるを得なくなるというのが一般的である。従って、国語国字問題などに対する立場においても、多く能率主義、合理主義を斥け、一種の精神主義に立って、ものを見ようとする傾向が強い。先生ご自身も、どこかで告白しておられるように、明治三十年代、まだ東京で「言語学雑誌」の編集に当り、時評などを執筆し、また、国語調査委員会に関係して、国語国字問題に言及される機会の多かった時には、先生も、それなりに能率主義、合理主義者であったはずである。

従って、先生が、戦争がはじまった頃から、国語国字問題などに関して、精神主義、あるいは、一種のナショナリズム的立場をとられたとしても、それが必ずしも時流に追随された結果であるとは断定しがたいのである。すでに齢い古稀にも近づいておられた時であり、それでなくとも、多くの人が、そのようなものの考え方に傾いて不思議のないお年だったのである。戦争が終って、時勢は一転し、アメリカの占領政策に乗じて、国語政策があからさまな能率主義に立って、強力にすすめられて行く中においても、先生の立場は、すくなくとも精神主義に立つという点では、変りはなかったのである。もっとも、ナショナリズム的発言が表面に出なくなったという変化は、やはり認めざるを得ないであろうが。

新村氏が馬鹿にされてゐるやうな氣がする。
浜田氏は「新村出の國字問題に關する主張は普遍性を持たない」と評してゐるのだが、かう云ふ人物に「先生」と言はれて、新村氏はあの世でどんな氣分でゐるのだらう。
平凡社図書目録 詳細表示:百済観音(東洋文庫 149)
浜田敦つて、あの濱田青陵の息子さんか何かですか。

平成十七年八月四日
東京裁判が惡いのではない。東京裁判を解釋する人の、物の見方が惡いだけである。
平成十七年八月四日
戰爭に反對するのは、他人に「死ね」と言ひながら、自分だけは助からうと考へてゐる人である。
平成十七年八月四日
MouRa|松田聖子、SAYAKA|Net現代
「月刊現代」9月號で、「徹底検証 「改憲論者」は信用できるか」なる特集が組まれてゐる模樣。漠然と『改憲論』と呼ばれているものが、実は、たがいに反目する、多様な思想の同床異夢であることが明らかになるはずだ。それはさうだらう。餘りにも當り前の事を何でそんなに大袈裟に騷ぎ立てるの?
「改憲反對」派は、「憲法を變へるな」と云ふ以外の主張は出來ないのだから、「一枚岩」となるに決つてゐる。さう云ふ連中が、「改憲論者」を「一枚岩でない」と言つて非難するのは、何か根本的に勘違ひしてゐる。「單純な二分法」で考へるから、頭の惡い話になるのである。
しかし、「一枚岩」の「改憲反對」派は、それこそ信用出來るのだらうか。
ちよつとぐぐつて調べてみると、東谷暁と云ふ人、「○○は信用できるか」と云ふ題の本を二册ほど出してゐるらしい。Amazon.co.jp: 検索結果 本:全検索結果: 東谷 暁
で、Amazon.co.jp: 本: エコノミストは信用できるか。單純に面白がつてゐる人もゐるのだけれども、評価の軸がない。エコノミストの言動の一部を取り上げ、全体の文脈を取り上げていない個所がある。エコノミストたちの変節のうちには状況の変化に対する認識の変化があっていいはずであり、時代環境への考察がもう少しほしい。と云ふ批判をしてゐる人もゐる。omr氏(omr氏の 公開しているレビュー)
平成十七年八月四日
諸君!2005年9月號で潮匡人氏が「高橋哲哉『靖国問題』――<感情の錬金術>を嗤う」と云ふ文章を書いてゐる。
平成十七年八月四日
我々は屡々、文章を評價する代りに、作者の人格を評價してしまふ。これは反省されて良い事だ。
平成十七年八月四日
「他人が嫌がる事を率先してやる社員になれ」と云ふ講話を聞いたかりあげクンが女子社員に惡戲するのを見て、木村課長は「あいつは何を聞いてゐたんだ」と嘆く――かりあげクンは四コマ漫畫の登場人物で、現實の人ではない。讀者はかりあげクンを笑つて眺めてゐれば良い。しかし、「かりあげ式」の曲解をする人は、世間には實際に「ゐる」のであつて、さう云ふ人の標的にされると堪つたものではない。
ジョージ・オーウェルは「言論の自由とは他人が嫌がる事を言ふ自由の事である」と述べた。これを「かりあげ式」に曲解をする人が「ゐる」のであつて、困つたものなのである。かの新霊光輝クンは、かつてnoz_watcherと名乘つて、野嵜サンにはもっと不快な思いをして頂く。なんて言つてゐた。
「本當の事」「正しい事」は、屡々他人を傷附ける。しかし、それでも「本當の事」「正しい事」を言はうとしなければならない――それが「言論の自由を行使する」と云ふ事だからだ。オーウェルはさう言つた積りである筈。それを曲解しては、オーウェルも浮ばれない。
平成十七年八月四日
さて、讀賣新聞は今日の社説で[個人情報保護法]「『匿名社会』が狙いではあるまい」と書き、御役所が「個人情報保護法」の主旨を曲解して、公務員の天下り先や懲戒處分者の氏名その他を隠匿してゐる、と非難してゐる。

平成十七年八月三日
田村書店で買つた本。新田義弘編『フッサールを学ぶ人のために』。中村真一郎『源氏物語の世界』。
『源氏』は、ゴシップ的な興味に基いて讀むと、面白いらしい。

平成十七年八月二日
「情報を交換する」事と「議論する」事とは、同じなのか、違ふのか。

平成十七年八月一日
本日の買物。例によつて田村書店の百圓均一箱より。
カルル・レヸット『ヨーロッパのニヒリズム』(昭和二十三年十一月十日發行・昭和二十四年八月一日再版發行筑摩選書)
及び、ベロウ著・堀込庸三譯『獨逸中世農業史』(創元社史學叢書)、エドワルト・マイヤー/マックス・ウェーバー『歴史は科学か』(みすず書房)。
平成十七年八月一日
本日の京王古書展。中村真一郎『本を読む』、高濱虚子『斑鳩物語』(養徳叢書1)。

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