ふつう、段落の最初は一マスあけますが、鉤括弧など括弧を含むものはあけずに書きます。
鉤括弧などの括弧を含む文字の場合最初から半角の空白が含まれた状態で有るために、更に空白を空けないが正解。
會話文を、「ト書き」の文章と併せて一つの文章と見るか。
都内で件のエレベーター停止の被害云々。
思想的な事柄を扱へなかつた時點で、既に「駄目」だと思ふ。三島ですらもさうなのだけれども、日本の作家は「寫生的」な描寫はそれなりに「する」。花鳥風月を愛でたり色戀沙汰を扱つたりするのは、どうやら和歌以來の傳統があつて、巧みな人は多いと思ふ。『楡家の人々』も、描寫は上手だと言つて良い。大體、映像的な小説は、日本人は書ける。ただ、「繪のやうな小説」は書けても、そこに思想を盛込めない。三島が書いた「英靈の聲」は、思想を下手に盛込んだ爲に、稚拙な印象――それ自體は必ずしも許されないものでもない――と共に、許されない虚僞と不當な非難とを含んでしまひ、不快感を伴ふ失敗作となつてゐる。中野重治の「轉向」を扱つた小説は、「日本のマルクス主義者」を扱つてゐるもので、既存の「封建道徳」にかなはない弱みを正直に表現しながら、にもかかはらずそれから目を背けてゐる點で、「思想小説」として「失敗」であるのだけれども――或は、そもそも「思想小説」と呼べないやうなものだとしても――不快感はない。
沢渡氏を偲ぶ会。蘊蓄は兔も角、熱くは語れるよ多分。
再開直後の記事がマイメロなのは
このスタイルは僕が書いた訳じゃないので DIS られているのは僕ではなくはてなさんなので、はてなさんはさっさと応戦してください。との事。
十二月(しはす)の二十日(はつか)あまり一日(ひとひ)の日の戌の時に門出すと云ふ例がある。二桁以上の數を言ふ時には上下の桁の數詞の間に「あまり」を挾んで言つた。(小学館全訳古語例解辞典)
TBS地上波にて今秋放送決定!
アレクセイみたいな質の惡い人物だと云ふ事は良く解つた。
典型的な「アレクセイ言論」と評したのだけれども、「沖泰光」でぐぐつてみたら、アレクセイ、未だにその「言論」を續けてゐるらしい。
……それで、小説とは何ぞやとの問題が出て來るのだが、今度(徳田秋聲の)『爛』を讀んで、興味索然たる思ひをした。當て氣のない、ケレンのない描寫の筆で、凡庸の人間生活を凡庸のままに寫してゐるのは、作家の氣構へとしてゐたに違ひないと思はれるが、今度讀んで見て、かういふ小説は私に何の手應へも無いのである。かういふ人々はかういふ風に暮してゐるんだと示されて、成程さうなんだらうねと思ふばかりである。秋聲の小説は主觀の力によつて讀者を引摺つて、作者獨特の境地に讀者を遊ばせる種類のものではないが、さうかと云つて、沒主觀の廣い態度で人の世を描きだして、讀者に人のいのち、人の世の深さ廣さを伺はせ、無限大の思ひを我々の心に起させるやうなものでもない。忌憚なく云ふと、規模の小さな薄手なものである。これは秋聲の作品に酷評を下したことになるが、秋聲の外にも、明治以來知名の作家は多くさうなのだ。しかし秋聲のやうな制作態度そのものは、世界の小説のなかに出して、一特色あるものとして翫味すべきではあるまいか。この態度で内容がもつと豐かになればいいのであらう。近來は西洋の小説も、險惡な時勢相應に、奇を弄し異を樹てるものが續出するらしく、『二十五時』とか『ペスト』とか云つた種類の作品が、讀み甲斐のある小説として歡迎されてゐるさうだが、それ等は小説のヒロポン、アドルムの類ではあるまいか。
そして、私は、『爛』のなかの人物、或は『爛』の作者その人と、のんびりした話をしてゐられるのを、現實の世界としても小説の世界としても、自分相應のものと思ひながら、さういふ物を棄てて、薄氣味の惡い『カラマゾフ』だの、『イリッチ』だのの行動や、心理の變遷動搖に心を凝らしたくなるのである。例へば『水滸傳』の豪傑は、心理描寫が不足してをり、最早近代的な小説のやうな興味を引かないものだけれども、
近代の英雄を今の小説で今風のやり方で取扱つたら興味を引くものとなるのではないか。白鳥は、スターリンの存在を
特異な存在であり
興味ある存在であると述べ、某記録小説で
スターリンが小説的に描寫されてゐて面白かつたと書いてゐる。
いづれの國に於ても、言語がある以上は、その言語に法則がなければならぬ。その法則を教へるものは即ち文法である。
言語は、各人が聲音を媒介として互に思想を通ずる一つの機關である。この機關によつて思想の交換が行はれ、人智は益々開け、言語そのものも次第に發達して行くのであつて、未開の時代には言語も極めて單純であつたのが、開明の域に進むに隨つて、言葉の數も増加し、思想表現の方法も複雜になり、言語使用上の種々の法則が、自然に生じて來たのである。之等の言語使用上の法則が即ち文法であつて、もともと自然に發達し來つたものであるから、規則として之を學ばないでも、その國に成長して相當の教育を受けた人であるならば、自然の經驗によつて、談話も出來、文章も綴ることが出來る。であるから、自國語の文法を一つの學科として學ぶことは、その國人にとつては、絶對には必要でない。それは實地の經驗によつて或程度まではその國の文法を自然に無意識に會得することが出來てゐるからである。
此の點に於て、吾々が國文法を學ぶのは、我々が外國文法を學ぶのと趣がちがふ。外國文法に於いては全然未知の言葉の法則を學ぶのであるから、文法上のいづれの規則も悉く一々記憶にとゞめて置かねばならぬ。然し自國の文法を學ぶ場合には、既に百も承知してゐる事柄が隨分あるので、殊更に規則として記憶して置く必要を感じないことが多々ある。然しさういふ點だけを觀察して、國文法が必要なものでないやうに思惟してはならぬ。外人が日本文法を學ぶに必要な程度までも、我が國人が國文法の諸規則を一々記憶して置くことは勿論不必要である。然し文法上の知識なしに、全く誤謬のない文章を書くといふことは頗る困難である。多年の經驗によればそれも出來よう。然し實地經驗即ち多くの實例を基礎として文法上の成否を無意識的に批判して、文を正しく綴つて行くといふことは決して容易なことではない。使用例がいくつもあつた場合に其のいづれが正しいかの判斷の必要の生じて來ることもあらう。使用例そのものが既に文法上の誤に陷つて居るかも知れぬといふ疑問も湧いて來よう。さうした疑問に遭逢した場合には、どうしても文法上の規則によつて之を解決するの外はないのである。
わかり切つてゐるやうな規則でも、他の重要な規則の基準となることもある。であるから如何にわかりきつてゐるやうな規則でも研究の順序として之を省くことは出來ぬ。且又文章の解釋の上に於ても文法上の知識によつて判斷する必要が生じて來ることもある。例へば
- 「たへて」
- 「たえて」
といふ語が文中にあつた場合に、「たへて」なれば「堪へて」の意味であり、「たえて」とあれば「絶えて」の意味であるといふことは文法上の知識によつて解決することが出來るのである。又、
- 「わがきろうことも人に強ゆべからず」
といふ文があつたとして、之でも意味は立派に通ずるであらう。然し文法上からいふと、
- 「わがきらふことでも人に強ふベからず」
と訂正せねばならぬのである。何故に、後に書いた方が正しいのかといふことは文法の知識によらなければ斷定することが出來ぬのである。以上の例によつても、文法上の知識の必要であることの一斑を知ることが出來るであらう。
文法に於ては、先づ一つ一つの言葉即ち單語に關する法則を學んだ後に、之等の結びついて出來る文の法則を學ぶのが順序である。そして、單語に關する規則を學ぶ部分を單語篇といひ、文に關する法則を學ぶ部分を文章篇といふのである。國文法に於ては、單語を分つて、
- 名詞
- 代名詞
- 動詞
- 形容詞
- 助動詞
- 助詞
- 副詞
- 接續詞
- 感動詞
の九種とする。之等の品類を品詞と名づける。即ち國語は之等の九品詞から成立つてゐるのである。
日本語には文語と口語とがある。この文語と口語に於て文法上の規則は大體に於て一致してゐるが、相違の點も尠からずある。然し口語は文語から轉化したものであるから、先づ文語に關する法則を學んでから、口語の法則に及ぶのが順序である。其故、本講義に於ては、先づ文語を基礎として講述し、口語に關しては文語と趣を異にしてゐる要點のみを指摘することとする。
「老人と海」は面白かった.本編もさることながら訳者解説がとりわけ読み応えがあった.訳者の名前は福田恆存とあり,そういえば図書館で著書をみたおぼえがある.以下、福田さんの「譯者解説」について論じてゐて面白い。
そして、これをリアルな人の目に触れるブログに書いていないあたり、私は小心者なのだ。
リアルな人しか読まないようなブログになんて、書くことは基本的にない。
リアルな人……? ひよつとするとヴァーチャルな人なんてのがウェブにはゐたりするのかな……? 野嵜はリアルな人でfankee_jrはヴァーチャルな人。
その後暫く、同じやうな事が處々で起つた。肩を怒らせ烱々と眼を光らせた子路の姿が遠くから見え出すと、人々は孔子を剌る口を噤むやうになつた。
子路は此の事で度々師に叱られるが、自分でもどうしやうもない。彼は彼なりに心の中では言分が無いでもない。所謂君子なるものが俺と同じ強さの忿怒を感じて尚且つそれを抑え得るのだつたら、そりや偉い。しかし、實際は、俺程強く怒りを感じやしないんだ。少くとも、抑へ得る程度に弱くしか感じてゐないのだ。屹度……。
大きな疑問が一つある。子供の時からの疑問なのだが、成人になつても老人になりかかつても未だに納得できないことに變りはない。それは、誰もが一向に怪しまうとしない事柄だ。邪が榮えて正が虐げられるといふ・ありきたりの事實に就いてである。
此の事實にぶつかる毎に、子路は心からの悲憤を發しないではゐられない。何故だ? 何故さうなのだ? 云々。
メルマガと中島敦と日記のサイト、との事。
「中島敦の会」の紹介もあります。
これで,105問。たったこれだけのテキストであっても,扱える内容はいろいろある。つまり,たとえ1年生の教科書であっても,幼児から大人まで授業可能なのである。
アップデートの際は、対応するアーカイブの中身を全て現在使っているフォルダにコピーしてください。
バックアップの必要なファイルは、pkzip.pif だけです。と説明してゐる。フルパッケージの中身を全部上書きするとサーヴァの設定から何から何まで全部消える(メールは消えないからその點は安心)ので、やつてはいけない。Denshin8.exeだけを上書きすれば良い。
故ふるきを温たずねて 温故知新 新しきを知るつて何ですか。◆◆電信八号オフィシャルサイト - 視覚障碍者のかたへ◆◆なんて文書を公開してゐるのに、制作者は「解つてゐない」らしい。
読み上げソフトには「こふるきをおんたずねておんこちしんあたらしきをしる」みたいに讀ませたいらしい。改善すべきだ。
トップページより移動して記録してゐるが、止めるべきだ。かうした告知記事は、時期が過ぎれば情報として無價値になり、「ノイズ」となるから、一々記録しても仕方がない。また、電八と何の關係もないウイルス情報が載つてゐるけれども、「ソフトウェアのオフィシャルサイト」では、扱つてゐるソフトウェアと直接關係がある情報だけを「發信」すべきであり、無關係の情報は、一般的に意味があつても、その「オフィシャルのソフトウェア」の情報としては何の意味もないので、削除すべきだ。
門徒の家に生まれ、「御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識の浅からざる御勧化の御恩」の中に育てられてきた私には、渡辺照宏氏の「親鸞や日蓮はわずかに信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた」とか「法然、親鸞、日蓮たち新興宗教の僧侶はだいたい主観的観念遊戯にふけっていただけで、実質的には何ら民衆の生活を助けることなく」とか「彼らを教祖と仰ぐ教団が優勢になったのは、後継者たちの政治的手腕によるものにすぎない」などは、ずいぶん大胆不敵な発言に思われた。
しかし同氏の『日本の佛教』の中では、ここが一番強く私の印象にきた。他は知らず親鸞の生涯にはこう一方的にいえぬ事情もあるかと思うが、その後継者たちがほぼこの渡辺証言のような経路をたどったことは否定しえないであろう。
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1ピクセルの画像(透明の画像)なんて「美しくないやり方」を、なぜか多數のウェブサイト制作者が愛してしまつてゐる。なぜだらう。