闇黒日記


平成十七年七月三十一日
バジリスクの冒頭でナレータが毎囘毎囘「憎しみ合ふ」と言つてゐるけれども間違ひ。「憎しみ」は、形容詞「憎し」に「み」が附いた名詞で、それに「合う」が附く筈はない。「憎み合ふ」が正しい。「慈しむ」と云ふ動詞はあるけれども、「憎しむ」と云ふ動詞は無い。
平成十七年七月三十一日
「ネットマナー」と言ふけれども、閲覽者のマナー許りが要求されてゐて、マナーのなつてゐない制作者が威張り返つてゐる、と云ふ現状があるのではないだらうか。
「トップページから見て欲しいですね」と云ふ制作者の「願望」は「あり得る」。けれども、さう云ふ「願望」が「(無言の)壓力」となるのはをかしい。「願望」ならば實現しなくても仕方がない。「願望」を持つた人は、「願望」が實現しなくとも、默つて諦めなければならない。なのに、今の「ネットマナーの世界」では、制作者の「願望」は「實現しなければならないもの」だと信じられてしまつてゐる。だが、「閲覽者の行動を現實に束縛する」のであつては、それは最早「願望」の域を越えてゐるのではないか。そこで「いや、これは飽くまで願望なのです!」と言張る人が出て來るのだが、その所爲で話がますますをかしくなる。
「願望」を「事實上の命令」にすり替へる制作者の態度は、矢張り「マナー」の觀點から批判されて良いだらう。制作者は、自らの「願望」を飽くまで「願望」に留め、現實の他人の行動を束縛しないやうに努めるべきだ。それは「制作者の守るべきマナー」として、受容れられなければならない。
世にも奇妙なネットマナー
日々是平穏……?「マナーってなんだろうね。」
M3A3の超自己満足日記: れっちゅらごー(何ですと!?
無為徒食日記 2005年6月
日々是平穏……?「世の中いろいろいるわけで……(^_^;」
無為徒食日記 2005年7月
http://www5e.biglobe.ne.jp/~ass/diary/2005/07c.html#d31n01
平成十七年七月三十一日
ばればれの自作自演を繰返してゐる掲示板の管理人が、それに對する批判としてなされた投稿者の「自作自演」を「掲示板荒しだ!」と極附けて、何時までも執拗に攻撃し續ける、なんて事例もある。「ネットマナー」が制作者の保身の爲に利用された例である。何うも現状の「ネットマナー」は、かうした目的で利用されてゐる場合が多いやうに思はれる。
コンテンツの提供者に許り都合の良い「ネットマナー」は、批判されるべきである。「義」の口吻を眞似て言へば、「制作者サマは制作者だから偉いのであるぞ!」「閲覽者は制作者サマに默つて從つてゐれば良いのであるぞ!」と云ふ風になるであらうが、こんなものが「マナー」だと言ふのは、をかしな事ではないだらうか。――言ひ方が「命令」的か「願望」的かは何うでも良い、關係ないのである。實際問題として、その「命令」なり「願望」なり「マナー」なりが、「押附け」と化してゐる事、他者である閲覽者の行動を一方的に束縛してゐる事が問題である。
平成十七年七月三十一日
一往言つておくと、「ネットマナー」の議論において、論者は互ひに「自由」の價値を認めてゐる、と云ふ「文脈」を想定して良い。そして、その「文脈」に基いて、野嵜は現在の議論を展開してゐる。(「自由」には本當に價値があるのか何うか、と云ふ大問題について、は觸れない。話の本筋と關係のない事には當座、觸れないのが「議論のマナー」である)
「制作者の自由」を「ネットマナー」の唱道者は頻りに主張する。それに對して「閲覽者の自由は認められないのか」と云ふ反論がなされる。「ネットマナー」の唱道者がそれに對して「制作者の自由は認められないのか」と言返す。さてこの時「ネットマナー」の唱道者は「制作者の自由のプライオリティが、閲覽者の自由のプライオリティよりも、一般に高い」と主張してゐる事になるのであるが、その理由は納得出來るものであらうか。
野嵜は「制作者の自由」よりも「閲覽者の自由」の方がプライオリティが高い――と言ふよりも、現實に閲覽者は自由に振舞ふものであると考へる。さう云ふ閲覽者の行動を束縛する理由として、「願望」とか「マナー」とかを持出すのは、説得力を缺くやうに思はれる。
「制作者の自由」のみを根據とする「ネットマナー」の唱道者の主張において「一貫した理論が成立しない」としたら、「その根據には不備がある」と考へられる。或は、「自由」以外の何らかの價値觀が「ネットマナー」の主張の根柢には「ある」と看做さざるを得なくなる。ところで、「ネットマナー」と言ふ人々に、その邊の深い考察は、どうやら「ない」のではないか。

平成十七年七月二十九日
和洋會。棚の氛圍氣(黒つぽくて)良し。收穫あんまりナシ。佐久間鼎『日本語學』とか野村雅昭編『日本語の働き』とか夏目漱石『私の個人主義』(養徳叢書33)とかハイネ『回想録・觀想』(養徳叢書)とか、ウェブのネタ用の本しか拾へず。ほかに津田左右吉『神代史の研究』。
京王の東西老舖大古書市。立讀みしてゐたらなんか意識がアレして次の瞬間自分が何處にゐるのか見失つたり。今週は過勞氣味。原因は働き過ぎではなくて虹裏の見過ぎ。閑話休題。今囘の京王は規模の大きな方の古書市。結構澤山本が出てゐる。例によつて値段は高め。唐木順三文庫が固まつてこれから行く人には御薦めする。當方にとつては餘り欲しいと思はれたものはナシ。ぼんやりしながら見てゐたから見落した可能性もないではないけれども多分明日か明後日かに最う一度行つてもそんなに拾へさうにはないと思ふ(俺の場合。餘人は知らず)。西谷啓治著作集第十卷『宗教とは何か』を一往拾つた。それだけでは寂しいのでエトムント・フッサール『イデーン』1ー1・1ー2の二册も買つた。欲しかつたけれども買へなかつたのは名古屋大学出版会刊の『ブレイク全著作』。古書價19000圓だつて。ちなみに定價は24000圓。
平成十七年七月二十九日
TMPGEnc DVD Author 2.0を購入。早速シュガシュガルーンをDVD化するのに試してみた。1.5より高速化されてゐるのは良いが、操作性が(豫想通り)惡化してゐる。ウィンドウの表示に、Windows標準の部品を使つてゐるのではなく、アプリケーション獨自の描畫をやつてゐるので、動きが全體にもつさりとしてしまつてゐる。「家電風」にするのがそんなに良い事なのだらうか。Windows標準のGUI、Windows標準のメニュー構成は、標準であるがゆゑに「良いもの」だと言つて良い。獨自のGUIはWindowsアプリケーションに於ては例外ナシに操作性を惡化させる。
CMカット時のスマートレンダリングは良い。しかし、インターコムのトランスコードエンジンによる再エンコードは期待外れで、思つた以上に畫質が落ちる。動きが一寸激しくなるとブロックノイズだらけで見るに堪へない。よつぽど高畫質で録畫した場合以外、TMPGEncのトランスコード機能を使つた再エンコでも、しない方が良いみたい。速い事は速い。
5話で4.7GBをちよつとオーヴァ。トランスコードでDVD一枚に收まるやうに再エンコード。附屬のDVD燒きツールでDVD-Rに燒く。
平成十七年七月二十九日
マクセルの日本製のDVD-Rを使つたら巧く燒けなかつた。ディスクをドライヴに投入した時の認識に異常に時間がかかつた上、4話のチャプタ4及び5話が全部再生出來ず。一往認識されたけれどもエラーが多かつたらしい事が豫想される。外周部の燒きは完全に駄目だつた模樣。TDKの日本製のDVD-Rを使つたら問題ナシなので、ドライヴやソフトウェアの問題ではない=使用したマクセルのメディアが(たまたまか、當該製品が一般にか、「相性」に據るのか、は不明だが)惡かつたものと思はれる。
世間では「マクセル製品の品質は高い」と云ふのがもつぱらの評判のやうだけれども、個人的にマクセルのDVD-Rやヴィデオテープの印象は惡い。貼り合せが惡くて目の前でマクセルのDVD-Rが二枚に分離したり、マクセルのS-VHSテープの所爲でTV版美夕にノイズが乘つてゐたりしたもので、「どうもマクセルは信用ならない」と云ふ感じがしてしまつてゐる。TDK製品でそんな風になつた事は(たまたまか、云々、は不明)ない。TV版美夕は終盤、TDKのS-VHSテープで録畫したが、ノイズなしで畫質は良好。昨今、TDKはDVD-Rを太陽誘電からOEMで調達して來てゐるらしいけれども、うちの機械とTDKのDVD-Rとは「相性」が良いらしく、エラーを出した事はない。
一方、飽くまで個人的な印象の話になるけれども、DVD-RAMは、パナソニックのものよりもマクセルのものの方が良いみたい。
あと、ヤマダ電機の店頭で、マクセルブランドのCD-Rに台湾製のものを發見して愕然とした。マクセルの「光もの」は全部自社製だと思つてゐたのだけれども、何時の間にかCD-RはOEMで調達して來るやうになつたらしい。赤肩かも知れない話題。

平成十七年七月二十八日
スーパー田村書店タイム。本日は百圓均一箱から。
清水幾太郎『人間の再建』
これもサイン本。「謹呈 林健太郎樣」
平成十七年七月二十八日
Opera Web Browser
Opera upgrades to 8.02
日本時間二十時現在、英語のWindows版のみ8.02。日本語版やWindows以外のプラットフォームのものはまだ8.01。8.02を貰ふには「他の言語やプラットホームを表示する」で明示的に英語Windows版を選ぶ必要がある。
窓の杜 - 【NEWS】「Opera」v8.02が公開、P2Pファイル交換システム“BitTorrent”は搭載されず
「Opera 8.02」英語版が公開、BitTorrentのサポートは見送られる
平成十七年七月二十八日
かみちゅ第4囘「地球の危機」。かう云ふ政治の話は良くないよ。
平成十七年七月二十八日
やつぱり
極上生徒会は
馬鹿話に限る

平成十七年七月二十七日
DIY ダラポッチ 家 具 の 展 示 室
平成十七年七月二十七日
田村書店の無料箱で拾つたのだが。
清水幾太郎『現實の再建』
サイン本だつた。「林健太郎樣 惠存」

平成十七年七月二十六日
fankee_jr
としあきは詳細を求め、女子あきはもふもふを求める。
のあ
女子あき等ゐない!
あやの
と言ふか、別に某所に對抗しなくても。訣わからないし。

平成十七年七月二十五日
「その場限りの匿名」「一聯の發言に於て統一的な主體がある事は解るけれども身許は明かされてゐない匿名」、「意圖的に身許を匿して惡事を働く匿名」「何となく身許を明かしたくないから明かさないだけの匿名」「身許を隱さないと言はねばならない或特定の事を言へない匿名」――さう言つた種々の性質を一括りに「匿名」と言つてゐるから話が片附かない側面もある。現在、それらを嚴密に區別する事は「許されない」とされてゐる。と言ふのは、「匿名の問題」が政治問題だからだ。政治は個別の問題を大雜把にやつつけるものである。
平成十七年七月二十五日
undercooled - 野嵜さんへ
Opera……俺も先日、沒にした闇黒日記のテキスト、虹裏に誤爆したつけなー。Insert note使つてリカヴィネ!(・`ω´・)ノと入れる積りだつたのに、間違へてクリップボードからPasteして「送信」してしまつたんだ。
OperaのNotesには虹裏の定型文が大量に登録してある。「これはぬこだよ」「ちがうよ」とか。
平成十七年七月二十五日
undercooled - HTMLとCSSでは不可能なことで完璧主義者は苛つくこと
ふつう、段落の最初は一マスあけますが、鉤括弧など括弧を含むものはあけずに書きます。
http://www.netlaputa.ne.jp/~robaq/200507.xhtml#d20050725_1(何故 class 属性で解決するのが嫌なのか @ RobaQ's Memo 2005-07
鉤括弧などの括弧を含む文字の場合最初から半角の空白が含まれた状態で有るために、更に空白を空けないが正解
会話文と地の文
「ぼくはうなぎだ」文の考察(「うなぎ文」ではなく會話文に關する記述に注目せよ)
會話文を、「ト書き」の文章と併せて一つの文章と見るか
句點や鉤括弧に惑はされてはいけないと思ふ。會話文は、それ自體として完結した段落となつてゐる場合も、さうでない場合も「ある」。完結した段落であるならばpで括る、完結した段落でなく、「私は〜と言った。」と云ふ段落に含まれるインラインの要素である場合、前後は強制改行にすれば良い。「〜ととしあき。」のやうな場合、段落の一部だが、前には何もなく、後ろに「ととしあき。」と「ト書き」が附いて完結してゐるのだから、會話文の直前にpの開始タグ、「ととしあき。」の後にpの終了タグ。
平成十七年七月二十五日
不如歸……杜宇……杜鵑……時鳥……。
平成十七年七月二十五日
滿足滿足フリーダム展。何時もに比べると今一つの品揃へ。マルセル『人間の尊厳』新田義弘『現象学』等を購入。明日から二日間は颱風に祟られさう。
平成十七年七月二十五日
Wired News: Wired News Releases Source Review
平成十七年七月二十五日
おジャ魔女どれみナイショでL字。tvkを殺すべきか颱風を殺すべきか。

平成十七年七月二十四日
DCSS→キャプテン→おくさまは女子高生。
DCSSは前作觀てゐない云々。アイシア、前囘はアレ過ぎてアレだつたけれども、今囘はそんなもんだと思つて觀てゐるからまあそんなもんだと諦める。前作は後半化けた(らしい)から今度も一往最後まで觀る。
プレイボール。なつかしい。古き良きすぽこん漫畫。嫌ひではない。
おくさまは女子高生。この手の御話は昔からあるけれども。富塚真弓の『赤い屋根のポプラ荘』とか酒井美羽の『その男ワガママにつき』とかと、こばやしひよことでは方向性が全然違ふ訣で。「女子高生」、氣の好い主人公が勝手な周圍の人間に振囘される受身の御話で、實はより古臭い物語だと言つて良い。
平成十七年七月二十四日
西洋絵画の画材と技法 テンペラ〜油絵
本を讀む人には美術史の参考文献,書籍,図書,西洋絵画邊が興味深いかなー。
平成十七年七月二十四日
「子供向け」と云ふのはそれ自體、良くも惡くもない事だ。
「子供つぽい」と云ふのは、相對的な判斷に過ぎない。
非難の對象として良いのは「子供だまし」と云ふ事だけである。「子供だまし」は、「子供向け」「大人向け」と云ふ事に關係がない。「大人向け」のものにも「子供だまし」のものが屡々ある。

平成十七年七月二十三日
TBSガン種D、L字。都内で件のエレベーター停止の被害云々。
平成十七年七月二十三日
岩波新書の山が崩れさうな位搖れた。
取敢ず川崎のさいか屋に行かなかつたのは正解。
平成十七年七月二十三日
近藤宏二『人體と結核』(岩波新書赤版93)なんて云ふ今となつては需要が全然無いであらう本を淡々と讀みすすめる。
http://www.interq.or.jp/classic/polano/moku2/c1iwa.html
古本屋では千圓の賣値が附いてゐたりするけれども、買ふ人ゐるのかなー。
平成十七年七月二十三日
デジタルカメラで花火を撮るのは難しい。
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平成十七年七月二十二日
谷徹『これが現象学だ』(講談社現代新書)を買つて來た。勿論讀みかけ。ブリタニカ草稿も讀みかけ。
で、良く解つてゐない人間が蠻勇を發揮して述べると、フッサールは「ありのまゝに見る」事を何とか定義しようと試みたのだ。物理學では、觀察者の限界により微小世界での出來事は確率論的にしか知る事が出來ない事が明かにされてゐる。思想に於ても哲學に於ても、觀察者としての人間は常に主觀で以つて客觀を觀察してゐる。そんなあやふやな觀察者の立場を何とかしようとフッサールは「現象」を考察した。さう理解しておく。
「ありのまゝに見る」立場からすれば、物事の原理を構造として把握する構造主義や、構造から食み出してしまふ事實をも掬ひ取るべく行はれる脱構築は、全て解釋の學問であり、觀察の学問でない、と云ふ事になる。
サルトルの『嘔吐』は、觀察者として「ありのまゝに見る」のではなく、生き方として「ありのまゝの現實の中に生きてしまふ」主人公の小説だが、學問から生き方への飛躍は病的であると言つても良い。けれども、生き方としては「あり得る」と思はせる説得力はある。一方で、構造主義を生き方とする主人公の小説なるものは、私の無知の所爲かも知れないが、想像し難い――と言ふより、或意味、現代と云ふ「自己啓發」の時代には、全てのものが構造として解釋され、ハウツー本として提供されてゐる。さう言つた時代に「生き方としての構造主義」は存在し得ない。あり得るのは、構造主義的な全ての提示に對する反撥だけだらう。
ここで私は、唐突だが、構造主義などの現代思想が、生活から乖離してゐる事實を指摘したい。生活の爲の道具であり、思想の爲の道具では「あり得る」現代思想は、それ自體が生き方となる事はない。かう云ふ言ひ方は解り難いだらうが、當座、これ以上の表現が出來ない。思ひ附かない。
平成十七年七月二十二日
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20050720#p2
http://d.hatena.ne.jp/kanou/20050720#p4
北杜夫は、思想的な事柄を扱へなかつた時點で、既に「駄目」だと思ふ。三島ですらもさうなのだけれども、日本の作家は「寫生的」な描寫はそれなりに「する」。花鳥風月を愛でたり色戀沙汰を扱つたりするのは、どうやら和歌以來の傳統があつて、巧みな人は多いと思ふ。『楡家の人々』も、描寫は上手だと言つて良い。大體、映像的な小説は、日本人は書ける。ただ、「繪のやうな小説」は書けても、そこに思想を盛込めない。三島が書いた「英靈の聲」は、思想を下手に盛込んだ爲に、稚拙な印象――それ自體は必ずしも許されないものでもない――と共に、許されない虚僞と不當な非難とを含んでしまひ、不快感を伴ふ失敗作となつてゐる。中野重治の「轉向」を扱つた小説は、「日本のマルクス主義者」を扱つてゐるもので、既存の「封建道徳」にかなはない弱みを正直に表現しながら、にもかかはらずそれから目を背けてゐる點で、「思想小説」として「失敗」であるのだけれども――或は、そもそも「思想小説」と呼べないやうなものだとしても――不快感はない。
ちなみに俺の文章――或は文體――は、北杜夫の「惡影響」が強い。「怪盗ジバコ」とか「どくとるマンボウ」ものとかは、中學生から高校生にかけての頃、良く讀んだ。あと、そもそものトーマス・マンだけれども、思想性は薄いんでないだらうか。どちらかと言ふと「感性的」な面が強いのではなからうか。だからこそ日本人の北杜夫氏に「受けた」のではないか。
自然主義の元祖・フローベールの自然主義的な面の強い小説――『ボヴァリー夫人』は、狙つて浪漫主義の批判をやつてゐるのだけれども、それが「主人公の生き方を批判的に描く」と云ふ形になつてゐる。日本の自然主義作家・田山花袋の場合、主人公の生き方に何らかの思想が現はれると言ふよりも、主人公の生き方それ自體に思想は存在せず、ただ、「流された生き方」を作家の立場から描く時、「描き方」として思想が「道具」として――と言ふよりも、日本に於て、「自然主義」はスローガンである。自然主義的なフローベールの小説とされる「まごころ」は、自然主義とは全然異ると見られる森鴎外の「安井夫人」等と類似した小説になつてゐる。鴎外を思想的な作家と見るのは、或意味、正しい。が、鴎外の小説に表はれてゐる思想は、「消え行く日本の思想」であり、鴎外はそれを「後世に遺す」爲に小説に書いてゐる。かうした鴎外の態度は、日本に於て、「自らの物」としての思想が現代に於て成立してゐない状況を象徴的に示してゐる。鴎外以來、現在に至るまで、日本人が思想なり哲學なりを自らの物として血肉化し、小説に生かした事は「ない」と言はざるを得ない。
平成十七年七月二十二日
西田幾多郎にしても九鬼周三にしても、「岩波文化人」であると見ると、「獨自性」が「ある」とは言へなくなる氣がする。九鬼については、山本夏彦が『いきの構造』を野暮なスタイルで書いた、と批判してゐる(山本の言ふ事は、實は表裏があるので、結構當てにならないのだけれども一往)。「積ん讀」のまゝにしてあるので詳述は避けます。「西田哲學」は、禅の影響が「ある」ので、「西歐的でない」と云ふのは「ある」かも知れないが、「獨自」とまでは必ずしも言へないと思ふ(「西田幾多郎-三木清-唐木順三」の思想的系譜を想定して見る:「岩波文化」と「筑摩文化」とは一直線に繋がる)。いづれにしても、西歐の合理主義を經た現代思想に比べて、日本の「哲學」は矢張り「感性の哲學」となつてゐる「弱み」があるやうな氣がする。そして、その「弱み」を表明する點で、日本の思想家なり小説家なりは自らの「誠實さ」を表明して來た。そこに「狡さ」を見出す事は許されないか。
平成十七年七月二十二日
Bookshelf(木戸の本棚)
ぐぐつて見附けた。作家とその作品の説明として端的に良く纏められてゐると思ふ。
Atsushi Nakajima(中島 敦)
Gustave Flaubert
漢文の素養を「己の思想」とし、小説の基盤に持つてゐた中島敦も、森鴎外と同樣、「消え行く思想」を後世に遺した作家の一人だと言つて良いだらうと思ふ。鴎外もさうだが、中島も個人的には好きな作家。
大體「消え行く日本的な思想」は、俺は好きだ。だが、「消え行く」ものは「消え行く」のであり、漱石の言ふやうに「上滑り」であつても現代的な思想を受容する努力は續けて行かざるを得ない。そして、現代に於て「最も需要の多い思想」は、西歐の思想である。インド哲學やイスラームの思想にしても、「剩りに支配的となつてゐる西歐の思想に對抗する爲」と云つた目的の下、西歐の思想と對比的に、或は、西歐的な分析や記述の方法によつて、扱はれるのみである。少數民族等の文化を扱ふにしても、メインストリームである西歐の文化と云ふ「構造」から食み出したものを掬ひ上げる、と云ふ意圖が、其の研究には常に見え隱れする。
平成十七年七月二十二日
みにとぅる
沢渡氏を偲ぶ会。蘊蓄は兔も角、熱くは語れるよ多分。
平成十七年七月二十二日
古書會館の古書展は、雰圍氣は良かつたが、買ふべきものが見附けられなかつた。
田村書店の無料箱で、時枝博士の「國語假名づかひ改訂私案」の載つた「國語と國文學」の昭和二十三年三月號を拾つた。

平成十七年七月二十一日
ぺとぺとさん→ローゼン→涼風→極上生徒会。
今囘も極上は極上な出來で面白かつた。比べられる涼風が可哀想。そんなに非道い訣でもないと思ふのだけれども、極上に比べると。
平成十七年七月二十一日
サルトルの『嘔吐』やジイドの『パリュウド』のやうな形で「思想としての生き方」を表現した日本の小説はどれだけ「ある」だらうか。
日本の小説家は、率直さが缺けてゐる――生活を語りつゝ、語り切れない主張を「メッセージ」として提示する。
或は、日本の小説家は、詩人でない。象徴的に思想を表現するのが苦手である。彼等はただ婉曲な表現をしてゐるに過ぎない。結局「下手だ」と云ふ話になるのかも知れないが、實際、俺は日本の小説家の小説は皆下手だと思つてゐる。はつたり染みたものが多過ぎるやうに思ふ。
さらに或は。俺は「それ自體として思想である小説」と云ふものを日本の小説で見た事がない。思想に對して「應答した」と云ふものは「ある」。だが、それは受動的な反應に過ぎない。時事問題・社會問題を採上げる日本の小説家は、受動的な反應をしてゐるやうにしか俺には思はれない。思想的に「能動的な小説」と云ふものは、日本では成立つだらうか。『嘔吐』にしても『パリュウド』にしても、作家が、思想を利用し、或は思想の側からの呼びかけに應答してゐる、と云ふ風には、俺には觀る事が出來ない。

平成十七年七月二十日
妄言師@無銘の銘柄 - はてな第397回
再開直後の記事がマイメロなのはワラタ好感が持てる。
平成十七年七月二十日
バルザックなんか以來、小説は「開かれた」もので、讀者は想像なり創造なりを勝手に賦與して自分なりに讀む事が許されてゐる。さうした「自由な藝術」は、小説以後、日本の漫畫やらアニメーションやらにまで到つてゐて、所謂「二次創作」が成立つてゐるのはさうした「自由な藝術」の觀念が普及した結果だと言へよう。その現時點での窮極のものが虹裏だと考へてゐて、窮極なるものは慥かに面白い。が、さうした「自由な藝術」に反撥したいとも俺は思ふのだ。「自由な藝術」に對置する概念を「完全な藝術」と假に呼んでみる。
「完全な藝術」――詩とか戲曲とかをさう呼びたいのだけれども、アリストテレスに據れば戲曲も詩だ。が、日本に於て成立した詩は短詩形文學である。が、これでは近代以來の状況――「シーン」なる語を濫用するのは駄目とか言はれてゐたのを覺えてゐるが曖昧な言ひ方をするのには都合が良い――に對應し切れない。
能や歌舞伎は、歐米の近代劇と異り、科白劇ではなく、科白を「出し」にした役者のパフォーマンスを樂しむエンタテインメントである。日本に移入された近代劇は、必ずしも科白劇として受容れられた訣ではないものの、岸田國士から福田恆存に引繼がれたラインに「詩劇」の運動を包含してゐた。結局運動としては「失敗」に終り、現在、日本に近代的な「詩劇」は「ない」と敢て言ふが、「完全な藝術」としての「詩劇」的な藝術は、あつても良いのではないかと考へる。福田恆存が、「詩劇」のスタイルを、既存の小説のスタイルの中に取込んで小説『謎の女』を書いてゐるけれども、これは「失敗作」と看做されてゐる。が、シリーズとして延々續く昨今のエンタテインメント小説ではなく、それ自體として完結した「完全な小説」は、あつても良いと思ふ。それが小説としての「自由」を失つてゐると言はれようとも。
で、例へば(?)真柴ひろみの少女漫畫に、さう云ふ傾向の強い作品が「ある」のだけれども、少女漫畫であると云ふだけの理由で閑却されてしまつて良いとは思はない。一方、現状のアニメーションにおいては、「完全な藝術」のやうなものは成立し得ないだらう。アニメーションでは、「廣がり」のない作品は、商賣として成立たないからだ。アニメーション作品は、メディアミックス展開が必須である以上、「完全な藝術」を實現し得ない。「メディアミックスは可能か」――「不可能である」と云ふ答へは、サイト開設時から用意してある。(のだけれども、確率的に「ゼロ」とは言へないのであり、ならば「何かの間違ひ」で實現してしまふ可能性は「ある」。そんな訣で、嗤はれようと馬鹿にされようと、「現代の藝術」としてのアニメーションからはまだ「離れる」積りにならない。なほ、ゲームは、最初から完全性を抛棄したオープンなものであり、當方の關心の對象となり得ない)
平成十七年七月二十日
と言ふか、何時の間にか新刊が。
Yahoo!ブックス - 君はぼくのヒーローさ 1 / 真柴 ひろみ 著
買つて來よう。
平成十七年七月二十日
思想が歐米の最新のトレンドを取込んでゐるのに對し、文藝が舊態依然たる状況にある事に、私は非道い不滿を覺えてゐる。構造主義から脱構築へ、ポストモダンが何うたら斯うたら――といつた思想の「發展」に、我々日本人の思想家は(良かれ惡しかれ)追隨してゐる。然し、その成果を小説家や詩人は享受し得てゐない。文藝にポストモダンの影は落されてゐる?――否、影では不足である。文藝の原理にまで思想は入り込むべきである。
サルトルが現象學から受け、文藝作品に表現しなければならなかつた程の衝撃を、今の日本の小説家は何らかの現代思想から受け、それを作品に表現してゐるか何うか?――ゐない。一部の時事的話題に興味を抱く政治主義的な小説家が、僅かに現代の社會問題を「話の種」として作品に盛込んでゐる。けれども、それは、思想と政治とを混同した勘違ひの結果に過ぎない。人間を認識し表現する事でなく、社會問題を告發する事に興味を抱いてしまつた政治運動家が、小説家の假面を被つて、政治運動のアジ文書の代りに小説を書いてゐる。純文學の雜誌でも、社會問題を扱つてゐれば「受ける」のである。文學者に社會運動家へのコンプレックスがあるとしか思はれない。
サルトルは、慥かにマルクス主義に興味を抱いた。けれども、『嘔吐』を讀んで、讀者がマルキストになるかと言へば、そんな事はない筈である。小説家の全ての作品を名作と呼ぶ必要はないから、サルトルの全ての小説を名作と言つて襃め讚へる必要はない。しかし、慥かに『嘔吐』は今でも讀む價値を持つ小説である。政治的な意圖とは無關係に、作者が純粹に認識の問題を扱つてゐるからである。

平成十七年七月十九日
おね2 @ NECO。大サーヴィスで特典映像やらノンテロップOpやら。本篇はなんともなつかしいと言ふか、本放送は最う二年も前になるんですねえ。時の經つのは早いですねえ。續篇にしては成功した部類に入ると言ふか、前作よりも俺は面白く感じたのだけれども世間的には。
平成十七年七月十九日
じりじり讀んでゐる『ブリタニカ草稿』、取敢ず第四草稿を讀み終へた。よくわからない。第一から第三草稿は後囘しにして譯者解説を讀んで見てゐる。知らない用語が三つあると、文章が全然理解出來ないよ。と言ふか、「現象學の效能」は良く解るけれども、「現象學つて何」と云ふ疑問に實はちやんと答へてゐないやうな氣が。
ブリタニカ草稿: 紀伊國屋書店BookWeb
Amazon.co.jp: 本: ブリタニカ草稿
哲学の劇場 > 作家の肖像 > Edmund Husserl
平成十七年七月十九日
めも。いつか讀む。
二宮公太郎
フッサール關係の論文。

平成十七年七月十八日
詞の玉垣
大正時代の國字問題關係の資料が電子テキスト化されて、續々と公開。
平成十七年七月十八日
新宿のヨドバシカメラで最早見られなくなつたTDKの「四倍速まで對應」のDVD-Rが近所のヤマダ電機で山積み。十枚入りパックが1180圓なので二パック購入。うちのRDもPCのドライヴも遲い奴なので、遲い速度對應のディスクで十分だし、却つてその方が良い筈。
平成十七年七月十八日
相模原驛前のりらが潰れてゐた。客が全然入つてゐなかつたから當然と言へば當然。
りら書店 Home
平成十七年七月十八日
時流に副つた事を專ら言ふ言論人がゐる一方で、時流に反した事を專ら言ふ言論人がゐる。彼等は一見、正反對の存在であるやうに見える。しかし、どちらも「機械的」に物を言つてゐる點では變りがない。
福田恆存と云ふ人は、どちらのタイプの言論人だつただらうか。「どちらでもない」と私は思ふ。福田氏は、時流とは關係なく、物を言つてゐたのだ。だからこそ偉いのだと思ふ。
「福田氏の時代には正字正かなを用ゐるのが時流に反撥する事だつた、しかし時代は變つた、今、正字正假名を使つても意味はないのだ」と主張する人がゐる。さう云ふ主張は如何なものだらうか、と私は思ふ。それは、「福田氏は單に時流に反撥してゐただけなんだよ」と言つてゐるやうなものではないか。そのやうな評價は、福田氏を貶めるだけである。
正字正かなは、福田氏にとつて「時流に反撥する爲の手段」等と云ふものではなかつた。それは「生き方」に直結したものだつた。時代とは關係なしに正しいものであつた。だから、時代が變つたからと言つて、正字正かなは抛棄されて良いものではない。福田氏の持つてゐた「正しさ」の觀念の正當な理解拔きに、福田氏を正しく評價する事は出來ない。
福田氏が「生き方」として選んだ正字正かなを、野嵜は意識して選んで使つてゐる。自分が叩かれるのを正字正かなの所爲にしてゐるのではない。勿論、さう言ふのは宣言に過ぎず、信用するに足らない、と人は言ふかも知れない。だが、野嵜が假に「免罪符」として正字正かなを用ゐてゐるとして、それに反撥して「俺は正字正かなを使はない」と言ふ態度を取るのであれば、それは「福田氏の考へ方への同意よりも、野嵜への反撥の方が強い」事を意味する。福田氏を輕んじてゐるのである。それだけは止めて貰ひたい。
平成十七年七月十八日
我々日本人は、「人の上の神」を持たない。ただ、「偉いなあ」と思ふ人を見て、その人に從つたり、その人の眞似をしたりして、自らを律するだけである。日本人は「人の上の人」をしか持たない。
だから、屡々日本人は、論者に據つて言はれた事と、言つてゐる論者の人格とを混同する。言はれた事を評價するのに、言つてゐる論者の人格が良いものか何うかを一々吟味する。人格が氣に入らなければ、どんな事が言はれてゐても、それに「説得力」を認めない。
ところで、人格を問題にする事は、何處まで許されるのであらうか。神と人とは違ふ――神は完全であり得るが、人は決して完全たり得ない。ならば、文句をつけようと思へば、人格には幾らでも文句を言へる。人格を判斷基準とするならば、或論者に據つて言はれた事を「認めない」とする事は、常に可能である。
「人格を認めるか、認めないか」は屡々恣意的である。その結果、「人の主張を認めるか、認めないか」もまた恣意的になる、と云ふ事が屡々ある。否、話は逆である。或論者の主張を認める自分の態度が恣意的であるからこそ、その論者の人格を問題にするのである。論者の人格が何うであるか、は、ただ單に、自分がその論者の主張を端から受容れない理由をもつともらしくでつち上げるのが目的である。
さて、「物事を受容れる・容れない」を、さう云ふ風に恣意的に、自分の好きなやうに決める、と云ふのは、道徳的には如何なものであらうか。それは、「自分が判斷基準である」と決める事にはならないか。それは餘りにも傲慢であるやうに私には思はれる。
「人の上に神を戴く文化」の長所は、人が傲慢の罪に陷り難い事である。西歐と日本とで、慥かに文化は違ふ。だが、「人の上に人を戴く文化」だからと言つて、日本人は「傲慢になつて良い」と云ふ事にはなるまい。主觀的な判斷の域を越えた、客觀的な正しさを認めるのは、寧ろ傲慢の罪を免れる爲にも必要な事である。客觀的な事實は、我々の主觀的な主張を屡々否定する。客觀的な事實が主觀的な意見を誤とする時、私はそれを認めざるを得ない。
人が何かを「正しい」と「する」と云ふ事を、日本人は考へる。だからこそ、日本人は屡々「誰かが決めた『正しい』事」を「求めてゐない」と言ふ。しかし、人の外部に「正しい事」が「ある」と考へる思考法を、日本人は學んで良い。プラトンのイデア論にしても、キリスト教の事效論にしても、千年以上の傳統がある。日本人には、さう云ふ思考法は所詮、附燒刃にしかならない。だが、何も學ばず、「我々の流儀」に安心し切つてゐるよりは、附燒刃の知識であらうとも、持つてゐた方が増しである。
平成十七年七月十八日
アンチポップ2.0、NetFrontで見るとレイアウトが崩れるのですけれども。
平成十七年七月十八日
アンチポップ2.0 - さっそく
このスタイルは僕が書いた訳じゃないので DIS られているのは僕ではなくはてなさんなので、はてなさんはさっさと応戦してください。との事。
なんかアレな書込みがあつたやうですが、「義」ですね。まだ生きてゐるらしい。
DISつて何だらうと思つてぐぐつたらダイワボウ情報システム株式会社が一番上に出て來た。
平成十七年七月十八日
Google 検索: "き つ く 申 し わ し た ぞ 。"
なんかまた「義」があちこちのブログに野嵜の名を騙つて書き込んでゐるのだけれども、法的に對處出來るのかなー。辯護士の讀者さんがいらつしやいましたら御聯絡を。

平成十七年七月十七日
事實の確認。フランス語の數詞について。先づ基數詞。
0
zéro
1
un
2
deux
3
trois
4
quasre
5
cinq
6
six
7
sept
8
huit
9
neuf
10
dix
11
onze
12
douze
13
treize
14
quatorze
15
quinze
16
seize
17
dix-sept
18
dix-huit
19
dix-neuf
20
vingt
21
vingt et un
22
vingt-deux
23
vingt-trois
30
trente
31
trente et un
32
trente-deux
40
quarante
41
quarante et un
50
cinquante
51
cinquante et on
60
soixante
61
soixante et on
70
soixante-dix
71
soixante et onze
72
soixante-douze
80
quatre-vingts
81
quatre-vingt-un
82
quatre-vingt-deux
90
quatre-vingt-dix
91
quatre-vingt-onze
92
quatre-vingt-douze
99
quatre-vingt-dix-neuf
100
cent
一から十六までは英語に似た形。しかし、十七、十八、十九は十と七、十と八、十と九、の形で表現する。二十臺から六十臺までも、矢張り英語に似てゐる。けれども、七十臺では六十足す十、六十足す十一、のやうな形に。八十は二十の四倍。九十臺は二十の四倍に十を足す、二十の四倍に十一を足す、と云ふ風になる。unは男性形で、女性形ではune。一以外に二十一、三十一、四十一、五十一、六十一、八十一にも女性形がある。
百はcent。二百はdeux centsでsが附く。が、端數がある時にはそのsが附かない。二百七十はdeux cent soixante-dixになる。
千はmilleで、こちらは二千、三千となつてもsが附かない。二千はdeux mille。
以上は、單純な「數」を表はす語。なかなか厄介な事になつてゐる。
さらに、フランス語には、英語と同樣、「何番目」を表はす序數詞がある。
1er(1ère)
premier (première)
2e
deuxième
3e
troisième
4e
quatrième
5e
cinquième
6e
sixième
7e
septième
8e
huitième
9e
neuvième
10e
dixième
11e
onzième
12e
douzième
13e
treizième
14e
quatorzième
15e
quinzième
16e
seizième
17e
dix-septième
18e
dix-huitième
19e
dix-neuvième
20e
vingtième
21e
vingt et unième
30e
trentième
100e
centième
101e
cent unième
1000e
millième
こちらは、基本的に基數詞+ième。しかし、eで終る基數詞の場合、その尻尾のeを省いてièmeを附ける。cinqはcinq+u+ième。neufはfをvにする。一番目には男性形と女性形があつて、それぞれpremier、premièreとなる。二十一、三十一(以下略)も同樣に男性形・女性形があるが、基數詞のunをunièmeに變へる。
話はまだ終らない。以下、順序を示す副詞。
1o
premièrement
2o
deuxièmement
3o
troisièmement
4o
quatrièmement
5o
cinquièmement
6o
sixièmement
7o
septièmement
8o
huitièmement
9o
neuvièmement
10o
dixièmement
副詞の場合、序數詞+mentが原則だが、「第一に」だけが特殊。oが附くのはラテン語表記に由來する。ラテン語表記では順にprimo、secundo、tertio、quarto、quinto、sexto、septimo、octavo、nono、decimo、となる。
以上、白水社のプチ・ロワイヤル佛和辭典を參考にした。
これだけややこしいのだから、フランス人にとつても數の勘定はなかなか厄介であるさうだ。勘定が「不可能」と云ふのは誤だが、實際、計算が苦手なフランス人は尠からずゐるらしい。
平成十七年七月十七日
トップをねらえ2! バスターマシン
フランス語そのまんま、と云ふのは有名。
で、主人公のノノはラテン語の「第九の」なんですな。本當か何うかは知らんが。
平成十七年七月十七日
日本語の場合、十進法で割と單純に勘定出來る。但し、それは漢語が入つて來て漢數字を使ふのが一般的になつたから實現した事で、元々の和語ではなかなか大變な事だつた。土佐日記に十二月(しはす)の二十日(はつか)あまり一日(ひとひ)の日の戌の時に門出すと云ふ例がある。二桁以上の數を言ふ時には上下の桁の數詞の間に「あまり」を挾んで言つた。(小学館全訳古語例解辞典)
また、この例でもさうだけれども、一般に物なり何なりを勘定する際には「度」「囘」「匹」「册」等の語を添へる。これらの語の遣ひ分けを、日本人は無意識に出來るけれども、外國人には習得が困難であるやうだ。
フランス語の數の勘定の仕方は、日本人には不自然に思はれるけれども、連中にとつてもさうであるとは必ずしも言切れない。單純に、どの言語では數の勘定が簡單だ困難だと言へたものではない。
平成十七年七月十七日
?D 大和但馬屋日記 - フランス語には全く疎いが
かう云ふ解釋もあり得る。
もつとも、解釋なのだから、いろいろ「あり得る」のであつて、石原氏の發言にしても、それが出て來た「心理的」な理由はそれなりに附けられる。「政治的」な目的があれば、それなりに問題視される、と云ふだけの事に過ぎないのであつて、世間は騷ぎ過ぎ。今囘の「問題」、「石原の發言だから騷ぐ」と云ふ面がある事は否めない。
平成十七年七月十七日
TBSアニメーション「ローゼンメイデン トロイメント」公式HP
TBS地上波にて今秋放送決定!
平成十七年七月十七日
"aqua"internet版rj別館 『平成疑問仮名遣 平成17年版』高崎 一郎 2005-07-10

平成十七年七月十六日
Мышкин княжество
陳言斎問題で「陳言斎=那山清流」と云ふ事が本人の口から出て來て、それで「那山清流」でぐぐつた結果、俺はアレクセイみたいな質の惡い人物だと云ふ事は良く解つた。典型的な「アレクセイ言論」と評したのだけれども、「沖泰光」でぐぐつてみたら、アレクセイ、未だにその「言論」を續けてゐるらしい。
Мышкин княжество: シリーズ寸評

平成十七年七月十五日
黒つぽい本が大量に出てゐてとても良い(棚の)氛圍氣だつた愛書會。正宗白鳥『讀書雜記』。アーヴィング・J・リー『生活と言語 一般意味論序説』。中谷宇吉郎『寒い國』。安藤正次『國語國字の問題』。サザン『歴史叙述のヨーロッパ的伝統』。雜誌「思索」第八號(昭和二十二年十一月二十五日發行)。『早稻田大學講義録』(山内素行「國文法講義」、五十嵐力「作文講義」、神郡晩秋「習字法講義」の合本)。『東洋史講座 支那畫の研究 支那文字の研究 古代印度の文化 その他』。
平成十七年七月十五日
正宗白鳥『讀書雜記』pp.9-10

……それで、小説とは何ぞやとの問題が出て來るのだが、今度(徳田秋聲の)『爛』を讀んで、興味索然たる思ひをした。當て氣のない、ケレンのない描寫の筆で、凡庸の人間生活を凡庸のままに寫してゐるのは、作家の氣構へとしてゐたに違ひないと思はれるが、今度讀んで見て、かういふ小説は私に何の手應へも無いのである。かういふ人々はかういふ風に暮してゐるんだと示されて、成程さうなんだらうねと思ふばかりである。秋聲の小説は主觀の力によつて讀者を引摺つて、作者獨特の境地に讀者を遊ばせる種類のものではないが、さうかと云つて、沒主觀の廣い態度で人の世を描きだして、讀者に人のいのち、人の世の深さ廣さを伺はせ、無限大の思ひを我々の心に起させるやうなものでもない。忌憚なく云ふと、規模の小さな薄手なものである。これは秋聲の作品に酷評を下したことになるが、秋聲の外にも、明治以來知名の作家は多くさうなのだ。しかし秋聲のやうな制作態度そのものは、世界の小説のなかに出して、一特色あるものとして翫味すべきではあるまいか。この態度で内容がもつと豐かになればいいのであらう。近來は西洋の小説も、險惡な時勢相應に、奇を弄し異を樹てるものが續出するらしく、『二十五時』とか『ペスト』とか云つた種類の作品が、讀み甲斐のある小説として歡迎されてゐるさうだが、それ等は小説のヒロポン、アドルムの類ではあるまいか。

平成十七年七月十五日
同じく正宗白鳥『讀書雜記』。白鳥曰、そして、私は、『爛』のなかの人物、或は『爛』の作者その人と、のんびりした話をしてゐられるのを、現實の世界としても小説の世界としても、自分相應のものと思ひながら、さういふ物を棄てて、薄氣味の惡い『カラマゾフ』だの、『イリッチ』だのの行動や、心理の變遷動搖に心を凝らしたくなるのである。例へば『水滸傳』の豪傑は、心理描寫が不足してをり、最早近代的な小説のやうな興味を引かないものだけれども、近代の英雄を今の小説で今風のやり方で取扱つたら興味を引くものとなるのではないか。白鳥は、スターリンの存在を特異な存在であり興味ある存在であると述べ、某記録小説でスターリンが小説的に描寫されてゐて面白かつたと書いてゐる。
ところで、今度の芥川賞の小説、例によつて時事的な小説だが、登場人物は我々の興味を引く程の存在なのであらうか。
平成十七年七月十五日
山内素行『國文法講義』序説

いづれの國に於ても、言語がある以上は、その言語に法則がなければならぬ。その法則を教へるものは即ち文法である。

言語は、各人が聲音を媒介として互に思想を通ずる一つの機關である。この機關によつて思想の交換が行はれ、人智は益々開け、言語そのものも次第に發達して行くのであつて、未開の時代には言語も極めて單純であつたのが、開明の域に進むに隨つて、言葉の數も増加し、思想表現の方法も複雜になり、言語使用上の種々の法則が、自然に生じて來たのである。之等の言語使用上の法則が即ち文法であつて、もともと自然に發達し來つたものであるから、規則として之を學ばないでも、その國に成長して相當の教育を受けた人であるならば、自然の經驗によつて、談話も出來、文章も綴ることが出來る。であるから、自國語の文法を一つの學科として學ぶことは、その國人にとつては、絶對には必要でない。それは實地の經驗によつて或程度まではその國の文法を自然に無意識に會得することが出來てゐるからである。

此の點に於て、吾々が國文法を學ぶのは、我々が外國文法を學ぶのと趣がちがふ。外國文法に於いては全然未知の言葉の法則を學ぶのであるから、文法上のいづれの規則も悉く一々記憶にとゞめて置かねばならぬ。然し自國の文法を學ぶ場合には、既に百も承知してゐる事柄が隨分あるので、殊更に規則として記憶して置く必要を感じないことが多々ある。然しさういふ點だけを觀察して、國文法が必要なものでないやうに思惟してはならぬ。外人が日本文法を學ぶに必要な程度までも、我が國人が國文法の諸規則を一々記憶して置くことは勿論不必要である。然し文法上の知識なしに、全く誤謬のない文章を書くといふことは頗る困難である。多年の經驗によればそれも出來よう。然し實地經驗即ち多くの實例を基礎として文法上の成否を無意識的に批判して、文を正しく綴つて行くといふことは決して容易なことではない。使用例がいくつもあつた場合に其のいづれが正しいかの判斷の必要の生じて來ることもあらう。使用例そのものが既に文法上の誤に陷つて居るかも知れぬといふ疑問も湧いて來よう。さうした疑問に遭逢した場合には、どうしても文法上の規則によつて之を解決するの外はないのである。

わかり切つてゐるやうな規則でも、他の重要な規則の基準となることもある。であるから如何にわかりきつてゐるやうな規則でも研究の順序として之を省くことは出來ぬ。且又文章の解釋の上に於ても文法上の知識によつて判斷する必要が生じて來ることもある。例へば

  • 「たへて」
  • 「たえて」

といふ語が文中にあつた場合に、「たへて」なれば「堪へて」の意味であり、「たえて」とあれば「絶えて」の意味であるといふことは文法上の知識によつて解決することが出來るのである。又、

  • 「わがきろうことも人に強ゆべからず」

といふ文があつたとして、之でも意味は立派に通ずるであらう。然し文法上からいふと、

  • 「わがきらふことでも人に強ふベからず」

と訂正せねばならぬのである。何故に、後に書いた方が正しいのかといふことは文法の知識によらなければ斷定することが出來ぬのである。以上の例によつても、文法上の知識の必要であることの一斑を知ることが出來るであらう。

文法に於ては、先づ一つ一つの言葉即ち單語に關する法則を學んだ後に、之等の結びついて出來る文の法則を學ぶのが順序である。そして、單語に關する規則を學ぶ部分を單語篇といひ、文に關する法則を學ぶ部分を文章篇といふのである。國文法に於ては、單語を分つて、

  • 名詞
  • 代名詞
  • 動詞
  • 形容詞
  • 助動詞
  • 助詞
  • 副詞
  • 接續詞
  • 感動詞

の九種とする。之等の品類を品詞と名づける。即ち國語は之等の九品詞から成立つてゐるのである。

日本語には文語口語とがある。この文語と口語に於て文法上の規則は大體に於て一致してゐるが、相違の點も尠からずある。然し口語は文語から轉化したものであるから、先づ文語に關する法則を學んでから、口語の法則に及ぶのが順序である。其故、本講義に於ては、先づ文語を基礎として講述し、口語に關しては文語と趣を異にしてゐる要點のみを指摘することとする。

品詞の分類は兔も角、他の幾つかの指摘に就いては、それなりに尤もな主張である。今の文法教育では本書の時代(多分大正末〜昭和初)の文法教育を否定するやり方がとられてゐるけれども、ちよつと行き過ぎの觀がある。現代の文法教育では、便宜の上から口語を優先してゐるけれども、この便宜主義の所爲で「文法教育をすべき理由」について説得力を失つてしまつてゐる。古臭い戰前流の文法教育が、生徒を論理的に説得する事から始めてゐるのは、見習つて良い事である。
平成十七年七月十五日
椎茸
平成十七年七月十五日
昨夜咲いた花。
月下美人
平成十七年七月十五日
子供の螳螂が居間に迷ひ込んできた。
螳螂その一
螳螂その二

平成十七年七月十四日
『火星ノンストップ』を買つて來た。SFらしいSFを買ふのは久し振り。野田大元帥譯の「シャンブロウ」を讀んだ。仁賀譯と隨分違ふ氣がする。「仁賀譯は一般に信用ならない」と言ふのが定説だけれども。野田譯の方が良い。しかし、「ら拔き言葉」がある。
平成十七年七月十四日
断片集 - アメリカ
「老人と海」は面白かった.本編もさることながら訳者解説がとりわけ読み応えがあった.訳者の名前は福田恆存とあり,そういえば図書館で著書をみたおぼえがある.以下、福田さんの「譯者解説」について論じてゐて面白い。
平成十七年七月十四日
ガス田の試掘が許可されたのではなく、試掘権が許可されたのだと。權利を許可する――何か變な感じがする。

平成十七年七月十三日
モヒカン族」の定義と「ムラ社会」の定義とを見比べて見たのだけれども。兩者の間に違ひは全くないと言つて良いのではないか。「モヒカン族」は詭辯と喩へ話と斷言とを用ゐる。「ムラ社会」は論理的な正しさを輕視して身内を身内であるがゆゑに擁護する。これでは、どちらも「正しさへの志向がない」事になつてしまふ。
「殺伐とした議論を求むモヒカン族」と「ナァナァの馴れ合いを好むムラ社会」とは、雰圍氣が異るだけで、やつてゐる事に違ひはない、と云ふ事になる。が、それで十分だと誰もが思つてゐる。「正しさへの志向」が「ない」のである。誰も「正しい論理」とか「正しい議論の方法」とかが「ある」と思つてゐない。そもそも「正しい」と云ふ事に、誰も興味を持つてゐない。日本人にとつて、正義とは「子供が好むもの」である。
平成十七年七月十三日
涼風第二話。馬鹿にしながら見るとそれなりに面白いのだが、いろいろ駄目。「御話としてきちんと作つてゐない」のが問題で、「好い加減」で行當りばつたりなのが視聽者を苛立たせる。「女の子の前であたふたする主人公」なんて紋切型のキャラクタは、現實にも存在しないものだけれども、作品を「まんがちっく」にして視聽者を白けさせる以外の效果を持たないのに未だに制作者に愛用されてゐて、このアニメーション作品でも惡い效果を擧げてゐる。男の主人公がヒロインの前で「うわあああ」とか「ぎょええええ」とか叫び捲るアニメは、とても多いけれども、制作者――就中、脚本家――の無能を表はしてゐると言つて良い。と言ふか、演劇でも、登場人物に叫ばせる臺本は、どれも駄目なものだよ。それが解つてゐない制作者が餘りにも多過ぎる。連中、登場人物が叫ぶとインパクトがある、とでも思つてゐるらしい。うざつたいだけである。
極上生徒会第十五話。極上は結構當たり外れがあるのだけれども、今囘は「當り」の囘。作畫良し。小ネタ良し。落ちはやや弱めだけれども、次囘にネタを引きずる模樣。一般論だが、「學園もの」は、「終り」が「來る」ものである事を登場人物が意識する場合、大體成功する。「ただ樂しい」ではなくて「終りが來るから樂しむ」と云ふのが極上のテーマで、比較すると慥かに單なる刹那主義よりも「深み」が感じられるのだが、「樂しい」をテーマにした作品が昨今、餘りにも一般的である爲、必ずしも「はつたり」が效いてゐると感じられない。要は「通俗的」と云ふ事で、それが良かれ惡しかれ黒田の特徴なのだが、「臭み」をさへ感じさせてしまふのは黒田の重大な缺點だと言へる。が、あにめの脚本家で通俗性を持たず、臭みを持たない人は殆どゐない。最近のあにめが「藝術的」な方向に傾斜する度合を強めながら、藝術になり切れないのは、結局のところ、脚本家が「通俗的な藝術の雰圍氣」をしか實現したいと考へないからだ。「雰圍氣が藝術的」と云ふ作品は、「藝術もどき」以上のものにはなれない。パロディは現代社會では極めて通俗的なものである。なほ、一往確認の爲、明記しておくが、通俗的なものは藝術ではない。

平成十七年七月十二日
ぱにぽにだっしゅ第二話。そんなに惡くはないやうな氣がする。第一話がアレ過ぎたんだと思ふ。
平成十七年七月十二日
フッサールのブリタニカ草稿を買つて來た。讀みつゝあるけれども何だか良く解らない。
平成十七年七月十二日
宙出版のとらぶる・うぃんどうずを買つて來た。三省堂本店にも書泉グランデにも見當らないのに橋本驛の啓文堂で平積みになつてゐて、しかも全然賣れてゐない。冒頭の擬人化のあゆみはストーリー仕立てにしてあるのが態とらしくてアレだけれどもちやんと出來てゐる。が、空氣を讀めない2k兄さんと大銀孃の話とかがない。設定定着してゐないからいいか。と言ふか、知らない人には全然御薦め出來ない或は知つてゐる人にしか解らない代物なので(表紙のネタは名無し→としあき→「」を經て來た困つた人にしか判らないと思ふ)、にじうらに居着いてゐる人以外は濫りに買はないやうに。あと、何であさりよしとおを呼んだのだらう。
平成十七年七月十二日
コシヌケな御意見番 複数の人間が携わるサイト
例へば「正字正かなWiki」なんてものが一般に公開された時、正字正かなのテキストが不正字不正かなに書直される可能性がある訣だ。
平成十七年七月十二日
2005年7月の戯言 - 駄的HTML改善計画
そして、これをリアルな人の目に触れるブログに書いていないあたり、私は小心者なのだ。
リアルな人しか読まないようなブログになんて、書くことは基本的にない。
リアルな人……? ひよつとするとヴァーチャルな人なんてのがウェブにはゐたりするのかな……? 野嵜はリアルな人でfankee_jrはヴァーチャルな人。
平成十七年七月十二日
「どんなバトンがあつたら良いと思ひますか」「そのバトンは具體的にどんな質問があれば良いですか」「そのバトンを受取つたら誰に廻したいですか」なる質問を含む増殖型バトンなるものを思ひ附いたのだが、多分既に誰かが考へてゐる事だらう。
新黎明日記 2005-07-01 ■ 16:52
囘答。アンテナなし。アレクセイ・竹下・波江・その他多數。バトン。とほほ。勝手に受取れ俺は廻さない。
云々。と言ふか、本氣で憤つてはゐないな。嘘を吐きました。ごめんなさい。

平成十七年七月十一日
「です・ます」體の文體は、「敬體」と言ひ、敬語の一種であるが、叮嚀語であつて謙讓語ではない。「だ・である」體は、「常體」と言つて、敬語的には「中立」の文體となる。學生が教授に提出する論文や、會社員が上司に提出するレポートで、「常體」を用ゐても、それ自體として、禮を失した事にはならない。
平成十七年七月十一日
野嵜の立場は、言語に關しての立場の事だが、原則として保守派だ。表音主義に反對するのは、表音主義の結果として文法が必然的に破壊されるからだ。觀念語としての漢語が、同音語として紛れ易くなる。文字言語の「縛り」がない場合、殊に日本語においては語の縮約が生じ易くなる。既存の日本語に於ける語の多樣性は、表音主義に下では失はれる。
特に、語の縮約と、觀念語である漢語における同音異義語の存在とは、表音主義に於いては、必然的に「紛らはしい語」の區別を難しくする。語の多樣性が失はれ、「紛らはしい語」が實際に紛れてしまふ事は、物事を曖昧にする。物事の峻別を不可能にする事態は避けねばならない。
我々が、利便性の名の下に屡々やらかす失敗は、必要以上に、多樣性を失はせ、單純化する事である。地名の「整理」が、その種の失敗の一例であつた。○○何丁目が大量に出現した地名では、觀念的な命名が屡々行はれ、却つて土地の「アイデンティティ」が失はれる事となつた。
命名においても、我々は「流行の名前」を利用してしまふ事で、名の多樣性を失つて來た。過去に於ては、地名なり何なりによつて、兔に角樣々な方法を用ゐる事で、個別の人物を區別して呼ぶ努力がなされてきた。さうした努力の一端は、例へば百人一首の作者名の書き方に顯れてゐる。現在に於いては、苗字・姓によつて、單純な名の齎す多樣性の缺如は囘避されてゐる。
然るに、「パソコン通信」以來の「ハンドル」においては、名の多樣性は失はれる方向で、人々の「啓蒙」がなされて來た。かつて、「ハンドルは、名前の一部を使うのが良いでしょう」のやうな解説が流布してゐた事がある。今でもさうした「常識」に基いて自分の「ハンドル」を決めてゐる人は少くない。結果として、「語の縮約」が生じ、「流行」の「觀念語」許りが「ハンドル」として用ゐられる傾向が見られる。「ハンドル」には多樣性が缺如してゐる。即ち、「ハンドル」同士のバッティング現象が屡々見られる、と云ふ事だ。
かうした現象は、多樣性の存在しない「ハンドル」を用ゐる事の明白なリスクである。「義」と「義珍」氏、陳言齊と陳五郎氏とは、野嵜の最近見たバッティングの例だ。かうしたバッティング現象は、「ハンドル」を用ゐる限り避け得ない。野嵜としても、かうしたバッティング現象は、色々な意味で「利用」すべきものであつて、そこで何らかの「配慮」をすべきものとは考へない。「ハンドル」は、自分で自分に貼るレッテルであり、自分で責任を持つべきものだと考へる。「ハンドル」の持つ「リスク」に關しては、「ハンドル」を用ゐると決めた時點で承知してゐるものと看做されても仕方がない。
「そもそも、多樣性の喪失を『避けるべき事』と考へる」立場である以上、野嵜は「『ハンドル』の類を否定せざるを得ない」のであり、「ハンドルのバッティング現象」によつて、混亂なり何なりが周圍に生じてゐたとしても、野嵜としては謝罪する事が(據つてゐる立場上)出來ない。義珍氏の以前の場合には意識的な現象の利用であつたし、陳五郎氏の場合には意圖せざる現象の出現であるけれども、何れにしても野嵜としては「惡しからず御諒承いただきたい」としか申し上げられないし、それでも立場から言へば「謝り過ぎ」になつてしまふと考へられる。
平成十七年七月十一日
久しぶりに田村書店で本を買つた。但し店頭。現代教養文庫を何册か。持つてゐる筈の中島敦『李陵』や入江泰吉『写真大和路』等。で、何時ものやうに電車の中で本のチェックを始めて、「弟子」を讀出したら止まらない。最後まで一氣讀み。多分十囘は讀んでゐる筈なのだけれども、何度讀んでも良いものは良い。この短篇、小説の中で一番好きかも知れない。「李陵」や「名人傳」なんかよりも、寧ろ「弟子」の方が良いと思ふ。福田恆存のブログを最近になつて作り始めた人とか、「モヒカン族」とか言つてゐる人逹は、「弟子」を讀むと良いと思ふ。多分、今まで一度も讀んでゐないだらうから。
作家別作品リスト:中島 敦
青空文庫では、肝腎の「弟子」が新字新かな。中島敦を新かなで入力した馬鹿の罪は萬死に價する。
M's Web Factory
こちらは正しい假名遣の電子テキストを公開してゐるサイト。HTMLのマーク附けでは青空が「正しい」が、重要なのは中身なので、こちらの方が良い。
「弟子」三より。

 その後暫く、同じやうな事が處々で起つた。肩を怒らせ烱々と眼を光らせた子路の姿が遠くから見え出すと、人々は孔子を剌る口を噤むやうになつた。

 子路は此の事で度々師に叱られるが、自分でもどうしやうもない。彼は彼なりに心の中では言分が無いでもない。所謂君子なるものが俺と同じ強さの忿怒を感じて尚且つそれを抑え得るのだつたら、そりや偉い。しかし、實際は、俺程強く怒りを感じやしないんだ。少くとも、抑へ得る程度に弱くしか感じてゐないのだ。屹度……。

「弟子」七より。

 大きな疑問が一つある。子供の時からの疑問なのだが、成人になつても老人になりかかつても未だに納得できないことに變りはない。それは、誰もが一向に怪しまうとしない事柄だ。邪が榮えて正が虐げられるといふ・ありきたりの事實に就いてである。

 此の事實にぶつかる毎に、子路は心からの悲憤を發しないではゐられない。何故だ? 何故さうなのだ? 云々。

平成十七年七月十一日
MICHIMANA!
メルマガと中島敦と日記のサイト、との事。「中島敦の会」の紹介もあります。
なかなか中島敦
こちらも中島さん專門サイト。
平成十七年七月十一日
虹裏のでつち上げ表紙畫像(なかじま☆あつし先生著)で「山月記」を知つた人は、良い意味で「裏切られる」から、本物を讀んでみると良いと思ふ。けれども、高校生邊の人には「山月記」の李徴の悲哀なんてものは解らないだらうし、解る程の人間は人生の落伍者である。俺は落伍者だから良く解る。けれども、かう云ふ「解り方」を要求する小説が、一般的な藝術として價値を持つものか何うかは、檢討の餘地がある。寧ろ、「弟子」とか、「悟淨出世」とか「悟淨歎異」とかの方が、より優れたものであると言ふ事が出來ると思ふ。「名人傳」は、「とぼけた味」の小説で、ちよつと面白くないよ。

平成十七年七月九日
プレイボール。・゚・(ノД`)・゚・。……。

平成十七年七月八日
これがぺとぺとさんか……。
平成十七年七月八日
串田孫一氏死去。享年八十九。
エド・マクベイン氏死去。享年七十八。
平成十七年七月八日
高坂氏は、なぜ陳言斎なる惡質な人物に投稿させ續けてゐるのだらうか。
平成十七年七月八日
ときめきメモリアルONLINE
キャラメイクお試し版。
平成十七年七月八日
奇妙なポプリ
「花色散歩」「怪しい人名辞典」「お約束の展開事典」。
平成十七年七月八日
『大きなかぶ』の教材研究:第1節の発問づくり
これで,105問。たったこれだけのテキストであっても,扱える内容はいろいろある。つまり,たとえ1年生の教科書であっても,幼児から大人まで授業可能なのである。
一見詰らないものでも、扱ひやうによつては幾らでも使へると云ふ話。と言ふか、話は授業に限らないのであつて、「ブログ」の類でも「ネタがない」なんて事は「あり得ない」。
まあ「たかが大きな蕪」なのだけれども――この手の「ネタ」を基に話を膨らませて行くのが、教育として良いものなのかどうか、と云ふ問題は「ある」。子供も「大きな蕪」如きを茲まで執拗に突つき囘すのに(單に「飽きる」と言ふのではなく)嫌氣がさす事は「ある」だらうと思ふのだ。ここまで色々な側面から微に入り細に入り分析する、と言ふのが、果して「教育」として「良い」ものなのか何うか、議論の餘地はある。子供にとつては「程度の高いもの」を與へるのも教育の一つの方法だし、それを子供には理解出來ないまゝ押附けるのも一つの方法だ。當座、理解出來なくとも、成長してから意義にはつと氣附く、と云ふ事があつても良い。今の教育は、その場で全てを完全に理解して、そして次のステップに進む、と云ふやうなシステムになつてゐる。けれども、さう云ふ「完璧主義」は如何なものか。そして、完璧に理解する對象が、所詮「大きな蕪」では、或程度「程度の高い」子供には不滿が殘る事だらう。教師が「藝」で子供を釣るやうでは、必ずしも「良い教育」とはならないのではないか。「教材次第」ではなく「教師次第」である事には同意するけれども、さすがに「大きな蕪」では。云々。

平成十七年七月七日
電信八号のReadme.txtとヘルプ on Webの説明が大嘘。アップデートの際は、対応するアーカイブの中身を全て現在使っているフォルダにコピーしてください。バックアップの必要なファイルは、pkzip.pif だけです。と説明してゐる。フルパッケージの中身を全部上書きするとサーヴァの設定から何から何まで全部消える(メールは消えないからその點は安心)ので、やつてはいけない。Denshin8.exeだけを上書きすれば良い。
あと、◆◆インターネットメーラー電信八号オフィシャルサイト◆◆、作りが非道過ぎる。情報が全く整理されてゐない。「知りたい事」があつても、「必要な情報」に辿り着くまで苦勞する。(のみならず、「必要な情報」が「ない」事もある)一々文章が叮嚀な口調で書かれてをり、却つて頭に來る。
HTMLのマーク附けは綺麗なのだが、テキスト自體に餘計な情報が多過ぎる。故ふるきを温たずねて  温故知新  新しきを知るつて何ですか。◆◆電信八号オフィシャルサイト - 視覚障碍者のかたへ◆◆なんて文書を公開してゐるのに、制作者は「解つてゐない」らしい。読み上げソフトには「こふるきをおんたずねておんこちしんあたらしきをしる」みたいに讀ませたいらしい。改善すべきだ。
各文書で「ページ内ジャンプ」を濫用してゐる。「ページ内ジャンプ」は避けるべきだ。「長い長いページ」に全ての情報を押込むよりも、内容別に文書を分ける方が讀み手には判り易い。2ちゃんねるのタイプの掲示板とか「ブログ」とかで、一ページに何でもかんでも情報を押込むやり方が屡々採用されてゐるけれども、さう云ふやり方は「とっぷぺーじ」のインタフェイスとして判り辛く、良くない。「とっぷぺーじ」は飽くまで情報を整理して提示するメニューであるべきで、そこを「讀ませる記事」にしようとしてしまつては行けない。「メニュー」と「讀ませる記事」とを混在させるのは、欲張り過ぎ。世の中、何であれシンプルである方が判り易いし、判り易いのは美徳である。
それから、◆◆電信八号ドキュメント等の訂正・お知らせ◆◆に、「サーバ停止のお知らせ」の類を一々トップページより移動して記録してゐるが、止めるべきだ。かうした告知記事は、時期が過ぎれば情報として無價値になり、「ノイズ」となるから、一々記録しても仕方がない。また、電八と何の關係もないウイルス情報が載つてゐるけれども、「ソフトウェアのオフィシャルサイト」では、扱つてゐるソフトウェアと直接關係がある情報だけを「發信」すべきであり、無關係の情報は、一般的に意味があつても、その「オフィシャルのソフトウェア」の情報としては何の意味もないので、削除すべきだ。
個人的に、MUAは電八以外、使ふ氣がしないので、電八にはがんばつていただきたいのだが。
平成十七年七月七日
田村書店が無料で配つてゐる「要らない本」をまた拾つて來た。シャルル・バイイ『言語活動と生活』。サピア『言語 ことばの研究序説』。渡辺照宏『仏教』第二版。雜誌「歴史と旅」「歴史読本」。その他多數あるけれども取敢ず自宅に持つて歸つたものだけ。
平成十七年七月七日
若杉慧『石佛のこころ』(鹿島出版会)p.55「忍性臼」

門徒の家に生まれ、「御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識の浅からざる御勧化の御恩」の中に育てられてきた私には、渡辺照宏氏の「親鸞や日蓮はわずかに信者の仕送りによって余命をささえながら、口先だけの指導をしていた」とか「法然、親鸞、日蓮たち新興宗教の僧侶はだいたい主観的観念遊戯にふけっていただけで、実質的には何ら民衆の生活を助けることなく」とか「彼らを教祖と仰ぐ教団が優勢になったのは、後継者たちの政治的手腕によるものにすぎない」などは、ずいぶん大胆不敵な発言に思われた。

しかし同氏の『日本の佛教』の中では、ここが一番強く私の印象にきた。他は知らず親鸞の生涯にはこう一方的にいえぬ事情もあるかと思うが、その後継者たちがほぼこの渡辺証言のような経路をたどったことは否定しえないであろう。

平成十七年七月七日
Webアクセシビリティのポイント 9-7
9-7. ナビゲーションをスキップして本文へジャンプできる機能を用意する。
文書の冒頭にナヴィゲーションだかメニューだかが「ある」事それ自體が「アクセシビリティ」の觀點から言つて「誤」なのではないかと。「何でもかんでも『一ページ』に情報を詰込む」やり方をこそ、糺彈すべきだ。
と言ふか、1ピクセルの画像(透明の画像)なんて「美しくないやり方」を、なぜか多數のウェブサイト制作者が愛してしまつてゐる。なぜだらう。

平成十七年七月六日
Operaのバグ。「Help」-「About Opera」のHTMLがinvalid。

平成十七年七月五日
録畫(キャプチャ)したまゝ一度も觀てゐないいちご100%をDVD-Rに燒く單純作業。CMカットして、チャプタのサムネイルを附けて――と御定まりの作業をしてゐるのだけれども、サムネにするのに丁度良い感じのシーンが毎囘毎囘ほぼ同じ邊にあるのに氣附いた。御話がタイムボカンシリーズ竝にワンパターンであるらしい。

平成十七年七月四日
ぱにぽにだっしゅ。いろいろと空囘りぎみ。どうせ駄目なのだから、新房監督のどりふ演出、もつとばんばんやつたら何うか。千和の聲を聽く爲だけに見續ける積り。と言ふか、日曜深夜はANIMAXの忘却の旋律再放送を見てゐる俺は勝ち組。リアルタイムでぱにぽに觀てゐたら本氣で切つてゐたかも知れない。録畫で見終つた後、せんせいのお時間第一話の録畫を觀返してゐたり。口直し。ふたばの実況でも新房ぱにぽには非常に不評。來週以降化けて呉れると有難いのだが。
平成十七年七月四日
一往春期あにめについて。ネギま。「成長を見守るアニメ」になつたのがにんともかんとも。宮崎監督更迭が哀れ。最終囘でOpの伏線を囘收しにかかつたのが。
フタコイオルタナティブ。ユーフォーテーブルの「のり」を解つて樂しめる人には樂しめるのではないかと思ふ。最後までリアルタイムで觀たのだから俺にとつてはそれなりに面白かつたらしい。

平成十七年七月三日
茲數日の間に野嵜が書いた長文は、奇魂掲示板やうちの正字正かな掲示板で讀めます。
平成十七年七月三日
「考えなければならない」式の感想は誰でも言へる。考へるのは良いけれども、それでどんな結論を出すの? 良く解つてゐない事について問はれて、答へなければならない時、結論をぼかすのに取敢ず「考えなければならない」とコメントするのは便利な方法である。
考へるまでもなく「やる事」なり「やるべき事」は「決つてゐる」のであり、ならば「やれば良い」筈なのだが、政治問題に關しては「愼重論」が屡々好まれる。實際のところ、はつきり言はないのは、大抵戰術である。はつきり言ふと自分が不利になるから、言はないだけである。
「かつての愚かな戦争」について「反省しなければならない」と言ふのは、これと似たやうな話だ。何う反省するの? 「反省しなければならない」と言ふ人はその「反省」の内容を喋りたがらない。良く解つてゐないのであるけれども、或意味、解り切つてはゐて、はつきり言ふと自分に不利になる事が解つてしまつてゐる。
「考えなければならない」とだけ言つて結論を言はないのは、精神論であり、何の意味もない。さう云ふ事を言ふ人に限つて、論證の過程を省いた印象に基く抽象論を展開するものであり、しかも、安易に他人の説を曲解するものである。
さて、以上の事は、曖昧な言ひ方であるやうに見えるだらうが、具體的には陳さんに對して言つてゐる。

平成十七年七月二日
興味が無くて書くのを忘れてゐたけれども矢口書店は月曜日から通常の營業に戻つてゐます。
平成十七年七月二日
金曜日の買物。秋山英夫『人間ニーチェ』。森安理文『微笑の受難者太宰治』。以上現代教養文庫。清水幾太郎『日本が私をつくる ドレイ根性からの解放』。石田英一郎・岡正雄・江上波夫・八幡一郎『日本民族の起源』。ブルーノ・タウト『桂離宮』。ショーペンハウエル『倫理學によせて』。中村元『東洋人の發言』。
『日本民族の起源』は例の騎馬民族征服説が言出されて物議を醸したシンポジウムの記録。『桂離宮』は、外國人による日本論として有名なもの。『人間ニーチェ』は、著者の秋山氏がニーチェ(とその遺族)に對して隨分意地惡な態度で書いてゐる傳記。勿論、「嫌ひだから」と云ふ理由でそんな態度をとつてゐるのではない。秋山氏は『反時代的考察』『偶像の薄明』『この人を見よ』等の譯者。本書を記述するに當つて秋山氏は多くの書簡を利用してゐるが、ニーチェの妹の息がかかつたテキストを否定的に捉へ、彼女のニーチェ傳と對立する立場の人々の著作を主に材料に使つてゐる。。

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