闇黒日記

あふぇりえいと
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平成十七年六月三十日
本が屆きました。何うも有難うございます。こちらからも何か送ります。
平成十七年六月三十日
めも。
「てにをは」においては語意識に基き假名遣を保存する傾向がある。辭に關しては、假名遣が保存されるべきである。但し、日本語に於ては、詞と辭との境界が曖昧であり、兩者を嚴密に區別する事が必ずしも出來ない。また、詞に於ては漢字による表記が存在し、それを假名書きする際に表音的にならねばならない必然性はない。また、現實の文章では、詞と辭とが交互に出現するが、そこで交互に表音的・表語的の表記を出現させる、と云ふのは、全體として一貫性を缺く。詞に於ても原則として表語的な表記を行ふ・假名遣を保存するのが望ましい。――そんな論理の展開の仕方は「あり」だらう。

平成十七年六月二十九日
正字正かなポータル
「正かなづかひの理論と實踐」の理論篇。やつつけ。
平成十七年六月二十九日
Google Maps
なんかいろいろ愉快なものが見える模樣。
うちの邊、寫つてゐない。
平成十七年六月二十九日
かみちゅ。作畫よし動きよし。話が逝つてる。何かいろいろと微妙。実況で神厨とか言はれてるし。
平成十七年六月二十九日
廣韻(平成疑問かなづかひ):こんな風にしたら何うか版
高崎さんの「HTML文書」は、餘計な罫線文字やら空白文字やらを取除いた位では「使へるデータ」に出來ない。記述の形式が支離滅裂で、一貫性が無いから、機械的に「正しい形式のデータ」に直せたものではない。直す人間が、文章を讀んで、高崎さんの意圖を想像して、文脈に沿つてゼロから文書構造を作り直さなければ、「使へるデータ」に出來ない――と云ふ事は、高崎さんが「テキストファイル」を作つた時點で「情報の整理が出來てゐない」と云ふ事を意味する。ならば高崎さんの作つた「整形濟みテキスト」は「駄目データ」だと言つてよろしい。高崎さんは、御自分の作つた「データ」が「そのまゝでは利用出來ない」事實を愧ぢるべきであり、「俺は素人だ」と言つて大威張りしたり、「素人のする事こそが正しいんだ」と言つて開き直つたりすべきではない。
高崎さんには、御自分の作つた「似而非HTML文書」と、野嵜の作り直した正しいHTML文書とを、ソースレヴェルで比較していただきたい。そして、御自分の「データ」が「データ」として如何に駄目であるかを認識し、それを「使へるデータ」に作り直す手間がどれ程かかるかを想像していただきたい。
Wordのアウトラインモードはためしていただけたでせうか。高崎さんの久々の掲示板の書込みを見ると、野嵜の提案を悉く蹴る事に高崎さんは快感を覺えてゐるやうにすら思はれました。正しい事を知るのは、面白い事ではないのですか。正しいドキュメントの作り方を知るのは、私は面白い事だと思ひます。意地になつて「正しい技術など、この世には存在しない!」と言張つてをられましたが、そんな高崎さんが正しい假名遣の存在を信じてゐるのは奇怪な事です。

平成十七年六月二十八日
寺田透『文學 その内面と外界』を讀み始めた。冒頭の小説論。俺流に要約すると「小説は不純な藝術である」と云ふ事になるが、これは亂暴過ぎる要約。小説は、描寫が何んなにリアルになつても、結局のところ、讀者の想像力を刺戟するものだ。だから、作者は小説に依つて讀者に固定的な觀念を與へる事が出來ない。より直截的に感情を傳達する詩の方が、寧ろリアリスティックであると言へる。「何がが降りて來る」事で書く小説家を皮肉つてゐるヴァレリイは、隙のない「テスト氏」を書いたけれども、その「テスト氏」は一般的な意味での小説であるとは言へない。云々。讀みかけ。色々な意味で刺戟的で面白い。「小説を書くヒント」にもなり得るから、なんか行詰つてゐるライター志望の人は讀んで見ると參考になるかも知れない。
平成十七年六月二十八日
コールリッジのシェイクスピア論。もうすぐ讀み終へられる。コールリッジは、ギリシアの演劇以來、墨守されて來た三・一致の法則が絶對の眞實である訣ではない事を指摘し、状況に即して適切に物事を判斷する必要があると主張し、さうした物の見方に基いて、過去のシェイクスピア論に反論し、近代的な作品論を展開してゐる。勿論、今となつては「古い」シェイクスピア論なのだけれども、「新しい」シェイクスピア論を展開してゐる歐米の研究者は皆これを讀んでゐる訣で、この邊の事は常識として、きちんと知識と理解を持ちながら、新しい事や變な事をやつてゐる。やつぱり、何も知らないで新奇な事をやるよりは、知つてゐてやると云ふ方が、「良い」のではないかと思ふ。一往、理論的には簡單に大學の專門過程以前に「やる」のだし、實際、コールリッジからエリオットのラインの文藝理論に俺は影響を受けてゐるけれども、今の今までこの邊の「元」の文獻にはちやんと眼を通してゐない訣で。云々。
平成十七年六月二十八日
福原麟太郎が「ハムレットは太つてゐる説」を書いてゐる。と言ふか、さう考へた方が妥當と思はれる節があるさうな。
ハムレットは、復讐せねばならんと思ひ込みながら實行出來ず延々いぢいぢし續けてゐる主人公の物語だけれども、主人公がデブ俳優の爲の役であると考へると、昨今流行りの所謂キモメンの物語として捉へ直す事が出來る。電車男と言ふより寧ろ電波男の系統の祖先に當る御話がハムレットと云ふ事。デヴのキモヲタが「生きるべきか死ぬべきか」なんてぼそぼそ呟いてゐる情景を想像しながらハムレットを讀むと、面白いかも知れない。
――で、かう云ふ事をさも新しい事を發見したかのやうな顔をして書くと、既に誰かが何處かで述べてゐるので、大恥をかいたりするものなのらしい。某大井邦雄せんせいもシェイクスピアに關してはあらゆる事が言はれて言盡くされてしまつてゐる、だから今のシェイクスピア研究は「敢て誤讀してみる」の類の研究ばつかりであると仰つてゐます。そんな研究に價値があるのか何うかについては仰つてゐません。俺は「ない」と思ひますが、大井せんせいはさう云ふ研究が大好きでいらつしやる模樣。よく知りませんが。
平成十七年六月二十八日
廣韻(平成疑問かなづかひ)
マーク附けが非道過ぎる。假名遣標準化計劃は結構だけれども――本當は全然「結構」ではないが――それでHTMLの標準仕樣を無視、と云ふのは如何なものか。
間違ひなく「Internet Explorerで表示を確認」と云ふ非論理的な作り方をしてゐる。Internet Explorerでは「それつぽく見える」けれども、そのレンダリング方法は間違ひ。Operaで見ると當然のやうに表示が崩れる。preの使ひ方も高崎さんは解つてをられない御樣子。HTMLの要素・整形濟みテキスト(pre)を參照して下さい。それにしても、何故134桁なんて「横長」の「整形濟みテキスト」にしたのだらう?
と言ふか、どうして「整形濟みテキスト」なんて使へない代物にしてしまつたのだらう。高崎さんは「整形濟みテキスト」の何が何う云ふ理由で「良い」と御考へになつたのだらうか。考へてゐないとしたらそれは知的怠惰であり、知的怠惰は道徳的怠惰云々。これを正しいHTML文書に修正するのは物凄く手間がかかる事なのだが、高崎さんはHTMLを全く理解してをられない(そもそも構造化文書の事を全く理解してをられない)からそれが解らない。Wordのアウトラインモードを御存じならば、高崎さんはこれ程までに非道い文書を御作りになりはしなかつた筈。こんな何うしやうもない屑HTMLを平氣で公開してをられるやうでは、「高崎さんは『段落』の概念すらも知らないのだ」と世間の人に判斷されても仕方がない。「段落」の概念を知らないで國語について發言する事は「をかしい」事で、そこで高崎さんのやつてゐる事の説得力を否定されてしまつては勿體ないと思ふのだが、高崎さんは御自分が「技術」を知らない事を理由に、當然のやうに「駄目HTML文書」を公開してをられる。それでは駄目だと思ふ。正しいHTMLの概念は、とても簡單なもので、理解しようとすれば出來る筈。あの世間で馬鹿だの何だのと非難され捲つてゐる野嵜ですら理解してゐるのだから、高崎さんに理解出來ない筈はないのであつて、それなのに理解しようとされないのは知的怠惰云々。PC TipsHTMLの定義のための覚書の野嵜の記述は解り難いですか?
と言ふか、「基本的な文書の作り方をマスターしてゐる事」を前提としたPC Tipsの解説は、「基本的な文書の作り方を知らない」高崎さんには理解できないのでせうか。「段落の中で強制改行しない」「スペースでマージンの調整をしない」みたいなWord的に「正しい文書の作り方」は、俺にとつては常識なのだけれども、世間の「オヤヂ」連には「わかつてゐない」人が今でも多いさうだから。Wordを1980年代の書院とかキヤノワードとかと同じやうに使つてゐる人、結構ゐるんですよねー。困つた事です。Wordには正しい使ひ方があり、HTMLにも正しい使ひ方があるのですが、解つてゐない人が餘りにも多い。Wordを御持ちの諸君、今すぐWordを起動し玉へ。起動したらメニューの「表示-アウトラインモード」を選び給へ。アウトラインモードで文章を作成して見玉へ。使ひ方が判らなければヘルプを呼出し、キーワード檢索で「アウトライン モード」を選び玉へ。Wordのアウトラインモードが使ひこなせるやうになれば、その人は僅かな學習で正しいHTML文書を作れるやうになる。ついでにWordのスタイル機能を使ひこなせるやうになれば、その人は僅かな學習でCascading Stylesheetを利用出來るやうになる。
駄目なWord文書の見分け方。アウトラインモードで見てみる。何んなに綺麗にレイアウトされてゐても、アウトラインモードで利用出來ないWord文書は駄目なWord文書だ。誰でも一發で判るからおためしあれ。
Wordは、Ver.5の時、一太郎に對抗する爲に變な仕樣、罫線だとか何だとか本質的に要らない機能を盛込んで、どうしやうもない混亂に陷つたまゝ、未だに恢復してゐない。一太郎竝の事が出來れば良いのならば一太郎を買へば良い。なぜWordか、と云ふプログラムのアイデンティティは、Wordに於いてはアウトライン機能とスタイル機能を持つてゐる事にあるのだが、それらは現在、事實上、匿されてしまつてゐる。けれども、Wordは、シンプルに使はうとすれば今でも使へるし、さう云ふ使ひ方をした方が未だに樂に文書を作成出來る。メーカ自身が勘違ひしてしまつて、Wordは可哀想な事になつてゐるのだけれども、可哀想でない使ひ方は今でも出來るので、心あるユーザはWordを使ふ際には「Wordらしい使ひ方」をしてやつて下さい。Microsoftも1.2Aの頃の基本機能だけを實裝したシンプルなWordを賣つて呉れ玉へ。今でも1.2AがWordのベストヴァージョンだと俺は信じてゐる。
と言ふか、Wordでぺらの散らしを作るのは間違つてゐるよ。Wordは長文――論文や書籍を作るのに向いてゐる。散らしのレイアウトをしたければPublisherがあるので、そつちを使つた方が良い。
Publisher 2003 製品情報
話が飛び捲つてゐるけれども、高崎さん――と言ふより「電腦文字研究會」なる「團體」の作成した「正 假 名 遣」そのものの話はしたくないのだ。こんな「團體」誰も知らないし。表題の「正假名遣」とは、假名を用ゐて現代の國語を書き表す正統的な規準として、歴史的假   名遣を確認したものである。つて、「何時」「何處で」「誰が」「何故」さうしたのかが全然解らないし、文章そのものとしてをかしいとしか言ひやうがない。「正假名遣とは確認したものである」なんて日本語の文章はない。
平成十七年六月二十八日
昨夜のBSアニメ夜話で「未来少年コナン」の話をしてゐて、宮崎駿のシンプルでも良く解る繪が賞讃されてゐたけれども、今のジブリ、「リアリズム」志向になつてゐて、最早、シンプルな繪ではないんだよなー。
宮崎駿が脚本と繪コンテを擔當したジブリの『耳をすませば』、1995年で毎日映画コンクールアニメーション映画賞をトラスタの「ユンカース・カム・ヒア」に攫はれてゐたりする。ユンカースは先日、NHKのBSで放映されたから觀た人も多いでせう。トラスタは、ジブリよりも或意味ずつと「正しい」アニメーション作品を作らうとしてゐたと思ふのだけれども、なくなつてしまひましたねえ。先日の虹裏で元トラスタ關係者らしきとしあきがミトスレで發言してゐるのを見掛けた。

平成十七年六月二十七日
土曜日日曜日の間に國語國字問題解説・正字正かなポータルの再構成をしたけれども、新しい記事を書けず。書かなければ再構築にならない。どんな風に新しい記事を書くか、未だに解つてゐない。取敢ず以下は手許のメモ。
  1. 御先祖樣の流儀である事。歴史上成立したものとしての合理性を書く事。
  2. 言葉――個人の思考に使はれる→個人と個人との間の意思疎通にも使はれる。言葉が通ずる必然性はない。偶々通じてゐるだけとも言へる。
  3. 「概念-音聲-表記」の相互の關係は記號的な關係。
  4. 固定的(static)な概念→動的(dynamic)な思考。個別の語は靜的。語と語とを繋げて動的な思考を構成する。膠着語である日本語では、「體言・用言=詞」を「てにをは=助詞・助動詞・活用語尾=辭」によつて繋げる。
  5. 詞=記號的に概念を指示する語。辭「てにをは」=語と語との關係を記述する語。文章を構成する爲の機能を持つ語。詞を辭が結合して思考を形成する。
  6. 辭「てにをは」=文章に於る語の機能を記述する語。→山田文法における辭の定義。
  7. 助詞・助動詞・用言の活用語尾→「てにをは」。「てにをは」における「語意識」の存在→かなづかひの必然性。
御先祖樣の流儀を墨守すると言ふよりは、御先祖樣が國語を發展させて來た事實を認め、その歴史を守り、今後も發展させて行くべきである事。
人間の認識は、本來、個別的である現實の事物を、類型化して整理し、それぞれに名前を與へる事である。しかしそれは、具體的な事物を抽象的な觀念に、ただ記號的に置換へる作業に過ぎない。さうして成立した記號的な語彙體系は、日本語に於ては體言と用言とによつて構成される。これらのばらばらの語彙を結合する事によつて、我々は一聯の思想を形成する。日本語では、個々の體言と用言とを、助詞・助動詞・用言の活用語尾によつて膠着させる。

言語は社會的な取決め事であるとされる事もあるが、實際のところ、そのやうな取決めは存在しない。

事物を概念として把握する際、單語に置換へて認識を行ふ。この認識の體系は、語彙體系であるが、個人個人によつて獨自に作り上げられてをり、個人の域を超えて社會的に共通化されてゐるとは必ずしも言へない。或程度共通の認識は存在し、その爲個人の語彙體系を基にした意志の疎通は行はれてゐる。しかし、實際に「話が通じない」「話が誤つて傳はる」と云つた事は屡々ある。或個人の語彙は、他の個人の語彙と、必ずしも一致しない。

一方、語彙は單なる事物の概念的な把握に過ぎない。我々は語と語とを結合し、飛躍的に思考を形成する。

語と語とを結合する際、我々は一定の規則に基いてそれを行ふ。その規則を文法と呼んで良いと思ふが、これは個人の獨自の體系の域を超えて(語彙の體系に比べれば比較的に)社會的に共通のものである。[恐らくは、論理の普遍性が思考を生成する文法に一般性を與へてゐると考へられる。(→チョムスキーに言及?)]←この記述、つつこみどころがある・考へ過ぎであるやうな氣がするので採用すべきか何うか迷ふ。

この文法の機能は、日本語では「てにをは=辭」によつて實現されてゐる。之に對して、個人毎に異る語彙の體系を構成する語が「體言・用言=詞」である。

文法の機能を擔ふ「辭」は、元來は日本語でも未發達であつた。しかし、漢字の導入、漢文訓讀を經て、觀念語を漢字で表現する習慣が定着するに從ひ、「てにをは」も發達を遂げ、現在のやうな複雜な辭の體系が成立した。この間、音韻・發音の變化で、例へば「は」「へ」「を」が「ワ」「エ」「オ」の音に變化してゐるが、表記は元の形を保存してゐる。歐米諸語と違つて、日本語においては、書き言葉が、話し言葉の影として存在したのでなく、話し言葉と相對的に獨立して存在し、或意味、話し言葉をも支配してゐた爲である。特に文法の機能を擔ふ語として、てにをは・辭の類の語は、原型を留める必然性があつたと考へられる。

文法の體系を維持するには、文法の機能を擔ふ語である全ての辭が原形を留めてゐる事が望ましい。「現代仮名遣」では「は」「へ」「を」に限つて原形を留めてゐる。しかし、辭一般、助詞・助動詞・用言の活用語尾は全て、原型を留めた表記であるべきである。これらの語に限つては最低限、歴史的假名遣を保存するのが望ましい。

體言・用言=詞では、觀念・發音・表記の關係は記號的な關係で、交換が可能である。しかし、助詞・助動詞・用言の活用語尾=辭では、それらの記號的な關係を考へるべきではなく、文法の機能を實現する面を重視して、既存の體系を保持すべきである。
以上はメモの毆り書きを、或程度「わかりさう」な感じに改めたもの。これらをどんな風に纏めるか。どこかにロハで編緝やつて呉れる有能な人はゐないかな。

平成十七年六月二十六日
EXPLORE MONOGAMY BLOG - Reading Baton
渡邊さんから御鉢が囘つて來た。
はてなダイアリー - Reading Batonとは
「バトン」なる「鼠講」方式の何だかは無視する方針なのだけれども。しかも二系統あるし。以下、適當に質問をつき交ぜて、適當に答へてみる。
今部屋の棚に並んでる蔵書の冊数
十五年前に6500册まで勘定した。當時は一部屋に押込んでゐた。現在は二部屋めが埋らうとしてゐる。推定二萬册。
ちなみに現在、拾つて來た岩波新書が棚に並べ切れず、床から積上つて山をなしてゐる。机の周りにも未整理の本が積上つてゐる。これは棚に並んでるの勘定に入れない?
最後に買った本(マンガ)
さあ。本を買ふのは空氣を呼吸するのと一緒だから、特に「何を買つた」なんて意識しないものでは?
今読んでる本(マンガ)
澤山ある。普通、買つて來たものはどれも少しづつ眼を通すものでせう。ならば、「未讀」の藏書であつても全て「今讀んでゐる」事になる。それが萬單位に云々。
電車の中で最近讀んでゐるのはコールリッジのシェイクスピア論。まだ讀み終らない。
よく読み返す本
どれも隨時讀返す可能性あり。特に頻繁に讀返す、と云ふものはナシ。そんな事をしてゐたら、ほかの本を讀む暇が無くなる。
思い入れのある本
思ひ入れのある本は澤山あるけれども例へば福田恆存評論集。
この本は手放せません!
基本的に藏書は氣に入らない本も含めて全て手放す積りナシ。氣に入らないものは槍玉に舉げるのに必要だし、實際に貶して突込まれた時、反論するにも手許に持つてゐなければ困る。
好きな作家
作家には特に思ひ入れナシ。或は、大勢。評論家は松原正氏、福田恆存氏。小林秀雄、山本夏彦は「狐」が落ちたので今ではそれほど好きと云ふ訣でもナシ。
お気に入りのテキストサイト(ブログ)
LCPとっぷぺーじの「下」の方に示したあんてな方面のサイト。中には氣に入らないものもあり。
お気に入りの掲示板
質問を勝手に追加。虹裏img/may。datは全然見ない。
次にバトンを渡すヒト3名
こちらで決めるのも面倒なので先着三名樣まで勝手に「野嵜からバトンを受取つた」と稱して書いて下さい。
平成十七年六月二十六日
にじうらmay早朝の顔面アップ畫像スレはどうなつたのだらう。355レス附いたところまでは見てゐたけれども。最初のレスでエヴァ樣を貼つたのは俺。
平成十七年六月二十六日
けーろく奮闘記 2005-06-20
良いコメントが附けられてゐる。
「正しい日本語」を知った上であえてくだけた言葉を使うのと、くだけた言葉しか使えないのとでは意味がかなり異なってきますね。

平成十七年六月二十五日
正字正かなグループ - 正字正假名覺書 - 高崎一郎著『平成疑問假名遣 平成十七年度版』(ISBN:4877382275)
正字正かなグループ - 正字正假名覺書 - 高崎一郎氏の字音假名遣について
正字正かなグループ - 正字正假名覺書 - id:iwaman:20040910#p2の續き
平成十七年六月二十五日
字音假名遣の理解と記憶(データ/学習&教育)
こんな内容です。
+=====================================================================+
|        z-          |        d-       |
|-------------------------------------+-------------------------------|
|『ジ』 |『ヂ』 |
|二(弍)貳(貮弐)次,示,仕,寺侍恃時蒔,耳 |膩,持痔峙,除,尼怩,地,治    |
|餌珥,而轜,爾(尓)璽,似,事(亊),自,兒(児|                |
|),辭(辞),茲慈滋磁,字         |                |
これではデータを再利用出來ない。出來る訣がない。再利用したければ、罫線を削除して、表を組み直し――と言ふより、表そのものがデータの再利用を阻むものだから、表自體を削除して、データを「利用出來る形」に再構成しなければならない。ところが高崎さんは「このまゝでデータとして利用出來る!」と信じてゐる。だから「印刷屋さんはどうしてこれを利用出來ないんだよ!」と怒るのだけれども、怒る方がをかしい。
今は最う、1980年代や90年代初頭の「テキスト印刷にはPRTを使ふ」なんて時代とは違ふのだから。テキストの時點で「文書の整形」なんて事をやつては行けないんだよ。パソ通時代の生殘りは、その邊の事が理解出來ないらしいから困る。いや、理解出來てゐるばけらさんなんて人もゐる訣で、理解しようとすれば出來る筈だ。それなのに理解しようとしないのは知的怠惰であり云々。
Download: MS-DOSまたは汎用ソフト > 文書作成 > 印刷用ユーティリティ > 様々な書式で印刷 PRT・PRT++
Windows 3.0とDeskJet505Jを使つてゐた俺は、「○○字×○○行で整形されたテキスト」なんてデータを出力するのに隨分苦勞した。Nifty-serveを利用してをらず、DOS/Vユーザであつた爲に、オフラインの情報源は乏しく、PRTを見附けるのも大變だつた。Vzのおまけか何かで手に入れたのだつたと思ふ。せつかくWindows 3.0があるのにDOSで作業させられて、結構腹が立つたものだ。そのDOSも(DOS/Vの世界では)V-Textで可變解像度の環境が作られて、暫くの間それなりに「良い環境」だつた。が、さう云ふ「環境」でも「使へる」やうにプログラムは作られてゐる必要があつた――と言ふより、プログラムのメニュー等のインタフェイスは、だ。そんな訣で、以來、俺は、出力環境に依存する、固定的で、フレキシビリティを缺くデータやインタフェイスは全て敵だと認識するやうになつた。HTML文書における「テーブルレイアウト」の類を否定するのもその延長上にある。20字×20行とか80桁×40行とか、固定ピッチのフォントだとかプロポーショナルのフォントだとか、640x480とか800x600とか1024x768とか1280x1024とか1600x1200とか、さう言つた樣々な條件の出力環境で、どれでも使へるデータでなければ、データは「正しい」ものではない。
と言ふか、高崎さんの「データ」を印刷所が「活かさう」と考へたのが間違ひだつた、とは言へるだらう。高崎さん自身がPRTだか一太郎だかで自分の氣に入つた形に出力して、その出力した紙を印刷所は貰つて、そのまゝ版下に使ふ、とかすれば良かつたのに。アナログで反時代的なやり方だが、或意味、その方が「適切」だつたらう。そんなに部數が出る「出版物」ではないのだから、必要以上のコストを掛けては行けない。「同人誌レヴェル」の出來だつて構はない、と割切れば良かつたのだ。

平成十七年六月二十四日
徳保氏が逆リンク!と書いてゐるのは何なのだらう。何で「!」なのだらう。
教へて貰ひました。何うも有難うございます。おれはおまえのパパじゃない真似なんですと。
平成十七年六月二十四日
先日、何だかの雜誌と言ふか「現代思想」で「思想」の特集が組まれてゐて、時枝誠記が採上げられてゐた。例によつて植民地政策に關する時枝氏の意見に論者の關心が集中してゐて、私は嫌な氣分になつた。「言語過程説」ではなくて「言語過程觀」である、と云ふ論者氏の指摘は参考になつたが、論者氏はその「言語過程觀」が時枝氏の政治的信條と何う繋がつてゐるかだけに興味を持ち、「言語過程觀」そのものの現實認識の價値や思想的意義を完全に無視し、「韓國を日本に同化する」と云ふ時枝氏の政治的な主張をひたすら非難してゐた。現代の觀點から過去を斷罪するのが誤であるのは餘りにも當り前の事だが、思想の專門家ですらそれが解つてゐない。皇國史觀や國粹主義にしても、植民地に對する宗主國の人間の態度にしても、時枝氏が著作を發表してゐた戰前・戰中には一般的であつた事は無視してはならない事實だし、それらの「問題點」を意識するにしても、當時の思想の価値を論ずるにはさうした「問題點」の齎す缺點は割引いて考察しなければならない。もちろん、「問題點」を追求したいと言ふのであれば、全體としての風調を批判する事は當然として、その風潮の下で行はれた、風潮と一致する傾向を持つ思想を分け隔てなく非難しなければならない。さうなると、時枝氏を特に擇び出して當時の思想を論はなければならない必然性は全く無いと言はざるを得ない。例へば、宮沢俊義や家永三郎は戰前、皇國史觀・國粹主義に基いた主張を行つてゐた。彼等は戰後、あつさりそれらの史觀・主義を捨てたが、それは「思想の切換」でしかなく、彼等の思想に於て何ら必然性のない轉向であつた。だからこそ、戰前の皇國史觀や國粹主義を非難し、植民地觀を「蹈み繪」代りに思想家の善惡を決定しようとする現代の政治的な「思想家」は、彼等、宮沢氏や家永氏をこそ、ターゲットにすべきであり、それなのにわざと見過ごしにして、時枝氏に注目する、と云ふのは、明かに政治的偏向に基いた「非思想的」な「批判」のやり方であり、思想家を論ずる態度として不誠實であり、不公正である。
平成十七年六月二十四日
顛末(平成疑問かなづかひ)

それでよく印刷屋さんはやってゆけるものだ。何のための「電腦時代」なのだらう。

私はなにも愚癡をこぼしたいがために顛末を綴ってゐるのではない。基本的な規格がかほどに深甚な影響を及ぼすものかと、歎息するのである。

高崎さんの「原稿」が非道過ぎるのであり、印刷屋さんや規格に責任はない。

たとへば最近まで、ホームページを縱書きにしたくても不可能だったし、振り假名もつけられなかった。コンピュータの世界は今でも歐米が主導だから、日本語文への配慮などなかなかしてくれない。それでも「縱書きにしたい」「振り假名をつけたい」といふ要求は大きかったのだらう。少しづつだが機能は擴張されつづけてゐる。

そもそも、ただのテキストであるHTML文書を「横書き」で表示しなければならないと定めた規格はこの世に存在しない。「影鷹」(LCP:影鷹)では、ペインを横倒しにし、フォントを90度囘轉させて、「縱書き」を實現してゐる。讀みの類は、昔から、要素のtitle屬性に埋め込む事が出來た。ruby要素は、XHTMLで規定されたが、「ルビとしてレンダリングする」と云ふ見た目を實現する爲の要素で、文書構造を記述すると云ふ本來のHTMLの理念に反したもので、野嵜は大反對してゐる。

今囘、テキストファイルがまともに讀めず、印刷が半年も遲れた眞の理由は、私にはわからない。

この邊の高崎さんの認識は、非道過ぎると思ふ。「テキストファイルだから讀める」と云ふものではない。罫線を使ふのは、アスキーアートを使ふのと同じ。見た目で考へてゐるから「何も解らない」と云ふ事になる。テキストファイルにしてもバイナリファイルにしても、データは頭から尻尾まで分岐なしにリニアに繋がつてゐる。そんなファイルで、「行」と「行」とに跨る「罫線の表」なんてものが「成立つ」と考へるのがをかしい。

JIS罫線の需要は今でも根強い。日々たくさん屆く廣告メールでも多用されてゐる。これを「ワード」で讀むと、ぶつ切れの状態になる。なぜ連係をとれないのだらう。

「罫線を使つて表を組む」事が間違つてゐる。それが高崎さんには解つてゐない。
技術で何でも解決出來ると思ふ方が間違つてゐる。技術は「正しく使ふから便利になる」のであつて、「間違つた使ひ方をしても便利に使へる」と云ふものではない。高崎さんのセンスは古過ぎる。
少しでも解つてゐれば、「brで改行」と云ふどうしやうもない「HTML文書」なんてものを、高崎さんは公開出來なかつたはずだ。そして、さう云ふ「解つてゐない人」である高崎さんの『平成疑問假名遣』を、野嵜は「研究成果」として認めない。實際、餘程の「假名遣マニア」でなければ、『平成疑問假名遣』なんて買はないで良い。買つてもそこには假名遣の原理は示されてをらず、「混沌とした假名遣の世界」が待受けてゐるだけだ。高崎さんの「本」は、「歴史的假名遣は不合理なものである」と云ふ世間の印象を強めるだけの結果にしかならないし、「なぜ歴史的假名遣なのか」と云ふ疑問にも答へる事が出來ない。
ちなみに、昔、野嵜は高崎さんのサイトの「HTML文書」を正しいHTML文書に書直さうと思ひ附いて、少し作業して、投げた事がある。元のデータが非道過ぎたからだ。
平成十七年六月二十四日
軍事評論家=佐藤守のブログ日記
平成十七年六月二十四日
書窓展。黒つぽい本が多くて、とても樂しい古書展だつた。
本日の買物。『荷風日歴』上下(扶桑書房)。大類伸監修『羅馬帝國沒落史觀』。森銑三・柴田宵曲『書物』(白揚社)。中村元『いまの世界と東洋思想』。上司小劍『清貧に生きる』。河合榮治郎『自由主義の擁護』。竹山道雄『光と愛の戦士』。寺田透『文學 その内面と外界』。
平成十七年六月二十四日
寺田透『文學 その内面と外界』「あとがき」

この本の本文は御覽の通り、固有名詞の他新字體のあるかぎりはその種の漢字を用ひてゐるが、それは僕の本意ではない。僕は、新かなづかひには從つても、今暫く漢字に關するどんな制限をも、よそからは受けたくないと思つてゐたのだ。小野君もそれに賛同してくれたが、印刷上の手續きから、新字體を採用するほかない羽目に立至つてその事の成行きを受入れるのに、僕は、これらの文章がすべてもともとはつきりと他人に讀ませるために書かれたものだつたことを理由として借りた。がこれはありていに言つて遁辞にすぎなからう。

僕が新字體の漢字をきらふのは、その變へ方が一個の見識あつての簡略化といふより誤字の正當化といふ性格をよく持つてゐて、それによる正字體の追放であり、且、方針に一貫性がなく、算術的に個々の場合にあれこれ別個の解決法を適用する恣意的なもの、しかも多數の合意によるのでなく一部の意見によつてなつた別の意味でも恣意的なもの、そしてある場合には直す必要のないものを直さうとさへする不合理なもの、だからである。

しかし一目見たところでは、新字體もあかるくて惡い一方ではないな、などと刷り上つた紙面を見るときもある。

假名遣の改革には「從つても良い」と言ふのでがつかり。字體改革の批判としては妥當だが、最後の一段落の感想は餘計だと思ふ。寺田氏は「眞の正字正かな派」でない。

平成十七年六月二十三日
サヴァイヴ(再)→ネギま!→極上生徒会。
サヴァイヴ第一話。なつかしい。虹裏であれだけ話題になりながら、終るとすぐ、完全に忘れ去られた作品。
ネギま。タイムマシンネタ。ふたば實況で先週豫想されてゐた通りの展開。最近のネギまつて凄い展開だね。
極上。過去話→みなも登場。おもしろい。
平成十七年六月二十三日
いろいろな方法でのつつこみ、何うも有難うございます。
平成十七年六月二十三日
記憶更新履歴(2005年6月) - Final β Laboratory : アニメ夏の新番組メモ
平成十七年六月二十三日
ANIMAXIS.COM - Zine : 「ラブひな」岩崎良明監督スペシャルインタビュー TVアニメ「ラブひな」は僕の大切な宝です!
せんせいのお時間、極上生徒会の監督さん。
平成十七年六月二十三日
昨日、虹裏に貼られてゐたまつもと剛志『まじかるストロベリィ(1)』を買つて來た。讀んだ。面白かつた。わかつきめぐみとか好きな人にはおすすめ。西川魯助とか好きな人にも案外おすすめ。
資料→『まじかるストロベリィ』まつもと剛志

平成十七年六月二十二日
なんか「真正保守」なる異常な用語が大流行してゐるやうだけれども、何とかならないものか。
「保守」は、「保守派」「保守的な態度」のやうな形容の爲の言ひ方か、「保守する事」の意味でか、そのどちらかの使ひ方しかしない。「革新と保守」のやうな對比的な言ひ方はするにしても、「保守」がそれ自體として何らかの思想を意味する事はない。フランス革命以來、進歩的・革新的な、變化を求める態度が出現した訣だが、それに對して、變化によつて生ずる危險がありはしないかと慎重な態度を取る「保守的な態度」が、相對的な立場として「ある」やうになつた。決して積極的な態度ではないし、思想でもない。
最近では、非道い話だが、「文學者」「哲學者」のやうに、「保守」と云ふ語を以て人を指す語とする人もゐるみたいだ。けれども、これは根本的に勘違ひしてゐる。「野嵜は保守派だ」とは言ふが、「野嵜は保守だ」とは言はない。
「真正」は、絶對的な「真理」「真実」と、相對的な「正義」「正しい」とをごつちやにした言ひ方で、平氣で使ふのは定めし頭の惡い人間だらう。
――で、ぐぐつてみたのだが、1989年11月30日に西部邁が「真正保守を求めて」なる講演をやつてゐる。
講演会
やつぱり、この邊の「保守」の連中が言出した事なのだらうと思ふ。ええと、赤肩氣味と言ふか肩が眞赤な話題と云ふのは氣にしない。
「真正保守主義者」は「真正」の「保守主義者」、「真正保守思想」は「真正」の「保守思想」であるのならば、一往「正しい」と言へる。けれども、「真正保守」の「主義者」、「真正保守」の「思想」なんてものはあり得ない。
それにしても、「真正」だなんて、良く言へたものだ。「真」にして「正」なり! 馬鹿ぢやないか。小ッ恥かしくて、私にはとても使ふ氣にはならない言ひ方である。實際、野嵜は一度も「真正保守」等と言つた事がない。
平成十七年六月二十二日
新宿展。「現代思想臨時増刊 総特集=フッサール」。中公バックス世界の名著62『ブレンターノ・フッサール』。世界戲曲全集4『英吉利古典劇集』。馬渕和夫『日本文法新書 上代の言葉』。水上瀧太郎『父となる記』(養徳叢書3)。大島一彦『英国滞在記』。
この『英国滞在記』、大島先生に御返ししたい訣なのだけれども。
平成十七年六月二十二日
アニメのテーマが屡々「夢はきつと叶ふ」なのは、「アニメを作りたい」と云ふ夢を叶へた連中が話を作つてゐるからだらうと推測。どれみナイショ @ tvk。昨日、第一話を放映。

平成十七年六月二十一日
本日の買物。引續き新宿展。フッサール『内的時間意識の現象学』(第4刷)。森銑三『瑠璃の壺』。内藤虎次郎『清朝史通論』。『日本の名著41 内藤湖南 日本文化史研究 先哲の学問』。若杉慧『石佛のこころ』。岸田國士『我等の劇場』。ロジェ・バイヤン著・きだみのる訳『掟』。寺田透『源氏物語一面 平安文学覚書』。
フッサールの『現象学の理念』と『内的時間意識の現象学』がダブつた。けれども、刷が違ふので問題ない。第1刷にあつた誤譯が後の刷で訂正されてゐる。

平成十七年六月二十日
『日本人とは何か』p.227 宮城音弥氏の發言

哲学者のヤスパースがモダン・アートを論じて、これは精神分裂病に親和性があると言った。二〇世紀は精神分裂病的な時代だからモダン・アートが出てきた。私もそう思います。機械化が進んでくるにつれて、かえって心の深層にアピールするものが求められる。分裂病に似た芸術が流行するゆえんが、そこにあるといえます。

平成十七年六月二十日
日本文化フォーラム編『日本的なるもの 日本文化の伝統と変遷(2)』(昭和三十九年一月三十日發行・新潮社)「日本的なるもの――その系譜と構造――」序章(高坂正顕氏)

日本的なるものとはいかなるものであるのか。日本人とははたしてどのような類の人間であるのか。

一九〇六年、岡倉天心は「茶の本」を書いた。それは日露戦争の直後であり、日本の人々は武士道を誇り、西洋の人々もまた武士道等の故に多少の敬意を日本に払ってくれようとした頃であった。しかし、そうした風潮に対して天心には深い不満があった。彼にとっては、真に日本的なるものの姿は、死の術としての武士道にではなく、生の術としての茶道のうちにこそ、より正しく見出さるべき筈のものであったからである。それについては次の辛辣な言葉が十分に多くを語ってくれているであろう。彼はいう。「一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖の又の例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸に耽っていた問は、野蛮国と見倣していたものである。然るに満洲の戦場に大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。近頃武士道――我が兵士に喜び勇んで身を捨てさす死の術――について盛んに論評されてきた。しかし、茶道には殆んど注意が引かれていない。この道は我が生の術を多く説いているものであるが。もし我々が文明国たるためには、血腥い戦争の名誉に依らなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。我々は我が芸術及び理想に対して、然るべき尊敬が払われている時期が来るのを喜んで待とう。」

私は今ここで天心の茶道の解釈の詳細に立入ることはできないが、例えば彼がチャールズ・ラムの「密かに善を行って偶然にこれが現われることが何よりの愉快である」という句を引き、ここに茶道の真髄があるとし、そしてその訳は、「茶道は美を見出さんがための美を隠す術であり、現わすことを憚るようなものを仄めかす術である」からとしているところに、その大体の傾向は認められるであろう。その同じ解釈の方向は、小堀遠州の庭径の着想は、

  • 夕月よ海すこしある木の間かな

の句のうちに存するとしているところにも明らかである。

では天心はどのような意図や期待をもって「茶の本」を書いたのであるか。それは東洋と西洋とが互いにその本当の精神を理解し合って欲しいというためであった。だから彼は記している。「東西両大陸が互いに奇警な批評を飛ばすことは止めにして、東西互いに得る利益に依って、よし物が分って来ないとしても、お互いにやわらかい気持になろうではないか。お互いに、違った方面に従って発展して来ているが、しかし互いに長短相補わない道理はない。諸君は心の落ちつきを失ってまで膨脹発展を遂げた。我々は侵略に対しては弱い調和を創造した。諸君は信ずることが出来ますか、東洋はある点で西洋に優っていると言うことを!」彼は「何時になったら西洋が東洋を了解するであろう、否、了解しようと努めるであろう」といっているが、同じ言葉を所謂近代的日本人それ自身に向っても、天心は語りたかったかも知れない。では、現在の事情はどうであるか。

平成十七年六月二十日
金曜日の買物リストは結局、書くタイミングを失つたので省略。と言ふか何を買つたのかなんて最う忘れてゐる。
本日の買物 @ 新宿展。カール・レーヴィット『パスカルとハイデッガー』。チェインバーズ編『ローマ帝国の没落』。石井勲『漢字の神話』。苑成大・小川環樹『呉船録』(養徳叢書外國篇1011)。三上章『新訂現代語法序説』『象ハ鼻ガ長イ』。ブリュンティエール『文學史の方法』。時枝誠記・増淵恒吉『古典の解釋文法』。R.W.エマソン『アメリカの學者』。福田恆存『藝術とはなにか』(要選書3)。漆山成美『新聞論調への反論』。
平成十七年六月二十日
漆山成美『新聞論調への反論 自由・平和・人道を主張する「社説」の研究』(昭和50年1月25日発行・日新報道出版部)の帶に福田恆存の推薦文が載つてゐる。

日本の大新聞は揃つて「言論の自由」を自ら抛棄してゐる。ヴィエトナム戦争についてもさうだつたし、中国、韓国問題の報道と論調においても自社の方針に不都合な部分について国民読者に目隠しをほどこしてきた。まさに大新聞こそ言はざる、聞いても書かざるの姿勢である。不幸なことに今日もなほさうである。私は口をすつぱくしてそれを指摘してきた。

さういふ意味で、この際日本の大新聞が目隠ししてきた事実を改めて一つ一つ掘り起してみる必要がある。そして何が真実かを問ひ直してみる必要がある。本書はまさにさういふ視点からまとめられてをり、ヴィエトナム戦争の再評価のきつかけをつくる注目すべき本である。

平成十七年六月二十日
本の表紙畫像は「引用」扱ひでblockquote要素とすべきか?
平成十七年六月二十日
宗教とは無關係に、國立の追悼施設なるものは、作るべきでない、と野嵜は考へてゐる。今、支那や韓國、或は國内の左翼勢力の壓力に屈して、と云ふ形で、無宗教の追悼施設なるものを作らう、と小泉首相が考へてゐるのならば、それはそれで一つの「戰術」であると言へる。
しかし、小泉氏の考へは全然判らない。はつきり意見を述べて、議論を行ふ方が、すつきりすると野嵜は思ふのだが。
ところで、日本は謝罪すべきか何うか、と云ふ議論が未だに續いてゐる事が、野嵜には理解出來ない。日本なる國家は、法人ではあるが、法人が心から謝罪するなんて事は出來る訣がない。日本國民が、總體として一齊に謝罪するなんて事も出來る訣がない。その「出來ない事」を要求して見せる支那や韓國は、惡質のやうにも見える。けれども、それは、勘違ひしてゐる日本の人間を困らせる爲にやつてゐる事なので、「惡いのは日本側」である。道徳的な謝罪は、個人のみが可能である。日本の國がする「謝罪」が、外交の爲の「戰術」であると言ふのならば、それはそれで話は解る。けれども、實際問題として、「戰術」として甚だ拙かつた事は、誰の目にも解つてしまつたのではないか。好い加減「謝罪」は止めるべきだ。色々な意味で無意味である。どうせ止めても大した問題にはならないだらうし。
平成十七年六月二十日
コールリッジ『シェイクスピア論』pp.112-113

シェイクスピアには幾分粗野な言葉もあるが、然しそれが未だ汚れざる心に惡い效果を與へるものであるとは考へられない。これに反し、或る近代劇には、近代の小説と同樣に、あらゆる道徳心を破壞する或る組織的なものがある。即ち近代の劇や小説は、只管人を欺くことを目的とする人間の眞に僞善的な口調を以て書かれたものであり、動作、或は動作に導く習慣の中に、何らの道徳的性質が含まれてをらず、私が曾て聞いた或る本の表題のやうに『漠然たる感興の雜然とした寄せ集め』に過ぎない。これ等に於て吾々は敬虔の念に對する最下等の刺戟を強ひられ、それは正に假面を被つてゐるにも拘らず、何人たるかがよく知られ、或は又被つてゐる假面によつて、それが何人であるかは知られてゐるが、而も尚假裝してゐるために、無遠慮な振舞が許されてゐる假裝劇に見る無作法な惡漢の樣なものである。一言にして言ふならば、シェイクスピアの下品な點は、知性を刺戟することによつて、野鄙な感情を消散させる空想の單なる戲れに過ぎないものであつて、不快と感ずるのも、只その時限りのものでないか否かは、彼の作品全體に訴へて見るならば、自づから分明する。近代の劇は不興を感じさせないために却つて有害であるが、シェイクスピアに於ては、最も下品な部分でさへ、人間性の堕落に對する警戒としての下品さである。然るに近代劇の下品は直接此の下品の故に却つて面白いとされる場合があまりにも多過ぎるのである。

平成十七年六月二十日
國際倫理調査会
國際倫理調査会 日本国憲法の正体
平成十七年六月二十日
Yahoo!ブックス - 日本国憲法失効論 / 菅原裕/著
Amazon.co.jp: 本: 日本国憲法失効論
平成十七年六月二十日
民族戦線
現行憲法無効宣言
現行憲法無効宣言問答集
平成十七年六月二十日
真中 行造のページ
憲法問題
平成十七年六月二十日
日本戦略コラム
「日本国憲法」は「日本崩壊の時限爆弾」

平成十七年六月十九日
金曜日に買つて來た本。
渡邊正廣『日本国憲法について――若い人々のために――』(洋販)
目次
はしがき
序章
第一章
憲法とは何か
第二章
日本国憲法の成立について
第一節
成立時の情勢
第二節
日本国憲法の成立
第三章
日本国憲法成立に関する諸学説とその批判
第一節
日本国憲法成立に関する諸学説
第二節
三学説批判
第四章
日本国憲法の内容
第一節
原文について
第二節
前文について
第三節
条文について
第五章
旧帝国憲法に関するいわれなき非難と日本国憲法に関するいわれなき礼讃
第六章
日本国憲法の改正について
第七章
結語
あとがき
追補
革命説について
第九条の誤訳について
表現の自由について
天皇のためについて
日本国憲法制定経過年表
付録日本国憲法(和英対照)
19ページに、以下のやうな記述がある。重要な指摘だと思ふ。著者は、新しい國で作られる新しい憲法は良いものとなる筈だが、それは果して守られてゐるだらうか、と疑問を呈する。そして。

ところが、イギリスやアメリカのように、文章だけを見れば、古ぼけた、時代おくれの能率の極めて悪い憲法は、規則正しくキチンと守られています。一見、誠に不思議な現象です。何故でしょうか。

それは、法律というものは「どんな事が書いてあるか」ということも、勿論大切なことですが、「それが正しく守られる必然性」が、より大時だからです。

また、著者は、日本国憲法成立に関する諸学説として、以下の三つがあると指摘してゐる。

日本国憲法の成立について大別して三つの学説があります。

第一は、日本国憲法は旧帝国憲法を法律的に正しく改正して有効に成立したものであるという帝国憲法改正説です。

第二は、日本が連合国に降伏しポツダム宣言を受諾したと同時に革命が生じ、それによって帝国憲法の根源が消滅した。そして新しく日本国憲法が成立したという革命説です。

第三は、日木国憲法そのものが法律的に成立していないという日本国憲法無効説です。

著者は、革命説はどうもコジツケのようです、とばつさり切捨てるのだが、大石義夫氏の改正説を引用しつゝ革命説の出現した理由を考察してゐる。

「法というものはどのような法であっても、それ自身存在目的を持つものではない。法は常に人間の社会生活に奉仕するために存在するものである。故に帝国憲法も所定の手続きを正しくふめば改正できたのと同様に、日本国憲法も改正できる。なんとならば、法というものは、その時代、その社会の事情に即応して定められたものであるから、社会事情が変れば、法も変えられなければならないのは当然のことだからである。」

大石氏の改正説を認めれば、「日本国憲法の改正は出来るが、その基本原則である主権在民、基本的人権の保障、軍備否定は変えることが出来ない。これらは憲法以前の根本である。」という主張が出来なくなります。それは困る、という立場から、日本国憲法を擁護するために、その成立にさかのぼって革命説を考え出して主張されておられるようです。

今、詳細は省略するが、改正説の問題と革命説の無理を著者は指摘してゐる。そして、はつきり述べてゐないけれども、無效説に相當の説得力がある事を認めてゐる氣配がある。その無效説に就いて、著者は以下のやうに説明してゐる。良く纏まつてゐて參考になると思ふので、第三章第一節の第三項を丸ごと引用しておく。「一」「二」はそれぞれ「改正説」「革命説」の事。

「一」及び「二」は、何れも日本国憲法を有効と認めるわけですが、之に対し、日本国憲法は本来無効の憲法であるとする説があります。元台北大学教授井上孚麿氏及び菅原裕氏等の説です。その理由は少し難しい表現ですが「重大且つ明白な瑕疵がその有効な成立を妨げているからである。」としています。その主な理由を次のように説明しておられます。

  1. 日本国憲法の成立は、ポツダム宣言に違反している。ポツダム宣言第十二項に「日本国民の自由に表明せる意思に従い政府が樹立せらる。」とあり、「ポツダム宣言受諾に関する日本政府の申入」に対する連合国の回答(昭和二十年八月十二日)には「日本国の最終的の政府は……日本国民の自由に表明せる意思により決定される。」とある。軍事占領中に被占領国民が、「自由に表明せる意思」を発表出来るものではない。軍事占領中の自由は刑務所の内の自由と同じで、マッカーサー自身、米誌フォーチューン誌一九四九年五月号に、日本全土を「八千万人の捕虜収容所」とよんでいる。「捕虜収容所」内の自由意思は「……日本国民の自由に表明せる意思……」ではない。かかる時期に日本国憲法を成立せしめたのは、明らかにポツダム宣言に違反している。
  2. 日本国憲法の成立は、へーグ陸戦条約違反でもある。即ち、その四十三条、「現行法尊重の義務」を履行していない。
  3. 日本国憲法の制定は、大日本帝国憲法の改正としてなされたが、実は憲法に定められている「改正の限界」を越えたものである。(「革命説」の論拠と同じ。)
  4. その逸脱の程度は、改正というよりは廃棄というに近い。改正の名のもとに帝国憲法そのものを根本的に廃棄してしまっている。憲法は改正の限界を少しでも逸脱すれば有効に成立はしないのに、全面的に廃棄すれば成立する筈がない。
  5. 日本国憲法成立の全過程を通じて、急迫不正の強要が行なわれた。それもまた、完全な意思の自由を阻害するものであった。

このように、「日本国憲法は、成立が既に無効であるから、本来無効である。之は追認によっても、時効によっても、新しく効力を得ることは不可能である。」と結論されています。

野嵜も無效説の立場を取る。
平成十七年六月十九日
關西ローゼン(とふたばの實況)に合はせて録畫を觀る。
ローゼンで或意味一番有名な第五話。
はじまつた。
をはつた。
平成十七年六月十九日
福田逸の備忘録―独断と偏見 2005年 06月 19日 領土問題と『ハムレット』
フォークランド紛爭。サッチャー首相(當時)がjusticeと繰返し言つてゐたのをTVで觀て、イギリスは「やる氣だ」と思つた、とは松原先生の御話。日本の小泉首相は、竹島問題で韓國と「やる氣」はないだらう。

平成十七年六月十八日
-- NAKAMOTO PERSONAL WEB SITE -- - 「言葉狩り」
平成十七年六月十八日
福田恆存が、「亡命知識人」森嶋通夫氏を批判した論文「戰爭論の進め方についての疑問」は、かつての「平和論の進め方についての疑問」に對應して題が附された論文であるが、平和主義者批判の域を超えて、我々にとつて示唆的な内容を含んでゐる。

討議、論爭において見られる意見の對立は、殆どすべての場合、意見そのものの對立ではなく、論者が互ひに同じ言葉を用ゐながら、各々がその言葉に託する意味の相違に基づくものである。同じ言葉であるから同じ意味を有するといふ誤れる前提のもとに行はれる論爭においては、ダイアレクティク(問答)による對立を通じて、廣い意味での相互理解や合意に逹するはずもなく、いたづらに混亂と混迷を生ずるだけに終る。

福田氏は、殊に日本に於ては、「國家」「主權」「「人權」「民主主義」「平和」「自由」と云つた抽象的な概念に就いて、歐米の言葉を飜譯した新漢語を使用せざるを得ないが、それによつて屡々思考の混亂を生じてゐる事を指摘してゐる。森嶋氏は、さうした日本人に一般的な思考の混亂を惡用して、自分に都合の良い結論を引出してゐる。
森嶋氏は、事實に關しても、道徳に關しても、極めて輕薄な考へ方をしてゐた。福田氏は、志水速雄氏や田久保忠衞氏、松原正氏といつた人々による森嶋氏批判を紹介しつゝ、森嶋氏の論理の矛盾、思考の不徹底を追求してゐる。
さうした批判は、單なる平和主義者の輕薄を批判したものではない。平和主義者を批判する側にも問題はある、と云ふ事を、福田氏ははつきり述べてゐる。

同時に、關、志水兩氏に問ひ匡したい「自國の經濟力に應じた自衞力」(關氏)といふ言葉もまた曖昧であり、欺瞞とまでは言はないが、たとへ善意にしろ、そこには何かごまかしがありはしないか。

同じく「自由世界をアメリカと協力して守ろうとする日本の熱意」(志水氏)といふ時、それはその「熱意」があるならばといふ假定の話でしかなく、また「その國力にふさはしい責任を果たそうとするとき」(同氏)といふ言葉も「するとき」はやはり「するならば」といふ假定の話に過ぎず、かういふ假定法過去、即ち現在の事實に反する前提條件を以て、アメリカに對し「それはアメリカの利益にもなり、日本を核攻撃から守ろうとするアメリカの決意をますます強固にするであろう」といふ希望的觀測を押附けても何の效果も無い。

森嶋氏のやうな平和主義者にしても、志水氏のやうな「保守派」にしても、議論において屡々、言葉を飾つたり、希望的な觀測に基いて自分に有利な結論に繋がる假定を大前提に持つて來たり、獨斷的な事を言つたりする。「曖昧な言葉の遣ひ方をするのは惡い」と、簡單に言へばさうなるのだが、それは即ち思考が不徹底だから起る事だ。
「アメリカは信用出來るか」「ソ聯は信用出來るか」と云ふ邊で、當時の平和主義者と「保守派」とは言爭つてゐた。それに對して、福田氏は述べる。

私は人間を信じないがゆゑに、アメリカ人と共にソ聯人を信じない。もちろん日本人も信じない。私はいちわう、個人としての或る人間を信じる事は出來る。が、人間といふ抽象的存在を信、不信の對象とする思考法には不慣れなのである。或るアメリカ人、或るソ聯人を信じても、集團としてのアメリカ合國、ソヴィエト社會主義共和國聯邦や、その政府、その國民についても同樣である。……。

そして、個人として最も信じてゐないのは私自身である。それに次いで家内、子供、友人と自分から遠くなるに随つて信じる度合が増し、同時に信じられるか信じられないかといふ二者擇一の關心度は薄れ、それぞれ相手を一人格としてではなく、仕事や利害關係の枠組における一機能として信じておくだけの事に過ぎなくなる。……。私が自分を最も信じてゐないのは、最も信じたいからであり、人格としての統一體を假説としてゐるといふことを意味する。……。

人格が假説なら、國家も國民も當然假説であり、フィクション(假定・作り物)である。……。要するに、人格も法も國家も、全てはフィクションなのであり、迫持、控へ壁などの備へによつて、その崩壞を防ぎ、努めてその維持を工夫しなければならぬものなのである。

福田氏は、「フィクション」としての抽象概念や理念は、維持しようとしなければ容易に崩潰してしまふ、と指摘してゐる。その一方で、さう云ふ「フィクション」としての理念・觀念は、單に「ソフトウェア」である許りでなく、現實を拘束する「ハードウェア」に轉化する事も屡々あると指摘してゐる。

……。近代的軍隊に比べれば西洋式の官僚制度も教育制度も議會制民主主義も、すべてソフトウェアであらうが、それらがすべてフィクションであるといふ事実を悟らなければ、爆撃機の操縱や核兵器の使用よりも、操縱、使用しにくいハードウェアと化する。防衞、軍隊のみならずと言ひたいところだが、吾々の周圍には、それ以上に吾々が今なほ適應異常に苦しんでゐるものが多く、しかも森嶋氏のやうにその實状に氣附かず、ソフトウェアを喪失してしまつた人が大部分なのである。その森嶋氏がソフトウェアを口にする、止んぬるかな。

國際關係も、それを規定する條約もまた、いや、それこそ最も毀れ易いフィクションであり、憲法に至つては缺陷車に等しいハードウェアであるにも拘らず、吾々はこれに適應を強ひられてゐる譯だが、これを最後に、自衞隊を合憲とする護憲論者に質問したい、さういふ無理な適應を國民に強ひる事によつて、日本人のソフトウェアはどういふ事になるか。フィクションは建造物である、日本國憲法は手拔き工事の建造物であり、それゆゑ、私は「カードの小屋」と呼んだ。詰り砂上の楼閣であり、虚像である。フィクションは虚像ではない、堅固な建造物である。フィクションに適應し、これを維持しようといふ努力は人格を形成する。逆に言へば一人一人の人格がその崩壞を防ぐための努力がフィクションを作りあげ、これを堅固なものになし得るのだ。が、虚像への適應を強ひれば、ソフテストウェアである心はコンシァンス(良心・自覺)への求心力を失ひ、人格の輪郭から外へ沁み出し、空のコップのやうな透明人間になつてしまふ。それはもはや人格とは言ひ難い、人格の崩壊であり、精神の頽廢である。何處の國が攻めて來なくとも、なしくづしの防衞論は日本といふ國と國民個々の人格といふフィクションをなしくづしに廢坑化し、幾ら森嶋氏の無抵抗主義に反論しようが、結果としてはそれに手を貸し、日本國民の洗腦に寄與する事とならう。

長々と引用したが、一面的な物の見方を排する福田氏は、物事の二面性を見据ゑる事の大事を説きつゝ、その二面性も相對的である事、さらに、その二面を適切に把握する事が大事であるとも述べてゐる。虚構である理念や觀念は、夫れ自體として弱いものであるが、一方で人間の精神には強い影響力を持つ事がある。さうした、一見、矛盾に思はれるやうな事が「ある」と、福田氏は認識してゐた。福田氏の認識は、單なる「生きる智慧」ではなかつた。福田氏は、人間の性質を良く理解した「人間通」であつた。そして、人間の性質を理解しない、或は、知つてゐて無視する論者を、福田氏は嫌つた。晩年の福田氏は、若い頃に比べても、寧ろより激しく、輕薄な知識人を批判した。
その結果として、「言論界」から福田氏は排斥される事となつた。さうした「言論界」の状況は、現在も變つてゐない。ウェブですら、さうした状況が續いてゐるとすら言へる。言葉を飾つて誤魔化してゐる手合は少くないし、さう言ふ手合に限つて、他者を理窟に基いて批判する人間を、傲慢だとか「人を見下してゐる」だとか極附けて、排斥し、不快にさせては喜ぶ。そして、「フィクション」としての理念や觀念を輕視し、「現實的でない」等と言つて單純な現状維持を主張したり、「樂な生き方」を推奬して見せたりして、周圍の人間から支持を得ようとする。だが、そんな事しか出來ないのでは、福田氏の文章を讀んだ意味はないのである。

平成十七年六月十七日
『日本人とは何か 民族の起源を求めて』(小学館)169ページ。梅原猛氏の發言。

奈良四大寺の祭り方をみても、国家の核としての伊勢を中心に祭るが、同時に国家の犯罪者をも祭る。これが日本の神道の方向を決めた。皇室の祖先神が伊勢、藤原氏の祖先神が春日。ところが、これらの犠牲になった蘇我氏の祖先神である出雲も祭っている。これが例のアイヌの問題とつながっていると思われるのですが、律令時代になると、すでに政治概念になってしまっている。日本の神道はいつの時代でも、片方で祖先を祭り、同時に他方で政治的犠牲者を祭る。これがたいへん大きな国家的事業になる。日本の政治家はりこうなので、後者の祭りを大事にした。平安期になって、菅原道真を祭ったのもそれです。藤原時平は道真を流したが、忠平は手厚く祭って「おれは祭るから崇らないでくれ。崇るなら兄貴のほうに行ってくれ」と祈願した。そのために時平の子孫はみんな死んでしまったが、忠平の子孫のほうは生き残った。そして菅原道真が摂関家の守り神になった。こういうことは、よその国にはあまりないと思います。『古事記』が、そういう日本神道のあり方を決めていったのではないでしょうか。

上田さんの言われるように、たしかにもっと仏教と関連して考えなくてはならないけれども、国家仏教としてはいろいろ不十分な要素がある。そして神道の基になったのは、はなはだデモクラティックな神様ではなかっただろうか。それを国家主義的に変えようとした。国家に害をなした者を祭ることが、国家体制の安定に非常に役に立った。代々の政治支配者は、それを一所懸命に行い、それができなかった権力者は長続きしなかったと考えられます。

「A級戰犯」は国家の犯罪者ではないが政治的犠牲者ではある。で、道眞公は祟つたのだけれども、「A級戰犯」は祟らない。だから功利的に考へる多くの人々が「分祀」なんて事を平氣で言ふ。しかし、そもそも功利主義で何でもやるべきであるのならば、一番すつきりするアイデアは「神社を含めた全ての宗教を廢止する」事であらう。目に見えないものは一切信じないが良いのである。
平成十七年六月十七日
http://d.hatena.ne.jp/noz_watcher2/20050616
「一福田恆存読者」という表現は重いと感じたので、このブログのタイトルを「初級福田読者のブログ」と変更しました。
まあ別に何うでも良いけれども。なんか信者つぽい人の激励コメントが附いてゐるけれども云々。

noz_watcher2というアカウントと過去の記事が記になるので、「はてなダイアリー」からBIGLOBEのブログへと移転することに決めました。

タイトルも「心の羅針盤」と改め、さらに私のHNを「noz_watcher」から「新霊光輝」と変更いたします。

ノズラー観察を止めた私の言説に興味があるという奇特な方は、是非新しい私のブログをのぞきに来てください。

心の羅針盤/ウェブリブログ
一言忠告。謙讓と傲慢とは紙一重だよ。自分語りは時として自己陶醉に陷る事となる。注意が必要だ。兔に角、言ひ訣許りしてゐないで、さつさと「言説」を書け。書くべし書くべし。

むろん、福田恆存を読む事で得た知識をひけらかし、「愚かな人たち」を馬鹿にするために読んでいるわけではない。寧ろ私は、そのようなことをしている人たちを今まで非難していたのである。福田恆存をそのような目的で読む事は邪道であると思う。

さう言ふストーカー氏は、これまで、野嵜の事を「愚か」と罵倒し、「愚かな野嵜」を嘲笑して喜び、「野嵜を不快にしてやる」事を目的に2ちゃんねるにスレを立てたり、「ノズラー観察同好会」なる「ブログ」を造つたりしたのだが。ストーカー氏は、自分の行爲を美化する傾向があるので、注意されたし。
福田さんは、他人を批判する事ではなく、自己陶酔する事をこそ、傲慢であると看做し、否定した。福田さんは、意識して「演戲する」事の大事を説いた。人は、自分に陶醉し切つてしまふべきではない。陶醉しながらも、同時にその陶醉する自分自身を、醒めた目で見る事が出來なければならない。
何うでも良いが、DIONで最初にアカウントをとつた時に作つた野嵜の最初のサイトの題名は「羅針盤」だつた。この事を知る人は、恐らくDIONの中の人くらゐしかゐない。けれども事實なので一往書いておく。なんかストーカー氏も同じ事を考へてゐるんだね。何で? どこかメンタリティ的に似てゐるところがあるのかな。嫌な話だ。
セブンアンドワイ - みんなの書店 - あらたま書店 - 新霊光輝店長
ハンドルがイタいなと思ひつゝぐぐつたら見附けた。
まあがんばれ。
平成十七年六月十七日
めも。
山頭火つれづれ-四方館日記 - お山しんしんしづくする真実不虚
「ええっ? あの三浦つとむが、吉本隆明とそんな密接な形で繋がっていたのか!」と恥ずかしながら驚き入った。言語理論の世界で時枝を媒介にして、この二人に一定の共通性があるとはずっと見てはきたものの、現実の日常世界に「試行」を通してこんなに密接な関わりがあったとは、まったくそういう事柄にアンテナをめぐらさない私には思いがけないことだった。
平成十七年六月十七日
めも。
黒うさぎの生活 - 言葉
黒うさぎの生活 - 言葉2
平成十七年六月十七日
Sammy the Little Bird - 言葉という厄介な道具
平成十七年六月十七日
森 銑三は藤沢の鵠沼橋近くの仮寓に40年余り住んでいた
平成十七年六月十七日
めも。
警察庁 インターネット安全・安心相談
平成十七年六月十七日
記憶更新履歴(2005年6月) - Final β Laboratory「ジャンク品&LD放出キャンペーン終了」
ミトとサクラ大戦なら欲しくない事もないのだけれども、LDプレーヤ持つてゐないんだ。CS(と言ふかCATV)で録畫してゐるし、ミトは本放送時にも録畫してゐるし(VHS)、なければないで困らない訣で。と言ふか、最う遲いか。賣りに行つて、値が附かなかつたら、引取りますよ?

平成十七年六月十六日
kahusiの日記擬き
私事 (kahusi.org)
Firefox用日本語言語パッケージ――正字正かなエディション。Opera用日本語正字正かな化言語ファイル。
海馬日記 - Firefox正字正かな化言語パッケージの導入手順
平成十七年六月十六日
魔法.tv/魔法のシャーペン
どうも御久し振りですの某さんに教へて貰つた。今後ともよろしく御願ひします。野嵜は鉛筆派で、シャープペンシルは餘り使ひませんが。
平成十七年六月十六日
ネギま! 美夕以來の葬式Op。鬱展開。なんかすごいことに。インパクトはあるけれども、一箇の作品としては支離滅裂状態。
平成十七年六月十六日
極上生徒会。フットサル話。宮神學園に粘着してゐる絢爛學園。極上生徒會ぼんくら揃ひ。
ネギま→極上の流れで救はれる事になるとは、四月の頃には想像も出來なかつた。水曜深夜のテレ東あにめ枠、面白い。しかし、なんかすつきりしない。嘘だの僞者だの公正を缺く審判だの。
平成十七年六月十六日
掲示板の常套語で「○○信者うざい」「××厨うざい」と云ふものがあり、時々「誰某がうざいのは○○信者だから」と言ふ人がゐる。「だから」と言つてゐるけれども論證でも何でもない。「うざいと思つてゐる相手」に貼るレッテルが「信者」なのだから、その人にとつて「信者」が「うざい」のは當り前の話。
實際のところ、「信者」のレッテルはただ單に「その人の好みと合致しないジャンルの話や、氣に入らない話し方をする集團」に對して貼られるものに過ぎない。「俺は誰某が嫌ひだ」と云ふ宣言の域を出るものではない事は屡々ある。レッテル貼りをする人間の目的は、氣に入らない人物・集團を場から排除する事である。
「うざい」と思ふ→「信者」とレッテルを貼る→「信者だからうざい」と言ふ。これは論證でも何でもない。ただの循環論法である。が、レッテル貼りをする人は屡々この循環論法に陷る。レッテル貼りは、單なる罵倒であり、思考の停止を伴ふ。ただレッテル貼りをやるだけで他人を場から追出さうとする人は、物を考へてゐないのであり、知的怠惰であると言つて良い。日本では、さう云ふ自覺がない人が極めて多い。その手の人は、氣に入らない相手や觀念に對して排他的であるだけで、物事の眞實を追求する事には全く興味を持つてゐないものである。掲示板やチャットで、樂しさを求めて、空氣を讀めない相手に對して排他的になつても仕方がないと言へば仕方がないし、それで起る「信者論爭」も屡々良い暇潰しとなる。けれども、掲示板やチャット以外の場所でもまた、自分の樂しみだけの爲に、他人の意見を排除しようとして貰つては困る。
平成十七年六月十六日
昔はPTAやら何やらの糺彈にもめげず、「俗惡番組」がばんばん放送されてゐたのだけれども、最近は非難を恐れてテレビ局が自主規制するやうになつてしまひました。しかし、その「糺彈する側」もまた俗惡である、と云ふ事が、最近では良く知られるやうになつて來ました。
現在、「糺彈する側」になる事は、インターネットにおける匿名の掲示板サーヴィスの御蔭で、極めて容易になりました。「俗惡な事が大好きな大衆」は、今や匿名掲示板で、思ふ存分、俗惡な「糺彈する側」を演じられるやうになりました。俗惡なものをただ見てゐるよりは、自ら俗惡な事をする方が、樂しみは多いものです。
しかし、樂しければそれで良いのでせうか。
平成十七年六月十六日
拾つて來た『文章講座1文學の問題』(筑摩書房)で福田恆存が「技術」の御話を書いてゐるのを見附けた。
平成十七年六月十六日
Opera 8.01が出た。うつかり日本語版を入れてしまつて失敗。取敢ずメニューを英語に戻した。

平成十七年六月十五日
http://d.hatena.ne.jp/noz_watcher2/
GeoCitiesのサイトも消えてゐるし、状況が色々變つたやうで、ストーカーの「ブログ」がリニューアル。なんか「一福田恆存読者のブログ」を名乘つてゐる。福田恆存は「氣に入らない相手には人身攻撃せよ」「ストーキングせよ」とは言はなかつた。五年の間、變る事なく、延々野嵜に粘着し續けたnoz_watcherは、これで變るのだらうか。萬が一、うちのサイトを超えて呉れれば、それはそれで良し。御手竝拜見。
まあ、既に「福田恆存專門ブログ」として、言葉の救はれ――福田恆存論がある訣で、新しいものを作るのならば、それなりに存在意義のあるものにしていただきたい。
平成十七年六月十五日
感情過ぎ去っていった僕の赤いダイアリ - 福田恆存「私の國語ヘ室」

平成十七年六月十四日
トップ2! 第3話。相變らず前作に比べてスケールが小さいので劣化コピーにしか見えない。段々良くなつて來てゐるやうな氣もしないではないのだけれども。
平成十七年六月十四日
クリーミーチーズケーキを食べる。
なんか色々な意味で評判になつたので第二彈。色味が前囘と合はない。PhotoshopElementsで巧く色味を合せる方法の傳授希望。ええと、ぐぐれば良いですか?
平成十七年六月十四日
六月二十一日(火曜日)の夜八時からtvkでナイショ。
平成十七年六月十四日
田村で拾ひ物。
新宿で古書展。本の質は全體的に低いが、良く探すと意外と良い物がある。客の質も低いが、こちらは大問題。平臺の上に本を置く、立讀みする、云々。

平成十七年六月十三日
まほらばもこいこい7も觀ないでシノブ伝を觀てゐる俺。
平成十七年六月十二日
猫跨ぎ再び
平成十七年六月十三日
帰ってきたノズラー観察同好会報 - 自分を棚に上げる卑劣さ
人は自らを否定すべき文句で以つて他人を罵る。noz_watcherが自分を棚に上げて野嵜を罵つてゐる事は誰の目にも明かな事ではないか。noz_watcherは、匿名の陰に隠れて人を罵倒してゐる。匿名の陰に隠れてゐる時點で、noz_watcherは卑怯である。しかしまあ。

結論を先に言えば、それは自分を棚に上げて物を言う所が問題なのである。

何時ものパターンで、結論から話に入るnoz_watcher。

例えば、今シュークリーム男氏がテメーのサイトで開陳してる「インタラクティブなネットサービスは風潮が支配するから駄目だ」論にしても、論それ自体には幾ばくかの理があるものの、「インタラクティブなネットサービスを大いに利用している自分」というものを視野に入れていないために、「テメーも掲示板を利用しといて良くそんなことが言えるな」と非難されるのである。

例によつて、結論に至るまでの過程を説明するのでなく、例えば云々と言つて結論を前提に話を進めてしまつてゐる。視野に入れていないためにとnoz_watcherは述べてゐるが、それがまた論證拔きの結論である。自分を棚に上げて物を言うと云ふ結論が先にあつて、それをもつともらしく見せかける爲の例えばなので、それつぽい事をnoz_wacherは言つてゐるに過ぎない。

「インタラクティブなネットサービス」を批判するからには、「インタラクティブなネットサービスの恩恵を受けている」自分というものもしっかり視野に入れておくべきである。

もちろん、視野に入れてゐる。「入れてゐない」と讀んでしまふのは、noz_watcherに讀解力がないからである。
しかしこの邊のnoz_watcherの文章、何だか傲慢な感じがする。と言ふか、「自分をしつかり見つめなさい」式の、妙に氣持ちの惡い言ひ方であるやうに見える。noz_watcher、新興宗教でもやつてゐるんぢやないか? 同じスローガンを繰返したり、やけに何度も自分を見詰め直せ的な事を言つたり、他人の人格を徹底的に貶めて崩潰させる自己啓發セミナー的なテクニックが巧み過ぎる。閑話休題。

そうでなければ、その批判は単なる御都合主義にしかならないだろう。

視野に入れてゐるから、御都合主義にはならない。それにしても、「ならない」と斷定せず、「ならないだろう」と推量の形で言つてゐるのは卑怯である。
それにしても、「サーヴィスを利用してゐる=サーヴィスを批判してはならない」とは、短絡的な思考である。かう云ふ「考へなし」のnoz_watcherだから、野嵜の言つてゐる事が全然理解出來ないのも無理はない。物を考へる能力があれば、野嵜の言つてゐる事を表面的に受止めてしまふnoz_watcherのやうな淺薄な文章の讀み方は出來ない。
平成十七年六月十三日
あと。野嵜は既に、自分(←noz_watcher)の利用してゐる「2ちゃんねる」「はてなダイアリー」のユーザをnoz_watcherが全然批判せず、ひたすら野嵜だけを非難してゐるnoz_watcherの矛盾を指摘した。
noz_watcherは今、相變らず、「野嵜は自分を棚に上げている」とスローガンを連呼し、自分に都合の惡い指摘がある事に觸れようともしないでゐる。
noz_watcherの卑怯な處は、自分に不利な指摘には觸れないで、ひたすらスローガンを連呼する、と云ふ事である。
平成十七年六月十三日
それにしても、論それ自体には幾ばくかの理があるのならば、それで良いだらうに。それから、noz_watcherは、幾ばくかの理がある等と奧齒に物が挾まつたやうなはつきりしない言ひ方をし、はつきり「正しい」と言はない。正しいものは正しいと認める公正な態度をとつた方が説得力が増すだらうに(まあ、野嵜がnoz_watcherの事を心配してやる必要はない)、野嵜の事が嫌で嫌で仕方がないから、noz_watcherは人を貶めるやうな言ひ方をしてしまふ。卑怯であるが、それがnoz_watcherの性格の本質なのだらう。
平成十七年六月十三日
それにしても、なぜわざわざnoz_watcherは人身攻撃をしなければならないのだらうか。noz_watcherが「氣に入らない奴の人格は徹底的に貶めなければならない」と考へる理由は何なのだらうか。noz_watcherが粘着となつた契機については書かれてゐる。しかし、noz_watcherが野嵜に粘着しなければならない必然的な理由は全く説明されてゐない。必然的な理由もナシに、ただ何うでも良い事を一生懸命やつてゐると云ふのでは、noz_watcherはトンデモさんであると見られても仕方がない。noz_watcherはそれでも良いのだらうか。
平成十七年六月十三日
ノズラー観察同好会本部
呆れたものだと思ふが、かうやつてストーカーは執拗に嫌がらせを働いて、人を不快にさせようとするのである。noz_watcherは最低の人間だと思ふ。
平成十七年六月十三日

彼らは総じて攻撃的であり、他人を論難することに酔いしれており、自ら好んで論争を惹起することが多い。 一度論争が起こると、論争相手が白旗を揚げるか、離脱するまで決して止める事はなく、論点のすり替え、文章添削、牽強付会なこじつけなどあらゆる手を尽くして論争相手を攻撃するため、論争相手の恨みを買う事が少なくない。

「ブログ」を作つて言ひがかりをつけて挑發し、何時までも粘着し、手段を擇ばず、「不快にする」事が目的であるnoz_watcher自身の事を言つてゐるやうにしか思はれない。

また彼らは正字正仮名の布教に余念がないが、「無知蒙昧なお前等を教養ある俺たちが啓蒙してやる」といった、傲慢なスタンスで布教を行うため、皮肉にもかえって正字正仮名に嫌悪感を示す人を増やすという結果を招いている。

「無知蒙昧なお前等を教養ある俺たちが啓蒙してやる」といった、傲慢なスタンスは、現在のnoz_watcherのスタンスと化してしまつてゐる。野嵜を反面教師にすると宣言したnoz_watcherだが、「ミイラ取りがミイラになる」を地で行つてしまつたやうだ。
平成十七年六月十三日
noz_watcher、2ちゃんねるでスレストに遭つた模樣。
ストーカーはなぜスレストされたのかを眞摯に云々。
平成十七年六月十三日
/猫跨ぎ再び
平成十七年六月十三日
工場が撤退したあとの空地がすつかり自然に歸つて、雲雀が鳴いてゐる。

平成十七年六月十二日
B.パスカル 渡辺秀訳『パンセ――瞑想録への誘い――』若い人のための人生論3(現代教養文庫549)

規準によらずにある仕事を判断する人は、他の人に対して、ちょうど時計を持っている人と他の人との関係のようである。「二時間だ」とある人は言い、「まだ四十五分だ」と他の人は言う。私は自分の時計を見て、前の人に「あなたは退屈している」と言い、後の人に向って「あなたには時間が長く感じられないのだ」と言う。一時間半たっているからだ。そして、私が時間を長く感じているのだとか、私が気まぐれに判断しているのだとかと言う人びとを、私はあざける。彼らは私が自分の時計で判断していることを知らないのだ。(五)

平成十七年六月十二日
洗面所の明りを點けたら壁に留まつてゐた蛾が、驚いたのか、のそのそのそのそと歩いて戸棚の蔭へ。
平成十七年六月十二日
ka-lei-do-scope weblog - 私の國語教室:福田恆存
bonebluesbanndの日記 - 福田恒存は所謂「保守派知識人」で論争に一度も負けたことが無い事で有名。『私の國後教室』は、そういう福田が「他の文章は読まなくていいからこれだけは読んでくれ」と言った著作である。
平成十七年六月十二日
Dazzling Sky
平成十七年六月十二日
猫跨ぎその1
平成十七年六月十二日
ネットストーカーがまた誤讀に基いて勘違ひした議論をしてゐる。
帰ってきたノズラー観察同好会報 - さっさとネットやめなさい

「悪い風潮」が出てくるのは何もブログや掲示板だけとは限らない。

個人で運営しているホームページだって、「悪い風潮」を蔓延させる可能性は大いにあるはずなのに、このシュークリーム男氏は意図的にそれを無視している。

ストーカーには「文脈に沿つて用語を理解する」と云ふ事が出來てゐません。野嵜が使つた「風潮」の意味と、ストーカーの「悪い風潮」の「風潮」とは、意味が違ふ。野嵜は斯う書いた。

掲示板にしても「ブログ」にしても、作る主體は複數であり、個人ではないから、そこでは風潮が出來上るに過ぎない。

即ち、野嵜が茲で言つてゐる「風潮」とは、「個人の主張ではない複數の人間によつて作られる主張」の事です。掲示板や「ブログ」と云ふ(徳保氏の言ふ「場」)における「風潮」の事です。
だから、その「風潮」が「蔓延」するのは、その掲示板や「ブログ」の中だけ。「悪い風潮」を蔓延させる可能性は大いにあるはずなのにと言ふストーカーの考へる「蔓延させる」は、掲示板外部、「ブログ」外部の事です。ストーカーは、故意にかうつかりにかは知りませんが(「野嵜を不快にしてやる」と云ふストーカーの例の宣言から考へれば、「故意にである」と考へるのが普通ですが、斷定はしません)、野嵜の意圖とは違ふ意味で野嵜の用語を利用し、話をずらしてゐるのです。これは、ストーカーのいつものやり方です。
「風潮」と云ふ野嵜の用語の意味を正しく理解出來れば、

シュークリーム男氏が「個人の責任」で運営しているホームページだって、「正字正仮名を使う者は傲慢で悪質な人間が多い」という「悪い風潮」を充分蔓延させているように思えるのだが。

なる勘違ひした演繹の仕方は出來ない筈です。
しかし、かうした「演繹」的な議論の仕方も、ストーカーの常套的な論法です。

それは結局、シュークリーム男氏がテメーのWebでの「言論活動」を正当化しようとするための詭弁なのである。

ストーカーの議論の展開の仕方は、單なる「聯想ゲーム」でしかありません。ストーカーの結論の出し方は、非論理的なものです。誤讀に誤讀を重ね、惡口に惡口を重ねる、と云ふのがストーカーの何時ものやり方です。動機が「野嵜を不快にしてやる」と云ふもので、結論は最初に決つてゐるのですから、云々。
さて、こんなストーカーの駄文にコメントを寄せて、カサブランカダンディなる匿名の人物がストーカーを禮讚してゐます。

御説の通りです。掲示板でお仲間と馴れ合っている人のブログ批判など聞く耳持ちたくないですね。それと、シュークリームの写真、大笑いしました。いずれ、歴史的かなづかいを使う、心根も容姿も醜い差別主義者がこのブログを荒らしに来るかもしれませんが、その時は即刻アク禁などの措置をとるべきです。インタラクティブなメディアは個人の主張に向かないなどとホザいていますが、それらの優越感丸出しの高慢ちきな連中を閉め出すことも、立派に「主張」や「態度」の表明です。さらなる御健筆をお祈りします。

最初の「馴れ合っている人」云々の露骨な襃め殺しには苦笑。自稱ダンディ氏(いやはや)は、馴れ合ひを嗤ひたいのに、コメント欄で既に馴れ合ひをしてしまつてゐるのです。人は自らを否定すべき文句で以つて他人を罵る。
そして、ダンディ氏、氣に入らない人間を「ブログ」の「オーナ」は「アク禁」で「閉め出す」べきだ、と言つてゐます。野嵜が指摘した通りで、「ブログ」ではかうやつて「ブログ」の「風潮」が作られるのです。そして、さうやつて出來上る「風潮」は、複數の人間が作つてゐたとしても、全く信頼の出來ない偏つたものになる。
そして、指摘するまでもないかもしれませんが、ストーカーの仲間が野嵜の言論を封殺したがつてゐる事は、この自稱ダンディ氏の發言を見れば明かです。
ストーカーのコメント。

シュークリーム男はネットでの言論活動への責任云々宣ってるけど、シュークリーム男が具体的にどう責任を取ってるというのだろうか?

「個人として物を言ふ事」が「責任を取る事」だ、と云ふ現在の議論における野嵜の主張に對して、「インタラクティヴな掲示板や『ブログ』だけで物を言つてゐるのではない」時點で野嵜は既に責任を取ってるのだけれども、それをストーカーは認められない。彼獨自の「責任」の觀念に、野嵜の考へる責任の觀念が合致してゐないからです。しかし、そのストーカーの考へる「責任」の觀念のみが正しく、野嵜の考へる責任の觀念が誤つてゐると、ストーカーは論證してゐません。「個人として物を言ふ事」が「責任を取る事」だ、と云ふ野嵜の主張を、ストーカーは讀取つてゐませんし、當然、有效に批判してもゐません。ただ單に、自分の觀念に相手を屈伏させる事だけを、ストーカーは望んでゐます。ストーカーは、正しい事を明かにする論爭ではなく、相手を自分に屈伏させる爲の論戰をやつてゐるのです。それでは困る。
平成十七年六月十二日
帰ってきたノズラー観察同好会報 - 目くそ鼻くそを笑う
松原氏は「私はなぜ人を謗るか」について書いた事があるのだけれども、本を讀まないストーカーは、やつぱり讀んでゐないのだらう。
松原正著『暖簾に腕押し』紹介
どうせなので「言葉 言葉 言葉」電子テキスト配布コーナで「暖簾に腕押し」全文を公開。但し校正してゐません。
平成十七年六月十二日
帰ってきたノズラー観察同好会報 - 今日は小ネタ

正しくは、「野○さんの文章に中身がないから、表面的にしか読みようがない」である。

野嵜は、ストーカーが淺薄な文章の讀み方しかしてゐない事を論證してゐる。しかし、ストーカーは、論證拔きで「正しくは」と言つて、いきなり結論を述べてゐる。ストーカーの常套手段であるが、これは只の極附けである。野嵜の指摘を惡口と思つて、ストーカーは惡口を言返してゐるに過ぎない。
ストーカーの文章は、屡々、「起承轉結」の「結」だけがあつて、「起承轉」をまるきり缺いてゐる。
激しく罵るだけが批評ではない。結論に至るまでの過程こそが大事である。その過程をすつ飛ばすからストーカーの文章は淺薄なのだが、さう云ふストーカーだから、過程を示して結論を暗示に留めると云ふ書き方が理解出來ないのだらう。
平成十七年六月十二日
野嵜は、結論に至るまでの論證の過程を書くやうにしてゐる。「書く事は人を作る」のであり、實際、叮嚀に過程を書いて見て、はじめて意味が解る、と云ふ事もあるからだ。
そして、さう云ふ論證の過程が明示されてあるからこそ、その論證によつて引出された結論の是非も檢討が可能になる。結論がいきなり下されてゐたり、その結論にいきなり別の結論がぶつけられてゐたりするのでは、單なる言爭ひにしかならず、不毛な議論は不可避である。
結論は必要だ、だが、その結論に至るまでの過程もまた必要だ。そして、どちらかと言へば、結論よりも過程の方が重要だ。結論が誤つてゐても、過程自體が眞實を衝いてゐるので評價される、と云ふ事もあり得る。數學の試驗問題で「部分點」があり得る所以である。
論證の過程があればこそ、その過程における問題點・疑問點の指摘が可能である。論理と云ふ物の本質的な制限の爲に、その指摘が何時までも續く事は「ある」。けれども、それで續く長い長い議論は、決して不毛な議論ではない。さうした長い長い議論は、科學の領域でも文學の領域でも常にあつた事であり、囘避する訣には行かないし、囘避してはならない。「何が正しいか」を追究するには必要な事だからだ。
ただただ、いきなり結論を述べ、自分の觀念を絶對の眞實と思ひ込んで、その觀念とは異る觀念を提示してゐる相手を罵倒して、世間から「閉め出」さうとするのは、自分の氣に入らない人間の言論を封殺する事であり、ただの人身攻撃の域を越えたものではあり得ず、「正しい事」の追究とは無縁である。「自分に理がある」事は、主張すべき事だが、「なぜ自分に理があるのか」と云ふ説明が常に必要である。そして、その「なぜ」を説明する事が、言論において要請される責任である。
平成十七年六月十二日
あと、一度「ブログ」を潰して、すぐさま「帰ってきた」を作つたストーカーに、サイトを閉鎖するとか言いながら、未だに続けてるし。なんて言へたものではないと思ひますが。
446 名前:noz_watcher ◆9v8sr52ffc :2005/04/18(月) 09:42:27

ノズラー観察をやめるつもりだったけど、あっさりと前言撤回。

今後も引き続きノズラー観察を続行。野嵜サンにはもっと不快な思いをして頂く。

ちなみにブログの再開の予定は今の所なし。


あと、「ノズラー観察同好会資材係」を改め今後はnoz_watcherとコテハンを改めます。

平成十七年六月十二日
掲示板や「ブログ」の中のみならず、世間の議論では論證拔きの結論のぶつけ合ひが屡々起る。そして、その「議論」と云ふ(徳保氏の言ふ)「場」における「輿論」が、その「議論」と云ふ「場」における「風潮」となる。そして、その「風潮」が、その掲示板や「ブログ」の總體としての主張となる。が、その時の「輿論」を形成する「多數」が、數人から數十人、數百人、或いは數千人のレヴェルでしかない事は、注意する必要がある。その程度の人間は、世間の少數派であつても集められる。或掲示板、或「ブログ」において「多數」の意見であつても、世間的に見れば「多數」でない、と云ふ事は、あり得る事である。そして、2ちゃんねるの(徳保氏の所謂)「祭」ですらも、參加者が數萬人に達する事は滅多にない。掲示板や「ブログ」の「多數意見」「風潮」が即「世間」における「輿論」とはならない。そして、「世間」における「輿論」が即眞實である訣でもないのだから、掲示板や「ブログ」の「多數意見」「風潮」が即眞實と極附ける事も出來ない。そこで論證が必要となるのだが、多數で押寄せる「祭」で、さうした論證は決して行はれないし、そもそも氛圍氣として論證を行ふ事が許されないし、假になされても全體の氛圍氣の中で流されてしまふ。「祭」は感情的なものだ。「祭」で出現する掲示板なり「ブログ」なりの「多數意見」「風潮」が、たまたま眞實と合致する事があつても、それは必然的な合致ではない。さうなると、「正しい事」を追究する爲には、敢て「祭」の發生し得る條件を作る必要は「ない」のであり、また、さう云ふ「祭」の契機を孕む掲示板や「ブログ」を意見の主な發表の場とするのは「戰術的に無效」である。眞實の追究を目的とするのが惡い筈はない。眞實の追究を否定するのは、政治的な「正しい目的」を押附けるのが目的であると看做されても仕方がない。
慥かに、社會的な共同體の中で定められた「政治的に正しい事」は「ある」。けれども、政治で定め得ない眞實もある。さうした眞實を追求する爲に現在の民主主義なり自由主義なりでは言論の自由が認められてゐる。さうした眞實の存在を認めず、「政治的に定められた正義」を強要する爲に、共産主義では言論の自由が認められない。我が日本國は、現在のところ、民主主義・自由主義の立場をとつてゐる。その日本國では、言論の自由が認められてゐる。日本國では、言論を通して、眞實を追究する事が認められてゐる。ならば、日本國における言論においては、眞實を追求する爲に、より良い方法が擇ばれるべきである。日本國における議論では、結論だけを言ひ合ふ不毛な言ひ爭ひがなされるべきではなく、結論に至るまでの過程としての論證を含んだ言論のやりとりが必要である。
意見が簡單に入交じり、感情的な發言が容易に書込まれ、また、世間的には一般的でない意見が内部的に「風潮」と化したりその「場」における「意見」として支配的になつたりする、掲示板や「ブログ」の形式は不適當である。
平成十七年六月十二日
さて、ストーカーは、これらの野嵜の意見を、正確に讀取り、誤讀や曲解拔きで解釋する事は出來ないだらうし、「不快にしてやる」と云ふ目的がある限り公正な目で讀む事も出來ないだらう。そして、自分には不都合な指摘には目を瞑るだらう。2ちゃんねるの「自分のスレ」では、アンチ野嵜の御仲間が、同じアンチだからと言つてストーカーにおべつかを使つて呉れて、一緒になつて野嵜を罵つて呉れる。馴れ合ひの世界である。馴れ合はない奴は「ノズラー」呼ばはりすれば良い。氣樂にストーカーは野嵜叩きを續けるだらう。野嵜の豫言は良く當る。
ストーカーの所爲でさつぱりサイトの再構成が進まない。
平成十七年六月十二日
/猫跨ぎその1
平成十七年六月十二日
取敢ず正字正かなQ&Aだけ再構成してディレクトリを分けた。追加の質疑應答募集。
平成十七年六月十二日
Amazon.co.jp: 本: 「噂の真相」イズム―反権力スキャンダリズムの思想と行動
いかに「言論の自由」を希求して闘い抜いたのか。は結構な話だ。しかし、實際に岡留氏らの希求した「言論の自由」は、「体制派」への嫌がらせの手段としての「言論」の自由だつたのではないか。「噂の真相」のやり口は餘りに惡どかつた。その爲に、「噂の真相」は、一部のスキャンダル大好き人間から禮讚された一方で、多くの人から反撥された。「噂の真相」が反體制派の評價を下げてしまつた側面がある事は否定出來まい。そして、「噂の真相」のやうに「惡どい」と云ふイメージが附いてしまつた反體制運動に反撥して、多くの人が小林よしのりや西部邁、西尾幹二の保守的な言論の支持にまはり、「つくる會」その他の保守勢力が伸張し、ソフトファシズムが着々と進行する日本の惨状が出來してしまつた、と言ふ事が出來る。「噂の真相」は、イメージ戰略で大失敗をやらかし、政治運動として失敗に終つたのである。
――と言ふか、ウワシン反骨魂は健在なり!つて、精神主義以外の何物でもないと思ふ。精神主義は、彼等「ウワシン」が毛嫌ひするところの國粹主義の大日本帝國を支配した代物で、或意味日本的な代物だが、「ウワシン」もまたその日本的な餘りに日本的な精神主義から逃れられないのではないか。彼等は、論理的に正しい事、眞實には何の興味もなかつた。ただ單に、感情的に反體制であつただけであつた。だからこそ、感情的なアジテーションを專ら「武器」としたのであらう。彼等のやり口は、ただ單に、氣に入らない相手を「不快にする」と云ふものであつた。だからこそ、反動を招いたのである。そして、彼等は餘りにも政治的であるにもかかはらず、さうした政治的な失敗を悟らない。不思議な話である。
平成十七年六月十二日
猫跨ぎその2
平成十七年六月十二日
帰ってきたノズラー観察同好会報 - よくもまぁ…
野嵜が批判したら、ストーカーが即日、噛附いて來た。

誤解していたようで申し訳ない。が、誤解したのは私に読解力がないからでなく、シュークリーム男氏に文章力がないからである。

例によつて責任轉嫁である。そして、例によつて論證は全く無い。少しは論證する努力をすれば説得力も増すだらうにと思ふのだが、論證したら自分が誤つてゐる事を認めざるを得なくなるので、ストーカーは態と論證を避けてゐる。もちろん、今後も言を左右して、ストーカーは論證を避け續けるであらう――野嵜の豫言は當る。
それにしてもストーカーの文章、腹黒日記(仮名)だのシュークリーム男だのと、惡口ばつかりですねえ。最初に結論があるから、かう云ふレッテル貼りが出來るのです。そして、その結論に繋がるやうにストーカーは「論理」を組立ててゐます。論證してから結論を出すのでなく、結論の爲に論理のやうな物をでつち上げてゐるのです。かう云ふ「論法」に騙される人が多いやうですが、「自分に都合の良い結論」を最初に用意してゐる人物に騙されてはいけません。

ただ、その「風潮」が時には真実を捉えているということも有り得るのである。

「良い事もある」では「惡い事もある」を全否定出來ない、と云ふ事が、ストーカーには相變らず解つてゐない。

が、これらの人たちはシュークリーム男氏ほどには悪く言われず、時には評価されさえもする。

木村氏を帰ってきたノズラー観察同好会報 - 目くそ鼻くそを笑うでぶつ叩いたストーカーがこんな事を言ふのである。まあ、確かにそれはその通りだとして。しかし、ならば、かうも言へるのである。某スレでは野嵜の事も時には評価されさえもする。ところが、ストーカーはそれを認めない。帰ってきたノズラー観察同好会報 - 信念あってもやっぱり智慧はなしを見れば解る通り、野嵜擁護の意見が書込まれてゐる事をストーカーは知つてゐる。にもかかはらずストーカーはすつとぼけるのである。

一方、シュークリーム男氏は評価されることなく叩かれるだけ。

ストーカーの言つてゐる事は嘘である。ならば、ストーカーは、自分の論法を自分で否定してゐるのである。

2ちゃんねるの「風潮」は、木村・森両氏とシュークリーム男氏をきっちりと峻別しているのである。

嘘も好い加減にして貰ひたい物ですね。ストーカーは數行前で自分が何と言つたかも忘れてゐる。敢て、もう一度引用する。

が、これらの人たちはシュークリーム男氏ほどには悪く言われず、時には評価されさえもする。

「これらの人たち」は、木村貴氏や、シュークリーム男氏と比較的近い立場にいる「モリリン」こと森英樹氏の事だが、シュークリーム男氏ほどには悪く言われないが、やはり「惡く言はれてゐる」のである。時には評価されさえもするが、時には惡く言はれさへもするのである。ならば、2ちゃんねらーの諸氏が全員、木村・森両氏とシュークリーム男氏をきっちりと峻別している、等と云ふ事は、言へたものではない。これらの事は、ストーカー自身の文章が證明してゐるのだから仕方がない。ストーカーには、自分の文章を自分で正しく理解する讀解力もないやうだ。

シュークリーム男氏は「風潮」批判などをする前に、何故そういう「風潮」が生み出されるのかを真摯に考えてみるがよい。

今の議論の文脈における2ちゃんねるの「スレ」とは、ストーカーnoz_watcherが立てた「ノズラースレ」の事だ。さう云ふ文脈を踏まへて考へれば、何故そういう「風潮」が生み出されるのか、と云ふ問ひの答へは簡單に出よう。即ち、ストーカーnoz_watcherが生んでゐるのである。實際、noz_watcherとその御仲間が、野嵜擁護の發言が出る度に「ノズラー」「ノズラー」と極附けて「不快にさせる」例の戰術をとつたのは事實である。さうして生み出された「スレの風潮」は、しかし所詮、「スレの中だけの風潮」でしかない。世間の風潮とは全然關係がない代物である。noz_watcherは、さう云ふ「スレの中だけの風潮」を根據に、恰も全世界の人間が野嵜を嫌つてゐるかのやうな「風潮」があると話を摩り替へて宣傳してゐるのだが、さう云ふ宣傳の危ふさを野嵜は指摘した。noz_watcherは、真摯に考えてみるがよい等と偉さうな口調で他人に居丈高に命令する前に、自分が真摯に考えてみるがよいのである。noz_watcherは、本當に、自分の事を棚に上げて他人を罵るのが好きな人間だ。

てか、今迄さんざん「悪い風潮」を蔓延させる掲示板サービスを利用しておいて、自分に都合が悪くなった途端、掲示板サービスを批判しだすのは些か虫が良すぎるのではないだろうか?

自分に都合の惡い掲示板の發言を無視しつゝ、自分に都合の良い掲示板の側面だけを大袈裟に書き立てて、自分に都合の良い「風潮」が出來上がつてゐると極附けて、真摯に考えてみるがよい等と言つて説教するnoz_watcherの方こそ蟲が良いと云ふものだらう。それに、實際に利用して見て、「良くなかつた」と解つたら、さう書いて、何が惡いのだらう。「どこそこのサーヴィスを利用して見たが良くなかつた」と感想を述べた人を、利用しておいて後から文句を言ふのは些か虫が良すぎるのではないだろうか?等と貶すのは、如何にも「しつたか」な感じで、嫌みつたらしいものだ。それに、かうも言へるだらう。
てか、今迄さんざん野嵜の發言を讀んでおいて、気に入らなくなつた途端、野嵜を誹謗しだすのは些か虫が良すぎるのではないだらうか?
noz_watcherは、野嵜の事を嫌だと思つたのなら、最初から野嵜の發言を讀まなければ良かつただらう。わざわざ五年も執拗にストーキングする必要もあるまいに。

シュークリーム男氏がお好きな「知的誠實」とやらを求めるならば、自分が今迄掲示板サービスで行った所業を反省し、自分の掲示板をさっさと閉鎖すべきであると思うのだが。

掲示板サーヴィスでの私の行動に、何一つ疾しい處はない。俺は馬鹿だから、疾しい處も無いのに反省して見せる、等と言つた御利巧な僞善者ぶつた行動は出來ない。それに、例によつてストーカーは勘違ひをして「知的誠實」を要求してゐる。ストーカーは「野嵜は掲示板サーヴィスで少しでも活動する事は良くないと言つてゐる」と思ひ込んでゐる。ところが、野嵜は「掲示板サーヴィスだけで活動するのは良くない」と言つてゐるのである。ストーカーは、誤解したのは私に読解力がないからでなくと云ふ辯明にもかかはらず、やつぱり讀解力がないのである。
と言ふか、確かにシュークリーム男氏の言うように、掲示板やブログが「風潮」に蔓延されやすいのは確かではある。と言つてゐるので、野嵜の言つてゐる事は正しいのであるし、それはストーカー自身、認めてゐるのである。しかし、その正しい事をいかにも正しくないやうに見せかける爲に、ストーカーnoz_watcherは駄辯を弄してゐる。ストーカーの言つてゐる事が詭辯であるのは、火を見るよりも明かだ。そしてストーカーは、今のこの野嵜の發言を捉へて、「野嵜は自分に都合の良い部分しか見ない」と言ふだらう。しかし、それこそストーカー自身が自分に都合の良い部分しか見ない事の證據になる。
平成十七年六月十一日
帰ってきたノズラー観察同好会報 - 大人がアニメを観るということ
ストーカーは、自分の利用してゐる2ちゃんねるにアニメやパチンコの板があり、自分の利用してゐるはてなダイアリーにアニメやパチンコをネタにしてゐるユーザがゐる事を問題にすべきであらう。そもそもインターネット云々。
一往言つておくけれども、野嵜は別に「天下国家」の事を本氣になつて論じてゐる訣ではない。
「正字正仮名の正統性」を論ずるのにアニメの事を論じてはならないと云ふ必然的な理由は何一つない。noz_watcherの言ふいい歳した大の大人がアニメを観るということ(しかも美少女系アニメ!)は本来恥ずかしいことだという道徳なんてものも存在しない。もし「ある」にしても、「同じ2ちゃんねらー」や「同じはてなダイアリーのユーザ」を全然氣にせず、ひたすら野嵜だけを「アニメオタク」と言つて非難してゐるのだから、ストーカーnoz_watcherの主張は爲にするものである事が餘りにも明かである。そもそも、此處は「道徳」ではなく「徳目」と言はねばならないし、徳目は所詮徳目に過ぎないのだが、野嵜の文章や松原氏の文章を良く讀んでゐる筈のストーカーはその邊の用語の區別を出來ない。批判對象について良く知らないでストーカーは惡口を言つてゐるのではないか、と云ふ推測は、當つてゐさうである。閑話休題。

ノズラーのダメな所は、「天下国家や正字正仮名の正統性を論じる自分」と「アニメを嗜好する自分」を両立させようとする点にある。

意味が全然解らない。なぜ「ダメ」なのか。「アニメは子供つぽいから」とnoz_watcherは言ふだけである。「子供つぽい」となぜ「ダメ」なのかを、noz_watcherは説明しない。もちろん、説明出來ないからで、説明出來ないのならばそんなのはnoz_watcherの單なる偏見に過ぎない。
野嵜は、政治の文藝に對する優越を認めず、文藝と政治とが對當である事を信ずる。アニメは文藝ジャンルの一部に含まれる。
また、現在に於いては單純に「アニメは子供のもの」と言ふ事が出來ない。若しさうだとしても、實際の視聽者として成人男性なり女性なりをターゲットとしてゐるものがある以上、それらには一定以上のレヴェルのものとなつて貰はなければ困る。だからアニメを批評の對象とするのは決して間違つてゐない。
もちろん、「いい歳した大の大人がアニメを観るな」とは、さう考へるのは自由だが、それも一種の「趣味や嗜好」であり、他の「趣味や嗜好」を否定すべき決定的な理由とはならない。noz_watcherは、決定的でない理由で屡々人を決定的に「ダメ」と極附ける傾向がある。
ついでだが、例の某高橋氏等は、エロゲをも批評の對象とすべきだ、と主張したくらゐだ。
ところで、「おほつぴらに道徳的な説教をする事ほど恥かしい事はない」と野嵜は思つてゐる。
平成十七年六月十二日
帰ってきたノズラー観察同好会報 - 信奉するだけがファンじゃないだろ

初手から批判・非難する目的で、松原氏の文章を読もうとする輩は確かに小賢しいと私も思う。

なら野嵜の文章を讀むなよ。

しかし虚心に松原氏の文章を読み、違和感を持つことがどうして悪いのだろうか?

虚心か何うか、誰に解るんだよ。

どんな優れた知識人であれ、その言説を100%支持できる事など不可能である。

だからと言つて、無理やり違和感を抱かうとするのも間違ひだらう。それに、「大筋で認める」と云ふ事はあり得る。

心に抱いた違和感を無理矢理圧殺すること(信奉)も、違和感に振り回されアンチへ転化することも愚かであると思う。それは結局、考える自分というものが無い、ということである。

アンチノズラーのストーカー、自分の事が良く解つてゐるぢやないか。いや、解つてゐないのか。

松原正に間違いはない?

松原正に違和感を持つ奴は馬鹿?

アンチ松原に間違ひはない?
アンチ松原に違和感を持つ奴は馬鹿?
詰らない揚げ足取りみたいだが、ストーカーの論法をストーカー自身の言説に當嵌めて見たに過ぎない。そして、かう云ふ事をやると、ストーカーの言説の怪しさはすぐに浮き彫りになる。ストーカーが、反論を豫測せず――と言ふより、反論には「ノズラー」のレッテルを貼ればいいや、と安易に考へ、安心し切つて――、隙だらけの駄文を書いてゐるからである。
平成十七年六月十二日
帰ってきたノズラー観察同好会報
2ちゃんねるの ことばつかふも さるはさる。
noz_watcherの「ブログ」、一往よんだけど、自分のこと棚に上げてよく偉さうなこと書けるなぁと感心した。
と言ふか、どうしてこのストーカーは俺に附き纏ふのだらう。他の誰でもなく俺を擇んだ、と云ふ理由が知りたい。
平成十七年六月十二日
ところで、ストーカー御得意の論法で行けば「どんな優れた人格の持主であれ、100%の人間から好まれる事など不可能である」云々。
平成十七年六月十二日
/猫跨ぎその2
平成十七年六月十二日
……。
福田逸の備忘録―独断と偏見 2005年 05月 28日 A級戦犯は永久戦犯!?
福田逸の備忘録―独断と偏見 2005年 06月 04日 再説、靖国と小泉
福田逸の備忘録―独断と偏見 2005年 06月 07日 読売、お前もか!
その程度のものと考へやう。の「考へやう」ですが、正しくは「考へよう」です。
平成十七年六月十二日
「ハード路線」には「傲慢」、「ソフト路線」には「幼稚」の罵聲。
「讀まないで批評」しても「見て批評」しても「馬鹿」と言はれる。
あなたの考へる「理想の人間」は、この世に存在し得るのですか? あなたの「理想」を私に押し附けないで下さいよ。

平成十七年六月十一日
塚本邦雄氏死去。
Google 検索: 塚本邦雄
平成十七年六月十一日
政教分離が原則の筈の西歐諸國にキリスト教の政黨が平氣で存在するのは何故なのだらう。
アメリカの議會で宣誓をする時に聖書に手を置くのはどうして政教分離の原則に牴觸しないのだらう。
日本人は政教分離と云ふ事に聊か神經質になつてゐるのではないか。日本人には昔、寛容の精神と云ふものがあつた、と聞いてゐる。今の日本人は宗教に對して可なり不寛容であるやうに思はれる。
平成十七年六月十一日
日本では立派な大宗教が傳統として定着して來なかつたが、その所爲で日本人は、宗教の持つ魅力と危險とについて、正當な理解を缺くやうになつてしまつたのではないか。宗教を簡單に信ずるのも、宗教を毛嫌ひするのも、宗教に不慣れである爲に反應が極端になつてしまつてゐるのだらう。
平成十七年六月十一日
良い宗教家ならば、政治的には「憎むべき敵」であつても、人として「愛する」ものだらうし、死者ならば「悼む」ものだらう。
そして、「人の死を悼む」と言つた精神は、宗教的な精神として、宗教家でない普通の人も持つべきである。
「A級戰犯」であつても、死者であるのだから、宗教家ならばその「死を悼む」「死後の冥福を祈る」と云ふ事はあり得るし、あるべきである。
それは、宗教家のみならず、一般の人も――政治家であつても――あり得るし、あるべきである。
平成十七年六月十一日
宗教に口を出す政治主義者は後を絶たないやうで……。云々。
政治の領域の事に宗教が口出しするのを徹底的に否定する人が、「政治には宗教の領域の事に口出しをする權利がある」と思ひ込んでゐる事がある。何かをかしいと思ふのだが、如何だらうか。「政教分離」は「宗教に對する政治の優越」を意味するのではない筈だ。
平成十七年六月十一日
ちなみに俺は清澤冽の『暗黒日記』の讀者だから、東條元首相を有能な指導者だつたとは全然思はない。しかし、彼は死んだ人である。死んだ人に鞭打つやうな眞似をしろと政治的理由で宗教法人である靖國神社に命令するのは、政治の「越權行爲」である。「政教分離」の原則を冒すものであるとすら言つて良い。
平成十七年六月十一日
「政教分離」が「無宗教の強要」を意味してしまつてゐる現状はをかしい。「政治家になるには宗教を捨てなければならない」みたいな風潮が出來上がりつゝある。
平成十七年六月十一日
「A級戰犯」は多數の國民を死傷せしめた「戰爭の責任者」として非難の對象とされてゐるが、さうでない英靈も人殺しの場である戰爭に參加したのであり、「戰爭の責任者」である點で變りがない。が、そもそもそんな「人殺しの場としての戰爭」において「人を殺した責任と云ふ意味での戰爭責任」なんてものが成立するのか何うかは疑問である。「一人しか殺さなければ只の人殺し。何千人だか何萬人だかを殺せば英雄」式の單純化した言ひ方があるけれども、同一の價値觀に基いて全ての殺人行爲を等し並みに扱ひ、「矛盾」を指摘するのは、考へ方として誤つてゐる。
個人による身近な個人に對する殺人について道徳的に罪を問ふ事と、國民とか敵兵とかの(言はば)觀念的な存在を殺した事について政治的に責任を問ふ事とは、嚴密に區別されねばなるまい。
私は、「A級戰犯」の合祀問題に關して、「政治的な責任を追求する事」と「死者に對する禮」とは、嚴密に區別して考へるべきだ、と主張してゐるに過ぎない。政治的な理由で死者に對する禮を缺かすべきだと言つて、死者を侮辱し冒涜してゐる勢力に對して、私は「A級戰犯」を擁護してゐるのである。
私は他人を誹謗・中傷するのを好まない。逆に、故なく嫌はれてゐる人や、故なく受容れられてゐない道理を、「こんな理由があつて好ましい」とか「こんな理由があつて正しい」とか言つて辯護・擁護するのは嫌ひでない。
平成十七年六月十一日
『本居宣長全集 第五卷』月報20所收の森銑三「宣長先生小觀」より。

まだ紙面の餘裕がある。「玉勝間」の中の短い一二章を、附載して置いて見ることとしよう。

吾にしたがひて物まなばむともがらも、わが後に、又よきかむかへのいできたらむには、かならずわが説にななづみそ、わがあしきゆゑをいひて、よき考へをひろめよ、すべておのが人ををしふるは、道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも、道をあきらかにせむぞ、吾を用ふるには有ける、道を思はで、いたづらにわれをたふとまんは、わが心にあらざるぞかし、

  • 二の巻[一〇七]

宣長先生の學問は、學問のための學問であつた。自分に箔を附けて、衆に誇示するための學問ではなかつたのである。


平成十七年六月十日
新興展で唐木順三編『深瀬基寛集』全二卷を買つたよ。箱缺。線引きあり。三千圓。新字新かな。
平成十七年六月十日
古書即売展一覧 2005年後半分(gif:142kb)
平成十七年六月十日
考えるための断想集
平成十七年六月十日
Amazon.co.jp: 谷沢永一さんに 【国賊】 と呼ばれた12人
平成十七年六月十日
マルチ哲学者 今本 秀爾のページ
カール・ヤスパースのホームページ
リベラル啓蒙宣言!
平成十七年六月十日
こちらアカショウビン: 歴史的仮名遣い
平成十七年六月十日
文学・思想懇話会
平成十七年六月十日
人格攻撃の目的は、相手に辯明させる事にある。

平成十七年六月九日
黒澤公人の図書館システムを考える
平成十七年六月九日
さう言へば『菊と刀』が講談社学術文庫で復刊されてゐる。
平成十七年六月九日
Doblog - K−SOHYA POEM BLOG - 2004/08/25のBlog「新かなづかい・旧かなづかい──木村草弥■TB:日本語倶楽部:■」
平成十七年六月九日
2000年2月日記
平成十七年六月九日
漢字文化アーカイブ
平成十七年六月九日
山下芳太郎『国字改良論』
カナモジカイ創立者ヤマシタ ヨシタローの文章。隨分難しい言囘しで書いてゐる。旧字体の漢字は新字体に改めた。かなづかいは「現代仮名遣い」に改めた。特殊な字体は通常の字体で示し、〔 〕内に説明を加えた。カナモジ派の中の人も大變だ。
平成十七年六月九日
華流にかぶれたクライマーの日記「漢字の話」(2005-06-01 17:21)
平成十七年六月九日
Amazon.co.jp: 本: キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』
立讀みしたよ。讀み易い事は讀み易いけれども、可なり出たら目な譯だつたやうな氣が――と言ふか、だから「超譯」なのか。そのうちBOOK OFFか何處かに出たら買ふ。
Nietzsche : The Antichrist(電子テキスト・英語版)
平成十七年六月九日
青年のための俳句学校「仮名遣ひについて」
平成十七年六月九日
矢口書店 トップ
先月の二十一日に車が店内に飛び込んできて以來休業中だつた映畫や演劇關係が專門の古本屋さん。表を取敢ず板で塞いで、中でひつそり修繕や整理をしてゐたけれども、八日にはガラス屋さんがやつて來て何かやつてゐた模樣。そろそろ復活か。營業再開したら報告したい。
平成十七年六月九日
アニメ「R.O.D」の舞台・神田神保町を歩く
奥野・佐藤の建物が取り壞されて長屋が分斷されたり、三光堂がゲームショップになつたり、最近、神保町は激變してゐます。神保町交叉點の角の第一勧銀もなくなつた。
平成十七年六月九日
靑木逸平著『旧字力、旧仮名力』買つて來たよ。いろいろ突込みどころはあるけれども、説明そのものは惡いものでもない。筆者は「現代仮名遣」を用ゐて「旧仮名遣い」について一體何が書きたかつたのであらう、とか皮肉を言つて見る。と言ふか福田さんの眞似をして見る。説明が不正字不正假名遣ひなのは仕方がないとして、「あとがき」くらゐは正字正假名で書いても良かつたのではないか。PCにおける正字正かな入力について無知なのは確かに筆者の調査不足。ぐぐれば一發。ただ、さらに編緝、印刷の現場で旧字旧仮名を扱える人間が激減してしまったという問題もあります。と云ふ邊の指摘はその通り。昔なら手書き、それも筆写体の略字で旧字旧仮名の指定さえすれば、きれいに組み上がってきたものですが、と云ふのは、「『正假名遣で』と指定しつゝ表音的な假名遣で書く」みたいな變な物書きはゐなかつたから半分間違ひだが、現在では書き手が一字一句注意を払わなければ満足いくかたちには仕上がりません。と云ふのは本當。
http://www.hiemalis.org/~acy/diary/1706.html#H17-6-8-purchase
高崎さんの『平成疑問假名遣』でもさうなのだけれども、「マニア」の人は何うしても漢字と字音假名遣にばつかり目が行くやうで、歴史的假名遣の基本原則に關しては「問題ナシ!」としてしれつと流してしまふ傾向があるやうに思はれる。靑木氏も、というわけで、字音仮名遣いは使わなくてもよいのではないか、と筆者も思わないでもない。と書きながら、ところが、旧仮名遣いの書籍の編緝では悩ましいことになる。と言つて、「マニア」の領分に一般人を引きずり込まうとする。一般人は書籍を編緝しない。
漢字と字音假名遣に關しては「マニア」がゐてきちんとやつて呉れてゐる。だから野嵜はそれらを扱はないで任せる積りなのだが、さう言ふと「何で扱はないんだよ」と怒られるし、さう云ふ比較的面倒な事は普及の爲には後囘しにすべきだと考へるのだが、さう言ふと「いえいえ、字音假名遣は簡單なのですよ」と宥めすかされる。
しかしながら、さうやつて枝葉末節の事ばかり一生懸命論つてゐると、肝腎の基本原則における論理性の印象が極めて薄いものとなる。そして、結果として、現在、正假名遣の基本原則を懇切叮嚀に論じた文獻が全然ない、と云ふ困つた状況になつてゐる。
そんな訣で、『旧字力、旧仮名力』を「反面教師」とし、うちのコンテンツを再編する事にした。「反面教師」にするのならば、ただ非難する許りでは駄目で、「教師」を越えた成果をちやんと擧げなければならない。週末邊に作業する積り。
平成十七年六月九日
岩本真一 ウェブサイト
平成十七年六月九日
ためしに貼つて見る。
Download Opera
平成十七年六月九日
耕作放棄地放牧マニュアル
福島県県中農林事務所田村農業普及所のホームページ
畜産システム研究会
平成十七年六月九日
北方領土問題対策協会ホームページ
平成十七年六月九日
新しいインデックスページ
メキシコ発見!!
平成十七年六月九日
北海道野鳥愛護会
平成十七年六月九日
たびたび
登山・花・山野草・犬連れ登山・写真・エッセイ

平成十七年六月八日
〜非MD同盟のページ〜
日本DCC保存会本部
平成十七年六月八日
ATMEL AVRだ
ようこそNR(ノイズリダクション)小僧の部屋へ!!
平成十七年六月八日
アナログ音源再生計画
平成十七年六月八日
オープンリールの部屋
オープンリール 修理専門
平成十七年六月八日
Classic Cafe
覚書き
平成十七年六月八日
黒澤明 東宝DVD オフィシャルホームページ
平成十七年六月八日
気分はぷわぷわ
MD。
平成十七年六月八日
日航ジャンボ機墜落事故 ボイスレコーダー音声
平成十七年六月八日
誰か昭和を想わざる
平成十七年六月八日
買物。昨日。小宮山書店。井筒俊彦『コーランを読む』(岩波セミナーブックス1)。アルフレート・ウェーバー『文化社会学』(創文社)。アインシュタイン『晩年に想う』(講談社文庫)。今日。ジュンク堂新宿店。コールリッヂ『シェイクスピア論』(岩波文庫)。
平成十七年六月八日
コールリッヂ『シェイクスピア論』(岩波文庫)

私の講演の綱要を見た方は、私が世の誤れる批評、殊に詩歌に關し、勿論それだけに限る譯ではないが、特に詩歌に關する世の誤れる批評の諸原因に就いて、多少述べる所があることを豫期してをられると思ふ。それには、先づ、正當な判斷の構成を妨げ、また恐らくそれを拒むやうな障害物を指摘することが必要である。それは次の何れかであらう。

  1. 偶發的原因、即ち我々の住む時代の特殊な事情から起るもの。或は、
  2. 永久的原因、即ち我々の人間性に就いての一般的原理に由來するもの。

第一の項目として擧げた偶發的原因は、又次のやうに分類することが出來る。第一は、單にその事件が重大な事件であるといふことのために、或る一つの讀者の世界が出來てしまふ現時代の或る出來事。第二は、すぐその場で、一目みて、理解されようとする希望を著しく助長する通俗講演の仕方。第三は、評論、雜誌、新聞、小説等の流行である。

此の最後に舉げた問題、そしてかういつたものを耽讀することに就いては、私は敢て斷言するが、一つの習慣として、そのやうなものを讀み耽けることが流行する所には、やがて精神力の完全な破壞が來る結果となる。さういつたものを讀むことは讀者にとつては、娯樂といふよりは、寧ろ時間の勞費と言はれる程の、純然たる損失である。それは事實に關する信頼すべき何らの消息をも傳へるものではない。又何らの知的進歩をも齎さないのみか、却つて一層高貴な理解力を養成し、鼓舞し、又擴大する爲の直接の妨げとなる忌はしい病的な感受性を以て讀者の心を滿たすものである。

評論は概して有害なものである。何故なれば、評論家は何ら確固たる原理に基くことなくして、とやかくの斷定を下し、評論は常に人身攻撃に充ちてゐるからである。就中、評論は人々に考へることよりは、斷定することを教へるからである。かくて評論は、皮相淺薄に流れる事を奬勵し、且つ思慮なく、無能な連中をして、權威ある吾々といふ包括的な意見を述べることを勸め、人々をして各人銘々の心を働かせ、その結果として、各人銘々の心を開明し、よつて以て銘々の獨創的な意見をまとめ上げるやうなことのないやうにする。古代に於ては、作家は殆ど天使と人間との間に介在する兩者の媒介者として尊敬されたが、後には畏敬すべき、そして恐らくは、靈感を受けた教師と看做された。そして次には、單に人を教へ導く博學多識の有益な友人としての標準にまで引き下されてしまつたのである。然るに現代の作家は、恩恵を與へる人どころか、寧ろ罪人扱ひされてゐる有樣である。彼等は、批評家が勝手に設けて自ら得々としてゐる法廷に、罪人として引き出される。今日若し誰かが新刊書を讀んでゐる所を見たとすれば、その時に問ふ最も普通の質問は、『そこにどんな詰らないことが書いてあるか』といふことである。かくまで作家の評價に相違を來すやうになつたことに對しては、相當の理由はある。といふのは、今日の世の中は、人が若し裁縫師や靴屋として失敗しても、讀んだり正しく綴る(何故なれば、綴字は尚幾分重要性を帶びてゐるから)ことさへ出來れば、作家になれる世の中だからである。

現代の文藝批評の甚だしい罪惡は、それがあまりにも個人的感情にみたされ過ぎてゐるといふことである。若し作家が何かの誤りを犯すならば、その誤りを眞理のために正さうとするのではなく、寧ろ凱歌をあげんがため、即ち評論家は、作家より如何に賢明であり、如何に有能の人物であるかを示す意味に於ての、凱歌を奏でんがために作家の誤りを正さうとするのである。評論家といふものは、概して出來得べくんば詩人や歴史家や傳記作者等々にならうとして、その才能をその何れかに於て試み、而も失敗した結果として、此處に批評家に身を轉じた連中である。從つて彼等はロオマ皇帝ネロと同じやうに、明かに自分の失敗した特殊な領域に於て、自分を凌駕する者を最も憎む。現代は人身攻撃と政治的ゴシップの時代である。このやうな時代には、古代エヂプトに於てさうであつたやうに、蜂はその針の持つ毒液の多寡に從つて尊ばれ、また詩、特に諷刺詩(satire)は、その中に含んでゐる現存する名士の數の多寡に從つて評價される。そして註釋の方が一般に本文より詩的でもあり、又キビキビして幾分優つてゐる。此のやうな批評の樣式は、今の所スコットランドの衒学的法廷の主柱の一つである。それで、詩に就いてのこのやうな人身攻撃に關する問題として思ひ出されるのは、百人あまりの現存する人物の名を含んでゐるといふ理由で廣告され、又ひどく推奬された或る敍事詩を、私は曾て見たことがあるといふことである。

斯くの如き傾向は眞に優れた詩に對し、如何にその品格を傷つけ、如何にその榮譽を毀損するものであるかは、此處に言ふまでもないことであらう。或る賢明な作家が、人間と動物との間よりも、人間と人間との間に、一層大きい相違があると曾て言つたことがあるが、私は人間の中で自分自身が詩歌の美を感じ得ないで、しかも他人を自分自身の標準にまで引き下げようとする人間程低級な人を考へることは出來ない。フッカアが法則に對して雄辯に主張してゐることを、私は詩に就いて言はう。即ち「彼の女の(詩歌の)御座は神の御胸であり、詩歌より受ける彼の女の聲は宇宙の調和である。天地の萬物ものみな凡て彼の女を賞め讚へる。」詩歌は天上の言語であり、そのいみじくも美はしい喜びの中に、吾々は言はば天上の喜びの性質や、その豫想や、或は豫言を掬み取るのである。

ところで、このコールリッジのシェイクスピア論は、その後の文芸批評の理論と方法に大きな影響を与えたのださうである。もちろん、我々日本人とは關係がない、海の向うの話である。インターネットも、かう云ふ領域では、彼我の距離を縮めたりして呉れない。ウェブには「ゴシップは惡い事ではない」等と公言する日本人がゐる。
平成十七年六月八日
ジュンク堂新宿店は、確かに廣かつた。八階の思想書の邊の棚が特に面白い。しかし、狹くとも、神保町の小宮山書店の棚を眺めてゐる方が樂しかつたりする。ジュンク堂竝の廣さがあつて棚が全部古本、と云ふ店があつたら嬉しい。安くて良い本許りが並んでゐれば猶良し。
平成十七年六月八日
渋谷飛鳥が声優に初挑戦 - nikkansports.com > 芸能ニュース
タイムボカン新作(?)の制作が發表されてゐる。鴉は何うでも良い。
平成十七年六月八日
BOOK CLIP書籍新刊情報・最新
平成十七年六月八日
語LOG:吾、旧字ヲ支持ス
女の子の一人暮らし:秋の夜長…
平成十七年六月八日
Google 検索: 俳人さんへの100の質問
平成十七年六月八日
平成7年第4回船橋市議会定例会会議録(第6号・4)
木村久子君の發言。志賀邦一君の答弁。質問は非道いものだが、答辯もそんなに良くない。
平成十七年六月八日
日本語 (Japanese)
平成十七年六月八日
『計量計測データバンク』 日本計量新報社社説(02年5月〜8月)。「社説・技術発展と法令および社会制度の調和」(02年5月26日2446号)
平成十七年六月八日
高遠弘美の休み時間
平成十七年六月八日
Web Notes by YABE Masafumi
文字の使い方は誰が決めるのか?
平成十七年六月八日
kiyo
国語外国語化論の再考(PDF)
国語外国語化論の再考 HTMLバージョン
平成十七年六月八日
+Think | 200204

平成十七年六月七日
http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20050317#p2
今頃見附けたのだけれども。こめんと欄。kagamiさん。世界を無職透明に捉える(主客を分離する)というのは不可能だと私は思うんですが…。論旨と全然關係ナシに誤字で笑つた。みんながわたしを責める。
平成十七年六月七日
蚊に喰はれたよ。
平成十七年六月七日
以下、敢て「ブログ」叩き。正確には、「ウェブのブログサーヴィスを利用したブログ」叩き。
「ブログ」は特定の人間だけがスレッドを立てられる掲示板である。ウェブに複數存在する「ブログサーヴィス」は、その「スレ主」の匿名性を保證するサーヴィスである。「ブログサーヴィス」で運營される「ブログ」は、事實上、Yahoo!の掲示板と全く同一の性質を持つ。ただ、「ログが殘る」「ハンドル/IDで發言を追跡出來る」點だけが掲示板と異り、「ブログ的」であるに過ぎない。「はてなダイアリー」等で、Yahoo!掲示板や2ちゃんねるのスレのやうな質・内容の「ブログ」が存在するし、ひろゆきがスレを監視しないやうに「はてなダイアリー」の運營者もさう云ふ「ブログ」を管理しようとしない。
「ブログ」を作りたい、と希望する人は(風潮に流されて)多數ゐる。しかし、「ブログサーヴィス」を利用して「ブログを作る」事は、匿名の掲示板サーヴィスでスレを立てたりレスをしたりするのと何ら變らない。ただ、「ブログサーヴィス」を利用した「ブログ」オーナが「ブログ」全體の氛圍氣をコントロールする方が、匿名掲示板のスレッドの氛圍氣を「スレ主」がコントロールするよりも、より簡單であるだけである。
インタラクティヴなメディアは、個人の主張をするのには向かない。掲示板にしても「ブログ」にしても、作る主體は複數であり、個人ではないから、そこでは風潮が出來上るに過ぎない。そして、風潮は屡々惡いものであるし、惡い風調が出來しても責任者は不在である。個人の責任を主張したい人は、掲示板や「ブログサーヴィス」のみの利用は避けるべきである。逆に言へば、「ブログサーヴィス」や掲示板のみを利用して「言論活動」を行はうとするのは、それ自體として無責任である。
――もつとも、本質的に「自前のブログ」にも同樣の問題はあり得る。
平成十七年六月七日
判り切つた話を敢て書く。
インターネットの(或意味)致命的な問題は、リアルのユーザである人間と、ネットワークに接續されてゐる機器との間の必然的な關聯を、窮極的には證明出來ないシステムである事だ。
IPアドレスで接續もとは特定出來ても、接續した機器のユーザが誰であるかは決定的には特定出來ない。「とある家庭のPCから接續して來た」と云ふ事までは判るかも知れない。けれども、そのPCの使ひ手は、お父さんであるかも知れないし、子供であるかも知れない。泥棒さんかも知れない。アレクセイであるかも知れない。ホランドであるかも知れない。ナイルズであるかも知れない。楽古堂であるかも知れない。どの機器から接續されたかを特定する事はネットワークの技術で可能だが、接續された機器の使ひ手が誰であるかを特定する事はネットワークの技術のみでは可能でない。
インターネットでは、人間と人間が直接繋がるのでなく、PCや携帶電話のやうな機器とネットワークとを媒介に間接的に繋がる。それも、幾つかの段階を經て繋がる。この間接性が、匿名や成濟ましの問題を生じ、認證の技術を要求する。
もちろん、「そのユーザにしか知り得ない情報」(パスワードとか)に基いて、アクセスなり何なりを特定のユーザと結び附けようと技術的な努力がなされてゐる。けれども、それは敢て「自己を主張する」爲の方法に過ぎない。さう云ふ事をしないで「直にネットワークに繋がる」事もインターネットでは出來る。野嵜のPCをFankee_Jrが勝手に使ふ事もあり得る。そして、問題はさう云ふ事をするユーザに屡々ある。例へばの話、「野嵜の家からのアクセスによつて、どこぞの掲示板が荒された」とする。「野嵜の家には野嵜とFankee_Jrが住んでゐる」とする。この時、「野嵜が荒した」のか、「Fankee_Jrが掲示板を荒した」のかを特定する方法は、技術的には「ない」と言へる。「沖某の家からのアクセスによつて、掲示板が管理されてゐる」「管理者の助手のホランドが投稿者を罵倒し、ホランドの尻馬に乘つて管理者の園主もその投稿者を誹謗中傷する」云々と考へてもよろしい。いづれにしても、技術的には、飽くまで技術的には、「インターネットに於て個人の責任を云々する事は、窮極的にはナンセンスである」と言はざるを得ない。
無責任を助長したいのではなく、話は逆で、無責任な行動を謹むのは個人の心構へ次第である、と云ふ事。しかし、さう云ふインターネットで、責任ある行動を取らうとするのは、單純に危險を招く事を意味する。即ち、インターネットでは、無責任な行動が取れるやうな場所に留まる事で、最大の利益を得られる。これはインターネットの重大な缺陷ではないか。反論として「安全な場があるからこそ言へる事もある」と云ふものもあるだらう。けれども、その「言へる事」は「良いもの」と限られない。もし「惡い事」が「安全な場」から言出され、それによつて責任を取る覺悟をした人間が甚大な被害を受けた時、インターネットには屡々救濟の手段が無い。
インターネットは「正直者が馬鹿を見るシステム」である。それは――或意味、リアルワールドでも同じ事なのだけれども――果して良い事なのだらうか。
平成十七年六月七日
Amazon.co.jp: 本: 教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書
第3刷が橋本驛の啓文堂で平積み。ノズラーの方々、ウォッチャーの方々は必携。
「www.jarchive.org」
SEshop.com/商品詳細:教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書(正誤表あり。第2刷で「闇黒日記」「野嵜さん」訂正濟み。どうもです。「やらないか」の訂正がちやんとあるし)

平成十七年六月六日
日記。の一覧。の[2005年06月06日]の項。いつに無くみんなだまされてませんか。俺は先日來、疑ふと云ふ事を覺えたので欺されてゐないぞ。
平成十七年六月六日
XULPlanet.com
XUL Downloads
平成十七年六月六日
アイヌ語ラジオ講座
平成十七年六月六日
Girls plusペット - イヌ ネコ 壁紙
平成十七年六月六日
Google 検索: related:noz.hp.infoseek.co.jp/diary/
Google 検索: related:members.jcom.home.ne.jp/ksmiracle/
Google 検索: related:members.jcom.home.ne.jp/w3c/omake/diary.html
いろいろ不思議と言ふか納得行かないのだが。
平成十七年六月六日
神保町の交叉點を一匹の蝶が渡つて行つた。
平成十七年六月六日
廃屋にっぽん周遊
平成十七年六月六日
関西廃屋書店 書店日記
平成十七年六月六日
気象庁 | 火山
NPO法人 日本火山学会
内閣府(防災部門)地震・火山担当
日本火山の会
阿蘇火山博物館
鬼押出し浅間園 浅間火山博物館
有珠火山観測所
岩手山火山関連情報
火山活動研究センター
磐梯山噴火記念館
平成十七年六月六日
環境NPO 特定非営利活動法人 富士山クラブ
ふじさん(富士山)ネットワーク Fujisan Web Site Home Page
平成十七年六月六日
気象、地震、火山、海洋等の知識
平成十七年六月六日
MIRC
財団法人日本水路協会 海洋情報研究センター。
平成十七年六月六日
魔法陣作成
平成十七年六月六日
独創的研究とは
平成十七年六月六日
「保守系・良識派」雑誌・ミニコミ紹介
平成十七年六月六日
NCBI HomePage
National Center for Biotechnology Information
Entrez PubMed
東邦大学医学メディアセンターPubMedの使い方
平成十七年六月六日
TimeTable index(京王JR発車終電時刻表)
平成十七年六月六日
Google 検索: 電子申請
平成十七年六月六日
Google 検索: 日本語
いろいろと納得出來ない。
平成十七年六月六日
JR福知山線快速電車脱線事故で毎日新聞が捏造?
不可視型探照灯 毎日新聞記者の「JR福知山線事故発生時の証言」がすごい
たくろふのつぶやき
平成十七年六月六日
福知山線事故:白い車の謎 / 写真解析 HAARP(★阿修羅♪)
平成十七年六月六日
HP作成ディレクトリ - 無料HP素材 作成ソフト HPスペース等の厳選リンク集
とほほさんのところへのリンクが切れてゐる。
平成十七年六月六日
SEOルートディレクトリ by ジェフ・ルート

平成十七年六月五日
iNTERNET magazine
バックナンバを無料で(創刊号(1994年9月発売)〜2002年2月号)公開してゐる。
平成十七年六月五日
Windows XPのLZHフォルダ機能で展開すると空の状態になる不具合
平成十七年六月五日
ブログ著作権ガイド [Blog Copyright Guide]: ディープリンクについての考察
現段階では、ホームページを1つの編集著作物と考えた場合に、その配置や構成が製作者により創作的に表現されたものであるとして、特定の階層へのリンクが禁止されているにもかかわらず、それに反する行為を行なうことは、同一性保持権の侵害にあたるとの主張を否定し得ないとも解し得るのです。
ウェブサイトを1つの編集著作物として構成する事は、必要であり、否定しないのみならず、そのやうなものとすべき事を野嵜は常々主張してゐる。けれども、ウェブサイトであるがゆゑに、即座に特定の階層へのリンクが禁止されている、と看做す事は出來ない、と野嵜は考へる。
個人的には、公表された情報について、それがどこ(どの階層)にあるものであっても、直接リンクを張ることを拒むのは、インターネット上に情報を提供するということの認識に反するのではないかと思います。
その通りだ。そして、ブログ著作権ガイド [Blog Copyright Guide]: ホームページに情報を載せるということ……もしも、他人にリンクを張られて困るような情報だとしたら、はじめからホームページに載せるべきではないのです。また、ある特定の人にのみ公開したい情報であるならば、ロックをかけるなどして、提供したパスワードを入力した場合だけ、情報が開示されるようにしておけばよいのではないでしょうか。と述べられてゐる通りだ。リンクされるのを「禁止」したいのならば、技術的な手段で事實として禁止しておく必要がある。そして、さうした技術的な「リンク禁止」を完全な形で實現してゐる場合、「ディープリンク」の可能性は全く消滅するのだから、問題は生じない。技術的にリンクされ、閲覽される事を「禁止」してをらず、誰でもアクセス可能な形で公開してゐるならば、そこで「可能性」としての「著作權侵害」その他の可能性は「ある」と看做すべきでない。
もし「可能性」としての「著作權侵害」が「ディープリンク」の場合には常に「ある」と云ふ事であれば、檢索エンジンは「著作權侵害」をやらかしてゐる「可能性」が「極めて高い」と看做さざるを得なくなる。と言ふより、膨大な數のサイトを機械的に處理してゐる檢索エンジンは、制作者の意圖に反した「ディープリンク」は屡々「やつてしまつてゐる」と言つて良い。技術的でなく、制作者の意圖によつてなされる「ディープリンク禁止」を認めるのならば、純粹に機械的な處理のみが行はれる檢索エンジンの存在は否定されなければならない。が、それは不當である。そして、「ディープリンク」が、檢索エンジンで「可」であるならば、それ以外の場合にも「可」とされなければならない。
制作者の意圖として「下位コンテンツ」であつても、檢索エンジン等からやつてきた閲覽者にとつては最初に見る「ぺーじ」は全て「とっぷぺーじ」である。そもそも「ディープリンク」なる概念が成立し得ない。「ディープリンクは存在しない」のであり、さうなると「ディープリンクの問題」は「リンクの問題」に包括し得る。そして「リンクはそれ自體として權利の侵害には當らない」。そこで「可能性」とか言つて「ディープリンク」と權利侵害とを結び附けようとするから話がをかしくなる。
しかし、可能性として、著作者の人格や利益、名誉・声望を害する場合には侵害行為となることも考えられるのです。と云ふのは、それはそれとして、まあ、慥かにその通りで、否定しない。言及・引用した文章・コンテンツに對して、惡意に基いた解釋をして貶めたり、偏見に基いて攻撃したり、「不快にさせてやる」と云ふ動機で誹謗中傷をしたりした場合、當然、著作者の人格や利益、名誉・声望を害する場合には侵害行為となるの場合に含まれる。Yang May氏の言つてゐる事は、それはそれとして、間違ひではなく、事實として正しい。けれども、特殊の議論の中で、さう云ふ一般論を持出して「既に決り切つた結論がある」と極附ける事は、「特殊な議論を必要とする」として論じてゐる主體にとつて絶對に許されない事だ。もちろん、その「特殊な議論」を認める立場の人間ならば誰にとつても許されない。しかし、その「特殊な議論」が「成立しない」と看做す立場の人間ならば、特殊な議論を一般論に昇華する事が許される。そして、實際のところ、「ディープリンク」なる特殊な議論は、慥かに必要がないのであり、それをYang May氏も無意識のうちで承知してゐる。だからYang May氏は、「ディープリンク禁止論」を肯定する目的で議論しながら、そもそもの「ディープリンク禁止」そのものの存在意義を否定してしまつてゐるのである。「ディープリンク」における侵害行為の議論は、侵害行為一般の議論に昇華されてしまつてゐる。
「ディープリンク」は、それ自體として、著作者の人格や利益、名誉・声望を害する場合に含まれるものだ、とは言へない。單に、リンクなり「ディープリンク」なりをする際に侵害行為が附隨的に發生する可能性があるに過ぎない。が、それは侵害行為それ自體に問題があるのであり、リンクなり「ディープリンク」なりに問題があるのではない。「ディープリンクの問題」と稱して議論するのは間違ひだ。實際、キーワードを伏字にしたり、URLでhを拔いたり、リンクを張らなかつたりして、攻撃・中傷の對象との關聯がないかのやうに裝ひつゝ、あからさまな侵害行為を行つてゐる事例が存在する。侵害行為それ自體が問題であり、その際に附隨して生ずる可能性がある「ディープリンク」を問題にしても仕方がない。

平成十七年六月四日
日本国民生活の発達(内田銀蔵)1/3
平成十七年六月四日
Google檢索の結果等からランダム。
So-net blog:遠藤浩一覚書:東京裁判に寄生する中国 1
So-net blog:瑠太信のにゅ〜す・ちょこっと・こめんと:◆靖国神社のA級戦犯を分祀せよ!◆
So-net blog:nt 日記:首相靖国参拝 関連ニュース
教科書が教えない歴史靖国
首相の靖国神社参拝を求める青年実行委員会
靖国参拝違憲訴訟の会・東京
SIDEWALK TALK: 靖国神社
だんなの屋根裏部屋 | 「靖国神社」再考
靖国神社問題と日本人の「宗教」
Message | Thinking | nozomu.net「No.26 A級戦犯合祀は自らやめるべきである」
Johnny style!:靖国問題について考える(1)
靖國神社やすくにQ&A
ゴジラズワイフの掲示板http://www1.odn.ne.jp/~aal99510/yasukuni/
平成十七年六月四日
靖國の問題は、それ自體としてではなく、論者や政治家が自分の信條を實現する目的で論じられてゐる。だから簡單に結論が出される。
平成十七年六月四日
そもそも「神道とは何か」と云ふ設問自體が、既に「截然たる區別」を原理とする或種の「イデオロギー」に基くものである。
合理的だらうが非合理的だらうが「自分のやり方」として押通せるものは押通せるし、それが歴史的・傳統的なものを扱ふ一番當り前の態度であつて、靖國にしてもそれで押通してしまへば話は簡單なのだが、歴史や傳統を「認める」「認めない」と云ふ立場の違ひが日本國内では是認されてゐる。「靖國問題」は「民主主義だから問題が起きてゐる」と云ふだけの事だ。共産主義だのキリスト教だのの價値觀が支配的であるならば、かうした「曖昧」に起因する問題は生じ得ない。多樣な價値觀が存在せず、均一な價値觀に支配されてゐる社會ほど、政治的には強固な社會である。もし國家神道を原理とした體制が日本に存在したならば、「靖國問題」は生じなかつたであらう。政治的な利益を最優先にする考へに基くならば、民主主義の體制は最惡の政治體制である。
ところで、私は「人間は全て政治的な存在である」のやうな政治主義を採らない。

平成十七年六月三日
これわた。十五年前に最う古びてゐると思つたあいどるネタが未だに使はれてゐるのには云々。水着とか出すのには便利な設定なのだらうけれども。とは言へ個人的にAIRよりも面白いと思つてゐるので一往次囘にも期待。
平成十七年六月三日
フタコイオルタナティブ。「いいところ」で地震テロ。激わら。我々はやり直しを要求する。
平成十七年六月三日
本日の買物。城南展。黒つぽい本が多くて良し。アラン『スピノザに倣いて』。竹山道雄『古都遍歴 奈良』。内田銀藏『國史總論』。E.フッサール『厳密な学としての哲学』。圓城寺清著・京口元吉校註『明治史資料大隈伯昔日譚』。現代教養文庫四册。
ダブり未確認。と言ふか、ぐぐつたら『古都遍歴』は買つて讀んでゐるらしい。
平成十七年六月三日
Global Headline - 米マイクロソフト、「Office 12」でXMLをデフォルト・ファイル形式に

平成十七年六月二日
ネギま。作畫微妙。へろへろ〜普通〜ネギま的には神を往つたり來たり。エヴァ樣だけなぜか良い。あと委員長。Opアレンジ微妙。と言ふか變。そのうち慣れるかな。明日菜さん鬱展開。その熱だと非道く頭痛い筈だよ。能く動けるものだ。
極上生徒会。作畫しょぼい。脚本もしょぼい。良い意味で笑へるところがない。惡い意味ではある。もはやただの眼鏡っ娘だ……樂園が何うたら斯うたら……話自體は破綻もないし、ちやんと作ればちやんとしてゐたのだらうと思ふけれども……或意味破綻してゐるか……繪コンテ監督……。次囘豫告が一番笑へる。
平成十七年六月二日
シュークリームを食べる。
シュークリーム。『講談社[カラー版]日本語大辞典』に據れば、chou à la crèmeの訛。chou(複數形choux)はキャベツを意味し、crèmeは英語のcreamに相當するフランス語。訛と言ふよりフランス語と英語とをくつ附けた日本的な造語。キャベツの形をした皮にクリームを入れた御菓子。
東京シュークリーム畑
シュークリームの歴史
銀座コンシェルジュ 銀座のシュークリーム 2005年
なぎさスイーツ図鑑【シュークリーム】
小麦粉のおはなし小麦粉のある風景:「シュークリーム」が食べたい
平成十七年六月二日
めも。
日本語文典と日本語文法教育史
IME用日本語学術語データ
平成十七年六月二日
めも。
Web日本語|辞典一覧
Web日本語「立ち読みコーナー」
日本国語大辞典第二版オフィシャルサイト:日国.NET

平成十七年六月一日
businessを略してbizと書くが、これは口語。Cool Bizなんて言つて、なんでわざわざ口語にしなければならないのだらう。
Cool BusinessならばCool Businessで良いと思ふのだが、世間の人には「言葉は何であれ略さなければゐられない」みたいな強迫觀念でもあるのですか。と言ふか、CBと略したら駄目なのですか。Cool Bizなんて、Personal Computerを「ぱそこん」とか言ふのと同じで、センスがオヤヂつぽいやうに思はれますが。俺はPCと言ふ。
ええと、日経BizTechですか。
平成十七年六月一日
COOL BIZ−クール・ビズ−
諸事情に據り空調をマイコンドライにしたら寒いのなんの。無職でノーネクタイ派の俺だが、今日は上着を羽織つて仕事をした。
平成十七年六月一日
スチムソン著・清澤冽譯『極東の危機』
平成十七年六月一日
本日の買物。『冲方式ストーリー創作塾』。最初の一行で引かない讀者ならば多分最後まで讀める。技術の話としては參考になる。
平成十七年六月一日
私設万葉文庫
「のあ&あやの 穗菜」でぐぐつて見附けた。
平成十七年六月一日
芳賀矢一『國文學史十講』を淡々と讀み進める今日この頃云々。古典とその註釋書について解説した本書は明治三十一年の講義の速記を基にしたもの。昭和十四年、冨山房百科文庫に入つた時、校註が附いた。
http://www.geocities.jp/masa_nip/HITO/52-Haga.html

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