假名遣標準化計劃は結構だけれども――本當は全然「結構」ではないが――それでHTMLの標準仕樣を無視、と云ふのは如何なものか。
表題の「正假名遣」とは、假名を用ゐて現代の國語を書き表す正統的な規準として、歴史的假 名遣を確認したものである。つて、「何時」「何處で」「誰が」「何故」さうしたのかが全然解らないし、文章そのものとしてをかしいとしか言ひやうがない。「正假名遣とは確認したものである」なんて日本語の文章はない。
言語は社會的な取決め事であるとされる事もあるが、實際のところ、そのやうな取決めは存在しない。
事物を概念として把握する際、單語に置換へて認識を行ふ。この認識の體系は、語彙體系であるが、個人個人によつて獨自に作り上げられてをり、個人の域を超えて社會的に共通化されてゐるとは必ずしも言へない。或程度共通の認識は存在し、その爲個人の語彙體系を基にした意志の疎通は行はれてゐる。しかし、實際に「話が通じない」「話が誤つて傳はる」と云つた事は屡々ある。或個人の語彙は、他の個人の語彙と、必ずしも一致しない。
一方、語彙は單なる事物の概念的な把握に過ぎない。我々は語と語とを結合し、飛躍的に思考を形成する。
語と語とを結合する際、我々は一定の規則に基いてそれを行ふ。その規則を文法と呼んで良いと思ふが、これは個人の獨自の體系の域を超えて(語彙の體系に比べれば比較的に)社會的に共通のものである。[恐らくは、論理の普遍性が思考を生成する文法に一般性を與へてゐると考へられる。(→チョムスキーに言及?)]←この記述、つつこみどころがある・考へ過ぎであるやうな氣がするので採用すべきか何うか迷ふ。
この文法の機能は、日本語では「てにをは=辭」によつて實現されてゐる。之に對して、個人毎に異る語彙の體系を構成する語が「體言・用言=詞」である。
文法の機能を擔ふ「辭」は、元來は日本語でも未發達であつた。しかし、漢字の導入、漢文訓讀を經て、觀念語を漢字で表現する習慣が定着するに從ひ、「てにをは」も發達を遂げ、現在のやうな複雜な辭の體系が成立した。この間、音韻・發音の變化で、例へば「は」「へ」「を」が「ワ」「エ」「オ」の音に變化してゐるが、表記は元の形を保存してゐる。歐米諸語と違つて、日本語においては、書き言葉が、話し言葉の影として存在したのでなく、話し言葉と相對的に獨立して存在し、或意味、話し言葉をも支配してゐた爲である。特に文法の機能を擔ふ語として、てにをは・辭の類の語は、原型を留める必然性があつたと考へられる。
文法の體系を維持するには、文法の機能を擔ふ語である全ての辭が原形を留めてゐる事が望ましい。「現代仮名遣」では「は」「へ」「を」に限つて原形を留めてゐる。しかし、辭一般、助詞・助動詞・用言の活用語尾は全て、原型を留めた表記であるべきである。これらの語に限つては最低限、歴史的假名遣を保存するのが望ましい。
棚に並んでるの勘定に入れない?
「正しい日本語」を知った上であえてくだけた言葉を使うのと、くだけた言葉しか使えないのとでは意味がかなり異なってきますね。
こんな内容です。 +=====================================================================+ | z- | d- | |-------------------------------------+-------------------------------| |『ジ』 |『ヂ』 | |二(弍)貳(貮弐)次,示,仕,寺侍恃時蒔,耳 |膩,持痔峙,除,尼怩,地,治 | |餌珥,而轜,爾(尓)璽,似,事(亊),自,兒(児| | |),辭(辞),茲慈滋磁,字 | |
逆リンク!と書いてゐるのは何なのだらう。何で「!」なのだらう。
真似なんですと。
それでよく印刷屋さんはやってゆけるものだ。何のための「電腦時代」なのだらう。
私はなにも愚癡をこぼしたいがために顛末を綴ってゐるのではない。基本的な規格がかほどに深甚な影響を及ぼすものかと、歎息するのである。
たとへば最近まで、ホームページを縱書きにしたくても不可能だったし、振り假名もつけられなかった。コンピュータの世界は今でも歐米が主導だから、日本語文への配慮などなかなかしてくれない。それでも「縱書きにしたい」「振り假名をつけたい」といふ要求は大きかったのだらう。少しづつだが機能は擴張されつづけてゐる。
今囘、テキストファイルがまともに讀めず、印刷が半年も遲れた眞の理由は、私にはわからない。
JIS罫線の需要は今でも根強い。日々たくさん屆く廣告メールでも多用されてゐる。これを「ワード」で讀むと、ぶつ切れの状態になる。なぜ連係をとれないのだらう。
この本の本文は御覽の通り、固有名詞の他新字體のあるかぎりはその種の漢字を用ひてゐるが、それは僕の本意ではない。僕は、新かなづかひには從つても、今暫く漢字に關するどんな制限をも、よそからは受けたくないと思つてゐたのだ。小野君もそれに賛同してくれたが、印刷上の手續きから、新字體を採用するほかない羽目に立至つてその事の成行きを受入れるのに、僕は、これらの文章がすべてもともとはつきりと他人に讀ませるために書かれたものだつたことを理由として借りた。がこれはありていに言つて遁辞にすぎなからう。
僕が新字體の漢字をきらふのは、その變へ方が一個の見識あつての簡略化といふより誤字の正當化といふ性格をよく持つてゐて、それによる正字體の追放であり、且、方針に一貫性がなく、算術的に個々の場合にあれこれ別個の解決法を適用する恣意的なもの、しかも多數の合意によるのでなく一部の意見によつてなつた別の意味でも恣意的なもの、そしてある場合には直す必要のないものを直さうとさへする不合理なもの、だからである。
しかし一目見たところでは、新字體もあかるくて惡い一方ではないな、などと刷り上つた紙面を見るときもある。
哲学者のヤスパースがモダン・アートを論じて、これは精神分裂病に親和性があると言った。二〇世紀は精神分裂病的な時代だからモダン・アートが出てきた。私もそう思います。機械化が進んでくるにつれて、かえって心の深層にアピールするものが求められる。分裂病に似た芸術が流行するゆえんが、そこにあるといえます。
日本的なるものとはいかなるものであるのか。日本人とははたしてどのような類の人間であるのか。
一九〇六年、岡倉天心は「茶の本」を書いた。それは日露戦争の直後であり、日本の人々は武士道を誇り、西洋の人々もまた武士道等の故に多少の敬意を日本に払ってくれようとした頃であった。しかし、そうした風潮に対して天心には深い不満があった。彼にとっては、真に日本的なるものの姿は、死の術としての武士道にではなく、生の術としての茶道のうちにこそ、より正しく見出さるべき筈のものであったからである。それについては次の辛辣な言葉が十分に多くを語ってくれているであろう。彼はいう。「一般の西洋人は、茶の湯を見て、東洋の珍奇、稚気をなしている千百の奇癖の又の例に過ぎないと思って、袖の下で笑っているであろう。西洋人は、日本が平和な文芸に耽っていた問は、野蛮国と見倣していたものである。然るに満洲の戦場に大々的殺戮を行い始めてから文明国と呼んでいる。近頃武士道――我が兵士に喜び勇んで身を捨てさす死の術――について盛んに論評されてきた。しかし、茶道には殆んど注意が引かれていない。この道は我が生の術を多く説いているものであるが。もし我々が文明国たるためには、血腥い戦争の名誉に依らなければならないとするならば、むしろいつまでも野蛮国に甘んじよう。我々は我が芸術及び理想に対して、然るべき尊敬が払われている時期が来るのを喜んで待とう。」
私は今ここで天心の茶道の解釈の詳細に立入ることはできないが、例えば彼がチャールズ・ラムの「密かに善を行って偶然にこれが現われることが何よりの愉快である」という句を引き、ここに茶道の真髄があるとし、そしてその訳は、「茶道は美を見出さんがための美を隠す術であり、現わすことを憚るようなものを仄めかす術である」からとしているところに、その大体の傾向は認められるであろう。その同じ解釈の方向は、小堀遠州の庭径の着想は、
- 夕月よ海すこしある木の間かな
の句のうちに存するとしているところにも明らかである。
では天心はどのような意図や期待をもって「茶の本」を書いたのであるか。それは東洋と西洋とが互いにその本当の精神を理解し合って欲しいというためであった。だから彼は記している。「東西両大陸が互いに奇警な批評を飛ばすことは止めにして、東西互いに得る利益に依って、よし物が分って来ないとしても、お互いにやわらかい気持になろうではないか。お互いに、違った方面に従って発展して来ているが、しかし互いに長短相補わない道理はない。諸君は心の落ちつきを失ってまで膨脹発展を遂げた。我々は侵略に対しては弱い調和を創造した。諸君は信ずることが出来ますか、東洋はある点で西洋に優っていると言うことを!」彼は「何時になったら西洋が東洋を了解するであろう、否、了解しようと努めるであろう」といっているが、同じ言葉を所謂近代的日本人それ自身に向っても、天心は語りたかったかも知れない。では、現在の事情はどうであるか。
日本の大新聞は揃つて「言論の自由」を自ら抛棄してゐる。ヴィエトナム戦争についてもさうだつたし、中国、韓国問題の報道と論調においても自社の方針に不都合な部分について国民読者に目隠しをほどこしてきた。まさに大新聞こそ言はざる、聞いても書かざるの姿勢である。不幸なことに今日もなほさうである。私は口をすつぱくしてそれを指摘してきた。
さういふ意味で、この際日本の大新聞が目隠ししてきた事実を改めて一つ一つ掘り起してみる必要がある。そして何が真実かを問ひ直してみる必要がある。本書はまさにさういふ視点からまとめられてをり、ヴィエトナム戦争の再評価のきつかけをつくる注目すべき本である。
シェイクスピアには幾分粗野な言葉もあるが、然しそれが未だ汚れざる心に惡い效果を與へるものであるとは考へられない。これに反し、或る近代劇には、近代の小説と同樣に、あらゆる道徳心を破壞する或る組織的なものがある。即ち近代の劇や小説は、只管人を欺くことを目的とする人間の眞に僞善的な口調を以て書かれたものであり、動作、或は動作に導く習慣の中に、何らの道徳的性質が含まれてをらず、私が曾て聞いた或る本の表題のやうに『漠然たる感興の雜然とした寄せ集め』に過ぎない。これ等に於て吾々は敬虔の念に對する最下等の刺戟を強ひられ、それは正に假面を被つてゐるにも拘らず、何人たるかがよく知られ、或は又被つてゐる假面によつて、それが何人であるかは知られてゐるが、而も尚假裝してゐるために、無遠慮な振舞が許されてゐる假裝劇に見る無作法な惡漢の樣なものである。一言にして言ふならば、シェイクスピアの下品な點は、知性を刺戟することによつて、野鄙な感情を消散させる空想の單なる戲れに過ぎないものであつて、不快と感ずるのも、只その時限りのものでないか否かは、彼の作品全體に訴へて見るならば、自づから分明する。近代の劇は不興を感じさせないために却つて有害であるが、シェイクスピアに於ては、最も下品な部分でさへ、人間性の堕落に對する警戒としての下品さである。然るに近代劇の下品は直接此の下品の故に却つて面白いとされる場合があまりにも多過ぎるのである。
- はしがき
- 序章
- 第一章
- 憲法とは何か
- 第二章
- 日本国憲法の成立について
- 第一節
- 成立時の情勢
- 第二節
- 日本国憲法の成立
- 第三章
- 日本国憲法成立に関する諸学説とその批判
- 第一節
- 日本国憲法成立に関する諸学説
- 第二節
- 三学説批判
- 第四章
- 日本国憲法の内容
- 第一節
- 原文について
- 第二節
- 前文について
- 第三節
- 条文について
- 第五章
- 旧帝国憲法に関するいわれなき非難と日本国憲法に関するいわれなき礼讃
- 第六章
- 日本国憲法の改正について
- 第七章
- 結語
- あとがき
- 追補
- 一
- 革命説について
- 二
- 第九条の誤訳について
- 三
- 表現の自由について
- 四
- 天皇のためについて
- 日本国憲法制定経過年表
- 付録日本国憲法(和英対照)
ところが、イギリスやアメリカのように、文章だけを見れば、古ぼけた、時代おくれの能率の極めて悪い憲法は、規則正しくキチンと守られています。一見、誠に不思議な現象です。何故でしょうか。
それは、法律というものは「どんな事が書いてあるか」ということも、勿論大切なことですが、「それが正しく守られる必然性」が、より大時だからです。
日本国憲法成立に関する諸学説として、以下の三つがあると指摘してゐる。
日本国憲法の成立について大別して三つの学説があります。
第一は、日本国憲法は旧帝国憲法を法律的に正しく改正して有効に成立したものであるという帝国憲法改正説です。
第二は、日本が連合国に降伏しポツダム宣言を受諾したと同時に革命が生じ、それによって帝国憲法の根源が消滅した。そして新しく日本国憲法が成立したという革命説です。
第三は、日木国憲法そのものが法律的に成立していないという日本国憲法無効説です。
革命説はどうもコジツケのようです、とばつさり切捨てるのだが、大石義夫氏の改正説を引用しつゝ革命説の出現した理由を考察してゐる。
「法というものはどのような法であっても、それ自身存在目的を持つものではない。法は常に人間の社会生活に奉仕するために存在するものである。故に帝国憲法も所定の手続きを正しくふめば改正できたのと同様に、日本国憲法も改正できる。なんとならば、法というものは、その時代、その社会の事情に即応して定められたものであるから、社会事情が変れば、法も変えられなければならないのは当然のことだからである。」
大石氏の改正説を認めれば、「日本国憲法の改正は出来るが、その基本原則である主権在民、基本的人権の保障、軍備否定は変えることが出来ない。これらは憲法以前の根本である。」という主張が出来なくなります。それは困る、という立場から、日本国憲法を擁護するために、その成立にさかのぼって革命説を考え出して主張されておられるようです。
「一」及び「二」は、何れも日本国憲法を有効と認めるわけですが、之に対し、日本国憲法は本来無効の憲法であるとする説があります。元台北大学教授井上孚麿氏及び菅原裕氏等の説です。その理由は少し難しい表現ですが「重大且つ明白な瑕疵がその有効な成立を妨げているからである。」としています。その主な理由を次のように説明しておられます。
- 日本国憲法の成立は、ポツダム宣言に違反している。ポツダム宣言第十二項に「日本国民の自由に表明せる意思に従い政府が樹立せらる。」とあり、「ポツダム宣言受諾に関する日本政府の申入」に対する連合国の回答(昭和二十年八月十二日)には「日本国の最終的の政府は……日本国民の自由に表明せる意思により決定される。」とある。軍事占領中に被占領国民が、「自由に表明せる意思」を発表出来るものではない。軍事占領中の自由は刑務所の内の自由と同じで、マッカーサー自身、米誌フォーチューン誌一九四九年五月号に、日本全土を「八千万人の捕虜収容所」とよんでいる。「捕虜収容所」内の自由意思は「……日本国民の自由に表明せる意思……」ではない。かかる時期に日本国憲法を成立せしめたのは、明らかにポツダム宣言に違反している。
- 日本国憲法の成立は、へーグ陸戦条約違反でもある。即ち、その四十三条、「現行法尊重の義務」を履行していない。
- 日本国憲法の制定は、大日本帝国憲法の改正としてなされたが、実は憲法に定められている「改正の限界」を越えたものである。(「革命説」の論拠と同じ。)
- その逸脱の程度は、改正というよりは廃棄というに近い。改正の名のもとに帝国憲法そのものを根本的に廃棄してしまっている。憲法は改正の限界を少しでも逸脱すれば有効に成立はしないのに、全面的に廃棄すれば成立する筈がない。
- 日本国憲法成立の全過程を通じて、急迫不正の強要が行なわれた。それもまた、完全な意思の自由を阻害するものであった。
このように、「日本国憲法は、成立が既に無効であるから、本来無効である。之は追認によっても、時効によっても、新しく効力を得ることは不可能である。」と結論されています。
討議、論爭において見られる意見の對立は、殆どすべての場合、意見そのものの對立ではなく、論者が互ひに同じ言葉を用ゐながら、各々がその言葉に託する意味の相違に基づくものである。同じ言葉であるから同じ意味を有するといふ誤れる前提のもとに行はれる論爭においては、ダイアレクティク(問答)による對立を通じて、廣い意味での相互理解や合意に逹するはずもなく、いたづらに混亂と混迷を生ずるだけに終る。
同時に、關、志水兩氏に問ひ匡したい「自國の經濟力に應じた自衞力」(關氏)といふ言葉もまた曖昧であり、欺瞞とまでは言はないが、たとへ善意にしろ、そこには何かごまかしがありはしないか。
同じく「自由世界をアメリカと協力して守ろうとする日本の熱意」(志水氏)といふ時、それはその「熱意」があるならばといふ假定の話でしかなく、また「その國力にふさはしい責任を果たそうとするとき」(同氏)といふ言葉も「するとき」はやはり「するならば」といふ假定の話に過ぎず、かういふ假定法過去、即ち現在の事實に反する前提條件を以て、アメリカに對し「それはアメリカの利益にもなり、日本を核攻撃から守ろうとするアメリカの決意をますます強固にするであろう」といふ希望的觀測を押附けても何の效果も無い。
私は人間を信じないがゆゑに、アメリカ人と共にソ聯人を信じない。もちろん日本人も信じない。私はいちわう、個人としての或る人間を信じる事は出來る。が、人間といふ抽象的存在を信、不信の對象とする思考法には不慣れなのである。或るアメリカ人、或るソ聯人を信じても、集團としてのアメリカ合州國、ソヴィエト社會主義共和國聯邦や、その政府、その國民についても同樣である。……。
そして、個人として最も信じてゐないのは私自身である。それに次いで家内、子供、友人と自分から遠くなるに随つて信じる度合が増し、同時に信じられるか信じられないかといふ二者擇一の關心度は薄れ、それぞれ相手を一人格としてではなく、仕事や利害關係の枠組における一機能として信じておくだけの事に過ぎなくなる。……。私が自分を最も信じてゐないのは、最も信じたいからであり、人格としての統一體を假説としてゐるといふことを意味する。……。
人格が假説なら、國家も國民も當然假説であり、フィクション(假定・作り物)である。……。要するに、人格も法も國家も、全てはフィクションなのであり、迫持、控へ壁などの備へによつて、その崩壞を防ぎ、努めてその維持を工夫しなければならぬものなのである。
……。近代的軍隊に比べれば西洋式の官僚制度も教育制度も議會制民主主義も、すべてソフトウェアであらうが、それらがすべてフィクションであるといふ事実を悟らなければ、爆撃機の操縱や核兵器の使用よりも、操縱、使用しにくいハードウェアと化する。防衞、軍隊のみならずと言ひたいところだが、吾々の周圍には、それ以上に吾々が今なほ適應異常に苦しんでゐるものが多く、しかも森嶋氏のやうにその實状に氣附かず、ソフトウェアを喪失してしまつた人が大部分なのである。その森嶋氏がソフトウェアを口にする、止んぬるかな。
國際關係も、それを規定する條約もまた、いや、それこそ最も毀れ易いフィクションであり、憲法に至つては缺陷車に等しいハードウェアであるにも拘らず、吾々はこれに適應を強ひられてゐる譯だが、これを最後に、自衞隊を合憲とする護憲論者に質問したい、さういふ無理な適應を國民に強ひる事によつて、日本人のソフトウェアはどういふ事になるか。フィクションは建造物である、日本國憲法は手拔き工事の建造物であり、それゆゑ、私は「カードの小屋」と呼んだ。詰り砂上の楼閣であり、虚像である。フィクションは虚像ではない、堅固な建造物である。フィクションに適應し、これを維持しようといふ努力は人格を形成する。逆に言へば一人一人の人格がその崩壞を防ぐための努力がフィクションを作りあげ、これを堅固なものになし得るのだ。が、虚像への適應を強ひれば、ソフテストウェアである心はコンシァンス(良心・自覺)への求心力を失ひ、人格の輪郭から外へ沁み出し、空のコップのやうな透明人間になつてしまふ。それはもはや人格とは言ひ難い、人格の崩壊であり、精神の頽廢である。何處の國が攻めて來なくとも、なしくづしの防衞論は日本といふ國と國民個々の人格といふフィクションをなしくづしに廢坑化し、幾ら森嶋氏の無抵抗主義に反論しようが、結果としてはそれに手を貸し、日本國民の洗腦に寄與する事とならう。
奈良四大寺の祭り方をみても、国家の核としての伊勢を中心に祭るが、同時に国家の犯罪者をも祭る。これが日本の神道の方向を決めた。皇室の祖先神が伊勢、藤原氏の祖先神が春日。ところが、これらの犠牲になった蘇我氏の祖先神である出雲も祭っている。これが例のアイヌの問題とつながっていると思われるのですが、律令時代になると、すでに政治概念になってしまっている。日本の神道はいつの時代でも、片方で祖先を祭り、同時に他方で政治的犠牲者を祭る。これがたいへん大きな国家的事業になる。日本の政治家はりこうなので、後者の祭りを大事にした。平安期になって、菅原道真を祭ったのもそれです。藤原時平は道真を流したが、忠平は手厚く祭って「おれは祭るから崇らないでくれ。崇るなら兄貴のほうに行ってくれ」と祈願した。そのために時平の子孫はみんな死んでしまったが、忠平の子孫のほうは生き残った。そして菅原道真が摂関家の守り神になった。こういうことは、よその国にはあまりないと思います。『古事記』が、そういう日本神道のあり方を決めていったのではないでしょうか。
上田さんの言われるように、たしかにもっと仏教と関連して考えなくてはならないけれども、国家仏教としてはいろいろ不十分な要素がある。そして神道の基になったのは、はなはだデモクラティックな神様ではなかっただろうか。それを国家主義的に変えようとした。国家に害をなした者を祭ることが、国家体制の安定に非常に役に立った。代々の政治支配者は、それを一所懸命に行い、それができなかった権力者は長続きしなかったと考えられます。
国家の犯罪者ではないが
政治的犠牲者ではある。で、道眞公は祟つたのだけれども、「A級戰犯」は祟らない。だから功利的に考へる多くの人々が「分祀」なんて事を平氣で言ふ。しかし、そもそも功利主義で何でもやるべきであるのならば、一番すつきりするアイデアは「神社を含めた全ての宗教を廢止する」事であらう。目に見えないものは一切信じないが良いのである。
「一福田恆存読者」という表現は重いと感じたので、このブログのタイトルを「初級福田読者のブログ」と変更しました。
激励コメントが附いてゐるけれども云々。
noz_watcher2というアカウントと過去の記事が記になるので、「はてなダイアリー」からBIGLOBEのブログへと移転することに決めました。
タイトルも「心の羅針盤」と改め、さらに私のHNを「noz_watcher」から「新霊光輝」と変更いたします。
ノズラー観察を止めた私の言説に興味があるという奇特な方は、是非新しい私のブログをのぞきに来てください。
むろん、福田恆存を読む事で得た知識をひけらかし、「愚かな人たち」を馬鹿にするために読んでいるわけではない。寧ろ私は、そのようなことをしている人たちを今まで非難していたのである。福田恆存をそのような目的で読む事は邪道であると思う。
「ええっ? あの三浦つとむが、吉本隆明とそんな密接な形で繋がっていたのか!」と恥ずかしながら驚き入った。
言語理論の世界で時枝を媒介にして、この二人に一定の共通性があるとはずっと見てはきたものの、現実の日常世界に「試行」を通してこんなに密接な関わりがあったとは、まったくそういう事柄にアンテナをめぐらさない私には思いがけないことだった。
日本語言語パッケージ――正字正かなエディション。Opera用
日本語正字正かな化言語ファイル。
結論を先に言えば、それは自分を棚に上げて物を言う所が問題なのである。
例えば、今シュークリーム男氏がテメーのサイトで開陳してる「インタラクティブなネットサービスは風潮が支配するから駄目だ」論にしても、論それ自体には幾ばくかの理があるものの、「インタラクティブなネットサービスを大いに利用している自分」というものを視野に入れていないために、「テメーも掲示板を利用しといて良くそんなことが言えるな」と非難されるのである。
例えば云々と言つて結論を前提に話を進めてしまつてゐる。
視野に入れていないためにとnoz_watcherは述べてゐるが、それがまた論證拔きの結論である。
自分を棚に上げて物を言うと云ふ結論が先にあつて、それをもつともらしく見せかける爲の
例えばなので、それつぽい事をnoz_wacherは言つてゐるに過ぎない。
「インタラクティブなネットサービス」を批判するからには、「インタラクティブなネットサービスの恩恵を受けている」自分というものもしっかり視野に入れておくべきである。
そうでなければ、その批判は単なる御都合主義にしかならないだろう。
論それ自体には幾ばくかの理があるのならば、それで良いだらうに。それから、noz_watcherは、
幾ばくかの理がある等と奧齒に物が挾まつたやうなはつきりしない言ひ方をし、はつきり「正しい」と言はない。正しいものは正しいと認める公正な態度をとつた方が説得力が増すだらうに(まあ、野嵜がnoz_watcherの事を心配してやる必要はない)、野嵜の事が嫌で嫌で仕方がないから、noz_watcherは人を貶めるやうな言ひ方をしてしまふ。卑怯であるが、それがnoz_watcherの性格の本質なのだらう。
彼らは総じて攻撃的であり、他人を論難することに酔いしれており、自ら好んで論争を惹起することが多い。 一度論争が起こると、論争相手が白旗を揚げるか、離脱するまで決して止める事はなく、論点のすり替え、文章添削、牽強付会なこじつけなどあらゆる手を尽くして論争相手を攻撃するため、論争相手の恨みを買う事が少なくない。
また彼らは正字正仮名の布教に余念がないが、「無知蒙昧なお前等を教養ある俺たちが啓蒙してやる」といった、傲慢なスタンスで布教を行うため、皮肉にもかえって正字正仮名に嫌悪感を示す人を増やすという結果を招いている。
「無知蒙昧なお前等を教養ある俺たちが啓蒙してやる」といった、傲慢なスタンスは、現在のnoz_watcherのスタンスと化してしまつてゐる。野嵜を反面教師にすると宣言したnoz_watcherだが、「ミイラ取りがミイラになる」を地で行つてしまつたやうだ。
規準によらずにある仕事を判断する人は、他の人に対して、ちょうど時計を持っている人と他の人との関係のようである。「二時間だ」とある人は言い、「まだ四十五分だ」と他の人は言う。私は自分の時計を見て、前の人に「あなたは退屈している」と言い、後の人に向って「あなたには時間が長く感じられないのだ」と言う。一時間半たっているからだ。そして、私が時間を長く感じているのだとか、私が気まぐれに判断しているのだとかと言う人びとを、私はあざける。彼らは私が自分の時計で判断していることを知らないのだ。(五)
「悪い風潮」が出てくるのは何もブログや掲示板だけとは限らない。
個人で運営しているホームページだって、「悪い風潮」を蔓延させる可能性は大いにあるはずなのに、このシュークリーム男氏は意図的にそれを無視している。
掲示板にしても「ブログ」にしても、作る主體は複數であり、個人ではないから、そこでは風潮が出來上るに過ぎない。
「悪い風潮」を蔓延させる可能性は大いにあるはずなのにと言ふストーカーの考へる「蔓延させる」は、掲示板外部、「ブログ」外部の事です。ストーカーは、故意にかうつかりにかは知りませんが(「野嵜を不快にしてやる」と云ふストーカーの例の宣言から考へれば、「故意にである」と考へるのが普通ですが、斷定はしません)、野嵜の意圖とは違ふ意味で野嵜の用語を利用し、話をずらしてゐるのです。これは、ストーカーのいつものやり方です。
シュークリーム男氏が「個人の責任」で運営しているホームページだって、「正字正仮名を使う者は傲慢で悪質な人間が多い」という「悪い風潮」を充分蔓延させているように思えるのだが。
それは結局、シュークリーム男氏がテメーのWebでの「言論活動」を正当化しようとするための詭弁なのである。
御説の通りです。掲示板でお仲間と馴れ合っている人のブログ批判など聞く耳持ちたくないですね。それと、シュークリームの写真、大笑いしました。いずれ、歴史的かなづかいを使う、心根も容姿も醜い差別主義者がこのブログを荒らしに来るかもしれませんが、その時は即刻アク禁などの措置をとるべきです。インタラクティブなメディアは個人の主張に向かないなどとホザいていますが、それらの優越感丸出しの高慢ちきな連中を閉め出すことも、立派に「主張」や「態度」の表明です。さらなる御健筆をお祈りします。
シュークリーム男はネットでの言論活動への責任云々宣ってるけど、シュークリーム男が具体的にどう責任を取ってるというのだろうか?
責任を取ってるのだけれども、それをストーカーは認められない。彼獨自の「責任」の觀念に、野嵜の考へる責任の觀念が合致してゐないからです。しかし、そのストーカーの考へる「責任」の觀念のみが正しく、野嵜の考へる責任の觀念が誤つてゐると、ストーカーは論證してゐません。「個人として物を言ふ事」が「責任を取る事」だ、と云ふ野嵜の主張を、ストーカーは讀取つてゐませんし、當然、有效に批判してもゐません。ただ單に、自分の觀念に相手を屈伏させる事だけを、ストーカーは望んでゐます。ストーカーは、正しい事を明かにする論爭ではなく、相手を自分に屈伏させる爲の論戰をやつてゐるのです。それでは困る。
正しくは、「野○さんの文章に中身がないから、表面的にしか読みようがない」である。
サイトを閉鎖するとか言いながら、未だに続けてるし。なんて言へたものではないと思ひますが。
- 446 名前:noz_watcher ◆9v8sr52ffc :2005/04/18(月) 09:42:27
ノズラー観察をやめるつもりだったけど、あっさりと前言撤回。
今後も引き続きノズラー観察を続行。野嵜サンにはもっと不快な思いをして頂く。
ちなみにブログの再開の予定は今の所なし。
あと、「ノズラー観察同好会資材係」を改め今後はnoz_watcherとコテハンを改めます。
いかに「言論の自由」を希求して闘い抜いたのか。は結構な話だ。しかし、實際に岡留氏らの希求した「言論の自由」は、「体制派」への嫌がらせの手段としての「言論」の自由だつたのではないか。「噂の真相」のやり口は餘りに惡どかつた。その爲に、「噂の真相」は、一部のスキャンダル大好き人間から禮讚された一方で、多くの人から反撥された。「噂の真相」が反體制派の評價を下げてしまつた側面がある事は否定出來まい。そして、「噂の真相」のやうに「惡どい」と云ふイメージが附いてしまつた反體制運動に反撥して、多くの人が小林よしのりや西部邁、西尾幹二の保守的な言論の支持にまはり、「つくる會」その他の保守勢力が伸張し、
ソフトファシズムが着々と進行する日本の惨状が出來してしまつた、と言ふ事が出來る。「噂の真相」は、イメージ戰略で大失敗をやらかし、政治運動として失敗に終つたのである。
ウワシン反骨魂は健在なり!つて、精神主義以外の何物でもないと思ふ。精神主義は、彼等「ウワシン」が毛嫌ひするところの國粹主義の大日本帝國を支配した代物で、或意味日本的な代物だが、「ウワシン」もまたその日本的な餘りに日本的な精神主義から逃れられないのではないか。彼等は、論理的に正しい事、眞實には何の興味もなかつた。ただ單に、感情的に反體制であつただけであつた。だからこそ、感情的なアジテーションを專ら「武器」としたのであらう。彼等のやり口は、ただ單に、氣に入らない相手を「不快にする」と云ふものであつた。だからこそ、反動を招いたのである。そして、彼等は餘りにも政治的であるにもかかはらず、さうした政治的な失敗を悟らない。不思議な話である。
誤解していたようで申し訳ない。が、誤解したのは私に読解力がないからでなく、シュークリーム男氏に文章力がないからである。
腹黒日記(仮名)だの
シュークリーム男だのと、惡口ばつかりですねえ。最初に結論があるから、かう云ふレッテル貼りが出來るのです。そして、その結論に繋がるやうにストーカーは「論理」を組立ててゐます。論證してから結論を出すのでなく、結論の爲に論理のやうな物をでつち上げてゐるのです。かう云ふ「論法」に騙される人が多いやうですが、「自分に都合の良い結論」を最初に用意してゐる人物に騙されてはいけません。
ただ、その「風潮」が時には真実を捉えているということも有り得るのである。
が、これらの人たちはシュークリーム男氏ほどには悪く言われず、時には評価されさえもする。
時には評価されさえもする。ところが、ストーカーはそれを認めない。帰ってきたノズラー観察同好会報 - 信念あってもやっぱり智慧はなしを見れば解る通り、野嵜擁護の意見が書込まれてゐる事をストーカーは知つてゐる。にもかかはらずストーカーはすつとぼけるのである。
一方、シュークリーム男氏は評価されることなく叩かれるだけ。
2ちゃんねるの「風潮」は、木村・森両氏とシュークリーム男氏をきっちりと峻別しているのである。
が、これらの人たちはシュークリーム男氏ほどには悪く言われず、時には評価されさえもする。
木村貴氏や、シュークリーム男氏と比較的近い立場にいる「モリリン」こと森英樹氏の事だが、
シュークリーム男氏ほどには悪く言われないが、やはり「惡く言はれてゐる」のである。
時には評価されさえもするが、時には惡く言はれさへもするのである。ならば、2ちゃんねらーの諸氏が全員、
木村・森両氏とシュークリーム男氏をきっちりと峻別している、等と云ふ事は、言へたものではない。これらの事は、ストーカー自身の文章が證明してゐるのだから仕方がない。ストーカーには、自分の文章を自分で正しく理解する讀解力もないやうだ。
シュークリーム男氏は「風潮」批判などをする前に、何故そういう「風潮」が生み出されるのかを真摯に考えてみるがよい。
何故そういう「風潮」が生み出されるのか、と云ふ問ひの答へは簡單に出よう。即ち、ストーカーnoz_watcherが生んでゐるのである。實際、noz_watcherとその御仲間が、野嵜擁護の發言が出る度に「ノズラー」「ノズラー」と極附けて「不快にさせる」例の戰術をとつたのは事實である。さうして生み出された「スレの風潮」は、しかし所詮、「スレの中だけの風潮」でしかない。世間の風潮とは全然關係がない代物である。noz_watcherは、さう云ふ「スレの中だけの風潮」を根據に、恰も全世界の人間が野嵜を嫌つてゐるかのやうな「風潮」があると話を摩り替へて宣傳してゐるのだが、さう云ふ宣傳の危ふさを野嵜は指摘した。noz_watcherは、
真摯に考えてみるがよい等と偉さうな口調で他人に居丈高に命令する前に、自分が
真摯に考えてみるがよいのである。noz_watcherは、本當に、自分の事を棚に上げて他人を罵るのが好きな人間だ。
てか、今迄さんざん「悪い風潮」を蔓延させる掲示板サービスを利用しておいて、自分に都合が悪くなった途端、掲示板サービスを批判しだすのは些か虫が良すぎるのではないだろうか?
真摯に考えてみるがよい等と言つて説教するnoz_watcherの方こそ蟲が良いと云ふものだらう。それに、實際に利用して見て、「良くなかつた」と解つたら、さう書いて、何が惡いのだらう。「どこそこのサーヴィスを利用して見たが良くなかつた」と感想を述べた人を、
利用しておいて後から文句を言ふのは些か虫が良すぎるのではないだろうか?等と貶すのは、如何にも「しつたか」な感じで、嫌みつたらしいものだ。それに、かうも言へるだらう。
シュークリーム男氏がお好きな「知的誠實」とやらを求めるならば、自分が今迄掲示板サービスで行った所業を反省し、自分の掲示板をさっさと閉鎖すべきであると思うのだが。
誤解したのは私に読解力がないからでなくと云ふ辯明にもかかはらず、やつぱり讀解力がないのである。
確かにシュークリーム男氏の言うように、掲示板やブログが「風潮」に蔓延されやすいのは確かではある。と言つてゐるので、野嵜の言つてゐる事は正しいのであるし、それはストーカー自身、認めてゐるのである。しかし、その正しい事をいかにも正しくないやうに見せかける爲に、ストーカーnoz_watcherは駄辯を弄してゐる。ストーカーの言つてゐる事が詭辯であるのは、火を見るよりも明かだ。そしてストーカーは、今のこの野嵜の發言を捉へて、「野嵜は自分に都合の良い部分しか見ない」と言ふだらう。しかし、それこそストーカー自身が自分に都合の良い部分しか見ない事の證據になる。
いい歳した大の大人がアニメを観るということ(しかも美少女系アニメ!)は本来恥ずかしいことだという道徳なんてものも存在しない。もし「ある」にしても、「同じ2ちゃんねらー」や「同じはてなダイアリーのユーザ」を全然氣にせず、ひたすら野嵜だけを「アニメオタク」と言つて非難してゐるのだから、ストーカーnoz_watcherの主張は爲にするものである事が餘りにも明かである。そもそも、此處は「道徳」ではなく「徳目」と言はねばならないし、徳目は所詮徳目に過ぎないのだが、野嵜の文章や松原氏の文章を良く讀んでゐる筈のストーカーはその邊の用語の區別を出來ない。批判對象について良く知らないでストーカーは惡口を言つてゐるのではないか、と云ふ推測は、當つてゐさうである。閑話休題。
ノズラーのダメな所は、「天下国家や正字正仮名の正統性を論じる自分」と「アニメを嗜好する自分」を両立させようとする点にある。
初手から批判・非難する目的で、松原氏の文章を読もうとする輩は確かに小賢しいと私も思う。
しかし虚心に松原氏の文章を読み、違和感を持つことがどうして悪いのだろうか?
どんな優れた知識人であれ、その言説を100%支持できる事など不可能である。
心に抱いた違和感を無理矢理圧殺すること(信奉)も、違和感に振り回されアンチへ転化することも愚かであると思う。それは結局、考える自分というものが無い、ということである。
松原正に間違いはない?
松原正に違和感を持つ奴は馬鹿?
その程度のものと考へやう。の「考へやう」ですが、正しくは「考へよう」です。
まだ紙面の餘裕がある。「玉勝間」の中の短い一二章を、附載して置いて見ることとしよう。
吾にしたがひて物まなばむともがらも、わが後に、又よきかむかへのいできたらむには、かならずわが説にななづみそ、わがあしきゆゑをいひて、よき考へをひろめよ、すべておのが人ををしふるは、道を明らかにせむとなれば、かにもかくにも、道をあきらかにせむぞ、吾を用ふるには有ける、道を思はで、いたづらにわれをたふとまんは、わが心にあらざるぞかし、
- 二の巻[一〇七]
宣長先生の學問は、學問のための學問であつた。自分に箔を附けて、衆に誇示するための學問ではなかつたのである。
旧字体の漢字は新字体に改めた。
かなづかいは「現代仮名遣い」に改めた。
特殊な字体は通常の字体で示し、〔 〕内に説明を加えた。カナモジ派の中の人も大變だ。
さらに編緝、印刷の現場で旧字旧仮名を扱える人間が激減してしまったという問題もあります。と云ふ邊の指摘はその通り。
昔なら手書き、それも筆写体の略字で旧字旧仮名の指定さえすれば、きれいに組み上がってきたものですが、と云ふのは、「『正假名遣で』と指定しつゝ表音的な假名遣で書く」みたいな變な物書きはゐなかつたから半分間違ひだが、
現在では書き手が一字一句注意を払わなければ満足いくかたちには仕上がりません。と云ふのは本當。
基本原則に關しては「問題ナシ!」としてしれつと流してしまふ傾向があるやうに思はれる。靑木氏も、
というわけで、字音仮名遣いは使わなくてもよいのではないか、と筆者も思わないでもない。と書きながら、
ところが、旧仮名遣いの書籍の編緝では悩ましいことになる。と言つて、「マニア」の領分に一般人を引きずり込まうとする。一般人は書籍を編緝しない。
基本原則における論理性の印象が極めて薄いものとなる。そして、結果として、現在、正假名遣の
基本原則を懇切叮嚀に論じた文獻が全然ない、と云ふ困つた状況になつてゐる。
メキシコ発見!!
ようこそNR(ノイズリダクション)小僧の部屋へ!!
私の講演の綱要を見た方は、私が世の誤れる批評、殊に詩歌に關し、勿論それだけに限る譯ではないが、特に詩歌に關する世の誤れる批評の諸原因に就いて、多少述べる所があることを豫期してをられると思ふ。それには、先づ、正當な判斷の構成を妨げ、また恐らくそれを拒むやうな障害物を指摘することが必要である。それは次の何れかであらう。
- 偶發的原因、即ち我々の住む時代の特殊な事情から起るもの。或は、
- 永久的原因、即ち我々の人間性に就いての一般的原理に由來するもの。
第一の項目として擧げた偶發的原因は、又次のやうに分類することが出來る。第一は、單にその事件が重大な事件であるといふことのために、或る一つの讀者の世界が出來てしまふ現時代の或る出來事。第二は、すぐその場で、一目みて、理解されようとする希望を著しく助長する通俗講演の仕方。第三は、評論、雜誌、新聞、小説等の流行である。
此の最後に舉げた問題、そしてかういつたものを耽讀することに就いては、私は敢て斷言するが、一つの習慣として、そのやうなものを讀み耽けることが流行する所には、やがて精神力の完全な破壞が來る結果となる。さういつたものを讀むことは讀者にとつては、娯樂といふよりは、寧ろ時間の勞費と言はれる程の、純然たる損失である。それは事實に關する信頼すべき何らの消息をも傳へるものではない。又何らの知的進歩をも齎さないのみか、却つて一層高貴な理解力を養成し、鼓舞し、又擴大する爲の直接の妨げとなる忌はしい病的な感受性を以て讀者の心を滿たすものである。
評論は概して有害なものである。何故なれば、評論家は何ら確固たる原理に基くことなくして、とやかくの斷定を下し、評論は常に人身攻撃に充ちてゐるからである。就中、評論は人々に考へることよりは、斷定することを教へるからである。かくて評論は、皮相淺薄に流れる事を奬勵し、且つ思慮なく、無能な連中をして、權威ある吾々といふ包括的な意見を述べることを勸め、人々をして各人銘々の心を働かせ、その結果として、各人銘々の心を開明し、よつて以て銘々の獨創的な意見をまとめ上げるやうなことのないやうにする。古代に於ては、作家は殆ど天使と人間との間に介在する兩者の媒介者として尊敬されたが、後には畏敬すべき、そして恐らくは、靈感を受けた教師と看做された。そして次には、單に人を教へ導く博學多識の有益な友人としての標準にまで引き下されてしまつたのである。然るに現代の作家は、恩恵を與へる人どころか、寧ろ罪人扱ひされてゐる有樣である。彼等は、批評家が勝手に設けて自ら得々としてゐる法廷に、罪人として引き出される。今日若し誰かが新刊書を讀んでゐる所を見たとすれば、その時に問ふ最も普通の質問は、『そこにどんな詰らないことが書いてあるか』といふことである。かくまで作家の評價に相違を來すやうになつたことに對しては、相當の理由はある。といふのは、今日の世の中は、人が若し裁縫師や靴屋として失敗しても、讀んだり正しく綴る(何故なれば、綴字は尚幾分重要性を帶びてゐるから)ことさへ出來れば、作家になれる世の中だからである。
現代の文藝批評の甚だしい罪惡は、それがあまりにも個人的感情にみたされ過ぎてゐるといふことである。若し作家が何かの誤りを犯すならば、その誤りを眞理のために正さうとするのではなく、寧ろ凱歌をあげんがため、即ち評論家は、作家より如何に賢明であり、如何に有能の人物であるかを示す意味に於ての、凱歌を奏でんがために作家の誤りを正さうとするのである。評論家といふものは、概して出來得べくんば詩人や歴史家や傳記作者等々にならうとして、その才能をその何れかに於て試み、而も失敗した結果として、此處に批評家に身を轉じた連中である。從つて彼等はロオマ皇帝ネロと同じやうに、明かに自分の失敗した特殊な領域に於て、自分を凌駕する者を最も憎む。現代は人身攻撃と政治的ゴシップの時代である。このやうな時代には、古代エヂプトに於てさうであつたやうに、蜂はその針の持つ毒液の多寡に從つて尊ばれ、また詩、特に諷刺詩(satire)は、その中に含んでゐる現存する名士の數の多寡に從つて評價される。そして註釋の方が一般に本文より詩的でもあり、又キビキビして幾分優つてゐる。此のやうな批評の樣式は、今の所スコットランドの衒学的法廷の主柱の一つである。それで、詩に就いてのこのやうな人身攻撃に關する問題として思ひ出されるのは、百人あまりの現存する人物の名を含んでゐるといふ理由で廣告され、又ひどく推奬された或る敍事詩を、私は曾て見たことがあるといふことである。
斯くの如き傾向は眞に優れた詩に對し、如何にその品格を傷つけ、如何にその榮譽を毀損するものであるかは、此處に言ふまでもないことであらう。或る賢明な作家が、人間と動物との間よりも、人間と人間との間に、一層大きい相違があると曾て言つたことがあるが、私は人間の中で自分自身が詩歌の美を感じ得ないで、しかも他人を自分自身の標準にまで引き下げようとする人間程低級な人を考へることは出來ない。フッカアが法則に對して雄辯に主張してゐることを、私は詩に就いて言はう。即ち「彼の女の(詩歌の)御座は神の御胸であり、詩歌より受ける彼の女の聲は宇宙の調和である。天地の萬物ものみな凡て彼の女を賞め讚へる。」詩歌は天上の言語であり、そのいみじくも美はしい喜びの中に、吾々は言はば天上の喜びの性質や、その豫想や、或は豫言を掬み取るのである。
その後の文芸批評の理論と方法に大きな影響を与えたのださうである。もちろん、我々日本人とは關係がない、海の向うの話である。インターネットも、かう云ふ領域では、彼我の距離を縮めたりして呉れない。ウェブには「ゴシップは惡い事ではない」等と公言する日本人がゐる。
世界を無職透明に捉える(主客を分離する)というのは不可能だと私は思うんですが…。論旨と全然關係ナシに誤字で笑つた。みんながわたしを責める。
いつに無くみんなだまされてませんか。俺は先日來、疑ふと云ふ事を覺えたので欺されてゐないぞ。
現段階では、ホームページを1つの編集著作物と考えた場合に、その配置や構成が製作者により創作的に表現されたものであるとして、特定の階層へのリンクが禁止されているにもかかわらず、それに反する行為を行なうことは、同一性保持権の侵害にあたるとの主張を否定し得ないとも解し得るのです。
1つの編集著作物として構成する事は、必要であり、否定しないのみならず、そのやうなものとすべき事を野嵜は常々主張してゐる。けれども、ウェブサイトであるがゆゑに、即座に
特定の階層へのリンクが禁止されている、と看做す事は出來ない、と野嵜は考へる。
個人的には、公表された情報について、それがどこ(どの階層)にあるものであっても、直接リンクを張ることを拒むのは、インターネット上に情報を提供するということの認識に反するのではないかと思います。
……もしも、他人にリンクを張られて困るような情報だとしたら、はじめからホームページに載せるべきではないのです。また、ある特定の人にのみ公開したい情報であるならば、ロックをかけるなどして、提供したパスワードを入力した場合だけ、情報が開示されるようにしておけばよいのではないでしょうか。と述べられてゐる通りだ。リンクされるのを「禁止」したいのならば、技術的な手段で事實として禁止しておく必要がある。そして、さうした技術的な「リンク禁止」を完全な形で實現してゐる場合、「ディープリンク」の可能性は全く消滅するのだから、問題は生じない。技術的にリンクされ、閲覽される事を「禁止」してをらず、誰でもアクセス可能な形で公開してゐるならば、そこで「可能性」としての「著作權侵害」その他の可能性は「ある」と看做すべきでない。
しかし、可能性として、著作者の人格や利益、名誉・声望を害する場合には侵害行為となることも考えられるのです。と云ふのは、それはそれとして、まあ、慥かにその通りで、否定しない。言及・引用した文章・コンテンツに對して、惡意に基いた解釋をして貶めたり、偏見に基いて攻撃したり、「不快にさせてやる」と云ふ動機で誹謗中傷をしたりした場合、當然、
著作者の人格や利益、名誉・声望を害する場合には侵害行為となるの場合に含まれる。Yang May氏の言つてゐる事は、それはそれとして、間違ひではなく、事實として正しい。けれども、特殊の議論の中で、さう云ふ一般論を持出して「既に決り切つた結論がある」と極附ける事は、「特殊な議論を必要とする」として論じてゐる主體にとつて絶對に許されない事だ。もちろん、その「特殊な議論」を認める立場の人間ならば誰にとつても許されない。しかし、その「特殊な議論」が「成立しない」と看做す立場の人間ならば、特殊な議論を一般論に昇華する事が許される。そして、實際のところ、「ディープリンク」なる特殊な議論は、慥かに必要がないのであり、それをYang May氏も無意識のうちで承知してゐる。だからYang May氏は、「ディープリンク禁止論」を肯定する目的で議論しながら、そもそもの「ディープリンク禁止」そのものの存在意義を否定してしまつてゐるのである。「ディープリンク」における
侵害行為の議論は、
侵害行為一般の議論に昇華されてしまつてゐる。
著作者の人格や利益、名誉・声望を害する場合に含まれるものだ、とは言へない。單に、リンクなり「ディープリンク」なりをする際に
侵害行為が附隨的に發生する可能性があるに過ぎない。が、それは
侵害行為それ自體に問題があるのであり、リンクなり「ディープリンク」なりに問題があるのではない。「ディープリンクの問題」と稱して議論するのは間違ひだ。實際、キーワードを伏字にしたり、URLでhを拔いたり、リンクを張らなかつたりして、攻撃・中傷の對象との關聯がないかのやうに裝ひつゝ、あからさまな
侵害行為を行つてゐる事例が存在する。
侵害行為それ自體が問題であり、その際に附隨して生ずる可能性がある「ディープリンク」を問題にしても仕方がない。