闇黒日記


平成十七年五月三十一日
日経ビズテックNo.007。松原先生「パソコンとハムレット」第三回「虚學駄目なら實學も駄目」。原文のまゝ。

平成十七年五月三十日
ツッコミ屋の有為転変
ARTIFACT@ハテナ系 - ツッコミ屋の生き方
?D 大和但馬屋日記 - マジレスしてみる
――さて、野嵜も昔から「ツッコミ屋の生き方」みたいな事をして來たのだけれども、最う飽きて來てゐる。同じ論爭が何度も何度も繰返されてゐるに過ぎないからだ。そして、毎囘毎囘同じコメントを附け續けるのも「あり」なのだらうし、それを山本夏彦氏がやつてゐた訣だけれども、俺は誰からも原稿料を貰つてゐないので、「やる氣」が起らない。
平成十七年五月三十日
ARTIFACT@ハテナ系 - 匿名実名に関する議論のまとめ
音極道茶室: 「匿名実名」論争にケリをつける現実解
福田::漂泊言論: 実名ブログの浸透可能性(1)
福田::漂泊言論: 実名ブログの浸透可能性(2)─議論の俯瞰図
斜め讀みと言ふか全然讀まないでコメント。日本國では「誰某が言つた」と云ふ發言者の人格を大問題にする傾向が極めて強い。その結果として、何を言つたかではなく、最初から「あいつは氣に入らない=あいつは馬鹿だ」と云ふ極附けが屡々行はれる。そして、結論は常に「あいつは默らせるべきだ」である。そして、「默らせる」と云ふ事が正義であり、その目的の爲に手段は擇ばれない。日本の言論において、實名匿名は本質的に意味がない。とにかく感情的に罵聲を浴びせる、と云ふやり方が「常道」であり、それ以外の方法は全て「不正」である、と信じられてゐる。「論理的な説得は無視すべきものである」と云ふのが日本人の「信念」である。「とにかく現實的でないものは全て封殺すべき事」である。「職がない人間に發言權はない」「思考實驗を根據に現實を否定する人間は存在を許してはならない」のである。そして、「現實を守る」爲には、「俺が馬鹿と決めた人間の言つてゐる事は、論旨を無視し、文脈を讀まずに、とにかく全て馬鹿な事であると極附け、否定して良い」のである。「馬鹿と看做した人間の人格は認めなくて良いし、この世の全ての人間が認めないやうに仕向けなければならない」のである。それが日本人の「正義」である。さう云ふ「正義」を信ずるからこそ、マスコミの記者はJR西日本の幹部を記者會見で居丈高に罵り、アレクセイは「汚い尻尾」とレッテルを貼り、竹下は「掲示板荒しリスト」を公開し、某NWはIPアドレスが判らうが何だらうが他人の發言を表面的に解釋して「愚かしい」と極附け、「義」は「無職」その他の誹謗・中傷及び嫌がらせの文章を各地の掲示板にコピー&ペーストして囘る。日本人の抗議は、屡々、非難(批判ではない)の對象を不快にさせ、精神的に苦しめるのが目的である。皆、相手を苦しめた先を全く考へてゐない。それで世の中が良くなるのかと言へばそんな事はあり得ないのであるが、當座「氣分がすつとすればそれで良い」のである。それでは困る。
平成十七年五月三十日
谷沢永一が覆面して暗闇から人を撃つ場合には、文壇や學會の符牒を用ゐず、人事問題や、勢力關係を我が黨派に利せんとする世俗的效果を狙はず、係累なき健康な讀書人の視座で理解できる論法を驅使し、一篇の短文で問題にケリをつけるきめ手にしぼつた凝縮表現が肝要。と述べた事がある。
平成十七年五月三十日
逆に言へば、匿名批評の問題はその場限りに終る事で、その程度の批評にしか本來、匿名は「使へない」。そこから先をやるには、匿名の域を拔出さなければならない。それは必ずしも「實名」とイコールではない。
俺は隨分他所の「ホームページ入門」を斬つて、嫌はれたけれども、ただ「斬る」だけでは「無責任」だから「PC Tips」のHTMLとかCSSとかの文章を書いて、それなりに責任を取らうとはして來た積りだ。もちろん、今迄の野嵜のHTMLやCSSの「説」に對しても反論はあり得るし、突込みどころもあり得る。けれども、取敢ず野嵜の立場ははつきりさせた積りだし、それはそれで「一貫した説」にした積りだし、さう云ふものを作つて提示するのが「言論に責任を取る」事だと思つてゐる。けれども、かう云ふ事は一往、一聯の發言に一貫して存在する人格の存在が明かになつてゐないとあり得ない。ただ、その人格が「ある」事を明示してゐればそれで十分かと言ふとさうではないのであり、それはただ單に必要條件であるに過ぎない。問題は――と言ふのは「批判すべき對象は」と云ふ事だが――その人格が何うであるかではなく、人格と云ふ背景に保證された體系的な思想が何うであるかである。
實名を公開すれば良い、と云ふ訣ではないし、固定のハンドルを持てば良い、と云ふ話でもない。固定のハンドルを持つのは、慥かに匿名の域を脱する事ではある。しかし、それでは不十分だ、と指摘してゐる。ただの匿名から糞コテに變じても仕方がなからう。それでやつてゐる事がそれまでと變らないただの粘着行爲だつたら、何の意味もない。匿名・實名・ハンドルの問題を論ずるのは、實は本質をカムフラージュする事である。論じられるべきは、議論の主體を何うするか、ではなく、議論の對象を何うするか、である。結論を如何にして出すか、出された結論は何うするか、さう云つた事が全く閑却されて、論者の人格だけが問題にされてゐる。
平成十七年五月三十日
いつそ全ての論者の人格が判らないやうな場を用意するのが一番良いのかも知れないのであり、さう云ふ意味で俺は虹裏に可能性を見てゐるのであり、實際にじうらの「」の「創造力」は或意味すごいのだが、しかしとしあきも「」も全員(もちろん俺も含む)、ふたばの管理人さんの存在を極めて強く意識してゐる。ぴるすその他の困つたコテハンが場を荒すのには、管理人さんが赤字を出したりやアク禁にしたりと云つた對處が必要である。が、さうなると「自由な言論」と云ふものは「あり得ない」事になるが、さう云ふ「管理社會」でなければちやんとした議論は出來ないのではないか。2ちゃんねるの大問題は、ひろゆきが掲示板を管理してゐない事である(と、敢て言ふ)。
平成十七年五月三十日
と言ふか、img落ちたまゝだよ。mayに移行してしまふのかな。
平成十七年五月三十日
「ウェブ日記」にしても「ブログ」にしても掲示板にしても、「議論がなされる場である」であるに過ぎず、記事に結論が書かれてゐたとしても、その記事を一つの完結した思想と看做す事は出來ない。
議論の結果として纏められた體系としての思想を提示するには、掲示板や「ブログ」のログと云ふ形は全く不適當であり、それ以外のスタティックな――「傳統的」な、言はば「ほーむぺーじ」的な――ウェブサイトが必要である。
平成十七年五月三十日
img復活キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!。

平成十七年五月二十九日
江上波夫・伊東俊太郎『文明移転 東西文明を対比する』(中公文庫)讀了。
江上氏は、多數の批判を受けてゐる「騎馬民族征服王朝説」の先生だけれども、この對談でも騎馬民族と農耕民族の對比によつて文明の生成を説明してゐる。「騎馬民族征服王朝説」そのものには問題があるらしいし、實際、今のところ、定説ともなつてゐない。けれども、世界の文明を見る時、江上氏の説明の仕方は面白い。
論理的に言えば人類は、このままでは近い将来必ず滅亡しますね、と云ふ指摘は、正しいものだと思ふ。で、それではいけない、と云ふのが江上氏の考へで、騎馬民族型の西欧人の世界制覇は批判されなければならない、と云ふ風な事を江上氏は述べてゐる。だから、某Wikipediaの「騎馬民族征服王朝説」の項に、江上説には、騎馬民族が優秀な民族で農耕民族が劣ったものと見なすところがある。と書かれてゐるけれども、本書に據ればこの「批判」は的外れである。
平成十七年五月二十九日
たけくまメモ: 【驚】Google AdSenseからの契約破棄通知
たけくまメモ: 【業務連絡】Google AdSenseのリンクを停止
おもしろいものはすべて取り入れる:GoogleAdsense狩り
本當は「Googleとかの方が惡い」のではなく「不正クリックをわざとやつた犯人の方が惡い」のだけれども、「犯人の方は對處のしやうがない」から「Googleの對應が惡い」と云ふ話になつてゐる。八つ當りは八つ當りだが、被害者にはサーヴィス提供者に八つ當りする外、なかなか出來る事が無い。
たけくまさんの「ブログ」のコメントの最後の方に「警察に訴へる」と云ふアイデアが書込まれてゐる。けれども、訴訟は面倒なものだ。さう云ふ面倒ごとに卷込んで被害者の氣力を殺ぐのは、嫌がらせをする加害者の一つの目的である。加害者は、被害者を不快にさせたいのである。
この手の「嫌がらせ」行爲については、被害者が警察に簡單に訴へる事が出來る方法、或は、警察が簡單に介入して問題を解決出來る方法を確立すべきだ、とも考へられる。けれども、さうすると、今度は、嫌がらせをする側が平然と警察を利用して、被害者に更なる嫌がらせをする事になり兼ねない。
他人に嫌がらせをするやうな加害者タイプの人間は、惡智慧が働くから始末におへない。ISPなり何かのサーヴィスの提供者なりを欺して被害者に嫌がらせをする彼(等)は、警察が「使へる」となつたら、今度は警察を欺して、被害者をまるで何かの「加害者」であるかのやうに見せかける(詐欺の爲に裁判所ですら利用される現實がある)。そして、「それつぽい事」を、本來の加害者は書いて見せるのである。ISPやサーヴィス提供者などに密告するメールの類でも、嫌がらせをする本來の加害者は、口調だけはまともに見える文面で、もつともらしく被害者を「加害者」に仕立て上げる。サーヴィス提供者は、何も知らないから、簡單に欺される。その點、サーヴィス提供者にも確かに「問題」はある。警察も多分、欺される事だらう。だが、本來の加害者こそが加害者である事は覺えておいて良い。

平成十七年五月二十八日
XHTML™ 2.0 W3C Working Draft 27 May 2005
讀んでゐない。
平成十七年五月二十八日
昨日だかの讀賣の編集手帖で乃木將軍無能説が言及されてゐたけれども、あの手の攻防戰では人が澤山死ぬのが當り前で、戰死者が多數だつたと言ふだけの理由で乃木將軍を無能呼ばはりするのはをかしい。
なんか未だに司馬の「史觀」なんてものを信奉してゐる馬鹿が日本には澤山存在してゐるらしいが、司馬の書いたのは小説。司馬の書いた事をそのまゝ信ずるのは、吉川英治の宮本武蔵を史實と思ひ込むやうなもので、やめておいた方が良い。
平成十七年五月二十八日
話は別だが、東郷元帥無能説まであつたのであり、それは講談社現代新書の『日本海海戦の真実』で批判されてゐるが。
Amazon.co.jp: 本: 日本海海戦の真実
東郷元帥自身が日本海海戰において、バルチック艦隊のコースを事前に豫測したと云ふ事と、敵前囘頭を突然命じたと云ふ事とは、相良俊輔氏がドキュメンタリー「バルチック艦隊の最期」で述べてゐる。のみならず、事前に日本艦隊が大演習を行つてゐた事も述べられてゐる。あとから言出された説よりも、從來の説の方が(必ずとは言へないが)時として正しい事がある。
平成十七年五月二十八日
「A級戰犯は國内法で裁かれた犯罪者ではない」と云ふのは客觀的な事實だが、それを言ふと怒られる。しかし、「レッテルを貼つて誰かを惡人と極附け、非難する」と云ふのは、「A級戰犯」の戰前の政治のやり方を肯定する事にならないか。「非國民」と云ふ言ひ方が「戰犯」に變つただけで、結局、風潮や印象で何でも極附けるのが許される、と云ふのでは、日本は戰前も戰後も變らない。

平成十七年五月二十七日
筋は通らなくとも現実には(ある程度)通用する
私は「場」を支配する多数派と書いたはずです。あー。「場」つて徳保氏、「社會全體」ではなくて個々の「ニュースサイト」とか「ブログ」とかの事を指した積りなのね。それは無理があるでせう。「ニュースサイト」「ブログ」における投稿者の行爲は、やつぱり「インターネットの社會」と云ふ觀點から評價されるべきものでせう。
したがって、特殊なケースを除いて2ちゃんねらの価値観が「場」を支配する可能性が高く、今後生じるであろう多くの「祭り」において、勝つのは2ちゃんねらの方だろうと私は予想します。
ニュースサイトなり「ブログ」なりで暴れる2ちゃんねらーが多數であつたとしても、それを「正義」と呼ぶのは不當であると思ひますよ。「Web Log」が、「We Blog」に由來するものであり「複數の人間で作り上げるサイトである」と云ふ建前のものであつたとしても、日本的な「ブログ」は飽くまで個人の日記サイトであり、「管理人」と「閲覽者」とは對當の存在ではありません。「閲覽者」――と言ふより「投稿」や「トラックバック」――の大多數が2ちゃんねらーで占められてゐたとしても、そのサイトの正義は「2ちゃんねらーにあり」と云ふ事にはなりません。その時の2ちゃんねらーの行動は「荒し」行爲であり、「正義」に據るものとは呼べません。
或は、2ちゃんねるのローカルルールが可能であるならば、「ニュースサイト」「ブログ」もローカルルールによる對抗が可能です。その是非を判定するには、「インターネット社會」全體からの觀點が必要となり、そこで2ちゃんねるは「一掲示板サイト」に過ぎなくなります。「2ちゃんねるのローカルルール」は、まさにローカルルールに過ぎない、と云ふ事になります。「インターネット社會」全體から見れば、2ちゃんねらーの(徳保氏の所謂)「祭」における行動は「荒し」行爲以上のものと見られません。
筋の通らないローカルルールであっても、一定の効力を有するに違いない……と、そういう話です。
「筋が通らないローカルルールを無視して筋の通つた事をするのまた、一定の效力を有するに違ひないし、その效力こそが正義の效力である」と俺は信じてゐます。と言ふか、正義ならば、既に筋を通さうとしてゐる筈のものです。最初から筋を通さうとしてゐない事は、どんなに力を發揮したとしても、正義とは呼べません。自分の利權を守るだけの爲に筋の通らない不當な手段を用ゐる、と云ふのは、ただの我が儘です。
と言ふか、徳保氏、これを上回る人数の「一般人」を連れてくることは非常に困難です。と述べてゐて、「正義は理窟ぢやない、力なんだ」「暴力には暴力でやり返せ、やり返せなければ負け」と言つてゐるのですが、それならば論理は全くの無意味となり、言論そのものが無意味となります。當然、徳保氏のサイトは全くの無意味と云ふ事になります。さう云ふ自己を否定するやうな發言は愼んだ方がよろしいでせう。と言ふか、前から言つてゐるのだけれども、解らないんだよなこの人。なんで惡き「価値相対主義」を信奉できるのかね。いや、もちろん徳保氏は、信じてゐないのです。信じてゐる人ならば、例へば「義」ですが、理窟等一言も言はず、ひたすらデマを流し、氣に入らない相手を陷れようと劃策し、アジテーターに徹します。それは犯罪ですが、犯罪者になるのが嫌なので、徳保氏は徹底した態度を取れません。中途半端で曖昧な立場からそれつぽい事を言つて、納得されればめつけもの、納得されなくても「正義は相對的」に逃込めばそれで保身が可能である――さうやつて徳保氏は好い加減の立場を自分に都合良く利用してゐるのです。と言ふか、一定の効力を有する、なる言ひ方は曖昧で、既に私がしたやうに簡單に相對化可能で、依つて言つても仕方の無い事であるのは明かですが、さう言ふ曖昧な事を尤もらしく述べて、徳保氏は自分では「良い事を言つた!」と思つてゐるのです。處置ナシ。
やつぱり、筋を通さうとするのは正しいのであり、目的の爲に筋の通らない手段も平氣で採用する、と云ふのは正しくないと言つて良いでせう。もちろん、筋を通さうとして失敗する事はあり得ますが、だからと言つて、最初から「潔く」筋を通すのを抛棄するのはナシです。と言ふか、2ちやんころの、その中でも特にアレな連中を、徳保氏は何で「正義」なんて言つてわざわざ擁護しなければならないのですかね。
「2ちゃんねらーは怒らせたら危ないよ」くらゐの事を言つてゐるのならば、俺も別に文句は言はない。けれども「集團で襲つて來る2ちゃんねらーにこそ正義あり、暴力こそが正義なのだからである」みたいな事を徳保氏は言つてゐる訣だ。許し難い事だ。さう思つて俺は徳保氏を叩いてゐる。徳保氏は、「正義」と言はなくても良いところでわざと「正義」と言ひ、正義の觀念を冒涜してゐる。
2ちゃんねらーが「祭」で「勝つた」としても、それは「正義が勝つた」事にはならず、「荒しがサイトを潰した」だけだ。
平成十七年五月二十七日
おつかれさまです。何うも御馳走樣でした。またよろしく御願ひします。
平成十七年五月二十七日
本日の買物。古本。和洋会。大當り。スチムソン・清澤冽譯『極東の危機』(中央公論・別册附録)。西谷啓治『寒山詩』。アラン『家族の感情』。竹林無想庵『無想庵獨語』。芳賀矢一『校註國文學史十講』(冨山房百科文庫67)。日夏耿之介『鏡花・藤村・龍之介そのほか』。小西甚一『俳句 發生より現代まで』(研究社學生文庫)。つださうきちの非學術的な本四册。
平成十七年五月二十七日
本日の買物。新刊。亀井勝一郎『現代史の課題』(岩波現代文庫学術143)。今日たまたま見附けて買つた『極東の危機』が、松本健一の解説で言及されてゐた。
平成十七年五月二十七日
既に赤肩な話題だが虹裏三分割。may鯖にて無念としあき復活。しかし掲示板の仕樣が違ふ。色々な意味で素直に喜べない。虹裏最大の特色はユーザが多過ぎる程に多過ぎて流れが速過ぎる程に速い事だつたのだが……。

平成十七年五月二十六日
ネギま。展開速いよ。ばとる。援軍。まさに「いいところ」に來るエヴァ樣。高島俊男なら「漫畫」とか言つて切捨てるところ。本の雑誌の今出てゐる號を參照の事。俺はかう云ふ話、嫌ひではない。と言ふか面白かつた。原作知らないからなのかも知れんが。端折り過ぎらしい。
極上生徒会。今週はてすとの御話。馬鹿話がいいおはなしに。千和、今時ないやうな貧乏。落ちナシ。今期は水曜深夜に面白いあにめが集中してゐる。とか言ひつゝLOVELESSは勘辨。ねます。
平成十七年五月二十六日
「セレブになりたい女性たち」 | 負け犬OL麗子のうっふん日記
それはそうと、気になるのは言葉の乱用。金田一先生も草葉の陰で泣いているだろう。
金田一先生は、京助の事か春彦の事かは知らないけれども、いづれにしても絶對に泣いて等ゐない。彼等は「言葉の乱れ」を認めない立場の人だからだ。
平成十七年五月二十六日
ではさう云ふ事でよろしく御願ひします。
平成十七年五月二十六日
筋は通らなくとも現実には(ある程度)通用する
日本の社会において、正義は「場」を支配する多数派の価値観(に基づく感情)が決めます。
2ちゃんねらの意思に反しても潰されない自信がある人は多くない。身勝手なローカルルールなりに、実効性はあると思う。
日本でも何處でも關係ナシに、社會なり共同體なりにおける多數派の價値觀が社會なり共同體の正義を決める。だが、「2ちゃんねる」は「インターネットの社會」とイコールではない。よつて、「2ちゃんねるの正義」は「インターネットの社會の正義」とイコールではない。
徳保氏は「2ちゃんねらーが外部の人間に迷惑をかける事の脅威」と「社會の正義」とを混同してゐる。
ついでだから正義の相對性について論ずる。「社會の正義」は「社會の正義」であり「個人の信ずる正義」とは必ずしも一致しないし、一致しなければならないと云ふ必然的な理由もない。正義は相對的である。しかし、現在の議論において、「社會」「個人」「正義」と云ふ語はいづれも定義が曖昧なまゝで使用されてゐる――と言ふより、餘りにも一般的な觀點から使用されてゐる。一般論としての「社會の正義」と、特殊論としての「或特定の社會における正義」とでは話が變る事には注意が必要である。後者では、文脈としての「或特定の社會」が限定されてゐる爲に、その或社會における「正義」も限定される。「正義は相對的だ」と云ふ一般論は、一般論としての「社會の正義」の話においてのみ成立するに過ぎない。この邊の事を勘違ひして、他人の主張する「正しい事」を、一般論の立場から否定する事が出來る、と思ひ込んでゐる論者が少くない。文脈は讀むべきである。
平成十七年五月二十六日
void GraphicWizardsLair( void ); // 「人を騙すのであれば、まず高価な身なりをしてやさしい語り口を訓練して綺麗な字を書けるようにしよう。そして肝心な部分を隠しても見た目で察してくれる村文化を悪用しよう」
ところでvoid GraphicWizardsLair( void ); //は、どうしてcookieを喰はせて呉れるのだらうか。本質と關係ない突込みでごめん。
平成十七年五月二十六日
佐藤惣之助全集 随筆編/詩集上下卷

平成十七年五月二十五日
「完全な批評家」より
平成十七年五月二十五日
竹山道雄『剣と十字架』讀了。
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東ドイツから西へ逃げて來た哲學者ギュンター・ツェームの手記を竹山氏は紹介してゐる。

西のラジオ放送や西ドイツの学友を通じて知ることができたのだったが、ワルシャウで若い哲学者のレゼク・コラコウスキーが意見を公表した。それは、もし党がほんとうにスターリン時代の教条主義を批判しているなら、党機関に対して学問の立場からむけらるべき四つの不可欠の要求がある、というのだった。われわれはこの要求がまたわれわれの要求でもあることを、ただちに認めた。また、ポーランドではすでに許されていることが東ドイツでは許されないでいることを、知った。その四つの要求とはつぎのようなものである。

第一、学問研究は政治的理由によって制限されてはならない。したがって、党の気に入らない分析も公表を禁止されてはならない。

第二、学問研究の領域で、何らかの真理が「政治的に正しい」と告知されることがあってはならない。「このようなことが行われれば」とコラコウスキーは書いている。「精神科学は死んでしまう。そのすることはただ社会主義の外見のために花環を編むだけになってしまう。それを愚かな者たちは本気でやるが、頭のある人々はシニックにやる。学問的思考の原則が力でゆがめられると、生れるのは学問的シニズムである」

第三、精神科学にはいかなる特定の方向も指示されてはならない。

第四、こういうことを言わねばならぬのはじつに恥ずべきことだけれども、いかなる歴史的資料も国家によって改竄されてはならない。すべての学者はその見解を事実に即し根拠をもって基礎づけるべきであり、学問上の敵をきたなく誹誇したり、いわんや政治当局に密告などをしてはならぬ

東ドイツはベルリンに壁を築いた。竹山氏は、本書で當時の東ドイツの状況を記録してゐる。それは今の視點から見て正確である。一方で、竹山氏は、ヴォルフガング・レオンハルトの以下のやうな提案を支持してゐる。

安全保障会議でも中立者の媒介でもあるいは直接交渉でも、形はいかにもあれ、談判をすること。その目的は(当面の、すべて当面のである)東ドイツの政権を、自由選挙による(ただしその際に統合の問題は論題としない)あたらしい政権に変えること。もしこれが実現されないなら、東ドイツの大部分の人民によってうけ入れられる政権に変えること。基礎人権(言論の自由)の保障。法治国家。このようにしてあたらしく生れた東ドイツ国を、ある試験期間の後に西側諸国と西ドイツが承認する。オーデル・ナイセ国境をも承認する。ケネディが、西ベルリンの刺戟物と呼んだもの(反共放送局など)を次第に撤去する。

ツェーム氏の言つてゐる事も、レオンハルト氏の言つてゐる事も、我々ならば受容れられる(筈の)事である。しかし、「東側」の連中には通用しなかつた。現實の歴史では、レーガン大統領の仕掛けた軍擴競爭の結果、ソ聯が經濟的に疲弊し、ゴルバチョフ氏がペレストロイカをやつて、それでベルリンの壁も崩れる、と云ふ事になつた。東ドイツの問題は「談判」で片附いた訣ではなかつた。
で、今、日本の御隣で、非道い事になつてゐる訣だが、北朝鮮を何うするか、と云ふ事を我々は考へつゝある。何箇國だかで協議をやつてゐる訣だけれども、アメリカが腰を据ゑて何うにかしようとしなかつたら何ともならないだらう、と野嵜は推測してゐる。が、さう云ふ他人に任せるしかない政治の事を、本氣になつた積りであれこれ考へてみても仕方がない。
本書の最終章で、竹山氏は再び文化論に戻つて、ドイツ人――或は西歐の連中の精神構造を問題にしてゐる。題して「神もいる、悪魔もいる」。竹山氏は書いてゐる。

右に記したのは、ヨーロッパの力と力の緊張の世界に接して瞠目した、私のひそやかな私感である。

私は、われわれの祖先からの気持にはキリスト教で育てられた人々とはちがうところがある(あたりまえの話だが)と思い、またキリスト教にはまだ私には分らないものがあるから、それを記した。これによってキリスト教を貶そうという気持などはすこしもないし、この範囲のことを書いても、それが侮辱であるということはないだろう。そして、そのいまはただ潜在的な気質となった異端折伏的精神が、ほかのもろもろの大きな原因(たとえば科学による一元論的説明)と共に、現代のうごきの一つの因をなしているのではないか、という感想を書いた。こういう大問題を軽々にあつかうべきではなく、根本的な研究が必要なことはわきまえているが、まだそれをしたものがないから、一つの仮説をたててみたのである。

平成十七年五月二十五日
東ドイツは當時、徴兵制ではなかつたとの事である。しかし、人民が兵役に就かなければ生き難い状況が作られてゐた。共産主義は、「自發的」と云ふ事を重視する。しかし、その「自發的」は、本當の自發的ではなかつた。
集團農場を作る爲に、農民に「協力」を要請した東ドイツ政府の工作員は、應諾しない農夫に對して、「協力しないのは平和の敵であり西側との密通者の證據である」と極附け、「何らかの言掛りを附けて告發する」と云ふ脅迫を行つた。建前として、農業生産組合への加入は「自發的」に行はれなければならない、と云ふ事になつてゐたのであるが、實際には全然自發的を許すものではなかつた。
ところで、我が日本國に、形式的には全く強制されてはゐないけれども、「自發的」に何かに從はなければならないと云つた風潮が作られてゐる、と云ふ事實はないだらうか。ないなら有り難い話である。
ツェーム氏の手記にあるコラコウスキー氏の要求は、日本國の政府に突き附けられる必要は、確かに「ない」と言へる。けれども、日本政府に代つて、民間の人が他の民間人に「自發的」に或種の態度をとるやう強制してゐる事實はないだらうか。繰返すが、ないならば大變結構な話である。
平成十七年五月二十五日
中共の副首相が靖國參拜反對を理由に小泉さんとの會談をキャンセルした件に就いて。「別に靖国なんて何うでも良い」と思つてゐる日本人の多く(多分半分はさうだらう)が、小泉さんの靖國參拜を積極的には支持してゐないし、中共に反撥して靖國參拜を支持するやうにもならない筈であるし、況してや神道の信者になるなんて事も考へられない。けれども、「利」をとつて小泉さんは參拜を止めれば良い、と云ふ話になるのか、と言ふと、さうも行かない。小泉さんが參拜するのを良しとする人も結構ゐるからだが、まあ、餘所の國に「内政干渉」されるのは嫌、と云ふ反撥もあるからである。
では何うすれば良いのか――と結論を要求する人もゐるのだけれども、知らないよ、としか俺には答へやうがない。どうも小泉さん、參拜は止めるのではないか、と云ふ推測はする。
何うすれば良いかの可き論をしようにも、日本人は自らの國の正義を決定出來ないし、出來たとしても現状、日本の國には中共に對してその正義を押附ける爲の「實力」――即ち軍事力――がない。ならば、「理」でどうにかしようにも無理であつて、と云ふのは、「理」を押附けるのには「實力」即ち軍事力が要るからであつて、軍事力が「ない」日本國に於て「利」の爲に首相の小泉さんが屈するのは――現實的に考へれば――大いに「あり得る」。
で、もし小泉さんが、そこで無茶をして、靖國參拜だ何だで中共を過剩に刺戟すれば、東亞の情勢が變る可能性も無きにしも非ずだが、中共が日本を攻撃するか何うかは解らない。一往、日本のバックにアメリカがゐる事は、中共も承知してゐる。日本自身がまともな軍事力を持つてゐないにしても、アメリカは強大な軍事力を持つてゐる。そのアメリカに目をつけられるやうな事を中共も望まない。けれども、そのアメリカを少からぬ數の日本人が信用してゐない、と云ふ事も、やつぱり中共は承知してゐる。一方のアメリカも、もちろん日本を完全には信用してゐる訣ではない。そんな訣で、中共の動きと、日本の動きと、アメリカの動きとには、判り易い因果關係が成立しない。事態がアレな方に向つても、結局歴史が何うなるかは偶然決定される事だらう。そして、そんな結果を豫測するのは、當てずつぽうを言ふやうなもので、あんまり意味がない。
一往、話の結論を言つておけば、やつぱり軍隊を持つてゐなければ話にならんと。「理」だ「利」だと言つても、國同士の驅引きをやるのにバックに軍隊があるのとないのとでは大きな差がある。まあ、軍隊を持つて、壓力をかけ捲つて、それで結果としての利益ばつかりを追求してゐるのなら、その時には「帝國主義」呼ばはりされ、非難されても仕方がない。そこで大義名分が必要となるのだが、取敢ず共産主義は大義名分として今でも結構な力を持つてゐる。中共が安心して日本に「内政干渉」をする所以である。
で、「軍隊を持つてゐない」日本が國聯安保理の常任理事國になつて何うするの、と。
平成十七年五月二十五日
と言ふか、「日本の戰沒者」と云ふ身内の事ばつかり氣にしてゐて、「支那の被害者」と云ふ他人の事に目が屆かない日本人は視野狹窄と云ふ印象があつて、それで中共の非難に或種の説得力が出て來てしまつてゐる訣だが。身内の事も考へられないで餘所の國の人の事なんか考へられるか、と、孔子の文句でも持出して言返してやれば隨分な皮肉になるのでないかと思つたのだが、まあ、日本人は皮肉が嫌ひらしいから云々。

平成十七年五月二十四日
本が何册も本棚の中だか何處だかに埋もれて行方不明になつてゐる件について。
サイト更新。ネタ探し。本棚から本を集めて見た。のだけれども、そこで體力が盡きて挫折。續きは明日。死ぬ。
平成十七年五月二十四日
四時間くらゐ探して見附からなかつたウォルター・ローレー『シェイクスピア』(北光書房)が、創元選書の棚からあつさり出て來たよ。
ウォルター・ローレー『シェイクスピア』表紙
しかしジョンソン博士のシェイクスピア論を先に讀む。こちらは、拾つて來た奴で表紙が缺けてゐる。よつて畫像ナシ。

平成十七年五月二十三日
芍藥の寫眞、巧く撮れませんでした。
平成十七年五月二十三日
昨夜のあるある大事典で「Tシャツを著る時、頭を最初に通す人は隱れマザコン」「前齒から齒を磨く人は隱れナルシスト」みたいな事を言つてゐて、みんな納得してゐたけれども、如何なものか。どんな人にも自己愛的な傾向はあるので、「お前はナルシストだ」と言はれて反論出來る人間はゐない。
占ひにしても、占ひ師は大概、曖昧な事を言つてゐるだけで、別に運命を何らかの方法で的確に察知してゐる訣ではない。ただ、占つて貰つた人が勝手に思ひ當たる節があつてはつとする、と云ふのを占ひ師は期待するだけである。
占ひとかの類ならば、さう云ふ「誰にでも當嵌る」曖昧な「根據」が許されるし、それを聞いた人が面白がるのも自由と言へば自由。しかし、そのやうな「根據」でもつて他人を何だかんだと極附けて非難するとなつては話が別。魔女裁判と何にも變らない。
発掘!あるある大事典II WEBSITE(公式サイト)
発掘?あるあるトンデモ大実験(「斬る」サイト)
平成十七年五月二十三日
拾つて來た本。現代日本文學全集33『豐島與志雄・岸田國士集』(筑摩書房)。卷末に福田恆存の岸田國士論を收録してゐる。

……。

それと關聯しておもひだされるもうひとつのおもひでがあります。私が岸田さんの「道遠からん」を演出したときのことです。初日もすんで幾日めかに、なんとかいふ婦人團體が總見して、そのあと作者と演出家とを圍んで座談會をしたいといつてまゐりました。岸田さんは輕井澤だつたので出席できず、私だけが出ました。この作品を讀めばおわかりでせうが、卒讀すれば、これは男女同権を冷やかしたやうにも受けとれる芝居です。ですから、婦人團體の總見といふことになつたのであります。それだけに、私の野次馬根性で、どうしても婦人團體のお歴々の顏が見たくて出席したわけですが、その結果は想像どほり作者の吊しあげとなりました。あとで岸田さんとその話をしたとき、岸田さんはいつもの微笑を浮かべながら、「つまり、これを書いた作者は何者かといふことになる」と呟かれました。

……。


平成十七年五月二十二日
ローマ字主義者の人なんかがたまに「英語は糞」「イタリア語萬歳」とか言つてゐるけれども、イタリア語のローマ字表記つて讀み易いか?
平成十七年五月二十二日
ポール・リクール氏死去。著作は一册も讀んでゐないが一往。
平成十七年五月二十二日
「中央公論」昭和三十二年十一月號掲載の座談會「歴史における日本の先進性」(梅棹忠夫・鈴木成高・竹山道雄・林健太郎)を讀む。梅棹氏の論文「文明の生態史観序説」を竹山氏が褒め、林氏が評價してゐると述べたところから話が始まる。そして、日本の後進性は強調され過ぎた、日本と西歐との間には歴史上の平行現象がある、日本は他のアジア諸國と違ふ、日本は最早宗教的ではない、そもそも社會があつて後から問題を解決する爲に思想や宗教が出て來るのであつて日本で新興宗教なり何なりの個人的な宗教が出現してゐるのは日本が既に古い集團的な宗教を必要としてゐないからだ、現代は精神的な危機の時代と言はれてゐるが物質的に豐かになつてゐるのだから寧ろ歴史の黎明期と言へる、日本の近代化は西洋のそれを移入したものではなく自分自身で發展・成立させたものだ、日本は西洋的文化にはなつてゐない、日本の近代化は整然としたもので歪みは全く無い、歪みに見えるやうなものもあるかも知れないがそれはどの文明でもあつた事だから當り前の事で氣にする事はない、日本の工業も農業も素晴らしいものだ、過去のものと近代のものとが出鱈目に混在してゐるのは日本だけの問題ではなくヨーロッパでもある事だ、何といつても今の日本は豊かである、和魂の中には洋魂的なものがあつたから急速な近代化を和魂洋才で乘切れた、寧ろ日本は條件が惡かつただけに逸早く危機を脱し得た、云々、と梅棹氏は樂觀論を展開してゐる。鈴木氏がそんな梅棹氏に「抵抗」してゐるが、梅棹氏は全部近代の中に組入れられて、秩序整然と動いているならば、それでいいじゃないですか。現代では先生のおっしゃったことは全部あまり意味を持たなくなりつつある。(笑声)それは単なる趣味の問題です。と切捨ててゐる。鈴木氏、そうか、僕は不贊成だが、しかしそういう楽観はおもしろいな。と最後に一言。俺はちつとも面白くない。

平成十七年五月二十一日
宇野精一『儒教概説』日月社
平成十七年五月二十一日
養徳叢書コレクション
取敢ず手持ちの分は全部公開した。
平成十七年五月二十一日
フセイン元大統領の寫眞が流出して英國The Sun誌に掲載されたのださうだけれども最う騙されないぞ。
平成十七年五月二十一日
kankichi@blog:SAKURA edition: CSSによるデザインはそんなにコストがかかるのか?
悪いのはCSSでもテーブルレイアウトでもなく:できる!CSSを使いこなす
平成十七年五月二十一日
組織改定でCSSプチ・リニューアル、WEBデザイナー
CSSレイアウトの利点と需要、WEBデザイナー
CSSを薦める人はショッカー扱いですか?:できる!CSSを使いこなす
世間では「レガシーなホームページ製作=tableレイアウト」「CSSによるサイト制作=div使ひ捲り」みたいな發想が瀰漫してゐる?
平成十七年五月二十一日
本とか雜誌とか散らしとかのデザインをやつた經驗があるデザイナはウェブサイトを製作する際にも紙の上の場合と同樣にレイアウトをがちがちに固めたがる。と云ふ説。
平成十七年五月二十一日
「blog」によつて、「表紙」に出てゐるエントリを讀むのは樂なのだけれども、それより前の過去ログを順番に見るのがとても難しい、と云ふものがあつて、苛々したり。
「blog」の生成ツールによつて出來上る「blog」の閲覽方法に一々獨自ルールがあつて、あちこちの「blog」を見る時、似たやうなものなのに、それぞれの「blog」で一々「操作方法」を探らなければならない事があつたりして云々。
平成十七年五月二十一日
日本の「blog」で「カテゴリ」から記事を探す、なんて事をする閲覽者はあんまりゐないのではないか。ふつうの日記では、「カテゴリ」分けなんてそんなに意味があるものではない訣で、それに頼つて記事を探す、なんて事も、やつぱり意味があるものではないだらう。「ウェブ日記」として「blog」のシステムを利用してゐる制作者も、その邊の事は屡々解つてゐて、とんでもなく馬鹿馬鹿しい「カテゴリ」をでつち上げて、遊んでゐたりする。が、そんな場合、さらに閲覽者にとつて「カテゴリ」は意味のないものとなる。メニューから消せとすら言ひたくなる。
とにかく或特定の日附に書かれた日記を讀みたくて讀みたくて堪らない、と云ふ閲覽者は、そんなにゐるものではないだらう。ならば、カレンダからその日附の記事を見ようとする、と云ふ閲覽者も、やつぱりあんまりゐないと言つて良い。「ウェブ日記」の閲覽者は、大概、並んでゐる記事を上からだらだらと眺めるものではないか。ならば、「blog」の類には、一々個別の日附の記事にのみリンクを張ると云ふ「カレンダ式のメニュー」も要らない、と云ふ事になる。「blog」の「表紙」には「次のページ」へのアンカーがあればそれで十分だ。ただ、「過去ログの纏め讀み」を便利に出來るやうに、月毎に記事を纏めて讀めるやうなメニューは用意しておいて良いだらう。
單純に、外國で「メディア」として利用される爲に考へ出された「blog」を、日本的な「ウェブ日記」の世界に單純に持込むのは如何なものか。利用目的に應じて適切にアレンジする事は必要ではないか。さうなると、「blog」を「blog」として日本でそのまゝ普及させようとするのは誤ではないか。

平成十七年五月二十日
竹山氏『剣と十字架』。ドイツ人の國民性――現實よりも論理を重視する。神の名による「人道的な征服」。強い表現とは威壓的な表現であるとでも思ひ込んでゐるとしか考へられない彫刻や銅像。イデオロギーに從つて、ヒットラーの演説に熱狂したり、收容所でユダヤ人を虐殺したりしたドイツ人。なほ、今言つてゐる國民性とは、國民の行動原理ではなく、國民の行動に見られる傾向の事。竹山氏も注意して、そんな國民獨自の原理があるとしたら、千九百二十年から三十年頃にかけて、世界の各國が一齋に危機的な状況に陷つた理由が説明出來ない、と述べてゐる。ただ、さうした状況に陷つた時、各國の對應の仕方がそれぞれ獨特であつた事は否定出來ないが、それが國民性である。
東ドイツがアウシュビッツの收容所を修復し、ナチスの暴虐の非を鳴らし、西ドイツの政權を「ナチスの復活」と非難したのに對して、對抗上、止むを得ず、西ドイツがユダヤ人虐殺に關して反省の態度を表明して見せた事。
東ドイツから西ドイツへの脱出が跡を絶たなかつた事。東ドイツの年鑑に據れば、千九百五十年代、東ドイツの人口が減り續けてゐた事。それを東ドイツ政府は、一見尤もらしいが、多くの突込みどころがある仕方で、説明しようとした事。當時、竹山氏のしたやうな事實に基いた指摘を、結論が「反共」的であると云ふだけの理由で否定する勢力があつた事。結局、竹山氏の方が正しかつた事。今、その正しい事を言つてゐた竹山氏の著作が「古い」と云ふ理由で全然讀まれない事。
竹山氏の觀察した事實が古びてゐるにしても――實際には、現在も朝鮮半島に似たやうな状況があるので、全く古びてゐる訣ではないのだが――竹山氏のした觀察の方法それ自體は、或は檢討の方法それ自體は、今でも有效であり參考になる事。
平成十七年五月二十日
http://gi-samurai.homeip.net/diary/2005/05/18
どうもです。
平成十七年五月二十日
下手に良く知らない本を發掘して來るとろくな事にならないので、資料があつて確かなものを紹介する事にしようと思つて、取敢ず本の紹介サイトを作らうと思ひ附いた。で、例のアレについて、何册か「現物」があるので何とかなるだらうと云ふ事で、取敢ず養徳叢書コレクションなんてサイトをでつち上げてみたのだが。
調べて見たら、養徳社は現存。
図書出版 養徳社
天理教の出版社なのだと。
平成十七年五月二十日
昨夜、讀んでゐた××××があまりにアレなのでぶち切れてアレしたら色々とアレな事に。夜中にぶち切れるのはアレなのでこれからはやめよう――と反省してみたが、野嵜の反省は過去においてあんまり役に立つてゐないのは事實である。
今年は長期戰だつた。が、まだ終つてゐない。そんな訣で遊んでゐる暇はないのである。が、虹裏が呼んでゐる。どうしたものだらうか。
平成十七年五月二十日
T.M.Nの掲示板がハーレム状態である件について。すぱむ。

平成十七年五月十九日
ネギま。背景、やけに氣合が入つてゐる。月詠? クマー。
極上生徒会。丁度いけめんのところに地震テロップ。ええと會長さん怖いんですが。
平成十七年五月十九日
『戦争は消えない』讀了。戰爭は軍事的な機能と非軍事的な機能とを持つ。恒久平和を實現するには、戰爭の擔つてゐた非軍事的な機能を、戰爭以外の方法で代替するしかない。それは可能か。大凡、可能とは思はれない。しかし、不可能と言切る事も出來ない。何しろ過去の歴史で人類は恒久平和を經驗した事がない。だから、平和の實現は危險を伴ふ。それは、戰爭制度の繼續よりも危險であるとすら言へる。しかし一方、何らかの理由で、或は偶然、唐突に全世界が完全な平和を實現してしまふ事も「あり得ない」とは言切れない。だからこそ、平和と戰爭の研究は繼續されるべきである。と云ふアメリカ政府への勸告を研究グループの人々は行つた、との事である。
言つてゐる事、方法論、其の他、は、既に我々にとつて、或意味常識となつてゐる。ただ、其の常識を、我々日本人は、アメリカやその他の國の研究者に教へて貰つてゐる事、結局のところ、單に利用してゐるだけである事は、覺えておいて良いと思ふ。一往、こんな本が出て來てゐるのだから、戰爭とか平和とかについて、考へた連中は向かうにゐるのだらう。そして、この報告が出て以来三十年の間に、アメリカ人は、全體として、或は支配層において、どれだけ戰爭や平和に關して理解を深めてゐるのか、はつきりと斷言出來ないけれども、まあ、時々は考へてゐるのでないかと思ふし、それも結構、徹底して考へてゐるのではないかと思ふ。が、さう云ふ――價値觀を排除した――客觀的かつ徹底的な調査を、日本ではやつてゐるのだらうか。憲法調査会のやつてゐる事は、人々の主觀的を基にした意見のすり合せであり、事實としての問題の分析ではない。
平成十七年五月十九日
「べき」論から行けば、「正義は失ふべきではない、よつて戰爭は無くすべきではない」と云ふ事になる。「である」論から行けば、「戰爭と云ふ制度がある。その制度を維持する爲に正義の觀念が存在する」と云ふ事になる。ただ、後者の場合、「戰爭と云ふ制度」は「なくなる可能性がある」と云ふ事になる。その時、正義の觀念の代替となるものを恒久平和の社會において創り出す事が出來るか、と云ふ疑問が提出される。この疑問は『戦争は消えない』でも提出されてゐる。ほかにもいろいろの問題が提示されてゐる。「平和を實現する計畫を立てる際には、それらの具體的な解決策を示さなければならない」と、『戦争は消えない』では述べられてゐる。傲慢な口調で「それが出來ないのだから、平和主義者は間違つてゐるのである」とまでは言つてゐない。しかし、多くの平和主義者の樂觀的な平和の計畫については不滿が述べられてゐる。アメリカ政府への提案として、戰爭と平和についての研究機關を創設する事が示されてゐる。
この研究報告が出て以來三十年以上經つてゐるけれども、提案が實現したのか何うか、俺は知らない。
ベトナム戰爭を途中で止めたアメリカは、その後、灣岸戰爭をやり、イラク戰爭をやつてゐる。ブッシュ大統領は「テロリストに對する戰爭」と言つてゐる。ブッシュ大統領の述べた大義名分は、最初から「怪しい」と言はれ、事實として「間違ひだつた」と指摘されてゐる。けれども、さう云ふ正義の側面ではない面から、對イラク戰爭を考へる事は、日本人は嫌がるかも知れないが、不可能ではないのではないか。
平成十七年五月十九日
クラウゼヴィッツの「戰爭は他の手段を以てする政治の繼續である」――即ち「國家が先にあり、その屬性として戰爭がある」と云ふ發想を、研究者らは疑問視した。そして、檢討の結果、戰爭こそが最初にあつて、その結果として國家が存在する、と云ふ結論が出た。戰爭と云ふ制度によつて、國家は對外的な敵を設定する事で國民の間の對立を解消し、國家として國民を統合してゐる。ところで、さう云ふ『戦争は消えない』で述べられてゐる戰爭觀は、實は歐米の連中の間では割と一般的なものであつたのだと書かれてゐる(訳者あとがき)。

平成十七年五月十八日
本日の買物。『戦争は消えない アメリカの告白』(氏家尚譯・産業能率短期大学出版部・昭和四十四年五月二十四日初版發行・原題"The Report From Iron Mountain")。途中までしか讀んでゐなくて結論部はぱらぱらとしか見えてゐないが、要は戰爭が國家の屬性なのではなく、國家が戰爭の屬性なのだと。國家體制そのものが戰爭を遂行する爲の體制であると。だから戰爭を無くすのは物理的・經濟的・社會的にほぼ不可能な位困難な事であると。アメリカ政府の命により、十五人の學者等が集まつて討論を行ひ、全員一致の結論だけを書いた報告書なのださうだが、餘りに身も蓋も無い内容なので、公表が躊躇はれてゐたと云ふもの。所謂「道徳的」な價値觀を排除して、「物理的」な物の見方に基いて、社會學的・經濟學的に檢討した客觀的な報告書で、それで「戦争は消えない」と言つたものだが、譯した朝日新聞の人曰。訳者あとがき

われわれが、本書の日本語版の刊行に踏み切ったのは、くさいものにはフタをする姿勢を避け、アメリカの支配層にはこのような考え方が一般的であり、政策の基本になっている事を知ってもらいたい、と考えたからである。安保条約とドルの傘の下にある日本國民にとって、けっしてひとごとではないはずである。日本の外務省も、本書を参考資料として省内に配っているほどであり、また、こういう欧米の見方に比べると、戦争というしろものを、完全に、しかも永久に追放したうえで人間社会をつくりあげようと志す日本国憲法が、人類の作品として、いかに破天荒にすぐれたものであるかも知られるのである。

「この本の結論はアメリカ人の出した結論に過ぎない」と云ふ單純な「價値相對主義」に基いた感想であるが、場所のみならず時代までが異る事となつてしまつた現在の日本において、千九百六十年代のこのアメリカの報告書は、當事者が客觀的たらうと如何に心がけてゐたとしても、客觀的な結論として受容れられない可能性は高いだらう。だが、この氏家氏が禮讚してやまない日本國憲法が改正論議の對象となつてゐる現在、寧ろ「氏家氏流」の「價値相對主義」で「アメリカ人だけの考へ」「昔の考へ」と極附ける發想こそが疑ふべきものであり、「戦争は消えない」と云ふ發想こそが根本的に疑はれるべきである。その爲に、當時として客觀的に檢討され、その結果として下された「戦争は消えない」と云ふ結論は、その結論を出す方法と、その理由とともに、考察の爲の參考になるものであると考へる。が、今、この本を何處からか探して來て讀み玉へと言つたところで、さうさう出て來ないものであらう。それに、或意味、本書において提示された方法・理由・結論は、既に一般化し、常識として語られ、剩へ飽きられてゐるとすら言つて良い。それよりも、「なぜ今更、野嵜はこんな事を大袈裟に言立てるのだらう」と、その程度の批判が出て來るだけであると思はれる。實際のところ、野嵜自身も、この本を大袈裟に「名著である」等と言立てる積りはない。
平成十七年五月十八日
竹山道雄『北方の心情』所收の「獨逸的人間」。ゲーテを採上げて、彼の詩は直觀的であると評されるけれども、それはドイツ人基準ではさうであるに過ぎず、日本人の感覺から言へば依然觀念的であると評し、ドイツ人にとつては事實そのものよりも意味や觀念の方が重大であると述べる。ゲーテはイタリアに憧れを抱き、實際にイタリアに行つても、憧憬の念を通してしか事物を見る事が出來なかつた。云々。之は戰前の文章。
そこまで讀んで『剣と十字架』に移る。こちらは戰後の文章。東西にドイツが分けられてゐて、壁で完全に東西のベルリンが分斷される直前の状況を記してゐる。一般論として、ドイツの建築や銅像は露骨な力の誇示である。東西に分離したドイツは、不倶戴天の敵のやうに睨み合つて、激しい敵愾心を以て對立してゐる。かうした「むきだしの力のあらはれ」を、日本人は「愛の宗教」としてのキリスト教の觀念とは矛盾するものと見る。だが、竹山氏は、寧ろさう云ふ日本人のキリスト教觀こそが間違つてゐるとする。キリスト教において、キリスト教徒のみが救はれるべき人間である。異教徒は、人間ではなく惡魔の手先である。或は、屡々さう考へられて、西歐のキリスト教徒は、擇ばれた人間として、自信を持つて異教徒を攻撃し得た。中世以降キリスト教化されたゲルマン人は、もともと戰鬪的な性質を持つてゐたが、キリスト教を「奉じて自信を得た」、これを報ずれば、自分はあくまでも正しく、しかもかならず勝つのだった。その受容は主として叩かう者を鼓舞する信条という面が強調されたのであって、まだ未開だったゲルマン人は隣人の愛という面はあまりうけとらなかった。云々。これは竹山氏の述べてゐる事である。竹山氏は、十字軍以來ヨーロッパでは自分がつねに正しいと確信してうたがわない選ばれた者が、使命のために武器をもって征服をはじめた。、「布教インペリアリズム」が起つたと言ひ、これは近代にいたるまで、ヨーロッパ人の対外行動の原型となった。と指摘してゐる。日本に開國を迫つたアメリカ人の考へも、アフリカに對するフランス人の考へも、異教徒を説伏する人道的な使命感に基いたものであり、――クリスチャンではないスターリンやヒットラーもまた――さうした強烈な布教の意識に基づいて行動してゐた。さう竹山氏は述べる。さて、かうした彼我の比較は、それ自體として現實にどれだけ適合してゐるか、或はそもそも現實であるか、は檢討の餘地はあらう。ヨーロッパ文明をキリスト教の文明として解釋する事には異論があらう。しかし、單純に「發想として古い」と切捨てるのは如何なものか。その種の「布教インペリアリズム」の問題を指摘してゐる點、我々にとつて他人事ではない筈である。野嵜が實際にさう云ふ事をやつてゐるとか、或はさう云ふ野嵜のやつてゐる事を批判するとか、さう云ふ事を議論する場合にも、この「布教インペリアリズム」の觀念は生きた問題として現在も「ある」。ならば、本書は、東西冷戰の頃の「古い本」として、單純には切捨てられないものである。そして、現に我が隣國である北朝鮮と韓國とは、東西のドイツのやうに同じ民族が對立し、いがみ合つてゐるのであり、かかる現状において、本書に記録された自由陣營と共産陣營の國民の感覺・感情・意見・愚痴は依然として參考になるものである。個人的には、さうした政治的な興味から讀むよりも、文化の面に對する興味から讀む方が、ずつと良い讀み方であるやうに思ふが、それを讀者に押附けると「布教インペリアリズム」の類として非難されるのであらう。

平成十七年五月十七日
本日の買物。竹山道雄『剣と十字架 ドイツの旅より』。ルネッサンス双書『シェイクスピアと宗教』『シェイクスピアとその時代』。ロバート・ネーサン『ジェニーの肖像』。

平成十七年五月十六日
Akimboさん、めーる送つて下さつたさうなのですが、當方まで屆いてゐないのですよ。申し訣ありませんが、最う一度送つてやつて下さい。掲示板の野嵜の投稿(5月15日(日)12時25分26秒)のフォームからなら屆く筈です。よろしく御願ひします。
平成十七年五月十六日
屆きました。
平成十七年五月十六日
本日の買物。竹山道雄『北方の心情 ドイツ文化への省察』『手帖』。『ニーチェ詩集』。

平成十七年五月十五日
雷と雹。虹裏でも騷ぎに。
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平成十七年五月十五日
虹。
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平成十七年五月十四日
『日本を思ふ』の單行本と文春文庫版との違ひについて。
日本近代化にまつはる諸問題
日本および日本人
個人主義からの逃避
日本人の思想的態度
近代の宿命
演劇的文化論
戀愛と人生
日本現代の諸問題
A
平和論に對する疑問
進歩主義の自己欺瞞
平和の理念
自由と平和
當用憲法論
現代國家論
僞善と感傷の國
B
文化とはなにか
紀元節について
教育・その現象
教育・その本質
言葉は道具である
國語問題早解り
國語審議會に關し文相に訴ふ
傳統技術保護に關し首相に訴ふ
教育改革に關し首相に訴ふ
人間・この劇的なるもの
強調で示したものが文庫版に再録されてゐる。文庫では「日本現代の諸問題」のA・Bの區分ナシ。
平成十七年五月十四日
めも。
【特集】Windows XP大百科(MYCOM PC WEB)
平成十七年五月十四日
神保町の田村書店の店頭にまた「聲」の揃ひが出てゐる。
平成十七年五月十四日
適宜覚書: オンラインの学習素材公開もっと増えるといいな
更新日記5/14/2005 (Sat.)日記] 日本版OpenCourseWare
国内有名6大学の教材を無償で公開--受験に合格しなくても学べる? - CNET Japan
OCW

平成十七年五月十三日
13日の金曜日ですよ。だから何だと言はれても困るが。
平成十七年五月十三日
例によつて本日の買物。宇野精一『儒教概説』(日月社)。三木幸信『日本語の歴史』。アーノルド・ベネット・小野寺健譯『ヒルダ・レスウェイズの青春』。D.H.ロレンス・木屋太郎譯『チャタレイ夫人』(ロゴス社)。ネヴィンソン『英國人』(南雲堂不死鳥選書)。竹友藻風『肯定的精神』。きだみのる『気違い部落紳士録』(時事通信社)。矢崎源九郎『これからの日本語』(三笠書房)。

平成十七年五月十二日
野嵜は論理の普遍性を信じてゐるのだけれども、これも一種の信仰であるらしい。
平成十七年五月十二日
強者である事と傲慢である事とは違ふ。松原先生は「人は傲慢であつてはならない」と述べてをられる。それは、松原先生を尊敬してゐる人間ならば全員、肝に銘じてゐる事だ。
「國語國字」第百八十三號に講演の記録が載つてゐるけれども、小林秀雄が松原先生に論理の穴を突込まれた時、默つてしまつたのを、松原先生は「人徳だ」と評してをられる。また、かつて、追悼文で、福田恆存氏を「強者だつた」と御書きになつた事がある。
弱者と強者について考へる時、福田氏が譯したロレンスの默示録論の記述は示唆的である。弱者が強者に對して抱く復讐心――それは大衆の權力慾なのだが――は大變忌まはしいものである、とロレンスは述べてゐる。ロレンスに據れば、さう云ふ忌まはしい弱者を、強者であるキリストが自らの宗教で救濟しようとしなかつたのは、キリストの重大なミスである。
……この邊の事を書きたいのですが、奇魂九號の締切は何時でせうか>高坂さん。書くとしたら來週。締切が早いのなら、出來合の蜜子さん新生篇を送りますが?
平成十七年五月十二日
某ノズラースレのnoz_watcherさん、前に「これが最後の投稿」とか言つてゐたのにまたまた來襲。詳細は正字正かな掲示板。人を不快にする目的で惡口を言ひに來た模樣。野嵜を反面教師にすると言ふのなら、もつと増しな事をして下さい。
平成十七年五月十二日
ネギま! 化けたと思つたら幽靈さんの御話。泣ける。
極上生徒会。化物人形プッチャンの御話。笑へる。
平成十七年五月十二日
ネギま! 「本學」「樂しみ」の漢字が正漢字なのは良いが、「植える」とやつてゐるのが惜しい。正解は「植ゑる」。
平成十七年五月十二日
本日の買物。
『東西文化比較研究 日本美は可能か』日本文化会議編 研究社
「第一セッション」、高階秀爾氏の發表「美意識を支えるもの」を受けて、福田恆存氏がコメントを述べ、引續き行はれた自由討論に參加してゐる。

平成十七年五月十一日
最う赤肩つぽい話題だけれども、うちの名前もちらつと出て來るので一往。ばるぼらさんの本を買つて來ました。
Amazon.co.jp: 本: 教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書
ええと、109ページで「闇暗日記」と誤植されてゐたのですがー。どうしてこんなに「闇黒日記」は正しく呼んで貰へないのでせうか。ちなみに485ページでは「闇黒日記」と正しく記載されてゐます(が、私の名前がnozさんになつてゐる)。
あのころインターネットはアングラだった。ばるぼら『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』の感想と裏話 [絵文録ことのは]2005/05/07
ARTIFACT ―人工事実― | 教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史
たけくまメモ: 【告知】「教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書」は
interrupted train
はてなダイアリー - 教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史とは
「」の一人として氣になつたミス。阿部の科白が「やらないか?」と書かれてゐる。疑問符拔きの「やらないか」が正しい。
あと、某竹下氏のアレ關係の記述が削られてゐる氣がする。
平成十七年五月十一日
立讀みしてゐて見附けたのだが、今出てゐる「正論」の潮さんの記事の誤植はあんまりだと思つた。

平成十七年五月十日
人は屡々、結論を性急に求める餘り、結論に至る迄の過程が必要である事を忘れてしまふ。
平成十七年五月十日
「あいつのしてゐる事はまるで子供のする事だ。あいつはあんな事をすべきではない」と言ふ時、その人は客觀的に相手の行動を批評してゐるのではない。「子供のする事」と云ふのは、客觀的な形容ではなく、否定的な意味合ひを含んだ譬喩――はつきり言ふと惡口――である。

平成十七年五月九日
いろいろと駄目なこいこい7を見て、おやすみも最う終りなんだなーと實感する今日この頃、皆樣いかが御過しでせうか。
平成十七年五月九日
喩へ話である。「良い2ちゃんねらーだけが2ちゃんねらーである。惡い2ちゃんねらーは荒しであり2ちゃんねらーではない。よつて2ちゃんねるは良い人間の集りである」と主張する人がゐたら、何かを勘違ひしてゐると言つて良い。その人が「俺は2ちゃんねらーである事を誇りに思つてゐる」と言つたら、相當非道い勘違ひをしてゐると言つて良い。
平成十七年五月九日
幸福について。一般論で言つて幸福と感じられる筈の物理的な状態にゐる事が幸福なのか。物理的状態とは關係なく精神的に幸福だと感じてゐる状態が幸福なのか。「幸福と感じられる筈の物理的な状態で幸福と感じてゐる状態が幸福だ」と云ふ囘答は、「思考實驗」においては「贅澤」である。幸福の本質について考察するならば、飽くまで精神状態のみを指して幸福と呼ぶべきであらう。すると、「幸福である筈の状態」にゐても「幸福でない人」はあり得るし、「幸福ではあり得ない筈の状態」にゐても「幸福である人」もあり得る、と云ふ考へ方が可能となる。さらに、「幸福の追求」と「幸福である筈の物理的な状態の追求」とは區別すべきである、と云ふ事が言へるやうになる。
平成十七年五月九日
野嵜の宗教觀。或は野嵜の宗教。または野嵜の信仰。主觀の話だから反論不要。
現代に於て、信仰を持つ事は、或意味、極めて容易だけれども、實際には不可能な事だらう。不景氣の今、新興宗教は流行つてゐるさうで、何かに縋りたい人には鰯の頭でも十分、信仰の對象となり得る。そして、それで十分、人は幸福であり得るのだけれども、殘念な事に俺はその手の宗教を信用してゐない。
キリスト教は、或意味、俺にとつては最も親しい宗教であるのだが、俺は決してクリスチャンではない。でなければ、「キリストはゐなかつた」と云ふソ聯の科學啓蒙書に出てゐる見解を平氣で述べたりしない。當然、Godの存在は、全面的には信じてゐない。かと言つて、論理的に全否定出來るとも考へてゐないから、全面的にキリスト教を否定するやうな意見は言はない。
神社神道は、その戰後の活動に強い興味を持つてゐるけれども、全く信じてゐない。神道の教義の體系が出來たのは比較的新しい時代の事であり、さう云ふ成立過程を知識として持つてゐると、どうしても「信ずる」と云ふ處には行き難い。神道五部書が僞書である事も知つてゐるし、古事記も僞書らしいと言ふのでは、どうしても「神道と云ふ宗教」を信ずるのは無理ではないか。
佛教は、原始佛教の本を最近讀んで、やつつけで知識を附けたのだけれども、それ自體としては獨自の世界觀を持たない。既存の世界觀である輪廻轉生を大前提として、宗教としての體系を作つてゐる。その輪廻轉生と云ふ考へ方だが、矢張りインドの風土に立脚した發想であつて、日本人としては必ずしも素直に受容れられるものではない。支那を通つて、日本に成立した獨特の佛教も、可なり繼接ぎで東アジア的な發想を取込んでゐるが、本質の部分でどうも馴染めない。道元の著作は、それなりに面白いが、日本の禅坊主の言つてゐる事は結局、論理ではないので、「つつこみどころ」は多い。「つつこみどころがある」やうに見えるものは、本當にそれが「つつこみどころ」であるか何うかとは關係なく、その人にとつて信用出來ないやうに思はれるものである。
唐木順三や西谷啓治がニヒリズムについて述べてゐて、今時そんなものは流行らないのだけれども、俺は依然、それに興味を抱いてゐる――と言ふより、宗教を信用出來ず、かと言つて科學文明や現代思想もまた信用する事は不可能であると思はれる以上、さう云ふ人は必然的に何も信じられないニヒリズムに陷る。が、ニヒリズムから自暴自棄に陷らず、暢氣に毎日暮してゐるところを見ると、俺は樂天主義者であるのであり、その種の樂天主義は日本人的なものであり、さう云ふ意味で俺は日本人の一人であると思つてゐる。そして、その種の好い加減なところは、一般的な日本人の或種の「宗教觀」であると言つて良いと思つてゐる。しかし、その種の好い加減さは、決して好ましいものでないと思つてゐるから、嚴密な思考とか論理とかを勉強しようとはしてゐるけれども、勉強と信仰とは違ふものだらう。
宗教は死生觀であるとするならば、俺が信じてゐるのは「いつか人は死ぬ」と云ふ事だけだ。死んだ後の事は知らない。まあ、死ぬと云ふ事はあんまりしたくないものであると云ふ發想は持つてゐて(だからこそ他人の爲に進んで死を擇ぶ行爲は「美しい」と考へる訣だが)、それ自體としての死を厭ふ發想は宣長的な發想と大體同じ。
平成十七年五月九日
古書會館のアングラカフェ。絶對的に本の數が少い。取敢ず菱山修三『詩集 盛夏』(昭和二十一年六月十日・角川書店)を買つた。
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後の角川文庫と同じサイズ。しかし角川文庫ではない。畫像右側は比較の爲に置いた村上菊一郎譯『惡の華』。

平成十七年五月八日
我々は、民主主義が弱い者苛めの體制であり、「弱者」が權力意識を滿足させる爲の體制である事を知つてゐる。それと同時に、「他の全ての政治體制を除けば最惡の體制である民主主義の體制」を、我々は擇ばざるを得ないし、現に日本國は民主主義の體制を擇んでゐる。知識と實踐とは、矛盾してゐる。しかし、それを言行不一致と言つて非難するのは正しくない。
D.H.ロレンス『默示録論』に關する記事に致命的なミスがあつたので書直し。何で誰も指摘して呉れないんだ。
平成十七年五月八日
HARD OFFのジャンクコーナで燃えプロのカセットを三箇程目撃したのだが。「悶えろ!!モエプロゲッターズ」何時の間にか消えてる。
本日の收穫。あ〜るのOVA。

平成十七年五月七日
ガンダムSEED DESTINYの囘想シーンを削つて本筋だけ繋いだマッドどこかに落ちてないかな。

平成十七年五月六日
これが私の御主人様。いろいろつつこみどころはあるけれども、そんなに嫌ひではない。或意味とてもGAINAXらしいあにめだと思ふ。少くとも、この醜くも美しい世界よりは増し。いずみ良い娘だよ。
フタコイオルタナティブ。この感じ、NieA_7と良く似てゐる。ユーフォーテーブル、トラスタ路線を狙つてゐますか。潰れるよ。
ああっ女神さまっ。フタコイと正反對のポジティヴ路線。或は癒し系。
平成十七年五月六日
ぬるヲタが斬る 「ツインテール」、それはオタク内だけの呼称だった……らしい。
髮型の呼稱はともかく、この畫像見たらお前らやる事は一つだろ――と條件反射的に「大」とか言ひ始める奴は「」。
平成十七年五月六日
事故以來、運休してゐる福知山線(JR西日本「宝塚線」)ですが、その「運休」の事實をマスコミはちやんと採上げたのでせうか。事故の現場の映像を見れば「運休」してゐるなとは推測出來たのですが、「運休」がクローズアップされ、ちやんと報道されたのは「新型のATSを導入する事が運行再開の大前提である」とする北側國土交通相のコメントが出てからではなかつたでせうか。北川國土交通相のコメントが出るまで、具體的に何處から何處までが運休になつてゐるか、と云ふ事は、TVや新聞で殆ど報道されてゐなかつたと思ひます。
事故で多數の人が亡くなりました。しかし、數だけで言へば、もつと多數の人が現在も福知山線の運休で困つてゐると考へられます。代替の交通手段は何うなつてゐるのでせう。阪急があるから何とかなつてゐるのかも知れませんが、それでも困る人は困つてゐるでせう。ところが、その邊の事は全然報道されてゐないやうに感じられます。讀賣新聞でもNHKの七時のニュースでも、その邊の事は採上げられてゐません。直接の事故の事――事故の原因、被害者・遺族の事、JR西日本の責任問題――に限らず、マスコミは關聯して起つてゐる(であらう)諸問題を、いろいろな側面から報道して良いと思ひます。
産經新聞のウェブサイトに、今朝八時過ぎ、發生から五日間で影響を受けた人が百十萬人を超える、運休した列車が三千六百四本ある、と云ふ短信が載りました。
JR西日本 :ホームページ(JR宝塚線塚口〜尼崎駅間における脱線事故についてのお詫びにリダイレクトされる。暫定的に(?)メニューはhttp://www.westjr.co.jp/index2.htmlとなつてゐる模樣)
JRおでかけネット:列車運行情報

平成十七年五月五日
ネギま! 今囘は神作畫。來週はもつと神作畫。ネギまでは。Op、色とか羽原氏の名前が出て來たとか、一見變つてゐないけれどもいろいろ變つた。ストーリーは特に言及するほどのものでもないがまあこんなものなら。
極上生徒会。これは不條理あにめとして觀るべきもの。インド人だし。次囘もきつと觀る。

平成十七年五月二日
鴉 @ AT-X。映像は良いが脚本がアレ。脚本が駄目なら映像が何んなに凄くても駄目だと、どうしてクリエイターの人は解らないのだらうか。と言ふか、この程度の映像では最う驚けない。と言ふか、映像では驚けない。
平成十七年五月二日
こいこい7 @ TVK。地震テロップ。何だか色々非道いものの今囘は樂しく觀られる。のみならずちよつと良い御話。なのだけれども何たら28號のアレなシーンのせゐで臺なし。笑ひ。來週も觀る。
平成十七年五月二日
「言葉」でぐぐつても三位にしかならなくなつたので詰らなく思つてゐたが、ふと「日記」でぐぐつてみたら一ページ目に出て來るのでびびつた。

平成十七年五月一日
保田與重郎や、もつと右翼がかつた連中の文章は、戰前・戰中の國民に何ら影響を與へてゐない説。或は。マルクス・エンゲルスや共産党の文書はマルキストや學生運動の鬪士や勞働組合に何ら影響を與へてゐない説。
えろげもえろあにめも性犯罪の類の原因にはならないらしい。

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2005年4月
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